瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金倉寺下所遺跡

  ユネスコ登録に向けて四国霊場の調査が進んでいます。その19冊目として、金倉寺の調査報告書が図書館に並んでいたので読書メモ代わりにアップしておきます。調査報告書の一番最初の「立地と歴史」の部分を読むのは、私にとっては楽しみです。それは近年の周辺の発掘調査で分かったことが簡略、かつ的確に専門家の目で記されているからです。調査書を読んだときには気づかなかったことが、その後に出された調査報告書の「立地と歴史」で気づいたり、理解できたりすることがあります。金蔵寺周辺は、高速道路や国道11号バイパスなどで線上に大規模な発掘調査が進められ、多くの遺跡が発掘され新しい発見が続いた所です。その知見が、どのように整理されているのか楽しみです。テキストは「四国八十八ケ所霊場七十六番札所金倉寺調査報告書 第一分冊 2022年 香川県教育委員会」です。
 研究者は、まず金倉寺周辺の条里型地割に注目します。
周辺の稲木北遺跡や永井北遺跡などでは条里制溝などが確認されています。そこからはこの地域で条里制工事が始まったのは7世紀末~8世紀初頭と研究者は考えています。丸亀平野に南海道が伸びてくるのもこの時期です。この南海道を基準に条里制工事が始められ、南海道沿いに郡衙や古代寺院が姿を見せるようになります。
丸亀平野条里制5
丸亀平野の条里制 金倉川沿いには空白地帯が拡がる
ところが上図のように善通寺から金倉寺、さらに多度津にかけての金倉川の周囲には、条里地割に大きな乱れが見られます。拡大して「土地条件図」で見てみると

金倉寺周辺の土地復元
金倉寺周辺の金倉川の旧河道跡
ここからは次のような情報が読み取れます。
①東側から北側一帯にかけて、旧金倉川の氾濫原であったことを示す地割の乱れが広がっている
②金倉寺西側の土讃線沿いには、旧河道を利用した上池、中池、千代池が連なる。
③これらの池沿いに北流する旧河道の地割の乱れは幅200~300mほどと大きい。
④金倉寺の南約800m付近にある金蔵寺下所遺跡では、弥生時代や奈良時代の旧河道が検出されている。
丸亀平野の条里制3

以上から「地形復元」してみると、金倉寺は東側の金倉川と西側の旧河道に挟まれた細長く紡錘状に伸びる微高地上に立地していたことが分かります。そして中世には西側の旧河道は埋没し、近世には金倉川の固定化が図られ、周辺の氾濫原は耕地化が進んだと研究者は考えています。多度津の葛原に小早川氏に仕えていた小谷氏がやってきて入植し、開拓したのもこの西側の旧金倉川跡だったようです。そして、水田開発が終わると、小谷家は水不足備えて千代池などを築造していきます。そういう意味では、古代の金倉寺は、金倉川の氾濫原の中の遊水地と化した大湿原地の中に位置していたと云えそうです。

善通寺遺跡分布図
善通寺市遺跡分布図(高速道路やバイパス沿いに発掘調査が進んだ)
次に金倉寺の古代の歴史的環境について見ていくことにします。
金倉寺の東方面には、弥生時代には中の池遺跡、龍川五条遺跡、五条遺跡などの環濠集落がありました。
丸亀平野の環濠集落
丸亀平野の環濠集落(想像図)
なかでも龍川五条遺跡は二重に環濠をめぐらした集落で、内側に竪穴建物と掘立柱建物の居住域があり、環濠の外に周溝墓や木棺墓の墓域や水田が拡がります。五条遺跡は龍川五条遺跡の北方300mに隣接し、ここにも二条の大溝跡がありました。この遺跡は龍川五条遺跡からの集落移転で成立したと研究者は考えています。それが中期なると、なぜか環濠集落は姿を消してしまいます。そして丸亀平野の中央部を避けて善通寺周辺の丘陵裾部に小規模な集落が点在するようになります。その核となるのが旧練兵場遺跡群です。ここには前期から始まって、古墳時代初頭まで長期間に渡って安定的な集落が続きます。
旧練兵場遺跡 吉野ヶ里との比較
旧練兵場遺跡は、「オトナと子どもの病院 + 農事試験場」で45万㎡と広大です。

