瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金刀比羅宮御本宮再營諸職人

まんのう町文化財協会の秋のフィールドワークで、重要文化財となっている金刀比羅宮の別宮・本宮・旭社を巡ってきました。今回は本宮についてお話しします。テキストは、帰りに手に入れた次の報告書です。
金刀比羅宮本社上空写真1
        金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮
左奧が別宮・手前が本宮です。明治の再営時には、観音堂と旧本宮(金大権現本社)は、それぞれ旭社への下り道と、御前四段坂の参道の前に線を揃え東面して並び建っていました。この配置を踏襲して、同位置に別宮、新本宮が造営されます。別宮が完成し、明治9年に仮遷宮が行われると旧本宮は取り壊され、その跡地に新本宮の造営工事が開始されます。そして、1年間の短期間で明治11年に正遷宮が行われます。
 本宮・別宮ともに本・中・拝殿が連結された複合社モデルです。それぞれ左右に神殿と直所が渡殿や渡廊下で繋がるよく似た形式でが、本宮は建築面積にして別宮の二倍を超える大規模なものです。それにもかかわらず仮遷宮後、2年で正遷宮を迎えています。短期間で工事を終えることが出来た要因については、旧本宮の基本的な構成と配置を大きく違えることなく、地盤面の石材などを再利用し、大規模な基礎工事を避けたためと研究者は考えています。

金刀比羅宮本社周辺図

本宮は四段坂の階段を登ってくると、その正面に姿を現します。

金刀比羅宮 石段777段目
785段の石段のゴール・四段坂の正面にたつ金刀比羅宮本宮

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金刀比羅宮本宮 拝殿正面
お参りしたのは11月末でしたが、正月の参拝客に備えて高い拝殿への階段には木の板が張られ、注連縄も新しくなっていました。正面から見るとシンプルに見えます。

金刀比羅宮 拝殿正面
                金刀比羅宮本社 拝殿正面図
拝殿前から振り返ると四段坂の最後の急勾配の石段が見えます。本宮は参道ゴールに鎮座していることを押さえておきます。お参り後に、移動してから拝殿の北側を見てみます。

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                金刀比羅宮 本宮拝殿北側
正面から見る印象と、横から見る印象が違います。屋根には千鳥破風と軒唐破風が乗っていて複雑です。この屋根を造ったの檜皮師たちは、下表のように摂津国兵庫の職人と、讃岐・備前連合の2つのグループだったことは、前回お話しました。

金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 檜皮師
               金刀比羅宮 御本宮再營諸職人 檜皮師

報告書40Pには、本宮拝殿について次のように記します。
①高2,3mの高床建築で桁行三間、三関の横長の平面。
②円柱を礎石建てとし、切日長押、内法長押、頭、台輪を回し
③組物は各間の中央にも配した三手先詰組で基本は角形、組物間には通射本を多用する。
④軒は二軒角繁垂木とし小天井を備える。
⑤屋根は入母屋造で、正背面には大棟と棟を揃えた大きな千鳥破風を備え、両側中央に軒唐破風を備える。
⑥妻飾りは本屋・千鳥破風とも花狭間格子とする。正面向拝を設け、軒とする。
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                 金刀比羅宮 本宮拝殿北側

金刀比羅宮本宮拝殿 組み物

③④の拝殿組物

金刀比羅宮本社拝殿 向拝
⑥の拝殿の正面向拝

金刀比羅宮本宮拝殿内部
金刀比羅宮 本宮拝殿内部
讃岐風俗舞を奏進、田耕行事を行い、続いて田舞3
本宮拝殿内部
金刀比羅宮 新嘗祭 本宮拝殿
本宮拝殿内部 新嘗祭

拝殿にお参りすると、これが本宮だと思ってしまします。しかし、本宮は「拝殿 + 中殿 + 本殿」の3つの建物が連なった複合施設です。それを次の絵図で見ておきましょう。

金刀比羅宮 拝殿
金刀比羅宮本宮  左から「本殿 + 中殿 + 拝殿」
これを断面図で見ると次のようになります。

金刀比羅宮本宮断面図
金刀比羅宮本宮の断面図

3つの建物がつながっていることが分かります。また、先ほど見たように拝殿は高床式で、縁の下に通路が2本あるのも確認できます。この縁の下の通路は何のために設けられたのでしょうか?

