瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金刀比羅宮の玉垣

6 玉垣四段坂1
四段坂と金毘羅本宮

金毘羅さんで一番最初に石段や玉垣が整備されたエリアはどこなのでしょうか?
それは本宮前の四段坂のようです。ここは、山下から上り詰めてきた参拝者が最後に登る坂です。坂下から見上げると本宮の姿が垣間見えます。本宮を仰ぎ見ながら登る聖なる空間と思われていたのかもしれません。
 この坂が石段に整備されたのは、次のような人たちからの寄進でした
①寛政十年(1798)江戸・上州・京都・奥州・大坂の飛脚問屋組合の奉納
②文化八年(1811)室戸岬周辺の室津浦・浮津浦・吉良川津の網元たち
③文化九年(1812)室戸岬周辺の浦々の人々から奉納
   それでは、四段坂に玉垣を寄進したのは、どんな人たちだったのでしょうか
いつものように「金毘羅庶民信仰資料集巻2」を取り出して、四段坂の玉垣分布図を見てみます。

6 玉垣四段坂2
  坂の右側がT37、左がT38という整理番号が打たれています。左のT38の玉垣を見てみましょう。
6 玉垣四段坂 丸亀奉納

6 玉垣四段坂 丸亀奉納2
下の写書きは、下側が右から始まっています。上の図とは逆になります

左側の親柱1には「圓龜(丸亀)玉垣講とあります。城下町丸亀の玉垣講による奉納のようです。この親柱の側面には
世話人 余島屋吉右衛門 森屋喜太郎名
石 工 丸亀 阿波屋勘七
とあります。まず石工について見てみましょう。
阿波屋甚七(丸亀)の金毘羅さんに残した玉垣は以下の通りです
 天保 七年(1836)  (T-8・10)
 天保十一年(1840)  (T-44)
 天保十三年(1842)  (T-38)
 天保十五年(1844)  (Tー26)
天保年間の短期間に集中しているようです。当時の職人は石工を含めて、一ヶ所に定住することなく、各地を渡り歩く人も多かったようです。腕がよければどこに行っても仕事はあったので、腕を上げるためにも各地を渡っていく職人がいたようです。甚七も丸亀に留まることなくローリングストーンとして流れて行ったのかもしれません。
  奉納者の名前の見るとそれぞれの屋号から、城下町丸亀の商人たちであることが分かります。彼らが金毘羅さんへの玉垣奉納のために講を組織し、建設資金を集めて石工の阿波屋に依頼したようです。
6 玉垣四段坂 丸亀奉納3

親柱3に「天保十三年(1842)九月」とあります
この時期は、金毘羅さんにとって着工から30年近くを経た金堂(現旭社)が完成に向けてやっと姿を現し、周辺整備が進められる中でした。また、丸亀新港も姿を見せ、参拝客はうなぎ登りに増え続ける謂わばバブルの時代でした。上方からの金毘羅船を迎える丸亀も、そのおかげで大いに潤いました。
 そんな中で
「金堂の完成を祝して、我々もこの際に一肌脱ごうではないか、日頃お世話になっている金毘羅さんに、何かお返しができないものか」
という気運が盛り上がり、玉垣講の結成となったとしておきましょう。
 玉垣3には、もうひとつ見逃せない文字が刻まれています。
「船宿中」です。ここから並ぶ小柱には、丸亀の船宿の主人たちの名前が続くのです。もちろん金毘羅船でやってきた参拝客の旅籠です。
 十返舎一九の弥次喜多コンピが金毘羅詣でにやって来たときにも、船宿に泊まって、讃岐弁に悩まされる様子が滑稽に描かれていることを以前紹介しました。あの時の船宿は、金毘羅船の船頭が経営する旅籠でした。弥次さん喜多さんを船から自分の家(船宿)まで案内すると、奥さん(女将)が迎えてくれるという展開でした。金毘羅参拝客の急増で、こんな船宿は増え続けたのでしょう。彼らにとって「金毘羅さんは足を向けて眠ることはできない存在」だったかもしれません。玉垣奉納の話があれば喜んで応じたのではないでしょうか。
    この玉垣では親柱と親柱の間に13本の小柱があります。
13人×10区間=130人
130人を越える奉納者の名前が並びます。もしかしたら奉納希望者は、もっといたが柱の数が足りなくて名前が入れられない者もいた、先着順あるいは抽選で決めたということもあったかもしれません。あくまで私の想像です。
 昨日紹介した仁尾の塩田主塩田家や西讃一の地主大喜多家のように、一人で何本も奉納している人はいません。それだけ、商人たちの層が厚いことがうかがえます。さすが城下町丸亀というところでしょうか。

