瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金刀比羅宮崇敬講社

全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 結願祭

 明治7年に国の進める神道国教化政策に沿って、信徒の組織化のために金刀比羅宮が崇敬講社(以下・講社)を設立したことを、前回はお話ししました。金刀比羅宮には、「金刀比羅宮崇敬講社」の講員(会員)名簿(=講帳)が約14000冊ほどが保存されているようです。それらの「講帳」の約半数の調査が行われ、報告書として『金刀比羅宮崇敬講社講帳目録』が出されています。これをテキストにして、講帳から見えてくることを挙げていきましょう。
 報告書のはしがきには、講帳について次のような指摘がされています。
①講帳は、北海道から沖縄までの全国の会員を網羅するものである
②取次定宿名とあるのは、講員がそれぞれ属した講元のことである。「定宿」が地域の名簿作成の責任者となっている。
③「筆乃晦→桜屋源兵衛」とあるのは、講員株が講元筆乃海から講元桜屋源兵衛へ売却されたことを示している。つまり、講員名簿は「定宿」間で売買されていた。
④講元は「定宿」(その地域の旅館)で、講員と日常的に接触し、一方で金刀比羅宮参詣の際には宿泊していた
全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 朝祭

 「崇敬講社講帳」の記載内容については
江戸時代に隆盛をきわめた参詣講には「伊勢講・高野山講・出羽三山講・白山講・大山講・立山講等」などがあります。これらの講帳には、戸主だけが記されています。それでは金刀比羅宮の場合は、どうだったのでしょうか
『金刀比羅宮崇敬講社講帳』の記載内容の実際を見てみましょう
「講帳」第壱号の巻頭部分を見ると、
名東県下讃岐国第廿一大区五小区那珂郡琴平村居住
明治七年十一月一日入構
               琴 陵 宥 常 印
                  当戌三拾六歳
  同         妻   千 萬 二拾一歳
  同    死去   長男  千 盾   壱歳 
            長女  瑞 枝 十年十ヶ月
            次女  八千代 九年一ヶ月
            三女  勝 也 六年十ヶ月
            四女  賢 子 二年七ヶ月
とあります。当時は前年から香川県は廃止され「阿波+淡路+香川」で名東県になっていました。一番最初に記されている人物は、金刀比羅宮社務職の琴陵宥常です。金刀比羅宮講帳には各戸の戸主が筆頭にかかれ、そのあとに続けて妻・小供・同居人の順に家族全員の名前が記され、さらに戸主との続柄、年齢までが記入されているのです。
続いて、一人置いて
名東県下讃岐国第廿一大区五小区那珂郡琴平村寄留
         松岡 調 印 当戌四拾五歳
   死亡 母  脇屋里喜      五拾七歳
   死亡 妻  松岡須磨      二拾九歳
   死亡 長男同 徳三郎       十八歳
      長女同 喜 志        八歳
      次女同 安 佐        五歳
      次男同 多 平        一歳
      
と続きます。松岡調は、すでに何回も登場していますが、讃岐の神仏分離政策の中心人物で辣腕を振るい、それが認められて、当時は金刀比羅宮の禰宜職についていた人物です。
 ここからは「講帳」第壱号は、事比羅宮社内の講者名簿であることが分かります。次いで第弐号が坂町、以下札ノ前・愛宕町・高藪町・金山寺町・谷川・奥谷川・片原町・阿波町・内町・西山・新町と琴平村内各町から榎井村の人々へと人講名簿が続きます。
 象頭山のお膝元のエリアでは、明治8年(1875)7月頃までには崇敬講社への加入が終わり、その後四国全域からさらに全国に広がる講社入講が進められていったことがうかがえます。
 金刀比羅宮の崇敬講が、家族ぐるみで講員を把握しようとしていた狙いはなんなのでしょうか。
 この内容であれば、世代が変わっても講員を追いかけることができます。永続的に利用できる台帳の作成を狙っていたようです。ここまで見てくると、これはどこかで見たことのあるシステムに似ています。そうです。中世の熊野信仰の熊野行者の先達と檀那の関係に、よく似ているようです。熊野行者の歴史に学んでいる様子がうかがえます。 

