瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金光院

1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像2
琴陵宥常(ことおかひろつね)
 金毘羅大権現の最後の別当職は「宥常(ゆうじょう)」です。
彼は、明治の神仏分離の激流の中で、金刀比羅宮権現を神社化して生き残る道を選びます。そして、自らも還俗して琴陵宥常(ことおかひろつね)と名乗ることになります。彼が神仏分離の嵐とどのように向き合ったかについては、以前お話ししました。今回は、彼の結婚について焦点を絞って見ていきたいと思います。
  テキストは「山下柴  最後の別当職琴陵宥常の婚姻と山下盛好 ことひら39 昭和59年」で
1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像

  金毘羅大権現は、金光院の院主が「お山の殿様」でした。
金毘羅大権現は神仏習合の社で、最高責任者は、金光院の院主でした。社僧ですから妻帯できません。したがって跡目は実子ではなく、一族の山下家から優秀な子弟から選ばれていました。宥常の先代の金光院院主は、宥黙で優れた別当で和歌を愛する文化人でもありました。しかし、病弱だったようで、そのために早くから次の院主選びが動き出していたようです。 
皇霊殿遥拝式2

 山下家一族の中に、宇和島藩士の山下平三郎請記がいました。
その二男の繁之助(天保11年(1840)正月晦日生)の神童振りは、一族の中で噂になるほどで白羽の矢が当たります。宥黙は信頼できる側近の者を宇和島藩に派遣して、下調査を重ねた上で琴平・山下家への養子縁組みを整わせます。嘉永2年(1850)11月29日、10歳の繁之助は、次期院主として金毘羅に迎えられたのです。これが先ほど紹介した宥常で、18代別当宥黙(ゆうもく)の後継者に選ばれます。そして安政4(1857)年10月22日に第19代別当に就任しました。宥常18歳の時です。これを進めた琴平の山下家当主の盛好は、次のような歌を詠んでいます。
  「今日よりは象の御山の小松菊
       千代さかえ行く末や久しき」   
 ちなみに宥常は父平三郎、母おつ祢の二男で、兄弟姉妹は兄と妹3人の5人兄弟でした。宥常は、安政五年六月八日、徳川将軍家定公に御目見、同年七月十二日孝明天皇に拝謁しています。そして、明治維新を28歳で迎えることになります。何もなければ彼は、このまま金光院別当として生涯を過ごすはずでした。しかし時代は明治維新を迎え大きく変わります。「御一新」の嵐は、象頭山のにも吹き荒れます。
なぜ宇和島藩の藩士の子が、後継者に選ばれたのでしょうか。
 それは先述したとおり、金毘羅大権現のトップは山下家の一族の中から優秀な子弟から選ばれるよいうルールがあったからです。 山下家一族のうち、中の村(三豊郡)の山下助左衛門盛寿の男、盛昌、山下輿右衛門については
「延宝二年(1675)甲寅年、伊達侯に仕う。知行二百石、中奥頭取」
とあります。財田の出身の山下家の一族の中に、宇和島藩の伊達家に仕官した者がいました。それが山下盛昌で、俳諧が上手な文化人であったようです。山下盛昌は、琴平宮本社の棟札にも名が残っているので、恐らく金光院の関係で京、大坂へも上った際に、徘徊のたしなみを身につけたのでしょう。
 あるときに、金毘羅さん参詣した伊達家重役が彼の俳諧に傾倒し、宇和島まで同道し仕官を奨めたという話が伝えられます。時の藩主は、七万石に減石されていたのを元の十万石に高直したとされる名君伊達宗貳です。山下盛昌という人物に、文化人だけではない何かを見いだしたのでしょう。
 伊達家に仕えた山下盛昌は、中奥頭取にまで出世しています。彼が現実的経世的知識をそなえ、藩主の信頼を得ていたことがうかがえます。盛昌の叔父も宇和島藩の梶谷家(知行二百石)へ養子に入っています。こうして、山下家を通じて金毘羅さんは宇和島藩とのつながりを持っていたようです。
白峰神社例祭 …… 奥社遥拝


  琴平・山下家の盛好による嫁探し
 山下盛好の日記には
「小松を藤原朝臣に改め琴陵を廃し、小松屯に仕度申出候得共叶不申」明治二巳七月二十二日

とあります。宥常は金毘羅大権現を、神社化することで生き残る道を選びました。そして自らも還俗します。その結果、「嫁取り」の話が出て来ることになります。
 その候補者選びの方針は、「結婚相手を京都公卿の姫」に求めることだったようです。関係する高松藩松平家などから迎えるという選択もあったはずですが、公家から迎える道を選びます。御一新の時代、天皇家に近い公家との新たな関係を築くことが今後の金刀比羅宮の発展につながると考えたのでしょう。それでは、具体的に候補者をどのように選んだのでしょうか。
白峰神社例祭2

 具体的な候補者選びを行ったのは、琴平・山下家の盛好だとされています。彼の日記「山下盛好記」には、次のように記されています。
「御簾中 称千万姫・正二位大納言胤保卿御女 安政元申九月二日生レ玉フ」
「己レ今年両度上京六月二日 始テ保子姫御目見」
 盛好は二度上京し、交渉に当たったようで「辛労甚シ」とも書いています。千万姫は三十二才を迎えていましたが「才色兼備のお姫様、美しく漓たけた誠におやさしい」と宥常に報告します。これを聞いて、宥常は喜び「頬を染め厚く厚く礼を述べた」と、盛好は記しています。

潮川神事

結納や諸手続についての覚書が残されているので、見ておきましょう
一、御願立御日限之事但シ御下紙拝見仕度候事
  御内約御治定之上御結納紅白縮緬二巻差上申度候事 
  但シ右代料金五十両 差上度候事
  御家来内二ハ御肴料御贈申候事
一、御主従御手当金二百五十両差上申度候事 
  但シ御拵之儀 当方之御有合二而宜敷御座候事伏見御着 
  迄之警固入費金十五両差上候
  御乗船ヨリ当方マデ 御賄申上候御見送り御家来御開之
  節 同様京都迄御賄申上候事
  居残り御女中御手当金前後十五両御贈申候事
一、御供之儀 伏見御家政之内壱人御老女壱人御女中壱大
  御半下壱人刀差壱人御下部壱大二御省 略被下度 下部
  壱人当方ヨリ相廻シ申恨事 女中老人壱ケ年又ニケ年見
  合二而御嘔巾度似事
一、御由緒書拝見仕度候事
一、御内約御治定ノ上 先不取敢御肴料差上度候事
  但シ御家来内江モ同様御贈申上度候事
一、御土産物総而御断申上候事
一、御姫様御染筆御所望申上度候事
  右之件二御伺申上度営今之御時節柄二付可成丈御省略之御取計奉願候也
                 琴陵家従五位内
 明治四年辛未五月        山 下 真 澄
 
意訳変換しておくと
一、日取りや時間については、下紙(添付書)で確認すること
  御内約が整った上で、御結納は紅白の縮緬に巻いて差上ること。
  但し、代料金は五十両。御家来内には、御肴料をお贈りするこ
  と。
一、主従手当金として二百五十両を差上げること 
  但し、拵之儀(伏見までの警固費十五両)
  御乗船から金刀比羅宮までの費用、家来の京都までの見送り費用
  居残り女中の御手当金など、合わせて十五両
一、御供について、伏見御家、老女、女中、半下、刀差 御下部
  をひとりずつつけること。この費用については当方が負担するこ 
  と。女中老人は、1年か2年お供する予定である。
一、御由緒書を準備し拝見すること
一、御内約が決定した上で、御肴料を差上げること。但し御家来にも
同様の贈り物を準備すること
一、御土産物は、すべてお断りすること
一、姫様の御染筆(揮毫)を、所望すること
  以上についてお伺い申し上げ、御一新の時節柄に付き、省略できるものは省くようにお願いしたい。
            琴陵家従五位内
 明治四年辛未五月        山下真澄

 私が気になるのは婚礼費用です。
ここに出てくる数字だけだと650両前後になるようです。明治元年に新政府から求められて、貢納した額が1万両でした。この翌年に、神仏分離で廃物され蔵の中に収められていた仏像などを入札販売していますが、その時の一番高額で落札されたのは、金堂(現旭社)の丈六の薬師如来でした。その値段が600両と松岡調の日記には記されています。それらから比べると高額な出費とは、私には思えません。
金毘羅大権現 旭社
旭社(旧金堂)

こうして段取りが整った後、明治4年8月29日、山下盛好はお姫様をお迎えするため、粟井玄三、仲間の福太、房吉を連れ三度目の上京をします。そして約1ヶ月後の9月30日に、千万姫と共に丸亀港に還ってきます。その夜九ツに駕で丸亀を出発、丸亀街道を進んだようです。途中、小休止をニケ所でとり、無事に中屋敷へ到着します。
「御姫様御元気にて御休息。老女とよ、女中おゆき、家令の築山恒利大夫と挨拶をかわす。」
と記されます。その後の盛好記には、次のように記されています。

宥常殿報 恐悦至極ノ態 下山セシハ夜モホノボノ明渡り候事

「夜モ ホノボノ明渡り候事」に盛好の、満足感と大任を果たした安堵感がうかがえます。そして、3日後の「十月二日夜、御婚礼千秋万才目出度く」とあります。翌日、廣橋正二位大納言胤保殿へ逐一報告済と記るされています。
 18歳で出家し、金光院別当となった時には、仏に仕える身となりました。もう家庭をもつことは、なくなったと思っていた宥常は、32歳で妻帯することになったのです。そして一男二女を設けます。これを契機にするかのように、金刀比羅宮には追風が吹くようになります。
 金比羅講に代わって、近代的なシステムに整備されたは、多くの信者を組織化し、金刀比羅宮へと送り込むようになります。まさに「金を生むシステム」として機能するようになります。そこから生まれる資金を背景に、宥常は博覧会や新たな神道学校作りなどに取り組めるようになります。事業的にも、家庭的にもまさに「追い風に帆懸けてシュラシュシュシュ」だったのかもしれません。

 最後に宥常が21才の時に、京に上がって天皇に拝謁の時の記念として、御厨子を京で作らせ盛好に贈っています。自分を、院主に付けてくれた感謝の意だったのかもしれません。そこには次のように記されています
   奉献御厨子
    右意趣者為興隆仏法国家安穏
    殊者山下家子孫繁栄家運長久
    而已敬白
   万延元康中歳二月吉辰
      金光院権大僧都 宥常
 また「京師堀川 綾小路正流仏工 田中弘造 刻」ともあります。
この御厨子は、今は山下家の菩提寺の山本町の宋運寺(盛好の遠祖、山下宗運建立)に保管されているようです。この奉献厨子の中には、山下家云々とあります。ここからは、二人の間には山下家としての同族意識があったことがうかがえます。金毘羅大権現の影の実力者として山下家は山内に、大きな影響力を持ち続けていたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
1琴綾宥常 肖像画写真

琴綾宥常 高橋由一作

参考文献
「山下柴  最後の別当職琴陵宥常の婚姻と山下盛好 ことひら39 昭和59年」で

金毘羅神を生み出したのは修験者たちだった   
金毘羅大権現2
金毘羅信仰については、金毘羅神が古代に象頭山に宿り、近世に塩飽の船乗り達によって全国的に広げられたと昔は聞いてきました。しかし、地元の研究者たちが明らかにしてきた事は、金毘羅神は戦国末期に新たに創り出された仏神で、それを生み出したのは象頭山に拠点を置く修験者たちであったこと、彼らがそれまでの三十番社や松尾寺に代わってお山の支配権を握っていく過程でもあったということです。その拠点となったのが松尾寺別当の金光院です。そして、この金光院の院主が象頭山の封建的な領主になるのです。

e182913143.1金比羅大権現 天狗 烏天狗 絵入り印刷掛軸
 この過程を今回は「政治史」として、できるだけ簡略にコンパクトに記述してみようと思います。
 戦国末期から17世紀後半にかけて、金光院院主を務めた修験系住職六代の動きをながめると、新たに作りだした金毘羅大権現を祀り、象頭山の権力掌握をおこなった動きが見えてきます。金毘羅大権現を祀る金毘羅堂は近世始めに創建されたもので、金光院も当寺は「新人」だったようです。新人の彼らがお山の主になって行くためには政治的権力的な「闘争」を経なければなりませんでした。それは金毘羅神の三十番神に対する、あるいは金光院の松尾寺に対する乗っ取り伝承からも垣間見ることができます。
20150708054418金比羅さんと大天狗

宥雅による金毘羅神創造と金毘羅堂の建立
金毘羅神がはじめて史料に現れるのは、元亀四年(1573)の金毘羅堂建立の棟札です。
ここに「金毘羅王赤如神」の御宝殿であること、造営者が金光院宥雅であることが記されています。 宥雅は地元の有力武将長尾氏の当主の弟ともいわれ、その一族の支援を背景にこの山に、新たな神として番神・金比羅を勧進し、金毘羅堂を建立したのです。これが金毘羅神のスタートになります。

宥雅による金毘羅堂建立

 彼は金毘羅の開祖を善通寺の中興の祖である宥範に仮託し、実在の宥範縁起の末尾に宥範と金毘羅神との出会いをねつ造します。また、祭礼儀礼として御八講帳に加筆し観応元年(1350)に宥範が松尾寺で書写したこととし、さらに一連の寄進状を偽造も行います。こうして新設された金毘羅神とそのお堂の箔付けを行います。
 当時、松尾寺一山の中心施設は本尊を安置する観音堂であり、その別当は普門院西淋坊という滅罪寺院でした。さらに一山の地主神として、また観音堂の守護神として神人たちが奉じた三十番社がありました。これらの先行施設と「競合」関係に金毘羅堂はあったのです。
 そのような中で金光院は、あらたに建立された金毘羅堂を観音堂守護の役割を担う神として、松尾寺の別当を主張するようになります。それまでの別当であった普門院西淋坊が攻撃排斥されたのです。このように新たに登場した金毘羅堂=金光院と先行する宗教施設の主導権争いが展開されるようになります。
sim (2)金毘羅大権現6

 そのような中で天正六年(1578)から数年にわたる長曽我部元親の讃岐侵攻が始まります。

長宗我部元親支配下の金毘羅

これに対して長尾氏の一族であった金光院の宥雅は堺に亡命します。空きポストになった金光院院主の座に、長宗我部元親が指名したのが、陣営にいた土佐幡多郡寺山南光院の修験者である宥厳です。彼は、元親の信任を受け金毘羅堂を「讃岐支配のための宗教センター」としての役割と機能を果たす施設に成長させていきます。

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 こうして宥厳は土佐勢力支配下において、金光院の象頭山における地位を高めていきます。彼は土佐勢撤退後も金光院院主を務めます。その亡き後に院主となるのが宥盛です。彼は「象頭山には金剛坊」と称せられる傑出した修験者で、金毘羅の社会的認知を高め、その基盤を確立したといわれます。歿する際には自らの修験形の木像を観音堂の後堂に安置しますが、彼は神として現在の奥社に祀られています。
 一方、宥雅は堺からの復帰をはかろうと、当時の生駒藩に訴え出ますが認められませんでした。彼は、金刀比羅宮の正史には金光院歴代住職に数えられていません。抹殺された存在です。長宗我部元親による讃岐支配は、宥雅とっては創設した金比羅堂を失うという大災難でしたが、金比羅神にとってはこの激動が有利に働いたようです。権力との接し方を学んだ金光院はそれを活かし、生駒家や松平頼重の良好な関係を結び、寺領を増加させていきます。同時に親までの支配権を強化していくのです。

o0420056013994350398金毘羅大権現

 それに対して「異議あり!」と申し立てたのは山内の三十番社の神人でした。
もともと、三十番社の神人は、祭礼はもとより多種の神楽祈禧や託宣などを行っていたようです。ところが金毘羅の知名度が上昇し、金光院の勢力が増大するに連れて彼らの領分は次第に狭められ、その結果、経済的にも追い詰められていきます。そのような中で、彼らは金光院を幕府寺社奉行への訴えるという反撃に出ます。
 しかし、幕府への訴えは同十年(1670)8月に「領主たる金光院を訴えるのは、逆賊」という判決となりました。その結果、11月には金毘羅領と高松領の境、祓川松林で、訴え出た内記太夫、権太夫の獄門、一家番属七名の斬罪という結末に終わります。これを契機に金毘羅(金光院)は吉田家と絶縁し、日本一社金毘羅大権現として独自の道を歩み出します。
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つまり、封建的な領主として金光院院主が「山の殿様」として君臨する体制が出来上がったのです。金毘羅神が生み出されてから約百年後のことになります。
 宥盛以降、宥睨(正保二年歿)・宥典(寛文六年隠居)・宥栄(元禄六年歿)までの院主を見てみると、彼らは大峯修行も行い、帯刀もしており「修験者」と呼べる院主達でした。

