瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金刀比羅宮と天狗

丸金

金刀比羅宮のシンボルとして使われているのが金の字のまわりを、丸で囲った「丸金」紋です。この「九金紋」が、いつ頃から、どういう事情で使われ出したのかを見ていくことにします。テキストは「羽床正明 丸金紋の由来 ―金昆羅大権現の紋について― ことひら 平成11年」です。
丸亀うちわ(まるがめうちわ)の特徴 や歴史- KOGEI JAPAN(コウゲイジャパン)

「丸金紋」を全国に広めたのが丸亀団扇だと云われます。
赤い和紙を張った団扇に、黒字で「丸金」とかかれたものです。これが金毘羅参詣の土産として、九亀藩の下級武士の内職で作られ始めたとされます。その経緯は、天明年間(1781~88)の頃、豊前の中津藩と丸亀藩の江戸屋敷が隣合せであったことが縁になりました。隣同士と云うことで、江戸の留守居役瀬山四郎兵衛重嘉が、中津藩の家中より団扇づくりを習います。それを江戸屋敷の家中の副業として奨励したのが丸亀団扇の起こりと伝えられます。
 幕末に九亀藩の作成した『西讃府志』によると、安政年間(1854~59)には、年産80万本に達したと記されています。その頃の金昆羅信仰は、文化・文政(1804~29)の頃には全国的な拡大を終えて、天保(1830~)の頃には「丸金か京六か」という諺を生み出しています。京六とは京都六条にあった東本願寺のことで、金刀比羅宮とともに信仰の地として大いに栄えました。

金刀比羅宮で「丸金」紋が使われるようになったのは、いつ頃からなのでしょうか。

丸金鬼瓦2

松尾寺の金堂(薬師堂=現在の旭社)には、唐破風の上の鬼瓦に、「金」の古字の「丸金紋」が載っています。

丸金 旭社瓦

この鬼瓦とセットで使用されていた軒平瓦も、金刀比羅宮の学芸参考館に陳列されています。「金」の略字の両脇に、唐草文を均整に配した優美なもので、黒い釉薬が鳥羽玉色の光沢をはなっています。説明には、瓦の重量が支えきれずに鋼板葺きに、葺きかえられた時に下ろされたと記されています。旭社(松尾寺金堂=薬師堂)の屋根が重すぎて、銅板葺きで完成したのは天保十一年(1840)の秋です。

金刀比羅宮大注連縄会 活動状況 - 高松市浅野校区コミュニティの公式ホームページです。

金刀比羅宮に奉納された絵馬に「丸金紋」がみられるようになるのは、19世紀後半からで、次のようなものに見えるようになります。
宝物館の絵馬図の中に「丸金紋」を縁の飾り金具として使った天狗の絵馬
②万延元年(1860)奉納の「彫市作文身侠客図」絵馬
③安政四年(1857)宥盛の大僧正追贈を祝って奉納された品の中
④明治11年(1878)再建の本宮の「丸金紋」
⑤神輿の紋も、江戸末期は巴紋だったのが、明治以後に丸金紋に変更。
 丸金文は、金毘羅大権現の創建当初から用いられていたと思っていましたが、どうもそうではないようです。残された史料から分かることは、19世紀になって使われはじめ、その起源は金毘羅参詣の土産の団扇にあって、「丸」は丸亀の丸であるという説が説得力を持つように思えてきます。

金刀比羅宮 丸金紋の起源
金刀比羅宮の丸金紋の起源
 九亀団扇が「丸金紋」を全国に広めたことは確かなようで、赤い紙に黒く「丸金紋」がかかれた団扇は、江戸時代の図案としては斬新なもので人気があったようです。また当時の旅は徒歩でしたから、軽い団扇は土産としても適していました。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗たち
 近世前半の金刀比羅官は「海の神様」よりも、修験者によって支えられた天狗信仰で栄えていました。
 松尾寺住職の宥盛は修験者で、亡くなった後は天狗になって象頭山金剛坊として祀られていました。その眷属の黒眷属金昆羅坊も全国の修験者の信仰対象でした。また、讃岐に流された崇徳上皇は、怨霊化して天狗になったたと信じられ、京都の安井金刀比羅宮などでは「崇徳上皇=天狗=金昆羅神」とされるようになります。数多く作られた金昆羅案内図の中には、天狗面や天狗の持物の羽団扇が描かれたものがあります。大天狗は翼をもたないかわりに、手にした羽団扇を使って空を飛ぶとされたことは以前にお話ししました。

天狗の団扇
天狗信仰と団扇(うちわ)

金刀比羅官では「丸金紋」以前には、天狗の持物の羽団扇が紋として使われたようです。
天狗の紋に羽団扇を使ったのは、富士浅問神社大宮司家の富士氏に始まるようです。富士氏の紋が棕櫚の葉であり、富士には大天狗の富士太郎、別名陀羅尼坊がすむとされました。そのため社紋であった「棕櫚葉」が流用されて、よそでも天狗の紋に棕櫚葉が使われるようになります。そして、次第に棕櫚葉団扇と鷹の羽団扇が混用され、天狗の紋としては棕櫚葉団扇の方が多くなります。しかし、狂言などではいまでも、鷹の羽の羽団扇が使われているようです。

天狗の羽団扇
狂言に用いられる天狗の持つ羽団扇

金刀比羅官で棕櫚葉団扇が、使用された背景を整理しておきます
①「金毘羅神=天狗」である。
②大天狗は羽団扇を使って空を飛ぶ
①②からもともとは、金刀比羅宮でも棕櫚葉(しゅろのは)団扇の紋が使われていたようです。ところが金昆羅参詣みやげの「丸金紋」の方が全国的に有名になります。そうすると金刀比羅宮でも、これを金比羅の紋として使うようになります。
棕櫚(すろ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
棕櫚葉団扇

 一方、天狗信仰では、天狗の紋と棕櫚葉団扇が広く普及しています。そこで天狗信仰のメッカでもあった金毘羅大権現では、棕櫚葉団扇もそのまま使用します。棕櫚葉団扇の紋は、金昆羅案内図や金刀比羅宮に奉納された絵馬などに使われています。棕櫚葉団扇は金刀比羅官の紋というよりは、 一般的な天狗の紋として使われたことを押さえておきます。
棕櫚葉団扇の紋だけは、金刀比羅官だと特定することはできません。
 これに対して「丸金紋」の方は、金刀比羅官だと特定できます。こちらの方がシンボルマークとしては機能的です。そのために19世紀中頃以後は、「丸金紋」が盛んに使われるようになります。
 丸金紋3様
丸金紋・巴紋・棕櫚葉団扇
棕櫚葉団扇と同じく、普遍性のある紋として使われたのが、巴紋であった。
江戸末期の金刀比羅宮の神興の紋は巴紋でした。旭社(松尾寺の金堂)の屋根にも、巴紋が使われています。巴紋は神社仏閣などで普遍的に使われた紋で、金刀比羅宮でもその伝統にのっとって、巴紋を使用したのでしょう。
巴 - Wikipedia
巴(ともえ)紋

