瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金刀比羅宮の十一面観音

観音堂と十一面観音
松尾寺の本堂観音寺
神仏分離以前の松尾寺の本堂観音寺堂と、その本尊十一面観音立像です。前回は、この観音堂がもともとは、現在の本宮の位置にあったこと、それが金毘羅神が流行神として信仰を集めるに従って、その場所を金毘羅大権現に明け渡し、この地に移ってきたことを見ました。観音堂の南側には、籠堂や通夜堂などもあり、観音信仰の拠点として活動していたことがうかがえます。それが明治の神仏分離で大きく姿を変えて、観音堂は撤去され、現在の別宮(三穂津姫社)が現れることになります。今回は、その経緯を見ていきます。テキストは「金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮」です。
明治政府の神仏分離・廃仏毀釈によって、金毘羅大権現の仏教施設は廃止され、急しのぎで次のような神道施設に改変されます。

境内変遷図2 幕末・明治
金刀比羅宮 建物変遷図
①三十番神社 廃止し、その建物を石立社へ
②阿弥陀堂 廃止し、その建物を若比売社へ
③観音堂 廃止し、その建物を大年社へ
④金堂    廃止し、その建物を旭社へ
⑤不動堂 廃止し、その建物を津嶋神社へ
⑥摩利支天堂・毘沙門堂(合棟):廃止し、常盤神社へ
⑦孔雀堂 廃止し、その建物を天満宮へ
⑧多宝塔 廃止の上、明治3年6月 撤去。
⑨経蔵    廃止し、その建物を文庫へ
⑩大門    左右の金剛力士像を撤去し、建物はそのまま存置
⑪二天門 左右の多聞天像を撤去し、建物はそのまま中門へ
⑫万灯堂 廃止し、その建物を火産霊社へ
⑬大行事社 変更なし、後に産須毘社と改称
⑭行者堂 変更なし、大峰社と改称、明治5年廃社
⑮山神社 変更なし、大山祇社と改称
⑯鐘楼    明治元年廃止、取払い更地にして遙拝場へ
⑰別当金光院 廃止、そのまま社務庁へ
⑱境内大師堂・阿弥陀堂は廃止
別宮の周辺の建物だけを取り出して見ておくと

神仏分離による仏堂改変

松尾寺は徹底的に破壊され、神社に改造された跡がうかがえます。       
その翌年(明治2(1869)年4月、「事比羅宮」(旧金毘羅大権現)を多和神社社人の松岡調が参拝しています。彼の日記『年々日記』同年4月12日条に、次のように記されています。(意訳)
4月12日 護摩堂、大師堂なども見てまわったが、①堂内には檀一つも置かれていない。それを見た老女が涙を流しながら「かしこき事よ」と呟いた表情が、印象に残った。
 本宮に詣て、拝殿に上り拝奉した。御前の様子は御撫物は、もとのままであるが、②その他は全て神式に改められていた。白木の丸い打敷のような物に、瓶子が置かれ、平賀のさましたる器に、③鯛が2匹が供えられていた。参拝する人々の中には、生ものが供えられていることに驚く者もいたが、私はその心遣いが上古よりのものであり、こよなく貴いものをと思った。
 絵馬堂を見て、階段を下ろうとすると観音堂も金堂も十王堂も皆、③仏像は取り除かれている様子で、その跡に御簾をかけて、白幣を立置いてあった。
この日記からは、仏教伽藍から神社へのリニューアルが進む明治2年の金刀比羅宮の様子が見えて来ます。仏像仏具に関しては、次のように「廃仏毀釈」されています。
①護摩堂、大師堂などの、堂内には仏像はもちろん檀一つも置かれていない。
②拝殿も全て神式に改められ生ものの鯛も供えられていた。
③観音堂も金堂(現旭社)も十王堂も、仏像は取り除かれ、その跡に御簾をかけて白幣を立置かれてあった。
③からは観音堂も仏像が撤去されて、御簾がかけられていたことが分かります。そして、寺院時代には備えられたことのない生身の鯛が御供えされています。寺院から神社への転換が象徴的に記されています。
 松岡調の日記からは仏像たちがお堂から撤去され、神仏分離が急ピッチで進行していたことが分かります。ちなみに、これから3年後の明治5年〔1872〕1月27日に松岡調は、金刀比羅宮の禰宜に就任し、「近代化」を進めていく立場に立つことになります。そのために行ったことが神仏混淆色を拝した神道施設の建立です。具体的には、今までの金毘羅大権現の本殿を撤去して、新しい本宮を建てると云うことになります。その前に本宮の神々の一時的な遷宮先を確保する必要がありました。そこで着手されたのが別宮建立です。以上をもう一度整理すると以下のようになります。
 
別宮登場の背景は?

