瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金倉川

 江戸時代初期のまんのう町には、吉野・四条から現在の象郷小学校に向けて四条川という川が流れていたようです。「全讃史」には、四条川のことが次のように記されています。

「四条川は那珂郡にあり、源を小沼峰に発し、帆山・岸上・四条を経て、元吉山及び与北山を巡り、西北流して上金倉に至り東折し、横に金倉川を絶ちて土器川と会す。」

  また丸亀市史も次のように記します。
「照井川と合流した四条川は、現在の吉井橋に至り
①水戸大横井より北流を続け吉野下、林、川滝、鱈池を過ぎ、さらに、
旧満濃町役場前から四条・天皇を経て上田井の高篠大分岐に至り、ここから支流は田井に東流し、田井からは郡界に沿って北流し土器町聖池に至る。一方、本流はここから左に向きを変えて西高篠と苗田の境界に沿って西北流し、
象郷小学校から上櫛梨の④木の井橋の南へと流れる」
四条川2
旧四条川の流路
金倉川 国土地理院
高篠付近の金倉川と旧四条川
近世初期にあった四条川が消えたのは、なぜでしょう?
 江戸時代初め満濃池再築に向けて動き始めた西島八兵衛の課題のひとつが丸亀平野の隅々まで水を供給するための用水路の整備でした。池が出来ても用水路がなければ水田に水は来ません。しかし、問題がありました。それが四条川の存在です。この複雑な流路や支流があったのでは、満濃池からの水を送るための水路を張り巡らせることは困難です。
 そこで、西島八兵衛が行ったのが四条川のルート変更です。
満濃池水戸(みと)

流れを変えるポイントは吉野の吉井橋の少し上流の水戸大横井でした。ここで北上してきた流れを、西に流し現在の金倉川の流れを「放水路」に変えます。そして、この地点で水量調整を行い四条川を、直線化して用水路へ「変身」させます。新たに西に流されるようになった川は、買田川と合流させ琴平・神事場の石淵にぶつけて真っ直ぐに北上させます。この川が金倉川と呼ばれるようになります。

金倉川旧流路 吉野 
吉野周辺 四条川と金倉川の旧流路跡(国土地理院 土地利用図)

金倉川旧流路 神野
琴平町五条周辺の旧金倉川流路跡

そのため金倉川は、次のような人工河川の特徴を持つと言われています。
①吉野橋の上流と下流では川底の深さがちがう。新たに河道となった下流は浅い。
②琴平より北は河床が高く天井川で、東西からほとんど支流が流れ込まない。
③金倉川沿いの各所で村が東西に分断されている。後から作られた金倉川が地域を別けた。自然河川なら、境界となることが多い。
④河口の州が、万象園付近だけで極端に小さく、川の歴史の浅いことを示している。
金倉川旧流路 与北町付近
善通寺市木徳町付近の金倉川と旧四条川
 以上が丸亀市史の「金倉川=人工河川」説の「根拠」です。
西島八兵衛は、満濃池再築前に事前工事として四条川の流れを換えて、金倉川に付け替え・改修を行った」というのです。しかし、これを裏付ける史料はありません。満濃池再築と共に四条川は水路に変身し、新しく金倉川が生まれたというのはあくまで仮説です。しかし、私にとっては魅力的な説です。

中又北遺跡 多度郡条里制と旧金倉川
金倉川の時代ごとの流域路
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 四条川と金倉川 新編丸亀市史

concat

図書館で「新田橋本遺跡2 エデイオン店舗建設に伴う発掘調査報告書 2015年」という報告書を見つけました。この報告書を見たときに、「新田橋」っていったいどこ?という印象でした。
家電量販店のエデイオンの建設工事にともなう発掘調査だったようです。
丸亀の海岸線 旧流域図3
新田橋本遺跡周辺旧流域想定図
報告書のページをめくると出てきたのが上の図です。「新田橋本遺跡周辺旧流域想定図(S=1/20,000)」と題されています。私が探していた丸亀平野北部の流域復元図がありました。高速道路や11号バイパスの発掘で明らかになった流路をつなぎ合わせていくと、こんな流路復元図が描けるようです。かつて丸亀平野を流れていた河川の流路が黒く示されています。地図の西側を金倉川が流れています。その姿は現在の姿とは、かなり違います。堤防が整備される以前の金倉川は暴れ川で、一条の流れではなく幾筋もの流れとなって、網の目のような姿で瀬戸内海に下っていたことは以前にお話ししました。
丸亀平野 旧練兵場遺跡
善通寺王国の旧練兵場遺跡の復元図
その痕跡がこの復元図からはうかがえます。この図からは見えませんが金倉付近から平池・先代池へと分流する流れもあったと言われます。その流路跡に、平池や先代池は近世になって作られたようです。
 以前に丸亀平野を流れていた四条川のお話をしました。
『全讃史』には、四条川と金倉川が次のように記されています。
四条川、那珂郡に在り、源を小沼峰に発し、帆山・岸上・四条を経て、元吉山及び与北山を巡り、西北流して、上金倉に至り東折し、横に金倉川を絶ちて土器川と会す
金倉川、源を満濃池に発し、西北流して五条に至り、横に四条川を絶ち、金毘羅山下を過ぎ北流して、西山・櫛無・金蔵寺を経て、四条川を貫ぎ下金倉に至り海に入る」
ここからは四条川と金倉川は蛇が絡み合うかのように丸亀平野を流れ下っていたことがうかがえます。四条川は櫛梨山と摺臼山の間を、金倉川とともに下り、そして上金倉で流れを東に変えて、土器川と合流していたというのです。最初、これを読んだときにはそのルートを頭の中に思い浮かべることが出来ませんでした。しかし、発掘調査報告書に載せられたいくつもの復元流路図を見ていく中でなんとかイメージを描けるようになりました。
平池南遺跡 5m等高線地図

しかし、丸亀平野北部の河口部がどうなっていたのかは分かりませんでした。今回、この復元図が初めてです。
丸亀平野の扇状地

 もう一度、復元図を見て分かることをまとめておきましょう。
丸亀の海岸線 旧流域図3

①近代以前の金倉川は一条の流れとはなっていないことです。堤防もない時代は、台風などの洪水の時には丸亀平野を網の目のようになって海に流れ下っていました。その中の微髙地に人々は集落を構えていたとされます。これは、近世になるまでかわらないようです。
②新田橋本遺跡の西側には、かつての金倉川支流の西汐入川・竜川の旧流路や低地帯が広がり、瀬戸内海に注ぎ込む直前のエリアになるようです。
③遺跡の西側には天満池の低地が、また、東にも地形が緩やかに下っていきます。つまりこの遺跡は東西の低地に挟まれた微高地上にあったことがわかります。
④この遺跡から北には、集落遺跡は見つかっていません。そういう意味では、この「遺跡は丸亀平野の北限の集落遺構」となるようです。
⑤津森天神社あたりが河口で、那珂郡の湊があったとする人もいますが、確かに津森は河口にあたるようです。

  
調査書が記す丸亀平野の「遺跡概観説明」を見ておきましょう。
報告書の概況説明というのは、研究者には当たり前のことがさりげなく書かれていますが、素人の私にとっては始めて知ることも多くて、見逃せない部分です。私にとって気になるところを拾い読みしていきます。
まず弥生時代の集落遺跡ついては、次のように記されています。
弥生時代前期では、新田橋本遺跡の西に隣接する道下遺跡とその南部に続く中の池遺跡、平池西遺跡、平池南遺跡、平池東遺跡でまとまった前期後半の集落跡が確認されている。特に中の池遺跡は、屈指の規模を誇ることに併せて多重環濠を有することで注目されている
弥生時代中期には、飯野山中腹や南部の山間部など高地性集落へと移行しており、平野部全域で遺跡密度が極端に薄くなる。唯一旧練兵場遺跡で集落が造営される。

