瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:醍醐寺三宝院

   長尾荘 古代長尾郷
 寒川郡長尾郷
前回に長尾荘について、次のような変遷を経ていることを見ました
①長尾荘は平安末期に興善院に寄進され、皇室関係者に伝領された。
②ただ承久の乱の時に幕府に没収され、領下職は二位家法華堂の所領ともなった。
③南北朝期以降は、二位家法華堂の所領として、醍醐寺三宝院の支配を受けることになった。
14世紀半ばに長尾荘の支配権を握った醍醐寺三宝院は、どのように管理運営を行ったのでしょうか。
今回は、三宝院の長尾荘の支配管理方法を見ていくことにします。テキストは、「山崎ゆり  醍醐寺領讃岐国長尾荘  香川史学16号(1986年)」です。
世界遺産 京都 醍醐寺:三宝院のご案内
醍醐寺三宝院 かつては修験道当山派の本山でもあった

三宝院には、長尾荘についての史料が残っていて、讃岐の在地勢力の動きがある程度見えてくるようです。史料をもとに、長尾荘の所務請負の状況を研究者が整理したのが下表です。(備考の番号は、三宝院文書の整理番号)

長尾荘 長尾荘の所務請負の状況

三宝院の長尾荘史料上の初見は、上図のように観応三(1352)年4月13日付の長尾右衛門尉保守の請文です。ここには、長尾右衛門尉保守が長尾荘の所務を年貢三百貫文で請負ったことが記されています。その内容は、年貢三百貫文を、4月中に50貫文、6月中に30貫文、9月中に50貫文、12月中に170貫文を、分割して納めるというもので、不法憚怠の時は所務を召放たれても文句は言わないことを記されています。長尾右衛門尉保守が、どんな人物なのかは分かりません。しかし、寒川郡長尾郷の長尾をとって姓としているので、土着の豪族であることは想像できます。
 ここからは、三宝院は、南北朝後に支配権を握った長尾荘を、長尾氏を名乗る土着豪族を代官に任命して年貢などの所務を請負わせていたことが分かります。僧侶などを長尾荘に派遣して直接に管理運営を行うと云う方法はとられていません。三宝院支配当初から所務請負制による支配が行われていたことを押さえておきます。
請負代官名の欄を見ると、3種類の層に分類できそうです。
①長尾右衛門尉保守や石河入道浄志、寒川常文のような武士
②緯副寺呂緯や相国寺周興のような寺僧
③沙汰人百姓等という地下人たち
それぞれの階層をもう少し詳しく見ておきましょう
①の長尾右衛門尉保守は土着豪族、石河入通浄志は守護代官、寒川常文は長尾荘の地頭
②の呂緯や周興は、京都にある寺の僧で、利財にたけた荘園管理を専門とするような寺僧
請負代官の任期をみてみると、その任期は短く、ひんばんに交代が行なわれています。
たとえば応永二(1396)年から応水八(1401)年までの6年間に、毎年かわりばんこに6人の代官が務めています。石河入道浄志などはわずか2カ月で交代しています。

どうして短期間に、代官が次々と交替しているのでしょうか?
研究者は、次のように考えているようです。
石河入道浄志2ケ月で交代させられているのは、沙汰人百姓等か請負った年貢額の方が銭に換算すると、石川人道が請負った二百貫文より多かったためのようです。三宝院は、より多くの請負額を提示するものがあれば、簡単に代官を交代させていたことになります。
 ところが石河入道浄志に替わった沙汰人百姓等も、その年のうちに堅円法眼に交代しています。堅円法眼も翌年には相国寺の僧昌緯に交代します。沙汰人百姓等、堅円法眼の交代の理由は、よく分かりません。ただ応永三(1396)年の年貢の教用状がからは、年貢未進により交代させられたと研究者は推測します。
 昌緯は応永四(1397)年と翌年の代官をつとめて交代。昌緯の改替理由もやはり年貢未進。未進の理由は、昌緯の注進状によると、地頭や沙汰人、百姓等の抵抗により下地が掠め取られて年貢の徴収が不可能であると記されています。
 そこで次は、300貫文で請負うと申し出た地頭寒川氏に交代
寒川氏は応永6(1398)年から3年代官を務めて相国寺の僧周興味に交代、寒川氏交代の理由は、寒川氏が年貢三百貫が高すぎるので250貫目にまけろと要求してきたためのようです。以上から、ひんぱんな代官交代の理由には、代官の年貢未納入があったことが分かります。