巴紋の起源は、弓を引く時に使う鞆(とも)であったとされています。

丸金紋と巴紋 鞆とは
弓を引く時に使う鞆(とも)
昔の朝廷では、古代宮中行事の追難儀礼を行っていました。方相氏という四つ目の大鬼の姿をした者が、鉾と楯を持って現れて、鉾で楯を打ったのを合図にして、一斉に桑の弓、蓬の矢、桃の枝などで塩鬼を追い払う所作をします。桑の弓や蓬の矢は、古代中国で男子出産を祝って使われた呪具で、これで天地四方を射ることにより、その子が将来に雄飛できるよう祈ったのです。
 日本でも弓矢を使った呪術は「源氏物語」夕顔の巻に出てきます。
源氏の君は、家来に怨霊を退散させるために弓の弦を鳴らさせているし、承久本『北野天神縁起』によると出産の際に物怪退散を願って弓の弦を鳴らす呪禁師が描かれています。
ここからは、弓は悪魔を追い払う呪具で、弓を引く時に使う鞆にも悪魔を追い払う力が宿ると考えられていたことが分かります。こうして、神社仏閣の屋根では巴紋の瓦が使われるようになります。

讃岐地方でも鎌倉時代になると、神社仏閣の屋根で巴紋の瓦が葺かれるようになります。

金毘羅の丸金紋
金刀比羅宮の3つの紋の由来
棕櫚葉団扇は天狗の、巳紋は神社仏閣の、それぞれ普遍的な紋でした。そのため別当松尾寺や金刀比羅宮でも、その伝統に従ってこの二つの紋を用いました。
 これに対して、金昆羅参詣みやげの九亀団扇から生まれた「丸金紋」は、金刀比羅宮を特定するオリジナルな紋です。金刀比羅宮で「丸金」が使われ出すのは、19世紀中頃の天保年間あたりからです。それより先行する頃に、九亀団扇の「丸金紋」は生まれていたことになります。

  まとめておくと
①金毘羅大権現は天狗信仰が中核だったために、シンボルマークとして天狗団扇を使っていた
②別当寺の松尾寺は、寺社の伝統として巴紋を使用した
③19世紀になって、金比羅土産として丸亀産の丸金団扇によって丸金紋は全国的な知名度を得る
④以後は、金刀比羅宮独自マークとして、丸金紋がトレードマークとなり、天狗団扇や巴紋はあまり使われなくなった。
丸金紋 虎の門金刀比羅宮
東京虎の門の金刀比羅宮の納経帳
しかし、虎の門の金刀比羅宮の納経帳には、いまでも天狗団扇が丸金紋と一緒に入れられていました。これは金毘羅信仰が天狗信仰であった痕跡かもしれません。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
  「羽床正明 丸金紋の由来 金昆羅大権現の紋について  ことひら 平成11年」



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安井金毘羅宮

京都市東山区の建仁寺の近くにある安井金毘羅宮は、今は縁切り寺として女性の人気を集めているようです。
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しかし、30年ほど前までは、縁結びと商売繁昌祈願の「藻刈舟(儲かり舟)」の絵馬に人気がありました。流行神(商品)を生み出し続けることが、寺社繁栄の秘訣であるのは、昔も今も変わりないようです。
 安井金毘羅宮はかつては「商売繁昌 + 禁酒 + 縁結び」の神とされていました。祇園という色街にある神社ですから「商売繁昌と禁酒と良縁」を売り物とすることは土地柄に合ったうまい営業スタイルです。それでは現在の「縁切り神社」は、どんな由来なのでしょうか。そこで登場するのが崇徳上皇です。崇徳上皇は、全ての縁を絶って京都帰還を願ったということから、悪縁を絶つ神社と結びつけられているようです。これは断酒の場合と同じです。酒を断つという願いから悪縁を絶へと少しスライドしただけかも知れません。。
 今回は、安井金毘羅と崇徳上皇と讃岐金毘羅大権現の関係を見ていきたいとおもいます。テキストは 「羽床正明  崇徳上皇御廟と安井金毘羅宮  ことひら53 H10年」です。
7 安井金毘羅神社jpg

 安井金毘羅宮の近くには「都をどり」の祇園歌舞練場があります。その片隅に崇徳上皇御廟があります。これは明治元年に坂出の白峰から移されたものとは別物です。それ以前からこの御廟はありました。
安井金毘羅宮と崇徳上皇のつながりを見ておきます。
 崇徳上皇は保元の乱という政争に巻き込まれ、讃岐に流され不遇の内に亡くなりますが、その怨念を晴らすために生きながら天狗になったされるようになります。この天狗信仰と安井金毘羅宮は関係があるようです。
 保元の乱に敗れ、崇徳上皇は讃岐に流されます。上皇は6年間の流人生活の後、長寛二年(1164)8月、46歳で崩御し、その亡骸は白峰寺のほとりで荼毘に付され、そこに陵が営まれて白峰御陵と呼ばれるようになります。これについては以前にお話ししましたので省略します。
『保元物語』には、次のように記されています。
 讃岐に流された崇徳上皇は「望郷の鬼」となって、髪も整えず、爪も切らず、柿色の衣と頭巾に身をつつみ、指から血を流して五部大乗経を書写した。その納経が朝廷から拒否されたことを知ると、経を机の上に積みおいて、舌の先を食い破ってその血で、「吾、この五部の大乗経を三悪道に投籠て、この大善根の力を以て、日本国を滅す大魔縁とならむ。天衆地類必ず合力給へ」という誓状を書いて、海底に投げ入れた
「此君怨念に依りて、生きながら天狗の姿にならせ給ひけるが」
ここには崇徳上皇が死後、天狗になったとする説が記されています。
7崇徳上皇天狗

これを受けて作られたのが謡曲「松山天狗」です。
謡曲「松山天狗」の舞台は,崇徳上皇が亡くなった讃岐の綾の松山(現坂出市),白峯です。崇徳上皇と親しかった西行法師が讃岐松山のご廟所を訪ねて来るところから物語は始まります。

7 崇徳上皇松山天狗
松山は草深い里でした。西行は,山風に誘われながらも御陵への道を踏み分けて行きますが,道はけわしく,生い繁げる荊は旅人の足を拒みます。そこへ一人の老翁(実は崇徳上皇の霊)が現れ「貴僧は何方より来られたか」と訊ねるのです。
西行は「拙僧は都の嵯峨の奥に庵をむすぶ西行と申す者,新院がこの讃岐に流され,程なく亡くなられたと承り,おん跡を弔い申さんと思い,これまで参上した次第。 何とぞ,松山のご廟所をお教え願いたい」と案内を乞います。
 やがて二人は「踏みも見えぬ山道の岩根を伝い,苔の下道」に足をとられながら,ようやくご陵前にたどりつきます。しかし、院崩御後わずか数年にもかかわらず,陵墓はひどく荒廃し、ご陵前には詣でる人もなければ,散華焼香の跡さえ見えません。西行は涙ながらに、院に捧げた次のような鎮魂歌を送ります。

よしや君むかしの玉の床とても叡慮をなぐさめる相模坊かからん後は何にかはせん

 老翁は「院ご存命中は都のことを思い出されてはお恨みのことが多く,伺候する者もなく,ただ白峯の相模坊に従う天狗どもがお仕えするほかは参内する者もいない」と言い,いつしか木影にその姿を消してゆきます。
 ややあって何処からともなく「いかに西行 これまで遙々下る心ざしこそ返す返すも嬉しけれ 又只今の詠歌の言葉 肝に銘じて面白さに いでいで姿を現わさん・・・・・」
との院の声。御廟しきりに鳴動して院が現れます。
院は西行との再会を喜び,「花の顔ばせたおやかに」衣の袂をひるがえし夜遊の舞楽を舞う。
こうして楽しく遊びのひと時を過ごされるが,ふと物憂い昔のことどもを思い出してか,次第に逆鱗の姿へと変わってゆきます。その姿は,あたりを払って恐ろしいまでの容相である。
  やがて吹きつのる山風に誘われるように雷鳴がとどろき,あちこちの雲間・峰間から天狗が羽を並べて翔け降りてきます。
7 崇徳上皇相模坊大権現
模坊大権現(坂出市大屋冨町)の相模坊(さがんぼう)天狗像