HPTIMAGE
本宮拝殿正面の縁下通路
幕末の金毘羅参詣名所図会には、拝殿について次のように記します。
金毘羅大権現 
その祭神は未詳であるが、三輸大明神、素蓋鳴尊、金山彦神と同心権化ともされる。
拝殿   
その下を通行できるようになっていて、参拝者はここを通って、拝殿を何回も廻って参拝する。拝殿右の石の玉垣からの眺望は絶景で、多度津、丸亀の沖、備前の児島まで見渡すことができる。 
ここからは、拝殿下の通路を使って、拝殿の周りを何回も「行道(堂)」する祈願スタイルが行われていたことが分かります。そのために、明治の再営でも廊下通路は造られたようです、しかし、再営後には拝殿周囲には柵を巡らしているので、従来の祈願スタイルは禁止となっていたようです。ちなみに、このスタイルは、倉敷市の由加神社本宮(旧瑜伽権現本社)や高松市の石清尾八幡宮下拝殿(明治14年(1881)などにも受け継がれています。

金刀比羅宮本宮平面図
金刀比羅宮 本宮平面図
 次に中殿を見ていくことにします。中殿は幣殿とも呼ばれ、拝殿と本殿を繋ぐ縦長の建物です。調査報告書には次のように記します。

金刀比羅宮 中殿内部1
金刀比羅宮本宮 中殿内部
①桁行三間、梁間一間の縦長平面。
②礎石建ての拝殿とは異なり土台建てだが、軒桁の高さは拝殿に揃える。
③両側面は桁行に切目長押、内法長押、頭貫、台輪で固める。
④第一間は拝殿脇間との境を開放し、第二間は双折戸を両外開に構え外に切目縁を備える。
⑤第三間は腰板壁と格子窓とする。
⑥組物は組の平三斗の上にさらに通肘木3段及び通実肘木を連斗を介して重ねた
金刀比羅宮 中殿組物1
金刀比羅宮本宮 中殿組物
中殿については、外からは見えにくい所にあるので、あまり馴染みのない建物になります。
本殿について報告書は次のように記します。

金刀比羅宮 本殿
金刀比羅宮 本宮本殿
①三間社入母屋造で、向拝は設けずに正側面の三方に緑を回す
②正面中央間の軒下部分は両側面のみを閉ざして中殿から一連の内部空間とする。
③身舎円柱に切目長押、内法長押、木鼻付き頭台輪を回す。
④頭賞木鼻は形のない簡素な角形ながら入八双金物で飾る。
⑤身組物は角形の財木を用いた三手先の話組で、丸に金の神紋を中備とする。
⑥軒は二軒角繁垂木とし、正面中央間では組物は前面の天井桁を受け、軒を現さない。
⑦屋根は入母屋造とし、大棟に千木・堅魚木を置き、正面には大棟と高さを揃えた大きな千鳥破風を飾る。
⑧妻飾りは本屋・千鳥破風とも花狹間格子とし大きな鰆付きの猪目懸魚を飾る。
金刀比羅宮本宮本殿3
金刀比羅宮 本宮本殿
金刀比羅宮本社本殿組物
金刀比羅宮 本宮本殿の組物

金刀比羅宮 本宮本殿平面図(明治32年)
金刀比羅宮 本宮本殿平面図(明治32年)

金刀比羅宮 本宮本殿大床内部
                金刀比羅宮 本宮本殿大床内部
本殿・中殿・拝殿の格天井については、次のように記します。

素木のままの天井板と桜樹木地蒔絵を描いた天井板とを交互に市松文様状に配っている。絵柄は拝殿では円形にデザインされた桜樹、中殿と本殿では1本から数本の桜の折枝とし、一枚ごとに変化を持たせている。

そして桜の木は、本殿の外側の壁にもデザインされています。

金刀比羅宮 本宮本殿の側面壁の桜の蒔絵
本宮本殿の側面壁 ガラス面に金色に輝く蒔絵

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金色の蒔絵の桜の木
これらの蒔絵を担当した職人たちの名前が、棟札には次のように記されています。

