瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:醍醐古墳群

図書館の発掘調査報告書のコーナーを見ていると、ひときわ厚い冊子がありました。引っ張り出して見ると「讃岐国府跡2 第1分冊 2019、3」とあります。いままでの発掘調査の総括となるもののようです。国の史跡指定に向けての報告書でもあるのでしょう。
 発掘調査の各報告書の巻頭「概観」には、それまでの研究史や研究到達点がコンパクトに紹介されています。もうひとつの楽しみは、いままでに見たことのないデーターが視覚化され載せられていることです。そのためできるだけ報告書類には目を通すようにしています。この報告書にも充実した「概観」が載せられています。今回はこの報告書をテキストにして、どうして讃岐国府が府中に造られたのかを追ってみます。
綾北 綾北平野の横穴式古墳分布
中央を流れるのが綾川 赤が横穴式石室をもつ古墳 青が古代寺院
右下が府中で青四角が国府跡推定地

讃岐国府は、広いとは云えない「綾北平野」の最奥にあります
この平野は綾川下流域にできた沖積平野で、海際の最大幅でも3、5kmしかありません。国府周辺はさらに狭まくなります。東西と南の三方を丘陵で囲まれ、平野側の間は約500~600mしかありません。高松平野や丸亀平野に比べると、狭い平野が意図的・選択的に選ばれたようです。
 国府周辺で、綾川は谷間から出て阿野北平野に流れ込みますが、その周辺で不自然に屈曲します。かつては歴史地理学の視点から

「人為的な流路変更が古代に行われ、そこに国府が造られた」

という説もありました。私も、この説を主張する本を読んで信じていました。しかし、その後の研究で江戸期の絵図「高松藩軍用絵図」には、直角に屈曲する流路形状は描かれていないことが分かりました。明治21年の陸地測量部作成地図には、現在の流路になっています。そのため、この屈曲は明治の河川改修によるものとされるようになりました。

讃岐の郷分布図
讃岐の郷分布図
讃岐国には『和名類衆抄』によると11郡、90郷がありました。
全国的に見ると上位の郷総数となり(15位)、面積に比べると郷数がかなり多いことが分かります。上図は位置が分かる郷名を地図上に示したものです。このような形で、各郷の位置と広さが示された分布地図を見たのは初めて見ました。興味深く眺めてしまいました。
地図では、郷が次の3つの類型に分けられています
①類型1は、1~2km四方の領域で、後背地となる山野がなく、各平野の中央部にある。
②類型Ⅱは各平野の周縁部にあり、幅2 km、長さ5㎞程度で、一方に丘陵部をもつ
③類型Ⅲは各平野の外周部にあり、5 km四方を大きく超える領域で、その大半は山野である
 こうしてみると各平野の中央部に類型1が集中し、その縁辺に類例Ⅱ、その外周に類型Ⅲが分布する傾向が見て取れます。丸亀平野と高松平野では同心円状の郷分布になっています。これは丸亀・高松平野の郷分布が弥生時代以降の伝統的な生産基盤や地域的なまとまりの中から形成されてきた結果だと見ることができます。
 そこで国府のある綾北平野周辺をみてみると、丸亀・高松平野とは明らかにちがいます。府中のある甲知郷は類型3に分類されます。中心地域ではなかったところに、国府は置かれたことになります。ここには、不自然さを感じます。逆に政治的な働きかけがあったことがうかがえます。「政治的な働きかけ」を行い、国府の「地元誘致」に成功した勢力がいたようです。讃岐国府ができる前の阿野北平野の動向を見ておきましょう。

綾北平野の古墳 讃岐横穴式古墳分布
讃岐の大型石室を持つ古墳分布図 阿野北平野に集中しているのが分かる。

まず注目すべきは大型横穴式石室墳の多さです
阿野北平野には、古墳時代中期までに造られた古墳は少ないのですが、蘇我氏政権下の7世紀前葉になると、突然のように新宮古墳、それより少し遅れて醍醐3号墳が姿を現します。これを皮切りに
①綾川左岸の城山北東部(醍醐古墳群)
②城山東部、東岸の連光寺山西麓(加茂古墳群)
③五夜嶽西麓(北山古墳群)
などに大型横穴式石室墳が相次いで築かれるようになります。その石室スタイルは観音寺市(後の刈田郡)にある大野原古墳群の影響を受けた複室構造を採用しています。その後は、前室の形骸化、羨道との一体化という方向で全ての古墳に共通した変遷が見られます。ここからは次のようなことがうかがえます。
①阿野北平野の横穴式石室をもつ古墳は共通性があり、一族意識をもっていた
②三豊の刈田郡勢力との何らかの関係をもつ集団であった。
それよりも注目すべき点は、その後の築造動向です。

綾北 香川の横穴式古墳規模2
阿野北の横穴式石室は、規模も大きい 紫が阿野北平野の石室

醍醐・加茂・北山の各古墳群では、その後も大型石室墳が築造され続け、これまで讃岐の盟主的地位にあった大野原古墳群を凌駕するようになります。また讃岐各地の古墳が築造停止する7世紀中葉以降も築造が続けられていきます。