旧練兵場遺跡 平形銅剣文化圏2

さらに弥生時代後期前半になると平形銅剣の中心として瀬戸内沿岸地域から多くの土器が搬入されています。終末期には大陸との交易を示す青銅鏡が出てきますし、集落内で鉄製品や朱の生産も行われていたことが分かっています。
旧練兵場遺跡群周辺の弥生時代遺跡
善通寺の旧練兵場遺跡群と周辺の弥生時代の遺跡分布
まさに讃岐最大の拠点集落であり、中国史書の「分かれて百余国をなす」のひとつである「善通寺王国」とも考えられます。丸亀平野だけでなく、備讃瀬戸における人とモノの集まる拠点として大きな引力を持っていたと云えます。そしてこの王国は、古墳時代から律令時代へと安定的に継続していきます。この子孫が後に氏寺としての善通寺を建立し、空海を輩出する佐伯直氏につながる可能性が高いと研究者は考えています。
次に善通寺周辺の古墳について見ておきましょう。
青龍古墳 編年表
丸亀平野の古墳変遷図
善通寺エリアの古墳が集中するのは、五岳や大麻山周辺で、弘田川流域勢力によって築造されたもののようです。中でも大麻山の山頂直下に前期前半に築かれた野田院古墳(後円部が積石塚)から、後期の王墓山古墳や菊塚古墳、終末期の大塚池古墳など、首長墓クラスの古墳が継続的かつ安定的に築かれます。これは、讃岐の他エリアの不安定さと対照的です。善通寺エリアの首長がヤマト政権との良好な関係を維持しつづけたことがうかがえますが、その要因がどこにあったのかはよく分かりません。一方、金倉寺周辺の勢力が築いた古墳というのは、見当たりません。
古墳時代中期になると旧練兵場遺跡では竪穴建物が少数ですが現れ、後期には飛躍的に増加し、大規模な集落が営まれるようになります。
旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡群 古墳時代末期から古代へ 南海道が伸びてきて郡衙や古代寺院が姿を見せる。
中心は農事試験場跡の東部ですが、サテライトとして南東約l㎞の四国学院大学構内遺跡でも多数の竪穴建物が並ぶ集落が現れます。このような集落の成長の上に、佐伯直氏の氏寺とされる仲村廃寺跡(伝導寺跡)が居住区のすぐ南に白鳳時代には姿を見せます。しかし、この寺は条里制に沿っていません。条里制施行よりも前に建立されたことがうかがえます。
善通寺エリアでは、南海道に沿う位置に「官衛的建物」が見つかっています。
生野本町遺跡 
生野本町遺跡(旧善通寺西高校グランド) 整然と並ぶ郡衙的な建物配置
それが四国学院大学の南側の生野本町遺跡です。稲木北遺跡と同じような建物配置が見つかっています。この遺跡に近接した生野南口遺跡からは8世紀前葉~中葉の床面積が40㎡を超える庇付大型建物跡が確認されています。これも郡衙の付属建物のようです。あと高床式の倉庫が出れば郡衙に間違いないということになります。ちなみに、同時期の飯野山南の岸の上遺跡からは、高床式倉庫が何棟も出てきて、鵜足郡の郡衙と研究者は考えています。東から伸びてくる南海道沿いに郡衙や居館、氏寺を建てることが、ヤマト政権に認められる「政治的行為」であると当時に、住民への威信をしめすステイタスシンボルでもあったようです。そのために、いままでの旧練兵場遺跡から南海道沿いの四国学院方面に、その居館を移動させ、多度津郡衙を建設したとも考えられます。
 一方、金倉寺周辺はどうでしょうか? 
金倉寺の西約1 kmの稲木北遺跡からも郡衙的な建物群が見つかっています。8世紀前葉の大型掘立柱建物跡8棟と、それらを区画、囲続する柵列跡です。

稲木北遺跡 復元想像図2
稲木北遺跡 郡衙的な建物配置が見られる
真ん中に広場的空間を中心に品字形の建物配置がとられています。加えて大型建物を中心に対称的に建物が配置され、しかも柱筋や棟通りなどがきちんと一致しています。研究者はこれを「官衛的建物配置」と考えています。
稲木北遺跡 多度郡条里制
多度郡の2つの郡衙的建物 
A 稲木北遺跡(金蔵寺エリア)B 生野本町遺跡(善通寺エリア)

稲木北遺跡2

金蔵寺の南の下所遺跡では7世紀末~8世紀初頭、 8世紀前葉~中葉の掘立柱建物群が出てきています。
その配列は 8棟前後の建物が緩やかに直列、並列、直交する建物配置をとります。その上に、この遺跡の特徴は、金倉川の河道跡から人形、馬形、船形、刀形、斎串などの木製祭祀具が多量に出土したことです。
金倉寺下所遺跡 木製品
金倉寺下所遺跡 木製品2