金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 檜皮師
本宮棟札に書かれた蒔絵師たちの名前
ここからは蒔絵を担当したのは、東京の山形次郎兵衛を頭取とする東京グループと、西京2名と大阪1名の職人だったことが分かります。

P1290080

 現在の本宮がいつ再営されたのかを棟札で見ておきましょう。

金刀比羅宮本殿棟札明治10年
           金刀比羅宮(事刀比羅宮)本宮(本殿・中殿・拝殿)の棟札 
明治 8年1月22日 開始
明治 9年4月15日 仮遷宮
明治10年4月15日 本宮上棟祭
明治11年4月15年 本遷宮 

 以上見てきたように本宮の形式や意匠からは、神社建築の新しい形式や表現を求めたことがうかがえます。その原動力は何だったのでしょうか?

松尾寺 金毘羅大権現と三十番社
         金毘羅大権現に描かれた旧本社 讃岐国名勝図会(1853年)

本宮再営の「御本宮再管竣功之記」には、次のように記します。

金刀比羅宮 旧本社天保3年(1832)8月「天保三年御本社園」
         神仏分離以前の金毘羅大権現の旧本宮 (彩色美に彩られていた)

  旧社殿の造り様は彩色や彫刻など仏教風が強く異国風(インド・中国的)であり、大神に釣り合っていなかった

ここからは施主である金刀比羅宮の指導者たちが、インド・中国的な異国の仏教的な要素を排して、「大神に釣り合う」復古調的な神道様式を望んでいたことがうかがえます。例えば、旧本宮は屋根は檜皮葺でしたが、袖部は極彩色や動物などの彫刻で飾られていたことが上の「天保三年御本社圖」からは分かります。これらを仏教風なものとして排除し、総檜の素木造として木肌の美しさで清静さを表現しようとします。

金刀比羅宮本社
           金刀比羅宮 本宮
屋根には新たに千木・堅魚木を置くなどして、神社建築の伝統的な要素が加えられます。そして本殿と中殿の連結の仕方に工夫を凝らし、各所に目隠しとし脇障子を多用するなど伝統にとらわれない新しい感性がみられます。
金刀比羅宮本社2

以前に見たように先行する別宮新宮では、頭買などの木鼻を角形として絵様形を排除する方向性が見えました。しかし、肘木下端には曲面を残し、向拝や木鼻や虹梁は旧来と変わらない彫物や絵様形が残されて華やかな細工になっています。これに対して、本宮工事では肘木も角形になっています。そして、彫刻的細部は向拝中備など最小限にとどめ装飾的細部を、さらに削ぎ落としています。
 別宮も本宮も、大工棟梁は琴平高藪町の綾坦三であったことは前々回にお話ししました。
同じ棟梁が担当しながらも、2年しか経っていないのに、別宮と本宮で様式的な変化を造りだしています。これは別宮の完成後に脱神仏混淆様式の追求を、本宮ではさらに推し進めるようにとの要望が施主側の金刀比羅宮からあったからかもしれません。どちらにしても本宮には、前例のない新しい様式が取り入れられています。これは金毘羅大権現の造営を担ってきた地元大工集団にとっては挑戦にもなりました。このような宮大工の研究心が19世紀末から始まる善通寺の11師団の建築群工事や、旧制丸亀中学の学校建築などにも活かされていくことは以前にお話ししました。
 また、装飾的要素を全面的に否定したわけではありません。
絵様形と彫物に代わって、銅金物がその役割を担うようになります。本宮では錫金物が各所に多用されて華やかさを増し、さらに桜樹木地蒔絵が施されています。装飾のモチーフとして選ばれたのは、丸に金の神紋と葛紋・花狭間・桜樹です。そこには動物の姿は見えません。旧本宮や旭社(旧金堂)にみられた三つ巴紋も姿を消します。これに代わって金毘羅灯籠などに広く用いられてきた丸に金の神紋が各所に多数現れるようになります。

金刀比羅宮 明治12年
金刀比羅宮 新しく登場した本宮と別宮(明治11年)

