
金毘羅さんで一番最初に石段や玉垣が整備されたエリアはどこなのでしょうか?
それは本宮前の四段坂のようです。ここは、山下から上り詰めてきた参拝者が最後に登る坂です。坂下から見上げると本宮の姿が垣間見えます。本宮を仰ぎ見ながら登る聖なる空間と思われていたのかもしれません。
この坂が石段に整備されたのは、次のような人たちからの寄進でした
①寛政十年(1798)江戸・上州・京都・奥州・大坂の飛脚問屋組合の奉納②文化八年(1811)室戸岬周辺の室津浦・浮津浦・吉良川津の網元たち③文化九年(1812)室戸岬周辺の浦々の人々から奉納
それでは、四段坂に玉垣を寄進したのは、どんな人たちだったのでしょうか
坂の右側がT37、左がT38という整理番号が打たれています。左のT38の玉垣を見てみましょう。
左側の親柱1には「圓龜(丸亀)玉垣講とあります。城下町丸亀の玉垣講による奉納のようです。この親柱の側面には
下の写書きは、下側が右から始まっています。上の図とは逆になります
左側の親柱1には「圓龜(丸亀)玉垣講とあります。城下町丸亀の玉垣講による奉納のようです。この親柱の側面には
世話人 余島屋吉右衛門 森屋喜太郎名石 工 丸亀 阿波屋勘七
とあります。まず石工について見てみましょう。
阿波屋甚七(丸亀)の金毘羅さんに残した玉垣は以下の通りです
天保 七年(1836) (T-8・10)天保十一年(1840) (T-44)天保十三年(1842) (T-38)天保十五年(1844) (Tー26)
天保年間の短期間に集中しているようです。当時の職人は石工を含めて、一ヶ所に定住することなく、各地を渡り歩く人も多かったようです。腕がよければどこに行っても仕事はあったので、腕を上げるためにも各地を渡っていく職人がいたようです。甚七も丸亀に留まることなくローリングストーンとして流れて行ったのかもしれません。
親柱3に「天保十三年(1842)九月」とあります。
この時期は、金毘羅さんにとって着工から30年近くを経た金堂(現旭社)が完成に向けてやっと姿を現し、周辺整備が進められる中でした。また、丸亀新港も姿を見せ、参拝客はうなぎ登りに増え続ける謂わばバブルの時代でした。上方からの金毘羅船を迎える丸亀も、そのおかげで大いに潤いました。
そんな中で
「金堂の完成を祝して、我々もこの際に一肌脱ごうではないか、日頃お世話になっている金毘羅さんに、何かお返しができないものか」
という気運が盛り上がり、玉垣講の結成となったとしておきましょう。
玉垣3には、もうひとつ見逃せない文字が刻まれています。
「船宿中」です。ここから並ぶ小柱には、丸亀の船宿の主人たちの名前が続くのです。もちろん金毘羅船でやってきた参拝客の旅籠です。
十返舎一九の弥次喜多コンピが金毘羅詣でにやって来たときにも、船宿に泊まって、讃岐弁に悩まされる様子が滑稽に描かれていることを以前紹介しました。あの時の船宿は、金毘羅船の船頭が経営する旅籠でした。弥次さん喜多さんを船から自分の家(船宿)まで案内すると、奥さん(女将)が迎えてくれるという展開でした。金毘羅参拝客の急増で、こんな船宿は増え続けたのでしょう。彼らにとって「金毘羅さんは足を向けて眠ることはできない存在」だったかもしれません。玉垣奉納の話があれば喜んで応じたのではないでしょうか。
この玉垣では親柱と親柱の間に13本の小柱があります。
13人×10区間=130人
130人を越える奉納者の名前が並びます。もしかしたら奉納希望者は、もっといたが柱の数が足りなくて名前が入れられない者もいた、先着順あるいは抽選で決めたということもあったかもしれません。あくまで私の想像です。
昨日紹介した仁尾の塩田主塩田家や西讃一の地主大喜多家のように、一人で何本も奉納している人はいません。それだけ、商人たちの層が厚いことがうかがえます。さすが城下町丸亀というところでしょうか。
丸亀藩支藩の多度津藩の商人たちも頑張っています。
多度津、側面に問屋中 当所取次高松屋伊蔵 石工 久太郎