参考文献 

白川琢磨        金毘羅信仰の形成 -創立期の政治状況-

11_5110051宥常

 金比羅さんの一ノ坂の階段を登っていくと大門の手前右手奥に、神職姿の銅像が立っています。木札には次のように記されています。

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琴陵宥常像
明治維新後の近代日本黎明期に金毘羅大権現を金刀比羅宮と改め、大本宮再営や琴平博覧会を開催し、晩年には海の信仰をつかさどる金比羅宮宮司として日本水難救済会を創設するなど強固な信念で今日の金刀比羅宮の基礎を築いた人物である。
この人が明治維新期の金毘羅大権現の最高責任者だったようです。どのようにして、「金毘羅大権現を金刀比羅宮」と改めたのか、宥常を中心に金毘羅さんの神仏分離の模様を見ていくことにします。
kotohira04琴陵宥常(ことおかひろつね)[1840~1892年]

金毘羅大権現は金光院の院主が「お山の殿様」でした。
 金刀比羅宮は神仏習合の社で、最高責任者である別当は社僧(しゃそう)と呼ばれる僧侶でした。そのため妻帯できません。したがって跡目は実子ではなく、一族の山下家から優秀な子弟から選ばれていました。幕末の金光院院主は宥黙で、優れた別当ではありましたが病弱でした。そこで早くから次の院主選びが動き出していたようです。 
koto-oka金刀比羅宮 - 琴陵宥常像
 琴陵宥常肖像画 高橋由一作
山下家一族の中に宇和島藩士の山下平三郎請記がいました。その二男の繁之助(天保11年(1840)正月晦日生)の神童振りは、一族の中で噂になるほどで白羽の矢が当たります。宥黙は信頼できる側近の者を宇和島派遣して、下調査を重ねた上で琴平・山下家への養子縁組みを整わせます。嘉永2年(1850)11月29日、10歳の繁之助は、次期院主として金毘羅に迎えられたのです。これが先ほど紹介した宥常(僧籍では、ゆうじょう)で、18代別当宥黙(ゆうもく)の後継者に選ばれます。そして安政4(1857)年10月22日に第19代別当に就任しました。宥常18歳の時です。
宥常は明治維新を28歳で迎えることになります。何もなければ彼は、このまま順当に別当として生涯を過ごすはずでした。しかし時代は明治維新を迎え大きく変わろうとしていました。「御一新」の嵐は、そんな宥常の金毘羅大権現をも包み込むことになります
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 神仏分離は明治政府の手によって祭政一致と神祇官再興、全国の神社、神職の神祇官付属を定めた布告にはじまります。
○太政官布告 慶応四年(1868)3月13日
此度 王政復古神武創業ノ始ニ被為基、諸事御一新祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テ、先ハ第一、神祇官御再興御造立ノ上、追追諸祭奠モ可被為興儀、被仰出候 、依テ此旨 五畿七道諸国ニ布告シ、往古ニ立帰リ、諸家執奏配下之儀ハ被止、普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡間 、官位ヲ初、諸事万端、
同官ヘ願立候様可相心得候事,但尚追追諸社御取調、并諸祭奠ノ儀モ可被仰出候得共、差向急務ノ儀有之候者ハ、可訴出候事 
ここには王政復古・祭政一致が宣言され、神祇官を再興することを布告し、「追追諸社御取調」と、追って各神社の「取調」が実施されることが予告されています。ちなみに、この布告が出されたのは「五箇条の御誓文発布」の前日にあたります。この時、江戸城の無血開城への折衝が大詰めを迎えています。
 また、3ケ月前の正月17日に、新政府は官制を発布して、太政官のもとに七科を置いて政務を分担させる中央行政組織を発表していますが、その七科の筆頭に神祗科が置かれていました。そして神祇事務総督には明治天皇の外祖父にあたる人物が就任します。つまり、神祇科は、他の行政諸官庁を管轄するポストであったわけです。太政官布告を追いかけるかのように4日後には、事務局から次の通達が全国に通達されます

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○神祇事務局ヨリ諸社ヘ達 慶応4年3月17日
今般王政復古、旧弊御一洗被為在候ニ付、諸国大小ノ神社ニ於テ、僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ、復飾被仰出候、若シ復飾ノ儀無余儀差支有之分ハ、可申出候、仍此段可相心得候事 、但別当社僧ノ輩復飾ノ上ハ、是迄ノ僧位僧官返上勿論ニ候、官位ノ儀ハ追テ御沙汰可被為在候間、当今ノ処、衣服ハ淨衣ニテ勤仕可致候事、右ノ通相心得、致復飾候面面ハ 、当局ヘ届出可申者也
ここには「僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ、復飾被仰出候」とあり、別当寺の僧職による祭礼が禁止されると同時に、復飾(一度僧籍にはいった者が、もとの俗人にもどること。還俗すること)が命じられています。また「僧位僧官を返上し・・・衣服ハ神職の衣服で勤仕」するようにと、具体的な指示も出ています。
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それまでの神仏混淆の下では、金毘羅大権現は金光院の支配下にありました。
つまり金光院別当の真言僧侶が神を祭祀、社領・財政を管理、本堂を営繕、人事を差配してきたのです。それは村々に鎮座する神社と別当寺(中宮寺)の関係でも同じでした。
急かすかのように10日後には「神仏分離」の通達が出されます 
○神祇官事務局達 慶応四年三月二十八日
一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事、但勅祭之神社 御宸翰勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事、
一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地仏と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事、
右之通被 仰出候事
ここでは神名に「権現」「明神」「菩薩」などの仏教的用語を使用している神社名を改めると供に、ご神体を仏像としている神社は仏像を取り除くべきこと、また、本地仏・鰐口・梵鐘などの仏具を神社から取り外し、神社と寺院と判然と区別するよう命じます。
  そして、一週間後には再び次の太政官符が出される念の入りようです。○太政官達 慶応四年閏四月四日
今般諸国大小之神社ニオイテ神仏混淆之儀ハ御禁止ニ相成候ニ付、別当社僧之輩ハ、還俗上、神主社人等之称号ニ相転、神道ヲ以勤仕可致候、若亦無処差支有之、且ハ佛教信仰ニテ還俗之儀不得心之輩ハ、神勤相止、立退可申候事、但還俗之者ハ、僧位僧官返上勿論ニ候、官位之儀ハ追テ御沙汰可有之候間、
当今之処、衣服ハ風折烏帽子浄衣白差貫着用勤仕可致候事、是迄神職相勤居候者ト、席順之儀ハ、夫々伺出可申候、其上御取調ニテ、御沙汰可有之候事、
ここでは神仏混淆の禁止の再確認と、別当・社僧に還俗を命じ、神主または社人と名称を変え、神道に転じよとの布告が出され、還俗しないものは神社への出入りは禁止とし、立ち退くように求めています。また祭礼の際には、烏帽子をかぶり白差貫を着用するなど神職の服装を求めています。 四月十九日には、神職の者の家族に至るまで、仏教式の葬祭をやめ、神道式の葬祭を行うよう命じるのです。
 明治政府は、江戸時代の仏教国教化政策を否定し、神道国教化政策を進めます。そして、神社の中から仏教的な要素を取り除くために、神仏分離政策を早急に、しかも強力に実施しようとします。
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このような性急で過激とも思われる新政府の「御一新」を、金毘羅さんではどううけとめたのでしょうか。
  大権現を称していた金毘羅さんの対応を姿を見てみましょう。
 金毘羅さんでも中世以来の本地垂迹(ほんちすいじゃく)という考えで神仏習合が行われていました。この考えは日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた「権現(ごんげん)」であるとするものです。「垂迹」とは神仏が現れることをいい、「権現」とは仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを意味します。
   金光院松尾寺もその守護神である金毘羅大権現との神仏混淆が行われていました。現在の旭社は薬師堂(金堂)、若比売社は阿弥陀堂、大年社は観音堂というように多くの寺院堂塔からなる一大伽藍地だったのです。そして金光院主の差配の下、普門院、尊勝院、神護院、萬福院、真光院という5つの寺の僧侶がお山の事務を取り仕切っていました。

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 このような中で新政府の通達は、金光院を初めとする僧職達に対して、還俗して神職になるか、お山を下りるかの二者選択を迫るものだったいえます。
神仏分離の布告を受けた金光院では、別当宥常が脇坊や重役を集めて協議を続けます。この会議をリードしたのは普門院の院主宥暁でした。彼は、江戸深川の永代寺の住職を勤め終わり、高野山に登って数年間修業を積んだ学僧で、名望もありました。彼が主張したのは、
神仏分離令が対象としている寺院は、両部神道で祭られている社僧寺院であって、根本仏寺であり神社地でない金毘羅大権現を指すものでない。金毘羅は印度仏法の経典上に現われる神であって、日本の神祇に属する神ではない。
したがって今回の法令によって改廃を受けるものでない
というもので、この意見が重役達のほとんどが賛意を表したと云います。
C-31
 そこで四月二十一日、金光院別当宥常は、役人山下周馬、寺中普門院宥暁を従えて、嘆願のために上京します。 そして綾小路・甘露寺の両執奏家へ、
「金毘羅権現は、、わが国の神祇でなく、全く印度の神祇であって、仏教専俗の神である」
旨を上申するのです。
 しかし上京した宥常を待っていたのは、「御一新基金御用」の名目での新政府への一万両の献納要請でした。宥常は、受けいれるほかなく献納を申し出て、六月十五日までに五〇〇〇両を調達し、残りの五〇〇〇両は三か年間に調達する旨の上申書を提出します。
 廃仏毀釈の運動へ 
 明治政府の神仏分離の政策は、これまで僧侶の風下に置かれていた神官達が、この時とばかりに政府の政策に追随し、さらにこれを越えて廃仏毀釈の運動へと進んでいきます。明治元年四月十日、政府は布告を発して、
「社人共、陽は御趣 意と称し、実は私情を晴らし候様の所業」
が御政道の妨げを生じると、その心得違いを戒め、さらに、同年九月十八日には、
「神仏混淆致さざるよう先達って御布告これ有り候所、破仏の御趣意には決してこれ無き処」
と行き過ぎた廃仏毀釈にブレーキをかける布告を出しています。
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 このように若き金光院別当宥常が陳情のために滞在した京都は、その廃仏毀釈の真っ只中でした。
宥常が頼りとした猶父である綾小路家は、実はその立場を利用して神仏分離を厳しく実施しようとする側だったのです。綾小路家の役人であった山田・平田・熊谷はその中心人物で、彼等の立場から見れば、宥常が提出した上申書は、大勢を知らない井の中の蛙としか見えません。神仏分離を強行しようとする彼らからみると伊勢の皇太神宮に匹敵する参詣者があり、日本一社として朝廷の尊い信仰を受け、仏教面では真言宗の一無本寺に過ぎない金毘羅大権現を、神仏分離政策から外すことなど絶対に認められないことだったのです。

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 神仏分離は着々と実行に移され、京都の公郷家出身の僧侶が多かった奈良の興福寺は僧侶全員が還俗して春日神社の神官となり、興福寺は無住の寺となって、西大寺や唐招提寺が管理するするようになったとの話が伝わってきます。
 鎌倉岡八幡宮では、境内にあった真言宗寺院の塔頭の僧侶が全員還俗して神官となり、総神主と称するようになります。
 王政復古のおひざもとであった京都では、神仏分離・廃仏毀釈が進行し二條城内に設けられた京都府庁の台座には、道端の石地蔵を集めて石垣が組まれます。寺院の廃合や整理も激しく、一般の末寺や大寺院内の塔頭などで廃寺となるものが多くでていました。

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 京都にいた宥常は、こういう空気に接して「現実」を知ります。
 政府の方針や廃仏毀釈という現実に逆らって、金毘羅大権現を仏教専属の神社として維持していくことが難しと思うようになってきたようです。それを加速させる次のような風も吹き始めます。
①一つは当時、金刀比羅宮内でも時流に乗って平田門下が影響力を増してきて、僧籍維持を主張する普門院への対抗勢力になりつつあったこと。
②社会状況が、仏教(寺院)として存続しても僧侶の生活を保障するものではなくなっていたこと。そして、奈良の興福寺の僧侶を真似るように僧籍を離れるのが流行のようにもなっていたこと。
③新政府の「御一新」に逆らって、金毘羅神は日本古来の神ではなくて、仏教の神だと上申しても、結果としてそれはお上に反逆するものであり、かえって金毘羅大権現の存続を危ういものにすること
④だとすると大権現存続のためには、あえて平田派的な論を用いた方が得策かもしれないこと。
⑤加えて宥常の個人的な保身・処世の動機も重なったのかもしれません。「御一新(神仏分離)」を通じて、山上経営の主導権を確固たるものにして、若きリーダーとして歴史に名を残す。
若い宥常の判断と、その後の行動は早かったようです。彼は政府の神仏分離政策に従って改革を行い、神社として存続を図り、引き続いて繁栄する道を選ぶべ道を選択します。つまり、彼は京都で今までの方針を転回させるのです。
C-23-1 (1)
  明治元年五月、宥常は上申書を政府に提出します。
そして、政府の神仏分離の方針に従うことを告げ、次の条々について御伺いを立てます。
1 金毘羅大権現は本朝の大国主尊であること。
2 象頭山を琴平山と改め、神号は勅裁をいただきたい。
3 一山の僧侶は還俗すること。
4 勅願所、日本一社の御綸旨(りんじ)、御撫物(なでもの)は、今まで通り認められたい。
5 御朱印地であることを考慮していただきたい。
 こうして6月14日、金光院宥常は京都で還俗します。金光院最後の住職となった宥常(ゆうじよう)は琴陵宥常(ことおかありつね)と改名と改めることを、願い出て許されます。そして金毘羅大権現の新たな神号は「勅裁を蒙(こうむ)りたい」と願い出たとおり、神祇官からの達書でに「金刀比羅宮」と改められます。
 こうして、新政府との交渉によって金毘羅大権現が金刀比羅神社として、存続できる道を開くことはできました。次にやるべきことは、その社格と、自らの地位の確保です。8月14日、琴陵宥常は、金刀比羅宮を勅裁神社の列に加え、宥常を大宮司に補任されたいと次のように願い出ます。
   宥常の歎願奉り候口上の覚                            
 讃岐国那珂郡小松庄琴平山に、御鎮座在りなされ候 金刀比羅大神の御儀は、御代々比類無き御尊崇に依りて、御出格の御沙汰の件々並びに、天朝において御取り扱いの次第等は、別紙に相記し、尊覧に備え奉り候通りに御座候、斯の如く種々容易ならざる朝令を蒙り奉り、御蔭を以て、神威日盛は申すに及ばず、奉仕の者共、神領の商農に至るまで安住罷り在り候儀は、偏に広大無量の、朝恩と冥加至極有り難き幸せと存じ奉り候、
 然るに方今一方ならざる御時節をも相弁え候上は、安閑罷り在り難し、天恩の万分の一をも報謝奉り度き赤心に御座候処、微力不肖も私聊以其の実行を相顕しがたく、依之会計御役所え御伺い奉り、金壱万両調達奉り度段歎願奉り候処、御隣懲の御沙汰を以て御採用成し下され、重々有り難き
幸せに存じ奉り候、且万事広大御仁恕の御趣意に取継り、猶又歎願願い候義は、別紙に相記候御由緒御深く思召なされ、分けて御制外の御沙汰を以て向後、勅裁の社に加えられ、且私儀大宮司に任ぜられ度、俯し伏して懇願奉り候、然る上は弥以て、皇位赫々国家安泰の御祈祷、一社を挙げて丹精を抽んで奉る可く候、恐惶敬白
    六月十四日          金光院事琴陵宥常
   弁事御役所
ここにはもう象頭山も金毘羅大権現も現れません。山は琴平山、主神は金刀比羅大神とリニューアルした名称が表記されます。また金刀比羅宮の由緒については「別所に相記」して提出したとあります。どのような内容だったかが気になるのですが、私の手元にこの時に提出した文書はありません。推察するに、先の上申書で「金毘羅大権現は本朝の大国主尊である」としたので、大国主尊を主神とする神々の系譜が、この間に調えられたようです。
 ちなみに、「神社取調」の提出は、金刀比羅宮だけでなく全ての神社に求められました。
そのために村々の役人や神職は苦労したようです。当時の庶民は自分たちの「村の鎮守」に誰を祀っているのか、どんな神々を祀っているのかに関心はなく、祭礼を行っていました。
  由緒が分かるのは式内社や、建立者がはっきした氏神様などほんのわずかでした。そこへ新政府からおまえの村の神社の由緒書きを提出せよと命じられたのです。ないものは提出できないとは言えません。提出しなければ神社として認められず、邪教として扱われ存続できないのです。
 ここに神仏分離政策のもうひとつの意味があります。
仏教よりも否定されたりされなければならなかったのは、民俗信仰だったのかもしれません。それまで民衆が信仰してきた修験道や巫女(シャーマン)などの民間宗教や、若者組、ヨバイ、さまざまの民俗行事、乞食などが「廃仏」とともに「毀釈」されて行くことになります。そういう意味では民衆の生活態度や地域の生活秩序が再編成されてゆくスタートだったと言えるのかも知れません。別の視点で見ると、国家が村の祠や小社を有用で価値的なものと無用・有害で無価値なものとに線引きしたとみることもできます。この結果、民衆に根付いていた多くの信仰が邪教として、排斥されていくことになります。
「神社取調」に対応したのは、村役人や神職(大半が僧侶から神職に転身した人たち)だったのではないか私は推測します。
彼らは、村に伝わる伝承をかき集め「村の鎮守」の由緒書きを作ったのではないでしょうか。なにもないところから由緒書きを作らなければならなかった神社もあったかもしれません。「真摯」な「考証」にも関わらず「不明」な神社も多いと云う記録も残っています。
  その「由緒」を明らかにできなかった神社の方が多かったようです。しかし、提出しなければならない。そうなると、創り出す他ありません。後世の適当なことを付会することに追い込まれていったのでしょう。ある研究者は「神社取調とは、大半の由緒不明の神社で社で、付会・でっち上げを行う過程」であったとも云っています。確かに、急に提出期限も限られたものなので、今の私たちから見ると「拙速・乱造」と思えるものもあるように思います。話が横道にそれました、これについては、また別の機会にして・・・
 宥常の嘆願書に戻ります。
 宥常は、新政府の求めに応じて一万両を納めたことに続いて、
「勅裁の社に加えられ、且私儀大宮司に任ぜられ度、俯し伏して懇願奉り」
と、大宮司のポストに就くことを嘆願します。この歎願書に次いで、八月十三日に重ねて歎願書を提出し、勅裁の神社の件は認可されます。しかし、大宮司就任は許されませんでした。8月17日に従五位下を授けられ、翌8月18日付けで、改めて社務職を仰せ付けられます。
 結局、「宮司に仰せつけられたい」という願いは聞き届けられず、明治6年3月には、鹿児島より深見速雄が宮司として赴任して来ることになります。宥常が宮司に任命されたのは、14年後の明治19年3月深見速雄が亡くなった翌4月のことでした。(松原秀明氏『金毘羅信仰資料集』)それまでの宥常は金比羅宮のトップではなかったことになります。
  こうして宥常の京都での新政府との交渉は1年間に及びました。
この交渉が地元金比羅山内の僧侶達と連絡・合意を取りながら進めたとは思えません。宥常と側近者で決定され進められたようです。このため「寺院から神社へ、僧侶から神職への転身」を、普門院や尊勝院の反神仏分離派の院主達がスムーズに受けいれてくれるとは限りませんでした。若き宥常の「決断と実行」が試されることになります。
  明治2年(1869)二月、琴陵宥常は1年ぶりに讃岐に帰ってきます。と同時に、神祇伯白川家の古実家古川躬行が琴平に到着、以後逗留して改革を指導することになります。いわば改革のお目付役であり、実質責任者となります。