丸亀藩支藩の多度津藩の商人たちも頑張っています。

6 玉垣旭社下 多度津奉納T18
旭社下の石段左側の玉垣T18です。ここには親柱1の正面に
多度津、側面に問屋中 当所取次高松屋伊蔵 石工 久太郎

とあります。多度津の「問屋中」の檀那衆によって寄進された玉垣です。「問屋中」とは何なのでしょうか。「講」と似ていますが少し違うようです。「仲間≒連中」という意味合いのようです。
例えば商売人が仲間をつくったものとして
「問屋中・干鰯屋中(多度津) 藍師中(阿波)、茶碗場中・生魚商人中(明石)、魚買中(観音寺)、煙草中買仲間・干魚塩魚中買仲間・酒造家仲間・生鮑中買仲間・干鰯中買仲間(兵庫)」
海を生業の場とし、同じ仕事にたずさわる人がつくった仲間が作ったものには
「船頭中(丸亀)、船仲間(洲本)、小漁師中(観音寺)、廻船仲間(淡州)、船手若連中(大洲)」
などの名前が玉垣には見えます。海の神様として知られ始めた金毘羅さんへの信仰が、一緒に働く人々の連体感を強めるのに役立ったのかもしれません。 ここでは同業組合としての多度津藩の「問屋仲間」からの奉納としておきましょう。

6 玉垣四段坂 丸亀奉納4

多度津藩では親藩の丸亀藩の新堀湛甫に続けとばかりに、小藩ながら天保五年(1843)に着工し、4年後に竣工にこぎつけます。丸亀の新堀湛甫が一年余の工事で、工費も2千両余だったのに比べると、その額は5倍だったといわれます。これに協力したのが多度津の商人たちです。
 湛甫の完成後に多度津港を利用する船は増え、港も栄えるようになります。多度津港に立ち寄る船の多くは、松前(北海道)からの海産物とその見返りに大坂・瀬戸内海沿岸から酒や雑貨・衣料を運ぶ千石船や北前船でした。それに加えて、西国からの琴平詣での金比羅船も殺到するようになります。深い港は、大型船が入港することもできるために、幕末にはイギリスや佐賀藩、幕府の蒸気船が相次いで入港し、多度津港は瀬戸内海随一の良港としての名声を高めていきます。これに伴い町の商売も繁盛し、特に松前からもたらされる鰯や地元産の砂糖・綿・油等を商う問屋は数十軒を超え、港に近い街路は船宿や旅人相手の小店でにぎわいます。このような繁栄を背景に、丸亀に負けじと多度津商人たちが奉納したのがこの玉垣ということになるようです。
次に石工の那葉屋久太郎について見ておきましょう。
彼は金毘羅門前町に店を構え、幕末から明治にかけて次のように数多くの玉垣を残しています。
  弘化 三年(1846)  (T-20)
  弘化 四年(1847)  (T-5・6)
  嘉永 二年(1849)  (T-49)
  嘉永 四年(1851)  (T-47・48)
  嘉永 六年(1853)  (Tー22)
  嘉永 七年(1854)  (T-12・46)
  安政 七年(1860)  (T-4)
  万延 元年(1860)  (T-29)
  文久 元年(1861)  (T-28)
  慶応 三年(1867)  (Tー15)
  明治 六年(1873)  (T-30)
  年代不明(T-18・24)(T-19)(T-32)
  石工・久太郎の残した玉垣と金毘羅さんに残る玉垣の時代的推移表(下図)を見比べると
4 玉垣旭社前122