金刀比羅宮境内図 明治45 縦
                  金刀比羅宮 明治45年
こうして象頭山には、明治の新しい神社建築様式をもつ本宮と別宮が並んで登場します。
これは物見高い民衆の評判にもなり、参拝客はますます増えるという「集客力向上」にもつながります。また、金刀比羅宮の新しい本宮・別宮モデルは、人々には新鮮なものとして好印象で受け止められます。すると、香川県西部や徳島県西部では、角形射木など金刀比羅宮の影響を受けた様式が、この時期の神社建築に見られるようになります。

岩清尾八幡 髙松市
      髙松の石清尾八幡宮の下拝殿(明治14(1881年)は金刀比羅宮本宮に酷似
例えば、旧高松城下町の氏神とされた石清尾八幡宮の下拝殿は、金刀比羅宮の本宮完成後の3年後(明治14年/1881)に出来上がっています。その姿を見ると角形の肘木・木昴、多角形手挟が使用され、花狹間格子の特徴的な妻飾も取り入れられていて、金刀比羅宮拝殿に酷似していると研究者は指摘します。

 熊手八幡宮
多度津町白方の熊手八幡神社本殿(明治23年/1890)
 岩清尾八幡社絵馬堂(明治26年/1893)や多度津町白方の熊手八幡神社本殿(明治23年/1890)、拝殿(明治21年/1888)では、角形肘木を用いる一方で木鼻は彫物とするなど金刀比羅宮の様式を選択的に取り入れています。この様式は、多度津では戦前まで地域の神社建築様式として長く影響を与え続けたと研究者は報告しています。(1.「多度津伝統的建造物群保存対策調査報告書」令和2年3月多度町教育委員会)
 さらに阿波街道で結ばれていた阿波の美馬・三好郡には明治期神社の本殿に肘木のみ角形とするものが数多くあり、肘木・木鼻とも角形とする例も次のように報告されています。
①三好市井川の馬岡新田神社(明治16年)
②つるぎ町半田の石堂神社本殿(明治24年)
③美馬市美馬弁財天神社本殿(明治28年)
④杉尾神社本殿(明治35年)
「郷土研究発表会紀要』第38号1992.3、第44号1998.3.「阿波学会紀第49号2003.3、第53号2007.7.55号2009.7.第57号2011.7)。
ここからは、かつては「四国の道は金毘羅に通じる」と言われたようですが、金毘羅は神社建築などでも文化情報の発信地であったことが見えてきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

「金刀比羅宮 本宮地域建造物 調査報告書」
参考文献は、巫女がお持ちの「金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年」です。
関連記事

金刀比羅宮 本宮
金刀比羅宮 本宮 

本宮工事の時に「御本宮再營諸職人」という板札

本宮建設に関わった職人240名のリスト
明治の本宮造営の時には「御本宮再營諸職人」という板札が残されています。ここには本宮建立に参加した職人たち240名が職種別に記されています。これを見ていくことにします。テキストは金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮」です。前回に上段の大工たちは見ましたので、今回は中段からになります。
その筆頭に来るのが「御宮材木調進方」です。    

「御本宮再營諸職人」という板札
金刀比羅宮 御本宮再營諸職人 御宮材調進方
 「御宮材調進方」の主事は、別宮・本宮ともに小原林右衛門です。出身地を見ると手附3名を含めて全員が土佐国高智(高知)です。別宮・本宮は、両方とも総檜造でした。そのため檜の調達が最優先となるので、檜の産地である土佐出身者が臨時職員として採用されたと研究者は考えています。「御本宮再警竣功之記」には、次のように記します。
①宮材となる檜の良材は土佐国船戸山の峡谷(高岡郡津野町船戸)のものが使用された
②檜の無節にこだわり、渡殿や廊下などでは僅かに節が混じるものは丹念に取り除いて木を撰んだ。
小節ひとつといえども許さない心意気だったことが伝わってきます。

2段目の次に記されるのが蒔絵師です。
江戸時代、蒔絵を施す蒔絵師。細かい作業をする職人に眼鏡は欠かせない(『和国諸職絵尽』より) - 江戸ガイド|江戸ガイド
蒔絵師
本宮の本殿画面板壁と脇障子、本殿・中殿・拝殿の各格天井には、檜の柾目板の木地に高蒔絵の桜の木が描かれています。
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金刀比羅宮本宮の 本殿画面板壁 桜が描かれている。
白木の上に金色に輝く桜の木の蒔絵を作成した職人たちを見ておきましょう。

