図書館の発掘調査報告書のコーナーを見ていると、ひときわ厚い冊子がありました。引っ張り出して見ると「讃岐国府跡2 第1分冊 2019、3」とあります。いままでの発掘調査の総括となるもののようです。国の史跡指定に向けての報告書でもあるのでしょう。
発掘調査の各報告書の巻頭「概観」には、それまでの研究史や研究到達点がコンパクトに紹介されています。もうひとつの楽しみは、いままでに見たことのないデーターが視覚化され載せられていることです。そのためできるだけ報告書類には目を通すようにしています。この報告書にも充実した「概観」が載せられています。今回はこの報告書をテキストにして、どうして讃岐国府が府中に造られたのかを追ってみます。
発掘調査の各報告書の巻頭「概観」には、それまでの研究史や研究到達点がコンパクトに紹介されています。もうひとつの楽しみは、いままでに見たことのないデーターが視覚化され載せられていることです。そのためできるだけ報告書類には目を通すようにしています。この報告書にも充実した「概観」が載せられています。今回はこの報告書をテキストにして、どうして讃岐国府が府中に造られたのかを追ってみます。
讃岐国府は、広いとは云えない「綾北平野」の最奥にあります
この平野は綾川下流域にできた沖積平野で、海際の最大幅でも3、5kmしかありません。国府周辺はさらに狭まくなります。東西と南の三方を丘陵で囲まれ、平野側の間は約500~600mしかありません。高松平野や丸亀平野に比べると、狭い平野が意図的・選択的に選ばれたようです。
国府周辺で、綾川は谷間から出て阿野北平野に流れ込みますが、その周辺で不自然に屈曲します。かつては歴史地理学の視点から
「人為的な流路変更が古代に行われ、そこに国府が造られた」
という説もありました。私も、この説を主張する本を読んで信じていました。しかし、その後の研究で江戸期の絵図「高松藩軍用絵図」には、直角に屈曲する流路形状は描かれていないことが分かりました。明治21年の陸地測量部作成地図には、現在の流路になっています。そのため、この屈曲は明治の河川改修によるものとされるようになりました。
讃岐国には『和名類衆抄』によると11郡、90郷がありました。
全国的に見ると上位の郷総数となり(15位)、面積に比べると郷数がかなり多いことが分かります。上図は位置が分かる郷名を地図上に示したものです。このような形で、各郷の位置と広さが示された分布地図を見たのは初めて見ました。興味深く眺めてしまいました。
地図では、郷が次の3つの類型に分けられています
①類型1は、1~2km四方の領域で、後背地となる山野がなく、各平野の中央部にある。②類型Ⅱは各平野の周縁部にあり、幅2 km、長さ5㎞程度で、一方に丘陵部をもつ③類型Ⅲは各平野の外周部にあり、5 km四方を大きく超える領域で、その大半は山野である
こうしてみると各平野の中央部に類型1が集中し、その縁辺に類例Ⅱ、その外周に類型Ⅲが分布する傾向が見て取れます。丸亀平野と高松平野では同心円状の郷分布になっています。これは丸亀・高松平野の郷分布が弥生時代以降の伝統的な生産基盤や地域的なまとまりの中から形成されてきた結果だと見ることができます。
そこで国府のある綾北平野周辺をみてみると、丸亀・高松平野とは明らかにちがいます。府中のある甲知郷は類型3に分類されます。中心地域ではなかったところに、国府は置かれたことになります。ここには、不自然さを感じます。逆に政治的な働きかけがあったことがうかがえます。「政治的な働きかけ」を行い、国府の「地元誘致」に成功した勢力がいたようです。讃岐国府ができる前の阿野北平野の動向を見ておきましょう。
まず注目すべきは大型横穴式石室墳の多さです
阿野北平野には、古墳時代中期までに造られた古墳は少ないのですが、蘇我氏政権下の7世紀前葉になると、突然のように新宮古墳、それより少し遅れて醍醐3号墳が姿を現します。これを皮切りに
①綾川左岸の城山北東部(醍醐古墳群)②城山東部、東岸の連光寺山西麓(加茂古墳群)③五夜嶽西麓(北山古墳群)
などに大型横穴式石室墳が相次いで築かれるようになります。その石室スタイルは観音寺市(後の刈田郡)にある大野原古墳群の影響を受けた複室構造を採用しています。その後は、前室の形骸化、羨道との一体化という方向で全ての古墳に共通した変遷が見られます。ここからは次のようなことがうかがえます。
①阿野北平野の横穴式石室をもつ古墳は共通性があり、一族意識をもっていた②三豊の刈田郡勢力との何らかの関係をもつ集団であった。
阿野北の横穴式石室は、規模も大きい 紫が阿野北平野の石室