本宮の仮遷先となる別宮の造営先として撰ばれたのが旧観音堂(大年社社殿)です。
こうして明治8(1875)年1月12日に旧観音堂の取り壊しが始まります。
多聞院の「片岡信範明治八年仮日記」(「金刀比羅宮史料」第十九巻(大正8年7月)所収)には、次のように記されています。
一月十二日の条
 -旧観音堂 今日ヨリ取壊シ相成候事
二月二十一日の条
 -当月九日 御別宮地所 地築相初リ市中ヨリ寄進指出シ日々々敷恐悦為候事 
ここからは1月12日から旧観音堂の取り壊しが初まり、2月9日は地鎮祭が行われたことが分かります。その様子を示したのが次の絵図です。

事比羅宮境内建物之図 観音堂跡が更地
「事比羅宮境内建物之圖」
「事比羅宮境内建物之圖」には、旧観音堂(大年社)がきれいさっぱりと更地になって、その跡地に工事用の仮囲いが描かれています。右の本宮は金毘羅大権現時代の社殿で、この後に新築されることになります。
 松岡調の「年々日記」(明治八年一月条:「黎明期の金刀比羅宮と宥常」所収)には、次のように記されています。
 ***三日・(前略)・・・三時も過る頃にいたりて、遙に太鼓の音聞ゆるなへ、人のハやセる声も聞ゆ、さらハ御宮材を引来るならんと、此方よりも太鼓打合せやかて黒門より男も女も若もたるも、めてたしと手を拍つ□おとり来る、其さまのいさきよき事、云んかたなし、・・(中略)・・三時にいたれハ、やうにひきとりつ、今日の材木を引ものともは、坂町、内町新町の者ともの、八百人ハかりも引なるか、昨夜より丸亀へものして、車四つにて引来れる今は御柱のれうの一本を、金の大鳥居より引来れるなりとそ、・・・・(後略)

意訳変換しておくと

 1月3日 ・(前略)・・・三時すぎになって、太鼓の音が遙かから聞こえる。人の掛け声や囃す声も聞える。さらには御宮材を引っ張るのを手伝いとして、どこかしこから太鼓を打合せて、黒門から男女や若者も集まってくる。めでたしと手を拍ち、踊りながらやって来る、その光景は言葉に表せないほど貴い。・・(中略)
三時になると賑わいも鎮まった。今日の材木を山上へ引き上げるのは、坂町、内町新町の者たちで、八百人ばかりの人達が参加した。この材木は昨夜から丸亀へ出かけて、車四台で引き帰ったものである。今日はその内の御柱の一本を、金の大鳥居より引き上げるという。・・・(後略)

ここからは次のような情報が読み取れます。
①木材は船で丸亀湊に輸送してきたものを、荷車で琴平に運んできたこと。
②門前町の人々が祭りの山車のように木材を山上にボランテアで引き上げていること

 こうして旧観音堂跡地には「本殿 + 中殿 + 拝殿」の複合社殿「別宮」が姿を現します。

金刀比羅宮 別宮5
金刀比羅宮 別宮

最後に別宮の役割と特徴について、整理しておきます。
①別宮は本宮よりも小規模で、簡素な造りとされているが、正遷宮後は末社社殿として位置づけられ、仮宮としての機能を担っている。
②木鼻を角形とする試みもいち早く取り入れるなど、続く本宮工事への試行的要素も見られる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮

 
DSC01040明治15年 境内図
                          神仏分離後 明治13年の金刀比羅宮

神仏分離と廃仏毀釈で、仏閣であった金毘羅大権現にあった多くの仏像は「入札競売」にかけられ、残ったものは焼却処分にされたこと、そして、当時の禰宜であった松岡調が残した仏像の内で、現在も金刀比羅宮にあるのは2つだけであることを前々回に、お話ししました。この内の十一面観音については、何回か紹介しています。しかし、不動明王については、触れたことがありませんでした。今回は、この不動さまについて見ていくことにします。
1 金刀比羅宮蔵 不動明王
   護摩堂の不動明王

 現在宝物館に展示されている不動明王は、江戸時代、護摩堂の本尊として祀られていたものです。桧造りの像ですが、背後と台座はありません。政府の分離令で、金堂や各堂の仏像達の撤去命令が出たときに、急いで取り除かれ「裏谷の倉」の中に、数多くの仏像と一緒にしまい込まれていたようです。その際に、台座や付属品は取り除かれたのかもしれません。

2.金毘羅大権現 象頭山山上3

明治5年4月,東京虎ノ門旧京極邸内の事比羅社内に神道教館を建設する資金確保のために、それまで保管していた仏像・仏具・武器・什物の類の売却が進められます。そこで、閉ざされていた蔵が開けられることになります。
 その時のことを松岡調は、日記に次のように記しています。
 佐定と一緒に、裏谷に隠置(かくしおき)たる仏像類を検査しに出向いた。長櫃が2つあった。蓋をとって中を検めると、弘法大師作という聖観音立像、智証大師作という不動立像などが出てきた。その他に、毘沙門像や二軸の画像など事については、ここにも記せない。今夜は矢原正敬宅に宿る。 
(『年々日記』明治五年[七月二十日条])

 彼は、以前に蔵の1階にも2階にも仏像が所狭しと並んでいたのは確認していたようですが、長櫃の中までは見てなかったのです。それを開けると出てきたのが
①弘法大師作という聖観音立像(後の十一面観音)
②智証大師作という不動立像
だったようです。
11金毘羅大権現の観音
金刀比羅宮に残された十一面観音

他の仏像がむき出しのままであったのに対して、この2つの仏像は扱いがちがいます。社僧たちの中に、この一体に対しては「特別なもの」という意識があったようです。
 改めて不動明王を見てみましょう。

1 金刀比羅宮蔵 不動明王

像高162㎝で等身大の堂々とした像です。足の甲から先と、手の指先は別に彫られたもので、今は接続する鉄製のカスガイがむきだしになっています。忿怒相の特徴ある目は、右が大きく見開き、左は半眼で玉眼を入れている。頭はやや浅い巻髪でカールしています。頂蓮はありません。右手には悪を追いはらう威力の象徴である宝剣をもち、左手は少し曲げて体側にたらし、羂索をもっている不動さんの決まりポーズです。
  私には、このお不動さんはウインクをしているように見えるのです。忿怒の表情よりも茶目っ気を感じます。もうひとつ気になるのは、足もとから、胸元にかけて、火にあったようなただれた部分が見られ、塗りがおちて、部分的に木地が露出しているというのです。火災にあったのかなと思ったりもしますが、背面にはそれが見られないと云います。研究者は
「ただれ跡の剥落」を、「かつて護摩を焚いた熱によるもの」
と指摘します。それでは、この不動明王は、もともとはどこにいらっしゃったのでしょうか


img000018金毘羅山名所図解
金毘羅山名所図会
 『金毘羅山名所図会』(文化年間(1804~18)の護摩堂の項には、次のように記されています。

(前略)此所にて、天下泰平五穀成就、参詣の諸人請願成就のため、又御守開眼として金光院の院主長日の護摩を修る事、元旦より除夜にいたる迄たゆる事なし(後略)
意訳すると
護摩堂では、天下泰平・五穀成就、参詣者の請願成就のため、又御守開眼として、護摩祈願が行われており、元旦から12月の除夜まで、絶えることがない。(後略)