金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 檜皮師
           金刀比羅宮 御本宮再營諸職人 蒔絵師 
 
蒔絵師頭取は東京の山形治郎兵衛で、配下の手附も東京です。山形治郎兵衛率いる東京の絵師集団が作成したことが分かります。さらに拝殿の格天井には、西京2名と大阪1名の蒔絵師が加わっています。蒔絵技術を持つ職人は、琴平にはいなかったようです。

続いて金物師を見ておきましょう。
本宮では、素木造の社殿に対して銅金物が各所に多用されています。そこには丸に金の神紋や紋を打ち出しや、地金に葛紋を線刻した意匠で統一されています。板札には、それぞれのグループが担当した部位も詳細に記しています。
金刀比羅宮本社2
           金刀比羅宮本宮の金具

金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 金物師
            金刀比羅宮 御本宮再營諸職人 金物師

別宮棟札には、金具師は琴平の藤本茂吉だけしかみえませんでしたが、本宮では藤本茂助に加えて大阪の大西仙助が頭取として加わっています。そして、次のように2グループ合計32名の名前があります。
頭取 琴平の藤本茂助 その手附に、西京8、近江国2名、大阪4名、高松1名、当村2名の計17名
頭取 大坂の大西仙助 その手附に、大阪から11名、西京から4名の計15名
さらに鉄金物については琴平村の金物師田村榮吉1名、鋳物師は備中国阿曽の林友三郎1名で拝殿擬宝珠を製作しています。こうしてみると金具も京都や大阪の職人が中心となっていたことが分かります。 

2段目の一番最後に出てくるのが檜皮師です。

檜皮師
檜皮師の作業

金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 檜皮師
            金刀比羅宮 御本宮再營諸職人 檜皮師

別宮では、水野宗三郎の頭取1名の1班体制でした。それが本宮では次のように編成されています。
A 檜皮師頭取 摂津国兵庫 小泉 為七 手附は摂津国兵庫から1名、西京から6名の計7名
B 檜皮師頭取 琴平村   岡内小四郎 手附は伊豫国西条から1名、当国丸亀から4名、備前国岡山から2名の計7名
Aの京都職人とBの讃岐・備前・伊予連合の2班体制になっています。檜皮も他国職人に発注しなけらばならなかったようです。

最後の下段には、石工が並びます。
最初、本宮のどこに石が使われているのかと私は疑問に思いました。しかし、報告書には本宮の特色を次のように記します。
本宮本殿・中殿・拝殿は、四段坂の参道に軸線を揃えて旧本宮とほぼ同位置に再営されている。大規模な高床の拝殿の脇間背面通りから後方は、地盤を1、4m高くして、中殿と本殿が建つ神城とする。正面や両側面の壁には延石、地覆石、羽目石、葛石からなる化粧石が施され、擁壁の縁に沿って葛石を布基礎とする透塀を回し、透塀の場内に拳大の玉石を敷き詰める。拝殿・中殿・本殿が接続して後方に高まりながら複雑な屋根の構成をみせる総檜の素木造、総檜皮葺の複合社殿形式になる

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建物の下には大量の石材が使用されているようです。これを扱った石工集団を見ていくことにします。

