瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金刀比羅宮の旧観音堂変遷


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金刀比羅宮 別宮
前回は明治維新後の神仏分離で姿を現した金刀比羅宮の別宮(現三穂津姫社)について、次のようにまとめました。

別宮登場の背景は?

明治時代に別宮が出来るまでは観音堂があったのです。観音堂は次のように立地場所を移します。それを今回は追いかけて見ようと思います。

金毘羅大権現観音堂の変遷

①1571年 宥雅が松尾寺の本堂観音堂を建てたのは現本宮の位置
②1624年 本宮の向かい側の北寄りに移築
③1659年 別宮の位置に東向きに移築
まず松尾寺観音堂の創建から見て行きます。

宥雅の建立した松尾寺と守護神金比羅堂の位置

長尾城城主の宥雅(長尾高広)が善通寺での修行を終えて、その末寺の称名寺に入るのが1570年のことです。この時期は丸亀平野の支配権をめぐって、天霧城の香川氏と阿波三好氏に従う香西・羽床・長尾氏などの間で、小競り合いが続く頃です。1573年には、天霧城が落城し、香川氏が備後に亡命する事件が起きています。一方、三好氏の保護を受けた真宗興正寺派の阿波の安楽寺が、讃岐に教線を伸ばし、各村々に道場が姿を見せる時期でもありました。
 このような中で1571年に、宥雅は新たな真言寺院・松尾寺を建立します。そして、その守護堂とし2年後に建立したのが金毘羅堂です。この時の棟札が宝物館には保存されています。これが金毘羅神についての最も古い一次史料になります。つまり、金刀比羅宮には中世に遡る歴史はないと近年の研究者は考えています。  
宥雅の金毘羅建立

 それでは宥雅は観音堂や金毘羅堂を、どこに建てたのでしょうか? 
金毘羅堂と観音堂の位置

上の図で見ておきましょう。
A 観音堂   現在の本宮
B 金刀比堂  四段坂の登り口
Aの観音堂の建つ位置は、 象頭山の地層が変わるとこで断崖にテラス状の平地が現れるところで展望も優れています。山林寺院の建立場としては最適です。ここに松尾寺の観音堂は姿を見せます。その本尊として迎えられたのが十一面観音です。

11金毘羅大権現の観音
             金刀比羅宮宝物館の十一面観音

金刀比羅宮十一面観音の由来 仮説1

藤原期の十一面観音像とされますが、今は化仏がありません。この観音様は、いまは宝物館にいらっしゃいます。明治の「廃仏毀釈」の中でも金刀比羅宮が守り通した仏像です。松尾寺の観音堂には、この観音様が安置されていたことを押さえておきます。 
 しかし、松尾寺を建立したばかりの宥雅に、思ってもいなかった激変が襲いかかってきます。
土佐軍の讃岐侵攻です。宥雅は堺に亡命し、無人となった松尾寺は、長宗我部元親の配下の修験者宥厳に管理運営を任されます。この時期は土佐の修験者たちによって松尾寺が運営され、多くの院坊が形成されます。そのような中で主導権を握ったのが宥盛です。彼は強い天狗信仰をもち「死しては天狗となって金毘羅大権現を守らん」とも云ったと伝えられます。こうして宥厳・宥盛の時代に、金光院は 松尾寺から金毘羅大権現へと立ち位置を移していきます。それが伽藍配置に目に見える形で現れます。

金刀比羅宮 正保年間境内図

まず1618年の生駒藩からの寺領寄進状には、それまでの松尾寺や金光院でなく「金毘羅大権現」と記されます。これが金毘羅大権現の初見史料になるようです。そして1623年になると新しい金毘羅堂が建立されています。ここには「内陣・弊(拝)殿・拝殿」と記されているので、神道的な本宮が登場したことが分かります。また、旧金比羅堂をを役行者堂にしたとあるので、それまでの仏教的堂ではなく神道的本宮だったことが裏付けられます。その場所が、いままで松尾寺の観音堂があったところだったようです。そして、観音堂は金毘羅大権現本宮に場所を譲って、翌年に移築されます。このことについては後世の人達から「松尾寺は、金毘羅大権現に軒先を貸して、主屋を乗っ取られた」と揶揄されることになります。ここでは観音信仰から出発した松尾寺は、17世紀初頭には金毘羅信仰へと大きく信仰対象を換えたとを押さえておきます。その管理運営の中心が金光院と云うことになります。

金刀比羅宮 元禄頃の境内図
元禄末頃(1704)の金毘羅大権現境内

そして髙松藩初代藩主・松平頼重の保護を受けた金毘羅大権現は、上図のように元禄末頃には伽藍を一新します。観音堂も本宮の横から現在の別宮のある所に移って大型化します。18世紀初頭に書かれた金毘羅大祭屏風図を見ておきましょう。

金毘羅大祭行列図屏風(18世紀初頭) 
金比羅大祭屏風図(18世紀初頭)の本宮と観音堂

金毘羅大権現伽藍 金毘羅参詣名所図会
          金毘羅大権現 本社 (金毘羅参詣名所図会)

こうして見ると一等地を金毘羅大権現に譲り、その南に観音堂は控えたような風情がしてきます。
それでは観音堂の役割は何だったのでしょうか?

