瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金刀比羅宮の名宝

2024年最新】Yahoo!オークション -金刀比羅宮 名宝の中古品・新品・未使用品一覧
                金刀比羅宮の名宝(絵画)
金刀比羅宮の名宝(絵画)を見ていて、気になった六字名号があったので紹介しておきます。

阿弥陀名号(十界名号)伝空海筆 江戸時代
          阿弥陀名号(十界名号)伝空海筆 江戸時代(金刀比羅宮蔵)  

「南無阿弥陀仏」の六字は、六字名号といわれ、これを唱えると極楽往生ができるとして、浄土教系諸宗派では大切にされてきました。ここでは六字名号が仏のように蓮台に載っています。名号が本尊であることを示しています。六字名号を重視する浄土真宗では、これを「名号本尊」と呼びます。浄土真宗では、宗祖親鸞は六字名号、八字名号、十字名号などを書いていますが、その中でも特に十字名号を重視していたことは以前にお話ししました。その後、室町時代になって真宗教団を大きく発展させた蓮如は、十字名号よりも六字名号を重視するようになります。この名号も、そのような蓮如以後の流れの延長上にあるものと研究者は考えています。
 親鸞はどうして、阿弥陀仏を本尊として祀ることを止めさせたのでしょうか。
それは「従来の浄土教が説く「観仏」「見仏」を仮象として退け、抽象化された文字を使用することで、如来の色相を完全に否定するため」に、目に見える仏でなく名号を用いるようになったとされます。ある意味では「偶像崇拝禁止」的なものだったと私は思っています。ところが、この六字名号は少し変わっています。
阿弥陀名号(十界名号)伝空海筆 江戸時代(
          阿弥陀名号(十界名号)伝空海筆 (蓮華部と「佛」部の拡大)

よく見ると筆画の中に、仏や礼拝者の姿が描かれています。さらによく見ると、南無阿弥陀仏の小さな文字をつないで蓮台は表現されています。抽象的な「南無阿弥陀仏」の文字には、仏の絵を当てはめ、具象的な蓮台は抽象的文字で表すという手法です。浄土真宗教団には「偶像崇拝禁止」的な「教義の純粋性」を追求するという動きが当時はあったはずです。その方向とはちがうベクトルが働いているように思えます。これをどう考えればいいのでしょうか。もうひとつの疑問は、この制作者が「伝空海筆」と伝わっていることです。空海と南無阿弥陀仏は、ミスマッチのように思えるのですが・・・これをどう考えればいいのでしょうか。
 金刀比羅宮のもうひとつの六字名号を見ておきましょう。
阿弥陀六字名号(蓮華形名号)金刀比羅宮
          23 阿弥陀名号(蓮華形名号)伝高弁筆 江戸時代  321P
こちらも蓮の花の蓮台に南無阿弥陀仏が載っている浄土真宗の名号本尊の形式です。よく見ると南無阿弥陀仏の各文字の筆画は蓮弁によって表現されています。中でも「無」は、蓮の花そのものをイメージさせるものです。
伝承筆者は高弁とされています。
高弁は、明恵上人の名でよく知られている鎌倉時代の僧です。彼は京都栂尾の高山寺を拠点にしながら華厳宗を復興し、貴族層からも広く信仰を集めます。但し、高弁の立場は「旧仏教の改革派」で、戒律の遵守や修行を重視して、他力を説く専修念仏を激しく非難しています。特に法然の死後に出された『選択本願念仏集』に対しては「催邪輸」と「推邪輪荘厳記』を著して激しく批判を加えています。また、高弁は阿弥陀よりも釈迦や弥勒に対する信仰が中心であったようです。そんな彼の名が六字名号の筆者名に付けられているのが不可解と研究者は評します。庶民信仰の雑食性の中で、著名な高僧の一人として明恵房高弁の名が引き出されてきたもので、実制作年代は江戸時代と研究者は考えています。
 
 「空海と南無阿弥陀仏=浄土信仰は、ミスマッチ」と、先ほどは云いましたが、歴史的に見るとそうではない時期があったようです。それを見ておきましょう。
   白峯寺には、空海筆と書かれた南無阿弥陀仏の六字名号版木があります。
白峯寺 六字名号
この版木は縦110.6㎝、横30.5㎝、厚さ3.4㎝で、表に南無阿弥陀仏、裏面に不動明王と弘法大師が陽刻された室町時代末期のものです。研究者が注目するのは、南無阿弥陀仏の弥と陀の脇に「空海」と渦巻文(空海の御手判)が刻まれていることです。これは空海筆の六字名号であることを表していると研究者は指摘します。このように「空海筆 + 南無阿弥陀仏」の組み合わせの名号は、各地で見つかっています。
 天福寺(高松市)の版木船板名号を見ておきましょう。

