瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:重要文化財箸蔵寺

 
箸蔵寺本社は権現造り
箸蔵寺の本社
幕末に建立された箸蔵寺の建物群は、重文指定になっています。その内の金毘羅大権現を祀る本社を今回は見ていくことにします。本社(本殿)は、上の写真のように3つの建物が連なって構成されています。きつく長い階段を登って正面に建つと見えるのは、拝殿だけです。そのために、私は若い頃にはその背後にある石の間と本殿に気づかないでいました。側面から見ると本殿は、後の斜面の上にあり、拝殿よりも相当に高い所に建っているのが分かります。これは金刀比羅宮(旧金毘羅大権現)と同じ社殿配置です。今回は箸蔵寺の本社(本殿)について見ていくことにします。テキストは、「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」です。 調査報告書には、建築群について次のように記します。(要約)
箸蔵寺は近世には金刀比羅宮の奥の院として信仰を集めた。現存する建築群は,文政9年(1826)の火災後に再建されたものである。建築年代は,
A 方丈が安政3年(1856)頃
B 護摩殿・薬師堂・鐘楼堂・天神社本殿が文久元年(1861)頃
C 本殿は少し遅れて江戸最末期(彫刻は明治)
箸蔵寺は,本殿,護摩殿,方丈を中心に,神仏習合を色濃く残す寺院である。特に本殿と護摩殿は,傾斜地を意図的に利用し,複雑な構成と特異な造形を併せ持つ雄大な複合建築として貴重である。また,いずれも装飾細部に巧緻かつ高度な技法を駆使した彫物を多用しており,四国における江戸末期の建築意匠の傾向を代表する壮麗な建築のひとつとして,価値が高い。」

 
箸蔵寺の建築物年代
        
嘉永七(1854) 夏に出された「御本社再建寄進蝶」には「文政九年(1826) の「春当山諸堂を焼失。御本殿は旧来の通り再建したい」として、本殿の平面図と正面図を掲げて寄進が募られています。 さらに「徳島県の諸職」(諸職関係民俗文化財調査報告書・徳島県教育委員会編) からは、本殿の彫刻が初代・猪口国太郎 (1824~78)と、二代・猪口安太郎 (1861~93)の手によるものであることが分かっています。これらによって、本殿が幕末のもので、伽藍の中で最後に姿を現したこと、また彫刻類は明治になって出来上がったことが裏付けられます。
 「傾斜地を意図的に利用し,複雑な構成と特異な造形を併せ持つ雄大な複合建築(権現造り)」とされる建物群を見ていくことにします。

神 社 建 築 の 種 類
権現
権現造り
権現造りは「外陣(拝殿)+ 内陣(石の間) + 奥殿(本殿)」の三構造です。


                  日光東照宮の平面図 
 権現造は、北野天満宮をモデルにして、各藩が日光東照宮のミニ版を建立する過程で様式が整えられて行きます。その特長は、上から見ると本殿と拝殿を石の間で連結した工字形に見えることです。間の石の間は、「相の間」とも呼ばれます。古代の神社建築では、本殿と拝殿が別棟で、その間は床を石敷としていました。そのため「石の間造」と呼ばれることもありました。近世になると、「本殿 + 石の間 + 拝殿」の3つの空間がひとつの棟となります。しかし、床を同レベルとしないで、石の間を設けて本殿よりも拝殿を一段低い位置に置いて、そこから御本尊や御神体を仰ぎ崇拝するスタイルをとるようになります。箸蔵寺の本殿は、山を背にして建ているので、高低差が大きいのが特徴です。別の言い方をすると、高低差を石の間で作りだして、本殿を仰ぎ見る演出空間を生み出していると研究者は評します。これは、象頭山の金刀比羅宮の社殿と同じです。これが模倣されたことが考えられます。
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 ちなみに拝殿から本殿までの社殿全体の奥行は約39mあります。これは、全国に点在する権現造や複合神社建築と比べてもひけをとるものではないと研究者は評します。

3つの建物の役割と構造を見ていくことにします。
A 外陣 手前の四方切目縁を廻した大規模な拝殿
B 内陣 一段上がった幣殿(石の間)
C 奥殿 木階と中段を挟んだ本殿
床は
A 外陣 64帖の畳を敷き詰めて、拝殿にあたる礼拝の間 
B 内陣 護摩壇が置かれ、中央は板で周辺三辺を畳を廻し、外側に畳敷き
C 奥殿 一間毎に畳敷き、木階と続き、丸柱を立てて結界線を設け、三間分を拭板を敷き、最奥の一間分を仏間にして秘仏を安置する。
内陣(石の間)に護摩壇があることが修験者の拠点であったことを物語ります。

箸蔵寺と天狗
箸蔵寺拝殿正面の天狗面と修験者

本殿(奥殿)の正面には、一段高くした仏間を設けて秘仏を祀られているようです。そこには弘法大師に寺を建立するように誓願した金毘羅大権現や、その化身(本地仏)である薬師如来、その守護神の天部、修験者の守護神不道明王が祀られているようです。

金毘羅神 箸蔵寺
箸蔵寺が配布した金毘羅大権現の掛け軸
権現造といえば東照宮(栃木日光・東京上野・静岡久能山・京都福地・滋賀日吉)や北野天満宮などのように、極彩色された組物や彫刻を多用するのが特徴です。
しかし、箸蔵寺には彩色物がありません。拝殿の軒裏や向拝には、三手先の尾垂木や木鼻に、唐獅子・龍・獏息などの想像上の霊獣が彫刻さます。それを見ておきましょう。