「そもそもこの白峯に住んで年を経る相模坊とはわが事なり さても新院は思わずもこの松山に崩御せらる 常々参内申しつつ御心を慰め申さんと 小天狗を引き連れてこの松山に随ひ奉り,逆臣の輩を悉くとりひしぎ蹴殺し仇敵を討ち平げ叡慮(天子のお気持ち)を慰め奉らん」と,ひたすら院をお慰め申しあげるのである。
 院はこの相模坊の忠節の言葉にいたく喜ばれ,ご機嫌もうるわしく次第にそのお姿を消してゆく。
そして,天狗も頭を地につけて院を拝し,やがて小天狗を引き連れて,白峯の峰々へと姿を消してゆく。
以上が謡曲「松山天狗」のあらましです。
実際に西行は白峰を訪れ、崇徳上皇の霊をなぐさめ、その後は高野の聖らしく善通寺の我拝師山に庵を構えて、3年近くも修行をおこなっています。時は、鎌倉初期になります。ここからは崇徳上皇の下に相模坊という天狗を頭に数多くの天狗達がいたことになっています。天狗=修験者(山伏)です。確かに中世の白峰には数多くの坊が立ち並び修験者の聖地であったことが史料からもうかがえます。
謡曲「松山天狗」の果たした役割は大きく、以後は崇徳上皇=天狗説 相模坊=崇徳上皇に仕える天狗という説が中世には広がりました。

安井金毘羅社と崇徳上皇御廟の関係を『讃岐国名勝図会』は、次のように記します。
京都安井崇徳天皇の御社へ参詣群集し、皆々金毘羅神と称へ祭りしによりて、天皇の御社を他の地へ移し、旧社へ更へて金毘羅神を勧請なしけるとなん。

意訳変換しておくと
京都安井崇徳天皇御社へ参詣する人たちが崇徳上皇陵を金毘羅神と呼ぶようになったので、天皇の御社を他の場所へ移して、そのの跡に安井金毘羅神社を勧請建立したという

ここからは安井金毘羅神社の現在地には、かつては崇徳上皇陵があったことが分かります。
秋里籠島の『都名所図絵』には、安井金毘羅社の祭神について次のように記されています。
奥の社は崇徳天皇、北の方金毘羅権現、南の方源三位頼政、世人おしなべて安井の金毘羅と称し、都下の詣人常に絶る事なし、崇徳帝金毘羅同一体にして、和光の塵を同じうし、擁護の明眸をたれ給ひ云云。

奥社に崇徳天皇、北に金毘羅権現、南に源三位頼政が祀られているが、京都の人たちはこれを併せて「安井の金毘羅」と呼ぶ。参拝する人々の絶えることはなく、崇徳帝と金毘羅神は同一体である。

と記され、金毘羅権現が北の方の神として新たにつくられたので、崇徳天皇の社は移転して奥の社と呼ばれるようになったことが二の書からは分かります。どちらにしても「崇徳帝=金毘羅」と人たちは思っていたようです。
「崇徳帝=金毘羅」説を決定的にしたのが、滝沢馬琴の「金毘羅大権現利生略記』です。
世俗相伝へて金毘羅は崇徳院の神霊を祭り奉るといふもそのよしなきにあらず。

と、馬琴は崇徳帝と金毘羅権現を同一とする考えに賛意を表しています。
7 崇徳上皇讃岐院眷属をして為朝を救う図
歌川国芳の浮世絵に「讃岐院眷属をして為朝を救う図」(1850年)があります。最初見たときには「神櫛王の悪魚退治」と思ってしまいました。しかし、これは滝沢馬琴の『椿説弓張月(ちんせつ ゆみはりづき)』(1806~10年刊行)の一場面を3枚続きの錦絵にしたものです。この絵の中には次の3つのシーンが同時に描き込まれています。
①為朝の妻、白縫姫(しらぬいひめ)が入水する場面(右下)
②船上の為朝が切腹するところを讃岐院の霊に遣わされた烏天狗たちが救う場面(左下)、
③為朝の嫡男昇天丸(すてまる)が巨大な鰐鮫(わにざめ)に救われる場面
ここに登場する巨大な|鰐鮫は「悪魚」ではなく主人公の息子を救う救世主として描かれています。以前にお話しした「金毘羅神=神魚」説を裏付ける絵柄です。

神櫛王の悪魚退治伝説

  また、ここでも崇徳上皇は天狗達の親分として登場します。
 『椿説弓張月』が刊行された頃は、「崇徳上皇=金毘羅大権現}であって、崇徳上皇は天狗の親分で、多くの天狗を従えているという俗信が人々に信じられるようになっていたことが、この絵の背景にはあることを押さえておきます。その上で京都では、崇徳帝御社があった所に、安井金昆羅宮がつくられたということになります。

研究者がもうひとつ、この絵の中で指摘するのは、この絵が「海難と救助」というテーマをもっていることです。
金毘羅宮の絵馬の中には、荒れ狂う海に天狗が出現して海難から救う様子を描いたものがいくつもあります。もともとの金毘羅は天狗信仰で海とは関係のなかったことは、近年の研究が明らかにしてきたことです
船絵馬 海難活動中の天狗達
海に落ちた子どもを救う天狗達(金刀比羅宮絵馬)

「海の神様 こんぴら」というイメージが定着していくのは19世紀になってからのことのようです。その中でこの絵は、金比羅と海の関わりを描いています。絵馬として奉納される海難救助図は、このあたりに起源がありそうだと研究者は考えているようです。

  今度は讃岐の金毘羅さんと天狗との関係を見ていきましょう
7 和漢三才図絵

江戸時代中期(1715年)に浪華の吉林堂から出された百科辞書の『和漢三才図絵』(巻七九)には、
相伝ふ、当山(金毘羅大権現)の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

と記されます。
また、江戸中期の国学者、天野信景著の『塩尻』には、
  讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや。

ここからは江戸中期には金毘羅宮の祭神は、僧(山伏)の姿をしていて団扇を持った天狗で、十二神将のクビラ神とはまったくちがう姿であったことが報告されています。『塩尻』に出てくる修験者の姿の木像とは、実は初代金光院主だった宥盛の姿です。観音堂の裏には威徳殿という建物があって、その中には、次のような名の入った木像がありました。
天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月
金毘羅大権現像 松尾寺
松尾寺に伝わる金毘羅大権現 蔵王権現のようにも見える