六字名号 天福寺

天福寺は香南町の真言宗のお寺で、創建は平安時代に遡るとされます。天福寺には、4幅の六字名号の掛軸があります。そのひとつは火炎付きの身光頭光をバックにした六字名号で、向かって左に「空海」と御手判があります。その上部には円形の中にキリーク(阿弥陀如来の種子)、下部にはア(大日如来の種子)があり、『観無量寿経』の偶がみられます。同様のものが高野山不動院にもあるようです。
また天福寺にはこれとは別の六字名号の掛軸があり、その裏書きには次のように記されています。
讃州香川郡山佐郷天福寺什物 弥陀六字尊号者弘法大師真筆以母儀阿刀氏落髪所繍立之也
寛文四年十一月十一日源頼重(花押)
意訳変換しておくと
讃州香川郡山佐郷の天福寺の宝物 南無阿弥陀仏の六字尊号は、弘法大師真筆で母君の阿刀氏が落髪した地にあったものである。
寛文四年十一月十一日 髙松藩初代藩主(松平)頼重(花押)
これについて寺伝では、かつては法然寺の所蔵であったが、松平頼重により天福寺に寄進されたと伝えます。ここにも空海と六字名号、そして浄上宗の法然寺との関係が示されています。以上のように浄土宗寺院の中にも、空海の痕跡が見えてきます。ここでは、空海御手番のある六字名号が真言宗と浄土宗のお寺に限られてあることを押さえておきます。浄土真宗のお寺にはないのです。
 空海と六寺名号の関係について『一遍上人聖絵』は、次のように記します。

日域には弘法大師まさに竜華下生の春をまち給ふ。又六字の名号を印板にとどめ、五濁常没の本尊としたまえり、是によりて、かの三地薩坦の垂述の地をとぶらひ、九品浄土、同生の縁をむすばん為、はるかに分入りたまひけるにこそ、

意訳変換しておくと

弘法大師は唐に渡るのを待つ間に、六字名号を印板に彫りとどめ本尊とした。これによって、三地薩坦の垂述の地を供来い、九品浄土との縁を結ぶために、修行地に分入っていった。

ここからは、中国に渡る前の空海が六字名号を板に彫り付け本尊としたと、一遍は考えていたことが分かります。一遍は時衆の開祖で、高野山との関係は極めて濃厚です。文永11年(1274)に、高野山から熊野に上り、証誠殿で百日参籠し、その時に熊野権現の神勅を受けたと云われます。ここからは、空海と六字名号との関係が見えてきます。そしてそれを媒介しているのが、時衆の一遍ということになります。
   どうして白峯寺に空海筆六字名号版木が残されていたのでしょうか?
版木を制作することは、六字名号が数多く必要とされたからでしょう。その「需要」は、どこからくるものだったのでしょうか。念仏を流布することが目的だったかもしれませんが、一遍が配った念仏札は小さなものです。しかし白峯寺のは縦約1mもあます。掛け幅装にすれば、礼拝の対象ともなります。これに関わったのは念仏信仰を持った僧であったことは間違いないでしょう。
 四国辺路の成立・展開は、弘法大師信仰と念仏阿弥陀信仰との絡み合い中から生まれたと研究者は考えています。白峯寺においても、この版木があるということは、戦国時代から江戸時代初期には、念仏信仰を持った僧が白峯寺に数多くいたことになります。それは、以前に見た弥谷寺と同じです。そして、近世になって天狗信仰を持つ修験者によって開かれた金毘羅大権現も同じです。

六字名号 空海筆
空海のサインが記された六字名号

金毘羅大権現に空海筆とされる六字名号が残っているのは、当時の象頭山におおくの高野山系の念仏聖がいたことの痕跡としておきます。
同時に、当時の寺院はいろいろな宗派が併存していたようです。それを髙松の仏生山法然寺で見ておきましょう。
法然寺は寛文10年(1670)に、初代高松藩主の松平頼重によって再興された浄土宗のお寺です。再興された年の正月25日に制定された『仏生山法然寺条目』には次のように記されています。
一、道心者十二人結衆相定有之間、於来迎堂、常念仏長時不闘仁可致執行、丼仏前之常燈・常香永代不可致退転事。附。結衆十二人之内、天台宗二人、真言宗二人、仏心宗二人、其外者可為浄土宗。不寄自宗他宗、平等仁為廻向値遇也。道心者共役儀非番之側者、方丈之用等可相違事。
意訳変換しておくと
来迎堂で行われる常念仏に参加する十二人の結衆は、仏前の燈や香永を絶やさないこと。また、結衆十二人のメンバー構成は、天台宗二人、真言宗二人、仏心宗二人、残りの名は浄土宗とすること。自宗他宗によらずに、平等に廻向待遇すること。

