瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金刀比羅宮

 金光院の初代院主宥盛は、高野山で学んだ真言僧侶であると同時に、修験者で天狗信仰の持ち主でした。彼は象頭山にあったいろいろな宗教施設との権力闘争に勝ち抜いて支配権を得ていきます。明治以前の金毘羅大権現は別当寺の金光院が寺領の小領主となり「お山の大将」として支配するようになります。ある意味では、金毘羅大権現は「流行(はやり)神」として急成長していった「成り上がりもの」でした。そのため周辺寺社から羨望や反発を受けることもあったようです。その例が善通寺誕生院から出された「金光院は、我が寺の末寺である」という次のような提訴であることは以前にお話ししました。

善通寺誕生院と金毘羅金光院の本末争い

以後、金光院は周辺寺院との反発や軋轢を生まないような対応を心がけたようです。それでは金光院は周辺の真言寺院と、どのような関係を保っていたのでしょうか。テキストは「町史ことひら 3(民俗)273P 近郷の諸寺院からの願い出」です。
 初代高松藩主松平頼重の保護を受けた金毘羅大権現は、18世紀初頭の元禄年間になると讃岐の諸寺院を圧倒する力を持つようになります。その結果、近郷諸寺院からも色々な依頼や願い出を受けるようになります。その依頼や対応について、金光院日帳の中の記事を抜き出したものを見ていくことにします。 

享保十一年(1726)
十一年二月二十日 予州宅善寺から、三月二十二日には多度郡明王院(道隆寺)から灌頂道具を借用依頼
十七年三月十九日 三野郡威徳院から灌頂道具を借用依頼、四月四日返納
十九年二月十七日 多度郡明王院と阿野郡摩尼珠院から、三月十一日には伊予誓源寺と一ノ宮大宝院から法衣借用を申し出る。

この年は、弘法大師九百年遠忌の年であったので法衣の借用申し入れが多かったようです。多度津の道隆寺は、潅頂用具や法衣などを金光院から借用しています。その他の借用依頼のあった寺名を挙げておきます。
享保二十(1730)年十月二十二日 阿州雲辺寺から曼荼羅供の道具借用
寛保三(1743)年十月十七日 高松無量寿院へ法衣貸与。
宝暦二年二月二十六日 中津村正花寺から天満宮年忌につき法衣借用申し出る。
宝暦十三年六月七日 白峯寺より法衣借用依頼。
文化元年(1804)九月二十五日 善通寺五重塔落慶供養につき丸亀藩役人より法衣借用申し来る。
文化十年二月八日 崇徳天皇六百五十年忌につき、摩尼珠院より霊宝拝借したき旨願い出る。
ここからは、雲辺寺・無量寿院・白峰寺などからも特別な行事に着用する法衣を借りに来ていることが分かります。財政的に豊かだった金光院は、高価な法衣もそろえていたようです。また、本末論争を展開した善通寺誕生院も19世紀初めには、法衣借用を丸亀藩を通じて申し出ています。

次に立札の依頼を見ていくことにします。

天明四年(1784)1月多度郡善通寺から、弘法大師九百五十年遠忌の建札の件願い出る。坂口に建てさせる。
文化十一(1814)年十一月十七日 丸亀円光寺が法華経講釈致したく、小坂下に建札したき旨願い出る。
文化十四(1817)年三月九日 多度郡生野村浄証寺、開帳につき建札願。
文久二(1862)年一月十七日 予州石槌山開帳に付き、当建札のこと願い出る。
文久八年七月一日 隣村榎井村玄龍寺社領内に建札したき旨願い出る。
那珂郡西念寺、説法の建札社領内に建てたい旨願い出る。
 善通寺や石鎚山から賑わう金毘羅門前町に開帳などの立札を立てさせてくれとの依頼もあります。

また、他寺の火災再建などについても、次のように援助の手を差し伸べています
宝暦元年(1751)6月2日 天領池領の龍松寺から材木をもらいたいと願い出た。それは断り、代りに本尊へ三百疋供える。
安永五年(1776)10月27日 高野山浄菩提院焼失につき寄進を願い出る。
文化九(1812)年十月二十日 那珂郡恵光寺(買田)全焼、助情として文銭十貫文遣わす。
天保十二年(1841)十一月五日 三野郡財田村伊舎那院楼上棟につき鏡餅を献上する。使者を以て金三百疋・昆布三連遺わす。
同月二十三日 京都愛宕山福寿院社頭再建に付き寄附を願い出る。
慶応三年(1867)六月二十日 榎井村興泉寺へ本堂再建資金二百両遣わす。
こうして見ると、周辺の天領や買田などの寺に対しては、多額の援助を行っています。疑問なのは、榎井の興泉寺は真宗興正派に転宗していますが、宗派を超えて「本堂再建資金二百両」を提供していることです。金光院と興泉寺の特別な関係がうかがえます。また、京都愛宕山福寿院の社頭再建を援助しています。象頭山に続く愛宕山は、愛宕信仰の拠点として修験者たちが活発な動きを見せていた所であることは以前にお話ししました。本家の京都の愛宕山との関係があったことが、ここからはうかがえます。

また、面白い所では次のような記録も残っています。

宝暦六(1756)年四月九日 阿州極楽寺隠居、四国巡拝の途中路の借用を頼み来る。三十目貸与。

これは四国巡礼に出た阿波の極楽寺の隠居が、金毘羅に立ち寄った際に路銀借用を願い出てきたので三十目貸したというものです。この時期には、四国の真言僧侶が四国巡礼に出ていたことが分かります。また、当時の四国巡礼では金毘羅大権現は札所ではありませんが、参拝するのが当然であったことは以前にお話ししました。
このように金光院が社領を朱印地として認められ、勅願所でもあり、徳川家祈願所でもあるという格式を持つようになると、周辺寺院から頼りとされるようになっていたことがうかがえます。また宗派の寺院でも、住職交替の挨拶に登山し、以後は出入りを願うというような例が多かったようです。それに対して金光院は、たいていの願い事は聞き届けていたようです。そのため善通寺よりも金比羅の金光院の方が頼りになると云われていたようです。

金光院歴代院主一覧
歴代金光院院主一覧

次に9代目金光院院主の宥弁の一周忌の法事について、どんな寺院がやってきているのかを金光院日帳で見ておきましょう。
 宥弁は宝暦10(1760)年十二月五日に江戸で亡くなりました。一周忌の法要には、次のような寺に使僧が案内しています。
丸亀藩領内
下勝間威徳院・仁尾覚成院 仁尾瑞雲院 本山持宝院・財田伊舎邪院・同所宮坊・上ノ村萬福寺・上高ノ村延命院・西ノ村宗運寺・中ノ村薬師坊・姫ノ浜満願寺・大野阿弥陀院・下高野延寿寺・上高野宝積院・大野薬王寺・加茂明王院・笠岡長林寺・
高松藩領
円明院・東福寺・愛染寺・行徳院・大宝院・栗熊能満寺・栗熊円福寺・羽床菩提院・滝宮龍灯院・四条村の浄願院・弘安寺・長尾村の佐岡寺・川津村の宝珠院
讃岐以外
伊予川之江の宅善寺・阿波の舞寺・林下寺・極楽寺
案内した寺院の分布を見ると、高松領よりも丸亀領の方が多いようです。特に三豊とのつながりがうかがえます。以上が金光院と密接な関係にあった寺院と云えるようです。気になるのは、近隣の天領のこう
十一月二日に、法要に向けた役割分担が院主から次のように言い渡され準備が進められます。
膳方奉行役人二人・膳方働人十四人・富士の間給仕人 内町綿屋清兵衛・同山屋富弥新町つねや惣右衛門・阿玉屋半蔵・同伊せや伊助・片原町國屋条松同石田屋孫七(四日の朝六時、羽織袴で登山する)
町料理札之前丹治郎・金山寺町吉次・横町金二郎・西山長七
夜具奉行役人二人 風呂奉行は玄関を兼ねて役人一人・台所奉行役人二人・長屋奉行役人一人・御次役人三人・玄関役人九人・生菓子方役人一人と手明日雇二人。町方からの夜具二十通・木綿の夜具十通借り上げる。寺には絹の夜具十通は備え付けがある。 
十一月四日 二日法要なので前日から案内があった住職がやってきます。

阿波林下寺以下三十一か寺で、うち羽間佐岡寺は隠居が来られ、川之江宅善寺・高松蓮花寺・栗熊円満寺は代僧が見えた。諸寺院の弟子衆は二十六人、下部は六十人ばかりであった。右の寺院方へまず落付の煮染と茶を差し出した。諸寺院がそろったところで、お上は、上之間でお逢いになった。終わって午後四時、二汁五菜の食事を出す。膳部は百人前用意しておく。濃茶は五人詰にして出す。茶葉は羊羹・鰻頭・川葺である。食事の間に、お上は顔を出してあいさつされ、脇坊・役人もあいさつに出て来る。院内の出家分、先住実家の当主等へも二汁五菜の料理・茶菓子を出す。

金光院日帳は、後のための記録資料として記録係が書いていたので、出されたお茶やお菓子などが具体的に記録されています。これが後世の担当者にとっては、役立つ史料となったのでしょう。暮れ時から始まる宵(前夜)法要を見ておきましょう。法要の場所は、本堂の観音堂ではありません。表書院で行われています。

表書院平面図
表書院平面図 もともとは仏間があった
 食事が終わり、暮時分から法事が始まる。光明三昧の導師は上高村延命院、光明真言頭は下勝間威徳院、前讃は高松東福寺、伽陀は阿州林下寺が勤める。七賢の間から虎の間にかけて仏前の荘厳として檀・三方・折敷・玉幡二流・小幡四流・花鬘三ツ大幡六流を飾る。お供え物は御本尊へ饅頭二盛(盛五十積)干菓子二盛・柿一盛(以上塗三宝)・羊羹一盛・金子台、御神前へは饅頭一盛(五十積)・干菓子一盛・団子一盛・祐一盛(以上白木脚打)羊羹一盛・金子台、先寺様総牌前へは干菓子一盛・饅頭一盛(五十積、共に白木脚打)を供えた。外に諸方から到来した品々を見合わせに少しずつ供える。
 お上(金光院院主)は上段の間の紙を立て切った所でお勤をされたが、法事の席へは出ず、終わってから僧に「太儀に存じます」とあいさつされた。
今夜は客僧衆また院内の出家迄、夜食に饂飩・吸物・笠の飯を二菜で出す。ただし酒は出さず、客僧のうち特に望まれる人には見合わせに出すことにする。院内の侍以下にも夜食を出す。
 加羅風呂屋に据風呂を二つ建てて客僧衆が追々に入られる。客僧衆のお供は長屋で朝夕とも一汁二菜の食事を出す。ここでも長前に据え風呂を二つ建てて入らせる。
 今夜は夜廻りを出し、拍子木を打って院内を回らせる。台所の使い水が不足なので町方から汲み上げさせる。今晩から明日にかけて非人たちに施行をする。
導師の名前、仏前の荘厳(飾り付け)、お供え物、夜食などが記されています。夜食には、饂飩が出されています。讃岐における饂飩の普及は、法要などで出されたことに始まるとされますが、それを裏付ける史料です。また、臨時の風呂も用意されています。非人立ちへの施しがされています。金毘羅門前町にも非人たちがいたことが分かります。
翌日の法要です。 
焼香は役人・侍分から始め、焼香台を富士の間の敷居の内一畳目くらいに置き直して手代・料理人・諸方の屋敷守と続く。そのまた、台を持仏堂入口に置き直して町方重立の者たちが焼香する。終わって、持仏堂正面の虎の間敷居際へ焼香台を出し、客僧衆焼香がある。
 終わって昨日の通り二汁五菜のお膳を出す。お膳の途中で、お上また脇坊役人中があいさつに出られることも昨日と同じである。茶菓子は餅と煮染を銘々盆で出す。薄茶も出す。
 お膳の後、お布施を拵えて払方が脇坊中へ渡し、脇坊中の取り計らいで列座の場へ盆に乗せて給仕の者に取らせる。本寺衆・一寺衆は金二百疋宛、末寺衆は金百疋宛である。諸寺院の弟子たちは銀二両ずつ、当山の脇坊中は金百疋、同宿は銀二両ずつであっ客衆がだんだん帰られるので、お上も表へ出て来られお暇いをされる。
   お墓所へ五寸角一丈二尺余の卒都婆を建て香花を供え、墓前に縁取りを一枚ほど敷いておく。役人はじめ侍中へは餅と煮染を銘々に盛って、通りの間・六畳敷きなどで見合わせに出す。中通り以下の者にも食べさせる。法事のお供え料として十疋ずつ役人中から、五十銅ずつ差し上げる。お次表諸役手の侍中からも豆腐・菓子などを差し上げる。(以下略)
焼香の順番、お膳内容が記され、お布施については金額や、その渡し方まで記されています。その後に墓所にも出向いて卒塔婆を建てています。
  こうしてみると金毘羅大権現は金光院という別当寺が支配し、近隣の真言寺院のネットーワークの核として機能していたことがうかがえます。しかし、注意しておきたいのは最初に見た本末争論を展開した善通寺の誕生院は呼ばれていないことです。誕生院と金光院は、その後も反目状態にあったのかもしれません。 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献  
町史ことひら 3(民俗)273P 近郷の諸寺院からの願い出」
金毘羅庶民信仰資料集 年表編
関連記事

まんのう町文化財保護協会の秋のフィルドワークで、今年も金刀比羅宮を訪ねました。昨年は宝物館を中心に見学しましたが、今年は重要文化財に指定された本宮・別宮(三穂津姫社)・旭社を見てまわりました。その報告記を載せておきます。
最初に「四国新聞・2024/05/18」で事前学習をしておきます。
(前略)
明治初頭の神仏分離で仏教色を排し、神社として再興するため境内を再編しており、明治政府の宗教政策への対応を示す貴重な事例。複合社殿の本宮と別宮は独自の細部意匠を備え、両宮をつなぐ渡り廊下など一連の施設と共に優れた景観を形成していることも評価された。(中略)
金刀比羅宮本社周辺図


県内では明治以降の建造物が重文指定されるのは初めてで、今回答申された建造物は次の12棟。
「本宮本殿・中殿・拝殿」
「本宮神饌殿(しんせんでん)」
「本宮直所(じきしょ)」
「別宮本殿・中殿・拝殿」
「別宮神饌殿」「別宮直所」
「祓所殿(ばつじょでん)」
「南渡殿(みなみわたどの)」
「神楽殿」「御炊舎(みかしぎしゃ)」
「神輿(しんよ)庫」
「神庫」
 いずれも1874~78(明治7~11)年に建てられた。金刀比羅宮はかつて「金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)」として神仏混交の寺院でもあったが、1868(同元)年の神仏分離令から神社として再興。組織の再編に合わせ、境内も大規模に改編した。
県教委などによると、1878(同11)年建築の本宮は仏教色をなくし、壁面や天井に木地蒔絵(まきえ)を施した複合社殿。拝殿から本殿に向かって床高を上げることで格式を高め、破風(はふ)を多用した屋根も荘厳で優美な雰囲気を醸し出している。本宮本殿などを修理する際に本宮からご神体を移す別宮も本宮に準じた高い格式で、神饌殿や直所など付属施設を伴う構成も同じという。また、両宮をつなぐ全長42メートル、高さ2・2メートルの長い渡り廊下「南渡殿」は金刀比羅宮独特の形式。同時期に建てられた神楽殿、御炊舎など各殿舎も残り、同審議会は「優れた社頭景観を呈するとともに、神仏分離による境内改編の様相を伝え、歴史的に価値が高い」としている。
それではまんのう町役場から町のマイクロバスで出発です。

P1290044
金刀比羅宮山上から望む阿讃山脈と大川山
今回は文化財研修ということで、専用道路の使用許可をいただき町バスで山上まで上がること出来ました。バスから下りるとこんな風景が拡がります。阿讃の山が幾重にも連なり、朝の神域は空気まで美味しく感じます。

P1290039
昨年と同じ学芸員の森下さんに御案内していただきます。
P1290043
大銀杏が色付き初めています。まずは正面の祓除殿に向かいます。
金刀比羅宮本社上空写真1
      金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書の表紙 2024年 金刀比羅宮
金刀比羅宮本社周辺図

四段坂の階段を登った所に本宮、旭社(旧金堂)への下口前に別宮が鎮座します。山上の本宮と別宮をを回廊が結んでいます。まず山上の一番南の建物から見てまわります。

P1290050
金刀比羅宮 別宮の南側より 左が祓除殿・右が直所
金刀比羅宮 祓除殿2
金刀比羅宮 祓除殿
祓除殿(ばつじょでん:はらえでん)」は、穢れや災厄を取り除く儀式である「祓い」を行う場所だそうです。殿上に上がる時には、ここで「祓い」受けます。この施設は、神仏混淆の金毘羅大権現時代にはありませんでした。神仏分離後の明治10年(1877年)に建立されたものです。この建物も重要文化財に指定された12棟の文化財の一つです。もともとはガラス扉はなく、開放的な空間だったようです。

金刀比羅宮 別宮 祓除殿 直所
                 金刀比羅宮 祓除殿(左)と直所(右)

金刀比羅宮 別宮祓除殿内部
金刀比羅宮 祓除殿内部 ここで穢れや災厄を取り除く「祓い」を行います。

金刀比羅宮 直所1
金刀比羅宮 別宮の直所
祓除殿に並んであるのが直所です。直所は拝殿の番所です。「金刀比羅宮攝末社陪祀史」第二巻」(大正10年)には次のように記します。

「夜間出仕一人奉仕して警衛の任に当たる」

建築年代は、別宮と同じ明治8年(1875)に付属施設として建てられています。

金刀比羅宮 別宮直所内部
金刀比羅宮 別宮の直所内部

P1290053
かつては祓除殿の南側には隣接して絵馬堂がありましたが、今は更地になって広々した空間になっています。
P1290057
ここは神域の景観が大きく変わったとこです。そのために南方の景色がよく見えるようになりました。

P1290052
大銀杏の下を通って、別宮の南側から正面に移動していきます。

P1290058
 別宮の正面が見えて来ました。

P1290061
別宮は、旭社への下り参道の正面に建っています。振り返ると別宮の正面です。

P1290062
金刀比羅宮 別宮拝殿の正面 
金刀比羅宮 別宮正面図
金刀比羅宮 別宮(三穂津姫社)拝殿 正面図
調査報告書56Pには、別宮について次のように記します。

金刀比羅宮 別宮5
金刀比羅宮 別宮 拝殿と本殿
①拝殿から後方は地盤を0.7mほど高めて、周囲に切石2段の石積上に葛石を回し、
②この石を布基礎として透塀を回して中及び本殿を開い。内部に拳大の玉石を敷き詰める。
③拝殿・中・本殿が接続して複雑な屋根の構成をみせる
④総欅の素木造、総檜皮葺の複合社殿形式
P1290064
金刀比羅宮 別宮拝殿
⑤拝殿は高床の建築で、切石二段布積の布基礎上に上部梓付きの角柱を土台建て
⑥組物は大斗財木で柱間の使い正背面両脇は疎組だが、柱間中央では大木を配って詰とする。
⑦軒は二軒で角垂木を疎らに配る。
⑧屋根は入母屋造檜皮葺で、飾は前の上に三を組み、中に神紋を備えた彫物を配し、絵様を施した虹の上に笈形付大東を立て、破風の拝みに鯖付き無懸魚を釣る。


P1290063

⑨正面千鳥破風は大棟に高さを揃えて前方に棟を延ばし、妻は花狭間格子、拝懸魚は大屋根と同様とする。

金刀比羅宮 別宮本殿
金刀比羅宮 別宮平面図
平面図を見ておきましょう。
①桁行三間、梁間二間で、正面中央間特に広く12尺(3.6m)
②疎垂木を16枚(1枚=7寸5分)に割り付け、両脇は9枝と狭くし、側面は11枝等間
③拝殿中央間の柱は、正面向拝並びに後方に続く中殿及び本殿の間口に揃えた重要な基準間
④正面及び両側面は各間に双折れ唐戸を両外開に構え、正面中央間は長押を一段切り上げる
⑤背面は中殿に続く中央間を開放とし、両脇間は両外開きの唐戸を構える。

金刀比羅宮 別所本殿内部
金刀比羅宮 別宮拝殿から本殿への階段

金刀比羅宮 別宮 三穂津姫社例祭2
金刀比羅宮 別宮拝殿内部 (三穂津姫祭)

この別宮が建てられる前には、ここには何が建っていたのでしょうか? 

金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現の観音堂(讃岐国名勝図会)
讃岐国名勝図会には、別宮がある所に松尾寺の本堂(観音堂)が描かれています。
 明治維新の神仏分離によって、金刀比羅宮は金毘羅大権現を追放し、新たな国家神道の宗教施設としての道を歩み始めます。しかし、山上には今までの神仏分離の仏教色の強い本宮や、旧観音堂(松尾寺の旧本堂)が、そのまま残っていました。これらの宗教施設を一掃し、近代的な国家神道に相応しい宗教施設群の建設を金刀比羅宮は目指そうとします。ちなみに、幕末から明治にかけての金毘羅信仰の高まりはすざましく、経済的基盤にはめぐまれていたことは以前にお話ししました。こうして、山上におけるリニューアル工事が明治8年にはじまり、旧本社や旧観音堂は撤去されることになります。
 さて、ここで学芸員の方から出されたクエスチョンです。本宮と別宮では、どちらが先に建てられたでしょうか?
本宮の方が優先度が高いはずです。しかし、新しい本宮を建てるためには、神様を別の施設に遷宮をしなければなりません。つまり、祭神を一時的に迎える宗教施設が必要になります。そのために建てられたのが現在の別宮なのです。現在の別宮は、祭神の遷宮受け入れ先として造られたことを押さえておきます。建築順からすると、本宮よりも別院の登場の方が早いということです。

別宮登場の背景は?

P1290066
重要文化財と書かれた別宮と三穂津姫社の看板の大きさに注目
かつては、この建物の看板には三穂津姫社と大きく書かれ、そこには祭神である大国主命の妻を夫婦で祀ってあることになると書かれていた記憶があります。しかし、重要文化財指定後は「御別宮」と大きくあり、三穂津姫社の説明版は小さくなっています。ここには、この建物が遷宮祭の際に使用される「別宮」であることの方をを強く打ちだしているように感じます。

金刀比羅宮 別宮 三穂津姫社例祭
金刀比羅宮 別宮拝殿で奉納される三穂津姫舞

ちなみに、この建物が三穂津姫社とされるようになるのは、いろいろな経緯を経て後年のことになるようです。そこにはいろいろな内部での意見対立などもあったようです。最後に、別院は三穂津姫を祀るために造られたのではなく、別院として造られた。そのために、別院は面積的には本宮の半分の規模だが、本宮と同じように、直所や神饌所などの付属施設を持っているのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書紙 2024年 金刀比羅宮
関連記事

丸亀の院主さんたちに「金毘羅神の誕生とその後」と題して、お話しをする機会がありました。その時のことを資料も含めてアップしておきます。
 今回は戦国時代末期の1570年ころから、元禄時代末までの約百年間の金毘羅さんのことをお話しさせていただきます。この時期は、金毘羅神が産み出され、成長して行く時期になります。金毘羅さんにかかわったその時々の人々を取り上げて、彼らの直面した課題と、残した業績をみていきたいとおもっています。


松尾寺 観音堂と金剛坊
金毘羅松尾寺の観音堂(讃岐国名勝図会)と、本尊の十一面観音


 その前に舞台となる金毘羅山上の様子を絵図で見ておきます。
①神仏分離前の幕末の金毘羅大権現の観音堂です。現在は、この地には大国主の姫神
三穂津姫を祀る建物があります。神仏分離後に神社風に改められて最近、重文指定を受けました。②その背後に金剛坊とあります。金剛坊は「死しては、天狗になって金毘羅を護らん」と云った宥盛という修験者です。宥盛を金光院では実質的な始祖としてきました。宥盛は神仏分離後は、奥社に奉られています。左の方には大きな絵馬堂 そして籠堂もあります。参拝者達がここで夜を明かしていたことがうかがえます。さて、このお寺は創建時は松尾寺と呼ばれました。観音堂が本堂なので観音信仰のお寺だったようです。観音堂の本尊を見ておきます。平安期の観音像です。頭の 十の観音が抜き取られて、かつては正観音とされていたようです。今は宝物館にいらっしゃいます。明治の神仏分離後も、この本尊を廃仏することはできなかったようです。観音堂の右側は、どうなっているのでしょうか?

松尾寺 金毘羅大権現と三十番社
金毘羅大権現の拝殿・本社と三十番社(讃岐国名勝図会)
右側の拝殿と本社は、現在とあまり変化がないようです。しかし、もともとはここに先ほどの観音堂があったようです。それがどうして、金比羅神にその座をゆずったかについては、おいおい見ていくことにします。ここでは三十番社を見ておきましょう。経蔵には、多くの経典が納められていました。その中で法華経は、中世には宗派を超えて大切にされたお経で、その守護神たちが三十番神でした。三十の神々が日替わりで順番に経典を護るのです。その建物を三十番社と呼び、三十の神々が安置されていました。神仏混淆信仰のもとでは「神が仏を守る」のが当たり前とされていました。幕末の伽藍配置の全体を押さえておきます。


金毘羅大権現伽藍 金毘羅参詣名所図会
金毘羅大権現の山上伽藍(金毘羅参詣名所図会)

金毘羅参詣名所図会に描かれた金毘羅大権現です。
ここでは、本社下の四段坂の一番下の本地堂を押さえておきます。ここが金毘羅神が最初に祀られた所になります。それが、本社の位置に格上げされて、観音堂を押しのけたかっこうになります。また金毘羅神の本地仏は、薬師堂とされました。そのため金堂の位置には薬師堂が建てられます。そして、幕末には大きな金堂として新築され、中には善通寺金堂の薬師さまと変わらない大きさの薬師さまが安置されていました。それは神仏分離後に売却され、金堂はもぬけの空となって旭社と呼ばれるようになります。
 もうひとつ押さえておきたいの、二天門です。これは土佐の長宗我部元親が寄進したものです。俗説では、逆(賢)木(さかき)門ともいわれ、一日で大急ぎで立てたので、柱の上下が逆になっているといわれる門です。

金光院 讃岐国名勝図会2
金光院(讃岐国名勝図会)
 松尾寺の伽藍の管理権を握るのが金光院院主です。
金毘羅さんの歴史を権力闘争という視点で見れば、金光院の支配権確立の歩みという見方も出来ます。表書院には円山応挙の鶴や虎の絵が描かれていることで有名ですが、ここで注目しておきたいのは護摩堂です。

金光院の護摩堂と阿弥陀堂
金毘羅の護摩堂と阿弥陀堂 右が護摩堂の本尊不動明王
この護摩堂に安置されていたのが、この不動明王になります。この不動さまの前で、社僧によって護摩が焚かれお札が渡されていました。お札は本社で発行されていたのではなく金光院に権利がありました。ちなみに、この不動さまは、今も宝物館の中にいらっしゃいます。神仏分離の際にも、当事の僧侶達はこの像だけは手放せなかったようです。金比羅宮はもうひとつ気になるのが阿弥陀堂です。真言の寺と阿弥陀堂はミスマッチのような気が、これにも時間があれば後に触れたいと思います。
大祭行列図屏風 山上拡大図 本殿 金剛院
金毘羅大祭図屏風(17世紀初頭)
神仏分離以前の金毘羅大権現の伽藍を見てきました。ここでは松尾寺の守護神である金毘羅神を祀る本社、三十番社、観音信仰の観音堂が山上に並び、その下に管理運営を握る金光院やそのたの子院があったことを押さえておきます。
これで、今回お話しの中に出てくる建物の紹介を終わります。さてこれから本番です。


金毘羅信仰についての今までの常識

金比羅さんについては、かつては上のように説明されてきました。

しかし、香川県史や町史ことひらなどは、このような立場をとりません。それでは現在の研究者は、金毘羅信仰についてどのように考えているのでしょうか? まず、「古い歴史をもつ金毘羅さん」について、見ておきましょう。

金毘羅中世文書は偽書

かつては上の5つの寄進状が、金毘羅大権現が古代末に遡ることを示すものとされてきました。しかし、現在では、これらは後世の偽書であると香川県史や町史ことひらは判断しています。
 「海の神様=金毘羅大権現」説については、奉納物の史料整理などから次のような事が分かってきました。
「金毘羅神=海の神様」説は、史料からは裏付けられない
こうして見ると、塩飽の人名や船頭達の奉納が始まるのは18世紀になってからです。しかも塩飽の船乗りや船主達の寄進した燈籠は、全体でも20基足らずです。彼らが大坂の住吉神社に寄進している数から比べると比較にならないほど少ないのです。塩飽の船乗り達は、もともとは金毘羅信者ではなかったようです。また芸予諸島でも、厳島神社・石鎚・大三島神社への奉納が中心で、金比羅には19世紀になるまではあまり見られません。また金毘羅側の史料からも、19世紀になるまでは海難防止祈祷などはあまりやっていないことが分かります。流し樽の風趣なども、これが一般化するのは明治になって呉の海軍がやるようになって以後であることを民俗学者が明らかにしています。ここでは金毘羅神はもともとは海とは関係なく、海の神様ではなかったことを押さえておきます。
金毘羅についての研究史のターニングポイントとなったのが「金毘羅庶民信仰資料集」です。
1988年に金比羅の鳥居・燈籠・玉垣・奉納物などが国指定を受けたのを期に作成された資料集です。この刊行の中心となったのが金刀比羅宮の学芸員の松原秀明さんで、長年にわたって金刀比羅宮の史料を収集整理してきた人物です。その松原さんが、第4巻の年表編の序文に次のような文章を書いています。

「金毘羅神


 流行(はやり)神というのは、それまでになかった神が突然現れて、爆発的に信者をあつめる現象です。この見解を、後に続く香川県史や「町史こんぴら」も、この立場を継承します。金比羅神が何者であるかは後回しにして、まずこの神がだれによって全国に拡げられたかを見ていくことにします。
当時の松尾山(象頭山)は、どうみられていたのでしょうか。

天狗経の金毘羅
天狗経(全国の天狗信仰の拠点が挙げられている)

これは天狗経という経典です。今では偽書とされていますが、当事はよく出回っていました。ここには、各地の有力天狗が列挙されています。そこは天狗信仰の拠点だったということです。先頭に来るのは京都の愛宕天狗です。鞍馬天狗もいます。高野山も天狗の拠点地です。そして、(赤丸)「黒眷属金比羅坊」が出てきます。「白峯相模坊」もでてきます。崇徳上皇が死して天狗になり怨念をはらんとしたのが、白峯です。その崇徳上皇の一番の子分が相模坊です。この下には多くの子天狗たちがいました。ひとつ置いて、象頭山金剛坊とあります。これが後の金光院です。こうして見ると象頭山は、天狗信仰の拠点だったことが見えてきます。
本当に金比羅・象頭山に天狗はいたのでしょうか? 

金刀比羅宮奥社の天狗信仰痕跡

その痕跡を残すのが奥社(厳魂神社(いづたまじんじゃ)です。ここには金剛坊とよばれた宥盛が神となって奉られています。奥社の横は断崖で天狗岩と呼ばれています。そこには、大天狗と烏天狗の面が架けられています。そして高瀬の昔話には上のように記されています。ここからはこの断崖や奥の葵滝などは、天狗信者の行場で各地から多くの人が修行に訪れていたことが分かります。 

金刀比羅宮奥社の天狗岩の天狗面

金刀比羅宮奥の院の天狗岩の天狗面(右が大天狗・左が小天狗)と奥社のお守り
右が団扇を持つ大天狗で、左が羽根がある烏天狗です。大天狗の方が格上になるようです。奥社のお守り袋は、天狗が書かれていて「御本宮守護神」と記されます。これは、ここに神となって奉られているのが天狗の親玉とされる金剛院宥盛なのです。彼は「死しては天となり、金比羅を護らん」といって亡くなったことは先にもお話しした通りです。どこか白峰寺の崇徳上皇の言葉とよく似ています。ここでは宥盛は天狗として、金毘羅宮を護っているということを押さえておきます。それでは、天狗になるためにここに修行しに来た修験者たちは、どんな布教活動を行っていたのでしょうか?

安藤広重の天狗面を背負った金毘羅行者
安藤広重の「沼津宿」に描かれた金毘羅行者

安藤広重の「沼津宿」には、天狗面を背負った行者が描かれています。
左は、金毘羅資料館の、金比羅行者です。箱に天狗面を固定し、注連縄(しめなわ)が張られています。天狗面自体が信仰対象であったことが分かります。天狗面を背負って布教活動を行う修験者を金比羅行者と呼んだようです。

金刀比羅宮に奉納された天狗面

金刀比羅宮には、金比羅行者が亡くなった後に、弟子たちが金毘羅に奉納した天狗面があります。ここからは金比羅行者が天狗面を背負って、全国に布教活動を行っていたが分かります。それでは、どんな布教活動だったのでしょうか?


金毘羅大権現と天狗への願掛け文

具体的な布教方法は分かりませんが、布教活動の成果が分かる史料があります。信州の芝生田村の庄屋・政賢の願文です。願文を意訳変換しておくと

金毘羅大権現の御利益で天狗早業の明験を得ることを願う。そのために月々十日に「火断」を一生行い大願成就を祈願する。


願掛け対象は、金毘羅大権現と大天狗・子天狗です。大願の内容は記されていませんが、「毎月十・二十・三十日に火を断つ」という断ち物祈願です。ここで押さえておきたいことは、海とは関係のない長野の山の中の庄屋が金毘羅大権現の信者となっていることです。それは金比羅行者の布教活動の成果であることがうかがえます。このように金毘羅大権現の初期の広がりは海よりも山に多いことが民俗研修者によって明らかにされています。

それでは、金毘羅大権現と、大天狗と子天狗は、どんな関係にあったのでしょうか。


Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗達(金光院)
そのヒントになるのが上の掛軸です。一番下に「別当金光院」とあります。金光院が発行したもののようです。正面が金比羅大権現です。その両脇が羽団扇を持った大天狗です。その他大勢が小天狗達です。金比羅の天狗集団は、こんなイメージで捉えられていたようです。この仲間入りをするためにプロの修験者たちは金比羅にやってきて、奥社や葵の滝などで修行を重ねます。そして多くの験を積めば、各地に金毘羅行者として天狗面を背負って布教活動を行いました。天狗信仰をもつ修験者たちによって、初期の金比羅信仰は拡がったと研究者は考えています。
それでは、金毘羅大権現はどんな姿をしていたのでしょうか?

金毘羅大権現は2つの姿で説明されていた
金比羅神は公式バージョンはクンピーラ、実際には天狗

 江戸時代中期に金比羅を訪れ、金剛坊に安置されていた金毘羅大権現を拝んだ天野信景は次のように記しています。

讃岐象頭山は金毘羅神の山である。金毘羅神の像は三尺ばかりの坐像で、僧侶姿である。すざましい面貌で、修験者のような頭巾を被っている。手には羽団扇をもつ。その姿は、十二神将の宮毘羅神将とは似ても似つかない。 


金光院の公式見解は次のようなものでした。

「金毘羅神は、インドのワニの神格化されたクンピーラである。それが権現したのが宮毘羅神将である」

しかし、これは金光院の公式文書の中に書かれたものです。この説明と実態は違っていたようです。つまり金光院は2つの説明バージョンを持っていて、使い分けていたようです。大名達の保護を受けるようになると、天狗の親玉が金比羅神では都合が悪くなります。そのために金比羅神の由来を聞かれたときに公式版回答マニュアルを作成しています。そこには、インドのガンジス側のワニが神霊化し守護神となったのがクンピーラで、その本地仏は宮毘羅神将だと書かれています。これが公式版です。が、実際の布教用には金比羅神は天狗の親玉と修験者たちは言い伝えていたようです。ダブルスタンダードで対応していたのです。
それが分かるのが、「塩尻」です。
そこで観音堂裏の金剛院にある金毘羅像を拝観したときのことを次のように記します。
僧のような姿で、修験者のような服装をして、手に羽根団扇を持つ。これは宮毘羅神将の姿ではない。死して天狗にならんとした宥盛が自らの姿を刻んだという自造木像を社僧たちは金毘羅神として崇めていたのではないかと私は想像しています。そこでは、「金毘羅大権現=天狗=宥盛」といった「混淆」が進みます。
 

天狗信仰から生まれた「崇徳上皇=金毘羅大権現」説

 ちなみに江戸時代後半になると京都の崇徳神社では、崇徳上皇と金毘羅神は同じ天狗だとされ、さらに崇徳上皇=金毘羅大権現という説が広まります。それが、明治になって金毘羅大権現を追放した後に、その身代わりとして崇徳上皇を祭神として金刀比羅宮が迎え入れる導線になるようです。ここまでで、一部終了です。

ここまでは以下のことを押さえておきます。

新しい「金毘羅信仰」観

①金比羅には、中世に遡る史料はないこと
②金毘羅は近世になって登場した流行神であること
③金毘羅神は、宮毘羅神将とはにても似つかない修験者姿であったこと

④金毘羅信仰をひろげたのは、天狗信仰をもつ修験者の「金毘羅行者」たちだったこと

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事

  金毘羅神は、近世はじめに天狗信仰を持った修験者たちによって生み出された流行神でした。
それが急速に教勢を伸ばします。いくつもできた子院の中で頭角を現すのが金光院です。金光院は神仏混交の金毘羅大権現の別当の坐に就き、長宗我部元親・生駒親正・松平頼重などの藩主の特別な保護を受けてお山の大将になっていきます。この間に、他の宗教勢力と権力闘争を繰り返してきたことが史料からもうかがえます。初代金光院主とされる宥盛は、優れた修験者であり、有能な弟子を数多く育てています。同時に彼は、高野山で学んだ高僧でもあり「弘法大師信仰 + 真言密教修験者 + 高野念仏聖」などの性格を併せ持っていたことは以前にお話ししました。ここで押さえたおきたいのは、神仏混淆下の金毘羅大権現の支配権は真言宗を宗旨とする金光院が握っていたことです。そのため数多くの仏像や仏画が金光院に集まってきました。そのうちの仏像については明治の神仏分離の際に、オークションに掛けられ、残ったものは焼却されました。しかし、仏画に関しては、秘匿性が高かったので優良なものは密に残したようです。そのため優れた仏画がいくつも残っているようです。その中で研究者が高く評価するのが「釈迦三尊十六羅漢像」です。優れたものであるにもかかわらず、これまでその存在を世に知られていなかった作品だは評します。
今回はこの伝明兆筆とされる「釈迦三尊十六羅漢像」を見ていくことにします。テキストは、「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」です。この仏画は、次のように3幅対の構成です
中幅  釈迦、文殊、普賢を描いた釈迦三尊像
左右幅 羅漢を八尊ずつを描いた羅漢図(右と左が同じ画像になっています)
仏教全体の祖師である釈迦の像や、釈迦の弟子である羅漢の図が描かれ始めるのは平安末期になってからです。その背景には
①仏教の原点回帰運動の風潮に乗って釈迦信仰が高まってきたこと
②日宋貿易による多くの仏画伝来
そんな中で、中世になると釈迦三尊像が盛んに描かれるようになります。金刀比羅宮の釈迦像と羅漢図も中世に流行したスタイルを踏襲しています。三幅対にまとめる手法も中国元代の作や、日本の鎌倉・南北朝時代の作に見られます。しかし、これらの作品は、脇幅が十八羅漢図であるのに対して、金刀比羅宮のものは十六羅漢図です。十八羅漢図の中から、各幅一尊ずつを消去し、各幅八、計十六になっています。 
それでは、金刀比羅宮本のどのような点を研究者は評価するのでしょうか? 
まず、羅漢図の評価を見ておきましょう。
27 釈迦三尊 
   釈迦三尊十六羅漢像 左幅 伝明兆筆 室町時代(金刀比羅宮蔵)
①十六羅図に変更していることは、先例を逸脱した新しい展開であり、やや時代の進展を予想させると。
②十六羅漢図の人物に見られるやや白みがかった肌色に、朱隈を添える色感は、金処士の「羅漢図」(メトロポリタン美術館)や睦信忠の「涅槃図」(奈良国立博物館)に登場する人物の色感に類似し、南宋本の仏画の感覚を忠実に踏襲しているように思われること。
③衣では、具色を用いた中間色は少なく、和様化の傾向が窺われること。
④火の線描は切れのある筆遣いでよどみなく変転する衣惜を描き出し、この画家が優れた技量の持ち主であったことを窺わせる
⑤肉身は、衣文より細めの線を用いるせいか、時にお手本を引き写したような弱々しさを見せることもあるが、全体的には切れ込むように引き締まった線の中に、緊張感ある肥痩を見せ、宋元人物画の品格を的確に継承している。
⑥水墨による自然景の描写は、たどたどしく、特に松樹の表現は神経質な細線を用いていて、原本となった宋元画の重厚感は描写し得ていない。
⑦このことは、この画家が、水彩画生画よりも著色の仏画を得意とした絵仏師系の人物であることを想像させよう。
⑧全体の構成は、宋元の先例などに比べ緊密感に著しく欠け、画家の主体的な構成意識よりも、各部分をパーツとして写し取ることの方に意識が奪われているを感じさせる。
以上からは、宋や元の仏画をお手本に、緊張しながら写し取っていく絵師の姿がうかがえます。絵画は、模写から始まるとされていたので当然なことかもしれません。
次に中央の釈迦三尊像を研究者は評します。

27 釈迦三尊十六羅漢
 釈迦三尊十六羅漢像 中幅 伝明兆筆 室町時代(金刀比羅宮蔵)
頭光に火炎の縁取りがないことや、象の足元の蓮盤の数が少ないことを除けば、一蓮寺本の中幅に最も近い。しかし蓮寺本の幽暗な色彩感に比べ、金刀比羅宮本は明快で暖かみのある色彩であり、金彩による装飾も日立っていて、和様化の進展を感じさせる。釈迦の相貌も。一蓮寺本の鈍い目をした厳しいものから、より和らいだものに変化している。この点は、宋元仏画の色感に比較的忠実な十六羅漢図との時代観の相違を感じさせる。これは、この三幅対が異種配合によって出来た可能性をも想像させるが、詳細に観察するとそうした色感の相違は肉身部に限られ、衣の彩色は両者に共通すると言えよう‐
中幅の各尊像の衣文線は、宋元画に比べれば緩さを感じさせる。
軽い打ち込みとともにナイフで布を明りつけたような鋭さを感じさせるものであり、形態の描写にも崩れはなく、ここでも高い技量を認めてよい。釈迦の台座や、菩薩の衣服、獅子や象に施された装飾品などの細々とした細部の描写も破綻しておらず、手本を模写したとはいえそれなりに優れた画家であったと想像できる。獅子や象の文高く伸び上がった姿にもさわやかさがある」
一蓮寺の釈迦三尊十六羅漢像(真ん中)
釈迦三尊十六羅漢像 中幅(一蓮寺)
 確かに、金刀比羅宮本とよく似ています。ここからは両者には、共通する「手本」があったことがうかがえます。
社伝では明兆筆と伝えられるようですが、どうなのでしょう?
 
明兆
 明兆は淡路島に生まれ、淡路の安国寺で臨済宗の高僧だった大道一以 (1292~1370)に禅を学んだと伝えられます。『本朝画史』には、絵ばかり描いて禅の修行を怠ったので師から破門された記します。そのため明兆は自らを「師に捨てられた破れ 草鞋わらじ 」にたとえて「 破草鞋はそうあい 」と号しています。しかし、大道に従って東福寺に入り、寺では高位に就くことも期待されたとされますから、禅の修行を怠って破門されたのではありません。ただ、明兆が出世を拒否し、寺の管理や仏事の道具を整える「 殿司(でんす) 」にとどまり、「 兆殿司 」と呼ばれていたのは事実のようです。殿司職は今の会社でいえば庶務係で、地位や名誉より絵を描き続けることを選択し、「寺院専属の画家」になろうとしたのかもしれません。多くの伽藍を持ち、大きな絵を飾る広々とした空間があった東福寺は、明兆にとって最高の勤務先だったとしておきます。そこで彼は、伝来した宋元の仏画を手本にし、仏事で用いる儀式用の仏画を描き続けます。その代表作が、大徳寺の宋画五百羅洪図を模写した「五百羅漢図」(東福寺、根津美術館)です。

明兆 五百羅漢図2
         明兆「五百羅漢図」(東福寺、根津美術館)
この大作のおかげで後世には「羅漢図といえば明兆」とされるようになります。その意味で、金刀比羅宮本の作者としても相応しい人物です。しかし、研究者は「本図に明兆その人の個性の明確な痕跡を見出すことは難しい。」と指摘します。具体的には、明兆筆「五百羅洪図」のは色面がかなリフラットになっていることと比較して、金刀比羅宮本の羅漢が「より隈取りが強く、羅洪図に関する限り、明兆と共通する感覚は見られない。」と評します。
27  釈迦三尊十六羅漢像 伝明兆筆 右幅
釈迦三尊十六羅漢像 右幅 伝明兆筆 室町時代(金刀比羅宮蔵)

 そして、金比羅宮本の製作年代については次のように記します。
①鎌倉時代後半の初期の「釈迦三尊十八羅漢図」に比べると、和様化が進展し、両脇幅では十六羅漢に図像が変化していること
②構図の緊密感にやや欠けること
③中幅における金彩の目立つ明快な色彩感覚などを見られること
以上を勘案すると、明兆と同時代(14世紀後半~15世紀前半)の絵仏師の作と想定します。

 金刀比羅宮には、もうひとつ明兆作と伝わる「楊柳観音像(瀧見観音)室町時代」があります。
28 瀧見観音
「楊柳観音像(瀧見観音) 伝明兆筆 室町時代」
懸崖の下、海中に突き出た岩座に、正面向きに生す白衣観音の姿です。このモチーフは、明兆やその弟子たち、狩野派の画家たちにも受け継がれ、白衣観音として広く流布するようになります。中でも、背景を水墨で描き、観音を著色で描くスタイルは、下図の東福寺の大幅の明兆筆「白衣観音図」を代表作として、明兆派による作例が多く残されています。金刀比羅宮本にも、明兆筆の伝承筆者名があります。

明兆 白衣観音
            東福寺の大幅の明兆筆「白衣観音図」

東福寺の白衣観音と比べて見ると、大枠としては明兆系の匂いを感じる作品と云えそうです。
しかし、研究者は次のように評します。
①観音像は、明兆画のような抑制を利かせたメリタリーのあるものではなく、のっペーとして流派的特色をあまり見せない保守的なものとなっている
②山水景の表現は、断崖から垂れる草木の筆致は鈍いものの、岩座の鼓法は比較的力強く立体感を描き出し、海波も動感あるものとなっている
③どちらかと言えば水墨技の方に技量があり、著色の仏画はお手本をなぞったような凡庸さを感じさせる。
ボストン美術館の狩野元信筆「白衣観音像」
ボストン美術館の狩野元信筆「白衣観音像」

ボストン美術館の狩野元信筆「白衣観音像」に比べると、金刀比羅宮本は、明兆につながる室町時代的な雰囲気を感じます。
しかし、明兆やその弟子の赤脚子、霊彩らほどの精彩は放っておらず、製作年代がもう少し降ると研究者は判断します。そして、金刀比羅宮本を描いた絵師については、「狩野派の新様が有力になる直前頃か、もしくはそれ以降であっても狩野派とは接触を持たなかった室町後期の保守的な作家による作品」とします。
 金刀比羅宮に残る「伝明兆筆」とされる作品は、明兆のものではありませんが評価すべきもののようです。また、「伝明兆」とされる作品が多いのも、それだけ明兆の作品が後世からも評価されていたことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」

25弁財天十五童子像
絹本着色弁才天十五童子像(南北朝 金刀比羅宮蔵)

金刀比羅宮には、南北朝期の絹本着色弁才天十五童子像があります。かつてのこの画像をいれた箱の表には「春日社御祓講本尊」とあり、裏には19世紀中頃の文政の頃に金光院住職の宥天がこれを求めたことが書かれていたようです。ここからは、もともとは奈良の春日社に伝わっていたものであることが分かります。この弁財天については、以前にその由来を次のようにまとめました。

金毘羅大権現の弁才天信仰

今回はこの絵図についてもう少し詳しく見ていくことにします。テキストは「金刀比羅宮の名宝(絵画)」322Pです。
 弁才天の起源はインドの河の神サラスバティーで、土地に豊穣をもたらす女神でした。
後に弁才の神ヴァーチと習合し、弁舌・学問・知識・音楽の女神として信仰されるようになります。日本には奈良時代にやってきて、「金光明最勝王経」を拠り所の経典として像が造られ、礼拝されますが、当時はマイナーな仏だったようです。
それが中世になると変化してきます。「仏説最勝護国宇賀耶頓得如意宝珠陀羅尼経(以下:陀羅尼経)」などの弁天五部経が成立すると、弁才天は財福神として広く信仰されるようになり、像も盛んに行われるようになります。そして「弁才天」から「弁財天」へとネーミング変更して、七福神のメンバー入りも果たします。
もともとの弁財天の姿は、次の2つの姿がありました。
A「金光明最勝玉経」 武具を手に取る戦闘神風の姿
B「現図胎蔵受茶霧」 琵琶を抱えた音楽神としての姿
しかし、中世に成立した「陀羅尼経」では、その姿を次のように記します。
①8本の手で、その内2つの手には武具ではなく、財福の象徴である宝珠と鍵を持つこと
②穀物の神である宇賀神を頭上に白蛇の姿で載せること
③宇賀神は老人の顔で、体は蛇体
④眷属として十五童子を伴うこと
この記述通りに、弁財天の周囲には十五童子が集まっていて、頭上には老人顔蛇身の字賀神を載せています。


弁才天2
           頭上に「老顔白蛇」の宇賀神を載せる弁財天

経典の規定と違うのは、手が8本でなく6本なことです。持物は、左手には宝珠、弓、鉾を、右手には鍵、矢、剣を執っています。二本の手が減っているので左手側の輪と、右手側の棒が描かれていません。その代わりに財福を象徴する宝珠と鍵を体の中心に置いて目立たせて、財福神としての存在をアピールしているかのようです。水中の岩に座を設け、そこに豊かな体をゆったりと立たせる姿も如何にも福徳神らしい姿だと研究者は評します。

25弁財天
           弁才天十五童子像(拡大:金刀比羅宮)

 一方、十五童子像の中で、向かって左側に並ぶ童子の中には、笛、笙、竿、琵琶を持っているものがいます。これが弁才天の首楽神としての性格も表わしているようです。

弁才天に宝樹の盛られた鉢を棒げる異国使節団
  宝樹の盛られた鉢を奉納する龍王?(弁才天十五童子像:金刀比羅宮)
 画面下の水中からは異国の姿をした礼拝者が宝樹の盛られた鉢を棒げて弁才天を供養しています。これが龍王とすれば、弁才天の水神、河神としての性格も表現されていることになります。以上からは、弁才天の複合的な性格がよく表されていると研究者は評します。
 研究者が注目するのは、画面上方に円内の五尊が描かれていることです。

弁才天十五童子像の五尊

   向かって右から釈迦、薬師、地蔵、十一面観音、文殊の春日本地仏です。

春日本地仏曼荼羅 
            春日本地仏曼荼羅

これは春日本地仏曼荼羅に描かれる仏達と、顔ぶれが一致します。画面上部の大きな円相には、春日の神々の本来の姿である本地仏が描かれます。その下には、奈良の春日山、御蓋山(みかさやま)、若草山や春日野の風景が描かれます。
 最初に見たように、この絵が入っていた以前の箱書には「春日御祓講本尊」とあったようです。これは本地垂述思想に基づく春日曼荼羅の一種で、春日信仰との関連でとらえられるべきだと研究者は考えています。それはおそらく弁才天が寺院の枠をはみ出し、むしろ宇賀神との習合なども含めて神社での信仰が盛んになり、弁才天社が数多く作られてゆくような状況と関連していたのでしょう。
 
金刀比羅宮の
弁才天十五童子像の制作年代をを押さえておきます。
①絵の中に、河神や音楽神などが描き込まれて古いタイプの「弁才人」の特性も表現されていること
②そこから財福神に特化する前の比較的早い時期のものと推測できること
弁天五部経の成立や弁天信仰の隆盛は室町時代であること。
④以上から、
室町初期頃のもの
「室町時代初期頃に成立し、中世的な弁天信仰に基づく初期形態を示す画像として貴重」と研究者は評します。
 江戸時代の庶民は移り気で、新たな流行神の出現をいつも求めていました。
そのために寺社は繁栄を維持するためには境内や神域にそれまでない新たなメンバーの神仏を勧進し、お堂や行事を増やして行くことが求められました。金毘羅神だけでは、参拝客の増加は見込めないし、寺の隆盛はないのです。それは善通寺もおなじでした。庶民の信仰欲求に応える対応が常に迫られていたのです。
 金毘羅大権現の別当金光院では、明和六年(1766)に「三天講」を行うようになります。
三天とは、毘沙門天・弁才天・大黒天のことで、供物を供え、経を読んで祀つる宗教的なイヴェントで縁日が開かれ、多くの人々が参拝するようになります。
毘沙門天は『法華経』
弁才天は「金光明経』
大黒天は『仁王経』
の尊とされるので、この三天を祀ることは護国の三部経を信仰することにつながります。生駒氏が領主であった慶長六年(1601)に松尾寺の境内には、摩利支天堂と毘沙門天堂(大行事堂)が建立されています。すでに毘沙門天と大黒天の尊像はあったようです。足らないのは、弁財天です。
こうした中で弁才天画像を春日神社から手に入れたのは金光院院主の宥天(在職期間1824~32年)でした。
宥天が弁財天画像を求めたのは、「三天講」のためだったと研究者は推測します。こうして三天講の縁日当日には、三天の尊像が並べて開帳されます。そこに祀られたのが三天講の本尊の一つで春日社から購入した宇賀弁才天画だったというストーリーになります。ここで押さえておきたいのは、仏像や仏画などは、財力のある有力な寺院に集まってくると云うことです。そこに室町時代作の仏像や仏画があっても、その寺の創立がそこまで遡るとは限らないのです。金毘羅大権現には、多くの仏像や仏画が近世に集められたようです。

象頭山と門前町
       金丸座のあたりが金山寺町(讃岐国名勝図会 1854年)

文化十年(1813)には、芝居小屋や茶店が建ち並ぶ金山寺町に弁才天社の壇がつくられています。

さらに嘉永元年(1848)には金山寺町に弁才天社の拝殿が建立されています。松尾寺で三天講が行われるようになったことがきっかけとなって弁才天に対する信仰が高まり、門前町の金山寺町に弁才天社がつくられたようです。宥天の求めた弁才天十五童子像も、そうした弁才天信仰の高揚が背景にあったようです。
 松尾寺の境内には金毘羅大権現の本宮以外にも、諸堂・諸祠が建ち並び、多くの神や仏が祀られていました。それらの神や仏の中に、宇賀弁才天も加えられたということでしょう。弁才天の陀羅尼を誦せば所願が成就し、財を求めれば多くの財を得られるとされました。そのため庶民は弁才天を福徳の仏して、熱心に拝むようになります。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」322P
関連記事

DSC01362
金毘羅大祭行列図屏風右隻(複製品:香川県立ミュージアム) 

554 金毘羅祭礼図・・・讃岐最古のうどん店 | 木下製粉株式会社

これは元禄時代の金毘羅大権現の大祭の様子を描いた六曲一双の屏風で、宝物館の1Fに展示されています。複製品が髙松の県立ミュージアムにもあって、間近で直接見ることが出来ますし写真撮影もOKです。この屏風については以前に触れましたが、今回は別の視点で見ておこうとおもいます。テキストは「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」313Pです。
「金毘羅祭礼図屏風」について、作成者や作成時期については次のようにように云われています。
①元禄15年(1702)に金毘羅本社の屋根の葺き替えが完成したのを記念して、金光院住職の宥山が高松藩の御抱絵師狩野常慶を通じて表絵師の狩野清信に制作を依頼して出来上がったもの
②制作年代は「元禄屏風」と伝承されていることから、翌元禄2(1703)10月の大祭前までに作られたもの
③描作成者は狩野清信は、図屏風制作に当たって、先行する「象頭山十二景図」を参考モデルにしていること

金毘羅大祭行列屏風図 新町 容量縮小版
        右隻 新町から金倉川にかかる鞘橋まで(金毘羅大祭行列図屏風) 

 毎年10月10日に行われる金毘羅大権現の例大祭の時、頭人らが社領地の木戸を通り、門前町を行列して山上に参向する様子と、門前町の賑わい振りを描かれています。当時の金毘羅の町並みや風俗などを知る上で貴重な資料です。
右隻には、高松・丸亀方面から来た頭人が鞘橋を渡り、小坂に達するまでの道筋、表町の商店や裏町の芝居興行などの有様
左隻には、大門から桜の馬場を経て、本社に達するまでの子院や諸堂社などの山内の様子
画面には神事の行列だけではなく、行き交う参詣者や軒を並べる商家の様子が細かく描きこまれていて、いろいろな情報が読み取れる「絵画史料」でもあります。
    
木戸前後
          金毘羅寺領 髙松街道入口の木戸(元禄金毘羅祭礼図屏風)
例えばの道筋には、次のようなうどん屋の看板を掲げた店が3軒描かれています。
1うどん

DSC01341 金毘羅大祭屏風図 うどんや
新町のうどん屋(元禄金毘羅祭礼図屏風)
これが讃岐でのうどん屋史料第一号です。これよりも早いうどんの史料はありません。空海が中国から持ち帰ったのを弟子が讃岐に伝えたというのは俗説であることは以前にお話ししました。

 それでは、これを書いたのはだれなのでしょうか?
両隻には次のような落款と印があります。
狩野休円清信no

「清信筆」の落款があり、「岩佐」(白文長方印)、「清信」(朱文旧印)捺されています。そのため筆者は、狩野休円清信(1641~1717)とされてきました。清信について辞書で調べると次のように記されています。      
寛永18年に、幕府表絵師・御徒町家の狩野休伯長信の三男として生まれる。名は清信、通称内記。明暦元年に朝鮮通信使来朝の際、朝鮮王国へ贈る屏風を制作し、明暦3年には江戸城本丸御殿の再建に参加。幕府から拝領した木挽町屋敷に住み、南部家から5人扶持を支給された。それにより奥絵師から独立し麻布一本松狩野家を起こし、幕府表絵師のひとつとなった。元禄16年享年77歳で死去。狩野 休円の代表作として、『維摩・龍虎図』『金毘羅祭礼図』『鯉の滝登り(登竜門)図』『蘇東坡・龍図』
狩野博幸氏は、筆者について「狩野休圓清信説」を採って、次のように記します。
「風俗画ということからいえば、浮世絵師の鳥居清信が浮かぶが、画風から彼とは別筆と見るべきである。本図の筆者は狩野休圓清信と考えられる」

狩野 休円、『龍虎図』
                狩野 休円の代表作『龍虎図』
しかし、これに対して、土居次義氏は「狩野休円清信の作品とすると、「岩佐」(白文長方印)の存在は不審」として疑問を投げかけます。加えて研究者は「画風上も必ずしも狩野派風が強くはなく、むしろ素朴さが目立っている」と評し、次のような疑義を述べます。
①広く撒かれた金砂子や画中の人物の衣文に加えられた金泥線などは後補
②金砂子は元々のすやり霞にあわせて自然に見えるように撒かれている部分もあるが、図様との境目において、重なり方に不自然さある。
③人物の衣の金泥線の人り方は不規則かつ粗維で、墨で描いた本来の衣文線とは全く有機的に結びついておらず、明らかに後補
④これら後補の金彩を取り除いた全体の印象としては浮世絵風が混じっている
以上からは、筆者を「狩野休円清信」とすることについては「要検討」とします。ここでは、「狩野休円清信説」が一般的的だが異論として「浮世絵師の鳥居清信説」もあるとしておきます。

次に、この絵が描かれた時期を見ていくことにします。
制作時期は、通説は「元禄末年頃」とされてきました。それは、絵の中に書かれている次の3つの建造物との関係からです。
① 大門前に鼓楼がないこと。鼓楼は宝永7年(1710)の完成ですから、描かれていないと云うことは、鼓楼が姿を見せる前に描かれていたことになります。ここから下限が1710年とされます。

象頭山社頭并大祭行列図屏風  大門内側
右端の大門の下に鼓楼がない。
金毘羅大祭行列図屏風
金毘羅大権現境内変遷図1 元禄時代
1704年の金毘羅大権現の伽藍配置 鼓楼が出来るのは1710年

② もうひとつの上限年代を示す建物は、本宮前の四段坂の途中の鳥居です。
大祭行列図屏風 山上拡大図 本殿 金剛院
         金毘羅大祭行列図屏風 本社下の四段坂の鳥居
本宮前の急坂は「御前四段坂」と呼ばれています。松原秀明「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇」(1988年)には、元禄12年(1702)の記事として、次のようなことが載せられています。
6.10 本社屋根葺替。
7.20 宥山、権大僧都となる。
8.29 高松藩儒菊池武雅参詣一宿、宥山と詩の応酬あり。
9.  池領代官遠藤新兵ヱ、榎井村着。多聞院尚範・山下弥右ヱ門盛安外挨拶に出向く。
寒川郡志度村金兵ヱ、御前四段坂に銅包木鳥居建立寄付。宥山、金兵ヱに感謝の詩を贈る。
この年の一番最後に、寒川郡志度村の金兵南が、四段坂に銅包木鳥居を建立寄付し、別当宥山が金兵衛に感謝の詩を贈ったという記事があります。そして、四段坂を見てみると朱の鳥居がみえます。            
ここからはこの屏風は、元禄15年(1702)以降に描かれたことになります。

③もうひとつの有力情報は、鞘橋です。
鞘橋 金毘羅大祭行列図屏風
               鞘橋(金毘羅大祭行列図屏風)

この屏風では、鞘橋の屋根の形が中央で切り分けられた三棟の形式となっています。
これと延宝頃(1673~81)に描かれた狩野安信・時信筆の「象頭山十二景図」の鞘橋と比べて見ましょう。
39 橋廊複道(さや橋)狩野安信・時信筆の「象頭山十二景図」(図版39)の「橋廊複道」
狩野安信・時信筆の「象頭山十二景図」の鞘橋
これを見ると、延宝頃(1673~81)の鞘橋は、一棟の長い屋根で描かれています。「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇」には、鞘橋は寛永元年(1624)に初めて架けられた記します。そして、その約60年後に次のような記事が見えます。
1686 貞享3 丙寅  7.26大雨洪水、鞘橋流失
10.3高松の城にて、将軍綱吉の朱印状を頂く。
1687 貞享4 丁卯 9.9大風にて神林の松損木多し。右材木にて鞘橋普請、川筋の石垣も出来る。
ここからは、貞淳3年(1686)に、鞘橋は大雨・洪水で流失し、翌年に再建されたことが分かります。この時に屋根の形式が変更された可能性があると研究者は考えています。

IMG_0001
          鞘橋周辺の護岸は石垣積
「川筋の石垣も出来る」とあるので、川筋は石垣で固められています。以上から鞘橋の屋根形式の変化からは、屏風が書かれたのは鞘橋再建(1687年)より後のことになります。
 以上から、屏風の制作年代は、次のふたつの時期の間と云うことになります。
①下限は、大門下の鼓楼完成前の宝永7年(1710)
②上限は、鞘橋の屋根が三棟形式で再建された1687年以後
これは、従来云われてきた「元禄末年頃説」を追認することになります。この屏風は通説どおり、元禄末期の制作ということになります。

 最後に、このふすま絵を描かせたのは誰なのでしょうか?
 それは当時の金光院の宥栄か、髙松藩主の松平頼重のどちらかではなかいと私は思っています。
 まず宥栄について考えると、歴代の金光院の住職は金毘羅プロモーションのために、中央の名のある学者や絵師に詩や絵図の制作を依頼していることは先ほど見たとおりです。
例えば、先ほど見た「象頭山十二景図」の制作担当者は、次の通り江戸の絵師です。
「左右桜陣」図から一幽軒梅月」図までが、狩野安信(父)
「雲林洪鐘」図から「萬農曲流」図までが、狩野時信(子)
象頭山十二景の作成手順

当時、この下図を書いたのは高松藩お抱え絵師の狩野常真宗信や、その子常慶でした。金光院の宥栄は、宗信を通じて、彼の師である江戸の狩野派宗家中橋家の当主狩野永真安信と子の右京時信に「象頭山十二景図」の「本図」制作を依頼したのは以前にお話ししました。
 宥山が金光院当主となったのはその後の元禄4年(1691)で、その時期には髙松藩初代松平頼重の保護によって、金毘羅境内の諸堂・諸院が新たな装いで生まれ変わった時期です。また『金光院日帳』を宝永五年(1708)から作りはじめるなど、金毘羅の権威高揚に努め、中興の英主と仰がれた人物です。こうして見ると「金毘羅祭礼図屏風」の制作を発注する人物として、宥山は第一候補になります。
 ちなみに狩野家の血筋や姻戚筋の御用絵師家は、相互に交流があり、「寄り合い描き」を行ったり、養子その他の縁組みなどがよく行われていたようです。各家系が互いに提携し合うために、頭取や触頭という肝煎役も設けられています。ここでは、金光院と高松藩との関係や狩野派絵師同士の交流関係があったことを押さえておきます。そうすると、次のような仲介依頼を通じて、制作依頼が行われたことが推測できます。
金光院宥山 → 高松藩の御抱絵師狩野常慶の仲介者 → その師匠筋に当たる狩野派宗家中橋家の当主で狩野永真安信の孫永叔主信 → 表絵師狩野休圓清信

 金光院と狩野家宗家中橋家との関係は、「象頭山十二景図」制作依頼の時にも見られました。また、狩野家宗家中橋家と狩野休圓清信との関係は、狩野永真安信と狩野休圓清信が、明暦元年(1655)と天和2年(1682)の朝鮮国王への贈呈屏風制作時に共同参画した時に始まると研究者は指摘します。『古画備考』には、例年正月五日に御書初めとして狩野探幽とともにお城に召される間柄であったことが記されています。
 しかし、このように見てくると高松藩主が制作依頼し、後に奉納寄進説したということも同時に考えられます。それは松平頼重が描かせたと言われる高松城城下屏風があるからです。

高松城下町1

この屏風図は松平家初代頼重(1622~95)の時代の高松城と城下町を描いた屏風とされます。この屏風を見ていると、松平頼重やその後の藩主が眺めていた屏風ではないかという想像が湧いてきます。
しかし、今のところそれを裏付ける確かな史料はありません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」313P
関連記事

白峯寺 近世建築物群

白峯寺には近世の建築物が15棟あります。この内の9つの建物が2017年7月にまとめて重文指定を受けています。特に、先ほど見た頓証寺の5棟は同時期に高松藩主松平頼重によって建てられています。こうして見ると白峯寺の伽藍配置は、17世紀後期には現状の体裁を整えていたことが分かります。
幕末にペリーがやって来た頃の白峯寺を見ておきましょう。

白峯寺 讃岐国名勝図会
白峯寺(讃岐国名勝図会 1853年)
見ていただくと分かるように主要な建物はほとんど変わっていません。言い換えると、白峯寺は200年以上前の姿をそのまま現在に伝える寺院と云うことになります。これが多くの建物が一括して重文化財に指定される決め手にもなりました。ちなみに、この絵図を書いたのが松岡調です。神仏分離の際に金刀比羅宮の責任者となる人物です。後ほど、詳しく見ることにして、ここでは前に進みます。             
 明治維新とともに出された神仏分離令で、その被害を香川県で最も大きな被害を受けたのが白峯寺です。どのような大嵐が白峯寺を襲ったのかを見ていくことにします。

京都の白峯神社
白峯神社(京都今出川)
まずこの写真から見ていくことにします。白峯神社とあります。
いったいどこにある白峯神社なのでしょうか。これは京都の白峯神社です。堀川通りと今出川通りの交叉点附近の一等地に、もと公家の邸宅跡に新しく作られた神社です。ここに明治初年に、白峰山から崇徳院の御霊は明治天皇の命で移されました。そのためこのような碑が建っています。白峯神社のHPの由来には次のように記されています。

幕末、風雲急を告げる中、孝明天皇は、保元の乱(1156)によって悲運の運命を辿られた崇徳天皇の御霊を慰め、かつ未曾有の国難にご加護を祈らうとされ、幕府に御下命になり四国・坂出の「白峰山陵」から京都にお迎えして、これを祀らうとされましたが叶わぬままに崩御されました。明治天皇は父帝の御遺志を継承・心願成就され、社殿を現在地に新造し、奉迎鎮座されました。 

つまり、今は崇徳院の御霊は今はここに移されているということになります。どんな経緯で、白峯山からここにみたまが移されたのでしょうか?
 明治元年(1868)3月に新政府は神仏分離令を出します。その影響を最も早く蒙るのが白峯寺です。

白峯寺 神仏分離2

②4月に明治天皇の名によって、白峯寺の崇徳院の御霊を京都へ移すことが発表されます。その背景には幕末の混乱した情勢があったようです。「崇徳上皇の怨霊が社会不安を引き起こしている」という噂や、新政府への反乱分子が崇徳上皇の怨霊を担ぎ上げて蜂起しようとしている噂が拡がります。③こうして8月26日に、天皇の勅使が30隻余りの船団で坂出港にやってきます。勅使団は、高松藩の警護も含めると400人に及ぶ一行でした。白峯寺にやってきて、頓證寺の御真影と愛用の笙を受け取り、それを神輿に移して、翌日に下山します。これに対して、白峯寺は何も出来ません。事前に儀式に参加したい旨を伝えますが許されませんでした。やってきた勅使が御霊を抜き、御像を移す儀式を、僧侶である白峰寺の住職は見守るしかなかったようです。
 28日に神輿と勅使一行は高松藩主の御用船「飛龍丸」で、京都にむけて出港します。こうして白峯陵は「もぬけの空」となってしまいます。これは白峰寺にとっては精神的に大きなダメージになりました。これが白峯寺への最初の一撃でした。

これに追い打ちをかけたのが明治4年(1871)年の上知(あげち)令です。
上知令というのは、寺院が持っていた寺領を収して国有化することです。大寺院にとっては、これは経済基盤を全て失うことになります。これに対して、奈良の興福寺の僧侶達は春日神社の神官に転職していきます。残された伽藍や仏像は、がらくたのように売り払われ、五重塔も売り晴らされる解体寸前になります。このような状況が伝わると、全国の神仏混淆の僧侶達も不安になって、還俗して神官になるものが続出します。このような中で明治6年、白峯寺の住職も、陵墓墓守に転職します。その背景には白峯寺は、檀家を持たない祈祷系寺院で、今後の寺院将来に不安を感じたのでしょう。自分も住職から皇室の墓守へという決断になったのでしょう。この結果、白峯寺は住職がいなくなってしまいます。当時の新政府の方針は、寺院削減でした。無住職・無檀家の寺院はどんどん取り潰していくというものでした。住職がいなくなった白峰寺はこうして廃寺となってしまいます。
 そして明治8年には、当時の白峯陵の管理者は、陵墓周辺に仏教寺院があるのは環境に宜しくないと、白峯寺の建物群を取り払って更地にするように県に求めています。もし、これが認められていれば現在の白峯寺はなかったことになります。

その3年後の明治11年に、次のような申請書が金刀比羅宮から県に提出されます。
金刀比羅宮の頓證寺摂社化

ここでは②「もぬけの空」になった頓證寺を③金刀比羅宮が管轄下におくべきだと主張しています。この背景には、江戸後期になって京都の安井金毘羅宮などで拡がった「崇徳上皇=天狗=金昆羅権現」説がありました。
 それが金毘羅本社でも、受け入れられるようになったことは以前にお話ししました。そして明治の神仏分離で金毘羅大権現を追放して、何を祭神に迎え入れるかを考えたときに、一部で広がっていた「金毘羅=崇徳上皇」説が採用されることになります。こうして金刀比羅宮の祭神の一人に崇徳上皇が迎え入れられます。そして、崇徳上皇信仰拠点とするために目をつけたのが、廃寺になった白峰寺の頓證寺です。これを金刀比羅宮の摂社として管理下に置こうとします。
これを提言し実行したのが松岡調(みつぐ)だと私は考えています。

松岡調 神仏分離

彼は200石取りの高松藩士の4男として生まれ、才覚を買われて20歳の時に志度神社へ養子に入ります。②若いときには、先ほど見た讃岐国名勝図会の挿絵を担当しています。③そして高松藩の藩校の教授に就任します。④明治維新に神仏分離令が出されると、東讃から高松にかけての担当エリア五郡の「神社取調」の調査を担当しています。この調査は各神社の御神体をチェックし、そこに何が保存され、どんなものが祀られているのかを報告するものでした。そのため各神社の宝物類はすべて頭の中に入れていたようです。その彼が請われて、金刀比羅宮の禰宜職に就任したのです。この調査活動を通じて、彼は頓證寺にどんなお宝があるかも知っていたはずです。その松岡調がさきほどの文書を起草したと私は考えています。
 申請を受けた県や国の担当者は、現地調査も聞き取り調査も行なっていません。机上の書面だけで頓証寺を金刀比羅宮へ引き渡すことを認めてしまいます。この瞬間から頓証寺は白峯神社と呼ばれる事になります。つまり頓証寺という崇徳天皇廟の仏閣がたちまちに神社に「変身」してしまったのです。そして、その中に補完されていた宝物の多くが金刀比羅宮の所有となり、持ち去られます。ある意味では、これは金刀比羅宮の「乗っ取り」といえます。これが明治11年4月13日のことです。
この経緯が、かつての金刀比羅宮白峰寺の説明版には次のように記されていました。
金刀比羅宮白峰寺の説明館版

ここからは次のようなことが分かります。
①頓證寺が金刀比羅宮の境外摂社として、②敷地建物宝物等一切が金刀比羅宮の所有となったこと。
③大正3年になって、白峯神社が現在地に遷座したこと
④現白峯神社の随神は、頓證寺の勅額門にあったものであること

こうして、明治になって白峯寺は住職がいなくなって廃寺になり、その中の頓證寺は金刀比羅宮の管理下に置かれて「白峯寺神社」となったことを押さえておきます。白峰寺は、このままでは姿を消していきそうになります。
 このような白峯寺の危機に対して立ち上がっていったのが地元の人達でした。

頓證寺返還運動

 白峰寺の麓の松山村などの住人たちは、白峯寺復活のために明治8年7月、白峯寺住職選定の願いを阿野郡に提出しています。この時には、当時の国の方針が寺院削減だったので、県は認めません。②しかし、M11年頃になると時流が変化します。明治政府は神仏分離の行き過ぎを修正し、廃寺になった寺院に対する救済策を許可するようになります。そのような動きの中で、新しい住職を迎えることが許可され、牟礼・洲崎寺の橘渓導が住職として、白峰寺に入ります。③橘新住職は、地元の支援者と協議しながら金刀比羅宮への反撃を準備します。その一つが裁判に訴えることでした。明治17年に白峯寺勝利の判決が下るのですが、金刀比羅宮は、これに従いません。
 禰宜の松岡調の抵抗があったようです。ところが日清戦争の時に、金刀比羅宮が朝鮮半島や遼東半島で、政府や軍の許可なく神道布教を行ったことが問題になり、松岡調は1895年に長年勤めた金刀比羅宮禰宜を解任されます。その翌年に、高屋・青海村の住人達は、頓證寺の返還願いを県に提出しています。それが認められるのが2年後の1898(明治31)年になります。そうすると金刀比羅宮は、祭神である崇徳院をまつる宗教施設がなくなってしまいました。そこで、本社と奥社の間に、新たな神社を建立します。これが現在の、金刀比羅宮の白峯神社です。

金刀比羅宮の白峰寺創建

現在のお札には金刀比羅宮白峯神社と書かれています

しかし、金刀比羅宮は総てを返還したのではないようです。
返還したのは仏具など仏教関係のモノが中心で、その他のものは返還に応じません。この結果、金刀比羅宮に移された宝物の多くが頓證寺にはもどっていないのです。その代表が奈与竹(なよたけ)物語の絵巻です。
重文なよたけ物語

 なよ竹物語は、鎌倉後期の後嵯峨院の時代に、春の蹴鞠(けまり)を見物に来ていた人妻を、後嵯峨院に見初めます。その人妻は悩んだ末に院の寵(ちょう)を受け入れ、その果報として少将は中将に出世する。人の妻である女房が帝に見出され、その寵愛を受け入れることで、当の妻はもとより、周囲の人々にまで繁栄をもたらすというストーリーで、鎌倉時代になってできた物語のひとうのパターンです。白峯寺は、後嵯峨院の勅願所でもあったようで、そのような機縁で、絵巻が伝えられたと研究者は考えています。これは、金刀比羅宮蔵のままです。
 白峯寺の地元の青年団では、戦後も引渡を求めていますが金毘羅山の回答は、次の通りです。

白峯寺と金刀比羅宮の言い分


松山青年団の返還申請

 
政府や県の承認にもとづいて頓證寺の占有権を得たのであって、その時期に金刀比羅宮のものとなった宝物の返還の義務はないという立場のようです。
 文化財の保管・展示を考える場合に、国際的な流れとしては、その文化財がもともとあったところに返すのが原則という考え方が国際的な流れとなりつつあります。そのためルーブルや大英博物館に対して、各国からの返還要求が出されています。このような流れの中で、この問題も考える必要があるのではないかと私は思っています。

明治の神仏分離で白峯寺は、次の3つのものを失いました。


白峰寺のダメージ

そして一時的には廃寺となり、残された建物も神域にふさわしくないと取り壊しが建議されたこともありました。それを救ったのが地元の人達でした。その結果、白峯寺には江戸時代の建物が15棟、そのままの姿で残されることになりました。その内の9棟が重文指定、将来の国宝候補となっています。江戸時代の建物がこれだけ一括して残っていること、そしてその伽藍レイアウトがほとんど変わっていないことことは、非常に希有な寺院です。これらは明治の住職や地元の人達の運動によって、後世に伝えられたことに感謝したいと思います。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
関連記事


四国遍路のユネスコ登録に向けての準備作業の一環として、霊場の調査が行われ、その報告書が次々と発行されています。2022年1月に愛媛県教育委員会から発行された三角寺の調査報告書を見ていて目に留まったものがあります。それがこの写真です。
三角寺 大般若経箱横側
三角寺の大般若経経箱
黒い漆の箱の横に金書で書かれた内容からは、 この箱が正徳6年(1716)に京極高登が金比羅大権現に寄進したものであることが分かります。京極高澄を、グーグルで検索すると次のように出てきます。

「京極高澄(高通)は多度津藩の初代藩主。丸亀藩2代藩主高豊の子として高或が生まれる前年の元禄4年(1691)に生まれたが、正室との間の子であった高或が世継となった。しかし高豊が元禄7年に没するとその遺言により高澄には1万石が分知されて多度津藩が成立した。」
 香川県の多度津町観光協会
多度津藩の殿様

京極高登とは、多度津藩初代藩主京極高通(1691-1743)のことののようです。箱の正面を見てみましょう。

三角寺 大般若経正面

  箱の正面には「六百」と金書された引き出しが4つ。左側面には「大般若経 六百巷」と見えます。そして、上面には京極家の家紋である四つ目結があるようです。
この箱には大般若経が入れられていたようです。
『大投若経』は、正式には『大般若波羅蜜多経』で、唐代玄実の訳出で、全600巻にもなるものです。三角寺の蔵本は、全600巻の内557巻が現存します。5巻をひとまとめにして、ひとつの引き出しに25巻ずつ収められています。引き出しは4段あるので、1箱に百巻を収めることになります。全600巻ですので、箱は6つあります。「六百」と書かれているので、最後の500巻代の経が納められています。
祈り込め、大般若経の転読 山形・立石寺で法要|モバイルやましん
大般若経転読のようす

どこで作られたものなのでしょうか?
一番最後の巻第六百には、次のように記されています。

三角寺大般若経 巻末
寛文十(庚戊)仲冬吉日
中野氏是心板行
板木細工人
藤井六左衛門
彫り職人と摺り職人の名前が記され、この大般若経が寛文10年(1670)の仲冬(12月)に摺られたことが記されています。それでは表装を行ったのは誰なのでしょうか?

