瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金刀比羅宮旭社

金光院歴代院主
歴代の金毘羅大権現金光院の院主
第9代金光院別当の宥存は、明和8年(1771)に金堂建立を思い立ちます。
そこで丸亀の金毘羅屋敷の佐野久太夫に「金堂再建趣意書」を刊行させています。この趣意書には、次のように記します。
 一讃州金毘羅象頭山の儀ハ御存じの通り諸堂相揃い居り申し候処、就中、金堂殊の外小さク御座候二付き、大堂二御再興成られたくの旨承知仕り候、此の儀ハ高札の通り是まで諸勧進何方えも申し出ず候間、此の差障り二少しも相成らざる義二候、勝手次第為るべき旨御聞き届け相済み候、これに依り同士の面々申し談じ新た二講組を立てられ、別紙絵図の通り桁行き拾間五尺八寸、梁行八間壱尺弐寸、柱高サ四間弐尺二造り立て仕りたく候へ共、過分の義故講中迄自カユ及び難く候二付き、当卯ノ冬より未ノ歳迄五ヶ年の開二成就仕りたき念願二御座候、左の通りの銘の寄進物世話所と相極め候間、
  御志の御方ハ多少に限らず御寄付成さるべく候、金子百匹以上の物の土地え掛け札に記して置き申し候、以上以
   明和八辛卯年初冬吉日      
惣請込 讃州丸亀 八筝 久太夫
講元  讃州丸亀 津作地又右衛門
講元  讃州丸亀 藤四田 為之丞
講元  讃州大浜 辻与左右衛門
意訳変換しておくと
一 讃州金毘羅象頭山については、ご存じの通り諸堂が整備されていますが、ただ金堂だけは、ことのほか小規模です。つきましては、これを大堂に再興することを承知願えないでしょうか。許可いただければ来年には高札を掲げて、世間への通知をおこなう予定です。その際には、藩の差障りにならないようにします。金毘羅が勝手次第に行う事ですので、聞き届けいただければご迷惑はおかけしません。
 同士の者達で協議した所、二講組を立て、別紙絵図の通り桁行き拾間五尺八寸、梁行八間壱尺弐寸、柱高サ四間弐尺の金堂を建立する計画です。過分のことですので、当冬より5ヶ年の開講し、成就させる念願です。左の通りの寄進物と世話所を定めます。つきましては、御志の御方は多少に関わらず御寄付いただけるようお願いします。金子百匹以上の物の土地え掛け札に記して置き申し候、以上以
要約すると次のようになります。
①金毘羅は緒堂が整備されているが、金堂が小さいので大きく再建したい
②そのために金堂建立場所を選定し、建立通知の高札を掲げたい。
③予定規模は、桁行 拾間五尺八寸、梁行 八間壱尺弐寸、柱高 四間弐尺 の超大型であること
④資金は5年間の寄進講
しかし、これは金毘羅を直撃した大水害や疫病流行、また宥存の病気のために建立計画は延期・頓挫していまいます。
象頭山金毘羅大権現 金堂改築前
金堂再建前の薬師堂は、小さかった
宥存の没後に、金堂再建に乗り出すのが宥昌です。
文化3年(1806)、金光院別当宥昌は、先代別当の宥存の意志を継いで、薬師堂を廃して金堂建立の願書を提出します。宥昌は、実務を金毘羅の酒屋の秦半左衛門と多田屋香川治兵衛に当たらせ、金堂建立のための講を組織させます。しかし、宥昌は翌年5月2日に没します。金堂再建は遺言のような形で残ります。
代わって院主となった宥彦の代になって 金堂再建のために講は開かれますが、なかなか軌道に乗らなかったようです。彼の死後の文化9(1812)年の11月になって施主が決まり、普請小屋の場所の見分が行われています。その翌年1813年に、起工式を執り行うまでにこぎつけています。以後、建築用材などが順調に集まり始めます。各地で講が組織され奉納金も着実に増加します。しかし、入仏がおこなわれたのは弘化2(1845)年のことになります。約30年余におよぶ大プロジェクトで、その間に費やされた人数と金銭は膨大なものでした。この資金をどのようにして集めたのでしょうか。
 それがうかがえる史料を見ておきましょう。