こうした阿野北平野の背景には何があるのでしょうか
大久保氏は、綾北平野周辺諸地域勢力が結集し、共同して綾北平野とその周辺の開発を進め、港津や交通路、各種の生産基盤の整備を進めたからと指摘しています。ここでは、7世紀中頃まで空白地帯(未開発地帯)だった阿野北平野に、突然のように大型古墳が何基も造られるようになり、3,4グループが同じ石室のタイプをもつ古墳を造り続けたことを押さえておきます。その上で古墳造営の背景を考えて見ましょう。
『日本書紀』天武天皇十三(684)年11条に、綾君氏が「朝臣」の姓を賜ったという記事が出てきます。
古墳が続けられた後のことです。「綾」は「氏」集団の名称で、「君」は「姓」というもので「朝臣」も同じです。氏というのは、実際の血縁関係や疑似血縁的意識によって結ばれた多くの家よりなる同族集団のことです。しかし、一般民衆の血縁的集団を指すのではなく、大和政権に奉仕する特別な有力者集団を示します。ここがポイントで、綾氏は「君」や「朝臣」を貰っているので、朝廷と直接的な関係を持つ集団だと認められていたことになります。
 氏の首長である氏上は、氏を代表して政治に参与します。その政治的地位に応じて称号である姓を与えられ、血縁者も姓を称することを許されます。6世紀後半以後、阿野北平野の開発などの進展で、新たに開発された所に拠点を移す「分家」が現れ、一族の中でも居住地が離れていきます。その結果、氏内部に小集団(別氏)の分離・独立化の傾向が起きて分裂していきます。つまり、いくつもの綾氏の分家が6世紀後半には阿野北平野に現れたということになります。そして「各分家」も、新拠点で古墳造営を始めます。その際の石室スタイルは「本家」のものと同じにします。このようにして大型石室を持つ古墳は造営されたと研究者は考えているようです。大型石室の被葬者たちは綾氏一族の分家した各首長としておきましょう。本家の仏壇を真似て、分家の仏壇も設置されているのと同じなのかもしれません。

次に、国府以前に建立されていた古代寺院を見ていきます。
阿野北平野には、開法寺跡、醍醐寺跡、鴨廃寺の3つの古代寺院があります。醍醐寺跡や鴨廃寺は大型石室を持つ古墳群が築かれた場所の目の前に寺院が建立されています。ここからは、古墳群を造った勢力が、古墳築造停止後に氏寺建立に転換したことがうかがえます。
 先ほど見たように綾北平野の古墳は石室形態を共有していました。同じように寺院建立の際にも、同じ瓦が使われています。ここにも相互の強い結びつきが見られます。同時に狭い阿野北平野に3つの寺院が並び建つ状況は他では見られません。有力勢力が密集していたエリアだったことがうかがえます。これらの古墳や寺院を築造した勢力は、綾氏に繋がり、684年の八色の姓では朝臣の姓をもらっています。善通寺市の大墓山・菊塚古墳から仲村廃寺・善通寺へと移行していく佐伯直氏と同じ動きがここでも見えます。
坂出 海岸線復元3
坂出の古代海岸線復元図の中の国府と城山

阿野北平野のことを考える際に、避けて通れないのが古代山城・城山城です  
 屋島と城山の古代山城は備讃瀬戸をはさんで西と東にあり、前面には塩飽諸島、後者には直島諸島が連なり、多島海の眺望を眺めるには最高の場所です。これを戦略的に見ると、防衛ラインを築くには城山や屋島は最も適した立地となります。近年では対岸の吉備の山城と対で設置された可能性も指摘されています。
 古代山城は地方豪族が立地場所を決めたわけではありません。中央政府の視点で、選択的選地がなされています。もちろん地方有力者の助言・意向は反映された可能性はあります。
 讃岐国内の2城は同時着工で短期間で築城されたようで、地元から動員された労働力は膨大な数だったはずです。築城には中央から監督役人が派遣され、亡命百済技術者集団が指揮したと私は考えています。派遣された築造担当の中央役人は、地元の有力豪族を使いながら強制的な労働力徴発を行ったのでしょう。山城築造や南海道整備などの強制は、結果的には律令国家体制が急速に、地方豪族に身に泌みる形で浸透していく契機になったのかもしれません。そうだとすると山城築造が讃岐に与えた影響は計り知れないものだったと云えそうです。

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城山頂上に残る礎石群

 その後、山城が完成すると、その管理・運営が問題になります。
城だけ造っても防備にはなりません。そこに兵員の組織・配置・訓練・移動も行わなければなりません。唐・新羅連合軍の来襲という危機意識の中で、複数の国を統括する太宰・総領が置かれます。この時期、讃岐は伊予総領の管轄下にあったようです。伊予総領の課題としては、今治・城山・屋島の戦略要衝の機動的な運用が目指されたはずです。そのためには兵員・戦略物資の融通移動や情報の迅速交換のためにも基幹交通路となる南海道の整備は、最重要課題のひとつになります。

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こうして、東から大坂峠を越えて南海道が城山を目指して一直線に伸びてくることになります。幸いにして南海道が戦略的な機能を果たすことはありませんでいたが、この時期の投下された社会資本整備が後世に大きな意味を持つことになります。国府が置かれる府中周辺は、白村江の敗北への対応策として、大きな社会資本が継続的に投下され整備されたエリアだったと報告書は指摘します。

