瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:野原郷

 伊勢御師1
檀那宅を土産を持って訪れる伊勢御師 (江戸時代)
 戦国時代の16世紀になると多くの伊勢御師が全国各地を訪れ、人々を伊勢参詣ヘと誘うようになります。讃岐にも伊勢御師がやってきて、勧誘活動を行っていたようです。

伊勢神宮~人はなぜ伊勢を目指す?~(前編)@ブラタモリ - メランコリア

それが分かるのが、冠櫻神社(香南町)に残されている「さぬきの道者一円日記」です。
この史料は、永禄8年(1565)に伊勢外宮門前町の山田・岩淵の御師である岡田大夫によって作成され、それから約300年後の安政三年(1856)に書写されたものです。この内容は、伊勢御師・岡田大夫が讃岐の中・東部(県高松市・さぬき市・坂出市・三木町)の旦那(道者)の家々を巡って、伊勢神宮ゆかりの伊勢土産や祈疇札を配り、その代価として初穂料を徴収した記録です。これを今回は見ていくことにします。テキストは「佐藤竜馬   伊勢御師が見た讃岐」です。

高松城下図屏風さぬきの道者一円日記
「さぬきの道者一円日記」
「さぬきの道者一円日記」は、次のような体裁になっています。
①一 さぬき 野原  なかくろ(中黒)里  一円
     数あふき  百五十本入申候
②正藤助五郎殿  やと(宿)③おひ(帯)あふき(扇)米二斗
是 藤 殿      おひ あふき のし(熨)斗本   代三百文
     小刀                同百文
六郎兵衛殿    おひ あふき        米二斗
助左衛門殿       同                    米二斗
ここには次のような項目が記されています。
①地域名         ここでは野原中黒里
②人物(寺社)名     旦那名
③御祓大麻配布の有無と伊勢土産の種類
④代価(初穂料)、
の順で整然と記されていて、日記というよりも帳簿に近い印象を受けます。土産の品目は、帯上崩・小刀などの衣類や器物、焚斗(焚斗飽)・鶏冠(鶏冠莱)などの海産物が中心です。土産は「御師が旦那に配布する、という行為自体が重要であり、それが初穂徴収という枠組みを保証している」と研究者は考えています。

伊勢御師 さぬき檀那と初穂
「さぬきの道者一円日記」 野原周辺の檀那リスト

 上表からは野原中黒里に12名(坊)の旦那がいて、そこに伊勢土産の帯や扇を持って廻ったことが分かります。野原中黒里から記述が始まるので、岡田大夫が最初に上陸したのは、野原中黒里と研究者は考えています。
伊勢御師 野原目黒
華下天満宮(高松市片原町) 中黒里

 中黒里は、華下天満宮(高松市片原町)の古名「中黒天満官」にその名残りがあります。
中世の中黒里は、中世復元図によると旧香東川の河口の中洲で、「八輪島=八幡島(ヤワタジマ)」と呼ばれる聖地でもあったようです。その北側に中世の野原湊はあり、活発な海上交易活動が展開されていたことが発掘調査から分かっています。

野原・高松・屋島復元地形図jpg

旧香東川河口の中洲にあった野原中黒里

そういう意味では、中黒里は髙松平野で最も活発な活動を行っていた港の背後にあった集落になります。畿内と行き来する廻船も数多く出入りし、梶取りや海上交易業者なども数多く生活する「港湾都市」的な性格をもっていたようです。
野原の港 イラスト
中世野原湊の景観復元図

伊勢御師の岡田太夫は、畿内から船でやって来て、野原湊に上陸し、ここを起点に讃岐の旦那衆を巡ったのでしょう。「正藤助五郎殿  やと(宿) おひ(帯)あふき(扇)米二斗」とあるので、正藤助五郎の家を宿としたことが分かります。