金堂完成の1845年前後から玉垣奉納が急増する。
玉垣空白部分も1860年と明治維新に整備され
1880年には参道の全てにが玉垣が立ち並ぶ
 その整備に大きな役割を果たしたのが石工久太郎ということになります。石工の推移時期については
①文化年間(一八〇四~一八)丸亀の石工・阿波屋甚七が手がけたものが多く
②天保年間(1830~44)になると、中心的石工として活躍するのが金毘羅の那葉屋久太郎(久太良)
ということになるようです。丸亀の甚七から金毘羅の久太郎にバトンタッチされていきます。そして久太郎の活動時期は長いのです。幕末から明治に作られた玉垣の殆どを、彼が手がけています。それだけ評判の良かった石工だったのでしょう。
6 玉垣旭社前 多度津奉納
旭社の前の広場の右側(南側)玉垣T24も多度津からの貢納です。
 
6 玉垣旭社前 多度津奉納2

ここの玉垣は、灯籠が前に並ぶようになったために見えにくくなってしまいました。T24の整理番号を打たれた玉垣に近づいてみると
多度津から寄進されたもので、親柱1の背面には「鰯屋中」と刻まれています。中は「仲間=同業組合」だとすると、鰯同業組合ということになります。
日持ちしない鰯がなぜ売り買いされるの?と、私も最初は疑問に思いました。食べるのではなく肥料になったようです。 干鰯は、文字の通り鰯を干したもので綿やサトウキビなどの商品作物栽培には欠かせないものでした。蝦夷地から運ばれてくる鯡油と同じく金肥と呼ばれる肥料で、使えば使うほど収穫は増すと云われていました。取粕というのは、油をとったかすですがこれも肥料になります。
   干鰯の場合は、綿花やサトウキビ、藍などの商品作物栽培が広がるにつれて、需要はうなぎ登りになります。瀬戸内海では秋になるとどこの港にも鰯が押し寄せてきましたので、干鰯はどこでも生産されていました。廻船の船頭たちは、情報を仕入れながら安価に入手できる港を探しながら航海して、ここぞという港で積み込んで、高く売れる港で売り払って利鞘をかせいだのです。
 多度津の後背地である弘田川流域でも、サトウキビや綿花が栽培されるようになると、干鰯の需要は高まります。新しくなった多度津港は大型船も入港しやすいので、鰯を積んだ船が以前にも増して入ってきます。それを取り扱う問屋の数も増えます。
もうひとつ気になるのが鰯問屋に名前を連ねる人たちの屋号です。
「大隅屋 播磨屋 尾道屋 出雲屋 塩飽屋 唐津屋 備前屋 伊予屋 阿波屋」
と他国地名の商人が多いように思えます。自分の出身地を表すものなかのか、取引相手を示すのか今の私には分かりませんが興味深いところです。
  
  闇峠右側の玉垣 小豆島からの奉納  T35
6 玉垣暗闇坂 小豆島1
金堂(旭社)から四段坂に繋がる闇峠右側の玉垣は、小豆島からの奉納です。親柱1には発起人8名の名前と、金毘羅での「定宿 森屋」が刻まれています。
 そして小柱には、大宝丸 観音丸 住吉丸と船名が並びます。以前に、小豆島の苗羽を母港とした廻船大神丸の活動を紹介したことがあります。この船はマルキン醤油の創業家である木下家の持ち舟ですが九州天草までを商圏として活動していました。また、弁財船金毘羅丸の模型も、草壁田之浦の船大工仁兵衛から奉納されています。
6 弁財船 小豆島奉納

草壁・田之浦の船大工仁兵衛から奉納

この玉垣と併せて見ると、廻船業が栄えていた小豆島らしさが感じられます。小豆島廻船の活動としては
① 赤穂からの製塩業者の移住による塩生産
② 小豆島産の塩と素麺を積み込んで、瀬戸内海各地で商いをしながら九州天草へ
③ 天草で小麦・大豆を買付け
④ 帰路に多度津で干鰯を売って
⑤ 小豆島へ帰港、小麦大豆を原料に素麺生産
という拡大再生産サイクルが動いていました。これは毛織物工業を核としてオランダが中継貿易で繁栄を遂げるのと、どこか似ているように私には思えてきます。
 このようなサイクルの中で廻船業や醤油業、素麺組合と小豆島は各産業が芽生え発展していきます。その経済力を背景にしての玉垣奉納なのでしょう。             
 四段坂下の真須賀神社前の玉垣 T36    小豆島から奉納その2