氏名の由来と八色の姓
綾という氏名の由来は、地名の阿野郡からきているとされます。綾氏は、古代阿野郡を本拠とする豪族で、今までに見てきたように古墳や寺院跡などの分布から綾川下流域が中心拠点だったことが分かります。次に姓というのは、政治的地位に応じて与えられる称号で、臣・連・君などがありました。綾君に朝臣という姓が贈られる1ヵ月前に「八色の姓」が制定されています。これは、従来からあった臣・連などの姓をすべて改めて、新たに真人・朝臣・宿而・忌寸・道師・臣・連・稲置などの8級の姓を制定したものです。ここには伝統的な氏姓制度を再整備し、天武一族を最上位に置き、その当時の勢力関係をプラスして、厳然たる身分制度を新たに作ったものです。
 綾君氏は「朝臣」をもらっています。
この姓は、大和政権を支えた畿内とその周辺地域の有力氏族52氏に与えらました。地方豪族としては群馬の上毛野君・下毛野君氏、二重の伊賀臣・阿閉臣氏、岡山の下道臣氏・笠臣氏、北部九州の胸方(宗像)君氏だけです。彼らは地方の大豪族で、讃岐はもとより四国内では綾君氏のみです。ここからは、綾氏がこれらの地方有力豪族と肩を並べる存在であったことがうかがえます。
 さらに綾君氏で研究者が注目するのは、祖先系譜です。
『日本書紀』景行天皇五十一年八月条に、妃である古備武彦の女吉備穴戸武媛が、武卵王(たかけかいこう)と十城別王(とをきわけのみこ)を生み、兄の武卵王は讃岐綾君の始祖であると、記されています。『古事記』にも同じような記事があります。景行天皇は実在が疑われているので、これらの記事が史実かどうかは別として、天皇家に直結する始祖伝承が『日本書紀』、『古事記』に記されていることは事実です。ということは、この紀記の原史料成立時期の7世紀前半頃、または『日本書紀』、『古事記』の編纂時の8世紀に、綾君氏が大和政権の中で一定の地位を築いていたことを物語ります。
 当時讃岐では、高松以東では凡直氏、高松市域では秦氏、善通寺市域では佐伯直氏、それと観音寺市域では氏姓は分かりませんが罐子塚・椀貸塚・平塚・角塚古墳を造り続けていたいた豪族(紀伊氏?)がいました。これらの中で天皇家に連なる祖先系譜を持っているのは綾氏だけです。ここからは、7世紀前半において、讃岐における綾氏の政治的位置や政治力の大きさがうかがえます。
5讃岐国府と国分寺と条里制

  以上、どうして讃岐国府は坂出・府中に置かれたのかという視点に立って、その理由を報告書の中から選んでしるしてみました。それをまとめておきます。

①讃岐国府は現在の坂出市府中に置かれた
②しかし、府中は丸亀平野や高松平野などの後背地がなく、また古墳時代以来の開発蓄積があった場所でもなかった。また6世紀後半までは国造クラスの有力豪族もいなかった。
③阿野北平野の豪族は6世紀後半以後に急速に力を付けていく。
④彼らの首長は、観音寺市の大野原古墳群の石造スタイルを真似て、新宮古墳を築く。
④これをスタートに阿野北平野の4つのグループも、新宮古墳をコピーしたスタイルのものを造営するようになる。これには統一性が見られる
⑤この被葬者たちは、新宮古墳の被葬者の末裔で一族意識(祖霊意識)をもつ同族で「本家と分家」の関係にあった。
⑥彼らは7世紀後半には、古墳に代わって氏寺を建立するようになる。
⑦これが古代の綾氏の祖先で、綾氏は讃岐でもっとも勢力のある豪族に成長し、城山城や南海道の建設に協力し、中央政権とのパイプを強め、信頼を得ていく。
⑧それが坂出府中への「国府誘致」の原動力となった。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献  讃岐国府跡の位置と地理的環境 
    「讃岐国府跡2 第1分冊 2019、3」所収
        香川県教育委員会

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

   前回は3世紀後半に前期の前方後円墳を積石塚で造営した坂出周辺の次の3つの勢力を見てきました。そのうちの
①金山勢力(爺ヶ松古墳・ハカリゴーロ古墳,横山経塚1号~3号墳,横峰1号・2号墳)
②林田勢力(坂出平野北東)
の集団は,5世紀になると前方後円墳を築造するだけの勢力を保つことができず,小規模古墳しか造れなくなっていることが古墳編年表からも分かります。その背景には、ヤマト政権の介入があったのではないかと考えらることを紹介しました。
 かつては「前方後円墳」祭儀を通じて同盟者であった綾川周辺の首長達の子孫は、ヤマト政権からは遠ざけられ勢力をそぎ取られていったのです。これは西日本においては、よく見られる事のようです。
 さて、かつての首長達に替わって勢力を伸ばす集団が現れます。新興勢力の新たな首長は6世紀後半頃には、前方後円墳の築造をやめて、大型横穴式石室の築造を始めます。これを古墳編年表で確認すると大型横穴式石室を築造した地域は,5世紀後半に有力古墳を築造した地域とは重ならないことが分かります。改めて「勢力交替」が行われたことがうかがえます。新たなリーダーとなった3つの勢力を見ておきましょう
坂出古墳3