金毘羅大権現 観音堂行堂(道)巡図
金毘羅大祭の舞台となった観音堂(金毘羅山名所図会)
ここには10月10日の金刀比羅宮の大祭「お十日(おとうか)さん」の観音堂行堂(道)巡図」がえがかれています。大祭の際に、観音堂のまわりを神官や五人百姓たちが「行堂=行道=行進(パレード)」する姿です。もともとは松尾寺の法華経を守護する三十番社のお祀りでした。そのため本堂である観音堂を舞台に行われていました。各地から集まった信徒たちが観音堂の周りを練り歩いたのです。讃岐国名勝図会に載っているものも見ておきましょう。

大祭観音堂行道 讃岐国名勝図会
                観音堂行堂巡図(讃岐国名勝図会)
①観音堂の周りを神輿が練り歩いている。
②これに五人百姓たちも従っている。
③観音堂の縁台には、頭家(とうや)僧が見守っている。
ここで注意しておきたいのは、行堂(道)は本宮ではなく観音堂のまわりを巡っていること、その主催者は神官ではなく僧侶であることです。何かを担いでいる人が五人百姓のようです。何を担いでいるのかは、よく分かりませんが「奉納品」のようです。そうだとすると、近世に流行神として金毘羅大権現が勧進される以前から、五人百姓と修験者たちは観音堂への信仰によって結ばれていたことになります。ここでは、五人百姓が金毘羅大権現が現れる前から観音堂の信者であり、祭礼に重要な役割を果たしていたこと、松尾寺から金毘羅大権現へ信仰対象を移し替えても、大祭は従来通り観音堂に捧げられていたということを押さえておきます。

大祭4
大門前に整列し、観音堂に登っていく大祭行列

DSC01629大祭図
同じく大門前の大祭祭礼図

観音堂のもうひとつの役割が、金剛坊殿と併設されていたことです。
金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現 観音堂(讃岐国名勝図会1854年)
金剛坊は金光院の初代院主とされる宥盛のことです。
『古老伝旧記』は金光院別当の宥盛(金剛坊)のことを、次のように記します。
宥盛 慶長十八葵丑年正月六日、遷化と云、井上氏と申伝る
慶長十八年より正保二年迄間三十三年、真言僧両袈裟修験号金剛坊と、大峰修行も有之
常に帯刀也。金剛坊御影修験之像にて、観音堂裏堂に有之也、高野同断、於当山も熊野山権現・愛岩山権現南之山へ勧請有之、則柴燈護摩執行有之也
意訳変換しておくと 
宥盛は慶長十八葵丑年正月六日に出家し、俗名は井上氏と伝わる。慶長十八年から正保二年迄間三十三年、真言僧で両袈裟で修験号を金剛坊と称し、大峰修行も行っている。常に帯刀也。金剛坊(宥盛)の御影は修験姿で、観音堂裏堂に安置されている。高野山、熊野山権現・愛岩山権現などを勧請した。また柴燈護摩祈祷を何度も行った。
ここには金剛坊の御影の修験姿像が観音堂裏堂(金毘羅堂)に安置されていると記されています。こうしてみると、金毘羅大権現として祀られていた修験者の姿をした木像は、宥盛であったかもしれない可能性も出てきます。それをまとめると次のようになります。
①金光院の修験者達は、その始祖・宥盛の「祖霊信仰」をはじめた。
②その信仰対象は宥盛が自ら彫った宥盛像であった。
③この像が金毘羅大権現像として観音堂浦堂の金毘羅堂に安置された。
④その脇士として不動明王と毘沙門天が置かれた

観音堂平面図 江戸時代
観音堂の金剛院殿内部の略図

松尾寺観音堂鰐口2
金毘羅大権現 観音堂に吊されていた鰐口(金刀比羅宮宝物館蔵)

松尾寺観音堂鰐口
最後に幕末の観音堂の周りの宗教施設をもういちど見ておきましょう。

金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
金刀比羅宮観音堂の南にある籠堂・通夜堂(讃岐国名勝図会)
この絵図を見ると観音堂の南側には絵馬堂や千体仏堂・孔雀堂などの施設が見えます。私が気になるのは、籠堂と通夜堂です。この名前の通り、観音堂の法会などでは世を明かしての宗教的な行事や、修験者や天狗信者に対する宿泊施設のサービスが行われていたことがうかがえます。観音堂は、金毘羅大権現における仏教行事の中核センターであったとも思えてきます。そういう意味でも、江戸時代の金毘羅大権現は神仏混淆の仏教施設であったとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
ことひら町誌
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