ここには、来迎堂での常念仏に参加する結衆には、天台、真言、仏心(禅)の各宗派2人と浄土宗6人の合せて12人が平等に参加することが決められています。このことから、この時代には天台、真言、禅宗に属する者も念仏を唱えていて、浄土宗の寺院に出入りすることができたことが分かります。どの宗派も「南無阿弥陀仏」を唱えていた時代なのです。こういう中で、金毘羅大権現の別当金光院にも空海伝とされる六字名号が伝わるようになった。それを用いて念仏聖達は、布教活動を行っていたとしておきます。
以上をまとめておきます。

空海の六字名号と高野念仏聖

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 武田 和昭 四国辺路と白峯寺   調査報告書2013年 141P
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表書院 虎の間
              表書院 「七賢の間」から望む「虎の間」

虎の間は、東西五間・南北三間の30畳で表書院の中では一番大きな部屋でした。東側が鶴の間、西側で七賢の間に接しています。上の写真は、七賢の間から見たもので正面が西側の「水呑の虎」です。ここには、応挙によって描かれた個性のある虎たちがいます。今回は、この虎たちを見ていくことにします。テキストは「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」299Pです。まず、虎たちの配置を押さえておきます。
虎の間配置

①東側の大襖(四面、2-A          水呑の虎)
②北側の襖(八面、2-B・2ーC)  八方睨みの虎 寝っ転がりの虎)
③西側の大襖(四面、2‐D)      白虎)
④南側の障子腰貼付(八面、2‐E、2‐F)
西北隅には高く険しい岩、東北隅に岩峰から流れ落ちる白い瀑布と松樹が配置され、西・北・東三面の自然的な繋がりを生み出しています。東側から見ていくことにします。

虎の間 水呑の虎
①東側の大襖(西側四面、2-A      水呑の虎)
虎の間 水呑の虎 円山応挙

後には流れ落ちる瀑布があり、そこから流れてくる水を二頭の虎が飲んでいます。「水呑の虎」とよばれています。しかし、私には左の虎は「猫バス」を思い出してしまいます。次に北側(B)に目を移します。

虎之間 円山応挙「遊虎図」

      ②北側の襖(B) 「八方睨みの虎」(金刀比羅宮表書院 虎の間)
ここには、「八方睨みの虎」がいます。

IMG_0004
②北側の襖(B) 「八方睨みの虎」
虎は、鋭い眼光で四方八方から押し寄せる厄災から家を守ってくれるので魔除けとされたり、「1日にして千里を行き千里を返す」という例えから開運上昇の霊獣ともされました。「八方睨みの虎」は、上下左右どこから見ても外敵を睨んでいるように描かれた虎の絵柄で、後世になると魔除けや家内安全の願いを込めて用いられるようになります。この虎がよほど怖ろしかったのか、描かれてから約80年後の1862年に、小僧がこの虎の右目を蝋燭で焼こうとして傷つけられて修復した記録が残っています。しかし、私の目から見ると、なんだか愛くるしい「猫さん」のように見えていまいます。

虎の間北側 寝っ転がりの虎 円山応挙
            ②虎の間・北側の襖(2ーC)
 八方睨みの虎のお隣さんが「丸くなって寝っ転がる虎(私の命名)」です。まだらヒョウのような文様で、目を閉じ眠っています。最後が西側です。

虎之間 円山応挙「遊虎図」2
金刀比羅宮表書院 虎の間の北と西
表書院虎の間西 円山応挙
虎の間 西側

西側には3頭の虎がいますが、その中で目を引くのが白虎(ホワイトタイガー)です。
IMG_0006
表書院虎の間の「白虎」(円山応挙)

しっぽを立てて、威嚇するような姿に見えます。しかし、前足の動きなどがぎこちない感じです。また
実際の虎の瞳は丸いのですが、ここにいる虎たちはネコのように瞳孔が細く描かれています。それも可愛らしい印象になっているようです。
 前回見た鶴の間の鶴たちと比べると「写実性」いう面では各段の開きがあるように思います。18世紀後半になると魚や鳥などをありのままに写実的に精密に描くという機運が画家の中には高まります。その中で鶴を描くのを得意とする画家集団の中で、応挙は成長しました。彼らはバードウオッチングをしっかりとやって、博物的な知識を持った上で鶴を書いています。しかし、その手法は虎には適用できません。なぜなら、虎がいなかったから・・。江戸時代は国内で実物のトラを観察することができず、ネコを参考に描き上げたことをここでは押さえておきます。
虎の画題は、龍とともに霊獣として古くから描かれてきました。
国宝の旅 - 龍虎図(重文) 伝・牧谿筆 @大徳寺 | Facebook
伝牧籍(南宋)の筆「龍虎図」(大徳寺)