金倉寺下所遺跡出土の木製祭祀具(金蔵寺下所遺跡調査報告書より)
ここからは、公的な河川祭祀がこの場所で執り行われことが分かります。今見てきた稲木北遺跡、稲木遺跡、金蔵寺下所遺跡は、約1㎞四方の範囲に収まります。そうすると多度郡衛や公的な河川祭祀を執り行う官衛や地元豪族の地域支配の拠点となる郷家といった公的性格を持つ官衛が集中するエリアだったことになります。これも郡衙など官衛的施設の一部でしょう。こうしてみると、奈良時代には、官衛的な施設が善通寺と金蔵寺の2つのエリアにあったことになります。そして、金蔵寺エリアに金倉寺は現れます。
金倉寺の創建について見ておきましょう。
『日本三大実録』には、多度郡人因支首純雄らが貞観8年(866)に改姓要求を願い出て、和気公が下賜姓されたとあります。「鶏足山金倉寺縁起」には、仁寿元年(851)に円珍の父和気宅成が、その父が建立した自在王堂を官寺とすることを奏上しています。ここからは金倉寺の創建に、和気公が深く関与したことがうかがえます。また現地名の「稲木(いなぎ)」は、「因岐(いなぎ)首」の改称のようで、和気公(因岐首氏)が金倉寺周辺にいたことが裏付けられます。このことを強調して従来は、善通寺の佐伯直氏と金倉寺の因岐首氏(和気公氏)の本拠地という視点で説明されてきました。しかし、多度津郡司(大領)である佐伯直氏と、官位を持たない地元の中小豪族の因岐首氏では階級差も、勢力も大きく違っていたと研究者は指摘します。
1空海系図2
空海の弟や甥たち(佐伯直氏)は、地方豪族としては非常に高い官位を持つ。
円珍系図 那珂郡
円珍の因支首氏の那珂郡の系図 円珍の因支首氏には官位を持つ者はいない。
古墳時代の首長クラスの古墳分布を見ると、善通寺と金倉寺では大差があったことは見てきた通りです。金倉寺周辺では、首長墓らしきものは見つかっていません。
 両者の氏寺とされる善通寺と金倉寺を見ていくことにします。
 佐伯直氏が最初に建立したとされる仲村廃寺からは、原型に近い川原寺系軒丸瓦が出土します。その後に建立した善通寺は、方二町で白鳳期から平安期にかけての時代を超えた多彩な軒瓦が出土しています。ここからは佐伯氏が中央との良好な関係を保ちつつ、白鳳期に氏寺を創建し、それを奈良時代、平安時代にかけて継続的に維持していたことがうかがえます。それに比べて、古代の金倉寺のことはよく分かりません。採集されている瓦片は、次のとおりです。
A 奈良時代まで遡る可能性がある八葉複弁蓮華文軒丸瓦
B 平安時代前期に属する軒平瓦
C 平安時代後期から鎌倉時代に属する軒平瓦。
ここからは、金倉寺が奈良時代まで遡り、寺域の大きな移動はなかったことはうかがえます。しかし、問題なのは、奈良時代の瓦の出土量は極めて少なく、平安時代になって出土量が増加することです。ここからは奈良時代には、お堂程度の小規模な施設が設けられ、平安時代になって寺院整備がすすんだことがうかがえます。なお、軒平瓦には仲村廃寺や善通寺との同氾関係のものがあるので、佐伯直氏の援助を受けながら、因支首氏が金倉寺を建立したということは考えられます。ここでは、奈良時代に因支首氏の氏寺として建立された時の金倉寺は、善通寺に比べると遙かに規模が小さかったこと、それは当時の佐伯直氏と因支首氏の力関係によることを押さえておきます。
以上を整理して起きます。
①金倉寺周辺は、金倉川の旧河道が幾筋にもわかれて北流し、広い氾濫原で遊水地化した湿原地帯が拡がっていた。
②律令時代になると東から南海道が伸びてきて、それに直行する形で条里制工事が始まる。
③金倉寺周辺は、金倉川の氾濫原であったために対象外となり、空白地帯となっている。
④しかし、金倉寺周辺の氾濫原の微高地には、郡衙・官衛・豪族居館らしき建築物が集中する
⑤一方、善通寺エリアにも、郡衙や古代寺院が佐伯直氏によって建設される。
⑥そういう意味では、善通寺と金倉寺エリアは多度郡のふたつの政治的な中心地だったとも云える。
⑦しかし、古代寺院の規模などからすると、善通寺の佐伯直氏と金倉寺の因支首氏の間には、政治的・財政的に大きな開きがあったことが見えてくる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国八十八ケ所霊場七十六番札所金倉寺調査報告書 第一分冊 2022年 香川県教育委員会
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丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制地割
丸亀平野は古代の鵜足郡、那珂郡、多度郡にあたり、整然とした一辺約110mの方格地割がみられます。しかし、よく見ると土器川や金倉川沿いなどには乱れがあります。それでも、全体としてみると統一性のある方格地割になっているようです。この地割は、古代の条里制との関わりで説明されています。律令体制の「班田収受制」を行うための整備という位置づけです。しかし、条里制の格地割形成については、次のような説や見解が出されています。
①班田制と方形地割形成を別個に考えて、両者が備わった段階を「条里プランの成立」とする金田章裕氏の説
②発掘調査からみて灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできないという説
③当初の方格地割と現在の地割にはずれがあり、段階的に成立したとする説