醍醐・加茂・北山の各古墳群では、その後も大型石室墳が築造され続け、これまで讃岐の盟主的地位にあった大野原古墳群を凌駕するようになります。また讃岐各地の古墳が築造停止する7世紀中葉以降も築造が続けられていきます。
大久保氏は、綾北平野周辺諸地域勢力が結集し、共同して綾北平野とその周辺の開発を進め、港津や交通路、各種の生産基盤の整備を進めたからと指摘しています。ここでは、7世紀中頃まで空白地帯(未開発地帯)だった阿野北平野に、突然のように大型古墳が何基も造られるようになり、3,4グループが同じ石室のタイプをもつ古墳を造り続けたことを押さえておきます。その上で古墳造営の背景を考えて見ましょう。
『日本書紀』天武天皇十三(684)年11条に、綾君氏が「朝臣」の姓を賜ったという記事が出てきます。
古墳が続けられた後のことです。「綾」は「氏」集団の名称で、「君」は「姓」というもので「朝臣」も同じです。氏というのは、実際の血縁関係や疑似血縁的意識によって結ばれた多くの家よりなる同族集団のことです。しかし、一般民衆の血縁的集団を指すのではなく、大和政権に奉仕する特別な有力者集団を示します。ここがポイントで、綾氏は「君」や「朝臣」を貰っているので、朝廷と直接的な関係を持つ集団だと認められていたことになります。
氏の首長である氏上は、氏を代表して政治に参与します。その政治的地位に応じて称号である姓を与えられ、血縁者も姓を称することを許されます。6世紀後半以後、阿野北平野の開発などの進展で、新たに開発された所に拠点を移す「分家」が現れ、一族の中でも居住地が離れていきます。その結果、氏内部に小集団(別氏)の分離・独立化の傾向が起きて分裂していきます。つまり、いくつもの綾氏の分家が6世紀後半には阿野北平野に現れたということになります。そして「各分家」も、新拠点で古墳造営を始めます。その際の石室スタイルは「本家」のものと同じにします。このようにして大型石室を持つ古墳は造営されたと研究者は考えているようです。大型石室の被葬者たちは綾氏一族の分家した各首長としておきましょう。本家の仏壇を真似て、分家の仏壇も設置されているのと同じなのかもしれません。
次に、国府以前に建立されていた古代寺院を見ていきます。
阿野北平野には、開法寺跡、醍醐寺跡、鴨廃寺の3つの古代寺院があります。醍醐寺跡や鴨廃寺は大型石室を持つ古墳群が築かれた場所の目の前に寺院が建立されています。ここからは、古墳群を造った勢力が、古墳築造停止後に氏寺建立に転換したことがうかがえます。
先ほど見たように綾北平野の古墳は石室形態を共有していました。同じように寺院建立の際にも、同じ瓦が使われています。ここにも相互の強い結びつきが見られます。同時に狭い阿野北平野に3つの寺院が並び建つ状況は他では見られません。有力勢力が密集していたエリアだったことがうかがえます。これらの古墳や寺院を築造した勢力は、綾氏に繋がり、684年の八色の姓では朝臣の姓をもらっています。善通寺市の大墓山・菊塚古墳から仲村廃寺・善通寺へと移行していく佐伯直氏と同じ動きがここでも見えます。
阿野北平野のことを考える際に、避けて通れないのが古代山城・城山城です
屋島と城山の古代山城は備讃瀬戸をはさんで西と東にあり、前面には塩飽諸島、後者には直島諸島が連なり、多島海の眺望を眺めるには最高の場所です。これを戦略的に見ると、防衛ラインを築くには城山や屋島は最も適した立地となります。近年では対岸の吉備の山城と対で設置された可能性も指摘されています。
古代山城は地方豪族が立地場所を決めたわけではありません。中央政府の視点で、選択的選地がなされています。もちろん地方有力者の助言・意向は反映された可能性はあります。
讃岐国内の2城は同時着工で短期間で築城されたようで、地元から動員された労働力は膨大な数だったはずです。築城には中央から監督役人が派遣され、亡命百済技術者集団が指揮したと私は考えています。派遣された築造担当の中央役人は、地元の有力豪族を使いながら強制的な労働力徴発を行ったのでしょう。山城築造や南海道整備などの強制は、結果的には律令国家体制が急速に、地方豪族に身に泌みる形で浸透していく契機になったのかもしれません。そうだとすると山城築造が讃岐に与えた影響は計り知れないものだったと云えそうです。
城山頂上に残る礎石群
その後、山城が完成すると、その管理・運営が問題になります。
城だけ造っても防備にはなりません。そこに兵員の組織・配置・訓練・移動も行わなければなりません。唐・新羅連合軍の来襲という危機意識の中で、複数の国を統括する太宰・総領が置かれます。この時期、讃岐は伊予総領の管轄下にあったようです。伊予総領の課題としては、今治・城山・屋島の戦略要衝の機動的な運用が目指されたはずです。そのためには兵員・戦略物資の融通移動や情報の迅速交換のためにも基幹交通路となる南海道の整備は、最重要課題のひとつになります。