しかし、日本に虎はいません。そこで画家達は、上図のような中国から伝わったこの絵をもとに、変形・アレンジを繰り返しながら虎図を描いてきました。その到達点が17世紀半ばに狩野探幽が南禅寺小方丈の虎の間に描いた「水呑の虎」のようです。

ぶらり京都-136 [南禅寺の虎・虎・虎] : 感性の時代屋 Vol.2
       狩野探幽の「水呑の虎」 (南禅寺小方丈虎の間)

応挙も画家として、人気のある虎の画題を避け通ることはできませんから、墨画によるものや彩色を施されたもの、軸、屏風に描かれたものなどいろいろなものを描いています。

円山応挙の「虎図」=福田美術館蔵
                   円山応挙の「虎図」=福田美術館蔵
円山応挙 幻の水呑の虎


「写生画」を目指した応挙にとって、見たこともない「虎」を、実物を見たように描くということは、至難のことだったはずです。
それに応挙は、どのように対応したのでしょうか? それがうかがえる絵図を見ておきましょう。

虎皮写生図(こひしゃせいず)
  応挙筆「虎皮写生図(こひしゃせいず)」 二曲一双 紙本着色 本間美術館蔵
    150㎝ × 178㎝(貼り切れない後脚と尾は裏側に貼ってある)             
この屏風は、応挙が毛皮を見て描いた写生図です。毛並みや模様を正確に写していることが分かります。虎皮は実物大に描き、貼りきれなかった後足と尾の部分は裏側に貼られているようです。各部の寸法を記した記録や、豹の毛皮の写生、そして復元イメージの小さな虎の絵も添えられています。しかし、先ほど見たように「虎の目は丸い」ということまでは毛皮からは分かりません。猫の観察から「細い眼」で描かれたようです。表書院の虎たちが、どこか猫のように可愛いのはこんな所に要因があったようです。

 しかし、応挙の晩年に描かれた虎たちには別の意図があったと研究者は次のように記します。

それまでの応挙の「水呑の虎」は「渓流に前足を踏み入れ、水を呑む虎の動作を柔軟に動的に表現」している。ところが「虎の間」の「水呑みの虎」は、墨画によるもので「虎の毛並みの表現に集中した静的で平面的な表現である。つまり両者の間には、着色で立体的に描かれた背景と、平面的に描かれた虎という対比的な表現法がとられている。平面的に描かれた虎は、背景の自然物の空間にはなじんでいない。ここでの虎は、自然の中を闊歩する動物としての虎ではなく、霊獣としての意味合いをもって立ち現れているのではないだろうか。 

つまり、表書院の虎たちは平面的で静的にあえて墨で描かれているというのです。その意図は、何なのでしょうか? それは、この部屋の持つ役割や機能と関係があるとします。
以前お話ししたように迎賓館的な表書院の各間の役割は、以下の通りです。

金刀比羅宮表書院の各部屋のランクと役割

表書院は、金光院と同格の者を迎える場で、大広間であり、小劇場の舞台としても使用されました。その機能を事前に知っていた応挙が、霊獣としての虎をあえて平面的に用いてたのではないかというのです。

虎の間の東側南端の落款には「天明七年(1787)」とありますので、応挙55歳の夏のものであることが分かります。
この時に、鶴の間の鶴たちも同時に金光院に収められたと研究者は考えています。この年の応挙は、南禅寺塔頭帰雲院、大乗寺山水の間、芭蕉の間も制作しています。生涯の中で、最も多く障壁画を制作した年になるようです。
  応挙は、これらの障壁画を現地の金刀比羅宮で制作したのではなく、大火後に家を失ってアトリエとして利用していた大雲院で制作したようです。完成した絵図は、弟子たちによって運ばれ、障壁画としてはめ込まれます。応挙が金毘羅を訪れた記録はありません。
 
 最後に、完成した虎の間が、実際にはどのように使われていたのかを見ておきましょう。
松原秀明「金昆羅庶民信仰資料集 年表篇」には「虎の間」の使用実態が次のように記されています。
①寛政12年(1800)10月24日  表書院虎の間にて芝居。
②文化 7年(1810)10月18日  客殿(表書院)にて大芝居、外題は忠臣蔵講釈。
③文化 9年(1812)10月25日  那珂郡塩屋村御坊輪番恵光寺知弁、表書院にて楽奉納
④文政5年(1832)9月19日     京都池ノ坊、表書院にて花奉納
⑤文政7年(1834)10月12日    阿州より馳馬奉納に付、虎の間にて乗子供に酒菓子など遣わす
⑥弘化元年(1844)7月5日      神前にて代々神楽本納、のち表書院庭にても舞う、宥黙見物
⑦弘化3年(1846)9月20日     備前家中並に同所虚無僧座頭共、虎之間にて音曲奉納
ここからは、次のような事が分かります。
A 表書院で最も広い大広間でもあった虎の間は、芸能が上演される小劇場として使用されていた
B ⑤の文政7年の記事からは、虎の間が馬の奉納者に対する公式の接待の場ともなっていたこと
C ⑥の記事からは単なる見世物ではなく、神前への奉納として芸能を行っていたこと
D 神前への奉納後に、金光院主のために虎のまで芸が披露されてたこと
以上から、虎の間は芸能者が芸能を奉納し、金光院がこれを迎える、公式の渉外接待の場として機能していたと研究者は判断します。それらをこの虎たちは見守り続けたことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」