ここからは宥盛が金毘羅信仰の中に天狗信仰をとり入れ定着させた人物であったことが分かります。宥盛は修験道と天狗信仰に凝り、死後は天狗になって金毘羅宮を守ると遺言して亡くなり、観音堂のそばにまつられます。宥盛は死後、象頭山金剛坊という天狗になったとされ、金剛坊は金毘羅信仰の中心として信仰を集めるようになります。
これは白峰の崇徳上皇と相模坊の関係と似ています。
 戦国末期の金比羅の指導者となった土佐出身の宥厳やその弟弟子にあたる宥盛によって、金比羅は修験・天狗道の拠点となっていきます。宥盛は、初代金光院院主とされ、現在では奥の院に神として祀られています。
江戸前期の『天狗経』には、全国の著名な天狗がリストアップされています。
7 崇徳上皇天狗

これらが天狗信仰の拠点であったようです。その中に金毘羅宮の天狗として、象頭山金剛坊・黒眷属金毘羅坊の名前が挙げています。崇徳上皇に仕えたという相模坊もランクインされています。ここからも象頭山や白峰が天狗=修験者の拠点であったことがうかがえます。宥盛によって基礎作られた天狗拠点は、その後も発展成長していたようです。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現のもとに集まる天狗(山伏)達 別当寺金光院発行

知切光歳著『天狗の研究』は、象頭山のふたつの天狗は次のような分業体制にあったと指摘します。
①黒眷属金毘羅坊は全国各地の金毘羅信者の安全と旅人の道中安全を司る天狗
②象頭山金剛坊は、讃岐の本宮を守護する天狗
そのため②は、金比羅本山で、①は、それ以外の地方にある金毘羅社では、黒眷属金毘羅坊を祭神として祀ったとします。姿は、象頭山金剛坊は山伏姿の天狗で、黒眷属金毘羅坊は金剛坊の仲間の鳥天狗として描かれます。また、黒眷属金毘羅坊は金剛坊の家来とも考えられました。他に、象頭山趣海坊という天狗がいたようです。
この天狗は先ほどの「讃岐院眷属をして為朝を救う図」にも出てきた崇徳上皇の家来です。

文化五年(1808)の冬、幕臣の稲田喜蔵が神城騰雲から聞き取った『壺産圃雑記』という随筆集があります。その中には、騰雲は趣海坊という金毘羅の眷属の天狗の導きで天狗界を見てきたとか、金毘羅権現は讃岐に流された崇徳上皇が人間界の王になれぬので天狗界の王になろうと天に祈った結果、ついに天狗となったものだと語ったと記されています。。

金比羅には象頭山から南に伸びる尾根上に愛宕山があります。
C-23-1  象頭山12景
右が象頭山、左が愛宕山
この山がかつては信仰対象であったことは、今では忘れ去られています。しかし、この山は金毘羅さんの記録の中には何度も登場し、何らかの役割を果たしていた山であることがうかがえます。この山の頂上には愛宕山太郎坊という天狗がまつられていて、金毘羅宮の守護神とされてきたようです。愛宕系の天狗とは何者なのでしょうか?

7 崇徳上皇天狗の研究
知切光歳著『天狗の研究』は、愛宕天狗について次のように記されています。
天狗の中で、愛宕、飯綱系の天狗は、ダキニ天を祀り、白狐に跨っており、天狗を祭り通力を得んとする修験、行者の徒が、ダキニの法を修し、これを愛宕の法、または飯綱の法と呼ぶ、(以下略)

7 金刀比羅宮 愛宕天狗
愛宕天狗
とあって、狐に乗りダキニ天を祀る天狗が、愛宕・飲綱糸の天狗だとします。全国各地の金毘羅社の中には天狗を祭神ととしているところが多く、両翼をもち狐に跨る烏天狗を祀っていることが数多く報告されています。金毘羅宮は愛宕山を通じて愛宕・飯綱系の天狗と結ばれていたようです。
7 金刀比羅宮 愛宕天狗dakini
ダキニ天

以上から「崇徳上皇=天狗=金毘羅神」という考えが江戸時代には広く広がっていたことがうかがえます。ところが明治以後は、このような説は姿を消して行きます。その背景には、明治政府の進める天皇制国家建設があったようです。皇国史観に見られるように歴代天皇は神聖化されていきます。その中で天皇が天狗になったなどというのは不敬罪ものです。こうして「崇徳上皇=天狗」は葬られていくことになります。しかし、「崇徳上皇=金毘羅」説は別の形で残ります

以上をまとめると、こんなストーリーが考えられます
①江戸後期になって安井金毘羅宮などで崇徳上皇=天狗=金昆羅権現」説が広まった。
②金毘羅本社でも、この思想が受け入れられるようになる。
③明治の神仏分離で金毘羅大権現を追放して、何を祭神に迎え入れるかを考えたときに、世俗で広がっていた「金毘羅=崇徳上皇」説が採用された。
④こうして祭神の一人に崇徳上皇が迎え入れられ、明治21年には白峰神社が建立された
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

天狗の羽団扇
狂言で使われる天狗の羽団扇

近世の金比羅は、天狗信仰の中心でもあったようです。金毘羅大権現の別当金光院院主自体が、その教祖でもありました。というわけで、今回は近世の天狗信仰と金毘羅さんの関係を、団扇に着目して見ていきます。テキストは  羽床正明 天狗の羽団扇と宥盛彫像     ことひら56号(平成13年)です

天狗観は時代によって変化しています。
天狗1

平安時代は烏天狗や小天狗と呼ばれたもので、羽があり、嘴を持つ烏のようなイメージで描かれ、何かと悪さをする存在でした。そして、小物のイメージがあります。

天狗 烏天狗
烏天狗達(小天狗)と仏たち

中世には崇徳上皇のように怨霊が天狗になるとされるようになります。近世には、その中から鞍馬山で義経の守護神となったような大天狗が作り出されます。これが、結果的には天狗の社会的地位の上昇につながったようです。山伏(修験者)たちの中からも、大天狗になることを目指して修行に励む者も現れます。こうして中世初頭には天狗信仰が高まり、各地の霊山で天狗達が活動するようになります。
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金刀比羅宮奥社の断崖に懸けられた大天狗と烏天狗

 整理しておくと、天狗には2つの種類があったようです。
ひとつは最初からいた烏天狗で、背中に翼があり、これを使って空を飛びました。近世になって現れるのが大天狗で、こちらは恰幅もよく人間的に描かれるようになります。そして、帯刀し錫杖を持ち、身なりも立派です。大天狗が誕生したのは、戦国時代のことのようです。
狩野永納の「本朝画史』には、鞍馬寺所蔵の鞍馬大僧正坊図について、次のように述べています。
「(大)天狗の形は元信始めてかき出せる故、さる記もあんなるにや。(中略)太平記に、天狗の事を金の鳶などいへる事も見えたれば、古は多く天狗の顔を、鳥の如く嘴を大きく画きしなるべし、今俗人が小天拘といへる形これなり。仮面には胡徳楽のおもて、鼻大なり。また王の鼻とて神社にあるは、猿田彦の面にて、此の面、今の作りざまは天狗の仮面なり」
意訳変換しておくと
「(大)天狗の姿は(狩野)元信が始めて描き出したものである。(中略)
太平記に、天狗のことを「金の鳶」と記したものもあるので、古くは多く天狗の顔を、烏のように嘴を大きく描いていたようである。世間で「小天拘」と呼ばれているのがこれにあたる。大天狗の仮面では胡人の顔立ちのように、鼻が大きい。また「王の鼻」と呼ばれた面が神社にあるは、猿田彦のことである。この今の猿田彦の面は、天狗の仮面と同じ姿になっている」
ここからは次のようなことが分かります。
①大天狗像は狩野元信(1476~1559)が考え出した新タイプの天狗であること
②古くは烏のように嘴が大きく描かれていて、これが「小天狗」だったこと
③大天狗の姿は、猿田彦と混淆していること
狩野元信の描いた僧正坊を見てみましょう