弥生時代後期になると、前期集落の分布区域に対応するように、集落が再生されているが、若千生活区域の変動が見られ、金倉川に程近い中の池遺跡では直近地における集落の再生は見られない。生活区域の変動によつて、平野北部では新田橋本遺跡、平野中央部で郡家原遺跡、三条番ノ原遺跡などで新たに集落が営まれるようになる。

ここからわかることは丸亀平野には、環濠をもつ集落がいくつも現れるのですが、それが続かないことです。前期の遺跡は中期になると姿を消していきます。その中で善通寺王国の王都である旧練兵場遺跡だけが継続して発展していきます。これをどう考えていいのか、気候的な変動があったでしょうか? 今の私には分かりません。
 それが弥生後期になると「復興」したり、「新興」の集落が登場してきます。そして、古墳時代には弥生後期の集落を継承する形で存続します。それが古墳時代後期になると、より内陸部に移動した集落が増えていると研究者は考えているようです。
 金蔵寺条里地図

 古代に入ると白村江の戦い(663年)後には、唐や新羅による侵攻に備えて、古代山城である城山が作られます。ここには、渡来人の技術力があったことがうかがえます。また、宝幢寺や田村廃寺などの古代寺院も地元の豪族達によって建設され始めます。彼らは同時に中央政府の進める条里制工事を積極的に担います。こうしての丸亀平野の大部分に条里制の地割が引かれます。大規模土地改良が行われた所は、大きく姿を変えていきます。この条里制による地割りは、現在においても一町(109.09m)四方に区画された方形の地割が残っていて、グーグル地図で見ると碁盤の目状の条里地割がよく分かります。しかし、これは一気に行われたのではなく、その多くのエリアは放置されたままだったことが発掘調査からは分かってきています。照葉樹林帯の森の中にぽつんと開かれた農耕エリアがあったとイメージした方がよさそうです。丸亀平野の開墾・開拓は近代まで続きます。その成果が、現在の姿です。
平池南遺跡調査報告書 周辺地形図

新田橋本遺跡の時代ごとの様子を見てみましょう
【弥生時代】            
弥生時代後期頃から、この地域では灌漑用水路の整備が始まります。東西両側が低地に挟まれた微高地にあたるために、集落が形成されるには適していますが、農業を行うためには農業用水に不足するエリアです。そのため上流域から大型の水路を整備しています。弥生時代に開削されたと考えられる大型の溝は3条見つかっています。これらの溝は、古代まで継続的に利用されていたようです。3本の用水路の中でもSD02は、他の溝と比べても合流等が多く、水量も多かったようで、特に重要なものだったと研究者は考えているようです。
 この時代の土器等は出てきたので集落機能はもっていたようですが、建物遺構は出てこなかったようで、詳しいことは分からないようです。
【古墳時代】
弥生時代に整備された大型の灌漑用水路が、古墳時代になっても使われています。しかし、中には埋没し、機能を終えた用水路もあったようです。溝は少し小規模化したようですが、その背景は分かりません。しかし、弥生以来の溝のほとんどは、条里制施行でほとんどが廃止され使用されなくなります。弥生時代と同じように、少量の土器の出土しましたが、建物遺構は出てきません。
【古代】
丸亀平野では、8世紀初頭から条里制施行の大規模土地区画事業が始まります。この遺跡の東にある津森位遺跡では、7世紀の終わり頃には条里地割に沿った溝跡等が確認されています。この遺跡の古代の遺構としての特徴は、条里地割に沿った溝が縦横に多く整備されていることです。更に、建物群が集中して建てられていたことです。出てきた建物跡は、全て掘立柱建物で、それ以前にも建物はあったようですが、条里制施行による土地改良で消失してしまったと研究者は考えているようです。
 発掘エリアの南部では、条里地割の坪界があり、ここには大型の東西溝があります。その南側には、少しランクの落ちる溝が併走しています。この間が道路と研究者は考えているようです。
特徴的なのは、海との関連が強く感じられるものが出てきたことです。
①製塩土器の出土があったこと、
②飯蛸壺が8か所から14点出土したこと。
津森位遺跡からは、やはり飯蛤壺保管用と考えられる土坑も見つかっているので、海岸線近くに立地した集落であったことがうかがえます。
【中世】
古代の景観が基本的には継承されているようです。15棟の建物遺構の内のいくつかは、柱穴の切り合い状況や形状から見ても中世に属するものと研究者は考えているようです。出土遺物も土師質土器片が多く出てきています。大型円形土坑が多く出てきましたが、これは中世につくられたもののようです。各圃地の隅部や縁辺部に配置されているので農業関連遺構のようですが、詳しくは分からないようです。
【近世】
古代以降の条里制地割が継承されています。柱穴列が確認されているので、近世までは継続して集落があったことがうかがえます。その後は、基本地割や景観を保ったまま今に至っていると研究者は考えているようです。

さて、注目したいのは「条里地割の坪界」とされる大型の東西溝がみつかっていることです。
丸亀平野北部 条里制

上図は丸亀平野の条里制復元図です。那珂郡は丸亀城を通る南北ラインを基軸手として、東から一条・二条と五条まで条があったことが分かります。里は南から打たれているので北側は24里まであったようです。
 空白部は条里制が未実施な所とされます。先ほど見た金倉川流域は空白地帯です。そして海岸線を見ると道隆寺より北側も空白地帯です。これは、当時はここが海岸線だったことを示します。
 ⑤の平池から北に流れているのが西汐入川です。その右岸(東側)は空白地帯です。つまり新田橋本遺跡付近は、条里制は施行されていなかったと研究者は考えいました。実際はどうだったのでしょうか。報告書を読み進めていきます。
土器川 扇状地


この遺跡は小字名に『新田』とあるように、周辺は近世の新田開発により形成された地域です。
史料には「町新田・丸亀新田・新興・丸亀新興」という名前で登場してきますが、正式な地名はなかったようです。明治になって丸亀新田となり、明治11年に新田村として那珂郡作原郷に属していましたた。

丸亀平野北部 条里制復元図

 この遺跡の場所は、新田町の北西端で、北は今津町、西は金倉町に接しています。そして、西の天満池水系と東の皿池水系に挟まれる微高地の上にあり、周囲には水田地帯が広がります。しかし、皿池水系エリアでは、条里地割とは軸がずれて水田が整備されています。ここからは、このエリアが古代の条里制施行の時に開発されたものではなく、近世の開発によることがうかがえます。そして、地元の研究者も、「新田」という地名から江戸期になって初めて開発された所と考えていたようです。
 しかし、今回の発掘では古墳時代の用水路が条里制施行によって埋められている跡が出てきました。つまり、この遺跡周辺も条里制実施エリアであったということになります。その復元図が上図になります。この復元図からは、新田橋本遺跡が那珂郡三条二十一里一ノ坪」に位置していたことが分かります。条里制施行による区画整理が行われた後は、大きな地割の変更は行われずに現代に至ったようです。現在の地割が、古代の状況を比較的留めていると研究者は考えているようです。
平池南遺跡 5m等高線地図

調査報告書には、発掘成果を次のようにまとめています
①弥生時代の灌漑用水路が、予想通りにでてきたこと
②古代の条里制施行により土地改良が行われ、現在の地割になったこと、そして、その後に新しい地割に沿った集落遺構が作られたことを裏付ける遺構が発見された
③新田橋本遺跡において初めての建物を検出したこと
④この地割に沿った集落造営は近世まで継続していたこと
①からは、微髙地に水を引いてくるために、上流の湧水などから用水路が整備されていたことが分かります。これは丸亀平野の弥生遺跡の一般的な姿のようです。
②③からは、この微髙地も条里制工事の対象で、8世紀の早い時期に工事が行われ、その後には集落が形成されるようになったことが分かります。
また、海岸線に近く丸亀平野で一番海に近い集落として、漁労活動も行っていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
新田橋本遺跡2 エデイオン店舗建設に伴う発掘調査報告書 丸亀市埋蔵文化財発掘調査報告書20号 2015年
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満濃池が丸亀平野に、どのように灌漑用水を送っていたのかを見てみましょう。
満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り