伊勢御師 野原復元図2
中世野原周辺の復元図 無量寿院(談義所)があった

 中黒里の旦那の中には「談義所」と記されています。これは讃岐七談義所として有力寺院であった無量寿院のことです。周辺にもいくつもの坊があり、そこに住む僧侶(修験者?)たちは、伊勢信者でもあったようです。当時は神仏混淆で、僧侶というよりも修験者たちで神仏両刀使いだったのです。
   野原・高松復元図カラー
中世野原の景観復元図
岡田太夫は、次のようなルートで旦那の家を廻っています。
①野原郷内を巡り、坂出上居里・円座里・岡本里・井原里と高松平野を南下
②阿讃山脈に近い鮎滝・安原山・岩部里・塩江・杵野・内場といった山間部を巡回
③そこで反転して下谷・川内原・植田里などの丘陵地帯を抜け、
④高松平野中央部の下林里・山良里・由良池の内・下林里・大田里・松縄里を北上
⑤現在よりも内陸側へ大きく湾入していた古・高松湾沿いの今里・木太西村里に出る。
⑥内湾する海岸沿いに東行し、高松里周辺を巡回
⑦その後、狭い海峡を渡り屋島の方本里・西方本を訪れ
⑧再び高松里に戻り牟礼里・庵治里・馬治・鎌野里。原里と庵治半島を時計回りに巡り、志度ノ里に至る。
⑨さらに門前の志度ノ里寺中から南下して西沢里・造円里・宮西里・井戸里に至り
⑩そこから西行して池戸里・亀田里・十河里。前田里・山崎里。六条里・大熊里に出た後、港町香西里に至る。
⑪香西里から南下し、新居里・国分里・福家里を巡った後、備讃海峡に突き出した乃生嶋里に出て、讃岐を離れる。

伊勢御師 檀那廻りルート
伊勢御師岡田太夫の巡回ルート

 全行程は約190km(約47里半)、巡った郡は5郡、村落の数は61、旦那の数は304名(寺社含)になります。こうしてみると伊勢御師の活動は、一つの村だけではなく、広い範囲をカバーしたものだったことが分かります。当時の社会で荘郷や領主を超えて、これだけの村をめぐり歩いてたのは、彼らのような御師(修験者)をおいて他にはなかったと研究者は指摘します。熊野・伊勢御師の活動は、もともとは信者獲得のために必要な知識として貯えられたものです。しかし、それを村の側から見れば、修験者は、村内の家格や身分秩序について把握し、またそうした情報を行く先々で広く伝達して廻る者としての役割を呆たしていたとも云えます。
無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社選書) | 網野 善彦 |本 | 通販 | Amazon

  網野善彦氏は『無縁・公界・楽』の中で、修験者や聖の勧進行為が鎌倉末期から、幕府や朝廷の権威を背景に棟別銭の徴収という形をとるようになったことを指摘しています。例えば応永19年(1412)、幕府が備前や越中などに懸けた東寺修造料棟別銭が、備前では児島熊野山の五流山伏、越中では二上山の山伏が徴収担当者に指名されています。
なぜ修験者が棟別銭を徴収することができたのでしょうか。
「菅浦文書」は、中世村落に対する棟別銭賦課の事例として有名です。その中の棟別掟では、村内の家が「本家」「かせや」「つのや」に分けて格付けされています。ここからは、棟別銭を徴収するためには、家数の把握や、家の格付け、財産についての知識(戸籍や土地台帳)が必要だったことが分かります。熊野修験者などは、先ほど見たように讃岐でも御師として檀那の間を廻り、護符を配ったり、初穂料や祈疇料を得たりしていました。こうした活動を通して修験者は、家の大小、貧富、身分といった情報を集めていたと研究者は考えているようです。
伊勢御師 檀那を迎える伊勢御師2
伊勢詣でにやってきた檀那を迎える御師(江戸時代)
  熊野・伊勢の修験者の場合を見ておきましょう。
修験者(山伏)が御師として、全国に散らばる先達として、信者との間に師檀契約を結んでいたことは以前にお話ししました。御師や先達は、檀那が本山に参詣する際には宿泊をはじめとする便宜を図ってやりました。また檀那の間を廻って巻数・護符・祓などを配り、代償として初穂料や祈疇料を得ています。伊勢御師の檀那衆は、室町時代になると在地領主層だけでなく、農村の中にも広く存在していたことは、先ほど見たとおりです。
伊勢御師 伊勢講
伊勢御師講社
大量の檀那売券には「一族・地下」「地下・一族」という語句が現れてくるようになります。有力百姓の間にも伊勢信仰は広がっていたのです。伊勢御師の修験者たちは、これらの檀那衆を毎年廻って初穂料を集めていたのです。これは村全体から徴収するものではありませんが、恒常的に棟別銭を徴収する体制を熊野・伊勢の御師たちは持っていたことになります。それは、熊野・伊勢のシステムを真似て初穂料を徴収していた地方の神社の修験者たちにについても云えることです。修験者(山伏)たちは、「廻檀」という旦那廻りを通じて、村々の中に入り込み、村内部の情況に精通していたと研究者は考えています。