全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 結願祭2

 調査対象になった7277冊の「崇敬講社台帳」は、全体の半分に当たります
帳簿の形態は美濃紙ニッ折  版の袋綴で、用紙は有罫の美濃紙に書かれているものを、1冊約50枚毎に綴じ込んでいるようです。7277冊の冊数を地域別にみると、
第1位四国2832冊(38・8%)
第2位中国2457冊(33・7%)
第3位近畿620冊、
第4位中部502冊、
第5位九州391冊、
第6位関東203冊
第7位北陸163冊
第8位北海道・東北113冊
とで、中四国で全体の3/4を占めます。
 旧国別ベスト10を挙げてみると
1 土佐842冊
2 伊予814
3 阿波524
4 備中484
5 出雲466
6 備前297
7 伯耆308
8 丹波276
9 美作266
四国・中国地方の冊数が多いようです。しかし、地元の讃岐が見えません。

全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 結願祭3

年代的に、いつごろからこの帳簿が作成されたかをみてみると、
金刀比羅宮が「金刀比羅宮崇敬講社」の設立を教部省に願い出でのが
明治7年2月です。その翌年の明治8年から播磨・備前・備後・讃岐・伊予の名簿作成が始まっているようです。明治9年になって、先ほどのベスト10の伯署・丹波を除く8か国が、作成を始めています。地域的には中国・四国は明治9~12年頃に作成されています。それ以外は、3,4年遅れてスタートしています。金刀比羅宮は、まず地元から講社を再編成し、次第にその範囲を同心円的に全国に押しひろげていったことがうかがえます。

奉納品 崇敬講社看板 
 講元(取次定宿)は、江戸時代の金毘羅講の御師の系譜を引く家柄と研究者は考えているようです。
 彼らが講を組織化し、お札やお守りを全国各地へ定期的に配布します。それだけでなく彼らは、会員名簿を作成し、組織強化の原動力になったようです。同時に、この名簿は熊野行者の「檀那」名簿とおなじで「金のなる木(名簿)」でもありました。金毘羅さん指定の「定宿」の「金看板」と共に、売買の対象となったことは、先ほど見たとおりです。このような経済的な利益が背後にあったことも、「定宿」が熱心に講員獲得に動いた背景なのでしょう。
 江戸時代に象頭山で修行した「金毘羅行者」たちが、全国に散らばり金毘羅信仰を広め、先達として、金毘羅さんに誘引するとスタイルの近代バージョンとも思えてきます。
 
全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月9日 朝祭

 「金刀比羅宮崇敬講社規則」には「講員は少なくとも年に一度は、事比羅宮に参拝すること」と定められています。

講員は、これにに従わなければなりません。香川県内の講員は「総参り」と称して講員全員が揃って参拝したようです。遠隔地の講員の場合には、江戸時代と同じように交代で「代参」するスタイルがとられました。
講員の参拝には、一般の参拝者とは異なる取扱いが行われたようです。特別扱いということでしょうか。例えば、一般の参拝者には許されていなかった「内陣入り」という拝殿に上がって参拝祈祷することが許されました。また、「講社守」(「一代守」とも称した)といわれる講員だけが手にできる特別の守札もありました。さらに、講員や講社からの奉納物の取次などについても便宜が計られるなど、「金刀比羅宮崇敬講社」の講員に対しては、一般の参拝者とは異なった特別接遇が行われていたようです。これは、ありがたみが増すと共に、自尊心が擽られます。悪い気にはなりません。「講員になっていてよかった」と、思ったとしておきましょう。
 こうして、講員はうなぎ登りに増え、明治22年(1889)5月頃には講社員300万人を越えるまでになります。
1崇敬講社加入者数 昭和16年

図11からは、太平洋戦争に突入する昭和16年の各県の新規会員数が分かります。
①東京・大坂・愛知・兵庫などの都市圏で新規講員の数が多いこと
②四国の愛媛・高知も新規加入者が多い
③それに対して、香川・徳島の伸びが鈍化しています。飽和状態に近づいてきたのでしょうか。
④領土的拡大や膨張とともに台湾。朝鮮・樺太・関東州・満州などからの加入者も増えている