 年貢未納入の背景にあったものは何なのでしょうか?
①代官自身による押領
②地下百姓等の領主支配に対する抵抗
を研究者は指摘します。領主三宝院は何とか年貢を確保しようと、ひんばんに代官を交代させます。しかし、長尾荘をめぐる現地の動きに対応しきれていないようです。困ったあげくに、管理を委ねたのが地元の実力者である地頭の寒川氏ということになるようです。
 地頭寒川氏は昌緯の注進状によれば、それまでも沙汰人や百姓等と結託して、代官や領主三宝院に抵抗しているその張本人でもあります。領主の三宝院は、地頭寒川氏を代官に任じることの危険性を分かっていながらも、寒川氏の力にたよるより他に道がなかったようです。そして、応永八(1401)年以後の史料は、1410年までありません。これについては、後に述べることにします。
 応永17(1410)年、再び寒川氏が260貫文で請負って、永享12(1440)年、寒川氏の要求で、260貫文からが210貫文に引き下げられています。
この時に領主の三宝院は、寒川氏に次のように申し入れています
「雖然今度別而被申子細候間、自当年詠二年五拾貫分被閣候、働弐価拾貫候、(中略)
年々莫大未進候、百四十貫外被閣候、然而向当年請口五十貫被減少候、労以如御所存被中成候、自当年自今以後事相構不可有御無沙汰候」
ここには、次のようなことが記されています。
①寒川氏が年々多額の年貢未納入続けていること
②にもかかわらず、その未進分の帳消しにし、
③その上で寒川氏の要求をきき入れて50貫文引き下げていること
ここからは、寒川氏に頼らなければ長尾荘の支配ができなくなっていることが分かります。三宝院には、これ以後の長尾荘に関する文書は残っていません。長尾荘がこの頃から実質的に、寒川氏の支配下に入ってしまい、三宝院の支配は及ばなくなってしまったことを示すようです。
長尾庄をめぐる守護や地頭、農民たちの動きをもう少し詳しく見ていくことにします。
  応永四(1397)年に請負代官に補任された相国寺の僧昌緯は、荘園請負人のプロであったようです。彼が三宝院に提出した注進状には、当時の長尾庄をめぐる様子が記されています。契約した年貢が納められない理由として、注進状は次のような問題を挙げています。
地頭・沙汰人らが73町余りの土地を「除田地」として、年貢納入を拒否している。除田とする根拠は、地頭・公文・田所・下司などの「給田」「土居」「山新田」「折紙免」などである。しかも地頭土居内の百姓までもが、守護役に勤仕するといって領家方に従わず、領家方の主だった百姓26人のうちの三分の一は、地頭に従えばよいといって公事を勤めようとしない。領家方の百姓は年貢を半分ばかりだけ納入して、他は免除されたと云って納めようとはしない。さらに年貢・公事は本屋敷の分のみ納入して、他は新屋敷の分と号して納めようとしない。
 さらに守護代官と地頭は、領家方進上の山野などを他領の寺へ勝手に寄進してしまっている。この結果、下地・年貢・公事が地頭や沙汰人にかすめ取られて、領地支配が行えず、年貢も決められた額を送付できないない状況になっている
ここからは、地頭とぐるになって、除田地と称して年貢・公事の負担を拒んでいる荘官や、領家方に従おうとしない百姓たちの姿が見えてきます。地頭の煽動と強制の結果、そのような行動をとったとしても、百姓の中には、三宝院に対する反荘園領主的気運が高まっていたことが分かります。
昼寝山(香川県さぬき市)
寒川氏の居城 昼寝城の説明板

そして登場してくる地頭の寒川氏のことを、見ておきましょう。
寒川氏は、もともとは寒川郡の郡司をしていた土着の豪族で、それが武士団化したようです。細川氏が讃岐守護としてやってきてからは、その有力被官として寒川郡の前山の昼寝城に本城をかまえて、寒川・大内二郡と小豆島を支配していました。長尾荘 昼寝城
寒川氏の昼寝城と長尾荘
 寒川氏の惣領家は、細川氏に従って畿内各地を転戦し、京と本国讃岐の間を行き来していたようです。
先ほどの表の中に、応永年間(1410)年頃に長尾荘の地頭としてその名がみえる寒川出羽守常文・寒川几光は、惣領家の寒川氏です。 同じころに山城国上久世荘で公文職を舞板氏と競っていた人物と同一人物のようです。山城の上久世荘で常文は、管領に就任した細川満元の支持を受けて、一時期ではありますが公文職を手にしています。長尾荘での寒川氏の領主化への動きも、守護細川氏の暗黙の了解のもとに行われたと研究者は推察します。
 在地の地頭の周辺荘園への侵略・押領は、守護の支持の上でおこなわれていたことが、ここからはうかがえます。これでは、京都にいて何の強制力ももたない醍醐寺三宝院は、手のうちようがないのは当然です。ここでは、細川氏の讃岐被官の有力者たちが讃岐以外の地でも、守護代や公文職などを得て活躍していたことも押さえておきます。

