瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金刀比羅宮の不動明王

金光院護摩札 粟島安田屋4
廻船問屋安田屋の金光院護摩札

金光院護摩札 粟島安田屋3
廻船問屋安田屋の一番古い金光院護摩札(寛政7年)
前回は、粟島の廻船問屋安田屋に残された護摩札について、つぎのようにまとめました。
①18世紀後半頃から粟島の安田屋は、3隻の船を持って廻船問屋を営んでいた。
②その船は、瀬戸内海だけでなく日本海や九州北部にも出向き交易活動を展開した。
③安田家は、船の守護のために近隣の「海の神様」とされる社寺に参拝し、木札を授かり持ち船に安置した。
④それは正月と6月前後の年2回行われ、その都度、古い木札と取り替えた。
⑤古い木札は蔵の天井の梁に挟んで保存したので、数十枚分が残った。
⑥木札の大部分は、金比羅金光院のものであるが、その他に粟島の寺社のものや、石鎚山の前神寺のものなども含まれている。

安田家の護摩札を「尊崇対象」で分類すると次のようになります。
不動明王 61点
普賢菩薩   1点、
地蔵大権現    1点、
日天尊   1点
般若経転読   1点、
大乃御柱・地乃御柱1点
大物主命・崇徳帝 1点
大々神楽   1点
祈祷内容で分類すると次の通りです。
海上安全 50点
船中安全  9点
渡海安全  1点
家内安全  3点
願望成就  1点
諸願成就  2点
所願成就  2点
当病平癒  3点
疱鷹如意  1点
金毘羅新造1点
海の平穏についての祈願が60点で全体の約9割を占めます。「当病平癒」や「疱蒼如意」といった変則的な析願がなけれは、この割合はもっと高いものになります。一番最後の「金毘羅新造」というのは、新造船「金比羅丸」の海上安全・船中息災延命の祈願のようです。新造船の名前も「金比羅丸」です。このあたりが廻船問屋らしいところとしておきます。

粟島 廻船問屋の神棚2 2019年瀬戸芸会場
粟島の廻船問屋の旧家の神棚
 直島のタイ・サワラ網漁の網元であった織田家の110点の祈祷札と比較して見ましょう。
①明治7年から明治末年(1874~1912年)までのものが42件、大正期のものが17件、昭和3年のものが一件。6割以上の祈祷札については祈願年が記載なし。
②祈願内容については、豊漁に関する「漁猟潤澤」「漁業繁榮」「漁業守護」等が117点で全体の6割
③「意願固満」「如意回満」「所願園満」等の諸願成就系統が17点
④「家内安全」「家運長久」等が17点
⑤「海上安全」「船中安全」等が5点、
⑥「武運長久」等が4点
ここからは「海上安全」よりも「大漁満足」に重点を置いた祈願が行われていたことが読み取れます。
安田家が廻船問屋、織田家は網元で立場が異なります。そのため信仰対象は同じでも、祈願内容はちがっています。安田家は海上安穏、漁民は「豊漁」です。同じ海に働く者でも、商いと漁では祈りの内容が違うのが面白い所です。網元の織田家の方が自然条件や運に大きく左右されるので、祈願内容を並列したものが多いと研究者は指摘します。織田家では祈願銘が二つ並立した札もあります。また、織田家の祈祷の時期は正月ではなく、3~4月だけです。これは鯛網開始にあわせて参拝祈願が行われたためのようです。

護摩供養の作法は

それでは安田家や織田池の護摩札は、金毘羅大権現のどこで供養されていたのでしょうか?