三角寺大般若経 巻末印

 巻末には黒印が押されています。拡大して見ると次のように読めます。
「御用所大経師 降屋内匠謹刊」

大経師(だいきょうじ)を辞書で調べると、次のように書かれています。
 「  もと朝廷御用の職人で、経巻および巻物などを表装する表具師の長。奈良の歴道である幸徳井・賀茂両氏より新暦を受けて大経師暦を発行する権利を与えられたもの」

 朝廷御用の職人で江戸初期は浜岡家が大経師でしたが、貞享元年(1684)頃に断絶し、その後に大経師となったのが降屋内匠のようです。その名前がここにあります。

三角寺 大般若経大経師
大経師
以上から、三角寺の『大般若経』は、寛文10年(1670)に摺られていた摺刷を、大経師である降屋内匠が表装したものであることが分かります。
 同じ版木で摺られた「大般若経」が滋賀県野洲市の浄満寺にもあるようです。
滋賀県野洲市 浄満寺大般若経
    浄満寺の大般若経(野洲市『広報やす 2011年』8月1号参照)
一番最後の巻末には、次のように記されています。
寛文十庚戌仲冬吉日
中野氏是心板行
版木細工人藤井六左衛門」
先ほど見た三角寺と同じ版木で刷られたことが分かります。
しかし、大経師の降屋内匠の印はありません。

三角寺大般若経巻頭
三角寺大般若経1巻 表紙見返しの貼紙
今度は大般若経の一番最初の巻を見てみましょう。
巻の表紙見返の貼紙には、次のように墨書されています。

楠公筆 京極壱岐守 高澄 
大般経(二十箱二而 六箱)六百巻 
奉寄附 本ムシナシ極上々物也 類ナシ 
正徳六丙中歳 正月十日 
金昆羅大権現宝前

 ここからは改めて三角寺の大般若経は、正徳6年(1716)に京極高登が金比羅大権現に寄進したものであることが確認できます。
今までの所を年代別に並べておきます。
1670(寛文10)年 大般若経版木の摺刷
1691(元禄 4)年 京極高通(登)誕生(丸亀藩2代藩主高豊の子)
1694(元禄 7)年 4歳で多度津藩主に
1711(正徳 元)年 京極高通が藩主として政務開始
1716(正徳 6)年 京極高通(登)が金比羅大権現に寄進
1735(享保20)年 長男・高慶に藩主の座を譲り隠居
1743(寛保 3)年 江戸藩邸で病没した。享年53。
この年表を見ると京極高通が実質的な政務を執り始めたのが1711年(20歳)の時になります。そして、その5年後に大般若経は金毘羅大権現(現金刀比羅宮)に奉納されたことになります。新しい藩の門出と、その創立者としての決意を、大般若経奉納という形で示す。そのためには、格式ある専門家やに大経師に作成を依頼する。そのような流れ中で作られたのが、この大般若経のようです。

金毘羅に寄進されたものが、どうして三角寺にあるのでしょうか?
 これについては搬入経過を示す史料がないので、よく分からないようです。
三角寺大般若経内側

ただ、巻156-160、巻476480、巻481-485、巻486-490、巻491-495の各峡の内側に「三角寺現侶 賢海完英代」と上のように墨書されています。大般若経がもたらされたときの三角寺の住持は賢海だったことが分かります。

巻1表紙見返を見てみましょう。
三角寺大般若経巻頭2

墨抹された部分には、次のように記されているようです。
発起願主
嘉永元(1848)戊中六月□□□
宇摩郡津根村八日市
近藤豊治隆重三男
完英貳十有六」

そしてその横に
「本院(三角寺)現住法印権大僧都賢海

と記します。ここに出てくる完英と賢海は同人物であることが分かっています。ここからは、当時の住職は賢海で、嘉永元年(1848)年には賢海と呼ばれ26歳であったことが分かります。棟札などからは嘉永年間には、弘宝が住持で、賢海はまだ住持ではなかったことが分かります。
  どちらにしても『大般若経』転入には、当時の住持である弘宝か、次の住持となる賢海が関係していたことがうかがえます。さらに研究者は「賢海が三角寺の住持になった後、「大投若経」巻第一の署名を再び書き直した」と推察します。以上から、「この頃(嘉永年間)に大般若経が三角寺へ持ち込まれたのではないか」とします。

  しかし、これについては私は次のような疑問を覚えます。
幕藩期において、多度津藩主が金毘羅大権現(金光院)に奉納した大般若経を、断りなく他所へ譲り渡すと言うことが許されるのでしょうか。これがもし発覚すれば大問題となるはずです。私は、大般若経が三角寺にもたらされたのは、明治の神仏分離の廃仏毀釈運動の中でのことではないかと推測します。

明治の金刀比羅宮を巡る状況を見ておきましょう。
神仏分離令を受けて、金毘羅大権現が金刀比羅宮へと権現から神社へと「変身」します。そして、権現関係の仏像や仏画は撤去され、「裏谷の倉」の一階と二階に保管されます。それが明治5(1872)年になると、神道教館設置のための資金調達のためにオークションにかけられることになります。これを差配したのが禰宜の松岡調であることは以前にお話ししました。
讃岐の神仏分離7 「神社取調」の立役者・松岡調は、どんなひと? : 瀬戸の島から
松岡調

彼の日記である『年々日記』明治五年七月十日条には、次のように記されています。(意訳)

7月10日 明日11日から始まる競売準備のために、書院のなげしに仏画などをかけて、おおよその価格を推定し係の者に記入させた。百以上の仏画があり、古新大小さまざまである。中には、智証大師作の「草の血不動」、中将卿の「草の三尊の弥陀」、弘法大師の「草の千体大黒」、明兆の「草の揚柳観音」などもあり、すぐれたものも多い。数が多過ぎて、目を休める閑もないほどであった。 

7月18日 裏谷の蔵にあった仏像の中で、商人が買いそうなものを抜き出して、問題のないものを選んで売りに出した。数多くの商人が、競い合って買う様子がおもしろい。

7月19日 昨日と同じように、次々と入札が進められ、残っていた仏像はほとんど売れた。誕生院(善通寺)の僧侶がやってきて、両界曼荼羅図を金20両で買っていった(以下略)

7月21日 御守処のセリの日である、今日も商人が集い来て、罵しり合うように大声で「入札」を行う。刀、槍、鎧の類が金30両で売れた。昨日、県庁へ書出し残しておくtことにしたもの以外を売りに出した。百幅を越える絵画を180両で売り、大般若経(大箱六百巻)を35両で売った。今日で、神庫にあったものは、おおかた売り払った。

ここからは入札が順調に進み「出品」されていたものに次々と、買い手が付いて行ったことが分かります。数多くの仏像や仏画・聖教などが競売にかけられて、周辺の寺院に引き取られていったのです。
 その中に気になる記述があります。7月21日の「大般若経(大箱六百巻)を35両で売った。」です。
これが三角寺の大般若経だと私は考えています。競売が行われたのは明治5(1872)年7月です。経路は分かりませんが、それ以後に三角寺にもたらされたようです。
以上をまとめておきます
①三角寺には、多度津藩初代藩主が金毘羅大権現に奉納した大般若経がある。
②この大般若経は、京の大経師・降屋内匠に表装を依頼し、漆塗りの6つの箱に収められたもので、殿様の奉納物らしい仕立てになっている。
③入手経路についてはよく分からないが、神仏分離後に金刀比羅宮が行った仏像・仏画などの競売の際に流出したものが、何らかの経路を経て三角寺にもたらされたことが考えられる。
④金毘羅大権現から競売を通じて流出した仏像・仏画は、膨大なものがあり、善通寺など周辺の有力寺院はそれを買い求めたことが松岡調の日記からは分かる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第六十五番札所三角寺 三角寺奥の院 2022年 愛媛県教育委員会」の「(139P)聖教 大般若経」
関連記事

肥後熊本藩の中老松洞が江戸屋敷赴任のために瀬戸内海を藩船で航行した紀行文を見ています。

瀬戸内海航路 伊予沖
周防・安芸・伊予沖の航路図(江戸時代)

旧暦3月8日に大分鶴崎を出港して、次の港を潮待ち寄港を繰り返しながら4日間で航行してきます。
周防の上関 → 大津浦(周防大島) → 加室 → ぬわ(松山市怒和島)→御手洗(呉市大崎下島) → 鞆(福山市)

 鞆からは備中・備前側の備讃瀬戸北航路をたどるルートと、塩飽に立ち寄ってからさらに東を目指す航路がありました。しかし、ここではそのどちらも取らずに、讃岐多度津に渡ります。
金毘羅船 航海図宮島
「金毘羅・宮島海陸案内図」
   上の案内図は「金毘羅・宮島海陸案内図」となっています。
しかし、この絵図の主役は手前の宮島にあったことが一目で分かります。宮島は鳥居から本社に至る細部まで描き込まれています。それに対して、金毘羅は象頭山が描かれているだけです。これは、18世紀当時の両者の知名度の差でもありました。近世始めに流行神として登場した金毘羅信仰が、庶民に広がって行くには時間が必要でした。上方から参拝客が本格化するのは18世紀半ばに、金比羅船が就航して以後です。さらに東国からの伊勢参りの客が、金毘羅まで廻ってくるのが本格化するのは19世紀になってからです。それまでの金毘羅は、この絵図に見られるように宮島詣でのついでに参拝する程度の宗教施設でした。
 この絵図は大きくデフォルメされているので、現在の地理感覚からすると、ついて行けない部分が多々あります。特に、四国側と中国側の港町の位置関係が大きくずれています。しかし。鞆の対面に讃岐の多度津や丸亀があるという感覚を、見る人に与える役割は果たしています。宮島から帰りに、金比羅に寄って帰ろうか、そのためには鞆から多度津へ渡る・・・。という地理感覚が形成されます。九州から上方や江戸に登っていく人達の感覚も同じであったようです。そのために鞆から真鍋諸島沿いに三崎(荘内)半島の紫雲出山を目指して、三野・仁尾や多度津に渡ってくる廻船も多かったことは以前にお話ししました。それをもう一度、押さえておきます。

庄内半島と鞆
鞆と荘内半島
  吉田東伍「大日本地名辞書」の讃岐国には、次のように記します。(意訳)
箱御埼(三崎:荘内半島)は、讃州の西端にあって、荘内村大字箱浦に属す。備中国所属の武嶋(六島)と向き合うこと、二海里余(約4㎞)の距離である。塩飽諸島は北東方に碁石を打ったように散らばり、栗島が一番近い島である。三崎(荘内)半島の先端には海埼(みさき)明神の祠がある。
 この岬は、西北に伸びて、十三海里で備後津に至る。その間に、武嶋(六島)、宇治島、走島がある。(中略)
水路志には、次のように記されている。
 三崎半島は、讃岐の西北部にあって、塩飽瀬戸と備後灘とを分ける。東方より航走してきた船は、ここで北に向かうと三原海峡、南に行くと来島海峡に行くことになる。
ここからは次のようなことが分かります。
①荘内半島は備讃瀬戸から鞆・尾道・三原に向かう航路と、来島海峡に向かう航路の分岐点であったこと。
②海埼(みさき)明神の祠があったこと、

江戸時代初期作成の『西国筋海上道法絵図』と
    米田松洞一行を乗せた千代丸は、鞆を出て多度津に向かいます。
晴天  多度津着 
十二日今朝六半時分出帆 微風静濤讃岐タドツ之湊二着船夕ハツ半時分也。風筋向イ雨ヲ催シ 明日迄ハ此処二滞在之由 御船頭申候。左様ナラバ明日昆(金)比羅二参詣すべしと談し候得者 三里有之よし 隋分宜ク阿るべし卜申候 明日船二残る面々ハ今晩参詣いたし度よし申候二付任其意候野田一ハ姫嶋伝 内門岡左蔵林弥八郎此面々今晩参詣 夜二入九ツ時分帰る
 意訳変換しておくと 

十二日の早朝六半(午前7時)頃に出帆 微風で波も静かで、讃岐多度津港に夕刻ハツ半(4時頃)に着船した。明日の天気は、向風で雨なので多度津に停船だと船頭が云う。そうならば明日は、金毘羅参詣をしようと云うことになる。金毘羅までは三里(12㎞)だとのこと。船の留守番も必要なので全員揃っての参拝はできない。そこで船の留守番のメンバーは今晩の内に参詣するようにと申しつけた。それを受けて野田・姫嶋伝内・門岡左蔵・林弥八郎の面々は今晩参詣し、夜中の夜二入九ツ(12時)時分に帰ってきた。

微風の中を午前7時に出港した船は、夕方に多度津に着いています。その間のことは何も記しません。地理的な知識がないと浮かぶ島々や、近づいてくる半島なども記しようがないのかもしれません。

金毘羅参詣名所図会 下津井より南方面合成画像000022

下津井からの丸亀方面遠望(塩飽の島々と讃岐富士)

十三日今朝小雨如姻 五ツ過比占歩行二て昆比羅へ参詣 一丁斗参候得者 雨やむ道もよし已 原理兵衛御船頭安平十次郎尉右工門 同伴也 供二ハ勘兵衛 澄蔵白平八大夫又右工門仲左工門なり 兼て船中占見覚候 讃岐ノ小富士トテ皆人ノ存シタル山アリ 此山之腰ヲ逡り行扨道筋ハ上道中ノ如ク甚よし 道すがら茶屋女多ク 上道中同前二人ヲ留ム銭乞も多し 参詣甚多し 

意訳変換しておくと
十三日の朝 小雨に烟る中を 五ツ過(7時)頃に歩行で金毘羅参詣へ向かう。少し行くと雨も止んだ。同伴は原理兵衛・御船頭安平十次郎・尉右工門、供は勘兵衛・澄蔵・白平八大夫・又右工門・仲左工門の8人である。船中からも望めた讃岐小富士や象頭山の全景がよくが見えてきた。この山腰を廻って多度津街道を進む。その道筋ハ東海道中のように整備されている。道すがらには茶屋女が多くいて、銭乞も多い。参詣者の数が多く街道は賑わっている。 

多度津街道参拝図2
多度津ー金毘羅街道

多度津ー金毘羅街道は、善通寺を経由しますが、ここでも善通寺については何も触れられていません。当時の善通寺は金堂は再興されていましたが五重塔などはなく、弘法大師伝説も今ひとつ庶民には普及せずに旅人にとって魅力ある寺社という訳ではなかったようです。それに対して善通寺が五重塔再興などの伽藍整備に乗り出すのは、19世紀になってからのことのようです。この時点では、米田松洞一行は、行きも帰りも善通寺は素通りです。

 金比羅からの道標
金毘羅より各地への距離(金毘羅参詣名勝図会)
四ツ時過二本町二着 是二而足ヲ洗イ衣服ヲ改ム 町筋之富饒驚入候 上道中本宿之大家卜同前二て候 作事甚美麗ナリ 商売物も萬也 遊君も多し 旅人行代候林真二京都の趣也 
則丸亀公之御領分也 夫占坂二かかるル坂殊之外長クして急なり 何レも難儀二て甚夕おくれ候
拙者ハ難儀二少も不覚呼吸も平日之通リニ有之候 十次郎先二立参候がやがて跡二成候 山中甚広シ本社迄ハ暗道ニテ幾曲モまがる甚険ナリ 社内桜花甚見事目ヲさます已 今不怪賞シ被申候 鳥井赤金張ナリ金色朧脂ノ如し 見事なる事也本社ハ不及申末社迄も結構至極扨々驚人事也 絵馬も甚よし 真言寺持也 寺も大キ也 是亦佳麗可申様無之候拝シ終り夫占社内不残巡覧ス 何方とても結構之事驚大候 
意訳変換しておくと

DSC01351坂下と芝居小屋
元禄期の大祭寺の金毘羅 上部が内町から坂町への参拝道。下部が芝居小屋や人形浄瑠璃小屋が描かれている。
 四ツ時(10時)過に金毘羅本町に到着。
ここで足を洗って衣服を改める。町筋の富貴は驚かされる。東海道の道中の本宿と同じような大家が並び、しかも造りが美麗である。商売物も多く、遊女も多い。旅人も多くまるで京都の趣がする。ここは丸亀公の御領分(実際は、朱印地で寺領)である。
 本社までの坂は長く、急である。拙者は、少しも難儀に感じることはなく、呼吸も平常通りであったが、十次郎は先に立っていたが、やがて遅れるようになった。
 境内は山中のようで、非常に広い。本社までは森の中の暗い道で、いくつもの曲がりがある。社内の桜が見事で目を楽しませてくれる。 
 さらに境内の建物類も素晴らしい。鳥居は金張で、金色に光り輝いて、見事なものである。本社は言うに及ばず末社に至るまで手の込んだ物が多く人を驚かせる。絵馬もいい。金毘羅大権現は、真言寺であり、寺の建物も大きく立派で、佳麗でもあった。参拝が終わり 社内を残らず巡覧したが、どこを見ても結構なことに驚かされる。
金毘羅本社絵図
金毘羅本社(金毘羅参詣名勝図会)
当時の旅人の視点は、街並みの立派さや建物の大きさ、豪壮そうに目が行きます。「わび・さび」を指向する感覚はありません。そして、京都や東海道と比較して、ランク付けするという手順になります。生駒氏や松平頼重の保護を受けて整備されてきた社殿群が、遠来からの参拝客の目を楽しませる物になっていたことがうかがえます。逆に言うと、地方でこれだけの整備された社殿群や伽藍を持っていた宗教施設は、当時は稀であったことがうかがえます。それが、賞賛となって現れているのかも知れません。
 そうだとすれば、他の宗教施設は「目指せ! 金毘羅」のスローガンの下に、伽藍や社殿を整備し、参拝客を呼び込もうとする経営戦略を採用する人達も現れたはずです。それが讃岐では、善通寺や弥谷寺・白峰寺・法然寺などで、周辺では阿波の箸蔵寺、備中の喩伽山蓮台寺などかもしれません。
観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅観音堂
 又忠左工門事ヲ申出ス 山ヲ下り本之町屋へ立寄候得者早速昼飯ヲ出ス 是亦殊之外綺麗ナリ 酒取肴等二至マテ上品ナリ 是ハ上道中二十倍勝レリ
酒も美ナリ 宮仕之女も衣服綺麗ナリ 湊占是迄百五拾丁之道程也 食餌等仕舞帰路二向フ雨も今朝之通二てふらず よき間合也 暮前ニタドツニ帰ル 夫占少々ふり出し候 
扨江戸大火之よし 則丸亀之御飛脚江戸占早打二て参慄よし 里人共申慄驚大慄 然共たしかの
儀不相知 一刻も早ク室二到可致承知卜出船ヲ待 風よく明日ハ出帆のよし 御船頭申候 太慶ス
意訳変換しておくと
 山を下て門前に立寄って昼飯をとる。この料理も殊の外に綺麗で、酒や肴に至るまで上品である。これは、東海道の街道筋の店に比べると二十倍勝っている。酒もうまく、宮仕女の衣服も綺麗である。多度津湊までは、150丁の道程である。昼食を終えて、帰路に着く頃には、雨も止んでいた。いい間合だ。暮前には、多度津に帰ってきたが、それからまた雨が少々降り始めた。
 多度津で江戸大火のことを聞く。丸亀藩の江戸からの飛脚早打の知らせが届き、町人たちは驚き騒いでいる。しかし、詳細については知ることが出来ない。一刻も早く室津に向かおうと出船を待つ。そうしていると、明日は風もよく出帆できるとの知らせがあった。太慶ス
4344104-39夜の客引き 金山寺
夜の金毘羅金山寺町 客引き遊女たち
金毘羅大権現の名を高めたのは、宗教施設だけではなかったようです。門前の宿の豪華さや料理・サービスなども垢抜けた物を提供していたことが分かります。さらに芝居小屋や富くじ、遊郭まで揃っています。富貴な連中が上方を始め全国からやってきて、何日も金毘羅の宿に留まって遊んでいます。昼間は遊女を連れ出して、満濃池に散策し、漢詩や短歌を詠んでいます。金毘羅は信仰の街だけでなく、ギャンブルや遊戯・快楽の場でもあったのです。熊本藩の中家老は、金毘羅門前に泊まることはありませんでした。そのため夜の金比羅を見ることはなかったようです。

江戸の大火
明和の大火の焼失エリア(赤)
 多度津に帰ってみると「江戸大火」の知らせが丸亀藩の飛脚によってもたらされていました。
 この時の大火は「明和の大火」とよばれ、江戸の三大大火とされている惨事です。明和9年2月29日(1772年4月1日)に、目黒行人坂(現在の目黒一丁目付近)から出火したため、目黒行人坂大火とも呼ばれ、出火元は目黒の大円寺。出火原因は、武州熊谷無宿の真秀という坊主による放火です。真秀は火付盗賊改長官・長谷川宣雄の配下によって捕縛され、市中引き回しの上で、小塚原で火刑に処されています。
 金毘羅船 航海図C10
晴天十四日
朝五ツ時分占出帆 無類之追風也 夕飯後早々室之湊二着船 御船頭安平を名村左大夫方二早速使二遣シ江戸大火之儀を間合 慄処無程安平帰り 直二返答可申由二て 直二側二参申候ハ目黒行人坂右火出桜田辺焼出虎御門焼失龍口へかかり御大名様方御残不被成候よし上野仁王門焼候よし風聞然共此方様御屋敷之儀如何様共不承よし大坂二問合候得共今以返飼申不参候

  意訳変換しておくと
晴天十四日朝五ツ(8時)頃に多度津港出帆 無類の追風で、夕飯後には早々と室津に着船した。早々に、船頭の安平を室津の役人左大夫の所に遣って、江戸の大火之について問い合わさせた。安平が聞いてきた情報によると、目黒行人坂が火元で、桜田辺から虎御門の龍口あたりの大名屋敷は残らず燃え落ちたとのこと。上野の仁王門も焼けたという。風聞が飛び交い、当藩の屋敷のことについてもよく分からない。大坂屋敷に問い合わせたが、今だに返事を貰えないとのこと。
 明日の出帆について訊ねると「順風です」とのこと。そこで明日、灘に渡ってから対応策を考えることにする。

  多度津までは、街道や海道の桜を眺めてののんびりとした旅模様でした。ところが多度津以降の旅は、江戸の大火を受けて対応策を考えながらの旅になります。そのため桜や周囲の景色についてはほどんど記されることがなくなります。

  以上をまとめておくと
①17世紀後半に、髙松藩初代の松平頼重によって整えられた金毘羅の社殿や伽藍は、その後も整備が続けられ、19世紀には近隣に類のない規模と壮麗さを兼ね備えるようになった。
②それを受けて、九州の大名達の参拝や代参が行われるようになった。
③さらに九州と上方や江戸を行き来する家中や商人たちも、金比羅詣でを行うようになった。
④その際の参拝スタイルは多度津港に船を留めて日帰りで参拝するもので、多度津や金毘羅の宿を利用することはなかった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 柳田快明   肥後藩家老金毘羅参拝『松洞様御道中記(東行日録)』について

  11
           充真院
   桜田門で井伊大老が暗殺された後、幕府は治安維持の観点から大名の妻子を本国に移すように政策転換します。井伊直弼大老の実姉で、日向の延岡藩・内藤家に嫁いでいた充真院も64歳で、始めて江戸を離れ、日向への長旅につきます。充真院は当時としては高齢ですが、好奇心や知識欲が強く、「何でも見てやろう」精神が強くて、旅の記録を残しています。彼女は、金毘羅さんに詣でていて、その記述量は帰省中に立ち寄った寺社の中で、他を圧倒しています。それだけ充真院の金毘羅さんへの信仰や関心が高かったようです。前回は、金毘羅門前町の桜屋までの行程を見てきました。今回はいよいよ参拝場面を見ていくことにします。テキストは  神崎直美「日向国延岡藩内藤充真院の金毘羅参り」です。

幕末大名夫人の寺社参詣

内町④にある桜屋で休息をとった後に、本社に向かって出発です
   金毘羅に参詣するためには、今も昔も坂町からの長い階段を登らなければなりません。運動不足の64歳の大名夫人に大丈夫なのでしょうか、不安に覚えてきます。充真院は「初の御坂は五間(900m)もあらん」と記しています。まず待ち構えていたのこの五間(900m)の坂道です。

金毘羅全図 1860年
金毘羅全図(1860年)
充真院はこの坂道のことを次のように記します。

「御山口の坂は、足場悪くてするするとすへり(滑り)、そうり(草履)ぬ(脱)けさるやういろいろ、やうよう人々にたすけられ、用意に薬水杯持しをのみ、やすみやすみて・・」

足元がすべりやすいため草履が脱げないように、御付に助けられながら登り始めます。すべりやすい坂道を苦労して登ることは、高齢で歩くことに不慣れ充真院にとって苦難だったようです。準備していた水を飲んだり、立ち止まったりしながら登ります。
ここで押さえておきたいことは、次の2点です。
①1863年段階の坂町の坂は、石段化されておらず、滑りやすい坂道であったこと。
②参拝用の「石段籠」を使っていないこと。石段籠は、まだ現れていなかった?
坂道を登りきると次は石段が続きます。幾折にも続く石段を見上げて「石段之高き坂いくつも有て」と記します。そのうちに、「行程々につけて気分悪く、とうきしけれと」とあるので、気分が悪くなり、動悸までするようになったようです。「高齢 + 運動不足」は、容赦なく襲ってきます。しかも、この日は6月半ばといっても蒸し暑かったようです。気分が悪くなったのは、無理もないことです。

金毘羅伽藍
金毘羅伽藍図 本坊が金光院

しかし、ここからがながら充真院の本領発揮です。

「ここ迄参詣せしに上らんも残念と思ひ」

と、せっかくここ迄やってきて、参詣できないのは残念である、体調不良を我慢して石段を登り続けるのです。タフなおばあちゃんです。
「かの鰐口有し御堂の前には、青色の鳥居有」
「近比納りし由にて、誠にひかひか(ぴかぴか)して有り」
と、あるので御堂の青色の鳥居の所まで、ようやくたどりつきます。
しかし、ここまでで充真院は疲れ切っていました。

「生(息)もた(絶)へなんと思ひ、死ひやうく(苦)るしく成」

と、息が出来なく成りそうな程であり、死んでしまうのではないかと思うほどの苦しさだったと記します。それでも諦めません。
「さあらは急にも及ぬる故、少し休て上る方よし」  
「とうろう(灯籠)の台石にこしか(腰掛)け休居」
方針転換して、急ぐ必要はないので少し休憩してから登ろうということにして灯籠の台座の石に腰掛けて休みます。休んでいる間も「マン・ウオチング」は続けています。盲目の人が杖にすがりながら降りてくるのが見えてきます。それを見て、体が不自由な人も信心を持って参拝しているのに、このまま疲れたからといって引き返すのは「残念、気分悪い」と充真院は思います。そして、次のように決意するのです。
「御宮前にて死度と思、行かねしはよくよくノ、はち(罰)当りし人といわれんも恥しくて、参らぬ印に気分悪と思へは猶々おそろしく」
「夫(それ)より、ひと度は拝し度と気をは(張)り」
「又々幾段ともなく登り」
「死ぬのなら御宮に参拝してから死にたい、参拝しなければ罰当たりであると人に言われるのは恥ずかしい、参拝せずに気分が悪いというのはなおさら畏れ多い。とにかく一度は参拝しようと固く決意したのだ。頑張ろう」と自分にむち打ちます。そして再び登り始めます。

金毘羅本社絵図
金毘羅本社
 こうして、充真院は御堂(本社)にたどりつきます。
「御堂の脇に上る頃は、め(目)もく(眩)らみ少しいき(息)つきて」
「御堂のわき(脇)なる上り段より 上りて拝しけれと」
本堂に到着する頃には目が眩み息が少し荒くなっていました。それでも、本堂の横の階段から本堂に上がり参拝します。その時に、疲れ切っているのに、御内陣を自分の目で確認しようとしています。
「目悪く御内神(陣)はいとくろう(暗く)してよくも拝しかねしおり、やうよう少し心落付しかは薄く見へ、うれしく」
「御守うけ度、又所々様へも上度候へ共」
「右様成事にて、只々心にて思へる計にて御宮をお(下)りぬ」
意訳変換しておくと

日頃から目が悪く、物が見えにくいことに加えて、本堂内が暗いのでよく見えなかった。が、心が落ちついてからは薄っすらと見えてきた。目が暗さに慣れたからであろう。薄くでも見えたのでうれしかった。お守を授与されたり、他の御堂にも上がって拝みたいと思ったけれど、疲れが甚だしく、さらに目の具合も悪いので、希望は心に留め置いて、本堂を退出して下山することにした。

観音堂 讃岐国名勝図会
本社横の観音堂

下山路の石段の手前には観音堂があります。案内の人から観音堂に上がって拝むかと聞かれますが、「気分悪く上るもめんとう(面倒)」なので外から拝むに留めます。苦しくても、外から拝んでいるところが、信心の深さかもしれません。充真院が御付に助けられながら下山していることは、金毘羅側にも伝わります。
「本坊へ立寄休よと僧の来たりて、いひしまゝしたかひて行し所」

社僧がやってきて、本坊にあがって休憩するよう勧めたようです。その好意に甘え本坊に上がりで休息することになります。

金光院 表書院
金毘羅本坊(金光院)の表書院
本坊とは金光院表書院のことです。充真院は金光院側が休憩するために奥の座敷に通されます。その際に、途中で通過した部屋や周囲の様子を、詳しい記述と挿絵で残しています。

表書院5

まず、玄関については次のように記します。

「りっは(立派)成門有て、玄関には紫なる幕を張、一間計の石段を上り」

図1のように挿絵で玄関先の造り石段、幕、その横の邸獨の植え込みと塀を描いています。挿絵には「何れもうろ覚ながら書」と添え書きをしていていますが、的確に描写です。

金毘羅表書院玄関
          表書院玄関
 玄関には社僧らが充真院を出迎えに出てきています。
そこから一間(180㎝)程の高さの箱段を上り、次に右に進み、さらに左に進むと一間半(270㎝)程の箱段を上がると書院らしい広い座敷があるところの入側を進む。この右へ廻ると庭があり少し流れもあり、植木もあり、向こう側では普請をしています。

金刀比羅宮 表書院4
 表書院
 ここで体むのかと思うと、さらに奥に案内されます。そこに釣簾の下がる書院がありました。これが現在の奥書院のようです。ここには次の間と広座敷があり、広座敷には床の間と違棚がついています。さらに入端の奥から縁に出て右に曲がると箱段があります。ここを上り折れて進むと、板張りの廊下があり直ぐ横の二間(360㎝)程の細長い庭のところに小さな流れがありがあり、朱塗りの橋が二つ架っています。この流れは、表座敷に面した庭に注ぎます。その向いに立派な経堂、さらに段を上り奥へと導かれ、十二畳程の座敷も通り過ぎ、ようやく休憩の部屋にたどり着いています。

5年ぶりに金刀比羅宮の奥書院公開!! | 観光情報 | ホテルからのお知らせ | 琴平リバーサイドホテル【公式HP】
奥書院
その部屋は大きな衝立や台子の有る上座敷で、
「立三間、横二間も座敷金はり付、其上之間之中しきりにはみすも掛け」、

とあるので、縦は三間(540㎝)、横が二間(360㎝)の広さで、周囲を金箔で装飾した豪華な部屋で、座敷の中仕切りとして御簾がかけてあったようです。その隣の上座敷にも釣簾が掛り、畳が二枚敷いてあった。その部屋の向こうには入側があり、庭が広がります。その向こうに讃岐富士が借景として見えてきます。
「庭打こし、海之方みゆる、さぬき富士と云はあの山かと市右衛門尋しかは、左也と云」

庭に出て海の方向を眺めると山が見えたので、市右衛門があの山は讃岐富士かと寺の者に尋ねたところ、その通りとの答えが返ってきます。
第57話 神の庭(奥書院)と平安・雅の庭(表書院) | 金刀比羅宮 美の世界 | 四国新聞社
奥書院の「神の庭」

庭にはよく手入れを施した植木や石灯籠が配してあります。丸い形に整えた皐月は折しも花盛りであった。上段を通りその向こうは用所、左側に行くと茶座敷と水屋が設けてあります。それをさらに行くと次の間があり、向いに泉水や築山がある庭という配置です。
 このように充真院が書いた記録には、書院の間取りが詳しく書かれています。
さっきまで苦しくて抱えられて下りてきていた人物とは思えません。「間取りマニア」だった充真院が、好奇心旺盛に周囲を珍しそう見回しながら案内される様子が伝わってきそうです。充真院は周囲を見た後に「座に付は、茶・たはこ(煙草)盆(出)し候」と、ようやく部屋に座り、出された茶や煙草で一服します。それから「気分悪く少し休居候」と体を横たえて休息をとっています。
「枕とて、もふせん(毛氈)に奉書紙をまきて出し候まゝ、よくも気か付て趣向出来候とわら(笑)ひぬ」
「ねりやうかん(練羊羹)と千くわし(菓子)出し候、至て宜敷風味之由」
金光院側が枕に使うようにと毛離をおそらく巻くか畳んで、奉書紙をかけて整えたものが用意してあるのを見て、充真院は良く気がついてくれたうえ趣向があると、うれしく愉快に感じ笑っています。さらに、と、練り羊羹と千菓子も用意してくれてあり、たいへん美味しかったと記します。疲れ果てた体に甘いお菓子はおいしく感じたようです。
下図2が休憩した部屋の挿絵です。


裏書院4

上が部屋とその周囲の間取り図で、下が休憩した部屋を吹き抜け屋台の視点で立体的に描いたものです。建物の間取観察は、充真院の「マイブ-ム」であったことは以前にお話ししました。「体調不良」だったというのに、よく観察しています。記憶力もよかったのです。上の間取り図には金光院側が用意した茶椀や菓子皿、煙草盆までが描き込まれています。この辺りは、現在の女子高校生のノリです。
 充真院が休憩している間に「八ツ比(午後2時)頃になっていました。御付の者たちは、充真院が体調不良となり、その対応に追われたので、昼食も摂れていません。そこで充真院は
「皆々かわリかわりに下山してたへん」
「そのうちには私もよからん」
と、御付たちに交代しながら下山して食事を摂るように勧めています。その言葉通りに、しばらくして充真院は気分が良くなったので、桜屋に戻ることとになります。
 金光院は、門前に駕籠を待機させます。それに乗って下山します。そのルートについては、次のように記します。
「少し道かわり候哉、石段もなく、初之たらノヽ上りの坂に出、桜やに行く」

ここからは、上りの道とは違った石段のない坂道を下って、桜屋に向ったことが分かります。
以上から私が気になった点を挙げておきます
①充真院参拝についての金毘羅側の対応が鈍いこと。
大名参拝や代参などについては、事前の通知があり、そのための使者の応対マニュアルに基づいて準備します。しかし、この記録を見ると、金毘羅側は本宮に充真院一行が現れるまで、やって来ることを知らなかったような気配がします。大名夫人の参拝と分かってから本坊の表書院に案内したように見えます。前日に、お付きの女中が先行したのは何のためだったのでしょうか。
②どうして金毘羅門前町で一泊しないのか?
早朝夜明け前に、多度津港に係留した関舟からスタートして、夜8時を過ぎて船に帰ってきます。
どうして金比羅の桜屋に泊まらないのでしょうか。宿場の本陣と違って、大名専用貸し切りなどが出来ず、一般客との同宿を避けるためでしょうか。それとも、幕末の藩財政難のための経費の節減のためでしょうか。多度津でも、町の宿には泊まっていません。当時の大名も御座船宿泊で、港には潮待ち・風待ちのために入港するだけだったのでしょうか。この辺りのことは、今の私にはよく分かりません。今後の課題としておきます。

また、善通寺の知名度が低いのも気になることです。充真院の旅行記には善通寺のことが出てきません。門前を通過しているので、触れても良さそうなのですが・・・。東国では、金毘羅と善通寺では知名度に大きな差があったようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
     神崎直美「日向国延岡藩内藤充真院の金毘羅参り」

延岡藩2
日向延岡藩の内藤家
  幕末に大名夫人が金毘羅詣でをした記録を残しています。
その夫人というのが延岡藩内藤家の政順に嫁いでいた充真院で、桜田門で暗殺される井伊直弼大老の実姉(異母)だというのです。彼女は、金毘羅詣でをしたときの記録を道中記「海陸返り咲ことばの手拍子」の中に残しています。金毘羅参拝の様子が、細やかな説明文と巧みなスケッチで記されています。今回は、大名夫人の金毘羅道中記を見ていくことにします。テキストは神崎直美「日向国延岡藩内藤充真院の金毘羅参り」です。

11
充真院(じゅうしんいん:充姫)
まずは、充真院のことにいて「事前学習」しておきます。
  充真院は、寛政12年(1800)年5月15日、近江国彦根藩・井伊家の江戸屋敷で生まれています。父は第11代彦根藩主の井伊直中(なおなか)です。直中は歴代藩主の中で最も子宝に恵まれた殿様で、記録に残るだけで男子16人、女子6人を儲けています。正室との間にのちに藩主を継ぐ直亮、側室君田富との間には充姫の異母弟にあたる直弼(後の大老)がいます。
 15歳で充姫は、2歳年上の延岡藩主内藤正順に嫁いで男子をもうけますが早世します。病弱だった正順も天保五年(1834)に亡くなったので、出家して「充真院」と称しました。
 
延岡藩 
内藤家と伊達家との関係

 跡継ぎを失った内藤家は、充姫の実家である井伊家と相談の上、充姫の弟で15歳になる直恭を養子として迎えます。この時、候補として20歳になる直弼もあがったようです。しかし早世した子に年齢が近い方がよかろうと直恭が選ばれます。
直恭は、正義と改名し内藤家を継ぐことになります。20歳年下の弟の養母となった充姫は、正義を藩主として教育し、彼が妻を迎えたのを機に一線を退きます。こうして見ると、充真院は実弟を養子として迎え、後継藩主に据えて、その養母となったことになります。このため充真院の立場は強く、単に隠居という立場ではなく、内藤家では特別な存在として過ごしたようです。
充姫は嫁ぐ前から琴や香道などの教養を身に着けていました。それだけに留まらず、婚姻後は古典や地誌といった学問に取り組むようになります。「源氏物語」の古典文学、歌集では「風山公御歌集」(内藤義概著)を初め「太田伊豆守持資入道家之集」「沢庵和尚千首和歌」、「豪徳寺境内勝他」など数多くの古典、歌集を自ら書写しています。
 さらに「日光道の記」「温泉道の記」、「玉川紀行」、「玉川日記」といった紀行文も好んで読んでいます。それが60歳を越えて江戸と延岡を二往復した際の旅を、紀行文として著す素材になっているようです。
彼女のことを研究者は次のように評しています。

生来多芸多能、特に文筆に長じ、和歌.絵をよくし.前項「海陸返り咲くこと葉の手拍子」など百五十冊余の文集あり.文学の外、唄、三味線の遊芸にも通じ、薬草、民間療法、養蚕に至るまであらゆる部門に亘り一見識を持ち、その貪埜な程の知識慾、旺盛な実行力、特に計り知れぬその記憶力は誠に驚く斗りのものがある。

 江戸時代の大名の娘は、江戸屋敷で産まれて、そこで育ち、そして他藩の江戸屋敷に嫁いでいきます。
一生、江戸を出ることはありませんでした。それなのに充真院は、本国の延岡に帰っています。「大名夫人が金毘羅詣り」と聞いて、私は「入り鉄砲に出女」の幕府の定めがある以上は、江戸を離れることは出来ないはずと最初は思いました。ところが幕末になって幕府は、その政策を百八十度政策転換して、藩主夫人達を強制的に帰国させる命令を出しています。そのために充真院も始めて江戸を離れ、日向へ「帰国」することになったようです。弟の井伊直弼暗殺後の4年後のことになります。
幕末大名夫人の寺社参詣―日向国延岡藩 内藤充真院・続 | 神崎 直美 |本 | 通販 | Amazon

充真院は2度金毘羅詣でを行っていますが、最初に金毘羅を訪れたのは、文久三(1863)年5月15日です。
64歳にして、始めて江戸を離れる旅です。辛い長旅でもあったと思うのですが、充真院が残した旅行記「五十三次ねむりの合の手」を見てみると、充真院は辛い長旅をも楽しんでいる雰囲気が伝わってきます。精神的にはタフで、やんちゃな女性だったように私には思えます。

文久3(1863)4月6日に江戸を出発、名古屋で1週間ほど留まって大坂の藩屋敷に入ります。
金毘羅までの工程は次の通りです。
4月 6日 江戸出発
4月24日 大坂屋敷着
5月 6日 大阪で藩船に乗船
5月13日 多度津入港
5月15日 金毘羅参拝、
東海道は全行程を藩の御用籠を使っています。大坂に着くと、堂島新地にあった内藤家の大坂屋敷(現在の福島区福島一丁目)に入っています。ここで、藩の御座船がやってくるまで、10日間ほど過ごします。その間に、充真院は活動的に住吉神社などいくつもの大坂の寺社参詣を行っています。
日向国延岡藩内藤充真院の大坂寺社参詣
大坂の新清水寺(充真院のスケッチ)

 それまで外出する機会がほとんどなかった大名夫人が、寺社参りを口実に自由な外出を楽しんでいるようにも見えます。例えば、立寄った茶屋では接待女や女将らと気さくに交流しています。茶屋は疲れを癒しながらにぎやかなひとときをすごしたり、茶屋の人々から話を聞いて大坂人の気質を知る恰好の場所でもあったようです。そういう意味では、大坂での寺社参詣は長旅の過程で気晴らしになるとともに、充真院の知的関心・好奇心を満たしたようです。
5月6日 大坂淀川口の天保山から御座船で出港します。
そして、兵庫・明石・赤穂・坂出・大多府(?)を経て多度津に入港しています。ここまでで7日間の船旅になります。

IMG_8072
金毘羅航路の出発点 淀川河口の天保山

内藤藩の御座船は、大坂から延岡に下る場合には、次のような航路を取っていました。
①大坂の淀川の天保山河口を出て、牛窓附近から南下し、讃岐富士(飯野山)・象頭山をめざす。
②丸亀・多度津沖を経て、以後は四国の海岸線を進みながら佐田岬の北側を通って豊後水道を渡る。
③豊後国南部を目指し、以後は海岸沿いに南下して日向国の延岡藩領の入る。
④島野浦に立ち寄ってから、延岡の五ヶ瀬川の河口に入り、ここから上陸
この航海ルートから分かるように、内藤家の家中にとって、四国の金毘羅はその航海の途上に鎮座していることになります。大坂から延岡へ進む場合は、これからの航海の安全を祈り、延岡から大坂に向かう場合は、これまでの航海を感謝することとなります。どちらにしても、危険を伴う海路の安全を祈ったりお礼をするのは、古代の遣唐使以来の「海民」たちの伝統でした。そういう意味でも、九州の大名達が頻繁に、金毘羅代参を行ったのは分かるような気もします。

金毘羅船 航海図C13
金毘羅船の航路(幕末)

御座船のとった航行ルートで、私が気になるのは次の二点です。
①一般の金毘羅船は、大坂→室津→牛窓→丸亀というコースを取るが、延岡藩の御座船は明石・坂出などを経由していること。
②丸亀港でなく多度津に上陸して金毘羅詣でを行っていること。
①については、藩の御用船のコースがこれだったのかもしれませんがよく分かりません。
②については、九州方面の廻船は、多度津に寄港することが多かったようです。また、多度津新港の完成後は、利便性の面でも多度津港が丸亀港を上回るようになり、利用する船が急増したとされます。そのためでしょうか、

充真院は金毘羅を「金毘羅大権現」とは、一度も表記していません。
「金毘羅様」「金ひら様」「金毘羅」などと表記しています。当時の人々に親しまれた名称を充真院も使っているようです。

多度津湛甫 33
多度津湛甫(新港)天保9年(1838)完成
 多度津入港後の動きを見ていくことにします。
13日の夕七つ(午後四時頃)に多度津に入港して、その日は船中泊。
14日も多度津に滞在して仕度に備えた後、
15日に金毘羅に向けて出発。
充真院の旅行記には、13日の記録に次のように記します。
「明日は金昆羅様へ参詣と思ひし所、おそふ(遅く)成しまゝ、明日一統支度して、明後早朝よりゆかん(行かん)と申出しぬ」

ここからは当初の予定では14日に金毘羅を参拝する予定だったようですが、前日13日に多度津に到着するのが遅くなったので、予定を変更して、15日早朝からの参拝になったようです。大名夫人ともなると、それなりの格式が求められるので金毘羅本宮との連絡や休息所確保などに準備が必要だったのでしょう。
 充真院の金毘羅参りに同行した具体的な人数は分かりません。
同行したことが確認できるのは、御里附重役の大泉市右衛門明影と老女の砂野、小使、駕籠かきとして動員された船子たちなどです。同行しなかったことが確実な者は、重役副添格の斎藤儀兵衛智高、その他に付女中の花と雪です。斎藤儀兵衛智高は、御座船の留守番を勤め、花と雪は連絡準備のために前日に金毘羅に先行させています。      

 充真院にとって金昆羅参りは、その道中の多度津街道での見聞きも大きな関心事だったようです。 
そのため見たり聞いたりしたことを詳しく記録しています。幸いにも参拝日となった15日は朝から天気に恵まれます。一行は、夜が明けぬうちから準備をして出発します。多度津から金毘羅までは3里(12㎞)程度で、ゆっくり歩いても3時間です。そんなに早く出発する必要があるのかなと思いますが、後の動き見るとこのスケジュールにしたことが納得できます。
 旧暦の5月当初は、現在の六月中旬に相当するので、一年の中でも日の出が早く、午前4時頃には、明るくなります。まだ暗い午前4時頃の出発です。まず、「船に乗て」とあります。ここからは、係留した御座船で宿泊していたことがうかがえます。御座船から小船に乗り換えて上陸したようです。岸に移る小船から充真院は、「日の出之所ゆへ拝し有難て」と日の出を眺めて拝んでいます。海上から海面が赤々と光輝く朝日を見て、有難く感じています。

  多度津港の船タデ場
多度津湛甫拡大図 船番所近くに御座船は係留された?

船から上陸した波止場は石段がひどく荒れていて、足元が悪く危険だったようです。
「人々に手こしをおしもらひしかと」
「ずるオヽすへりふみはつしぬれは、水に入と思て」
「やうノヽととをりて駕籠に入」
と、お付きの手を借りながら、もしも石段がすべり足を踏み外したならば、海に落ちてしまうと危険な思いをしながらも、やっとのことで石段を登って駕籠に乗り込みます。
多度津港から駕籠に揺られて金毘羅までの小旅行が始まります。
充真院は駕籠の中から周囲の景色を眺め、多度津の町の様子を記します。この町は「大方小倉より来りし袴地・真田、売家多みゆる」
袴の生地や真田紐を販売する店が沢山あることに目を止めています。これらの商品の多くが小倉から船で運ばれてきたことを記しています。充真院が興味を持ち、御付に尋ねさせて知ったのかもしれません。それだけの好奇心があるのです。このあたりが現在の本町通りの辺りでしょうか。
多度津絵図 桜川河口港
金毘羅案内絵図 (拡大図)
 さらに進むと農家らしき建物が散在して、城下であると云います。
多度津港に上陸した参詣客達は、金毘羅大権現の潮川神事が行われる須賀金毘羅宮を左手に見ながら金毘羅山への道を進みはじめます。門前町(本通り一丁目)を、まっすぐ南進すると桜川の川端に出ます。
門前町のことを「城下」と呼んでいたとしておきます。
 また、三町(327m)程進むと松並木が続き、左側には池らしいものが見えたと記します。松並木が続くのは、街道として、このあたりが整備されていたことがうかがえます。そこから先は田畑や農家が多くあったというので、街道が町屋から農村沿いとなったようです。

DSC06360
              多度津本町橋
ここが桜川の川端で、本町橋が架かるところです。その左手には絵図には遊水池らしきものがえがかれています。この付近で「金ひら参の人に行合」とあり、同じ様に金昆羅参りに向かう人に出会っています。 
多度津街道ルート上 jpg
 多度津から善通寺までの金毘羅街道(多度津街道調査報告書 香川県教育委員会 1992年)

その後、 一里半(6㎞)程進んでから、小休憩をとります。ちょうど中間点の善通寺門前あたりでしょうか。地名は書かれていないので分かりません。建物の間取りが「マイブーム」である充真院は、さっそく休憩した家の造作を観察して次のように書き留めています。
「此家は間を入と少し庭有て、座敷へ上れは、八畳計の次も同じ」
「脇に窓有て、めの下に田有て、夫(それ)にて馬を田に入て植付の地ならし居もめつらしく(珍しく)」
門や庭があることや、八畳間が二部屋続いている様子を確認しています。ここで充真院は休憩をとります。そして、座敷にある窓から外を見るとすぐ下に田んぼが広がり、馬を田に入れて田植えに備えて地ならしをしていたのが見えました。こんなに近くで農作業を見ることは、充真院にとって初めての体験だったのかもしれません。飽かず眺めます。そして「茶杯のみ、いこひし」とあるので、お茶を飲みながら寛いだようです。
  このあたりが善通寺の門前町だと思うのですが、善通寺については何も記されていません。充真院の眼中には「金毘羅さん」しかなかったようです。
多度津街道を歩く(4)金刀比羅神社表参道まで
    金毘羅案内絵図 天保二(1831)年春日 工屋長治写

 休憩を終えて再び駕篭に乗って街道を進みます。

「百姓やならん門口によし津をはりて、戸板の上にくたもの・徳りに御酒を入、其前に猪口を五ツ・六ツにな(ら)へて有、幾軒も見へ候」

意訳変換しておくと
「百姓屋の門口に葦簀をはって、簡素な休憩所を設けて、戸板の上に果物・徳利に御酒を入れて、その前に猪口を五ツ・六ツに並べてある、そんな家を幾軒も見た」

ここからは、金毘羅街道を行き来する人々のために農家が副業で簡素な茶店を営業していたことが分かります。庶民向けの簡素な休憩所も、充真院の目に珍しく写ったようです。ちなみに充真院は、お酒が好きだったようなので、並んだ徳利やお猪口が魅力的に見えたのかも知れません。このあたりが善通寺門前から生野町にかけてなのでしょうか。
丸亀街道 田村 馬子
    枠付馬(三宝荒神の櫓)に乗った参拝客(金毘羅参詣名勝図会)

充真院は街道を行く人々にも興味を寄せています。
 反対側から二人乗りした馬が充真院一行とすれ違った時のことです。充真院らを見て、急いで避けようとして百姓らが設置した休憩所の葦簾張りの中に入ろうとしました。ところが馬に乗ってい人が葦簾にひっかかり、葦簾が落ちて囲いが壊れます。それに、馬が驚いて跳ねて大騒ぎになります。充真院は、この思いがけないハプニングを見て肝を冷やしたようです。「誠にあふなくと思ふ」と心配しています。
 実は、充真院を載せた籠は、本職の籠かきが担いでいるのではなかったようです。
「舟中より参詣する事故、駕籠之者もなく」
    船中からの参拝なので籠かきを同行していない
「舟子共をけふは駕籠かきにして行」   
      今日は船子を籠かきにして参拝する
其ものヽ鳴しを聞は、かこは一度もかつぎし事はなけれと、先々おとさぬ様に大切にかつき行さへすれはよからんと云しを聞き
  船子等は駕籠を担いだことが一度もないので本人たちも不安げだ。駕籠を落とさないように大切に担いでいけば良いだろうと話し合っていたのを耳にした。
これを聞いて充真院の感想は、「かわゆそうにも思、又おかしともおもへる由」と、本職ではない仕事を命じられた船子たちを可哀相であると同情しながらも、その会話を愉快にも感じています。同時に気の毒に思っています。身分の低い使用人たちに対しても思いやりの心を寄せる優しさが感じられます。
 こうして船子たちは

「かこかきおほへし小使有しゆへ、おしヘノヽ行し」

と、駕籠かきを経験したことがある小使に教えられながら、金毘羅街道を進んで行きます。
 しかし、素人の悲しさかな、中に乗っている人に負担にならぬよう揺れを抑えるように運ぶことまではできません。そのためか乗っていた充真院が、籠酔いしたようです。  なんとか酔い止めの漢方薬を飲んで、周りの風景を眺めて美しさを愛でる余裕も出てきます。

早苗のうへ渡したる田は青々として詠よく、向に御山みへると知らせうれしく、夜分はさそな蛍にても飛てよからんと思ひつゝ

意訳変換しておくと
 一面に田植え後の早苗の初々しい緑が広がる田は、清清しく美しい。向こうに象頭山が見えてきたという知らせも嬉しい。この辺りは夜になると、蛍が飛び交ってもいい所だと思った。」

充真院の心を満たし短歌がふっと湧くように詠めたようです。このあたりが善通寺の南部小学校の南の寺蔵池の堰堤の上辺りからの光景ではないかと私は推測しています。
美しい風景を堪能した後で、寺で小休憩をとります。
この寺の名前は分かりません。位置的には大麻村のどこかの寺でしょうか。この寺は無住で、村の管理下にあったようです。充真院一行が休憩に立ち寄ることが急に決まったので、あらかじめ清掃できず、寺の座敷は荒れ放題で、次のように記します。
「すわる事もならぬくらひこみ(ゴミ)たらけ、皆つま(爪先)たてあるきて」

と、座ることも出来ない程、ごみだらけで、 人々は汚れがつかないように爪先立ちで歩いたと記します。そして「たはこ(煙草)杯のみて、早々立出る」と、煙草を一服しただけで、急いで立ち去っています。ここからは、彼女が喫煙者であったことが分かります。
 大名夫人にとって、荒れ放題でごみだらけの部屋に通されることは、日常生活ではあり得ないことです。非日常の旅だからこそ経験できることです。汚さに辟易して早々に立ち去った寺ですが、充真院は庭に石が少しながら配してあったことや、さつきの花が咲いているが、雑草に覆われて他は何も見えなかった記します。何でも見てやろう的なたくましい精神力を感じます。
 寺を出てから、再び田に囲まれた道を進みます。
この辺りが大麻村から金毘羅への入口あたりでしょうか。しばらくすると町に近づいてきます。子供に角兵衛獅子の軽業を演じさせて物乞いしている様子や、大鼓を叩いている渡世人などを見ながら進むうちに、金毘羅の街までやってきたようです。「段々近く間ゆる故うれしく」と鰐口の響く音が次第に近づいて聞こえてくることに充真院は心をときめかせています。
象頭山と門前町
象頭山と金毘羅門前(金毘羅参詣名勝図会)
金昆羅の参道沿いの町について次のように記します。
「随分家並もよく、いろいろの売物も有て賑わひ」と、家並みが整って、商売が繁盛していることを記します。また「道中筋の宿場よりもよく、何もふしゆうもなさそふにみゆ」と、多度津街道の街道の町場と比較して、金毘羅の門前町の方が豊かであると指摘します。
 充真院一行は、内藤家が定宿としている桜屋に向います。
桜屋は表参道沿いの内町にある大名達御用達の宿屋でした。先行した女中たちが充真院一行が立ち寄ること伝えていたので、桜屋の玄関には「延岡定宿」と札が掛けてあります。一階の座敷で障子を開けて、少し休憩して暑さで疲れた体を休めようとします。ところが参道をいく庶民がのぞき込みます。そこで、二階に上って風の通る広間で息つきます。そして、いよいよ金昆羅宮へ参詣です。
今回はここまでにします。続きはまた次回に 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     神崎直美「日向国延岡藩内藤充真院の金毘羅参り」

金毘羅神 箸蔵寺
金毘羅大権現(箸蔵寺)
                               
 現在の金刀比羅宮は、祭神を大物主、崇徳帝としていますが、これは明治の神仏分離以後のことです。それ以前は、金毘羅大権現の祭神は金毘羅神でした。金毘羅神は近世始めに、修験者たちがあらたに作り出した流行神です。それは初代金光院宥盛を神格化したもので、それを弟子たちたちは金毘羅大権現として+崇拝するようになります。そういう意味では、彼らは天狗信者でした。しかし、これでは幕府や髙松藩に説明できないので、公的には次のような公式見解を用意します。
 金毘羅は仏神でインド渡来の鰐魚。蛇形で尾に宝玉を蔵する。薬師十二神将では、宮毘羅大将とも金毘羅童子とも云う。

 こうして天狗の集う象頭山は、金毘羅信仰の霊山として、世間に知られるようになります。これを全国に広げたのは修験者(金比羅行者=子天狗)だったようです。

天狗面を背負う行者
金毘羅行者

 「町誌ことひら」も、基本的にはこの説を採っています。これを裏付けるような調査結果が近年全国から報告されるようになりました。今回は広島県からの報告を見ていきたいと思います。テキストは、 「印南敏秀  広島県の金毘羅信仰  ことひら40 1985年」です。

広島県の金毘羅神の社や祠の分布を集計したのが次の表です。
広島県の金毘羅神社分布表
この表から分かることとに、補足を加えると次のようになります。
①山県郡や高田郡・比婆・庄原・沼隈などの県東部の県北農山村に多く、瀬戸内海沿岸や島嶼部にはあまり分布していない。
②県北では東城川流域や江川流域の川舟の船頭組に信仰者が多く、鎮座場所は河に突き出た尾根の上や船宿周辺に祀られることが多かった。
③各祠堂とも部落神以上の規模のものはなく、小規模なものが多く、信者の数は余り多くはなく、そのためか伝承記録もほとんど伝わっていない
④世羅郡世羅町の寺田には、津姫、湯津彦を同殿に祀って金比羅社と呼んでいる。
⑤宮島厳島には二つあり、一つは弥山にあって讃岐金比羅の遙拝所になっている。
⑥因島では社としては厳島神社関係が多く、海に沿うた灯寵などには、金刀比羅関係が多い。
⑤金比羅詣りは、沿岸の船乗りや漁師達は江戸時代にはあまり行わなかった。維新以後の汽船時代に入って、九州・大阪通いの石炭船の船乗さんが金比羅参りを始めに連れられるように始まった。

 以上からは安芸の沿岸島嶼部では、厳島信仰や石鎚信仰が先行して広がっていて、金毘羅信仰は布教に苦戦したことがうかがえます。金毘羅信仰が沿岸部に広がるようになるのは、近世後期で遅いところでは近代なってからのことのようです。

 廿日市の金刀比羅神社
広島県廿日市市の金刀比羅神社

因島三庄町 金刀比羅宮分祠

因島三庄町 金刀比羅宮分祠 右が金毘羅灯籠

例えば因島の海運業者には、根深い金刀比羅信仰があったとされます。
年に一回は、金刀比羅宮に参拝して、航海安全の祈祷札を受けていたようです。そして地元では金刀比羅講を組織して、港近くには灯籠を祀っています。
因島三庄町 金刀比羅宮分祠灯籠

因島三庄町 金刀比羅宮分祠の金毘羅灯籠


それでは、金毘羅さんにも灯籠などの石造物などを数多く寄進しているのかというと、そうでもないようです。讃岐金比羅本社の参道両側の灯寵に因島の名があるものは、「金毘羅信仰資料集成」を見る限りは見当たりません。広島県全体でも、寄進物は次の通りです。
芸州宮島花木屋千代松其他(寛永元年八月)。
芸州広島津国屋作右衛門(寛保二年壬戌三月)。
芸州広島井上常吉。
広島備後村上司馬。広島福山城主藤原主倫。 
 宮島や石鎚信仰に比べると、「海の神様」としての金毘羅さんの比重は決して高くないようです。これは讃岐の塩飽本島でも同じです。塩飽廻船の船乗りが金毘羅山を信仰していたために、北前船と共に金毘羅信仰は、日本海沿いの港港に拡大したと云われてきました。しかし、これを史料から裏付けることは難しいようです。北陸の山形や新潟などでも、金毘羅信仰は広島県と同じく、内陸部で始まり、それが海岸部に広がるという展開を見せます。塩飽北前船の廻航と関連づけは「俗説」と研究者は考えているようです。
 近世初頭の塩飽の廻船船主が、灯籠などの金毘羅への寄進物の数は限られています。それに比べて、難波住吉神社の境内には、塩飽船主からの灯籠が並んでいます。
産業の盛衰ともす636基 住吉大社の石灯籠(もっと関西): 日本経済新聞
難波の住吉神社の並び灯籠 塩飽船主の寄進も多い

ここからは塩飽の船乗りが信仰していたのは古代以来馴染みの深い難波の住吉神社で、近世になって現れた金毘羅神には、当初はあまり関心を示していなかったことがうかがえます。これは、芸予諸島の漁民たちには、石鎚信仰が強く、排他的であったことともつながります。これらの信仰の後には、修験者の勢力争いも絡んできます。
 因島における金刀比羅講社の拡大も近代になってからのようです。重井村の峰松五兵衛氏の家にも明治十一年のもの「崇敬構社授与」の証があります。また、因島の大浜村村上林之助氏が崇敬構社の世話掛りを命ぜられたものですが、これも明治になってからのものです。

  崇敬講社世話人依頼書
金刀比羅本宮からの崇敬講社世話人の依頼状
 以上から、次のような仮説が考えられます。
①近世初頭には船頭や船主は、塩飽は住吉神社、安芸では宮島厳島神社、芸予諸島の漁師達は石鎚への信仰が厚かった。
②そのため新参者の金毘羅神が海上関係者に信者を増やすことは困難であり、近世全藩まで金毘羅神は瀬戸内海での信仰圏拡大に苦戦した
③金毘羅信仰の拡大は、海ではなく、修験者によって開かれた山間部や河川航路であった。
④当初から金毘羅が「海の神様」とされたわけではなく、19世紀になってその徴候が現れる。
⑤流し樽の風習も近世末期になってからのもので、海軍などの公的艦船が始めた風習である。
⑥その背景には、近代になって金刀比羅宮が設立した海難救助活動と関連がある。
三次市の金刀比羅宮
三次市の金刀比神社

最後に広島県の安芸高田市向原町の金毘羅社が、どのように勧進されたのかを見ておきましょう。広島県安芸高田市

安芸高田市の向原町は広島県のほぼ中央部、高田郡の東南端にあたります。向原町は太田川の源流でその支流の三条川が南に流れ、江の川水系の二戸島川が北に向かって流れ山陰・山陽の分水界に当たります。
ヤフオク! -「高田郡」の落札相場・落札価格
高田郡史・資料編・昭和56年9月10日発行

そこに高田郡史には向原の金毘羅社の縁起について、次のように記されています。
(意訳)
当社金毘羅社の由来について
当社神職の元祖青山大和守から二十八代目の青山多太夫は、男子がなかった。青山氏の血脈が絶えることを歎いた多太夫は、寛文元朧月に夫婦諸共に氏神に籠もって七日七夜祈願し、次のように願った。日本国中の諸神祇当鎮守に祈願してきましたが、男の子が生まれません。当職青山家には二十八代に渡って血脈が相続いてきましたが、私の代になって男子がなく、血脈が絶えようとしています。まことに不肖で至らないことです。不孝なること、これ以上のことはありません。つきましては、神妙の威徳で私に男子を授けられるように夫婦諸共に祈願致します。
 するとその夜に衣冠正敷で尊い姿の老翁が忽然と夢に現れ、次のように告げました。我は金毘羅神である。汝等が丹誠に願望し祈願するの男子を授ける。この十月十日申ノ刻に誕生するであろう。その子が成長し、六才になったら讃岐国金毘羅へ毎年社参させよ。信仰に答えて奇瑞の加護を与えるであろう。
 この御告を聞いて、夢から覚めた。夫婦は歓喜した。それから程なくして妻は懐妊の身となり、神告通り翌年の十月十日申ノ刻に男子を出産した。幼名を宮出来とつけた。成人後は青山和泉守・口重と改名した。
 初月十日の夜夢に以前のように金毘羅神がれて次のように告げた
汝の寿命はすでに尽きて三月二十一日の卯月七日申ノ刻に絶命する。しかし、汝は長年にわたって篤信に務めてきたので特別の奇瑞を与える。死骸を他に移す事のないようにと家族に伝えておくこと。こうして夢から覚めた。不思議な夢だと思いながらも、夢の中で聞いた通りのことを家族に告げておいた。予言通りに卯月七日の申の刻終に突然亡くなった。しかし、遺体を動かすなと家族は聞いていたので、埋葬せずに家中において、家内で祈念を続けるた。すると神のお告げ通りの時刻の戌ノ刻に蘇生した。そして、尊神が次のように云ったという。
 この村の理右衛門という者と、因果の重なりから汝と交換する。そうすれば、長命となろう。そして、讃岐へ参詣すれば、その時に汝に授る物があろう。これを得て益々信心を厚くして、帰国後には汝の家の守神となり、世人の結縁に務めるべしという声を聞くと、夢から覚めたように生き返ったと感涙して物語った。不思議なことに、理右衛門は同日同刻に亡くなっていた。吉重はそれからは、肉食を断ち同年十月十日に讃岐国金毘羅へ参拝し、熱心に拝んで御札守を頂戴した。帰国時には、不思議なことに異なる五色の節がある小石が荷物の上ににあった。これこそが御告の霊験であると、神慮を仰ぎて奉幣祈念して21日に帰郷した。そして、その日の酉の刻に祇園の宮に移奉した。
 この地に米丸教善と云う83歳の老人に、比和という孫娘がいた。3年前から眼病に犯され治療に手を尽していたが効果がなかった。すると「今ここで多くの信者を守護すれば、汝が孫の眼病も速に快癒する。それが積年望んでいた験である」という声が祇園の宮から聞こえてきて、夢から覚めた。教善は歓喜して、翌22日の早朝に祇園の宮に参拝し、和泉守にあって夢の次第を語った。
 そこで吉重も自分が昨夕に讃岐から帰宅し、その際に手に入れた其石御神鉢を祇園の宮へ仮に安置したことを告げた。これを聞いて、教善は信心を肝に銘じて、吉重と語り合い、神前に誓願したところ神托通りに両眼は快明した。この件は、たちまち近郷に知れ渡り、遠里にも伝わり、参詣者が引も切らない状態となった。
 こうして新たに金毘羅の社殿を建立することになった。どこに建立するかを評議していると、夜風もない静まりかえる本社右手の山の中腹に神木が十二本引き抜け宮居の地形が現れた。これこそ神徳の奇瑞なるべしとして、ここの永代長久繁昌の宝殿を建立することになった。倒れた神木で仮殿を造営し、元禄十三年十一月十日未ノ刻遷宮した。その際に、空中から鳶が数百羽舞下り御殿の上に飛来し、儀式がが全て終わると、空中に飛去って行った。
 元禄十三年庚辰年仲冬  敬白

ここには元禄時代に向原町に金毘羅社が勧進されるまでの経緯が述べられています。
ここからは次のようなことが分かります。
①金比羅信仰が「海上安全」ではなく「男子出生」や「病気平癒」の対象として語られている。
②讃岐国金比羅への参拝が強く求められている
このようなストーリーを考え由緒として残したのは、どんな人物なのでしょうか。
天狗面を背負う行者 正面
金比羅行者
それが金比羅行者と呼ばれる修験者だったと研究者は考えています。彼らは、象頭山で修行を積んで全国に金毘羅信仰(天狗信仰)を広げる役割を担っていました。広島では、児島五流や石鎚信仰の修験者とテリトリーが競合するのを避けて、備後方面の河川交通や山間部の交通拠点地への布教を初期には行ったようです。それが、最初に見た金毘羅社の分布表に現れていると研究者は考えているようです。
  以上をまとめておくと
①近世当初に登場した金毘羅神は、象頭山に集う多くの修験者(金比羅行者)たちによって、全国各地に信仰圏を拡大していき流行神となった。
②、瀬戸内海にいては金毘羅信仰に先行するものとして、塩飽衆では難波の住吉神社、芸予諸島では石鎚信仰・大三島神社、安芸の宮島厳島神社などの信仰圏がすでに形成されていた。
③そのため金毘羅神は、近世前半においては瀬戸内海沿岸で信仰圏を確保することが難しかった。
④修験者(金比羅行者)たちは、備後から県北・庄原・三好への内陸地方への布教をすすめた。
⑤そのさいに川船輸送者たちの信仰を得て、河川交通路沿いに小さな分社が分布することからうかがえる。しかし、それは祠や小社にとどまるものであった。
⑥金毘羅信仰が沿岸部で勢力を伸ばすようになるのは、東国からの参拝者が急激に増える時期と重なり、19世紀前半遺構のことである。
⑦流し樽の風習も近世においてはなかったもので、近代の呉の海軍関係者によって一般化したものである。
 今まで語られていた金毘羅信仰は、古代・中世から金毘羅神が崇拝され、中世や近世はじめから塩飽や瀬戸内海の海運業者は、その信者であった。そして、流し樽のような風習も江戸時代から続いてきたとされてきました。しかし、金毘羅神を近世初頭に現れた流行神とすると、その発展過程をとして金毘羅信仰を捕らえる必要が出てきます。そこには従来の説との間に、様々な矛盾点や疑問点が出てきます。
 それが全国での金毘羅社の分布拡大過程を見ていくことで、少しずつ明らかにされてきたようです。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「広島県の金毘羅信仰  ことひら40 1985年」
関連記事

金刀比羅宮には、極彩色の「大国主神像」画があります。

IMG_0022 17大国主神像
         大国主神像 絹本著色 一幅 江戸時代

この絵図は、幕末に宮崎県児湯郡高鍋村の名和大年が奉納したもので、元雪筆とあります。大国主神は小さな金嚢を左手に握っています。大黒天の「大黒」と大国主神「大国」の音が同じなので、混交して同一視されることがよくあります。また、大黒天も大国主神も大きな袋を背負っているので、姿もよく似ています。これが混交して「大黒天像」が「大国主神像」とされるようです。金刀比羅宮の「大国主神像」も大国主神を描いたものでなく、「大黒天像」であると研究者は指摘します。 それがどうしてなのかを今回は見ていくことにします。テキストは「羽床正明  金刀比羅富蔵大黒天像について   ことひら61 平成18年」です。
大園寺の勝軍大黒天
        勝軍大黒天(目黒区大園寺)
前回見た勝軍大黒天の誕生背景を、もう一度整理して起きます。
①延暦寺の食厨の神として、片手に金嚢を持ち、片足を垂らして小さな台の上に座る大黒天
②大将軍八神社にある大将軍神
①②を合体させて生まれたのが、勝軍大黒天であること。
勝軍大黒天の勝軍は、大将軍神の将軍と、音も同じです。「大黒天+大将軍神」=勝軍大黒天ということになること。
大国天 5
『覚禅抄』の大黒天
そして、勝軍大黒天の特徴としては、次のような4点が挙げられます。
①片手に金嚢を持つ、
②片手に宝棒を持つ
③冑か宝冠をかぶって甲(鎧)をまとう、
④臼の上に片足を垂らして座る、
この視点からもう一度、金刀比羅宮の元雪筆の「大国主神像」を見てみましょう。
IMG_0022 17大国主神像
元雪筆の「大国主神像?」
右手に金嚢を持ち、左手付け、臼の上に右足を垂らして座っています。『覚禅抄』の中に、左手に小さな金嚢を持ち、右手は拳を握り、台の上に右足を垂らして座る大黒天の図が掲載されています。また、観世音寺。松尾寺・興福寺南円堂脇納経所の大黒天は、左手で大きな袋を背負い、右手は拳を握っています。拳を握るのは、大黒天の特徴です。  ①・③・④を満たしていまが、②の宝棒は持っていません。しかし、その他の特徴からして、これは大黒天(勝軍大黒天)であると研究者は考えています。
金刀比羅宮には、元雪筆「大国主神像」を、岡田為恭が模写したものもあります。
為恭は、幕末 1860年、宥盛上人の250年祭の時に金毘羅大権現から招かれた金毘羅にやってきて、3月10日から19日まで滞在しています。その間にお守りの木札の文字が古くて型がくずれていたのを直したり、小座敷の袋戸棚に極彩色の絵を描いたり、宝物を調査・分類したりしています。こうした縁で為恭の作品が、金刀比羅宮に百余点残っているようです。しかし、その内の半分は明治になって奈良春日大社の伶人、富田光美がもたらしたものです。白書院の天丼の竜は、寸法を計って帰り、帰京後描いて翌年の文久元年(1861)6月18日に京都から献上使が預かってもち帰ったものです。
 金毘羅滞在中に模写したひとつが、元雪の「大国主神像」のようです。
大黒天模写
       為恭の「大国主神像」模写(着色なし)
研究者が注目するのは、為恭が模写した「大国主神像」の向かって右上の黒く塗りつぶした部分です。ここには、最初は「大国主神像」と書いたのが、為恭途中で「大国主神像」とすることに疑問を感じて、墨で黒く塗りつぶしたと研究者は推測します。つまり、為恭は「大国主神像」ではなくて、勝軍大黒天を描いた「大黒天像」であると知っていたことになります。同時に江戸時代末期には、この絵は金毘羅では「大国主神像」と名前が付けられていたことも分かります。

『岡田為恭(冷泉為恭) 武者鎧兜(五月節句)』
『岡田為恭(冷泉為恭) 武者鎧兜(五月節句)』

為恭は金毘羅大権現に滞在中、いくつかの作品を模写しています。
その模写した作品の中に、元雪筆「大国主神像」がありました。元雪は江戸時代の狩野派画家で、ふだんから勝軍大黒天を信仰していたようです。彼は勝軍大黒天に彼独自の工夫を加えています。例えば、それまでの勝軍大黒天.は黒い甲冑を着けていましたが、元雪はきらびやかな甲や宝冠をまとわせています。ある意味、新しい独自の勝軍大黒天像を描きだしたと研究者は評します。

金毘羅大権現の大黒天
金刀比羅宮の大黒天
 元雪の描いた勝軍大黒天像が、どのような経過をたどったかは分かりませんが、宮崎県児湯郡高鍋村の名和大年の所有となり、金毘羅大権現に奉納されたようです。江戸時代後期には、「金毘羅大権現=大国主神(大物主神)」であるという俗説が広められていました。その影響を受けて勝軍大黒天像が大国主神(大物主神)として金毘羅大権現に奉納されようです。
金毘羅参詣名所図会
金毘羅参詣名勝図会
弘化4年(18478)刊行の『金毘羅参詣名勝図会』は、金毘羅大権現の祭神について次のように記しています。
金毘羅大権現、祭神未詳、あるいは云ふ、三輪大明神、また素蓋烏尊、また金山彦神と云ふ.