金毘羅山多宝塔2
 金毘羅大権現関係の建築物は、次の様に改められていきました。
①三十番神堂
 廃止の上、石立社(祭神少彦名神)に充当。
②阿弥陀堂
 廃止の上、若比売社(祭神須勢理毘売命)に充当。
③薬師堂(金堂)
 廃止の上、その建物を旭社(祭神伊勢大神・八幡大神・春日大神)に充当。
④不動堂
 廃止の上、津島神社(祭神建速須佐之男命)に充当。
⑤孔雀堂
 廃止の上、その建物を天満宮(祭神菅原道真)に充当。
⑥摩理支天堂
 廃止の上、その建物を常磐神社に充当。
⑦毘沙門天堂
 伊邪那岐神・伊邪那美神並びに日子神社(祭神事代主神・味組高根神・加夜鳴海神)に充当。
⑧多宝塔
 廃止の上、その建物は明治三年六月に取り払う。
⑨経蔵
 廃止の上、その建物は取り払う。
⑩大門
 左右の金剛力士像を撤去して、建物はそのまま存置。
⑪二天門
 左右の多聞・持国天像を撤去して、建物はそのまま存置
金毘羅山旭社金堂

次に組織改革と人員整理です
 まず、旧体制である江戸時代末の金光院の組織を見ておきましょう
別当寺は象頭山松尾寺金光院で、金光院主は当時二百数十名の役人を使用し、寺領をもつ領主的な存在で「お山の殿様」と呼ばれていました。役人の内、僧籍にあったのは20数名程度だったようです。そして5人の役僧が「寺中」と呼ばれる脇坊の住職として、次のような分業体制をとっていました。
①真光院、尊勝院 庶務を、
②万福院   会計を、
③神護院   神札・祭礼
④普門院   社領民の滅罪(葬儀)
この内、④普門院は山上の外の現在の琴平公会堂にありました。
  宥常は、僧籍にあった二十数人への還俗を断行します。その上で、旧脇坊を次のように処置します。
神護院は退身した上で還俗して社務職として神社に仕えました。万福院は退身して還俗し、山上から去ります。尊勝院と普門院は退身しますが、僧籍からは離れませんでした。
先にも述べたように神仏分離に、最も反対していたのは普門院の院主宥暁と尊称院院主でした。
彼らは、宥常の進める改革策を受けいれることは出来なかったようです。還俗に対しても激しく抵抗しました。普門院は大門の外(現金刀比羅公会堂)にあって、松尾寺の檀家の葬祭などを取り仕切っていたので、普門院の院生宥暁に、先祖代々の尊牌とその香花料として徳米一〇石の田地を与えて仏籍に残る道を選ばせます。その後、普門院は京都仁和寺内階明寺の直末寺院となり松尾寺と称するようになり、金比羅公会堂の下の現在地に境内を移します。しかし、これは普門院の意向に従うものではなかったようです。後に普門院は、金刀比羅宮を裁判に訴え争うことになります。

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 組織改革と同時に、人員整理も行います
改革前には、僧俗合わせて300人近い職員がいたのを、明治4年の冬には約80人とし、県からの指示で翌年にはさらに、30人程度まで人員は削減されます。 それは、財政収入減へ対応でもあり、「社寺領上知令」とも関わります。
  それまで金毘羅大権現の金光院院主は、寺領朱印地330石の領主で、領主に対する租税は免除され、そこから得られる収益は全て祭司・供養・社殿の修繕費用に充てられました。
  ところが明治4年1月。いわゆる「社寺上知令」が発布されます。
「諸国社寺由緒ノ有無ニ不拘 朱印地除地等 従前之通被下置候所。各藩版籍奉還之末 社寺ノミ土地人民私有ノ姿ニ相成不相当ノ事ニ付、今般社寺領現在ノ境内ヲ除ク外、一般上知被仰付追テ相当禄制相定、更に蔵米ヲ以テ可下賜事」
ここにはすでに版籍奉還が行われ、各藩が領地を奉還した以上、「朱印地」「除地(のぞきち)」等の「社寺領」も当然「上知(没収)」すべきである。それにより失われた特権については、追って蔵米にて補償する予定である、とされています。

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  ちなみに京都の南禅寺界隈の別荘庭園群は、神仏分離令や社寺上知令によって、広大な敷地を持っていた南禅寺の土地の大部分が民間へ払い下げられます。それを山縣有朋や財閥の野村家など、政財界の人々がステータスとして競って別邸を建てたものです。あの綺麗な景色の中に、寺社と明治政府の攻防が隠れているようです。
 ここからは神仏分離に、経済的な側面があったことを、改めて気付かされます。この結果、経済基盤を失い衰退していった寺院も多いのです。この措置とリンクさせて、財政収入の激減が予想される社寺への「職員削減」を命じたようです。

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 そのような中で、明治5年4月3日、鵜足郡内田村の吉田寺住職真道房から金刀比羅宮に対して、
「御山変革につき、不用となった三つ壇と仏具類一揃えの寄付を願いたい」
との申し出がありました。宥常はこれを許しています。この頃から、金毘羅大権現の仏像や仏具や什器などの処分が注目されるようになったようです。
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   聖観音立像 (金刀比羅宮 宝物館蔵)
改革によって取り除かれた仏像・仏具の処分が明治5年6月から始められます。その記録を見てみましょう。
六月五日、梵鐘が227円50銭で榎井村の興泉寺へ売却。
七月十一日 雑物什器売却、
  十八日 仏像売却、
  十九日 善通寺の誕生院の僧が、両界曼荼羅を金二〇円で買い取った。
 八月四日 障りありとして残されていた仏像や仏具を境内の裏谷で焼却した。
午前八時から始められて、午後には焼却を終わった。その日の暮れのころ、聞き付けて駆けつけた二、三人の老女が、杖にすがりながら、燃え尽きてちりぢりとなった灰を、つまみとって紙に包み、おし頂いて泣きぬれていた

と記録されています。
 のこされた仏像は、長櫃(ながびつ)にいれて裏谷へ隠してあった聖観音立像と、不動明王立像の2体だけでした。現在、この2体は宝物館に展示されています。金毘羅さんの神仏分離の激動を見守った仏と言えるのかも知れません。
 そして、立ち上る煙を宥常はどんな気持ちで見ていたのでしょうか。
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参考文献 神仏分離令と金刀比羅宮 ことひら町史441P


  戦国末期に建立された金比羅堂が別当を務める金光院の歴代院主の手腕によって、他の諸堂を圧倒する権勢を誇るようになります。17世紀半ばには、幕府から金光院に朱印状が交付されたことで「お山の殿様」としての地位を確立したことを前回は見てきました。
 今回はそれから20年後に起こった事件を見ていくことにします。内容は、追い詰められた三十番社が金光院を幕府に訴えた事件です。結果は、訴えた社人が獄門貼付の厳罰に処せらことで幕を閉じます。
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 内記太夫の控訴までの足取り
 時代は移り世代がひとつ新しくなります。三十番社の相続をめぐって弟・権太夫と争った松太夫の長男徳は幼少の時から金光院主宥睨にかわいがられ、その口添えで京都の吉田家から装束を授けられ、内記太夫の名を与えられます。内記太夫は、父の松太夫が隠居した後を受けて三十番神の神役を取り仕切ることとなります。しかし、吉田家神道の影響をうけてでしょうか、次第にかつて父が争った叔父の権太夫に近づき、金光院の僧侶の横暴をひそかに幕府に訴えようと考えるようになります。
 内記太夫から相談を受け行動を共にし、後に追放の刑に処せられた与北村の瀬兵衛の口述書が残っています。それによると
1670(寛文十)年6月23日、内記太夫は伊勢参宮を名目にして丸亀を船出し、先発していた権太夫・理兵衛の二人と、大坂平野町徳左衛門方で落ち合います。
27日には与北村の瀬兵衛が到着したので4人で連れ立って堺筋の輿左衛門という分限者を訪ねます。輿左衛門は大坂では指折りの分限者で、江戸にも手筋(于づる)の多い人であったといいます。瀬兵衛は、権太夫に依頼された通りに金毘羅さんの事情を述べ、「今度の訴訟は必ず理運が開けるから……」と、資金的な援助を依頼します。
7月1日、宿の主人徳左衛門の紹介で、京都の人で神道に明るい太郎左衛門を宿に招いて事情を説明し、訴訟の見込みについて尋ねています。太郎左衛門は、次のように応えます。
「金毘羅の義は、院号や山号もあるので神とも仏とも申し難い。そのうえ出家といっても代々支配して来ており、御朱印なども頂戴しているので、訴訟しても勝目は少ないと思う。しかし権現の本地が何であるか調べてみよう」
 この悲観的な意見を聞いて瀬兵衛は訴訟を諦め、一行と別れて帰国したと後に口述しています。
7月17日 内記太夫と権太夫は、堺筋の与左衛門と共に京都に上り、神祇宗家の吉田家に申し出ます。二人は吉田家の指図を受けて訴状をしたため、京都所司代に差し出します。しかし、「この事件はここで解決する問題でないから、江戸へ参るように」と突き返されます。そこで二人は江戸に出て寺社奉行小笠原山城守へ訴状を提出したのです。これが寛文10年8月8日のことでした。

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意訳した訴状の内容を見ながら、背景などを補足していきます。
私どもは讃岐金比羅三十番神社の社人(=神人=下級神職)です。
宮地の中に金光院という出家僧侶がいます。この寺は先年までは下の坊を呼ばれた滅罪寺(=金光院)です。そのため今でも金光院の坊主達は扶持切米を潰し、死人の取扱を行っています。宮地の中に観音堂・薬師堂・釈迦堂があります。これらは金光院が管理していますが、土佐の長宗我部元親の侵攻のの折に、よしみを通じて私どもより奪っていったものです。
 そして賽銭などは金光院が管理するようになりました。賽銭の外にも神楽銭がありますが、これについては私市良太夫が管理していましたが、開帳と称して、私たちが作成した御幣を取り出し、信者に授け、神楽銭までもを理不尽に奪い取り最近は、袖神楽銭のみを与えられている始末です。
  金光院に対して申したいことは、出家が神楽を管轄するという珍奇なことを止め、前々通りに私どもに管理運営を任せて欲しいのです。また、皆のものが納得しない所へ神楽場を建て、袖神楽のみを勤めておりますが、その上に最近は、権現の後方の遠いところへ神楽場を移して、参拝するものも分からない所なので、訪れる人も少なく私どもは飢え死に及ぶような有様です。しかし、両者の神事については今まで通りきちんと勤めております。
①金光院は下の坊と呼ばれる菩提寺であったこと。
②宮地の中には観音堂・薬師堂・釈迦堂があるが、もともとは三十番社が管理していたこと。
③それを、土佐軍の占領時に、長宗我部元親が土佐出身の宥厳を金光院住職に据えてこれらを三十番社から奪っていった。そして今では、これらの賽銭は金光院が管理するようになってしまった。
 とあります。

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  この訴状の中には、三十番社の神職からみた戦国時代末期からの金毘羅山の様子が記されています。それは残された別の史料から推察してきたを裏付ける内容です。つまり、
①からはもともとは金光院は「下の坊」であり「死者のおもむく」広谷墓地の慰霊の寺院であったこと、その位置も観音堂や三十番社のある現金刀比羅神社本殿の位置よりも下にあったらしいこと。
②③からは、諸堂が並立していたがその管理権は、長宗我部元親の占領以前には三十番社にあったということ。長宗我部元親が従軍していた土佐出身の修験僧宥厳を金光院住職に据えて、保護したのを背景に、金光院が山内での権勢を強めたということを裏付けます。訴状は具体的に、金光院が三十番社から奪ったと主張しています。
「町史こんぴら」などには「天正末期に金毘羅山のお山で大変革があったこと。それは金比羅堂の出現で、背後には別当である金光院の台頭がある」と記されていますが、この訴状は、より具体的にそれを裏付ける内容です。「長宗我部占領下の大改革」を、三十番社の立場から見ればこうなるのかもしれません。
 更に訴状は、神楽銭の管理権までを金光院に奪われたことや神楽場の設置場所についての不満を述べた上に「僧侶が神楽を管轄するという奇妙なことは止めさせて欲しい」と金光院の横暴を訴え自分たち神職の経済的な苦境の救済を求めています。
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  生駒家からの寄進が毎年十月十日の祭礼に使われていないことについて
毎年の10月10日・11日の神事について、小松庄四條村の百姓上頭と下頭に、申し分かちて担当してきました。この神事祭礼の経費については生駒一正様より80石の社領の寄進を受け、それを上当・下当の経費に充てて神事を勤めてきました。その後、250石の社領寄進を受け、併せて330石の寄進を受けています。
 ところが、これらを神事に使わないため4ヶ村の百姓達は迷惑を受けておりましたので申し出たところ、金光院は高松に参り生駒藩主のお袋様へ申し上げ、定米50石をいただき4つの村に四分割して貸し与え、その利を当頭の経費にしています。9月から11月までの祭事期間中の賄い額は大きく当人は殊の外迷惑を被っています。古来よりの神事と思い勤めてはおりますが、事によっては神事から退かせていただくことも考えざる得ません。身分の奢りを究め、何軒もの下屋敷を建て、一門には商売をさせ質物を取るありさまです。
10月10日の大祭の経費に関わることが述べられていますが、注目すべき点は、
初期の寄進である生駒一正からの寄進80石は、大祭の経費に充てていたこと、ところがその後の250石については金光院が独占し、大祭経費に使用していないと訴えます。ここからは、三十番社の神官達が
「生駒家の寄進は、金毘羅山の祭事のために寄進されたもので、金光院単独に贈られた物ではない」
という認識を持っていたことが分かります。そして、初期に寄進された80石に関しては、実際に祭事に使われていたようです。
 その後に、申し立てたところ
「金光院は高松に参り生駒藩主のお袋様へ申し上げ、定米50石をいただき4つの村に四分割して貸し与え、その利を当頭の経費にしています」
とありますが、「生駒藩のお袋様」とは生駒一正の側室オナツのことでしょう。オナツは金光院の宥厳と同じく財田の山下家出身で、宥厳とは甥と叔母の関係にありました。オナツが産んだ左門は、この訴状では「生駒藩の殿様」となっていますがこれは誤りで、殿様の異母弟になります。しかし、当時の金毘羅山の山内では「生駒藩のお袋様」と呼ばれていたようで興味深いところです。ここからも「宥厳ーオナツー生駒家」の強いつながりと金光院の権勢がうかがえます。
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漁師の御供えについて
浦々の漁師たちは願をかける際に、肴を両社へ供えることが恒例となっています。これについても、私どもへの御供えを妨げ、寺に取り入れる始末。清僧であれば肴を扱うことは憚られるはずです。
ここからは、この時期から金毘羅山の諸堂へ漁師達の参拝があったことが分かります。同時に「肴を両社へ供えることが恒例」となっていることから金比羅堂と三十番社が同等であったことがうかがえます。
三十番神権現大行事三社の正月の松注連飾りについて
 三十番神権現大行事・三社の正月のお注連はり(しめはり)は、私どもが長年担当して参りまいた。しかし、観音堂・釈迦堂・薬師堂は金光院より沙汰があり、ここ十数年は右三社の注連飾りは金光院が行うことになりました。その際、理不尽にも証文を出させたのに、書物は渡されていません。まさにやみうち的な仕打ちです。金光院の威勢を恐れ仕方なく押印したした次第です。
 最初の表題に注目したいのですが「三十番神権現大行事」であって「金毘羅大権現」大行事ではありません。ここからも、もともとは三十番社が金毘羅山の諸堂管理権を握っていたことがうかがえます。そして金光院の権勢の高まりと共に、証文を書かせて管理権を奪い取っていった経過が記されます。