  平野南西端部の勢力は、
白砂古墳から新宮古墳まで有力古墳を,4世紀から6世紀にかけて一貫して造り続けています。この集団が最も強い勢力をもち,坂出平野における指導的地位を持っていたと考えて良さそうです。
 平野南西部の勢力は、
4世紀には勢力が弱かったのが、王塚古墳の時期(5世紀後半頃か)以降になって勢力を伸ばし,大型横穴式石室をもつ醍醐古墳群を作り上げます。巨石墳を集中的に築造した6世紀末頃から7世紀前半にかけて大きな力を持っていたようです。
 平野南東端部の勢力は,
弥生時代後期から墳墓を築造していたようですが、4世紀から6世紀中頃までは勢力は強くありませんでした。それが6世紀末になって穴薬師(綾織塚)古墳を築造し,勢力を強化したようです。
坂出古墳編年
 これに対して,平野北東部(雌山周辺)に古墳を築造した集団は、4世紀には積石塚の前方後円墳を築造し勢力を保持していたようですが、5世紀以降になると徐々に勢力を失い、6世紀末以降には弱体化しています。

羽床盆地の古墳
坂出周辺部の羽床盆地と国分寺を見ておきましょう。
羽床盆地では,快天塚古墳を築造した勢力が4世紀から5世紀後半まで盆地の指導的地位を保っていました。この集団は,快天山古墳の圧倒的な規模と内容からみて,4世紀中頃には羽床盆地ばかりでなく,国分寺町域も支配領域に含めていたと研究者は考えているようです。このため国分寺町域では、4世紀前半頃に前方後円墳の六ツ目古墳が造られただけで、その後に続く前方後円墳が現れません。つまり、首長がいない状態なのです。
羽床古墳編年
 その後も羽床盆地北部では、大型横穴式石室が造られることはありませんでした。羽床勢力は6世紀末頃になると勢力が弱体化したことがうかがえます。坂出地域と比較すると,後期群集墳の分布があまり見られないことから、坂出平野南部に比べて権力の集中が進まなかったようです。そして、最終的には坂出平野の勢力に併合されたと研究者は考えているようです。

国分寺の古墳
 国分寺町域は、4世紀前半頃に小さな前方後円墳が築かれますが,先ほど述べたように快天山古墳を代表とする羽床盆地の勢力に併合され,古墳の築造がなくなります。
 以上をまとめると,阿野郡では6世紀末頃には坂出平野南部に大型横穴式石室を築造した三つの集団が勢力をもち、全域を支配領域としていたと研究者は考えているようです。注目しておきたいのは、これはヤマト政権における蘇我氏の台頭と権力掌握という時期と重なり合うことです。
綾川周辺の三つの集団は,7世紀中頃以降になると古墳を造ることをやめて,氏寺の建立を始めます。
平野南西端部に古墳を築造した集団は7世紀中頃に開法寺
南西部に古墳を築造した集団は7世紀末頃に醍醐廃寺
南東端部に古墳を築造した集団は7世紀後半に鴨廃寺
この三つの寺院は奈良時代にも存続していますから奈良時代にも勢力をもっていたことが分かります。
れでは綾川周辺に巨石墳を造り、氏寺を建立する古代豪族とは何者でしょうか?
  文献史料見る限りに,7世紀後半から8世紀以降の阿野郡の有力氏族としては綾公しかいません。
  これについては
  ①三つの集団はそれぞれ別の氏族であったが,その中の一つの氏族だけが残ったとする解釈
  ②三つの集団を総称して綾氏と呼んでいた
 の2つが考えられます。
 三つの集団のそれぞれが建立した開法寺,醍開醐廃寺,鴨廃寺については綾南町陶窯跡群で瓦が一括生産され,各寺院に配布されています。このことは,綾南町陶窯跡群の経営管理権を,これら3寺院を建立した集団が持っていたことがうかがえます。
 また、この三つの集団は綾川周辺の約3km四方ほどの狭い地域に近接して古墳群(墓域)を営んでいました。坂出平野の中で近接して居住していたため,日常的に密接な交流があったことがうかがえます。そうした関係を背景にしておそらくは婚姻関係を通じて,綾氏として一つの擬似的な氏族関係を作り上げていたと考えられます。6世紀末頃になると綾氏は羽床盆地,国分寺地域へも勢力を拡大し,その領域が律令時代に阿野郡と呼ばれるようになったというストーリーが描けそうです。
   以上のように、綾氏は坂出平野南西端部(新宮古墳)に古墳を築造した集団を中心として,平野南部に三つの古墳群を築造した集団からなり,古墳時代初期まで系譜をたどることができることになります。さらに,平野東南端部の方形周溝墓は,弥生時代後期まで系譜が遡る可能性もあります。そうだとすれば,綾氏は古墳時代のある段階に外部から移住してきた氏族ではなく,この地域で成長した氏族だといえます。
 綾川河口の綾氏の成長を古墳から見てきました。
ここまでやって来て気づくことは善通寺の佐伯氏との共通する点が多いことです。佐伯氏も中村廃寺と善通寺のふたつの氏寺を建築しています。接近して建立されたふたつの古代寺院は謎とされますが、佐伯氏という氏族の中の「本家と分家」と考えることも出来そうです。同じく時期的に隣接する王墓山古墳と菊塚古墳の関係も、佐伯氏の中の構成問題とも考えることもできます。