前回は18世紀末に、金刀比羅宮表書院のふすま絵リニューアルを円山応挙が担当することになったこと。担当者となった応挙は、それまでの各間の呼称に従って絵を描いたことを見ました。今回は、そのなかで玄関に一番近い鶴の間に、応挙がどんな絵を収めたのかを見ていくことにします。まずもう一度、表書院の間取りを確認しておきます。

表書院平面図2

玄関に一番近いところにあるのが鶴の間です。各間には、次のようなふすま絵が描かれました。

表書院間取り3
             表書院の間取りと各部屋の障壁画

最初に迎えてくれるのが鶴の間で、ここには遊鶴画が描かれています。鶴の間は、東西二間、南北二間の十二畳の部屋です。玄関を入ってすぐ左にあって、西側の虎の間に続きます。鶴の間の絵図配置の拡大版を見ておきます。
表書院鶴の間 1
表書院 鶴の間の配置図
1ーA 稚松双鶴図(ちしょうそうかくず)  東側の壁貼付で床の間三面
1ーB 稚松図(ちしょうず)        障子腰貼付二面  
1ーC  稚松丹頂図 西側の襖四面
1ーD  芦(あし)丹頂図 北側の大襖四面
1ーE 芦図(あしず) 南側の障子腰貼付四面
全て円山応挙の障壁画です。ここに描かれている鶴たちを見ていくことにします。テキストは「金刀比羅宮の名宝(絵画)298P」です。

鶴之間 円山応挙「遊鶴図」西側
              鶴の間の西側(1-C)と北側(1-D)

鶴の間には見る者の視線を次のように誘導する配慮・配置がされていると研究者は指摘します。
①まず縁側廊下を西に進むと最初に見えてくるのが西側(1-C)です。

1-C西側 松に丹頂
             1ーC  稚松丹頂図  西側の襖(金刀比羅宮表書院)

②西側には松と3羽の鶴が描かれています。わたしは若鶏を連れた丹頂の夫婦と思っていました。北海道の道東地方の沼や湿原で、こんな丹頂の姿を何度も見ました。異なる鶴同士が一緒に行動することはほとんどありません。しかし、右端はマナヅルだそうです。当時はいろいろな種類の鶴が描き込まれるのが流行だったようです。
③左端の丹頂は、首をひねって後方を見渡しています。その鶴の視点に誘導され、西側から北側(正面)へと視線を移動させると、「1-D」の芦の中の丹頂たちと向き合うことになります。

1-D北側 芦丹頂飛翔
④北側4面(1ーD)の大襖の2枚には、舞い降りてくる丹頂が描かれています。鶴の動きを追ってみると、後ろの鶴は飛翔体制ですが、前の鶴は脚を出していて着地体制に入っています。ここには時間的連続性が感じられます。そのまま私たちの方まで飛んできそうな感じです。大空を飛ぶ躍動感が伝わってきます。
鶴の間北側 芦辺の丹頂
       1ーD  芦(あし)丹頂図 北側の大襖四面(金刀比羅宮表書院)

⑤その隣が芦辺に舞い降りた一対の丹頂鶴が描かれています。警戒心を持つ左が牡で、エサをついばもうとしているのが牝と私は勝手に思っています。これもつがいで行動する丹頂のよく見える姿です。

鶴の間東側1-A 稚松双鶴図
        鶴の間東側(1-A)の「稚松双鶴図」(金刀比羅宮表書院)
⑥そして、視線が最後に行き着くのが東側(1-A)の「稚松双鶴図」です。ここには床の間に身を寄せ合うようにし一本立ちで眠る二羽の真鶴と松が描かれています。この鶴は小さく描かれ、左側には大きな余白が作られています。これはどうしてなのでしょうか? それはここが床の間で、空白部分には軸を飾るためだそうです。

1A丸山応挙 表書院鶴の間
        鶴の間東側(1-A)の「稚松双鶴図」(金刀比羅宮表書院)