丸亀平野の広がる「条里型地割」の施工がどこまで遡り、 またどのような変遷をたどるのかを考古学的に見ておきましょう。テキストは「森下英治 丸亀平野条里型地割の考古学的検討  埋蔵文化財調査センター研究紀要V 1997年」です。
丸亀平野 旧練兵場遺跡
       善通寺王国の旧練兵場遺跡の復元図

丸亀平野では、1983(昭和58)から高速道路の発掘調査が大規模に行われました。広範囲な発掘調査が行われたことで、土地条件・地質環境に情報も格段に増え次のような事が分かってきました。
①丸亀平野の形成時期は、3万年以前の更新世に遡ること
②完新世以後は高燥化が進んで、河川岸に段丘崖を形成し、平野面は剥削環境にあったこと
③そのため旧河道などの低地帯を除くと、用水路以外の地割痕跡は考古学上の遺構としては把握することはできない
これは、地割を考古学的に追究する上でのデメリットですが、あえて発掘調査で出てきた「溝」に研究者はこだわります。土器川西岸に接する川西北鍛冶屋遺跡を一番東側として、西は旧多度郡の乾遺跡まで、高速道路建設での発掘調査の行われたで延長約6kmの東西に長い15遺跡のデータを並べたのが第2表です。
丸亀平野の条里制3
高速道路建設ルート上の丸亀平野の各遺跡

すべての遺跡の調査範囲の中には合計57箇所の坪界線が机上では想定されます。それが、発掘では溝として、どのように出現しているのかを見ていきます。
第2図からは、Ⅰ期(7世紀以前)にかなり広範囲に溝の分布があったことが分かります。各遺跡毎に見ると、次のようになります。
①Ⅰ期の溝が少ないのが、川西地区、龍川地区、永井・中村地区
②Ⅰ期の溝が多いのが、郡家地区、金蔵寺地区、稲木地区
ここからは、①が条里制施行が遅れたエリア、②が先行したエリアであったことがうかがえます。②は郡衙や準郡衙的な遺構があった所で、前時代からの首長の拠点と目されるエリアです。条里制地割溝には、早く施工された地域と遅れて施工された地域に偏りがあるようです。押さえておきたいことは、丸亀平野全体が一斉に、条里制工事が行われたわけではないことです。中世になって開かれた所もありますし、土器川や金倉川に至っては近代になって開墾された所もあるの以前にお話ししました。それでは、地図の東側から順番に各エリアを見ていくことにします。各遺跡図はクリックで拡大します。

丸亀 川西遺跡
a.川西北鍛冶屋遺跡(13).川西北七条Ⅱ遺跡(14)(第3図)