広峯神社 <ひょうご歴史の道 ~江戸時代の旅と名所~>
播磨広峯神社(姫路市)

地方の修験集団の例として、牛頭天王を祀る播磨広峯神社(姫路市)を見ておきましょう。
その社家の一つ肥塚氏は、鎌倉末期より御師として播磨・丹後・但馬・因幡・美作・備中などの諸国で檀那を獲得していました。肥塚氏が残した檀那村付帳には、諸国の諸荘郷やその中の村々の名称だけでなく、住人の名前、居住地、さらに詳しい場合には彼らが殿原衆であるか中間衆であるかといつた情報まで記されています。例えば天文14年(1545)の美作・備中の檀那村付帳の美作西部の古呂々尾郷・井原郷の部分を見てみると、現在の小字集落にはぼ相当する.村が丹念に調べられて記録に残されています。広峯の御師たちは、村や村内の身分秩序をしっかりと掴んでいたのです。

七五三初穂料読み方 ふたり一緒の時・中袋書き方や中袋がない時・新札? - Clear life クリアライフ
熊野・伊勢御師や修験者たちは、檀那からの初穂料徴収を行っていました。そのためには、旦那廻りのための情報を蓄積する必要があり、村々に家がどのくらいあるのかなども情報として得ていました。修験者たちが持っている情報を活かして、棟別銭を賦課しようとする支配者が現れても不思議ではありません。
五流 絵図
児島五流修験

応永十九年(1413)9月11日、幕府は東寺修造料として、出雲に段銭、丹後・越中・備前・備後・尾張に棟別十文の棟別銭(家毎への課税)を命じています。備前での棟別銭徴収を請け負ったのが「児島山臥方」です。「児島山臥(伏)方」は、児島五流修験のことです。山伏集団が一国の棟別銭集金機構として機能しているのです。それについては、また別の機会に

以上をまとめておくと
①16世紀半ばの戦国時代に、伊勢御師が野原(髙松)にやってきて、周辺の伊勢信者の檀那衆へ伊勢土産を配り、初穂料を集めて廻っていこと。
②その際に残された記録からは、御師のたどったルートや村々・お土産の種類・初穂料の種類などが分かる。
③そのエリアは現在の高松市周辺にも及び、小領主層や海運関係者・商人・有力農民などが信者となっていたこと。彼らを結ぶのが御師であったこと
④御師は旦那廻りを通じて、村々の中に入り込み、村内部の情況に精通すると同時に、村々をつなぐ存在でもあった。
⑤村々の鎮守やお堂にいた在地の修験者たちも、このネットワークを支える存在であった。
⑥こうして修験者のネットワークを通じて村々の寺社もは結びつけられていったこと。
⑦備前では児島五流の修験者ネットワークを利用して棟別銭が徴収されたこと。
⑧修験者ネットワークをうまく利用し、政治に利用しようとする戦国大名がでてくること
⑨それが土佐の長宗我部元親であり、金毘羅神保護も修験者による流行神創出を支援するという意図があったこと

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  「佐藤竜馬   伊勢御師が見た讃岐」
榎原雅治 山伏が棟別銭を集めた話 日本中世社会の構造
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 昔の港というと鞆や御手洗、室津などの北前船が出入りした港を私はイメージします。そこには石積みの突堤があり、灯台がわりの大きな灯籠が建ち、雁木に横付けされた船着場には何艘もの小舟が横付けされ、忙しげに人夫達が荷物の積み卸しを行う・・こんな姿が私の港イメージでした。しかし、このような港が姿を現すのは19世紀になってからのことのようです。
それでは中世の港とは、どんな姿だったのでしょうか。
それに応えてくれるのが、新高松駅やサンポート開発の際に発掘された野原(現高松)の調査報告書です。そこからは16世紀末期に高松城が生駒氏によって築城される前の中世の港の姿が現れました。それをイラスト化したのが下の景観図です。ここには次のような事が描き込まれています。
野原の港 イラスト
中世の高松港復元図(野原)
①元香東川河口の東西からのびる砂堆が発達して、自然の防波堤の役割を果たしていた。
②その背後には奥深く潟湖が入り込んできており、そこが積荷の積み下ろしが行われる港湾施設でであった