「御本宮再營諸職人」 石工
2つの石工グループ
金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 石工 琴平在住
           手伝頭・香原政吉が率いる琴平の「引受」石工56名
①最初に来るのが丸亀の石工集団で、頭取の小野利助と小野藤吉が率いる総勢9名
②次に、地元琴平の佐々木儀三郎が頭取を務める備前・長門の12名
③その後に地元の手伝頭・香原政吉が率いる琴平の「引受」石工56名
 別宮や本宮で使用された石材はほぼ全てが花崗岩です。花崗岩は讃岐でも産出しますが、職人の出身地は大きな広がりを見せます。地元讃岐だけでは間に合わなかったのかもしれません。丸亀や備前・長門から運び込まれた石材を修正して設置したのが③の「琴平村の手伝頭・香原政吉が率いる「引受」石工56名」ということになるようです。
ここで疑問に思うのは、琴平にどうして石工が56名もいたかということです。
それは大工が沢山いたことと同じ要因が考えられます。次の表は境内に、いつごろ玉垣が整備されたを示すものです。
4 玉垣旭社前122
ここからは次のような情報が読み取れます。
①18世紀以前には石造の玉垣はほとんどなく、朱色の木造玉垣が主であった。
②石造物の玉垣が造られ始めるのは、1840年頃からである。
③1845年の金堂完成に併せて周辺整備が進められ玉垣・石段・敷石が急速に普及した。
④幕末から明治にかけて、玉垣など石造物で埋められ白く輝く境内に変身した
⑤同時に、石造物需要が高まり、石工が琴平に数多く定住するようになった。
このように明治初頭の琴平には、大工や石工などが数多くいたのです。彼らに仕事を与えるためにも新しい神道様式の本宮・別宮は求められていたのかもしれません。ある意味で、住民に仕事を確保する公共事業的な役割もあったのでしょう。
以上を整理しておきます。
①別宮・本宮造営については大工については、琴平在住の大工で対応ができた。
②しかし、金物師、檜皮師(ひわだし)、石工のなどの各職種については、地元の職人だけでは対応できずに、他国の職人に発注しているものもある。
③一方、琴平出身者がリーダーとなりながら他国者を入れた混合の班編制をして運用している職種もある。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮
関連記事

P1290062
金刀比羅宮 別宮
金刀比羅宮の重要文化財に指定された建築物の中の別宮について、いろいろとみています。今回は別宮建設に関わった技術者集団について見ていくことにします。テキストは「金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮」です。

金刀比羅宮 別宮5
金刀比羅宮別宮
まず明治時代の別宮造営時の棟札を見ていくことにします。

金刀比羅宮 別宮棟札2
別宮 棟札(明治8年)

まず工期と宮司と権宮司を確認します。
明治8年1月22日 新始式
    10月12日 上棟
明治9年(1876)4月10日 落成・仮遷宮
宮司  深見逸雄(鹿児島県出身 明治政府の派遣) 
権宮司   琴綾宥常(旧金毘羅大権現の金光院主)
禰宜 松岡調(讃岐国名勝図会の絵図製作者・多和文庫創設者)
拡大して、一番下の職人集団のリーダーたちの名前を見ておきましょう。

別宮棟札13の拡大

一番下段には小さな文字で、次のような職人集団の指導者の名前が記されています。
大工棟梁 1名 綾 担三
大工副棟梁 2名 川添清八郎 白川駒造
大工世話方 4名 箸方興平 大西貞蔵 高島久吉 綾儀三郎  
檜皮師、金具師、石工、宮材主事 各1名
棟梁は綾担三、副棟梁は川添清八郎と白川駒造で、琴平村在住の大工たちです。明治8年の別宮上棟に綾担三自身が書いた板札には次のように記されています。

「父ハ綾九良右衛門豊章 金堂今旭社教殿之棟梁也」
意訳変換しておくと
「私の父は綾九良右衛門豊章で、 金堂(現旭社)教殿の棟梁を務めた」

綾担三の父、豊章は旭社を建てた棟梁だと記します。綾担三は、若い頃には豊矩と名のっていて高燈寵を建てています。明治になると名を豊矩から坦三と改めて、金刀比羅宮本宮や別宮の棟梁を務めたことになります。
副棟梁の川添清八郎(明治25年1月没)は、先代の長兵衛の代からの宮大工で、屋号は「西屋」でした。川添家は長宗我部元親の讃岐侵攻の際に土佐から移り、寛文8年(1688)に琴平町に定住したと伝えられます。
 大工棟梁を務めた綾氏は、もともとは山下姓だったようです。 
 
4 塩飽大工
高倉哲雄・三宅邦夫「塩飽大工」成29年(2017)年3月 塩飽大工彰会
以前紹介した「塩飽大工」には、本島泊浦の大工山下家の流れについて次のように記します。

「塩本島泊浦の大工山下家から江戸初期に西讃地方に移った三兄弟がそれぞれ仁尾町、高瀬町、三野町を拠点に宮大工として活躍しするようになる。その高瀬山下家の流れを汲むのが琴平で活躍するようになる綾氏」