「金毘羅山 金堂御用 槻荒木材直段積」
「金毘羅山 金堂御用 槻荒木材直段積」酒井家文書
阿波の酒井家に残る「金毘羅山 金堂御用 槻荒木材直段積」と題する摺り物は、募金集めの宣伝ビラで次のようなことが分かります。
① 末尾の「癸酉五月」とあるので、文化十(1813)年5月に発行されたものです。これは建立が本格始動した翌年にあたります。
② 発行者の「引請世話人中」とは、金堂の建築用材を調達した大坂の西村屋愛助らのこと
③  冒頭の「金毘羅山 金堂御用 槻荒木材直段積」は金堂建築使用の柱等木材の値段で以下の通り
④ 「本柱」長さ四間半、断面一尺八寸四方 代金三十五両
⑤ 「外柱」長さ三間  断面一尺六寸四方 代金 十二両




⑥「虹梁」長さ二間  幅二尺 厚さ一寸二 代金  十両
⑦ 隅搉    代金 二十両
⑧ 間搉    代金  三両

斗栱 枡形

⑨ 本枡形 (斗栱) 代金五両
⑩ 小枡形  代金三両八分

旭社 正面 唐扉
旭社の唐扉
⑪ 唐扉  代金二十両

旭社の銅瓦調査1
旭社銅瓦の調査

⑫ 銅瓦 代金銀三匁
この広告には、必要な部材を一つ一つ書き上げ、その金額が示されています。ここに挙げられているのは、目立つ部材のみが挙げられているようです。この広告を見た人たちは、どのくらいの金銭で、どこの部材が調えられるか、具体的な感触を得て、こんな風に思ったはずです。
「35両で大黒柱一本か、金刀比さんの本堂に自分の寄進した大黒柱が使われるというのは、有難いこと」と考え、金堂が自分の寄進で成就する姿を思い浮かべ、寄進に応じようとする富裕層も出てきたはずです。詳しい数値、目立つ部材という仕掛けを通して、寄進者の気持ちをその気になせる巧みな戦略です。どちらにしても、数多くの人達の寄進によって旭社が出来上がったことが感じられます。

  広告には、続いて「右に書き上げたほか(建立に必要な)品数が多くあるので、お志にまかせて御寄進ください。もっとも、御当山(金光院)から諸勧進の人は差し出しません」と記されています。つまり、引請世話人たちは、金光院からの援助とは別に、こうした摺り物を独自に作成して、木材購入に必要な金銭を集めたようです。
 こうした広告の成果を見ておきましょう。
天保三(1832)年には摂津国池田(大阪府池田市)の神酒講から本柱に必要な35両が奉納されています(『金毘羅庶民信仰資料集年表篇』金刀比羅宮社務所、 1988年)。本柱の35両とは、広告の摺物に書いてあった金額と一致します。摂津国は、引請世話人の西村屋の地元です。この広告が摂津国で流布して、それに応じた人達がいたことがうかがえます。その10年後の天保13(1834)年には西村屋が金堂用材の橡105本を秋田から廻送しています。

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         金刀比羅宮旭社(旧金堂)の柱に掘られた江戸の寄進者の名前

旭社正面の柱に彫られた江戸の寄進者の名前。先ほど見た広告によると「外柱(長さ三間・断面一尺六寸四方は、代金十二両」でした。その12両をこれらの人達で分割し寄進したことが考えられます。

 この摺り物は徳島県の酒井家に伝わったもので、今は徳島県立文書館蔵に酒井家文書として保管されています。
酒井家は、阿波国半田村(美馬郡つるぎ町)で運送業を営んだ町人で屋号は堺屋です。この摺り物を収集したのは、五代目武助のようです。武助は天保六年に亡くなり、金堂が完成した弘化二(1845)年には、六代目弥蔵が当主になっていました。金毘羅信者が多かった阿波国は、新浜(徳島市)の善蔵が金堂願主になっているので、金堂建設資金の募集拠点のひとつでもあったことがうかがえます。徳島繁栄講の講元である後藤民之助が360両を、また講中が畳料三貫五百目を寄進しています。

金毘羅参詣名所図会 旭社・二天門・観音堂
弘化二(1845)年に完成した金堂(旭社) 金毘羅参詣名所図会(1848年)

金堂寄進帖〜讃岐国
金毘羅大権現金堂への寄進名簿 丸亀や三豊の人々の名前が見える
こちらの寄進一覧には丸亀と三豊の人達の名前が並んでいます。奉納額は10両~20両です。名前を見ると丸亀の船頭中(船頭仲間)や福島湊の福島町の講も見えます。