 百姓たちの反領主的な動きは、百姓の権利意識の高揚が背景にあったと研究者は考えています。
その抵抗運動のひとつを見ておきましょう。
 研究者が注目するのは、相国寺の僧・昌緯が長尾庄の代官に補任される前年の応永3(1396)年のことです。この年に、一年だけですが「沙汰人百姓等による地下請」がおこなわれています。この地下請は、さきに300貫文で請け負った守護代官石河入道をわずか二ヵ月後に退けて、沙汰人百姓等が年貢米400石、夏麦62石、代替銭25貫文で請け負ったものです。
 さらに昌緯が注進状で地頭や沙汰人等が年貢をかすめとっていると訴えた2ヵ月後に、百姓の代表の宗定と康定の二人は、はるばると上洛して三宝院に直訴しています。そして、百姓の未進分は、34石のみで、その他は昌緯が押領していると訴えているのです。昌緯の言い分が正しいのか、百姓等の言い分が正しいのかは分かりません。しかし、地下請が一年だけで終わり、百姓等の代表が上洛した後に、三宝院は、次のような記録を残しています。
  去年去々年、相国寺緯副寺雖講中之、百姓逃散等之間、御年貢備進有名無実欺

意訳変換しておくと
去年・去々年と、相国寺の僧・昌緯の報告によると、百姓たちが逃散し、年貢が納められず支配が有名無実になっている。

ここからは昌緯の報告のように、百姓の側は逃散などの抵抗を通じて、三宝院の荘園支配に対して揺さぶりをかけていたことがうかがえます。沙汰人百姓等の動きの背景には、村落の共同組織の成長と闘争力の形成があったと研究者は指摘します。

このような状況の中で、寒川氏による地頭請が成立するようです。
 三宝院は最後の手段として、祈るような気持ちで寒川氏に長尾の支配を託したのかもしれません。しかし、寒川氏の荘園侵略は止むことがなかったようです。 ついに三宝院は「公田中分」に踏み切ります。この「公田中分」については、よく分かりませんが結果的には、三宝院は、長尾荘の半分を失っても残り半分の年貢を確実に手にしたいと考えたようです。
しかし、どんな事情によるものか分かりませんが、応永16(1409)年に、「公田中分」は停止され、もとのように三宝院の一円支配にもどされます。そして、再び寒川氏が請負代官として登場するのです。三宝院は「年々莫大未進」と記した文書を最後に、永享12(1440)年以降、長尾荘に関する文書を残していません。これは三宝院領長尾荘の実質的に崩壊を示すものと研究者は推察します。
 このような動きは、長尾寺にも波及してきたはずです。
それまでの保護者を失い、寒川氏の保護を受けることができなかった長尾寺の運命は過酷なものであったはずです。阿波三好勢や長宗我部氏の侵入以前に、長尾寺は衰退期を迎えていたことがうかがえます。

以上をまとめておきます
①室町初期の長尾荘では、寒川氏が職権を利用して醍醐寺三宝院の長尾荘を押領した
②寒川氏は、周辺荘園を横領することで地頭から在地領主への道を歩んでいた。
③また百姓たちは惣結合を強めて、年貢未進や減免闘争、請負代官の拒否や排除・逃散などの抵抗行動を激化させていた。
④このような長尾荘の動きに、領主三宝院はもはや対応できなくなっていた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
テキストは、「山崎ゆり  醍醐寺領讃岐国長尾荘  香川史学16号(1986年)」です。

     長尾荘 古代長尾郷
寒川郡長尾郷周辺
 長尾荘は、寒川郡長尾郷を荘域とする荘園です。まずは、長尾・造田の立荘文書から見ていきましょう。
『伏見宮御記録』所収文書 承元二年(1208)閏四月十日後鳥羽院庁下文案
 院庁下す、讃岐国在庁官人等。
早く従二位藤原朝臣兼子寄文の状に任せ、使者国使相共に四至を堺し膀示を打ち、永く最勝四天王院領と為すべし、管寒河郡内長尾 造太(造田)両郷の事
   東は限る、石田並に神崎郷等の堺
南は限る、阿波の堺
西は限る 井戸郷の堺
北は限る 志度庄の堺
意訳変換しておくと
 後鳥羽院庁は、讃岐国の在庁官人に次の命令を下す。
  早急に従二位藤原朝臣兼子寄文の指示通りに、寒河郡内長尾と造太(造田)の両郷について、使者と国使(在庁官人)の立ち会いの下に、境界となる四至膀示を打ち、永く最勝四天王院領の荘園とせよ。境界線を打つ四至は次の通りである
  東は限る、石田並神崎郷等の境。
  南は限る、阿波国の境。
  西は限る 井戸郷の境
  北は限る 志度庄の境
「伏見宮御記録」は、かつての宮家、伏見宮家関係の記録です。伏見宮家は音楽の方の家元で、楽譜の裏側にこの文書が残っていたようです。鎌倉時代初めのもので承元二年(1208)、「寒河郡内長尾・造太(造田)両郷の事」とあって、大内郡の長尾と造田の両郷を上皇の御願寺の荘園にするという命令を出したものです。これが旧長尾町の町域となります。造田は、同じ時に最勝四天王院領となったので、いわば双子の荘園と言えそうです。