 ここからは金光院の護摩堂では連日護摩が焚かれたことが分かります。

金光院の護摩堂と阿弥陀堂
金光院表書院の南側にあった護摩堂
金光院の護摩堂のことを長日護摩堂とも呼んだと云います。金光院の修験僧達が毎日、護摩焚きを行っていたのようです。先ほど見たように「足もとから、胸元にかけて、火にあったようなただれた部分」があるのは、そのためのようです。ここからも金毘羅大権現が真言密教の仏閣で、修験者の僧侶の活動が日常的に護摩祈祷という形で行われていたことが分かります。 もっとも、この像は最初から護摩堂の本尊ではなかったようです。
この不動さんは比叡山延暦寺からスカウトされてきたようです。
護摩堂は、慶長9年(1604)に建立されていますが、その時にお堂と一緒につくられた不動さんがいたようです。ところが、次第に護摩祈祷に対する人気・需要が高まります。そこで、より優れたものを探させます。その結果、明暦年間(1656)に、京都の仏師が比叡山にあった不動明王を譲り受け、それを以前からあった本尊にかえて安置したのです。この不動さんは、後から迎え入れたもののようです。ここにも「仏像は移動する」という「法則」が当てはまるようです。

1 護摩祈祷

 護摩は、真言密教の修験者が特異とする祈祷方法です。国家や天皇家の平安を祈って、行われました。それが、やがて権力をもつようになった貴族、さらには武家・庶民へと広かって行きます。護摩といえば不動というぐらい護摩を焚く場所の本尊には、不動明王が安置されるようになります。高く焚え上った火炎と、忿怒相の不動の前で修せられる護摩に霊験あらたかなものを感じたからでしょう。
 大日如来の化身でもあり、修験者の守護神でもあったのが不動明王です。
修験者は、護身用に小形の不動明王を身につけていました。行場の瀧や断崖、磐座にも不道明王を石仏として刻んだりもしす。 金毘羅大権現では、象頭山が修験者の行場で、霊山でした。そこに修験者が入り込み、天狗として修行に励みます。そして、松尾寺周辺に護摩堂を建立し、拠点としていきます。修験者たちの中から、金毘羅神を作り出し、金比羅堂を建立するものが現れます。それが松尾寺よりも人気を集めるようになり、金毘羅大権現に成長していくというのが、私の考える金比羅創世記です。そこからすると、金毘羅大権現の護摩堂とその本尊には興味が涌いてきます。

香川県立図書館デジタルライブラリー | 金毘羅 | 古文書 | 金毘羅参詣名所図会 4

 金毘羅さんでも、朝廷の安穏や天下泰平を願うものから、雨乞いにいたるまで諸々の願いをこめて護摩焚きが行われたようです。
 護摩堂で二夜三日修せられた御守が、大木札や紙守で、木札の先端が山形となっているのは、不動の宝剣を象徴したものと研究者は考えているようです。これらが、霊験あらたかなお守りとして、庶民の人気を集めていたことが分かります。

1 金刀比羅宮 奥社お守り

 金毘羅山内にはもう一つ不動を本尊とする堂があったようです。
万治三年(1660)に建立された本地堂(不動堂)です。ここの本尊は、護摩堂に最初にあった本尊を移してきたものでした。この堂は今の真須賀社の所にありましたが、これも神仏分離で撤去され、堂も不動も残っていません。
 宝物館にもうひとつ残されている仏像は十一面観音です。

1 金毘羅大権現 十一面観音2

この観音様は、聖観音と伝えられてきましたが、頭の穴を見れば分かるとおり、ここには十の観音様の頭が指し込められていました。つまり十一面観音だったことになります。なぜ、十一面観音を聖観音として安置していたのか。それは、以前にお話しましたので省略します。
 どちらにしても、観音堂の本尊で秘仏とされ三十三年毎に開帳されていたという観音様です。開帳の時には、多くの参詣人を集め、後には山内の宝物も拝観させるようになり、ますますにぎわうようになります。この十一面観音は、藤原時代の作で、桧材の一木造りの優品として現在は重要文化財に指定されています。
思いつくまま 第986回・金刀比羅宮宝物館
金刀比羅宮の宝物館

 宝物館に残された二つの仏像は、金毘羅大権現にとって、最も大切な仏であったことがうかがえます。不動明王は、修験者たちの守護神として、観音さまは、松尾寺の本尊だったのでしょう。金毘羅大権現には、観音信仰の系譜痕跡もあるように私には思えます。その二つのルーツを体現するのが、宝物館の2つの仏達である・・・と云うことにしておきます。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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