『金毘羅参詣名勝図会』は、金毘羅大権現の祭神を未詳として、三輪大明神(大物主・大国主命)、素垂鳥尊、金山彦神の名をあげます。しかし、これらの三神は金毘羅大権現ではありません。金毘羅大権現は全毘羅坊(黒眷属金毘羅す)という天狗だったことは以前にお話ししました。
 金毘羅大権現=大物主神(大国主神)というのは俗説ですが、その俗説の影響を受け、勝軍大黒天像が金毘羅大権現に奉納されます。それは、大国主神と大黒天は混交して同一視されたからでしょう。
  以上をまとめておくと
①金刀比羅宮には、元雪筆「大国主神像」がある。
②しかし、それは本当は「大国主神像」でなくて、勝軍大黒天を描いた「大黒天像」である。
③大国主神と大黒天は混交して、同一視された。
④大国主神と混交したのは大きな袋を背負った大黒天であって、小さな袋を持った大黒天ではなかった。
⑤金毘羅大権現では、誤って小さな金嚢を持つ大黒天像を、「大国主神像」とした
⑥これがただされることなく現在に至っている。
 金刀比羅宮所蔵「大黒天像」は、普通の大黒天のように黒い甲冑をまとったものでなく、きらびやかな甲(鎧)を着け、さん然と輝く宝冠を戴いた姿です。これは、他に類のない貴重なものです。正しい名前で呼んで、評価することが価値を高まることにつながると研究者は評します。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

追記 
 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画)318P」に、この「大国主神像」についての解説文が載っていましたので転載しておきます。
IMG_0022 17大国主神像

本図は「大国主神像」とされるが、図像上は見慣れないものである。基本的には、毘沙門天と大黒天が混交した姿であり、大黒天との関係から大国主神に変貌したものであろう。昆沙門天はヒンドゥー教における財宝神クベーラの別名であり、このクベーラは財福の神として大黒天とも混交したらしい。さらにこの毘沙門天と大黒天は、日本において共に七福神として庶民信仰の対象になっており、民間信仰における雑居性が、本国におけるような、毘沙門天の姿でありながら、大黒主風の小道具を持つ大国主神という特異な図像を作り上げたげたのであろう。
 本図は、松原秀明一一金昆羅庶民信仰資料集 年表篇一(金刀比羅宮社務所、一九八八年二月)によると、明治11年(1878)に宮崎県児湯郡高鍋村の名和大午が奉納したものであることが分かる。神仏分離後の奉納であるため、「大国主神」とされたのかもしれない。神仏分離後、金刀比羅宮の祭神は大物主神であり、この大物主神は大国主神の幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)であるとされ、根本的には同体であると考えられている。そのような縁で「大国主神」として、金刀比羅宮に奉納されたのであろう。 面右辺やや下寄りに「□氏元雪筆」と落款がある。筆者元雪については伝歴不詳である。作品自体は江戸時代ではなかろうか。尚、本図と同じ図様が金刀比羅宮所蔵の冷泉為恭関係模本(『冷泉為恭とその周辺‐模本と復古やまと絵』金刀比羅宮社務所、2004年図版61-1)に見られる。本図が明治になってからの奉納とすると、直接本図を写したものとは考えにくくなるが、この図様は当時比較的流布していたものなのかもしれない。
(伊藤)






参考文献

 近世の金毘羅では、封建的領主でもある松尾寺別当の金光院に5つの子院が奉仕するという体制がとられていました。
その中で多聞院は、金毘羅山内で特別の存在になっていきます。ときにはそれが、金光院に対して批判的な態度となってあらわれることあったことが史料からは見えてきます。また、多聞院に残された史料は、金光院の「公式記録」とは、食い違うことが書かれているものがいくつもあります。そして比べて見ると、金光院の史料の方が形式的であるのに対して、多聞院の史料の方が具体的で、リアルで実際の姿を伝えていると研究者は考えているようです。どちらにしても、別の視点から見た金毘羅山内の様子を伝えてくれる貴重な史料です。

金毘羅神 箸蔵寺
箸蔵寺の金毘羅大権現

 近世初期の金毘羅は、修験者の聖地で天狗道で世に知られるようになっていました。
 公的文書で初代金光院院主とされる宥盛は「死後は天狗となって金毘羅を守らん」と云って亡くなったとも伝えられます。彼は天狗道=修験道」の指導者としても有名で、数多くの有能な修験者を育てています。その一人が初代の多聞院院主となる片岡熊野助です。宥盛を頼って、土佐から金毘羅にやってきた熊野助は、その下で修験者として育てられます。

天狗達
金毘羅大権現と大天狗と烏天狗(拡大)
 修験(天狗道)の面では、宥盛の後継者を自認する多聞院は、後になると「もともとは当山派修験を兼帯していた金光院のその方面を代行している」と主張するようになります。しかし、金光院の史料に、それをしめすものはないようです。

1金毘羅天狗信仰 天狗面G4
天狗信者が金毘羅大権現に納めた天狗面
 
金光院の初期の院主たちは「天狗道のメッカ」の指導者に相応しく、峰入りを行っていて、帯剣もしています。そういう意味でも真言僧侶であり、修験者であったことが分かります。しかし、時代を経るにつれて自ら峰入りする院主はいなくなります。それに対して歴代の多聞院院主は、修験者として入峯を実際に行っています。

松尾寺の金毘羅大権現像
松尾寺の金毘羅大権現

宝暦九(1760)年の「金光院日帳」の「日帳枝折」には、次のように記されています。

「六月廿二日、多聞院、民部召連入峯之事」

天保4(1833)年に隠居した多聞院章範の日記には、大峰入峯を終えた後に、近郷の大庄屋に頼み配札したことが書かれています。
多聞院が嫡男民部を連れて入峯することは、天保四年の「規則書」の記事とも符合します。
 次に多聞院の院主の継承手続きや儀式が当山派の醍醐寺・三宝院の指導によって行われていたことを見ておきましょう。
(前略)多聞院儀者先師宥盛弟子筋二而 同人代より登山為致多聞院代々嫡子之内民部与名附親多聞院召連致入峯 三宝院御門主江罷出利生院与相改兼而役用等茂為見習同院相続人二相定可申段三宝院御門主江申出させ置多聞院継目之節者 拙院手元二而申達同院相続仕候日より則多聞院与相名乗役儀等も申渡侯尤此元二而相続相済院上又々入峯仕三宝院 御門主江罷出相続仕候段相届任官等仕罷帰候節於当山奥書院致目見万々無滞相済満足之段申渡来院(後略)
意訳変換しておくと
(前略)多聞院については、金光院初代の先師宥盛弟子筋であり、その時代から大峰入峯を行ってきた。その際に、多聞院の代々嫡子は民部と名告り、多聞院が召連れて入峯してきた。そして三宝院御門主に拝謁後に利生院と改めて、役用などの見習を行いながら同院相続人に定められた。このことは、三宝院御門主へもご存じの通りである。
 多聞院継目を相続する者は、拙院の手元に置いて指導を行い、多聞院を相続した日から多聞院を名告ることもしきたりも申渡している。相続の手続きや儀式が終了後に、又入峯して三宝院御門主へその旨を報告し、任官手続きなどを当山奥書院で行った後に来院する(後略)

ここには多聞院の相続が、醍醐寺の三宝院門主の承認の下に進めらる格式あるものであることが強調されています。金光院に仕えるその他の子院とは、ランクが違うと胸を張って自慢しているようにも思えてきます。
 このように多聞院に残る「古老伝」には、修験の記事が詳しく具体的に記されています。現実味があって最も信憑性があると研究者は考えているようです。そのため当時の金毘羅の状況を知る際の根本史料ともされるべきだと云います。 
新編香川叢書 史料篇 2(香川県教育委員会 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

それでは、古老伝旧記 ( 香川叢書史料編226p)を見ておきましょう。

    古老伝旧記 
〔古老伝旧記〕○香川県綾歌郡国分寺町新名片岡清氏蔵
(表紙) 証記 「当院代々外他見無用」
極秘書
古老之物語聞伝、春雨之徒然なる儘、取集子々孫々のためと、延享四(1748)年 七十余歳老翁書記置事、かならす子孫之外他見無用之物也。

「古老伝旧記」は多聞院四代慶範が延享4年(1744)に記述、九代文範が補筆、十代章範が更に補筆、補修を加えたもので、文政5年(1822)の日付があります。古老日記の表紙には、「当院代々外他見無用」で「極秘書」と記されています。そして1748年に当時の多聞院院主が、子孫のために書き残すもので、「部外秘」であると重ねて記しています。ここからは、この書が公開されないことを前提に、子孫のために伝え聞いていたことをありのままに書き残した「私記」であることが分かります。それだけに信憑性が高いと研究者は考えています。
天狗面を背負う行者
天狗行者
例えば金毘羅については、次のように記されています。
一、当国那珂郡小松庄金毘羅山之麓に、西山村と云村有之、今金毘羅社領之内也、松尾寺と云故に今は松尾村と云、西山村之事也、
讃岐国中之絵図生駒氏より当山へ御寄附有之、右絵図に西山村記有之也、
一、金昆羅と申すは、権現之名号也、
一、山号は、象頭山   
一、寺号は、松尾寺
一、院号は、金光院    
一、坊号は、中の坊
社領三百三拾石は、国主代々御領主代々数百年已前、度々に寄附有之由申伝、都合三百三拾石也、
当山往古火災有之焼失、宝物・縁記等無之由、高松大守 松平讃岐守頼重公、縁記御寄附有之、
意訳変換しておくと
一、讃岐国那珂郡小松庄金毘羅山の麓に、西山村という村がある。今は金毘羅の社領となっていて、松尾寺があるために、松尾村とよばれているが、もともとは西山村のことである。
讃岐国中の絵図(正保の国絵図?)が、生駒氏より当山へ寄附されているが、その絵図には西山村と記されている。
一、金昆羅というのは、権現の名号である。
一、山号は、象頭山   
一、寺号は、松尾寺
一、院号は、金光院    
一、坊号は、中の坊
社領330石は、国主や御領主から代々数百年前から度々に寄附されてきたものと言い伝えられていて、それが、都合全部で330石になる。当山は往古の火災で宝物・縁記等を焼失し、いまはないので、高松大守 松平讃岐守頼重公が縁記を寄附していただいたものがある。
①生駒家から寄贈された国絵図がある
②坊号が中の坊
③松平頼重より寄贈された金毘羅大権現の縁起はある。
天狗面2カラー
金毘羅に奉納された天狗面
歴代の金光院院主については、次のように記されています。
金光院主之事   227p
一、宥範上人 観応三千辰年七月朔日、遷化と云、
観応三年より元亀元年迄弐百十九年、此間院主代々不相知、
一、有珂(雅) 年号不知、此院主西長尾城主合戦之時分加勢有之、鵜足津細川へ討負出院之山、其時当山の宝物・縁記等取持、和泉国へ立退被申山、又堺へ被越候様にも申伝、
一、宥遍 一死亀元度午年十月十二日、遷化と云、
元亀元年より慶長五年迄三十一年、此院主権現之御廟を開拝見有之山、死骸箸洗に有之由申伝、
意訳変換しておくと   
一、宥範上人 観応三(1353)年7月朔日、遷化という。その後の観応三年より元亀元年までの219年の間の院主については分からない。

宥範は善通寺中興の名僧とされて、中讃地区では最も名声を得ていた高篠出身の僧侶です。長尾氏出身の宥雅が新たに松尾寺を創建する際に、その箔をつけるために宥範を創始者と「偽作」したと研究者は考えています。こうして金毘羅の創建を14世紀半ばまで遡らせようとします。しかし、その間の院主がいないので「(その後の)219年の間の院主については、分からない」ということになるようです。
  一、有珂(雅)  没年は年号は分からない。
この院主は西長尾城の合戦時のときに長尾氏を加勢し、敗北して鵜足津の細川氏を頼って当山を出た。その時に当山の宝物・縁記は全て持ち去り、その後、和泉国へ立退き、堺で亡命生活を送った。
宥雅が金毘羅神を作り出し、金比羅堂を創建したことは以前にお話ししました。つまり、金毘羅の創始者は宥雅です。しかし、宥雅は「当山の宝物・縁記は全て持ち去り、堺に亡命」したこと、そして、金光院院主と金比羅の相続権をめぐって控訴したことから金光院の歴代院主からは抹消された存在になっています。多聞院の残した古老伝が、宥雅の手がかりを与えてくれます。
  一、宥遍  元亀元年十月十二日、遷化と云、
元亀元(1570)年より慶長五(1600)年まで31年間に渡って院主を務めた。金毘羅大権現の御廟を開けてその姿を拝見しようとし、死骸が箸洗で見つかったと言い伝えられている院主である。
宥遍が云うには、我は住職として金毘維権現の尊体を拝見しておく必要があると云って、、御廟を開けて拝見したところ、御尊体は打あをのいて、斜眼(にらみ)つけてきた。それを見た宥遍は身毛も立ち、恐れおののいて寺に帰ってきた。そのことを弟子たちにも語り、兎角今夜中に、我体は無事ではありえないかもしれない、覚悟をしておくようにと申渡して、護摩壇を設営して修法に勤めた。そのまわりを囲んで塞ぎ、勤番の弟子たちが大勢詰めた。しかし、夜中に何方ともなくいなくなった。翌日になって山中を探していると、南の山箸洗という所に、その体が引き裂かれて松にかけられていた。いつも身につけている剣もその脇に落ちていた。この剣は今は院内宝蔵に収められている。
  ここには金毘羅大権現の尊体を垣間見た宥遍が引き裂かれて松に吊されたという奇話が書かれています。もともと宥遍と云う院主は金毘羅にはいません。宥雅の存在を抹消したために、宥盛以前の金比羅の存在を説くために、何らかの院主を挿入する必要があり、創作されたようです。そこで語られる物語も奇譚的で、いかにも修験者たちが語りそうなものです。

7 金刀比羅宮 愛宕天狗
愛宕天狗

 なお、この中で注目しておきたいのは、次の2点です。
①宥遍には多くの弟子がいて、護摩壇祈祷の際には宥遍を、勤番の弟子たちが大勢詰めたとあること。
②「いつも身につけている剣もその脇に落ちていた。」とあり、常に帯刀していたこと。
ここからも当時の金光院院主をとりまく世界が「修験者=天狗」集団であったことがうかがえます。これは金毘羅大権現の絵図に描かれている世界です。

金毘羅と天狗
金毘羅大権現と天狗たち(修験者)
以上見てきたように多聞院に残された古老伝は、正式文書にはないリアルな話に満ちていて、私にとっては興味深い内容で一杯です。

最後に 金光院宥典が多聞院宥醒(片岡熊野助)を頼りとしていたことがうかがえる史料を見ておきましょう。古老伝旧記の多開院元祖宥醒法印(香川叢書史料編Ⅰ 240P)には次のように記されています。
万治年中病死已後、宥典法印御懇意之余り、法事等之義は、晩之法事は多聞院範清宅にて仕侯得は、朝之御法事は御寺にて有之、出家中其外座頭迄之布施等は、御寺より被造候事、

意訳変換しておくと
万治年中(1658~60)に多開院元祖宥醒の病死後、宥典法印は懇意であったので、宥醒の晩の法事は多聞院範清宅にて行い、朝の御法事は御寺(松尾寺?)にて行うようになった。僧侶やその他の座頭衆などの布施も、金光院が支払っていた。


道隆寺本堂
道隆寺本堂
  四国霊場の道隆寺は、中世の多度郡の港である堀江の管理センター的な機能を持ち、備讃瀬戸に向けて開けた寺院でした。この寺には多くの中世文書が残されていますが、その中に「道隆寺御影堂作事人日算用帳」という帳簿があります。これは、天文21年(1552)に御影堂再建にかかった経費を記録した帳簿です。この中には「番匠・かわら大工・人夫手伝い・番匠おかひき(大鋸引)・鍛冶」などの職人が登場してきます。今回は職人たちに焦点を当てて、御影堂再建を見ていくことにします。

番匠
職人絵図 番匠(大工)

御影堂再建にかかった経費は15貰421文です。そのうちの工賃が次の通りです。
番匠101人に  5貫50文
かわら大工23人 1貫150文 
番匠(大工)と瓦職人一人あたりの手間賃が50文、
これ以外に飯米として、それぞれに1升2合が支払われ、酒が振る舞われています。また人夫手伝いとして767人に一人当たり4合、かわら取り付け人夫に3合、しほたへの人夫に六合の飯米が支払われています。ここからは建築経費の内、職人への手間賃が約4割を占めていたことが分かります。それ以外にも飯米・酒代の支出が必要だったようです。
  まず驚かされるのが職人の数の多さです。「番匠(大工)101人、瓦大工23人」とあります。最初は延人数なのかと思いましたが、そうではないようです。これだけの職人が関わっていたのです。これらの大工職人を、どのようにして集め、組織していったのでしょうか? 今の私には分からないことだらけです。
5.瓦屋根の細部の名称-鬼瓦とか(屋根の雑学知識)
 
瓦大工については、馴染みが薄いので補足しておきます
それまでの瓦屋根は、軒先の瓦に釘を打って瓦が滑り落ちるのを防いでいました。これだと腐食した釘が釘穴の中で膨張して瓦を割ったり、修理のとき瓦を破損したりしてしまいます。そこで中世の瓦職人が考えだしたのが、釘を使わなくても滑り落ちない軒瓦です。軒先の木に丈夫な引っ掛かり部分をつけ、そこに瓦に設けた突起部分を引っ掛ける仕組みになっています。これは瓦の歴史の上で画期的な発明です。瓦大工が瓦を焼いていたかどうかは分かりませんが、瓦を葺く専門の大工であったようです。もちろん当時は、瓦葺きの屋根は寺院などの限られた建物に限られていましたから、瓦の需要はそれほど多くはなかったはずです。相当の広範囲のエリアを活動地域としていたことが考えられます。

帳簿には、次のようにも記されています。
「三貫三百文 大麻かハらの代」    大麻からの瓦代金
「八百八十文 しはくのかハらの代」     塩飽からの瓦代金
ここからは御影堂の瓦は、善通寺の大麻と塩飽で4:1の割合で焼かれた瓦が使われたことが分かります。塩飽からは海を越えて船で運ばれ、大麻からは川船で運ばれたのでしょう。同時に大麻や塩飽には、瓦を製造職人がいたことがうかがえます。大麻は大麻山の麓に開けたエリアで、古墳時代には積石塚古墳の集中地であり、忌部氏の氏寺とされる大麻神社が鎮座します。近くに善通寺があり、古くから善通寺で使用する瓦の製造を行う職人集団が存在していたことは、以前にお話ししました。

塩飽本島絵図
塩飽本島周辺(下が北)

塩飽は、九亀市の塩飽本島のことです。本島にも瓦職人集団がいたことがうかがえます。
 塩飽は近世になると、船大工や宮大工で活躍する職人を多数輩出します。高見島などは、幕末の戸籍調査によると戸数の1/3が大工でした。かつては、船大工として活躍していた人たちが、元禄期以後の「塩飽造船不況」で、宮大工に「転職」したとも云われました。しかし、それ以前から塩飽には「宮大工」の流れを汲む職人たちがいたような気配がします。どちらにしても、中世末の塩飽本島には、「建築総合組合」的な集団があり、備讃瀬戸沿岸からの寺社のさまざまな建築物発注に応える体制が出来あがっていたのではないでしょうか。これが近世における塩飽の宮大工の広域的な活動基盤になっていると私は考えています。
  下表は中世の道隆寺明王院の院主が導師として出席した遷宮・供養寺の一覧表です。

道隆寺 本末関係
道隆寺明王院が導師として出席した遷宮・供養寺の一覧表
導師として出席とすると云うことは、道隆寺がこれらの寺社の本寺にあったということになります。
6塩飽地図

そのエリアは塩飽本島から白方、詫間、荘内半島、粟島・高見島など備讃瀬戸にある寺社と本末関係にあり、末寺の信者集団も傘下に組み入れていたことにあります。大きな寺院が専属の建築者集団を持っていたように、中世の地方有力寺院も本末グループ全体で「建築職人集団」を持っていた可能性もあると私は考えています。
 そうだとすると、道隆寺グループの末寺の改修工事等は、道隆寺と契約関係にある建築集団が行っていたことになります。道隆寺は、讃岐守護代の香川氏の保護を受け発展していました。それに連れて道隆寺に属する職人集団も成長して行くことになります。こうして16世紀には、道隆寺を中心とする職人集団が香川氏のお膝的の多度津や、塩飽衆の拠点である本島には形成されていたという仮説は出せそうです。
200017999_00161道隆寺
道隆寺 江戸時代後半
道隆寺の御影堂建立から約30年後のことです。
土佐の長宗我部元親が讃岐平定の祈願と成就御礼のために、金毘羅(松尾寺)に三十番社と仁王堂を寄進しています。
天正十一年(1583)、讃岐平定祈願のために、松尾寺境内の三十番神社を修造。
天正十二年(1584)6月  元親による讃岐平定成就
天正十二年(1584)10月  元親の松尾寺の仁王堂(二天門)を建立寄進
当時の金毘羅(松尾寺)は、長宗我部元親が土佐から招聘した南光院(宥厳)が、院主を任されていました。「元親管轄下の松尾寺体制」で、元親の手によって、松尾寺の伽藍整備が進められます。そして、讃岐平定が完了した年に、成就御礼の意味が込めて寄進されたのが仁王堂(門)です。二天門棟札が讃岐国名勝図会には、次のように載せられています。

二天門棟札 長宗我部元親
金毘羅大権現二天門棟札(讃岐国名勝図会)
右側が表、左側が裏になります。まず表(右)側を、書き写したものを見ていきましょう。
真ん中に
「上棟奉建立松尾寺仁王堂一宇、天正十二甲申年十月九日、
左右に
大檀那大梵天王長曽我部元親
大願主帝釈天王権大法印宗仁
とあって、その間には元親の息子達の名前が並びます。天霧城の香川氏を継いだ次男の香川「五郎次郎」の名前も見えます。ここで注目したいのは、その下の大工の名です。
「大工 仲原朝臣金家」
「小工 藤原朝臣金国」
仲原と藤原という立派な姓を持つふたりが現場責任者で棟梁になるのでしょう。
左側(裏)には、「別当権大僧都宥厳(南光院)」の下に、6つの寺と坊の名前が並びます。ここに出てくる坊や寺は、「土佐占領下」の土佐修験道のメンバーだと私は考えています。
 その下には、職人たちの名前が次のように記されています。
「鍛治大工  多度津 小松伝左衛門」
「瓦大工  宇多津 三郎左衛門」
「杣番匠□□    圓蔵坊」
多度津や宇多津の鍛治大工や瓦大工が呼ばれていたことが分かります。多度津は、長宗我部元親と同盟関係にある香川氏の拠点です。松尾寺の伽藍整備には、香川氏配下の職人が数多く参加しているようです。これらの職人は、香川氏の保護を受けていた職人たちとも考えられます。この時期の松尾寺の伽藍整備が、実質的には香川氏によって進められたことがうかがえます。
その左には、次のように記されています。
「象頭山には瓦にする土はないのに、本尊が安置されている寺内から(瓦作りに相応しい)粘土があらわれた。この奇特に万人は驚いた。これも宥厳上人の加護である。」
 ここからは新たに発見された粘土を用いて、周辺に作られた瓦窯で瓦が焼かれたことがうかがえます。先ほど見た道隆寺の御影堂の瓦は、大麻や塩飽から運ばれ来ていました。それが松尾寺の場合には、「瓦大工 宇多津三郎左衛門」が請負って、松尾寺山内の土を使って焼かれたとあります。

 中世末には地方の有力寺院の建立には、多くの職人が組織され働いていたことが分かります。その組織がどのようにして組織され、運営されていたかについてを語る史料は、讃岐にはないようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  羽床正明       長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号
関連記事

 
「高瀬のむかし話」(高瀬町教育委員会平成14年)を、読んでいると「琴浦のだんじきさん」という話に出会いました。この昔話には、金刀比羅宮の奥社が修験者たちの修行ゲレンデであったことが伝えられています。そのむかし話を見ておきましょう。

高瀬町琴浦

  琴浦のだんじき(断食)さん
上麻の琴浦という地名は、琴平の裏に当たるところから付けられたものです。琴平には「讃岐のこんぴらさん」で昔から全国に知られた金刀比羅宮があります。金刀比羅宮の奥の院のうしろに天狗の面がかかった岩があり、「天狗岩」と呼ばれています。天狗岩の周辺は、昔から、たくさんの人が、修行をしに来る場所として知られていました。
江戸時代の話です。
DSC03293
金刀比羅宮奥社と背後の「天狗岩」

江戸の町から来た定七さんも、天狗岩のそばで修行しているたくさんの人の中の一人でした。修行とは、自分から困難なことに立ち向かい、困難に耐えて、精神や身体をきたえ、祈ったり考えたりするものでした。それで、何日も何も食べないで水だけを飲んで過ごしたり、
足がどんなに痛くても座り続けていたり、高いところから何度も何度も飛び降りたり、冷たい水を頭からざばざばとぶっかけたりして、がんばるのでした。

DSC03290
天狗岩に掛けられた「天狗」と「烏天狗」の面

定七さんは、何日も水を飲むだけで何も食べない「だんじき」という修行を選びました。天狗岩には、定七さんのほかにも「だんじき」する人がたくさんいましたが、お互いに話をする人はいません。自分一人でお経をとなえたり考えたりすることが修行では大切なことだと考えられていたのです。
定七さんは、何日も何日も、何も食べないで修行にはげみました。食べないのでだんだん体がやせてきました。定七さんの横にも「だんじき」して修行している人がいました。その人も、食べないのでだんだん体がやせてきました。

DSC03291
      天狗岩の「天狗」と「烏天狗」の面

定七さんは、苦しくてもがんばりました。横の人もがんばっていました。ある日、横の人は苦しさに負けたのか、根がつきたのか、とうとう動かなくなってしまいました。そして、だれかに引き取られていきました。それでも、定七さんは、 一生けんめいに修行うしてがんばりました。でも、ある日、とうとう力がつきて、定七さんは、動けなくなってしまいました。自分の修行を「まだ足りない、まだ足りないと思って、頑張っているうちに息が絶えてしまったのです。

天狗面を背負う行者 浮世絵2
浮世絵に描かれた金毘羅行者

ちょうどその時、奥の院へお参りに行っていた琴浦の人が、横たわっている定七さんを見つけました。信心深かったこの人は、倒れている行者さんを、そのままにしておくことはできませんでした。琴浦へつれて帰り、自分の家のお墓の近くに、定七さんのお墓を建てて、とむらったのです。
 そういうわけで、琴浦に「だんじきさん」と呼ばれる古いお墓があります。墓石には「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」と刻まれています。

天狗面を背負う行者
天狗面を奉納に金毘羅にやってきた金毘羅行者

ここには次のような事が記されています。
①金刀比羅宮の奥の院のうしろに天狗の面がかかった岩は、「天狗岩」とよばれていた
② 天狗岩の周辺は、修験者の修行ゲレンデであった。
③そこでは断食などの修行にはげむ修験者たちが、数多くいた。
④断食で息絶えた行者を琴浦に葬り、「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」という墓石が建てられている。

 近世初頭に流行神として登場してきた金毘羅神は、土佐からやって来た修験道リーダーの宥厳によって、天狗道の神とされます。その後を継いだ宥盛も、修験道の指導者で数多くの修験道者を育てると供に、象頭山を讃岐における修験道の中心地にしていきます。その後に続く金光院院主たちも、高野山で学んだ修験者たちでした。つまり、近世はじめの象頭山は、「海の神様」というかけらはどこにもなく、修験道の中心地として存在していたと、ことひら町史は記します。修験者たちは、修行して験力を身につけ天狗になることを目指しました。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗たち

 例えば江戸時代中期(1715年)に、大坂の吉林堂から出された百科辞書の『和漢三才図絵』(巻七九)には、次のように記されています。
 相伝ふ、当山(金毘羅大権現)の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

また、江戸中期の国学者、天野信景著の『塩尻』には、次のように記されています。
  讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや。

ここからは江戸中期には金毘羅宮の祭神は、僧(山伏)の姿をしていて団扇を持った天狗で、十二神将のクビラ神とはまったくちがう姿であったことが報告されています。『塩尻』に出てくる修験者の姿の木像とは、実は初代金光院主とされる宥盛の姿です。観音堂の裏には威徳殿という建物があって、その中には、次のような名の入った木像がありました。
天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月
金毘羅大権現像 松尾寺
初代金光院院主の宥盛は天狗道沙門と名乗り、彼が手彫りで作った金剛坊形像が「松尾寺では金毘羅大権現像」として伝わっていたというのです。
CPWXEunUcAAxDkg金毘羅大権現
金毘羅大権現
 ここからは宥厳や宥盛が、金毘羅信仰の中に天狗信仰をとり入れ定着させた人物であったことが分かります。宥盛は修験道と天狗信仰を深く実践し、死後は天狗になって金毘羅宮を守ると遺言して亡くなり、観音堂のそばにまつられます。宥盛は死後、象頭山金剛坊という天狗になったとされ、金剛坊は金毘羅信仰の中心として信仰を集めるようになります。これは白峰の崇徳上皇と相模坊の関係と似ています。
天狗面2カラー
金刀比羅宮に奉納された天狗面

 戦国末期の金比羅の指導者となった土佐出身の宥厳やその弟弟子にあたる宥盛によって、象頭山は修験・天狗道の拠点となっていきます。宥盛は、初代金光院院主とされ、現在では奥の院に神として祀られています。奥の院は、このむかし話に出てくる天狗岩がある所で、定七が「だんじき修行」をおこなった所です。 
 琴浦に葬られた定七の墓石には「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」と掘られているようです。定七も、天狗信仰のメッカである象頭山に「天狗修行」にやってきて、天狗岩での修行中になくなった修験者だったのでしょう。
 彼以外に多くの修験者(山伏)たちが象頭山では、修行を行っていたことがこの昔話には記されています。金毘羅神が「海の神様」として、庶民信仰を集めるようになるのは近世末になってからだと研究者は考えているようです。金毘羅信仰は、金比羅行者が修行を行い、その行者たちが全国に布教活動を行いながら拠点を構えていったようです。金毘羅信仰の拡大には、このような金毘羅行者たちの存在があったと近年の研究者は考えているようです。
  このむかし話は「近世の金毘羅大権現=修験道の行場=天狗信仰の中心」説を、伝承面でも裏付ける史料になるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
引用文献  「高瀬のむかし話」( 高瀬町教育委員会平成14年)

関連記事

     金毘羅参詣名所図会  1848年
     金毘羅参詣名所図会

弘化4(1847)年に『金毘羅参詣名所図会』が発行されます。
この図会は、大坂の戯作者である暁鐘成が出版したもので、画家の浦川公佐を連れて、実際に讃岐への取材旅行をおこなっています。53歳の真夏の事なので、暑さのために大変な旅でもあったようです。 金毘羅参詣名所図会は、今では香川県立図書館のデジタルライブラリーで見ることが出来ます。これを使って、丸亀港に上陸した暁鐘成や浦川公佐が見た19世紀半ばの丸亀街道を追体験していこうと思います。図会は全6冊で、第一巻冒頭に次のように記されています。

「丸亀港に渡る参詣人の多くは、浪華から船で向かう者が多いため、まずは船中からの眺望の名所を載せた」
「摂津・播磨の海辺については以前出版されたものに詳しいため、今回は備前の海辺から著すこととした」

 ここからは、上方から金毘羅船で丸亀を目指したことがことが分かります。そして「浪華川口」のあとは、一気に「虫明の迫門(せと)」に飛んで、備中の喩伽山や瀬戸の島々などがが取り上げられ、1巻目は備前で終わります。
丸亀からの金毘羅詣でが描かれるのは2巻目です。
追い風に帆を上げた金毘羅船が丸亀港に向かうシーンから始まります。
金比羅船IMG_8033

  金比羅船の構造や大きさを見ると、19世紀前半に弥次喜多コンビが金比羅詣でに乗船した船は、上廻りに屋形がなく、苫がけ船だったことは以前にお話ししました。しかし、ここに描かれた金毘羅船は垣立が高く、大型の総屋形船になっています。これは樽廻船を金毘羅船用に改造したものと研究者は考えています。文化から弘化・嘉永期の40年の間に、船も大きく典型的な渡海船になったことが分かります。定員も数人だったのが何倍にも増えたことでしょう。金比羅船にも「大量輸送」時代がやってきていたようです。 この動きをリードしたのが大坂の平野屋左吉です。彼は、もともとは安治川の川口の樽廻船問屋でした。樽廻船を金毘羅船に改造して、堺筋長堀橋南詰に発着場を設けて、金毘羅船を経営するようになり急成長していきます。

次のページを開くと、入港地の丸亀港が向かえてくれます。
  丸亀港3 福島湛甫・新堀湛甫
丸亀港 金毘羅参詣名所図会

 瀬戸内海上空から南の丸亀城を眺めた構図になっています。当時の絵図の流行は俯瞰図です。立体感のある俯瞰図は居ながらにして、風景が絵図で楽しめます。ドローン映像で、旅番組の構図が大きく変わったのと同じような意味を持っていたのではないかと私は考えています。
 ここでも正面に右(西)側に福島湛甫(文化3年1806竣工)、左(東)に新堀湛甫(天保4年1833竣工)とふたつの港が描かれています。そして汐入川の河口を遡った奧には丸亀城がどーんと控えます。絵になる光景です。新堀には、2つの大きな燈籠も並んでいます。どちらかが現在の太助灯籠になるようです。

金毘羅参詣名所図会の本文を、見ておきましょう。
丸亀港 金毘羅参詣名所図会
金毘羅参詣名所図会 圓(丸)亀湊

那河郡円(丸)亀湊 
讃岐国北の海浜なり。大阪より海陸ともに行程凡そ五十余里、下津丼より凡そ五里。
当津は幾内条より南海道往返の喉口なるゆへ象頭山の参詣、大師霊場の遍路、其のほか南海に到るの旅客、摂州浪花津より乗船の徒は言ふも更なり。陸路を下向の輩も或は田の口下村より渡り、又は下津丼より越る等何れも此方に着岸せずと言ふ事なし。されば東雲の頃より追々浪花よりの入船、向ひ路よりの着船引もきらず。又黄昏時よりは向ひ路への渡海、登船の出帆有りて船宿の賑ひ昼夜を分ず、浜辺の蔵々には俵物の水揚産物、積送の浜出し仲仕の掛声、船子の呼声藁しく湊口には縦横に石の波戸ありて紫銅の大灯籠夜陰を照し、監船所の厳重、浜々の石灯籠、魚市の群集、御城は正面の山岳に魏々として驚悟しく、内町には市邸軒をならべ交易にいとまなく、就中、籠の細工物、渋団、円座なんど名物也とて讐家多く、旅客かならず需めて家土産とするなど街の繁栄、実に当国第一の湊と言ふべし。城下の封境、寺院、神社の類ひは後編に委しく著はせばこゝに洩す。
  意訳変換しておくと
丸亀港は讃岐国の北の海浜に位置する。大阪より海陸ともに行程およそ五十余里で、対岸の備中下津丼からは5五里程である。この港は、上方からすると南海道往来の喉口になる。そのために金毘羅象頭山の参詣、四国霊場の遍路、その他の南海への旅客など、摂州浪花津より乗船する人々が数多くいることは知られたところである。陸路山陽道を下る輩も、児島の田の口下村や、下津井から船で渡ってこの港に着岸することは言うまでもない。そのため東雲の朝から浪花からの入船や、対岸備中路よりの着船が引もきらず行き交う。また、黄昏時からは備中からの渡海や、上方への上船の出帆も多く、船宿の賑わいは昼夜を分つことがない。
 浜辺の蔵々には俵物の水揚産物が収められ、積送の浜出し仲仕の掛声や船子の呼声が賑やか飛び交う。湊口には、縦横に石の波戸(堤防)が築かれ、その上に建立された紫銅の大灯籠が夜陰を照す。監船所(船番所)が置かれ、浜々の石灯籠、魚市の群集が浮かび上がる。丸亀城は背後の山々を従えて港の正面に建つ。内町には市邸が軒をならべ交易にいとまがない。そこでは、籠の細工物、渋団、円座などの讃岐の名物などを売る店が多く、旅客は必ず土産に買い求めていく。丸亀城下町の街の繁栄は、実に当国第一の湊というにふさわしい。城下の封境、寺院、神社などは、後編に委ねることにして、ここでは省略する。
〔閑田耕筆に守興和尚が話に云ふ〕
備前の下津居より船にて丸亀へ渡る。海上丸亀近くなりてはるかむかひに五尺斗りなる黒き澪標みゆさも深かるべき所に、いかに長き木をうちこみて斯くみゆるばかりにやと怪しくて船頭にとわれしかば、船頭見てあれは大亀の首を出したるなり。空曇なく海長閑なる日はかく首を出し、あるひは全身をも現す。昔より大小二亀すみて大なるは廿畳じきほどもあらん。小なるもさのみ劣らず、此のものゝ住めるがゆへにこゝを丸亀とは名付たりと語りしと云々。

意訳変換しておくと
備前の下津居から船で丸亀に渡っていたときの話です。丸亀が近づいてきた頃に、海の上に五尺ばかりの黒い澪標が打ち込まれたように突き出ていました。それはまるで、長い木をうち込んだようにみえたので、不思議に思って船頭に聞いてみました。すると船頭は次のように応えました。
「あれは大亀が首を出しているんですわ。空に曇や風がなく、海が穏やかな日には、あんなふうに首を出します。時には、全身を現す時もあります。このあたりには、昔から大小のふたつの亀が住み着いていています。大亀は二十畳敷ほどにもなります。小亀も、それと変わらないでしょう。この亀たちが住みついているので、ここはを丸亀と名付たようです。

福島湛甫ができる前の船着きは土器川河口の「川口」と呼ばれる自然の港で、干潮時には沖で潮待ちをしなければ上陸できませんでした。

丸亀市東河口 元禄版
土器川河口の川口湊

 そのため福島湛甫が作られます。もとの船着き場でであった土器川河口周辺は、宇多津・坂出から移住させられた三浦(御供所・西平山・北平山)の人々が船宿や茶屋を営業して繁盛していました。彼らはただの漁民でなく、中世以来の海上運送業も数多くいて、商業活動を行っているものもいたのです。福島に港が移動するときには、彼らも移ってきたようです。さらに金毘羅船が大型化すると、港が浅い福島湛甫では入港できなくなり、新たに新堀湛甫が作られたとようです。福島湛甫=小型船、新堀=大型船という棲み分けがあったのかも知れませんが、絵図上からは読み取ることはできません。
丸亀城 福島町3
新堀湛甫が完成する前の丸亀港と福島

福島・新堀のふたつの港から上陸した客は、まず船宿に入り、船旅の疲れをいやし、陸路の準備をします。
 弥次喜多コンビの金比羅詣での際にもお話ししたように、船宿は金毘羅船の梶取りや船主が経営したり、タイアップしていました。そのため客は、船頭に連れられてそれぞれの宿に入ります。当時の引き札を見ると、大坂と丸亀・金毘羅の船宿が数軒ずつ並んで載せられています。ここからは大坂出発時点で、丸亀や金毘羅の宿か決まっていたことが分かります。つまり「金毘羅船の乗船券+丸亀・金毘羅の宿」がセット販売されていたことになります。

丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋2県デジタルアーカイブ
丸亀より金毘羅・善通寺・弥谷寺道案内図 版元原田屋

 旅人は、三里(約12㎞)の道を歩いて金毘羅へ向かう身支度や携行品の準備を宿で行います。
多くの参拝客は、金毘羅だけでなく善通寺・弥谷寺の七ヶ所巡りをして、丸亀に帰ってくるルートを宿に勧められるとおりに選んだので、不用な荷物は宿に預けたようです。宿は旅人のために、飲食物の供給、休憩・娯楽場所の提供、旅行用具・土産物の販売や接待に努めます。その以前に紹介した「金毘羅案内図」を無料で手渡しながら次のように勧めたのでしょう。
「金毘羅さんだけなく、この際に弘法大師のお生まれになった善通寺もぜひご参拝を」
「弥谷寺などの七ヶ所廻りも地元では、お参りするする人が多いですよ」
「お土産は途中で買うと、手荷物になって不便ですから、船に乗る前に当店でどうぞ、お安くしますよ」

  丸亀港の船宿を出た後に描かれるのが次の絵図です。

丸亀街道 田村、田村ノ池、山北八幡宮20111108_112757093
 丸亀街道 三ッ角(みつかど)の分岐点 金毘羅参詣名所図会

  金毘羅街道を馬に乗った参拝客が馬子に引かれて集団で進んでいます。進行方向は右から左のようです。その行く先の左上に山北八幡が見えます。また、右上には田村の集落を貫いて金毘羅街道が伸びています。そして右端中央には、田村池の東側の堤防が見えているようです。ここには枝振りのいい松があり、その下には大きな道標や常夜灯が並んでます。ここは、いったいどこなのでしょうか? 最初、私には分かりませんでした。金毘羅街道は、南に伸びているものという先入観があったからです。本文を読んでみましょう。

丸亀街道 中府口・三軒家
金毘羅参詣名所図会2巻 三軒家
中府口   
城下南の出口にして則ち金毘羅参詣の道条、是より行程百五十町と云ふ。
中府村  
城下の門外にて市中続きの在領也。左右人家建ち列り農工商ともに住す。
三軒家  
中府村の中なり。昔は僅か三軒のみなりしが繁栄に付き、今は人家軒を並べり。故に其の旧名をよべり。此所より道すじ左右に分れり。右は伊予街道にして善通寺に至る者は是に赴く。左は金毘羅参詣の往還にして道標の石、奉納の石灯籠等道の傍辺にあり。象頭山参詣の道条中府口より百五十丁の間は、都て官道にひとして路径広く高低なく、老幼婦女等も悩まざるの平地なり。其の上傍らの在郷より農夫あまた馬を引いで参詣の旅客を進めて乗らしむる事、三方荒神の櫓にして馬士唄うたひ連て勇める形勢、恰も伊勢参宮の街道に髣髴たり。
意訳変換しておくと
  三軒家
中府村の中で、昔は三軒だけした家がなかった。それが今では繁栄して、人家が軒を並べるようになった。ここから道筋に行くと、街道が左右に分かれた三叉路になる。右が伊予街道を経て善通寺へつながる道である。左が金毘羅参詣の往還で、道標や燈籠などが並んでいる。

象頭山参詣の道中で、中府口より百五十丁の間は、全て官道のようなもので路径は広く高低ないので、老幼婦女等にも容易な平地である。
 その上、在郷の農夫が馬を引いて参詣旅客に乗ることを勧める。三方荒神の櫓をつけて馬子唄を謡って、連れだっていく姿は、あたかも伊勢参宮の街道を彷彿とさせる。
 ここからは、この絵図が三間茶屋のすぐ南の三叉路であることが分かります。中府の大鳥居から400m程南へ進むとあるドラッグストア前の変形十字路(三つ角)です。明治初期までは南へ直進する道はなく、ここは行き止まりでT字の三叉路でした。そのため、この辺りは三ッ角(みつかど)とも呼ばれていたようです。ここが、伊予街道との分岐点だったようです。右(南西)へ進むと伊予街道です。ここに大きな道標や常夜灯があり、金毘羅街道と伊予街道への分岐点でもあったようです。

丸亀街道地図 丸亀城周辺

 そして、金毘羅街道は、三ツ角から山北八幡方向にむけて東へ進みはじめるのです。そして、県道33号線(旧国道11号線)を横切った後、骨付き鶏「一骨」のある丸戸の交差点まで東進し、そこで方向を再び南に変えます。つまり、ここまでのルートは丸亀城の西側を迂回してことになります。丸戸の交差点からは丸亀平野の古代条里制に沿って、ほぼ真っ直ぐに南下していきます。その南下する方向に田村池と田村集落が描かれいることになるようです。

丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋6 三軒家標識

   上図が三軒家の三ツ角 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」

 原田屋版の案内図に描かれている三軒家の三ッ角(みつかど)を見てみましょう。背後には田村池が描かれています。そして丸亀城の中府口からの道と三叉路でまじわった所に大きな道標や常夜灯が描かれています。西に伸びる道は金倉川を越えて「永井清水」で善通寺への金比羅多度津街道と交わります。ここが永井の交差点のようです。伊予街道はさらに鳥坂方面に続きます。
丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋7 三軒家標識
⑨の三軒家の三ツ角 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」の拡大図
丸亀方面(北)からやってくると、左側の標識には
右 イヨ
左 こんぴら江
右側の標識には、
右 弘法大師 善通寺
と記されています。
最後に、参詣者を載せている馬と馬子を見ておきましょう。
丸亀街道 田村 馬子
枠付馬(三宝荒神の櫓)に乗った参拝客
丸亀港に金比羅船が着くと、争って客引きをしたのが馬方と駕龍屋のようです。駕龍は二人で担ぐ二枚肩の打ち上げ駕龍が普通でした。馬は枠付馬で(三宝荒神の櫓という)三人まで乗れました。駄賃は三人で三分、酒代一朱でしたが、馬子たちは客の懐を見て値を付けていたようです。馬や駕寵の終点は、金毘羅二本木の銅鳥居の下で、現在の高灯籠のところです。三方荒神の櫓に揺られながら馬子唄を謡って、連れだっていく姿がここには描かれています。馬子唄がどんな歌詞で、どんなメロデイであったのかを今は知ることはできません。
  今回は三軒屋の三ッ角(みつかど)までとなりました。以下は、またの機会に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 丸亀市史 819P
関連記事



丸亀:金毘羅参拝図 高灯籠以後 
金毘羅案内図
金毘羅船で丸亀にやってきた参拝客は、案内絵図を手渡されます。その案内図に従って「金毘羅+四国霊場善通寺 + 七ヶ寺」巡礼を行って、再び丸亀に帰ってきて、帰路の船に乗ることが多かったことを、前回までにお話ししました。案内図には、目印となるモニュメントが描かれるのがお約束でした。新たに描かれるようになったモニュメントで、その案内図がいつごろ出版されたかもわかります。今回は絵図に描かれたモニュメントを見ながら絵図の発行年代を推測していきたいと思います。

最初に、参拝道モニュメントの完成年を押さえておきます。
天明2年 1782 粟島庄屋、高藪の鳥居寄進。
天明8年 1788 二本木銅鳥居建立。
文化元年1804  善通寺の五重塔完成
文化3年 1806 丸亀福島湛甫竣工
文政元年 1818 二本木銅鳥居修覆。
文政5年 1822 十返舎一九、「讃岐象頭山金毘羅詣」
天保2年 1831 金堂初重棟上げ。
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工
天保5年 1834 神事場馬場完成、多度津港新湛甫起工。
天保6年 1835 芝居定小屋(金丸座)上棟。
天保11年1840 多度津須賀に石鳥居建立。 善通寺五重塔落雷を受けて焼失。
弘化2年 1845 金堂、全て成就。
嘉永元年 1848 阿波街道口に鳥居建立。
嘉永2年 1849 高藪町入口、地蔵堂建立。
嘉永4年 1851 二本木に江戸火消組奉納の並び灯龍完成
安政元年 1854 安政地震で新町の鳥居崩壊、高藪口の鳥居破損。
  道作工人智典、丸亀口から銅鳥居までの道筋修理終了。
安政2年 1855 新町に石鳥居再建。(位置が東に移動)
安政4年 1857 多度津永井に石鳥居建立。
安政6年 1859 一の坂口の鉄鳥居建立。
万延元年 1860 高燈籠竣成
文久元年 1861 内町本陣上棟。
元治元年 1864 榎井村六条西口に鳥居建立。
慶應3年 1867 賢木門前に真鍮鳥居建立。旗岡に石鳥居建立。
上の年表を、年代判定の「ものさし」にして。案内絵図の発行年代を推測してみます。
丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋
      E27「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」
 この絵図で、大きな指標となるのが丸亀港のふたつの湛甫①②と、二本木周辺⑤のモニュメント群です
②に天保4年(1833)に完成した新堀が描かれ、江戸町人の寄進灯龍2基が並ぶこと
⑤に万延元年(1860)に建設された高燈籠が描かれていること。
さらに金毘羅の山上を見ると、金堂が旭社と改名されていること
ここからは、神仏分離の進んだ明治以後に発行されたものであることが分かります。年表を見ると慶應3(1867)年に、賢木門前に真鍮の鳥居建立されたという情報があります。確かに、賢木門前には鳥居があります。しかし、これが、真鍮かどうかは分かりません。また、金毘羅大権現から金刀比羅宮へと切り替えが進み、神仏分離が実質的に進められるのは、翌年の明治2年以後です。下限年代を絞り込む情報を、私は見つけることができません。絵図の発行年代は明治2年(1867)~明治5年くらいまでとしておきます。

善通寺・弥谷寺
善通寺 ないはずの五重塔が描かれる

私がこの案内図を見ていて不思議に思うのは、善通寺の五重塔です。
この塔は、戦国末期に焼け落ちてなかったものが文化元年(1804)に再建されます。ところがそれもつかのまで、天保11(1840)年には落雷で焼失します。それが再建されるのは明治の後半になってからのことです。つまり、幕末から明治前半には、善通寺の五重塔は姿を消していたはずです。ところがどの金毘羅案内図を見ても、善通寺の五重塔は描かれているのです。これをどう考えればいいのでしょうか?

233善通寺 五岳
善通寺の東院と誕生院 五重塔

  善通寺にとって五重塔は必要不可欠のアイテムなので、実際になくても描くというのが「お約束」だったのかもしれません。どちらにしても五重塔は、絵図がいつ描かれたかを知るための基準にはならないことを押さえておきます。

丸亀街道 E22 ことひら5pg
E㉒「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」

これも原田屋の版で、先ほど見た明治ものと描かれているモニュメントはほとんど同じです。ところが、山上の宗教施設の註が全て異なっています。金堂や観音堂など神仏混淆時代の呼名が記されています。ということは、神仏分離前に発行されたものであることが分かります。山下のモニュメントを見てみると、次の2つが描かれています
・二本木の高灯龍(万延元年(1860)完成)
・仁王門下の一ノ坂口の鉄鳥居(安政六年(1859)建立)
以上から、E㉒は高灯籠建立後から明治維新までの間に出されたものと分かります。

丸亀街道 E27 ことひら5pg
      E㉗「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」

E㉗を先ほどのE㉒と比べて、何がなくなっているかを「引き算」してみます。
・二本木の高灯龍(万延元年(1860)完成)がありません。
・しかし、1851年に完成した並び燈籠はあります
・仁王門下の一ノ坂口の鉄鳥居(安政六年(1859)建立)もありません。
・新町の燈籠もありません。



年表を見ると分かるように、新町の燈籠は、安政元年(1854)の大地震で倒れてしまいます。そして、その翌年・安政2(1855)年に、位置を東側に移して石鳥居として建立されます。これが現在のもののようです。以上からこの案内図は、新町鳥居の建立より前で、並び灯籠完成後の間に出版されたことになります。
丸亀街道 E⑳ ことひら5pg
      E⑳「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」
最後にE⑳です
①天保4年(1833)に完成した新堀湛甫が描かれ、江戸町人の寄進灯龍も3基並ぶこと
②弘化2年(1845)に完成した金堂が描かれていること。
③万延元年(1860)に、二本木に建設される高燈籠が描かれていないこと。
④安政元年(1854)に倒壊した新町の鳥居が再建前の位置に描かれていること。
⑤二本木に嘉永4年(1851)に江戸火消組奉納の並び灯龍がなく、玉垣だけであること
以上からE⑳は、1845年~51年の間に出版されたと推測できます。しかし、金堂に関しては、完成の5年前には、銅葺き屋根は姿を見せていたので、さらに遡る可能性はあります。
高灯籠8
幕末の二本木 高灯籠建立後で二本差しの武士が見えるので幕末期

こうしてみると金堂が整備される時期にあわせて、石段や玉垣なども整備され景観が一変していきます。それが人々にアピールして、さらなる参拝客の増加を招くという結果を招きます。案内絵図を見ていても燈籠や道標などのモニュメントが急速に増えていくのも、この時期です。高灯籠の出現は、この時期に出現したモニュメントのシンボルであったと私は考えています。
丸亀街道 弥谷寺めぐり


 丸亀から善通寺や七ヶ所霊場を周遊する霊場巡りは、明治になっても変わりません。これが大きく変化していくのは、明治20年代に登場する多度津と琴平を結ぶ汽車です。汽車の登場によって、歩いての金毘羅参拝は下火になり、善通寺やそのまわりの七ヶ寺を巡礼する参拝者は激減していくようになります。金毘羅参拝と四国巡礼が次第に分離していくことになります。それ以前は、神仏混淆下で金毘羅も善通寺もおなじ金比羅詣でだったようです。
高灯籠23
明治の二本木周辺 並燈籠+鳥居+一里塚の巨木+高灯籠

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「町史ことひら5 絵図写真篇112P 丸亀からの案内図」
関連記事

    金毘羅船 4
金比羅船
延享元年三月(1744)に、「金毘羅船」の運行申請が大坂の船問屋たちから金毘羅大権現の金光院に提出されます。その結果、「日本最初の旅客船航路」とされる金毘羅船が大坂と四国・丸亀を結ぶようになります。以後、金毘羅信仰の高揚と共に、金毘羅船は年を追う毎に繁昌します。こうして、金毘羅船をめぐって、船舶・船宿・観光出版・お土産店など新たな観光産業が形成されていくようになります。 
金毘羅船 苫船
「大阪道頓堀丸亀出船の図」(金毘羅参詣続膝栗毛の挿入絵)

19世紀初め出版された弥次喜多コンビの金比羅詣では、大坂の船宿で金比羅船の往復チケットを購入しています。その際には、どこで買っても同一料金で、原則は往復チケットになっていました。行きも帰りも同じ船に乗ることが原則だったようです。また、大坂の船宿で、金比羅チケットを購入したときに、丸亀や金毘羅の提携宿も決まるシステムだったのは以前にお話ししました。
 こうして増える参拝客をめぐる攻防戦が船宿や指定宿・お土産店屋で繰り広げられるようになります。その際の広告媒介が航路案内図であり、丸亀から金毘羅への参拝案内図であったようです。

丸亀に上陸した参拝客は、ふたたび丸亀から帰路の船に乗ります。そのために手荷物を預かったり、案内図を無料で配布することで、購買客をふやす戦略を採るようになります。この結果。お土産店などが案内図作成を行うようになります。今回は丸亀で配布された金毘羅参拝案内図を見ていくことにします。テキストは「町史ことひら5 絵図写真篇112P 丸亀からの案内図」です。

丸亀街道 E① 町史ことひら5
E① 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」クリックで拡大します
E①はタイトルが「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」とあり、このシリーズの初版になるようです。
全体をみて気づくのは丸亀ー琴平の丸亀参拝道だけが描かれているのではないことです。弥谷寺や善通寺が金比羅参拝の「巡礼地」として描かれています。先ほども述べたように、この絵図は丸亀に上陸したときに宿やお土産店などで、参拝客に配布されたようです。参拝者に対しては、丸亀・琴平間の往復ではなく、「金毘羅大権現 + 四国巡礼の七ヶ所廻り」が奨められていたことがうかがえます。丸亀から琴平を目指し、善通寺を経て弥谷寺にお参りし、白方の海岸寺から多度津を経て丸亀に戻ってくると云う周遊ルートが売り出されていたようです。それは、金比羅舟の営業戦略でもあったようです。丸亀で下船したお客を、帰路も乗船させるために、金比羅船は往復チケットを販売します。そのため善通寺・弥谷寺をめぐる周遊ルートが売り出されてのではないかと私は考えています。
E①を、もうすこし具体的に見ておきましょう。
①板元名はない
②丸亀城下の見附屋の蘇鉄が注記されていて、港などは描かれていない。
③丸亀ー金毘羅間の丸亀街道沿いの飯野山などの情報は、何も記されていない。
④金毘羅の門前町から本社までの比率が長く詳細である
⑤桜の馬場が長く広く描かれている。その柵は、木製で石の玉垣ではない
⑥善通寺は五重塔と本堂だけで、周辺の門前町は描かれていない。
⑦弥谷寺は「いやだに」と山名だけ
⑧多度津の情報はなにもない
⑥の善通寺の五重塔が完成するのは、文化元年(1804)十月のことです。関東からやってきた廻国行者が善通寺境内に庵を造り、そこを根拠にして10年の勧進活動の後に完成します。建設計画から約80年余の月日を要しています。ここからは、この絵図が書かれたのは、それ以後であることが分かります。ちなみに丸亀福島湛甫が完成するのがその2年後になります。残念ながら絵図には、福島湛甫はエリア外になっています。丸亀街道 E② 町史ことひら5
E② 丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記
E②は、左下欄外に「文化十四(1817)丁丑年 十二月中旬調之 大野」と墨書があるので、それ以前のものであることが分かります。丸亀街道沿いについては、飯野山が描かれ郡家や公文あたりの情報量も増えてきました。それでも左半分は、金毘羅さんのエリアです。
これだと、鞘橋を渡ってすぐに仁王門があることになります。桜の馬場が長すぎます。
 丸亀街道 E③ 町史ことひら5
E③ 丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記
E③は、今までのもととは、俯瞰視点が大きく変わりました。そして家並みなどもしっかりと描き込まれて、情報量も格段に増えました。例えば、左下に「丸亀ヨリこんひらご二り(里) 一ノ坂ヨリ山上下一二十六丁 内町ヨリ善通寺へ七十五丁(以下略)」と各地への里程が書かれています。
 そして、E③には「板本谷一」と板元名が記されます。坂本谷一は、天保初年刊行の「丸亀繁盛記」にも「象頭山・四國巡路の書閲は板本谷一にとどまり」とあるので、当時は有名な絵図屋であったようです。
 描かれた時期は、丸亀に文化三年(1806)に完成した福島湛甫が見えます。また、金毘羅門前町の二本木に小さな鳥居が見えます。ここに江戸の鴻池儀兵衛などによって鳥居が立てられるのは天明七(1787)年のことです。
  また、丸亀のライバル港である多度津港が描かれています。しかし、多度津港新湛甫が完成するのは、天保9年(1838)のことです。まだ桜川河口に船は係留されているようです。
丸亀街道 E⑥ 町史ことひら5
     E⑥ 丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記
 E⑥は、街道が木道のように描かれ、分かりやすくなったことと、丸亀・金比羅・善通寺などの町屋の道筋が描き込まれるようになったのが特徴です。版元は右下に御免板元・吉田屋某と見えます。金毘羅山をみると、金堂が大きくなって描かれています。金堂が完成するのが弘化2年(1845)年ですので、それ以後のもののように思えます。しかし、金堂は瓦葺きのようにも思えます。瓦葺きで葺かれた後に、設計上の問題から銅板葺に改修されています。そうだとすると、1840年よりも前のことになります。以下気づくことをあげておくと次のようなことが分かります。
①多度津街道の終点である高藪に鳥居が描かれていること
②鞘橋を渡った後の内町。金山寺町などが表記されていること
③善通寺は赤門筋が門前町化し、南には街並みはみられないこと
丸亀街道 E⑨ 町史ことひら5大原東野
E⑨

 E⑨はそれまでと「金毘羅並びに七所霊場 名勝奮跡細見圖」とタイトルが変わりました。それまでの絵図と比べると、描写が写実的で細密でレベルがぐーっと上がった印象を受けます。絵師の大原東野は、奈良の小刀屋善助という興福寺南圓堂(西国三十一二所第九番札所)前の大きい旅龍の出身です。京都・大坂で画業活動を行った後に、文化元年(1804)に金毘羅へ移り住み、いろいろな作品を残しています。この人のすごいところは、それだけでなく金毘羅参詣道修理のために「象頭山行程修造之記」を配布して募金活動による街道整備も行っていることです。上方で活躍していた画家が「地方移住」して、残した絵図になるようです。金毘羅周辺の建物構成がきちんと描かれ、後の模範となる作品と評価されます。

この絵図の注目点は他にもあります。タイトルがそれまでの「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」から「金毘羅並びに七所霊場 名勝奮跡細見圖」に変更されています。それに伴い弥谷寺が消えました。善通寺の比重も低くなっているように見えます。うっすらぼやけてこの絵図では本堂も五重塔も見えないようです。実は、文化元年(1804)に再建された五重塔は、天保11年(1840)落雷を受けて焼失してしまいます。5年後の弘化2年(1845)に再建に着手しますが、完成するのは約60年後の明治35年(1902)のことになります。
 一方丸亀港に目を転じると、文化三年(1806)に完成した福島湛甫は見えますが、天保4年(1833)に竣工の丸亀新掘湛甫は、まだ姿を見せていないようです。
丸亀城 福島町3
福島湛甫 (新堀湛甫が姿は見せるのは1833年)

   この絵図には私たちの感覚からすると、金比羅詣案内図に弥谷寺がどうして描き込まれるのという疑問がありました。それが消えたのがこの絵図です。その代わりに登場させたのが「金毘羅並びに七所霊場」です。地元でお参りされた「四国霊場七ケ所詣 + 金毘羅大権現」ということになります。
丸亀街道 E⑩ 町史ことひら5
 E⑩「金毘羅參詣案内大略画」

E⑩「金毘羅參詣案内大略画」は、E⑨と板元が同じ大津屋です。
大津屋は、四国遍路の書物「四國遍路御詠歌道案内」「四國蜜験尋問記」の出版にも関係し、宝暦13年(1762)には「四國遍礼絵図」の板木を買い求めて、文化四年(1807)に、草子屋佐々井二郎右衛門の名で新しく刊行しています。
 丸亀の横開平八郎は、金毘羅参詣や四国遍路のことに強い関心を持っていたようで、大阪の二軒の草子屋と相合版でE⑨・E⑩図を出したことになります。彫工は、どちらも丸亀の成慶堂になっています。なお、この絵図のタイトルは、「金毘羅参詣案内大略圖」です。E⑨を更に進めて、「七ヶ所参り + 金毘羅大権現」から四国辺路巡礼にあたるルートがなくなりました。丸亀街道が、大阪・金毘羅の参詣道最後の道として、大切なものであるとの意識が強くなってきたものと研究者は指摘します。地図の中に描かれた情報は、E⑨と変わりないように見えます。
丸亀街道 E⑪ 町史ことひら5
E⑪「金毘羅參詣案内大略圖」

E⑪「金毘羅參詣案内大略圖」は標題も板元もE⑩と同じです。
ただ違うのは、丸亀港に新堀湛甫や太助灯籠が描かれています。新堀湛甫の完成は天保4年(1833)のことになるので、E⑩の改訂版と云えそうです。もうひとつ今までと違うところは、左下の枠内の記事のようです。これまでは、ここには丸亀から各地への里程が記されていました。それが金毘羅関係の書物九部の広告が出されています。これは初めての試みです。広告の書物の中には「金毘羅參詣海陸記」も入っています。広告の後には、次のように記されています。

地本弘所書林/丸亀加屋町碧松房/金物屋平八郎(横開平八郎)

  ここからは横開平八郎は房号を碧松房といったことが分かります。金毘羅案内書の名著「金毘羅山名勝図絵」は、大阪の石津亮澄の著作で、大原東野と横開碧松が校者を担当しています。東野は画家なので挿絵担当で、碧松は地理の案内をしたようです。この二人によって、金毘羅参拝絵図にも新風がもたらされたようです。ちなみに別の絵図には、次のように記されています。
「讃岐名産絵図小売おろし所、名物土産舗 丸かめ(丸亀)かや町 金物崖平八郎」

ここからは「地本弘所書林」は「名物土産舗」も兼業していたことが分かります。金物崖平八郎(碧松房)は、観光業の多角経営者であったようです。
丸亀街道 E⑬ 町史ことひら5 
E⑫「金毘羅土産所之圖」       120P
E⑫は仁尾・覚城院の南月堂三の「象頭山金毘羅大権現迢験記」の奥付にある図のようです。もともと、この書は明和六年(1769)、京都の梅村市兵衛・菊屋安兵衛・梅村宗五郎の相合版で出版されました。それを文政二年(1819)12月、丸亀の横闘平八郎が板木を買い取り、自分の名で出版します。その時に、この図を入れ、また丸亀・金毘羅の名物を四ページにもわたって広告します。
当時の金毘羅名物が、飴・湯婆・松茸・索麺・生姜などであったことが分かります。ここでは横開平八郎は「讃岐書堂」と名乗っています。
DSC06659
右側が福島湛甫 左手前が新堀湛甫


以上をまとめておきます。

①18世紀半ばに金比羅船が就航すると、クルージング気分で参拝できる金比羅詣での人気は急速に高まった。
②18世紀後半から19世紀かけて金比羅船関連の船宿・土産物・旅籠・観光出版業なども急成長し、同時に参拝客をめぐる競争も激化した。
③丸亀でも金比羅船にやって来る参拝客に、お土産店などが参拝案内図を無料配布するようになった。
④そのため案内図は、お土産店などが板元になって作成されたものが多くなる。
⑤その案内図の初期のものは、丸亀と金比羅のピストン往復詣ででなく善通寺周辺の四国霊場七ケ所巡りを奨める内容であった。そのため善通寺や弥谷寺が大きく扱われている。
⑥一方、丸亀港のライバルである多度津港の扱いは非常に小さいものとなっている。
⑦19世紀に半ば近くになってくると、弥谷寺や善通寺の比重は次第に低くなり、かわって対岸の備中児島の喩伽山を取り上げる絵図や、阿波の箸蔵寺を取り上げる案内図も出てくる。これも営業戦略のひとつであったようだ。
金毘羅 町史ことひら

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 
金毘羅周辺の建造物出現年表
天明2年1782 高藪の鳥居建立。
天明8年1788 二本木銅鳥居建立。
寛政元年1789 絵馬堂上棟。
寛政6年1794 桜の馬場に鳥居建立。多度津鶴橋に鳥居建立。
寛政10年1798 備中梶谷、横瀬に燈籠寄進。
寛政11年1799 丸亀中府に石燈籠建立。
文化元年 1804  善通寺の五重塔完成
文化3年 1806 薬師堂を廃して金堂建築計画。福島湛甫竣工。
文化5年 1808 中府に「百四十丁」石燈籠建立。
文化10年1813 金堂起工式。
文政元年 1818 二本木銅鳥居修覆。
文政5年 1822 十返舎一九撰、「讃岐象頭山金毘羅詣」
文政10年1827 大原東野筆、「金毘羅山名勝図会」。
天保2年 1831 金堂初重棟上げ
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工
天保5年 1834 神事場馬場完成、多度津港新湛甫起工。
天保6年 1835 芝居定小屋(金丸座)上棟。
天保7年 1836 仁王門再建発願。
天保8年 1837 金堂二重目上棟。
天保9年 1838 多度津港新湛甫完成。多度津鶴橋鳥居元に石燈籠建立。
天保11年1840 金堂銅屋根葺き終了。多度津須賀に石鳥居建立。
                        善通寺五重塔落雷を受けて焼失。
天保14年1843 仁王門修覆上棟。金堂厨子上棟。
弘化2年 1845 金堂、全て成就。観音堂開帳。
           善通寺五重塔に再建に着手。
弘化4年 1847 暁鐘成、「金毘羅参詣名所図会」。
嘉永元年 1848 阿波街道口に鳥居建立。
嘉永2年 1849 高藪町入口、地蔵堂建立。
嘉永5年 1852 愛宕町天満宮再建上棟。
安政元年 1854 満濃池、堤切れ。
    道作工人智典、丸亀口から銅鳥居までの道筋修理終了。
  高燈籠建立願い。大地震、新町の鳥居崩壊、高藪口の鳥居破損。
安政2年 1855 新町に石鳥居建立。
安政4年 1857 多度津永井に石鳥居建立。
安政5年 1858 高燈籠台石工事上棟。
安政6年 1859 一の坂口鉄鳥居建立。
万延元年 1860 高燈籠竣成。大水、大風あり札之前裏山崩れる。
文久元年 1861 内町本陣上棟。
文久2年 1862 阿州講中、大門から鳥居まで敷石寄付。
慶應3年 1867 賢木門前に真鍮鳥居建立。
武州佐藤佐吉、本地堂前へ唐銅鳥居奉納。
  旗岡に石鳥居建立。
参考文献
    「町史ことひら5 絵図写真篇112P 丸亀からの案内図」
関連記事



 藤沢周平の「回天の門」の主人公・清河八郎は、幕末に尊攘派の志士として活躍した人物です。彼は26歳の時(1856年)に、母親を連れて金毘羅参りにやって来ています。その旅日記『西遊草』の中に、丸亀からの道中でみた飯野山について、次のように記しています。
飯野山と坂出 御魚堂
飯野山や周辺の里山にも大きな木はない
 付近の子どもが次のように教えてくれた。
 「いつもはあの山には登れないんだ、7月17日だけに登ることが許されているんだ、その時には群がるように人が集まってくるんだ」と。このあたりには高い山はなく、摺鉢をふせたような山がぽつりぽつりと見える。そして、山には木々が生えていない。その山々が時々、雲に隠れてまた現れ、様々な姿を見せてくれる。
 ここからは次の2つのことが分かります。
①飯野山は、年に一度しか登ることが許されていなかったこと。霊山として「禁足」された聖なる山だったこと。
②周囲の里山には「木が生えていない=裸山」だったこと。
4344102-34飯野山と飯神社

先に進んで金毘羅での記述を見てみましょう。

 金毘羅の町の賑わいは凄まじい。屋根の着いた橋(鞘橋)を渡ると、そこからは両端に旅籠が軒を並べる内町だ。見事な造りの家ばかりである。お腹も空いたので備前屋という店で昼御飯をとり、そこに荷物を預けて参拝する。金毘羅山は、その名の通り象の頭ようで、草木もない。しかし、神社があるところは山形の仙人林と同じように木々が茂り、大きな森となっている。

 ここには、象頭山も草木がない裸山だったと記します。神社がある所だけが森となっているというのです。これは本当なのでしょうか。

思い当たるのが安藤広重の浮世絵「讃岐象頭山遠望」です。

みんなの知識 ちょっと便利帳】歌川広重・六十余州名所図会/大日本六十余州名勝図会《讃岐 象頭山遠望》

清川八郎が金毘羅にやって来た同じ年に描かれたものです。まんのう町羽間の「残念坂(見返坂)」を上り下りする参拝者の向こうに象が眠るように象頭山が描かれています。山は左側と右側では大きく色合いが違います。なぜでしょう?