長尾荘は平安時代後期に皇室領荘園になり、南北朝期以降は醍醐寺宝院の支配下に入ります。三宝院には、長尾荘についての比較的豊富な史料が残っていて、支配の様子や讃岐の在地勢力の動きがある程度見えてくる荘園のようです。今回は、長尾荘について、その成立から三宝院の寺領になるまでを、追いかけて見ようと思います。テキストは、「山崎ゆり  醍醐寺領讃岐国長尾荘  香川史学16号(1986年)」です。

醍醐寺三宝院の支配に入る以前の長尾荘について、見ておきましょう。三宝院支配以前の長尾荘について記した文書は、次の二通だけのようです。
①長尾荘の初見文書でもある正応元(1288)年8月3日付の関東御教書
②喜元4(1306)年6月12日付の昭慶門院御領日録案

①の関東御教書では、前武蔵守(北条宣時)と相模守(北条貞時)が、越後守(北条兼時)と越後右近大夫将監(北条盛房)両名に、「二位家法華堂領讃岐同長尾庄」を下知状を守りよろしく沙汰するようにと申しつけたものです。この文書により、長尾荘か鎌倉後期の正応年間(1288)年頃に、二位家(北条政子の法華堂)の所領であったことが分かります。
②の昭慶円院御領同録案からは、長尾荘が興善院の所領であり、長尾庄を含む17ケ庄は「別当惟方卿以下寄付」によるものであることが分かります。興善院は鳥羽天皇の御願寺である安楽寿寺の末寺で、民部卿藤原顕頼の建立寄進になります。荘園寄進者の「別当惟方卿」は藤原惟方のことで、藤原顕頼の息子で、12世紀中頃の人物のようです。したがって、長尾荘は寄進者はよく分かりませんが、平安末期に興善院に寄進され、鎌倉末になっても興善院領として伝領されていたことが分かります。
以上の二つの文書からは、
①長尾荘は平安末期に興善院に寄進され、鎌倉末期に至っても皇室に伝領されていること
②一方で、鎌倉後期には二位家法華堂の所領ともなっていたこと
そして南北朝期以降は、二位家法華堂の所領として醍醐寺三宝院の支配を受けることになるようです。どうして鎌倉の法華寺の所領を、京都の醍醐寺三宝院が管理するようになったかについては、後ほど見ることにします。ここでは、文書には「二位家法華堂領」長尾荘として記載されてること。正確には「鎌倉二位家・右大臣家両法華堂領」長尾荘になること。つまり、長尾荘は二位家と北条政子と右大臣家(源実朝)のそれぞれの法華堂の共通した所領だったことを押さえておきます。長尾荘は、北条政子を供養するための法華堂の寺領だった時もあるようです。そして、幕府はこれを保護するように命じています。

では北条政子や源実朝の法華堂はいつ、どこに建立されたのでしょうか。
実朝の法華堂について、吾妻鏡に承久三(1221)年2月27日条に、次のように記します。
「今朝、於法華堂、修故右大臣第二年追善、二品沙汰也」

ここからは、政子が実朝の3年目の追善供養を法華堂で行ったことが分かります。
政子の法華堂については、吾妻鏡の嘉禄二(1226)年4月4日条に、次のように記されています。
②「如法経御奉納、右人将家、右府将軍、二品、三ケ之法華堂各一部也」

ここからは四代将軍頼経が頼朝、実朝、政子のそれぞれの法華堂に、如法経を奉納したことが分かります。
 実朝は承久九(1219)年、拝賀の儀を行った際、甥の公暁に殺され、その遺体は勝長寿院の境内に葬られます。一方、政子は嘉禄元(1225)年に亡くなりますが、その一周忌は同じ勝長寿院で行われているのでので、やはり政子も勝長寿院の境内に葬られたと研究者は考えています。

長尾荘 源氏の菩提寺でであった勝長寿院跡
源氏の菩提寺でであった勝長寿院跡 

   勝長寿院は頼朝が父義朝の恩に報いるために鎌倉の地に建立した寺で、義朝の首が葬られており、義朝の基所となった寺でもありました。そして、のちには実朝、政子も葬られ、源氏の菩提寺となった寺です。
   以上から実朝の法華堂は遅くとも承久三年(1221)までに、政子の法華寺は嘉禄二(1226)までに、それぞれの墓所のある勝長寿院の境内に建立されたと研究者は考えています。
廃寺となった幻の寺(勝長寿院)(Ⅱ) | 鎌倉の石塔・周辺の風景