6 玉垣眞須賀神社前 小豆島奉納
  親柱2には「小豆島 金栄講」と講名があり、その小柱には「洲本 小堀屋」「志紫 市場講中」と淡路島の人や講名が見えます。小豆島の金毘羅講に商売のつながりのあった淡路島の人々がつきあいで参加したとも考えられます。どちらにしても、小豆島の商圏が淡路島にまで伸びていたことがうかがえます。
 さきほどのT35と併せると小豆島の奉納者の総数は150人を越えます。
6 玉垣暗闇坂 小豆島奉納

 以上を、昨日分も一緒に、県内の玉垣奉納をまとめてみると
①金堂完成(1845)に前後するように、周辺の玉垣整備も進められた。
②金堂周辺は、地元の丸亀藩と多度津藩の城下町の商人たち
③暗闇峠には小豆島の檀那衆たち
④書院前は、仁尾の塩田王塩田家
⑤桜馬場詰めの階段は、観音寺の檀那衆
⑥社務所の上の階段は、観音寺周辺の檀那衆たち
⑦そして、明治10年前後には参道は全て玉垣で結ばれた
つまり、これ以後は玉垣を寄進したくてもできない状態になったことになります。気がつくのは、高松からの寄進がありません。高松だけでなく高松藩の坂出や宇多津などの港町からのものが玉垣には見当たらないのです。これは、高松藩による「指導」、あるいは「藩への配慮」があったことがうかがえます。
 以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
印南敏秀 玉垣 
金毘羅庶民信仰資料集巻2

 

2

「金毘羅庶民信仰資料集巻2」を片手に玉垣めぐりをしてきました。この本には文化財に指定された金毘羅さんの鳥居・狛犬・石段・敷石・祈念碑・玉垣がすべておさめられています。今回は、地元讃岐の人たちの奉納した玉垣めぐりをしてみたいと思います。
6 玉垣書院下

桜馬場詰めT11 観音寺からの奉納玉垣
 まずは分布図で確認です。玉垣番号「T11」が三豊・観音寺周辺からの奉納のようです。これを分布図で見ると・・・桜馬場詰めの階段の玉垣のようです。向かって右側で、その背後は社務所のようです。
 T11の玉垣を紙面に起こしたのが下の表になります
6 玉垣書院下

ここには講名・取次者・奉納者や住所・奉納年月日・石工などが刻まれています。普通は一番最初の柱に、世話人や講名・奉納年月日があるのですがありません。
石段を登っていくと親柱3と4の笠石に「観音寺」という地名があります。また小柱には「小漁師中」とあります。「中=仲間」で同業者組合としておきましょう。ここでは、網元ではない小規模の漁師達が資金を出し合ったことがうかがえます。
親柱5のBに「富処(当所) 取次 森屋善太郎」とあります。
取次世話人で実質的な責任者で、金毘羅金光院と連絡事務や石工との連絡事務、支払会計などをすべて行った人物で、金毘羅門前町の大きな旅籠の主人などが務めることが多かったようです。
石工は「幾造」とあります。
幾造は、太田幾造で金毘羅の石工で、以下の4つの玉垣を残しています。
  慶応 三年(1867)  (T50)
  慶応 四年(1868)  (T11)
  明治十二年(1889)  (T13)
  明治十五年(1892)  (T39)
 石灯籠の初期のものは大坂を中心に、西日本各地の石工名前があります。それが、奉納がさかんになるにつれ、丸亀の石工に中心が移り、やがて、金毘羅の石工が多数を占めるようになります。わざわざ遠くから運ばなくても、地元で造れるようになったのでしょう。この背後には、金毘羅さんへの石造物奉納が増え、石工が住みついて生活できるだけの環境が整ったことが考えられます。
 その推移の時期をおおまかにいえば、
①丸亀の石工が多くなるのが文化年間(1804~18)
②金毘羅の石工にかわるのは天保年間(1830~44)
になるようです。
 玉垣と石燈龍を比べると、その細工は玉垣のほうが技術的に簡単です。最初は石燈龍を遠くの石工がつくり、わざわざ運んできたのは石灯籠の細工は高度の技術が必要で、加工できる職人が地元にはいなかったからでしょう。また、需要もなかった。それが、幕末期にはほとんどが金毘羅の門前町に住み着いた石工たちの手によって作られるようになります。
親柱5と6の間には小柱がありません。ここで一区切りして、親柱6から一連のつななりがはじまります。その親柱6のAに「慶応四年三月」と奉納年月日があります。この年は、10月からは元号が明治と変わる明治維新でもあります。1月の鳥羽伏見の戦いの後、金毘羅さんに「ええじゃないか」の騒乱と土佐軍の進駐占領、そして神仏分離が進められた年です。そのような中で、この玉垣は石工幾造の手で作られていたことになります。そして、奉納したのは笠石に刻まれた観音寺の人たちだったことが分かります。
6 玉垣書院下2