象頭山遠景 浮世絵 A

 向かって左側は、金毘羅さんの神域です。右側は、古代から大麻山と呼ばれた山域です。現在は、この間には防火帯が設けられ行政的には左が琴平町、右が善通寺市になります。
 ここからは次のようなことが推論できます。
左側は金毘羅さんの神域で「不入森」として、木々が切られることはなかった。右の善通寺側は、伐採が行われ山が裸になっている。 その背景には、里山の青草や木の若芽を刈り取り、田植前の水田に敷きこんで腐食させ根肥とする刈敷(かれしき)が盛んに行われたためです。そのため里山の木々が春前には大量に切られました。そして、山裾は畠になり、だんだん高くまで開墾されていきます。耕地開発が最も進んだ頃には、まんのう町の里山も丸裸のはげ山だったのかもしれません。それが時を超えて、今は自然に帰っていると見ることもできます。 
本堂より讃岐富士 絵はがき

 関連記事      

 

丸金

金刀比羅宮のシンボルとして使われているのが金の字のまわりを、丸で囲った「丸金」紋です。この「九金紋」が、いつ頃から、どういう事情で使われ出したのかを見ていくことにします。テキストは「羽床正明 丸金紋の由来 ―金昆羅大権現の紋について― ことひら 平成11年」です。
丸亀うちわ(まるがめうちわ)の特徴 や歴史- KOGEI JAPAN(コウゲイジャパン)

「丸金紋」を全国に広めたのが丸亀団扇だと云われます。
赤い和紙を張った団扇に、黒字で「丸金」とかかれたものです。これが金毘羅参詣の土産として、九亀藩の下級武士の内職で作られ始めたとされます。その経緯は、天明年間(1781~88)の頃、豊前の中津藩と丸亀藩の江戸屋敷が隣合せであったことが縁になりました。隣同士と云うことで、江戸の留守居役瀬山四郎兵衛重嘉が、中津藩の家中より団扇づくりを習います。それを江戸屋敷の家中の副業として奨励したのが丸亀団扇の起こりと伝えられます。
 幕末に九亀藩の作成した『西讃府志』によると、安政年間(1854~59)には、年産80万本に達したと記されています。その頃の金昆羅信仰は、文化・文政(1804~29)の頃には全国的な拡大を終えて、天保(1830~)の頃には「丸金か京六か」という諺を生み出しています。京六とは京都六条にあった東本願寺のことで、金刀比羅宮とともに信仰の地として大いに栄えました。

金刀比羅宮で「丸金」紋が使われるようになったのは、いつ頃からなのでしょうか。

丸金鬼瓦2

松尾寺の金堂(薬師堂=現在の旭社)には、唐破風の上の鬼瓦に、「金」の古字の「丸金紋」が載っています。

丸金 旭社瓦

この鬼瓦とセットで使用されていた軒平瓦も、金刀比羅宮の学芸参考館に陳列されています。「金」の略字の両脇に、唐草文を均整に配した優美なもので、黒い釉薬が鳥羽玉色の光沢をはなっています。説明には、瓦の重量が支えきれずに鋼板葺きに、葺きかえられた時に下ろされたと記されています。旭社(松尾寺金堂=薬師堂)の屋根が重すぎて、銅板葺きで完成したのは天保十一年(1840)の秋です。

金刀比羅宮大注連縄会 活動状況 - 高松市浅野校区コミュニティの公式ホームページです。

金刀比羅宮に奉納された絵馬に「丸金紋」がみられるようになるのは、19世紀後半からで、次のようなものに見えるようになります。
宝物館の絵馬図の中に「丸金紋」を縁の飾り金具として使った天狗の絵馬
②万延元年(1860)奉納の「彫市作文身侠客図」絵馬
③安政四年(1857)宥盛の大僧正追贈を祝って奉納された品の中
④明治11年(1878)再建の本宮の「丸金紋」
⑤神輿の紋も、江戸末期は巴紋だったのが、明治以後に丸金紋に変更。
 丸金文は、金毘羅大権現の創建当初から用いられていたと思っていましたが、どうもそうではないようです。残された史料から分かることは、19世紀になって使われはじめ、その起源は金毘羅参詣の土産の団扇にあって、「丸」は丸亀の丸であるという説が説得力を持つように思えてきます。

金刀比羅宮 丸金紋の起源
金刀比羅宮の丸金紋の起源
 九亀団扇が「丸金紋」を全国に広めたことは確かなようで、赤い紙に黒く「丸金紋」がかかれた団扇は、江戸時代の図案としては斬新なもので人気があったようです。また当時の旅は徒歩でしたから、軽い団扇は土産としても適していました。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗たち
 近世前半の金刀比羅官は「海の神様」よりも、修験者によって支えられた天狗信仰で栄えていました。
 松尾寺住職の宥盛は修験者で、亡くなった後は天狗になって象頭山金剛坊として祀られていました。その眷属の黒眷属金昆羅坊も全国の修験者の信仰対象でした。また、讃岐に流された崇徳上皇は、怨霊化して天狗になったたと信じられ、京都の安井金刀比羅宮などでは「崇徳上皇=天狗=金昆羅神」とされるようになります。数多く作られた金昆羅案内図の中には、天狗面や天狗の持物の羽団扇が描かれたものがあります。大天狗は翼をもたないかわりに、手にした羽団扇を使って空を飛ぶとされたことは以前にお話ししました。

天狗の団扇
天狗信仰と団扇(うちわ)

金刀比羅官では「丸金紋」以前には、天狗の持物の羽団扇が紋として使われたようです。
天狗の紋に羽団扇を使ったのは、富士浅問神社大宮司家の富士氏に始まるようです。富士氏の紋が棕櫚の葉であり、富士には大天狗の富士太郎、別名陀羅尼坊がすむとされました。そのため社紋であった「棕櫚葉」が流用されて、よそでも天狗の紋に棕櫚葉が使われるようになります。そして、次第に棕櫚葉団扇と鷹の羽団扇が混用され、天狗の紋としては棕櫚葉団扇の方が多くなります。しかし、狂言などではいまでも、鷹の羽の羽団扇が使われているようです。

天狗の羽団扇
狂言に用いられる天狗の持つ羽団扇

金刀比羅官で棕櫚葉団扇が、使用された背景を整理しておきます
①「金毘羅神=天狗」である。
②大天狗は羽団扇を使って空を飛ぶ
①②からもともとは、金刀比羅宮でも棕櫚葉(しゅろのは)団扇の紋が使われていたようです。ところが金昆羅参詣みやげの「丸金紋」の方が全国的に有名になります。そうすると金刀比羅宮でも、これを金比羅の紋として使うようになります。
棕櫚(すろ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
棕櫚葉団扇

 一方、天狗信仰では、天狗の紋と棕櫚葉団扇が広く普及しています。そこで天狗信仰のメッカでもあった金毘羅大権現では、棕櫚葉団扇もそのまま使用します。棕櫚葉団扇の紋は、金昆羅案内図や金刀比羅宮に奉納された絵馬などに使われています。棕櫚葉団扇は金刀比羅官の紋というよりは、 一般的な天狗の紋として使われたことを押さえておきます。
棕櫚葉団扇の紋だけは、金刀比羅官だと特定することはできません。
 これに対して「丸金紋」の方は、金刀比羅官だと特定できます。こちらの方がシンボルマークとしては機能的です。そのために19世紀中頃以後は、「丸金紋」が盛んに使われるようになります。
 丸金紋3様
丸金紋・巴紋・棕櫚葉団扇
棕櫚葉団扇と同じく、普遍性のある紋として使われたのが、巴紋であった。
江戸末期の金刀比羅宮の神興の紋は巴紋でした。旭社(松尾寺の金堂)の屋根にも、巴紋が使われています。巴紋は神社仏閣などで普遍的に使われた紋で、金刀比羅宮でもその伝統にのっとって、巴紋を使用したのでしょう。
巴 - Wikipedia
巴(ともえ)紋

巴紋の起源は、弓を引く時に使う鞆(とも)であったとされています。

丸金紋と巴紋 鞆とは
弓を引く時に使う鞆(とも)
昔の朝廷では、古代宮中行事の追難儀礼を行っていました。方相氏という四つ目の大鬼の姿をした者が、鉾と楯を持って現れて、鉾で楯を打ったのを合図にして、一斉に桑の弓、蓬の矢、桃の枝などで塩鬼を追い払う所作をします。桑の弓や蓬の矢は、古代中国で男子出産を祝って使われた呪具で、これで天地四方を射ることにより、その子が将来に雄飛できるよう祈ったのです。
 日本でも弓矢を使った呪術は「源氏物語」夕顔の巻に出てきます。
源氏の君は、家来に怨霊を退散させるために弓の弦を鳴らさせているし、承久本『北野天神縁起』によると出産の際に物怪退散を願って弓の弦を鳴らす呪禁師が描かれています。
ここからは、弓は悪魔を追い払う呪具で、弓を引く時に使う鞆にも悪魔を追い払う力が宿ると考えられていたことが分かります。こうして、神社仏閣の屋根では巴紋の瓦が使われるようになります。

讃岐地方でも鎌倉時代になると、神社仏閣の屋根で巴紋の瓦が葺かれるようになります。

金毘羅の丸金紋
金刀比羅宮の3つの紋の由来
棕櫚葉団扇は天狗の、巳紋は神社仏閣の、それぞれ普遍的な紋でした。そのため別当松尾寺や金刀比羅宮でも、その伝統に従ってこの二つの紋を用いました。
 これに対して、金昆羅参詣みやげの九亀団扇から生まれた「丸金紋」は、金刀比羅宮を特定するオリジナルな紋です。金刀比羅宮で「丸金」が使われ出すのは、19世紀中頃の天保年間あたりからです。それより先行する頃に、九亀団扇の「丸金紋」は生まれていたことになります。

  まとめておくと
①金毘羅大権現は天狗信仰が中核だったために、シンボルマークとして天狗団扇を使っていた
②別当寺の松尾寺は、寺社の伝統として巴紋を使用した
③19世紀になって、金比羅土産として丸亀産の丸金団扇によって丸金紋は全国的な知名度を得る
④以後は、金刀比羅宮独自マークとして、丸金紋がトレードマークとなり、天狗団扇や巴紋はあまり使われなくなった。
丸金紋 虎の門金刀比羅宮
東京虎の門の金刀比羅宮の納経帳
しかし、虎の門の金刀比羅宮の納経帳には、いまでも天狗団扇が丸金紋と一緒に入れられていました。これは金毘羅信仰が天狗信仰であった痕跡かもしれません。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
  「羽床正明 丸金紋の由来 金昆羅大権現の紋について  ことひら 平成11年」



7 安井金毘羅神社1jpg
安井金毘羅宮

京都市東山区の建仁寺の近くにある安井金毘羅宮は、今は縁切り寺として女性の人気を集めているようです。
7 安井金毘羅神社13jpg

しかし、30年ほど前までは、縁結びと商売繁昌祈願の「藻刈舟(儲かり舟)」の絵馬に人気がありました。流行神(商品)を生み出し続けることが、寺社繁栄の秘訣であるのは、昔も今も変わりないようです。
 安井金毘羅宮はかつては「商売繁昌 + 禁酒 + 縁結び」の神とされていました。祇園という色街にある神社ですから「商売繁昌と禁酒と良縁」を売り物とすることは土地柄に合ったうまい営業スタイルです。それでは現在の「縁切り神社」は、どんな由来なのでしょうか。そこで登場するのが崇徳上皇です。崇徳上皇は、全ての縁を絶って京都帰還を願ったということから、悪縁を絶つ神社と結びつけられているようです。これは断酒の場合と同じです。酒を断つという願いから悪縁を絶へと少しスライドしただけかも知れません。。
 今回は、安井金毘羅と崇徳上皇と讃岐金毘羅大権現の関係を見ていきたいとおもいます。テキストは 「羽床正明  崇徳上皇御廟と安井金毘羅宮  ことひら53 H10年」です。
7 安井金毘羅神社jpg

 安井金毘羅宮の近くには「都をどり」の祇園歌舞練場があります。その片隅に崇徳上皇御廟があります。これは明治元年に坂出の白峰から移されたものとは別物です。それ以前からこの御廟はありました。
安井金毘羅宮と崇徳上皇のつながりを見ておきます。
 崇徳上皇は保元の乱という政争に巻き込まれ、讃岐に流され不遇の内に亡くなりますが、その怨念を晴らすために生きながら天狗になったされるようになります。この天狗信仰と安井金毘羅宮は関係があるようです。
 保元の乱に敗れ、崇徳上皇は讃岐に流されます。上皇は6年間の流人生活の後、長寛二年(1164)8月、46歳で崩御し、その亡骸は白峰寺のほとりで荼毘に付され、そこに陵が営まれて白峰御陵と呼ばれるようになります。これについては以前にお話ししましたので省略します。
『保元物語』には、次のように記されています。
 讃岐に流された崇徳上皇は「望郷の鬼」となって、髪も整えず、爪も切らず、柿色の衣と頭巾に身をつつみ、指から血を流して五部大乗経を書写した。その納経が朝廷から拒否されたことを知ると、経を机の上に積みおいて、舌の先を食い破ってその血で、「吾、この五部の大乗経を三悪道に投籠て、この大善根の力を以て、日本国を滅す大魔縁とならむ。天衆地類必ず合力給へ」という誓状を書いて、海底に投げ入れた
「此君怨念に依りて、生きながら天狗の姿にならせ給ひけるが」
ここには崇徳上皇が死後、天狗になったとする説が記されています。
7崇徳上皇天狗

これを受けて作られたのが謡曲「松山天狗」です。
謡曲「松山天狗」の舞台は,崇徳上皇が亡くなった讃岐の綾の松山(現坂出市),白峯です。崇徳上皇と親しかった西行法師が讃岐松山のご廟所を訪ねて来るところから物語は始まります。

7 崇徳上皇松山天狗
松山は草深い里でした。西行は,山風に誘われながらも御陵への道を踏み分けて行きますが,道はけわしく,生い繁げる荊は旅人の足を拒みます。そこへ一人の老翁(実は崇徳上皇の霊)が現れ「貴僧は何方より来られたか」と訊ねるのです。
西行は「拙僧は都の嵯峨の奥に庵をむすぶ西行と申す者,新院がこの讃岐に流され,程なく亡くなられたと承り,おん跡を弔い申さんと思い,これまで参上した次第。 何とぞ,松山のご廟所をお教え願いたい」と案内を乞います。
 やがて二人は「踏みも見えぬ山道の岩根を伝い,苔の下道」に足をとられながら,ようやくご陵前にたどりつきます。しかし、院崩御後わずか数年にもかかわらず,陵墓はひどく荒廃し、ご陵前には詣でる人もなければ,散華焼香の跡さえ見えません。西行は涙ながらに、院に捧げた次のような鎮魂歌を送ります。

よしや君むかしの玉の床とても叡慮をなぐさめる相模坊かからん後は何にかはせん

 老翁は「院ご存命中は都のことを思い出されてはお恨みのことが多く,伺候する者もなく,ただ白峯の相模坊に従う天狗どもがお仕えするほかは参内する者もいない」と言い,いつしか木影にその姿を消してゆきます。
 ややあって何処からともなく「いかに西行 これまで遙々下る心ざしこそ返す返すも嬉しけれ 又只今の詠歌の言葉 肝に銘じて面白さに いでいで姿を現わさん・・・・・」
との院の声。御廟しきりに鳴動して院が現れます。
院は西行との再会を喜び,「花の顔ばせたおやかに」衣の袂をひるがえし夜遊の舞楽を舞う。
こうして楽しく遊びのひと時を過ごされるが,ふと物憂い昔のことどもを思い出してか,次第に逆鱗の姿へと変わってゆきます。その姿は,あたりを払って恐ろしいまでの容相である。
  やがて吹きつのる山風に誘われるように雷鳴がとどろき,あちこちの雲間・峰間から天狗が羽を並べて翔け降りてきます。
7 崇徳上皇相模坊大権現
模坊大権現(坂出市大屋冨町)の相模坊(さがんぼう)天狗像

「そもそもこの白峯に住んで年を経る相模坊とはわが事なり さても新院は思わずもこの松山に崩御せらる 常々参内申しつつ御心を慰め申さんと 小天狗を引き連れてこの松山に随ひ奉り,逆臣の輩を悉くとりひしぎ蹴殺し仇敵を討ち平げ叡慮(天子のお気持ち)を慰め奉らん」と,ひたすら院をお慰め申しあげるのである。
 院はこの相模坊の忠節の言葉にいたく喜ばれ,ご機嫌もうるわしく次第にそのお姿を消してゆく。
そして,天狗も頭を地につけて院を拝し,やがて小天狗を引き連れて,白峯の峰々へと姿を消してゆく。
以上が謡曲「松山天狗」のあらましです。
実際に西行は白峰を訪れ、崇徳上皇の霊をなぐさめ、その後は高野の聖らしく善通寺の我拝師山に庵を構えて、3年近くも修行をおこなっています。時は、鎌倉初期になります。ここからは崇徳上皇の下に相模坊という天狗を頭に数多くの天狗達がいたことになっています。天狗=修験者(山伏)です。確かに中世の白峰には数多くの坊が立ち並び修験者の聖地であったことが史料からもうかがえます。
謡曲「松山天狗」の果たした役割は大きく、以後は崇徳上皇=天狗説 相模坊=崇徳上皇に仕える天狗という説が中世には広がりました。

安井金毘羅社と崇徳上皇御廟の関係を『讃岐国名勝図会』は、次のように記します。
京都安井崇徳天皇の御社へ参詣群集し、皆々金毘羅神と称へ祭りしによりて、天皇の御社を他の地へ移し、旧社へ更へて金毘羅神を勧請なしけるとなん。

意訳変換しておくと
京都安井崇徳天皇御社へ参詣する人たちが崇徳上皇陵を金毘羅神と呼ぶようになったので、天皇の御社を他の場所へ移して、そのの跡に安井金毘羅神社を勧請建立したという

ここからは安井金毘羅神社の現在地には、かつては崇徳上皇陵があったことが分かります。
秋里籠島の『都名所図絵』には、安井金毘羅社の祭神について次のように記されています。
奥の社は崇徳天皇、北の方金毘羅権現、南の方源三位頼政、世人おしなべて安井の金毘羅と称し、都下の詣人常に絶る事なし、崇徳帝金毘羅同一体にして、和光の塵を同じうし、擁護の明眸をたれ給ひ云云。

奥社に崇徳天皇、北に金毘羅権現、南に源三位頼政が祀られているが、京都の人たちはこれを併せて「安井の金毘羅」と呼ぶ。参拝する人々の絶えることはなく、崇徳帝と金毘羅神は同一体である。

と記され、金毘羅権現が北の方の神として新たにつくられたので、崇徳天皇の社は移転して奥の社と呼ばれるようになったことが二の書からは分かります。どちらにしても「崇徳帝=金毘羅」と人たちは思っていたようです。
「崇徳帝=金毘羅」説を決定的にしたのが、滝沢馬琴の「金毘羅大権現利生略記』です。
世俗相伝へて金毘羅は崇徳院の神霊を祭り奉るといふもそのよしなきにあらず。

と、馬琴は崇徳帝と金毘羅権現を同一とする考えに賛意を表しています。
7 崇徳上皇讃岐院眷属をして為朝を救う図
歌川国芳の浮世絵に「讃岐院眷属をして為朝を救う図」(1850年)があります。最初見たときには「神櫛王の悪魚退治」と思ってしまいました。しかし、これは滝沢馬琴の『椿説弓張月(ちんせつ ゆみはりづき)』(1806~10年刊行)の一場面を3枚続きの錦絵にしたものです。この絵の中には次の3つのシーンが同時に描き込まれています。
①為朝の妻、白縫姫(しらぬいひめ)が入水する場面(右下)
②船上の為朝が切腹するところを讃岐院の霊に遣わされた烏天狗たちが救う場面(左下)、
③為朝の嫡男昇天丸(すてまる)が巨大な鰐鮫(わにざめ)に救われる場面
ここに登場する巨大な|鰐鮫は「悪魚」ではなく主人公の息子を救う救世主として描かれています。以前にお話しした「金毘羅神=神魚」説を裏付ける絵柄です。

神櫛王の悪魚退治伝説

  また、ここでも崇徳上皇は天狗達の親分として登場します。
 『椿説弓張月』が刊行された頃は、「崇徳上皇=金毘羅大権現}であって、崇徳上皇は天狗の親分で、多くの天狗を従えているという俗信が人々に信じられるようになっていたことが、この絵の背景にはあることを押さえておきます。その上で京都では、崇徳帝御社があった所に、安井金昆羅宮がつくられたということになります。

研究者がもうひとつ、この絵の中で指摘するのは、この絵が「海難と救助」というテーマをもっていることです。
金毘羅宮の絵馬の中には、荒れ狂う海に天狗が出現して海難から救う様子を描いたものがいくつもあります。もともとの金毘羅は天狗信仰で海とは関係のなかったことは、近年の研究が明らかにしてきたことです
船絵馬 海難活動中の天狗達
海に落ちた子どもを救う天狗達(金刀比羅宮絵馬)

「海の神様 こんぴら」というイメージが定着していくのは19世紀になってからのことのようです。その中でこの絵は、金比羅と海の関わりを描いています。絵馬として奉納される海難救助図は、このあたりに起源がありそうだと研究者は考えているようです。

  今度は讃岐の金毘羅さんと天狗との関係を見ていきましょう
7 和漢三才図絵

江戸時代中期(1715年)に浪華の吉林堂から出された百科辞書の『和漢三才図絵』(巻七九)には、
相伝ふ、当山(金毘羅大権現)の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

と記されます。
また、江戸中期の国学者、天野信景著の『塩尻』には、
  讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや。

ここからは江戸中期には金毘羅宮の祭神は、僧(山伏)の姿をしていて団扇を持った天狗で、十二神将のクビラ神とはまったくちがう姿であったことが報告されています。『塩尻』に出てくる修験者の姿の木像とは、実は初代金光院主だった宥盛の姿です。観音堂の裏には威徳殿という建物があって、その中には、次のような名の入った木像がありました。
天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月
金毘羅大権現像 松尾寺
松尾寺に伝わる金毘羅大権現 蔵王権現のようにも見える

ここからは宥盛が金毘羅信仰の中に天狗信仰をとり入れ定着させた人物であったことが分かります。宥盛は修験道と天狗信仰に凝り、死後は天狗になって金毘羅宮を守ると遺言して亡くなり、観音堂のそばにまつられます。宥盛は死後、象頭山金剛坊という天狗になったとされ、金剛坊は金毘羅信仰の中心として信仰を集めるようになります。
これは白峰の崇徳上皇と相模坊の関係と似ています。
 戦国末期の金比羅の指導者となった土佐出身の宥厳やその弟弟子にあたる宥盛によって、金比羅は修験・天狗道の拠点となっていきます。宥盛は、初代金光院院主とされ、現在では奥の院に神として祀られています。
江戸前期の『天狗経』には、全国の著名な天狗がリストアップされています。
7 崇徳上皇天狗

これらが天狗信仰の拠点であったようです。その中に金毘羅宮の天狗として、象頭山金剛坊・黒眷属金毘羅坊の名前が挙げています。崇徳上皇に仕えたという相模坊もランクインされています。ここからも象頭山や白峰が天狗=修験者の拠点であったことがうかがえます。宥盛によって基礎作られた天狗拠点は、その後も発展成長していたようです。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現のもとに集まる天狗(山伏)達 別当寺金光院発行

知切光歳著『天狗の研究』は、象頭山のふたつの天狗は次のような分業体制にあったと指摘します。
①黒眷属金毘羅坊は全国各地の金毘羅信者の安全と旅人の道中安全を司る天狗
②象頭山金剛坊は、讃岐の本宮を守護する天狗
そのため②は、金比羅本山で、①は、それ以外の地方にある金毘羅社では、黒眷属金毘羅坊を祭神として祀ったとします。姿は、象頭山金剛坊は山伏姿の天狗で、黒眷属金毘羅坊は金剛坊の仲間の鳥天狗として描かれます。また、黒眷属金毘羅坊は金剛坊の家来とも考えられました。他に、象頭山趣海坊という天狗がいたようです。
この天狗は先ほどの「讃岐院眷属をして為朝を救う図」にも出てきた崇徳上皇の家来です。

文化五年(1808)の冬、幕臣の稲田喜蔵が神城騰雲から聞き取った『壺産圃雑記』という随筆集があります。その中には、騰雲は趣海坊という金毘羅の眷属の天狗の導きで天狗界を見てきたとか、金毘羅権現は讃岐に流された崇徳上皇が人間界の王になれぬので天狗界の王になろうと天に祈った結果、ついに天狗となったものだと語ったと記されています。。

金比羅には象頭山から南に伸びる尾根上に愛宕山があります。
C-23-1  象頭山12景
右が象頭山、左が愛宕山
この山がかつては信仰対象であったことは、今では忘れ去られています。しかし、この山は金毘羅さんの記録の中には何度も登場し、何らかの役割を果たしていた山であることがうかがえます。この山の頂上には愛宕山太郎坊という天狗がまつられていて、金毘羅宮の守護神とされてきたようです。愛宕系の天狗とは何者なのでしょうか?

7 崇徳上皇天狗の研究
知切光歳著『天狗の研究』は、愛宕天狗について次のように記されています。
天狗の中で、愛宕、飯綱系の天狗は、ダキニ天を祀り、白狐に跨っており、天狗を祭り通力を得んとする修験、行者の徒が、ダキニの法を修し、これを愛宕の法、または飯綱の法と呼ぶ、(以下略)

7 金刀比羅宮 愛宕天狗
愛宕天狗
とあって、狐に乗りダキニ天を祀る天狗が、愛宕・飲綱糸の天狗だとします。全国各地の金毘羅社の中には天狗を祭神ととしているところが多く、両翼をもち狐に跨る烏天狗を祀っていることが数多く報告されています。金毘羅宮は愛宕山を通じて愛宕・飯綱系の天狗と結ばれていたようです。
7 金刀比羅宮 愛宕天狗dakini
ダキニ天

以上から「崇徳上皇=天狗=金毘羅神」という考えが江戸時代には広く広がっていたことがうかがえます。ところが明治以後は、このような説は姿を消して行きます。その背景には、明治政府の進める天皇制国家建設があったようです。皇国史観に見られるように歴代天皇は神聖化されていきます。その中で天皇が天狗になったなどというのは不敬罪ものです。こうして「崇徳上皇=天狗」は葬られていくことになります。しかし、「崇徳上皇=金毘羅」説は別の形で残ります
金毘羅信仰と天狗信仰
            天狗信仰と金毘羅大権現
以上をまとめると、こんなストーリーが考えられます
①江戸後期になって安井金毘羅宮などで崇徳上皇=天狗=金昆羅権現」説が広まった。
②金毘羅本社でも、この思想が受け入れられるようになる。
③明治の神仏分離で金毘羅大権現を追放して、何を祭神に迎え入れるかを考えたときに、世俗で広がっていた「金毘羅=崇徳上皇」説が採用された。
④こうして祭神の一人に崇徳上皇が迎え入れられ、明治21年には白峰神社が建立された
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

清少納言 鼓楼と清塚

金毘羅さんの大門の手前に時を告げた鼓楼が建っています。その下に大きな石碑があります。玉垣の向こうにあるのでほとんどの参拝客は、目の前の大門を見上げ、この石碑に気づく人はないようです。  立札には次のように書かれています。
清少納言 鼓楼と清塚立札

ここには清少納言が金毘羅さんで亡くなったこと、その塚が出てきたことを記念して建てられた石碑であることが記されます。清少納言は『枕草子』の作者であり、『源氏物語』を著した紫式部のライバルとして平安朝を代表する才女で、和歌も残しています。どうして阿波と讃岐で清少納言の貴種流離譚が生まれ、彼女の墓が金毘羅に作られたのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは阿波・讃岐の清少納言伝説 羽床正明  ことひら52 H9年です。

 晩年の清少納言は地方をさまよって、亡くなったと云われるようになります。
そのため西日本の各地では彼女のお墓とそれにまつわる「清少納言伝説」が作られるようになります。才女が阿波・讃岐をさすらったというのは、貴種流離譚の一つで、清少納言の他に、小野小町や和泉式部の例があります。実際に彼女たちが地方を流浪したという事実はありません。しかし、物語は作られ広がっていくのです。それは、弘法大師伝説や水戸黄門伝説と同じです。庶民がそれを欲していたのです。
 それでは、才女の貴種流離譚を語ったのはだれでしょうか。
鎌倉時代以来、小野小町や和泉式部など和歌にひい出た女性は、仏の功徳を説くため方便に利用されるようになります。彼女たちを登場させたのは、地方を遊行する説経師や歌比丘尼や高野聖たちでした。その説話の中心拠点が播磨国書写山であり、のちに京都誓願寺だったようです。式部や小町の貴種流離譚に遅れて登場するのが清少納言です。小野小町と和泉式部と清少納言は才女トリオとして貴種流離譚に取り上げられ、物語として地方にさすらうようになります。これは弘法大師伝説や水戸黄門の諸国漫遊とも似ています。その結果として清少納言が各地に現れ、その塚や石碑が建立されるようになります。それは、中世から近世にかけてのことだと研究者は考えているようです。清少納言の墓と伝えられる「あま塚」と「清塚」(きよづか)が各地に残るのは、このような背景があるようです。
四国で最も古いとされている清少納言の墓・あま塚は、阿波鳴門にあります。

清少納言 尼塚鳴門

徳島県鳴門市里浦に現存している「あま(天・尼)塚」は、清少納言の墓として広く知られています。ここではその由来が次のように伝えられます。
清少納言は、晩年に父・清原元輔(きよはらのもとすけ)の領地とされる里浦(鳴門市)に移住した。ところが地元の漁師たちに辱(はずかし)めを受けた清少納言は、それを悲しんで海に身を投げて亡くなってしまった。このあと住民のあいだに目の病気が広まり、清少納言のたたりではないかと恐れられるようになった。住民たちは、清少納言の霊をしずめようと塚を建てた。

「あま塚」の名は、女性を表わす「尼塚」を意味したといわれています。後世になってあま塚のそばに「清少庵」が建てられ、そこに住んだ尼が塚を守り供養したというのです。

 しかし、あま塚は清少納言の墓ではなく、もともとは別人のものという説もあります。
①ひとつは大アワビをとって海で命を落とした海人(あま。漁民)の男挟磯(おさし)をまつったとする「海人塚」説
②二つ目は、鎌倉時代に島流しの刑に処された土御門上皇をまつったとする「天塚」説です。
ところが江戸時代に入ると、あま塚は清少納言の墓として有名になっていきます。そして、明治以後の皇国史観では②の土御門上皇をまつったとする「天塚」説で戦前までは祀られていたようです。いまでは里浦にある観音寺があま塚を「天塚」という名で管理し、清少納言の墓として一般公開しています。
清少納言 天塚堂

この「あま塚」の①「海人塚」説をもう少し詳しく見ていきましょう
『日本書紀』允恭天皇十四年九月癸丑朔甲子条には、海女男狭磯の玉取伝説が次のように記されています。
允恭天皇が淡路島で狩りをしたが島の神の崇りで獲物はとれなかった。神は明石沖の海底の真珠を要求し、要求が満たされれば獲物はとれると告げた。そこで海底でも息の長く続く海人、男狭磯(おさし)が阿波からよばれて真珠をとることになった。男狭磯は深い海底からに真珠の入った大鮑を胞いて海上に浮かび上がったが、無理をしたためか海上に浮かび上がった時には息絶えていた。天皇は男狭磯の死をいたみ立派な墓をつくった。今もその墓は、阿波にある。

これが男狭磯の玉取伝説です。ここからは古代阿波那賀郡には、潜女(もぐりめ)とよばれる海女の集団がいたことがわかります。また、阿波からは天皇即位の年だけに限って行われる大嘗祭に、いろいろな海の幸を神餞として献上していました。『延喜式』はその産物を、鰻・鰻鮨・細螺・棘甲扇・石花だと記しています。これらはいずれも加工されたもので、アワビ、アワビのすし、小さな巻貝のシタダミ、ウエ、節足動物のカメノテであったようです。これらも那賀郡には、潜女(もぐりめ)たちによって、獲られ加工されたものだったのでしょう。

明治32年に飯田武郷があらわした日本書紀の注釈書『日本書紀通釈』には、次のように記されています。
「或人云、阿波国宮崎五十羽云、同国板野郡里浦村錫山麓に古蹟あり。里人尼塚と云り。是海人男狭磯の墓也と、土人云伝へたりとそ云り聞正すへし」

ここからは、里浦の尼塚を里人は男狭磯の基と言い伝えてきたことが分かります。ところが日本書紀を根拠とする尼(海女)塚は、別の伝説に乗っ取られていきます。

清少納言 天塚堂2
徳島県鳴門市 天塚堂と清少納言像

それが清少納言にまつわる次のような伝説です。
清少納言が阿波に向かう途中で嵐にあって、里浦に漂着した。都生まれのひなにはまれな美人ということで、たくさんの漁民が集まってきて情交を迫った。彼女が抵抗したため、 一人の男が彼女を殺して陰部をえぐって、それを海に投げ入れた。それから間もなくその海はイガイが異常にたくさんとれるようになった。彼女が抵抗した際に「見ている者は目がつぶれる」と叫んだことが現実となり、目をやられる漁民が続出した。そこで彼女の怨念を払うため建てた塚が、今もこの地に残っている。
 
この「清少納言復讐伝説」が生まれた背景には、鎌倉初期にできた『古事談』の中の次の説話が、影響を与えているようです。それは、こんな話です。
ある時、若い公達(きんだち)が牛車にのって清少納言の家の前を通りかかった。彼女の屋敷が荒れくずれかかっているのを見て「清少納言もひどいことになったものだ」などと口々に言い合って、鬼のような女法師(清少納言?)が、すだれをかきあげて、「駿馬の骨を買わずにいるのかい」と言ったのを聞いて、公達たちはほうほうの体で逃げていった。
  
ここでは清少納言は「鬼のような女法師」として描かれています。まるで怨霊一歩手前です。清少納言がタタリ神となっていくことが予見されます。また「女法師」から彼女は、晩年は出家して尼になったという物語になっていきます。それが尼(海女)と尼塚が結び付いて、清少納言の尼塚伝説が生まれたと研究者は考えているようです。
どうやら「あま塚」は「海女塚 → 尼塚 → 天塚」と祀る祭神が変化していったことがうかがえます。
尼塚は海のほとりにあったところから、イガイとも結び付くことになります。

清少納言 イガイ
イガイ
二枚貝のイガイ(胎貝)は、吉原貝、似たり貝、姫貝、東海婦人という地方名をもっています。これらの名前からわかるように、イガイの身の形は女性の陰部に似ています。そのため女性の陰部が貝になったのが、イガイという伝説が生まれます。
尼塚の清少納言伝説は、海をはさんだ対岸の兵庫県西宮市にも伝えられています。
そこでは恋のはかなさを嘆いた清少納言は、自らの手で陰部をえぐって海に身を投げたので、陰部がイガイになったいうものです。これは阿波の伝説が伝播したものと研究者は考えているようです。
清少納言の墓所(天塚堂)/徳島鳴門 観音寺(牡丹の寺・清少納言の祈願寺)

鳴門里浦の尼塚伝説は、もともとは日本書紀に記された男狭磯にまつわるものでした。
それが時代が下るにつれて、清少納言に置き換えられ、忘れられていきます。このようなことはよくあることです。寺の境内の池の中島にあった雨乞いの善女龍王が、時代の推移とともに、いつの間にか弁才天として祀られているのをよく目にします。庶民は、常に新しい流行神の登場を望んでいるのです。神様にもスクラップ&ビルドがあったように、伝承にも世代交代があります。それは何もないとこからよりも、今まであったものをリニューアルするという手法がとられます。

 鳴門の尼塚伝説が、清少納言伝説に書き換えられていくプロセスを見ておきます。
鳴門市里浦に伝承された海人男狭磯の玉取伝説は中世になると、となりの讃岐国の志度寺の縁起にとり入れられて志度寺の寺院縁起となります。以前に紹介しましたが、再度そのあらすじを記しておきます。この物語は藤原不比等や、唐王朝の皇帝も登場するスケールの大きいものです。
藤原不比等は父鎌足の冥福を祈って興福寺を建立した。その不比等のもとへ唐の皇帝から華原馨・潤浜石・面向不背の三個の宝玉が送られてくることとなった。宝玉をのせた遣唐舟が志度沖にさしかかると、海は大荒れとなって船は難破した。海神の怒りを鎮めるため、面向不背の玉を海に投げ入れると、海は静かになった。
このことを不比等に報告すると、不比等は宝玉を取り戻す決心をして志度へやってきた。不比等は宝玉を探せないまま、いたずらに三年が過ぎたがこの頃に一人の海女と知り合った。二人の間にはまもなく男の子が生まれた。不比等は宝玉のことを海女に話した。海女は海底から海神に奪われた宝玉を取り返すことに成功したが、胸を切り裂いて傷口に宝玉をかくした時の傷のため、海上に浮かび上がった時には息絶えていた。海女の子の房前は母を弔うため、石塔や経塚を建てたがそれは今も志度寺の境内に残っている
志度寺 玉取伝説浮世絵

                 海女玉取伝説の浮世絵(志度寺縁起)

ここからは日本書紀の阿波の玉取伝説が志度寺縁起にとり入れられていることが分かります。 この縁起の成立は、14世紀前半と研究者は考えているようです。志度寺縁起の玉取伝説は、謡曲にとり入れられて「海士」となり、幸若舞にとり入れられて「大織冠」となり、近世には盛んにもてはやされ流布されていきます。また当時の寺では、高野聖たちは説法のため縁起を絵解に使用し、縁日などでは民衆に語り寄進奉納を呼びかけました。こうして志度寺の玉取伝説が有名になります。
 一方で鳴門里浦の尼塚の存在は次第に忘れ去られていきます。
 本来のいわれである玉取伝説は志度寺にうばわれて、古い尼塚が残るだけで、そのいわれもわからなくなったのです。そこで、室町後期~江戸前期の間に、清少納言の尼塚伝説が作り出されたようです。

いままでの経過を整理しておきます
①日本書紀の海女男狭磯の記述から海女(尼)塚が鳴門里浦に作られる
②しかし、その伝来は忘れられ、古墓の海女塚は尼塚と認識されるようになる
③代わって残された尼塚と、晩年は尼となったとされる清少納言が結びつけられる
④鎌倉時代以来、小野小町や和泉式部など和歌にひい出た女性は、仏の功徳をとくための方便に利用されて、説経師や歌比丘尼が地方を遊行して式部や小町の説話を地方に広めていった。
⑤その説話の中心の地が、播磨国書写山であり、のちに京都誓願寺であった。
⑥式部や小町の貴種流離諄の盛行によって、清少納言までが地方にさすらうこととなった
こうして清少納言は各地に現れ、その塚や石碑が建立されるようになります。

鳴門里浦の清少納言の尼塚伝説は、江戸時代になって金毘羅さんに伝えられます。
 金刀毘羅宮の「清塚」と呼ばれる石碑の謂われを見ておきましょう
 江戸時代の宝永7年(1710)、金刀毘羅宮の大門脇に太鼓楼(たいころう)を造営しようという時のこと、そばにあった塚石をあやまって壊してしまいました。するとその夜、付近に住んでいた大野孝信という人の夢に緋(ひ)の袴(はかま)をつけた宮女が現われ、悲しげな声で訴えました。自分は、かつて宮中に仕えていたが、父の信仰する金刀毘羅宮に参るため、老いてからこの地にやってきた。しかし旅の疲れからとうとうみまかりこの小さな塚の下に埋められ、訪れてくれる人もなく、淋しい日々を過ごしている。ところが今度は、鼓楼造営のため、この塚まで他へ移されようとしている。あまりに悲しいことだ、
というものでした。そして、かすかな声で一首の和歌を詠じました。
「うつつなき 跡のしるしを 誰にかは 問われしなれど ありてしもがな」 
はっとして夢から醒めたさめた大野孝信は、これは清少納言の霊が来て、塚をこわされた恨みごとをいっているのであろうと、一部始終を別当職に申し出たので、金毘羅大権現の金光院はねんごろに塚を修めたというものです。
 塚石が出てきたから130年後の天保15年(1844)になって、金光院は高松藩士友安三冬の撰、松原義質の標篆、庄野信近の書によって、現在の立派な碑を建てます。
清少納言 石碑

清少納言 碑文


と同時に金毘羅さんお得の広報活動が展開されたようで、3年後の江戸時代後期の弘化4年(1847)に、大坂浪花の人気作家である暁鐘成(あかつきのかねなり)が出版した「金毘羅参詣名所図絵」の中に、清少納言塚が挿絵入りで次のように紹介されています。

清少納言 金毘羅参拝名所図会

清少納言の墳(一の坂の上、鼓楼の傍にあり。近年墳の辺に碑を建てり)
伝云ふ、往昔宝永の年間(1704~11)、鼓楼造立につき、この墳を他に移しかへんとせしに、近き辺りの人の夢に清女の霊あらはれて告げける歌に、うつつなき跡のしるしをたれにかはとはれじなれどありてしもがなさては実に清女の墓なるべしとて、本のままにさし置かれけるとぞ。清少納言は、 一条院の皇后に任へし官女なり。舎人親王の曾孫通雄、始めて清原の姓を賜ふ。通雄、五世の孫清原元輔の女、ゆえに清字をもってす。少納言は官名なり。長徳・長保年間に著述せし書籍を『枕草子』と号く。紫氏が『源氏物語』と相並びて世に行はる。老後に零落して尼となり、父元輔が住みし家の跡に住みたりしが、後四国に下向しけるとぞ。(後略)

  ここでは老後は零落して尼となって、四国に下ったと記されてます。そして金毘羅でなくなったことにされます。こうして金毘羅は清少納言を迎え入れることになります。

大門前・普門院・清塚・鼓楼 讃岐国名勝図会
金刀比羅宮の清塚と鼓楼・大門 (讃岐国名勝図会 1854年)

清塚は、幕末には金毘羅さんのあらたな観光名所になっていったようです。
当時は、各地で流行神や新たな名所が作り出され、有名な寺社は参拝客や巡礼客の争奪戦が繰り広げられるようになります。そんな中で金毘羅さんでは金光院を中心に、常に新たな名所や流行神を創出していく努力が続けられていたことは以前にお話ししました。この時期は、金丸座が姿を見せ、金堂工事も最終段階に入り、桜馬場周辺の玉垣なども整備され、金毘羅さんがリニューアルされていく頃でした。そんな中で阿波に伝わる清少納言伝説を金毘羅にも導入し、新たな名所造りを行おうとした戦略が見えてきます。

 ちなみに清少納言の夢を見た大野孝信は他の地に移りましたが、その家は「告げ茶屋」と呼ばれていたと云います。現在の五人百姓、土産物商中条正氏の家の辺りだったようで、中条氏の祖先がここに住むようになり、傍に井戸があったことから屋号を和泉屋と称したと云います。

清少納言伝説 概念図
清少納言伝説の概念図
清少納言伝説

清少納言の伝説についてまとめておきましょう。
清少納言にまつわる三つの伝説地、兵庫県西宮・徳島県鳴門・香川県琴平のうち、中心となるのは鳴門です。鳴門や金毘羅の伝説は鳴門から伝わったものと研究者は考えているようです。西宮の清少納言伝説はイガイによって鳴門と結び付き、琴平の清少納言伝説は古塚によって鳴門と結び付きます。
しかし、鳴門で清少納言の尼塚伝説が生まれたのは、もともとは、尼塚は海女男狭磯の玉取の偉業をたたえてつくられたものです。しかし、玉取伝説が志度寺の縁起にとり入れられて、こちらの方が本家より有名になってしまったために、新たな塚のいわれを説く伝説が必要となって生み出されたも云えます。
いわれ不明の古塚が生き残るために、清少納言が結びつけられ、尼塚を清少納言の墓とする伝説が生まれました。しかし、尼塚を海女男狭磯の墓とする伝説が消えてしまったわけもなかったようです。そういう意味では、尼塚は二つの伝説によって支えられてきたとも云えます。
 清少納言は、各地に自分の塚がつくられて祀られるようになったことをどう考えているのでしょうか。
「それもいいんじゃない、私はかまわないわよ」と云いそうな気もします。日本には楊貴妃の墓まであるのですから清少納言の墓がいくつもいいことにしておきましょう。そうやって庶民は「伝説」を楽しみ「消費」していたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
阿波・讃岐の清少納言伝説 羽床正明  ことひら52 H9年
関連記事

金毘羅犬2

金毘羅大権現には、江戸時代には「金毘羅狗」という代参スタイルがあったようです。これは飼い主が自分に代わって、犬に金毘羅参りをさせる「代参」です。今回は金毘羅狗(犬)について見ていこうと思います。テキストは「  豊島和子 犬の金毘羅参りをめぐって  ことひら48 H5年」です。
『金刀比羅宮崇敬史』には「金毘羅狗」のことが次のように記されています。
飼い主は「金毘羅参り」と書いた札に、自分の住所・氏名を書いて、この札と道中費用の入った財布を犬の首に結び付けて、往来に放します。東海道を上る旅人たちがこの犬を見つけると、自分の目的地まで連れて行き、その地で再び犬を放ちます。するとまた別の民衆がその犬を連れて、目的地まで連れ歩きます。

金毘羅犬5

こうして数人から十数人の手を経て、瀬戸内海を渡る金毘羅船にも乗って、犬は目的地の琴平に到着します。その間、旅人達は犬の財布から実費分のみを取り、餌を与えています。また「代参犬」を受け取る金毘羅大権現では、社僧がその財布から「初穂料」を取り、厳重に包装した「御守札」を犬の首に掛けます。帰りは行きと同じように、各地域の人たちに順送りに連れられ、犬は無事飼い主の元に戻ってくるというシステムです。
 この風俗は、特に関東地方で行われていたようで、自分では金毘羅参詣ができない民衆の篤い信仰心と、遠隔地巡礼への願望が結びついた苦肉の策とも云えます。
金毘羅信仰は近世後期には全国的な広がりを見せ、19世紀前半の文化文政の頃になると、「一升に一度の伊勢参りと金毘羅参り」と云われるようになります。関東地方の民衆は、伊勢詣と共に一生に一度の金毘羅詣を念願していたようです。

金毘羅犬6

文化十二年(一八一五)頃の奥羽の『陸奥国信夫郡・伊達郡風俗間状答』には次のように記されています。
「伊勢参宮、江戸・京・大坂・大和、近年は金比良迄、一代に一度参る。三度参る者は稀なり」

とあり、奥羽からも参詣者が少なからず金毘羅大権現を訪れていたことがうかがえます。このような金毘羅信仰の高まりを背景にして、人々は金毘羅参りの犬を見ると、仏教的にいえば功徳を積むために喜んで世話をしたのかもしれません。
 これは金毘羅参りだけでなく四国遍路の「接待」や伊勢参宮の施行などの「おもてなし」も同じかも知れません。遍路を向かえる四国の人々には、死者供養や、他の人々へ施行を行うことが自他の滅罪と説かれていました。

金毘羅犬3

『金刀比羅宮崇敬史』には、明治末期の「讃岐琴平の犬」の図が収められています。
金毘羅犬4

門前町に琴平土産の一つとして、「金毘羅狗」を記念して縫いぐるみの犬が売られていたと云います。しかし、私の記憶にはありません。

犬の代参は、金毘羅参りだけではありませんでした。伊勢参りでも行われていたようです。
お伊勢さん代参犬】江戸時代、旅が出来ない人の代わりに、犬にお金を持たせて「お伊勢参り」を頼み、  参拝をさせてお札(ふだ)をもらうことが流行りました。「おかげ犬」です : まとめ安倍速報 | 犬, 浮世絵, 旅
伊勢参り犬

群馬県北群馬郡吉岡村に残されていた『人馬継立帖』に、嘉永二年(1849)、上州勢多郡富田村の伊勢参り犬が銭350文持たされて小倉村からやって来たことが記されているようです。
文化期の戯作者、十返舎一九も『翁丸物語』(文化丁卯春刊)の発端に「代参犬」をとりあげて、伊勢国一志郡藤潟村において、
「首におびたゞしく鳥目を繋ぎ打かけたる」大神宮への参詣犬が、往来稼ぎの人足らしい四、五人の男たちにその銭を奪い取られようとしている様子を描いています。その結末は、「仁恵」深い志井源太兵衛なる郷代官の助けによって無事窮地を逃れていますが、「されやむかしも今も、犬の参宮すること其例少からず、往来の人是をたすけて、銘々散銭を貫ざしに繋ぎて、かれが首に打かけ興へ行く故に、後には数百の銭を負て通行すること粗証あり」と記しています。ここからも、文化年間以前から伊勢参り犬はいたことが分かります。
お伊勢まいりの代参犬 : あるちゅはいま日記

 津軽地方にも伊勢参り犬の記録が戸川幸夫氏の著書『イヌ・ネコ・ネズミ』に、次のように記されています。
「犬の参宮というのは、慶安三年ごろから明治の初めまで続いたお蔭参りや抜け参りに付随して起こった奇習であると聞いていたが…」あります。
文政13年(1830)の「文政度御蔭群参之図」には、「剣先祓」という伊勢神宮の大麻(お祓い札)を頭にさした伊勢参り犬の姿が描かれています。。同じ文政十三年の「お蔭参り」の情景を描いた浮世絵、「宮川渡しの図」にも伊勢参り犬が見えます。
金毘羅犬と伊勢参り犬

犬の「代参」については、次のような疑問が出てきます。
①なぜ犬が特に「代参」に選ばれたのか。
②なぜ関東以北の地方にのみ犬の「代参」が見られるのか
①②の疑問点について、『金昆羅庶民信仰資料集 年表編」には、次のように記されています。
昭和11年頃の「横浜市大倉精神文化研究所の原政男より金毘羅犬について照会あり、原氏宅には祖父母代に羽黒三山に参詣した犬がおり、この犬がのち金毘羅へも参詣したことを祖母から聞かされている、貴宮に奥州より参詣した犬の絵がある由、植木直一郎より聞かされたが、その犬がもしや生家の犬ではないかと思われる」

  一世代を30年とすればこの金毘羅犬が参拝したのは60年前のことになります。およそ幕末から明治初期の伝承のようです。驚くのはこの「代参犬」が奥州の修験道霊山である羽黒山にも代参していたことです。ここから研究者は「代参犬」は関東地方の民俗信仰と何か関わりがあるのではないだろうかと推論します。
日本の山岳信仰に動物は、重要な位置を占めています。
例えば、狐、鹿、熊、兎、狼などは神の使い(替族)とされたり、あるいは神自身がこれらの動物の姿で現れると考えられてきたことは以前にお話ししました。そのうち狼は「態野の山言葉では山の神」といわれ、また中部地方の南部では山の主とされるなど、広く各地で信仰されてきました。狼は「オオイヌ」または「オオイン」と呼ばれ、犬と同一視されることが多いようです。
三峰神社オオカミ

埼玉県秩父郡に位置する三峰山は18世紀以降、山岳宗教、修験道の道場として展開し、秩父三霊山の一つとされるようになります。

この三峰山頂にある三峰神社は、大山祗神(おおやまづみのかみ)を守護神とし、眷属を大(狼)としています。調査報告書には「神社では、山犬、狼をオイヌサマ、ゴケンゾクと呼び、山の神、神社の使い、神そのものとして扱っている」と記されます。

三峰神社の狛犬でなくオオカミ

三峰神社の鳥居と大神(おおかみ)
 三峰神社の鳥居をくぐると、狛犬のかわりに狼の石像が左右に安置されています。狼を扱った社蔵の文化財も多く、左甚五郎作と言われる「御神犬像」などが伝えられています。秩父地方に狼をお犬さまとして眷属として祀る神社は十社をくだらないようです。その中心は三峰神社です。
三峰山のお犬信仰の由来については「御替俗拝借の心得」(社務所発行)に、次のように記されています。
「当社に奉祀せる大山祗命は、伊非諾、伊非舟二尊の生み給いし山神におはしますによりて、山狼の猛気を神使とし給ふ。されば当山に於ては、往古よりこれを大口真神と崇め、御眷属と称している。火災盗難或いは鳥獣妖魅の禍等を除く為、擁護を祈る輩には神霊を御版符(とくふ)に封じ、御主神三柱の御前に祈願を軍めて、これを一ヶ年間願人に拝借せしめるのであって、日本武尊甲州より当山に越え給いし時、狼其の道案内申上げたと言ふ神話にもある程に古より伝はり、霊験の顕著なることは、普く世に知られた処である」
秩父の三峯神社・御眷属拝借の御神札を祀る神棚シリーズ - 神棚の販売/製作/設置なら福岡の伝統風水オフィス大渓水

 三峰山と狼とのつながりを、神社側では古代神話の時代にまでさかのぼらせています。これに対して研究者は「果たしてそうなのかどうか、大いに疑間である。むしろ三峰山の山の神の化身、あるいは眷属神としての狼の性格を神格化している」と指摘します。

狼-7 お札になったオオカミ

三峰神社の狼の神札の由来については、次のように伝えられています。
享保十二年(1727)9月13日三峰山主日光法師が山上の庵室に静座中、どこからともなく狼の大群が現れたため、深く心に感づるところあり、狼の神札を信者に分けたとあります。ここからはお犬信仰が近世中期頃から始まったことが分かります。
三峯神社 【日本武尊・御眷属様(オオカミ)】 ~ 秩父遊歩

 信者はお犬の神札を三峰山から拝借し、これを竹にはさんで田畑に立て、害虫駆除としたり、家の戸口や土蔵の入口に貼って盗難・火難除けとしたようです。この布教方法を展開したのは修験山伏たちです。彼らの手によってお犬信仰は、関東を中心に中部から東北地方まで拡められ、各地に三峰講が結成され、代参か盛んに行われるようになったようです。
奥秩父で目撃情報 ニホンオオカミは生きている 幻のニホンオオカミを追って…その1  ゴールデンウィークの1日,開通したばかりの国道140号線「雁坂トンネル」を通って,奥秩父にある三峰神社に出かけた。秩父から雲取山へと続く三峰山の山頂に鎮座し  ...

昭和41年調査の秩父宮記念三峰山博物館資料には、県別講社数は埼玉、茨城、千葉などの関東を中心に、東北、北海道から畿内の滋賀まで分布しています。三峰信仰の拡大がうかがえると同時に、そのエリアが江戸よりも北に偏っていることを押さえておきます。関東以北に見られた犬の「代参」は、三峰信仰の勢力圏と重なり合います。両者には、何らかのつながりがあったようです。
 三峰信仰が広がったエリアでは、犬の参詣というスタイル自体に、何ら不思議な感覚はなかったでしょう。むしろ「神の遊幸」と自然に受けいれられたのではないでしょうか。そこに「お蔭参り」や「ええじやないか」などの風潮が高まると、三峰のお犬さまが代参として金毘羅や伊勢などのはるか遠くの巡礼・参詣霊場へ向かうことになったのではないかと研究者は考えているようです。

   以上をまとめておくと
①江戸時代後期には、犬による代参が伊勢参りや金比羅参りで行われるようになった
②金毘羅犬の出身地をみると江戸以北に限定されている
③これはオオカミをお犬として信仰する埼玉県秩父の三峰神社の布教活動と関係がある。
④三峰神社のお犬信仰は修験山伏により関東から東北にまでひろがった。
⑤三峰神社のお犬信仰圏の信者にとって、お犬様が聖地に巡礼するということは自然に受けいれられ、「お蔭参り」や「ええじやないか」などの抜け参りの風潮を追い風にして広まった。
このため近世後期には、金比羅参りにやってくる金比羅犬の姿が浮世絵などにも描かれることになったようです。この「金毘羅狗」も、鉄道が整備される頃には廃れていったようです。犬は汽車には乗れません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
豊島 和子  犬の金毘羅参りをめぐって   ことひら48 H5年


  江戸時代後期になると、自分の家の出自をより良く見せたり、争いごとを有利に進めるために偽物の系図屋や古文書屋が活動するようになります。その時に作られた偽文書が現代に多く残されています。江戸時代の椿井政隆という人物は、近畿地方全域を営業圏として、古代・中世の偽の家系図や名簿を売り歩いた、偽文書のプロでした。彼の存在が広く知られるようになる前までは、ひとりの手で数多くの偽文書が作られたことすら知られておらず、多くが本物と信じられてきました。
  椿井政隆は、地主でお金には困っていなかったようですが、大量の偽文書を作っています。その手口を見てみると、まずは地元の名士、といっても武士ではない家に頻繁に通い、顔なじみになって滞在し、そこで必要とされているもの、例えば土地争いの証拠資料、家系図などを知ります。滞在中に需要を確認するわけです。それで、数ヶ月後にまたやってきて、こんなものがありますよと示します。注文はされていなくて、この家はこんなもの欲しがっているなと確認したら、一回帰って、作って、数ヶ月後に持っていきます。買うほうもある程度、嘘だと分かっていますが、持っていることによって、何か得しそうだなと思ったら地主層は買ったようです。
 滋賀県の庄屋は、椿井が来て捏造した文書を買ったことを日記に書いています。自分のところの神社をよくするものについては何も文句を言わずに入手しているのです。実際にその神社は、椿井文書通りの位置づけになって今に至っているといいます。
 こうなると「商売」というより、何か自然に『偽の歴史』ができていった感じです。いくつかの資料をまとめて5両という領収書も残っています。五両(現在換算50万円)で、証拠や夢を買うことになります。買ったほうにしたら、裁判に勝てるし、場合によったらうちはいい家柄だとか言える。地主にとっては、高い買い物ではなかったのかもしれません。

 今回は金刀比羅宮に残る5つの偽文書を見ていきたいと思います。
テキストは「羽床雅彦   中臣宮処氏本系帳と金刀比羅宮所蔵偽文書について  こんぴら68 162P」です。

(1)「釈迦堂田地寄進状」
奉寄進
子松庄松尾釈迦堂免田職事、合陸段者、右件相免田職者、天長地久御願円満、殊者為本家領家地頭願所安穏泰平故也、寄進如件、
  康安二(1362)年壬丑四月十五日  預所 平保盛(花押)

ここには、小松荘松尾寺の釈迦堂に平保盛(花押)が康安二(1362)年壬丑四月十五日に免田を寄進したとされます。
しかし、長年にわたって金刀比羅宮の学芸員を務めた松原秀明の労作である「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇、金刀比羅宮社務所発行」は、残された史料や棟札から釈迦堂の創建は延宝五年(1677)としています。つまり、康安2年には釈迦堂はありません。

(2)「三断香田地寄進状」
奉寄進
松尾寺三断香免田職事、合弐段者、在坪六条九里四坪末弘名無是田也、右件於免田職、為金輪聖王天長地久、殊者当庄本家領家沙汰人、御息災延命増長福寿現等安穏、及生善所庄内豊饒社人快楽故也、働任承者之旨、所奉寄進如件、
庄安二歳次辛亥年十一月十八日 預所僧頼系(花押)
(3)貞治元年「金昆羅堂田地寄進状」
奉寄進、松尾寺金毘羅堂免田職事、合壱段者、在坪六条八里廿五坪但本庄是末重名内、右件者、金眈羅堂免田者、為金輪聖王天長地久御願円満、殊者領家地頭庄官沙汰人諸人快楽故也、傷任承知状如件、
貞治元年(1362)壬寅三月十八日  新庄御方預所僧頼景(花押)
(5)永治二年「金昆羅堂田地寄進状」
奉寄進、子松庄松尾寺金昆羅堂田地事、
右件者免田職者、天長地久御願円満、殊者為本家領家地頭預所安穏泰平故、被仰下任旨寄進如件、
永治二(1142)年壬成二月二十六日  平量次(花押)
(3)(5)の文書に出てくる金昆羅堂については、以前にお話ししたように元亀四年(1573)の創建棟札が残っています。金比羅堂は長尾一族の宥雅によって元亀四年(1573)に創建されたことは地元の研究者たちが明らかにし、「町史ことひら」にもそう記されています。13世紀まで金毘羅神の登場を遡らせることは出来ません。金毘羅神は16世紀後半に、修験者たちによって新たに作り出された流行神と研究者たちはは考えています。
(4)「鐘楼堂田地寄進状」は、
奉寄進、松尾寺鐘楼免田職事、合参百歩者、御寺方久遠名無是田也在坪六条八里十一坪、右件者免田職者、為金輪聖王天長地久御願円満、殊者当庄本家領家地頭預所安穏泰平故也、働為寄進如件、康暦元(1379)年己未九月十七日  御寺方御代官 頼景 判

(4)の文書の鐘楼堂については、松原秀明撰『金昆羅庶民信仰資料集 年表篇』には、元和六年(1620)に生駒正俊が建立寄進したものとしています。松原氏は金刀比羅宮に残された棟札・記録を調べて年表を作成しています。敷田は棟札・記録などの根本史料に当たらずに偽文書を作成し、破綻をきたしたようです。また、五つの文書には「天長地久」が全て入っています。時代が異なる文書に、全て記されるというのも不自然です。そして、これらの5つの文書が、同一人物によって偽作されたと研究者は指摘します。
 こうして松原秀明氏は、これの文書が後世の偽作と判断し、「金刀比羅宮に近世以前の史料はない」としました。それ以後に書かれた香川県史や町史ことひらも、同じ立場をとっています。

この偽文書は、いつだれによって、何の目的のために作られたのでしょうか?
『中臣宮処氏本系帳』という文書があります。この書は、古代讃岐の山田郡の有力豪族「中臣宮処氏」の存在を示す史料です。本系帳には原書であって、孝徳天皇の大化三年(646)3月に中臣宮処連静が書いたものだと記されています。これを書いたのが国学者の敷田年治です。彼は『中臣宮処氏本系帳考證』下巻には、本系帳は天平六年(734)3月15日に中臣宮処連静麻呂が書いたものとも記されます。
整理すると「中臣宮処氏家牒』は大化三年(646)に中臣宮処連静が書き、「中臣宮処氏本系帳』は天平六年(734)に中臣宮処連静麻呂が書いたいうのです。
「中臣宮処氏本系帳考證』下巻には、次のように記されています。
「この書は讃岐の国の人、本條半兵衛が今(明治26年1893)から32年か33年前に難波に持ってきたものだが、半兵衛は何の書物か知らず、明治11年(1878)9月18日に難波の道頓堀で焼失してしまった。しかし、これ以前に或る人がこの本系帳と家牒を借りて書き写し、家牒の方は半分も書き写さない内に持ち主が返すよう督促したので返した。明治21年(1888)春に半兵衛の息子の小野幸四郎が或る人が書き写した本系帳を持って来て、私(敷田年治)に見せたので考證を加えて出版することにした。家牒の方は十枚程残っていたが、鼠に喰われて四枚程になってしまった」

この史料を本物と判断した『讃岐の歴史』は、中臣宮処連について次のように記します。
このほか、(山田郡の)県主に任ぜられた豪族には、天児屋根命を祖とする中臣宮処連の一族や、武殻王を祖とする綾氏がいた。山田郡では、天児屋根命より出た中臣宮処連静足が和銅二年に、同静麿が養老三年にそれぞれ大領に任じられた。その居址は現在の高松市西前田町にあったという。

三、中臣宮処氏本系帳には、何が書かれ、どこに問題点があるのでしょうか
(疑間1)『中臣宮処氏本系帳考證』下巻の迦麻行大人命の条には、
綾県主(あがたぬし)迦麻抒大人命は巻向の日知宮(ひしりのみや)に天の下治しめし天皇の大御子、夜麻登多郡(やまとたける)天皇命の御子、多郡迦比古(たけかいこ)王命の御子、迩美麻(にみま)大主命の御子、那岐迩麻(おきにま)大主命の御子也。

とあって、綾県主(あがたぬし)迦麻抒大人命が巻向の日知宮に天の下治しめし天皇(景行天皇)―夜麻登多郡天皇(日本武尊)―多郡迦比古(神櫛王)王命―迩美麻大主命―那岐迩麻大主命―迦麻抒大人命と続く系譜にあることを記します。
 しかし、この系譜は以前にお話したように、南北朝時代の頃に法勲寺の僧侶達によってつくられた『綾氏系図』の系譜をそのままパクったものです。南北朝時代作成の『綾氏系図』が天平六年(734)作成の『中臣宮処氏本系帳』に採録されることはありあせん。中世に作られた系図が、古代の文書に載っていることになります。これがまず問題点1です。
疑間2は『中臣宮処氏本系帳考證』下巻の中臣宮処連静比古の条です。
此の静比古多麻岐の郎女(いらつめ)にあひて生める子静老、又栗田臣伊那其(いなご)の女美豆保の郎女に姿ひて生める子奴那美麻呂(ぬなみまろ)此は中臣御田代連、高屋連らの祖也、次に清比古、次に稚富比古此は中臣粟井連らの祖也。

ここでは静比古の子の稚富比古を中臣栗井連の祖としています。そしてその本拠地を苅田郡紀伊郷粟井里とします。しかし、粟井を本拠としていたのは中臣栗井連ではなくて、忌部氏です。紀伊郷栗井里には讃岐の国の延喜式内社24社の栗井神社(観音寺市)があって、その祭神は天太玉命(あめのふとのみこと)で、これは忌部氏の祖神です。
 また、延喜式内社の多度郡の大麻神社(善通寺)の祭神も天太玉命で、三豊郡豊中町竹田には忌部神社があって、この忌部神社の周辺は今でも忌部と呼ばれています。讃岐忌部の本拠地は苅田郡紀伊郷栗井里で、ここから分かれ出た忌部の一派が豊中町竹田及び豊中町忌部に住むようになり、また、別の一派は多度郡生野郷大麻里に住むようになったとされています。
 大同二年(807)に、斎部広成が、平城天皇の指示で選した『古語拾遺』には、
手置帆負命之孫、矛竿を造り、その裔今分かれて讃岐の国に在る。讃岐の国毎年調庸の外に八百竿を貢ぐ、是其の事等の証也。

とあつて、讃岐忌部は毎年800本の矛竿を貢納していたと記されています。また『延喜式』には、
凡枠木千二百四十四竿、讃岐国十一月以前差綱丁進納、

とあって、『延喜式』が完成した937年には毎年1244の矛竿を貢納し、引き続いて讃岐忌部氏の勢力が強かったことおがうかがえます。
 苅田郡紀伊郷栗井里は枠木を貢納した忌部氏が住む村で、紀伊郷も「木」郷を嘉字二字表記にしたため「紀伊」郷になったもので、古代は和歌山を拠点とすする紀伊氏の勢力下だったとされます。ここには中臣氏の祖神の天児屋根命を祀った神社はなく、中巨粟井連という氏族の気配はありません。これが問題点2です。。

『中臣宮処氏本系帳考證』下巻の中臣宮処静見臣の条には、
此の静依臣粟国麻殖直県主の祖忌部首玉代の女奴那佐加比売に妾ひて主める子鶴見臣、亦静見大人と謂う、中臣笠井連等の祖先

とあって、中臣宮処連静依臣を中臣笠居連の祖とします。しかし東寺の果宝が観応三年(1352)に編述した『東宝記』収載の天暦11年(957)2月26日の大政官符には、綾公文包や香川郡笠居郷戸主綾公久法の名があり、綾公が住んでいたとが分かります。久法の子孫は中世には香西という武士になって活躍します。ここからも笠居郷は綾公の勢力エリアで、中臣笠居連が住んでいたということを裏付けられる史料はありません。他の歴史資料と矛盾する内容である中臣栗井連や中臣笠居連が登場する『中臣宮処氏本系帳』は、疑わしい文書とされます。

中臣宮地連については、次のような記録があります
『姓氏録』左京神別に中臣宮地連は大中臣同祖とあり、
『姓氏録』和泉国神別に宮処朝臣は大中臣朝臣同祖とあり、
『推古紀』十六年六月条及び二十年二月二十日条に中臣宮地連鳥麻呂が見え、
『続日本紀』天平元年二月十日条に中臣宮処連東人が見え、
ここからは中臣宮処氏の本拠は和泉国で、その一族が都に出て左京に家を構えたことが分かります。実際に畿内では中臣宮処連が分布していています。讃岐にも宮処という地名があるところから、讃岐の宮処にも中臣宮処連がいたとする『中臣宮処氏本系帳』という偽書がつくられたと研究者は推測します。

以上から『香川県の歴史』は、『中臣宮処氏本系帳考證』について次のような評価を下しています。
『中臣宮処氏本系帳考證』(明治二十六年三月、敷田年治の考證出版)によれば、県主は山田郡宮処(高松市東山崎町)に住みその祖先は天児屋根命で、その子孫は中臣氏であろうといわれるが、歴史家の間ではその真疑が疑われている。これを信用することはできないだろう。『中臣宮処氏本系帳』は明治時代前期に敷田年治が作成した偽書である可能性が高いのである。

つまり『中臣宮処氏本系帳』は、明治時代前期に敷田年治によって作成された偽書と研究者は考えているようです。

讃岐山田郡
 
中臣宮処連が拠点としたという山田郡宮処(高松市東山崎町)を見ておきましょう。
 琴電長尾線高田駅の北に広がる土地がかつての山田郡宮処郷であったようです。宮処郷の喜多に鎮座する宮処八幡宮(高松市前田西町)周辺に中臣宮処連が住んでいたと『中臣宮処氏本系帳』は記します。宮処郷に中臣宮処連が住んでいた痕跡はあるのでしょうか?
『続日本紀』天平十三年(七四一)三月十四日条によると聖武天皇は国分寺・尼寺建立の詔を出します。しかし、国分寺・尼寺の建立は進みません。そこで、三年以内に完成させたら子孫が郡司職を世襲を認めるという法令を、天保勝宝元年(749)2月27日に出しています。讃岐では国分寺・尼寺と同笵の瓦が、寒川郡の長尾寺、三木郡の始覚寺、山田郡の拝師廃寺・山下廃寺、香河郡の百相廃寺・田村神社、那珂郡の宝幢寺から出土しています。ここからは、寒川郡、三木郡、山田郡、香河郡、那珂郡の郡司が国分寺・尼寺の建立に参加したことがうかがえます。
『図録東寺百合文書』二十一号文書は、
山田郡牒 川原□□
合田中校出田一町三百五十歩、牒去天平宝字五年巡察□□出之田混合如件、□□□伯姓今依国今月廿二日符□停止□□、為寺田畢、傷注事牒、牒至准状、□符、

天平宝字七年十月廿九日
大領外正八位上綾公人足 少領従八位凡直 主政従八位下佐伯 復擬主政大初位上秦大成 主帳外小初位下秦
寺印
正牒者以宝亀十年四月十一日讃岐造豊足給下

ここからは天平宝字七年(763)に山田郡の大領は綾公人足、少領は凡直某だったことが分かります。
 綾公(君)は隣の香河郡から、凡直は寒川郡からの移住者(勢力拡大)と研究者は考えているようです。先に入ってきたのは綾公で、古墳時代後期には移住して久本古墳・山下古墳・小山古墳などの巨石墳を築造し、奈良中期になると拝師廃寺・山下廃寺などを建立したようです。綾公人足は八世紀中頃に山田郡の大領となり、国分寺や尼寺が建立された天平宝字七年(762)頃は大領だったことが、この史料号)からは分かります。
 天平19(747)年に国分寺・尼寺建立に参加し、その功績が認められ氏寺の拝師廃寺や山下廃寺を国分寺の同笵瓦で建立しています。こうして山田郡北半は綾公、南半は凡直が支配したようです。中世になると綾公の子孫は高松(船木)という武士になり、凡直の子孫は十河・植田・三谷・池田・由良・神内・中村などの武士になってそれぞれ活躍しますが、凡直の子孫の方が羽振りが良かったようです。
  考古学的な史料からも山田郡に中臣宮処連一族の痕跡をみつけることはできません。
以上から「中臣宮処氏本系帳』は歴史学者の間では偽書とされ、これを考証出版した敷田年治も信用できない人物とします。
敷田年治 - 帆足先生的収蔵
敷田年治
敷田年治と金刀比羅宮の繋がりをしめすものがあります。
『金毘羅庶民信仰資料集 年表篇』の明治20年(1887)9月28日条に、
「宥常、国学者敷田年治を自宅に招き饗応」

とあるのです。金刀比羅宮の琴陵宥常が何のために敷田年治を自宅に招いて饗応したのでしょうか?
最初に示した金刀比羅宮の偽文書を作成したお礼として自宅に招いて饗応した可能性が高いと研究者は指摘します。敷田年治が金刀比羅宮の偽文書をつくったとすると、『中臣宮処本系帳』も敷田年治がつくった偽書である可能性はますます高くなります。最初に偽書作成の裏側を見たように、偽書を作っていた人物はプロで、依頼によってどんな文書も偽作していたのです。ひとつだけ偽文書を作ったというのは考えにくく、ひとりがいくつもの偽文書を作っているのが通常なのです。
中臣宮処氏本系帳考証. 上巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

『中臣宮処氏本系帳考証』は明治26年(1893)3月に出版されています。
金毘羅さんの偽文書も明治20年(1887)9月~明治26年(1893)9月までの間に、つくられたと推測できます。敷田は金昆羅堂・鐘楼堂・釈迦堂の創建について記した棟札・記録を良く調べないで偽文書をつくりました。そのために、これらの棟札の記述と矛盾する内容が見つかり、偽文書であることが露呈してしまいました。そして、彼が考證出版した『中臣宮処氏本系帳』も偽書である可能性が高いとされてしまいました。敷田は、依頼に応えて、これ以外の偽書もつくった可能性もあります。そういう需要が当時の寺社にはあったことが分かります。
中臣宮処氏本系帳考証. 下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 なぜ金刀比羅宮の琴綾宥常は、敷田年治に偽書の作成を依頼したのでしょうか
考えられるのは、明治の神仏分離に伴う祭神の転換です。神仏分離前は、金毘羅大権現という神仏混淆神が祀られていました。それが廃仏毀釈で追放され、神道の金刀比羅宮は大国主命と崇徳上皇を祭神として祀るようになります。その際に、崇徳上皇との縁が求められるようになります。そのためには崇徳上皇が流刑になった時には、金毘羅大権現や松尾寺は存在していないと辻褄があわなくなります。琴綾宥常にとって、12世紀には松尾寺があったことが証明できる年代の入った文書が必要になったのでしょう。そこで、国文学者としても名前が知れていた敷田年治に依頼したことが推測できます。その裏交渉を行ったのは、禰宜の松岡調であったと私は考えています。松岡調は、骨董品や文書のコレクターでもあり、それが現在の志度の多和神社の文庫となっています。そのようなコレクションを通じて、松岡調は敷田年治と深いつながりがあったことがうかがえます。松岡調の周辺には、後に護国神社宮司となる矢原氏がいましたが、矢原氏の周辺にも偽文書の存在があるように思えます。
 

武田信玄が年貢の減免等を行ったということが書かれているが、江戸時代の終わりに自分たちも税の減免をしてほしい、と訴える証拠の資料として捏造されたもの。これに類するものが甲州にはいくつもある。

江戸時代の甲府周辺では、武田信玄の偽物の手紙が量産体制で作られ、どんどん売られていたようです。
偽文書屋が商売として成り立っていたのです。信玄の偽文書がたくさんある地域は、特定の地域で、大名がいないエリアに限定されるようです。天領などの方が、わが家はかつての信玄の家来だ、と言いやすかったようです。伊賀・甲賀でも、かつては自分たちは忍者だったといくらでも言い放題の地域があります。チェック体制のなかった江戸時代は、由緒を主張したもの勝ちだったようです。
 江戸後半になると由緒を語ることによって、社会的な地位が実際に上がっていく。急にお金持ちになっても、俺はかつてから有力な家だ、と言うとその地位が村の中で安定します。さらにもう少し後になると、武士身分もお金で買えるようになってきます。いきなり武士身分を買うのではなくて、中世は武士だ、今は農民だけど、改めてお金で買って、今はもとの武士に戻ったんだ、という言い方ができます。
  そういう意味で、家の系図や寺社の由緒はそのランクを上げて行くための必須アイテムとなります。こうして、有力な寺社には偽文書がいくつも作られ、正当性や建立起源の古さを主張する根拠して使われるようになります。
 金毘羅さんも祭神変更に対応して、より古い由緒が求められるようになったとしておきましょう。
以上をまとめておくと
①金刀比羅宮には、今は偽書とされる5つの「古文書」があった。
②それらは、松尾寺の鐘楼や金比羅堂が12世紀にはあったことを証明するものであった。
③これらの偽文書は明治に琴綾宥常が国学者(プロの偽作者)に依頼して作らせたものであった。
④その背景には祭神となった崇徳上皇時代には、松尾寺や金毘羅堂があったことを示す必要があったためである。
⑤しかし、松原秀明の調査研究によって松尾寺は16世紀後半に創建されたものであり、それを遡る棟札も古文書もないことが明らかにされた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   中臣宮処氏本系帳と金刀比羅宮所蔵偽文書について  こんぴら68 162P

金毘羅船 航海図C4

前回に金毘羅船の航路が19世紀前半に、①→②→③のように変更されていることを見ました。
①初期は、室津から小豆島を東に見て高松沖から四国の海岸沿いに丸亀へ
②19世紀半ばからは、室津から牛窓沖を通過し、それから備讃瀬戸を縦断するコール
③室津から下津井半島の日比・田の口・下村を経由して丸亀へ
このコース変更の背景として考えられる事を挙げてみると
①下津井半島の五流修験が広めた「金比羅・喩伽山の両詣り」で喩伽山参りの人々の増加
②19世紀前半からの金毘羅船の大型化
などですが、その他にも原因があることを指摘する文章に出会いました。今回はそれを見ていきます。テキストは「羽床正明 金昆羅大権現に関する三つの疑問  ことひら68 H25年」です
金毘羅船 苫船
金毘羅参詣続膝栗毛 道頓堀で金毘羅船に乗りこむ弥次喜多

十返舎一九の『金毘羅参詣続膝栗毛』(1810年刊)には、弥次喜多コンビが夜半に道頓堀から乗った金毘羅船は、早朝に木津川河口に下ってきて、早朝に順風を得て出港します。室津で一夜を過ごし、その後は順風に恵まれて三日半で丸亀港に着いています。しかし、こんなにスムーズに行くのは珍しい方だったようです。

三谷敏雄「飯田佐兵衛の金毘羅参詣記」(『ことひら』四十一号、昭和61年)には嘉永三年(1850)の正月に武蔵国文蔵村の飯田佐兵衛が仲間11人と金比羅参りをしたときの記録が報告されています。当時は金比羅参りだけでなく、いろいろな聖地を一緒に巡礼するのが常でした。彼らの巡礼地を見てみると、東海道を下って伊勢神宮に参詣し、更に大阪・四国にも足を伸ばし、帰りには京都見物を行って中山道を通って帰村しています。この二ヶ月半を『伊勢参詣日記帳』という道中記にまとめています。この道中記には、金毘羅船について次のように記されています。
 佐兵衛一行は大阪から高砂に行き「つりや伊七郎」方で「同所より二日夜丸亀迄船を頼む、上下(往復料金)壱貫弐百文にて頼む、百八文ふとん一枚」を支払って金毘羅船に乗船しようとします。ところが「三、四日、殊の外逆風」で船が出せません。そこで船賃の払い戻しを要求するのですが、返金されたのは「四百八拾文舟銭。剰返請取。」と支払額の40%程度でした。全額返金に応じないことに憤慨して「金ひら参詣ニハ 決而舟二のるべからず」と、金比羅参拝には、決して船を利用するなと書いています。その後、彼らは岡山県まで歩いて行って、下津井から船に乗って対岸の四国に渡っています。
IMG_8095下村浦
下村湊

    西国巡礼者が金比羅詣コースとして利用した高砂~丸亀の記録には、次のように記されています。
「三月一日船中泊り、翌二日こき行中候得者、昼ハッ時分より風強く波高く船中不残船によひ、いやはや難渋仕申候、漸四ッ時風静二罷成候而漸人心地二罷成よみかへりたる計也」

「此時風浪悪しくして廿一日七ッ時二船二乗、廿四日七ッ時二丸亀の岸二上りて、三夜三日之内船中二おり一同甚夕難渋仕」

意訳変換しておくと
「三月一日に船中に泊り、翌日二日に漕ぎだしたが、昼ハッ時分に、風が強く吹きだし、波も高くなり、乗客はみんな船酔いに苦しめられ、難渋した。ようやく四ッ時に風が静まり、人々は人心地をついた次第である」

「風浪が強くなる中を、21日七ッ時に乗船し、24日七ッ時に丸亀に到着するまで、三夜三日の内船中に閉じ込められ、乗客達は大変難渋した。

 同じ頃に金毘羅大権現に参詣した江戸羽田のろうそく商、井筒屋卯兵衛の手記にも、良く似たことが書かれています。
卯兵衛は「金毘羅出船会所大和や(大和屋)弥三郎、丸亀迄詣用付舟賃九匁ふとん壱枚百六十四文払」と、前回に紹介した道頓堀川岸の大和屋弥三郎方で金昆羅船を頼み、「是より舟一り半程下りて富島町と申す所へ船をつなぐ」が、「六日朝南風にて出帆できず」と船を出すことが出来ず、「是より舟を上り、大和屋船賃を取り返しに行く」と船賃の一部を払い戻して貰い、陸路を岡山県まで歩いています。
 そして、次のようなコースで丸亀に向かいます
二月四日に牛窓村の「ちうちん屋」に泊り、
五日には喩伽大権現に参詣して、下津半島・下村の「油屋藤右衛門」方で百四文を払って乗船し、
六日の四ツ半頃に丸亀港に着き、船宿「あみや為次郎」方で弁当を整え、丸亀街道を歩いて金毘羅大権現に行き参詣した。再び丸亀「あみや」に戻って
六日昼より七日昼までの間逗留し、九ツ時に「あみや」を出立して船に乗り、七ツ頃に対岸の田の口港に着いています。
金毘羅船 航海図C10
上方から丸亀までの船旅は、風任せで順風でないと船は出ません。
中世の瀬戸内海では、北西の季節風が強くなる冬は、交易船はオフシーズンで運行を中止していました。近世の金毘羅船も大坂から丸亀に向かうのには逆風がつよくなり、船が出せないことが多かったようです。

IMG_8110丸亀・象頭山遠望
下津井半島からの讃岐の山々と塩飽の島々

 金毘羅船が欠航すると、旅人は山陽道を歩いて備中までき、児島半島で丸亀行きの渡し船に乗っています。児島半島の田の口、下村、田の浦、下津丼の四港からは、丸亀に渡る渡し船が出ていました。上方からの金毘羅船が欠航したり、船酔いがあったりするなら、それを避けて備中までは山陽道を徒歩で進み、海上最短距離の下津井半島と丸亀間だけを渡船を利用するという人々が次第に増えたのではないかと研究者は指摘します。

IMG_8108象頭山遠望
下津井半島からの象頭山遠望

 下津井からの丸亀間は、西北の風は追い風となります。上方からの船が欠航になっても、下津井からの船は丸亀湊に入港できたようです。
金毘羅船 田の口・下村

 児島半島には喩伽山大権現(蓮台寺)があつて、金毘羅大権現と喩伽山を「両参り」すると効験は倍増すると五流の修験者たちは宣伝します。喩伽大権現に近い田の口港は、両参りする人々で賑わうようになります。
IMG_8098由加山
喩伽山大権現(蓮台寺)

これに対抗して下村の船宿「油屋藤右衛門」方では「毎日出船」と天気に左右されない通常運行を売り物にして客を獲得しようとします。下津井半島には、日々、田の口、下村、下津井と4つの湊が金比羅船をだして、互いにサービス競争を行っていました。上方からの運賃に比べると1/5程度でリーズナブルでした。また、小形の金毘羅船にはトイレがありませんでした。弥次喜多は、苫の外から海に向かって用を足しています。女性参拝客が増えるに随って、最短で海を渡ろうとする人たちも増えたのかも知れません。

IMG_8105下津井より広島方面」
下津井半島からの四国方面遠望
 こうして江戸時代末期には、欠航や船酔いを避けて上方からではなく、海上最短距離になる下津井からの渡船に活躍の舞台が開けてきたようです。大阪と丸亀を結ぶ金毘羅船が「毎日出船」を売り物にすることができるようになつたのは、明治になって蒸気船が出現して天候の影響をうけなくなってのことのようです。
平野屋佐吉・まつや卯兵衛ちらし」平野屋の札は「蒸気金毘羅出船所

   以上をまとめておくと
①上方からの金毘羅船は順風だと3泊4日で、丸亀港に着くことができた
②しかし、北西の季節風が強くなる冬は逆風となり、欠航が多くなった。
③出発前の欠航や途中での欠航でも料金が全額払い戻されることはなくトラブルの原因となった
④江戸時代末期になると参拝客は、金毘羅船の欠点を避けて、陸路で下津井半島まで行き、そこから海上最短距離で丸亀や多度津を目指す者が増えた。
⑤そこには、五流修験者の喩伽山信仰策もあった。
⑥この結果、下津井半島の田の口や下村、下津井は金比羅渡船のでる港町として栄えるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  金毘羅 町史ことひら

大坂の金毘羅船の船宿は、乗船記念として利用者に金比羅参拝の海上航路案内図や引き札を無料で渡したようです。航路案内図は、印刷されたものを購入し空白部に、自分の船宿の名前を入れ込んだものです。そのために、時代と共にいろいろな航路案内図が残されています。参拝者は、それを記念として大事に保管していたようです。それが集められて町史ことひら5絵図・写真編(71P)に載せられています。今回は金毘羅船の海上航路図を見ていくことにします。
金毘羅船 航路図C1