明治3年(1870)の「満濃池水掛村々之図」です。この絵図は、幕末に決壊し放置されたままになっていた満濃池を再築するに当たって、水掛かりの村々とそこに至る水路を確認し、課役を取り決めるために作られたものです。これを見ると、灌漑受益の村単位の分布は、現在のものとほぼ同じのようです。そして、これは近世初頭に西嶋八兵衛が満濃池を築造して以来、大きくは変化していないようです。この地図を、じっくりと眺めることからはじめましょう。
 この絵図からは、満濃池からの水路がどのように伸びていたかが分かります。また、満濃池の水掛かり範囲、つまり給水エリアを知ることも出来ます。
まず幹線水路を見ておくことにします。
満濃池①は、金倉川をせき止めて作られたものなので、池から流れ出した水は、金倉川②を下ります。しかし、それもつかもまです。③の地点で、金倉川から分水されます。③は、水戸大横井堰(まんのう町吉野下)で、「水戸」と地元では呼ばれているところです。美味しいパン屋さんのカレンズの近くの橋のすぐ上流に、堰はいまもあり、民家の間を抜けて北流します。

満濃池 水戸大横井

 以前にお話したように、丸亀市史には次のように記されています。
「この北流する水路は、もとは旧四条川の流路であって、ここに堰を設けると同時に、本流を西に流して金倉川を新しく人工的に作った」(要約)

と記します。確かに金倉川は西へ西へと丸亀平野の西の奥まで追いやられ、象頭山の麓の「石淵」にぶつかって流れを北にとり、琴平の町中を通過して行きます。平野中央部に自由自在に流れていた暴れ川を、コントロールするために使われる土木技法の一つです。平野の角の山手に追いやり、中央には人工的な水路を通し、水害から水田を守るという狙いです。

DSC04908
現在の③水戸大横井関 金倉川に堰が設けられ水門方向に流される

 ③から以西の金倉川は「水路」とは、当時は認識されていなかったようで色分けも白色になります。また③からの以西の河床は、それまでと比べると非常に浅くなり、天井川になります。これも、近世になって新しく人工的に作られた川という説を補強します。金倉川は⑥の生野町の堰まで分水口はありません。金倉川は、「方流路」で水路ではなかったことがうかがえます。
満濃池水掛村ノ図(1870年)拡大1
赤が金毘羅領 黄色が池の御領(天領) 桃色が高松藩領
それでは、今度は満濃池の真の水路を追いかけてみましょう。
それは、③の吉野下の「水戸」で分岐した用水路です。

 グーグル地図でも、丸亀幹線水路は追うことができます。水路は、満濃中学 → まんのう町役場を経て西高篠④で2つに分かれます。ローソン西高篠のすぐ西になります。
DSC04865
西高篠の分水地点 右が丸亀幹線 左が櫛梨を経て善通寺・多度津へと伸びる。ここには分水点には阿弥陀堂が建っている

ここから櫛梨に向けて西(左)に延びる水路は、天領の苗田村と高松藩の公文村の村境となっていることが色分けから分かります。この水路以前には、ここに旧四条川が流れていたことの裏付け資料にもなります。四条川は、近世初頭には「自然村境ライン」でもあったようです。
 地図で見ると④で西に分岐した水路は、⑤で金倉川に落水しています。
満濃池水掛村ノ図(1870年)拡大2

現在は、どうなっているのでしょうか。
DSC04823旧四条川合流点
右が金倉川、左が旧四条川 ふたつの川の合流点

そして、そのすぐ下流の生野の堰で善通寺多度津方面に取水されます。
これが善通寺・多度津幹線です。この水路は、現在の善通寺市役所を北流し、農事試験場(旧練兵場遺跡)をまわりこむようにして、子どもと大人の病院の北で大束川に落水し、西白方まで伸びていきます。その手間で東西方向に流れを変えますが、その区間でいくつかの分水地点を設け、丸亀平野北部への水路を派生させます。その最終地点の村名をを金倉川から西へ並べると 下金倉村・鴨村・多度津・青木村・東白方・西白方となります。これらの村が、善通寺・多度津幹線の末端の村々になるようです。ここで、今挙げた村々のエリアが、地図上で、どんな色で色分けされている注目すると茶色(白?)です。
①茶色   多度津藩
②草木色    丸亀藩
③桃色   高松藩
④赤色   金毘羅大権現寺領
⑤黄色   池の御領(陵満濃池管理のための天領)
こうしてみると多度津藩の満濃池水掛かりは、最末端にあることがよく分かります。旱魃時には、なかなかここまでは水がやってこなかったはずです。負担は同じなのに、日照りの時に水はもらえないという不満を多度津藩の農民達が抱いたのも分かるような気がします。彼らは自己防衛のために、独自でため池を増やし、幕末には池掛りからの離脱の道を歩んだことは以前にお話ししました。
 丸亀平野における各藩領地の割合を見ると圧倒的に多いのは桃色の高松藩です
⑥で分岐され用水が供給されるのは高松藩の領地になります。私はうかつにも、かつては土器川が高松藩と丸亀藩の国境と考えていたことがありました。また、那珂郡と鵜足郡の境が国境と思っていた時もありました。もう一度「満濃池水掛村々之図」の各藩領地の色分け図を見ると大間違いなことに気づきます。大ざっぱにいうと、高松藩と丸亀藩の国境は金倉川なのです。丸亀城は、丸亀平野の高松藩領土の上にちょこんと首だけ乗っているようにも見えます。丸亀城の天守閣から殿様が南を見たときに、そこに開ける水田は自分の領地ではなかったのです。丸亀の殿様は、どんなおもいだったのでしょうか。
 この絵図を見ると、高松藩が満濃池に一番強い利害関係を持っていたことが理解できます。土器川以西の灌漑用水供給という点で、②の「水戸」の堰の分水地点は、高松藩にとっても非常に重要な地点であったことを押さえておきます。ここに堰を構えることによって、満濃池の水は高松藩の水田にやってくるのです。これがなければ、そのまま金倉川方面に下っていってしまいます。
 もうひとつ、満濃池の用水路を見ていて感じるのは、直線的なことです。これは、条里制以来の水路が活用されたためと、私は思っていました。しかし、それだけでは説明できないようです。それは、これらの用水が整備される前には、このエリアには四条川という川が流れていたからと丸亀市史は云います。