天狗 鞍馬大僧正坊図

左に立つ少年が義経になります。義経の守護神のように描かれています。これが最初に登場した大天狗になるようです。頭巾をつけ、金剛杖を持ち、白髪をたくわえた鼻高の天狗です。何より目立つのは背中の立派な翼です。それでは、団扇はとみると・・・・ありません。確かに羽根があるのなら団扇はなくとも飛べますので、不用と云えばその方が合理的です。羽根のある大天狗に団扇はいらないはずです。ところが「大天狗像」と入れてネット検索すると出てくる写真のほとんどは「羽根 + 団扇」の両方を持っています。これをどう考えればいいのでしょうか?
天狗 大天狗

  これは、後ほど考えることにして、ここでは大天狗の登場の意味を確認しておきます。
 小天狗は、『今昔物語集』では「馬糞鳶」と呼ばれて軽視されていました。中世に能楽とともに発達した狂言の『天狗のよめどり』や『聟入天狗』等では本葉天狗や溝越天狗として登場しますが、こちらも鳶と結び付けられ下等の天狗とされていたようです。飯綱権現の信仰は各地に広まります。その中に登場する烏天狗は、火焔を背負い手には剣と索を持っていますが、狐の上に乗る姿をしていて、「下等の鳶型天狗」の姿から脱け出してはいない感じです。
その中で狩野元信が新たに大天狗を登場させることで、大天狗は鳶や烏の姿を脱して羽団扇で飛行するようになります。これは天狗信仰に「大天狗・小天狗」の併存状態を生み出し、新たな新風を巻き起こすことになります。
狩野元信が登場させたこの大天狗は、滝沢馬琴の『享雑(にまぜ)の記』に日本の天狗のモデルとして紹介されています。
馬琴は、浮世絵師の勝川春亭に指図をして、「天狗七態」を描かせています。そのうちの「国俗天狗」として紹介された姿を見てみましょう。

天狗 滝沢馬琴の『享雑(にまぜ)の記』

 ここでも鼻高で頭巾をつけ、金剛杖持ち、刀をさし、背中には立派な翼を持っています。そして、左手は見ると・・・団扇を持っています。つまり、16世紀の狩野元信から滝沢馬琴(1767~1848)の間の時代に、大天狗は団扇を持つようになったことが推察できます。この間になにがあったのでしょうか。江戸後期になると、天狗の羽団扇をめぐて天狗界では論争がおきていたようです。

天狗 平田篤胤

その頃に平田篤胤(1776~1843)は、『幽境聞書』を書いています。
これは天狗小僧寅吉を自宅に滞在させて、寅吉から直接に聞いた話をまとめたものです。その中で篤胤は、羽団扇のことについても次のようなことをあれこれと聞いています
大天狗は皆羽団扇を持っているか
羽団扇には飛行以外に使い道はあるか
羽団扇はどういう鳥の羽根でできているか
この質問に答えて天狗小僧寅吉は、大天狗は翼を捨てた代りに、手にした羽団扇を振って飛び回るようになったとその飛行術を実しやかに言い立てています。ここからはこの時期に天狗界の大天狗は、翼を捨てて団扇で飛ぶという方法に代わったことが分かります。
そんな天狗をめぐる争論が論争が起きていた頃のことです。
平賀源内(1726~79年)が、天狗の髑髏(どくろ)について鑑定を依頼されます。
天狗 『天狗髑髏鑑定縁起

  源内は、その経験を『天狗髑髏鑑定縁起』としてまとめて、次のように述べています。
夫れ和俗の天狗と称するものは、全く魑魅魍魎を指すなれども、定まれる形あるべきもあらず。然るに今世に天狗を描くに、鼻高きは心の高慢鼻にあらはるるを標して大天狗の形とし、又、嘴の長きは、駄口を利きて差出たがる木の葉天狗、溝飛天狗の形状なり。翅ありて草軽をはくは、飛びもしつ歩行もする自由にかたどる。杉の梢に住居すれども、店賃を出さざるは横着者なり。
羽団扇は物いりをいとふ吝薔(りんしょく)に壁す。これ皆画工の思ひ付きにて、実に此の如き物あるにはあらず。
意訳変換しておくと
 天狗と称するものは、すべての魑魅魍魎を指すもので、決まった姿があるはずもない。ところが、昨今の天狗を描く絵には、鼻が高いのは心の高慢が鼻に出ているのだと称して、大天狗の姿とを描く。また嘴の長いのは、無駄口をきいて出しゃばりたがる木の葉天狗や溝飛天狗の姿だという。羽根があって草軽を履くのは、飛びも出来るし、歩行もすることもできることを示している。杉の梢に住居を構えても、家賃を出さないのは横着者だ。羽団扇は物いりを嫌う吝薔(りんしょく)から来ているなど、あげればきりがない。こんなことは全部画家の思ひ付きで、空言で信じるに値しない。彼らのとっては商売のタネにしかすぎない。

源内らしい天下無法ぶりで、羽団扇も含めて天狗に関するものを茶化して、明快に否定しています。この時に持ち込まれた天狗の髑髏は、源内の門人の大場豊水が芝愛宕山の門前を流れる桜川の河原でひろって持ってきたものでした。その顛末を明かすと共に、天狗の髑髏を否定しています。
  天狗についての考察というよりも、天狗に関する諸説を題材にして、本草学・医学のあり方を寓話化した批評文でしょうか。「天狗髑髏圖」はクジラ類の頭骨・上顎を下から見たもの。「ぼうごる すとろいす」はダチョウ(vogel struis、struisvogel、vogelは鳥)、「うにかうる」はユニコーンのことだそうです。
  合理主義者でありながら「天狗などいない」の一言で、「あっしにはかかわりのないことで」とシニカルに済ませられないところが源内らしいところなのでしょう。しかし、一方では大天狗の羽根団扇をめぐっては、各宗派で争論があり、それぞれ独自の道を歩むところも出てきたようです。
天狗 鞍馬

そのひとつが鞍馬寺です。ここは「鞍馬の天狗」で当時から有名でした。
この寺の「鞍馬山曼茶羅」には、中央に昆沙門天を大きく描かれ、その下に配偶神の吉祥天とその子善弐子(ぜんにし)を配します。毘沙門天の両脇には毘沙門天の使わしめとされる百足(むかで)を描かれます。そして毘沙門天の上方に描かれているのが僧正坊と春族の鳥天狗です。僧正坊は頭に小さな頭巾をいただき、袈裟を着けた僧侶の身なりで、手には小さな棕櫚葉団扇を持っています。しかし、背中に翼はありません。「鞍馬山曼茶羅」は、翼を持たない大天狗が羽団扇を使って飛行するという「新思想」から生まれたニュータイプの天狗姿と云えます。つまり、大天狗に翼は要らないという流派になります。
 しかし、多くの天狗信仰集団は「羽団扇 + 翼」を選択したようです。つまり翼を持った上に団扇ももつという姿です。鞍馬派は少数派だったようです。
以上をまとめておくと、鼻高の大天狗は、戦国時代の頃に狩野元信が考え出したものである。これ以降は大天狗と小天狗が並存するようになった。そして、江戸後半になると大天狗は羽団扇をもつようになる。
それでは、羽根団扇をも大天狗はどこから現れてくるのでしょうか?
 天狗経
天狗経
『天狗経』は密教系の俗書『万徳集』に出てくる偽経です。
その冒頭に「南無大天狗小天狗十二八天狗宇摩那天狗数万騎天狩先づ大天狩」と述べた後で、名が知られていた大天狗48の名を挙げています。この中には「黒眷属 金毘羅坊」「象頭山 金剛坊」の名前も見えます。この「黒眷属 金毘羅坊」「象頭山 金剛坊」で、羽団扇をもつ大天狗が最初に姿を表したのではないかという仮説を羽床氏は出します。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現