実際に金毘羅詣は、どのような形で行われていたのでしょうか。
 丸亀市通町の崇敬講社の金毘羅参拝の様子を見てみましょう。
  竹内左門「琴平山博覧会と丸亀通町の金比羅敬神講」〔『こと比ら』37 昭和五十七年新春号〕
これも母から聞いた話である。①通町には年三回、二五銭ずつを積み立てて、金ぴらまいりをする敬神講があった。②毎年五月十日に、大体百人一組で、丸亀から汽車で琴平へおまいりに行った。
③休憩所は登茂屋久兵衛(現在舟々せんべいを売っているあたりだった)、ここは間口も広く奥行き深く、山を形どった庭、それに座敷も広かった。九時頃宿屋へ着くと、まず風呂にはいり、浴衣に着かえるとお茶漬がでる。鰭の煮付けにフキをあしらった皿物、かし椀(香味、カマボコ、麹など)、漬け物といった膳立てである。

 茶漬けが終わると、④一同勢揃いしてお山にのぼり、本社拝殿に詣でて、お祓いを受ける。そして、拝殿で八乙女の神楽舞を拝観する。囃子(ハヤシ)方は、男四人宛両側に並び、せき鉦(ショウ)、笛などの楽器を奏し、紫の袴の巫女(ミコ)が琴を弾ずる。舞が終ると内陣にはいって今度は金の御幣でまたお祓いを受ける。これで約一時間かかる。
   お山を降りて、⑤社務所では千畳敷(書院のこと)を拝観、つぎに大広間でお膳につく。簡単なものであるが、これがなかなか有り難いのである。背の高い、丸型に押し抜いた赤飯が、白紙を敷いた高坏(タカツキ)に盛られ、木皿にはスルメと昆布、盃には宮司が御神酒を注いでくれる。その上に紅白の折り物が出る。
 それからいよいよ最後の行事である⑥神籤(カミクジ)を各人がひくのである。これが当日の第一の楽しみであり、またこれが金比羅敬神講の山場でもある。三等まで賞品がつく。
 籤引きが終われば、⑧一同宿屋に帰って会席膳について寛ぎ、おまいりもここに終了となるのである。
全予算七五円のうち、二五円はお山に奉納、五〇円が宿屋の支払いだったという。
   ここからは次のような事が分かります。
①年三回、25銭ずつを積み立てて、金毘羅詣りを敬神講があった
②毎年5月10日に、百人一組で、丸亀から汽車で琴平へおまいりに行った。
③崇敬講社指定の休憩所(定休み)は登茂屋久兵衛で、九時頃宿屋へ着くと、風呂に茶漬を食べた。
④一同勢揃いして、本社拝殿に詣でて、お祓いを受け、拝殿で八乙女の神楽舞を拝観する。
⑤社務所では千畳敷(書院のこと)を拝観、つぎに大広間でお膳につく。
⑥最後の行事である神籤(カミクジ)をひく。これが当日の第一の楽しみであった。
⑦籤引きが終わると、宿屋で会席膳で寛ぎ終了となる。
⑧全体の予算七五円のうち、25円はお山に奉納、50円が宿屋の支払いだった
街毎に金毘羅講があり、会費を徴収して、5月に100人の団体で金比羅にお参りしていたようです。汽車で琴平駅について、すぐにお参りするのかと思えばそうではありません。まずは、崇敬講社の指定する宿屋(定休)で、お風呂に入り身を清めて、浴衣に着替えて茶漬けを食べてからです。
奉納品 崇敬講社看板 定休
 
 江戸時代の元禄年鑑に書かれた屏風絵には、金倉川に架かる鞘橋の下で、コリトリ(禊ぎ)をする信者の姿が描かれています。お風呂に入って、身を清めてから参拝するというのも「コリトリ」の発展変形バージョンかもしれません。
 講員の参拝ですから次のような「特別扱い」を受けています
④拝殿に上がってお祓いを受け、八乙女の神楽舞を拝観
⑤社務所書院の千畳敷の拝観とお膳
講員をお客様として、神社側も接待していた様子がうかがえます。
 隣近所の人たちと連れだって、新緑の5月の象頭山に登るのは、ある意味レクレーションでもあったし、古代以来の霊山への参拝の系譜につながるものであったかもしれません。