こうして、綾川流域を支配下に治めた綾氏は大束川河口から鵜足郡方面への進出を行い、飯野山周辺へも勢力を伸ばしていくことになります。同時に、讃岐への国府設置問題においても地理的な優位性を背景に、自分の勢力圏内に誘致をおこない、讃岐の地方政治の指導権を握ったのかもしれません。さらに、白村江敗北後の軍事的緊張の中で造営された城山城建設にも中心として関わっていたかもしれません。そのような功績を通じて綾川上流に最新のテクノロジーをもつ須恵器・瓦の大工場を誘致し、その管理・運営を通じてテクノラートへの道も切り開き、在郷官人としても活躍することになります。
 そして、平安末期からは武士化するものも現れ、讃岐最大の武士団へと成長していきます。それが香西・福家・羽床など一門は、出自は綾氏と信じられていたのです。そこに「綾氏系譜」が作られ、神櫛王伝説が創作され、一門の団結を図っていこうとしたのでしょう。どちらにしても綾氏は古代から中世まで、阿野郡や鵜足郡で長い期間にわたって活躍し一族のようです。
参考文献
渡部 明夫      考古学からみた古代の綾氏(1)    綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-
    埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか


  讃岐綾氏は、阿野郡一帯で活躍した古代讃岐の氏族です。
 讃岐綾氏は、7世紀半ばに阿野郡(評)の長官である評督に任じられて以後、郡司級豪族として発展の道を歩んだようすが『日本書紀』や六国史、その他の古代文献資料の中に、かなりの記録が残っています。そして、武士団へと「変身」していくのです。史料に現れる讃岐綾氏の記述を通して、その実態や性格について考えて見ましょう。
 
城山地図

綾氏が残した巨石墳と寺院建立は?
 讃岐国府があった坂出市の府中町には、新宮古墳・綾織塚・醍醐1~9号墳などの巨石墳があります。これらの古墳は、ほとんど出土遺物が伝わらないために、遺物の内容から被葬者の身分や性格について知ることはできませんが、築造年代は、六世紀末には新宮古墳、綾織塚や醍醐一~九号墳なども、六世紀後半から七世紀前半にかけての時期とされています。
L324384000527039醍醐古墳
 この府中町一帯の巨石墳は、綾氏の一族によって、築造されたと考えられているようです。
横穴式巨石墳に続いて、府中町一帯には、鴨廃寺・醍醐寺などの古代寺院が確認されています。
鴨廃寺・醍醐寺跡からは、外縁にX文のめぐらされた八葉複弁蓮華文軒丸瓦が出土しています。また、これと同文の瓦が、綾南町陶田村神社東灰原付近でからも出土していますが、陶一帯には、古代寺院跡が見つかっていません。陶一帯が、六世紀後半から、平安時代末期までの須恵器の一大生産地として成長していくことを考えると、鴨廃寺や醍醐寺の建立に際して、陶に瓦窯が作られ綾川の水運で運ばれてきたことが考えられます。鴨廃寺や醍醐寺の瓦は、陶で焼かれた可能性があるようです。なお、鴨廃寺・醍醐寺の建立は、その瓦文様から、白鳳時代の後半には開始されていたようです。


10316_I3_sakatahaiji坂田廃寺
  坂田廃寺跡と綾氏 
 さて、高松市の石清尾山古墳群が造られた南麓は坂田郷と呼ばれていました。その西の浄願寺山の東麓には、坂田廃寺があり付近からは金銅誕生釈迦仏立像や、瓦を焼いた窯跡も発見されています。同時に、鴨廃寺・醍醐寺と同文の瓦も出ています。この坂田廃寺の近辺も、綾氏の拠点のひとつであったことが、十世紀末の文献資料や「日本霊異記」などによって分かります。この周辺に綾氏の一族が居住するようになるのは、坂田廃寺が建立された白鳳時代の後半か、それ以前のことのようです。
「高松市 坂田廃寺

  坂田廃寺周辺から出土した金銅誕生釈迦仏立像
 高松市鬼無町佐藤山にも、巨石墳が分布します。
この佐藤山巨石墳の被葬者が、綾氏の一族であったと考えられるなら、坂出市府中町一帯に居住した綾氏の一支族が、六世紀後半から七世紀前半には、このあたり一帯に進出していたことになります。
 そして、坂出市(令制の阿野郡)の綾氏と、高松市(令制の香川郡)の綾氏の間には、『日本霊異記』の説話にみられるような一族の間での婚姻関係が古墳時代の後期からあったのではないかとも考えられます。
 このように、綾氏は六世紀後牛の時期には、阿野郡と香川郡の一帯に住み、巨石墳文化を営み、古墳文化が衰退に向かう頃には、寺院建立を行なったと研究者は考えるようです。
讃岐の中世 大内郡水主神社の大般若経と熊野信仰 : 瀬戸の島から