 左下に「安永三(1774)甲午正月吉日、浪花淡路町堺筋林萬助版」と板元と版行の年月があります。延享元年(1744)に、大阪の船宿が連名で金毘羅船を専門に仕立てたいということを願いでてから30年後のことになります。宝暦10(1760)年に、日本一社の綸旨を得て、参詣客も年とともに多くなってくる時期に当たります。
 表題は「讃岐金毘羅・安芸の宮島 参詣海上獨案内」です。
 ここからは、新興観光地の金毘羅の名前はまだまだ知られていなくて、安芸の宮島参拝の参拝客を呼び込むという戦略がうかがえます。
 構図的には左下が大坂で、そこから西(右)に向けてひょうご・あかし(明石)・むろ(室津)・うしまど(牛窓)と港町が並びます。金比羅舟は、この付近から備讃瀬戸を横切って丸亀に向かったようですが、航路は書き込まれていません。表題通り、この案内図のもうひとつ目的地は宮島です。そのため  とも(鞆)から、阿武兎観音を経ておのみち(尾道)・おんどのせと(音戸ノ瀬戸)を経て宮島までの行程と距離が記されています。ちょうど中央辺りに丸亀があり、右上にゴールの宮島が配されます。この絵図だけ見ると、丸亀が四国にあることも分からないし、象頭山金毘羅さんの位置もはっきりしません。また、瀬戸内海に浮かぶ島々は、淡路島も小豆島も描かれていません。描いた作者に地理的な情報がなかったことがうかがえます。
 重視されているのは上の段に書かれた各地の取次店名と土産物です。
大阪の取次店して讃岐出身の多田屋新右ヱ門ほか二名の名があり、丸亀の船宿としては、のだ(野田)や権八・佃や金十郎など四名があり、丸亀土産として、うどんがあるのに興味がひかれます。金毘羅では、飴と苗田村の三八餅が名物として挙げられています。印象としては、絵地図よりも文字の方に重点を置いた初期の「案内図」で、地理的にも不正確さが目立ちます。ここでは、まだ宮島参拝のついでの金毘羅参りという位置づけのようです。

金毘羅船 航海図C3
1枚目 丸亀まで
 二枚続きの図で、画師は丸亀の原田玉枝です。玉枝は天保15五年(1844)に53歳で亡くなっています。この図の彫師は丸亀城下の松屋町成慶堂です。この図も1枚目は下津井・丸亀までで、2枚目が鞆から宮島・岩国までの案内図になっています。

金毘羅船 航海図宮島
2枚目 鞆から宮島まで

 東国・上方からの参詣者が金毘羅から宮島へ足を伸ばす。あるいは、この時期にはまだ宮島参拝のついでに金毘羅さんにお参りするという人たちの方が多かったのかも知れません。淡路でも金毘羅と宮嶋は、一緒に参拝するのが風習だったようです。そんな需要に答えて、丸亀で宮嶋への案内図が出されても不思議ではないように思います。
   ここで注意しておきたいのは、大坂からの案内図は、最初は宮嶋と抱き合わせであったということです。大坂から金毘羅だけを目指した案内図が出るのは、少し時代が経ってからのことになります。

 構図的には、先ほど見たものと比べると文字情報はほとんどなくなって、ヴィジュアルになっています。位置的な配置に問題はありますが、淡路島や小豆島などの島々や、半島や入江も書き込まれています。山陽道の宿場街や、四国側の主要湊も書き込まれ、これが今後に出される案内図の原型になるようです。航路線は描かれていませんが。点々と描かれた船をつなぐと当時の航路は浮かび上がってきます。それはむろ(室津)から小豆島を左に見て備讃瀬戸を斜めに横切って丸亀をめざす航路のように見えます。この絵を原型にして、似たものが繰り返し出され、同時に少しずつ変化していくことになります。
金毘羅船 航海図C4
 C④「大坂ヨリ播磨名所讃州金毘羅迪道中絵圖」        

この絵の特徴は、3つあります
①標題は欄外上にあり、右からの横書きになっていること
②レイアウトがそれまでとは左右が逆になっていて、大坂が右下、岡山は左上、金毘羅が左下にあること。この図柄が、以後は受け継がれていきます。
③宮島への参拝ルートはなくなったこと。金比羅航路だけが単独で描かれています
 前回にお話しした十返舎一九の「金毘羅膝栗毛」の中で弥次喜多コンビは、夜に道頓堀を出発し、夜明け前に淀川河口の天保山に下ってきて風待ちします。そして早朝に追い風を帆に受けてシュラシュラと神戸・須磨沖を過ぎて、潮待ちしながら明石海峡を抜けて室津で女郎の誘いを受けながら一泊。そして、小豆島を通りすぎて、八栗・屋島を目印にしながら備讃瀬戸を横切り、讃岐富士を目指してやってきます。つまり19世紀初頭の弥次喜多の航路は、下津井には寄らずに、室津から小豆島の西側と通って丸亀へ直接にやってくるルートをとっています。
 しかし、この絵には室津と田の口が航路で結ばれ、下村や下津井と丸亀も航路図で結ばれています。五流修験の布教活動で、由加山信仰が高まりを見せたことがうかがえます。
   また、高松など東讃の情報は、きれいに省略されています。関係ルート周辺だけを描いています。絵図を見ていて、違和感があるのは島同士の位置関係が相変わらず不正確なことです。例えば小豆島の北に家島が描かれています。一度描かれると、以前のものを参考しにして刷り直されたようで、訂正を行う事はあまりなかったようです。
金毘羅船 航海図C7
この案内図には標題がありません。特徴点を挙げておくと
①右上に京都のあたご(愛宕山)が大きく描かれて、少し欄外に出て目立ちます。
②大坂は、住吉・さかい(堺)を注しています。
③相変わらず淡路島や小豆島など島の形も位置も変です。
④室津から丸亀への航路が変更されている。
以前は、小豆島の西側を通過して高松沖を西に進むコースが取られていました。しかし、ここでは牛窓沖を西へ更に向かい日比沖から南下して備讃瀬戸を横断する航路になっています。この背景には何があるか分かりません。
金毘羅船 航海図C10

  C⑩には右下に「作壽堂」とあり、「頭人行列圖」を発行している丸亀の板元のようです。この案内図で、研究者が注目するのは「むろ」(室津)からの航路です。牛窓沖を西に進み、そこから丸亀に南下する航路と、一旦田の口に立ち入る航路の2つが書き込まれています。そして、初期に取られた室津から小豆島の西側を南下し、高松沖を西行するコースは、ここでも消えています。考えられるのは、喩迦山の「二箇所参り」CM成果で、由加山参りに田の口や日々に入港する金毘羅船が増えたことです。田の口に上陸して喩迦山に御参りした後に、金毘羅を目指すという新しい参拝ルートが定着したのかもしれません。

金毘羅船 航海図C13
C13
 よく似た図柄が多いのは、船宿が印刷所から案内図を買い求めて、自分の名前を刷り込んだためと研究者は考えているようです。C13には大阪の船宿・大和屋の署名の所にかなり長い口上書が添えられています。欄外右下には「此圖船宿よリモライ」と墨の落書きがあったようです。ここからも乗船客が、船宿からこのような絵図をもらって大切に保管していたことがうかがえます。


以上の金毘羅船の航路案内図の変遷をまとめっておきます
①大阪の船宿は利用客に航路案内図を刷って配布するサービスを行っていた。
②最初は宮島参拝と併せた絵柄であったが、金比羅の知名度の高まりととに宮島への航路は描かれなくなっていく
③18世紀後半の航路は、室津から小豆島を東に見て高松沖を経て丸亀至るにコースがとられた。
④19世紀前半になると、日比や田の口湊を経由して、丸亀港に入港するコースに変更された。

③から④へのコース変更については、由加山信仰の高まりが背景にあるとされますが、それだけなのでしょうか。次回はその点について見ていこうと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました

参考文献 町史ことひら5絵図・写真編(71P)

金毘羅船 4

金毘羅船々 追風に帆かけて シュラ シュ シュシュ
回れば四国は 讃州那珂の郡 象頭山金毘羅大権現
も一度回って 金毘羅船々……

この歌は金毘羅船を謡ったものとして良く知られています。今回は金毘羅船がどのような船で、どこから出港していたのかを、見ていこうと思います。
まず、金比羅船の始まりを史料で見ておきましょう。
金刀比羅宮に「参詣船渡海人割願書人」という延享元年(1744)の文書が残されています。
参詣船渡海入割願書
一 讃州金毘羅信仰之輩参詣之雖御座候 海上通路容易難成不遂願心様子及見候二付比度参詣船取立相応之運賃二而心安致渡海候様仕候事
一 右之通向後致渡海候二付相願候 二而比度御山御用向承候 上者御荷物之儀大小不限封状等至迄無滞夫々汪相違可申候 将又比儀を申立他人妨申間敷事
一 御山より奉加勧進等一切御指出不被成旨御高札之面二候 得紛敷儀無之様可仕事
一 志無之輩江従是勧メ候儀且又押而船を借候儀仕間敷事
一 講を結候儀相楽信心を格別講銭等勧心ケ間敷申間敷並代参受合申間敷事
一 万一難風破船等有之如何様之儀有之有之候へ共元来御山仰二付取立候儀二候得者少茂御六ケ舗儀掛申間敷事
  右之趣堅可相守候若向後御山御障二相成申事候は何時二而茂御山御出入御指留可被成候為後日謐人致判形候上はは猶又少茂相違無御座候働而如件
  延享元甲子年三月
     大坂江戸堀五丁目   明石屋佐次兵衛 印
     同  大川町     多田屋新右衛門 印
     同  江戸堀荷貳丁目 鍔屋  吉兵衛 印
        道修町五丁目  和泉屋太右衛門 印
金光院様御役人衆中様
意訳変換しておくと
金毘羅参詣船の渡海についての願出について
一 讃州金毘羅参詣の海上航路が不便な上に難儀して困っている人が多いので「相応え運賃」(格安運賃)で参詣船を出し、心安く渡海できるように致します。
一 同時に、金毘羅大権現の御用向を伺い、御荷物等についても大小を問わず滞りなく配送いたします。 
一 金毘羅大権現よりの奉加・勧進等の一切の御指出を受けていないことを高札で知らせ、紛らわしい行為がないようにいたします。
一 信心のない輩に金毘羅船への参加を勧めたり、また船を課したりする行為は致しません。
一 金毘羅講を結成し講銭など集めたり、代参を請け負うことも致しません。
一 万一難破などの事故があったときには、どんな場合であろうとも金毘羅大権現に迷惑をおかけするようなことはありません。
以上の趣旨について今後は堅く遵守し、もし御山に迷惑をおかけするようなことがあった場合には何時たりとも、御山への出入差し止めを命じていただければと思います。
ここからは、次のようなことが分かります。
①延享元年三月(1744)に、大坂から讃州丸亀に向けて金毘羅参詣だけを目的とした金毘羅船と呼ばれる客船の運行申請が提出されたこと
②申出人は大坂の船問屋たちが連名で、金毘羅当局へ「参拝船=金毘羅船」の運航許可を求めていること
③寄進や勧進を語り募金集める行為や、金毘羅講などを通じての代参行為を行う行者(業者)がいた。
これは金光院に認められ、金毘羅船が大坂と四国・丸亀を結ぶようになります。これが「日本最初の旅客船航路」とされます。以後、金毘羅船は、金毘羅信仰の高揚と共に、年を追う毎に繁昌します。申出人の2番目に見える「大坂大川町 船宿 多田屋新右ヱ門」は、讃岐出身で大坂で船宿を営なんでいたようです。
多田屋の動きをもう少し詳しくみていきましょう。
 多田屋は、金毘羅本社前に銅の狛犬を献納し、絵馬堂の寄進も行っています。多田屋発行の引札も残っています。金毘羅関係の書物として最も古い「金毘羅参詣海陸記」「金毘羅霊験記」などにも多田屋の名は刷り込まれています。このように金比羅舟の舵取りや水夫には、多田屋のように讃岐出身者が多かったようです。そして、その中心は丸亀の三浦出身者だったようです。19世紀初頭に福島湊が完成するまでの丸亀の湊は土器川河口の河口湊でした。そこに上陸した金毘羅詣客で、三浦は栄えていたことは以前にお話ししました。

多田屋に少し遅れて、金毘羅船の運航に次のような業者が参入してきます
①道頓堀川岸(大阪市南区大和町)の 大和屋弥三郎
②堺筋長堀橋南詰(大阪市南区長堀橋筋一丁目) 平野屋佐吉
日本橋筋北詰(大阪市南区長堀橋筋二丁目) 岸沢屋弥吉
なども、多田屋に続いて金昆羅船を就航させています。強力なライバルが現れたようです。これらの業者は、それぞれの場所から金毘羅船を出港させていました。金毘羅船の出港地は一つだけではなかったことを押さえっておきます。
後発組の追い上げに対して、多田屋はどのような対応を取ったのでしょうか
『金毘羅庶民信仰資料集年表篇』90pには、多田屋新右衛門の対応策が次のように記されています。
宝暦四年 冥加として御用物運送の独占的引き受けを願い出る
同九年  狗犬一対寄進
天明七年 江戸浅草蔵前大口屋平兵衛の絵馬堂寄進建立を取り次ぎ
寛政十二年再度、金毘羅大権現の御用を独占を願い出。
享和三年 防州周防三輪善兵衛外よりの銅製水溜寄進を取り次ぎ
文化十三年大阪の金昆羅屋敷番人の追放に代わり、御用達を申し付け
天保三年 桑名城主松平越中守から高百石但し四ツ物成、大阪相場で代金納め永代寄進
天保五年 その代金六十両を納入
これ例外にも金毘羅山内での事あるごとに悦びや悔みの品を届けています。本人も母親も参詣してお目見えを許された記事もあります。ここからは多田屋新右衛門が、金毘羅大権現と密接な関連を維持しながら、金毘羅大権現への物資の運送を独占しようとしていたことがうかがえます。
『金毘羅山名所図会』には、次のように記されています。
  御山より大阪諸用向きにつきて海上往来便船の事は、大阪よどや橋南詰多田屋新右衛門これをあづかりつとむ。
ここからは多田屋新右衛門の船宿は、大阪淀屋橋南詰(大阪市東区大川町)にあったことがわかります。  
金毘羅船 淀屋橋
多田屋のあった、大阪淀屋橋南詰(大阪市東区大川町)
多田屋新右衛門には、大和屋弥三郎という強力なライバルが出現します。
大和屋弥三郎も金毘羅船を就航させ、金毘羅への輸送業に割り込もうと寄進や奉献を頻繁に行っています。そのため多田屋新右衛門が物資運送を独占することはできなかったようです。
『金毘羅庶民信仰資料集―年表篇』90Pには、大和屋弥三郎のことがが次のように記されています。
寛政九年 新しい接待所を丸亀の木屋清太夫とともに寄進
享和二年 瀬川菊之丞が青銅製角形水溜を奉納するのを取り次ぎ
文政九年 大阪順慶町で繁栄講が結成された時講元となり
文政十一年丸亀街道途中の与北村茶堂に繁栄講からとして、街道沿いでは最大の石燈籠を奉納
このように大坂の船宿は、参詣客の斡旋、寄進物の取り次ぎ、飛脚、為替の業務などを競い合うように果たしています。これが金毘羅の繁栄にもつながります
『金毘羅庶民信仰資料集―年表篇』の17頁の宝暦四年(1754)条には、
大阪の明石屋佐治兵衛。多田屋新右衛門、冥加として当山より大阪ヘの御用物運送仰せ付けられたく願い出る。

とあって、多田屋新右衛門が明石屋佐治兵衛と一緒に、物資運送を独占を願いでています。これに対して金毘羅大権現の金光院はどんな対応をしたのか見てみましょう。
『金毘羅庶民信仰資料集―年表篇』の24Pの寛政十二年(1800)春条には、
大阪多田屋新右衛門よりお山の御用を一手に申し付けられたき旨願い出る。多田屋の願いを丸亀藩へも相談した所、丸亀浜方の稼ぎにも影響するので、年三度のお撫物登りの時のみ多田屋の寄進にさせてはどうかという返事あり

ここには多田屋の願い出を丸亀藩に相談したところ、これを聞き留けると丸亀港での収入が減ることになるので、年三度の撫物だけを多田屋に運送させたら良いとの返事を得ています。この返事を多田屋に知らせ、多田屋はこれを受け入れたようです。ここに出てくる「撫物」と云うのは、身なでて穢れを移し、これを川に流し去ることで災厄を避ける呪物で、白紙を人形に切ったものだそうです。
  つまり金光院は、ひとつの船宿に独占させるのではなく、互いに競争させる方がより多くの利益につながると考え、特定業者に独占権を与えることは最後まで行わなかったようです。そのため多田屋が繁栄を独占することは出来ませんでした。

十返舎一九の『金毘羅参詣続膝栗毛』(1810年刊)で、弥次喜多コンビが乗った金毘羅船は、大和屋の船だったようです。
 道中膝栗毛シリーズは、旅行案内的な要素もあったので当時の最も一般的な旅行ルートが使われたようです。十返舎一九は『金毘羅参詣続膝栗毛』の中で、弥次・北を道頓堀から船出させています。しかし、その冒頭には次のような但書を書き加えています。
「此書には旅宿長町の最寄なるゆへ道頓堀より乗船のことを記すといへども金毘羅船の出所は爰のみに非ず大川筋西横堀長堀両川口等所々に見へたり」
意訳変換しておくと
「ここには旅宿長町から最も近いので道頓堀から乗船したと記すが、金毘羅船の出発地点は大川筋西横堀や長堀両川口などにもある」

ここからは、もともとの船場は多田屋のある大川筋の淀屋橋付近だったのが、弥次・喜多の時代には、金毘羅舟の乗船場は大川筋から道頓堀・長堀の方へ移動していたことがうかがえます。つまり、多田屋に代わって大和屋が繁盛するようになっていたのです。その後の記録を見ても「讃州金毘羅出船所」や「金ひらふね毎日出し申候」等と書かれた金毘羅舟の出船所をアピールする旅館や船宿は、大川筋よりもはるかに道頓堀の方が多くなっています。
 金毘羅船に乗る前や、船から下りた際には「航海無事」の祈願やお礼をするために、道頓堀の法善寺に金比羅堂が建立されていた研究者は推測します。法善寺は讃岐へ向かう旅人達たちにとって航海安全の祈願所の役割を果たしていたことになります。「海の神様」という金毘羅さんのキャッチフレーズもこの辺りから生まれたのではないかと私は考えています。

弥次喜多が乗りこんだ金毘羅船の発着場は、どこだったのでしょうか
金毘羅船 苫船

「大阪道頓堀丸亀出船の図」(金毘羅参詣続膝栗毛の挿入絵)
上図は「大阪道頓堀丸亀出船の図」とされた挿図です。本文には次のように記されます
   讃州船のことかれこれと聞き合わせ、やがて三人打ち連れ、長町を立ち出で、丸亀の船宿、道頓堀の大黒屋といえる、掛行燈(かけあんどん)を見つけて、野州の人、五太平「ハァ、ちくと、ものサ問いますべい。金毘羅様へ行ぐ船はここかなのし。」

意訳変換しておくと
讃州船のことをあれこれと聞き合わせ、やがて三人そろって、丸亀の船宿である道頓堀の大黒屋を訪ねた。掛行燈(かけあんどん)を見つけて、五太平が次のように聞いた「ハァ、ちょとおたずねしますが、金毘羅様へ行く船はここからでていますか」

ここからは道頓堀川の川岸の船宿・大黒屋を訪ねたこと、大黒屋も讃岐出身者であったことが分かります。道頓堀を発着する金毘羅船には、日本橋筋北詰の岸沢屋弥吉のものと、道頓堀川岸の大和屋弥三郎のものの二つがありました。岸沢屋の金毘羅船は道頓堀川に架かる日本橋の袂を発着場としていて引札には日本橋が描かれています。橋が描かれず川岸を発着場とするこの図の金毘羅船は「道頓堀の大黒屋=大和屋」の金毘羅船と研究者は考えているようです。

当時の金比羅舟は、どんな形だったのでしょうか?
上の絵には川岸から板一枚を渡した金毘羅船に弥次北が乗船していく姿が描かれています。手前が船首で、奥に梶取りがいるようです。船は苫(とま)屋根の粗末な渡海船だったことが分かります。苫屋根は菅(すげ)・茅(ちがや)などで編んだこものようなもので舟を覆って雨露をしのぐものでした。
金毘羅船 苫船2

淀川を行き来する三〇石船とよく似ているように思えます。
淀川30石舟 安藤広重


弥次喜多が道頓堀で乗船して、大坂河口から瀬戸内海に出港していくまでを意訳変換してみましょう
讃岐出身の船頭は、弥次喜多に次のように声をかける。
船頭「浜へ下りな。幟(のぼり)のある船じゃ。今(いんま)、出るきんな。サアサア、皆連(つ)れになって、乗ってくだせえ、くだせえ。」
 浜に下りると船では、揖(かじ)を降ろし、艪(ろ)をこしらえて、苫(とま)の屋根を葺いていた。
金毘羅船 屋根の苫
苫の屋根

水子(かこ)たちは布団、敷物などを運び入れ終わると、船宿の店先から勝手口まで並んでいた旅人を案内して、船に乗船させていく。
そこへいろいろな物売りがやってくる。
商人「サアサア、琉球芋(りゅうきゅういも)のほかしたてじゃ、ほっこり、ほっこり」
菓子売り「菓子いらんかいな、みづからまんじゅう、みづからまんじゅう。」
上かん屋「鯡昆布巻(にしんこぶまき)、あんばいよし、あんばいよし。」
船頭「皆さん、船賃は支払いましたかな、コレ、そこの親方衆、もう少しそっちゃの方へ移ってもらえませんか、」
五太平「コリャハァ、許さっしゃりまし。あごみますべい」と、人を跨いで向こう側へ座る。弥次郎・喜多八も同じように座ると、遠州の人が「エレハイ、どなたさんも胡座組んで座りなさい。乗り合い船なので、お互いにに心安くして参りましょう。ところで、船頭さん、船はいつ頃出ますか。」
船頭「いん(今)ますぐに、あただ(急)に出るわいの」
船宿の亭主「サアサアえいかいな、えいなら船を出さんせ。もう初夜(戌刻)過ぎじゃ。長い間お待たせして、ご退屈でござりました。さよなら、ご機嫌よう、行っておい出でなされませ。」
 と、もやい綱を解いて、船へ放り込むと、船頭たちは竿さして船を廻します。そうすると川岸通りには、時の太鼓、「どんどん、どどん」と響きます。
按摩(あんま)「あんまァ、けんびき、針の療治。」
 夜回りの割竹が「がらがら、がらがら」と鳴る中、船はだんだん河口へと下っていきます。
 木津川口に着いた頃には、夜も白み始める子(ね)刻(午前4時)頃になっていた。ここで風待ちしながら順風を待ち、その間は船頭・水子もしばらく休息していて、船中も静かで、それぞれがもたれ合って眠る者もいる、中には、肘枕や荷物包に頭をもたせて熟睡する者もいる。

難波天保山

 やがて、寅の刻(午前4時)過ぎになったと思う頃に、船頭・水子たちがにわかに騒ぎ立ちて、帆柱押し立て、帆綱を引き上げるなど出港準備をはじめ、沖に乗り出す様子が出てきた。船中の皆々も目を覚まして、船端に顔を出して、塩水をすくって手水使って浄めて象頭山の方に向かって、航海の安全を伏し拝む。
弥次郎・喜多八も遙拝して、一句詠む
    腹鼓うつ浪の音ゆたかにて 走るたぬきのこんぴらの船
 船出の安全を、語る内に早くも沖に走り出しす。船頭の「ヨウソロ、ヨウソロ」の声も勇ましく、追風(おいて)に帆かけて、矢を射るように走り抜け、日出の頃には、兵庫沖にまでやってきた。大坂より兵庫までは十里である。

ここからいろいろな情報を得ることが出来ます。
①弥次・喜多の乗った金毘羅船が小形の苫舟で、乗り換えなしで丸亀に直行したこと
②船頭が讃岐出身者だったこと。讃岐弁を使っているらしい。
③夜中(午後8時頃)に道頓堀や淀屋橋の船宿を出て、早朝(午前4時頃)に大坂河口に到着
④風待ち潮待ちしながら順風追い風を受けて出港していく
⑤この間に船の乗り換えはない。
金毘羅船 3

19世紀の中頃には、金毘羅船にとって大きな変化が起きていました。それまでの小形の苫舟に代わって、大型船が就航したことです。
金毘羅船 垣立


この頃には、垣立(上図の赤い部分)が高く、屋形がある大型の金毘羅船が登場します。これは樽廻船を金毘羅船用に仕立てたものと研究者は考えているようです。江戸時代に大阪と江戸の間の物資の運送で競争したのが、菱垣廻船と樽廻船です。

金毘羅船 大坂安治川の川口
大坂安治川の川口
 大坂安治川の川口の南には樽廻船の蔵が建ち並び、北には菱垣廻船の蔵が建ち並んでいる絵図があります。大型の金昆羅船は二日半で丸亀港に着いているので、船足の早い樽廻船と研究者は考えているようです。
ここで大きく成長するのが平野屋左吉です。
彼は、もともとは安治川の川口の樽廻船問屋でした。樽廻船を金毘羅船に改造して、堺筋長堀橋南詰に発着場を設けて、金毘羅船を経営するようになったと研究者は考えているようです。空に向かって大きくせり出した太鼓橋の下なら大きな船も通れます。しかし、長堀橋のように川面と水平に架けられた平橋の下を大きな船は通れません。そこで平野屋左吉が考えたのが、堺筋長堀橋南詰の発着場と安治川港の間を小型の船で結び、安治川港で大型の金毘羅船に乗り換えて丸亀港を目指すプランです。
金毘羅船 平野屋引き札
この平野屋の引き札からは次のようなことが分かります。
①平野屋が大型の金毘羅船を導入していたこと
②船の左には、平野屋本家として「金毘羅内町 虎屋」と書かれていて、虎屋=平野グループを形成していたこと。

  文政十年(1827)に歌人の板倉塞馬は、京・大阪から讃岐から安芸まで旅をして、『洋蛾日記』という紀行文を著しています。
その中の京都から丸亀までの道中についての部分を見てみましょう。
五月十二日、曇‥(中略)昼頃より京を立つ‥(中略)京橋池六より、乗船、浪花に下る。
十三日、晴。八つ(午後二時)頃より曇る。日の出るころ大阪肥後橋へ着く。(中略)
蟻兄(大阪の銭屋十左衛門)を訪れ、銭屋九兵衛という家(宿屋と思われる)にとまる。(以下略)
十五日、晴。(中略)日暮れて銭九を立つ。長堀橋平野屋佐吉より小舟に乗る。四つ橋より安治川口にて本船に移り、夜明け方出船。天徳丸弥兵衛という。
ここからは次のようなことが分かります。
①5月12日の昼頃に伏見京橋池六で川船に乗って淀川をくだり、13日早朝に大阪の肥後橋到着
②永堀橋の長堀橋の船宿平野屋佐吉の小舟で河口に下り
③15日、四つ橋より安治川口で大型の天徳丸(船頭弥兵衛)に乗り換え、夜明け方に出港した。

つまり平野屋左吉は、二種類の船を持っていたようです
①大阪市内と安治川港を結ぶ小型船
②安治川港と丸亀港を結ぶ大型船
淀川船八軒屋船の船場
川船の行き来する八軒家船着場 安治川湊までの小型船

平野屋は、二種類の船を使い分けて、金毘羅船経営を行う大規模経営者であったようです。普通の船宿経営者は、小型の船で大阪市内と丸亀港を直接結ぶ小規模の経営者が多かったようです。平野屋の売りは、金毘羅の宿は最高グレードの虎屋だったことです。富裕層は、大型船で最上級旅館にも泊まれる平野グループの金毘羅詣でプランを選んだのでしょう。このころには金毘羅船運行の主導権は、多田屋や大和屋から平野屋に移っていたようです。
平野屋佐吉・まつや卯兵衛ちらし」平野屋の札は「蒸気金毘羅出船所

  以上をまとめておくと
①18世紀半ばに金毘羅船の営業が認められ、讃岐出身の多田屋が中心となり運行が始まった。
②多田屋は金毘羅の運送業務の独占化を図ったが、これを金光院は認めず競争関係状態が続いた
③後発の船宿も参入し、金毘羅への忠誠心の証として数々の寄進を行った。これが金毘羅繁栄の要因のひとつでもあった。
④19世紀初頭の弥次喜多の金毘羅詣でには、道頓堀の船宿大和屋の船が使われている。
⑤金毘羅船の拠点が淀屋橋周辺から道頓堀に移ってきて、同時に多田屋に代わって大和屋の台頭がうかがえる
⑥道頓堀の法善寺は、金毘羅船に乗る人々にとっての航海安全を祈る場ともなっていた
⑦19世紀中頃には、平野屋によって樽廻船を改造した大型船が金比羅船に投入された。
⑧これによって、輸送人数や安全性などは飛躍的に向上し、金毘羅参拝者の増加をもたらすことになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明 金昆羅大権現に関する三つの疑問     ことひら68 H25
北川央  近世金比羅信仰の展開
町史こんぴら

25弁財天十五童子像
絹本着色弁才天十五童子像(南北朝 金刀比羅宮蔵)

金刀比羅宮には、南北朝期の絹本着色弁才天十五童子像があります。弁才天画像をいれた箱の表には「春日社御祓講本尊」とあり、裏には19世紀中頃の文政の頃に金光院住職の宥天がこれを求めた書かれています。ここからは、もともとは春日社に伝わっていたものであることが分かります。

25弁財天
絹本着色弁才天十五童子像(南北朝 金刀比羅宮蔵)(拡大)

春日社にあった弁才天十五童子像がどうして、金刀比羅宮にあるのでしょうか。
今回は、その伝来について見ていきたいと思います。テキストは「羽床正明 金刀比羅宮蔵 弁オ天画像考 ことひら57」です。
金刀比羅宮の弁財天画を見る前に、弁財天の歴史について簡単に見ておきます
楽天市場】インドの神様 サラスヴァティ—神お守りカード×1枚[004]India God【Sarasvati】Small Card  (Charm)【水を持つ者】【優美】【豊穣】【富】【浄化】【学問】【知恵】【音楽】【芸術】【弁才天】【弁財天】:インド風水アイテムのPRANA
ヒンズー教の現在のサラスヴァティー(弁才天)

弁財天の起源はインドです。古代インド神話でサラスヴァティーと呼ばれた河の神は、後になると言葉の神ヴァーチュと結び付いて、学問、叡知、音楽の女神となり、最高神ブラフマー(梵天)の妃の一人とされるようになります。それが仏教にとり入れられると、仏教名を弁才天、妙音天、 美音天などと呼ばれるようにます。さらに財宝神であることが強調されるようになると、弁財天と書かれるようになります。神も進化・発展します。その上に、『金光明最勝王経』は、弁才天を美神とか戦闘神であると説き、弓、箭、刀、鉾、斧、長杵、輪、霜索を持つ8つの手があるとします。後世にいろいろな効能が追加されていくのが仏像の常です。二本の手では足らなくなって8本になります。

かつての横綱、若乃花・貴乃花の手形石、意外と小さい - Photo de Mimurotoji Temple, Uji - Tripadvisor

日本で盛んに信仰されるようになるのは、宇賀弁才天です。
水神の白蛇や、その白蛇が発展を遂げて生まれた老翁面蛇体の宇賀神を、頭上に戴くのが宇賀弁財天です。宇賀神は稲荷信仰を混淆して生まれました。稲を担った老翁姿の稲荷神と、水神の蛇が結合したのが宇賀神となるようです。整理しておくと
宇賀神  = 稲荷神(老翁姿)+ 水神(蛇=龍)
宇賀弁才天= 宇賀神     + 弁才天
こうしてとぐろを巻いた蛇と老人の頭を持つ宇賀神を頭上に頂く宇賀弁才天が登場してきます。
弁才天と宇賀神

これが鎌倉時代末期のようです。弁才天の化身は蛇や龍とされますが、これはインド・中国の経典にはありません。日本で創作された宇賀弁才天の偽経で説かれるようになったようです。

弁才天3

 初期の宇賀弁才天が8本の手に持つのは『金光明経』に記されるように「鉾、輪、弓、宝珠、剣、棒、鈴(鍵)、箭」と全て武器でした。ところが、次第に「宝珠」と「鍵」(宝蔵の鍵とされる)が加えられ、福徳神・財宝神としての性格がより強くなり、商人達に爆発的に信仰が広がります。

弁才天には「十五童子」が従います。
これも宇賀弁才天の偽経に依るもので、「一日より十五日に至り、日々宇賀神に給使して衆生に福智を与える」と説かれます。

弁才天十五童子像3

絹本著色の弁才天十五童子像として代表的なものをあげると、
金刀比羅宮蔵弁才天十五童子像(鎌倉末期)
京都上善寺蔵弁才天十五童子像(南北朝期)
近江宝厳寺蔵弁才天十五童子像(南北朝期)
大和長谷寺能満院蔵天河曼荼羅(室町時代)
などがあります。これらの絵に共通する点は、主尊の弁才天と眷属神の十五童子(十六童子の場合もある)を中心に、龍神やその他の神々が描き込まれていることです。
弁才天十五童子像

        大阪府江戸前~中期/17~18世紀
      岩座の弁才天と十五童子を表す立体曼陀羅
弁才天十五童子像2

金刀比羅宮の弁才天画像を見てみましょう。

25弁財天十五童子像

25弁財天

岩の上に立つ一面六臀の弁才天を中心に天女のまわりを眷属神の十五童子がかためます。画像の上方の五つの円相の中には釈迦・薬師・地蔵・観音。文殊という春日明神の本地仏が描かれています。春日社の祭神の本地仏は、武甕槌命(本地は釈迦)・経津主命(薬師)・天児屋根命(地蔵)・比神(観音)とされます。祭神は一神一殿の同じ形の、同じ大きさの社殿に祀られています。ただ、文殊だけは一社だけ離れて若宮社に祀られています。

弁才天立像
武人的な要素の強い弁才天

日本三弁天と称しているのは、次の3社でした。
近江の都久夫須麻神社
鎌倉の江の島神社
安芸の厳島神社
神社が弁才天信仰の中心となったのは、弁才天が神仏習合したからです。弁才天の頭上には白蛇(宇賀神)と華表(鳥居)がのっています。

弁才天2
白蛇はさらに発展し、老翁面蛇体の宇賀神としてソロデビューしていきます。日本三弁天の神社の影響もあって、春日社でも宇賀弁才天を祀るようになったようです。頭上に、水神・食物神とされる宇賀神をいただく宇賀弁才天を祀ることは、多くの荘園を持つ春日社にとっては大切な要素です。雨が降らないと稲は育ちません。荘園経済の上に基盤を置く春日社にとつては死活問題です。そのため水神である宇賀弁才天を祀るようになったのでしょう。

弁才天画像を春日神社から手に入れたのは松尾寺住職の宥天です。彼の在職期間は、1824~32年まででした。
 江戸時代の庶民は移り気で、新たな流行神の出現を求めていました。そのために、寺社は境内や神域にそれまでない新たなメンバーの神仏を勧進し、お堂や行事を増やして行くことが求められました。金毘羅だけでは、参拝客の増加は見込めないし、寺の隆盛はないのです。それは善通寺もおなじでした。

金毘羅本社絵図


 金毘羅大権現の別当寺松尾寺では、明和六年(1766)に「三天講」を行うようになります。
三天とは、毘沙門天・弁才天・大黒天のことで、供物を供え、経を読んで祀つる宗教的なイヴェントで縁日が開かれ、多くの人々が参拝するようになります。毘沙門天は『法華経』、弁才天は「金光明経』、大黒天は『仁王経』の尊とされるので、この三天を祀ることは護国の三部経を信仰することにつながります。
 生駒氏が領主であった慶長六年(1601)に松尾寺の境内には、摩利支天堂と毘沙門天堂(大行事堂)が建立されています。すでに毘沙門天と大黒天の尊像はあったはずです。足らないのは、弁財天です。宥天が弁財天画像を求めたのは、「三天講」のためだったという推理が浮かんできます。こうして三天講の縁日当日には、三天の尊像が並べて祀られます。そこに祀られたのが春日社から購入した宇賀弁才天画で、三天講の本尊の一つだったようです。

文化十年(1813)には、金毘羅大権現の門前町である金山寺町に弁才天社の壇がつくられています。
さらに嘉永元年(1848)には金山寺町に弁才天社の拝殿が建立されています。松尾寺で三天講が行われるようになったことがきっかけとなって弁才天に対する信仰が高まり、門前町の金山寺町に弁才天社がつくられたようです。宥天の求めた弁才天十五童子像も、そうした弁才天信仰の高揚が背景にあったようです。
 松尾寺の境内には金毘羅大権現の本宮以外にも、諸堂・諸祠が建ち並び、多くの神や仏が祀られていました。それらの神や仏の中に、宇賀弁才天も加えられたということでしょう。弁才天の陀羅尼を誦せば所願が成就し、財を求めれば多くの財を得られるとされました。そのため庶民は弁才天が福徳の仏して、熱心に拝むよようになります。
3分でわかる弁財天とは?】ああっ幸福の弁天さまっ!のご利益や真言|仏像リンク

 弁財天はインドではもともとは川の神、水の神で水辺に生活する神とされていました。そのためいつのまにか雨と関連づけられ雨乞いにも登場するようになります。
松尾寺でも江戸時代には雨乞いが行われています。
宇賀弁才天木像及び弁才天十五童子像画像は、雨乞いにも活躍したようです。奥社からさらに工兵道を進むと、葵の滝があらわれます。ここは普段は一筋の瀧ですが、大雨が降った後は壮観な光景になります。かつては、ここは山伏たちの行場であった所です。私も何度かテントを張って野宿したことがあります。夜になるとムササビが飛び交う羽音がして、天狗が飛び回っているように思えたことを思い出します。
善通寺市デジタルミュージアム 葵の瀧 - 善通寺市ホームページ
葵の瀧

 流れ落ちる屏風岩の下に龍王社の祠が置かれます。ここが金毘羅大権現の祈雨の霊場で修験を重ねた社僧達がここで雨乞いを祈願したと私は考えています。宇賀弁才天が祀られるようになると、水の神である宇賀弁才天も雨乞い祈願の一端を担うようになったのでしょう。

四国のお寺には、かつては雨乞い神の善女龍王が祀られていた祠が、いつのまにか弁財天を祀る祠になっている所がいくつもあります。神様や仏様にも流行廃れがあり、寺社はあらたな神仏の「新人発掘」を行いプロモートの努力を続ける努力をしていたのです。それを怠ると繁栄していた神社もいつの間にか衰退の憂き目にあったようです。そういう意味では、江戸末期の金毘羅大権現の別当たちは、「新人発掘」に怠りがなかった。そのひとつの象徴が三天講の企画であり、そのための宇賀弁才天画の購入であったとしておきます。


以上をまとめておくと
①江戸時代になると商売繁盛の神として宇賀弁才天が信仰を集めるようになる。
②金毘羅大権現の別当金光院も、宇賀弁才天を勧進し三天講の開催を始める
③そのため宇賀弁天の本尊が春日神社から求められ、三天講の縁日の時には開帳されるようになる。
④宇賀弁天は、水神でもあったため雨乞い信仰の神としても信仰を集めるようになる
⑤その結果、それまでの善女龍王竜王に宇賀弁天がとって代わる所も現れた。
⑥江戸時代の庶民派移り気で、寺社も新たな流行神を勧進し信者を惹きつける努力を行っていた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     羽床正明 金刀比羅宮蔵 弁オ天画像考 ことひら57
関連記事

金毘羅大権現に成長して行く金毘羅堂の創建は、戦国時代のことになります。金刀比羅宮の宝物館には最初に登場した金比羅堂の棟札が展示されています。これは金刀比羅宮に残る最古の史料になります。これよりも古い史料はないと研究者は考えています。そこには次のように記されています。

宥雅建立の金比羅堂の棟札

 (表)「上棟象頭山松尾寺 金毘羅王赤如神御宝殿 当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉 
于時元亀四(1573)年発酉十一月廿七日記之」
 (裏)「金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
ここからは次のようなことが分かります。
①金毘羅王赤如神が金毘羅神のことで、御宝殿が金比羅堂であること。
②建立者は金光院の宥雅で、元亀四年(1573)で、松尾寺境内に「金毘羅王赤如神」を祀る金毘羅堂を建立したこと
③本尊の開眼法要の導師を、高野山金剛三昧院の良昌が務めたこと
②に登場する宥雅(俗名長尾高広?)は、長尾城主の弟とされる人物です。彼は長尾氏の支援を受けながらこの地に松尾寺を新たに建立します。その守護神「金毘羅王赤如神=金毘羅神」を祀るため金毘羅堂を建立したのが1573年のことになります。それでは金比羅堂は、どこに建立されたのでしょうか。今回は、創建時の観音堂や金比羅堂の変遷を追ってみることにします。テキストは羽床正明   松尾寺十一面観音の由来について ことひら平成12年」です。

宥雅は、善通寺で修行して、その末寺であった称名院を任されるようになります。

「讃岐象頭山別当職歴代之記」には次のように記されています。

讃州象頭山別当職歴代之記(
讃岐象頭山別当職歴代之記

宥範僧正  観応三辰年七月朔日遷化 住職凡応元元年中比ヨリ  観応比ヨリ元亀年中迄 凡三百年余歴代系嗣不詳」
意訳変換しておくと
宥範僧正は、 観応三年七月朔日に亡くなった。応元元年から  元亀年中まで およそ三百年の間、歴代住職の系譜については分からない。

宥範から後の凡そ300年近くの住職は分からないとした上で、「元亀元年」から突然のように宥雅を登場させます。この年が宥雅が松尾山の麓にあった称名院に入った年を指していると羽床正明は考えているようです。善通寺の末寺である称名院に、宥雅に入ったのは元亀元年(1570)頃としておきましょう。
 ここからは羽床氏の「金毘羅堂誕生説」を見ていくことにします

宥雅の建立した松尾寺と守護神金比羅堂の位置

宥雅は、「下の院=称名寺」にかわる「上の院=松尾寺」の建立を目指します。
まず荒廃していた三十番神社を修復して、これを松尾寺の守護神にします。三十番社は、甲斐からの西遷御家人である秋山氏が法華経の守護神として讃岐にもたらしたとされていて、三野の法華信仰信者と共に当時は名の知れた存在だったようです。同時に、三十番社の祠のそばに本堂として観音堂を建立したのが1571年、その後、金毘羅堂を建立したのが1573年とします。
 注意したいのは、その立てられた場所です。 松尾寺の本堂として観音堂が建てられたのは、現在の本宮の鎮座する所にあたります。そして、その守護神として金毘羅堂が建てられたのは、四段坂の下のだと研究者は考えています。両者の位置関係からしても、この宗教施設は松尾寺を主役で、金比羅堂は脇役としてスタートしたことがうかがえます。

5 敷石四段坂1
幕末の四段坂 当初の金毘羅堂はT39の創建された


今度は17世紀中頃正保年間の境内図を見てみましょう。
境内図 正保頃境内図:
正保年間の金毘羅大権現の境内図

  金毘羅神が流行神となり信仰をあつめるようになると、金毘羅神を祀る新しい御宝殿(金毘羅堂)は、観音堂を押しのけて現在地に移っていきます。そして観音堂は、その左前に押しのけられる形になります。
この時に現れた本宮について『古老伝旧記』は、次のように記します。
元和九年御建立之神殿、七間之内弐間切り三間、梁五間之拝殿に被成、新敷幣殿、内陣今之場所に建立也、

ここからは元和九(1623)年に建てた金毘羅堂の寸法などが分かります。同時に「神殿」とあり、次いで拝殿、幣殿、内陣とあるので神道形式の社殿であったことが分かります。こうして観音堂は、金比羅堂に主役を譲って脇に下がります。
 階段の下にあったそれまでの金毘羅堂は、修験者たちの聖者を祀る役行者堂となります。このあたりにも当時の金毘羅さんが天狗信仰の中心として修験者たちの拠点であったことがうかがえます。それは金光院の参道を挟んで護摩堂があることからも分かります。ここでは、社僧達がいろいろなお札のための祈祷・祈願をおこなっていたようです。神仏混淆化の金毘羅大権現を管理運営していたのは社僧達だったのです。
 創建当初の金毘羅堂には、祭神の金毘羅神は安置されていなかったようです。
代わって本地仏の薬師如来が安置されていました。金比羅堂が本宮として現在地に「昇格」してしまうと、それまで金比羅堂に祀られていた薬師様の居場所がなくなってしまいました。そこで新たに薬師堂が建立されることになります。
境内平面図元禄末頃境内図:左図拡大図konpira_genroku
元禄末期の境内図

薬師堂の建立場所は、鐘楼の南側の現在旭社がある場所が選ばれます
同時に高松藩初代領主の松平頼重の保護を受けた金光院は、境内の大改造を行い、参道を薬師堂の前を通って、本宮に登っていく現在のルートに変更します。
 また、観音堂も現在の三穂津姫社の位置に移します。そして観音堂の奥には、初代金光院院主の宥盛を祀る金剛坊が併設されます。宥盛は「死して天狗となり、金毘羅を守らん」と言い残して亡くなった修験のカリスマ的存在であったことは以前にお話ししました。全国から集まる金比羅行者や修験者の参拝目的はこちらであったのかもしれません。
 金光院のまわりを見ると、書院や客殿が姿を現しています。高松松平家の保護を受けて、全国からの大名たちの代参もふえてきたことへの対応施設なのでしょう。

金毘羅山本山図1
本宮と観音堂は回廊で結ばれている。その下の薬師堂はまだ小型

こうして松尾寺の中心的な3つの建築物が姿を現します。
金毘羅大権現 本宮
松尾寺本堂  観音堂
薬師堂          金毘羅神の本地仏
以後、明治の神仏分離までは、このスタイルは変わりません。

観音堂と絵馬堂の位置関係
幕末に大型化し金堂と呼ばれるようになった薬師堂が見える

19世紀になると、寺院の金堂は大型化していきます。
その背景には大勢の信者を集めたイヴェントが寺社で開催されるようになるためです。そのためには金堂前には大きな空間も必要とされます。同時代の善通寺の誕生院の変遷を見ても同じ動きが見られることは以前にお話ししました。
 金光院も急増する参拝客への対応策として、大型の金堂の必要性が高まります。そこで考えられたのが薬師堂を新築して、金堂にすることです。薬師堂は幕末に三万両というお金をかけて何十年もかけて建立されたものです。この竣工に併せるように、周辺整備や参道の石段化や玉垣整備が進められていくのは以前にお話ししました。
4344104-31多宝塔・旭社・二王門
金堂(薬師堂=現旭社)と整備された周辺施設(讃岐国名勝図会)

 そして明治維新の神仏分離で、仏教施設は排除されます。観音堂は大国主神の妻の神殿となり、金堂(薬師堂)は旭社と名前を変えています。金堂ににあった数多くの仏達は入札にかけられ売り払われたことが、当時の禰宜・松岡調の日記には記されています。ちなみに薬師像は600両で競り落とされています。また、ここにあった両界曼荼羅は善通寺の僧が買っていったとも記されています。

旭社(金堂)設計図
松尾寺金堂(薬師堂)設計図

 金堂は今は旭社と名前を変え、祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大御神、天津神、国津神、八百万神 などで平田派神学そのものという感じです。今は堂内はからっぽです。

金毘羅本宮 明治以後
神仏分離後の絵図 
観音堂は三穂津姫殿となり旧金堂は雲で隠されている

 以上をまとめておきます
①16世紀後半に長尾一族出身の宥雅は、新たな寺院を松尾山に建立し松尾寺と名付けた。
②その本堂である観音堂は三十番社の下の平地に建立された。
③観音堂の下の四段坂に、守護神金比羅を祀るための金比羅堂を建立した
④金比羅神が流行神として信仰をあつめると、観音堂の位置に金比羅堂は移され金毘羅大権現の本宮となった。
⑤松尾寺の観音堂は、位置を金毘羅神に明け渡し、その横に建立された。
⑥金比羅堂に安置されていた薬師像(金毘羅神の本地仏)のために薬師堂が建立され、参道も整備された。
⑦19世紀には、薬師堂は大型化し松尾寺の金堂として姿を現し、多くの仏達が安置されていた。
⑧明治維新の廃仏毀釈で仏殿・仏像は追放された。
境内変遷図1

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明   松尾寺十一面観音の由来について ことひら平成12年」


1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像2
琴陵宥常(ことおかひろつね)
 金毘羅大権現の最後の別当職は「宥常(ゆうじょう)」です。
彼は、明治の神仏分離の激流の中で、金刀比羅宮権現を神社化して生き残る道を選びます。そして、自らも還俗して琴陵宥常(ことおかひろつね)と名乗ることになります。彼が神仏分離の嵐とどのように向き合ったかについては、以前お話ししました。今回は、彼の結婚について焦点を絞って見ていきたいと思います。
  テキストは「山下柴  最後の別当職琴陵宥常の婚姻と山下盛好 ことひら39 昭和59年」で
1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像

  金毘羅大権現は、金光院の院主が「お山の殿様」でした。
金毘羅大権現は神仏習合の社で、最高責任者は、金光院の院主でした。社僧ですから妻帯できません。したがって跡目は実子ではなく、一族の山下家から優秀な子弟から選ばれていました。宥常の先代の金光院院主は、宥黙で優れた別当で和歌を愛する文化人でもありました。しかし、病弱だったようで、そのために早くから次の院主選びが動き出していたようです。 
皇霊殿遥拝式2

 山下家一族の中に、宇和島藩士の山下平三郎請記がいました。
その二男の繁之助(天保11年(1840)正月晦日生)の神童振りは、一族の中で噂になるほどで白羽の矢が当たります。宥黙は信頼できる側近の者を宇和島藩に派遣して、下調査を重ねた上で琴平・山下家への養子縁組みを整わせます。嘉永2年(1850)11月29日、10歳の繁之助は、次期院主として金毘羅に迎えられたのです。これが先ほど紹介した宥常で、18代別当宥黙(ゆうもく)の後継者に選ばれます。そして安政4(1857)年10月22日に第19代別当に就任しました。宥常18歳の時です。これを進めた琴平の山下家当主の盛好は、次のような歌を詠んでいます。
  「今日よりは象の御山の小松菊
       千代さかえ行く末や久しき」   
 ちなみに宥常は父平三郎、母おつ祢の二男で、兄弟姉妹は兄と妹3人の5人兄弟でした。宥常は、安政五年六月八日、徳川将軍家定公に御目見、同年七月十二日孝明天皇に拝謁しています。そして、明治維新を28歳で迎えることになります。何もなければ彼は、このまま金光院別当として生涯を過ごすはずでした。しかし時代は明治維新を迎え大きく変わります。「御一新」の嵐は、象頭山のにも吹き荒れます。
なぜ宇和島藩の藩士の子が、後継者に選ばれたのでしょうか。
 それは先述したとおり、金毘羅大権現のトップは山下家の一族の中から優秀な子弟から選ばれるよいうルールがあったからです。 山下家一族のうち、中の村(三豊郡)の山下助左衛門盛寿の男、盛昌、山下輿右衛門については
「延宝二年(1675)甲寅年、伊達侯に仕う。知行二百石、中奥頭取」
とあります。財田の出身の山下家の一族の中に、宇和島藩の伊達家に仕官した者がいました。それが山下盛昌で、俳諧が上手な文化人であったようです。山下盛昌は、琴平宮本社の棟札にも名が残っているので、恐らく金光院の関係で京、大坂へも上った際に、徘徊のたしなみを身につけたのでしょう。
 あるときに、金毘羅さん参詣した伊達家重役が彼の俳諧に傾倒し、宇和島まで同道し仕官を奨めたという話が伝えられます。時の藩主は、七万石に減石されていたのを元の十万石に高直したとされる名君伊達宗貳です。山下盛昌という人物に、文化人だけではない何かを見いだしたのでしょう。
 伊達家に仕えた山下盛昌は、中奥頭取にまで出世しています。彼が現実的経世的知識をそなえ、藩主の信頼を得ていたことがうかがえます。盛昌の叔父も宇和島藩の梶谷家(知行二百石)へ養子に入っています。こうして、山下家を通じて金毘羅さんは宇和島藩とのつながりを持っていたようです。
白峰神社例祭 …… 奥社遥拝


  琴平・山下家の盛好による嫁探し
 山下盛好の日記には
「小松を藤原朝臣に改め琴陵を廃し、小松屯に仕度申出候得共叶不申」明治二巳七月二十二日

とあります。宥常は金毘羅大権現を、神社化することで生き残る道を選びました。そして自らも還俗します。その結果、「嫁取り」の話が出て来ることになります。
 その候補者選びの方針は、「結婚相手を京都公卿の姫」に求めることだったようです。関係する高松藩松平家などから迎えるという選択もあったはずですが、公家から迎える道を選びます。御一新の時代、天皇家に近い公家との新たな関係を築くことが今後の金刀比羅宮の発展につながると考えたのでしょう。それでは、具体的に候補者をどのように選んだのでしょうか。
白峰神社例祭2

 具体的な候補者選びを行ったのは、琴平・山下家の盛好だとされています。彼の日記「山下盛好記」には、次のように記されています。
「御簾中 称千万姫・正二位大納言胤保卿御女 安政元申九月二日生レ玉フ」
「己レ今年両度上京六月二日 始テ保子姫御目見」
 盛好は二度上京し、交渉に当たったようで「辛労甚シ」とも書いています。千万姫は三十二才を迎えていましたが「才色兼備のお姫様、美しく漓たけた誠におやさしい」と宥常に報告します。これを聞いて、宥常は喜び「頬を染め厚く厚く礼を述べた」と、盛好は記しています。

潮川神事

結納や諸手続についての覚書が残されているので、見ておきましょう
一、御願立御日限之事但シ御下紙拝見仕度候事
  御内約御治定之上御結納紅白縮緬二巻差上申度候事 
  但シ右代料金五十両 差上度候事
  御家来内二ハ御肴料御贈申候事
一、御主従御手当金二百五十両差上申度候事 
  但シ御拵之儀 当方之御有合二而宜敷御座候事伏見御着 
  迄之警固入費金十五両差上候
  御乗船ヨリ当方マデ 御賄申上候御見送り御家来御開之
  節 同様京都迄御賄申上候事
  居残り御女中御手当金前後十五両御贈申候事
一、御供之儀 伏見御家政之内壱人御老女壱人御女中壱大
  御半下壱人刀差壱人御下部壱大二御省 略被下度 下部
  壱人当方ヨリ相廻シ申恨事 女中老人壱ケ年又ニケ年見
  合二而御嘔巾度似事
一、御由緒書拝見仕度候事
一、御内約御治定ノ上 先不取敢御肴料差上度候事
  但シ御家来内江モ同様御贈申上度候事
一、御土産物総而御断申上候事
一、御姫様御染筆御所望申上度候事
  右之件二御伺申上度営今之御時節柄二付可成丈御省略之御取計奉願候也
                 琴陵家従五位内
 明治四年辛未五月        山 下 真 澄
 
意訳変換しておくと
一、日取りや時間については、下紙(添付書)で確認すること
  御内約が整った上で、御結納は紅白の縮緬に巻いて差上ること。
  但し、代料金は五十両。御家来内には、御肴料をお贈りするこ
  と。
一、主従手当金として二百五十両を差上げること 
  但し、拵之儀(伏見までの警固費十五両)
  御乗船から金刀比羅宮までの費用、家来の京都までの見送り費用
  居残り女中の御手当金など、合わせて十五両
一、御供について、伏見御家、老女、女中、半下、刀差 御下部
  をひとりずつつけること。この費用については当方が負担するこ 
  と。女中老人は、1年か2年お供する予定である。
一、御由緒書を準備し拝見すること
一、御内約が決定した上で、御肴料を差上げること。但し御家来にも
同様の贈り物を準備すること
一、御土産物は、すべてお断りすること
一、姫様の御染筆(揮毫)を、所望すること
  以上についてお伺い申し上げ、御一新の時節柄に付き、省略できるものは省くようにお願いしたい。
            琴陵家従五位内
 明治四年辛未五月        山下真澄

 私が気になるのは婚礼費用です。
ここに出てくる数字だけだと650両前後になるようです。明治元年に新政府から求められて、貢納した額が1万両でした。この翌年に、神仏分離で廃物され蔵の中に収められていた仏像などを入札販売していますが、その時の一番高額で落札されたのは、金堂(現旭社)の丈六の薬師如来でした。その値段が600両と松岡調の日記には記されています。それらから比べると高額な出費とは、私には思えません。
金毘羅大権現 旭社
旭社(旧金堂)

こうして段取りが整った後、明治4年8月29日、山下盛好はお姫様をお迎えするため、粟井玄三、仲間の福太、房吉を連れ三度目の上京をします。そして約1ヶ月後の9月30日に、千万姫と共に丸亀港に還ってきます。その夜九ツに駕で丸亀を出発、丸亀街道を進んだようです。途中、小休止をニケ所でとり、無事に中屋敷へ到着します。
「御姫様御元気にて御休息。老女とよ、女中おゆき、家令の築山恒利大夫と挨拶をかわす。」
と記されます。その後の盛好記には、次のように記されています。

宥常殿報 恐悦至極ノ態 下山セシハ夜モホノボノ明渡り候事

「夜モ ホノボノ明渡り候事」に盛好の、満足感と大任を果たした安堵感がうかがえます。そして、3日後の「十月二日夜、御婚礼千秋万才目出度く」とあります。翌日、廣橋正二位大納言胤保殿へ逐一報告済と記るされています。
 18歳で出家し、金光院別当となった時には、仏に仕える身となりました。もう家庭をもつことは、なくなったと思っていた宥常は、32歳で妻帯することになったのです。そして一男二女を設けます。これを契機にするかのように、金刀比羅宮には追風が吹くようになります。
 金比羅講に代わって、近代的なシステムに整備されたは、多くの信者を組織化し、金刀比羅宮へと送り込むようになります。まさに「金を生むシステム」として機能するようになります。そこから生まれる資金を背景に、宥常は博覧会や新たな神道学校作りなどに取り組めるようになります。事業的にも、家庭的にもまさに「追い風に帆懸けてシュラシュシュシュ」だったのかもしれません。

 最後に宥常が21才の時に、京に上がって天皇に拝謁の時の記念として、御厨子を京で作らせ盛好に贈っています。自分を、院主に付けてくれた感謝の意だったのかもしれません。そこには次のように記されています
   奉献御厨子
    右意趣者為興隆仏法国家安穏
    殊者山下家子孫繁栄家運長久
    而已敬白
   万延元康中歳二月吉辰
      金光院権大僧都 宥常
 また「京師堀川 綾小路正流仏工 田中弘造 刻」ともあります。
この御厨子は、今は山下家の菩提寺の山本町の宋運寺(盛好の遠祖、山下宗運建立)に保管されているようです。この奉献厨子の中には、山下家云々とあります。ここからは、二人の間には山下家としての同族意識があったことがうかがえます。金毘羅大権現の影の実力者として山下家は山内に、大きな影響力を持ち続けていたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
1琴綾宥常 肖像画写真

琴綾宥常 高橋由一作

参考文献
「山下柴  最後の別当職琴陵宥常の婚姻と山下盛好 ことひら39 昭和59年」で

 金刀比羅宮 - Wikiwand
琴陵宥常
神仏分離令を受けて、若き院主宥常は金毘羅大権現が仏閣として存続できることを願い出るために明治元(1868)年4月に京都に上り、請願活動を開始します。しかし頼りにしていた、九条家自体が「神仏分離の推進母体」のような有様で、金毘羅大権現のままでの存続は難しいことを悟ります。そこで、宥常は寺院ではなく神社で立ってゆくという方針に転換するのです。
宥常(ゆうじょう)は,還俗し琴陵宥常(ひろつね)と改名します。彼が金毘羅大権現最後の住職となりました。

  神仏分離令をぐる金毘羅大権現の金光院別当宥常の動きを最初に年表で見ておきましょう。
明治元年(1868)
2月 新政府の神仏分離令通達
4月 金毘羅大権現の存続請願のために、宥常が都に上り、請願活動を開始
5月 宥常(ゆうじょう)は,還俗し琴陵宥常(ひろつね)と改名
5月 維新政府は宥常に、御一新基金御用(一万両)の調達命令
7月 金毘羅大権現の観音・本地・摩利支天・毘沙門・千体仏などの諸堂廃止決定
8月 弁事役所宛へ金刀比羅宮の勅裁神社化を申請
9月 東京行幸冥加として千両を献納。
   徳川家の朱印状十通を弁事役所へ返納。
   神祇伯家へ入門し、新道祭礼の修練開始
11月 春日神社富田光美について大和舞を伝習
    多備前守から俳優舞と音曲の相伝を受ける
12月 皇学所へ「大日本史」と「集古十種」を進献。
明治2(1869)年2月,宥常が古川躬行とともに帰讃。
ここからは、京都に上京した宥常が、監督庁に対して今後の関係の円滑化のために、貢納金や色々な品々を贈っていることが分かります。同時に神社として立っていくための祭礼儀式についても、自ら身につけようとしています。ただ、神道に素人の若い社務職と、還俗したばかりの元社僧スタッフでは、日々の神社運営はできません。そのために、迎えたのが白川家の故実家古川躬行です。彼は、宥常の帰讃に連れ立ってと金比羅にやってきたようです。
  月が改まった3月には,御本宮正面へ
 当社之義従天朝金刀比羅宮卜被為御改勅祭之神社被為仰付候事

という建札を立てています。実際に、金毘羅大権現から金刀比羅宮への「変身」が始まったのです。
  今回は、金毘羅さんの仏閣から神社への「変身」に、古川躬行が果たした役割を見ていきたいと思います。
 別の言い方をすると、神社として生きていくためのノウハウを、古川躬行がどのようにして金刀比羅宮に移植したかということです。仏閣から仏像・仏具が撤去するだけでは神仏分離は終わりません。仏教形式で行われていた祭礼や諸行事を神道化することが求められました。これは、書物だけでは習うことは出来ません。手取、足取り、口移しで習う種類のものです。明治政府が西洋文化・技術の移植のために、高い給領を支払って御雇外国人を招聘したように、金刀比羅宮も「お雇い京都人」を招く必要があったようです。
 そのために、京都滞在中の宥常が白羽の矢を立てたのが白川神祇伯家に仕える故実家の古川躬行でした。
古川躬行について、人物辞典では次のように記されています。
  没年:明治16.5.6(1883) 生年:文化7.5.25(1810.6.26)
幕末明治期の国学者,神官。号は汲古堂。江戸生まれ。黒川春村の『考古画譜』(日本画の遺作中心の総目録)を改訂編纂,『増補考古画譜』として完成したのは黒川真頼と躬行であり,その随所に「躬行曰」と記してその見識を示した。横笛,琵琶にも堪能であったという。明治6(1873)年枚岡神社(東大阪市)大宮司,8年内務省出仕。10年大神神社(桜井市)大宮司を経て,15年琴平神社(香川県)に神官教導のために呼ばれ,同地で没した。<著作>『散記』『喪儀略』『鳴弦原由』(白石良夫)
1古川

 古川躬行は、文化7年(1810)の江戸で生まれですので、明治維新を58歳で迎えていたことになります。別の人物辞典には
「幕末・維新期の国学者・神職で、早くから平田鉄胤に入門して国史・古典を修めるともに古美術(古き絵や古き絵詞)・雅楽にも造詣が深く、琵琶や龍笛も得意としていたようです。旧幕府時代には白川神祇伯家の関東執役を勤めており、通称を素平・将作・美濃守と称し、号を汲古堂と称した」

とあります。

1古川躬行

  彼が琴平にやってきたのは、先ほど見たように明治2年(1869)2月末のことです。
「扱記録門』二月二十八日条に、次のように記されています。

二月二十八日 此度大変革二付、御本社祭神替ヲ始、神式修行都而指図ヲ相請候人、於京師御筋合ヨリ御頼二依テ、白川家古実家古川躬行(みつら)ト申人来

意訳すると
二月二十八日 この度の大変革について、本社の祭神変更を始め、神式修行などの指示を受けるためにに招いた人である。京都の筋合からの話で、白川家古実家の古川躬行(みつら)という人がやってきた。

と記されています。宥常が1年近くの京都滞在から引き上げてくるのと、同行してやってきたようです。
さらに翌日の記録には次のように記されています。
            
2月29日夜、御本社金毘羅大権現、神道二御祭替修行、次諸堂、御守所等不残御改革に相成、御寺中(じちゅう)、法中、御伴僧、小僧辿御寺中へ相下ケ、禅門替りハ不取敢手代ノ者出仕、御守所小僧替りハ小間遣ノ者拍勤候也、当日ヨリ御守札、大小木札等都而御改二相成、以前之守ハ都而御廃止二成ル。
             (『金刀比羅宮史料』第九巻)
意訳しておくと
2月29日夜、本社金毘羅大権現の神道への改革のために、諸堂、守所など残らず改革されることになった。寺中(じちゅう)、法中、社僧や小坊主などは、すべて山下に下ろした。僧侶は使わずに手代が代わって出仕した。守所の小僧に代わって小間使いのものが勤めた。この日から御守札、大小木札等の全ては新しいものに改められて、以前のお守りは廃された。

とあります。着任翌日から改革に着手していることが分かります。社僧達が境内から追放されるという「現物教育」は、おおきなショックを山内の者達に与えたでしょう。
『禁他見』(部外秘)とある「琴陵光煕所蔵文書」の中には次のような記述もあります。
  明治二巳年二月二十九日夜
 御本宮神道二御祭替、魚味(ぎょみ)献シ、御祭典御報行被遊候事、附タリ、二月晦日、西京ヨリ宥常殿御帰社之事、右御祭替へ、古川躬行大人、神崎勝海奉仕ス。
  『金刀比羅宮史料』第八十五巻)
意訳すると
 明治2年2月29日夜  本宮の神道への御祭替に際して、魚味(ぎょみ=鯛? つまり生魚)が献じられ、祭典変革について神殿に報告した。二月晦日、京都より宥常殿がお帰りになり、御祭替については古川躬行と神崎勝海が奉仕することになった
                
 
全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 朝祭

社僧を山下に「追放」した後の夜、本殿神前には「魚味」が供えられています。それまでの「精進」をモットーとする仏閣からの転換であり、ある意味では神仏分離を象徴する典型的なアクションだったとも言えるようです。着任と同時に、具体的な改革が断行されたことが分かります。まさに、古川躬行の着任が金刀比羅宮の神式祭礼への改革スタート点だったようです。

 「金刀比羅宮神仏分離調書」にみる祭典の変革    
 明治政府は「神仏分離」に伴なう祭典行事や儀式作法の変革について、その変更点を調書として提出させています。
 金刀比羅宮は、どのような点を変革したと自己申告しているのでしょうか。「金刀比羅宮神仏分離調書」の中に記された変更点を見ていくことにします。
  〔本社〕意訳文
本社関係の祭礼行事については、神仏分離のための変遷は極めて少なかった。祭礼行事は、殆んどそのまま引き継がれた。ただし、これを行う方式や作法については、両部神道式を純然たる神道式に改めた。以前には両部神道式に、祝詞を奏し、和歌を頌し、中臣祓を唱へ、再拝拍手をなすなど神道の形式が多かったが、両部のために仏教形式の混入も少なくなかった。これらの神仏混淆の作法は、分離して純然たる神式に改めた。今金毘羅大権現の重要な祭礼行事に就いて、その変遷の概要を述べたい。
 
  祭礼行事に大きな変化はなかったとします。
しかし、10月10日の大祭神事は別で、大きな改変を伴うものになったようです
 大祭の変更については、倉敷県に出された明治三年十月の報告書には、次のように記されています。
 十月の大祀については、当年より次のように改めることになった。十日夕方に上、下頭人登山し、式後に神輿や頭人行列が、神事場の旅所向けて山を下る。到着後に、神事・倭舞を奉奏する。十日夜は御旅所に一泊、11日夕方上下頭人御旅所に相揃って式を済ませ、神輿が帰座する。御供が夜半のことになるが、御前(琴陵宥常)にも汐川行列の御供にも神輿の御供にもついていただき、11日まで御旅所に逗留し、神事の執行を行う。祝、禰宜、掛り役方などのいずれも10日から11日まで、御旅所へ詰める。
 本宮に待機し、9日夜の神事倭舞の助役舞人に加わり、旅所での十日夜倭舞にも参加する。
神人(五人百姓)の協力を得て、11日に神事が終われば、本宮から神璽を守護して丸亀に罷り越し、12日に帰社する。但し、駕龍、口入、両若党、草履取、提灯持四人、合羽龍壱荷の他に、警護人も連れ従わせる。神璽の先ヱ高張ニツ、町方下役人が下座を触れながら、街道を行く
 当社の十月十日、十一日の大祭について、先般の改革のため当年より金刀比羅宮宮神輿、頭人行列の変更点について、以上のように報告する。
以上、
 八月             金刀比羅宮社務
                琴 綾 宥 常 印
倉敷県御役所

 それまでの大祭行列は、観音堂と本宮の周辺で行われていたようで、境内を出ることはありませんでした。それが明治3年(1870)10月の大祭から神事場(御旅所)まで、パレードするようになります。そのために石淵に新たに神事場(じんじば)が整備されます。
神事場へのコースは、石段を下りて、内町から一の橋(鞘橋)を渡って、阿波街道を使っていたようです。後に、鞘橋が現在地に移されてからは通町をゆくようになります。山上の狭い空間で行われていた頭人行列が山下へ下りてきて、街道をパレードするようになった効果は大きかったようです。

金刀比羅宮最大の祭礼「例大祭」が齋行されました。 | イベントニュース | こんぴら へおいでまい | 古き良き文化の町ことひら 琴平町観光協会

 例えば内町に軒を並べる老舗の旅館外は、目の前を行列が通過するようになります。これはセールスポイントになります。大祭に合わせて全国から参拝にやってくる金毘羅講の信者には、何よりの楽しみとなります。参拝者を惹きつけるあらたな「観光資源」が生み出されたことになります。

金刀比羅宮最大の祭礼「例大祭」が齋行されました。 | イベントニュース | こんぴら へおいでまい | 古き良き文化の町ことひら 琴平町観光協会

 境内の旧仏閣は、どのように「変革」されたのでしょうか
 「金刀比羅宮神仏分離調書」をもう一度見てみましょう。
[境内仏堂]
 仏堂に於ては素より仏式の作法なりしが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃され、其建物は概ね境内神社の社殿に充当せらるヽと共に、仏式作法廃滅せり。
     (『中四国神仏分離史料』第九巻四国・中国編)
意訳すると
 仏堂は、もとから仏式作法であったが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃された。その建物は、境内神社の社殿に充当した。共に、仏式作法は廃滅した。

ここからは、両部神道形式の祭典の改正・変更が行われたこと、境内仏堂の廃止とその跡建物を利用した神社の整備・変更などを行なったことがうかがえます。
  さて政府に出された「金刀比羅宮神仏分離調書」を見てきましたが、これを書いたのは誰でしょうか。候補者は次の3人です。
①琴綾宥常(維新時28歳)
②松岡調  (維新時38歳)
③古川躬行(維新時58歳)
山下家当主であった琴綾宥常の業績を大きく評価する立場からすると、彼が神道への改革を取り仕切ったという説が多いようです。しかし、私にはそうは思えないのです。まず、その年齢と経験です。それまで真言宗の社僧として成長してきた宥常にとって、神道平田派の教理も祭礼なども殆ど知らないことばかりなのです。そんな彼に、仏閣から神道への衣替えをやりきる知識と実行力があったかというと疑問になります。
 何回か神仏分離調書(回答書)を読み直してみて感じることは、自信に満ちた文章で、報告書と云うよりも師匠が弟子に教え諭すような雰囲気がします。これが書けるのは古川躬行だけでしょう。彼は先ほど見たように、何冊かの本も出版している中央でも名の知れた神道の学者でもありました。彼が政府に提出した報告書に、頭からクレームが付けられる神学官僚はいなかったのではないでしょうか。②松岡調は、彼の日記などを見るともう少し実務的な仕事を、この時点では行っていたようです。
 金刀比羅宮の神仏分離の変革の立役者は、古川躬行だったと私は思っています。

古川躬行のプランに基づいて旧仏閣建築群が、どのようになったのかを報告書から見ていくことにします
 神仏分離の結果、金光院時代の諸仏堂を再利用して、明治2年(1869)6月に、次のような末社が創り出されています。
 ①旭社・②石立神社・③津嶋神社・④日子神社・⑤大年神社・⑥常磐神社・⑦天満宮・⑧火産霊社・⑨若比売社
 さらに、従来からの末社を次のように改称ています
旧金剛坊→⑩威徳殿、旧行者堂→⑪大峰社、
大行事堂→⑫大行事社

これだけの改革のための全体プラン作り、実行していったのも古川躬行を中心とするスタッフだったようです。
1金毘羅金堂 旭社

具体的に①の旭社の改変をみてみましょう。
 旭社は、松尾寺の金堂に当たります。「金堂上梁式の誌」には、次のように記されています
「文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね弐万余の黄金(2万両)をあつめ今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」

文化3年(1806)の発願から40年の歳月をかけて完成したのが金毘羅さんの金堂でした。「西国一の大きな建物」というのが評判になって、金毘羅さんのセールスポイントのひとつにもなっていました。代参に訪れた清水次郎長の子分・森の石松が、本宮と間違えて帰ってしまい、帰路に殺された話の中にも登場する建物です。
 建立当時は中には、本尊の菩薩像を初めとする多くの仏像が並び、周りの柱や壁には金箔が施されたようです。それが明治の廃仏毀釈で内部の装飾や仏像が取り払われ、多くは売却・焼却され今は何もなくがらーんとした空間になっています。金箔も、そぎ落とされました。よく見るとその際の傷跡が見えてきます。柱間・扉などには人物や鳥獣・花弄の華美な彫刻が残ります。

かつての金堂 - 金刀比羅宮 旭社の口コミ - トリップアドバイザー

 この旭社(旧金堂)は、神道の「教導説教場」として使用されたことがあります。
神道の「三条の教憲」を教導するための講演場となったのです。その際に、天井や壁などから金箔がそぎ落され、素木となったようです。記録には「明治6年6月19日素木の講檀が竣成」とあります。説教活動が行なわれますが、神主の話は面白くなく、教導効果を上げることが出来なかったようです。そのため明治15年(1882)には説教講演は取りやめられます。その時に講演に使われていた講檀も撤去されたようです。そして、明治29年(1896)1月に、社檀を取り除いて殿内に霊殿を新築し、現在に至っているようです。
金刀比羅宮(香川県琴平町) : 好奇心いっぱいこころ旅

さて、神仏分離で仏さんを取り除いたあとの旧金堂(旭社)には、何が祭られているのでしょうか。
 神殿への改装当初の祭神は、
①伊勢大神の意をもって天照大御神
②八幡大神の意をもって誉多和気尊
③春日大神の意をもって武雷尊
の三神を祀っていたようです。それが明治6年(1873)7月に誉多和気尊と武雷尊とを境内末社常磐神社に移し、境内末社の産須毘社(旧大行事堂、後の大行事社)を廃社にして、そこに祀られていた祭神の高皇産霊神を合祀したようです。さらに後には、天御中主神・神皇産霊神・天津神・国津神をも合祀されて今日に至っているようです。しかし、閉ざされた建物の中をのぞき見ても何もない空間のように、私には見えるのです。幕末に金堂として建てられた仏閣を、持てあましているようにも見えます。参拝客も旭社の意味を分からずに、その大きさに圧倒されてお参りはしていきますが、何かしら不審顔のように思えるのです。
 話が逸れてしまったようです。古川躬行にもどりましょう
 古川躬行は、その後も亡くなるまで琴平にいたのかと私は思っていました。ところがそうではないようです。金刀比羅宮での指導後は枚岡(ひらおか)神社大宮司、大神神社大宮司などを歴任します。大神神社は三輪大明神とも呼ばれ大和の一宮です。その大宮司と云えば神職の長で、祭祀および行政事務を総括する役職にまで登り詰めています。彼は忙しい日々の中で、著述活動も続けています。そのような中で、琴平を離れた後も神職教導のために再三の招聘に応じています。
『盛好随筆』第六巻の明治15年8月条に、
 古川躬行先生、去ル十四日札ノ前 登茂屋久右衛門方法着、同十五日御山内壱番屋シキヘ引移り、十八日御本宮参拝、暫ク此方へ御雇入二相成候趣ナリ、(『金刀比羅宮史料』第五十二巻)
意訳すると
 古川躬行先生が去る14日に札ノ前の登茂屋久右衛門方に宿泊した。翌日15日に山内壱番屋へ移り、18日に本宮を参拝、しばらく金刀比羅宮で、雇入になるとのことである。

  この時の招聘にどんな背景があったのかは分かりません。
最初明治2年にやって来て、行なった神式改正の指導から15年近くが経っています。神式による祭典や摂末社の整備改廃整備も一段落していたので、この時には社務所分課章程・年間恒例祭典の祭式・祝詞・幣帛(神饌)などを一冊に取り纏めた『官私祭記年史祚』を琴平で著しています。そして、翌16年(1883)5月6日に、琴平の地において死没します。享年75歳でした。
 古川躬行の死去に際して、当時金刀比羅宮の運営する明道学校の教長であった水野秋彦は、次のような誄を起草しています。
うつりすまして、年の一年へしやへりやに、春のあらしに吹らる花口かなく過ぬる大人は、もとはむ古事たれこたふとか、過ませるたとらむみやひ誰しるへすとか、過ませる古川の大人や、かくあらむとかねてしりせは、古事のことのことこととひたヽしておかましものを、たヽしおかすてくやしきかも、ことのはのみやひのかきり、きヽしるしておかましもの、しるしおかすてくちをしきかも、しかはあれとも、くひてかひなき今よりは、かの抗訳のふかき契を、松の緑のときはかきはに忘れすしてのこしたまへる飢ともを、千代のかたみとよみて伝へて、もとより高きうまし名を、遠き世まてにかたらひつかせむ、かれこの事を、後安がる事のときこしめせ、石上古川大人、正七位古川大人。
     (『水野秋彦遺稿』〔『金刀比羅宮史料』第五十八巻)