DSC01531戦時下の金刀比羅宮集団参拝
戦時下の戦勝祈願のための金刀比羅宮日参

 このような講員組織を、近代日本の国家は、国家神道の一部に組み込んでいきます。日中戦争が激化すると、地域での金刀比羅宮への参拝を半強制化するようになります。太平洋戦争に突入すると、順番を決めて地域代表の日参化を強制するようになります。それが、可能であったのも明治の時代から金比羅講が組織化され、地元の人たちが金毘羅詣でを日常生活の中に取り入れていたから出来たことかもしれません。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献 
西牟田 崇生  金刀比羅宮と琴陵宥常  国書刊行会
竹内左門「琴平山博覧会と丸亀通町の金比羅敬神講」〔『こと比ら』37 昭和五十七年新春号〕

    各地に金毘羅への参詣講、寄進講ができて人々の金毘羅信仰は幕末にかけて急速な高まりを見せます。しかし、江戸時代には、これらの講を全国的に組織化しようとする動きはありませんでした。各藩の分立主権状態では、それは無理な話だったのかもしれません。
 しかし、明治になって維新政府は神道国教化政策の一環として、信徒集団の組織化を各神社に求めるようになります。そこで明治7年、金刀比羅本宮崇敬講社が結成されます。これは時流に乗り、入講手続きをして会員となる信者が増え、7年後の明治14年には、講員が200万人を超えます。これを契機に神道事務局の直属して、金刀比羅崇敬教会と公称することになります。さらに、明治22年には、講員300万人にまで膨らみます。この積立金基金が大日本帝国水難救済会の創立資金となったことは、以前にお話しした通りです。

 会員の特典のひとつが「安心して、安価で信頼の出来る指定業者」が利用できることでした。
「讃岐金刀比羅教会」の崇敬講社に指定されたのは「定宿」「乗船定問屋」「定休」です。
奉納品 崇敬講社看板 定休

「定休」は参拝の講員が休憩するところ、「定宿」は宿泊するところで、講社が指定した定宿に看板を渡して掲げさせます。
 講員は定宿に泊まれば割引になり、一方宿屋の方は「金比羅指定のお宿」ということで一般の参拝者もこの看板を見て安心して泊まるわけで、客の増加につながり、また、名誉なことでもあったようです。そのため、この看板は「金看板」とも云われたようで、この看板があるのとないのでは、宿のランクも利益も大きく違ってきたようです。この看板さえ掛かっていれば、全国からの金毘羅を目指す参拝客が利用してくれたのです。しかも、団体で・・。
それでは「定問屋」とは、何でしょうか?
奉納品 崇敬講社看板 

私は、金毘羅さん御用達の問屋だと最初は思っていましたが、大面違いでした。「乗船」を読み飛ばしていました。
 四国以外からの参拝者は、必ず瀬戸内海をわたらなければなりません。瀬戸内海の船旅は、十返舎一九が弥次喜多コンビに金毘羅詣でをさせたときに描かれているように、東国の人にとって魅力なクルージングでもありました。丸亀・多度津の港も整備され、江戸時代の18世紀中頃からは大坂から金毘羅船と称する定期船も出るようになっていたことは、以前にお話ししました。[定船定問屋]は、こうした参拝客をはこぶ出船所に掲げられたものでした。看板はケヤキの一枚板です。

1虎屋玄関表
内町の虎屋
交通の不便な時代、遠く離れた霊場へ参拝するのは庶民にとっては、金銭的にも難しいことでした。
そこで、信仰を同じくする人々が参拝講をつくり、少しずつ積みたてた金で代参者を月ごとや、年に一度代参させるシステムが出来上がります。こうして、都市部を中心に金比羅講が組織され、地元で毎月の参拝や会食を行い。その時に会費積み立てていくようになります。そして、積立金で代表者を四国の金毘羅さんに「代参者」として送り出します。
 こうして、講員になっていれば一生に一度は金比羅詣りが出来るようになります。これが江戸や大坂での金比羅ブームの起爆剤のひとつになったようです。このような日常的な宗教活動が、金比羅への灯籠寄進などにもつながっていくようです。