元禄期の金毘羅伽藍図


上の元禄期の金毘羅伽藍図を見ると、本社や観音堂(本堂)附近に護摩堂は見えません。よく見ると金光院の境内の中に護摩堂はあります。幕末に書かれた讃岐国名勝図会を見てみましょう。

金光院の護摩堂・阿弥陀堂
金光院の護摩堂と阿弥陀堂
 金光院の黒門から入った所に護摩堂が描かれています。これが護摩札の供養が行われていた所になるようです。金光院の金堂(現旭社)には、金毘羅大権現の権化である丈六の薬師如来坐像が安置されていました。これは現在の善通寺の東塔の薬師像と同規模なものです。薬師如来は菩薩の時に十一の大願を発し、それが現世利益信仰の根本とされます。その権化が不動明王です。
 文化年間(1804~18)に書かれた『金毘羅山名所図会』の護摩堂の項には、次のように記されています。
(前略)此所にて、天下泰平五穀成就、参詣の諸人請願成就のため、又御守開眼として金光院の院主長日の護摩を修る事、元旦より除夜にいたる迄たゆる事なし(後略)

意訳すると
護摩堂では、天下泰平・五穀成就、参詣者の請願成就のため、又御守開眼として、護摩祈願が行われており、元旦から12月の除夜まで、絶えることがない。(後略)

 ここからは護摩堂では、連日護摩が焚かれたことが分かります。そのため、護摩堂のことを長日護摩堂とも呼んだと云います。ここからも金毘羅大権現が真言密教の仏閣で、修験者の僧侶の活動が日常的に護摩祈祷という形で行われていたことが分かります。 もっとも、この不動明王は最初から護摩堂の本尊ではなかったようです。
松原秀明「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇』の明暦元年(1655)の項には、次のように記されています。
「従来の根津入道作 護摩堂本尊を廃し、伝智証大師作不動尊像にかえる」

護摩堂は、慶長9年(1604)に建立されていますが、お堂と一緒につくられた不動さんがいたようです。ところが、次第に護摩祈祷に対する人気・需要が高まります。そこで、より優れたものを探させます。その結果、明暦元年(1655)に、京都の仏師が比叡山にあった不動明王を譲り受け、それを以前からあった本尊にかえて安置したのです。それが現在の宝物館の不動像になります。

不動明王3


金光院護摩堂の不動明王 (金刀比羅宮宝物館蔵)
護摩堂というのは、ここで加持祈祷されたお札が参拝客に配布されます。つまり、金毘羅大権現の宗教活動の中心的な場になります。そこに「伝智証大師作不動尊像」が迎え入れられたのです。それは、初代高松藩主松平頼重による伽藍整備の一環だったと私は考えています。増える参拝客・護摩木札を求める参拝客の増大に対応して、相応しい不動明王が迎えられたとしておきます。安田家や織田家の金光院護摩札は、この不動明王に祈祷した後に授けられたものになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「綾野智子 廻船問屋と海上安全の護摩札    粟島旧廻船間屋「安田屋」に伝わる信仰資料 民具集積21号 2019年 四国民具研究会」
関連記事

 金光院の公式文書で初代院主とされる宥盛は、高野山で学び山岳修験を積んだ真言修験者でもありました。彼は「弘法大師信仰 + 高野念仏聖 + 天狗信仰の修験者」などの各信仰を持っていました。そのためその後の金光院には修験道的な要素が色濃く残ることになります。例えば金毘羅大権現時代には、お札は金光院の護摩堂で修験者が祈祷したものが参拝者に渡されていました。そして、護摩堂には、本尊として不道明王が祀られることになります。不道明王は修験者の守護神ともされ、深い関係にありました。修験の流れを汲む金光院で不動明王が大切にされたのには、こんな背景があるようです。そのため金刀比羅宮には不動明王の絵画がいくつも伝来しています。今回は金刀比羅宮の不動さまの絵画を見ていくことにします。テキストは、「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画)」です。

不動明王にはいくつかのパターン図柄がありますが、まず円心(えんじん)様の不動明王二童子像を見ておきましょう。
円信様式 富豪明王 嵯峨寺

円心は正確には延深(えんじん)という名の絵仏師て、11世紀中頃に活動したとされます。円心様の不動の特徴は、次の二点です。
①海中の岩座に立つ
②剣を持つ右腕は肘を大きく横に張り出し、髪は巻き毛でフサフサと豊かである
それでは次に金刀比羅宮の「不動明王像 伝巨勢金岡筆(室町時代)」を見ておきましょう。
26不動明王
       金刀比羅宮の「不動明王像 伝巨勢金岡筆」