金毘羅大権現と天狗達(別当金光院)

それは金毘羅大権現の初代院主・金剛坊宥盛の木像に始まったとします。
  江戸時代に金昆羅大権現は天狗信仰で栄えたことは以前にお話ししました。金毘羅大権現として祀られたのは、黒眷族金毘羅坊・象頭山金剛坊の二天狗であったことも天狗経にあった通りです。当時の人々は金毘羅大権現を天狗の山として見ていました。天狗面を背負った行者や信者が面を納めに金毘羅大権現を目指している姿がいくつかの浮世絵には描かれています。
天狗面を背負う行者
金毘羅行者 天狗面の貢納に参拝する姿

近世初頭の小松庄の松尾寺周辺の状況をコンパクトに記して起きます。
 松尾寺は金毘羅大権現の別当寺となつて、金毘羅大権現や三十番神社を祀っていました。三十番神社は暦応年中(1338~)に、甲斐出身の日蓮宗信徒、秋山家が建てたものでした。これについては、秋山家文書の中から寄進の記録が近年報告されています。
 一方、松尾寺は1570年頃に長尾大隅守の一族出身の宥雅が、一族の支援を受けて建立したお寺です。善通寺で修行した宥雅は、師から宥の字をもらつて宥雅と名乗り、善通寺の末寺の大麻山の称名院に入ります。松尾山の山麓に、称明院はありました。松尾山の山頂近くにある屏風岩の下には、滝寺もありましたが、この頃にはすでに廃絶していました。称名院に入った宥雅はここを拠点として、山腹にあつた三十番神社の近くに、廃絶していた滝寺の復興も込めて、新たに松尾寺を創建します。松尾寺の中心は観音堂で、現在の本堂付近に建立されます。

天狗面2カラー
金毘羅大権現に奉納された天狗面

 さらに宥雅は、元亀四年(1573)に、観音堂へ登る石段のかたわらに、金比羅堂を立てます。
この堂に安置されたのは金昆羅王赤如神を祭神とする薬師如来でした。しかし、長宗我部氏の侵攻で、宥雅は寺を捨てて堺に亡命を余儀なくされます。松尾寺には長宗我部元親の信頼の厚かった修験者の南光院が入って、宥厳と名乗り、讃岐平定の鎮守社の役割を担うことになります。宥厳のあとを、高野山から帰ってきた宥盛が継ぎます。宥厳・宥盛によつて、松尾寺は修験道化されていきます。こうして金毘羅信仰の中心である金毘羅堂の祭神の金毘羅王赤如神は、修験道化によって黒眷族金毘羅坊という天狗におきかえられます。
天狗面を背負う山伏 浮世絵

 初代金光院院主とされている宥盛の業績には大きい物があります。
その一つが松尾寺を修験道の拠点としたことです。彼は天狗信仰に凝り、死後は天狗として転生できるよう願って、次のような文字を自らに模した木像に掘り込んでいます。
「入天狗道沙門金剛坊形像、当山中興大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月」
という文言を彫り込みます。ここには慶長十一年(1606)10月と記されています。そして翌々年に亡くなっています。
 天狗になりたいと願ったのは、天狗が不老不死の生死を超越した存在とされていたからだと研究者は考えているようです。

天狗 烏天狗 絵入り印刷掛軸
金毘羅大権現と天狗達

『源平盛衰記』巻八には、次のように記されています。
「諸の智者学匠の、無道心にして騎慢の甚だしきなりこ其の無道心の智者の死すれば、必ず天魔と中す鬼に成り候。其の頭は天狗、身体は人にて左右の堂(生ひたり。前後百歳の事を悟つて通力あり。虚空を飛ぶこと隼の如し、仏法者なるが故に地獄には堕ちず。無道心なる故往生もせず゛必ず死ぬれば天狗道に堕すといへり。末世の僧皆無道心にして胎慢あるが故に、十が八九は必ず天魔にて、八宗の智者は皆天魔となるが故に、これをば天狗と申すなり」
象頭山天狗 飯綱

天狗は地獄にも堕ちず、往生もしない、生死を超越した不老不死の存在であると説かれています。天狗が生死を超えた不老不死の存在であったから宥盛は死後も天狗となって、松尾寺を永代にわたって守護しようと考えたのでしょう。この宥盛木像が、象頭山金剛坊という天狗として祀られることになります。
松尾寺の金毘羅大権現像
金毘羅大権現像(松尾寺)
木像はどんな姿をしていたのでしょうか?
木像を見た江戸中期の国学者、天野信景は『塩尻』に次のように記します。
讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや

意訳変換しておくと
讃州象頭山は金毘羅を祀る山である。その像は座しいて三尺余で僧形である。すさまじき面貌で、修験者のような頭巾をかぶり、手には羽団扇を持っている。薬師十二将の金毘羅像とは、まったく異なるものであった

「金毘羅山は海の神様で、クンピーラを祀る」というのが、当時の金毘羅大権現の藩に提出した公式見解でした。しかし、実際に祀られていたのは、初代院主宥盛(修験名金剛院)が天狗となった姿だったようです。当時の金毘羅大権現は天狗信仰が中心だったことがうかがえます。

 この木像はどんな霊験があるとされていたのでしょうか?
江戸時代中期の百科辞書である『和漢三才図会』(1715年に、浪華の吉林堂より刊行)には、次のように記されています。
相伝ふ、当山の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

ここからは江戸時代中期には金毘羅大権現は天狗信仰で栄えていたことが分かります。その中心は宥盛木像であって、これを天狗として祀っていたのです。天狗として祀られた宥盛木像の手には、羽団扇がにぎられていました。これは「羽団扇をもつ天狗」としては、一番古いものになるようです。ここから羽床氏は「宥盛のもつ羽団扇が、天狗が羽団扇を使って空を飛ぶという伝説のルーツ」という仮説を提示するのです。
丸亀はうどんだけじゃない!日本一のうちわの町でマイうちわ作り│観光・旅行ガイド - ぐるたび
「丸金」の丸亀団扇

羽団扇をもつ天狗姿が全国にどのように広がっていったのでしょうか?