 絵図に書かれた幹線水路の多くは、近代以降の改修工事を経ながらも現在まで大きくは変化していないようです。
そこで、現在の幹線水路と丸亀平野の条里地割に重ねてみましょう。それが次の地図になるようです。
満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り
A赤色が「讃州那珂郡分間画図」や「満濃池水掛村々之図」に描かれた近世の水路
B緑色が近・現代に新しく作られた水路
C水色が土器川と金倉川
①吉野下の大横井堰
②西高篠分水
③生野堰
こうしてみるとAの近世に作られた水路は、そのルートが今もあまり変化することなく踏襲されていることが分かります。また、基本的に条理地割の上を通っています。それが直線的になったことの一つの要因のようです。この地図上でも水路を辿っておくことにします
A先ず金倉川の大横井堰①で取水され、土器川に平行するように那珂郡を北流する(現丸亀幹線)。
B②西高篠分水で西流する「多度水路」は、金倉川に落水した後、善通寺市の生野堰で再び取水され、左岸側の多度郡域へ流下する。
つまり「金倉川の治水を前提として灌漑システムが構想された」と研究者は考えているようです。これらの路網の途中の微高地上に「皿池」と呼ばれる貯留用のため池の築造が進み、安定的な灌漑網が形成されていくことになるようです。
満濃池掛かり 那珂郡分間画図
以上を仮説も含めてまとめておくと、
①古代の満濃池決壊後には、那珂郡と多度郡には金倉川と四条川が網の目のように流れていた。
②満濃池再築にあたって、西嶋八兵衛は満濃池用水路の確保のために四条川の付け替え工事をおこなった。
③それを四条川を西流させ「金倉川」とし、象頭山の麓を北流させることであった。
④丸亀平野中央部に、水路を条里制ラインに沿って掘削し、北流させた。
⑤同時に、四条川跡の櫛梨方面へも水路整備を行った。
⑤金倉川から取水された善通寺・多度津幹線は、西は西白方、東は下金倉村までをカバーする役割を担ったが、旱魃の際には水路末端まで用水を提供することが出来ず多度津藩農民の不満は高まった。これが幕末の満濃池池掛かりからの離脱を生むことになった。
⑥満濃池水掛かりの最大の受益者は高松藩であった。そのため高松藩は、倉敷代官所へも必要な意見具申をおこなっている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
丸亀市史 金倉川と旧四条川
まんのう町教育委員会 満濃池名勝調査報告書
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昭和の時代には、丸亀平野のため池は弥生時代には出現していたと考えられていました。
 当時は、津島遺跡(岡山市)や古照遺跡(愛媛県松山市)の発掘が大きく取り上げられ、その影響もあったようです。
3.西根堰と水路網にみる歴史的風致 (1)はじめに 桑折町周辺は産ヶ沢川による扇状地が発

しがらみ堰
の発掘は大きく取り上げられ、弥生時代の灌漑技術が過大評価されたこともあるようです。しがらみ堰が作れるのなら、自然の窪みを利用した小規模な堤防もつくることが出来るようになり、それがため池灌漑へ移行し、農地を拡大していったというストーリーになっていきました。そのため、丸亀平野のため池の発生も、弥生期か古墳時代にまでさかのぼると考えられました。
 そして、丸亀平野のため池の発生については、次のような仮説が出されました。
2 丸亀平野のため池と遺跡
  
①昭和27年の3回の洪水調査から丸亀平野の洪水路線を明らかにし、弥生式遺跡の立地、ため池の配置を地図上に落としてみる。
②そうすると弥生遺跡が、いずれも洪水路線に隣接する微高地に立地すること
③ため池が洪水路線に沿って、鈴なりのように連なっていること
以上から次のように、研究者は推測しました。
水田が広がるにつれて、自然の窪みを利用した小規模な堤防をもつ初期ため池灌漑がスタートした。大規模古墳の土木工事は、そのままため池の堰堤工事に転用できるし、労働力の組織化もできるようになった首長は、丸亀平野の凹地にため池を築造することで、水田開発を大規模に進めていくことになる。

  以上が「丸亀平野における弥生・古墳時代の初期ため池灌漑」説です。しかし、現在ではこれは余り顧みられることのない「過去の説」になっているようです。
DSC06130

 それでは、現在はどのようにかんがえられているのでしょうか
 20世紀末に丸亀平野では、国道11号バイパス工事や、高速道路建設によって、「線」状に発掘調査が進み、弥生時代の遺跡が数多く発掘されました。その中には、溝の幅が2mを超える「大溝」や「基幹的灌漑水路」と呼称される主要な灌漑水路も出土しています。これらの分水路を組み合わせで、水田への水は引かれていたと発掘報告書は報告します。
例えば坂出IC周辺の川津遺跡からは、下のような水路が出ています。

IMG_0002

ここでは、旧大束川から分岐した用水路が川津中塚遺跡を経て、下川津遺跡まで連続して続いていました。しかし、この段階では、何㎞も先から導水路を設けて広い範囲をカバーするような灌漑水路ははないと、研究者は考えているようです。

旧練兵場遺跡 地形区分図

 以前に見たように善通寺王国の都である旧練兵場遺跡でも、微髙地周囲を網の目のように流れる中谷川(旧金倉川?)から導水された水路は、さほど長いものではありません。居住区から遠く離れた水源から取水する必要がなかったようです。
 古墳時代も、このような状況に変化はありません。
弥生時代後期に開かれた灌漑水路の多くは、古墳時代を通じて機能・維持されますが、なぜかこれらの多くは古墳時代後期の6世紀末葉から7世紀前葉に埋没・放棄されます。その理由は不明です。7世紀前半は断絶の時代なのかも知れません。
南海道 条里制与北周辺

 7世紀末になると律令国家の建設が進み、それに伴って目に見える形で南海道が東から伸びてきます。南海道を基準に条里制ラインが引かれます。そして南海道沿いには、各郡司達は郡衙を整備し、氏寺を建立し、自らの支配力を目に見える形で誇示するようになります。
川津一ノ又遺跡
そしてこの時期に、丸亀平野にため池が始めて出現します。
川津一ノ又遺跡(坂出市)では、7世紀後葉に築造されたため池が出てきています。大きさは推定で約3ha、復元堤高は約1mで、上流側の大束川から水を取り入れ、灌漑水路で各水田へ導水していたようです。
 このため池が「条里制実施にともなう水田面積の拡大への対応」のために、作られたと思いたいのですが、どうもそうではないようです。川津のため池の堤高や池敷面積から想定して、ため池築造により灌漑エリアが格段と広がった様子はうかがえないと研究者は云うのです。ため池築造が耕作地の拡大を目指したものではなく、途中に貯水場を設けることで「安定した農業用水の供給をはかることが目的」があった研究者は考えているようです。また、灌漑域も郷エリアを超えるものではありません。

満濃池灌漑エリアと条里制
 丸亀平野の条里制については、発掘から次のような事が分かっています
①7世紀末の条里地割はmラインが引かれただけで、それがすぐに工事につながったわけではない。
②丸亀平野の中世の水田化率は30~40%である。
①については、条里制工事が一斉にスタートし耕地化されたのではないようです。極端な例だと、中世になってから条里制に沿う形で開発が行われた所もあるようです。場所によって時間差があるのです。つまり、条里制によって7世紀末から8世紀に、急激な耕地面積の拡大や人口増加が起きたとは考えられないようです。
 現在私たちが目にするような「一面の水田が広がる丸亀平野」という光景は、近代になって見られるようになった光景です。例えば、善通寺の生野町などは明治後半まで大きな森が残っていたことは以前にお話ししました。古代においては、条里制で開発された荒地は縞状で、照葉樹林の中にポツンぽつんと水田や畠があったというイメージを語る研究者もいます。丸亀平野の中世地層からは稲の花粉が出てこない地域も多々あるようです。つまり「稲作はされていなかった=水田化未実施」ということになります。
金倉川 10壱岐湧水

中世の善通寺一円保(寺領)を、例にしてみましょう
①一円保の水源は、二つの出水と弘田川でまかなわれていた。
②14世紀後半になって、弘田川上流の有岡の谷に、有岡池を築造した
つまり、善通寺の寺領(?)である一円保は、金倉川から取水は行っていません。これが私にとっては謎です。もし満濃池が空海によって築造されたとすると、その最大の受益者は空海の実家の佐伯家でしょう。
1空海系図2

空海の弟は、多度郡の郡司を勤めていたようで、業績を表彰された記録が正史に残ります。満濃池築造の際には、郡司だったかもしれません。そうだとすると、満濃池の利水に関して大きな発言権を持っていたと考えられます。当然、満濃池から善通寺周辺への灌漑路を整備し、それによって水田や畠などの開発に乗り出したはずです。
 しかし、満濃池から善通寺までの用水路なんて、この時代に整備・維持できたのでしょうか。
金倉川旧流路 与北町付近
善通寺生野町辺りの旧金倉川流路跡
わたしは金倉川を使えば、いいのではないかと思っていました。しかし、古代の金倉川や土器川は流路が定まらず、堤防もないためにいくつもの流れになって丸亀平野を流れ下っていました。そこに堰を設けて導水するなんてことができたのでしょうか。
金倉川と条里制

