讃岐の古代郷名
金倉郷は那珂郡十一郷のひとつです。
東は那珂郡柞原郷、南は那珂部木徳郷西は多度郡葛原郷
に接し、北は瀬戸内海になります。古代には金倉郷より北に郷はなかったことを押さえておきます。


丸亀平野の古代郷名
江戸期の天保郷帳では、金倉郷域は次の2つに分かれていました。
①丸亀藩領の下金倉村と上金倉村②高松藩領の金蔵寺村
また、中世には、上金倉村と金蔵寺村を合わせた地を、下金倉と呼んでいました。幕末に編纂された西讃府志には、下金倉は中津とも呼ばれていたとあります。ここからは金倉川河口付近の中津も下金倉の一部であったことが分かります。
丸亀市金倉町
上金倉村は、現在の「丸亀市金倉町+善通寺金蔵寺町」になります。 金蔵寺町には六条という地名が残っていますが、これは那珂郡条里6条で、その部が多度郡の1条に突き出た形になっています。ここからもともとは現在の6条の東を流れている金倉川は、条里制工事当初はその西側を流れていて郡界をなしていたと研究者は考えています。
善通寺市金蔵寺町
建仁3(1203)年に、金倉郷は近江の園城寺に寄進されます。
このことは善通寺文書の貞応三年の「東寺三綱解」に次のように引用されています。
右東寺所司(寛喜元年五月)十三日解状を得る云う。(中略)況んや同国金倉荘は、智証大師の生所也。元是れ国領の地為りと雖も、去る建仁三年始めて園城寺に付せらるの刻、宣旨を下され畢んぬ。然らば則ち、彼は寄進の新荘也。猶速かに綸旨を下さる。此れ又往古の旧領也。争でか勅宣を賜はらざらんや。
東寺の訴えは、園城寺領金倉荘を引合にだして、善通・曼奈羅寺も金倉寺と同じように寺領確認の勅宣を賜わりたいといっています。ここからは次のようなことが分かります。
①国領の地であった金倉郷が、建仁2年に、智証大師円珍が延暦寺別院の園城寺(俗に「三井寺」)に大師生所のゆかりという由縁で寄進されて、金倉荘と呼ばれるようになったこと、
②寄進の際に官宣旨がだされ、さらに綸旨によって保証されていること。
円珍
建仁3年から5年後の承元2年にも、園城寺は後鳥羽上皇から那珂郡真野荘を寄進されています。金倉荘の寄進もおそらくそれに似たような事情によったものと研究者は推測します。こうして成立した金倉荘は「園城寺領讃岐国金倉上下庄」と記されています。
ところが建武三年(1336)の光厳上皇による寺領安堵の院宣には「讃岐国金倉上庄」とだけります。ここからは、金倉庄は、上下のふたつに分かれ、下荘は他の手に渡ったことがうかがえます。
園城寺は寄進された金倉上荘に公文を任命して管理させました。
それは、金倉寺に次のような文書から分かります。
それは、金倉寺に次のような文書から分かります。
讃岐國金倉上庄公文職事右沙爾成真を以て去年十月比彼職に補任し畢んぬ。成真重代の仁為るの上、本寺の奉為(おんため)に公平に存じ、奉公の子細有るに依つて、子々孫々に至り更に相違有る可からずの状、件の如し。弘安四年二月二十九九日 寺主法橋上人位学頭権少僻都法眼和尚位 (以下署名略)
意訳変換しておくと
讃岐國金倉上庄公文職について沙爾成真を昨年十月にこの職に補任した。成真は何代にもわたって圓城寺に奉公を尽くしてきたので、依って子々孫々に至りまで公文職を命じすものである。弘安四年(1280)2月29日 (圓城寺)寺主法橋上人位学頭権少僻都法眼和尚位
これは弘安3(1280)年10月に、沙弥成真が任命された金倉上荘公文の地位を、成真の子孫代々にまで保証した安堵状です。沙弥成真は、「重代の仁」とあるので、すでに何代かにわたって園城寺に関係があったことがうかがえます。沙弥というのは出家していても俗事に携さわっているものを指し、武士であって沙弥と呼ばれているものは多かったようです。
円珍坐像(金倉寺)
それでは現地の金倉寺は、金倉荘にどんな形で関わっていたのでしょうか?金倉寺の僧らの書いた「目安」(訴状)を見ておきましょう。
目安金蔵寺衆徒等申す、当寺再興の御沙汰を経られ、□□天下安全御家門繁栄御所祥精誠□□右当寺は、智證大師誕生の地(中略)而るに、当所の輩去る承久動乱の時、京方に参らず、天台顕密修学の外其の嗜無きの処、小笠原二郎長を以って地頭に補せらるの間、衆徒等申披(ひら)きに依って、去る正応六年地頭を退けられ早んぬ。然りと雖も、地頭悪行に依って、堂舎佛閣太略破壊せしむるの刻、去る徳治三年二月一日、神火の為め、金堂。新御影堂。講堂已下数字の梵閣回録(火事のこと)せしめ、既に以って三十余年の日月を送ると雖も、 一寺の無力今に造営の沙汰に及ばざるもの也。(下略)