とあります。多度津の「問屋中」の檀那衆によって寄進された玉垣です。「問屋中」とは何なのでしょうか。「講」と似ていますが少し違うようです。「仲間≒連中」という意味合いのようです。
例えば商売人が仲間をつくったものとして
「問屋中・干鰯屋中(多度津) 藍師中(阿波)、茶碗場中・生魚商人中(明石)、魚買中(観音寺)、煙草中買仲間・干魚塩魚中買仲間・酒造家仲間・生鮑中買仲間・干鰯中買仲間(兵庫)」
海を生業の場とし、同じ仕事にたずさわる人がつくった仲間が作ったものには
「船頭中(丸亀)、船仲間(洲本)、小漁師中(観音寺)、廻船仲間(淡州)、船手若連中(大洲)」
などの名前が玉垣には見えます。海の神様として知られ始めた金毘羅さんへの信仰が、一緒に働く人々の連体感を強めるのに役立ったのかもしれません。 ここでは同業組合としての多度津藩の「問屋仲間」からの奉納としておきましょう。
多度津藩では親藩の丸亀藩の新堀湛甫に続けとばかりに、小藩ながら天保五年(1843)に着工し、4年後に竣工にこぎつけます。丸亀の新堀湛甫が一年余の工事で、工費も2千両余だったのに比べると、その額は5倍だったといわれます。これに協力したのが多度津の商人たちです。
湛甫の完成後に多度津港を利用する船は増え、港も栄えるようになります。多度津港に立ち寄る船の多くは、松前(北海道)からの海産物とその見返りに大坂・瀬戸内海沿岸から酒や雑貨・衣料を運ぶ千石船や北前船でした。それに加えて、西国からの琴平詣での金比羅船も殺到するようになります。深い港は、大型船が入港することもできるために、幕末にはイギリスや佐賀藩、幕府の蒸気船が相次いで入港し、多度津港は瀬戸内海随一の良港としての名声を高めていきます。これに伴い町の商売も繁盛し、特に松前からもたらされる鰯や地元産の砂糖・綿・油等を商う問屋は数十軒を超え、港に近い街路は船宿や旅人相手の小店でにぎわいます。このような繁栄を背景に、丸亀に負けじと多度津商人たちが奉納したのがこの玉垣ということになるようです。
次に石工の那葉屋久太郎について見ておきましょう。
彼は金毘羅門前町に店を構え、幕末から明治にかけて次のように数多くの玉垣を残しています。
弘化 三年(1846) (T-20)弘化 四年(1847) (T-5・6)嘉永 二年(1849) (T-49)嘉永 四年(1851) (T-47・48)嘉永 六年(1853) (Tー22)嘉永 七年(1854) (T-12・46)安政 七年(1860) (T-4)万延 元年(1860) (T-29)文久 元年(1861) (T-28)慶応 三年(1867) (Tー15)明治 六年(1873) (T-30)年代不明(T-18・24)(T-19)(T-32)
石工・久太郎の残した玉垣と金毘羅さんに残る玉垣の時代的推移表(下図)を見比べると
① 金堂完成の1845年前後から玉垣奉納が急増する。② 玉垣空白部分も1860年と明治維新に整備され③ 1880年には参道の全てにが玉垣が立ち並ぶ
その整備に大きな役割を果たしたのが石工久太郎ということになります。石工の推移時期については
①文化年間(一八〇四~一八)丸亀の石工・阿波屋甚七が手がけたものが多く②天保年間(1830~44)になると、中心的石工として活躍するのが金毘羅の那葉屋久太郎(久太良)
ということになるようです。丸亀の甚七から金毘羅の久太郎にバトンタッチされていきます。そして久太郎の活動時期は長いのです。幕末から明治に作られた玉垣の殆どを、彼が手がけています。それだけ評判の良かった石工だったのでしょう。
旭社の前の広場の右側(南側)玉垣T24も多度津からの貢納です。
多度津から寄進されたもので、親柱1の背面には「鰯屋中」と刻まれています。中は「仲間=同業組合」だとすると、鰯同業組合ということになります。