 もしそれが可能だったとしたら、どうして中世には善通寺一円保は金倉川から導水せず、有岡池の築造を選んだのでしょうか。古代にできていたことが、中世にはできなくなった理由がつけられません。
 もうひとつは、古代において多度郡の佐伯家が用水不足からため池を必要としていたのなら、まず取りかかるべきは有岡池だったのではないでしょうか。最初から満濃池である必要はありません。
一円保絵図 金倉川からの導水
現在の導水水路で、これは一円保には描かれていない

 土木モニュメントは、古墳を例にすると小形のものから作られ始めて、様式化し、大型化するという段階を踏みます。それまで丸亀平野になかった超大型のため池が、突然姿を現すというのも不自然です。まさに弘法大師伝説のひとつなのかもしれません。
 築造費用についても、当時の国司は空海が讃岐に帰ってきて、満濃池修築を行ってくれるなら、修築費も国が出す必要はないと云っています。手弁当で人々が参加することを前提としているのかも知れませんが、資材などの経費は必要です。だれが出すのでしょうか。これは、佐伯家が出すと云うことなのではないでしょうか。そこまでした、佐伯家にとって満濃池は必要だったのでしょうか。もし満濃池の築造の必要性があるとすれば、多度郡司である空海の弟の国家への貢献度を高め、位階を上げるためという理由付けはできるかもしれません。 
弘法大師御影 善通寺様式


 空海による満濃池修築というのは考古学的には疑問があるようです。しかし、今昔物語などには満濃池は大きな池として紹介されています。実在しなければ、説話化されることはないので、今昔物語成立期には満濃池もあったことになります。古代の満濃池については、私は分からないことだらけです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
香川清美「讃岐における連合水系の展開」(四国農業試験場報告8)
まんのう町教育委員会 満濃池名勝調査報告書 第3章歴史的環境
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金蔵寺条里地図

丸亀市史には、金倉川について「近世に作られた人工河川」という説が載せられています。金倉川は満濃池の用水路整備に合わせて作られた流れで、それまでは「四条川」がまんのう町から善通寺に流れていたというのです。四条川については、以前にもお話ししました。
   今回は旧金倉川を追いかけて見ることにします。
『全讃史』には、四条川と金倉川が次のように記されています。
四条川、那珂郡に在り、源を小沼峰に発し、帆山・岸上・四条を経て、元吉山及び与北山を巡り、西北流して、上金倉に至り東折し、横に金倉川を絶ちて土器川と会す。
金倉川、源を満濃池に発し、西北流して五条に至り、横に四条川を絶ち、金毘羅山下を過ぎ北流して、西山・櫛無・金蔵寺を経て、四条川を貫き下金倉に至り海に入る」
ここからは次のような事が分かります。
A 四条川が 源流の小沼峰 → 帆山→ 岸上 →四条  
 →元吉(櫛梨山)・与北山をめぐり西北流し → 上金倉で東に折れ → 金倉川と離れて土器川に合流する
B 金倉川は満濃池 → 五条 → 金毘羅山下から北流 → 西山 → 櫛梨 → 金蔵寺 → 四条川を貫き下金倉が河口だった。
金倉川 国土地理院

四条川と金倉川は、東の櫛梨山と西の磨臼山の間では、直ぐ近くを併流していたというのです。2本の川が現在の土讃線沿いに並んで流れていたことになります。これをどのように考えればよいのでしょうか?
 グーグルで、2つの川の痕跡を追いかけて見ましょう。
金倉川1 分岐点

琴平と善通寺を一直線に結んで国道319号と土讃線が並立して西側を走っています。国道から東側に少し入った所に四国計測の善通寺工場があります。その裏に現在の②金倉川は流れています。
そして、ここには④の井堰があります。この井堰が堤であったら金倉川は流路を西に取り、③の方向に流れていたはずです。現在の井堰から大麻・生野へ続く用水路を③旧金倉川としておきます。

一方、 象郷小学校方面から流れ出してきた①が旧四条川のようです。現金倉川の合流点から象郷小学校辺りまでの流路は、「大河?」の趣をいまでも感じる風景が続きます。かつての水量の多さがうかがえます。
 ④を開削することで、金倉川はそのまま北に流れ旧四条川に合流することになります。金倉川による旧四条川の乗っ取り(付け替え)工事が行われたことが推測できます。それまでは旧四条川と金倉川は隣接して併流していたことになります。
 金倉川2 大麻

丸亀平野は条里制跡がよく残っていて、グーグル地図を見ても長方形の水田跡が規則正しく並んでいる所が多いようです。さて、大麻から生野町にかけては、どうでしょうか。金倉川と国道319号・土讃線に挟まれた区間は、水田の並びが不整形なのにまず気がつきます。
グーグル地図を最大に拡大して見ると、
四国計測善通寺工場
楠原寺
南部公民館
旧自動車学校(旧池)
大麻郵便局西側
と周囲より一段低い所があるようです。これが②旧金倉川ルートの候補です。明治に作られた四国新道や讃岐鉄道の線路用地の買収について丸亀市史には
旧金倉川の廃川跡地が利用された。そのため用地取得が短期日で終わって工事に着手できた。それは、田畑でなくほとんど荒廃地だったからだ」

という話が紹介されています。確かに、この一帯は旧河川の上だったことがうかがえます。
金倉川旧流路 大麻
大麻町付近の金倉川流路跡(土地利用図)
 
一方、旧四条川は現在の金倉川だったのでしょうか。
どうもそうとは言えないのです。現地に行ってみると、現在の金倉川の西側100mあたりに、かつての堤防跡と思える連なりが畑や未開墾地として残っています。これが旧四条川の堤防だったとしておきましょう。 国土地理院の土地利用図には旧河道跡が載るようになりました。これで四条川の河川跡を追いかけてみましょう。 

  ①の旧四条川は、先ほど指摘したように現在の金倉川の左岸(西)に、かつての流れがあった痕跡があります。くねくねと曲がりながら北上します。これを真っ直ぐに付け替えたのが現在の金倉川のように思えてきます。その結果が、丸亀市史が
「金倉川は人工河川で、人為的に作られた物なので全体に河床が高く、天井川である。そのため、東西から支流がほとんど流れ込まない」

と指摘することになるのでしょう。確かにその通りです。金倉川に流れ込む支流は、ほとんどありません。

 旧金倉川は、土讃線沿いに磨臼山古墳のある山裾にぶつかるように北流していきます。

金倉川4 磨臼山古墳

「土讃線と四国新道は、旧金倉川の荒れ地にあったので買収しやすかった。それが工期の短縮につながった」
という話の通り、土讃線は旧河床沿いに敷かれています。
磨臼山を越えると壱岐の湧水があります。
以前に紹介した「善通寺一円保差図」に、善通寺領の水源地として描かれている出水です。丸亀市史は
「旧金倉川跡沿いに、出水(湧水)が点々と並ぶ」

とも指摘されます。確かに、この北には二頭湧水もあります。かつては、ここが河川跡であった可能性は高いようです。
 それでは、四条川が消されて、金倉川が現在のルートを流れるようになったのは、いつからなのでしょうか。