大坂平野町の「まつ屋卵兵衛」の崇敬講社定宿の「ちらし」です。
1崇敬講社 御宿広告

 金毘羅崇敬講社では、それまで交渉のあった各地の旅宿を定宿に指定し、目印になる旗と看板を配布しました。その看板を右側に、旗を左側に入れて、ちらしを作って配布したようです。赤と黄色のコントラストが鮮やかで、今までにないもので評判になったことでしょう。
 冒頭に「讃州金毘羅蒸気出港所」「各国蒸気船取扱問屋」とありますから、いち早く金比羅航路に蒸気船を投入していたことがうかがえます。ちなみに「まつ屋」は、崇敬講社の定宿の中で、「大坂ヨリ中仙道筋」の一等取締に就任しています。

DSC01188

こちらは、短冊形で先ほどの「松屋」に比べると小形です。
船問屋や定宿では、これらをお土産がわりに無料で宿泊客に配布したようです。各船問屋が使用していた自慢の「金比羅船」も描き込まれていて、意気込みのようなものを感じます。
  このような定宿や船問屋のセールス活動が、ますます金毘羅さんへの参拝客の増加につながることになったようです。

 しかし、戦後になって車での参拝が多くなるにしたがって参拝講をわざわざつくらなくても気軽に参拝出来るようになると、このシステムは次第に衰退していくことになります。そして、昭和の終わり頃には、琴平の旅館にこの講社看板を掲げているところはなくなったようです。
 木札は旅館の玄関に掲げられたので、1m後の大きなものです。
古くなった木札は「御霊返し」といって、参拝時に返納され、新しいもの交換されたようです。そのために、金刀比羅宮に200点近い数の木札が保管されていたようです。中には広島県尾道市の富永家と香川県詫間町の森家のように、長い間自分の家に祀っていたものを、一括してお宮に納めたものもあります。定宿や定問屋は、琴平だけでなく金比羅参拝路のネットワークの各港の宿に配布されていたことが分かります。
 木札は形によって、いつ頃のものかが分かるようです。
神仏分離以前はの江戸時代のものは、形が剣先型で、上部が剣のように尖っています。これは先日お話ししたように、金比羅の御守札は、護摩堂で、二夜三日の護摩祈祷した後に、別当の金光院(一部に多聞院)が出していました。
 しかし明治以降には、神仏分離で護摩堂は壊され、本尊の不動明王もも片付けられて、蔵の中にしまい込まれてしまいました。それと共に、剣先型の形式のものはなくなります。ただ大木札中に明治以降金刀比羅宮から独立し、正当性を巡って明治後半に裁判でも争うことになった松尾寺配布のものも一部混じっているようです。松尾寺も独自の講制度を運用していたことがうかがえます。
 この看板を掲げた宿や船問屋は、金比羅客誘致や広報活動を先頭に立って行います。
そして金毘羅街道の整備や、丁石や灯籠などの建立にも取り組むようになります。また、金比羅さんへの寄進活動などにも積極的に参加します。明治になっても、金毘羅詣で熱は冷めることはなかったようです。その集客システムとして機能したのが崇禎講社だったようで

参考文献 印南 敏秀  信仰遺物 金毘羅庶民信仰資料集
                                                                              

1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像2
                                                          
 明治維新直後の神仏分離令を受けて、若き院主宥常は金毘羅大権現が仏閣として存続できることを願い出るために明治元(1868)年4月に京都に上り、請願活動を開始します。しかし頼りにしていた、九条家自体が「神仏分離の推進母体」のような有様で、金毘羅大権現のままでの存続は難しいことを悟ります。そこで、宥常は寺院ではなく神社で立ってゆくという方針に転換するのです。宥常(ゆうじょう)は,還俗し琴陵宥常(ひろつね)と改名します。彼が金毘羅大権現最後の住職となりました。