平安末頃に興善院に寄進された長尾荘が、鎌倉の勝長寿院の境内に建立された法華堂の所領となったのは、どんな事情があったのでしょうか。
それを解くために、興善院の所領がどのように伝領されていったかを見ておきましょう。
①鳥羽上皇より女八条院に譲られ、鳥羽上皇没後は後白河天皇の管領下に入った。
②八条院から後鳥羽天皇女春華門院へ、
③次いで順徳天皇に伝わり後鳥羽上皇が管領
④承久の乱で一時幕府に没収されたが、すぐに後高倉院に返還
⑤その後、その女安嘉門院の所領となり
⑥亀山上皇女昭慶門院の所領となって亀山上皇の管領に帰し、
⑦南北朝期まで大覚寺統の所領として伝領
なかなか出入りがあって複雑ですが、基本的に長尾庄は皇室領で皇室関係者の所領になっていたことが分かります。その中で注目したいのは④の承久の乱で幕府に没収されていることです。この時に、長尾荘は実朝の法華堂に寄進されたことが分かります。幕府はある一定の権利を留保した上で皇室に長尾荘を返還したと研究者は考えています。
以上を要約すると次のようになります
①長尾荘は平安末期頃に、興善寺に寄進されて皇室領荘園となった
②しかし承久の乱で幕府に没収された。
③幕府によりその「領家職」が右大臣家法華堂に寄進され、上位の所有権である「本家職」が再び皇室に返還された
  ここに本家を皇室(興善院)、領家を右大臣家法華堂(のちには二位家。右大臣家両法華堂)とする長尾荘が成立し、南北朝期になるようです。
南北朝期に入ると、興善院領を含む大覚寺統の所領は、後醍醐天皇の建武の新政の失敗により室町幕府に没収されてしまい、多くの荘園は散逸してしまいます。しかし、長尾荘は二位家・右大臣家法華堂領として醍醐寺三宝院の管領下に入って存続します。その背景には、ある人物の存在があったようです。
長尾荘 三宝院門跡の賢俊
三宝院門跡の賢俊
長尾荘が三宝院の管領下に入ったのは、三宝院門跡の賢俊が貞和三(1347)年に鎌倉の法華堂の別当職を兼ねていたためのようです。
長尾荘 三宝院門跡の賢俊2
賢俊の年譜 左側が賢俊の年齢、右側が尊氏の年齢

賢俊は、建武三年(1336)二月に尊氏が九州に敗走する途中に、「勅使」として北朝の光厳上皇の院宣をもたらしたした僧侶です。これによって、尊氏は「朝敵」となることを免れます。当時の尊氏は、後醍醐天皇への叛旗を正当化するために北朝の承認を欲しがっていました。その証しとなる院宣の到来は、尊氏の政治・軍事上の立場に重要な転機をもたらします。 
 その功績を認められて賢俊は醍醐寺座主に補任され、寺内の有力院家を「管領」(管理支配)するようになり、寺内を統括する立場を強めていきました。寺外においても真言宗の長官である東寺長者、足利氏(源氏)の氏社である六条八幡宮や篠村八幡宮の別当にも任じられ、尊氏の御持僧として、尊氏や武家護持のために積極的に祈祷を行っています。また尊氏の信頼も厚く幕政にも関与し、多くの荘園を与えられて権勢を誇った僧侶でした。その三宝院門跡の賢俊が、鎌倉の法華堂の別当職を兼ねていたようです。
醍醐寺:三宝院 唐門 - いこまいけ高岡
醍醐寺三宝院

そのため法華堂の寺領である長尾荘は、幕府に没収されることなく、醍醐寺三宝院の支配下に入れられたようです。こうして、三宝院による長尾寺支配が14世紀の半ばからはじまるようです。その支配方法については、次回に見ていくことにします。
以上をまとめておくと
①長尾荘は平安末期に興善院に寄進され、皇室関係者に伝領された。
②ただ承久の乱の時に幕府に没収され、領下職は二位家法華堂の所領ともなった。
③南北朝期以降は、二位家法華堂の所領として、醍醐寺三宝院の支配を受けることになった。

長尾荘の支配拠点のひとつとして機能するようになるのが長尾寺ではないかと私は考えています。
歴代の長尾寺縁起は、以前にお話ししたように①から②へ変化していきます。
①中世は、行基開基・藤原冬嗣再興」説
②近世になると「聖徳太子・空海開基」説
その背後には、高野聖たちによる弘法大師伝説や大師(聖徳)伝説の流布があったことがうかがえます。どちらにしても、この寺の縁起ははっきりしないのです。
長尾寺周辺遺跡分布図
長尾寺周辺の遺跡分布図