 綾氏の地方役人への進出
 律令制の導入で評制が布かれると、綾氏は阿野郡の評造(評督)に任じられたようです。
  『日本書紀』天武天皇十三年(六八五)十一月一日の条によると、讃岐綾氏が、畿内の有力豪族である大三輪君・大春日臣・阿倍臣・巨勢臣などの五十一氏とともに、朝臣の姓を賜わったことがみえます。恐らく、綾氏が朝臣の姓を賜わった背景には、阿野郡の評造としての実績があったのでしょう。奈良時代の後半頃になると、綾氏は一族を阿野郡の隣郡の香川郡の大領として、出仕させる程の有力豪族に成長して行きます。
 『東寺文書』の中の、「山田郡弘福寺校出文書」によると、
  (端裏書)
 「讃岐国牒一巻」 (寺衡力)
 山田郡司牒 川原寺衛?
   寺
  合田中検出田一町四段??
 牒去天平宝字五年巡察??
 出之田混合如件、???
 伯姓今依国今月廿二日符?停止??、
 為寺田畢、掲注事牒 至准状、?牒
        天平?外少初位?秦
          主政従八位下佐伯
 大領外正八位上綾公人足??上秦公大成
 少領従八位上凡?   
        寺印也
 正牒者以宝亀十年四月十一日讃岐造豊足給下
  とあって、綾氏の一族の綾公人足が、山田郡の大領の地位にあったことが分かります。
 この綾公人足は、阿野郡にいた綾氏の一族でしょうか、それとも香川郡にいた綾氏の一族だったのでしょうか?
 どうも阿野郡に居住した綾氏の一族であったようです。というのは、綾公人足が山田郡の大領になった背景には、次のような『続日本紀』大宝三年三月丁丑の日に出された、法令の影響があると考えられるからです
 下制日、依令、国博士於部内及傍国・
 取用、然温故知新、希有其人 若傍国無人採用 則申省、然後省選擬、更請處分、
 又有才堪郡司 若当郡有三等已上親者、聴任比郡、
とあって、三等以上の親族に限って、隣郡の郡司となることができたのです。この「三等已上親」というのは、現在の民法の「三親等以内の親族」と同じで、近親者という意味に使われているようです。
 香川郡に綾氏の一族がいたことは、『日本霊異記」中巻、第16の説話に、次のように記されています。
聖武天皇の時代の讃岐の国、香川郡坂田の里に、富裕な分限者がいて、夫婦とも綾姓として登場します。また、東寺の『東宝記』収載の天暦十一年元(957)二月二十六日の太政官符に、「香川郡笠居郷戸主綾公久法」とあります。
 このように、阿野郡から東の香川郡への綾氏の進出は、巨石墳が築造された六世紀後半にさかのぼって考えることができます。ここからは、かなり古い時期に移住が行なわれたことが分かります。

 奈良朝末期に綾氏は次のような訴えを中央政府に起こしています。
『続日本紀』延暦十年(七九一)九月二十日の条
讃岐国阿野郡人正六位上綾公菅麻呂等言。
己等祖、庚午年之後、至二于已亥年 始蒙賜朝臣姓 
是以、和銅七年以往、三比之籍、並記朝臣 
而養老五年、造籍之日、遠枝庚午年籍削除朝臣 
百姓之憂、無過此甚 請櫨三比籍及旧位記 蒙賜朝臣之姓 許之
意訳すると、朝臣の姓を名乗る許可を次のように訴えているのです。
①阿野郡の綾氏一族の当主綾公菅麻呂が次のように願い出ます。
②綾氏は文武帝三年の己亥の年に、初めて朝臣の姓を賜わった。
③ところが養老五年の造籍が庚午年籍を参考にしたために、朝臣の姓が削除されてしまった。
④これをもとにもどして欲しい
訴えたことがわかる。
 この綾氏の訴えは。中央政府に受け入れられて、綾氏は朝臣の姓に復することができます。