見てきた通り、この部屋には多くの鶴が描かれています。
日本画に描かれるのが最も多いのが丹頂鶴で、次に真鶴(マナヅル)が続き、鍋鶴は毛色が地味なのでほとんど描かれることはないようです。野鳥観察という視点から見ると、応挙は鶴をよく観察していると思います。相当な時間を鶴のバードウオッチングに費やしていることがうかがえます。
応挙と鶴の関係を見ておきましょう。
①享保18年(1733)丹波国穴太村(京都府亀岡市)の農家出身
②延享 4年(1747)15歳頃、京都の呉服商に奉公し、
   後に玩具商尾張屋(中島勘兵衛)の世話になり、眼鏡絵を描く作業に携わる。同時に、尾張屋の援助で狩野派の石田幽汀門に入り絵の修業を積む。
③宝暦 9年(1759)27歳頃、「主水(もんど)」の署名で、タンチョウとマナヅルを描いた「群鶴図」(円山主水落款・個人蔵)制作

円山応挙 双鶴図(仙嶺落款・八雲本陣記念財団蔵)
               円山応挙「双鶴図」(仙嶺(せんれい)」の署名
④明和2年(1765)、30歳頃から「仙嶺」の署名で「双鶴図」(八雲本陣記念財団蔵)制作
⑤応挙が師事した石田幽汀の代表作品は「群鶴図屏風」(六曲一双・静岡県立美術館蔵)
⑥若き日の応挙は、石田幽汀の下で、鶴の絵の技法などを学ぶ。
応挙の師である石田幽汀の作品を見ておきましょう。

石田幽汀 《群鶴図屏風》

石田幽汀 《群鶴図屏風 応挙の師匠
         石田幽汀 《群鶴図屏風》1757-77 六曲一双屏風 各156.0×362.6cm
ここにはさまざまな姿の鶴が描かれています。種類は、タンチョウ・ナベヅル・マナヅルの他にも、ソデグロツル・アネハヅルまでいます。趣味として野鳥観察を行っていたレベルを越えています。博物学的な興味となんらかの制作事情が重なったことがうかがえます。そして、若き日の応挙は、この石田幽汀一門下にいたのです。鶴への知識が豊富なはずです。それが18世紀の「写生」時代の絵画の世界だったのかもしれません。ここでは、応挙は、鶴の博物学的な師匠から学んだことを押さえておきます。
ただ、師匠の描く鶴は多種多様な鶴たちの乱舞する鶴たちでした。しかし、晩年の応挙が鶴の間に残した鶴たちは、つがいで行動する鶴たちでした。印象は大きく違います。

鶴の間には落款がありませんが、その作風から隣の虎の間と同じ天明7年(1787)、応挙55歳の作と研究者は判断します。ところがその翌年に、応挙は京都の大火に被災して焼け出されてしまいます。そのため一時は創作活動が停止します。その困難を克服後の寛政6年(1794)に完成させたのが七間・風水の間の絵になるようです。
ちなみに客殿として使用された表書院には、各間に次のようなランクがあったことは前回お話しました。
表書院の部屋ランク


金刀比羅宮表書院の各部屋のランクと役割

やってきた人の身分によって通す部屋が違っていたのです。その中で鶴の間は、玄関に一番近く部屋ので、最も格下の部屋とされていました。格下の部屋には、画題として「花鳥図」が描かれるのがお約束だったようです。円山応挙に表書院のふすま絵のオファーが来たときから、それは決まっていたことは前回にお話しした通りです。
幕末から明治にかけては、満濃池にも鶴が越冬のためにやってきたようです。
満濃池遊鶴(1845年)2
      満濃池遊鶴(1845年)に描かれた群舞する鶴
金堂(旭社)の完成を記念して刷られた刷物には、満濃池の上を乱舞して、岸辺に舞い降りた鶴の姿が描かれ「満濃池遊鶴」と題して、鶴が遊ぶ姿を歌った漢詩や和歌が添えられています。ここからは、200年前の丸亀平野には鶴がやって来ていたことが分かります。そして、いま鶴よりも先にコウノトリが帰ってきたとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画)
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2024年最新】Yahoo!オークション -金刀比羅宮 名宝の中古品・新品・未使用品一覧

「金刀比羅宮の名宝(絵画)」を手にすることができたので、この本をテキストにして、私の興味があるところだけですが読書メモとしてアップしておきます。まず、表書院について見ていくことにします。

39 浦谷遊鹿
        象頭山十二景図(17世紀末)に描かれた表書院と裏書院

金光院 表書院
        金刀比羅宮表書院(讃岐国名勝図会 1854年)

生駒騒動後に、松平頼重が髙松藩初代城主としてやってくると、金毘羅大権現へ組織的・継続的な支援を次のように行っています。

松平頼重寄進物一覧表
松平頼重の金毘羅大権現への寄進物一覧表(町誌ことひら3 64P)

松平頼重が寄進した主な建築物だけを挙げて見ます。
正保二年(1645)三十番神社の修復
慶安三年(1650)神馬屋の新築
慶安四年(1651 仁王門新築
万治二年(1659)本社造営
寛文元年(1661)阿弥陀堂の改築
延宝元年(1673)高野山の大塔を模した二重宝塔の建立
これだけでも本堂を始めとして、山内の堂舎が一新されたことを意味します。表書院が登場するのも、この時期です。
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表書院は、客殿として万治年間(1658~61)に建立されたと伝えられています。