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新法の押しつけ
以前は年に三度の市の際に、私どもは神前に上がる習わしでしたが、5年ほど前から金光院の許可を得た後に上がるようにと新法を申しつけられ迷惑を被っています。
 先年の閏十月に参拝者があったので神楽所へ参り、袖神楽を行い参拝者から神楽銭を少々いただきました。ところが理不尽にもこれをこちらに渡しません。その上、年に2・3度の市以外は神前に上がらせないと申しつけられ、袖神楽銭も金光院が取ることになってしまいました。
  この時期に金光院により「新法」が作成され、山内に新しいルールが施行されていった分かります。この提訴から約20年前に金光院は、幕府から「金毘羅祭祀田三百三十石」の朱印状が与えられました。これは金光院を封建君主とする全山支配する権力が確立されたことを意味します。これを受けて、金光院を「主」、三十番社他の諸門を「従」とする主従体制の法的整備を進めます。それが「新法のおしつけ」という形で現れているようです。
 戦国時代末には三十番社と金比羅堂の「対等」な関係だったのかもしれません。しかし、朱印地のお墨付きをもらった金光院は「主従関係」に法的面でも、儀式的面でも示せる体制づくりを進めます。つまりこの時点で、三十番社は金比羅堂(金毘羅大権現)に奉仕する立場になっていたのです。しかし、訴状からは三十番社の神人たちにそのような「大局観」は読み取れません。「金光院の僧侶は、三十番社の既得権利を奪う無法者」というのが訴状を貫く主張です。
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多門院の重用と布教活動に対する批判
土佐国の浪人で山伏を多門院と名付けて重用し、今までの例にない土佐での金光院勧進を行わせています。このような事に関しても本来は私どもが行うことであるはずなのに、留めおかれて迷惑を受けています。
多門院の重用とその布教活動が批判されています。
少し長くなりますが多門院について、触れておきたいと思います。
多門院というのは、土佐出身の修験僧宥惺(幼名「熊の助」)にはじまる院坊です。宥惺の父は高知県高岡郡南片岡村の片岡八兵衛尚親です。片岡家は長宗我部家と婚姻関係にある有力家で、後には山内家とも懇意な関係を継続します。
 父尚親は、島津討伐を命じられた長宗我部元親に従軍して九州に渡り、「四国武将の墓場」となった豊後・戸次川の戦いで死亡します。父を亡くした片岡熊の助は、土佐出身の宥厳の後を継いで金光院四代となっていた宥盛を頼り、金毘羅山にやって来てその弟子になり宥惺を名乗り、修験道の修行に励んだようです。この時に、宥惺は宥盛のから多聞天像を与えられたので院号は「多聞天」と呼ばれるようになります。
琴平神宮の正史の中にも「慶長11年(1606)片岡民部(熊の助)、多聞院を名のる
と記されています。
 ところが、慶長18(1613)年に宥盛が死亡し、山下家出身の宥睨が院主の座につくと、宥惺は武士ににもどり、金毘羅山を飛び出していきます。彼が向かったのは大阪城でした
彼は長宗我部家に恩義を感じていて、元親の子が大坂城に入るとそこに馳せ参じたのです。そして、「冬・夏の陣」で大暴れします。元和元年(1615)に、大坂方が敗れると宥惺は金毘羅に逃げ帰ってきます。彼は大坂城の戦いでは目立っていたらしく、徳川方の追求の手は厳しく金毘羅山まで伸びてきました。そこで、修験者に姿を変えて土佐まで逃れ、山中や海岸での修行生活を続けます。その結果、宥惺は修験者のリーダーとしても名声を得るようになっていたようです。
 その後16年後の寛永八年(1631)に、宥睨は宥惺を金毘羅山に呼び戻します。
宥睨もかつては、宥盛に仕えていましたので、宥惺とは同じ門下の弟子として周知の間柄だったと私は思います。当時の宥睨は、金光院院主として生駒家の信頼を得て寄進地を増やし、門前町の形成に着手していた時代でした。金毘羅大権現の発展に伴う諸問題の対応に、自らの右腕を期待して宥惺を土佐からリクルートさせたのだと思います。それを示すかのように宥睨は金光院の門外で小坂に広大な宅地を与えられます。これが新たに興された多門院です。
 宥惺は「金刀比羅を修験道の聖地とする」という戦略を持っていたようで、そのために京都の醍醐三宝院の末となる一方、度々大峰山へ行き、行者の修行を重ね人的なネットワークを形成していきます。こうして「修験で立つ多門院」として立場を強化します。そして当山派修験道と金比羅堂の別当を兼務していた金光院に代わって「山伏の義は多門院へ御譲りにあいなり」と、金毘羅山における修験道は多門院が代行していると主張するようになります。それを裏付けるように多門院の記録には、修験道関係者の記述が詳細に残っています。
 訴状の「土佐での金光院勧進」という記述からは、多門院が土佐で「布教活動」を行い成果を挙げている様子がうかがえます。それは宥惺の土佐での「逃亡中の修験生活」の経験を活かした「布教活動」だったのでしょう。その結果、山内家の藩主にお目通りできる修験者は「多門院」のみと言われるようにまでになります。
 また、讃岐山脈を猪ノ鼻峠で越えた箸蔵寺は阿波修験道の聖地でした。これを最初に、金比羅大権現にとりついだのも多門院であったと言われます。箸蔵寺周辺には多門院の弟子たちが多数存在していたことが箸蔵寺側の史料からも分かります。このようなつながりを背景に、箸蔵寺は「金毘羅大権現の奥社」を称するようになっていくのではと私は考えています。
また、「1757(宝暦7)年3月11日 但州(たじま)の山伏20人と俗人が参拝。「堂床」の回廊で初穂を渡す」
など(修験道山伏関係のとの記録が数多く残されていることから、多門院が金毘羅大権現を天狗信仰の聖地として「山伏の参拝」を進める拠点機関としての役割を果たしていたことが分かります。
   確認しておきたいのは、多門院が「土佐から来たよそ者で、もともとは浪人の新参者」だったということです。「新参者が山内で大きな顔をしている」ことへの旧勢力を代表する三十番社の反発がこの条項からは見て取れます。
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 宮林(みやばやし)の管理について
金毘羅山の神域の社叢については、落葉一枚でも取れば悪事のことと申しつけながら、金光院一門に対しては薪材木などを自由に伐らせ、その他にも取り巻きのお気に入り集についても同様のありさまです。
 ここには、神域の社叢管理についての不満が述べられています。かつては、社叢に入って落葉や薪などを取ることが出来たのが「新法」では「悪事」であるとされるようになったようです。これも、当時の丸亀藩や高松藩が進める森林の管理強化という流れと期を同じくする動きのようにみえます。
金光院院主の山下家世襲と横暴に対する批判
十数年前に真光院という下坊主に社領の内の16石を分与しました。我が友共神職は日に日に餓死に及んでいる有様なのに、身内に関しては我が儘次第です。
三十番社より二丁半ほど下に金光院の墓所を設けていますが、これは参拝者の通り道に当たります。権現への社参の際の障害にもなります。取り除きどことなりへ移動させるように申しつけくだされば有り難く存じます。
生駒家の殿様の側室となったオナツの甥で宥睨が金光院に院主になって以後は、山下家が世襲化する時代が続きます。その結果、山下家出身者やその死者への厚遇が批判の対象となります。真光院を新設し分家のように山下家の関係者に継がせたこと、さらに金光院=山下家の墓所を三十番社のすぐ下の参拝者の道筋に設けられていたことが分かります。
 以上 金光院が金比羅町内において我儘の具体的な実例を書き上げました。
私ども先祖より代々、今に到るまで神事祭礼を勤めて参りました。
古くは社壇の中へ僧侶が出入りすることもありませんでした。ところが金光院が年々威勢を増すにつれて私どもをないがしろにし圧迫するという浅ましい姿になりました。このことは数年来訴え出てきました。
 しかし、金光院の威勢に恐れるとともに、道中路銀等にも事欠く次第。ただ打ち過ぎていくばかりで家中は餓死に到るような有様で、乞食のような躰でこの度、参りました。 御慈悲の上、金光院を召し出して、今までの先例通りに行うように申しつけいただければ有り難く存じます。   
   寛文十年戌八月八日 讃岐国金毘羅社人 権太夫判 
                      内記 判
   御奉行様                    
 以上のように、権勢を増す金光院の僧侶に対する三十番社の社人の訴えが綴られています。ここには追い詰められた日々の生活にも困窮した神人の様子が見えます。こうした訴えに対しては、従来は幕府は介入することを避けて、その国の藩主に仲裁させる方法をとっていました。しかし、内記と権太夫の訴状には、京都の吉田家の介添えがあったからでしょうか、寺社奉行は直ちにこれを受理してしまいます。そして金光院に対して、返答書を提出して翌月中に江戸に参府するように通達させたのです。
 訴状の裏書を受けた内記太夫と権太夫は、讃岐に帰って8月27日に高松藩庁にこれを提出します。藩はこれを金光院に送付したので、金毘羅のお山は大騒ぎとなります。
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  訴えられた金光院の対応は?
 金光院は、九月に入って返答書を幕府に提出します。その草案の写しを見ると、極めて調子の高いトーンで次のように反論します。
「金毘羅大権現が主格であり、それに奉仕するのは金光院であって、訴人たちは金光院の家来であり神楽役人で「主従」の「従」に過ぎない」
と「主従関係」にあることを強調しています。
 そして、江戸に反論審問のために出府することになります。そのメンバーは、金光院からは、隠居の宥典が山の事情に通じた真光院を従えて出府、高松藩からは朱印状を幕府から受けた時に尽力した寺社奉行間宮九郎左衛門が同行します。金光院の一行は高松藩の関船を貸し与えられて、瀬戸内海を大坂に渡り東海道を上り21日に江戸へ到着します。宥典は老齢の身での長旅で、持病が再発し、対決の延期を願い出て療養に努めるます。高松藩ではこの間を利用して、両寺社奉行への情報収集と工作を盛んに行っています。
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金光院と権太夫の対決と裁きの結果は?
 10月9日、寺社奉行月番の小笠原山城守の役宅で、金光院と内記太夫の双方を呼び出して、両者の主張が聞き取られます。高松藩の間宮九郎左衛門が審理に先立って「金光院が所持している御朱印状と、両人の訴状の内容が相違しているから、その点を引き合わせてもらいたい」と述べ、朱印状を与えられた時の事情を詳細に説明が行われます。それに続いて双方の問答が行われ証文が提出されますが、対決は単なる形式に過ぎなかったようです。
寺社奉行は即座にその場で、
「内記太夫・権太夫 家来に紛れ無き証文これ有る上は、金光院家来として主人へ逆意を企てた不届者である。両人の者共は、金光院に下しおかれ 何分にも金光院心次第に仕置申し付けよ」
と申し渡されます。つまり
「内記太夫・権太夫は金光院の家来となることに同意した証文に押印している。家来が主人を訴えることは逆意でありゆるされない」
と、神仏の争いには立ち入らずに、封建社会の大義である「君君たらずとも、臣臣たらざるべからず」の大義名分論でこの問題を裁いたのです。

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判決後の二人を待っていたものは? 
内記太夫と権太夫は、「逆賊」としてその場で搦め取られ、高松藩邸の牢舎につながれる身となります。勝利した金光院の一行は、10月15日に江戸を出発し、囚人となった二人を連れて旅を続け11月2日に高松に還ってきます。
 10月9日の審判が下ってからの対応は、幕府の寺社奉行小笠原山城守と、高松藩主松平頼重・金光院別当宥栄・隠居宥典の間で細密な工作が行われたことが、三者間を往復した文書から細部まで分かります。先ず松平頼重が武家の掟に照らして、内記太夫と権太夫の両人は傑獄門の極刑、子供は獄門、その他の者は斬首という方針を決定しています。これを寺社奉行の小笠原山城守が内諾します。一方、金光院別当は一党の減刑を松平頼重公に願い出ます。頼重がこれを容れて罪一等を減じ、小笠原山城守に事後承諾を求めるということシナリオが事前に決められ、その筋書き通りに運ばれたことが分かります。
事件によって引き起こされた金毘羅の山内の動揺をどう収めるか?
金毘羅山の山内では神人側の意見に賛成する人もあり、これまでの金光院の横暴に対してこれを憎む人たちもいたようです。特に僧侶が家来の神人を処罰することについては、宗教的に疑義を抱く人々もありました。そのような動揺を抑えるために金光院と高松藩は処罰に先立って、各寺門を始め、寺下の指導者五十数名の連署連判の誓書を提出させ、忠誠を誓わせています。この誓約書の文面は、金光院の幕府への返答書が正しいことを確認させ、内記太夫と権太夫は逆意を企てたものであることを承認し、以後も金光院に忠誠を尽くすことを誓ったものでした。
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 こうして、11月11日を期して処刑を行うことになります。
高松の獄舎を出た一行は、足軽20人毎に前後を警固され、円座・滝宮を経て金毘羅へ護送されます。一夜を明かした後、翌11日の早朝に金毘羅町内を引き回しの上、金毘羅領と高松領の境に近い狹間村の祓川の松林の中で処刑が行われました。
内記太夫と権太夫は獄門、内記太夫の子二人と権太夫の子三人、権太夫の弟吉左衛門とその子二人、金光院下僕の坂の下六右衛門の九人が斬罪となりました。「反逆の罪は九族に及ぶ」のが封建の掟ですが、子供の中には五歳と七歳、それに乳飲み子も含まれていました。いたいけな子供が親の罪に連座してその細い首を打ち落とされ、枯草が血に染めたのです。金毘羅神も、金毘羅大権現も、釈迦も、不動明王も、十一面観音も、この惨劇を金毘羅山の山上からじっと見下ろしていたのです。
 これは金毘羅山内における権力者が誰であるのかを、劇的に示すことになります。金光院に刃向かう者は「獄門打首」になるということを天下に知らしめたのです。
  金光院の権威を高める「ショック療法」としては、これ以上のものはない劇的なものでした。


しかし、強い処置には副作用が伴います。
処罰された内記太夫と権太夫についての伝承がそれを物語ります。
 内記太夫と権太夫の首は、獄門台に曝されたが、両眼を見開いてその怨みを訴え、長くその眼を閉じなかったと伝えらます。
やがて「祓川には鬼火がともる。松太・権太の眼が光る」という里謡が歌われるようになります。
刑場はいつか権太原と呼ばれるようになり「高松藩士が権太原を通ると、馬が突然狂い出して大怪我をした」という噂が広がります。やがて高松からの金毘羅参詣の道は、権太原を避けてその南を通るようになります。これは菅原道実や崇徳上皇の「悪霊伝説」に見られるパターンと同じです。しかし、内記太夫と権太夫が神として祀られることはありませんでした。
 しかし、内記太夫と権太夫が社人であった大井八幡神社の社人職を嗣いだ金関氏は、ひそかに二人の霊を祀っていたとも伝えられます。
 社人がいなくなった金毘羅さんでは、五人百姓が神役を一時的に代行するようになります。
翌年六月には、その打開のために、白鳥神社の神官猪熊千倉に送って援助を依頼します。そして金毘羅の山下家から二人の子供が選ばれ、白鳥神社に送られて教導を受けさせています。
その際にも、宥典は今後の神人の統制のことを心配して、神役としての神前の手ほどきを受けるだけにとどめ、神道の教えを受けることを固く断るように指示しています。以後、金光院は京都の吉田家と絶縁して、神仏混淆、仏道優先の金毘羅大権現として発展を続けることになります。
 高松藩の寺社奉行間宮九郎左衛門は、この事件の経過を日記風に書きとめ、これの副本を作り、関係者の間で往復した文書の副本をも添えて、後の記録として金光院に贈ります。そのために多くの人が書き写し、数多く残る結果となりました。
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  内記太夫と権太夫の墓は
 高松行の電車が、琴平を出て土器川(祓川)の鉄橋を渡りきった所の左手に墓地がります。その墓地の南の端の線路に一番近い所に、石殿造りの小さい墓が二つある。1㍍余りの石組みの台の上に置かれているのが内記太夫と権太夫の墓です。その墓の前の石の献灯には「松田宮・文久三(1863)年十一月吉祥日」と刻まれています。事件から二百年後の幕末になって建てられたものです。                     
 その墓のそばには、高さ1㍍あまりの石組みの台の上に置かれた全長二㍍余りの立派な宝篋印塔が立っています。この塔は、事件から百年以上経った文化文政ごろ、大金を拠出できる立場にあった人が匿名で建立したと言われます。長い相輪、馬耳風の尾根の線の優美さ、小さい塔身、見事な彫りを見せた請花と反花、人きい塔身の周囲には型通りに六四字の掲が刻まれしその塔身を受ける請花(うけばな)と反花(かえりばな)が美しい塔です。