金堂寄進帖〜武蔵国
武蔵国からの寄進帳

弘化二(1845)年、金毘羅では金堂入仏を祝して、2月から5月まで3ヶ月間に渡って開帳が行われました。
その間、堺屋(酒井)弥蔵は半田村から何度も金毘羅に参詣し、その模様を「弘化二年乙巳春中旅日記」(酒井家文書83)に次のように書き残しています。
2月1日
金堂御入仏の奉納物が内町から練り上るということで、おやま(遊女)たちが色々に持 え、三味線や太鼓で囃し練り歩いたのを面白く見物し、それから参詣をした
2月8日
参詣し、翌日の入仏式の当日には「参詣会式の事は中々筆に言われず、ここに略す」
3月11日 芝居見物
3月26日
内町南裏手からの出火に遭遇し、「金山寺町の小芝居が焼失、大芝居は無事であった、さてさて騒がしいこと」
4月7日 参詣
4月22日 母を伴い参詣。翌日に軽業見物
このように、弥蔵は足繁く阿波から金昆羅に足を運んでいます。おそらく自分や父親が寄進をした金堂が立派に成就したのを目の当たりにして、感無量だったのかもしれません。あるいは馴染みの芸子がいたのかもしれません。母に芝居や軽業も見せています。どちらにしても阿波の檀那衆を惹きつけるだけの娯楽と魅力が金比羅にはあったということでしょう。阿讃の峠を越えて、足繁く通っています。そういう意味では、金比羅は信仰の町であると同時に、歓楽・娯楽の町としての魅力にも溢れる街になっていたようです。巨大な金堂は、金毘羅の「集客モニュメント」としても機能していくことになります。

旭社正面 神社明細帳附図
完成した金毘羅大権現の金堂

以上を整理しておきます。
①初代髙松藩主松平頼重の保護を受けて、元禄期には金毘羅大権現の境内の整備は進んだ。
②18世紀後半になり、金比羅船を利用した参拝客が増えるに従って、さらなる集客力アップのための建造物モニュメントの必要性が出てきた。
③そこで1771年に、金堂建設計画を発表するが、数々の障害で着手には至らなかった。
④本格的な動きが開始されるのは1812年になってからで、講組織による全国的な資金集めが行われた。
⑤そこでは、金堂の建設資材の柱に値段を付けて寄進を募るという方法が採用された。
⑥こうして全国からの寄進で購入された柱には、寄進者の氏名が彫り込まれている。
⑦こうした幅広い寄進を行う事で、2万両という資金を40年掛かりで集め、金堂は完成した。

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旭社の「総六材木」 寄進者の名前が彫り込まれている
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

金刀比羅宮 旭社 氏子神饌【旭社→御本宮 編】
金刀比羅宮 旭社(旧金堂)

参考文献 徳島県酒井家文書にみる金刀比羅宮金堂建立の寄進  ことひら74
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まんのう町文化財協会の秋のフィールドワークで、金刀比羅宮の重要文化財の建物めぐりを行いました。別宮・本宮をめぐって、下りの石段を下りていきます。石段の途中から大きな建物が見えてきました。
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金刀比羅宮の旭社(旧金毘羅大権現の金堂)
逆光の中で建物が浮かび上がってくるように見えます。
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 金刀比羅宮 旭社 特徴は軒下の欅板に掘られた渦巻き文様
 ケヤキの大きな板一枚一枚に渦巻き文様が彫られています。この軒下の彫り物が、この金堂の特徴だそうです。組物も豪快です。

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金刀比羅宮 旭社の内部は空っぽです。太鼓がみえるだけです。

旭社は、神仏分離の前は何だったのでしょうか?

金毘羅参詣名所図会 旭社・二天門・観音堂
金毘羅参詣名所図会(1848年)  
金毘羅参詣名所図会は、金堂(旭社)について次のように記します。
金堂  観音坂の下、南の方にあり。境内中、第一の結構荘厳もっとも美麗なり。
本尊  薬師瑠璃光如来 知日証人師の御作
金毘羅参詣名所図会からは、次のような情報が読み取れます。
①観音堂の下の空間には巨大な「金堂」があった。
②金堂(旭社)の下には多宝塔があった。
③金堂は1845年に完成したばかりで、多宝塔横の参道は石段や玉垣が未整備で、燈籠もない。
④本尊が薬師如来像であった。