先ほど見たとおり、松平頼重の保護を受けると大名達の代参が増えてきます。その対応のためにもきちんとした客殿が必要になったのでしょう。建設時期については、承応2年(1654)に客殿を建て替えたという文書もあるので、万治2年(1659)の本宮造営完了の頃には姿を見せていたと研究者は考えています。そして、その時から各部屋は「滝之間、七賢之間、虎之間、鶴之間」の呼び名で呼ばれていたことが史料で確認できます。それが百年以上経過した18世紀後半になって、表書院をリニューアルすることになり、各部屋のふすま絵も新たなものにすることになります。その制作を依頼したのが円山応挙だったということのようです。この時期は、大阪湊からの定期便が就航して以後、関東からの参拝客が急速に増加して、金光院の財政が潤い始めた時代です。


表書院
表書院平面図2
                    表書院の間取り
 
円山応挙が表書院の絵画を描くようになった経緯については、金毘羅大権現の御用仏師の田中家の古記録「田中大仏師由緒書」に次のように記されています。

田中家第31代の田中弘教利常が金光院別当(宥存)の意を受けて円山応挙に依頼したこと、資金については三井北家第5代当主高清に援助を仰いだこと。

当時の金光院別当の宥存については、生家山下家の家譜には次のように記します。
俗名を山下排之進といい、二代前の別当宥山の弟山下忠次良貞常の息として元文四年(1739)10月26日に京都に生まれた。
宝暦5 年(1755)9月21日(17歳)で得度
宝暦11年(1761)2月18日(23歳)で金光院別当として入山し27年間別当職
天明 8年(1787)10月8日(49歳)で亡くなる。
宥在は少年時代を京都で過ごし、絵画を好んだので若冲について学んだと伝わります。
金光院別当宥存は京の生まれで、少年時代を京で過ごした経歴を持ち、絵事を好んで若冲に教えを受けたことがあるとされます。ここからは表書院の障壁画制作の背景について、次のように考えることができます。
①京画の最新状況に詳しい金光院別当の宥存
②経済的に他に並ぶものがない豪商三井家
③平明な写生画風によって多くの支持層を開拓していた円山応挙
これらを御用仏師の田中家が結びつけたとしておきます。京から離れた讃岐国でも、京都の仏師達や絵師たちが、善通寺の本尊薬師如来を受注していたことや、高松藩主松平頼重が多くの仏像を京都の仏師に発注していたことは以前にお話ししました。京都の仏師や絵師は、全国を市場にして創作活動を行っていました。金刀比羅宮表書院と円山応挙の関係もその一環としておきます。

金刀比羅宮 表書院4
       表書院 七賢の間から左の山水、右の虎の間を望む
応挙が書いた障壁画には、次のふたつの年期が記されています。
①天明7年(1787)の夏    虎の間・(同時期に鶴の間?)
②寛政甲寅初冬(1794)10月 山水の間・(同時期に七賢の間?)
ここからは2回に分けて制作されたことが分かります。まず、①で鶴の間・虎の間が作られ、評判が良かったので、7年後に②が発注されたという手順が考えられます。応挙が金毘羅へやってきたという記録は残っていないので、絵は京都で書かれ弟子たちが運んできたようです。
 なお、最初の天明7年(1787)10月には、施主であった第十代別当宥存(1727~87)が亡くなっています。もう一つの寛政6年(1794)は、応挙が亡くなる前年に当たります。そういう意味で、この障壁画制作は応挙にとっても集大成となる仕事だったことになります。ちなみに、完成時の別当は第11代宥昌になります。
 表書院は客殿とも呼ばれていて、表向きの用に使われた「迎賓館」的な建物です。
実際にどんなふうに運用されていたのかを見ていくことにします。『金刀比羅宮応挙画集』は、表書院が金光院の客段であったことに触れた後、次のように記します。

「表立ちたる諸儀式並に参拝の結紳諸候等の応接には此客殿を用ゐたるが、二之間(山水之間)は主として諸候の座席に、七腎之間は儀式に際しての院主の座席に、虎之間は引見の人々並に役人等の座席に、鶴之間は当時使者之間とも唱へ、諸家より来れる使者の控室に充当したりしなり」

意訳変換しておくと
公的な諸儀式や参拝に訪れた賓客の応接にこの客殿を用いた。その内の二之間(山水之間)は主として諸候の座席に、七腎人の間は儀式に際しての院主の座席に、虎之間は引見の人々や役人の座席に、鶴之間は使者の間とも呼ばれ、各大名家などからやってくる使者の控室として用いられた。