意訳変換しておくと
金蔵寺の衆徒(僧侶)が以下のことを訴えます。当寺再興の御沙汰頂き、□□天下安全御家門繁栄御所祥精誠□□ 当寺は、智證大師誕生の地で(中略)ところが、金倉寺周辺の武士団は承久動乱の時に、京に参上せずに天台顕密修学に尽くしていました。そため乱後の処置で、地頭に「小笠原二郎長」が任命されやってきました。この間、衆徒たちは、反抗したわけではないことを何度も申し披(ひら)き、正応六年になってようやく地頭を取り除くことができました。しかし、地頭の悪行で、堂舎佛閣のほとんどが破壊されてしまいました。その上に徳治3(1308)年2月1日、神火(落雷)のために、金堂・新御影堂・講堂が焼失してしまいました。それから30余年の日月が経過しましたが、金倉寺の力は無力で、未だに再興の目処が立たない状態です。(以下略)
この文書に日付はありませんが、徳治3年から約30年後のこととあるので南北朝時代の始めのころと推測できます。誰に宛てたものかも分かりません。こうした訴えが効を奏したものか、「金蔵寺評定己下事」という文書によると、法憧院権少僧都良勢が院主職のとき、本堂・誕生院・新御影堂が再建され、二百年にわたって退転していた御遠忌の大法会の童舞も復活しています。南北朝時代の動乱も治まった頃のことでしょうか。この頃に金倉寺の復興もようやく軌道にのったことがうかがえます。とすると保護者は、南北朝混乱期の讃岐を守護として平定した細川頼之が考えられます。頼之は、協力的な有力寺社には積極的に保護の手を差し伸べたことは以前にお話ししました。
研究者が注目するのは、この「目安」の中の正応六年に地頭を退けたとある文に続く「当職三分二園城寺、三分一金蔵寺」という割注です。当職というのは現在の職ということのようです。幕府の地頭を退けたあとの当職だから、これは地頭職のことで、地頭の持っていた得分・権利を金蔵寺と荘園領主園城寺が分けあったことになります。
ところが、同じ金倉寺の嘉慶2年(1388)の「金蔵寺領段銭請取状」の中には、金倉寺領として「同上庄参分一、四十壱町五反半拾歩」と記されています。この「同上庄参分一」は、先の「当職、三分一金蔵寺」と同じものと研究者は考えています。上荘というのは金倉上荘で、その面積からいって、「三分の一」というのは地頭領の三分の一ではなく、荘園全体の三分の一になります。
また「三分の一」が独立の段銭徴収単位になっていて、金倉寺が領主となって納入責任を負っているのですから、金倉寺は金倉上荘において、園城寺とならぶ形で、その三分の一を領していたことになります。これは強い権限を金倉寺は持っていたことになります。
また「三分の一」が独立の段銭徴収単位になっていて、金倉寺が領主となって納入責任を負っているのですから、金倉寺は金倉上荘において、園城寺とならぶ形で、その三分の一を領していたことになります。これは強い権限を金倉寺は持っていたことになります。
金倉寺
それは、どんな事情で金倉庄は金倉寺領となったのでしょうか? 金倉寺文書の「金蔵寺立始事」を研究者は紹介します。これは室町時代の康正三年(1456)に書かれた寺の縁起を箇条書きにしたものでで、次のように記されています。土御円御宇建仁三年十月 日、官符宙成し下され畢んぬ。上金倉の寺の御敷地也。
ここには上御門天皇の代、鎌倉時代初期の建仁3年(1203)に、官符宣(官宣旨?)によって上金倉の寺の敷地が寄進されたとあります。金倉寺の敷地は、現在地からあまり動いてはいません。そうだとすればその敷地のある上金倉とは、丸亀市の上金倉ではなく、金倉上庄(善通寺市)のことになります。寺の敷地とありますが境内だけではなく、かなり広い田畑を指しているようです。とすればこの文書が金倉上ノ庄1/3の寺領化のことを指していると研究者は推測します。
縁起は寺の由来を語るものです。そこに信仰上の主張が入るし、さらに所領のこととなると経済上の利害もからんできます。そのため記事をそのまま歴史事実とうけとることはできません。しかし、さきに見た「衆徒目安」や「段銭請取状」の記載とも適合します。
金倉寺
研究者は、これを一定の事実と推測して、次のような「仮説」を語ります。