中世の高松港
中世高松港拡大図

③荷揚げの時の安定した足場を確保するために波打ち際には赤い板石が敷き詰められている。
④イラスト左側(西側)の船着場は杭と横木を組み合わせてある。
⑤船着場の周辺には倉庫や管理施設・住居などはない
⑥潟湖の内側の水深は浅く、大型船は入ってこれないため沖合に停泊し、小型船に積荷を載せ替えて入港していた。沖合の女木島には大型船が停泊している。

①については、旧香東川は近世までは栗林公園を経て現在のホテル・クレメント辺りが河口であったようです。
野原の港 俯瞰図イラスト

②の船着場があったのは、新高松駅と中央通りの間のエリアになります。
野原・高松・屋島復元地形図jpg

そして、③④⑤を見ると、雁木も突堤も灯台もありません。近世の鞆港とはイメージが大きくちがいます。ある意味港湾施設が何もなく貧弱におもえてきます。中世の港とは、どこもこんな感じなのでしょうか?
  当時の日本で最も栄えていた港の一つ博多港の遺跡を見てみましょう。
ここも砂堆背後の潟湖跡から荷揚場が出てきました。それを研究者は次のように報告しています。
「志賀島や能古島に大船を留め、小舟もしくは中型船で博多津の港と自船とを行き来したものと推測できる。入港する船舶は、御笠川と那珂川が合流して博多湾にそそぐ河道を遡上して入海に入り、砂浜に直接乗り上げて着岸したものであろう。海岸線の白磁一括廃棄が出土した第十四次調査においても、港湾関係の施設は全く検出されておらず、荷揚げの足場としての桟橋を臨時に設ける程度で事足りたのではなかろうか」

ここからは、博多港も砂堆の背後に広がる潟湖の波打際に立地して、砂堆が波除けの役割を果たし、静かな水域の浜が荷揚場として使われていたようです。そして「砂浜に直接乗り上げて着岸」し、「港湾施設は何もなく、荷揚げ足場として桟橋を臨時に設けるだけ」だというのです。日本一の港の港湾施設がこのレベルだったようです。
「⑤船着場の周辺には倉庫や管理施設・住居などはない」についても、
12世紀の港と港町(集落)とは一体化していなかったようです。河口のぽつんと船着き場があり、そこには住宅や倉庫はないのです。ある歴史家は
「中世の港はすこぶる索漠としたものだった」
と云っています。
 ここに建物(浜之町遺跡)の形成が始まるのは13世紀末になってからのようです。それは、福山の草戸千軒遺跡や青森の十三湊遺跡と同時期です。この時期が中世港町の出現期になるようです。それまで、港は寂しい所であったようです。