こうして、東から大坂峠を越えて南海道が城山を目指して一直線に伸びてくることになります。幸いにして南海道が戦略的な機能を果たすことはありませんでいたが、この時期の投下された社会資本整備が後世に大きな意味を持つことになります。国府が置かれる府中周辺は、白村江の敗北への対応策として、大きな社会資本が継続的に投下され整備されたエリアだったと報告書は指摘します。
氏名の由来と八色の姓
綾という氏名の由来は、地名の阿野郡からきているとされます。綾氏は、古代阿野郡を本拠とする豪族で、今までに見てきたように古墳や寺院跡などの分布から綾川下流域が中心拠点だったことが分かります。次に姓というのは、政治的地位に応じて与えられる称号で、臣・連・君などがありました。綾君に朝臣という姓が贈られる1ヵ月前に「八色の姓」が制定されています。これは、従来からあった臣・連などの姓をすべて改めて、新たに真人・朝臣・宿而・忌寸・道師・臣・連・稲置などの8級の姓を制定したものです。ここには伝統的な氏姓制度を再整備し、天武一族を最上位に置き、その当時の勢力関係をプラスして、厳然たる身分制度を新たに作ったものです。
綾君氏は「朝臣」をもらっています。
この姓は、大和政権を支えた畿内とその周辺地域の有力氏族52氏に与えらました。地方豪族としては群馬の上毛野君・下毛野君氏、二重の伊賀臣・阿閉臣氏、岡山の下道臣氏・笠臣氏、北部九州の胸方(宗像)君氏だけです。彼らは地方の大豪族で、讃岐はもとより四国内では綾君氏のみです。ここからは、綾氏がこれらの地方有力豪族と肩を並べる存在であったことがうかがえます。
この姓は、大和政権を支えた畿内とその周辺地域の有力氏族52氏に与えらました。地方豪族としては群馬の上毛野君・下毛野君氏、二重の伊賀臣・阿閉臣氏、岡山の下道臣氏・笠臣氏、北部九州の胸方(宗像)君氏だけです。彼らは地方の大豪族で、讃岐はもとより四国内では綾君氏のみです。ここからは、綾氏がこれらの地方有力豪族と肩を並べる存在であったことがうかがえます。
さらに綾君氏で研究者が注目するのは、祖先系譜です。
『日本書紀』景行天皇五十一年八月条に、妃である古備武彦の女吉備穴戸武媛が、武卵王(たかけかいこう)と十城別王(とをきわけのみこ)を生み、兄の武卵王は讃岐綾君の始祖であると、記されています。『古事記』にも同じような記事があります。景行天皇は実在が疑われているので、これらの記事が史実かどうかは別として、天皇家に直結する始祖伝承が『日本書紀』、『古事記』に記されていることは事実です。ということは、この紀記の原史料成立時期の7世紀前半頃、または『日本書紀』、『古事記』の編纂時の8世紀に、綾君氏が大和政権の中で一定の地位を築いていたことを物語ります。
当時讃岐では、高松以東では凡直氏、高松市域では秦氏、善通寺市域では佐伯直氏、それと観音寺市域では氏姓は分かりませんが罐子塚・椀貸塚・平塚・角塚古墳を造り続けていたいた豪族(紀伊氏?)がいました。これらの中で天皇家に連なる祖先系譜を持っているのは綾氏だけです。ここからは、7世紀前半において、讃岐における綾氏の政治的位置や政治力の大きさがうかがえます。

以上、どうして讃岐国府は坂出・府中に置かれたのかという視点に立って、その理由を報告書の中から選んでしるしてみました。それをまとめておきます。
①讃岐国府は現在の坂出市府中に置かれた
②しかし、府中は丸亀平野や高松平野などの後背地がなく、また古墳時代以来の開発蓄積があった場所でもなかった。また6世紀後半までは国造クラスの有力豪族もいなかった。
③阿野北平野の豪族は6世紀後半以後に急速に力を付けていく。
④彼らの首長は、観音寺市の大野原古墳群の石造スタイルを真似て、新宮古墳を築く。
④これをスタートに阿野北平野の4つのグループも、新宮古墳をコピーしたスタイルのものを造営するようになる。これには統一性が見られる
⑤この被葬者たちは、新宮古墳の被葬者の末裔で一族意識(祖霊意識)をもつ同族で「本家と分家」の関係にあった。
⑥彼らは7世紀後半には、古墳に代わって氏寺を建立するようになる。
⑦これが古代の綾氏の祖先で、綾氏は讃岐でもっとも勢力のある豪族に成長し、城山城や南海道の建設に協力し、中央政権とのパイプを強め、信頼を得ていく。
⑧それが坂出府中への「国府誘致」の原動力となった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献 讃岐国府跡の位置と地理的環境
「讃岐国府跡2 第1分冊 2019、3」所収
「讃岐国府跡2 第1分冊 2019、3」所収
香川県教育委員会