土器川西岸にある上図2つの遺跡群では、はっきりとした地割が見えます。弥生時代前期以降の小規模な南北方向の溝が多くあり、6世紀後半から7世紀末まで使用された出水状遺構(SX-01)があります。出水状遺構は、伏流水を灌漑用に利用するために微高地上に掘られた土坑(井戸?)で、いくつもの用水路で水田に導かれています、
 調査区内には5本の縦方向坪界と、1本の横方向坪界が見えます。
縦方向は東SR01・SD11・ SD13と2町間隔で、比較的大型の灌漑水路が想定坪界線に沿って見えます。これらは10~11世紀頃に掘られたものです。その前段階の8~9世紀と考えられる溝が、SD-12やSD-10などの斜め方向に伸びる溝です。そして、各所で南北に派生する溝が付属しています。
 これらの溝は条里型地割の方向性に一致していて、田地区画は地割に沿った方向であったことがうかがえます。したがって、平安期に坪界溝が掘削される以前にすでに、出水状遺構(SX01)を水源とする地割施工があったと研究者は考えています。
出水状遺構(SX-01)から伸びる各溝が、あるときに南北方向から地割にそった方向へ変化していることに研究者は注目します。
 出水状遺構(SX-01)が埋没するのは7世紀末~8世紀初頭頃です。ちょうど南海道が伸びてきて、丸亀平野に条里制が施行される時期になります。SD70が現状地割を基準として、半町の位置にある点、また斜めに走行するSD40・41が南北半町の位置で坪界線に合致する点からみて条里型地割のようです。ここからは、7世紀末~8世紀初頭までには地割が行われた後も、引き続き出水状遺構(SX01)を水源とする灌漑水路を維持されたことがうかがえます。それが平安期になって、大型の灌漑水路が坪界に整備されることで、その使命を終えて埋められたと研究者は考えています。

b.郡家原遺跡(19)(第4図)

丸亀平野 宝幢寺池水系
郡家周辺の旧河川跡(清水川)

郡家原遺跡は、大規模な旧河道域(清水川)の周辺に広がる遺跡です。
旧河道を遡ると宮池・大池を経て旧河道を利用して築堤された宝幢寺池があります。この池の中には白鳳期の宝瞳寺跡があることは、以前にお話ししました。南海道も、この池のすぐ南を通過しているので、郡家という地名から、この旧河川の岸のどこかに、那珂郡の郡衙があったと研究者は考えています。
丸亀 郡家原遺跡
郡家原遺跡

 郡家原遺跡は、5坪分(A~E坪)にまたがって調査区が設定されています。弥生時代後期後半に集落が営まれ、地形に従って溝が緩やかにカーブしながら伸び、古墳時代の溝も微髙地を反映した方向をもっていたようです。
坪界にあたる溝は、縦軸がSD-140・148、SD-191・189で、横軸がSD-231になります。
溝出土の遺物は7世紀末~8世紀初頭以降のもので、これが掘削時期を示しています。このうちSD-140・148は、中世以後も使用された堆積状況を示します。その他の溝は10世紀前半頃までに一旦は埋没し、その後13世紀頃に再掘削されたり、隣接地へ水路変更されています。中世になって、新たな用水路が整備されたようです。
 8世紀の奈良時代の集落がA・C・D坪にあります。
 同じ規模の建物・倉庫など等質的な3グループだったようです。出水状遺構はA坪とC坪にあります。出水状遺構が集落にあるので、井戸として使われていた可能性がありますが、この場合は坪界の水路より出水状遺構の溝の方が深く掘られているので、坪界にある基幹的水路をリレー的に結ぶ灌漑用の水源として使われていたと研究者は考えているようです。
 研究者が注目するのは、出水状遺構から伸びる用水路です。
一坪を縦に5分割した場合の東から2本目のラインと一致します。特にSD77は、南北半町の位置まで斜めに走行し、そこから屈曲してラインに合わせています。C坪では出水状遺構は見られませんが、SD175がSD77と同じ位置で北流しています。このようにみてくると、各グループの建物の配置も、東西3区画と南北半町の範囲に限定されて計画的な村落景観が地割整備と共に現れたことが分かります。

郡家原遺跡の出水状遺構は、北方に広がる水田用のものとされます。
土地条件に応じて小規模水源を組み合わせ、微高地の水田に導水していたようです。用水路は遠くまで延ばす際には、深い水路と浅い水路を立体交差させる必要が生じてきます。そのためには、高松市太田下須川遺跡、同市浴・松ノ木遺跡で出土した長さ3mほどの木管が水路を立体交差させる場合に必要となります。 
 条里制施工後の状況については、A坪の出水状遺構は平安期まで続い利用されています。ただしSD77は、9世紀代遺構には埋没して、SD73に付け替えられています。SD77等に見られたきちんとして坪内区画は、9世紀以降には見えなくなります。また、この時期になると建物配置にも、方向性やその内容に規格性がなくなります。それでも、坪界の地割溝は残ります。坪内の区画は乱れても、坪界を中心とする条里型地割には影響を与えていないようです。ここに全体として、丸亀平野の条里制的な景観が残った秘密がありそうです。
丸亀平野遺跡分布図4
丸亀平野遺跡分布図 西部版