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   祓川の墓地の説明板には次のように記されています
   慶長年間、王尾市良太夫は大井八幡宮と金毘羅三十番神の兼帯社人であった。
その長男を松太夫といった。寛文十年(1670)八月松太夫の子内記と松太夫の弟権太夫の両名は、金毘羅大権現の経営に関して金光院を相手として訴えを起こした。
幕府の寺社奉行はこれを受理し、その旨を高松藩に伝えた。高松藩は金光院に対して訴人と和解することをすすめたが、金光院はこれに応じなかった。幕府は双方の出府を求め決断所において審判を行った。封建制下の常として内記と権太夫は敗訴となり、寛文十一年(1671)十一月十一日、その一族は高松藩によって、祓川の刑場で処刑された。
その後、金光院においては不幸が相次いで起こりこれを内記等の怨霊のたたりとし、約二百年後の文久三年(1863)十一月処刑地の権太原に慰霊碑を建立して供養した。
とあります。
これを読むと、幕末に建てられた慰霊碑は金光院によって建てられたとありますが、宝篋印塔については何もふれていません。しかし、百年・二百年後の人たちにも、この事件は語り継がれていたことが分かります。
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「びっくりでこ」は獄門頸?
  この後、金毘羅さんのお土産店では「獄門人形」という小さい粘土作りの人形の首が土産物として売られるようになります。この人形は赤・白の一対で、短い棒の先に取り付けられ、白首の方を松太夫、赤首の方を権太夫と呼び、共に両眼を見開いて断末魔の苦しみを現していると言われました。そのころの金毘羅さんの土産物といえば粘土の神鈴と、大門の内側で五人百姓の売っていた糖飴でした。そこに登場した「獄門人形」は「びっくりでこ、こんぴらめかやり」とも呼ばれて参詣客に喜ばれ、人形にまつわる悲話と共に広く各地へ伝えられたようです。
 また、この人形は金毘羅
大芝居に出演した上方の千両役者の立役や悪役の隈取(くまどり=顔の彩色)のきいた顔を現したのが「びっくりでこ」であるとも伝えられます。獄門首か、役者の似顔か、いずれにしても金毘羅商人のたくましい商魂の産物といえるものかもしれません。
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参考文献 
金光院を訴え獄門になった神官たち         満濃町誌1173P

戦国時代末期の金毘羅山内は?
 そこには観音堂・釈迦堂・金比羅堂・三十番社・松尾寺などの諸堂が建ち並び並立する状態でした。その中心は観音さまを本尊とする観音堂=松尾寺でした。そして、この観音堂を守る守護神が三十番社だったようです。
正保年間 金毘羅大権現伽藍図
正保年間 江戸時代初期の金毘羅大権現の宗教空間
そのような中で地元の有力武将である長尾氏出身の修験僧・宥雅が一族の支援を受けて、観音堂の下に金比羅堂を建立します。そこには、讃留霊王の悪魚退治伝説から作り出された守護神・金毘羅神が祀つられるようになります。そして、宥雅はこの金比羅堂の別当として、金光院を開きます。これが金毘羅大権現のスタートです。
 ところで「別当」(べっとう)は、なんなのでしょうか?
 平安末期からの神仏習合では「神が仏を守る」「神が仏に仕える」という「仏が主で、神が従」という考えが広がります。具体的な例としては、東大寺を守るために宇佐から勧進された八幡神が挙げられます。そして、神社を管理するために寺が置かれるようになり、神前読経など神社の祭祀を仏式で行うようになります。その主催者を別当(社僧の長のこと)と呼んだのです。ここから別当の居る寺を、別当寺と呼ぶようになります。神宮寺(じんぐうじ)、神護寺(じんごじ)、宮寺(ぐうじ、みやでら)なども同じです。
 別当とは、すなわち「別に当たる」であり
「仏に仕えるのが本職である僧侶が、神職の仕事も兼務する」
という意味になるのでしょうか。
 次第に「神社はすなわち寺である」とされ、神社の境内に僧坊が置かれて、僧侶が入り込み渾然一体となっていきます。こうして神社で最も権力をもつのは別当(僧侶)であり、宮司はその下に置かれるようになっていきます。
 神道においては、祭神は偶像崇拝ではありません。
つまり目に見えないのです。神の拠代として、神器を奉ったり、自然の造形物を神に見立てて遥拝します。別当寺を置くことにより、神社の祭神を仏の権現(本地仏)とみなし、本地仏に手を合わせることで、神仏ともに崇拝できることになります。神社側にもメリットが多かったのです。
別当が置かれたからといって、その神社が仏式になったということではありません。
宮司は神式に則った祭祀を行い、別当は本地仏に対して仏式で勤行する「分業」が行われたのです。信者は、神式での祭祀を行う一方で、仏式での勤行も行ったのです。つまり、お経を唱えながら、神事祭礼が行われたのです。こんなことは神仏分離以前は、普通の信仰形態だったのです。明治時代の神仏分離令により、神道と仏教は別個の物となり、両者が渾然とした別当寺はなくなります。
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金比羅堂の別当であった金光院住職・宥盛の戦略は?
   関ヶ原の戦いが終わって、幕藩体制が整えられていくころに金比羅堂の別当となったのは金光院住職の宥盛でした。彼は、仙石権兵衛・生駒親正・一正・正俊の歴代領主から社領の寄進を受け、金毘羅さんの経済的基盤を確立します。
宥盛が背負った課題のひとつが金比羅堂の祭礼を創出することでした。
金比羅堂は宥雅によって建てられたもので、招来したインドの蕃神金比羅神を祀った新来の神でしたので、信者集団が組織されていませんでした。そこで、宥盛が行ったのが三十番社の祭祀を、金比羅堂の祭礼に「接ぎ木」して祭礼儀式を整えることです。三十番社からすれば、御八講の神事・祭礼を金比羅堂に奪われていくことになります。これに対して、三十番社の社人たちの金光院に対する不満は、次第に高まっていきますい。

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宥盛を鉄砲で殺そうとした三十番社の社人・才太夫  
 金毘羅宮の縁起によると
「金毘羅大権現が入定した廓窟の中に仏舎利と金写の法華経が龍め置かれている」

と伝えられます。この法華経の守り神として三十番神が祀られ、その神殿が観音堂の近くに建てられていました。才太夫は、この三十番神社の社人を勤めていました。生駒家のバックアップを受けた金光院の宥盛の勢いが強くなり、祭祀の改変整備などで三十番社の立場は弱くなり、その収入も減少していきます。つまり、台頭する金毘羅堂、衰退する三十番社という構図です。
 こうした不満が爆発したのが慶長年間、生駒一正が藩主であった頃(1610頃)のことです。
才太夫は、金光院から大権現社に参詣しようとして参道を進んでいた宥盛に鉄砲を射ちかけたのです。が、暗殺未遂に終わり、宥盛を倒すことはできませんでした。才太夫は宥盛の手の者によって捕えられ、一族や関係者の人々と共に高松へ送られて生駒家の手で斬罪に処せられます。今風に言うと
「神に仕える社人による仏に仕える僧侶への殺人未遂事件」
です。
なぜ、殺意を抱くほどに才太夫は、宥盛を憎んでいたのでしょう。ここには、三十番社と金光院との対立が背景にあったようです。

正保年間 金毘羅大権現伽藍図
正保時代の宗教的空間 ①大夫屋敷が神職王尾家

新たに三十番社の社人となった王尾氏について 

この事件で、三十番神の神事を勤める社人がいなくなってしまいました。そこで宥盛は、五條村の大井八幡神社の社人であった王尾市良太夫を、三十番神の神役を兼帯させることにします。
 市良太夫は、長男の松太夫が十四歳の時に妻を失いましたが、数人の子供があったので後妻を迎えます。やがてこの後妻に権太夫・吉左衛門などの子供が生まれるのです。市良太夫は病いのために亡くなる直前に、複雑な家庭の将来を考えてこまごまとした遺言状をしたため、遺産の分配についても指示します。しかし、後妻の子である権太夫が成人すると、遺産の相続について先妻の子である松太夫との間に争いが起きてしまいます。

弟に訴えられた兄・松太郎
 才太夫事件から約40年近く経った1646(正保三)年6月29日、成人した権太夫は目安(訴状)に起請文を添えて兄松太夫を金光院に訴え出ます。この訴訟関係の資料が残っているので、その詳細がある程度分かります。それを見ていくことにしましょう。
 争いの第一は、三十番神の神役の相続問題です。
 松太夫の訴状は、父市良太夫の譲状の内容を詳細に書いてます。そして、幼少であった権太夫のことについては市良太夫が、次のように遺言した記します。
「権太夫の義は、太夫と成るか坊主となるかもわからないから、若し太夫となったならば、三十番神様の神楽(かぐら)を勤めさせるようにしてほしい」

これに対して、弟権太夫は「宥睨様へ継目の御礼を申上候 跡職にて相違御座無く候」と、当時の金光院住職の宥睨に対して「自分が三十番社の正統な後継者である」と反論しています。
争いの第二は、大井八幡神社の神主職など、小松荘の各神社の社頭の神楽と市立の権利と、その収入の分配です。
争いの第三は、父・市良太夫の遺産の分配をめぐるものです。
 この訴状と口答書からは、三十番社の神職である松太夫や権太夫が山内において次第に勢力を失って、生活が苦しくなっていっている様子がうかがえます。訴状の文面からは、兄弟が仇敵のように憎しみ合って、相手を非難攻撃し、妥協のできなくなっていく姿がうかがえます。二人は、互いに相手を攻撃することによって金光院の宥睨に取り入ろうという卑屈な態度をとり続け、兄弟争いで三十番社の神人としての立場を失うことに気付いていないようです。
 この争いは、4年間の和解調定作業を経て、慶安2年6月21日に次のような和解案が成立します。
①松太夫と権太夫が共に三十番神の神役を勤めること
②大井八幡神社の神主職や、市良太夫の遺産相続の解決。
しかし、松太夫と権太夫など王尾一族が骨肉の争いを続けている4年間の内に、彼らの立場は根底的なところ変化していたのです。それは生駒藩から高松松平藩・松平頼重に主導権が移り替わっていたのです。
 当時の高松藩の宗教政策を見てみましょう。
1642年(寛永十九)年に初代高松藩主として讃岐にやってきた松平頼重は、金毘羅さんのために社領の朱印状を幕府から貰い受けることに尽力します。当時の幕府は、各地の寺院や神社が保存している大名からの社領や寺領の寄進状に基づいて朱印状を与え、将軍の代替りごとに書き改めてこれを確認する方法をとるようになっていました。
 そこで1646(正保三)年、金光院宥睨は寺社奉行に社領の朱印状下付を願い出ます。当時は、神仏習合の中で時代で社領と寺領の区別が明らかでなく、また多くの塔頭が並ぶ大きな寺院では、どの院が朱印状を受け取るのかなどをめぐって全国各地で紛争になることがありました。そこで幕府は松平頼重に対して次のように指示しています。
金毘羅の寺家・俗家・領内の者に異議のないことを確かめて、更に願い出るよう

これを受けて高松藩は、藩の寺社奉行間宮九郎左衛門を金毘羅に派遣して、御朱印状を受けることについての異議の有無を確認させます。
 その時期は、松太夫と権太夫が骨肉の争いを繰り返していた時に当たります。
正保3年 1646 金光院宥睨は寺社奉行に社領の朱印状下付を提出。
正保3年 1646 王尾松太夫、権太夫の三十番社等の相続争いの提訴
慶安元年 1648 幕府より330石の朱印状を受け取る。
慶安2年 1649 松太夫と権太夫の訴訟事件が和解成立
寛文10年1670 王尾松太夫、権太夫が江戸に出て訴状を提出
冷静に考えれば、彼らが主張すべきことは次の2点でした。
①松尾寺の本来の守護神は三十番社であること、
②金毘羅神は新参の神であること
この2点を主張し、神人の立場を守ることが賢明な策だったと云えます。例えそこまでは望めなくても、ある程度の留保条件をつけて朱印状を金光院が受けとることを認めることだったのかもしれません。しかし、それは一族が骨肉の争いを繰り広げる中では、神職集団として一致団結して金光院に対応することは望むべくもありませんでした。松太夫と権太夫は、調停者の金光院の歓心をかうために連判状に調印します。こうして三十番社は、金毘羅大権現の別当である金光院の家来であることを誓約します。これは結果的に、今まで金毘羅堂(金光院)と共有していた松尾寺の守護神の座を奪われたことになります。

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金光院が金毘羅山のお山の大将に
 この作業を受けて、頼重は金毘羅山の一門が金光院の家来であることを認めさせ、主要な人々の連判状をとって、正保四年に幕府の寺社奉行に提出します。翌年の1648(慶安元)年に宥典が金光院別当となり、その継目の挨拶に江戸に出府することになります。この時、頼重は家老彦坂繊謬を同行させ、寺社奉行に働きかけ「金毘羅祭祀田三百三十石」の朱印状を受け取らせています。これは、金光院が封建君主として金毘羅山の全山を支配する権力であることが幕府に認められたことを意味します。 
 和解した松太夫と権太夫の兄弟は、揃って三十番神の神役を勤めることになります。
しかし、その地位は金光院の完全な支配下に置かれ、いろいろな圧迫を受けて三十番社の衰退と共に収入も次第に減少します。20年後に  松太夫の長男徳(内記太夫)は、父の松太夫が隠居した後を受けて三十番神の神役を取り仕切ることとなりますが、金光院の圧迫にと横暴に腹を据えかねて幕府を訴えるのです。しかし「それは主君を訴えた従者」として「逆賊」あつかにされ獄門貼付の厳罰に処せられる結果となります。それはまた次回に・・・

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参考文献 
金光院を訴え獄門になった神官たち              満濃町誌1173P

   
琴平 本庄・新庄2
中世末期の琴平

 戦国時代末期・天正年間の象頭山のお山では、松尾寺を中心に三十番神社などの諸社が建ち並び、そこに新参者の金毘羅堂が割り込んでくるという神仏・諸堂の雑居状態でした。人々は金倉川の東側に広がる中世以来の小松庄に生活していて、金毘羅山の麓には「門前町」は、まだ姿を見せていませんでした。
 豊臣秀吉の天下統一の動きが進む中で、讃岐の領主は、仙石氏から尾藤氏、そして生駒氏へと目まぐるしく変っていきます。この中で、金毘羅山内では新参者の金毘羅神・金光院がその中心的地位につくといった大変革が進んで行きます。その変革の中心にいたのが金光院院主の宥盛や宥睨であったことを、前回までに見てきました。
 宥睨は、実家の叔母オナツが生駒家二代目の一正の側室に入り、左門という男子を出産するという「運と縁」を授かります。甥と叔母という縁を活かし、生駒家からの寄進を幾度も重ねて得ることに成功します。それは最終的には330石という石高になります。これは、他の神社仏閣への寄進高と比べるとダントツです。

詳しくは「http://tono202.livedoor.blog/archives/1684460.htmlを参照


生駒正俊の家紋「生駒車」とは?香川の丸亀城を守りたかった戦国武将 | | お役立ち!季節の耳より情報局

生駒正俊
 このような中で、第三代藩主になった生駒正俊は、金毘羅支配の方針にといえる「条々」を慶長十八年に出します。
一 金毘羅寺高、諸役免許せしむ事、付けたり、荒れひらき同前の事
一 城山勝名寺、前々の如く寄進せしむ事
一 金毘羅新町に於いて、他国より罷り越し候者の儀、諸公事緩め置き候間、
  住宅仕り候様二申し付けらるべき事
一 神役前々の如く申し付けらるべき事
一 先の金光院定めの如く万法度堅く申し付けらるべき事 右条々永代相違有る間敷き者なり
意訳変換しておくと

 金毘羅寺(金光院)の寺領、諸役免許の件、荒地開墾についても従前通りの権利を認めること。
一 城山勝名寺については、以前通りに寄進すること。
一 金毘羅新町で他国からやってきた商人が商売を行う事      
  住宅を建てて住み着くこと
一 神役についえは従来通り申し付けることができること事
一 従来のように金光院が定めた法は、今後も継続されること
 以上の件について、永代相違有る間敷き者なり
ここからは、生駒正俊が寺高・諸役の免除、城山勝名寺領の寄進、金毘羅への商人などの移住奨励、神役負課、金光院の院領内の裁量権を従来通りに認めたことが分かります。
 ある意味では、金毘羅山域に対してある種の「治外法権」が認められていたといえます。特に研究者が注目するのは、、金毘羅門前への「他国よりの移住奨励策」が認められている点です。これが金毘羅領が門前街として発達していく重要な条件になります。