①円心の不動は寸胴で武骨な力強さを見せるのに対して、金刀比羅宮図像は、比較的伸びやかな肢体で華麗な印象を与える。
②金刀比羅宮像の火炎は、緩やかに波打ちながら上方へすらりとした曲線を描き、細く枝分かれした炎の先端は繊細なゆらめきを見せる。
③不動の肉身も青黒い体の要所に照り隈が施され、ぼってりとした筋肉の盛り上がりが感じられる。
④左の衿羯羅(こんがら)童子の顔貌部や肉体は、補筆が多く加えられている
⑤右の制多迦(せいたか)竜子の方は、当初の状態がよく残っていて、肉身を描く線も緩いながらも柔らかな抑揚を示しており、丸みを帯びた童子らしい肉体を巧みに描写している
 それらを勘案してみると、金刀比羅宮像は14世紀の後半の室町時代の者と研究者は判断します。

金刀比羅宮のもうひとつの不動明王(血不動)を見ておきましょう。
「血不動」と呼ばれている不動さまですが、もともとは「黄不動」(黄色は本来金色)を描いたもので、「血不動の通称は、黄不動の転訛」と研究者は指摘します。黄不動は、讃岐出身の智証大師(円珍:814~891)が感得した不動明王像とされ「天台宗延暦寺座主円珍伝」には、次のように記されています。

承和5年(838年)冬の昼、石龕で座禅をしていた円珍の目の前に忽然と金人が現れ、自分の姿を描いて懇ろに帰仰するよう勧めた(「帰依するならば汝を守護する」)。円珍が何者かと問うと、自分は金色不動明王で、和尚を愛するがゆえに常にその身を守っていると答えた。その姿は「魁偉奇妙、威光熾盛」で手に刀剣をとり、足は虚空を踏んでいた。円珍はこの体験が印象に残ったので、その姿を画工に命じて写させた

智証大師の描かせた原本は園城寺に秘仏として伝えられています。しかし、霊験ある像として広く信仰されたために、下の曼殊院本を筆頭に転写本が案外多く残っているようです。
絹本著色不動明王像(国宝、曼殊院所蔵)。平安時代後期(12世紀)の作で、黄不動の模写像としては最古例[1]。
不動明王像(国宝曼殊院所蔵) 平安時代後期(12世紀) 黄不動の模写像としては最古例

圓城寺像の古い模写である蔓殊院の黄不動さまを研究者は次のように評します。
①肉身は白色に透明な黄色をかけ、腹部は膨らみを表すために暈しをかけている。
②太めの硬質な線で輪郭を適確に描き、その色料は珍しく朱と墨を混ぜている。
③かっと見開いた両眼の瞳には金泥が注され、また渦巻状の髪も金泥を用いている。
④着衣文様は彩色のみで、院政期仏画にしては珍しく截金は使用していない。
⑤園城寺の原本と比べるとプロポーションが洗練されて筋骨隆々の成人体躯となっていたり、岩座が描き加えられている。
それでは金刀比羅宮の「血不動(黄不動)」を見ていくことにします。

21 不動明王(血不動)(伝円珍筆)
    不動明王(血不動)伝円珍筆 室町時代 (金刀比羅宮蔵)

絹の傷みがひどく不動さまの姿はかすかにしか見えません。まるで「闇夜の烏」のようです。まず、上から見てく行くと忿怒の顔が見えて来ます。
「不動の肉身は、肥痩のある墨線で描かれ、筋肉の隆起した遅しい姿は原本の雰囲気をなお伝えている」
「不動の左の足元を見るとわずかに岩座を描く線が残っている」
と研究者は記すのですが、私にはそれもなかなか見えて来ません。
金刀比羅宮の血不動の制作時期については、研究者は次のように判断します。

墨線は平安仏画の鉄線描に見られるような粘った強さはなく、やや走ったような軽さがうかがえる。また装身具の形態描写も崩れがあり、時代的には下っていることを予想させる。諸模本との比較が不可欠だが、室町時代の制作であろうと思われる。