①建仁三年に園城寺領金倉荘の寄進が行われていること。②この寄進のとき、その一部が金倉寺敷地として定められた。③「金倉上庄三分一」とあるので、金倉上荘領主園城寺との間に何らかの縦の上下関係はあった。④後の状況からみてある程度金倉寺の管領が認められ自立性をもった寺領であった
以上から、次のように推察します。
A善通寺市金蔵寺の周囲が、金倉寺領(金倉上荘三分の一)B園城寺直轄領は、丸亀市の金倉の地(残りの三分の二)
金倉寺は、Aの「三分の一」所領の他にも、上荘内に田畠を所有していました。
その一つは、貞冶二年(1363)卯月15日、平政平によって金倉寺八幡宮に寄進された金倉上荘貞安名内田地参段です。八幡宮は「金倉寺縁起」に次のように記されています。
その一つは、貞冶二年(1363)卯月15日、平政平によって金倉寺八幡宮に寄進された金倉上荘貞安名内田地参段です。八幡宮は「金倉寺縁起」に次のように記されています。
「在閥伽井之中嶋、未詳其勧請之来由」
これが鎮守八幡大神のようです。平政平は木徳荘地頭平公長の子孫と研究者は考えています。もちろん、神仏混淆の時代ですから鎮守八幡大神の別当寺は金倉寺であり、その管理は金倉寺の社僧が務めていたはずです。
私が注目するのは、金倉寺への「西長尾城主 長尾景高の寄進」です
その文書には次のように記されています。
(端裏書)
「長尾殿従り御寄進状案文」 上金倉荘惣追捕使職事合右彼職に於いては、惣郷相綺う可しと雖も、金蔵寺の事は、寺家自り御詫言有るに依って、彼領金蔵寺に於ては永代其沙汰指し置き申候。子々孫々に致り違乱妨有る可からざる者也。乃状件の如し。費徳元年十月 日長尾次郎左衛円尉 景高御在判
意訳変換しておくと
長尾殿よりの御寄進状の案文 上金倉荘の「惣追捕使職」の事についてこの職については、惣郷全体で関わるが、金蔵寺に関しては、寺家なので御詫言によって免除して貰った。この領について金蔵寺は、これ以後永代、この扱いとなる。子々孫々に致るまで違乱妨のないようにすること。乃状件の如し。
「惣追捕使」というのは、荘役人の一種で、「惣郷で相いろう」というのは、郷全体でかかわり合うということのようです。この文はそのまま読むと「惣追捕使の役は、郷中廻りもちであったのを、金倉寺はお寺だからというのではずしてもらった」ととれます。しかし、それは、当時の実状にあわないと研究者は指摘します。惣追捕使の所領を郷中の農民が耕作していて、その役を金倉寺が免除してもらったと解釈すべきと云います。
さらに推測すれば、惣追捕使領の耕作は農場のようにように農民が入り合って行うのではなく、荘内の名主にいくらかづつ割当てて耕作させて年貢を徴収していた。そして、金倉寺も貞安名参段の名主として年貢の負担を負っていたと研究者は考えています。その負担を「金倉上荘惣追捕使長尾景高」が免除したことになります。これで、田地の収穫は、すべての金倉寺のものとなります。これを「長尾殿よりの寄進」と呼んだようです。こうして金倉寺は惣追捕使領内に所有地を持つことになりますが、その面積は分かりません。
注目したいのは寄進者の「金倉上荘惣追捕使長尾景高」です。 長尾景高は、長尾氏という姓から鵜足郡長尾郷を本拠とする豪族長尾氏の一族であることが考えられます。ここからは、応仁の乱の20年前の宝徳元年(1449)のころ、彼は金倉上荘の惣追捕使職を有し、その所領を惣郷の農民に耕作させるなど、金倉上荘の在地の支配者であったことがうかがえます。また彼は金倉寺の保謹者であったようです。そうすると、長尾氏の勢力は丸亀平野北部の金倉庄まで及んでいたことになります。
これと天霧城を拠点とする香川氏との関係はどうなのでしょうか? 16世紀になって戦国大名化を進める香川氏と丸亀平野南部から北部へと勢力を伸ばす長尾氏の対立は激化したことが想像できます。そして、長尾氏の背後には阿波三好氏がいます。
これと天霧城を拠点とする香川氏との関係はどうなのでしょうか? 16世紀になって戦国大名化を進める香川氏と丸亀平野南部から北部へと勢力を伸ばす長尾氏の対立は激化したことが想像できます。そして、長尾氏の背後には阿波三好氏がいます。
そのような視点で元吉合戦なども捉え直すことが求められているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 金倉寺領および圓城寺領金倉荘 善通寺市史574P