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   35年もの間、金光院住職を勤めてきた宥睨に、最後の荒波が押し寄せます。
それは生駒騒動の結果、生駒家が矢島へ転封になってしまうのです。宥睨は理解ある大切なパトロンを失います。そして、新たな領主との関係を作ることが求められることになります。その交渉相手が初代高松藩として水戸からやって来た松平頼重だったのです。これは、宥睨にとっては幸いなことでした。

讃岐高松藩 初代藩主松平頼重は、どうして真宗興正派を保護したのか : 瀬戸の島から
松平頼重
 頼重は、生駒家の宗教政策を基本的に継承し、金毘羅山の既得権を認めます。

そして、当時幕府が行っていた全国の神社仏閣の朱印地認定作業に、金毘羅山の登録申請を行うのです。頼重の配慮、努力によって、慶安元年(1648))三月十七日に幕府からの朱印状を得ます。 
『徳川実紀』に
「先代御朱印給はらざる寺社領、こたび願いにより新たにたまふもの百八十二

とあるように、このとき朱印状を与えられたのは金光院だけでなく、全国の寺社領が対象でした。その182の寺社の中のひとつに、金毘羅山も登録されたと言うことです。
朱印状の内容はは次の通りです。
讃岐国那珂郡小松庄金毘羅権現領
同郡五条村内百三拾四石八斗余、
榎内村の内四拾八石壱斗余、
苗田村の内五拾石、
木徳村内弐拾三石五斗、
社中七拾三石五斗、都合参百三拾石事、
先規に任せこれを寄付し詑んぬ。全く社納すべし。
并びに山林竹木諸役等免除、有り来たりの如く
いよいよ弥相違有るべからず。
てへれば、神事祭礼を専らとし、天下安泰の懇祈を抽んずべきの状、件の如し。
    慶安元年二月廿四日
  御朱印  別当金光院

決壊中の満濃池
明治維新時の天領池御料と金毘羅寺領
朱印料として認められ他のは、金毘羅領と、その金倉川の東岸の3つの村に飛び地としてある土地でモザイク的なものでした。三つの村が寺領となったのではありません。これらは生駒藩時代に寄進された物です。これらを総て併せた330石が朱印地として認められたことになります。

金毘羅山を代表して朱印状を受けたのは金光院でした。
朱印状が渡される前年には、これを金光院が受け取ることについての賛否が山内で問われたようです。後に金光院を訴え獄門にされる三十番社の神職が起こした訴訟資料には、次のように記されています。
正保三年大猷院様御時代、金光院住僧宥睨御目見相済み候以後、御朱印の義 安藤右京進殿松平出雲守殿御両人ヘ讃岐守取り遣り仕り候処、当地に於いて相煩い、讃州へ着き、程なく宥睨相果て申し候間、其の讃岐守申し付け候は、後住宥典義御朱印の御訴訟申し上ぐべく候間、彼の山の寺家・俗家、領内下々迄後住宥典に申し分これ有る間敷哉、山の由来詮義仕るべきの由、讃州へ申し遣わし、彼の山穿繋仕り候処、
一山の者共家来にてこれ無き者一人も御座無く候。
門下の寺中弟子等其の外双び立ちたる者、連判の手形に仕り、彼の内記・権太夫連判届きに付き、連判致させ所持仕り、其の節江  府へ持参仕り、(後略)
意訳変換しておくと
正保三年に大猷院様(松平頼重)の時代に、金光院の宥睨との初会見した。その後に(金毘羅大権現の)朱印状については、松平頼重公が安藤右京進殿・松平出雲守殿へ取り次いだ。その結果、当地に出向いて調査確認を行ったが、その後程なくして宥睨が亡くなってしまった。松平頼重公の申し付けは、その跡を継いだ宥典の時に、御朱印についての訴訟が起こりました。その前に金毘羅山中の寺家・俗家、領内下々に至るまで、宥典が金毘羅全山の最高責任者であることを確認しています。山の者総てが、金光院の家来で、そうでないものは一人もいません。そのことについては、門下の寺社関係者たち総ての連判の手形も取っています。そして、現在控訴人となっている内記・権太夫も連判状に記銘しています。それは今回、江戸に持参予定です。

ここからは次のようなことが分かります。
①正保三年(1646)12月に、金光院宥睨が亡くなり宥典が継ぎいだこと、
②正保四年に朱印状を金光院が受け取ることについての賛否が問われたこと
③その結果、「一山の者」全員が金光院が金毘羅山の主人として受け取ることに賛成したこと
④それを「連判の手形」として署名したこと
これは、中世以来の松尾寺・三十番社・金比羅堂等の諸寺諸堂の並立状態が終わったことを意味するものです。ここに正式に、金光院が金比羅領の「お山の大将」としての地位が確認され、金光院の権勢が確立したことを示します。
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  同時に金光院院主が、330石の寄進地を含む「お山の領主」になったことを意味します。
それは、讃岐国は松平家と京極家、塩飽の「人名」に加えて、金毘羅山という新しい「領主」の誕生と言えるかもしれません。金光院院主は、宗教的な存在としてだけでなく、金比羅領の「殿様」として政治的な存在として、この地に形成されていく金比羅門前町を治めていくことにもなるのです。
この時すでに宥睨は亡く、院主は宥典に交代していました。
 宥睨は生駒家から得た寄進地を、幕府の朱印地に格上することに成功したわけです。そういう意味では、宥睨が金毘羅山に果たした役割は大きく「金毘羅山の大恩人」として、江戸時代に書かれた書物では大きく評価されることになります。それが宥睨の実家である
山下家が金光院住職の地位を世襲化することにつながるようです。以上をまとめておきます。
金光院の支配権確立まで

①近世初頭の 象頭山は、さまざまな宗教施設の混淆状態にあった。
②そこに長尾家出身の僧宥雅が、守護神として金毘羅神を造りだし、そのお堂を建立した。
③長宗我部元親はこの地を占領すると、土佐から有力な修験者を招き、松尾寺の管理運営を任せた。
④こうして、金毘羅は丸亀平野の拠点宗教センターに改装された。
⑤当時の松尾寺は、天狗信仰の修験者たちの拠点で、彼らがいくつもの院坊をもち管理するようになった。
⑥その中で最も有力になったのが宥盛の金光院であった。
⑦金光院は、生駒家に姻戚関係をもつ院主の元で寄進地を次々と増やして行った。
⑧生駒家転封後の高松藩初代藩主・松平頼重は、金光院への保護を継続した。
⑨松平頼重によって、金光院の寺領は朱印地となり、その領主として金光院が認められた。

こうして見ると、近世初頭に流行神としてして登場した金毘羅神が急速な成長を遂げるのは、長宗我部元親・生駒藩・松平頼重という支配者達の保護を受けてきたことが大きな要因であることが分かります。
ここからは金毘羅信仰を「庶民信仰」として捉える従来の考えに対する疑問が生まれてきます。時の支配者の寄進・保護を受けて経済基盤を調え、伽藍整備を行い、その後に庶民達がやってくるようになったと云えそうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
最終改訂2024/11/29
町史ことひら

参考文献  金比羅領の成立  町史ことひら3 42P~
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             長宗我部元親像2

讃岐を征服した長宗我部元親は、支配者としてどのような統治政策をとったのでしょうか。
江戸時代に書かれた讃岐の神社仏閣の記録は「天正の長宗我部元親の兵火により焼かれる」という記録で埋め尽くされています。それは、織田信長の「比叡山焼討ち」に対する「罵詈雑言」にも似ています。歴史を書く側の社寺勢力を、敵に回した結果なのかもしれません。「破壊者」のみの側面が強調されているようです。
元親の讃岐支配は、数年という短いものでした。
しかし、元親は新たな讃岐の支配者たらんとしての新たな統治策を打ち出していたことが明らかになっています。新しい時代を開いていくためには「スクラップ & ビルド」で、破壊が必要になる場合もあります。しかし、破壊だけでは新しい時代は生まれません。新たな創造が必要になります。それを織田信長は行ったということが、戦後は認められるようになり「破壊者」から「英雄」へと見方が変わっていきました。元親の征服者としての「新たな創造」とは、なんだったのでしょうか?
金毘羅山への元親の宗教政策を、そんな視点から見ていくことにします。
 阿波三好支配下に置かれていた讃岐武士団は「小群雄割拠」状態で、「反土佐統一抵抗戦線」を組織することは出来ず「各個撃破」で攻略されていきます。
天正七年(1579)四月には、西讃守護代で天霧城主・香川信景は、戦わずして元親と和議を結びます。
 信景は、元親の次男の五郎次郎親和を娘の婿に迎えて、天霧城(多度津町)を譲り、形式的には隠居します。こうして、三豊・丸亀平野を睨む天霧城を戦わずして元親は手に入れます。そして「長宗我部=香川」同盟を形成します。これは、後の讃岐攻略を進める上で大きな役割を果たすことになります。讃岐の武将達は、最初は形だけの抵抗を見せ籠城をする者もいますが、多くの者は香川氏の斡旋を受けいれて元親の軍門に降ります。

土佐軍が丸亀平野に侵攻してきた時に、元親はどこに陣を敷いたのでしょうか?
まず考えられるのは、善通寺です。善通寺の近くには同盟関係を結んだ香川信景の居館や天霧山城が、近くにあります。天霧城攻防戦の時にも、阿波三好氏の本陣は善通寺が置かれました。しかし、善通寺は三好軍退陣の際に燃え落ちたとされます。その後は、江戸時代になるまで再建されずに放置されたままです。大軍を置くには不便なような気がします。
もうひとつは、櫛梨城です。この城には土佐的な要素が至る所に見られるので、元親によって大規模改修が行われたと調査報告書は述べて居ます。丸亀平野全体を押さえるには適地です。
いくつかの歴史書には、琴平山の松尾寺に本陣を置いたと記します。
それを裏付けるのが天正7年(1579)10月に、元親が「讃岐平定祈願」のために天額仕立ての矢を琴平山の松尾寺に奉納していることです。当時、松尾寺の建物群は無傷で残りました。長尾氏出身の宥雅によって建立されたばかりの観音堂も、金比羅堂も無傷で残っていました。
それでは、宥雅は、どうなったのでしょうか。
彼の本家である長尾氏は、一戦を交えた後に元親に下ったようです。しかし、宥雅はそれよりも早く逃げ出しています。後に生駒藩主となる生駒親正が京都の聖護院内桂芳院にあてた文書は次のように記します。

洞雲(宥雅の別名)儀、太閤之御時大谷刑部少輔等へ走入(亡命)

意訳変換しておくと
洞雲(宥雅の別名)については、太閤時代に大谷刑部少輔を頼って境に走入(亡命)

ここからは宥雅が秀吉重臣の大谷刑部少輔を頼って、泉州堺へ逃げ出したことが分かります。院主である宥雅がいなくなった無住の松尾寺を、長宗我部元親は無傷で手に入れたようです。元親は金毘羅さんを焼き討ちしていないことを押さえておきます。

土佐の『南路志』の寺山南光院の項には、次のように記されています。


「元祖 大隅南光院、讃州金毘羅に罷在(まかりあり)候処、元親公の御招きに従り、御国(土佐)へ参り、寺山一宇拝領

意訳変換しておくと

元祖の大隅南光院は、讃州の金毘羅に滞在中に、元親公の招きを受けて、御国(土佐)へ参り、寺山一宇を拝領した

ここからは、南光院(宥厳)が元親に招聘されて、金毘羅(松尾寺)の院主を任されたことが分かります。つまり、元親の山伏ブレーンの宥厳(南光院)が松尾寺の院主の座についたのです。これが「元親による松尾寺管理体制」の始まりになります。こうして松尾寺では、元親の手によって伽藍整備が次のように進められます。
天正十一年(1583) 松尾寺境内の三十番神社を修造。棟札に「大檀那元親」「大願主宥秀」
天正十二年(1584)6月 元親による讃岐平定
天正十二年(1584)10月9日 元親の松尾寺仁王堂の建立寄進
先ほど見たように4年前に讃岐平定を祈って、矢を松尾寺に奉納しています。その成就返礼の意味が仁王堂寄進には込められていたのでしょう。その棟札を見ておきましょう。

二天門棟札 長宗我部元親
金刀比羅宮(松尾寺)仁王堂(二天門)棟札 (長宗我部元親奉納)

中央に「上棟奉建立松尾寺仁王堂一宇、天正十二甲申年十月九日、
右に 大檀那大梵天王長曽我部元親公、
左に 大願主帝釈天王権大法印宗仁

その下には元親の3人の息子達の名前が並びます。そこには天霧城の香川氏を継いだ次男「五郎次郎」の名前も見えます。さらに下には、大工の名「大工仲原朝臣金家」「小工藤原朝臣金国」が見えます。
「天正十二甲申年十月九日」という日付も気になります。
10月9日というのは、現在でも金刀比羅宮の大祭日です。金毘羅大祭は、もともとは三十番社に伝わるお奉りでした。それを、金比羅堂の大祭に取り込んだことは、以前にお話ししました。その大祭日を選んで、奉納されています。
棟札の裏側(左)も見ておきましょう。

二天門棟札 長宗我部元親

裏側には「供僧」として榎井坊など6つの寺と坊の名前が並びます。ここに出てくる坊や寺は、天狗信仰を持っていた修験者たちの坊や寺だったと研究者は考えています。しかし、よく見ると江戸時代に金光院に仕えることになる院とは違います。長宗我部時代と江戸時代では、一山の構成メンバーが替わっているのです。ここに記されているのは長宗我部元親によって指名された「土佐占領下のメンバー」だと私は考えています。
 さらに「鍛治大工図  多度津伝左衛門」・「瓦大工宇多津三郎左衛門」と多度津や宇多津の鍛治大工と瓦大工の名が記されています。
多度津は、長宗我部元親と同盟関係になった香川氏の拠点です。香川氏配下の職人が数多く参加しています。同時に、この時期の伽藍整備が香川氏の手によって進められたことがうかがえます。二天門が香川氏から長宗我部元親への「お祝い」であったと私は考えています。
なお一番下右に「当寺西林坊」とありますが、金光院という名前はでてきません。
当時の松尾寺の中心院房は
西林坊であったことが分かります。ちなみに、西林坊は次の宥盛の時代に追放されたとされる院房です。
ここでも土佐軍の引き上げ後に、松尾寺をとりまく勢力が大きく変わったことがうかがえます。土佐派の粛正追放が宥盛によって行われた可能性があります。そして、ここに出てくる修験者や子房は追放され、宥盛肝いりの天狗信仰の修験者たちが取り巻きを形成すると私は考えています。
裏側左には、次のように記します。(意訳)

「象頭山には瓦にする土はないのに、宥厳の加護によってあらわれた。」

土佐出身の宥厳をたたえる表現で、「霊験のある山伏の指導者」としてカリスマ化しようとする意図がうかがえます。同時に、二天門の瓦は周辺の土が用いられたというのですから、近辺に瓦窯が作られたことが分かります。

金堂・多宝塔・旭社・二天門 讃岐国名勝図会
     幕末の二天門 金堂(旭社)建設に伴う整備事業でここに移築

 研究者が注目するのは、元親の寄進した「天額仕立ての矢」「松尾寺境内の三十番神社」「松尾寺境内の仁王堂」の寄進先が金毘羅堂ではなく松尾寺であることです。
ここには「金毘羅」も金光院もまだ登場しません。これをどう考えればいいのでしょうか?
 宥雅が松尾寺の観音堂に登る石段の北脇に、金毘羅堂を建てた元亀四年(1573)のことです。つまり、この時点では金比羅神はデビューから10年しか経っていないのです。知名度はまだまだない「新人」だったのです。この時点では松尾山の宗教施設の中心は松尾寺であったようです。元親の寄進先は、中心施設の松尾寺に向けられたとしておきます。

多宝塔
元禄年間には二天門は、薬師堂の前にあった

さて、仁天門の棟札をもう一度見てみましょう
二天門棟札 長宗我部元親
二天門棟札(讃岐国名勝図会)
棟札の表の檀那と願主に、研究者は注目します。
檀那は「大梵天王 長曽我部元親公」
願主は「帝釈天王 権大法印宗信」
「大梵天王」「帝釈天王」とは何者なのでしょうか?
古代インド神話では、次の三神一体です。
①創造を司る神ブラフマー 梵天
②維持を司る神がヴィシユヌ
③破壊を司るシヴァ神
ブラフマーは、宇宙の創造を司る「世界の主」であり、万有の根源を神格化した神です。これが仏教にとり入れられて梵天となり、釈尊の守護者とされるようになります。そして、梵天は帝釈天と対となって、釈尊のそばに侍するものとされます。梵天の住み家は、須弥山の上の天上で、人間界を支配する神として敬われ、諸天の中で、最高の地位にあるとされたます。
 一方、雷神インドラは帝釈天となり、梵天とともに釈尊のそばに仕えます。帝釈天も住み家は、須弥山上で、その帝釈宮に住みます。日本に伝わった帝釈天は、自然現象を左右する神であるとされ、雨を降らす神だとか太陽神だと考えられるようになります。帝釈天の配下で、須弥山中腹の四門を守るのが四天王で、東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天が配されます。ちなみに北を護る多聞天=毘沙門天であり、多聞天が独尊で祀られる時、毘沙門天といわれるようになります。
 世界の主である梵天にあやかって「大梵天王」と記したのは、元親の宗教的ブレーンたちでしょう。