1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像

5月に、維新政府が宥常に最初に命じたのは、御一新基金御用(一万両)の調達でした。1845年に完成し、「西国一の建物」と称された金堂(現旭社)の建設費が2万両でした。その半額にあたります。6月下旬までに、半額の5000両調達の旨請書を差出します。それに対して、新政府から出されたのが宥常を「社務職に任じる」というものでした。以下、宥常の京都での活動状況を見てみましょう。
7月 観音・本地・摩利支天・毘沙門・千体仏などの諸堂廃止決定
8月13日,弁事役所宛へ金刀比羅宮の勅裁神社化を申請
9月 東京行幸冥加として千両を献納。徳川家の朱印状十通を弁事役所へ返納。神祇伯家へ入門し、新道祭礼の修練開始
11月 春日神社富田光美について大和舞を伝習。多備前守から俳優舞と音曲の相伝を受け,
12月 皇学所へ「大日本史」と「集古十種」を進献。
そして、翌年の明治2(1869)年2月,宥常は京都を発ち,月末に丸亀へ約1年ぶりに帰ってきます。
ここからは、神社化に供えて監督庁関係との今後の関係の円滑化のために、貢納金や色々な品々が贈られていることが分かります。同時に神社として立っていくための祭礼儀式についても、自ら身につけようとしています。ただ、神道に素人の若い社務職と、還俗したばかりの元社僧スタッフでは、日々の神社運営はできません。そのために、迎えたのが白川家の故実家古川躬行です。彼が社神式修行指導のためにやってきて、神社経営全体への指導助言を行ったようです。
三月には,御本宮正面へ
「当社之義従天朝金刀比羅宮卜被為御改勅祭之神社被為仰付候事」

という建札を立てています。実際に、金毘羅大権現から金刀比羅宮への「変身」が始まったのです。引き続いて、山内の改革を矢継ぎ早に行います
明治2年6月 はじめて客殿で大祓の神式を行い,
10月10日の会式も神式に改めます。それまでは「山上」で行われていたのを、神輿が御旅所(現神事場)まで下って渡御する現スタイルに改められます。
明治4年6月,国幣小社に列し官祭に列せられ
10月15日,神祇官から大嘗祭班幣目録が下賜されます。
明治5年4月月,宥常は権中講義に任じられ,布教計画見通し立てるよう教部省から指示されます。これに対して、5月には早速に,東京虎ノ門旧京極邸内の事比羅社内に神道教館の設置案を提出しています。
これには多くの経費が必要で、上京していた宥常は資金調達のため一旦帰国しています。その後に行われたのが、六月の仏像・仏具・武器・什物の類の「入札売却」であったことは、以前にお話しした通りです。
1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像3
宥常

明治6年3月,鹿児島県士族深見速雄が宮司として赴任して来ます。宥常は、京都滞在の折りに何度も宮司への就任願いを提出しています。しかし、新政府が任じたのは社務職であったのです。そして、実質的な責任者として松岡調が禰宜として就任しています。宥常が宮司に任命されたのは,明治19年3月深見速雄が亡くなった翌4月になってのことです。この当時、宥常は金刀比羅宮のトップでは、なかったことになります。このことは、注意して置かなければなりません。金刀比羅宮の記録は、このところを曖昧にしようとする意図が見え隠れするように思えます。
明治8年1月,御本宮再営の事業が開始され、翌年9月の4月に仮遷座,
明治10年4月に上棟祭が行われます。
この費用は,官費を仰がずに、すべて金刀比羅宮で賄ったようです。そのため落成の際に,内務省から宥常に褒美を下賜された記録があります。
  このように、見ると神仏分離から10年間で金比羅さんは、仏閣から神社にスムーズに移行したかのように見えます。しかし,この間に金刀比羅当局者が受けた衝撃や打撃も大きかったようです。 たとえば、明治元年1月には、土佐軍が新政府軍として讃岐に進行して、金比羅(琴平)に駐屯します。ある意味、この時期の琴平は土佐軍の軍事占領下に置かれたことになります。そして、金刀比羅宮に5000両の明納金を求めます。金毘羅さんは、この時期に京都の新政府に1万両、土佐藩に5000両を貢納したことになります。それを支える経済力があったということでしょう。
 土佐藩占領は,徳年の11月まで続き,それ以後は倉敷県の管轄から丸亀県・愛媛県を経て,香川県に所属することになります。
しかし、幕藩体制下で朱印地として認められていた行政権は失われます。さらに,明治4年2月に神祇官から出された「上知令」で、境内地を除く寺社領の返還を命ぜられます。これは、寺院の経済的基盤が失われたことを意味します。にも関わらず、神社となった金刀比羅宮は新たな社殿建設を初めて行くのです。そこには、明治という新時代がやって来ても金毘羅さんにお参りする人たちの数は減らなかったことがうかがえます。これは、行政からの「攻撃」を受けた四国霊場の札所が大きな打撃を受け、遍路の数を大きく減らしたことと対照的な動きです。
DSC01636金毘羅大祭図