古川躬行墓所については、次のように記されています。
  昨六日四時、古川躬行先生死去、齢七十五歳、
墓処遺言 但願旧主御代々之墓処ノ内 東南ノ処へ葬候事、(下略)、
 (『山下盛好随筆』第六巻 明治十六年五月七日条〔『金刀比羅宮史料』第五十二巻)
古川躬行の墓所は広谷の金光院歴代別当墓所域内の南東の角に設けられたようです。
金刀比羅宮 | 令和2年 累代別当及歴代宮司墓前祭
金毘羅大権現累代別当及び金刀比羅宮歴代宮司の墓域

このことからも琴陵宥常の古川躬行に対する想いがうかがえます。若い宥常が京都で古川躬行に出会ったことが、金毘羅さんを仏閣から神社へと変えていくための頼りになる指導者を得ることにつながりました。古川躬行の晩年を琴平で過ごしてもらい、出来るだけの加護をしたいという気持ちで、三度目の招聘を行ったのでしょう。ある意味、恩返しのような気持ちもあったと私は考えています。
   墓所については、神仏分離に難局に対して立ち向かった最大の貢献者(功労者)に対する礼のように思えます。「琴陵宥常にとって最大級の畏敬の表現」と研究者は考えているようです。

     参考文献   西牟田 崇生  金刀比羅宮と琴陵宥常  国書刊行会

全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 結願祭

 明治7年に国の進める神道国教化政策に沿って、信徒の組織化のために金刀比羅宮が崇敬講社(以下・講社)を設立したことを、前回はお話ししました。金刀比羅宮には、「金刀比羅宮崇敬講社」の講員(会員)名簿(=講帳)が約14000冊ほどが保存されているようです。それらの「講帳」の約半数の調査が行われ、報告書として『金刀比羅宮崇敬講社講帳目録』が出されています。これをテキストにして、講帳から見えてくることを挙げていきましょう。
 報告書のはしがきには、講帳について次のような指摘がされています。
①講帳は、北海道から沖縄までの全国の会員を網羅するものである
②取次定宿名とあるのは、講員がそれぞれ属した講元のことである。「定宿」が地域の名簿作成の責任者となっている。
③「筆乃晦→桜屋源兵衛」とあるのは、講員株が講元筆乃海から講元桜屋源兵衛へ売却されたことを示している。つまり、講員名簿は「定宿」間で売買されていた。
④講元は「定宿」(その地域の旅館)で、講員と日常的に接触し、一方で金刀比羅宮参詣の際には宿泊していた
全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 朝祭

 「崇敬講社講帳」の記載内容については
江戸時代に隆盛をきわめた参詣講には「伊勢講・高野山講・出羽三山講・白山講・大山講・立山講等」などがあります。これらの講帳には、戸主だけが記されています。それでは金刀比羅宮の場合は、どうだったのでしょうか
『金刀比羅宮崇敬講社講帳』の記載内容の実際を見てみましょう
「講帳」第壱号の巻頭部分を見ると、
名東県下讃岐国第廿一大区五小区那珂郡琴平村居住
明治七年十一月一日入構
               琴 陵 宥 常 印
                  当戌三拾六歳
  同         妻   千 萬 二拾一歳
  同    死去   長男  千 盾   壱歳 
            長女  瑞 枝 十年十ヶ月
            次女  八千代 九年一ヶ月
            三女  勝 也 六年十ヶ月
            四女  賢 子 二年七ヶ月
とあります。当時は前年から香川県は廃止され「阿波+淡路+香川」で名東県になっていました。一番最初に記されている人物は、金刀比羅宮社務職の琴陵宥常です。金刀比羅宮講帳には各戸の戸主が筆頭にかかれ、そのあとに続けて妻・小供・同居人の順に家族全員の名前が記され、さらに戸主との続柄、年齢までが記入されているのです。
続いて、一人置いて
名東県下讃岐国第廿一大区五小区那珂郡琴平村寄留
         松岡 調 印 当戌四拾五歳
   死亡 母  脇屋里喜      五拾七歳
   死亡 妻  松岡須磨      二拾九歳
   死亡 長男同 徳三郎       十八歳
      長女同 喜 志        八歳
      次女同 安 佐        五歳
      次男同 多 平        一歳
      
と続きます。松岡調は、すでに何回も登場していますが、讃岐の神仏分離政策の中心人物で辣腕を振るい、それが認められて、当時は金刀比羅宮の禰宜職についていた人物です。
 ここからは「講帳」第壱号は、事比羅宮社内の講者名簿であることが分かります。次いで第弐号が坂町、以下札ノ前・愛宕町・高藪町・金山寺町・谷川・奥谷川・片原町・阿波町・内町・西山・新町と琴平村内各町から榎井村の人々へと人講名簿が続きます。
 象頭山のお膝元のエリアでは、明治8年(1875)7月頃までには崇敬講社への加入が終わり、その後四国全域からさらに全国に広がる講社入講が進められていったことがうかがえます。
 金刀比羅宮の崇敬講が、家族ぐるみで講員を把握しようとしていた狙いはなんなのでしょうか。
 この内容であれば、世代が変わっても講員を追いかけることができます。永続的に利用できる台帳の作成を狙っていたようです。ここまで見てくると、これはどこかで見たことのあるシステムに似ています。そうです。中世の熊野信仰の熊野行者の先達と檀那の関係に、よく似ているようです。熊野行者の歴史に学んでいる様子がうかがえます。 

全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 結願祭2

 調査対象になった7277冊の「崇敬講社台帳」は、全体の半分に当たります
帳簿の形態は美濃紙ニッ折  版の袋綴で、用紙は有罫の美濃紙に書かれているものを、1冊約50枚毎に綴じ込んでいるようです。7277冊の冊数を地域別にみると、
第1位四国2832冊(38・8%)
第2位中国2457冊(33・7%)
第3位近畿620冊、
第4位中部502冊、
第5位九州391冊、
第6位関東203冊
第7位北陸163冊
第8位北海道・東北113冊
とで、中四国で全体の3/4を占めます。
 旧国別ベスト10を挙げてみると
1 土佐842冊
2 伊予814
3 阿波524
4 備中484
5 出雲466
6 備前297
7 伯耆308
8 丹波276
9 美作266
四国・中国地方の冊数が多いようです。しかし、地元の讃岐が見えません。

全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 結願祭3

年代的に、いつごろからこの帳簿が作成されたかをみてみると、
金刀比羅宮が「金刀比羅宮崇敬講社」の設立を教部省に願い出でのが
明治7年2月です。その翌年の明治8年から播磨・備前・備後・讃岐・伊予の名簿作成が始まっているようです。明治9年になって、先ほどのベスト10の伯署・丹波を除く8か国が、作成を始めています。地域的には中国・四国は明治9~12年頃に作成されています。それ以外は、3,4年遅れてスタートしています。金刀比羅宮は、まず地元から講社を再編成し、次第にその範囲を同心円的に全国に押しひろげていったことがうかがえます。

奉納品 崇敬講社看板 
 講元(取次定宿)は、江戸時代の金毘羅講の御師の系譜を引く家柄と研究者は考えているようです。
 彼らが講を組織化し、お札やお守りを全国各地へ定期的に配布します。それだけでなく彼らは、会員名簿を作成し、組織強化の原動力になったようです。同時に、この名簿は熊野行者の「檀那」名簿とおなじで「金のなる木(名簿)」でもありました。金毘羅さん指定の「定宿」の「金看板」と共に、売買の対象となったことは、先ほど見たとおりです。このような経済的な利益が背後にあったことも、「定宿」が熱心に講員獲得に動いた背景なのでしょう。
 江戸時代に象頭山で修行した「金毘羅行者」たちが、全国に散らばり金毘羅信仰を広め、先達として、金毘羅さんに誘引するとスタイルの近代バージョンとも思えてきます。
 
全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月9日 朝祭

 「金刀比羅宮崇敬講社規則」には「講員は少なくとも年に一度は、事比羅宮に参拝すること」と定められています。

講員は、これにに従わなければなりません。香川県内の講員は「総参り」と称して講員全員が揃って参拝したようです。遠隔地の講員の場合には、江戸時代と同じように交代で「代参」するスタイルがとられました。
講員の参拝には、一般の参拝者とは異なる取扱いが行われたようです。特別扱いということでしょうか。例えば、一般の参拝者には許されていなかった「内陣入り」という拝殿に上がって参拝祈祷することが許されました。また、「講社守」(「一代守」とも称した)といわれる講員だけが手にできる特別の守札もありました。さらに、講員や講社からの奉納物の取次などについても便宜が計られるなど、「金刀比羅宮崇敬講社」の講員に対しては、一般の参拝者とは異なった特別接遇が行われていたようです。これは、ありがたみが増すと共に、自尊心が擽られます。悪い気にはなりません。「講員になっていてよかった」と、思ったとしておきましょう。
 こうして、講員はうなぎ登りに増え、明治22年(1889)5月頃には講社員300万人を越えるまでになります。
1崇敬講社加入者数 昭和16年

図11からは、太平洋戦争に突入する昭和16年の各県の新規会員数が分かります。
①東京・大坂・愛知・兵庫などの都市圏で新規講員の数が多いこと
②四国の愛媛・高知も新規加入者が多い
③それに対して、香川・徳島の伸びが鈍化しています。飽和状態に近づいてきたのでしょうか。
④領土的拡大や膨張とともに台湾。朝鮮・樺太・関東州・満州などからの加入者も増えている

実際に金毘羅詣は、どのような形で行われていたのでしょうか。
 丸亀市通町の崇敬講社の金毘羅参拝の様子を見てみましょう。
  竹内左門「琴平山博覧会と丸亀通町の金比羅敬神講」〔『こと比ら』37 昭和五十七年新春号〕
これも母から聞いた話である。①通町には年三回、二五銭ずつを積み立てて、金ぴらまいりをする敬神講があった。②毎年五月十日に、大体百人一組で、丸亀から汽車で琴平へおまいりに行った。
③休憩所は登茂屋久兵衛(現在舟々せんべいを売っているあたりだった)、ここは間口も広く奥行き深く、山を形どった庭、それに座敷も広かった。九時頃宿屋へ着くと、まず風呂にはいり、浴衣に着かえるとお茶漬がでる。鰭の煮付けにフキをあしらった皿物、かし椀(香味、カマボコ、麹など)、漬け物といった膳立てである。

 茶漬けが終わると、④一同勢揃いしてお山にのぼり、本社拝殿に詣でて、お祓いを受ける。そして、拝殿で八乙女の神楽舞を拝観する。囃子(ハヤシ)方は、男四人宛両側に並び、せき鉦(ショウ)、笛などの楽器を奏し、紫の袴の巫女(ミコ)が琴を弾ずる。舞が終ると内陣にはいって今度は金の御幣でまたお祓いを受ける。これで約一時間かかる。
   お山を降りて、⑤社務所では千畳敷(書院のこと)を拝観、つぎに大広間でお膳につく。簡単なものであるが、これがなかなか有り難いのである。背の高い、丸型に押し抜いた赤飯が、白紙を敷いた高坏(タカツキ)に盛られ、木皿にはスルメと昆布、盃には宮司が御神酒を注いでくれる。その上に紅白の折り物が出る。
 それからいよいよ最後の行事である⑥神籤(カミクジ)を各人がひくのである。これが当日の第一の楽しみであり、またこれが金比羅敬神講の山場でもある。三等まで賞品がつく。
 籤引きが終われば、⑧一同宿屋に帰って会席膳について寛ぎ、おまいりもここに終了となるのである。
全予算七五円のうち、二五円はお山に奉納、五〇円が宿屋の支払いだったという。
   ここからは次のような事が分かります。
①年三回、25銭ずつを積み立てて、金毘羅詣りを敬神講があった
②毎年5月10日に、百人一組で、丸亀から汽車で琴平へおまいりに行った。
③崇敬講社指定の休憩所(定休み)は登茂屋久兵衛で、九時頃宿屋へ着くと、風呂に茶漬を食べた。
④一同勢揃いして、本社拝殿に詣でて、お祓いを受け、拝殿で八乙女の神楽舞を拝観する。
⑤社務所では千畳敷(書院のこと)を拝観、つぎに大広間でお膳につく。
⑥最後の行事である神籤(カミクジ)をひく。これが当日の第一の楽しみであった。
⑦籤引きが終わると、宿屋で会席膳で寛ぎ終了となる。
⑧全体の予算七五円のうち、25円はお山に奉納、50円が宿屋の支払いだった
街毎に金毘羅講があり、会費を徴収して、5月に100人の団体で金比羅にお参りしていたようです。汽車で琴平駅について、すぐにお参りするのかと思えばそうではありません。まずは、崇敬講社の指定する宿屋(定休)で、お風呂に入り身を清めて、浴衣に着替えて茶漬けを食べてからです。
奉納品 崇敬講社看板 定休
 
 江戸時代の元禄年鑑に書かれた屏風絵には、金倉川に架かる鞘橋の下で、コリトリ(禊ぎ)をする信者の姿が描かれています。お風呂に入って、身を清めてから参拝するというのも「コリトリ」の発展変形バージョンかもしれません。
 講員の参拝ですから次のような「特別扱い」を受けています
④拝殿に上がってお祓いを受け、八乙女の神楽舞を拝観
⑤社務所書院の千畳敷の拝観とお膳
講員をお客様として、神社側も接待していた様子がうかがえます。
 隣近所の人たちと連れだって、新緑の5月の象頭山に登るのは、ある意味レクレーションでもあったし、古代以来の霊山への参拝の系譜につながるものであったかもしれません。

DSC01531戦時下の金刀比羅宮集団参拝
戦時下の戦勝祈願のための金刀比羅宮日参

 このような講員組織を、近代日本の国家は、国家神道の一部に組み込んでいきます。日中戦争が激化すると、地域での金刀比羅宮への参拝を半強制化するようになります。太平洋戦争に突入すると、順番を決めて地域代表の日参化を強制するようになります。それが、可能であったのも明治の時代から金比羅講が組織化され、地元の人たちが金毘羅詣でを日常生活の中に取り入れていたから出来たことかもしれません。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献 
西牟田 崇生  金刀比羅宮と琴陵宥常  国書刊行会
竹内左門「琴平山博覧会と丸亀通町の金比羅敬神講」〔『こと比ら』37 昭和五十七年新春号〕

    各地に金毘羅への参詣講、寄進講ができて人々の金毘羅信仰は幕末にかけて急速な高まりを見せます。しかし、江戸時代には、これらの講を全国的に組織化しようとする動きはありませんでした。各藩の分立主権状態では、それは無理な話だったのかもしれません。
 しかし、明治になって維新政府は神道国教化政策の一環として、信徒集団の組織化を各神社に求めるようになります。そこで明治7年、金刀比羅本宮崇敬講社が結成されます。これは時流に乗り、入講手続きをして会員となる信者が増え、7年後の明治14年には、講員が200万人を超えます。これを契機に神道事務局の直属して、金刀比羅崇敬教会と公称することになります。さらに、明治22年には、講員300万人にまで膨らみます。この積立金基金が大日本帝国水難救済会の創立資金となったことは、以前にお話しした通りです。

 会員の特典のひとつが「安心して、安価で信頼の出来る指定業者」が利用できることでした。
「讃岐金刀比羅教会」の崇敬講社に指定されたのは「定宿」「乗船定問屋」「定休」です。
奉納品 崇敬講社看板 定休

「定休」は参拝の講員が休憩するところ、「定宿」は宿泊するところで、講社が指定した定宿に看板を渡して掲げさせます。
 講員は定宿に泊まれば割引になり、一方宿屋の方は「金比羅指定のお宿」ということで一般の参拝者もこの看板を見て安心して泊まるわけで、客の増加につながり、また、名誉なことでもあったようです。そのため、この看板は「金看板」とも云われたようで、この看板があるのとないのでは、宿のランクも利益も大きく違ってきたようです。この看板さえ掛かっていれば、全国からの金毘羅を目指す参拝客が利用してくれたのです。しかも、団体で・・。
それでは「定問屋」とは、何でしょうか?
奉納品 崇敬講社看板 

私は、金毘羅さん御用達の問屋だと最初は思っていましたが、大面違いでした。「乗船」を読み飛ばしていました。
 四国以外からの参拝者は、必ず瀬戸内海をわたらなければなりません。瀬戸内海の船旅は、十返舎一九が弥次喜多コンビに金毘羅詣でをさせたときに描かれているように、東国の人にとって魅力なクルージングでもありました。丸亀・多度津の港も整備され、江戸時代の18世紀中頃からは大坂から金毘羅船と称する定期船も出るようになっていたことは、以前にお話ししました。[定船定問屋]は、こうした参拝客をはこぶ出船所に掲げられたものでした。看板はケヤキの一枚板です。

1虎屋玄関表
内町の虎屋
交通の不便な時代、遠く離れた霊場へ参拝するのは庶民にとっては、金銭的にも難しいことでした。
そこで、信仰を同じくする人々が参拝講をつくり、少しずつ積みたてた金で代参者を月ごとや、年に一度代参させるシステムが出来上がります。こうして、都市部を中心に金比羅講が組織され、地元で毎月の参拝や会食を行い。その時に会費積み立てていくようになります。そして、積立金で代表者を四国の金毘羅さんに「代参者」として送り出します。
 こうして、講員になっていれば一生に一度は金比羅詣りが出来るようになります。これが江戸や大坂での金比羅ブームの起爆剤のひとつになったようです。このような日常的な宗教活動が、金比羅への灯籠寄進などにもつながっていくようです。

大坂平野町の「まつ屋卵兵衛」の崇敬講社定宿の「ちらし」です。
1崇敬講社 御宿広告

 金毘羅崇敬講社では、それまで交渉のあった各地の旅宿を定宿に指定し、目印になる旗と看板を配布しました。その看板を右側に、旗を左側に入れて、ちらしを作って配布したようです。赤と黄色のコントラストが鮮やかで、今までにないもので評判になったことでしょう。
 冒頭に「讃州金毘羅蒸気出港所」「各国蒸気船取扱問屋」とありますから、いち早く金比羅航路に蒸気船を投入していたことがうかがえます。ちなみに「まつ屋」は、崇敬講社の定宿の中で、「大坂ヨリ中仙道筋」の一等取締に就任しています。

DSC01188

こちらは、短冊形で先ほどの「松屋」に比べると小形です。
船問屋や定宿では、これらをお土産がわりに無料で宿泊客に配布したようです。各船問屋が使用していた自慢の「金比羅船」も描き込まれていて、意気込みのようなものを感じます。
  このような定宿や船問屋のセールス活動が、ますます金毘羅さんへの参拝客の増加につながることになったようです。

 しかし、戦後になって車での参拝が多くなるにしたがって参拝講をわざわざつくらなくても気軽に参拝出来るようになると、このシステムは次第に衰退していくことになります。そして、昭和の終わり頃には、琴平の旅館にこの講社看板を掲げているところはなくなったようです。
 木札は旅館の玄関に掲げられたので、1m後の大きなものです。
古くなった木札は「御霊返し」といって、参拝時に返納され、新しいもの交換されたようです。そのために、金刀比羅宮に200点近い数の木札が保管されていたようです。中には広島県尾道市の富永家と香川県詫間町の森家のように、長い間自分の家に祀っていたものを、一括してお宮に納めたものもあります。定宿や定問屋は、琴平だけでなく金比羅参拝路のネットワークの各港の宿に配布されていたことが分かります。
 木札は形によって、いつ頃のものかが分かるようです。
神仏分離以前はの江戸時代のものは、形が剣先型で、上部が剣のように尖っています。これは先日お話ししたように、金比羅の御守札は、護摩堂で、二夜三日の護摩祈祷した後に、別当の金光院(一部に多聞院)が出していました。
 しかし明治以降には、神仏分離で護摩堂は壊され、本尊の不動明王もも片付けられて、蔵の中にしまい込まれてしまいました。それと共に、剣先型の形式のものはなくなります。ただ大木札中に明治以降金刀比羅宮から独立し、正当性を巡って明治後半に裁判でも争うことになった松尾寺配布のものも一部混じっているようです。松尾寺も独自の講制度を運用していたことがうかがえます。
 この看板を掲げた宿や船問屋は、金比羅客誘致や広報活動を先頭に立って行います。
そして金毘羅街道の整備や、丁石や灯籠などの建立にも取り組むようになります。また、金比羅さんへの寄進活動などにも積極的に参加します。明治になっても、金毘羅詣で熱は冷めることはなかったようです。その集客システムとして機能したのが崇禎講社だったようで

参考文献 印南 敏秀  信仰遺物 金毘羅庶民信仰資料集
                                                                              

1金毘羅天狗信仰 金光院の御札
金毘羅大権現と天狗達 別当金光院が配布していた軸

金毘羅大権現の使いは、天狗であると言われていたようです。
そのためか金毘羅さんには、天狗信仰をあらわすものが多く残されています。文化財指定を受けている天狗面を今回は、見ていくことにします。
1金毘羅天狗信仰 天狗面G3

おおきな天狗面です。
面長60㎝、面幅50㎝・厚さ48㎝で、鼻の高さは25㎝もあります。檜木を彫りだしたもので、面の真中、左右の耳、そして鼻の中途から先が別々につくられ、表から木釘、裏からは鉄製のかすがいで止めてあります。木地に和紙を貼り、胡粉を塗り、その上から彩色をしていたようであるが、今はほとんどはげていて木地が見えている状態で、わずかに朱色が見えているようです。

1天狗面

 目は青銅の薄板を目の形に形どり、表面から釘で打ちつけてとめてあります。彩色していたようですが、これも剥げ落ちて、元の色は分かりません。口からは牙が出ています。面の周囲や、口の周囲、まゆには動物の毛が植え込んであるようです。

この面だけ見ると「なんでこんなにおおきいのかな、被るしにしては大きすぎるのでは?」という疑問が沸いてきます。

被るものではなく、拝む対象としての天狗面
1金毘羅天狗信仰 天狗面G4

 この面は、面長35㎝、面幅27㎝、厚さは30㎝、鼻の高さは14㎝で、別材で造ったものをさし込み式にしています。ひたい・あご・両耳の各部も別材が使われています。面は木地に和紙を張り、上に厚く胡粉をぬり、上から朱うるしを塗られています。口には隅取りがあり、ひたいの部分にも隅取りに似た筋肉の誇張と口と同じように朱うるしが塗られています。
 目と歯は金泥で、もみあげからひげにかけての地肌は墨でかかれています。瞳を除く各部には、人間の頭髪が小さな束にして、うえ込まれています。
 この面の面白い所は、「箱入り面」であることです。この箱から出すことは出来ないのです。それは背面を見ると分かります。面が箱に固定されているのです。両耳にあけられた穴に、ひもを通し背負いひもをつけた箱の内に固定されているのです。箱は高さは、54㎝、幅35㎝、厚さ17㎝で、置いたときにも倒れないようになっています。
 箱の上端にはシメ縄をはり、シデを垂らされます。それが面の前にさがっています。この天狗面は被るものでなく、おがむ対象だったと研究者は考えているようです。
 箱の背面には向って右側面と、あごの部分に次のような墨書銘があります。
  人形町
  天明2年(1782)
  細工人 倉橋清兵衛
 一家ノ安全
1金毘羅天狗信仰 天狗面G5

この面は 面長44,5㎝ 面幅34,3㎝、厚さは裏の一枚板から鼻の先までが44,5㎝、鼻の高さだけで28㎝もあります。鼻の部分は別材をつぎたしています。木地に胡粉を塗って、その上に朱うるしを塗っていますが、胡粉を塗った刷毛跡が見えます。目は金泥に、瞳を黒うるしでかき、頭髪とまゆ毛・ひげは人毛と思われる動物質の黒毛をうめ込んでいるようです。眉は、囲まりに毛がが植え込まれ、その内側は黒うるしが塗られています。口はへの字形に結ばれ、ユーモラスな印象を受けます。この面も裏側には、厚手の白木綿の背負いひもを通し、背負って歩けるようになっています。これも背負い面のようです。
面はどのようにして、金毘羅大権現に奉納されたのでしょうか?
これらの面は、今は宝蔵館に保管されていますが、もとは絵馬堂にかかっていたようです。最初に見た天狗面は、天明七年(1787)に江戸から奉納された額にかかっていたことが分かっています。
 
天狗面を背負う山伏 浮世絵

 金毘羅大権現に奉納された天狗面は、背負って歩けるよう面の裏に板をうちつけたり、箱に入れたりしていました。天狗面を背負って歩く姿は、江戸時代の浮世絵などにも見えます

天狗面を背負う行者

 彼らのことを「金毘羅行人(道者)」と呼んでいました。全身白装束で、白木綿の衣服に、手甲脚半から頭まで白です。右手に鈴を持ち、口に陀羅尼などを唱えながら施米を集めてまわる宗教者がいたようです。

天狗面を背負う行者 正面

 白装束で天狗面を背負って行脚する姿は、当時は見なれた風俗であったようです。金毘羅さんに奉納されている天狗面は、背負って歩くにちょうどいい大きさかもしれません。金毘羅行人(道者)が金剛坊近くの絵馬堂に納めて行ったということにしておきます。

 金毘羅大権現が産み出された頃、天狗信仰のボスが象頭山にはいました。
宥盛?
宥盛(金剛院)

江戸時代の初期に金光院の別当を務めた宥盛です。宥盛は、金毘羅さんの正史では初代別当とされ、現在は神として奥社に祀られています。それだけ、多くの業績があった人物だったことになります。彼は、高野山で真言密教を学んだ修験者でもあり、金剛坊と呼ばれ四国では非常に有名な指導者だったようです。彼については以前にお話ししましたので省略しますが、慶長十一年(1606)に自分の像を彫った時に、その台座の裏に
「入天狗道 沙門金剛坊(宥盛)形像(後略)」

と、自筆で書き入れたと伝えられます。また彼自身が常用していた机の裏にも、 
某月某日 天狗界に入る

 と書き、まさしくその日に没したといわれます。宥盛と天狗信仰には、修験道を通じて深いかかわりがあったようです。

宥盛(金剛坊)が自分の姿を刻んだという木像を追いかけて見ることにします。
宥盛の木像は、万治二年(1659)以後は、松尾寺の本堂である観音堂の裏に金剛坊というお堂が建てられ、そこに祀られていたようです。ここからも死後の宥盛の位置づけが特別であったことが分かります。ある意味、宥盛は金毘羅大権現の創始者的な人物であったようです。
1観音堂と絵馬堂の位置関係

 本堂・観音堂の建っていた位置は、現在の美穂津姫社のところです。すぐ南に絵馬堂があります。つまり、絵馬堂と金剛坊をまつった堂とは、隣接していたことになります。奉納された天狗面が絵馬堂付近に、多くかかげられたのはこのような金剛坊を祀るお堂との位置関係があったと研究者は考えているようです。
 神仏分離の混乱がおちつきはじめた明治30年には、現在の奥社付近に仮殿をたてて、そこに金剛坊は移されます。神道的な立場からすると修験者であった宥盛を、本殿付近から遠ざけたいという思惑もあったようです。明治38年には奥社に社殿が新築されて、宥盛は厳魂彦命として神社(奥社)にまつられるようになります。
DSC03293

つまり、宥盛は神として、今は奥社に祀られているのです。
 奥社の建つ所は、内瀧といい、奥社の南側は岩の露呈した断崖です。
DSC03290

水が流れていないのにも関わらず「瀧」と名がつくのは、修験者の行場であったことを示します。ここ以外にも、葵の瀧など象頭山は、かつての行場が数多くありました。象頭山は、山岳信仰と結びついた天狗が、いかにもあらわれそうな所だと思われていたのです。
 今でも奥社の断崖には、天狗と烏天狗の面がかけられています。これが、宥盛と天狗信仰との深い結びつきを今に伝える痕跡かもしれません。
DSC03291

このように、金毘羅大権現のスタート時期には象頭山は天狗信仰のお山だったのです。そして、天狗信仰を信じる行者や修験者たちが、大坂や江戸での布教活動を行うことで都市市民に、浸透していったようです。その布教指導者を育てたのが宥盛だったと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
金毘羅信仰と天狗信仰

参考文献        印南敏秀  信仰遺物  金比羅庶民信仰資料集

 
DSC01040明治15年 境内図
                          神仏分離後 明治13年の金刀比羅宮

神仏分離と廃仏毀釈で、仏閣であった金毘羅大権現にあった多くの仏像は「入札競売」にかけられ、残ったものは焼却処分にされたこと、そして、当時の禰宜であった松岡調が残した仏像の内で、現在も金刀比羅宮にあるのは2つだけであることを前々回に、お話ししました。この内の十一面観音については、何回か紹介しています。しかし、不動明王については、触れたことがありませんでした。今回は、この不動さまについて見ていくことにします。
1 金刀比羅宮蔵 不動明王
   護摩堂の不動明王

 現在宝物館に展示されている不動明王は、江戸時代、護摩堂の本尊として祀られていたものです。桧造りの像ですが、背後と台座はありません。政府の分離令で、金堂や各堂の仏像達の撤去命令が出たときに、急いで取り除かれ「裏谷の倉」の中に、数多くの仏像と一緒にしまい込まれていたようです。その際に、台座や付属品は取り除かれたのかもしれません。

2.金毘羅大権現 象頭山山上3

明治5年4月,東京虎ノ門旧京極邸内の事比羅社内に神道教館を建設する資金確保のために、それまで保管していた仏像・仏具・武器・什物の類の売却が進められます。そこで、閉ざされていた蔵が開けられることになります。
 その時のことを松岡調は、日記に次のように記しています。
 佐定と一緒に、裏谷に隠置(かくしおき)たる仏像類を検査しに出向いた。長櫃が2つあった。蓋をとって中を検めると、弘法大師作という聖観音立像、智証大師作という不動立像などが出てきた。その他に、毘沙門像や二軸の画像など事については、ここにも記せない。今夜は矢原正敬宅に宿る。 
(『年々日記』明治五年[七月二十日条])

 彼は、以前に蔵の1階にも2階にも仏像が所狭しと並んでいたのは確認していたようですが、長櫃の中までは見てなかったのです。それを開けると出てきたのが
①弘法大師作という聖観音立像(後の十一面観音)
②智証大師作という不動立像
だったようです。
11金毘羅大権現の観音
金刀比羅宮に残された十一面観音

他の仏像がむき出しのままであったのに対して、この2つの仏像は扱いがちがいます。社僧たちの中に、この一体に対しては「特別なもの」という意識があったようです。
 改めて不動明王を見てみましょう。

1 金刀比羅宮蔵 不動明王

像高162㎝で等身大の堂々とした像です。足の甲から先と、手の指先は別に彫られたもので、今は接続する鉄製のカスガイがむきだしになっています。忿怒相の特徴ある目は、右が大きく見開き、左は半眼で玉眼を入れている。頭はやや浅い巻髪でカールしています。頂蓮はありません。右手には悪を追いはらう威力の象徴である宝剣をもち、左手は少し曲げて体側にたらし、羂索をもっている不動さんの決まりポーズです。
  私には、このお不動さんはウインクをしているように見えるのです。忿怒の表情よりも茶目っ気を感じます。もうひとつ気になるのは、足もとから、胸元にかけて、火にあったようなただれた部分が見られ、塗りがおちて、部分的に木地が露出しているというのです。火災にあったのかなと思ったりもしますが、背面にはそれが見られないと云います。研究者は
「ただれ跡の剥落」を、「かつて護摩を焚いた熱によるもの」
と指摘します。それでは、この不動明王は、もともとはどこにいらっしゃったのでしょうか


img000018金毘羅山名所図解
金毘羅山名所図会
 『金毘羅山名所図会』(文化年間(1804~18)の護摩堂の項には、次のように記されています。

(前略)此所にて、天下泰平五穀成就、参詣の諸人請願成就のため、又御守開眼として金光院の院主長日の護摩を修る事、元旦より除夜にいたる迄たゆる事なし(後略)
意訳すると
護摩堂では、天下泰平・五穀成就、参詣者の請願成就のため、又御守開眼として、護摩祈願が行われており、元旦から12月の除夜まで、絶えることがない。(後略)

 ここからは金光院の護摩堂では連日護摩が焚かれたことが分かります。

金光院の護摩堂と阿弥陀堂
金光院表書院の南側にあった護摩堂
金光院の護摩堂のことを長日護摩堂とも呼んだと云います。金光院の修験僧達が毎日、護摩焚きを行っていたのようです。先ほど見たように「足もとから、胸元にかけて、火にあったようなただれた部分」があるのは、そのためのようです。ここからも金毘羅大権現が真言密教の仏閣で、修験者の僧侶の活動が日常的に護摩祈祷という形で行われていたことが分かります。 もっとも、この像は最初から護摩堂の本尊ではなかったようです。
この不動さんは比叡山延暦寺からスカウトされてきたようです。
護摩堂は、慶長9年(1604)に建立されていますが、その時にお堂と一緒につくられた不動さんがいたようです。ところが、次第に護摩祈祷に対する人気・需要が高まります。そこで、より優れたものを探させます。その結果、明暦年間(1656)に、京都の仏師が比叡山にあった不動明王を譲り受け、それを以前からあった本尊にかえて安置したのです。この不動さんは、後から迎え入れたもののようです。ここにも「仏像は移動する」という「法則」が当てはまるようです。

1 護摩祈祷

 護摩は、真言密教の修験者が特異とする祈祷方法です。国家や天皇家の平安を祈って、行われました。それが、やがて権力をもつようになった貴族、さらには武家・庶民へと広かって行きます。護摩といえば不動というぐらい護摩を焚く場所の本尊には、不動明王が安置されるようになります。高く焚え上った火炎と、忿怒相の不動の前で修せられる護摩に霊験あらたかなものを感じたからでしょう。
 大日如来の化身でもあり、修験者の守護神でもあったのが不動明王です。
修験者は、護身用に小形の不動明王を身につけていました。行場の瀧や断崖、磐座にも不道明王を石仏として刻んだりもしす。 金毘羅大権現では、象頭山が修験者の行場で、霊山でした。そこに修験者が入り込み、天狗として修行に励みます。そして、松尾寺周辺に護摩堂を建立し、拠点としていきます。修験者たちの中から、金毘羅神を作り出し、金比羅堂を建立するものが現れます。それが松尾寺よりも人気を集めるようになり、金毘羅大権現に成長していくというのが、私の考える金比羅創世記です。そこからすると、金毘羅大権現の護摩堂とその本尊には興味が涌いてきます。

香川県立図書館デジタルライブラリー | 金毘羅 | 古文書 | 金毘羅参詣名所図会 4

 金毘羅さんでも、朝廷の安穏や天下泰平を願うものから、雨乞いにいたるまで諸々の願いをこめて護摩焚きが行われたようです。
 護摩堂で二夜三日修せられた御守が、大木札や紙守で、木札の先端が山形となっているのは、不動の宝剣を象徴したものと研究者は考えているようです。これらが、霊験あらたかなお守りとして、庶民の人気を集めていたことが分かります。

1 金刀比羅宮 奥社お守り

 金毘羅山内にはもう一つ不動を本尊とする堂があったようです。
万治三年(1660)に建立された本地堂(不動堂)です。ここの本尊は、護摩堂に最初にあった本尊を移してきたものでした。この堂は今の真須賀社の所にありましたが、これも神仏分離で撤去され、堂も不動も残っていません。
 宝物館にもうひとつ残されている仏像は十一面観音です。

1 金毘羅大権現 十一面観音2

この観音様は、聖観音と伝えられてきましたが、頭の穴を見れば分かるとおり、ここには十の観音様の頭が指し込められていました。つまり十一面観音だったことになります。なぜ、十一面観音を聖観音として安置していたのか。それは、以前にお話しましたので省略します。
 どちらにしても、観音堂の本尊で秘仏とされ三十三年毎に開帳されていたという観音様です。開帳の時には、多くの参詣人を集め、後には山内の宝物も拝観させるようになり、ますますにぎわうようになります。この十一面観音は、藤原時代の作で、桧材の一木造りの優品として現在は重要文化財に指定されています。
思いつくまま 第986回・金刀比羅宮宝物館
金刀比羅宮の宝物館

 宝物館に残された二つの仏像は、金毘羅大権現にとって、最も大切な仏であったことがうかがえます。不動明王は、修験者たちの守護神として、観音さまは、松尾寺の本尊だったのでしょう。金毘羅大権現には、観音信仰の系譜痕跡もあるように私には思えます。その二つのルーツを体現するのが、宝物館の2つの仏達である・・・と云うことにしておきます。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像2
                                                          
 明治維新直後の神仏分離令を受けて、若き院主宥常は金毘羅大権現が仏閣として存続できることを願い出るために明治元(1868)年4月に京都に上り、請願活動を開始します。しかし頼りにしていた、九条家自体が「神仏分離の推進母体」のような有様で、金毘羅大権現のままでの存続は難しいことを悟ります。そこで、宥常は寺院ではなく神社で立ってゆくという方針に転換するのです。宥常(ゆうじょう)は,還俗し琴陵宥常(ひろつね)と改名します。彼が金毘羅大権現最後の住職となりました。

1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像

5月に、維新政府が宥常に最初に命じたのは、御一新基金御用(一万両)の調達でした。1845年に完成し、「西国一の建物」と称された金堂(現旭社)の建設費が2万両でした。その半額にあたります。6月下旬までに、半額の5000両調達の旨請書を差出します。それに対して、新政府から出されたのが宥常を「社務職に任じる」というものでした。以下、宥常の京都での活動状況を見てみましょう。
7月 観音・本地・摩利支天・毘沙門・千体仏などの諸堂廃止決定
8月13日,弁事役所宛へ金刀比羅宮の勅裁神社化を申請
9月 東京行幸冥加として千両を献納。徳川家の朱印状十通を弁事役所へ返納。神祇伯家へ入門し、新道祭礼の修練開始
11月 春日神社富田光美について大和舞を伝習。多備前守から俳優舞と音曲の相伝を受け,
12月 皇学所へ「大日本史」と「集古十種」を進献。
そして、翌年の明治2(1869)年2月,宥常は京都を発ち,月末に丸亀へ約1年ぶりに帰ってきます。
ここからは、神社化に供えて監督庁関係との今後の関係の円滑化のために、貢納金や色々な品々が贈られていることが分かります。同時に神社として立っていくための祭礼儀式についても、自ら身につけようとしています。ただ、神道に素人の若い社務職と、還俗したばかりの元社僧スタッフでは、日々の神社運営はできません。そのために、迎えたのが白川家の故実家古川躬行です。彼が社神式修行指導のためにやってきて、神社経営全体への指導助言を行ったようです。
三月には,御本宮正面へ
「当社之義従天朝金刀比羅宮卜被為御改勅祭之神社被為仰付候事」

という建札を立てています。実際に、金毘羅大権現から金刀比羅宮への「変身」が始まったのです。引き続いて、山内の改革を矢継ぎ早に行います
明治2年6月 はじめて客殿で大祓の神式を行い,
10月10日の会式も神式に改めます。それまでは「山上」で行われていたのを、神輿が御旅所(現神事場)まで下って渡御する現スタイルに改められます。
明治4年6月,国幣小社に列し官祭に列せられ
10月15日,神祇官から大嘗祭班幣目録が下賜されます。
明治5年4月月,宥常は権中講義に任じられ,布教計画見通し立てるよう教部省から指示されます。これに対して、5月には早速に,東京虎ノ門旧京極邸内の事比羅社内に神道教館の設置案を提出しています。
これには多くの経費が必要で、上京していた宥常は資金調達のため一旦帰国しています。その後に行われたのが、六月の仏像・仏具・武器・什物の類の「入札売却」であったことは、以前にお話しした通りです。
明治6年3月,鹿児島県士族・深見速雄が宮司として赴任して来ます。
宥常は、京都滞在の折りに何度も宮司への就任願いを提出しています。しかし、新政府が任じたのは社務職であったのです。そして、実質的な責任者として松岡調が禰宜として就任しています。宥常が宮司に任命されたのは,明治19年3月深見速雄が亡くなった翌4月になってのことです。この当時、宥常は金刀比羅宮のトップでは、なかったことになります。このことは、注意して置かなければなりません。金刀比羅宮の記録は、このところを曖昧にしようとする意図が見え隠れするように思えます。
明治8年1月,御本宮再営の事業が開始され、翌年9月の4月に仮遷座,
明治10年4月に上棟祭が行われます。
この費用は,官費を仰がずに、すべて金刀比羅宮で賄ったようです。そのため落成の際に,内務省から宥常に褒美を下賜された記録があります。
  このように、見ると神仏分離から10年間で金比羅さんは、仏閣から神社にスムーズに移行したかのように見えます。しかし,この間に金刀比羅当局者が受けた衝撃や打撃も大きかったようです。 たとえば、明治元年1月には、土佐軍が新政府軍として讃岐に進行して、金比羅(琴平)に駐屯します。ある意味、この時期の琴平は土佐軍の軍事占領下に置かれたことになります。そして、金刀比羅宮に5000両の明納金を求めます。金毘羅さんは、この時期に京都の新政府に1万両、土佐藩に5000両を貢納したことになります。それを支える経済力があったということでしょう。
 土佐藩占領は,徳年の11月まで続き,それ以後は倉敷県の管轄から丸亀県・愛媛県を経て,香川県に所属することになります。
しかし、幕藩体制下で朱印地として認められていた行政権は失われます。さらに,明治4年2月に神祇官から出された「上知令」で、境内地を除く寺社領の返還を命ぜられます。これは、寺院の経済的基盤が失われたことを意味します。にも関わらず、神社となった金刀比羅宮は新たな社殿建設を初めて行くのです。そこには、明治という新時代がやって来ても金毘羅さんにお参りする人たちの数は減らなかったことがうかがえます。これは、行政からの「攻撃」を受けた四国霊場の札所が大きな打撃を受け、遍路の数を大きく減らしたことと対照的な動きです。

DSC01636金毘羅大祭図

宥常は明治政府に対しては、全く忠実でした。反抗や抵抗的な動きを見つけることはできません。
それでも,宮司に仰付られたいという願いは聞き届けられず,明治6年3月,鹿児島県士族深見速雄が宮司として赴任して来ます。その下での社務職を務めることになります。宥常が宮司に任命されたのは,明治19年3月に深見速雄が亡くなった後のことです
また,彼は元々は真言宗の社僧です。礼拝の対象は、仏像や経巻でした。それを売却し,焼き捨てるということに,何らかの感慨を抱いたはずですが、それに対する記録も残されていないようです。

全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 結願祭2


金刀比羅宮は、「勅祭の神社」とか「国幣小社」にランク付けはされましたが,それに頼っておればよいというものでありません。金毘羅大権現の名声を維持するためには,何か新しい施策を講ずる必要があると、若い社務職は考えていたようです。
1 金刀比羅宮蔵 講社看板g
 金刀比羅宮崇敬講社 定宿看板

明治7年2月に,そのために教部省宛に「金刀比羅宮崇敬講社」(略・講社)の設立を願い出ています。
信者へ直接的に働きかけ,これまで区々であった参詣講・寄進講を組織的に発展させ,金比羅の繁栄を一層確実にしようとする狙いがあったようです。講社については厖大な量の「講帳」が残っているようですが、「講帳」と関係資料を突き合わせ講社の実体を明らかにする研究は、まだ手が付けられていないようです。
 しかし、この講社の組織は「集金マシーン」として機能するようになり、金刀比羅宮に新たな資金供給源となったようです。ある意味、講社は「金の成る木」でした。宥常の最大の業績とされる「帝国水難救済会」も講社員の積立金によって、創設されています。

DSC01245
 
明治19年3月に宮司の深見速雄が亡くなり、宥常が宮司の座に着きます。名実共に、金刀比羅宮のトップになった訳です。
 その年の10月、イギリスの貨物船「ノルマントン号」が紀州大島沖で座礁沈没します。イギリス人乗組員は全員脱出して助かりましたが、乗り合わせていた日本人23人は船に取り残され全員が水死します。、同船船長に対する責任は、極めて軽微であり、日本国民の感情を大きく傷つけます。この水難事故は幕末に締結した日本と諸外国との間で結ばれていた不平等条約がからみ、大きな国際問題になります。このような水難事件に対して「海の神様」を標榜する金刀比羅宮として、出来ることは何かを宥常は考えたようです。

 「帝国水難救済会五十年史」によると,宥常はかねてから,
「神護は人力の限りを尽して初めて得られるもので,徒に神力にのみ依頼するのは却て神に敬意を失する」

と考えていたと記します。そこで、何とかして現実に海上遭難者を救うべき方法と組織を作り出したいと思っていたようです。
1 黒田清隆 日記 水難防止
黒田清隆伯の「環游日記」のロシアの水難救済協会の紹介部分

たまたま明治20年11月に出版された黒田清隆伯の「環游日記」の中に,ロシアの水難救済会の記事のあるのを見て,これこそ自分が探し求めていたものだと,「晴雲一時に舞れる心地がして勇躍,救済会の創設に取りかかった」とあります。
 明治21年8月,上京した宥常は,救済会設立のことを福家安定に相談します。
翌22年3月,再度上京して,その時は総理大臣に就任していた黒田清隆にも意見を聞き,また海軍に関係が深いことから海軍次官樺山資紀に相談すると,水路部長肝付兼行が協力してくれることになります。他にも逓信省は商船を管轄するので、管船部長塚原周造にも相談します。その他鍋島直大・藤波言忠・清浦奎吾等なども、この会の趣旨に讃同してくれ、何回かの協議を行います。
当時、金刀比羅宮崇敬講社の講員は300万人を越えいました。その積立金を,救済会設立資金に流用できる手はずになっていたようです。
こうして明治22年5月,正式に「帝国水難救済会設立願」を那珂多度郡長を経由して香川県知事に提出します。10月には,鍋島直大を副総裁に,琴陵宥常を会長に、本部を讃岐琴平に置き,支部を東京・大阪・函館に置くことに決まります。東京支社は、東京芝公園海軍水交社の建物を譲り受けています。そして11月3日(旧天長節)に,琴平本部での開会式後に,多度津救済所で遭難船救助の演習を行っっています。12月には各府県知事に本会役員として会員募集を行ってくれるよう依頼することを決めます。
1有栖川宮威仁親王

翌年明治23年4月には,有栖川宮威仁親王が総裁に就任することになります。こうして,宥常の長年の希望であった水難救済会は,着実な第一歩を踏み出していきます。ここへ来るまでに,宥常が救済会のために使った私財は多大なものであったと言われています。
 明治25年2月に宥常が53歳で亡くなります。
1琴綾宥常 肖像画写真
琴綾宥常 高橋由一作

これを契機に水難救済会の本部は東京に移されます。救済会を国家的事業として発展させてゆくための選択だったのでしょう。そして、生まれだばかりの救助会の帆には、時代の追い風が吹きます。

明治28年日清戦争勃発前後になると、海軍軍艦からの流初穂(流し樽)が多く届けられるようになります。
4月 軍艦筑波から,
7月 磐城から,
明治28年4月 水雷母艦日光丸
6月 再度軍艦磐城から,
9月 軍艦龍田
からの流初穂が届けられています。この傾向は、戦後も続き、10年後の日露戦争の時には、さらに増加傾向を見せるようになります。この頃になると、軍艦だけでなく
海軍軍用船喜佐方丸
海軍運送船広島丸
連合艦隊工作船関東丸
横須賀海運造船廠機関工場造船部関東丸
陸軍御用船盛運丸
津軽海峡臨時布設隊新発田丸
などの陸海軍の御用船からの流初穂も含まれるようになります。これが次第に、一般商船,運送船などからの流初穂の奉納につながっていくようです。
モルツマーメイド号 金刀比羅宮 ( 7 ) | 札所参拝日記のブログ

 明治39年から大正初年までを見ても,
加賀国江沼郡槻越大家七平手船翁丸
東洋汽船株式会社満洲丸
大阪商船株式会社大知丸
日本郵船株式会社和歌浦丸
越中国新湊町帆船岩内丸
越中国氷見町八幡丸
日本郵船株式会社横浜丸
北海道小樽正運丸
加賀国江尻郡橋立村七浦丸
などから奉納が見えます。
 ここから見えてくることは「流樽」というのは、
①日清戦争前後に海軍軍艦 → ②軍関係の船舶 → ③日露戦争前後に民間船
へと拡大していたことが見えてきます。起源は、近代に海軍軍艦が始めたもので、江戸時代に遡る者ではないようです。

 これらはみな流初穂が本社まで届いたので,記事としても残っています。しかし、時には届かない場合もあったようです。明治39年12月,軍艦厳島からの初穂の裏書には,
「奉納数回せしも果して到着せしや否や不分明なれば今回御一報を乞う」

と書かれていたようです。
 以上の記事の見える船の所属機関・所有者を見ると,北海道から九州まで日本全域にわたっています。ここからは、金刀比羅宮が海上守護の神として,広く厚い信仰を集めるようになっていたことがうかがえます。これも神社に転進させた宥常が「海の神」という自覚を持ち,水難救済会創設という国家の仕事を代行するような活動を起したことから始まったようです。

金刀比羅宮 琴陵宥常大人命銅像祭3
           金刀比羅宮本宮拝殿で行われる琴陵宥常大人命銅像祭
現在は、宥常の銅像が造られ例年祭礼が行われているようです。
金刀比羅宮 琴陵宥常大人命銅像祭
琴岡宥常の祭礼用銅像
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  松原秀明                神仏分離と近代の金刀比羅宮の変遷
                                                          

C-23-1 (1)

 明治初期に吹き荒れた神仏分離・廃仏毀釈の嵐を、金毘羅大権現は金刀比羅神社に姿を変えることで生き残りました。そこでは、仏閣から、神社への変身が求められました。それに伴って金毘羅大権現の仏像・仏具類も撤去されることになります。仏さん達は、どこへ行ったのでしょうか。全て焼却処分になったという風評もあるようですが、本当なのでしょうか。金毘羅大権現を追い出された仏達の行く方を追って見たいと思います。

  松岡調の見た金毘羅大権現の神仏分離は       
 明治2年(1869)4月、「事比羅宮」(旧金毘羅大権現・以後は金刀比羅宮使用)を多和神社社人の松岡調が参拝しています。彼の日記『年々日記』同年4月12日条に、次のように記されています。

 (前略) 護摩堂、大師堂なとへ行見に、①内にハ檀一つさへなけれハ、ゐてこしヽ老女の涙をおしのこひて、かしこき事よと云たるつらつき、いミしうおかし、かくて本宮へ詣て二拝殿へ上りて拝奉る、御前のやう御撫物のミもとのまヽにて、其外は皆あらたまれり、白木の丸き打敷のやうなる物に、瓶子二なめ置、又平賀のさましたる器に、②鯛二つかへ置て奉れり、さて詣っる人々の中にハ、あハとおほめく者もあれと、己らハ心つかしハそのかミよりは、己こよなくたふとく思へり、
絵馬堂へ行て頚(くび)いたきまて見て、やうように下らんとす、観音堂も金堂も十王堂も皆、③仏像ハとりたる跡へ御簾をかけて、白幣を立置たり
  意訳しておきましょう
4月12日 護摩堂、大師堂なども見てまわったが、①堂内には檀一つも置かれていない。それを見た老女が涙を流しながら「かしこき事よ」と呟いた表情が、印象に残った。
 本宮に詣て、拝殿に上り拝奉した。御前の様子は御撫物は、もとのままであるが、その他は全て神式に改められていた。白木の丸い打敷のような物に、瓶子が置かれ、平賀のさましたる器に、②鯛が2匹が供えられていた。参拝する人々の中には、生ものが供えられていることに驚く者もあるが、私は、その心遣いが上古よりのものであり、こよなく貴いものをと思った。
 絵馬堂を見て、階段を下ろうとすると観音堂も金堂も十王堂も皆、③仏像は取り除かれている様子で、その跡に御簾をかけて、白幣を立置いてあった。
この日記からは、仏教伽藍から神社へのリニューアルが進む金刀比羅宮の様子が見えてきます。仏像仏具に関しては
①護摩堂、大師堂などの、堂内には仏像はもちろん檀一つも置かれていない。
②拝殿も全て神式に改められ生ものの鯛も供えられていた。
③観音堂も金堂(現旭社)も十王堂も、仏像は取り除かれ、その跡に御簾をかけて白幣を立置かれてあった。
 松岡調の日記からは仏像たちがお堂から撤去され、神仏分離が急ピッチで進行していたことが分かります。ちなみに、これから3年後の明治5年〔1872〕1月27日に松岡調は、金刀比羅宮の禰宜に就任します。
1 金毘羅 狛犬1

さて、撤去された仏像はどうなったのでしょうか。
 取り除かれた仏像・経巻・仏具類は、仏堂廃止とともに境内の一箇所に取りまとめて存置されていたようです。それが動き出すのは、松岡調が金刀比羅宮の禰宜に就任した年になります。明治5年4月に香川県宛に旧金光院時代の仏像の処分について、伺いが出されています。これについては『年々日記』明治五年四月二十四日条に、
二十四日 一日ハ(晴)れす、会計所へものせり、さきに県庁へねき聞へし条々につきて、附札にてゆるされたる事ども
事比羅神社社用之廉々伺書
一 当社内二在之候従来之仏像、御一新後悉皆取除、山麓之蔵中江集置候処、右撥遣(廃棄) 二相成候上者、如何所置可仕哉、焼却二及候而も不苦候哉之事、
      焼却可申事 (○中略)
事比羅神社
  県庁御中
意訳しておくと
当社内に保管する仏像について、維新後に全て取除き、山麓の蔵中へ集めて保管してきました。これらについて廃棄することになった場合は、どのように所置すればよろしいか。焼却してもよそしいか。

この伺いに対する香川県の回答が「焼却可申事」であったようです。ここからは仏像類の処分方法について、金刀比羅宮が事前に香川県の承認をうけていたことが分かります。4月に焼却処分の許可を得た上で、8月4日に仏像類の大部分を焼却したようです。
これだけ見ると「全ての仏像・仏具を焼いた」と思われそうです。実際に、そのように書かれた本や言説もあります。しかし、松岡調の日記を見ると、そうではないことが分かります。

1 金毘羅 狛犬222表

 処分に先立って、松岡調自ら仏像・仏具類を納めた倉庫を検分したり、松崎保とともに社中に残し置くべき仏像などについて、立ち合い検査を行なっています。6月から7月になると『年々日記』に、次のような記述が見られるようになります。
 
五日 (中略)今日は五ノ日なれは会計所へものせり、梵鐘をあたひ二百二十七円五十銭にて、榎井村なる行泉寺へ売れり、(『年々日記』明治五年 三十三〔6月五日条〕、読点筆者)

八日 雨ふる、こうきあり、例の時より会計所へものセり、西の宝庫に納たりし雑物を出して塵はらわせり、来る十一日にハ、仏像仏具を始、古きものともをうらんとて置そす、今夜いミしう雨ふる、(以下略)(『年々日記』明治五年〔七月八日条〕)

6月5日には、金毘羅さんのお膝元・榎井村の行泉(興泉)寺が梵鐘を227円50銭で買いつけています。これも、戦中の金属供出で溶かされたのでしょうか、今は興泉寺に、この鐘はないようです
7月8日には、西の倉庫に保管されていた「雑物」を出して奇麗にしたようです。それは仏像仏具を売りに出すための準備であったようです。
 九日 雨はれす、二字(2時)のころやうくはれたり、御守所へ詣てつ、間なく裏谷なる仏像、仏具を納たる倉を見にものセるか、大きなる二層の倉の上にも下にも、かの像ともの古きなる小きなる満々たり、小きこまかなるは焼ハらふも、いとあたらしきワさなれハ、仏ゑと共にうらんとて司庁(社務所)へおくりやる、数多の中に大日仏の像なとは いみしき銅像になん、
(『年々日記』明治五年 〔七月九日条〕)
意訳すると
7月9日 
雨晴れず、2時頃からようやく晴れてきた。御守所へ参拝してから「裏谷」の仏像、仏具を保管している倉を見行く。そこには大きな2層の倉の上にも下にも、古い仏像や小さい仏像などで満ちている。小さい仏像は燃いても、造られたばかりの新しいものは、仏絵と共に売ることにして司庁(社務所)へ運んだ。数多くある中でも大日如来像は、価値のあるもののように見える。       
ここからは、次のような事が分かります。
①「裏谷」にある倉に仏像、仏具を保管してあったこと
②倉の中には、仏像でいっぱいだったこと
③新しい仏像は、仏絵と共に販売するために運び出したこと
④大日如来像はすぐれた作品であると「鑑定」していたこと
明治元年に撤去された仏像たちは、「裏谷の倉」の一階と二階に保管されていたようです。そして、売れるものは売るという方針だったことがうかがえます。
1 金毘羅 備前焼狛犬1

十日 れいの奉納つかうまつりて、会計所へものセり、明日のいそきに、司庁の表の書院のなけしに仏画の類をかけて、大よその価なと使部某らにかゝせつ、百幅にもあまりて古きあり新きあり、大なるあり小なるあり、いミしきもの也、中にも智証大師の草の血不動、中将卿の草の三尊の弥陀、弘法大師の草の千体大黒、明兆の草の揚柳観音なとハ、け高くゆかしきものなり、数多きゆえ目のいとまハゆくなれハ、さて置つ 
   (『年々日記』明治五年 【七月十日条】)
     ○
意訳すると
7月10日 明日11日から始まるオークションの準備のために、書院のなげしに仏画などをかけて、おおよその価格を推定し係の者に記入させた。百以上の仏画があり、古新大小さまざまである。中には、智証大師作の「草の血不動」、中将卿の「草の三尊の弥陀」、弘法大師の「草の千体大黒」、明兆の「草の揚柳観音」などもあり、すぐれたものである。数が多過ぎて、目を休める閑もないほどであった。 

  仏画類については、前日に書院のなげしに掛けて「鑑定」を行って、おおよその価格を事前に決めていたようです。
1 金毘羅1 狛犬11

さて入札当日は、どうだったのでしょうか。
十一日 御守所へものセり、十字のころより人数多つとひ来て見しかと、仏像なとハ目及ハぬとて退り居り、かくて難物古かねの類ハ大かたに買とりたり、或人云、仏像の類ハこの十五日過るまて待玉へ、此近き辺りの寺々へ知セやりて、ハからふ事もあれハと、セちにこへ口口口口口、
 (『年々日記』明治五年 七月十一日条)
意訳すると 
7月11日 10時ころより、多御守所でセり(入札)が始まり。多くの人がやって来て入札品を見てまわった。しかし、仏像などは鑑定眼がないので、近寄る者はいない。難物や古かねの類の価値のないものはおおから買取り手が見つかった。ある人が言うには、仏像の類は15日が過ぎるまで待ったらどうか。近くの寺々に、この入札会のことを知らせれば、買い手も集まってくるだろう。

十二日 東風つよく吹けり、会計処へものセり(払い下げ)、今日も商人数多ものして、くさくさの物かへり、己ハ柳にて作れる背負の鎧櫃やうのもの、価やすけれハかいつ、よさり佐定御願へものセるに、かたらへる事あり。    
意訳
7月12日 束風が強く吹いた日だった。会計所へ払下品を求めて、今日も商人たちが数多くやってきて、買っていく。自分は、柳で編んだ背負の鎧櫃のようなものを、値段が安いので買った。佐定は御願へもとするのに使うために、相談があった。

仏像・仏具の払い下げが、11日から始まったようです。最初に売れたのは、「難物・古金」のように重さで売れるものだったようです。仏像などは、見る目がないので手を出す者は初日にはいなかったようです。そして、ここでもコレクターとしての血が騒ぐのでしょう、松岡調は「柳で編んだ背負の鎧櫃」を買い求めています。

1 金毘羅 真須賀神社狛犬12
18日 今日も同じ、裏谷の蔵なる仏像を商人のかハんよしをぬきだし、ままに彼所へものさハりなきをえり出して売りたり、数多の商人のセりてかへるさまのいとおかし
 (『年々日記』明治五年 [七月十八日条])

十九日 すへて昨日に同し、のこりたる仏像又売れり、けふ誕生院(善通寺)の僧ものして、両界のまんたらと云を金二十両にてかへり、(○以下略)『年々日記』明治五年〔七月十九日条〕)
意訳
7月18日 裏谷の蔵にあった仏像の中で、商人が買いそうなものを抜き出して、問題のないものを選んで売りに出した。数多くの商人が、競い合って買う様子がおもしろい。
     
7月19日 昨日と同じように、次々と入札が進められ、残っていた仏像はほとんど売れた。誕生院(善通寺)の僧侶がやってきて、両界曼荼羅図を金20両で買っていった(以下略)
1 金毘羅 牛屋口狛犬12

7月21日 御守処のセリの日である、今日も商人が集い来て、罵しり合うように大声で「入札」を行う。刀、槍、鎧の類が金30両で売れた。昨日、県庁へ書出し残しておくtことにしたもの以外を売りに出した。百幅を越える絵画を180両で売り、大般若経(大箱六百巻)を35両で売った。今日で、神庫にあったものは、大かた売り払った。(『年々日記』明治五年七月二十一日条〕)

ここからは入札が順調に進み「出品」されていたものに次々と、買い手が付いて行ったよです。
二十三日 御守所へものセり、元の万燈堂に置りし大日の銅像を、今日金六百両にてうれり
 (『年々日記』明治五年〔七月二十三日条〕)
意訳すると
23日 御守所での競売で、旧万燈堂に安置されていた大日如来像が金600両で売れた。

1 金毘羅 高灯籠1

 二十日 会計所へものせり、去し六月のころ厳島の博覧会にいたセる、神庫物品目録と云を見に、仏像、仏具を数多のセたるより、ワか神宮の仏像の類も古より名くハしき限りハのこし置て、さハる事もなからすと思ふまゝに佐定とかたらひ定て、この程県庁へさし出セし神宮物品録の追加として、仏像(木造9体、絵図13軸)・仏具(15品)の目録かかせて、明日戸長の県庁へものセんと聞かハ、上等使部山下武雄をやりてかたらひつ、此つひてに志度郷の神宮の宝物、また己かもたる古器をも、いさヽかいつけ(買付けて)てことつけたり、
  (○中略)
 よさり佐定と共に裏谷に隠置(かくしおき)たる物を検査にものセしに、長櫃二つあり。蓋をとりて見に、弘法大師の作といふ聖観音立像、及智証大師の作といへる不動の立像なといミしきもの也、外に毘沙門また二軸の画像なとの事ハ、こヽには記しあへす、今夜矢原正敬かりに宿る。
(『年々日記』明治五年[七月二十日条])
意訳すると 
会計所での「ものせり(入札)」の日である。昨年6月に安芸の宮島厳島神社の博覧会の時の「神庫物品目録」を目にした。そこには仏像、仏具を数多く載せてある。我が金刀比羅宮の仏像類も古くて価値があるものは残して置いても支障はないと思うようになる。
 佐定と相談して、県庁へ提出した神宮物品録の追加として、仏像(木造9体、絵図13軸)・仏具(15品)の目録に追加させた。それを明日、琴平の戸長(町長)が県庁(高松)へ出向いて入札すると聞いたので、上等使部山下武雄を使いにやって、志度郷の神宮の宝物、また自分のものとして古器なども、かいつけ(買付けて)を依頼した。
  (○中略)
 佐定と一緒に、裏谷に隠置(かくしおき)たる仏像類を検査しに出向いた。長櫃が2つあった。蓋をとって中を検めると、弘法大師作という聖観音立像智証大師作という不動立像などが出てきた。その他に、毘沙門像や二軸の画像など事については、ここにも記せない。今夜は矢原正敬宅に宿る。        (『年々日記』明治五年[七月二十日条])
1 JR琴平駅前狛犬

ここからは、次のようなことが分かります。
①宮島厳島神社の目録を見て、価値のある仏具類は残すことが出来ないか考えるようになったこと
②一部は志度の多和神社や自分のものとして、買い付けていたこと。
③裏谷の倉の長櫃から弘法大師や智証大師の作という仏像が出てきた
④その他にも毘沙門天像や軸物など「お宝」でいっぱいだったこと。
⑤矢原正敬を訪れ、今夜はそこに泊まること
ここからは価値のある仏像類は、残そうという姿勢がうかがえます。また、個人蔵とするために、お宝を買い付けていたことが分かります。このあたりに、松岡調のコレクターしての存在がうかがえます。多和神社や多和文庫の中には、金毘羅大権現からやってきたものがあるようです。
  そして、矢原正敬が登場してきます。
「矢原家家記」によると、矢原氏は讃岐の国造神櫛王(かんぐしおう)の子孫を自称し、満濃池再興の際には、弘法大師が先祖の矢原正久(やばらまさひさ)の邸に逗留したと記し、自らを「鵜足郡と那珂郡の南部を開拓し郡司に匹敵する豪族」とします。
 そして、近世になって西嶋八兵衛の満濃池再築の際にも、池の中に出来ていた「池内村」を寄進し、再築に協力したと伝えられます。その功績で、満濃池の池守として存続してきた家です。 矢原正敬はその当主になります。   歴史的な素養もあり、骨董品についても目利きであったようなので松岡調とは、気心があったようです。この日も、夜を明かして、「裏谷の倉」に眠る「お宝」についての話が続いたのかもしれません。

倉の中に保管していた仏像・仏具を、明治五年になって処分しようとしたのはなぜでしょうか。
それは、宥常が進める事業の資金を賄うためであったようです。
明治5年4月,宥常は権中講義に補せられ,布教活動プランを提出するよう教部省から求められます。これに対して、宥常は早速に東京虎ノ門旧京極邸内の事比羅社内に神道教館を設置案と提出します。しかし、これには多くの経費が必要となりました。上京していた宥常は、資金調達のため一旦帰国しています。そして、6月から仏像・仏具・武器・什物の類の売却が始まるのです。ここからは、東京での出費を賄うために「仏像・仏具の入札」という方法が採られたと研究者は考えているようです。

 残った仏像類の処分に関しては、次のような記録があります
 葉月三日 四日
   今日第八字ヨリ於裏谷、仏像不残焼却致候事、
   担シ 禰宜、社掌、筆算方 立合ニ罷出候
中略
佐定云、さハりありとて残置し仏像を此八日の頃に皆焼きすてたり、一日の内に事なくハて、灰なとハ何処となく埋めさセたり、ことにをかしき事にハ、たれに聞きつけたるか、其日の日暮れ頃に老いぼれたる老女の二三人、杖にすかりあえき来て、かの仏像を焼たる跡に散りぼひたる灰を、恐ろしきことよとつまミ取て、紙に包ておしいたヽきて帰りしさまと、又仕丁ともの灰をかきよセて埋る時に、眼の玉を5つ六つ7つなと拾ひて、緒しめにせんなと云あへりし事よ、又瓔珞(ようらく)の金具のやけ残りたるを集さセて売しに、金三両にあまれりなと かたれり。
 (『年々日記』明治五年〔八月十八日条〕

意訳すると
8月3・4日 今日8時から裏谷で、仏像を全て焼却した。これには、禰宜、社掌、筆算方は立ち会ていない。(中略)
佐定は次のように話した。
「障りがあると残していた仏像を、皆焼きすてた。一日の内に、無事終えて、灰などは何処となく埋めさせた。印象に残ったことは、誰に聞いたのか、その日の日暮頃に老女が二、三人、杖にすがり喘ぎながら登ってきて、仏像を焼いた跡に散らばる灰を、「恐ろしきことよ」と、拾い集めて、紙に包んで押し頂くように帰って行った姿と、仕丁たちが灰をかき寄せ埋る時に、眼の玉をいくつも拾ひて、緒び締めにしようと言い合っていたことである。
 また瓔珞(ようらく)の金具のやけ残を集めて売ったところ、金三両になったと云うことだ。 
 こうして仏像・仏具類などは売却され、残ったものは焼却処分にされたようです。
ここからは「全てが焼かれた」のではないことが分かります。例えば、最後まで残った大日如来像が金600両で入札されています。松岡調が目を付けていた仏像だけの価値はあったようです。これがどこの寺に収まったのか気になるところです。入札で、買い手が付いた仏像や仏画などは商人の手を経て、どこかの寺に収まったのかもしれません。また、全国ネット取引を通じて、横浜に運ばれ海外に流出したものもあるのかもしれません。それも仏像に「流出先 金毘羅大権現 明治5年競売」とでも書かれていない限りは、探しようがありません。どちらにしても大量の仏像・仏具が、明治初期には市場に出回ったことがうかがえます。
 そして、こうした仏像は「寺勢」のある寺に自然と集まってくるのです。古い仏像があるだけでは、そのお寺の年暦が判断できないのは、こんな背景があるからなのでしょう。
 
禰宜であった松岡調が「宝物」として遺した仏像類も何体かあったようですが、現在残るのは次の二体です。

Kan_non
①伝空海作とされていた十一面観音立像(社伝では正観音といわれており、旧観音堂本尊)重文
1 金刀比羅宮蔵 不動明王

②伝智証大師円珍作とされていた不動明王像
(旧護摩堂本尊)重文
 
備前西大寺には、金毘羅から二体の仏像が「亡命」しています。
これは万福院の宥明(福田万蔵)が、明治3年に岡山の実家角南悦治宅に移したものでした。裏谷の倉の中に保管されていた仏像群の中から不動明王と毘沙門天を選んで、密かに運び出したようです。このような例は、これ以外にもあったのではないかと思うのですが、その由来が伝わっているところは、あまりありません。確かに本尊伝来書に
「金毘羅さんで競売された仏を入札したのが現在の本尊」

と書くのは憚られます。それに、似合う物語を創作するのが住職の仕事でしょう。
西大寺の金毘羅大権現の本地仏
西大寺に移された仏像
以上をまとめておくと
①神仏分離で金毘羅大権現の仏像・仏具類は撤去され、裏谷の倉に保管された
②明治5年に、東京虎ノ門の事比羅社内に神道教館を設置することになり資金が必要になった。
③そこで、保管していた仏像・仏具類の入札販売を行うことになった
④6月から仏像・仏具・武器・什物の類の売却が始まり、7月末には売却を終えた。
⑤8月に残ったものを償却処分にした。
ここから多くの仏像は、競売品として売られていたことがうかがえます。それが、いまどこにあるのかは一部を除いてわかりません
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
松原秀明    神仏分離と近代の金刀比羅宮の変遷
西牟田 崇生 金刀比羅宮と琴陵宥常  国書刊行会

                                                        


金刀比羅宮宝物館の十一面観音について
明治の神仏分離で、金毘羅大権現の仏像たちは全て追い出されて、金毘羅大権現は金刀比羅宮に変身しました。入札で引き取り手のある仏は、他の寺に移っていきました、引き取り手のないものは、燃やされたことが当時の禰宜であった松岡調の日記には書かれています。そして、金刀比羅宮には仏様はいなくなった・・・・はずなのですが二体だけ残されて、宝物館に展示されています。当時の金刀比羅宮の禰宜松岡調が、このふたつの仏だけは残すと決めた仏像です。金毘羅さんにとって、それだけ意味のある仏であったようです。
宝物館に行くと、松尾寺観音堂の本尊であった十一面観音像が迎えてくれます。

11金毘羅大権現の観音
十一面観音(金刀比羅宮)
 もともとこの観音様は聖観音として伝来してきました。しかし、正面に立って見ると頭上の化仏が指し込められていた穴跡が見えます。聖観音ではなく、十一面観音だったことが分かります。

1 金毘羅大権現 十一面観音2
十一面観音(金刀比羅宮)
 左手に持っていた蓮の花を挿した花瓶も失われています。観音を乗せていた蓮華座もありません。よく見ると裳には華文を描いた彩色が残っています。
DSC01221
         十一面観音(金刀比羅宮)
藤原時代前期の作とされて、今は重文指定を受けています。
DSC01222

長尾城主の弟とされる宥雅(長尾高広)が松尾寺の本堂(観音堂)を、現在の本社の鎮座する場所に建立したのは1571年のことでした。当然、そこにはこの観音様が安置されていたことが考えられます。
宥雅の建立した松尾寺と守護神金比羅堂の位置

本堂左側にあるのが松尾寺の観音堂

 さて、本題に入っていきます。宥雅によって観音堂が創建されたのは戦国時代末です。しかし、宝物館の十一面観音は、それよりずっと古い藤原時代前期の作です。本堂と十一面観音の時代が一致しません。
金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現 観音堂(讃岐国名勝図会 幕末)

ここからは次のような事が考えられます
A 松尾寺創建の本堂に、どこからか十一面観音が持ち込まれたこと
B その十一観音が、いつの時代からか聖観音に「改装」されたこと。
このことについて、以下のような仮説を羽床正明氏を考えています。

金刀比羅宮十一面観音の由来 仮説1

 Aについて、この十一面観音は、どこからやってきたのでしょうか?
まず考えられるのは、大麻山中にあった古刹の滝寺・小滝寺からやってきたという説です。金毘羅宮の学芸員を長く勤めた松原秀明氏は「金毘羅信仰と修験道」の中で次のように述べています。
①観音堂の本尊は、道範の『南海流浪記』に出てくる大麻山の滝寺の本尊を移したもの
②前立の十一面観音は、その麓にあった小滝寺の本尊であったもの
 滝寺とは、どこにあったお寺でしょうか。

DSC01220
滝寺は現在の葵の瀧辺りにあったいわれる

奥社からさらに、大麻山方面へ工兵道が伸びていきます。この道は戦前の善通寺11師団の工兵たちが演習で作ったので、工兵道と呼ばれています。ほぼ水平のの歩きやすい山道で、野田院古墳辺りに抜けていきます。その途中に、切り立った屏風岩という崖があり、高さはありますが水量は乏しい瀧が現れます。今は地元では、葵の瀧と呼ばれているようですが大雨の降った後は見応えがあります。金毘羅さんの中で、私のお勧めポイントです。ここは修験者の行場としてふさわしいところで、象頭山に全国から集まった「天狗」たちの聖地だったところと私は考えています。

 滝寺と呼ばれた寺院の本尊は?
仁治四年(1243)事に讃岐に流された高野山のエリート僧侶、道範は讃岐での生活を『南海流浪記』に残しています。

史料紹介 ﹃南海流浪記﹄洲崎寺本
南海流浪記 洲崎寺版
 放免になる前年の宝治二年(1248)年11月、道範は、琴平の奥にある仲南の尾の背寺を訪ねた帰路に、琴平山の称名院に立ち寄ったことが次のように記されています。

「……同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
             (原漢文『南海流浪記』) 
意訳すると
こじんまりと松林の中に庵寺があった。池とまばらな松林の景観といいなかなか風情のある雰囲気の空間であった。院主念念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
すると返歌が送られてきたようです。
 道範は念々房がいなかったので、その足で滝寺に参詣し、次のように記しています。
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」 (『南海流浪記』)

ここから分かることは
①道範が秋も深まる11月末に滝寺を訪れたこと
②坂を1,6㎞ほど登ると東向きに瀧があり
③古い寺の痕跡を示す礎石も所々に残り  → 古代山岳寺院?
④本堂は五間四方で、千手観音を本尊(?)とする山岳寺院
  大きさが五間というと山中にあるにしては、立派な本堂です。注目したいのは本尊です。「本仏御作千手云々」で「御作」とあるので弘法大師手作りなのでしょう。「千手」とあるので千手観音菩薩と考えられます。しかし、研究者が注目するのは最後の「云々」です。これは伝聞で、断定の「也」ではありません。ここからは宥範は、実際には瀧寺の本尊の観音さまを見ていなかったとも考えられます。そうだとすれば「金刀比羅宮所蔵の十一面観音像は、滝寺の本尊であった」という説とも矛盾しません。「本仏御作千手云々」をどう解釈するかの問題になります。「滝寺の千手観音 → 松尾寺観音堂の十一面観音」説は、紙一重で生き残っていることになります。

もうひとつは十一面観音は、象頭山の麓の称名寺からやってきたという説です。

称名寺 「琴平町の山城」より
現在の金刀比羅宮の神田の上にあった称名寺
称名寺の本尊については、南海流浪記に道範は何も記していません。しかし、江戸時代の多聞院に伝わる『古老伝旧記』には次のように書かれています。

「当山の内、正明称名)寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」

意訳すると
象頭山に昔、称名寺という古寺があり、大門や緒堂があった。地域の鎮守として信仰され、西山村の氏神も祀られていたという。本堂には阿弥陀如来がまつられている。それが今の院内の阿弥陀仏である。

 ここには阿弥陀如来が祀られていたと伝えられます。浄土教の寺としての称名院の姿がうかがえます。ここには十一面観音が称名院にあった痕跡はありません。高野聖に近い念仏聖がいた気配がします。

DSC05446
称名寺跡の祠
 近世以前の象頭山には、金毘羅神の出現以前に滝寺・称名寺や大麻山などの宗教施設があり、地元の人々の信仰の対象となっていたことが分かります。同時に、霊山として修験者の行場でもあったようです。しかし、十一面観音を本尊とする寺院は周辺には見当たりません。観音堂の観音様はどこからやってきたのでしょうか?  その前に、金比羅堂建立について触れておきます。

DSC05439
称名寺跡付近から眺めた小松荘

 松尾寺や金毘羅堂は、いつだれによって建立されたのか
 松尾寺の創建は、古代や中世に遡るものではなく戦国時代末のことであったと現在の研究者の多くは考えるようになっています。その根本史料としてあげられるのが松岡調の『新撰讃岐風土記』に紹介されている次の金比羅堂の創建棟札です。