玉垣を奉納する場合、親柱の数が十数本あるのが普通です。
そして、平地では親柱と親柱の間には10本の小柱が入ります。小柱10×大柱10=100本という勘定になります。別の言い方をすると100人の名前が刻めるということです。そこで、一連の玉垣は100人近くの奉納者によって建立されたということになります。

 現在では玉垣奉納は、神社の社務所に願い出れば、奉納金を納めるだけです。受付順に奉納者の名前がならぶことになります。隣同士の関係は無関係です。
 しかし、当時はそうではありませんでした。
例えば「玉垣講」の寄進の場合は、世話人と玉垣に名前が掘られた人たちの間に講員同士というつながりがあります。金比羅講で参拝したメンバーに呼びかけて玉垣奉納に賛同する人々を集め、奉納金を集めるのが現地世話人の仕事になります。玉垣の柱の数と支払金額は前もって分かっています。予定通りに集まらなければ、資金力にゆとりのある人に何本分かの金額をお願いすることもあったでしょう。それでも集まらない場合は、自腹を切ったこともあるかもしれません。
6 玉垣書院下5
T11 桜の馬場詰右側の玉垣 親柱26 観音寺
  このT11は小柱の数が少ないようです。
それは急な階段のために構造的に親柱間を短く取らなければならず、その結果ここでは小柱3本だけになっています。もちろん親柱に名前の刻まれた方が奉納金は多かったことは云うまでもありません。それだけ有力者であったということでしょう。
6 玉垣書院下3

ここには、現在でも営業を続ける馴染みの店の名前もあります。150年近く前の明治維新に玉垣を奉納した先祖に連なる人たちが今も同じように観音寺で商売を続けているようです。
 
書院下石段の玉垣T13・14・15  三豊観音寺周辺からの奉納
6 玉垣書院下6 大野原2jpg

この玉垣は大門から直進してきた参道が書院前に登っていく階段にあります。
親柱1に「慶応四年八月」とありますので、T11が「慶応四年3月」でしたから同じ年の夏に引き続いて作られたことが分かります。石工は多度津の「和泉屋常吉」とあります。金毘羅の石工ではないようです。多度津の石工はめずらしいようです。
小柱には「洗心館」が並びます。これが何者であるのか、旅館なのか、運動団体なのか、今の私にはわかりません。次には平田正節の名前が並びます。先ほどの「世話人=空き柱自腹説」によると、目標金額に達しなかった部分を「洗心館と平田正節」が埋めたということになります。この二人がT13奉納の中心人物のようです。
  この玉垣群が先ほどのT11と違うところは
T11 観音寺旧市街の檀那衆
T13・14・15 観音寺周辺の郡部の檀那衆
という点です。T13には、辻村・大野原・河内邨の地名が掘られています。
讃岐一の大地主 大喜多家の玉垣    T14の親柱11・12
6 玉垣書院下6 大喜多