讃岐国名勝図会に描かれた金堂も見ておきましょう。

金堂・多宝塔・旭社・二天門 讃岐国名勝図会
讃岐国名勝図会の金毘羅大権現金堂(1853年)
金毘羅参詣名所図会の5年後に描かれた讃岐国名勝図会です。これを見ると金堂周辺整備が進み、石段や玉垣・燈籠なども石造物の整備が進んでいることが分かります。旭社は金毘羅大権現の金堂として、1845年に完成したことを押さえておきます。 

旭社正面 神社明細帳附図
金毘羅大権現金光院金堂(現旭社) 正面
金堂上梁式の誌には、次のように記します。
①文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね②弐万余の黄金(2万両)をあつめ
②今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①1806年の発願から1845の完成まで約40年がかりの建築工事だったこと
②建設資金は約2万両で勧進講で集めたこと
ちなみに、式では投げ餅が一日に7500、投銭が15貫文使われています。そのにぎわいがうかがえます。建立当時は中には本尊を初めとする多くの仏像が並び、周りの柱や壁には漆が塗られその上に金箔が施されたといいます。

旭社 神社明細帳附図
            金毘羅大権現金光院金堂(現旭社) 側面
 それではこの金堂には、どんな仏さまが本地仏として安置されていたのでしょうか?
松尾寺の本尊は、十一面観音だったので観音堂が本堂でした。それに対して、金堂に安置されたのは、金光院の本地仏である薬師如来像でした。そのため薬師堂とも呼ばれています。どうして薬師如来だったのかというと、次のように考えられていたようです。

金毘羅大権現の本地仏は薬師如来

1十二神将12金毘羅ou  
薬師十二神将

「金毘羅大権現の本地仏=薬師如来説」に対して、次のような熊野行者勧進説もあります。
山林寺院の中には熊野行者によって開かれた寺院が多く、熊野神宮の本地仏のひとつが薬師如来でした。そのため薬師如来を本尊とするところが多いとされます。後に薬師堂となる本地堂に薬師如来が安置されていたのは松尾寺の熊野行者や熊野信仰との結びつきを示すものと考える研究者もいます。このあたりは、今の私にはよく分かりません。

1 善通寺本尊2
善通寺東院金堂の本尊 薬師如来坐像
ちなみに象頭山周辺で薬師如来を金堂の本尊とするが善通寺東院です。東院金堂には、江戸時代になって勧進活動で得た資金で京都の仏師に発注した薬師さまがいらっしゃることは以前にお話ししました。金光院は善通寺をライバル視していて仲が悪かったので、善通寺金堂を意識していたはずです。「善通寺さんよりもよりも大きく高いものを!」と。しかし、どんな薬師さまが安置されていて、それが廃仏毀釈によって、どこに売却されたかは今の私には分かりません。

イメージ 2
金刀比羅宮 旭社(旧金堂)

 明治の廃仏毀釈で金堂はどうなったのでしょうか? 金刀比羅宮が県に提出した「金刀比羅宮神仏分離調書」を見てみましょう。

[境内仏堂]
 仏堂に於ては素より仏式の作法なりしが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃され、其建物は概ね境内神社の社殿に充当せらるヽと共に、仏式作法廃滅せり。
     (『中四国神仏分離史料』第九巻四国・中国編)
意訳すると
 仏堂は、もとから仏式作法であったが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃された。その建物は、境内神社の社殿に充当した。共に、仏式作法は廃滅した。

ここには境内仏堂の廃止と、その跡建物を利用した神社の整備・変更などを行なったことが報告されています。
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旭社の柱に掘られた江戸の寄進者の名前

金堂も旭社と名前を変え、祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大御神、天津神、国津神、八百万神 などを祀るようになります。しかし、今は空っぽに見えます。

旭社平面図 神社明細帳附図
旭社平面図
旭社(旧金堂)は、神仏分離後には神道の「教導説教場」として使用されるようになります。

旭社内部 天井 神道
現在の旭社内部の「素木の講壇」
明治の金刀比羅宮は、讃岐における神道の指導センターの役割を果たすようになります。そのため神道の教えを教導するための教習場となり、県下から神官が集まってきました。その時の講習会場として、この建物は使われるようになります。その際に、仏式に荘厳されていた天井や壁などから金箔がそぎ落され、素木とされたようです。記録には「明治6年6月19日 素木の講檀が竣成」とあります。
 しかし、神官による説法は僧侶に比べると面白くなく、教導効果を上げることが出来なかったようです。そのため明治15年(1882)には説教指導は取りやめられます。その時に講演に使われていた講檀も撤去されます。そして、明治29年(1896)1月に、社檀を取り除いて殿内に霊殿を新築し、現在に至っているようです。