最初にも述べた通り金毘羅大権現の別当寺としての金光院は、真言宗寺院でした。院主は高野山で学んでいます。その中にあって天台宗の円珍が感得した黄不動が伝わるのは一見不思議に思えます。しかし、それは近世の本末制度が固定化して以後のことに縛られた見方で、近世以前には地方の寺院ではいろいろな宗派が入り乱れて宗教活動を行っていたことは以前にお話ししました。諸宗派の垣根は低く、近隣の金倉寺が智証大師誕生所となっているので、その縁によって伝わったのか、あるいは黄不動の信岬は東密にまで広がっていたので、高野山を通じでもたらされたのかも知れません。
松原秀明「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇』の明暦元年(1655)の項には、次のように記されています。
「従来の根津入道作 護摩堂本尊を廃し、伝智証大師作不動尊像にかえる」

ここからは1655年に金光院内になった護摩堂本尊を、それまでの根津入道作から、伝智証大師作の不動明王に交換したことが記されています。
不動明王3
           不動明王(金刀比羅宮)
それが現在の宝物館の不動像になります。これは木彫作品ですが、護摩堂というのは、ここで加持祈祷されたお札が参拝客に配布されるなど、金毘羅大権現の宗教活動の中心的な場になります。そこに「伝智証大師作不動尊像」が迎え入れられたのです。この木造不動さまと、「血不動」のどちらが先にやってきたかは分かりませんが、前後した時代であったはずです。
金毘羅大権現境内変遷図1 元禄時代

元禄時代の金毘羅大権現境内図 護摩堂は金光院の中にあった
最後に「不動種子 伝覚鍔筆」を見ていくことにします。

24 不動種子 伝覚鍔筆 絹本著色金泥 室町時代
          「不動種子 伝覚鍔筆」(金刀比羅宮)

画面の中央に金泥で不動明王の種子である「カーンマン」が金泥で大きく書かれています。
右側には不動の二側面の化現である衿蜈羅(こんがら)、制多迦(せいたか)二童子が描かれます。
①慈悲を示す小心随順とされる白身の衿務羅は種子に向かって手を合わせ、
②方便としての悪性を示す赤身の制多迦は剣を握り体を背けつつも視線を種子に送る。
向かって左側には、不動明王の象徴とされる倶利伽羅龍(くりからりゅう)のまとわりついた宝剣が描かれます。
太田記念美術館 Ota Memorial Museum of Art on X: "来年2024年の干支は辰。それにちなんで葛飾北斎が描いた龍 の絵をご紹介。不動明王が手にする倶利伽羅剣(くりからけん)にぐるりと巻き付いている龍が、剣先を呑み込もうとしています。倶利伽羅不動と呼ばれます。北斎  ...
           倶利伽羅龍北斎漫画』十三編より

童子の上方には、金泥によって「不動尊」の三字が記されています。このように、画面内には種子、漢字、画像が入り混じり複雑な表現世界を形作っています。
どうして、不動明王を絵画でなくて種子で表現するのでしょうか。
それに対して研究者は次のように答えます。
「漢字によって示される意味の世界が記憶する現実界との連続性や、視覚像の直接的な具体性を超えた種子の観念的絶対性も印象付けられる。変転する色相の世界を超越した尊格生起の根本原因としての種子の意義が巧みに表現されている」

作者については覚鑁(かくばん)の伝承筆者名がありますが、実際の製作年代は室町時代と研究者は判断します。

 
DSC01040明治15年 境内図
                          神仏分離後 明治13年の金刀比羅宮

神仏分離と廃仏毀釈で、仏閣であった金毘羅大権現にあった多くの仏像は「入札競売」にかけられ、残ったものは焼却処分にされたこと、そして、当時の禰宜であった松岡調が残した仏像の内で、現在も金刀比羅宮にあるのは2つだけであることを前々回に、お話ししました。この内の十一面観音については、何回か紹介しています。しかし、不動明王については、触れたことがありませんでした。今回は、この不動さまについて見ていくことにします。
1 金刀比羅宮蔵 不動明王
   護摩堂の不動明王