  T14の親柱11には「何某」とあります。現代風に云うなら「匿名希望」なのでしょうか。どんな人物だったか、あるいは、なぜ匿名にしなければならなかったのか想像力が刺激されます。
6 玉垣書院下6 大喜多.2jpg
 起点になる親柱12には「河内邨 大喜多卿英」とあります。大喜多家については以前にもお話ししましたが、「西讃一の地主」と云われると同時に、サトウキビ栽培から砂糖製造など手広く商いにも手を伸ばしていた最有力家です。地元の河内村の鎮守にポケットマネーで太鼓台を寄付したりしています。今でもその太鼓台は現役のようです。「何某」というのも実は、大喜多家のことではないかと思えてきたりします。

   仁尾の塩田王 塩田家の奉納玉垣  T15

6 玉垣書院下7siota 2

T14の反対側の上部に並ぶのがT15です。ここの玉垣は変わっています。下の絵のように小柱がないのです。
6 玉垣書院下7siota

親柱1Aに寄進者が西讃仁尾 石登講とあり 
   B 発願 吉田太良右エ門 塩田調亮利亘
   C 奉納日が慶応3年3月吉日とあります。
奉納者の氏名は、塩田と吉田のふたつだけです。仁尾を代表する二つの檀那衆が明治維新の前年に、奉納したものであることが分かります。塩田家は、仁尾塩田の持ち主で仁尾一の財力があったと云われます。明治になっての三豊女学校の講堂への寄付金額などを見ても、仁尾の塩田家と、先ほど見た河内の大喜多家の二家が飛び抜けていたことを思い出します。
 以上見てきた玉垣の奉納順を見てみると、次のようになります
①慶応3年(1867)3月 T15 仁尾の塩田・吉田家
②慶応4年(1668)3月 T11 桜馬場詰め 観音寺の檀那衆
③慶応4年(1668)8月 T13・14・15   書院下石段の玉垣 三豊観音寺周辺
   ここからは想像できるストーリーは?
「知っとるか? 仁尾の塩田家と吉田家が、金毘羅さんに玉垣を奉納したげな」
「知っとる、知っとる。それも、親柱にしか名前を掘ってないらしいで。小柱はないんやそうな」
「なんかもったいないような気がするわ。儂の名前でも入れてくれたらええのに・・・」
「あほゆうな。場所も社務所の前の一等地らしいで」
「さすがは、塩田王やのお」
「ほんまや、けど聞いた話では観音寺の檀那衆も負けじと奉納する話が進みよるらしいわ」
 仁尾の塩田家の玉垣寄進が、周囲に波紋を与え広がって行く様子がうかがえます。 これをまねるように明治15年に茶屋前石段左に現れたのが玉垣T16です。
6 玉垣書院下8

これも小柱には何も刻まれません。親柱だけに「当国三野郡笠岡村 鳥取天道」とあります。

6 玉垣書院下82

T15の二人奉納に刺激されて、現れた一人奉納がT16だったとしておきましょう。鳥取天道が何者であるのかは、今の私には分かりません。
以上をまとめておくと
①明治を迎える直前に金毘羅大権現の社務所周辺の玉垣整備を行ったのは三豊の檀那衆であった
②それは仁尾の塩田王塩田家の奉納にはじまり、観音寺旧市街から、大野原や辻のような郡部にも広がった
③そして、河内の大喜多家も奉納している
おつきあいいただき、ありがとうございました。