  ただ、考古学的には境内から古瓦が出土しています。この古瓦が奈良時代後期から平安時代にかけてのものであることから、8世紀後半頃にはここに古代寺院があったことは事実です。さらに付近には南海道も通過し、条里制遺構も残ります。古代からの有力豪族の拠点であり、その豪族の氏寺が奈良時代の後半には建立されていたことは押さえておきます。
 長尾寺の一番古い遺物は、仁王門の前にある鎌倉時代の経幢(重要文化財)になるようです。
明倫館書店 / 重要文化財 長尾寺経幢保存修理工事報告書
長尾寺経幢 (きょうどう)(弘安六年銘)

経幢は、今は石の柱のように見えますが、8角の石柱にお経が彫られた石造物で、死者の供養のために納められたものです。お経の文字は、ほとんど読めませんが、年号だけは読めます。西側のものには「弘安第九天歳次丙戌五月日」の刻銘があるので弘安6年 (1283)、東側のものが3年後1286年とあります。
1長尾寺 石造物
             長尾寺経幢 

そして、正応元(1288)年8月3日付の関東御教書からは、長尾荘がこの頃に、
二位家(北条政子の法華堂)の所領となっていたこと見ておきました。つまり、経幢が寄進されたのは長尾荘が鎌倉の法華堂寺領となっていた時期に当たります。
 建てられた経緯など分かりませんが、モンゴル来寇の弘安の役(弘安4年)直後のことなので、文永・弘安の役に出兵した讃岐将兵の供養のために建立されたものという言い伝えがあるようです。
 さらに「紫雲山極楽寺宝蔵院古暦記」には、弘安4年に極楽寺の住職正範が寒川郡神前・三木郡高岡両八幡宮で「蒙古退散」祈祷を行ったことが記されているようです。もし、これが事実であるとすれば、文永・弘安の役に際に建立されたと言い伝えられる経幢の「補強史料」になります。
長尾寺経幢 (ながおじきょうどう)(弘安六年銘)
             長尾寺経幢

 これを建立したのは地元の武士団の棟梁とも考えられます。
そうだとすれば寄進者は、長尾荘が北条政子をともらう法華堂の寺領であることを知った上で、この地域の信仰センターとして機能していた長尾寺に建立したのではないかと私は推測します。長尾寺は、長尾荘支配のための拠点センターに変身していったのではないかと私は思うのです。
 長尾寺の境内や墓地には、五輪塔など室町時代にさかのぼる石造物が残されているようです。そこからは、中世の長尾寺が信仰の拠点となっていたことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   参考文献

南北朝後の長尾荘の領主となったのは醍醐寺三宝院です。三宝院には長尾荘に関する史料が残されています。その史料から長尾荘の所務請負の状況を研究者が整理したのが下表です。
(備考の番号は、三宝院文書の整理番号)

長尾荘 長尾荘の所務請負の状況
            
上表で応永四年(1397)に、荘園管理を請け負った僧・堅円法眼(判官)が残した長尾荘の年貢納入の決算書が残っています。どんなふうに年貢が決められ、どんな方法で京都に送られていたのかが見えてくる史料です。まずは史料を見ておきましょう。
応永四年(1397)讃岐国長尾庄年貢算用状(三宝院文書)
讃岐国東長尾 応永3未進分 御年貢事
 合
一、米六十五石五;十一石一斗 海上二分賃これを引く。
  尼崎まで 残る五十四石四斗、この内十五石太唐米
一 麦三十四石内 六石海上二分賃、これを引く、尼崎まで
  残る廿八石、この内一石二斗もみ、麦不足、これを入る
  又五十四石四斗内 海上二分賃、 
  尼崎より京都まで九石六升六合
  定御米四十五石三斗三升四合
  又ニ十八石内 海上二分賃、
  尼崎より京都まで四石六斗 六升八合
  定麦二十三石三斗三升二合
都合六十八石六斗六升四合 京定め右、算用の状くだんのごとし。
 応永四年二月十六日 光長(花押)
 長尾荘の現地管理者堅円法眼が荘園領主の醍醐寺三宝院に年貢を運んだときのものです。何にいくらいったという計算をしています。運ばれた年貢は米と麦です。
  まず、「米六十五石五斗内」とあります。
一石は百八十㍑、だいたいドラム缶一本分です。
  「十一石一斗、海上二分賃これを引く、尼崎まで」、
 どこの湊から出たのは分かりませんが津田港か三本松、或いは引田が候補地になるのでしょう。そして、尼崎へまず運んでいます。そして「海上二分賃」とあります。これが船賃だそうです。
定額料金制度でなく、積荷の2割が運賃となるのです。ここからは、当時の運送業者の利益が大きかったことがうかがえます。船主に大きな富が集まるのも分かります。積荷の2割が輸送代金とすると