箸蔵寺拝殿 彫刻1
箸蔵寺拝殿 彫刻がびっしりと刻まれている
箸蔵寺拝殿 彫刻2
箸蔵寺拝殿の軒裏や向拝の彫刻1

箸蔵寺拝殿 彫刻5
               
箸蔵寺拝殿 彫刻6
             箸蔵寺拝殿の軒裏や向拝の彫刻3
箸蔵寺拝殿 彫刻4
箸蔵寺拝殿の軒裏や向拝の彫刻4
 奥殿の軒裏は、禅宗様の詰組みであ五手先で埋めつくされているようですが、私はまだ見たことがありません。このような大規模な装飾的社殿建築は、本家の金刀比羅宮だけでなく、四国でも珍しいと思います。彫刻が好きな人にはお勧めの場所です。幕末の貴重な遺構として重要文化財に指定されるひとつの要素でしょう。
 この建物の彫刻や組み物は宮大工ではなく、専門の彫刻師が手がけていたことが分かっています。
「徳島県の諸職」(諸職関係民俗文化財調査報告書・徳島県教育委員会編) には、初代・猪口国太郎(1824~78)と、二代・猪口安太郎(1861~93)の手によるものと報告されています。建物が幕末に完成した後で、明治になって彼らによって彫刻や組み物が掘られて、飾られたことになります。護摩堂と本殿との前後関係は、護摩殿が先に完成し、その後に本殿が完成することは先に見たとおりです。そのため組物などは、本殿の方が一段と派手になっていること、外陣軒裏・同向拝・奥殿軒裏などに彫刻師の技の進歩が見られると研究者は指摘します。

この本殿建立のための資金は、どのようにして集められたのでしょうか。
寄進募集のために出された「御本社再建寄進蝶」嘉永7(1854)年夏には次のように記します。
文政九年(1826) 春に当山の諸堂一堂残らず焼失してしまった。その後に仮の堂社を建設したたが充分な荘厳が施されておらず不十分なものなっている。そこで、講中(信者集団)や檀越と協議し、本社・拝殿・幣殿・長廊を絵図の通に再建することになり、この夏より普請に着手した。ついては、資金調達のために諸国の俗貴の信者十方に寄進を募ることになった。なお寄進に応じた者については、以下の通り、先々施主の御姓名を記録し、寶殿で永代護摩供と大般若経読経を行う。家運延長・子孫繁栄のために寄進に応じることを乞う。
                          箸蔵寺知事 敬白
なお、この奉納に関わる金銭の授受に関しては、箸蔵寺の役僧役人は、一切関わりがないことを最後に記す。 以上
この「寄進帳」の冒頭には、文政9年(1826) 春に諸堂一堂残らず焼失したこと、その後に仮社を建てたが、従来の信を取り戻せないので、本格的に御本社を再建したいとあります。そのために「当年より五ヶ年」寄進活動が行うことになったので協力を依頼するものです。ただ、「嘉永五年(1852)壬子僧仙岳又再建ス」と別の史料にあるので、本社以外の各堂宇については復興されていたようです。本社が最後に復興されたということでしょう。
そして寄進額に応じて、次のような特典を得られることが記されています
御本社再建依御寄附御礼守等可進候事
定
一 式朱   五ヶ年之間、日護摩修業満座之節御守可進之事
一 金百疋 右同断御札可進之事
一 金弐百足 右同断木札可進之事
一 金壱両  右同断講座之砌一七日之間、護摩修業木札可進之事
一 金式而  五年之間日護摩修業講座之砌二七日護摩修業木札可進之事 〇永代内陣入
一 金五両  右同断講座之砌三七日之護摩修業木札 
       可進之事 ○永代内陣人
一 金拾両 右同断満座之砌五七ヶ日護摩修業木札 
可進之事 〇永代内陣入日護摩講
一 金弐拾両 永代内陣入日護摩五ヶ年之後御固守 可進之事
一 金三拾両  永代木札可進之事
内陣開扉尤年々御参詣之砌、御礼可進渡候
一 金五拾両  永代木札可進之事 右之御神楽
内陣入開扉年々御参詣之砌御札可進渡候
右勤化御出銀者当年より五年二御神納可被下候御守等之儀者満座之節沾於御神前奉祈念可進之候以上
以下、月日、氏名(略)
2朱だと「五年間の護摩法要加護」で、1両だと17日の護摩修行木札、50両だと永代木札が神楽付で下され、さらに参拝時には内陣扉の内側に入って札を納める特権をえることができるとされています。寄付額によって、与えられる特権やランクがちがうようです。
以上からは、安政年間 (1854一59) 頃には、現在の寺域と堂宇が出来上がっていたことになります。この時期は、金毘羅大権現の金堂や善通寺の五重塔建立と重なります。19世紀前半の半世紀は、善通寺・金毘羅大権現・箸蔵寺で建築ラッシュが続いていたことを押さえておきます。

以上をまとめておきます。
①文政9年(1826)に箸蔵寺は被災した。
②その1856年頃までには、方丈も含めて再建(創建?)された。
③最後に残ったのが本殿で、幕末から明治にかけて完成した。
④本殿は「拝殿+石の間+本殿(奥殿)」から構成される権現造である。
⑤奥殿には金毘羅大権現とその本地仏や守護する天部が祀られている。
⑥石の間には、修験者の祈祷場として護摩壇がある。
⑦建物は見事な彫刻で飾られているが、これは明治の彫刻家の作品である
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
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