宥雅建立の金比羅堂の棟札
ここからは次のような事が分かります。
①元亀四年(1573)に宥雅は松尾寺境内に「金毘羅王赤如神」を祀る金毘羅堂を建てた
②金比羅堂本尊の開眼法要の導師を高野山金剛三昧院の良昌が勤めた
 この棟札は、以前は「本社再営棟札」とされていました。しかし、この内容からは、金毘羅神が鎮座するための金毘羅堂を新しく建立したと読めるのです。「再営」ではなく「創建」なのです。

大麻山と象頭山 A
象頭山

次に導師を勤めた良昌とは、何者なのでしょうか?
高野山大学図書館蔵の『折負輯』は、次のようにあります。
「第三十二世良昌善房、讃州財田所生法勲寺嶋田寺兼之、天正八年庚辰四月朔日寂」

ここからは、良昌は、讃岐三野郡の財田の生まれで、法勲寺と島田寺の管理も任されていたようです。天正8(1580)年に亡くなっていることが分かります。法勲寺といえば、「綾氏系図」に出てくる古代寺院で、綾氏の氏寺とされます。また、島田浄土寺は、同寺旧蔵の『讃留王神霊記』には綾氏の氏寺記され、神櫛王の「大魚退治伝説」の発信地のひとつです。以前に、「金比羅神=クンピラーラ + 神櫛王伝説の悪魚(神魚に変身)」説を紹介しました。金毘羅堂落慶供養導師良昌と島田浄土寺・法勲寺と「大魚退治伝説」とを結ぶ因縁が、金毘羅信仰成立にも絡んでいると研究者は考えているようです。

1櫛梨神社3233
神櫛王の悪魚退治伝説(宥範縁起と綾氏系図の比較表) 
悪魚伝説については何度も触れましたが、できるだけコンパクトに紹介しておきます
  法勲寺には、寺院縁起として次のような神櫛王の悪魚退治伝説が、伝えられてきました。

金毘羅神=クンピーラ+神櫛王の悪魚退治伝説
            神櫛王の悪魚退治伝説

 景行天皇の時代、瀬戸内海には呑舟の大魚が棲んでおり、舟を襲ってば旅客に莫大な被害を与えた。そこで朝廷では、日本武尊の子で勇猛な神櫛王(武卵王)に悪魚を退治させるように命じた。神櫛王はみごと悪魚を退治したので、讃岐国を与えられ国造としてこの地を守ったので、人々は彼を、讃留霊王と呼ぶようになった。讃留霊王が亡くなると、法勲寺の西に墓がっくられて讃留霊王塚と呼んで法勲寺が供養してきた。

というのが、法勲寺に伝わる悪魚退治伝説の粗筋です。
悪魚は退治されてもその怨念は鎮まらず、たたりとなって悪疫や争乱を引き起こします。そこで、悪魚の怨念を鎮めるために、退治された悪魚の屍が流れ着いたという坂出市の福江浜には、悪魚を祀る魚の御堂が建てられます。
 宥雅は56歳の時、無量寿院縁起を筆録しています。
 その中には悪魚退治伝説が含まれていました。宥雅は、法勲寺に伝わる悪魚退治伝説のことをよく知っていたのです。新しく建立した松尾寺を守る守護神として、今までの三十番神では役不足と考えた宥雅は、強力な力を持った蕃神の勧進を考えます。その結果生み出されたのが流行神の金毘羅神だという説です。その際に、金比羅神の「実態」イメージとして借用したのが「悪魚退治伝説」に登場する「悪魚」でした。これを「神魚」としてイメージアップして、金比羅神へと変身させていったのです。

   その辺りのことを研究者は次のように、述べます。

 大魚を、仏典のワニ神クンビーラや大魚マカラと融合させていかめしく神として飾り立てたのが、金毘羅王赤如神だ。写本した無量寿院縁起の中で宥雅は、悪魚のことを「神魚」だと記している。金毘羅堂の祭神の金毘羅王赤如神は、仏典のクンビーラやマカラで飾り立てられた神魚であったといえる。古くよりワニのいない日本で、ワニとされたのは海に棲む凶暴な鮫であった。鮫=悪魚で、悪魚の姿は仏典に見える巨魚マカラと習合する事で巨大化し、呑舟の大魚となったといえよう。『大集念仏三昧経』には、「金毘羅摩端魚夜叉大将」とあって、ワニ神クンピーラと大魚の摩端魚(マカラ)を結び付けて、夜叉を支配する大将としていた。退治された悪魚は死して鬼神となり、夜叉=鬼神であったから、悪魚は夜叉の大将として祀られる事となった。

 以上をまとめると次のようになります。
①金毘羅堂の創建と悪魚退治伝説には密接な関連がある
②悪魚退治伝説は法勲寺の縁起であって、
③廃絶した法勲寺の寺宝類を預っていたのが良昌で、彼は島田寺も管理していた
④良昌は松尾寺内の金毘羅堂の開眼法要を行っている。
  この上に立って、研究者は次のステップに飛躍します。
松尾寺の十一面観音は、もとは法勲寺にあったのではないかというのです。そして、次のような仮説を立ち上げていきます。
①法勲寺の管理を委ねられた良昌は、その再建の機会をうかがっていた
②宥雅が松尾寺を建立することを聞いて、宥雅に十一面観首を譲ってその管理を頼んだ
③金毘羅堂の創建には、廃絶した法勲寺の悪魚退治伝説を受け継ぎ、後世に伝える期待が込められていた
つまり、現在の宝物館にある十一面観音は、もともとは法勲寺の本尊で、島田寺で保管されていた仏が、松尾寺本堂(観音堂)に持ち込まれたという説になります。
良昌が管理責任者だった頃の法勲寺は、どんな状態だったのでしょうか
法勲寺は室町後期に失火が原因で焼失して廃絶し、焼け残った仏像や聖典・仏具などを島田寺に預けていたと云います。しかし、島田寺も長宗我部元親の讃岐侵攻で焼けてしまいます。その後、生駒親正が讃岐の領主となって入国して高松に城をつくった時に、法勲寺は菩提寺として高松城下に移されてで再建されます。その法勲寺の属寺として、飯山の島田寺も再建されたようです。後に、法勲寺は親正の法名弘憲にちなんで、弘憲寺と呼ばれるようになります。
 再度確認しておくと良昌が法勲寺と島田寺の管理を任されていた頃、法勲寺は伽藍もお堂もない、状態で、焼け残った仏像や寺宝類を島田寺に預けていたと、研究者は考えているようです。そのような中で良昌は、当時は島田寺に保管されていた十一面観音を宥雅に譲り、松尾寺で金比羅神の本地仏として祀ることを提案したのではないでしょうか。この時の良昌の頭の中には、守護神として金比羅神が流行神となっていくことなど及びも付かないことでした。観音堂の本尊が十一面観音でも、正観音でも関係はなかったはずです。
 良昌にしてみれば、高野山にいて故郷の法勲寺や島田寺の荒廃には、心を痛めていたはずです。
そのような中で、悪魚伝説が金比羅神に姿を変えて伝えられることは、神櫛王=讃留霊王伝説を後世に伝え、ひいては綾氏創生伝説を引き継いでいくことにもなります。宥雅が松尾寺・金比羅堂を建立するのを聞いて、良昌は全面的な支援を行うことを決意したのでしょう。新たな地方寺院の建立に、故郷の讃岐の事とは云え、高野山のトップに近い高僧がやってくるというのは普通ではありません。そのくらいの背景があったと考えても不思議ではないでしょう。
もう一度、十一面観音を見てみましょう。
1 金毘羅大権現 十一面観音1

 蓮華座は失われていますが、その形態から十一面観音であることはとは明らかです。松尾寺の十一面観音は、もとは法勲寺のものという仮説はどうでしょうか。史料的な裏付けはありませんが、近世直前の金毘羅さんの動向を考える上では、私にとっては刺激剤となりました。

次に、いつ・どうして十一面観音から正観音への「改装」が行われたかを見ておきましょう。

金刀比羅宮 正保年間境内図
正保年間の金毘羅大権現(松尾寺)の境内配置図

土佐軍の讃岐侵攻で宥雅は堺に亡命し、無人となった松尾寺は、長宗我部元親の配下の修験者宥厳に管理運営を任されます。この時期は土佐の修験者たちによって松尾寺が運営され、多くの院坊が形成されます。そのような中で主導権を握ったのが宥盛です。彼は強い天狗信仰をもち「死しては天狗となって金毘羅大権現を守らん」とも云ったと伝えられます。こうして宥厳・宥盛の時代に、 象頭山は松尾寺から金毘羅大権現をまつる金光院へと主導権が移っていきます。それが目に見える形で伽藍配置に現れます。
具体的には、1623年に松尾寺の本堂である観音堂が移築され、そこに金比羅堂(現本宮)が姿を見せます。こうして金光院は、松尾寺から金毘羅大権現を祀る宗教施設へと立ち位置を移していきます。
そうなると観音堂の本地仏が問題になります。金毘羅大権現の本地仏は、正観音とされていました。それまで観音堂に安置されていたのは十一面観音です。そこで、改装が行われたのではないかと私は考えています。

年表で宥雅と金比羅堂を取り巻く状況を最後に確認しておきましょう
元亀4年1573 宥雅が金毘羅宝殿を建立。良昌が導師として出席
天正元年1573 本宮改造。
天正7年1579  長宗我部元親の侵入を避けて宥雅が泉州へ亡命。
                土佐の修験者である宥厳が院主に
                元親側近の土佐修験者ブレーンによる松尾寺の経営開始 
天正9年1580 長宗我部元親が讃岐平定を祈って、天額仕立ての矢
       を松尾寺に奉納。
天正11年1583 三十番神社葺替。棟札には、「大檀那元親」・
「大願主宥秀」      
天正12年1584 讃岐は元親によって平定。
天正12年1584 長曽我部元親が仁王堂を寄進(賢木門改造)
                棟札の檀那は「大梵天王長曽我部元親公」願主は「帝釈天王権大法印宗信」
 当時の象頭山は、三十番神、松尾寺、金比羅大権現の並立状態。
以上の仮説をまとめておくと次のようになります
① 松尾寺の観音堂の十一面観音は、松尾寺建立よりもずっと古い藤原時代前期の仏像
② 松尾寺と金毘羅堂の創建は、宥雅と高野山金剛三昧院の良昌の二人の僧侶の協力によって行われた
③ 良昌は法勲寺の寺宝類を管理する立場にあり、十一面観音を宥雅に提供した
④ こうして法勲寺の十一面観音は、松尾寺観音堂の本尊として安置された
⑤ その後、天狗道を侵攻する修験者たちの拠点となった金光院は、松尾寺から金毘羅大権現に比重を移した
⑥ その結果、観音堂の本尊も十一面観音から、金毘羅大権現の本地仏とされる正観音に改装された。
最後に高松に移され生駒親正の菩提寺となった弘憲寺について見ておきましょう
1 弘憲寺 讃留霊王G

 この寺には、江戸時代に描かれた讃留霊王(神櫛王)の肖像画があります。ここからは、弘憲寺が法勲寺を継承する寺であることがうかがえます。同時に、生駒藩時代には讃留霊王信仰が藩主によって広まっていた形跡もあります。

 弘憲寺の本尊は、平安時代の木像不動明王立像です。

木造不動明王立像|高松市
高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』は、この不動明王について、次のように記します。
 不動明王は、身の丈109センチの檜(ひのき)の一木造りで岩坐の上に立っておられる。頭の髪は、頂で蓮華(れんげ)の花型に結(ゆ)い、前髪を左右に分けて束ね、左肩から垂らす。腰には短い裳(も)をまとい、腰紐で結ぶ。このお姿から、印度の古代の田舎の童子の髪の結い方や服装がうかがわれる。額にしわをよせ眉をさかだて、左の目は半眼に右目はカッと見開く。いわゆる天地眼(てんちがん)で、左の上牙で下唇を右の下牙で上唇をかみしめ、忿怒相(ふんぬそう)をしている。不動信仰の厳しさを感じさせられる。
 全身の動きは少なく、重厚さの中に穏やかさを感じさせ、貞観彫刻から藤原彫刻への移行がみえる。旧法勲寺(ほうくんじ)(飯山町)から移されたと伝えられている。
この不動明王も、もともとは法勲寺にあったもののようです。不動明王は修験者の守護神ですから中世には、法勲寺や島田寺も修験者の寺であったことがうかがえます。しかし、修験者が守護神として身につけた不動明王は、空海によってもたらされた「新しい仏」で、白鳳・奈良時代にはいなかった仏です。奈良時代に開かれた法勲寺の本尊としては、ふさわしくありません。創建当時から本尊とされていたのは、不動明王以外の仏が本尊であったと考えるのが自然です。
それでは、法勲寺の本来の本尊は何だったのでしょうか
 第1候補として挙げられるのが観音菩薩です。そうだとすれば、金毘羅大権現の松尾寺の十一面観音は法勲寺のものであった可能性がでてきます。しかし、それを裏付ける史料はありません。あくまで仮説です。
松尾寺は別当寺として金毘羅大権現を祀り、この松尾寺の中心が観音堂でした
そういう意味では、十一面観音は金毘羅信仰の中でも重要な位置を占めていたわけです。そして、松尾寺は観音霊場でもあった痕跡があります。十一面観音は平安時代からの微笑を浮かべるだけで、その由来に関しては何も語りません。
改訂版2025/12/06
参考文献
○松原秀明「金毘羅信仰と修験道」(守屋毅編『民衆宗教史叢書 金毘羅信仰』、雄山間発行、一九九六年)
○『琴平町史』巻一 (琴平町発行、一九九六年)
○「金毘羅参詣名勝図会」「讃岐国名勝図会」(『日本名所風俗図会 四国の巻』、角川書店発行)


  
1

幕末の「金毘羅参詣名所圖會」[1847]に描かれた象頭山松尾寺金光院を見てみましょう
大門をくぐって桜馬場からの参道は、石段も玉垣も見えません。ここを登りきると、金堂(現旭社)前の広場にたどり着きます。金堂は、三万両という巨費をかけて2年前(1845)に完成したばかりでした。清水次郎長の代参でやってきた森の石松が、これを金毘羅大権現の本社と勘違いして帰ったと伝えられますが、それほど立派な建物です。当時は「西国一の建物」とも云われたようです。
 この金堂の下には多宝塔が建っています。真言密教の寺であることの存在証明のようなモニュメントです。この他にも鐘楼などの建物が建ち並ぶ姿が描かれます。金毘羅大権現の境内は、神社と云うよりは仏教伽藍と呼ぶ方がふさわしかったことがよく分かります。
 さて今回は玉垣を見ていきます。金堂の右側の石段は、下り専用です。ここには、石段がまっすぐに描かれています。しかし、玉垣は見えません。まだ作られていないようです。さらに、金堂の登ってくる左下の坂道を見ると、ここには石段もないように見えます。

それから7年後の「讃岐名所圖會」(1854)に描かれた金堂です。
★「讃岐名所圖會」にみる金刀毘羅宮konpira2

描かれた角度がちがいます。作者は、新たな構図から描かれた俯瞰図をめざしたのでしょう。金堂と多宝塔の位置に注意しながら90度くらい回転させた構図になります。蟻のように参拝者が描かれて金毘羅さんの「繁盛ぶり」が伝わってきます。
 旭社周辺の様子を、7年前の絵図と比較してみると・・・・
①旭社前の坂道は、石段が整備され玉垣もある。
②灯籠が立ち並んでいる
③二天門が移築され、前に鳥居が建立されている
④二天門に続く参道には長い回廊(休息所)ができている
⑤一直線であった本宮からの下り道が90度に曲がって下りてくるようになっている。
今回は脇目を振らずに玉垣に集中するために①②のみを追いかけます
  それでは、多宝塔から金堂へ上がっていく玉垣はいつ整備されたのでしょうか?

★「讃岐名所圖會」にみる多宝塔2

  それをしるための工具が「金毘羅庶民信仰資料集巻2」です。
4 玉垣旭社前
「金毘羅庶民信仰資料集巻2」

ここには文化財に指定された鳥居・狛犬・石段・敷石・祈念碑・玉垣がすべておさめられています。たとえば、多宝塔から金堂への坂道の玉垣には、右側がT22、左側がT23の番号が打たれています。そして、その親柱と小柱に刻まれた奉納者氏名や住所・奉納年月日・取次者・石工までが載せられています。
それでは玉垣T22を見てみましょう。
 
4 玉垣旭社前11
一番下の起点になる親柱に刻まれた奉納年月日は
嘉永6(1853)年五月吉日です。「讃岐名所圖會」(1854)が描かれた前年に、この玉垣は完成したようです。その下に名前があるとのは、取次世話人で実質的な責任者で、資金集めや支払い、金毘羅金光院と連絡事務などをすべて行った人物で、大きな旅籠の主人などが務めることが多かったようです。
そして、親柱と親柱に小柱が5本あります。そこに寄進者の名前が刻まれることになります。ここには「米屋周助」とあります。5本目は「米屋周次郎」とありますから、跡継ぎでしょうか。そんなことを想像していると、何かしらドラマが生まれそうな気がしてきます。
さて、これを寄進したのはどこの人たちなのでしょうか?
それは、この玉垣の一番上の最後の親柱8に刻まれています。

4 玉垣旭社前12
  親柱8にはもう一人の世話人の住所が「予州松山三津濱(浜)」とあります。松山の外港で繁栄した三津浜の商人たち寄進した玉垣だと分かります。親柱6と7の間の小柱には「海上安全」とありますので、三津屋は廻船問屋など海に関係した商売に携わっていたのかもしれません。
今までの所を確認しておきましょう。
 玉垣を奉納する場合、親柱の数が十数本あるのが普通です。
一連の玉垣は100人近くの奉納者によって建立されたということになります。そして、奉納年月日や願主、世話人は、端の親柱の1ヶ所にしか彫られていません。したがって一連の玉垣の親柱、小柱に彫られた多くの人名は、何らかの関係で結ばれた人々と考えられます。

4 玉垣旭社前90

 玉垣はそれまでの灯籠や鳥居などに比べ、ひとりひとりの名前を親柱・小柱に大きく彫りつけることができます。長い参道を登る金毘羅さんの参拝客にとってはいやが上にも目に入ってきます。これは奉納者にとっては魅力であったはずです。金比羅講で参拝した裕福な商人たちが、まだ繋がっていない玉垣をみて、ここに私たちの名前を刻んだ玉垣を奉納しようと話し合い、定宿の旅館の主に相談すれば、後の事務手続はすべてやってくれます。お金を支払うだけです。
 こうして、境内の長い参道に玉垣が短期間に出来上がっていったようです。
4 玉垣旭社前122

   金堂が30年近い工期を経て完成するのが1845年でした。
金堂完成に併せて石段や敷石などの周辺整備も進みます。それと同時歩調で玉垣整備が進められたのがこの表からはわかります。その契機になったのが金堂完成なのでしょう。ここでも石の玉垣が姿を現したのは幕末になってからで、思ったよりも新しいことが分かります。

  それでは、石の玉垣が現れる以前は、どうだったのでしょうか?
 『金毘羅参詣続膝栗毛』を書いた十返舎一九は、『讃岐国象頭山金毘羅詣』(文化七年-1810)に桜馬場あたりのことを、次のように記しています。
  「坊舎の桜樹は朱の玉垣と等く美し」
ここからはこの時の桜馬場の玉垣は、奈良時代のような朱塗りの木造であったことが分かります。鳥居が木造から石造に代わったように、玉垣も最初は木造で、それが幕末期に石の玉垣が大量に出現するようになったのです。玉垣建立の年代をしめした上表からも、江戸時代の末期から石造玉垣が急増していったことが分かります。。
この向かいのT23の玉垣は、どんな人たちの寄進なのでしょうか?

4 玉垣旭社前1222
T23の玉垣の寄進年月日を見ると寛成8(1796)年10月7日とあります。T22よりも半世紀も前のものです。初期に作られた玉垣の一つです。左側の玉垣はできても右側はなかなか姿を見せなかったようです。10月10日の大祭の前にやって来て奉納の儀式を終えたのかもしれません
 この玉垣には「玉垣講」とあります。
玉垣講には、大洲城下講中、米湊村・宮之下村講中(大洲城下講中)、小豆島厚演講中、明石吹上村講中・井出村講中・和坂村講中(明石玉垣講中)、松山城 下大唐人四丁目講中など、城下町や村単位の講があったことが分かります。この玉垣は大洲の玉垣講ですが、特徴的なのは大洲城下だけでなく周辺の村々の講中も加わっていたようです。
   地名でなく、おめでたい言葉がつけられた講もあります。
 鶴亀講、栄講、賓来講、金吉講、永代講、繁栄講、繁昌講中、栄壽講、金豊講などで、兵庫の鶴亀講、栄講などに見られるように、商人たちの講で、商売繁昌を願ってつけられることが多かったようです。
  講のあり方を示す言葉が名称になったものもあります。
 月参和順講(大洲)・初日講(兵庫)月参和順講は、毎月、講から代表の参拝者を出していたところからつけられた名前でしょう。初日講は、毎月の一日に参拝者を出すか、あるいは、その日ごとに集まって金毘羅さんを拝むなどしていたのでしょう。
4 玉垣旭社前12224

こうした人々の信仰心に支えられて、玉垣寄進は幕末に爆発的に増えて、急速に金毘羅さんの境内は整備されていったようです。どこにもないような玉垣と石段と灯籠の続く参道を人目みたいとと参拝客は増え続けたのです。
以上をまとめておきます。
①19世紀になり東国からの金比羅詣が増え、参拝客は増加した。
②これを背景に、1845年に総工費三万両をかけた金堂が完成した。
③新たな観光名所とするために金堂周辺の整備が進められた。
④その一環が参道の石段化や玉垣・灯籠の整備であった。
⑤こうして19世紀半ばには、金毘羅さんの参道は、石で白く輝く参道に生まれ変り、周辺の寺社と差別化が進み、さらなる参拝客の増加へとつながった。
⑥周辺の寺社の坂道が石段化し、玉垣で囲まれるようになるのは、幕末以後の明治になってからのことであった。

   以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

C-11
 金毘羅さんには、いくつの鳥居があるの?  
①1782 天明二 高藪(現北神苑)  粟島廻船中 徳重徳兵衛 
②1787 天明七 二本木(現書院下) 江戸 鴻池儀兵衛他 
③1794 寛政六 牛屋口       予州 績本孫兵衛
④1794 寛政六 奥社道入口     当国 森在久       
⑤1848 嘉永元 阿波町(現学芸館前)三好郡講中
⑥1855 安政二 新町        当国 武下一郎兵衛
⑦1859 安政六 一ノ坂(撤去)   予州 伊予講中   
⑧1867 慶応三 賢木門前      予州 松齢構       
⑨1878 明治11 四段坂御本宮前  当国 平野屋利助・妻津祢
⑩1910 明治四三 闇峠       京都 錦講         
⑪1915 大正四  白峰神社上    岡山 中村某  
⑫1916 大正五  下向道      大阪 油商仲間他
⑬1918 大正七  白峰神社下    淡路 間浦喜蔵 
⑭1925 大正一四 大宮橋詰     愛知 金明講    
⑮1933 昭和八  桜馬場詰     東京 前田栄次郎  
⑯1955 昭和三四 奥社下    福岡県戸畑市山田宇太郎・同鈴子
⑰1974 昭和四九 桜馬場入口    愛媛県波方町 斎宮源四郎他 
⑱1982 昭和五七 奥社     香川県坂出 田中義勝・妻(ナエ)
現在ある鳥居がいつ、誰によって奉納されたかがこの表からは分かります。境内と旧町内のものだけだと18基が数えられるようです。しかし、これらの鳥居がはじめて、そこに建てられたことを意味するものではありません。以前あったものに代わって建て替えられたことも考えられます。

C-12-2
 ①~④の一番古い4基のグループが建てられたのは18世紀末で、それぞれの金毘羅街道の起点に建てられています。
①は多度津街道の起点の高藪町に、粟島の廻船衆が奉納
②は、丸亀街道の起点(現高灯籠)に江戸の豪商が奉納。
③は、伊予土佐街道の金毘羅領の入口に故人が奉納
④は、本社から奥社への参拝道の始点に三野郡の庄屋が。
この時期には、個人や少数者で奉納していて「講」による団体奉納はないようです。その後、何故か半世紀ほどの空白期間があります。第2期の鳥居建立は、幕末期になります。
⑤は阿波街道の起点に、阿波の人たちが奉納。
⑥は高松街道の起点に、高松の豪商が個人で奉納
⑦は、伊予土佐街道の起点に、伊予講中が団体で奉納。
奉納された8基の鳥居の建てられた位置を見てみると、仁王門(現大門)より内側のものはないようです。しかし、内側に鳥居がなかった訳ではありません。絵図などには、いくつかの鳥居が内にも描かれています。それらは石造ではなかったのかもしれません。
②明神鳥居

 明治になって、奉納によって石造の鳥居が大門の内側に建てられるのは、次の順番です
⑧賢木門外側 → ⑨四段坂御本宮前 → ⑩闇峠
と、かつての金堂(現旭社)から本社への間に、3つの鳥居が明治大正に建ちます。そういう意味では、思っていたよりも現在の鳥居が姿を現すのは新しいようです。
 
金毘羅さんで重要有形民俗文化財の指定を受けた鳥居は、上から数えて10番目までです。それが何で出来ているかで分類すると
石造製7
青銅製2
鉄製 1
立地場所で分類すると
1 境内 五
  書院下・賢木門前・闇峠・四段坂 奥社道入口 
  神苑2(学芸館前・北神苑)
2 街道  高松街道・土佐伊予街道・札ノ前
しかし、このうち次の三基は事情があって今の場所へ他から移転したものです。
①境内書院下の鳥居は丸亀街道から移転、
②神苑学芸館前の鳥居は阿波街道から移転、
③北神苑の高灯籠正面の鳥居は多度津街道から移転
この3つと旧位置に戻してみると、
 境内 4  街道 6
となり、金毘羅五街道の各街道口には、どこも鳥居が建っていたことになります。

  まず、指定されている境内にある4つを参道の下の方から順番に見ていくことにしましょう。
⑧賢木門(二天門)前の鳥居  明治になって松山の講中より奉納
 
2.金毘羅大権現 象頭山山上3

神仏分離以前の金毘羅の姿です。幕末に二万両をかけて完成した金堂を中心に多宝塔や諸堂が立ち並ぶ仏教伽藍世界があったことがよく分かります。神道的な空間は本社と三十番社の周りだけです。

 金堂(旭社)まで登ってくると、ここで参道は二つに別れます。
御本宮への登り道と、参拝を終え三穂津姫社をめぐって下る下向道です。
3 賢木門鳥居

⑧の鳥居は登り道の入口に建つ賢木(さかき)門の前にあります。青銅製の明神鳥居で、柱の銘文から伊予松山の松齢講が、慶応三年(1867)九月に奉納したものであることが分かります。
   この鳥居のすぐ左側に切り石の台座を据えた青銅製の角柱碑が建っています。
正面には大きく
「麻鐘華表(鳥居) 伊予国松山松齢構中」
とあり、この碑が鳥居と共に奉納されたもののようです。他の三面には講員の人名と奉納の経過、和歌などがぎっしりと刻まれています この碑文からは、次のような事が分かります。
①万延元年(1860)に青銅製の鳥居を奉納したが、鋳造がうまく出来てなかったのか自然に折れて壊れてしまった。
②慶応二年(1866)九月、再び青銅製鳥居の再建が発起され、明治四年十二月に落成
③明治十六年三月中旬にめでたく上棟式が行なわれた。
鳥居の慶応三年九月の紀年銘は、完成した年ではなく、再建発起した年のようです。
 この位置には、古い時代から鳥居が建っていたようです
1 金毘羅 伽藍図1
 境内変遷図を見ると、金光院から本宮までの参道は、かつては真直ぐに登っていたようです。それが金毘羅信仰の隆盛で人々で賑わい出すと諸堂がいくつも新しく建てられ、元禄頃に参道が延長され、登り道とは別に下向道も造られます。この鳥居は、参拝道と下向道を一目でわからせる意味もあって、はやくから建てられていたようです。
 現在の鳥居は高さが二四尺(約七・ニ㍍)と巨大で、加えて青銅製です。建設資金は相当かかったと思います。そのために「松齢講」という講が組織されます。講元は松山萱町二丁目の和泉屋蔵之助、発起人も同じ松山の三津ケ浜の三和屋常助です。講の構成を見ると、
①個人参加が933名、
②生串村中・三町村中といった村の有志からの寄進
③第一・第二金刀比羅丸・下怒和丸と船名があるので、船員からの寄進
④網方中といった漁師の奉納
 多くの人たちからの寄進を集めています。いわゆる「勧進」方式です。そのため発起から落成まで六年がかかっています。この鳥居を奉納するには、それだけ多くの人々の協力が必要だったということなのでしょう。
 講員は、現在の松山市を中心に中予全域に広がっていますが次のような特徴がうかがえます
①上浮穴郡久方町といった山間部では少ない。
②講元の和泉屋蔵之助か松山萱町二丁目で、発起人の三和屋常助も松山三津ヶ浜と、海沿いであることが影響している
③安居島・興居島・恕和島といった島嶼部や海岸線の村々に分布が濃く、仁社丸勝五郎・長久丸元吉といった船主の名前が見られ、金毘羅さんに海上安全などを願って寄附した人が多かった
 松山の豊かな経済力をもつ商人層と周辺の信者の合力で、奉納された鳥居といえるようです。
 闇峠の石鳥居    明治四十三年五月京都の錦講中から奉納
 賢木門を入ってすぐ右側の遥拝所から、手水舎をすぎてすぐのところにかかる連理橋までの間を闇峠と呼ぶようです。この間は、常緑樹が欝蒼と繁り、真夏の太陽の下でもなお薄暗い。そんなところから闇峠と名付けられたといいます。その手水舎の手前に鳥居が建っています。
3 闇峠鳥居
 闇峠の鳥居は花岡岩製の神明鳥居です。金毘羅さんに建つ鳥居は、神明が明神鳥居かのどちらかです。多いのは明神鳥居で、神明鳥居は、明治以後奉納された三つだけです。神明鳥居は伊勢神宮に代表される鳥居なので、明治以後国家神道の影響をうけて、奉納されるようになったようです。
 この鳥居は柱の銘文に、明治43年5月に京都の錦講中から奉納されたことが記されています。錦は京都市中京区の錦小路に面し、古くから生鮮・加工食料品店が建ち並ぶ「京都市民の台所」として有名な町です。奉納者として名前が記されている45人も、錦町の店主たちなのでしょう。
 錦からの奉納は、これがはじめてではないようです。この鳥居の奉納よりも80年ほど前の天保五年(1834))に、錦の魚立店の講中から燈船が一対奉納されています。賢木門前に並ぶ青銅製の燈船のひとつです。錦の人々のあいだでは、金毘羅信仰がつづいていたようです。

2
  四段坂の鳥居                      37P
 闇峠を抜けると、御本宮を正面にあおぎ見る最後の石段が待っています。4つに別れているので四段坂と呼ばれます。この階段の途中、事知神社前に鳥居が建ちます。ここからは本宮まで、あと数十段の石段をのこすのみです。

3 四段坂鳥居
 この鳥居は花崗岩製の神明鳥居で、明治11年4月、丸亀の浜町に住む平野屋利助と津怜によって奉納されています。 鳥居は奉納物としては規模も大きく費用もかさみます。そのため個人での奉納は少なく、講中や仲間といった団体での奉納が普通です。先ほど見た賢木門前の青銅鳥居の伊予講中などがその代表例です。そんな中でこの四段坂の鳥居は、小さいとはいえ、個人の奉納です。

3 四段坂鳥居2
どんな人が奉納したのか興味がわいてきます
 奉納した平野屋利助は石工だったようです。金刀比羅宮の大門の前に、この鳥居と同じ明治11年12月に富山の売薬人中が奉納した石燈龍が建っています。花崗岩製で、笠の四面の軒先に破風をつくり出すなど、精巧な造りで職人芸を感じます。この石燈龍の銘に「石工平野屋利助」とあります。利助は腕のいい石工だったようです。
 ただの石工ではないようです。天保のころ(1830~48)の丸亀の町のことを描いた『丸亀繁昌記』のなかに、彼の店が次のように登場します。
 商売の元手堅むる礎には石屋のきも連りて 神社の玉垣、石灯龍、鳥居の出来合、望次第。施主の名をほる石盤に阿吽の高麗狗のき端を守る。石凛然と積上たり
 彼の店は、本にも取りあげられるほどの大きな石屋だったようです。鳥居を個人で奉納したのは、それまでの感謝や信心もありますが、利助自身が腕の良い職人として手広く商売を行っていたという経済力を抜きにしては考えられません。
 また、ここにはそれ以前から鳥居があったようです。享保ころの絵図には、四段坂に鳥居が描かれています。御本宮の前ということではやくから建てられたようです。

  奥社道入口の鳥居                   
 讃岐平野と瀬戸内海の眺望を後に、奥社への参道入口で迎えてくれるのがこの鳥居です。

3 奥社参道入口鳥居
花崗岩製の明神鳥居で、寛政六年(1794)仲秋(旧八月)に奉納されています。願主は三野郡(現三豊市)の次の4人の庄屋です。
羽方村(三豊郡高瀬町羽方)の森在久、
松崎村(同郡詫間町松崎)の白井胤林、
上勝間村(同郡高瀬町上勝間)の安藤清次、
大野村 (同郡山本町大野)の小野嘉明
3 奥社参道入口鳥居.2jpg

金毘羅が鎮座する象頭山の西側の三豊の村々です。これらの村の中には、象頭山や大麻山の西側に入会権を持ち芝木や下草刈りによく登ってきていたようです。近世初頭までは、大麻山の頂上稜線一体は、牛や馬の牧場であったことが資料からは分かります。本社から奥社への道は、修験者の通う修行の道であると同時に、農民たちにとっては下草刈りなどの生活の道だったと私は思っています。

以上、金毘羅さんの重要有形民俗文化財に指定されている10の鳥居の中で、境内に建てられた4つを見て回りました。感じるのは、案外新しいものだということです。今ある鳥居は、全て18世紀末になって姿を現したというのが以外のようにも感じます。
 金毘羅さん=古くからの神社という先入観に囚われすぎているのかもしれません。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  印南敏秀  鳥居 
         「金毘羅庶民信仰資料集NO2」

DSC04827
 
善通寺さんと金毘羅さんが「本末争い」をしているようです。
これを聞いて最初感じたのは、なぜ神社である金毘羅さんが真言宗の善通寺の末寺とされるのかと思ったのですが、金毘羅さんの成り立ちを考えると納得します。当時は神仏混淆の時代で仏が人々を救うために、神に化身して現れるとされていました。もともと、小松荘のこのお山にあったのは松尾寺で、観音菩薩が本尊とされていました。その守護神として三十番社があったようです。
 しかし、戦国末期に、このお山で修行を行う修験者たちによって、新たな守護神として金毘羅神が作り出され、金比羅堂が建立されます。修験者たちは金比羅堂の別当として金光院を組織し、社僧として金毘羅大権現を祀るようになります。金光院は、三十番社や松尾寺との「権力闘争」を経て、お山のヘゲモニーを握っていったことは、以前にお話ししましたので省略します。
 社僧は、前回お話しした西長尾城主の甥(弟?)のように高野山で学んだ真言密教の修験者たちです。善通寺の僧侶から見れば、同じ高野山で学んだ同門連中が金毘羅大権現を祀り、時の藩主から保護を受けて急速に力を付けているように見えたはずです。ある意味、善通寺から見れば金毘羅大権現(金光院)は「新興の成り上がりの流行神」で、目の上のたんこぶのような存在に感じるようになっていたのかもしれません。

金毘羅大権現扁額1
本末争いの主人公は?
 本末の争いが起きたのは、丸亀藩山崎家の二代目藩主・志摩守俊家の時代(1648ー51)の頃です。争いの主人公は次の二人です。
善通寺誕生院では禽貞(1642~73在職)
金毘羅金光院では宥典(1645ー66在職)
  それでは、残された史料を見ていくことにしましょう
この事件については金光院側に「善通寺出入始末書」などの文書が残っています。内容は「金光院は誕生院の末寺ではない」理由を、九か条にわたって書き上げたものです。これは誕生院の「金光院は誕生院の末寺である」という主張に対する金光院の回答の」ようです。残念ながら善通寺側の文書は残っていません。
その「反論内容」を見てみましょう。
一 先々師宥盛果られ候節、金毘羅導師の儀、弘憲寺良純へ宥盛存生の内に直に申し置くべく候に付いて、弘憲寺へ頼み申し候、追善の法事、二、三度誕生院へ頼まれ候事
意訳すると

先々代の金光院院主が亡くなった頃に、金毘羅導師の件について、高松の生駒家菩提寺弘憲寺の良純様に宥盛生存の内に依頼しておくようにと云われました。なお、追善法要については、二、三度善通寺誕生院にお願いしたこともあります。

ここからは善通寺側が「宥盛の追悼法要を行ったのは善通寺である。それを、宥睨の代には別の寺院に変えた。本寺をないがしろにするものである」という主張がされていたことがうかがえます。

一 金毘羅社遷宮の事、先師宥睨は高野山無量寿院頼み申すべく存ぜられ候へども、権現遷宮の事は神慮に任かす旧例に従へば、僧侶四、五人御蔵を取り誕生院へうり申すに付き頼まれ候由に候右両条にて末寺と申され院哉、此方承引仕らざる

意訳すると
金毘羅社の遷宮については、先師宥睨は高野山無量寿院に依頼するようにという意向でしたが、権現の遷宮なので、神社のことで旧例に従えば、僧侶4,5人で行い、誕生院へ依頼したことはあります。しかし、これを持って金光院が誕生院の末寺であるというのには納得できません。
 
   宥睨の時の行われた金毘羅堂の遷宮の導師について、善通寺側から出された「善通寺誕生院の僧侶が行ったと」いう主張への反論のようです。

一 観音堂入仏、先の誕生院致され候様に今の住持申さる由承り候、相違の様に存じ院、此の導師は先々師宥盛仕られ候証拠これあるべき事

 意訳すると
観音堂入仏の儀式については、先の誕生院によって行われたと、誕生院現住持はおっしゃているようですが、これは事実と異なります。この時の導師は先々代の宥盛によて行われたもので、証拠も残っています。

本堂や観音堂などの落慶法要の際には、本寺から導師を招いて執り行うのが当時のスタイルでした。そのため誕生院は、あれもこれもかつては善通寺の僧侶が導師を勤めたと主張し、故に金光院は善通寺の末寺であるという論法だったことがうかがえます。

一 先師宥睨の代、当山鎮守三十番神の社、松平右京太夫殿御建立、遷宮賀茂村明王院に仕り候、その時誕生院より二言の申され様これ無き事
意訳すると
先師宥睨の時に、当山鎮守の三十番社については、松平右京太夫殿が建立し、賀茂村明王院が遷宮を勤めています。その時に、誕生院が関わった事実はありません。

三十番社はもともとの松尾寺の守護神を祀る神社でした。この三十番社に取って代わって、金比羅堂が建立され台頭していきます。そのため三十番社と金比羅堂別当の金光院との間には「権力闘争」が展開されたことは、以前お話しした通りです。

一 年頭の礼日、正月十日に相定まり、その後誕生院金光院へ参られ候由申さると承り候、相違申す事に候、前後の日限相定らず候、十日は権現の会日に院へば自由に他出仕らず候、その上金光院へ誕生院の尊翁正月八日に年頭の礼に参られ候、(中略)

意訳すると
 年頭の礼日は正月十日と定められています。その後に、誕生院と金光院へ参られるとおっしゃっているようですが、これも事実とは異なります。期日については、前後の日限は定まっていません。十日は権現の会日ですので、我々(金光院)は参加することはできません。

これは本末関係を示す事例として、年頭の正月十日に金光院主が年始挨拶のために本寺の善通寺にやってきていたことを善通寺側が主張した事への反論のようです

一 法事又は公事、何事にても国中の院家集合の席、往古は存ぜず、金光院二、三代の座配は一薦或は二蕩、金光院より座上の出家は多くこれ無く候、諸院家多分下座仕られ候事その隠れ無く、誕生院の末寺として座上仕り侯はば、諸院家付会に申し分られこれ在る間敷く候哉(後略)

 法事や公事など公式の席上に、国中の院家が集まり同席することは昔はありませんでしが、その席順について金光院の二、三代の座配は高い位置に配されています。金光院より座上の寺社は多くはありません。諸院家は金光院の下座にあることが隠れない事実です。もし、金光院が誕生院の末寺というのなら、末寺よりも下になぜ我々の席があるのかと諸院家から異議があるはずですが、そのようなことは聞いたこともありません

ここからは17世紀半ばには、金光院が讃岐の寺社の中でも高い格式を認められていたことが分かります。それを背景に、末社にそのような格式が与えられるはずがないという論法のようです。
  以上から善通寺の主張を推察してみると、次のようになるのではないでしょうか
かつては金光院の主催する落慶法要のような式典には善通寺の僧侶が導師を勤めていた。ここから善通寺が金光院の本寺であったことが分かる。その「本末関係」が宥睨の頃からないがしろになされて現在に至っている。これは嘆かわしいことなので善通寺が本寺で、金光院はその末寺であることを再確認して欲しい。

o0420056013994350398金毘羅大権現
金毘羅大権現像
 これ以外に善通寺側が本寺を主張するよりどころとなったもうひとつの「文書」があったのではないかと私は思っています。
それは初代金光院主・宥雅が改作した文書です。宥雅は「善通寺の中興の祖」とされる宥範を「金比羅寺」の開祖にするための文書加筆を行ったようです。研究者は、次のように指摘します。
宥範以前の『宥範縁起』には、宥範について
「小松の小堂に閑居」し、
「称明院に入住有」、
「小松の小堂に於いて生涯を送り」云々
とだけ記されていました。ここには松尾寺や金毘羅の名は、出てきません。つまり、宥範と金比羅は関係がなかったのです。ところが、宥雅の書写した『宥範縁起』には、次のような事が書き加えられています。
「善通寺釈宥範、姓は岩野氏、讃州那賀郡の人なり。…
一日猛省して松尾山に登り、金毘羅神に祈る。……
神現れて日く、我是れ天竺の神ぞ、而して摩但哩(理)神和尚を号して加持し、山威の福を贈らん。」
「…後、金毘羅寺を開き、禅坐惜居。寛(観)庶三年(一三五二)七月初朔、八十三而寂」(原漢文)
 ここでは、宥範が
「幼年期に松尾山に登って金比羅神に祈った」
と加筆されています。この時代から金毘羅神を祭った施設があったと思わせる書き方です。金毘羅寺とは、金毘羅権現などを含む松尾寺の総称という意味でしょう。
「宥範が・・・・金毘羅寺を開き、禅坐惜居」
とありますから金比羅堂の開祖者は宥範とも書かれています。裏書三項目は
「右此裏書三品は、古きほうく(反故)の記写す者也」
と、書き留められています。
金毘羅山旭社・多宝塔1


 宥雅が金光院の開山に、善通寺中興の祖といわれる宥範を据えることに腐心していることが分かります。これは、新しく建立した金比羅堂に箔を付けるために、当時周辺で最も有名だった宥範の名前を利用したのでしょう。
 それから70年近く経ち、金毘羅さんは讃岐で一番の寄進地をもつ最有力寺社に成長しました。金毘羅大権現の開祖を宥範に求める由来が世間には広がっています。さらに宥雅が書写した加筆版『宥範縁起』が善通寺側に伝わればどうなるでしょうか。善通寺誕生院の院主が「こっちが本寺で、金毘羅は末寺」と訴えても不思議ではありません。
 しかし、これは事実に基づいた主張ではありません。いろいろと「状況証拠」を挙げて主張したのでしょうが、受けいれられることはなかったようです。

金毘羅山本山図1
次に、その経緯を次に見ていくことにします。
民間の手による調停工作は?
 この争いがまだ公にならない前に、丸亀の備前屋小右衛門の親が仲に入って、一度は和睦の約束ができていたと丸亀市史は云います。宥睨の年忌のときに、国中の出家衆が金光院へ集まり会合することになっていました。ところが、出席するはずの誕生院禽貞がやってこなかったようです。そのために和談の話は流れてしまいます。禽貞にとっては、和睦は不満だったのでしょう。
 さらに、誕生院の本寺である京都の随心院門跡からも、山崎藩へ両院の争いを仲裁してほしいとの申し出があったようです。そこで、両院を呼んで、持宝院(本山寺)と威徳院(高瀬町)にも同席させ和解の場を設けましたが、うまく運びません。
sim (2)金毘羅大権現6

山崎藩による調停工作は?
 そこで金光院宥典は、自分の考えを山崎藩家老の由羅外記・奉行の谷田三右衛門・新海半右衛門へ申し出ます。その中で、慶安元年(1648)に金毘羅へ将軍家の朱印状が下されたことに触れて、次のように主張します

「愚僧儀は近年御朱印頂戴致し……右京太夫殿・志摩守殿(藩主)へも出入り仕り、御言にも懸り候へば、左様の儀を心にあて、旧規に背き非例の沙汰も申かと、志摩守殿又は各御衆中も思し召すべき儀迷惑仕り候」

 
誕生院禽貞の本末論争について、まったく根拠のない、言いがかりのような主張で迷惑千万と、のべています。志摩守殿とは、山崎藩二代志摩守俊家のことです。志摩守は、金光院の申し出に納得し
「皆とも誕生院へ異見挨拶致し、仕らる様に申し談ずべき旨申し付けられた。」
と、誕生院に言い聞かせて、しかるべき様に取りはからうよう命じます。 藩主の指示を受けて、家老たちは誕生院を呼んで、次のようなやりとりが行われたようです
「誕生院は丸亀山崎藩の領内、金光院は朱印地で他領になる。そのため松尾寺(金光院)を善通寺の末寺というのは難しい。証明する証文があるなら急いで提出するように」
誕生院「照明する文書は、ございません」
「証文がなければ、本末関係を判断することはできない」
といって席を立ちます。そして、次第を志摩守俊家に報告します。
報告を受けた藩主志摩守は
「誕生院のいわれのない主張のようだ。双方の和談にするように」
と命じます
20150708054418金比羅さんと大天狗
こうして、藩主命による調停が行われることになり、金光院院主宥典も呼ばれて丸亀へ出向きます。場所は妙法寺です。藩からは御名代として家老が出席しました。
 しかし、杯を交わす段になって、誕生院禽貞が
「和平の盃を誕生院より金光院へ指し申すべき取りかはしの盃ならは和睦仕る間敷く」
と、自分たちの主張が認められない調停には承服できないと言い出します。これには調停役をつとめた藩主も立腹して、
「以後百姓檀那ども誕生院へ出入り仕る間敷き旨」
と、誕生院への人々の出入禁止を申しつけます。
 禁門措置に対して金光院宥典は、誕生院の閉門を解いてもらえるように藩に願い出ています。その後、山崎藩は廃絶しますが、この事件を担当した家老たちの金光院にあてた手紙が残っています。これは金光院から、のちのち誕生院から異変がましいことを言い出すことがないよう先年の一件を確認しておいてもらいたいという願いに答えたもので、次のように記されています。
「後々年に至りて御念の為め……拙者など存命の内に右の段弥御正し置き成され度き御内存の旨、一通りは御尤もにて、併しその時分の儀、丸亀領内陰れ無き事に御座候へは、後々年に至り誕生院後主・同人衆も先年より証文・証跡これ無き事を重ねて申し立られるべき儀とは存ぜられず候」

「誕生院に、本末関係を証明する文書はないので、心配無用」ということのようです。事件後決着後に、金光院は本末論争を善通寺側が蒸し返さないように「再発防止」策として、山崎家を離れた家老の由羅外記、大河内市郎兵衛にまで連絡をとっていたことが分かります。
1000000108_L (1)

 ところが金光院が心配した通り、誕生院は新領主となった京極家にも「本末関係」を申し立てるのです。「権現堂(金毘羅堂)御再興の遷宮導師食貞仕るべき旨」を提出し、金比羅堂再興の導師に誕生院主を呼ぶことを求めています。
 京極藩の郡奉行赤田十兵衛は、金光院にこのことについて問い合わせ、山崎藩時代の事件の顛末を確認し動きません。「それはもうすでに終わったこと」として処理されます。金毘羅さんの遷宮導師を、誕生院院主が勤めることはありませんでした。
zendu_large

 以上をまとめておくと次のようになります
①山崎藩時代に善通寺は金毘羅金光院を善通寺の末寺であると訴えた。 
②その根拠は、金光院歴代の葬儀やお堂の落慶法要に善通寺の僧侶が導師となっていることであった。
③また、当時は金毘羅大権現は「善通寺中興の祖・宥範」によって建立されたという由緒が流布されていたこともある
④これに対して、山崎藩は和解交渉を行うが善通寺側の強硬な姿勢に頓挫する
⑤立腹した藩主は善通寺誕生院への立入禁止令を出す
⑥金光院は藩主への取りなし工作を行うと同時に、再発防止策も講じた。
⑦金光院の危惧した通り、京極藩に代わって誕生院は「本末論争」を再度訴える
⑧しかし、金光院の「再発防止策」によって京極藩は善通寺の訴えを認めなかった。

こうして見てみると、改めて感じるのは善通寺の金光院への「怨念」ともいえる想いです。これがどうして生まれたのか。それは以前にもお話ししたように、金光院の成り上がりともいえるサクセスストーリーにあったと私は思っています。

参考文献
       善通寺誕生院と金毘羅金光院の本末争い 丸亀市史957P

 西遊草 (岩波文庫) | 清河 八郎 |本 | 通販 | Amazon

    前回は幕末の志士清川八郎が母親と金毘羅大権現を参拝したときの記録『西遊草』を見てみました。しかし、まだ金毘羅さんの山下までしか進んでいません。今回は階段を上って、境内に入っていきましょう。早速、『西遊草』本文を読んでいきましょう。

4344104-36大門前
大門(仁王門)手前の石段 (讃岐国名勝図解)
原文 
 市中より八丁ばかり急にのぼり、二王門を得る。いわゆる山門なり。「象頭山」といふ額あり。是まで家両岸に連れり。是よりは左右石の玉垣にて、燈篭をならべ、桜を植をきたり。
 壱丁余のぼりて右のかたに本坊あり。金毘羅の札をいだすところにて、守を乞ふもの群りあり。実にも金銀の入る事をびただしく、天下無双のさかんなる事なり。吾等も開帳札を乞ひ、夫より石段をのぼり、いろいろの末社あり。
意訳
  麓から8丁(800㍍)ほどの急な上りで仁王門に着く。山門で「象頭山」の額が掲げられている。ここまで階段の両側には店が連なっている。しかし、この仁王門から先は、左右は石の玉垣で、灯籠が並び、そこに桜が植えられている。
  一丁ほど行くと右手に本坊(別当寺の金光院、現在の表書院)がある。ここで金毘羅の札をもらう人たちが大勢詰めかけている。これだけの人が求めるので、金銀の実入りも大したものであろう。私たちもここで開帳札をいただく。本坊を後にして石段を登ると、いろいろな末社が迎えてくれる。
1 金毘羅 伽藍図1

①幕末の時点で、仁王門(現大門)まで、石段と玉垣の整備されていたようです。さらに仁王門から先の平坦地には、すでに桜が植えられていたことが分かります。現在では、ここを桜馬場と呼んでいます。桜馬場の右手には、金光院に従って金毘羅領を統治する各坊が現在の大門から宝物館に架けて並んでいました。そして、一番上にあるのが「お山の領主サマ」の陣屋=本坊(金光院)です。
1 金毘羅 伽藍図2

②金毘羅の札も本殿ではなく本坊(金光院=表書院)で、取り扱っていたことが分かります。清川八郎もここで御札を求めています。本坊(金光院)は、神仏分離後は社務所となります。

4344104-33金光院
金光院本坊 讃岐国名勝図解

17世紀までの参道は、金光院の所で右折していました。それが18世紀になると参道は左折するようになったようです。その参道をさらに行くと、大きな建物が前方に姿を現します。現在の旭社(旧金堂)です。
  
4344104-31多宝塔・旭社・二王門
薬師堂(金堂:現旭社)と多宝塔
原典 
壱丁ばかりにして、左の側、山にそひ、薬師堂(現旭社)あり。高さ五重塔の如くにて、結構を尽せし事いわんかたなけれども、近年の作りし宮ゆへ、彫ものなど古代のものに比すれば野鄙なる事なり。されど金銀にいとわず建立せしものと見へ、近国にて新規の宮の第一といふべし。前に参詣のもの休み廊下あり、是より参宮下向道と分る。
   中門あり。
至て古く見ゆ。天正甲申の年、長曾我部元親の賢木を以て建しものとぞ。少しはなれ、右に鐘楼あり。生駒侯のたつるところなり。鼓楼、清少納言の塚などあり。是より左右玉垣の中に讃岐守頼重公累代奉納の燈篭並びあり。夫外土佐侯、または京極侯の奉納あり。
意訳
一丁ばかり行くと左の山裾に薬師堂(金堂)が現れる。高さが五重塔ほどもあって、技術の粋をあつめたもののようだが、近年に作られた建物なので、彫物などは古代のものと比べると野卑で劣る。しかし、お金に糸目をつけずに建立したものだけあって、この付近で近年に作られた寺社建築としてはNO1のできばえといえるだろう。この薬師堂の前に、回廊が参拝者のための休憩所として提供されている。ここで、往路と帰路が別れる。
  往路を行くと中門がある。かなり古い建物に見える。長宗我部元親の寄進した木材で建てられたと云う。少し離れて鐘楼がある。これは生駒氏が寄進したものである。その他にも鼓楼や清少納言の塚がある。それから先には、高松藩祖の松平頼重が5回に分けて寄進した灯籠が並ぶ。他には土佐山内氏や丸亀京極氏の灯籠も見られる。
★「讃岐名所圖會」にみる金刀毘羅宮konpira2

①本坊(現表書院)から階段を上っていくと、大きな建物が現れてきます。これが現在の旭社です。
  「近年に作られた建物なので、彫物などは古代のものと比べると野卑で劣る」

と、古代の彫刻や建築物の方が雅で優れいるという清川八郎の美意識がうかがえます。本居宣長的なものの見方をもっています。そのため金毘羅大権現の「経営方針」などにも批判的な見方が所々に現れてきます。  しかし「近国にて新規の宮の第一といふべし」と、建物のできばえは評価しています。八郎は、この建物を「薬師堂」と記していますが実は、これは観音堂です。以前は薬師堂が建っていました。2年前に観音堂として完成したばかりでした。
「金堂上梁式の誌」には、次のように記されています。

「文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね弐万余の黄金(2万両)をあつめ今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」

DSC04048旭社

 今は旭社と呼ばれていますが文化3年(1806)の発願から40年をかけて仏教寺院の金堂として建立されました。そのため、建立当時は中には本尊の観音菩薩像を初めとする多くの仏像が並び、周りの柱や壁には金箔が施されたといいます。それが明治の廃仏毀釈で内部の装飾や仏像が取り払われ、多くは破棄・焼却され今は何もなくがらーんとした空洞になっています。金箔も、そぎ落とされました。よく見るとその際の傷跡が見えてきます。柱間・扉などには人物や鳥獣・花弄の華美な彫刻が残ります。これを八郎も見上げたのでしょう。
 この後には清水次郎長の代参のために森の石松がやってきます。
この金堂に詣って参拝を終えたと思い、本殿には詣らずに帰つたという俗話が知られています。確かに規模でも壮麗さでも、この金堂がこんぴらさんの中心と合点しても不思議ではなかったようです。
  金堂前の空間には灯籠が立ち並び、その下の空間には大きな多宝塔もあったことが当時の配置図からは分かります。まさに、旭社周辺は「仏教伽藍エリア」だったようです。それを、清河八郎は少し苦々しく思いながら本殿に進んでいったのかもしれません。
金毘羅山旭社・多宝塔1

  旭社から往路を進むと門をくぐります。戦国時代に土佐の長宗我部元親が寄進した門と伝えられます。明治になると「賢木(さかき)門」と呼ばれるようになり、寄進者の元親を貶めるエピソードと共に語られるようになります。後に、松平頼重によって仁王門が寄進されると、そちらが大門、この門が中門(二天門)と呼ばれるようになります。
  「右に鐘楼あり。生駒侯のたつるところなり。鼓楼、清少納言の塚などあり。」

とあります。現在の清少納言塚は大門の外にありますので、明治になって移されたようです。

i-img1200x900-1566005579vokaui1536142

金毘羅大権現本殿  原文
 本殿は五彩色にして小さき宮なれども、うつくしき事をびただし。殊に参詣のもの多く群がりて、開帳も忽疎(おろそかである。なおざりにする。)にしてすぎたり。本殿の左より讃岐富士、また海、山、里などを一目に見をろし、景色かぎりなく、暫らく休み、詠めありぬ。本殿の側に銅馬、其他末社多くありて、さみしからぬ境地なり。
 殊に金毘羅は数十年已来より天下のもの信崇せぬものなく、伊勢同様に遠国よりあつまり、そのうへ船頭どもの殊の外あがむる神故、舟持共より奉納ものをびただしく、ゆへに山下より本殿までの中、左右玉垣の奇麗なる事、外になき結構なり。数十年前までは格別盛なる事もなかりきに、
近頃追々ひらけたるは、神も時により顕晦するものならん。いまは天下に肩をならべる盛なる神仏にて、伊勢を外にして浅草、善光寺より外に比すべき処もなからん。

神威のいちぢるしき事は、また人のしるところにして、金毘羅入口に朝川善庵の文をかきたる大石の碑にしたあめあり。神の縁記を委しくしらざれば、ここにしるさず。
 夫より備前やに帰り、一杯をかたむけ、象頭山のかたわきを七拾丁歩みて、山のうらにて善通寺にいたり、ハツ頃に山門の前なる内田や甚右衛門にやどる。
 
4344104-39夜の客引き 金山寺
4344104-07金毘羅大権現 本殿 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現本社 讃岐国名勝図解
意訳
  本殿は五色に彩られ小さな建物ではあるが、美しいことには限りない。しかし、参拝者が多く群がり、開帳を忽疎(おろそか・なおざり)にしてすぎているように思える。本殿の左からは讃岐富士、海・山・里が一望できる素晴らしい景色が広がる。しばらく休息し、詩句などを作る。本殿の側には銅馬や、摂社が多く立ち並ぶ。

4344104-08観音堂・絵馬堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現 観音堂
  金毘羅は数十年程前から全国の人々から信仰を集めるように、伊勢神宮と同じように遠くから参拝者が集まるようになった。特に水上関係者の信仰が厚く、船主の奉納品がおびただしい。そして、麓から本殿まで玉垣が途絶えることなく奇麗にめぐらされている。このような姿は、他の神社では見たことがない。
 数十年前まではそれほど参拝客が多いわけでもなく、建物も未整備であったのが近頃になって急速に台頭してきたのは、神様の思し召しなのであろうか。今では天下に肩を並べる神社としては、伊勢は別にしても、江戸の浅草か長野の善光寺くらいであろうか。
  神威については、世間の人々がよく知るところで金毘羅の入口にも、朝川善庵(松浦侯儒官。名は鼎、宇は五鼎、号は善庵。江戸の人。古学派)による由緒が大きな碑文に刻まれていた。神の縁起を詳しく知らないので、ここには記さない。荷物を預けた備前屋に帰り、精進落としに一献傾けてから善通寺に向かう。象頭山の山裾を70丁(約7㎞)あるいて、善通寺に八つ頃(午後3時)についた。宿は山門前の内田屋甚右衛門にとった。

ここでも建物や眺望は褒めながらも、寺社の運営については「参詣のもの多く群がりて、開帳も忽疎(おろそかである。なおざりにする。)にしてすぎたり」と批判的に書かれています。数多く押し寄せる参拝客への対応が粗略に感じられたこともあるのでしょう。
IMG_8056
本殿よりの丸亀平野や瀬戸内海の眺望 讃岐富士がおむすびのよう

 その後の金毘羅大権現の発展ぶりについて
「数十年前までは格別盛なる事もなかりきに、近頃追々ひらけ・・・」
金毘羅は数十年程前から全国の人々から信仰を集めるように、」
と記されている点が興味深いところです。金毘羅は数十年ほど前まではたいしたことはなかったのに、突然のように全国から人々が参拝に訪れるようになったといいます。そこには、金毘羅は、古くからの神ではなく数十年前から全国に広まった「流行神」であると認識していたことがうかがえます。その流行神の急速な発展ぶりに、驚いているような感じです。

4344104-13鞘橋 潮川神事と阿波町
金刀比羅宮 鞘橋を渡る頭人行列

「金毘羅入口に朝川善庵の文をかきたる大石の碑にしたあめあり。神の縁記を委しくしらざれば、ここにしるさず。」

には、そのまま素直に受け取れない所が私にはあります。流行神として勃興著しい金毘羅に対して、批判的な目で眺めている八郎です。その彼が「神の縁記(由緒)を委しくしらざれば、ここにしるさず。」というのは素直には受け取れません。彼の知識からすれば書きたくない内容の由緒であったのではないかと穿った見方をしています。

DSC01390善通寺
  善通寺(当時は五重塔はない)
   善通寺は弘法大師の誕生の地にして、至ってやかましき勅願所なり。されども宮は格別誉むべきほどの結構にもあらず。本堂の前に大師衣かけ松あり。三本の中にいづれも高大なるふりよき松なり。松の下に池あり。御影の池といふ。古しへ大師入唐せんとせし時、母のなげきにたへず、法を以て此池水にその身の影をのこせし池とぞ。善通寺といふももと大師の父善通(よしみち)の宮居せし処ゆへ、名づくるとぞ。その外名処もあらんなれど、さある事もなければ略しぬ
意訳
 善通寺は弘法大師の生誕の地であり、勅願所である。しかし、伽藍はさほどたいしたことはなく立派でもない。本堂の前に大師の衣架け松があり、3本とも高く枝振りもいい。松の下には池がある。御影池という。弘法大師が入唐の際に母の悲しみや心配・不安を除くために、この池の水面に自分の姿を写し残したと伝えられる。善通寺という名前も、もともとは大師の父善通からとられたものだという。その他に名所と云われるところはあるが、たいしたことは無いので省略する。
 
1丸亀金毘羅案内図1

当時は丸亀港にやってきた金毘羅参拝客は
「丸亀 → 金毘羅 → 善通寺 → 曼荼羅寺(出釈迦寺が後に独立) → 弥谷寺 → 海岸寺 → 道隆寺 → 金蔵寺 → 丸亀」

と巡礼していたようです。これは、もともと地元の人たちが行っていた「七ヶ寺参り」を、金毘羅参拝客も巡礼するようになったようです。ここには、地元の「地域巡礼」を全国区の巡礼エリアにグレードアップするための仕掛け人がいたはずです。それについては、以前お話ししましたので省略します。
 




八郎は国学的な素養をベースにした教養人ですから仏教寺院については、どちらかというと辛口に評価する傾向があるようです。善通寺についても、空海の生誕地であることのみで「その外名処もあらんなれど、さある事もなければ略しぬ」といたって簡単です。

 この後に、母子は新しく完成したばかりの多度津新港から宮島方面に向けて、出港していきます。清河八郎が幕末の激流の中に飛び込んでいく前の母との「思い出旅行」だったのかもしれません。しかし、記録をのこしてくれたおかげで170年後の私たちは、当時のことを知る大きな手がかりとなります。感謝

金毘羅神を生み出したのは修験者たちだった   
金毘羅大権現2
金毘羅信仰については、金毘羅神が古代に象頭山に宿り、近世に塩飽の船乗り達によって全国的に広げられたと昔は聞いてきました。しかし、地元の研究者たちが明らかにしてきた事は、金毘羅神は戦国末期に新たに創り出された仏神で、それを生み出したのは象頭山に拠点を置く修験者たちであったこと、彼らがそれまでの三十番社や松尾寺に代わってお山の支配権を握っていく過程でもあったということです。その拠点となったのが松尾寺別当の金光院です。そして、この金光院の院主が象頭山の封建的な領主になるのです。

e182913143.1金比羅大権現 天狗 烏天狗 絵入り印刷掛軸
 この過程を今回は「政治史」として、できるだけ簡略にコンパクトに記述してみようと思います。
 戦国末期から17世紀後半にかけて、金光院院主を務めた修験系住職六代の動きをながめると、新たに作りだした金毘羅大権現を祀り、象頭山の権力掌握をおこなった動きが見えてきます。金毘羅大権現を祀る金毘羅堂は近世始めに創建されたもので、金光院も当寺は「新人」だったようです。新人の彼らがお山の主になって行くためには政治的権力的な「闘争」を経なければなりませんでした。それは金毘羅神の三十番神に対する、あるいは金光院の松尾寺に対する乗っ取り伝承からも垣間見ることができます。
20150708054418金比羅さんと大天狗

宥雅による金毘羅神創造と金毘羅堂の建立
金毘羅神がはじめて史料に現れるのは、元亀四年(1573)の金毘羅堂建立の棟札です。
ここに「金毘羅王赤如神」の御宝殿であること、造営者が金光院宥雅であることが記されています。 宥雅は地元の有力武将長尾氏の当主の弟ともいわれ、その一族の支援を背景にこの山に、新たな神として番神・金比羅を勧進し、金毘羅堂を建立したのです。これが金毘羅神のスタートになります。

宥雅による金毘羅堂建立

 彼は金毘羅の開祖を善通寺の中興の祖である宥範に仮託し、実在の宥範縁起の末尾に宥範と金毘羅神との出会いをねつ造します。また、祭礼儀礼として御八講帳に加筆し観応元年(1350)に宥範が松尾寺で書写したこととし、さらに一連の寄進状を偽造も行います。こうして新設された金毘羅神とそのお堂の箔付けを行います。
 当時、松尾寺一山の中心施設は本尊を安置する観音堂であり、その別当は普門院西淋坊という滅罪寺院でした。さらに一山の地主神として、また観音堂の守護神として神人たちが奉じた三十番社がありました。これらの先行施設と「競合」関係に金毘羅堂はあったのです。
 そのような中で金光院は、あらたに建立された金毘羅堂を観音堂守護の役割を担う神として、松尾寺の別当を主張するようになります。それまでの別当であった普門院西淋坊が攻撃排斥されたのです。このように新たに登場した金毘羅堂=金光院と先行する宗教施設の主導権争いが展開されるようになります。
sim (2)金毘羅大権現6

 そのような中で天正六年(1578)から数年にわたる長曽我部元親の讃岐侵攻が始まります。

長宗我部元親支配下の金毘羅

これに対して長尾氏の一族であった金光院の宥雅は堺に亡命します。空きポストになった金光院院主の座に、長宗我部元親が指名したのが、陣営にいた土佐幡多郡寺山南光院の修験者である宥厳です。彼は、元親の信任を受け金毘羅堂を「讃岐支配のための宗教センター」としての役割と機能を果たす施設に成長させていきます。

C-23-1 (1)
 こうして宥厳は土佐勢力支配下において、金光院の象頭山における地位を高めていきます。彼は土佐勢撤退後も金光院院主を務めます。その亡き後に院主となるのが宥盛です。彼は「象頭山には金剛坊」と称せられる傑出した修験者で、金毘羅の社会的認知を高め、その基盤を確立したといわれます。歿する際には自らの修験形の木像を観音堂の後堂に安置しますが、彼は神として現在の奥社に祀られています。
 一方、宥雅は堺からの復帰をはかろうと、当時の生駒藩に訴え出ますが認められませんでした。彼は、金刀比羅宮の正史には金光院歴代住職に数えられていません。抹殺された存在です。長宗我部元親による讃岐支配は、宥雅とっては創設した金比羅堂を失うという大災難でしたが、金比羅神にとってはこの激動が有利に働いたようです。権力との接し方を学んだ金光院はそれを活かし、生駒家や松平頼重の良好な関係を結び、寺領を増加させていきます。同時に親までの支配権を強化していくのです。

o0420056013994350398金毘羅大権現

 それに対して「異議あり!」と申し立てたのは山内の三十番社の神人でした。
もともと、三十番社の神人は、祭礼はもとより多種の神楽祈禧や託宣などを行っていたようです。ところが金毘羅の知名度が上昇し、金光院の勢力が増大するに連れて彼らの領分は次第に狭められ、その結果、経済的にも追い詰められていきます。そのような中で、彼らは金光院を幕府寺社奉行への訴えるという反撃に出ます。
 しかし、幕府への訴えは同十年(1670)8月に「領主たる金光院を訴えるのは、逆賊」という判決となりました。その結果、11月には金毘羅領と高松領の境、祓川松林で、訴え出た内記太夫、権太夫の獄門、一家番属七名の斬罪という結末に終わります。これを契機に金毘羅(金光院)は吉田家と絶縁し、日本一社金毘羅大権現として独自の道を歩み出します。
20157817542
つまり、封建的な領主として金光院院主が「山の殿様」として君臨する体制が出来上がったのです。金毘羅神が生み出されてから約百年後のことになります。
 宥盛以降、宥睨(正保二年歿)・宥典(寛文六年隠居)・宥栄(元禄六年歿)までの院主を見てみると、彼らは大峯修行も行い、帯刀もしており「修験者」と呼べる院主達でした。

参考文献 

白川琢磨        金毘羅信仰の形成 -創立期の政治状況-

西大寺

明治神仏分離の際に金毘羅を離れた「金毘羅大権現像」が、裸祭りで有名な岡山市の西大寺に安置されているといいます。どんな経緯で、象頭山から海を渡り、西大寺で祀られるようになったのでしょうか。そして祀られている「金毘羅大権現像」とは、どんなお姿なのでしょうか。
西大寺に今ある「金毘羅大権現像」を確認しておきましょう。 
1西大寺不動明王
       こんぴらさんから伝来した不動明王
牛玉所殿に安置される仏像三部の内の中央と左の二躰が「金毘羅大権現」として祀られているようです。中央が像高217㎝の不動明王像、左が邪鬼から兜までの総高が117㎝の毘沙門天像です。不動明王の方が一回り大きいようですが、おなじ形の厨子に納められていています。
西大寺の金毘羅大権現の毘沙門天
                   毘沙門天
 確認しておきたいのは、ふたつの仏像は「金毘羅大権現像」ではないということです。祀られているのは不動さまと毘沙門さまです。こんぴらさんに祀られていた「金毘羅大権現」像の姿については、幕末に金毘羅の当局者によって記された「象頭山志調中之能書」には次のように記されています。
「優婆塞形也、但今時之山伏のことく持物者、左之手二念珠、右之手二檜扇を持し給ふ、左手之念珠索、右之手之檜扇ハ剣卜申習し候、権現御本地ハ不動明王也、権現之左右二両児有、伎楽・技芸と云也、伎楽ハ今伽羅童子、技芸ハ制託伽童子と申伝候也、権現自木像を彫み給ふと云々、今内陣の神躰是也」
 
CPWXEunUcAAxDkg金毘羅大権現

ここからは、内陣に御神体として祀られていた金毘羅大権現像は、優婆塞姿で山伏のような持ち物をもった姿だったことがわかります。まさに「頗ル役ノ行者ニ類セリ」とあるように、その姿は、役行者像そのものの修験道者姿だったのです。
 そうだとすれば、西大寺の2躰はこんぴらさんの内陣にあった金毘羅大権現像ではないということになります。さて、それではどこにあったお不動さんと毘沙門さんなのでしょうか?これを解く鍵を私は持っていませんので、先を急ぎます。
西大寺牛玉所殿1
       「金毘羅大権現」安置される牛玉所殿
毘沙門天像の厨子の内側には、次の墨書があります
  毘沙門天
 此尊像故有て更々 西京之仏司二命し 日ならず成工上 
 朝廷下は国家万民安全子孫繁昌のため敬て安置し畢于時 
 明治三年庚午孟春
 備陽岡山藩知事 源朝臣池田章政  謹誌
 この厨子は西京の仏司に命じ 日ならず完成したとあります。池田章政(1836~1903)は、明治元年三月に最後の岡山藩主となった殿様で、その年の六月岡山藩知事となり、明治四年廃藩置県により藩知事を免ぜられ東京に去ります。
 この厨子は明治3年に知事であった池田章政が、毘沙門天の保管のために作らせたもののようです。「此尊故有て」というのが、こんぴらさんからの「亡命仏」ということを暗示しているのでしょうか?
疑問を持ちながら前へ進みましょう。
西大寺2
吉井川河畔に面していた西大寺
不動明王の「亡命」のいきさつを追いかけてみましょう。
岡山県立博物館にある西大寺文書には、この金毘羅大権現像についての史料がいくつかあります。その一つが「金毘羅大権現由縁記」で、明治十五年三月五日に当寺の西大寺観音院住職 長田光阿が記したものです。長いのですが全文を紹介します。
 当山江奉安鎮 金毘羅大権現者、素卜讃岐国那賀郡金毘羅邑象頭山金光院二安置シ、其盛乎可知也、然ルニ年月ヲ経過シ、維新之際二至リ、当時之寺務者、何之故乎、仏像ヲ以テ神ナリト奏之、堂宇悉ク神道二変擬ス、依之彼仏像ヲ幽蔽シ、自来又祭ル者無シ、爰二明治三年有字法眼者、彼之尊像祭祠不如意ヲ歎キ、自ラニ鐙ノ尊像ヲ乞受而郷二帰リ、仮リニ同苗悦治ノ弟二置而、後光阿二祭祠センコトヲ請フ、然トモ時未至矣、

意訳変換しておくと
 当寺の金毘羅大権現はもともとは讃岐那珂郡の金毘羅(金光院)に祀られていたものであり、世間によく知られたものである。ところが明治維新の神仏分離によって、金毘羅は堂宇ことごとく神社に変わり、これらの仏像も神殿の奥深くに幽閉されてしまい、誰もこれを祭祀する者がいない状態になってしまった。これを憂えた有字法眼(宥明)は明治3年、二躰の仏像を譲り受けて自らの故郷である備前上道郡君津村(現、岡山市東区君津)の親戚角南悦治宅にこれを移し、光阿にその祭祀を依頼したが、時いまだ熟せず、実現はしなかった。
西大寺会陽 絵巻
                 裸祭りと西大寺
 宥明は金毘羅大権現の神仏分離の際にどんな行動を起こしたか?
この文章だけでは、象頭山で起きていた神仏分離、廃仏毀釈の嵐の様子が伝わって来ません。そこで明治末期の新聞記事からこんぴらさんのお山に吹き荒れた廃仏の大嵐を年表で見てみましょう。 
明治2年  金毘羅大権現本社、神道に転換 諸堂、御守所等残らず改革。
金堂を旭社などと改称し、仏像仏具を運び込み保管所へ
明治3年  万福院宥明、福田万蔵と改名、金刀比羅宮の幹部となる。
  旧多宝塔の建物除去。
         宥明が二躰の仏像を岡山の実家角南悦治宅に移す。
       県知事池田章政が、毘沙門天の保管のために厨子を作らせる
明治4年   廃藩置県で池田章政免官し、東京へ去る。
明治5年   神仏分離に反対する普門院宥曉、松尾寺に移動。
  仏像、雑物什器等売却。
  諸堂内の仏像を焼却
  象頭山を琴平山と改名
明治7年  7月12日 宥明(福田万蔵)が琴平の阿波町の自宅で死去。
明治13年  西大寺に牛玉所殿が造営
明治15年  両仏像が西大寺へ勧請

明治元年に、神仏分離令が出ると金光院宥常は復飾改名し、僧侶から宮司に転じて神社への「変身」を推し進めます。そのために僧職者を還俗させ、わずかばかりの一時金で山から下ろします。これに対して、脇寺の
普門院住職宥暁は、強硬に反対し、寺院維持を主張します。そこで、宥常は宥暁に対して、金毘羅大権現の堂塔や仏像などを山外に移し、(新)松尾寺を継承することを許します。こうして山内の仏像仏具経巻は、松尾寺の宥暁に引継ぐまでは金堂(現旭社)に集められ保管管理されます。しかし、宥暁は、あらたに松尾寺で金毘羅大権現を復活させ仏式で祀ることを計画したため、宥常は約束を反故にし、一切の仏像などを渡さず焼却することにします。こうして、明治5年に、旧金堂に集められていた仏像・仏具などは「浦の谷」に運んで全てが焼却さたのです。

Kan_non
     現在に伝わった観音堂本尊の聖観音(宝物館蔵)  
 ちなみに、この際に焼却を免れ現在でも宝物館に残る仏像は2躰のみです。一躰が観音堂の正観音像、もう一躰が本堂の不動明王です。それ以外に今に伝わるのは、西大寺の不動さまと毘沙門さまということになります。

 宥明は、神仏分離によって還俗して、福田万蔵と改名して、明治3年には金刀比羅宮の幹部職員に「就職」していたことが史料から分かります。「明治3年、二躰の仏像を譲り受けて」とありますが、当寺の情勢の中で仏像を金刀比羅宮当局が宥明に譲り渡すということは考えられません。旧金堂(旭社)に集められた仏像群の中から不動明王と毘沙門天を選んで、密かに運び出したというのが真相ではないでしょうか。
 ふたつの仏像
の大きさは、先ほど確認したとおり、不動さんは2メートルを超えます。一人で運ぶ事は困難です。協力者が必用です。丸亀街道か多度津街道を人力車に乗せて夜に運び、舟で岡山に着いたのでしょうか。大変な苦労をして実家の角南助五郎宅に持ち込んだのでしょう。
 彼宥明者、備前上道郡内七番君津村之産而、角南助五郎二男ナリ、幼而師於金光院権大僧正宥天而随学、象頭山内神護院二住職シ、又転シテ万福院二住ス、後金刀比羅邑安波町福田氏ニテ上僊ス、時明治七年七月十二日也、宥明之為性 蓋シ可謂愛著仏像者矣、
而右仏像金毘羅大権現者世尊(釈迦)ノ所作卜伝唱ス、又不動明王者宗祖(弘法大師)之所作ナリ、故ヲ以テ信仰之者日々ニ月々盛也、
意訳すると 
この宥明という僧侶は君津村角南助五郎の二男で、幼くして金毘羅別当金光院住職宥天大僧正に師事して学び、象頭山内の神護院住職、次いで万福院住職を歴任し、還俗後は福田姓を名乗り明治七年七月十二日に琴平の阿波町でこの世を去ったという。二躰の仏像の内、金毘羅大権現は釈迦が作ったもの、不動明王は宗祖弘法大師空海が作ったものと伝承され、角南家に祀られた両像は日を経るごとに多くの人の信仰を集めるようになった。