綾氏の中央官人化と在庁官人制
  『続日本後記』嘉祥二年(八四九)二月二十三日の条によると、
 讃岐国阿野郡人 内膳??、掌膳外従五位下綾公姑継 
主計少属従八位上綾公武主等。改本居 貫附左京六條三坊
とあり、綾氏の一族である綾公姑継が宮内省の内膳司の下級役人として、綾公武主が民部省の主計寮の下級役人になっていて、本貫を讃岐から左京六條三坊に移すことを許可されているのが分かります。これは、綾氏の一族の中に中央官人化するものが現れていることを示します。
 また、平安時代後期の永承年間には、綾氏の一族が「国雑掌」として、記録の中に顔を出すようになります。『平安遺文』によると、
〇讃岐国雑掌綾成安解 申進上東大寺御封事
  合准米貳伯拾陸鮮
   塩柑一石五斗、正物柑石、代六十斟
   嫁七百八十廷「未請」   代百五十六鮮
 右年々御封内、進上如件、以解、
  永承元年七月廿七日 雑掌綾成安
        (『平安遺文』六三三)
O讃岐国雑掌綾成安解 申進済東大寺御封米事
  合貳値斟
 右、富年御封米内、且進済如件、以解、
 永承貳年七月貳拾貳日 雑掌綾成安
        (『平安遺文』六四三)
永承年間には綾氏が国雑掌として、名をみせています。この国雑掌とは各地にあって運送業に従ったものだとされます。国雑掌という運送業専従者が登場する背景には、律令政治機構がくずれ、地方有力豪族が年貢や正税などの運送を請け負わないと、都までの物流が機能しなくなったことをを示しています。
 この傾向は在庁官人制の出現によって、いっそう加速されます。
在庁官人制は延喜年間の律令制再建政策の一環として設定されたもので、国司の任国支配における新しい現地官僚として設定されたものです。「平安遺文」によると、その位署の部分に、
 府老佐伯
 橡  凡
 府老綾宿
 目代散位惟宗宿々
   散位安宿
    (『平安遺文』四六三三。讃岐国
    留守所下文案)
 大国造在判
 大橡佐伯
 散位藤原宿禰
 府老綾朝臣
 目代越中橡小野在判
 平安遺文」一〇三五、讃岐国 曼荼羅寺僧善芳解案)
ここには、在庁官人として、佐伯氏や綾氏の名があります。佐伯氏は、空海を生んだ善通寺の佐伯氏でしょうか。
在庁官人制は、地方豪族の地位の向上をもたらします。
国司は任命されても京に留まり、自分の身代わりともいうべき「目代」を派遣します。逡任国司の制度の下で、在庁官人として国賓の留守所に出仕するようになった地方豪族の権限は、郡司時代よりも強化されます。
在庁官人の初見史料とされる延喜十年「初任国司庁宣」には
 新司官一 加賀国在庁官人雑任等
  仰下三箇条事
 一、可早進上神宝勘文事   (本文省略)
 一 可催行農業
   右国之興復、在勧農、農業之要務、在修池溝 宜下知諸郡 早令催勧矣、
 一 下向事
   右大略某月比也、於一定者、追可仰下之 以前条事、所宣如件、宜承知依件行之、以宣。
   延喜十年 月 日
    (『朝野群載』廿二諸国雑事上)
ここからは、神事と勧農に関する事柄が、在庁官人によって行なわれるようになったことが分かります。古代政治にとって最重要事項は神事であり、律令制下には国司の任務でした。その農業政策を綾氏などの地方役人が行うようになったのです。これは、地方役人の在庁官人の権力拡大をもたらすことにつながります。
 綾氏の地方豪族としてのさらなる成長
 鴨廃寺や醍醐寺・坂田廃寺の建立の際に、綾氏が瓦窯を綾南町陶に求めたことは、最初に記しました。この陶地区では、これら白鳳時代の瓦を焼いた窯より、古くから須恵器を焼いた打越窯跡がありました。時間的序列で見ると、打越窯跡の操業が六世紀後半で、綾織塚・新宮古墳・醍醐一~九号墳の築造が六世紀後半から七世紀前半にかけてということになります。ここからは六世紀後半には綾氏によって、陶ではすでに私的な須恵器生産が先行して行われていたことを意味します。
 しかし、地方豪族である綾氏が当時の最先端技術である須恵器生産の技術や運用を、独自に持っていたとは考えられません。これは、国府の管理下に、国司の指揮のもとに行なわれるようになったと研究者は指摘します。しかし、在庁官人制は綾氏にチャンスを与えます。
                 須恵器を焼いた窯復元図
綾氏が須恵器生産に関与する機会をもたらしたのです。
そこには讃岐国府が阿野郡におかれ、綾氏が阿野郡の郡司(在庁官人)だったという地理的条件があります。平安時代後期の頃になると、在庁官人である綾氏が、陶地区での須恵器生産を管理し、須恵器や瓦製品を都まで運んでいくようになるのです。
また、綾氏の一族が国雑掌として、平安時代後期の頃に中央と讃岐を結ぶ年貢や正税の運搬の仕事に従事していたことは述べました。これは綾氏に「役得」をもたらします。中央からの情報・技術・文化をいち早く入手し讃岐にもたらすポストにいたのです。このように、讃岐綾氏の一族は讃岐地方における須恵器生産に関与し、讃岐地方の経済活動に大きく係わっていたと考えられます。また、綾氏は製塩産業も経営していたようです。
綾氏の「殖産興業」策
『延喜式』によると、讃岐の阿野郡からは調として「煎塩(いりしお」を貢上することが、定められています。『万葉集』巻一の五には