私は以前に、
「近世の西嶋八兵衛の満濃池の再築の際に、下流地域の農業用水路整備のために障害となる四条川は消されて、新たに金倉川が作られたのではないか」

という仮説をお話ししました。しかし、その仮説には、立ちはだかる「壁」があります。それが善通寺に残る「一円保差図」です。
金倉川5 壱岐湧水

この絵図についても以前に紹介しましたので、詳しくは話しませんが13世紀に作られたもので、当時の善通寺寺領への用水路が描かれています。条里制地割ラインに沿って、東の壱岐と柿股の湧水から導水されていたことが分かります。
 この絵図には金倉川も旧四条川も描かれていません。
つまり13世紀の時点には、河川流路はすでに変更し、壱岐や柿股は出水となっていたということが分かります。ここからは、13世紀には、旧金倉川は流れていなかったということになります。
  しかし「反論」はあります。
 下の地図は、旧練兵場遺跡の弥生時代から古墳時代の地形復元図です。
  かつての練兵場は「旧善通寺国立病院 + 農事試験場」という広大なスペースでした。その西エリアの国立病院の建て替えのために発掘作業が進められました。その結果、ここが弥生時代の善通寺王国のコア施設があったところだということが明らかになってきました。その中で、当時の地形復元も行われています。
金倉川 7旧練兵場遺跡

  西側隅(左)を迂回するように北上するのが旧弘田川です。現在の弘田川とあまり変わりないようです。しかし、現在と大きく違うのは国立病院と農事試験場の間には二本に分流して流れる河川があったということです。
   つまり、現在の看護学校あたりは、「旧河道2」で、宮川製麺所と仙遊寺は微高地の中島で、その背後には「旧河道3」があったようです。旧練兵場遺跡は、遺跡内を複数の自然河川が流れて、その間に微髙地がぽつりぽつりと島のように出ていたという情景になるようです。それをイラスト化すると下のようになるようです。
金倉川 8旧練兵場イラスト

   それでは、この「旧河道2・3」はどこから流れてきていたのでしょうか?
復元図は仙遊町の郵便局辺りでプツンと切れています。それはそうでしょう。ここからは発掘調査が行われていないのですから、書くことはできません。
周辺の遺跡報告書を見てみると、四国学院の図書館建設に伴う調査報告書に次のような記述がありました。

この付近(四国学院キャンパス)は旧金倉川の氾濫原西側の微高地上にあたり、生野本町遺跡や生野南口遺跡などの遺跡が連続する場所である。現在の地表面で標高は約31mを測る。北西約500mに立地する善通寺旧境内よりも約5m高い。
 遺跡の東端には、旧金倉川から派生する大規模な旧河道が存在することが判明しており、四国学院敷地内で収束する。四国学院敷地東側の市道には現在も暗渠にされた溝が流れている。遺跡の西側は、調査がなされていないため詳細は不明であるが、現在も学校敷地と西側の護国神社・善通寺西高校の間には約1.5mの高低差があり、小河川(中谷川)が流れている。おそらくこの河川が遺跡の西端を示していると想像できる。

ここからは次のような事が分かります。
①四国学院の東側は「旧金倉川の大規模な河道があり氾濫原」だった。
② 西側の護国神社・善通寺西高校の間には約1,5mの高低差があり、川が流れていた。
③この東西の川に挟まれた微髙地に四国学院大学遺跡はある。
そして、この微髙地は南の「生野本町遺跡 → 生野南口遺跡」へと続いていきます。これらは多度郡の郡衙跡と考えられる重要な遺跡です。
DSC01741

善通寺王国の中枢が律令期には旧練兵場跡東部から生野本町周辺に移動してきたことがうかがえます。そして、以前にお話ししたように、四国学院のキャンパスに向かって東から南海道が伸びて来ていたことを考古学の成果は教えてくれます。 
金倉川 善通寺遺跡分布図

 四国学院の東側は壱岐湧水から善通寺東中学校のラインで伸びる「旧金倉川の氾濫原」だったようですが、その痕跡はグーグルでは分かりません。ただ、旧金倉川は磨臼山の麓付近で、不自然な曲がり方をしています。ここで流路が人工的に変更された可能性もあるように思えます。それを行ったのが、磨臼山古墳に眠る善通寺王国の首長ではなかったのかと、私は「妄想」しています。

  もうひとつは、尽誠学園付近で現金倉川は流れを東に少し振ります。
金倉川旧流路 与北町付近
金倉川旧流路 尽誠高校から真北に旧流路が見える

ここからは金倉川(旧四条川)が尽誠学園の東側で、大きく東に流れを変えていた痕跡が見えます。その線上に二頭湧水もあります。流路は変更されても地下水脈は、今も昔のままで流れ続けているようです。そしてこの流れは市役所前を通って、神櫛神社方面に伸びています。
  それでは、いつごろまで金倉川の氾濫原は善通寺旧市街の東部を覆っていたのでしょうか?
もう一度「練兵場遺跡調査報告書Ⅰ」を見てみましょう。
報告書には、古墳時代中期から終末期には、住居跡や建物跡のような居住遺構が全くなくなったことを報告しています。そして、周辺の旧河川の堆積作用が間断なく続いたとします。この時期は、集落がなくなり微髙地の周りの湿地堆積が進んだようです。そして旧練兵場跡を流れていた川が完全に埋まってしまった時期が、奈良時代になるようです。報告書には、次のように記されています。

「これらの跡地は、地表面の標高が微高地と同じ高さまでには至らず、依然として凹地形を示していたために、前代からの埋積作用が継続した結果、上位が厚い土砂によって被覆され、当該時期(奈良時代)までにほぼ平坦地化したことが判明した。」

として、凹地の堆積作用が進み、微髙地の高さとほぼ一緒になり、全体が平坦になったとします。逆に考えると、埋積作用が進んだ6~7世紀は、利用困難な低地として放棄されたようです。それが、8世紀の奈良時代になって平坦地になります。その結果、農耕地としての再利用が始まると研究者は考えているようです。さらに肥沃な土砂が河によってもたらされたことも、水田などへの変化の要因の一つに挙げられます。そして、奈良時代になると労働力の組織が可能になり、このエリアでも、条里制に基づく規則的な土地開発が行われていくことになります。その主役は、佐伯氏だったとしておきましょう。
  つまり、8世紀までには旧練兵場周辺での旧金倉川の堆積作用は終わったようです。その上流の四国学院の東側の氾濫原でも、同じだったのではないのでしょうか。

この図は土器川の今までの流路変更をしめしたものです。
金倉川 土器川流路変遷図
土器川は短く急流な川で、まんのう町炭所西常包付近から河口にかけて沖積扇状地となっています。洪水の度に大量の土砂が堆積して河床を上昇させたために、河道の変遷が激しかったようです。
 まんのう町木ノ崎で山間部を抜け出した土器川は、最初は
①の木ノ崎→五条→櫛梨→下吉田→庄を流れていたようです。
  地質学者によると土器川は、西方にある基盤岩の低い部分へ向かって流れていたものが、堆積作用で流域が隆起すると、低地を求めて流出先を東へ東へと段階的に移動させて行ったと云います。

 一番東まで行ったのは④の滝ノ鼻から大束川のコースだったようです。現在の位置へと流れを変えたのは、「和名類聚抄(和名抄)」(931~938年)の記録による地名から推定すると、約千年年ほど前と研究者は考えているようです。
 この流路変更図を最初に見たときには、ショックを受けました。
ゆく河の流れは絶えずして/方丈記/鴨長明/独断でおすすめの1冊

「ゆく川の流れは絶えずして・・」ですが、「ゆく川の流れは・・」は変化し続けて来たのです。
  土器川が堆積作用で流路変更した後を、旧金倉川はさらに堆積作用を勧め奈良時代には、善通寺周辺の土地の「平坦地化」をもたらしたようです。この調査報告書は
6世紀~7世紀に旧練兵場遺跡の旧河道でも堆積作用が進んだ

としています。ということは、古墳時代後期まで善通寺東部は氾濫原だったことになります。磨臼山古墳の首長が金倉川の流路変更を行ったという私の仮説は、「妄想」に終わりそうです。