ここでは、各間の機能を次のように押さえておきます。
①二之間(山水之間) 諸候の座席
②七腎人の間 儀式に際しての院主の座席
③虎之間 引見の人々や役人の座席
④鶴之間 使者の間とも呼ばれ、各大名家などからやってくる使者の控室

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松原秀明「金昆羅庶民信仰資料集 年表篇」には、「虎の間」の使用実態が次のように記されています。
①寛政12年(1800)10月24日  表書院虎の間にて芝居.
②文化 7年(1810)10月18日  客殿(表書院)にて大芝居、外題は忠臣蔵講釈.
③文化 9年(1812)10月25日  那珂郡塩屋村御坊輪番恵光寺知弁、表書院にて楽奉納
④文政5年(1832)9月19日     京都池ノ坊、表書院にて花奉納
⑤文政7年(1834)10月12日    阿州より馳馬奉納に付、虎の間にて乗子供に酒菓子など遣わす
⑥弘化元年(1844)7月5日      神前にて代々神楽本納、のち表書院庭にても舞う、宥黙見物]
⑦弘化3年(1846)9月20日     備前家中並に同所虚無僧座頭共、虎之間にて音曲奉納
虎の間3
虎の間(金刀比羅宮表書院 円山応挙)
ここからは、次のような事が分かります。
A 表書院で最も広い大広間でもあった虎の間は、芸能が上演される小劇場として使用されていた
B ⑤の文政7年の記事からは、虎の間が馬の奉納者に対する公式の接待の場ともなっていたこと
C ⑥の記事からは単なる見世物ではなく、神前への奉納として芸能を行っていたこと
D 神前への奉納後に、金光院主のために虎のまで芸が披露されてたこと
以上から、虎の間は芸能者が芸能を奉納し、金光院がこれを迎える公式の渉外接待の場として機能していたと研究者は判断します。

鶴の間 西と北側
             表書院 鶴の間(金刀比羅宮)
同じように、鶴の間についても松原氏の年表で見ておきましょう。

①天保8年(1837)4月1日  金堂講元伊予屋半左衛門・多田屋次兵衛、以後御見席鶴之間三畳目とし、町奉行支配に申しつける

ここからは当時建立が決定した金堂(旭社)建設の講元の引受人となった町方の有力者に対して、「御目見えの待遇」で町奉行職が与えられています。それが「鶴の間三畳目」という席次になります。席次的には最も低いランクですが、町奉行支配という形で、金刀比羅宮側の役人に取り立てたことを目に見える形で示したものです。
七賢の間
七賢の間(金刀比羅宮表書院) 
七賢の間については、金光院表役の菅二郎兵衛の手記に次のように記されています。

万延元年(1860)2月の金剛坊二百丘十年忌の御開帳に際して、縁故の深い京の九条家からは訪車が奉納されたが、2月5日に奉納の正使が金毘羅にやってきた。神前への献納物の奉納後、寺中に戻り接待ということになったが、その場所は、本来は七賢の間であるべきところが、何らかの事情により小座敷と呼ばれる場所の2階で行われた

ここからは、七賢の間は公家の代参の正使を迎える場として使われていたことが分かります。
 天保15年(1844)に有栖川宮の代参として金刀比羅宮に参拝にやって来て、その後に奥書院の襖絵を描いた岸岱に対する金刀比羅宮側の対応を見ておきましょう
天保15年(1844)2月2日、有栖川宮の御代参として参詣した時には、岸岱は七賢の間に通されています。それが、6月26日に奥書院の襖絵を描き終わった後の饗宴では、最初虎の間に通され、担当役人の挨拶を受けた後、院主の待つ御数寄屋へ移動しています。この時、弟子の行芳、岸光は鶴の間に通され、役人の扶拶のないまま、師の岸岱と一緒に数寄屋へ移動しています。
表書院 虎の間

          七賢の間から望む虎の間(金刀比羅宮表書院)

以上から、表書院の部屋と襖絵について研究者は次のように解釈します。
表書院の部屋ランク

つまり、表書院には2つの階層格差の指標があったのです。
A 奥に行くほど格が高く、入口に近いほど低いという一般常識
B 「鶴(花鳥)→虎(走獣)→賢人→山水」に格が高くなると云う画題ランク

以上を踏まえた上で、表書院の各室は次のように使い分けられていたと研究者は指摘します。

金刀比羅宮表書院の各部屋のランクと役割


このことは先ほど見たように、画家の岸岱が有栖川宮の代参者としてやってきた時には「七賢の間」に通され、画家という芸能者の立場では「虎の間」に通されていることとからも裏付けられます。
表書院は金刀比羅宮の迎賓館で、ランク毎に使用する部屋が決まっていたのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 伊藤大輔 金刀比羅宮の名宝(絵画) 
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