 「讃岐の国かをの郡に幸せる時・軍王の山を見て作れる歌」の中に、「聡の浦のあま処女らが焼く塩の念ひぞもゆる」

と製塩が行なわれた様子を歌った歌があります。
『日本霊異記』中巻第十六の説話には香川郡坂田の里の「富人」として綾君がみえます。
この綾君は多くの「使人」を用いて「営農」しているばかりでなく、一部の家口の中には「有業釣人」と漁業をもってなりわいとしているものもみえます。ここからは海浜に近い地域に住む綾君が、海産に強い関心を示し、塩釜を用いた製塩が行なわれたのでないかと研究者は推論します。
 平城宮木簡第三三〇号に、
 讃岐阿野郡日下部犬万呂三口  四年調塩
とあることや、綾氏が居住した坂出一帯にいくつかの古墳時代の製塩遺跡が発見されていることによって、裏付けられます
 また、綾君の家口の中に、漁業をもってなりわいとしているものがいたことは、『延喜式』に中男作物として、乾鮒・鯛楚割・大鰯・鮨・鯖・海藻などの貢上が定められていたことからもうかがえます。
それは、船を操る「海民」の存在をしめし、それが海上交易への進出への道を開きます。また、「営農」の中には、墾田永代私有令以後に開発された多くの荘園の耕作活動が含まれていたことでしょう。
 以上から考えると、綾氏の経済基盤は農業を始めとして、製塩・漁業などの各方面にわたっていたようです。そして、平安後期になると国雑掌という運送業にも従い、在庁官人という立場をうまく利用し勢力を拡大します。さらに平安後期には陶地区における須恵器や瓦の生産活動を把握する立場にまで成長していきます。そこからは、多くの収益を得ていたでしょう。
 こうして綾氏は、一族の中で郡司職を世襲する特権や在庁官人となる権利に恵まれていたために、本家筋にあたる綾氏を中心に、繁栄を重ねていたと考えられます。
 綾氏のような氏族経営による「殖産興業」的な活動は、他の郡司級豪族にも共通したものだったようです。それは三豊の丸部氏が藤原京への瓦提供のために宗吉に中央権力の支援を受けながら当時では日本最大級の瓦生産工場を建てるのと、似た構造かも知れません。
 綾氏の武士化はどのように進んだのか?
 鎌倉時代になると、綾氏の子孫は、羽床・香西・大野・福家・豊田・柞田・柴野・新居・植松・三野・阿野・詫間などの諸氏に分かれて行きます。彼らは中讃を中心に在地武士として活躍することになります。
 綾氏は平安時代後期になると、中央の藤原氏と関係を深めていきます。そして、讃岐藤原氏と称すようになります。『綾氏系図』には、綾大領貞宣は娘を中納言家成の讃岐妻として婚姻関係を結び、その子の章隆を産んだとします。綾氏は自らを、その後裔と称すようになります。
 中納言家成は烏羽上皇の近臣で、その院政を支えた受領のうちの一人です。しかし、これも先ほど述べたように遥任国司で、上皇のそばから離れた記録はなく、実際には讃岐に赴任していないようです。家成が遥任国司であったことを考えると、綾氏の娘との出会いの機会はありません。
 恐らく、綾氏が藤原氏を称するようになったのは、中央の藤原氏の権勢という「虎の皮」を被ることで、自分の在地支配をスムーズにしようとしたねらいがあってのことと研究者は考えています。
 綾氏が武士化していく上で、阿野郡の郡司職を世襲してきたことは、大きな力になったようです。
平安後期になると地方の治安は乱れ、瀬戸内地方では海賊が横行するようになります。
『三代実録』貞観四年(八六二)五月二十日の条には
近ごろ海賊が往々にして群をなして往還の人々を殺害したり、公私の雑物を掠奪するようになり、備前国から都におくる官米八十鮮を載せた船が海賊におそわれ、官米は侵奪され、百姓十人が殺害されるような事件が起こったので、播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・長門・紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐などの国から、人夫を徴発して海賊の討伐をさせた記事があります。
これ以後、中央政府は海賊迫捕の命令を何度も出しています。
 また、『三代実録』元慶七年(八八三)十月十七日の条には、
備前の国司公庫稲二万束を割いて出挙し、その利益を兵士124人の糧にあて、要害の地にこの兵士をおいて、船や兵器をととのえ海賊を防がせようとしたことがみえます。

このように当時の瀬戸内海は、海賊の横行が大きな社会問題となっていたのです。海賊の横行に対して讃岐の国には、検非違使がおかれていました。
純友の乱の鎮圧と綾氏の武士化
関東で平将門の乱に相応じるように、藤原純友の乱がおきます。侵入した純友軍によって讃岐国府は占領され、焼き払われます。この乱の後に、追捕使や押領使が常設されることになります。国検非違使や追捕使、押領使に任じられたのは「武勇之輩」です。彼らは、地方の治安維持者でした。これに任用されたのが、郡司などの一族でした。綾氏の一族も、この国検非違使や追捕使、押領使として任命されたと考えられます。これが綾氏などの郡司級豪族が武士化していく契機になります。
 すでに、古くは桓武天皇の時代から郡司の子弟が健児としておかれ、地方の治安維持にあたっていました。健児にとって、国検非違使や追捕使、押領使などの職は魅力のある地位だったはずです。特に、讃岐地方は承平の乱の影響を直接受け、讃岐国府は純友の賊によって焼かれました。国府のある阿野郡の郡司である綾氏の一族が、純友の乱に対処するための軍事力として組織されたことは十分考えられます。このように、純友の乱は綾氏が武士化するための、一つの契機となったと研究者は考えているようです。
 以上の流れをまとめると次のような「仮説」になります。

讃岐綾氏の活動

①讃岐綾氏は六世紀後半から七世紀前半にかけて、坂出市の城山山麓に巨石墳を多数造営し、七世紀後半頃になると鴨廃寺や醍醐寺などの寺院建立を行なった。
②阿野郡の綾氏によって鴨廃寺や醍醐寺が営まれたと同じ頃に、香川郡の綾氏によって坂田廃寺がつくられた。
③律令時代になり、評制が布かれると、綾氏は阿野郡の評造(評督)に任じられた。そして譜第郡司として、綾郡の郡司職を世襲した。
④在庁官人制が施行されると、綾氏は在庁官人として国府留守所で活躍した。
⑤讃岐綾氏の一族は、荘園を拡大する一方で製塩や漁業にも手を伸ばし、「殖産興業」を活発に行う氏族として勢力を伸ばした。
⑥鎌倉時代になると讃岐武士団の中核の一つとなった。
⑦綾氏の子孫は、羽床・香西・大野・福家・西隆寺・豊田・祚田・新居などの在地武士として活曜するようになった。

このようにして綾氏は古代から中世へ、地方在住の郡司から武士へと姿を変えながら勢力を拡大していったのです。

参考文献 

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