宥常は明治政府に対しては、全く忠実でした。反抗や抵抗的な動きを見つけることはできません。
それでも,宮司に仰付られたいという願いは聞き届けられず,明治6年3月,鹿児島県士族深見速雄が宮司として赴任して来ます。その下での社務職を務めることになります。宥常が宮司に任命されたのは,明治19年3月に深見速雄が亡くなった後のことです
また,彼は元々は真言宗の社僧です。礼拝の対象は、仏像や経巻でした。それを売却し,焼き捨てるということに,何らかの感慨を抱いたはずですが、それに対する記録も残されていないようです。
全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 結願祭2


金刀比羅宮は、「勅祭の神社」とか「国幣小社」にランク付けはされましたが,それに頼っておればよいというものでありません。金毘羅大権現の名声を維持するためには,何か新しい施策を講ずる必要があると、若い社務職は考えていたようです。
1 金刀比羅宮蔵 講社看板g
 金刀比羅宮崇敬講社 定宿看板

明治7年2月に,そのために教部省宛に「金刀比羅宮崇敬講社」(略・講社)の設立を願い出ています。
信者へ直接的に働きかけ,これまで区々であった参詣講・寄進講を組織的に発展させ,金比羅の繁栄を一層確実にしようとする狙いがあったようです。講社については厖大な量の「講帳」が残っているようですが、「講帳」と関係資料を突き合わせ講社の実体を明らかにする研究は、まだ手が付けられていないようです。
 しかし、この講社の組織は「集金マシーン」として機能するようになり、金刀比羅宮に新たな資金供給源となったようです。ある意味、講社は「金の成る木」でした。宥常の最大の業績とされる「帝国水難救済会」も講社員の積立金によって、創設されています。

DSC01245
 
明治19年3月に宮司の深見速雄が亡くなり、宥常が宮司の座に着きます。名実共に、金刀比羅宮のトップになった訳です。
 その年の10月、イギリスの貨物船「ノルマントン号」が紀州大島沖で座礁沈没します。イギリス人乗組員は全員脱出して助かりましたが、乗り合わせていた日本人23人は船に取り残され全員が水死します。、同船船長に対する責任は、極めて軽微であり、日本国民の感情を大きく傷つけます。この水難事故は幕末に締結した日本と諸外国との間で結ばれていた不平等条約がからみ、大きな国際問題になります。このような水難事件に対して「海の神様」を標榜する金刀比羅宮として、出来ることは何かを宥常は考えたようです。

 「帝国水難救済会五十年史」によると,宥常はかねてから,
「神護は人力の限りを尽して初めて得られるもので,徒に神力にのみ依頼するのは却て神に敬意を失する」

と考えていたと記します。そこで、何とかして現実に海上遭難者を救うべき方法と組織を作り出したいと思っていたようです。
1 黒田清隆 日記 水難防止
黒田清隆伯の「環游日記」のロシアの水難救済協会の紹介部分