野原 陸揚げ作業イラスト
中世高松港 陶器の荷揚げシーン
このイラストは近畿圏から運ばれきた陶器を荷揚げしているシーンです。
野原の港からは多量の和泉型瓦器椀のかけらが出てきましたが、そこには摩滅の痕跡なく使用された跡がないといいます。新品を廃棄していたのでしょうか? どうもこれは近畿から運び込まれた器を荷揚げして選別し、不良品をその場で廃棄していたようです。チェックに合格したものだけが後背地に向けて出荷されていたのでしょう。
 この絵には海岸線に赤い石が敷き詰められています。これが③の「礫敷き遺構」です。
野原 礫敷発掘現場
平成8年(1996)の高松城下層遺跡(高松城跡西の丸町B・C地区)からは、波打際から礫敷き遺構が出てきました。潟湖の緩斜面に拳大の安山岩角礫を貼り付けるように構築し、平坦部は敷き詰められていました。上の図11の右側が海で、海から緩やかに陸に上がっていく緩斜面に石が敷かれているのが分かります。礫敷きは、時代を経て同じ所に何回も敷き詰め直されたようです。継続的な維持・管理が行われていたことがうかがえます。
  この敷石は、どこから運ばれてきたのでしょうか?
礫敷きに使われているのは安山岩角礫です。一番近い採取場所として考えられるのが、南約2kmの石清尾山塊です。石清尾山北麓の亀尾山には、山城の石清水八幡宮を勧請したと伝えられる石清尾八幡宮旧境内があり、その付近で節理の進んだ安山岩の露頭があります。ここから運ばれたと考えるのが自然のようです。それは、この港の管理運営に石清尾八幡宮が関わっていたことがうかがう材料になるようです。
 同じ角礫を用いた礫敷き遺構は、直島・積浦遺跡(12世紀)からもでてきています。
この遺跡は、直島南東部に湾人する小規模な潟の出入口にあり、自然の海岸線に安山岩角礫を貼り付けています。直島では花崗岩はありますが安山岩はありません。高松(中世は野原)から舟で運ばれてきた可能性もあると研究者は考えているようです。もしそうであえば、直島群島を経て児島あるいは牛窓に至る備讃海峡横断ルートが、野原を起点にこの時期に整備されたということになります。
 正応二年〈1289)に、播磨・魚住泊の修築料を室津・尼崎・渡辺などが負担している例があるようです。魚住泊を航路上の中継地として必要とした主要港町が、修築費を出しているのです。ある意味、受益者負担での原則で港湾整備が行われていたことを示す事例です。これが慣例的に行われていたのなら直島に、野原港(高松城下層遺跡)と同じ礫敷きが作られたのは、野原勢力による寄港地確保のための造営とも考えられるようです。
野原の港 木碇
礫敷きにの近くからは、木碇も出土しています。これに石などをくくりつけて碇にしていたようです。
野原の港 係留施設

この出土品は④の船着場に使われていた杭と横木です。この杭を浅い潟湖に打ち込んで、横木で固定し、その上に板木を載せていたようです。この板木と礫石が「湾岸施設」と言えるようです。「貧弱」とおもいますが、これが当時のレベルだったようです。


石井謙治氏は、近世の港について次のように述べています。
今日の港しか知らない人々には信じ難いものだろうが、事実、江戸時代までは廻船が岸壁や桟橋に横づけになるなんていうことはなかった。天下の江戸ですら品川沖に沖懸りしていたにすぎないし、最大の港湾都市大坂でも安治川や本津川内に入って碇泊していたから、荷役はすべて小型の瀬取船(別名茶船)や上荷船で行うよりほかなかった。(中略)
 これが当時の河口港の現実の姿だったのである。ただし船の出入りの多い瀬戸内の多数の港では、大きな河川も少ないため港湾の地形に応じた石組の波止を設けるという、大がかりな築港工事を行っている。これは日本の土木史上特筆すべき事業だと思うのだが、全く評価されてないのは残念である」(石井謙治「ものと人間の文化史」
それでは、雁木や灯台・灯籠などが港に現れるのはいつ頃からなのでしょうか。
①礫敷き遺構は12世紀前半、
②石積み遺構とスロープ状雁木は13~16世紀、
③階段状雁木は18世紀
雁木が現れるのは、江戸時代の後半になってからのようです。
灯台・灯標は、いつ現れるのでしょうか?
香川県仁尾宿人の木造金毘羅灯籠(寛政12年(1800)
鞆の石造金昆羅灯籠(安政六年(1859)
丸亀新堀湛市の太助灯籠(天保九年(1838)
などは、灯籠としては大き過ぎます。港内に置かれた位置からも灯台の役割を果たしたと研究者は考えているようです。
 一方、普通の石灯籠の形を取るもののは、ほとんどが金毘羅灯籠です。
波止の先端(多度津湛甫)
砂堆の先端(坂出浦)
湛市の港口(宇多津)
岬の先端(香川県与島浦城)
などには19世紀前半~中葉の年紀が刻まれています。やや先行する事例として和田浜湛甫では、寛政四年の石灯籠があります。
また高松城下では、 17~18世紀の絵画史料には東浜・西浜舟入などに灯標が描かれていませんが、19世紀前半~中葉には描かれるようになります。そして明治15年(1883)の古写真では北浜の本造灯籠と東浜舟入波止の石灯籠が写されています。
 以上から灯台・灯標の普及は、19世紀前半のようです。これは「19世紀前半の長大な波上による船溜まりの出現」と期を同じくするようです。
高松城122スキャナー版sim