金倉寺下所遺跡(第5図) 
金倉川西岸は、条里型地割が広範に乱れた地域になっています。
善通寺 金倉下所
金倉川下所遺跡周辺の旧河道

金蔵寺下所遺跡は、遺跡の西側に蛇行する小さな旧河道と金倉川の間の狭い微高地上に立地します。
西側の旧河道は最大幅6、5mの自然河川です。遺構の北側には、微高地上を穿って流れていて、南側の自然河川から水を引くための用水路であった可能性が高いと研究者は考えています。同じ位置に古墳時代の溝もありますが、弥生時代のものより溝底が高いことから、自然河川の堆積による水位の上昇に対応して掘り直されたようです。小規模河川の蛇行部から取水し、微高地上に用水路を掘開して下流の水田に導水するというやり方です。どちらにしても、この遺跡が弥生から古墳・律令期と長い期間にわたって存続していたことが分かります。
善通寺 金倉下所
           金倉川下所遺跡

 この微髙地には、次の3つの建物群があります。
①7世紀末~8世紀初頭の溝(SD04)を挟んで東西両側に正方位をもつグループ。建物は合計9棟で、その内総柱倉庫が溝の東に2棟ある。
②同時期の遺物が出土する溝(SD-06)の両側に、現状地割と同一の方向性をもつグループ。合計8棟で、総柱倉庫は、やや大きさが小さくなり、溝の東に1棟。
建物方位によって区分できる①②群は、建物の規模や構成点で共通性があり、前後関係は柱穴の切り合いからみて、①から②へ変化したと考えられます。建て直された時期は、7世紀末~8世紀初頭で、従来の建物構成を維持したまま条里型地割の方向性に沿って建て直されたと報告書は記しています。これも、時期的に見て条里制施行に伴う集落の再編成事業の一環のようです。

  SD06の東には、建物を区画するような5~7条の溝が並行して掘削されています。
 ここからは9世紀までの遺物が出土しているので、建物群も9世紀頃までは存続したことが推測できます。建物群の東端には最大幅10mの溝がありますが、ここには鎌倉時代前半期頃までの遺物が包まれています。そのため次の時期の小規模柱穴で作られた建物群と研究者は考えています。これが三つ目の建物群になります。
 
以上から、7世紀末~8世紀初頭の集落の再編成時において、建物や溝は条里制地割の方向性に沿って建て直された。しかし、中世になると、人々の意識の中には、地割の意識はなくなり建物はバラバラの方向に建つようになった。それでも溝は、地割ラインが残ったと云えそうです。


d 稲木遺跡(第6・7図)    
善通寺 稻木遺跡
稲木遺跡
稻木遺跡は、遺跡の中央を斜めに旧河道が横切っていました。
これが6世紀末までに埋没して水田域となります。また東肩部の微髙地では竪穴住居群が廃絶した後に一帯が水田化しています。西岸は比較的高燥な微高地で弥生時代には、方形周溝墓や竪穴住居が営まれています。微髙地の南では、7世紀後半から8世紀前半の掘立柱建物群が出ています。 
善通寺 稻木遺跡3
稲木遺跡(東側)

 この遺跡でも7世紀末頃に、それまでの建物構成を維持ながら村落の再編が行われたようです。これも条里制施行に伴う再編事業の一環のようです。建物の一部には、区画溝があるのも金蔵寺下所遺跡と似ています。また、建物区画溝が坪界に一致しない点も共通します。灌漑水路をみると、周辺縦軸の水路については10m内外の誤差が認められますが、おおむね坪界と一致します。横軸については、溝はないようです。
善通寺 永井遺跡
永井遺跡                   
 永井遺跡は、縄文時代後晩期の自然河川が埋没して作られた微高地上に立地します。
弥生時代以降、遺跡中央の浅い凹地をカーブを描きながら走行する多数の溝があります。凹地にあった水田の導排水のための灌漑水路と考えられます。これらは7世紀前半頃に埋没しています。その後の水路は、遺跡東端の水路に移っていきます。遺跡の東側とされる段丘肩部を等高線に沿って2~3条の溝が走行します。埋土の中には8世紀後半から平安期の遺物が含まれています。この溝は段丘下にあった自然河川から取水し、微高地上に新たに拓かれた水田に導水する用水路と研究者は考えています。先の浅谷部も埋没して平坦化され、遺跡の東側一帯が耕地化したようです。
 ここで研究者は注目するのは、遺跡東端の溝群が坪界の交点で屈曲して、坪界線に沿って北流することです。同じような川西北鍛冶屋遺跡でもありましたが、地形・水利上の制約を受けながらも、可能な所は坪界に合致させています。溝の掘削段階には、すでに地割の企画があって、それに基づいて田地形状や溝の位置が決められたことがうかがえます。
遺跡中央部のSD42は、8世紀中頃以前に掘削された坪界の溝(SD45)が埋没した後に、逆に等高線に沿ってカーブをを描きながら伸びていきます。これは地形・水利上の問題が当初設計よりも深刻であったので、新しく削し直したと研究者は考えています。