とりとめもない妄想に最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
旧練兵場遺跡調査報告書Ⅰ 2009年
四国学院大学校内遺跡 発掘調査報告書2003年
丸亀市史
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岸の上遺跡 那珂郡条里制

丸亀平野を南北に流れる金倉川については「近世に作られた人工河川」説が出されています。何を根拠として人工的に付け替えられたというのでしょうか。
また何を目的に、いつ、だれによって工事が行われたのでしょうか。いろいろな角度から検討してみましょう。

丸亀平野北部 条里制

金倉川=人工河川説の「状況証拠」として、丸亀市史1(383P~)は次のような点を挙げています。

①全体に河床が高く、天井川であるから、東西からほとんど支流が流れ込まない。
②竜川橋・五条橋付近では、川床から粘土が出ている。
発掘調査の時、金倉川左岸堤防の近くまで発掘したが上層は厚い粘土層であった。このことは少なくとも往古からの自然河川ではないという証明である。
③中津町の金倉川左岸堤防工事の時に、川底より砂岩の五輪塔二基と楠三本が出土した。川底がかつては平地であったということを物語っている
④金倉川沿いの各所で村が東西に分断されている。後から作られた金倉川が地域を別けた。自然河川では、境界となることが多い。
⑤河口に形成された州が、旧金倉川のそれに比べて極端に小さい。万象園付近一帯だけである。川の歴史の浅いことを示している。
⑥金倉川沿いには、遺跡らしいものが存在しない。近世になって新しく作られた河川であるため、周辺部に遺跡がない
⑦川床幅が小さい。
以上のような状況証拠の積み重ねで「人工河川」説を補強します。

それでは、金倉川はどの位置で付け替えられたのでしょうか?

満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り

  その位置を丸亀市史はまんのう町吉野の①吉井橋(パン屋さんのカレンズ周辺)とします。満濃池の谷から流れ出し、北上していた流れを、ここで西流させ現在の金倉川の流れに改変したとします。ここは現在でも「水戸(みと)」と呼ばれています。

DSC04906
まんのう町吉野の「水戸」の現在の姿
満濃池水戸(みと)

改変される前の流れは、どう流れていたのでしょうか?
「丸亀市史」は改変前の北上する流れは、満濃町役場前から四条・天皇を経て高篠大分木に至り、ここから左に向きを変えて西高篠と苗田の境界に沿って西北流し、象郷小学校から上櫛梨の木の井橋の南へと流れていたと記します。そして、この川を「四条川」と呼びます。
金倉川 国土地理院

   本当に四条川はあったのでしょうか?
『全讃史』に、四条川のことが次のように記されています。
四条川、那珂郡に在り、源を小沼峰に発し、帆山・岸上・四条を経て、元吉山及び与北山を巡り、西北流して、上金倉に至り東折し、横に金倉川を絶ちて土器川と会す、
金倉川、源を満濃池に発し、西北流して五条に至り、横に四条川を絶ち、金毘羅山下を過ぎ北流して、西山・櫛無・金蔵寺を経て、四条川を貫ぎ下金倉に至り海に入る」
と記述されています。四条川は確かに実在したようです。しかし、流路はなかなか想像しずらいものがあります。
さらに四条川実在の論拠として、以下のような点を挙げます。
①この付近の「四条川跡」には多くの湧井が存在すること。
②善通寺大麻町の香川西部ヤクルト販売株式会社の東北に、琴平町内を北流してきた川と合流して西北流する四条川の左岸の一部が残っていること。

金倉川1 分岐点

③四条川の水量は多く、治水が容易でなく常に氾濫を繰り返していた。伝承として「明治中期起工の四国新道や讃岐鉄道の軌道敷も、四条川の廃川跡地が利用された。両者とも、用地取得が短期日で終わって工事に着手できたことは、田畑でなかった、当時はまだほとんど荒廃地だったからだ」と伝わっている。
 以上から、四条川の中流域は現JR線路と国道319号になっているようです。

金倉川3 大麻郵便局 

⑤四国横断自動車道建設にともなう発掘調査でも、JR土讃線と国道三一九号線の間では表土直下に河川堆積物の礫混じりの砂層が出てきて、四条川が氾濫を繰り返していたようです。そのため、稲木遺跡以東の、現金倉川に至るまでは、条里制跡が認めらません。これは大麻町以北の四条川右岸から、現金倉川に至るすべての地域も同じです。坂出市の鎌田博物館蔵の近世の絵図でも、磨臼山の北東を「イカノ川原」と表記しています。つまり、四条川の氾濫原で条里制施行外だっと考えられます。

金倉川1 分岐点

四条川の下流域ルートは?

多度津には、金陵多度津工場があります。
ここはかつて、ここを流れていた四条川の豊富な伏流水を使った酒造りが行われています。四条川はここで、流れを大きく東へ向けます。丸亀市民体育館の西方の金倉町上下所の高丸や、新田町の高丸、津森町高丸は、四条川の氾濫による砂傑の堆積地のようです。
 さらに四条川は市民体育館の西で北に流れを変えて先代池を斜め縦断して市道中津・田村線に出ます。先代池や平池は四条川が廃棄された跡の流路を利用して、築造されます。

丸亀の海岸線 旧流域図3
「新田橋本遺跡周辺旧流域想定図(S=1/20,000)」

四条川は田村町番神に向かって流れ、ここから北に流れを変えます。丸亀城西高校の正門前に堀が残りますが、四条川の川跡とされます。そして、津森町内を北流して津森天神社の北東200mの津森町宮浦で海に注いでいました。ここが四条川の河口でした。ここが『万葉集巻二』の柿本人麻呂の詠んだ有名な「玉藻よし讃岐国は国柄か」の枕詞ではじまる長歌の中に出てくる中乃水門とされます。現在の津森町の地名も、ここに設けられた津守に由来します。

田村廃寺周辺地質津

金陵多度津工場から河口まで四条川は、多くの支流を生みだし、旧六郷村域では氾濫常習地帯だったようです。そのため氾濫地帯の大部分は荒廃地として開拓の鍬が入りませんでした。ここが開拓されるのは、四条川が金倉川に一本化された17世紀初冬以後です。

丸亀平野北部 条里制

ちなみに中世に満濃池は、姿を消していました。
大規模な労働力を組織化できた律令時代は、大規模土木工事が可能でした。しかし、権力の分立した中世は多くの労働力を集めることができません。そのため満濃池は、堤防が壊れ放置され、「池の内」村が「開拓」されていました。このため「満濃池の治水」能力がなくなり、下流域では洪水が常習化し、河口の堆積作用も大きかったようです。こうして四条川河口には潟湖が形成され、多度郡の湊として機能するようになります。その海運センターの役割をしたのが道隆寺だったようです。
道隆寺の果たした役割については、以前に紹介しました。https://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/48396077.html

丸亀平野の扇状地

大麻町以北の四条川の廃川後の開拓地を列記すると、
 
右岸(東側)では、
善通寺市大麻町本村の東北部・中土居・砂古東・生野町南原・原・遊塚の東部・上吉田町上原・寝馬・稲木町川原・下川原・金蔵寺町下所・六条
左岸(西側)では、
丸亀市原田町三分一下川・金倉町上新田・池の下・下新田・朧朧新田・新田町橋本・長池・今津町皿池・中原・津森町上拾丁分・下拾丁分・位
などです。
 また、先ほど見た先代池のように四条川に水が流れなくなった跡に、その流路を利用して、ため池が数多く築造されていきます。
金倉町に辺池・新池・平池・先代池・瓢池・天満池などです。
多度津町では、千代池・買田池・上池が、これにあたります。