ドック(船蔵)が姿を見せるのは16世紀末葉~17世紀前半の城下町建設からのようです。
「高松城下図屏風」には、藩専用の西浜舟入に多数の船蔵が描かれ、その背後の建物に材木が多数積まれています。商人たちが使用していた東浜舟入の背後でも船が作られている様子が描かれています。ドックの機能は、それ以前からもあったはずですが、特定の場所が船蔵あるいは焚場として「施設化」するのは、海に面した城下町が姿を荒らさすのと同じ時期のようです。
DSC02527
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
佐藤竜馬 前近代の港湾施設 中世港町論の射程 岩田書店
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        中世の高松は、「野原」とよばれる村でした。

HPTIMAGE高松

中世の「野原」が今と違うのは第1に香東川の流れです。今は香東川は岩瀬尾山の西を流れていますが、近世に西島ハ兵衛によって高松を洪水から守るために流路変更工事が行われるまでは、石清尾山塊を挟んで分流して、現在の高松市内には香東川の一方の流路が複数に分かれて瀬戸内海に注いでいました。二本の河川に囲まれた河口デルタの島が「八輪島」 と呼ばれた「野原」村でした。
野原にあったとされる集落を挙げてみると
①「八輪島」の北側の海に面した所に「野原なかくろ里」(野原中黒里)、
②その南西に「野原てんまの里」(野原天満里)、
③その南に「野原中ノ村」(野原中村)があり、
④川を隔てた西側の海岸部には、「野原はまの分」(野原)と「にしはま」(野原西浜)とがありました。
高松野原復元図
まずは、現在の高松城周辺にあった「野原なかくろ里」を見てみましょう。
 ここには、真言宗の古刹無量寿院があり、複数の末寺や塔頭を持っていたとされてきましたが、高松城発掘調査の歳に、この寺の刻印がある瓦が出てきました。その結果、無量寿院の存在が確認されると同時に、場所も二の丸跡付近に建っていたことが分かりました。このお寺は、中世野原のシンボル的な寺院だったようです。また、高松城跡東側からは中世の港湾施設(荷揚場)も出てきているので、「野原なかくろ」が港町でもあったことは間違いないようです。

高松市地形図 旧流域入り
 野原天満里は、 香川県庁南方の中野天満神社周辺と考えられています。
前回に続いて「一円日記」を見てみましょう。この史料は、戦国時代の永禄8年(1565)に伊勢神宮の御師・岡田大夫が、自分の縄張りである東讃岐に来訪し、各町や村の旦那たちから初穂料を集め回ったときに、返礼品として「帯・のし・扇」などの伊勢土産を配った記録です。ここには野原郷を始め、周辺の集落と、そこに居住する多くの人々・寺庵の名が書き留められています。
 例えばこの野原天満里には、その中に「さたのふ殿」「すゑのふ殿」の名前が見えます。このうち「さたのふ殿」は、初穂料として米五斗を御師に渡し、土産として帯・扇・斑斗一把・大麻祓が配られています。また、その一族「左衛門五郎殿」と「宗太郎殿」も標準以上の初穂料を出し、多くの土産を配られています。このお土産の多さは、一般の信者との「格差」を感じます。ただの信者ではなく、香西郡を本領とする有力国人香西氏(勝賀城が主城)の家臣と研究者は考えているようです。つまり、ここには香西氏の臣下団が住んでいたということになります。
DSC03863高松 旧郷東川
 野原中村は「八輪島」最大の集落で、現在の栗林町周辺にありました。
「一円日記」には「時久殿」「やす原殿」の二人の信者と、「宮ノほうせん坊」など五力坊の寺庵が記されています。「宮ノほうせん坊」=法泉坊は現在の玉泉寺の前身となる寺院であり、脇ノ坊とともに「宮ノ」を頭に付けていることから石清尾八幡宮の供僧のような存在と考えられるようです。
 他の信者を見ると、
時久・安原氏のほか、
「さいか宗左衛門殿」の雑賀氏、
「さとう五郎兵衛」ら佐藤氏一族五人、
香西氏の庶流で冠綴神社の神官の先祖「ともやす殿」、
「せうけ四郎衛門殿」ら「せうけ」氏二人、
「よしもち宗兵衛殿」ら「よしもち」氏二人、
「時里殿」、「有岡源介殿」、「なりゑた殿」、「くす川孫太夫殿」
ら姓持ちで武士と見られる者がほとんどです。このうち雑賀・佐藤氏は香西氏の城持ち家臣として「南海通記」にも登場します。その中でも雑賀宗左衛門・佐藤五郎兵衛・同左衛門尉は初穂料が多く、配られ伊勢土産も飛び抜けて多いようです。土産の量と初穂料と地位は相関関係にあるのです。ここに名前がある人たちは、おそらくは香西氏の家臣団の一角を占めていた人々で、野原中村はその居住区になっていたことがうかがえます。ここから野原中村が野原中黒里とともに「八輪島」の中核集落であったことはまず間違いないと、研究者は考えます。
野原・高松・屋島復元図
 