そして綾氏(改姓前は山下)が残した建築物を、次のように挙げています。


名前 住所   建設年     建設所在地
山下太郎右衛門  苗田村  1760 宝暦10  善通寺五重塔  
山下理右衛門豊春      1823 文政6  石井八幡宮拝殿  琴平町
山下理右衛門豊春      1824  文政7  石井八幡宮    琴平町
 山下から綾へ改名
越後   豊章 高藪町  1837 天保8  金刀比羅宮旭社  琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1849 嘉永2  金刀比羅宮寵所  琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1841 天保12  金刀比羅宮表書院 琴平町
綾九良右工門豊章 高藪町  1852 嘉永5  金刀比羅宮米蔵  琴平町
綾九郎右衛門豊章 高藪町  1852 嘉永5  金刀比羅宮通夜堂 琴平町
綾九良右工門豊章 高藪町  1852 嘉永5  金刀比羅宮法中部屋琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1854 嘉永7  金刀比羅宮廻廊  琴平町
綾九郎兵衛門豊矩 高藪町  1857 安政4  金刀比羅宮宝蔵  琴平町
綾九郎右衛門豊矩 高藪町  1859 安政6  金刀比羅宮奥殿  琴平町
綾九良右衛門豊矩 高藪町  1859 安政6  金刀比羅宮高燈寵 琴平町
綾坦三(豊矩が改名)高藪町 1875 明治8  金刀比羅宮別宮・神饌所 
綾坦三      高藪町  1877 明治10  金刀比羅宮本宮  琴平町

ここからは次のような情報が読み取れます。
①1760年頃に、高瀬から琴平の苗田にやって来て善通寺五重塔に関わったのが最初
②19世紀初頭に、豊春が苗田村の石井神社拝殿・本殿を担当
③これを契機に、豊章は旭社・表書院などの棟梁を務めるようになり、住所を高藪に移した。
④天保2(1831)年2月に金光院棟梁役を仰せつかった際に、金光院院主を輩出する山下家との混同を避けて綾氏に改名
⑤19世紀中頃から豊章の後を豊矩(後の担三)が継いで、高灯籠などを担当
天保2(1831)年の金毘羅大権現の旭社(旧金光院松尾寺金堂)の初重上棟の脇棟梁に綾九郎右衛門豊章の名前があります。綾と名のっていますが、これは山下理右衛門豊章が金光院院主を輩出する山下家との混同を避けるために「綾氏」に改名した名前だとされます。二重の上棟時には棟梁となり、以後は金毘羅大権現のお抱え大工として華々しい活躍をするようになるのが上表からも分かります。彼の居住地は金毘羅さんの高藪町になっています。豊章という名前からは、豊春の子ではないかと推測できますが、確証できる資料はないようです。豊章の子が豊矩で幕末に高燈寵を建て、明治になると名を坦三と改めて、別宮や本宮の棟梁を務めることになります。 次の綾坦三の棟梁任命書が、それを裏付けます。
 「綾坦三 御別宮棟梁申付候事 明治七年七月十七日 (讃岐国金刀比羅宮印) 
  「綾坦三 御本宮御造営棟梁申付候事 明治十年四月 (讃岐国金刀比羅宮印)」

高灯籠版画
高灯籠 綾担三(豊矩)は、高灯籠の棟梁も務めた

19世紀は金毘羅信仰の高まりと共に、参拝客が激増して財政的に金光院は潤ったことは以前にお話ししました。その経済力を背景に境内整備が進められ、大工たちにとってはいい仕事が続いてあったことを押さえておきます。
別宮の棟札にもどります。大工たちの出身地を見ておきましょう。
「大工世話方係」は班長格の大工で、4名すべてが地元琴平村出身、その配下となる大工80名中69名も琴平出身者です。琴平以外は大阪1名、塩館10名です。別宮や本宮は、地元琴平の大工の手によって建てられたと云ってもいいようです。私は、神仏混淆様式を排した近代的な神道建築のためには、京都から宮大工を招いたのかと思っていましたが大外れです。それに対応できる大工集団が琴平にはいたようです。思い返してみれば、19世紀前半の金毘羅大権現は金堂工事が期間30年間・経費2万両の大工事を行っていました。その後には、7500両の経費がかかった高灯籠も綾担三(豊矩)が務めたことは先ほど見たとおりです。さらに、善通寺の五重塔も同時進行で建設中だったことは以前にお話ししました。そのため腕のいい大工集団が集まっていたようです。