たまたま明治20年11月に出版された黒田清隆伯の「環游日記」の中に,ロシアの水難救済会の記事のあるのを見て,これこそ自分が探し求めていたものだと,「晴雲一時に舞れる心地がして勇躍,救済会の創設に取りかかった」とあります。
 明治21年8月,上京した宥常は,救済会設立のことを福家安定に相談します。
翌22年3月,再度上京して,その時は総理大臣に就任していた黒田清隆にも意見を聞き,また海軍に関係が深いことから海軍次官樺山資紀に相談すると,水路部長肝付兼行が協力してくれることになります。他にも逓信省は商船を管轄するので、管船部長塚原周造にも相談します。その他鍋島直大・藤波言忠・清浦奎吾等なども、この会の趣旨に讃同してくれ、何回かの協議を行います。
当時、金刀比羅宮崇敬講社の講員は300万人を越えいました。その積立金を,救済会設立資金に流用できる手はずになっていたようです。
こうして明治22年5月,正式に「帝国水難救済会設立願」を那珂多度郡長を経由して香川県知事に提出します。10月には,鍋島直大を副総裁に,琴陵宥常を会長に、本部を讃岐琴平に置き,支部を東京・大阪・函館に置くことに決まります。東京支社は、東京芝公園海軍水交社の建物を譲り受けています。そして11月3日(旧天長節)に,琴平本部での開会式後に,多度津救済所で遭難船救助の演習を行っっています。12月には各府県知事に本会役員として会員募集を行ってくれるよう依頼することを決めます。
1有栖川宮威仁親王

翌年明治23年4月には,有栖川宮威仁親王が総裁に就任することになります。こうして,宥常の長年の希望であった水難救済会は,着実な第一歩を踏み出していきます。ここへ来るまでに,宥常が救済会のために使った私財は多大なものであったと言われています。
 明治25年2月に宥常が53歳で亡くなります。
1琴綾宥常 肖像画写真
琴綾宥常 高橋由一作

これを契機に水難救済会の本部は東京に移されます。救済会を国家的事業として発展させてゆくための選択だったのでしょう。そして、生まれだばかりの救助会の帆には、時代の追い風が吹きます。
金刀比羅の宮は畏し舟人が流し初穂を捧ぐるもうべ - 八濱漂泊傳

明治28年日清戦争勃発前後になると、海軍軍艦からの流初穂(流し樽)が多く届けられるようになります。
4月 軍艦筑波から,
7月 磐城から,
明治28年4月 水雷母艦日光丸
6月 再度軍艦磐城から,
9月 軍艦龍田
からの流初穂が届けられています。この傾向は、戦後も続き、10年後の日露戦争の時には、さらに増加傾向を見せるようになります。この頃になると、軍艦だけでなく
海軍軍用船喜佐方丸
海軍運送船広島丸
連合艦隊工作船関東丸
横須賀海運造船廠機関工場造船部関東丸
陸軍御用船盛運丸
津軽海峡臨時布設隊新発田丸
などの陸海軍の御用船からの流初穂も含まれるようになります。これが次第に、一般商船,運送船などからの流初穂の奉納につながっていくようです。
モルツマーメイド号 金刀比羅宮 ( 7 ) | 札所参拝日記のブログ

 明治39年から大正初年までを見ても,
加賀国江沼郡槻越大家七平手船翁丸
東洋汽船株式会社満洲丸
大阪商船株式会社大知丸
日本郵船株式会社和歌浦丸
越中国新湊町帆船岩内丸
越中国氷見町八幡丸
日本郵船株式会社横浜丸
北海道小樽正運丸
加賀国江尻郡橋立村七浦丸
などから奉納が見えます。
 ここから見えてくることは「流樽」というのは、
①日清戦争前後に海軍軍艦 → ②軍関係の船舶 → ③日露戦争前後に民間船
へと拡大していたことが見えてきます。起源は、近代に海軍軍艦が始めたもので、江戸時代に遡る者ではないようです。

 これらはみな流初穂が本社まで届いたので,記事としても残っています。しかし、時には届かない場合もあったようです。明治39年12月,軍艦厳島からの初穂の裏書には,
「奉納数回せしも果して到着せしや否や不分明なれば今回御一報を乞う」

と書かれていたようです。
 以上の記事の見える船の所属機関・所有者を見ると,北海道から九州まで日本全域にわたっています。ここからは、金刀比羅宮が海上守護の神として,広く厚い信仰を集めるようになっていたことがうかがえます。これも神社に転進させた宥常が「海の神」という自覚を持ち,水難救済会創設という国家の仕事を代行するような活動を起したことから始まったようです。
参考文献
  松原秀明                神仏分離と近代の金刀比羅宮の変遷
                                                          

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