 現在宝物館に展示されている不動明王は、江戸時代、護摩堂の本尊として祀られていたものです。桧造りの像ですが、背後と台座はありません。政府の分離令で、金堂や各堂の仏像達の撤去命令が出たときに、急いで取り除かれ「裏谷の倉」の中に、数多くの仏像と一緒にしまい込まれていたようです。その際に、台座や付属品は取り除かれたのかもしれません。

2.金毘羅大権現 象頭山山上3

明治5年4月,東京虎ノ門旧京極邸内の事比羅社内に神道教館を建設する資金確保のために、それまで保管していた仏像・仏具・武器・什物の類の売却が進められます。そこで、閉ざされていた蔵が開けられることになります。
 その時のことを松岡調は、日記に次のように記しています。
 佐定と一緒に、裏谷に隠置(かくしおき)たる仏像類を検査しに出向いた。長櫃が2つあった。蓋をとって中を検めると、弘法大師作という聖観音立像、智証大師作という不動立像などが出てきた。その他に、毘沙門像や二軸の画像など事については、ここにも記せない。今夜は矢原正敬宅に宿る。 
(『年々日記』明治五年[七月二十日条])

 彼は、以前に蔵の1階にも2階にも仏像が所狭しと並んでいたのは確認していたようですが、長櫃の中までは見てなかったのです。それを開けると出てきたのが
①弘法大師作という聖観音立像(後の十一面観音)
②智証大師作という不動立像
だったようです。
11金毘羅大権現の観音
金刀比羅宮に残された十一面観音

他の仏像がむき出しのままであったのに対して、この2つの仏像は扱いがちがいます。社僧たちの中に、この一体に対しては「特別なもの」という意識があったようです。
 改めて不動明王を見てみましょう。

1 金刀比羅宮蔵 不動明王

像高162㎝で等身大の堂々とした像です。足の甲から先と、手の指先は別に彫られたもので、今は接続する鉄製のカスガイがむきだしになっています。忿怒相の特徴ある目は、右が大きく見開き、左は半眼で玉眼を入れている。頭はやや浅い巻髪でカールしています。頂蓮はありません。右手には悪を追いはらう威力の象徴である宝剣をもち、左手は少し曲げて体側にたらし、羂索をもっている不動さんの決まりポーズです。
  私には、このお不動さんはウインクをしているように見えるのです。忿怒の表情よりも茶目っ気を感じます。もうひとつ気になるのは、足もとから、胸元にかけて、火にあったようなただれた部分が見られ、塗りがおちて、部分的に木地が露出しているというのです。火災にあったのかなと思ったりもしますが、背面にはそれが見られないと云います。研究者は
「ただれ跡の剥落」を、「かつて護摩を焚いた熱によるもの」
と指摘します。それでは、この不動明王は、もともとはどこにいらっしゃったのでしょうか


img000018金毘羅山名所図解
金毘羅山名所図会
 『金毘羅山名所図会』(文化年間(1804~18)の護摩堂の項には、次のように記されています。

(前略)此所にて、天下泰平五穀成就、参詣の諸人請願成就のため、又御守開眼として金光院の院主長日の護摩を修る事、元旦より除夜にいたる迄たゆる事なし(後略)
意訳すると
護摩堂では、天下泰平・五穀成就、参詣者の請願成就のため、又御守開眼として、護摩祈願が行われており、元旦から12月の除夜まで、絶えることがない。(後略)