遺跡西側には鎌倉~室町時代の区画溝をもつ宅地が広がっています
横軸は坪界線|こ、坪界線と一致する溝が2町以上にわたって続いています。しかし、縦軸は宅地区画溝とは、合致しません。平安期の溝が埋没した後に、周辺の田地形状がどのように編成されたかを示す材料乏しいのですが、縦方向にも多少ずれた地割があった可能性は残ります。

こうして研究者は、現在の条里型地割に一致する溝を拾い出して、宅地や潅漑水路の変遷を見ることによって、現在の地割の位置づけを行いました。その上で、改めて条里型地割の変遷を見ていきます。
 条里制地割が行われ時期が分かるものとして、研究者が挙げるのは次の資料です。
①川西北鍛冶屋遺跡の出水状遺構
②郡家原遺跡の地割に沿った溝と、それに先行する建物
③金蔵寺下所遺跡や稲木遺跡の宅地の再編成時期
  これら遺構は、7世紀末~8世紀初頭に施工された条里制遺構である可能性が最も高いと指摘します。
宅地から見ていきましょう。
 稲木遺跡、金蔵寺下所遺跡では、集落がそれまでと同じ構成・規模のままで、新しい条里制地割にあわせて再編成されています。郡家原遺跡では縦横軸ともきちんと坪界に一致して、3つの坪にきわめて整然とした宅地が配置されていました。坪内も半折型を基調とした区画を示す材料が揃っているので、計画的村落と云えそうです。それまでの建物群が「小規模散在的」なので、集落単位の再編成というよりも、「新計画集落」の建設と捉えた方がよさそうです。7世紀末~8世紀初頭頃に、条里制とともに集落の再編成も併せて行われたようです。この際に、1つの集落単位の再編成にとどまる遺跡は、地割との整合性にやや欠ける部分があります。それに対して、複数の集落を越える規模で再編成されたと考えられる郡家原遺跡には、厳密な計画性と整合性が見られます。

灌漑水路の整合を見ておきましょう。
どの遺跡でも、この時期に灌漑技術が飛躍的に発展したことを示すものはありません。小河川や出水状遺構などの小規模水源を利用した弥生期以来の潅漑技術を応用したものです。「灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできない」という説を改めて確認するものです。ここからは、古代の満濃池について、もう一度見直す必要がありそうです。大きな池が造られても灌漑用水路網を整備・管理する能力は古代にはなかったことを考古学的な資料は突き付けています。「奈良時代に作られ、空海が修復したという満濃池が丸亀平野全体を潤した」というのは「古代の溝」を見る限りは、現実とかけ離れた話になるようです。

 出水遺構については、川西北鍛冶屋遺跡で1基、郡家原遺跡で2基ありました。
どちらもそこから水路が伸びているので、灌漑に使用されたことは疑いありません。川西では6世紀後半以前に掘削された水路で、弥生期の溝と同一の方向から、8世紀初頭に地割に方向を合わせた水路へと掘り直され、その後は埋没しています。郡家原遺跡では、宅地割りの一角にあり、南北半町の地点まで斜めに導水した後、現在の地割方向に曲げられています。これらは坪界に合致するものではありませんが、すぐ横に坪界に位置するやや浅い水路が伸びています。坪界水路が田地へ用水を供給するポイントでは、再び屈曲させて坪界に一致して走行した可能性が高いと研究者は考えています。

地割の整合について郡家原遺跡と稲木・金蔵寺下所遺跡で違いがありました。
この差がどこから来るのかを研究者は次のように考えます。
郡家地区は、宝帷寺周辺にあったとされる那珂郡衙と同一の小河川(清水川)水系に位置します。善通寺地区においても、仲村廃寺や善通寺跡などの古代寺院が集中するエリアにある生野本町遺跡では、7世紀末~8世紀初頭の条里型地割の中に、規格的な建物群が建っていたことは以前にお話ししました。このように、郡衛周辺エリアでは、規格性の高い地割施行が行われたようです。