金刀比羅宮 本宮
金刀比羅宮本宮
 次に本宮の建設に関わった大工たちを見ていくことにします。
本宮工事の時には「御本宮再營諸職人」という板札が残されています。ここには今宮建立に参加した職人たち240名が職種別に記されています。これを見ていくことにします。

本宮工事の時に「御本宮再營諸職人」という板札
          御本宮再營諸職人 本宮建設に関わった職人240名のリスト

本宮工事に「御本宮再營諸職人」という板札
               金刀比羅宮 御本宮再營諸職人(一部拡大)

三段になっていますが上段に並ぶのが大工たちの名前です。筆頭部分を拡大してみます。
金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 大工
金刀比羅宮 御本宮再營諸職人の大工筆頭部 大工棟梁は綾担三


大工棟梁   綾担三
大工副棟梁  川添清八郎 白川駒造
大工世話方  箸方興平 大西貞蔵 高島久吉 綾儀三郎 綾弥三蔵 綾喜三郎
先の別宮スタッフに加えて新たに大工世話係に、「綾弥三蔵 綾喜三郎」の2名が加えられています。綾家の三人は名前からして、担三の子息か親近者のようです。以下、出身地を「同村(琴平村)」と表記された大工たちが70名並びます。その中には、綾姓が8名、箸方姓が7名います。琴平以外では、塩飽大工が10名、大阪府が1名のみです。こうしてみると、別宮と同じように、本宮も琴平在住の大工集団で建てられたことが分かります。それだけの技術力や経験を金刀比羅宮の宮大工たちは持っていたことになります。
 大工棟梁の綾坦三に金刀比羅宮が求めたものは何なのでしょうか?
「御本宮再管竣功之記」には、金毘羅大権現の旧本宮について次のように記します。

  旧社殿の造り様は彩色や彫刻など仏教風が強く異国風(インド・中国的)であり、大神に釣り合っていなかった

金刀比羅宮 旧本社天保3年(1832)8月「天保三年御本社園」
金毘羅大権現本社(旧本宮) 天保三年御本社圖
ここからは施主である金刀比羅宮の指導者層が、インド・中国的な異国の仏教的な要素を排して、大神に相応しい復古調的な神道様式を望んでいたことがうかがえます。旧本宮は、袖部は極彩色や動物などの彫刻で飾られていたことが上の「天保三年御本社圖」などからは分かります。脱神仏混淆色のために、動物デザインなど仏教風なものを排除し、総檜の素木造として木肌の美しさで清静さを表現しようとします。屋根には新たに千木・堅魚木を置いて、神社建築の伝統的な要素を加えます。そして本殿と中殿の連結の仕方に工夫を凝らし、各所に目隠しとし脇障子を多用するなど伝統にとらわれない新しい工夫を見せます。
 先に工事を行った別宮では、頭買などの木鼻を角形として絵様形を排除する方向性を取りました。しかし、肘木下端に曲面を残し、向拝やの木鼻や虹梁は旧来と変わらない彫物や絵様形が描かれて華やかな細工になっています。これに対して、続いて行われた本宮工事では、肘木も角形になっています。彫刻的細部は、向拝中備などにしかありません。装飾的細部をさらに削ぎ落としています。
 別宮も本宮も大工棟梁は綾坦三でした。2年しか経っていないのに、次のような様式的な変化が見られます。
A 別宮では伝統的な様式を残し、神仏混淆様式からの脱却が徹底していない
B 本宮では脱神仏混淆色を、より進めて徹底した。
 そのような要望が施主側の金刀比羅宮からあったのかもしれません。それを実現するだけの技術と創意が大工たちにあったようです。どちらにしても、本宮の細部様式は、前例のない新しい様式でした。これは、金毘羅大権現の造営を担ってきた地元大工集団にとっても新しい挑戦にもなりました。 このような宮大工の研究心が、19世紀末から始まる善通寺の11師団の建築群や、旧制丸亀中学の学校建築などにも活かされていくことは以前にお話ししました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮
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