  
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幕末の「金毘羅参詣名所圖會」[1847]に描かれた象頭山松尾寺金光院を見てみましょう
大門をくぐって桜馬場からの参道は、石段も玉垣も見えません。ここを登りきると、金堂(現旭社)前の広場にたどり着きます。金堂は、三万両という巨費をかけて2年前(1845)に完成したばかりでした。清水次郎長の代参でやってきた森の石松が、これを金毘羅大権現の本社と勘違いして帰ったと伝えられますが、それほど立派な建物です。当時は「西国一の建物」とも云われたようです。
 この金堂の下には多宝塔が建っています。真言密教の寺であることの存在証明のようなモニュメントです。この他にも鐘楼などの建物が建ち並ぶ姿が描かれます。金毘羅大権現の境内は、神社と云うよりは仏教伽藍と呼ぶ方がふさわしかったことがよく分かります。
 さて今回は玉垣を見ていきます。金堂の右側の石段は、下り専用です。ここには、石段がまっすぐに描かれています。しかし、玉垣は見えません。まだ作られていないようです。さらに、金堂の登ってくる左下の坂道を見ると、ここには石段もないように見えます。

それから7年後の「讃岐名所圖會」(1854)に描かれた金堂です。
★「讃岐名所圖會」にみる金刀毘羅宮konpira2

描かれた角度がちがいます。作者は、新たな構図から描かれた俯瞰図をめざしたのでしょう。金堂と多宝塔の位置に注意しながら90度くらい回転させた構図になります。蟻のように参拝者が描かれて金毘羅さんの「繁盛ぶり」が伝わってきます。
 旭社周辺の様子を、7年前の絵図と比較してみると・・・・
①旭社前の坂道は、石段が整備され玉垣もある。
②灯籠が立ち並んでいる
③二天門が移築され、前に鳥居が建立されている
④二天門に続く参道には長い回廊(休息所)ができている
⑤一直線であった本宮からの下り道が90度に曲がって下りてくるようになっている。
今回は脇目を振らずに玉垣に集中するために①②のみを追いかけます
  それでは、多宝塔から金堂へ上がっていく玉垣はいつ整備されたのでしょうか?

★「讃岐名所圖會」にみる多宝塔2

  それをしるための工具が「金毘羅庶民信仰資料集巻2」です。
4 玉垣旭社前
「金毘羅庶民信仰資料集巻2」

ここには文化財に指定された鳥居・狛犬・石段・敷石・祈念碑・玉垣がすべておさめられています。たとえば、多宝塔から金堂への坂道の玉垣には、右側がT22、左側がT23の番号が打たれています。そして、その親柱と小柱に刻まれた奉納者氏名や住所・奉納年月日・取次者・石工までが載せられています。
それでは玉垣T22を見てみましょう。
 
4 玉垣旭社前11
一番下の起点になる親柱に刻まれた奉納年月日は
嘉永6(1853)年五月吉日です。「讃岐名所圖會」(1854)が描かれた前年に、この玉垣は完成したようです。その下に名前があるとのは、取次世話人で実質的な責任者で、資金集めや支払い、金毘羅金光院と連絡事務などをすべて行った人物で、大きな旅籠の主人などが務めることが多かったようです。
そして、親柱と親柱に小柱が5本あります。そこに寄進者の名前が刻まれることになります。ここには「米屋周助」とあります。5本目は「米屋周次郎」とありますから、跡継ぎでしょうか。そんなことを想像していると、何かしらドラマが生まれそうな気がしてきます。
さて、これを寄進したのはどこの人たちなのでしょうか?
それは、この玉垣の一番上の最後の親柱8に刻まれています。

4 玉垣旭社前12
  親柱8にはもう一人の世話人の住所が「予州松山三津濱(浜)」とあります。松山の外港で繁栄した三津浜の商人たち寄進した玉垣だと分かります。親柱6と7の間の小柱には「海上安全」とありますので、三津屋は廻船問屋など海に関係した商売に携わっていたのかもしれません。
今までの所を確認しておきましょう。
 玉垣を奉納する場合、親柱の数が十数本あるのが普通です。
一連の玉垣は100人近くの奉納者によって建立されたということになります。そして、奉納年月日や願主、世話人は、端の親柱の1ヶ所にしか彫られていません。したがって一連の玉垣の親柱、小柱に彫られた多くの人名は、何らかの関係で結ばれた人々と考えられます。