そして、その中心人物と目される宗信は「大願主帝釈天王権大法印宗信」と自分を帝釈天王と称するのです。元親を世界の主の大梵天王と称させたのは、この人物のようです。宗信は、このような表現で元親に「天下への野心」を焚きつけたのかもしれません。私が元親の小説や映画を作るならば、松尾寺仁王門建立シーンでの元親と宗信のやりとりは是非入れたいところです。 同時に、松尾寺は讃岐における宗教支配の拠点センターとしての役割をになうことが求められるようになります。

土佐出身の山伏指導者による松尾寺の管理・経営
先ほども述べたように元親の軍には、次のように多数の山伏が従っていたことが史料から分かります。
①三十番神社の棟札に名の見える宥秀
②仁王堂の棟札に名の見える宗信・宥厳
③帝釈天王を称する宗仁は、山伏たちを束ねる頭領
 ①の宥秀は幡多郡横瀬村の山本紀伊守の子で、九歳の時、足摺山で出家して僧侶となります。足摺山は補陀落渡海の地で土佐修験道のひとつの拠点です。
 ②の宥厳も大隅南光院と名乗る山伏でした。元親に従軍して松尾寺を任され、名前も宥厳とあらため松尾寺の住職となったことは、先ほど述べたとおりです。
「山伏」というと「流れ者」というイメージが今では広がっています。しかし、当時の山伏(修験者)は「金比羅堂」を創設した宥雅のように高野山で修行と修学を重ねた学僧もいました。中央の学問所で学んだ知識と人的ネットワークを持った僧侶は、祐筆(秘書集団)としてだけでなく戦国大名の情報収集や外交工作には欠かせないものでした。そこから毛利藩の僧侶から戦国大名にまで成り上がる恵瓊のような人物も現れてくるのでしょう。

 長宗我部元親は、僧侶の中でも修験道の山伏を重用したようです。彼らは、四国辺路など修行のために四国中の行場を自由に往来していました。これが敵国に攻め入る際には、情報収集活動や道案内を行うには適任でした。また戦功の記録係りや戦死者の弔い係りの役割も果たします。
 そして、松尾寺は元親に従う山伏達の集結する場となります。
これが、生まれたばかりの金比羅神の「成長」におおきな影響を与えたと私は考えています。
 ちなみに、金毘羅大権現と呼ばれた江戸時代は、阿波三好の箸蔵寺は「金毘羅さんの奥宮」と呼ばれ、非常に強い関係がありました。ここは阿波修験道の中心地であり、山伏がおおく住む拠点でもありました。元親の讃岐・阿波攻略の際に、彼らの果たした役割を考えて見るのも面白い所です。
天正十三年(1582)には、伊予の河野通直を降し、四国統一を成し遂げます。
 このような中で長宗我部元親は、金比羅を四国の宗教センターとの機能をもたせようとします。それを実現するために動いたのが、宥厳を中心とする土佐出身の修験者たちでした。権力者の意向を組んだ宗教センター作りが進められます。宥厳と供に、これを進めたのが宥厳の兄弟弟子である宥盛です。宥盛については、後に話しますので詳しくは述べませんが、この時の体験が讃岐藩主としてやってきた生駒氏との対応に活かされることになります。彼らは保護と寄進を訴えるだけでなく、藩に必要な宗教政策を提言するだけの知識と気力が長宗我部元親とのやりとりの中で養われていたのだと思います。それが生駒氏や松平氏の金毘羅大権現への保護と寄進につながるのでしょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献  羽床正明       長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号

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金毘羅全図 宝暦5(1755)年
象頭山金比羅神社絵図

金比羅神が象頭山に現れたのを確認できるのはいつから?
それは宝物館に展示されている元亀四年(1573)銘の金毘羅宝殿の棟札が最も古いようです。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
銘を訳すれば、
表「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都宥雅が造営した」
裏「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」
 この棟札は、かつては「本社再営棟札」と呼ばれ、「金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった」と考えられてきました。しかし、近年研究者の中からは、次のような見解が出されています。
「この時(元亀四年)、はじめて金毘羅堂が創建されたように受け取れる。『本尊鎮座』とあるので、はじめて金比羅神が祀られたと考えられる」
 
 元亀四年(1573)には、現在の本社位置には松尾寺本堂がありました。その下の四段坂の階段の行者堂の下の登口に金比羅堂は創建されたと研究者は考えています。
1金毘羅大権現 創建期伽藍配置

正保年間(江戸時代初期)の金毘羅大権現の伽藍図 本宮の左隣の三十番社に注目

幕末の讃岐国名勝図会の四段坂で、元亀四年(1573)に金比羅堂建立位置を示す
しかし、創建時の金比羅堂には金毘羅神は祀られなかったと研究者は考えているようです。金比羅堂に安置されたのは金比羅神の本地物である薬師如来が祀られたというのです。松尾寺はもともとは、観音信仰の寺で本尊には十一面観音が祀られていました。正保年間の伽藍図を見ると、本殿の横に観音堂が見えます。
 金比羅神登場以前の松尾寺の守護神は何だったのでしょう

DSC01428三十番社
金刀比羅宮の三十番社
それは「三十番社」だったようです。地元では古くからの伝承として、次のような話が伝わります。
「三十番神は、もともと古くから象頭山に鎮座している神であった。金毘羅大権現がやってきてこの地を十年ばかり貸してくれといった。そこで三十番神が承知をすると、大権現は三十番神が横を向いている間に十の上に点をかいて千の字にしてしまった。そこで千年もの間借りることができるようになった。」
これは三十番神と金毘羅神との関係を物語っている面白い話です。
この種の話は、金毘羅だけでなく日本中に分布する説話のようです。ポイントは、この説話が神祇信仰において旧来の地主神と、後世に勧請された新参の客神との関係を示しているという点です。つまり、三十番神が、当地琴平の地主神であり、金毘羅神が客神であるということを伝えていると考えられます。これには、次のような別の話もあります。
「象頭山はもとは松尾寺であり、金毘羅はその守護神であった。しかし、金毘羅ばかりが大きくなって、松尾寺は陰に隠れてしまうようになった。松尾寺は、金毘羅に庇を貸して母屋を奪われたのだ」
この話は、前の説話と同じように受け取れます。しかし、松尾寺と金毘羅を、寺院と神社を全く別組織として捉えています。明らかに、明治以後の神仏分離の歴史観を下敷きにして書かれています。おそらく、前の説話をモデルにリメイクされて、明治期以降に巷に流されたものと研究者は考えています。

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             護国寺・三十番神
三十の神々が法華経を一日交替で守護する三十番神
なぜ三十番社があるのに、新しく金比羅堂を建立したのでしょうか
 院主の宥雅は、それまでの三十番神から新しく金毘羅神を松尾寺の守護神としました。そのために金毘羅堂を建立しました。その狙いは何だったのでしょうか?
  琴平山の麓に広がる中世の小松荘の民衆にとって、この山は「死霊のゆく山」でもありました。その拠点が阿弥陀浄土信仰の高野聖が拠点とした称名寺でした。そして現在も琴平山と愛宕山の谷筋には広谷の墓地が広がります。こうして見ると、松尾寺は称名寺の流れをくむ墓寺的性格であったことがうかがえます。松尾寺は、小松荘内の住人の菩提供養を行うとともに、彼らの極楽浄土への祈願所でもあったのでしょう。ところがやがて戦国時代の混乱の世相が反映して、庶民は「現利益」を強く望むようになります。その祈願にも応えていく必要が高まります。そのために、仏法興隆の守護神としての性格の強い三十番神では、民衆の望む現世利益の神にしては応じきれません。
 また、丸亀平野には阿波の安楽寺などから浄土真宗興正派の布教団が阿波三好氏の保護を受けて、教線を伸ばし道場を各地に開いていました。宥雅は長尾氏の一族でしたが、領内でも一向門徒が急速に増えていきます。このような状況への危機感から、強力な霊力を持つ新たな守護神を登場させる必要を痛感するようになったと私は考えています。これが金毘羅神の将来と勧請ということになります。これは島田寺の良昌のアイデアかもしれませんが、それは別の機会にお話しするとして話を前に進めます。

讃州象頭山別当歴代之記
     讃州象頭山別当職歴代之記(初代宥範 二代宥遍 三代宥厳 四代宥盛)
                   宥雅の名前はない
讃州象頭山別当歴代之記2

 正史から消された宥雅と彼が残した史料から分かってきたことは?
 金毘羅堂建立の主催者である宥雅は、地元の有力武士団長尾氏の一族で、善通寺で修行を積んだ法脈を持つ真言密教系の僧侶です。それは宥範以来の「宥」の一文字を持っていることからも分かります。ところが宥雅は金刀比羅宮の正史からは抹殺されてきた人物です。正史には登場しないのです。何らかの意図で消されたようです。研究者は「宥雅抹殺」の背景を次のように考えます。

宥雅の後に金光院を継いだ金剛坊宥盛のころよりの同院の方針」

なぜ、宥雅は正史から消されたのでしょうか?
 正史以外の史料から宥雅を復活させてみましょう
宥雅は『当嶺御歴代の略譜』(片岡正範氏所蔵文書)文政十二年(1829)には、次のように記されています。
「宥珂(=宥雅)上人様
 当国西長尾城主長尾大隅守高家之甥也、入院未詳、
 高家所々取合之節御加勢有之、戦不利後、御当山之旧記宝物過半持之、泉州堺へ御落去、故二御一代之 烈に不入云」
意訳変換しておくと
「宥珂(=宥雅)上人様について
 讃岐の西長尾城主・長尾大隅守高家の甥にあたる。僧籍を得た時期は未詳、
 高家の時に(土佐の長宗我部元親の侵入の際に、長尾家に加勢し敗れた。その後、当山の旧記や宝物を持って、泉州の堺へ政治亡命した。そのため宥雅は、歴代院主には含めないと伝わる入云」
ここには宥雅は、西長尾(鵜足郡)の城主であった長尾大隅守の甥であると記されています。ちなみに長尾氏は、長宗我部元親の讃岐侵入以前には丸亀平野南部の最有力武将です。その一族出身だというのです。そして、長宗我部元親の侵入に際して、天正七年(1579)に堺への逃走したことが記されます。しかし、これ以外は宥雅の来歴は、分からないことが多く、慶長年間(1596~1615)に金光院の住持職を宥盛と争っていることなどが知られているくらいでした。
なぜ、高松の高松の無量寿院に宥雅の「控訴史料」が残ったの? 
ところが、堺に亡命した宥雅は、長宗我部の讃岐撤退後に金光院の住持職を、宥盛とめぐって争い訴訟を起こすのです。その際に、控訴史料として金光院院主としての自分の正当性を主張するために、いろいろな文書が書写されます。その文書類が高松の無量寿院に残っていたのが発見されました。その結果、金毘羅神の創出に向けた宥雅の果たした役割が分かるようになってきました。

金毘羅神を生み出すための宥雅の「工作方法」は?
例えば「善通寺の中興の祖」とされる宥範を、「金比羅寺」の開祖にするための「手口」について見てみましょう。もともとの『宥範縁起』には、宥範については
「小松の小堂に閑居」し、
「称明院に入住有」、
「小松の小堂に於いて生涯を送り」云々
とだけ記されています。宥範が松尾寺や金毘羅と関係があったことは出てきません。つまり、宥範と金比羅は関係がなかったのです。ところが、宥雅の書写した『宥範縁起』には、次のような事が書き加えられています。
「善通寺釈宥範、姓は岩野氏、讃州那賀郡の人なり。…
一日猛省して松尾山に登り、金毘羅神に祈る。……
神現れて日く、我是れ天竺の神ぞ、而して摩但哩(理)神和尚を号して加持し、山威の福を贈らん。」
「…後、金毘羅寺を開き、禅坐惜居。寛(観)庶三年(一三五二)七月初朔、八十三而寂」(原漢文)
 ここでは、宥範が
「幼年期に松尾寺のある松尾山登って金比羅神に祈った」・・金毘羅寺を開き

と加筆されています。この時代から金毘羅神を祭った施設があったと思わせる書き方です。金毘羅寺とは、金毘羅権現などを含む松尾寺の総称という意味でしょう。裏書三項目は
「右此裏書三品は、古きほうく(反故)の記写す者也」

と、「これは古い記録を書き写したもの」と書き留められています。
このように宥雅は、松尾寺別当金光院の開山に、善通寺中興の祖といわれる宥範を据えることに腐心しています。
 もうひとつの工作は、松尾寺の本尊の観音さまです。

十一面観音1
十一面観音立像(金刀比羅宮宝物館)
宥雅は松尾寺に伝来する十一面観音立像の古仏(滝寺廃寺か称名寺の本尊?平安時代後期)を、本地仏となして、その垂迹を金毘羅神とします。しかも、金比羅神は鎌倉時代末期以前から祀られていたと記します。研究者は、このことについて、次のように指摘します。

「…松尾寺観音堂の本尊は、道範の『南海流浪記』に出てくる象頭山につづく大麻山の滝寺(高福寺)の本尊を移したものであり、前立十一面観音は、これも、もとはその麓にあった小滝寺の本尊であった。」

「松尾寺観音堂本尊 = (瀧寺本尊 OR 称名寺本尊説)」については、また別の機会にお話しします。先を急ぎます。 

さらに伝来文書をねつ造します
「康安2年(1362)足利義詮、寄進状」「応安4年(1371)足利義満、寄進状」などの一連の寄進状五通(偽文書と見られるもの)をねつ造し、金比羅神が古くから義満などの将軍の寄進を受けていたと箔をつけます。これらの文書には、まだ改元していない日付を使用しているどいくつかの稚拙な誤りが見られ、後世のねつ造と研究者は指摘します。
そして神魚と金毘羅神をリンクさせる 
宥雅の「発明」は『宥範縁起』に収録された「大魚退治伝説」に登場してくる「神魚」と金毘羅神を結びつけたことです。もともとの「大魚退治伝説」は、高松の無量寿院の建立縁起として、その霊威を示すために同院の覚道上人が宥範に語ったものであったようです。「大魚退治伝説」は、古代に神櫛王が瀬戸内海で暴れる「悪魚」を退治し、その褒美として讃岐国の初代国主に任じられて坂出の城山に館を構えた。死後は「讃霊王」と諡された。この子孫が綾氏である。という綾氏の先祖報奨伝説として、高松や中讃地区に綾氏につながる一族がえていた伝説です。

 羽床氏同氏は、「金毘羅信仰と悪魚退治伝説」(『ことひら』四九号)で次のように記します。

200017999_00178悪魚退治
神櫛王の悪魚退治伝説(讃岐国名勝図会)
①「宥雅は、讃岐国の諸方の寺社で説法されるようになっていたこの大魚退治伝説を金毘羅信仰の流布のために採用した」
②「松尾寺の僧侶は中讃を中心にして、悪魚退治伝説が広まっているのを知って、悪魚を善神としてまつるクンビーラ信仰を始めた。」
③「悪魚退治伝説の流布を受けて、悪魚を神としてまつる金毘羅信仰が生まれたと思える。」
このストーリーを考えたのは、宥雅ではないと考える研究者もいます。それは、最初に見た元亀四年(1573)銘の金毘羅宝殿棟札の裏側には「高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」と良昌の名前があることです。良昌は財田出身ので当時は、高野山の高僧であり、飯山の法勲寺の流れを汲む島田寺の住職も兼務していました。宥雅と良昌は親密な関係にあり、良昌の智恵で金毘羅神が産みだされ、宥雅が金比羅堂を建立したというのが「こんぴら町誌」の記すところです。

 いままでの流れを整理しておきます。
①金毘羅神は宮毘羅大将または金毘羅大将とも称され、その化身を『宥範縁起』の「神魚」とした。
②神魚とは、インド仏教の守護神クンビーラで、ガンジス川の鰐の神格化したもの。
③インドの神々が、中国で千手観音菩薩の春属守護神にまとめられ、日本に将来された。
④それらの守護神たちを二十八部衆に収斂させた。
 最後の課題として残ったのが、松尾寺に伝来する本尊の十一面観音菩薩です。
先ほども見たように、金毘羅神の本地仏は千手観音なのです。新たに迎え入れた本尊は十一面観音です。私から見れば「十一面であろうと千手であろうと、観音さまに変わりない。」と考えます。しかし、真言密教の学僧達からすれば大問題です。  真言密教僧の宥雅は「この古仏を本地仏とすることによって金毘羅神の由緒の歴史性と正統性が確立される」と、考えていたのでしょう。

          十一面観音立像(重文) 木造平安時代(金刀比羅宮宝物館)

宝物館にある
重文指定の十一面観音立像について、
「本来、十一面観音であったものを頭部の化仏十体を除去した」
のではないかと研究者は指摘します。これは、十一面観音から「頭部の化仏十体を除去」することで千手観音に「変身」させ、金毘羅神と本地関係でリンクできるようにした「苦肉の工作」であったのではないかというのです。こうして、三十番社から金比羅神への「移行」作業は進みます。