 ここからは金光院の護摩堂では連日護摩が焚かれたことが分かります。

金光院の護摩堂と阿弥陀堂
金光院表書院の南側にあった護摩堂
金光院の護摩堂のことを長日護摩堂とも呼んだと云います。金光院の修験僧達が毎日、護摩焚きを行っていたのようです。先ほど見たように「足もとから、胸元にかけて、火にあったようなただれた部分」があるのは、そのためのようです。ここからも金毘羅大権現が真言密教の仏閣で、修験者の僧侶の活動が日常的に護摩祈祷という形で行われていたことが分かります。 もっとも、この像は最初から護摩堂の本尊ではなかったようです。
この不動さんは比叡山延暦寺からスカウトされてきたようです。
護摩堂は、慶長9年(1604)に建立されていますが、その時にお堂と一緒につくられた不動さんがいたようです。ところが、次第に護摩祈祷に対する人気・需要が高まります。そこで、より優れたものを探させます。その結果、明暦年間(1656)に、京都の仏師が比叡山にあった不動明王を譲り受け、それを以前からあった本尊にかえて安置したのです。この不動さんは、後から迎え入れたもののようです。ここにも「仏像は移動する」という「法則」が当てはまるようです。

1 護摩祈祷

 護摩は、真言密教の修験者が特異とする祈祷方法です。国家や天皇家の平安を祈って、行われました。それが、やがて権力をもつようになった貴族、さらには武家・庶民へと広かって行きます。護摩といえば不動というぐらい護摩を焚く場所の本尊には、不動明王が安置されるようになります。高く焚え上った火炎と、忿怒相の不動の前で修せられる護摩に霊験あらたかなものを感じたからでしょう。
 大日如来の化身でもあり、修験者の守護神でもあったのが不動明王です。
修験者は、護身用に小形の不動明王を身につけていました。行場の瀧や断崖、磐座にも不道明王を石仏として刻んだりもしす。 金毘羅大権現では、象頭山が修験者の行場で、霊山でした。そこに修験者が入り込み、天狗として修行に励みます。そして、松尾寺周辺に護摩堂を建立し、拠点としていきます。修験者たちの中から、金毘羅神を作り出し、金比羅堂を建立するものが現れます。それが松尾寺よりも人気を集めるようになり、金毘羅大権現に成長していくというのが、私の考える金比羅創世記です。そこからすると、金毘羅大権現の護摩堂とその本尊には興味が涌いてきます。

香川県立図書館デジタルライブラリー | 金毘羅 | 古文書 | 金毘羅参詣名所図会 4

 金毘羅さんでも、朝廷の安穏や天下泰平を願うものから、雨乞いにいたるまで諸々の願いをこめて護摩焚きが行われたようです。
 護摩堂で二夜三日修せられた御守が、大木札や紙守で、木札の先端が山形となっているのは、不動の宝剣を象徴したものと研究者は考えているようです。これらが、霊験あらたかなお守りとして、庶民の人気を集めていたことが分かります。

1 金刀比羅宮 奥社お守り

 金毘羅山内にはもう一つ不動を本尊とする堂があったようです。
万治三年(1660)に建立された本地堂(不動堂)です。ここの本尊は、護摩堂に最初にあった本尊を移してきたものでした。この堂は今の真須賀社の所にありましたが、これも神仏分離で撤去され、堂も不動も残っていません。
 宝物館にもうひとつ残されている仏像は十一面観音です。

1 金毘羅大権現 十一面観音2

この観音様は、聖観音と伝えられてきましたが、頭の穴を見れば分かるとおり、ここには十の観音様の頭が指し込められていました。つまり十一面観音だったことになります。なぜ、十一面観音を聖観音として安置していたのか。それは、以前にお話しましたので省略します。
 どちらにしても、観音堂の本尊で秘仏とされ三十三年毎に開帳されていたという観音様です。開帳の時には、多くの参詣人を集め、後には山内の宝物も拝観させるようになり、ますますにぎわうようになります。この十一面観音は、藤原時代の作で、桧材の一木造りの優品として現在は重要文化財に指定されています。
思いつくまま 第986回・金刀比羅宮宝物館
金刀比羅宮の宝物館

 宝物館に残された二つの仏像は、金毘羅大権現にとって、最も大切な仏であったことがうかがえます。不動明王は、修験者たちの守護神として、観音さまは、松尾寺の本尊だったのでしょう。金毘羅大権現には、観音信仰の系譜痕跡もあるように私には思えます。その二つのルーツを体現するのが、宝物館の2つの仏達である・・・と云うことにしておきます。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

このページのトップヘ