4 玉垣旭社前90

 玉垣はそれまでの灯籠や鳥居などに比べ、ひとりひとりの名前を親柱・小柱に大きく彫りつけることができます。長い参道を登る金毘羅さんの参拝客にとってはいやが上にも目に入ってきます。これは奉納者にとっては魅力であったはずです。金比羅講で参拝した裕福な商人たちが、まだ繋がっていない玉垣をみて、ここに私たちの名前を刻んだ玉垣を奉納しようと話し合い、定宿の旅館の主に相談すれば、後の事務手続はすべてやってくれます。お金を支払うだけです。
 こうして、境内の長い参道に玉垣が短期間に出来上がっていったようです。
4 玉垣旭社前122

   金堂が30年近い工期を経て完成するのが1845年でした。
金堂完成に併せて石段や敷石などの周辺整備も進みます。それと同時歩調で玉垣整備が進められたのがこの表からはわかります。その契機になったのが金堂完成なのでしょう。ここでも石の玉垣が姿を現したのは幕末になってからで、思ったよりも新しいことが分かります。

  それでは、石の玉垣が現れる以前は、どうだったのでしょうか?
 『金毘羅参詣続膝栗毛』を書いた十返舎一九は、『讃岐国象頭山金毘羅詣』(文化七年-1810)に桜馬場あたりのことを、次のように記しています。
  「坊舎の桜樹は朱の玉垣と等く美し」
ここからはこの時の桜馬場の玉垣は、奈良時代のような朱塗りの木造であったことが分かります。鳥居が木造から石造に代わったように、玉垣も最初は木造で、それが幕末期に石の玉垣が大量に出現するようになったのです。玉垣建立の年代をしめした上表からも、江戸時代の末期から石造玉垣が急増していったことが分かります。。
この向かいのT23の玉垣は、どんな人たちの寄進なのでしょうか?

4 玉垣旭社前1222
T23の玉垣の寄進年月日を見ると寛成8(1796)年10月7日とあります。T22よりも半世紀も前のものです。初期に作られた玉垣の一つです。左側の玉垣はできても右側はなかなか姿を見せなかったようです。10月10日の大祭の前にやって来て奉納の儀式を終えたのかもしれません
 この玉垣には「玉垣講」とあります。
玉垣講には、大洲城下講中、米湊村・宮之下村講中(大洲城下講中)、小豆島厚演講中、明石吹上村講中・井出村講中・和坂村講中(明石玉垣講中)、松山城 下大唐人四丁目講中など、城下町や村単位の講があったことが分かります。この玉垣は大洲の玉垣講ですが、特徴的なのは大洲城下だけでなく周辺の村々の講中も加わっていたようです。
   地名でなく、おめでたい言葉がつけられた講もあります。
 鶴亀講、栄講、賓来講、金吉講、永代講、繁栄講、繁昌講中、栄壽講、金豊講などで、兵庫の鶴亀講、栄講などに見られるように、商人たちの講で、商売繁昌を願ってつけられることが多かったようです。
  講のあり方を示す言葉が名称になったものもあります。
 月参和順講(大洲)・初日講(兵庫)月参和順講は、毎月、講から代表の参拝者を出していたところからつけられた名前でしょう。初日講は、毎月の一日に参拝者を出すか、あるいは、その日ごとに集まって金毘羅さんを拝むなどしていたのでしょう。
4 玉垣旭社前12224

こうした人々の信仰心に支えられて、玉垣寄進は幕末に爆発的に増えて、急速に金毘羅さんの境内は整備されていったようです。どこにもないような玉垣と石段と灯籠の続く参道を人目みたいとと参拝客は増え続けたのです。
以上をまとめておきます。
①19世紀になり東国からの金比羅詣が増え、参拝客は増加した。
②これを背景に、1845年に総工費三万両をかけた金堂が完成した。
③新たな観光名所とするために金堂周辺の整備が進められた。
④その一環が参道の石段化や玉垣・灯籠の整備であった。
⑤こうして19世紀半ばには、金毘羅さんの参道は、石で白く輝く参道に生まれ変り、周辺の寺社と差別化が進み、さらなる参拝客の増加へとつながった。
⑥周辺の寺社の坂道が石段化し、玉垣で囲まれるようになるのは、幕末以後の明治になってからのことであった。

   以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

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