平池南遺跡調査報告書 周辺地形図

四条川の付け替え工事は、いつ、だれによって行われたのか
丸亀市史は「西島八兵衛由緒書控」中の次の記述に注目します。
精を出し国を被立候へと被仰付寛永二丑ノ春讃岐へ被遣候、(中略)中年三年罷有仕置仕候国も能成候とて、高虎様御機嫌二被為思召、寛永六年二江戸へ御呼かへし被成(以下略)
西島八兵衛の寛永二年の二度目の来讃は、干ばつで疲弊した讃岐国を立て直すためであったようす。領内を巡視して実情をつぶさに調査して、具体策を練っています。その上で翌年に8月に、まんのう町の有力者である矢原正直を訪ねます。

満濃池 決壊後の満濃池
西嶋八兵衛の築造前の満濃池堰堤周辺の状況図

 これは丸亀平野の治水事業を実行に移すため相談に訪れたものと思われます。そして、満濃池の再築に着手したのが寛永五年十月、二年半を費やして完成したとされます。
満濃池再築に着する前に、事前工事として四条川の流れを廃して、金倉川の流れ一本にする付け替え・改修を行ったと丸亀市史は推定します。
最後に、この工事は何のために行われたのでしょうか。

満濃池水掛村ノ図(1870年)

これについては丸亀市史は、何も語りません。
あえて推察するなら満濃池築造後の水路網の建設と関連するのではないでしょうか。現在の満濃池の水掛かりは、上の絵図のように人間の血管網のように細部まで整備されています。しかし、四条川の複雑な流路や支流があったのでは、満濃池からの水を送るための水路を張り巡らせることは困難だったと思われます。満濃池灌漑ネットワーク整備のために、四条川は金倉川に一本化・直線化され、最短ルートで海に抜けるようにされたのではないでしょうか。

丸亀平野 等高線地図
 地図で、多度津の千代池を見ているとその不思議な形から、川の流路に作られた池だろうなとは思っていました。しかし、それが、いつごろまで流れていた池かは分かりませんでした。丸亀市史を読み直していて改めて、気がついたのです。
丸亀市史に感謝

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 中世の道隆寺は、どんな場所にあったのか。

道隆寺 復元地形

イメージ 1

堀江付近の地形復元図

中世の道隆寺周辺には多度津と堀江津という二つの港がありました。

道隆寺が管理した堀江津について
 中世の地形復元地図を見ると金倉川河口の西側海浜部には、現在の中津万象園から砂州が西側に伸びていたことが分かります。そして現在の桃陵公園の下からは、東に砂堆が伸びています。この砂堆と砂州の間が海に開いている所が堀江津になります。その背後には潟(ラグーン)が広がり、入江を形成しています。この入江の奥に位置にあったのが道隆寺であり、船着場として好適な場所でした。道隆寺は堀江津に近く、港をおさえる位置にあり、塩飽の島々と活発な交流を行っていました。堀江津の港湾管理センターの役割を道隆寺は果たしていたと研究者は考えているようです。

  道隆寺の海への進出とは、どんなものだったのでしょうか

中世の道隆寺明王院は、周辺寺社の指導管理センターでもあったようです。この寺の住職が導師を勤めた神社遷宮や堂供養など関与した活動を一覧にしたのが次の表です。

イメージ 2
道隆寺明王院の周辺寺社へ関与一覧表
 神仏混合のまっただ中の時代ですから神社も支配下に組み込まれています。これを見ると白方方面から庄内半島にかけて海浜部、さらに塩飽の島々へと広く活動を展開していたことが分かります。たとえば
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮
文明一四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことになります。『多度津公御領分寺社縁起』には道隆寺明王院について、次のように記されています。

「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院より執行仕来候」
意訳変換しておくと
「古来より門下の寺院や堂舎の供養、並びに門末支配の神社遷宮などにの導師は、全て道隆寺明王院が執行してきた


ここからは、中世以来の本末関係にもとづいて堂供養や神社遷宮が近世になっても道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力はの多度津周辺に留まらず、三野郡や瀬戸内海の島嶼部まで及んでいたようです。  
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道隆寺大門

 道隆寺は塩飽諸島と深いつながりが見られます。

永正一四年(1517)立石嶋阿弥陀院神光寺入仏開眼供養
享禄三年 (1530)高見嶋(高見島)善福寺の堂供養
弘治二年 (1556)塩飽荘(本島)尊師堂供養について、
塩飽諸島の島々の寺院の開眼供養なども道隆寺明王院主が導師を務めていて、その供養の際の願文が残っています。海浜部や塩飽の寺院は、供養導師として道隆寺僧を招く一方、道隆寺の法会にも結集しました。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には
「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」
と記されています。つまり、道隆寺が讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。

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道隆寺本堂
 堀江港を管理していた道隆寺は海運を通じて、紀伊の根来寺との人や物の交流・交易を展開します。
また、影響下に置いた塩飽諸島は古代以来、人と物が移動する海のハイウエー備讃瀬戸地域におけるサービスエリア的なそんざいでした。そこに幾つもの末寺を持つと言うことは、アンテナショップをサービスエリアの中にいくつも持っていたとも言えます。情報収集や僧侶の移動・交流にとっては非常に有利なロケーションであったのです。こうして、この寺は広域な信仰圈に支えられて、中讃地区における当地域の有力寺院へと成長していきます。
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道隆寺本堂内
金蔵寺と海との関係は?
金蔵寺は天台宗寺門派の寺院で、円珍の誕生址と伝える古刹です。
金倉川の西側、道隆寺よりもやや上流に位置し善通寺にもほど近い場所にあります。戦国前期頃と推定される次の文書が金蔵寺と港湾都市との関わりを考えるヒントになります。  
諸津へ寺修造時要却引附 金蔵寺
当寺大破候間、修造仕候、如先例之拾貫文預御合力候者、
  可為祝著候、恐々謹言、先規之引附
      宇足津 十貫
      多度津 五貫
      堀江  三貫
これによれば金蔵寺が大嵐で大破した際、宇多津・多度津・堀江に修造費の負担を依頼しています。寄付金額がそのまま、この時代の3つの港湾都市の経済力を物語っているのかもしれません。ここで不思議に思うのは、
どうして、内陸部にある金蔵寺が3つの港湾都市に援助を求めたのでしょうか?
なんらかのつながりがあって、金蔵寺の寄付依頼に応える条件が満たされていたからでしょうが、それは今の私には見えてきません。
 道隆寺には、応永六年(1399)に宇多津の富豪とみられる沙弥宗徳が田地を寄進しています。宇多津の有力者の信仰を集める何かが金蔵寺にはあったのでしょう。
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道隆寺伽藍

 道隆寺は鎌倉末期に復興し寺院体制を整備していきます。
これには紀伊国根来ゆかりの円信の役割が大きかったようです。道隆寺は海に開かれた寺院という特性を生かして、根来とのつながりを保持していきます。
 同時に、港をおさえる位置にあった道隆寺は海運を通じて宗教活動を展開し、塩飽諸島の寺院を末寺に置き広域な信仰圈を形成します。海に開かれた寺院に成長していったのです。そこには真言密教に関わる修験者の活動が垣間見えるように思います。周辺には塩飽本島を通じて岡山倉敷の五流修験者の流れや、醍醐寺の理源の流れが宇多津の聖通寺には及んでいます。その流れがこの寺にも影響をあたえていたと私は思っています。

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道隆寺伽藍

 道隆寺は談義所でもあり、南北朝期には談義所相互のネットワークのなかにいました。付近の金蔵寺も談義所であり、この地域は善通寺への参詣者をはじめ、談義所を訪れる学僧や聖などさまざまな人びとが往来します。ある意味、大宗教ゾーンを形成していたのです。
 今の道隆寺の境内には、海とのつながりを連想させる物はなにもありません。時代の流れと共に、海は遠く遙かに去ってしまいました。しかし、この境内は海とのつながりによって形成されてきた歴史を持ちます。
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参考史料 上野進 海に開かれた中世寺院 
       香川県歴史博物館 調査研究報告三巻
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