  ここには仏像を持ち出した宥明が金光院の脇坊であった万福院の住職であったこと、神仏分離で還俗した後に琴平で亡くなったことが記されています。さらに、彼が持ち出した仏像が2つであること、その内のひとつが金毘羅大権現で、もうひとつが不動明王と理解していたことが分かります。つまり、小さい方の毘沙門天を金毘羅大権現と考えていたようです。

なお、西大寺のHPには
万福院の住職宥明師が、明治7年(1874年)7月12日自らの故郷である津田村君津の角南助五郎宅へ、金毘羅大権現の本地仏である不動明王と毘沙門天の二尊を持ち帰った。
とありますが、この日付は宥明の死亡日時です。持ち替えたのは明治3年です。それは、毘沙門天の厨子の墨書の日付が明治3年となっていることからも分かります。
 而当国前知事 池田章政公者、厚ク信心之命于市街下、出石村円務院住職大忠令祭之、以テ天下安静ヲ祈ル矣、時政府廃藩之令出テ諸知事ヲ廃ス、依而知事東京二趣ク、而大忠故有テ大念二譲ル、而尊像祭祠不意、是れ以テ本院光阿迎而祭祠セントス、其臣杉山直及岡野篤等二之ヲ謀ル、而二人公(池田章政)二告ルニ 彼ノ寺之衰ヲ以テス、公又之ヲ許諾ス、乃チ命於本院遷移、既而光阿撰日、迎祭祠焉、当此時寺務者謂出還尊像、則以彼之寺益衰、依之防禦之資金若干ヲ以テス、此事件之成ルヤ、偏二杉山氏之尽力、其功居多卜云、
    金毘羅大権現由縁ヲ略記云
                   本院  光阿
      明治十五年三月五日奉迎 
 意訳すると
当時備前の藩知事であった池田章政は大変信仰心の厚い人で、岡山城下出石村(現、岡山市北区出石町)の池田家祈祷所円務院の住職大忠にこれを祀らせて、市街の人々にこれを信仰するよう命じ、以て天下安静を祈らしめた。
 けれども明治新政府が廃藩の命令を出し知事が廃されることとなったため、池田章政は東京に移ることとなった。円務院の住職は故あって大忠から大念に譲られていたが、仏像は満足に祭祀されていなかった。これを見た西大寺の光阿は、両仏を迎えて祭祀せんと決意し、池田家の家臣杉山直・岡野篤らに協力を要請した。
 両名が東京に去った池田章政に諮ったところ、円務院は寺自体衰微しつつあり、仏像のためにも移した方がよかろうとこれを許し、その結果、両像は西大寺に遷座することになった。光阿は良き日を選びこれを迎えて祭祀しようと思っていたが、円務院の方では両像を奪われては益々寺が衰微するとこれに納得しなかった。そこで若干ではあるが円務院にお金を渡し、ようやく遷座が実現する運びとなった。これも偏に杉山氏の多大なる尽力があったればこそ、
と光阿は締め括っています。
  ここでは藩知事であった池田章政がこんぴらさんからもたらされた両仏を引き取り、池田家祈祷所円務院の住職大忠に祀らせたことが分かります。最初に見た毘沙門天像を納めた厨子の池田章政の墨書は、角南悦治宅から両像を引き取り円務院に移した時に、京都の仏師に命じて両像を修理させるとともに、それぞれに合う厨子を新調させたことを記したものと研究者は考えているようです。
 どちらも明治3年のことなので、角田家に安置されていたのはわずかな期間であったようです。ところが翌年の明治4年に廃藩置県で、池田章政は東京へ去ります。池田家の保護を失い檀家もなかった円務院の経営は困難になったようです。そこで明治15年になって、西大寺の住職光阿は、池田家の了承を取り付けて、この仏像を西大寺に向かえます。
松尾寺の金毘羅大権現像
松尾寺の金毘羅大権現
ふたつの仏像を円務院から西大寺に移す事については、明治十五年四月十七日付の桑原越太郎が岡野篤に宛てた次の書簡もあります。
 先年円務院江 池田家ヨリ安置被致候不動尊・毘沙門天二部之義ハ、当時杉山直祭典之者二付、其縁故ヲ以テ、右二躰、今般西大寺へ遷座致度段、両寺熟議之上、陳述方同人江及依願候二付、其旨東京本邸へ申出候処、頼意二被為任候由、尤此件二付テハ、素々御関係之義モ不砂候間、承諾被致候義、貴殿占両寺へ御伝達相成度候、及御伝候様、直ヨリ依願書差送間、此段及御通知候也
     十五年四月十七日 桑原越太郎刑
      岡野 篤殿
伸、本章之後、両寺へ御伝達之上ハ、将来不都合無之様、御注意有之度段モ、併テ申被遣候様トノ依頼二御座候也                     
 差出人の桑原越太郎は、当時内山下(現、岡山市北区内山下)にあった池田家事務所につとめていた人物のようです。杉山直から提出された円務院の不動尊・毘沙門天の二躰を西大寺に遷座させたいとの願いについて、東京の池田家本邸に伺いをたてたところ、希望どおりにせよとの回答が得られた、と伝えています。追伸として、将来にわたって両寺の間で問題が生じないように配慮せよ、と最後に記されています。
   東京の池田家より仏像のを西大寺に移す承諾があると、岡野篤は杉山直にその決定を伝えたのでしょう。
Cg-FljqU4AAmZ1u金毘羅大権現

同年六月付で杉山直は西大寺の光阿に対し、次のように知らせています。
 備前国御野郡上出石村円務院二鎮座相成居候 旧金毘羅大権現本地仏卜称シ候毘沙門・不動ノニ躯、今般同院協議之上、其院へ譲受遷坐相成候旨、池田従三位殿へ申達候処、被聞置候トノ事二候、此段及御伝達候也
  明治十五年
   六月  杉山 直
  備前国上道郡西大寺村
  観音院住職
   長田光阿殿
ここには「旧金毘羅大権現本地仏卜称シ候 毘沙門・不動ノニ躯」と記されています。 こうして両仏像が西大寺に安置された翌々年に、光阿はこれをを金毘羅大権現として、開帳して良いかどうかを次のような文書で確認しています。
        奉伺
一、金毘羅大権現祭祀為 荘厳之提燈並幕・祭器等、御紋付相用度奉存候、不苦候哉、此段奉伺候、宜上申可被下候也
       西大寺観音院住職
   明治十七年    長田光阿俳
    桑原越太郎殿
  乙心伊書面之趣、承届候事
   十七年七月廿八日 桑原越太郎俳」
ここでは金毘羅大権現(両仏像)をお祭りするための提灯や幕に池田家の紋章を使っても良いかという聞き方です。これに対して、「内山下 池田家事務所」から円務院で使っていた麻幕・紫絹幕を同院から返上させたので使用するようにとの回答を得ています。これは、西大寺がふたつの仏像を金毘羅大権現として広めていくお墨付きを池田家からもらったことを意味します。こうして、「毘沙門・不動ノニ躯」は、「旧金毘羅大権現本地仏卜称シ」て広められていきます。
 以上から西大寺の不動明王・毘沙門天は、明治3年に藩知事池田章政によって同家祈祷所たる円務院に安置されたものが、明治15年になって西大寺に遷座されたという経緯が確認されます。
img003金毘羅大権現 尾張箸蔵寺
不動明王・毘沙門天は、こんぴらさんのどこに祀られていたの?
 ところで「略縁記」の中で光阿は
  「右仏像金毘羅大権現者 世尊ノ所作卜伝唱ス、又不動明王者宗祖之所作ナリ」
と記していました。ここからは、二躰の内一躰が金毘羅大権現で、残りの一躰が不動明王ということになることを指摘しておきました。
 金毘羅大権現の本地仏については
「本地は不動明王也とぞ」(『一時随筆』)
「本地不動明王之応化」(『翁躯夜話』)
「権現御本地「不動明王也」(「象頭山志調中之鹿書」)
などとされていますから、二躰の内の不動明王が金毘羅大権現の本地仏であったことは確かなようです。しかし、もうひとつの毘沙門天像をもって金毘羅大権現像とする見解には、研究者は次のような疑問の声を投げかかけます。
「役行者の如き像容をした江戸時代の金毘羅大権現像とは、全く姿を異にする」
と。
金毘羅大権現2

 もう一度、こんぴらさんの本堂に祀られていた金毘羅大権現像について見てみましょう。
承応二年(1653)に91日間にわたって四国八十ハケ所を巡り歩いた京都・智積院の澄禅大徳が綴った『四国遍路日記』に、金毘羅に立ち寄り、本尊を拝んだ記録です。
「金毘羅二至ル。(中略)
坂ヲ上テ中門在四天王ヲ安置ス、傍二鐘楼在、門ノ中二役行者ノ堂有リ、坂ノ上二正観音堂在り 是本堂也、九間四面 其奥二金毘羅大権現ノ社在リ。権現ノ在世ノ昔此山ヲ開キ玉テ 吾寿像ヲ作り此社壇二安置シ 其後入定シ玉フト云、廟窟ノ跡トテ小山在、人跡ヲ絶ツ。寺主ノ上人予力為二開帳セラル。扨、尊躰ハ法衣長頭襟ニテ?ヲ持シ玉リ。左右二不動 毘沙門ノ像在リ
ここには、金光院住職宥典が特別に開帳してくれ、金毘羅大権現像を拝することができたと書き留めています。その姿は尊躰「法衣長頭襟ニテロヲ持シ玉リ」と表現されるように、役行者の如き像容をしています。そして、最後のに金毘羅大権現の左右には「不動・毘沙門」の二躰が祀られていたと記されます。研究者は
「明治維新後金毘羅を離れ、現在西大寺鎮守堂に安置される不動明王・毘沙門天の両像はまさしくこの二躰にほかならないのであろう」
といいます。 つまり、西大寺の両像は金毘羅大権現像の脇仏であったようです。
それでは、金毘羅大権現像はどこへいったのでしょうか?
金毘羅大権現像については、役行者説と近世初頭の金光院住僧金剛坊説のふたつがあるようです。『古老伝旧記』は金光院住僧の金剛坊(宥盛)のことを、次のように記します。
宥盛 慶長十八葵丑年正月六日、遷化と云、井上氏と申伝る
慶長十八年より正保二年迄間三十三年、真言僧両袈裟修験号金剛坊と、大峰修行も有之
常に帯刀也。金剛坊御影修験之像にて、観音堂裏堂に有之也、高野同断、於当山も熊野山権現・愛岩山権現南之山へ勧請有之、則柴燈護摩執行有之也
 金剛坊の御影修験之像が観音堂裏堂あると記されています。ここからは、江戸時代に金毘羅大権現として祀られていた修験者の姿をした木像は、金毘羅別当金剛坊宥盛であった研究者は考えるているようです。ちなみに金剛坊宥盛は、現在は祭神として奥社に祀られています。その木像もひょっとしたら奥社に密かに祀られているのではと私は考えています。
 ここまでで分かったことは、江戸時代には観音堂裏堂には本尊として金毘羅大権現(宥盛)、脇仏として、不動明王と毘沙門天が安置されていたこと、そして脇侍が西大寺に「亡命」してきたようです。そして、本尊の金毘羅大権現は行方不明ということでしょうか。
 
西大寺牛玉所殿
             明治13年に造営された牛玉所殿
金毘羅大権現を祀った西大寺の戦略は?
西大寺の呼び物は「裸祭り」ですが、この裸祭りは正式には「会陽」というそうです。これは正月元旦から十四日間にわたって執行される修正会の結願の行事で、修正会で祈封した牛玉を参詣者に投授するというものです。陰陽二本の神木を、群がる信徒たちが裸体で激しく奪い合うという裸祭りは、研究者に言わせれば「牛玉信仰が特異な行事に発展したもの」のようです。

西大寺8
その西大寺における牛玉信仰の中核が、牛玉所大権現です。
こちらの権現さまは、金毘羅大権現(実際は不動明王・毘沙門天の二部)がやってくるまでは、単独で鎮守堂に祀られていました。今は金毘羅大権現とされるふたつの仏像と並んで祀られています。
7西大寺牛玉所殿
 金毘羅大権現を西大寺が勧進した狙いは何だったのでしょうか?
江戸時代後半以来、喩伽大権現(岡山県倉敷市の楡伽山蓮台寺)は「金毘羅さんと喩迦さんの両参り」を宣伝し、参拝客を集めていました。西大寺はそれに、牛玉所大権現を加えた「三所詣り」を喧伝していたようです。
5西大寺牛玉所殿

それを証明するかのように、竜宮城の姿をした石門を潜って出た吉井川の旧河畔には、次のように+刻まれた常夜燈が建っています。
 (竿正面) 金毘羅大権現
 (竿右面) 喩伽大権現
 (竿左面) 牛玉所大権現
 (竿裏面) 嘉永七年歳在庚戌六月新建焉
 (基礎正面)玉垣講連中
 ここからはこんぴらさんからやってきた金毘羅大権現を勧進することで、『三所詣り』の縁をより強くし、参拝客にアピールしたいという願いが読み取れます
8西大寺牛玉所殿

参考文献 北川 央 岡山市・西大寺鎮守堂安置金毘羅大権現像の履歴         近世金毘羅信仰の展開所収
 

    

  阿波の酒井弥蔵のこんぴらさんと箸蔵寺の両参りについて
   前回に続いて金比羅詣が200回を越えた阿波の酒井弥蔵についてです。研究者は彼の金毘羅詣が3月21日と10月12日に集中してることを指摘し、前者が善通寺の百味講にあたり、先祖供養のためにお参りしていたことを明らかにしました。言うならば、彼にとってこの日は、善通寺にお参りしたついでの、金比羅参拝という気持ちだったのかも知れません。


DSC01394
それでは弥蔵が10月12日に、こんぴらさんを参拝したのはどうしてでしょうか?
すぐに思い浮かぶのは、10月10日~12日は地元では「お十(とう)かさん」と呼ばれるこんぴらさんの大祭であることです。これは、金毘羅神がお山にやって来る近世以前の守護神であった三十番社の祭礼である日蓮の命日10月10日を、記念する祭礼がもともとの行事であったようです。

DSC01398
 どうして祭りの最後の日にお参りに来ているのでしょうか
実は、その翌日に彼が参拝しているのが阿波の箸蔵寺なのです。
弥蔵は、大祭の最後の日にこんぴらさんにお参りして、翌日に箸蔵寺に詣でることを毎年のように繰り返していたのです。ここには、どんな理由があるのでしょうか?
このこんぴらさんの例祭について 『讃岐国名勝図会』には、次のような記されています。
『宇野忠春記』曰く(中略)同日(11日)晩、別当僧並びに社祝頭家へ来り。 (中略)
御神事終りて、観音堂にて、両頭人のすわりたる膳具・箸を堂の縁よりなげ捨つるを限りに、諸人一統下山して、方丈門前神馬堂の前に決界をなし、この夜は一人も留山せずこの両頭人の捨てたる箸を、当山の守護神その夜中に拾ひ集め、箸洗谷にて洗ひ、何所へやらんはこびけると云ひ伝ふ。
  『宇野忠春記』という本には
「ここには、例祭の神事に使用した箸などを観音堂から投げ捨て、全員が下山し、方丈門から上には誰もいない状態にした。そして、その投げ捨てられた箸は、箸洗谷で洗われて何処かへ運ばれる
と書かれていると記されます。
 この箸を洗った「箸洗谷」については、 『金毘羅参詣名所図会』には、
これ十月御神事に供ずる箸をことごとく御山に捨つるを、守護  神拾ひあつめ、この池にて洗ひ、阿州箸蔵寺の山谷にはこびたまふといひつたふ。故に箸あらひの池と号す。
   と記されています。ここから「箸洗谷=箸洗池」だったことが分かります。そして、『讃岐国名勝図会』では洗った箸は
「何所へやらんはこびける」
とあいまいな表現でしたが『金毘羅参詣名所図会』では、
  箸はその夜に阿州箸蔵谷へ守護神の運びたまふと言ひ伝ふ。」
と記されています。はっきりと「箸蔵寺のある箸蔵谷」へと運ばれると記されています。このように、金毘羅の祭礼で使われた祭具は、箸蔵寺に運ばれたと当時の人は信じていたのです。
images (16)箸蔵寺の金毘羅大権現
なぜ箸蔵寺へ運ばれなければならなかったのでしょうか?
箸蔵寺の縁起『宝珠山真光院箸蔵寺開基略縁起』の中には、
敬而其濫觴を尋奉るに、 我高祖弘法大師入定留身の御地造営ありて、父母の旧跡を弔ひ玉ひ善通寺に修禅の処、夜中天を見玉に正しく当山にあたり空に金色の光り立り、瑞雲これを覆ふ。依て光りを尋来り玉ふ。山中で金毘羅大権現とその眷属に会う其時異類ども形を現し稽首再拝して曰、
我々ハ金毘羅権現実類の眷属也。悲愍たれ免し給へと 乞時に山中赫奕して いと奥深き 巌窟より一陣の火焔燃上り 光明の真中に 黒色忿怒の大薬叉将忿然と出現し給へバ、無量のけんぞく七千の夜叉随逐守護し奉り 威々粛然たる形相也。
薬叉将 大師に向ひ微笑しての玉ハく、吾ハ東方浄瑠璃世界医王の教勅に従ひ此土の有情を救度し、十二微妙の願力に乗じ天下国家を鎮護し、病苦貧乏の衆生を助け寿福増長ならしめ、終に無上菩提に至らしめんと芦原の初穂の時より是巌窟に来遊する宮毘羅大将也。影を五濁の悪世にたれ金毘羅権現とハ我名也。然るに猶も海中等の急難を救わん為、東北に象頭の山あり。彼所へ日夜眷属往来して只今帰る所也。依而往昔より金毘羅奥院と記す事可知。 
この縁起は空海と金毘羅大権現を一度に登場させて、箸蔵の由来を説きます。まるで歌舞伎の名乗りの舞台のようです。 
①善通寺で修行中の空海は、山の上空に立つ金色の雲を見て当地にやって来ます。
②そこで金毘羅大権現と出会い自らを名乗り「効能」を説きます。
③その際に自分は「海中等の急難を救わん為に象頭山」いるが、「彼所(象頭山)へ日夜眷属往来して只今帰る所也」と象頭山にはいるが、本来の居場所はここであるというのです。
④金毘羅大権現は空海に、当山に寺院の建立と金毘羅宮で使用した箸などの奉納を求めます。 
⑤それを聞いて、空海はこの地に箸蔵寺を開山します。
⑥こうして、箸蔵寺は古来より金毘羅の奥之院として知られるようになった
以上が骨子です。
 しかし、象頭山における金毘羅大権現の創出自体が近世以後のものです。空海の時代に「金毘羅大権現」という存在自体が生み出されていません。また、この由来が「海中等の急難を救わん為」とすることなどからも、金毘羅信仰の高揚期の近世後半に作られたものであることがうかがえます。
i-img600x450-1564322058ucxevq485
 同時に、この由来には空海と金毘羅大権現の問答を通じて、箸蔵寺が金毘羅大権現の奥社であり非常に関係が深いことが語られています。
この由緒に記されたように箸蔵寺は近世後半になると
「こんぴらさんだけお参りするのでは効能は半減」
「こんぴらさんの奥社の箸蔵」
「金比羅・箸蔵両参り」
を唱えるようになります。また、自らの金毘羅大権現の開帳を行い、何度も本家のこんぴらさんに訴えられた文書が残っています。この文書を見ると、岡山の喩迦山と同じく「こんぴらさんと両参り」は、箸蔵寺の「押しかけ女房」的な感じが私にはします。
 少し横道にそれたようです。話を弥蔵にもどしましょう。
i-img600x450-1564322058jfp7hz485

彼がこんぴらさんにお参りした10月11日〜12日は、金毘羅の例祭が行われる日でした。そして当時は、金毘羅の例祭において箸蔵寺は非常に重要な役割を果たしていると考えられていたこと、、また箸蔵寺は金毘羅の奥之院とされていたこと。こうした信仰的な繋がりを信じていたから、弥蔵はこんぴらさんの大祭が終わる10月12日にこんぴらさんをお参りし、箸がこんぴらさんからやってくる箸蔵寺をその翌日に参詣したのでしょう。
images (13)
 ここには、前回にこんぴらさんと善通寺を併せて同日に参拝した理由とは、違う理由がるようです。吉野川中流の半田に住む弥蔵にとって、信仰の原点は地元の箸蔵寺への信仰心から始まったのかも知れません。それが「こんぴらさんの奥社」という箸蔵寺のスローガンにによって、その本山であるこんぴらさんに信仰心が向かうようになり、そしてさらに、弘法大師生誕の地として善通寺に向かい、弘法大師信仰へと歩みだして行ったのかもしれません。どちらにしても、この時代の庶民の信仰が「神も仏も一緒」の流行神的な要素が強く、ひとつの神社仏閣に一新に祈りを捧げるというものではなかったことは分かってきました。
imabairin2

参考文献   鬼頭尚義 寺社参拝の意識 酒井弥蔵の金毘羅参詣記録から見えてくるもの 

京都精華大学紀要44号

10 

   

CPWXEunUcAAxDkg金毘羅大権現

明治維新の御一新のスローガンとともに、こんぴらさんに嵐をもたらした「神仏分離」政策。その結果、
金毘羅大権現は金刀比羅宮へ、
象頭山は琴平山へと名前を変え、
その姿も仏教伽藍から神社へと
姿を変えていきました。こうして、仏号であった金毘羅大権現はお山から「追放」されます。しかし、このような「宗教改革」に対して反発を感じている人たちも数多くいたようです。その中から従来通りの仏式で金毘羅大権現をまつるスタイルの寺院を作ろうとする動きもあったようです。今回は琴平山(旧象頭山)と峰続きの大麻山の麓の大麻村での「金毘羅大権現」復活計画の動きを見てみましょう。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
  現在の琴平町榎井には長法寺というお寺があります。
このお寺は、鎌倉時代に善通寺の復興に活躍した宥範僧正が隠棲のために建立されたと伝えられ、もともとは丸亀市亀水町とまんのう町の境にある上池の南西にあったようです。広い伽藍を持っていたとされ、『仲多度郡史』には南門から現在の高篠小学校に至る県道が門前町であり、付近からときどき古瓦などを掘り出すと記されています。
 しかし、1579年 天正合戦で土佐から侵入してきた長宗我部元親軍と長尾氏の戦いで灰燼に帰したとされます。現在も、上池の池底には石碑が建っていて、碑面には(俗世)アビラウソナソの梵字が刻まれているようです。その後、榎井の地に再建されて現在地にあるようなのです。しかし、その寺伝には
「故ありて明治16年2月大麻村字上の村に移転し、同28年再び元の地に復せり」

という気になる記述があります。明治の時代に、12年間ほど隣村の大麻村に移動していたというのです。なぜでしょうか?
20157817542
 その中心となったのが長法寺の檀家の有力者達です。
彼らは長法寺を「金毘羅大権現」を祀る寺院にしていこうと考えます。そのためには、信仰対象となる金毘羅大権現像とそれを納める礼拝施設(お堂)が必要になります。こうして長法寺は、明治16年に新たな伽藍建設地とを求めて麻野村大麻に移転してきます。
  長法寺の檀家指導者達が、先ず取り組んだのが祈りの対象となる金毘羅大権現像を迎える事でした。当時の神仏分離政策下において、明治政府は寺院への管理を強めていましたので、諸仏の勧進についても、各方面の許可が必用でした。そのため金毘羅大権現像の安置・勧進を求める長法寺と本山や県のやりとりをめぐる文書が残されています。それを見てみましょう。
   護法神勧請之義二付御願
当寺本堂二於テ金比羅童子 威徳経儀軌 併せて大宝積経等々煥乎仏説有之候 金毘羅神ヲ安置シ金毘羅大権現卜公称シ鎮護ヲ祈り 利済ヲ仰キ人法弘通之経路ヲ開キ申度蓋シ大宝積経三十六巻 金毘羅天授記品 及金毘羅童子威徳経 二名号利益明説顕著ナリ
今名号ノツ二ツヲ挙レバ 時金毘羅即以出義告其衆云云 
又曰時二金毘羅与其部徒云云 又曰金毘羅浄心云云 
其他増一阿含経大般若経大日経等之説所不少 
且ツ権現之儀モ義説多分ナレトモ差当り 金光明最勝王経第二世学金剛体権現 於化身云云如此説所分明ナル上ハ 仏家二於テ公称勧請仕候テ 毫モ異論無之儀卜奉存候 勿論去ル明治十五年一月四日附 貴所之布教課御告諭之次第モ有之 旁以テ御差悶無之候得ハ速二御免許被成下度此段奉伏願候也
 愛媛県讃岐国多度郡大麻村 長法寺 住職 三宅光厳印
   同県同国郡那珂郡琴平村  信徒総代塩谷太三郎印
   同郡榎井村檀徒総代    斎藤寅吉印
   同郡 同村檀徒総代    斎藤荒太郎印
 明治十八年一月十一日
 本宗管長 三条西乗禅殿
   明治十八年十月二十一日付で当時の長法寺住職の三宅光巌、信徒総代、増谷太三郎、檀徒総代、斎藤寅吉の連名で、本宗管長の三条西乗禅宛「護法神勧請之儀二付御願」と題する文書が提出されています。当時は香川県は愛媛県に併合されていたので「愛媛県讃岐国」となっています。さて内容は、
「金毘羅神を安置して金毘羅大権現と呼んで信仰活動を行いたい。それが人々を救い世の中を栄えさせることにつながる」として金毘羅神についての「神学問答」が展開されます。
そして、金毘羅大権現を仏教徒が勧進信仰しても、何ら問題はないと主張します。しかし、先年明治15年の神祇官布告もあるので、問題が生じた場合は直ちに停止するので、認めていただきたい。
という内容です。このあつかいについては、本寺との間に長い協議があったようです。本寺からの正式の回答は6年後の明治24年に出されています。ふたつの条件付で、真言宗法務所名で「護法善神」としての礼拝を許されます。二つの条件について見ておきましょう。
     内  諭
長法寺住職 三宅 栄厳
護法神金毘羅大権現勧請之義 御聞置相成候二付ハ左之条々ヲ遵守スベシ此段相達候事
           真言宗 法務所印
  明治廿四年一月廿六日
   第壱条
 金毘羅大権現者仏家勧請之護法神タリト雖モ 従前象頭山金毘羅大権現卜公称之神社アリシヨリ 目下金刀比羅神社卜同一ノ物体ナリト意得ノ信徒等有之候 テハ却テ護法神勧請ノ本旨二背馳シ
神仏混淆廃止ノ朝旨ニモ戻り 甚夕不都合二候 宝前二於いて法式ヲ執行シ信徒之為メニ祈祷等ヲナサント欲セハ必ス先本宗ノ経軌ニヨリテ事務シ 毫モ神社前二紛敷所為など供物等不相備様屹度可致事
  第貳条
本堂内二勧請之尊体ハ固ヨリ 経説ニヨリテ彫刻スベキハ勿論 萬一他二在来ノ尊体ヲ招請スル訳ナレバ授受ノ際 不都合無之様注意シ 尚地方廳エハ順序ヲ践テ出願シ 其許可ヲ得テ 該寺シ内務省ヘモ可届出筋二付 此旨相意得疎漏之取計方無之様可致候事 以上
第一条では、金毘羅大権現は仏教の「護法神」ではあるが、以前は金毘羅大権現を公称する神社もあったので、そこと混同されるおそれがある。そうなると「護法神」の本旨にも背き、また「神仏分離」という政府の政策にも背くことになる。そのために法式や祈祷を行うときには、神前と異なることにくれぐれも留意しておこなうこと
第二条では
尊体(金毘羅大権現像)を迎えるに当たっての注意で、什宝帳への記載や郡庁や県丁への出願手続きに遺漏がないように求めています。
 この時期に、長法寺は本山の推薦で新住職を迎えています。
 明治二十三年十月一日付で、新たな住職として兵庫県武庫郡良元村、西南寺住職、権大僧都、筧光雅を迎えます。「兼務」ですので、長法寺には常駐することはなかったようですが、トップが変わることで体制づくりは進んだようです。そして、新住職の就任を祝うかのように本山から金毘羅大権現像が長法寺に寄付されます。
   寄 附 状 (写)
讃岐国多度郡麻野村 長 法 寺
 金毘羅大権現   木像 壱躯
  右令寄附畢
 明治廿四年三月十日
       大本山仁和寺門跡
       大僧正 別處 栄厳
  こうして待ちに待った金毘羅大権現さまが寺にやってきたのです。しかし、当時の神仏分離政策下において、明治政府は寺院への管理を強めていましたので、諸仏の勧進についても許可が必用でした。そこで檀徒惣代、安部長太郎と連名で麻野村長、渋谷丑太郎の副申を添え、香川県知事、谷森真男宛に兼務住職届と、同時に金毘羅大権現木像の什物帳編入願いが提出されます。  
御管内多度郡麻野村大字大麻長法寺儀 
別紙願面三通 金毘羅大権現木像壱躯 什物帳へ編入之義 
出願事実相違無之候
条右御聴許相成度此段副伸候也
    京都葛野郡花園村御室
     仁和寺門跡大僧正別處栄厳代
      権少僧正 鏝  瓊 憧
 明治廿四年五月十六日
香川県知事 谷森 真男 殿
これには仁和寺門跡、真言宗長者の副中と麻野村長渋谷丑太郎の次の添書が付けられていました。
御管下多度郡麻野村大字大麻長法寺 
明細帳へ金毘羅大権現木像壱体編入之儀 
別紙願出之通事実相違無之候条副申候也
  明治廿四年五月十九日
      真言宗長者  大僧正 原  心猛印
 香川県知事 谷森 真男殿
   しかし、県はこれを認めませんでした。
 そこで、翌年に、住職筧光雅は不在なので代理人の吉祥寺(高篠村)住職三輪慈長と外檀信徒惣代六名の連署を付けて、再度、金毘羅大権現像の什物編入を願い出ます。
今度は副中書(別掲)に詳しく補足説明を付けています。しかし、これも県は却下します。
 そこで、長法寺は次の手立てとして「仏体寄附ヲ受ケタル届書進達之義二付具申書」を那珂多度郡長高島光太郎に提出して、この一件についての理解と、とりなしを請願します。
 郡長高島光太郎が、出願に当たっての今までの不備を指摘、指導を加えた文書が残っています。こうして、明治二十五年七月三十日付文書は、郡長の指導を受けて作成したもので、三度目の県知事宛の願書を提出します。様式などに問題が無かったので、県も受けいれざる得なかったのでしょう。この結果、九月二十日付で、金毘羅大権現木像外四躯の仏像が宝物古器物古文書目録への編入を許されました。
 しかし、金毘羅大権現勧請については許可が下りませんでした。そればかりか、今までは許されていた明細帳に載せられた本尊以外の仏像の勧請や信者の参拝についても、その都度の許可が必用とされるようになります。これは常識的には考えられません。お寺にある仏像を拝むのに、いちいちその都度許可を求める内容です。
県が頑なに金毘羅大権現の復活を拒む理由は何だったのでしょうか?
大国主命を祭神として祀る金刀比羅宮としてリニューアルされた金刀比羅宮にとっては、足元の大麻村に金毘羅大権現が復活する事は、面白い事ではなかったはずです。
そして、金刀比羅宮の禰宜を勤めていたのは、以前に紹介した松岡調です。彼は明治維新期の讃岐の神仏分離政策を担った神道家であり研究者でもありました。彼が当時の香川県の宗教政策に影響力を持っていたことは、延喜式神社の指定選考過程にも見られます。
  また、当時の神道の教学・指導の宗教行政の中心は金刀比羅宮の中にありました。境内にあり廃寺となった3つの脇坊の建物が利用されていたのです。これらの神道組織を指導するのも松岡調の仕事の一つでした。つまり、当時の彼は県の宗教行政に大きな影響力を行使できるポストにあったのです。
 度重なる長法寺の金毘羅大権現像をめぐる動きに、県が許可を下ろそうとしなかったのは、松岡調の意向に「忖度」してのことだったのかもしれません。

 しかし長法寺は諦めません。
明治二十八年二月十四日に「金毘羅大権現木像勧請之義二付御願」なる書面を県に提出します。しかし、これも新任の小畑知事と、その側近によって一蹴されます。
  そこで長法寺は戦略を転換します。県を相手にするのではなく、国を相手にしたのです。
明治二十九年五月十四日、長法寺は「本堂建築願」を内務大臣板垣退宛てに提出します。ここにはかねてからの目論見である鎮守堂(護法善神としての金毘羅大権現堂)を中心とした千六百坪に及ぶ境内に本堂、書院、庫裏等の配置伽藍建設案が示されており、仏教中心のこんぴら信仰の復活を目指そうとするものでした。

長法寺の新伽藍工事始まるが・・・・
 そして、この願いは明治政府によって認められるのです。長法寺は、香川県の敷いた障害を越えたかのように思えました。関係者の喜びは大きかったでしょう。
 ところが建立工事が始まると、勧進資金が思うように集まりません。そのため資金不足で新伽藍建設は思うように進まなかったようです。その上に、台風が襲いかかり、建設途中の建物は大きな被害を受けました。こうして新伽藍の工事は中断したままで、工事資金をめぐる勧進の進め方についても信徒間での意見が対立するようになります。長い対立の後に、明治39年になって建設断念派が推す住職が就任し、お寺を元の榎井村にもどして新築する次の申請が県に出されます
  長法寺移転二付境内建物明細書
   寺院移転ノ儀二付願
 香川県仲多度郡善通寺町大字大麻
   真言宗御室派 長 法 寺
右寺儀今般檀徒及ビ信徒ノ希望二依り旧寺地ナル 仝那榎井村参蔭参拾番地へ移転致度候
条御許可被成下度 別紙明細書及図面相添へ此段上願仕候也
    右寺法類
     龍松寺住職 長谷 最禅
     圓光寺住職 出羽 興道
こうして金毘羅大権現信仰復活の拠点として、建設が目指された長法寺の新伽藍計画は、あっけなく幕を閉じることになります。
いままでのことを、最後にまとめておきましょう
I 金毘羅さんは金毘羅大権現と呼ばれ「寺院」として信仰されてきた。ところが明治政府の神道国教化の有力拠点としての思惑から仏教的な金毘羅大権現は追放され、代わって大国主命を祭神とする金刀比羅宮に生まれ変わった。
2 これに対して、金毘羅大権現の復活をはかる動きが地元で起きたが、県の「妨害・阻止」もあり、スムーズには新伽藍の建設は進まなかった。
3 神仏分離から30年近くたって新伽藍の建設工事の許可が下りたが、時流は金刀比羅宮に流れ、金毘羅大権現の伽藍建設を支援する募金活動は広がらずに、資金不足で中断に追い込まれた。
4 そして、長法寺はもとの榎井の地に新伽藍を小規模で建立し、現在に至っている。

ここから分かることは金毘羅大権現から金刀比羅宮への素早い「変身」ぶりに反感を覚え、古い形のこんぴら信仰を残そうとする動きが地元にあったということは、記録に留めて置くべき事のように私は思います
 
参考史料 榎井の長法寺について ことひら 昭和63年所収

11_5110051宥常

 金比羅さんの一ノ坂の階段を登っていくと大門の手前右手奥に、神職姿の銅像が立っています。木札には次のように記されています。

images (15)
琴陵宥常像
明治維新後の近代日本黎明期に金毘羅大権現を金刀比羅宮と改め、大本宮再営や琴平博覧会を開催し、晩年には海の信仰をつかさどる金比羅宮宮司として日本水難救済会を創設するなど強固な信念で今日の金刀比羅宮の基礎を築いた人物である。
この人が明治維新期の金毘羅大権現の最高責任者だったようです。どのようにして、「金毘羅大権現を金刀比羅宮」と改めたのか、宥常を中心に金毘羅さんの神仏分離の模様を見ていくことにします。
kotohira04琴陵宥常(ことおかひろつね)[1840~1892年]

金毘羅大権現は金光院の院主が「お山の殿様」でした。
 金刀比羅宮は神仏習合の社で、最高責任者である別当は社僧(しゃそう)と呼ばれる僧侶でした。そのため妻帯できません。したがって跡目は実子ではなく、一族の山下家から優秀な子弟から選ばれていました。幕末の金光院院主は宥黙で、優れた別当ではありましたが病弱でした。そこで早くから次の院主選びが動き出していたようです。 

koto-oka金刀比羅宮 - 琴陵宥常像
 琴陵宥常肖像画 高橋由一作
山下家一族の中に宇和島藩士の山下平三郎請記がいました。その二男の繁之助(天保11年(1840)正月晦日生)の神童振りは、一族の中で噂になるほどで白羽の矢が当たります。宥黙は信頼できる側近の者を宇和島派遣して、下調査を重ねた上で琴平・山下家への養子縁組みを整わせます。嘉永2年(1850)11月29日、10歳の繁之助は、次期院主として金毘羅に迎えられたのです。これが先ほど紹介した宥常(僧籍では、ゆうじょう)で、18代別当宥黙(ゆうもく)の後継者に選ばれます。そして安政4(1857)年10月22日に第19代別当に就任しました。宥常18歳の時です。
宥常は明治維新を28歳で迎えることになります。何もなければ彼は、このまま順当に別当として生涯を過ごすはずでした。しかし時代は明治維新を迎え大きく変わろうとしていました。「御一新」の嵐は、そんな宥常の金毘羅大権現をも包み込むことになります。

zendu_large

 神仏分離は明治政府の手によって祭政一致と神祇官再興、全国の神社、神職の神祇官付属を定めた布告にはじまります。
○太政官布告 慶応四年(1868)3月13日
此度 王政復古神武創業ノ始ニ被為基、諸事御一新祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テ、先ハ第一、神祇官御再興御造立ノ上、追追諸祭奠モ可被為興儀、被仰出候 、依テ此旨 五畿七道諸国ニ布告シ、往古ニ立帰リ、諸家執奏配下之儀ハ被止、普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡間 、官位ヲ初、諸事万端、
同官ヘ願立候様可相心得候事,但尚追追諸社御取調、并諸祭奠ノ儀モ可被仰出候得共、差向急務ノ儀有之候者ハ、可訴出候事 
意訳変換しておくと
この度、王政復古により神武天皇の創業の始めに総てを御一新し祭政一致の制度に回復することになった。その第一として、神祇官を再興し、諸祭礼を復活させることにする。これを五畿七道諸国に布告て、往古の姿に立帰り、諸家執奏配下の儀は停止して、天下諸神社、神主、禰宜、祝、神部に至るまで神祇官に附属させる。官位を初め、諸事万端、同官ヘ願立るように心得ること。なお諸社御取調と諸祭については取調べを実施する。 
ここには王政復古・祭政一致が宣言され、神祇官を再興することを布告し、「追追諸社御取調」と、追って各神社の「取調」が実施されることが予告されています。ちなみに、この布告が出されたのは「五箇条の御誓文発布」の前日にあたります。この時、江戸城の無血開城への折衝が大詰めを迎えています。
 また、3ケ月前の正月17日に、新政府は官制を発布して、太政官のもとに七科を置いて政務を分担させる中央行政組織を発表していますが、その七科の筆頭に神祗科が置かれていました。そして神祇事務総督には明治天皇の外祖父にあたる人物が就任します。つまり、神祇科は、他の行政諸官庁を管轄するポストであったわけです。太政官布告を追いかけるかのように4日後には、事務局から次の通達が全国に通達されます


○神祇事務局ヨリ諸社ヘ達 慶応4年3月17日
今般王政復古、旧弊御一洗被為在候ニ付、諸国大小ノ神社ニ於テ、僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ、復飾被仰出候、若シ復飾ノ儀無余儀差支有之分ハ、可申出候、仍此段可相心得候事 、但別当社僧ノ輩復飾ノ上ハ、是迄ノ僧位僧官返上勿論ニ候、官位ノ儀ハ追テ御沙汰可被為在候間、当今ノ処、衣服ハ淨衣ニテ勤仕可致候事、右ノ通相心得、致復飾候面面ハ 、当局ヘ届出可申者也

ここには「僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ、復飾被仰出候」とあり、別当寺の僧職による祭礼が禁止されると同時に、復飾(一度僧籍にはいった者が、もとの俗人にもどること。還俗すること)が命じられています。また「僧位僧官を返上し・・・衣服ハ神職の衣服で勤仕」するようにと、具体的な指示も出ています。
i-img600x450-1564322058rcu1hc485

それでは金毘羅大権現は、これを受けてどう対応したのでしょうか。それまでの神仏混淆の下では、金毘羅大権現は金光院の支配下にありました。

つまり金光院別当の真言僧侶が神を祭祀、社領・財政を管理、本堂を営繕、人事を差配してきたのです。それは村々に鎮座する神社と別当寺(中宮寺)の関係でも同じでした。
急かすかのように10日後には「神仏分離」の通達が出されます 
○神祇官事務局達 慶応四年三月二十八日
一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事、但勅祭之神社 御宸翰勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事、
一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地仏と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事、
右之通被 仰出候事
意訳変換しておくと
一、中世以来、権現や牛頭天王などの仏語を神号に使用する神社が少なからずある。これらについてはその神社の由緒委細報告書を早々に提出すること。但し勅祭神社や御宸翰勅額などを有する神社については、直接に聞き取り調査を行った上で、沙汰を下す。その他の神社社は、裁判、鎮台、領主、支配頭へ提出すること、
一、仏像を神体としている神社は、これを改めること。また本地仏と唱し、仏像、鰐口、梵鐘、仏具を社前に安置している所は、早々に取除くこと、右之通被 仰出候事
ここでは神名に「権現」「明神」「菩薩」などの仏教的用語を使用している神社名を改めると供に、ご神体を仏像としている神社は仏像を取り除くべきこと、また、本地仏・鰐口・梵鐘などの仏具を神社から取り外し、神社と寺院と判然と区別するよう命じます。
そして、一週間後には再び次の太政官符が出される念の入りようです。
○太政官達 慶応四年閏四月四日
今般諸国大小之神社ニオイテ神仏混淆之儀ハ御禁止ニ相成候ニ付、別当社僧之輩ハ、還俗上、神主社人等之称号ニ相転、神道ヲ以勤仕可致候、若亦無処差支有之、且ハ佛教信仰ニテ還俗之儀不得心之輩ハ、神勤相止、立退可申候事、但還俗之者ハ、僧位僧官返上勿論ニ候、官位之儀ハ追テ御沙汰可有之候間、
当今之処、衣服ハ風折烏帽子浄衣白差貫着用勤仕可致候事、是迄神職相勤居候者ト、席順之儀ハ、夫々伺出可申候、其上御取調ニテ、御沙汰可有之候事、
太政官達 慶応四年閏四月四日 神仏分離令

ここでは神仏混淆の禁止の再確認と、別当・社僧に還俗を命じ、神主または社人と名称を変え、神道に転じよとの布告が出され、還俗しないものは神社への出入りは禁止とし、立ち退くように求めています。また祭礼の際には、烏帽子をかぶり白差貫を着用するなど神職の服装を求めています。 四月十九日には、神職の者の家族に至るまで、仏教式の葬祭をやめ、神道式の葬祭を行うよう命じるのです。
 明治政府は、江戸時代の仏教国教化政策を否定し、神道国教化政策を進めます。そして、神社の中から仏教的な要素を取り除くために、神仏分離政策を早急に、しかも強力に実施しようとします。

i-img1200x900-1566005622ppa2up1437533

このような性急で過激とも思われる新政府の「御一新」を、金毘羅さんではどううけとめたのでしょうか。
  大権現を称していた金毘羅さんの対応を姿を見てみましょう。
 金毘羅さんでも中世以来の本地垂迹(ほんちすいじゃく)という考えで神仏習合が行われていました。この考えは日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた「権現(ごんげん)」であるとするものです。「垂迹」とは神仏が現れることをいい、「権現」とは仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを意味します。  金光院松尾寺もその守護神である金毘羅大権現との神仏混淆が行われていました。現在の旭社は薬師堂(金堂)、若比売社は阿弥陀堂、大年社は観音堂というように多くの寺院堂塔からなる一大伽藍地だったのです。そして金光院主の差配の下、普門院、尊勝院、神護院、萬福院、真光院という5つの寺の真言僧侶がお山の事務を取り仕切っていました。

i-img1200x900-1564431642moinws260

 このような中で新政府の通達は、金光院を初めとする僧職達に対して、還俗して神職になるか、お山を下りるかの二者選択を迫るものだったいえます。
神仏分離の布告を受けた金光院では、別当宥常が脇坊や重役を集めて協議を続けます。この会議をリードしたのは普門院の院主宥暁でした。彼は、江戸深川の永代寺の住職を勤め終わり、高野山に登って数年間修業を積んだ学僧で、名望もありました。彼は次のように主張します。

神仏分離令が対象としている寺院は、両部神道で祭られている社僧寺院であって、根本仏寺であり神社地でない金毘羅大権現を指すものでない。金毘羅は印度仏法の経典上に現われる神であって、日本の神祇に属する神ではない。したがって今回の法令によって改廃を受けるものでない

というもので、この意見が重役達のほとんどが賛意を表したと云います。
 そこで四月二十一日、金光院別当宥常は、役人山下周馬、寺中普門院宥暁を従えて、嘆願のために上京します。 そして綾小路・甘露寺の両執奏家へ、次のように上申します」。

「金毘羅権現は、、わが国の神祇でなく、全く印度の神祇であって、仏教専俗の神である」

 しかし上京した宥常を待っていたのは、「御一新基金御用」の名目での新政府への一万両の献納要請でした。宥常は、受けいれるほかなく献納を申し出て、6月15日までに5000両を調達し、残り半分は3か年間に調達する旨の上申書を提出します。
 廃仏毀釈の運動へ 
 明治政府の神仏分離の政策は、これまで僧侶の風下に置かれていた神官達が、この時とばかりに政府の政策に追随し、さらにこれを越えて廃仏毀釈の運動へと進んでいきます。その過激化と行き過ぎにブレーキを掛けるために、明治元年4月10日、政府は次のような布告を発します。

「社人共、陽は御趣意と称し、実は私情を晴らし候様の所業」

さらに9月18日には、
「神仏混淆致さざるよう先達って御布告これ有り候所、破仏の御趣意には決してこれ無き処」

社人や神官の僧侶への憂さ晴らしの所業となっており、御政道の妨げになると、その心得違いを戒め、廃仏毀釈にブレーキをかける布告を出しています。

明治維新と廃仏毀釈」
仏像が燃やされる廃仏毀釈

 金光院別当宥常が陳情のために滞在した京都は、その廃仏毀釈の真っ只中でした。
宥常が頼りとした猶父である綾小路家は、実はその立場を利用して神仏分離を厳しく実施しようとする側だったのです。綾小路家の役人であった山田・平田・熊谷はその中心人物で、彼等の立場から見れば、宥常が提出した上申書は、大勢を知らない井の中の蛙としか見えません。神仏分離を強行しようとする彼らからみると伊勢の皇太神宮に匹敵する参詣者があり、日本一社として朝廷の尊い信仰を受け、仏教面では真言宗の一無本寺に過ぎない金毘羅大権現を、神仏分離政策から外すことなど絶対に認められないことだったのです。
小川一真撮影《興福寺東金堂破損仏》 1888年 廃仏毀釈後の興福寺 の状況がいかに悲惨であったのかを物語る写真。現在は海外の美術館に所蔵されている仏像もある。
奈良興福寺の廃仏毀釈
 神仏分離は着々と実行に移され、京都の公郷家出身の僧侶が多かった奈良の興福寺は僧侶全員が還俗して春日神社の神官となり、興福寺は無住の寺となって、西大寺や唐招提寺が管理するするようになったとの話が伝わってきます。鎌倉岡八幡宮では、境内にあった真言宗寺院の塔頭の僧侶が全員還俗して神官となり、総神主と称するようになります。
 王政復古のおひざもとであった京都では、神仏分離・廃仏毀釈が進行し二條城内に設けられた京都府庁の台座には、道端の石地蔵を集めて石垣が組まれます。寺院の廃合や整理も激しく、一般の末寺や大寺院内の塔頭などで廃寺となるものが多くでていました。

20170830_3fae61

 京都にいた宥常は、こういう空気に接して「現実」を知ります。
 政府の方針や廃仏毀釈という現実に逆らって、金毘羅大権現を仏教専属の神社として維持していくことが難しと思うようになってきたようです。それを加速させる次のような風も吹き始めます。
①一つは当時、金刀比羅宮内でも時流に乗って平田門下が影響力を増してきて、僧籍維持を主張する普門院への対抗勢力になりつつあったこと。
②社会状況が、仏教(寺院)として存続しても僧侶の生活を保障するものではなくなっていたこと。そして、奈良の興福寺の僧侶を真似るように僧籍を離れるのが流行のようにもなっていたこと。
③新政府の「御一新」に逆らって、金毘羅神は日本古来の神ではなくて、仏教の神だと上申しても、結果としてそれはお上に反逆するものであり、かえって金毘羅大権現の存続を危ういものにすること
④だとすると大権現存続のためには、あえて平田派的な論を用いた方が得策かもしれないこと。
⑤加えて宥常の個人的な保身・処世の動機も重なったのかもしれません。「御一新(神仏分離)」を通じて、山上経営の主導権を確固たるものにして、若きリーダーとして歴史に名を残す。
若い宥常の判断と、その後の行動は早かったようです。彼は政府の神仏分離政策に従って改革を行い、神社として存続を図り、引き続いて繁栄する道を選ぶべ道を選択します。つまり、彼は京都で今までの方針を転回させるのです。

  明治元年五月、宥常は上申書を政府に提出します。
そして、政府の神仏分離の方針に従うことを告げ、次の条々について御伺いを立てます。
1 金毘羅大権現は本朝の大国主尊であること。
2 象頭山を琴平山と改め、神号は勅裁をいただきたい。
3 一山の僧侶は還俗すること。
4 勅願所、日本一社の御綸旨(りんじ)、御撫物(なでもの)は、今まで通り認められたい。
5 御朱印地であることを考慮していただきたい。
 こうして6月14日、金光院宥常は京都で還俗します。金光院最後の住職となった宥常(ゆうじよう)は琴陵宥常(ことおかありつね)と改名と改めることを、願い出て許されます。そして金毘羅大権現の新たな神号は「勅裁を蒙(こうむ)りたい」と願い出たとおり、神祇官からの達書でに「金刀比羅宮」と改められます。
 こうして、新政府との交渉によって金毘羅大権現が金刀比羅神社として、存続できる道を開くことはできました。次にやるべきことは、その社格と、自らの地位の確保です。8月14日、琴陵宥常は、金刀比羅宮を勅裁神社の列に加え、宥常を大宮司に補任されたいと次のように願い出ます。
   宥常の歎願奉り候口上の覚                            
 讃岐国那珂郡小松庄琴平山に、御鎮座在りなされ候 金刀比羅大神の御儀は、御代々比類無き御尊崇に依りて、御出格の御沙汰の件々並びに、天朝において御取り扱いの次第等は、別紙に相記し、尊覧に備え奉り候通りに御座候、斯の如く種々容易ならざる朝令を蒙り奉り、御蔭を以て、神威日盛は申すに及ばず、奉仕の者共、神領の商農に至るまで安住罷り在り候儀は、偏に広大無量の、朝恩と冥加至極有り難き幸せと存じ奉り候、
 然るに方今一方ならざる御時節をも相弁え候上は、安閑罷り在り難し、天恩の万分の一をも報謝奉り度き赤心に御座候処、微力不肖も私聊以其の実行を相顕しがたく、依之会計御役所え御伺い奉り、金壱万両調達奉り度段歎願奉り候処、御隣懲の御沙汰を以て御採用成し下され、重々有り難き
幸せに存じ奉り候、且万事広大御仁恕の御趣意に取継り、猶又歎願願い候義は、別紙に相記候御由緒御深く思召なされ、分けて御制外の御沙汰を以て向後、勅裁の社に加えられ、且私儀大宮司に任ぜられ度、俯し伏して懇願奉り候、然る上は弥以て、皇位赫々国家安泰の御祈祷、一社を挙げて丹精を抽んで奉る可く候、恐惶敬白
    六月十四日          金光院事琴陵宥常
   弁事御役所
ここにはもう象頭山も金毘羅大権現も現れません。山は琴平山、主神は金刀比羅大神とリニューアルした名称が表記されます。また金刀比羅宮の由緒については「別所に相記」して提出したとあります。どのような内容だったかが気になるのですが、私の手元にこの時に提出した文書はありません。推察するに、先の上申書で「金毘羅大権現は本朝の大国主尊である」としたので、大国主尊を主神とする神々の系譜が、この間に調えられたようです。
神社取調 西宮神社
西宮神社の寺社取調書
 ちなみに、「神社取調」の提出は、金刀比羅宮だけでなく全ての神社に求められました。
そのために村々の役人や神職は苦労したようです。当時の庶民は自分たちの「村の鎮守」に誰を祀っているのか、どんな神々を祀っているのかに関心はなく、祭礼を行っていました。 由緒が分かるのは式内社や、建立者がはっきした氏神様などほんのわずかでした。そこへ新政府からおまえの村の神社の由緒書きを提出せよと命じられたのです。ないものは提出できないとは言えません。提出しなければ神社として認められず、邪教として扱われ存続できないのです。
 ここに神仏分離政策のもうひとつの意味があります。
仏教よりも否定されたりされなければならなかったのは、民俗信仰だったのかもしれません。それまで民衆が信仰してきた修験道や巫女(シャーマン)などの民間宗教や、若者組、ヨバイ、さまざまの民俗行事、乞食などが「廃仏」とともに「毀釈」されて行くことになります。そういう意味では民衆の生活態度や地域の生活秩序が再編成されてゆくスタートだったと言えるのかも知れません。別の視点で見ると、国家が村の祠や小社を有用で価値的なものと無用・有害で無価値なものとに線引きしたとみることもできます。この結果、民衆に根付いていた多くの信仰が邪教として、排斥されていくことになります。
「神社取調」に対応したのは、村役人や神職(大半が僧侶から神職に転身した人たち)だったのではないか私は推測します。
彼らは、村に伝わる伝承をかき集め「村の鎮守」の由緒書きを作ったのではないでしょうか。なにもないところから由緒書きを作らなければならなかった神社もあったかもしれません。「真摯」な「考証」にも関わらず「不明」な神社も多いと云う記録も残っています。
  その「由緒」を明らかにできなかった神社の方が多かったようです。しかし、提出しなければならない。そうなると、創り出す他ありません。後世の適当なことを付会することに追い込まれていったのでしょう。ある研究者は「神社取調とは、大半の由緒不明の神社で社で、付会・でっち上げを行う過程」であったとも云っています。確かに、急に提出期限も限られたものなので、今の私たちから見ると「拙速・乱造」と思えるものもあるように思います。話が横道にそれました、これについては、また別の機会にして・・・
 宥常の嘆願書に戻ります。
 宥常は、新政府の求めに応じて一万両を納めたことに続いて、次のように記します。

「勅裁の社に加えられ、且私儀大宮司に任ぜられ度、俯し伏して懇願奉り」

ここからは大宮司のポストに就くことを嘆願していることが分かります。この歎願書に次いで、8月13日に重ねて歎願書を提出し、勅裁の神社の件は認可されます。しかし、大宮司就任は許されませんでした。8月17日に従五位下を授けられ、翌8月18日付けで、改めて社務職を仰せ付けられます。
 結局、「宮司に仰せつけられたい」という願いは聞き届けられず、明治6年3月には、鹿児島より深見速雄が宮司として赴任して来ることになります。宥常が宮司に任命されたのは、14年後の明治19年3月深見速雄が亡くなった翌4月のことでした。(松原秀明氏『金毘羅信仰資料集』)それまでの宥常は金比羅宮のトップではなかったことになります。
  こうして宥常の京都での新政府との交渉は1年間に及びました。
この交渉が地元金比羅山内の僧侶達と連絡・合意を取りながら進めたとは思えません。京都にいる宥常と側近者で決定され進められたようです。このため「寺院から神社へ、僧侶から神職への転身」を、普門院や尊勝院の反神仏分離派の院主達がスムーズに受けいれてくれるとは限りませんでした。若き宥常の「決断と実行」が試されることになります。
  明治2年(1869)二月、琴陵宥常は1年ぶりに讃岐に帰ってきます。と同時に、神祇伯白川家の古実家古川躬行が琴平に到着、以後逗留して改革を指導することになります。いわば改革のお目付役であり、実質責任者となります。

金毘羅山多宝塔2
 金毘羅大権現関係の建築物は、次の様に改められていきました。
①三十番神堂
 廃止の上、石立社(祭神少彦名神)に充当。
②阿弥陀堂
 廃止の上、若比売社(祭神須勢理毘売命)に充当。
③薬師堂(金堂)
 廃止の上、その建物を旭社(祭神伊勢大神・八幡大神・春日大神)に充当。
④不動堂
 廃止の上、津島神社(祭神建速須佐之男命)に充当。
⑤孔雀堂
 廃止の上、その建物を天満宮(祭神菅原道真)に充当。
⑥摩理支天堂
 廃止の上、その建物を常磐神社に充当。
⑦毘沙門天堂
 伊邪那岐神・伊邪那美神並びに日子神社(祭神事代主神・味組高根神・加夜鳴海神)に充当。
⑧多宝塔
 廃止の上、その建物は明治三年六月に取り払う。
⑨経蔵
 廃止の上、その建物は取り払う。
⑩大門
 左右の金剛力士像を撤去して、建物はそのまま存置。
⑪二天門
 左右の多聞・持国天像を撤去して、建物はそのまま存置
金毘羅山旭社金堂

次に組織改革と人員整理です
 まず、旧体制である江戸時代末の金光院の組織を見ておきましょう
別当寺は象頭山松尾寺金光院で、金光院主は当時二百数十名の役人を使用し、寺領をもつ領主的な存在で「お山の殿様」と呼ばれていました。役人の内、僧籍にあったのは20数名程度だったようです。そして5人の役僧が「寺中」と呼ばれる脇坊の住職として、次のような分業体制をとっていました。
①真光院、尊勝院 庶務
②万福院   会計
③神護院   神札・祭礼
④普門院   社領民の滅罪(葬儀)
この内、④普門院は山上の外の現在の琴平公会堂にありました。
  宥常は、僧籍にあった二十数人への還俗を断行します。その上で、旧脇坊を次のように処置します。
神護院は退身した上で還俗して社務職として神社に仕えました。万福院は退身して還俗し、山上から去ります。尊勝院と普門院は退身しますが、僧籍からは離れませんでした。
先にも述べたように神仏分離に、最も反対していたのは普門院の院主宥暁と尊称院院主でした。
彼らは、宥常の進める改革策を受けいれることは出来なかったようです。還俗に対しても激しく抵抗しました。普門院は大門の外(現金刀比羅公会堂)にあって、松尾寺の檀家の葬祭などを取り仕切っていたので、普門院の院生宥暁に、先祖代々の尊牌とその香花料として徳米十石の田地を与えて仏籍に残る道を選ばせます。その後、普門院は京都仁和寺内階明寺の直末寺院となり松尾寺と称するようになり、金比羅公会堂の下の現在地に境内を移します。しかし、これは普門院の意向に従うものではなかったようです。後に普門院は、金刀比羅宮を裁判に訴え争うことになります。

DSC01220
金毘羅大権現の観音堂の本尊(金刀比羅宮 宝物館)
 組織改革と同時に、人員整理も行います
改革前には、僧俗合わせて300人近い職員がいたのを、明治4年の冬には約80人とし、県からの指示で翌年にはさらに、30人程度まで人員は削減されます。 それは、財政収入減へ対応でもあり、「社寺領上知令」とも関わります。 それまで金毘羅大権現の金光院院主は、寺領朱印地330石の領主で、領主に対する租税は免除され、そこから得られる収益は全て祭司・供養・社殿の修繕費用に充てられました。
  ところが明治4年1月。いわゆる「社寺上知令」が発布されます。

「諸国社寺由緒ノ有無ニ不拘 朱印地除地等 従前之通被下置候所。各藩版籍奉還之末 社寺ノミ土地人民私有ノ姿ニ相成不相当ノ事ニ付、今般社寺領現在ノ境内ヲ除ク外、一般上知被仰付追テ相当禄制相定、更に蔵米ヲ以テ可下賜事」

ここにはすでに版籍奉還が行われ、各藩が領地を奉還した以上、「朱印地」「除地(のぞきち)」等の「社寺領」も当然「上知(没収)」すべきである。それにより失われた特権については、追って蔵米にて補償する予定である、とされています。

DSC01222

ちなみに京都の南禅寺界隈の別荘庭園群は、神仏分離令や社寺上知令によって、広大な敷地を持っていた南禅寺の土地の大部分が民間へ払い下げられます。それを山縣有朋や財閥の野村家など、政財界の人々がステータスとして競って別邸を建てたものです。あの綺麗な景色の中に、寺社と明治政府の攻防が隠れているようです。
 ここからは神仏分離に、経済的な側面があったことを、改めて気付かされます。この結果、経済基盤を失い衰退していった寺院も多いのです。この措置とリンクさせて、財政収入の激減が予想される社寺への「職員削減」を命じたようです。

DSC01221

 そのような中で、明治5年4月3日、鵜足郡内田村の吉田寺住職真道房から金刀比羅宮に対して、
「御山変革につき、不用となった三つ壇と仏具類一揃えの寄付を願いたい」
との申し出がありました。宥常はこれを許しています。この頃から、金毘羅大権現の仏像や仏具や什器などの処分が注目されるようになったようです。
Kan_non
   聖観音立像 (金刀比羅宮 宝物館蔵)
改革によって取り除かれた仏像・仏具の処分が明治5年6月から始められます。その記録を見てみましょう。
六月五日、梵鐘が227円50銭で榎井村の興泉寺へ売却。
七月十一日 雑物什器売却、
  十八日 仏像売却、
  十九日 善通寺の誕生院の僧が、両界曼荼羅を金二〇円で買い取った。
 八月四日 障りありとして残されていた仏像や仏具を境内の裏谷で焼却した。
午前八時から始められて、午後には焼却を終わった。その日の暮れのころ、聞き付けて駆けつけた二、三人の老女が、杖にすがりながら、燃え尽きてちりぢりとなった灰を、つまみとって紙に包み、おし頂いて泣きぬれていた

と記録されています。
 のこされた仏像は、長櫃(ながびつ)にいれて裏谷へ隠してあった聖観音立像と、不動明王立像の2体だけでした。現在、この2体は宝物館に展示されています。金毘羅さんの神仏分離の激動を見守った仏と言えるのかも知れません。立ち上る煙を宥常は、どんな気持ちで見ていたのでしょうか。

DSC01252

最後に琴綾宥常の神仏分離令への対応を年表的にまとめて記しておきます。
 
明治元年4月から上京し、翌年2月まで京都滞在
5月  御一新基金御用を命ぜられ、6月下旬までに一万両のうち五千両調達の旨請書差出し
7月  観音・本地・摩利支天・毘沙門・千体仏などの諸堂の廃止決定
8月 弁事役所宛に、金刀比羅宮を勅裁神社にすることを願出て許された。
9月 東京行幸冥加として千両を献納し、徳川家の朱印状十通を弁事役所へ返納し、神祇伯家へ入門11月 春日神社の富田光美について大和舞を伝習し、多備前守から俳優舞と音曲の相伝を受ける
12月 皇学所へ「大日本史」と「集古十種」を進献
明治2年2月、月末に丸亀帰着。白川家の故実家古川躬行が本社神式修行指導のため来着。
3月 御本宮正面へ「当社之義従天朝金刀比羅宮卜被為御改勅祭之神社被為仰付候事」の建札
6月晦日 はじめて客殿で大祓の神式実施
10月 十日の会式も神式に改め、翌三年から、神輿が御旅所まで渡御するスタイルに変更
明治4年6月、国幣小社に列し、官祭へ、
明治5年4月、宥常は権中講義に補せられ、翌月に東京虎ノ門旧京極邸内の事比羅社内に神道教館設置
これには多大の経費を要し、その時上京していた宥常は資金調達のため一旦帰国しなくてはならなくなった。この時に、仏像・仏具・武器・什物の類を売却したのは、東京での出費を賄う必要からでもあった
明治8年1月、御本宮再営着工し、翌年4月仮遷座、10年4月に上棟祭
その間の費用は、官費を仰がず、すべて社費を以って行ったので、落成の際、内務省から宥常に褒美を下賜された。
 しかし宥常の宮司に仰付られたいという願いは聞き届けられず、明治6年3月、鹿児島県士族深見速雄が宮司として赴任来讃。宥常が宮司に任命されたのは、明治19年3月深見速雄が亡くなった翌4月のことです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
神仏分離令と金刀比羅宮 ことひら町史441P

関連記事


DSC01979

伊予土佐街道の一里道標をたどりながらやって来たのは旧山本町役場の前庭。
ここには「こんひら大門まで三里」と刻まれた金毘羅街道の三里道標が建っています。
DSC01980

その表記の通り、金毘羅さんの階段途中にある大門まで、ここから3里(12㎞)を示します。その下に
「与州松山浮穴郡高井村 新七、弥助、 清次、粂左衛門」
の文字が読めます。伊予松山の南の浮穴郡の人たちが寄進したもののようです。伊予土佐街道の里呈や灯籠は、ほとんどが伊予の人々により建てられています。
 今は、ここにありますが、もとあった場所は、もう少し東へ行ったところで、街道が大きく南へ曲がった角にこの三里道標はあったそうです。おそらく交通の邪魔になり、ここに移転してきたのでしょう。役場に保管し、道行く人に見える場所に置くなど心遣いのあとが見られます。これも私にとっては先人からの「おもてなし」とかんじられます。
 この地域は「辻」と呼ばれる通り、交通の要地で、観音寺へ、伊予へ、こんぴらへ、箸蔵へと刻んだ大きな道標や灯籠が近くにも残されています。

DSC01990
休憩後に、次の四里道標に向けて旧街道を原付バイクで走りだした。
すぐに祭りの幟が目に入りました。秋の高く澄んだ青い空にはためく幟は、絵になります。
DSC01986

どこの神社の祭りかなとバイクを止めて仰ぎ見ると・「金毘羅大権現」とあります。
なぜ「金毘羅大権現」なの・・・???
と幟を見上げたまま、ぼけーと考えてしまいました。
DSC01987

さらによく見ると、その上に描かれているのは天狗さん、そして○金と○箸の文字。ますます、分からなくなりました。頭の中を整理します。
①金毘羅さんから遠く離れた山本町でなぜ「金毘羅大権現」の幟が揚がっているのか?
②神仏分離以後、金刀比羅神社は「金毘羅大権現」を捨てたはずなのにどうして・・?
③幟の一番上の天狗は何を意味するのか?
④○金は金毘羅神社、それなら○箸は、何なのか?
私の明晰な頭は疑問点を以上のようにまとめて、解決に向けての糸口を探ろうとします。視線が向かったのは幟の下の石造物です。
DSC01991

まず正面の墓石のようなものは何なのか?
○金とありますので、金毘羅信仰に関係するものであるようです。
さらに近づいて見ると、ここにも○金と○箸がなかよく並んでいます。そして、その下には金毘羅さんの御札が入れられているようです。

DSC01992
ここから私に分かることは、丸亀街道沿の神社の中にあるような「金毘羅さん遙拝施設」ではないということです。そして、金毘羅さんの御札が納められているということは、この石造物自体が「金毘羅大権現」としてお祭りされているのではないかということです。
 怪しげな男がボケーっと立ち尽くしているので、家の中から主人が出てきてきました。
さりげなく挨拶を交わして「ええ幟ですな」と声をかけると、主人は次のようなことを話してくれました。
①この地区の23軒で「山本境東組」という金比羅講をつくってお参りしてきた。
②年に3回、1月10日・6月10日・10月10日には、講メンバーでお祭りをして、ご馳走を食べる。
③その時には、当番が金毘羅さんへ参拝して新しい御札をもらってきて、ここへ納める。
④講メンバーにとって、この石造物が「金毘羅大権現」と思っている。
⑤いつ頃から始まったか分からないが、この石造物には大正の年号が彫り込まれている。
⑥いまはメンバーが減って7軒になって、運営が大変だ
⑦この石碑には3回も自動車が正面からぶつかってきた。それでも壊れなかった
主人の話から分かったことは以上です。
  ここからはこの地区の人たちが金比羅講を組織して、もらってきた御札をここに入れて、信仰対象としてきたようです。推論したとおり、この石造物は「金毘羅大権現」なのです。しかし、「金毘羅大権現」は、明治の神仏分離の際には神と認められずに、金毘羅さんからは追放されました。
なぜ、それなのにここでは「金毘羅大権現」を今でもお祭りしているのでしょうか?
 考えられることは、この信仰形態はそれ以前の江戸時代から行われていたということです。そのため、金毘羅大権現が金刀比羅宮と名前を変えて神道化しても、ここでは以前通りの名前と、祭礼方法が継続されたのではないでしょうか。
 これで疑問点の二つは、推論が見えてきました。あと二つは「天狗と○箸」です。
天狗とはなにか。これは簡単にいうと「修験者」の象徴です。
四国で、天狗達の巣のひとつが象頭山金毘羅大権現でした。江戸時代の初めの金毘羅大権現の創世記に活躍したのは、高野山で学問を積んだ宥盛のような真言宗の修験者達でした。彼は、土佐の修験道のリーダーをリクルートして多門院を開かせるなど、四国の修験者達のリーダーとして活躍し、多くの子弟を育成し四国中に「修験道」ネットワークを形成していきます。
DSC01186
箸蔵寺の天狗
つまり、金毘羅さんは修験者の集まる山で、行場でもあり、天狗の山であったのです。
近世初頭においては、金毘羅さんは「海の神様」としての知名度はありません。天狗の住む修験者の山の方が有名だったと私は思っています。そして、まだ全国的にも知られていない、地方の小さな権現さんだったのです。それを全国へ広げていくのは、宥盛等が育成した修験者組織なのです。「塩飽の船乗り達が海の神金毘羅大権現をひろめた」というのは、本当だったとしてももっと後のことです。これについては別項の「金毘羅大権現形成史」で、述べましたのでこれ以上は触れません。
 どちらにしても、この地に金毘羅大権現をもたらしたのは天狗で、修験者たちの布教活動の成果だと私は考えます。そして、人々も天狗(修験者=山伏)を受けいれていたのでしょう。

それでは○箸とは、なんでしょうか。
DSC01973

この先の財田川の長瀬橋のたもとに残る灯籠を兼ねた道しるべです。
ここには「右 はしくら」「左 こんぴら」と刻まれています。箸蔵寺は、讃岐山脈の猪ノ鼻峠を越えた阿波徳島にある山岳寺院です。この寺も近世には、高越山とともに阿波修験道の拠点のひとつとされていました。金毘羅大権現の「奥の院」として「両参り」を提唱して、幕末から明治にかけて寺勢を伸ばしました。讃岐山脈の麓にある各町村の村史や町史を読んでいると、阿波からの山伏が布教定着し、「山伏寺」を村々に立ち上げていた様子が記されています。その拠点が箸蔵寺になります。

DSC01249
 箸蔵寺本堂

箸蔵寺は明治の神仏分離の際にも神道に転ずることがありませんでした。
そのため今でも「金毘羅大権現」をお祭りしています。本堂の前には大きな子天狗と大天狗のふたつの天狗面が掲げられています。
DSC01243

また、明治になって大久保諶之丞による四国新道が財田から三好に抜けるようになると、このバイパス沿いに位置することが、有利に働き多くの信者を集めることになります。そのような寺勢を背景に修験者たちは、国内だけでなく植民地とした朝鮮や中国東北部(旧満州)へも布教団を送り込み信者を増やしていったのです。その時期に建立されたのが現在に残る本堂などの伽藍なのです。明治の建物にもかかわらず早くも重要文化財の指定を受けているように、彫り物などは四国の寺院建築物としては目を見張るものがあります。
DSC01179

また、旧参道の玉垣の寄進者名も朝鮮や中国旧東北部からのものが多く残されています。
このように、幕末から大正時代にかけての箸蔵寺の修験者僧侶の布教活動には目をみはるものがあったのです。これが、讃岐の里へも影響を与えています。金刀比羅街道の標識に「はしくらへ」と刻まれているのは、当時の箸蔵寺の布教活動の勢いを示す物なのです。

DSC01245
 こうして、○金と○箸がならぶのは、
①この地に「金毘羅大権現」をもたらしたのは、金毘羅さんの修験者たちだった
②しかし、神仏分離で金毘羅さんから天狗(修験者)は追放された
③その空白部へ入ってきたのが、箸蔵寺が組織した修験者集団であった。
④そのために「金毘羅大権現」は、そのままにして○金と○箸が並び立つことになった。
という推論にたどり着きました。
DSC01236
箸蔵寺の金毘羅大権現 扁額

わたしにはもうひとつ気になる存在が、この地域にはあるのです。
それがこの背後の丘の上に鎮座する宋運寺と天満神社です。両者は、神仏分離以前は一体でした。建立者は山下氏で、金毘羅大権現の別当金光院を世襲していた家の氏寺でした。つまり、金毘羅さんとストレートにつながっていたのです。この地域への金毘羅神信仰の伝播について、この寺の果たした役割については次回、お話しすることにします。
DSC01169

関連記事 

 
DSC01362

以前にも紹介した讃岐の金毘羅宮の「元禄祭礼図屛風」で、歌舞伎や人形浄瑠璃の芝居小屋について、説明不足だと指摘されました。その部分のみを補足します。

鞘橋 金毘羅大祭行列図屏風
鞘橋 (金毘羅祭礼図屏風)

金倉川に架かる鞘橋の下で身を清めて山上へ参拝を済ませます。その後は、精進落としのお楽しみです。内町から南の金山寺の道に入っていくと・・

IMG_0001
          鞘橋から内町へ(金毘羅祭礼図屏風)
内町の高級旅館の裏が入っていくと、賑やかな呼び込みの声や音楽が聞こえてきて、芝居小屋が姿を見せます。 ここが金山寺街です。参拝を済ませた客が、願を掛け終えた安堵感・開放感に浸りながら精進落としをする場所です。この辺りは金山寺町と呼ばれ、かつては金山寺というお寺があったと伝わります。金倉川の河畔には、歌舞伎や相撲・見世物などの小屋が六座描かれており、道も溢れんばかりの賑わいぶりを見せています。この図屏風にも、歌舞伎・浄瑠璃・相撲・見世物・辻芸人集団などが描かれています。
歌舞伎
       歌舞伎小屋(金毘羅祭礼図屏風)

①歌舞伎小屋は、竹矢来で周りを囲み、槍・梵天を配した矢倉に座元の家紋を入れた幕を張っています。鼠木戸を通って中に入ると、能舞台形式の板屋根舞台があり、六人の歌舞伎俳優が、三味線・鼓・太鼓の伴奏で演じています。若衆歌舞伎は承応元年(1652)に禁止されているので、ここでは野郎歌舞伎の段階と研究者は考えています。しかし、六人のうち三人は若衆か女のようにも見えます。

DSC01355

 歌舞伎小屋の下には黒い幕を張った人形芝居の小屋が描かれています。
浄瑠璃(図屏風)

地方興行ということで、周囲を竹矢来で囲んだ小屋で、櫓の下の鼠木戸の部分だけが板塀です。
そのため後ろ側の囲いの横には、木戸銭を払わずに鐘の隙間から覗き見をする人がいます。小屋の中には桟敷席らしきものはありません。見物人は土間に腰を下ろして舞台を見上げています。舞台は平側を正面にした建物の中央部分に切妻の屋根をのせたような形になっています。
 人形が出ている手摺は上下二段構造になっています。元禄2年の「曾根崎心中」から本格化したとされる出語り・出遣い形式では、金毘羅のものはないようです。全体の手摺の形式は「西鶴諸国はなし」のものとよく似ていると専門家は指摘します。
 舞台を数えると八体の武者人形が出ています。さらに「本手摺」の前に「前手摺」には、二体の人形が出ています。上手と下手には山の装置が置かれていて、人形は中央部に出ているようです。低い手摺を使用する場合には、地面を掘り下げることもあったようです。
『尾陽戯場事始』に
「享保二丁酉より戌年頃 稲荷社内にて稽古浄瑠璃といふ事はじまり 手摺一重にひきくして 地を掘り通し 其中にて人形をつかへり 尤人形の数 五つ六つに限る」

とあります。浄瑠璃にも地面を掘って低い手摺を使ったことが分かります。
② 元禄9年(1696)には、操浄瑠璃芝居の竹本座が「当夏、讃州より宮嶋へ行く」(『外題年鑑』明和版)と記録されています。
③元禄16年(1703)3月の『多聞院抜書』には「子供芝居座本権左衛門、太夫本嵐勘四郎」の名が見えます。ここからは、歌舞伎や浄瑠璃が盛んに演じられていたことが分かります。
  
DSC01350

  
内町・芝居小屋 讃岐国名勝図会
      内町と金山寺町の芝居小屋(讃岐国名勝図会1854年)
 参考文献
 人形舞台史研究会編、「人形浄瑠璃舞台史 第二章 古浄瑠璃、義太夫節併行時代」

10 

このページのトップヘ