天明年間(1781~9)の頃、豊前の中津藩と丸亀藩の江戸屋敷がとなり合っていました。そのため江戸の留守居役瀬山重嘉は、中津藩の家中より団扇づくりを習って、藩士の副業として奨励します。以来、丸亀の団扇づくりは盛んとなったと伝えられます。丸亀―大阪間を「金毘羅羅舟」が結び、丸亀はその寄港地として繁栄するようになると、丸亀団扇は金毘羅参詣のみやげとして引っ張りだこになります。
 金毘羅大権現の天狗の手には、羽団扇がにぎられトレードマークになっていました。それが金昆羅参詣のみやげとして「丸金」団扇が全国に知られるようになります。それと、同じ時期に。天狗は羽団扇で飛行するという新しい「思想」が広まったのではないかと云うのです。
金毘羅大権現2
金毘羅大権現の足下に仕える天狗達
 
天狗が羽団扇で飛行するという「新思想」は、宥盛の象頭山金剛坊木像がもとになり、金昆羅参詣みやげの丸亀団扇とともに全国に広められたという説です。それを受けいれた富士宮本宮浅間神社の社紋は棕櫚(しゅろ)葉でした。そのためもともとは天狗の団扇は鷹羽団扇だったのが、棕櫚葉団扇が天狗の持物とされるようになったとも推測します。

  富士山を誉めるな。 - オセンタルカの太陽帝国
富士宮本宮浅間神社の社紋

  以上をまとめておくと
①古代の天狗は小天狗(烏天狗)だけで、羽根があって空を飛ぶ悪さ物というイメージであった。
②近世になると大天狗が登場し、天狗の「社会的地位の向上」がもたらされる
③大天狗が羽団扇を持って登場する姿は、金毘羅大権現の金剛坊(宥盛)の木像に由来するのではないか
④金毘羅土産の丸亀団扇と金剛木像が結びつけられて大天狗姿として全国に広がったのではないかい。
天狗の団扇

少し想像力が羽ばたきすぎているような気もしますが、魅力的な説です。特に、天狗信仰の拠点とされている金毘羅と、当時の金剛坊(宥盛)を関連づけて説明した文章には出会ったことがなかったので興味深く読ませてもらいました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
羽床正明 天狗の羽団扇と宥盛彫像    ことひら56号(平成13年)

前回は金毘羅神を江戸で広げたのは山伏(天狗)達ではなかったのかという話でした。今回はそれをもう少し進めて、山伏達はどのように流行神として金毘羅神をプロモートしたのかを見ていきたいと思います。
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まず江戸っ子たちの「信仰」について見ておきましょう。
 江戸幕府は、中世以来絶大な力を持っていた寺社勢力を押さえ込む政策を着々と進めます。その結果、お寺は幕府からの保護を受ける代わりに、民衆を支配するための下部機関(寺請け)となってしまいます。民衆側からするとお寺の敷居は、高くなってしまいます。そのため寺院は、民衆信仰の受け皿として機能しなくなります。一方、民衆は 古道具屋の仏像ですら信仰するくらい新しい救いの神仏を渇望していました。そこに、流行神(はやりがみ)が江戸で数多く登場する背景があるようです。

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江戸っ子達は「現世利益」を目的に神社仏閣にお祈りしています。
 その際に、本尊だけでは安心・満足できずに、様々な神仏を同時に拝んでいくというのが庶民の流儀でした。これは、現在の私たちにもつながっています。神社・仏閣側でも、人々の要求に応じて舞台を整えます。氏神様は先祖崇拝が主で、病気治癒や悪霊退散などの現世利益の願いには効能を持たないと考えるようになった庶民に対して、新たに「流行神」を勧進し「分業体制」を整えます。例えばお稲荷さんです。各地域の神社の境内に行くと、本殿に向かう参道沿いに稲荷などの新参の神々が祀られているのは、そんな事情があるようです。地神の氏神さまは、それを拒否せず境内に新参の流行神を迎え入れます。寺院の場合も、鬼子母神やお地蔵さんなどの機能別の御利益を説く仏さまを境内に迎えるようになります。
境内には「効能」に応じた仏やいろいろなお堂が立ち並ぶようになります。
このような「個人祈願の神仏の多様化」が見られるようになるのは江戸時代の文化・文政期のようです。つまり「神仏が流行するという現象」、言い換えれば「人々の願いに応じて神仏が生まれ流行する」という現象が18世紀後半に生まれるのです。それを研究者は「流行神(はやりがみ)」と呼んでいるようです。それを流行らせたのが「山伏・聖者・行者・巫女」といったプロモーターだったようです。
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元禄から百年間の流行神の栄枯盛衰をつづった史料を見ておきましょう。
百年前世上薬師仏尊敬いたし、常高寺の下り途の薬師、今道町寅薬師有、殊の外参詣多くはやらせ、上の山観音仏谷より出て薬師仏参り薄く、上の山繁昌也、夫より熱村七面明神造立せしめ参詣夥鋪、四十年来紀州吉野山上参りはやり行者講私り、毎七月山伏姿と成山上いたし、俗にて何院、何僧都と宮をさつかり異鉢を好む、
 是もそろそろ薄く成、三十年此かた妙興寺二王諸人尊信甚し、又本境寺立像の祖師、常然寺元三大師なと、近年地蔵、観音の事いふへくもなくさかんなり、西国巡礼に中る事、隣遊びに異ならす、十年此かた讃州金比羅権現へ参詣年々多く成る。
意訳変換しておくと
百年前には、薬師仏が信仰を集め、常高寺の下り途の薬師や、今道町の寅薬師などが、殊の外参詣者が多かった。ところが上の山の観音仏が登場すると、薬師参りは参拝者が少なくなり、上の山が繁昌するようになった。さらに熱村の七面明神が造立されると参詣が多くなり、四十年前からは紀州吉野山参りが流行りとなり行者講が組織され、七月には山伏姿で山上し、俗に何院、何僧都を授かり、異鉢を好むようになった。それもそろそろ下火になると、三十年前からは妙興寺の二王への参拝が増えた。また本境寺立像の祖師、常然寺の元三大師なと、近年地蔵、観音さまへの信仰も盛んになった。西国巡礼に赴くものの中には、十年ほど前からついでに讃州金比羅権現へ参拝するものも多くなっている。
ここには元禄時代から百年間の「流行神」の移り変わりが辿られています。
「世上薬師仏 → 上の山観音 → 熱村七面明神 →紀州吉野のはやり行者講→ 妙興寺 → 西国巡礼 → 金毘羅大権現」
と神様の流行があっることをふり還ります。
ちなみに、金毘羅神の江戸における広がりも「十年此かた讃州金比羅権現へ参詣年々多く成る」ことから、元禄から百年後の19世紀初頭前後が江戸における金毘羅信仰高揚の始まりであったことが裏付けられます。
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流行神の出現を 弘法清水伝説の場合を見てみましょう
 宝暦六年に下総国古河にて、御手洗の石を掘ると弘法大師の霊水が出てきた。盲人、いざりはこの水に触れると眼があいたり腰が立つたという。この水に手拭を浸すと梵字が現われたりして、さまざまの奇蹟があった。
そこで江戸より参詣の者夥しく、参詣者は、竹の筒に霊水を入れて持ち帰る、道中はそのため群集で大変混雑していたという。そもそもこのように流行したのは、ある出家がこの地を掘ってみよといったので、旱速掘ったらば、清水が湧き出てきたのだという。世間では石に目が出たと噂されて流行したと伝えられている。(喜田遊順『親子草』)
 これは四国霊場のお寺によくある弘法清水伝説と同じ内容です。出家(僧)の言葉で石から清水が湧き出したことから、霊験があると巷間に伝えられて流行りだしたといいます。
流行神の登場の仕方には次のようなパターンがあります。
    ①最初に奇跡・奇瑞のようなものが現れる。
    ②たとえば予知夢、光球が飛来する、神仏増が漂着したり掘り出される等。
    ③続いて山伏・祈祷し・瞽女続いて神がかりがあったり、霊験を説く縁起話などが宣伝される。
    こうして流行神が生み出されていきます。 それを宣伝していくのが修験者や寺院でした。流行神の出現・流布には、山伏や祈祷師などがプロモーターとして関わっていることが多いのです。