条里制地割施行後の変遷には、次の2点がポイントになると指摘します。
①平安末頃に大規模な灌漑水路が掘開される段階
②近世になって「皿池」が出現する段階

まず①について、平安末頃以降になると各所で大規模な溝が掘開されるようになります。
川西地区、郡家地区、龍川地区では地割に沿った位置に、大きな溝が見られます。大規模な溝が掘られるようになった背景には、それまでの小規模水源からの灌漑技術の革新がうかがえます。この時期の水路は坪界に位置しないものも多く、郡家原遺跡など前代の坪界の水路から横方向にずれて設置されたものもあります。この理由を研究者は次のように考えています。
 たとえば小河川の付替工事の場合を考えると、より広い潅漑エリアに配水するためには、それまでは、小規模な溝を小刻みに繋いでいく方法が取られていました。それが大規模用水路を作る場合には、横方向の微妙な位置調整が必要となります。田地割がすでに完成している地域では、それまでの地割との大きなずれは避け、地割に沿って横方向に導水する水路が必要が出てきます。これが平安期以後に横軸の溝が多く作られるようになった理由と研究者は考えています。

 地形的条件だけでなく、地割に関する規制が薄れたことも考えられます。
金倉寺下所、永井の各遺跡では、平安期以降になると宅地配置に地割と整合しないものが出てきます。軸のズレだけでなく、方向の異なる掘立柱建物も各所で現れます。これは、郡家原遺跡の出水を源とする水路が、平安前半段階になると、区画を無視して掘り直しされている時点からすでに現れています。この時点では、律令国家の土地政策の変容が始まっていたことがうかがえます。それが受領国司の登場であり、郡衙廃止という動きであることも以前にお話ししました。
受領国司

江戸時代になって新たに採掘された水路はほとんどありません。
その理由は、条里制施工時に作られた灌漑用水路が、姿を変えながら現在の幹線水路となり維持管理されているからと研究者は考えています。ということは、現在の灌漑用水路網は、条里制施工時にほぼ形成されていたことになります。
 近世になって造られた満濃池を頂点とする丸亀平野の灌漑網も基本的には、それまでの地割を引き継ぐ水路設定がされています。そのため古代以来未開発であった条里制の空白地帯や地割の乱れも、従来の条里制の方向性に従った地割になったようです。つまり従来の地割に付け加えられるような形で整備されたことになります。これが、現在も条里制遺構がよく残る丸亀平野の秘密のようです。しかし、繰り返しますが、この景観は長い時間を経てつくられたもので、7世紀末の条里制施工時に全てが出来上がったものではないのです。

 7世紀末~8世紀初頭段階で横軸の設定が厳密でなかった稻木遺跡や金蔵寺下所遺跡周辺では、今でも地割の乱れが見られます。
これが現在でも「乱れ」として分かるということは、条里制施行当時に統一的な地割規格があったことを示すと同時に、「乱れ」の形成要因が古代の施工時まで遡るものであったことを示すと研究者は指摘します。
以上をまとめておきます。
①丸亀平野の条里制地割の施工開始時期は、7世紀末~8世紀初頭
②この工事は、それまでの潅漑技術を応用する形で地形条件を克服し、宅地地割と水田地割を同時に行うものであった。
③そこには灌漑技術の革新があった痕跡はない。
④そのため施工されなずに放置された「空白地帯」も多くあった。
⑤条里制施行エリアは、現在の条里型地割とほとんど一致する。
⑥郡の範囲を超えて、一元的企画が地割施工開始以前にあった
⑦その意味では、条里制規格プランが7世紀後半まで遡る可能性がある。
⑧地割の基準や工法については、坪界縦軸の整合が高い

②については、一つの集落を単位とした宅地・水田の再編成と、ある一定の地域を広範に、規格化・再編成する2つのねらいがあったようです。この背景には、施行を行った政治勢力の本質的な差が現れていると研究者は指摘します。それは中央政府と首長層から転進した郡長ということになるのでしょうか。地域の「律令化」を考える上で、重要な視点になりそうです。
 ⑧の坪界縦軸について、歴史地理学は南海道のルートが先ず決められ、直線的に額坂と大日越を結び、それに直角に郡境が引かれ、それが縦軸になったとします。これが考古学的に発掘された各遺跡の溝の方向からも実証された結果となります。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 
  「森下英治 丸亀平野条里型地割の考古学的検討  埋蔵文化財調査センター研究紀要V 1997年」
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