それまで行われていた三十番社の祭礼をどうするか?
 最後に問題として残ったのは祭礼です。三十番神の祭礼については、それを担う信者がいますので簡単には変えられません。そこで、三十番社で行われていた祭式行事を、新しい守護神である金毘羅神の祭礼(現世利益の神)会式(えしき)として、そのまま、引き継いだのです。

金毘羅大権現 観音堂行堂(道)巡図
                     観音堂行道巡図
      明治以前の大祭は、金毘羅大権現本殿ではなく観音堂の周りで行われていた

こうして金毘羅権現(社)は、松尾寺金光院を別当寺として、象頭山一山(松尾寺)の宗教的組織の改編を終えて再出発をすることになります。霊力の強烈な外来神であり、霊験あらたかな飛来してきた蕃神の登場でした。

          
 江戸時代には、各大名の下屋敷などには、その本国の神々が祀られ、それが流行神として江戸庶民の間に爆発的に広がり出すことがありました。金毘羅信仰もそのなかの「流行神」のひとつです。今の私たちは「金毘羅さん」といえば「海の神様」というイメージが強いのですが、金比羅神が江戸でデビューした当時は、どのように見られていたのでしょうか。そして、江戸や大坂などでどのように受け入れられていたのでしょうか。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗たち (金毘羅金光院発行)

「金毘羅祈願文書」から見ていくことにしましょう
 江戸時代に信州芝生田村の庄屋が、金毘羅大権現に願を掛けた願文を見ておきましょう。この村は群馬県嬬恋村に隣接する県境の地域で、旧地名が長野県小県郡東部町で、平成16年の市町村合併によって東御市となっているようです。
  金毘羅大権現御利薬を以て天狗早業の明を我身に得給ふ。右早業之明を立と心得は月々十日にては火之者を断 肴ゑ一世不用ヒつる
  右之趣大願成就致給ふ
 乍恐近上
  金毘羅大権現
     大天狗
     小天狗  
千早ふる神のまことをてらすなら我が大願を成就し給う
   九月廿六日       願主 政賢
意訳変換しておくと
金毘羅大権現の御利益で天狗早業の明を我身に得ることを願う。「早業之明」を得るために月々十日に「火断」を一生行い大願成就を祈願する
   金毘羅大権現
     大天狗
     小天狗  
神のまことを照し我が大願を成就することを
   9月26日       願主 政賢


「金毘羅大権現御利薬を以て、天狗早業の明を我が身に得給う」とあり、「天狗」が出てきます。大願の内容は記されていませんが、「毎月十日に火を断つ」という断ち物祈願です。そして祈願しているのは「金毘羅大権現」「大天狗」「小天狗」に対してです。金毘羅大権現とならんで大・小の天狗に祈っているのです。
Cg-FljqU4AAmZ1u金毘羅大権現
前掲拡大図 中央が金毘羅大権現 右が大天狗、左が子天狗
 この祈願文の「大天狗」「小天狗」とは何者なのでしょうか?

 天狗信仰については、金毘羅宮の学芸員を長く務めた松原秀明氏は、次のように記されています。

金毘羅信仰における天狗の存在について、金毘羅大権現を奉祀していた初期院主たちの影響が大きい。別当金光院歴代住職の事歴が明らかになるのは戦国末期の天正前後であり、その当時の住職には「修験的なものが色濃くつきまとって見える」

ここからは次のようなことが分かります。
①金毘羅大権現の初期の中心は「天狗信仰」だったこと
②天狗信仰は戦国末期に金毘羅大権現を開いた金光院の院主によってもたらされたこと
③初期金光院院主は、修験者たちだったこと
金毘羅神
金毘羅大権現とは天狗?(松尾寺蔵)
 なかでも初代金光院院主とされる宥盛は、象頭山内における修験道の存在を確立します。
『古老伝旧記』に、宥盛は「真言僧両袈裟修験号金剛坊」とあり、「金剛坊」という修験の号をもつ修験者であったことが分かります。ちなみに、宥盛は、厳魂と諡名されて現在の奥社に祀られています。

1 金刀比羅宮 奥社お守り
宥盛を祀る金毘羅宮奥社の守護神は、今も天狗

 修験者たちは、修行によって天狗になることを目指しました。
修験道は、日本古来の山岳信仰に端を発し、道教、神道・真言密教の教義などの影響を受けながらを平安時代後期に一つの宗教としての形を取るようになります。山岳修行と、修行で獲得した霊力を用いて行う呪術的な宗教活動の二つの面をもっています。そして、甘南備山としての山容や、神の住まう磐座や滝などをめぐる行場を辺路修行が行われました。
 さらに農耕を守護する水分神が龍る聖地を、崇拝しました。
金毘羅大権現が鎮座する象頭山は、断崖や葵の滝などの滝もあり、「ショーズ山」=水が生ずる水分神の山であり、修験道の行場として中世以来行者たちが拠点とした場所だったようです。この修験道の宗教的指導者は山伏と呼ばれました。

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奥社の岩壁
 天狗信仰を広めた別当宥盛は奥の院(厳魂神社)に祀られている。彼が修行を行った岩壁は「天狗岩(威徳巖)」とも呼ばれています。


山伏とは?

 山伏は鈴掛・結袈裟・脚絆・笈・錫杖・金剛杖など山伏十六道具と呼ばれる独自の衣体や法具をまとって山岳に入って修行します。その姿は、中世の『太平記』では「山伏天狗」と記されるように山の妖怪である天狗と一体視されるようになります。ここに山伏(修験者)と天狗の結びつきが深まります。
中世末に成立したといわれる『天狗経』には、48の天狗が列挙されています。研究者は次のように指摘します。

「天狗信仰の隆盛は、修験道の隆盛と時期を同じくする」
「江戸時代の金比羅象頭山は、天狗信仰の聖地であった」
 
つまり、戦国末期から江戸時代初期にかけては、象頭山内において天狗信仰が高まった時代なのです。  そして、その仕掛け人が松尾寺の金光院だったようです。
金毘羅大権現は、どんな姿で表されたのでしょうか?

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天狗として描かれた金毘羅神
金毘羅大権現の姿については、次のような言い伝えがあります。

「烏天狗を表している」
「火焔光背をもち岩座に立っている」
「右手に剣(刀)を持つ」
「古くは不動明王のように剣と索を持ち、
飯綱信仰などの影響をうけ狐に乗った姿だった」
江戸時代の岡西惟中『一時軒随筆』(天和二年(1682)には次のようにあります。
万葉のうち、なかの郡にたけき神山有と見えぬ。
これもさぬきの金毘羅の山成べし。
金毘羅の地を那珂の郡といふ也。
金毘羅は、もと天竺の神、釈迦説法の守護神也。
飛来して此山に住給ふ。形像は巾を戴き、左に珠数、右に檜扇を持玉ふ也。
巾は五智の宝冠を比し、珠数は縛の縄、扇は利剣也。
本地は不動明王也とぞ。
二人の脇士有。これ伎楽、伎芸という也。
これ則金伽羅と勢陀伽権現の自作也。
金光院の法院宥栄らただちにかたせ給ふ趣也。
まことにたけき神山ともよめらん所也。
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金毘羅大権現
  金比羅神は、釈迦説法の守護神で天竺から飛んできた神で、本地は不動明王というのです。不動明王は修験者の守護神です。
当時、人々に信じられていた天狗は二種類ありました。
DSC03290

それが最初に視た願文中の「大天狗」・「小天狗」です。
「大天狗」とは鼻が異様に高く、山伏のような服装をして高下駄を履き、羽団扇を持って自由自在に空中を飛翔するというイメージです。
「小天狗」とは背に翼を備え、鳥の嘴をもつ鳥類型というイメージです。
でそれでは「金毘羅坊」とは、どのような天狗なのでしょう。
 戦国末期に金光院別当であった宥盛(修験号名「金剛坊」)は、自分の姿を木像に自ら彫りました。彼の死後、この像は御霊代(みたましろ)として祀られていました。この木造について、江戸時代中期の尾張国の国学者天野信景は『塩尻』の中に、次のように記している。
讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。
いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、
手に羽団(団扇)を取る。薬師十二神将の像とは、甚だ異なるとかや。
その姿は「山伏の姿で岩に腰かける」というものでした。
山伏姿であるところから「大天狗」にあたると考えられます。
安藤広重作「東海道五十三次」の「沼津」に見られる金毘羅行者は、この大天狗を背に負っています。
「安藤広重作「東海道五十三次」の「沼津」」の画像検索結果

 一方「黒春属金毘羅坊」は
「黒は烏につながる」
「春属には親族とか一族の意味がある」ことから
「黒春属金毘羅坊は金剛坊の仲間の烏天狗として信仰された」とします。
つまり、烏天狗ということは、願文中の「小天狗」になります。
 そして大天狗・小天狗は、今でも金毘羅山を護っているのです。
現在の金刀比羅宮奥の院の左側の断崖絶壁に祀られています。

DSC03291

 以上のことから、最初に見た願文の願主は、金毘羅信仰の天狗についてよく分かっていたようです。信濃の庄屋さんの信仰とは、金毘羅大権現=「大天狗≒小天狗」への信仰、つまり「天狗信仰」にあったと言えるのかも知れません。
天狗面を背負う行者
天狗面を背負った金比羅行者 彼らが金毘羅信仰を広めた
さらに深読みするならば、この時期の信州では天狗信仰を中心とした金毘羅信仰が伝わり、受けいれられたようです。それが信州における金毘羅信仰の始まりだったのです。ここには「金比羅信仰=海の神様」というイメージは見られません。また、「クンピーラ=クビラ信仰」もありません。これらは後世になって附会されたものなのです。
 
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 江戸時代初期の丸亀藩や高松藩の下屋敷に勧請され、当時の「開帳ブーム」ともいうべき風潮によって広く江戸市民に知られ、その後爆発的な流行をみせた金毘羅信仰。
その信仰の中心にあったものは、航海安全・豊漁祈願・海上守護の霊験と言われてきました。しかし、それは近世後半から幕末にかけて現れてくるようです。初期の金毘羅大権現は、修験道を中心とした「天狗信仰」=「流行神の一種」だったようです。その願いの中に、当時の人々が願う「現世利益」があり「大願成就」を願う心があったようです。
1金毘羅天狗信仰 天狗面G3
金比羅行者が奉納した天狗面(金刀比羅宮蔵)
1金毘羅天狗信仰 天狗面G4
1金毘羅天狗信仰 天狗面G5

天狗面2カラー
            金比羅行者が奉納した天狗面(金刀比羅宮蔵)

参考文献  前野雅彦 金毘羅祈願文書について こと比ら63号(平成20年)
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金光院別当「宥雅」の「業績」について       房号「洞雲」
①金比羅堂を建立しながら正史からは「抹殺された存在
②西長尾城主の甥(弟)で、金光院別当職を宥盛と争う。
③三十番神にかわる金比羅大権現を新しい守護神に据え、金比羅堂建立。背景に仏法興隆の三十番神だけでは、「現世利益」に対応できず。強力な霊力の新たな神の勧進が必要。
⑤滝寺からの伝来する十一面観音を本地仏として、その垂迹として金比羅神を草創。
⑥金比羅神の創始を鎌倉末期以前のことと改作
⑦「大魚退治伝説」の神魚と金比羅神との結合。
⑧三十番神の祭礼(法華8講)を金比羅大権現の祭礼として転用
⑨金比羅大権現は、松尾寺金光院を別当寺として出発
⑩長宗我部の侵入で長尾方に属した宥雅は、宝物を持って堺逃亡
⑪仙石秀久の讃岐支配で帰国できると思ったが・・
    生駒家に訴え出るも許されず「宥巌」に松尾寺を譲った
⑫宥巌が没して宥盛が別当になると非を並び立て、生駒家に提訴
⑬生駒家での裁判。その時の記録が「洞雲目安申」。
    「宥巌」なきあと別当を継承した「宥盛」への断罪するも失敗
⑭16世紀末には、松尾寺別当金光院から、金比羅大権現(社)別当金光院への衣替えを勧めた?
「洞雲目安申」には、次のように非難されている
   「宥雅の悪逆、四国に隠れなき候、・・女犯魚鳥を服する身として、まひすの山伏と罷成」

本来の松尾寺の性格は?
①鎌倉前期 小松庄の琴平山の谷筋の墓所墓寺的な存在
②鎌倉末期 宥範の時代には、松尾寺・称名院や三十番神の混在。
③1585(天正13)年の仙石秀久からの禁制はあるが寄進状はなし。別当の金比羅大権現には寄進あり。
④金比羅大権現の勢力が松尾寺全体を席巻する状態?
本地仏十一面観音。
本社前脇に海に向かって建っていた観音堂。
この本尊は大麻山の滝寺の本尊を移したもの。
前立十一面観音も、麓の小滝寺の本尊。
 
 「大魚退治伝説」の神魚と金比羅神との結合は?

①中世の法勲寺の僧侶によって広められていた悪魚退治の物語。
 松尾寺の僧侶は、その上に悪魚を神として祭る金比羅信仰の創設と流布。
②「宥範縁起」の中で悪魚が「神魚」に変身伝説、
 それをインド仏教のクンピーラに宛てた。クンピーラはガンジスのワニの神格化。 中国で千手観音菩薩の守護神化し日本伝来。
③しかし、松尾寺の本地仏は十一面観音で千手観音ではなかったので改造工作?
④それまでの松尾寺の守護神は三十番神
 古くから象頭山に鎮座していたのは三十番神。
⑤言い伝えは?
 外来の金比羅大権現が後からやってきて、この地を「十年」ばかり貸してくれ。三十番神が承知すると、金比羅大権現は三十番神が横を向いている隙に、「千」に書き換えてしまった。
「古来の三十番神はひさしを貸して母屋を金比羅神に乗っ取られてしまった」というのが地元の言い伝え。
⑥この説話は旧来の地主神と後世に勧進された新参の神との関係を示すもの。

    長宗我部元親の関与と宥巌 
① 1583(天正11)年 長宗我部元親寄進 松尾寺仁王堂の棟札
②三十番神を修復し、仁王堂新築。後の二天門「こんぴらのさかき門」だが、こんぴらの名前は見えない。 
 後に松平頼重が新築して寄進したときには金比羅の二天門。
③同年に三十番神も建立 
 当時の象頭山は、三十番神、松尾寺、金比羅大権現の並立状態。
④元親は「四国の総鎮守」として金比羅大権現を創建?
⑤土佐軍占領下の金比羅。
 金比羅大権現が松尾寺に取って代わる「変革」が起こった?
⑥第3代「別当宥巌」は元親の陣中にいた南光という修験者。
彼は土佐の当山派修験道のリーダーで、元親により金光院別当に任命
 1600(慶長5)年死亡。後の金比羅大権現にとって、長宗我部に支配され、その家来の修験道者に治められていたことを隠す意図が生まれてきたのでは?
⑦後の記録は、宥巌の在職を長宗我部が撤退した1585(天正一三)年まで以後は隠居としている。 実際は1600(慶長5)年まで在職 江戸期になると宥巌の名前は忘れ去られる。

金比羅大権現の基礎確立した金光院別当宥盛について 
①生駒藩家臣・井上家(400石)の嫡男で高野山で13年の修行
 宥雅の法弟で、宥目見の兄弟子   
②弟は助兵衛は生駒藩に仕え、大坂夏の陣で落命 
③1586(天正14)年 長宗我部ひきあげ後に帰国。
 後援者をなくした別当宥巌を助け、仙石・生駒の庇護獲得に活躍
④1600(慶長5)年 宥巌亡き後、別当として13年間活躍 
   堺に逃亡した宥雅の断罪に反撃し、生駒家の支持を取り付ける
⑤金比羅神の神格化「由来書」の作成。
「金比羅神とは、いかなるものや」に答える返答書。
 善通寺・尾の瀬寺・称明寺・三十番神との関係調整に辣腕発揮。
⑥修験僧「金剛坊」として多くの弟子を育て、道場を形成。
⑦土佐の片岡家出身の熊の助を育て「多門院」を開かせ院首に。
⑧真言学僧としての叙述が志度の多和文庫に残る。高野山南谷浄菩提院の院主を兼任
⑨三十番神を核に、小松庄に勢力を持ち続ける法華信仰を金比羅大権現へと「接木」工作
⑦1606(慶長11)年自らの姿を木像に刻み。「長さ3尺5寸 山伏の姿 岩に腰を掛け給う所を作る」とあり修験姿の木像。自らを「入天狗道沙門」
 この時期までの別当職は山伏・修験道の色彩が強い。
⑧1613(慶長18)年1月6日 死亡
 観音堂の横に祭られ「金剛坊」と呼ばれる。
⑨1857(安政4)年 大僧正位追贈、金比羅の守護神「金光院」へ
⑩1877(明治10)年 宥盛に厳魂彦命(いずたまひこのみこと)の神号を諡り「厳魂神社」創設。
⑪1905(明治38)年神殿完成、現在の奥社は、山伏であった有盛を祀る神社。行場であった磐の上には天狗面が掲げられている。
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