 積荷六十五石五斗×0,2=13石

になるはずですが、決算書には「十一石一斗」となっています。だいたいの相場が1/6ぐらいだったとしておきましょう。この時代はそろばんもまだ入ってきていないようです。占いの時に使う棒みたいな算木をおきながら計算しています。計算結果もよく間違っているようです。
2 赤米
太唐米=赤米
太唐米は何でしょうか?
  「残る五十四石四斗」で、この内「十五石太唐米」と出てきます。
これは「赤米」と呼ばれる米だそうです。これが讃岐で赤米栽培が行われていたことを示す最初の資料になるようです。室町時代に讃岐で赤米が栽培されていたのです。赤米は、今では雑草扱いにされて、これが田圃に生えていたらヒエと一緒に抜かれるでしょう。赤米はジャポニカ米でなく、インディカ米です。粒が長い外米の一種で、病害虫や塩害に強い品種です。そのため、海を埋め立てた干拓地の水田には向いた米だったようです。特に三豊で作られていたことが分かっています。

2 赤米2

 ここでは普通の米が足りなかったから、十五石太唐米(赤米)を足しておいたと記されます。
  「麦が三十四石、六石海上二分賃、これを引く、尼崎まで」

三十四石に対して六石、六分の1近くが運賃です。こうして船で、尼崎まで運びました。そこからは、川船に乗せ替えて京都まで運びます。次は川船の運賃計算です。

  「又五十四石四斗内、河上二分賃、尼崎より京都まで、九石六升六合、定御米」

納める年貢の量(=最初に積んだ米量)から、船運賃を次々に引かれていきます。そして、残ったものが東寺に納められたようです。尼崎から京都まで、川舟で運びますがこれには何回もの積み替えが必要でした。その都度、運賃計算が行われ、東寺に納める年貢は少なくなっていきます。
一番最後の「都合」というのは、すべて合わせてという意味です。ここでは合計という意味になるのでしょうか。

「都合六十八石六斗六升六合」

のはずですが、ここでは、四合になっています。「京定め」とありますが、これが荘園領主の三宝院に納めるべき年貢の量です。
 当時の年貢計算は、「京定め」から逆算して都に着いたときこれだけ必要だから、川での運賃を足す、海での運賃を足す、讃岐から運び出すときには、これだけの量を積んでおかなければならないとうい計算方法のようです。ここからは、年貢が、運ぶ側が運賃も人件費も負担する原則であったことが分かります。律令時代納税方法を継承しています。それを計算したのがこの算用状です。この計算ができるのはある程度の「教育」が必要になります。これができるのは「僧侶」たちということになるのでしょう。
 算用というのは決算のことです。で、結局運賃がこれだけ要りました、最終的にこれだけ納めることになりました、というのを示しているようです。ただ、こういう形で米や麦を運ぶというのは大変なことだったので、次第に銭で納める代銭納に換わって行きました。次回は、代銭納について見ていこうと思います。
長尾荘 古代長尾郷
古代の寒川郡長尾郷の周辺郷
さて、この頃の長尾荘を取り巻く情勢はどうだったのでしょうか
 讃岐の守護職は室町時代を通じて管領の細川氏が世襲しました。守護職権を代行する代官として守護代があり、東讃の守護代は安富氏でした。津田・富田中・神前の境界となっている雨滝山(253m)にある雨滝城が、安富氏の城跡です。また、長尾荘は、建武の新政の挫折によって幕府に没収された後に醍醐寺三宝院が管理するようになったようです。
長尾荘 昼寝城