修験者(行者・山伏)がメシアになった例を見てみましょう。
彼らはいろいろな呪法を行使して祈祷を行ない、一般民衆の帰依を受けることが多かったようです。霊山の行場で修行を経て、山伏が、ふたたび江戸に帰り民衆に接します。その際の荒々しい活力は、人々に霊験あらたかで「救済」の予感を感じさせます。そういった系譜を引く行者たちは、次のように生身の姿で人々に礼拝されることがありました。
 正徳の比、単誓・澄禅といへる両上人有、浄家の律師にて、いづれも生れながら成仏の果を得たる人なり、澄禅上人は俗成しとき、近在の日野と云町に住居ありしが、そこにて出家して、専修念仏の行人となり、後は駿河の富士山にこもりて、八年の間勤修怠らず生身の弥陀の来迎ををがみし人也、八年の後富士山より近江へ飛帰りて、同所平子と云山中に胆られたり、

単誓上人
もいづくの人たるをしらず、是は佐渡の国に渡りて、かしこのだんどくせんといふ山中の窟にこもり、千日修行してみだの来迎を拝れけるとぞ、その時窟の中ことぐく金色の浄土に変瑞相様々成し事、木像にて塔の峰の宝蔵に収めあり、
此両上人のちに京都東風谷と云所に住して知音と成往来殊に密也しとぞ、単誓上人は其後相州箱根の山中、塔の峯に一宇をひらきて、往生の地とせられ、終にかしこにて臨終を遂られける。澄禅上人の終はいかん有けん聞もらす、東風谷の庵室をば、遺命にて焼払けるとぞ、共にかしこきひじりにて、存命の内種々奇特多かりし事は、人口に残りて記にいとまあらずといふ
(『譚海』五)
 ここに登場する単誓・澄禅の二行者は、山岳で厳しい修行を積み、生身の弥陀の来迎を拝んだり、山中の窟を金色の浄土に変ぜしめたりする奇蹟を世に示す霊力を持つようになります。いわば「生れながら成仏の果を得たる人」でした。かれらの出現は、まさに民衆にとってはメシア的な存在で、信仰対象となったのです。このように修験者(山伏)の中には、「生き神様」として民衆の信仰を集める人もいたことが分かります。


 
一方、山伏たちは、江戸幕府にとってはずいぷんと目障りの存在だったようです。
このことは、寛文年間の次の町触れの禁令の中にもうかがうことができます.
 一、町中山伏、行人之かんはん並にほんてん、自今以後、出し置申間敷事
 一、出家、山伏、行人、願人宿札は不苦候間、宿札はり置可申事
 一、出家、山伏、行人、願人仏壇構候儀無用之由、最前モ相触候通、違背仕間敷候、
 一、町中ニテ諸出家共法談説候儀、無用二可仕事
 一、町中にて念仏講題目講出家並に同行とも寄合仕間敷事
 この禁令からは、山伏、行人たち宗教活動に大きな規制がかけられていることが分かります。一方では、こうした町触れが再三再四出されていることは、民衆が行者たちに祈祷を頼んだりして、彼らを日常的に「活用」していたことも分かります。山伏たちは、寺院に直接支配されない民間信仰の指導者だったのです.
  このような中に、天狗面を背負って金毘羅山からやって来た山伏達の姿もあったのではないでしょうか。四国金毘羅山で金光院や多門院の修験道修行を受けた弟子達が江戸でどんな活動を行ったかは、今後の課題となります。
DSC05967
  江戸庶民の流行神信仰リストとその願掛けの御供えは? 
因幡町庚申堂にはを備よ
  赤坂榎坂の榎に歯の願を掛け楊枝を備ふ
  小石川源覚寺閻魔王に萄罰を備よ
  内藤新宿正受院の奪衣婆王には綿を備ふ
  駒込正行寺内覚宝院霊像にはに蕃根を添備ふ
  浅草鳥越甚内橋に廬の願を掛け甘酒を備よ
  谷中笠森稲荷は願を掛る時先土の団子を備よ
  大願成就の特に米の団子を備ふ
  小石川牛犬神後の牛石塩を備ふ
  代官町往還にある石にも塩を備よ
  所々日蓮宗の寺院にある浄行菩薩の像に願を掛る者は水にて洗よ
芝金地院塔中二玄庵の問魔王には煎豆と茶を備ふ 此別当は甚羨し 我聯として煎豆を好む事甚し 身のすぐれざる時も之を食すれば朧す
四谷鮫ヶ橋の傍へ打し杭を紙につつみて水引を掛けてあり、これ何の願ひなるや末だ知らず、後日所の者に問はん
 永代橋には、歯の痛みを治せんと、錐大明神へ願をかけ、ちいさき錐を水中に納めん              『かす札のこと下』
文化文政期ごろの江戸庶民の願掛けリストと、その時のお供え物が一覧表になっています。このうち、地蔵、閻魔、鬼王、奪衣婆、三途川老婆、浄行菩薩などは、寺院の境内にある持仏の一つであり、どれも「粉飾した霊験譚」をつけられて、宣伝された流行神ばかりです。同時に、どんな願をかけているのかを見ると「病気平癒」を祈っているのが多いようです。
 その中でもっとも多かっただのは、眼病でした。
よく知られた江戸の眼病の神は、市谷八幡の境内に祀られていた地主神の「茶の木稲荷」でした。『江戸名所花暦』には、
表門鳥居の内左のかたに、茶の木稲荷と称するあり、俗説に当山に由狐あり、あやまって茶の木にて目を突きたる故に茶を忌むといへり、此神の氏子三ヶ日今以て茶をのまず、又眼をわづらふもの一七日二七日茶をたちて願ひぬれば、すみやかに験ありといふ(中略)
と記され、約一週間茶断ちして祈願すれば、眼病は平癒するといわれていました。

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 歯病も眼病と並んで霊験の対象となっていました。
 歯の神として、江戸で名高かっだのは、おさんの方です。西久保かわらけ町の善長寺に祀られた霊神の一つで、寺の本堂で楊枝を借りて、おさんの方に祈願すると痛が治るとされ、楊枝を求めてきて、おさんの方に納めたようです。
 おさんの方は、『海録』によると、備後国福山城主水野日向守勝成の奥方珊といわれます。彼女は一生、歯痛に苦しみ、臨終の時に誓言して、
「我に祈らば応験あるべし」
と言い残したと伝わります。寛永十一(1634)年に流行だしたと史料に残っています。
このリストを見れば、まさに現世利益の「病気治癒」の神々ばかりが並んでいるのが分かります。

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金毘羅神は「海の安全」の神様といわれ始めます
しかし、この時代に「海の神様」というキャッチコピーでは、江戸っ子には受けいれられなかったと私は思います。金毘羅神はこの時期は「天狗神」として、「病気平癒」などの加持祈祷を担当していたのではないでしょうか。それを担当していたのは山伏達たちだった思うのです。

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