日持ちしない鰯がなぜ売り買いされるの?と、私も最初は疑問に思いました。食べるのではなく肥料になったようです。 干鰯は、文字の通り鰯を干したもので綿やサトウキビなどの商品作物栽培には欠かせないものでした。蝦夷地から運ばれてくる鯡油と同じく金肥と呼ばれる肥料で、使えば使うほど収穫は増すと云われていました。取粕というのは、油をとったかすですがこれも肥料になります。
干鰯の場合は、綿花やサトウキビ、藍などの商品作物栽培が広がるにつれて、需要はうなぎ登りになります。瀬戸内海では秋になるとどこの港にも鰯が押し寄せてきましたので、干鰯はどこでも生産されていました。廻船の船頭たちは、情報を仕入れながら安価に入手できる港を探しながら航海して、ここぞという港で積み込んで、高く売れる港で売り払って利鞘をかせいだのです。
多度津の後背地である弘田川流域でも、サトウキビや綿花が栽培されるようになると、干鰯の需要は高まります。新しくなった多度津港は大型船も入港しやすいので、鰯を積んだ船が以前にも増して入ってきます。それを取り扱う問屋の数も増えます。
もうひとつ気になるのが鰯問屋に名前を連ねる人たちの屋号です。
「大隅屋 播磨屋 尾道屋 出雲屋 塩飽屋 唐津屋 備前屋 伊予屋 阿波屋」
と他国地名の商人が多いように思えます。自分の出身地を表すものなかのか、取引相手を示すのか今の私には分かりませんが興味深いところです。
闇峠右側の玉垣 小豆島からの奉納 T35
そして小柱には、大宝丸 観音丸 住吉丸と船名が並びます。以前に、小豆島の苗羽を母港とした廻船大神丸の活動を紹介したことがあります。この船はマルキン醤油の創業家である木下家の持ち舟ですが九州天草までを商圏として活動していました。また、弁財船金毘羅丸の模型も、草壁田之浦の船大工仁兵衛から奉納されています。
この玉垣と併せて見ると、廻船業が栄えていた小豆島らしさが感じられます。小豆島廻船の活動としては
草壁・田之浦の船大工仁兵衛から奉納
この玉垣と併せて見ると、廻船業が栄えていた小豆島らしさが感じられます。小豆島廻船の活動としては
① 赤穂からの製塩業者の移住による塩生産② 小豆島産の塩と素麺を積み込んで、瀬戸内海各地で商いをしながら九州天草へ③ 天草で小麦・大豆を買付け④ 帰路に多度津で干鰯を売って⑤ 小豆島へ帰港、小麦大豆を原料に素麺生産
という拡大再生産サイクルが動いていました。これは毛織物工業を核としてオランダが中継貿易で繁栄を遂げるのと、どこか似ているように私には思えてきます。
このようなサイクルの中で廻船業や醤油業、素麺組合と小豆島は各産業が芽生え発展していきます。その経済力を背景にしての玉垣奉納なのでしょう。
四段坂下の真須賀神社前の玉垣 T36 小豆島から奉納その2
親柱2には「小豆島 金栄講」と講名があり、その小柱には「洲本 小堀屋」「志紫 市場講中」と淡路島の人や講名が見えます。小豆島の金毘羅講に商売のつながりのあった淡路島の人々がつきあいで参加したとも考えられます。どちらにしても、小豆島の商圏が淡路島にまで伸びていたことがうかがえます。
さきほどのT35と併せると小豆島の奉納者の総数は150人を越えます。
以上を、昨日分も一緒に、県内の玉垣奉納をまとめてみると
①金堂完成(1845)に前後するように、周辺の玉垣整備も進められた。②金堂周辺は、地元の丸亀藩と多度津藩の城下町の商人たち③暗闇峠には小豆島の檀那衆たち④書院前は、仁尾の塩田王塩田家⑤桜馬場詰めの階段は、観音寺の檀那衆⑥社務所の上の階段は、観音寺周辺の檀那衆たち⑦そして、明治10年前後には参道は全て玉垣で結ばれた
つまり、これ以後は玉垣を寄進したくてもできない状態になったことになります。気がつくのは、高松からの寄進がありません。高松だけでなく高松藩の坂出や宇多津などの港町からのものが玉垣には見当たらないのです。これは、高松藩による「指導」、あるいは「藩への配慮」があったことがうかがえます。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。参考文献
印南敏秀 玉垣 金毘羅庶民信仰資料集巻2



