 また、野原中村は、その西南に香西氏の拠点勝賀城の支城室山城がありました。
そのことを考えるなら野原中村が室山城の城下集落として形成されたところかもしれません。室山の南にある「さかたのといの里」も、そうでしょう。おそらく香西氏は、この室山城とその城下に住む家臣団を通じて、河口にあるなかぐろ集落の港湾掌握を行っていたとも考えられます。中村集落が二筋の河川に囲まれて海に近いところから見て、川湊を通じて海と一体的な関係をにあった可能性があります。
 以上の二本の河川に囲まれた「八輪島」にある集落に対して、海岸部に並ぶ野原浜・野原西浜はかなり様相が違っていたようです。
 発掘調査で明らかになった浜ノ町遺跡が地区の一角にあり、13世紀末以降、町屋や複数の寺院を持つ特別の海浜集落として発展していたことが分かっています。野原浜の西の野原西浜にも、15世紀初頭には「野原西浜極楽寺」があったことが史料からも分かります。(大報恩寺蔵「北野経王堂一切経」)。
 また発掘調査によって大量の土錘が出土し、畿内産の良質の砥石や土器・瓦器・瓦質土器、吉備産の陶器・土器等が多く出土しています。ここから大規模な漁業を営む海浜集落であると同時に、「瀬戸内海を介して高松平野外と平野内陸部を結ぶ、物資の流通拠点」であり、中世港町と評価できる海浜集落であると研究者は考えています。

DSC03842兵庫入船の港

 中世の野原郷にあった集落について、まとめておきましょう
①無量寿院を核とした寺院群と商人宿・船宿を営む武装有力商人らからなる港町=野原中黒里、
②汝魚川(拙鉢谷川)河口を挟んでその西に広がる野原浜・野原西浜という二つの部分からなる港町、
③室山城の城下集落としての性格を持つ野原中村(川湊を伴っていた可能性が高い)
④それとの密接な関係が予想される野原天満里、という構成を取っていたことになる。
このように、性格の違う4つの集落が集まって出来ていたのが「幻の港町」=中世の野原集落の実態のようです。
   
DSC03601
生駒氏は高松城を、何もない海浜に築造したのか?
 かつて武蔵の江戸は一面の蘆の原であったが、徳川家康によって城下町建設が進められ、現在の東京の基礎が作られたと云われてきました。同じように、東北の仙台も伊達政宗以前は何もないところであったとされ、土佐の高知も山内一豊によって造られたとされてきたのです。そして、生駒氏以前の高松も似通ったイメージで捉えられてきました。
 しかし現在では、江戸は中世から東京湾岸屈指の都市であったことが明らかにされ、仙台も伊達氏以前の留守氏時代から東北中部の拠点の一つであったことが知られるようになり、高知にしても長宗我部氏時代に基礎が築かれたことが分かってきました。そして、高松も「野原」という讃岐有数の中世港湾の上に築かれてきたことがようやく明らかになってきたようです。
高松城江戸時代初期

参考文献  市村高男 中世讃岐の港町と瀬戸内海海運-近世都市高松を生み出した条件-
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