   このくらの予備知識をもって、年表を見てみましょう。
1389 康応1 3・7 
守護細川頼之,厳島参詣途上の足利義満を宇多津の守護所に迎える
1391 明徳2 4・3 
細川頼之,足利義満の招きにより上京する.
1392 明徳3 3・2 
守護細川頼之没し,養子頼元あとを嗣ぐ
足利義満の政権が安定して、失脚していた細川頼之を宇多津に迎えにやってきた頃です。
1396 応永3 
2・19 
安富盛家,寒川郡造太荘領家職を200貫文で請け負う
2・19 石河浄志,寒川郡長尾荘領家職を200貰文で請け負う
4・25 醍醐寺三宝院領寒川郡長尾荘の百姓・沙汰人,同荘領家方を年貢400石・ 公事物夏麦62石ほかをもって請け負う
この年 若狭堅円法眼が長尾荘沙汰人・百姓等にかわり,領家方を請け負う
1397 応永4 2月 長尾荘から年貢納入(讃岐国長尾庄年貢算用状)
12月 長尾荘の給主相国寺僧昌緯,同荘の地頭・沙汰人・百姓等が除田・寄進・守護役などと称して給主の所務に従わぬことを注進する.4年・5年両秋の年貢は,百姓逃散などにより未納
1398 応永5 2・15 長尾荘の百姓宗定・康定が上洛して昌緯の年貢押取・苅田等を訴える
長尾荘をめぐる事件を年表に沿って追ってみます
14世紀末(1396)2月19日に、守護被官の
沙弥石河浄志が、200貫文で請負います。しかし,わずか2ヶ月後には村落の共同組織である惣の地下請に変更されます。請負条件は、年貢米400石・夏麦62石・代替銭25貫文の契約です。ところがこれも短期間で破棄され、今度は相国寺の僧昌緯に変更になります。荘園請負をめぐって、有力名主と地元武士団、それと中央から派遣の僧侶(荘園管理役人)の三者の対立が発生していたようです。
翌年12月には、昌緯が醍醐寺三宝院に次のような注進状を送っています。
①地頭・沙汰人らが地頭・下司・田所・公文の「土居」「給田」,各種の「折紙免」,また「山新田」などと称し,総計73町余を除田と称して,年貢の納入を拒否している
②「地頭土居百姓」は守護役を果たすと称して領家方のいうことに従わない
③領家方の主だった百姓36人のうちの3分の1は、公事を勤めない
④守護方である前代官石河氏と地頭が結んで領家方の山を勝手に他領の寺に寄進してしまった
⑤百姓らは下地米90余石について,前代官石河氏のときに半分免が行われ,残る40余石についても去年より御免と称して納入を行わない
ここには、守護や地頭をはじめとする武士の介入や,農民の年貢減免闘争・未進などの抵抗で、荘園管理がうまくいかないことが書かれています。
  これに対して農民達は、昌緯のやり方に対して逃散で対抗し、この年と翌年の年貢は納めません。さらに農民代表を上洛させて、昌緯の年貢押取などを訴えるのです。その結果,昌緯は代官を解任されています。
 室町時代初期の長尾荘に次のような問題が発生していたようです。
①現地での職権を利用して在地領主への道を歩む地頭
②百姓達の惣結合を基礎に年貢の未進や減免闘争
③請負代官の拒否や排除を行うまでに成長した農民集団
このような動きに領主三宝院は、もはや対応できなくなったようです。そこで,現地の実力者である地頭寒川氏に荘園の管理をいっさいゆだねることにします。そのかわり毎年豊凶にかかわらず一定額の年貢進納を請け負わせる地頭請の方法を採用します。
 寒川氏は寒川郡の郡司を務めてきた土着の豪族で,当時は讃岐守護の細川氏の有力な被官として主家に従って各地を転戦し,京都と本国讃岐の間を行ききしていました。
 当時の東讃岐守護代・寒川出羽守常文(元光)は,京都上久世荘の公文職を真板氏と競っていた人物で、中央の情勢にも通じた人物です。現地の複雑な動きに対応できなくなった三宝院は,守護細川氏の勢力を背景に荘園侵略を推し進める寒川氏に,その危険性を承知しながらも荘園の管理をまかせざるを得なかったのでしょう。
1399 応永6 2・13 
長尾荘地頭寒川常文,同荘領家職を300貫文で請け負う
1401 応永8 4・3 
相国寺僧周興,長尾荘を請け負う(醍醐寺文書)
1404 応永11 7・- 
寒川元光(常文),東寺領山城国上久世荘公文職を舞田康貞に押領されたことを東寺に訴える.以後十数年にわたり寒川氏と舞田氏の相論つづく(東寺百合文書)
1410応永176・21 
寒川常文,三宝院領長尾荘領家方年貢を260貫文で請け負う
 こうして応永6年に寒川常文は,300貫文で請け負うことになります。ところが寒川常文は、早速300貫文は高すぎると値切りはじめ,やがてその値切った年貢も納めません。そこで三宝院は、領下職を寒川常文から相国寺の周興に、変更し同額の300貫文で請負いさせています。
 しかし、これもうまくいかなかったようです。9年後の応永17年には再び常文に260貫文で請負いさせています。40貫の値引きです。ところがこれも守られません。三宝院の永享12年12月11日の経裕書状案には
「年々莫太の未進」
とあるので、長い間、未納入状態が続いていたことが分かります。所領目録類に長尾荘の記載はされていますが、年貢納入については何も記されなくなります。おそらくこの頃から,長尾荘には三宝院の支配は及ばなくなり、寒川氏に「押領」されたことがうかがえます。

   14世紀末・足利義満の時代の長尾荘の情勢をまとめておくと
①台頭する農民層と共同組織である惣の形成と抵抗
②武士層の荘園押領
などで荘園領主による経営が行き詰まり、年貢が納められない状態が起きていたことが分かります。
 最初に見た「讃岐国長尾庄年貢算用状(三宝院文書)」は、長尾荘から三宝院に年貢が納められていた最後の時期にあたるようです。こうして荘園からの収入に頼っていた中央の寺社は経済的な行き詰まりを見せるようになります。その打開のために東大寺は、末寺への支配強化をはかり、末寺の寺領から年貢を収奪するようになります。そのために苦しめられるのが地方の末寺です。中世・善通寺の苦闘はこのようにして始まります。

参考文献    田中健二 中世の讃岐 海の道・陸の道
                                 香川県立文書館紀要3号(1999年)
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