イメージ 3
           旭社の扁額
この建物が完成したのが1845年のことで、180年前のことになります。近年南側の欅の軒下の松材が白蟻の被害を大きく受けていることが分かりました。そのため大改修が来年から始まるようです。金刀比羅宮のHPには次のような「旭社 令和の大改修プロジェクト御奉賛のお願い」が載せられています。
今般、二階の屋根材木に白蟻被害が確認され、一部の柱に圧壊も認められたことから、半解体による大規模な修理工事が必要となりました。
調査の結果、修理には、工事用道路、覆屋の建設、解体、修理、復元とさまざまな工程を18年に亘り進める必要があり、約50億円の経費が必要であることが分かりました。旭社は国の重要文化財に指定されておりますので、修理費の一部は国や地元自治体からの補助をいただく予定ですが、事業規模がこれまでになく大きく、「令和の大改修プロジェクト」として、旭社の建築時と同様、多くの方々から御奉賛をいただきながら、事業を確実に進めていきたいと考えております。
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           金刀比羅宮旭社 南面部 この軒下部が白蟻被害部分
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                      その拡大
渦巻きの掘られた檜板は被害を受けていませんが、その内部の松材が被害甚大だそうです。
完成から200年後の2045年頃まで改修工事が続くことになるようです。私が生きているうちには、改宗後の姿は見られないようです。大切なものを未来に残していく作業が、ここでも始まろうとしています。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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伊予新宮上村のハゼ
 熊野行者の痕跡と庚申塔を求めて、阿波山城から伊予新宮へのソラの集落めぐりを続けています。その中で出会った新宮の木造校舎を2つ紹介したいと思います。ひとつは、四国中央市新宮町上山の安楽寺を目指せして原付スクーターを走らせていた時に出会った校舎です。
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           伊予新宮上村の寺内
あじさいの里から天日川沿いに森を抜けて行くと、棚田が現れ、収穫の終わった稲藁が「ハゼ」にして干されています。コンバインで刈り取ってしまう中では、もう見られなくなった風景がありました。すこしワクワクしながら坂を登ると、突然現れたのがこの建物です。
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旧寺内小学校
門碑には「寺内小学校」とあります。安楽寺の「寺内」という名称なのでしょう。バイクを下りて、運動場から拝見させていただきます。

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旧寺内小学校
石垣の上に赤い屋根の校舎が長く伸びます。教室が6つあるようなので、1年生から6年生の教室が一列に並んでいるようです。里山の緑と赤い屋根がよく似合います。
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旧寺内小学校
正面に廻ってみます。校舎のすぐ裏側を町道が抜けています。
はい忘れ物やで、と母親が道路側の窓から忘れ物を渡すようなシーンが思いかびます。
グーグルで見ると「新宮少年の家 寺内分館」と記されています。今は、少年の家の施設として使われているようです。手入れも行き届いています。
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こんな素敵な雰囲気の中に身を置いていると、ここで子ども達が元気に活動していた頃のことを、想像せずにはいられません。しばし、いつものようにボケーとしていました。
ここを訪ねたのは、この上にある安楽寺にお参りするためです。

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安楽寺
山門の向こうに本堂が見えます。
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安楽寺本堂
近づいて気づいたのは、軒下に一面の彫刻があることです。何が彫られているのでしょうか?お参りを済ませた後に、拝見させていただきます。
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軒下に彫られた雲龍

龍と雲です。四方の軒下を龍がうねっているのです。
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東側軒下
ゆっくりと四方をめぐって、龍の動きを見ます。
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正面
宮大工の真剣さと遊び心が随所に感じられます。この時の宮大工は、楽しみながら彫っているのもよくわかります。腕が進みすぎて怖かったのではないでしょうか。
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説明版を見てみると、幕末の作品(1854年)のようです。住職からの依頼に応えたのか、自ら申し出て住職が快よく許したのか、持てる力を存分に発揮しています。決して精緻で技術的に高いとは云えないかも知れませんが、その表現意欲は伝わってきます。見ていて気持ちのいい作品です。こんな思いもかけない「宝物」に出会えるので、ソラの集落の寺社めぐりは止められません。縁台に腰掛けて、のんびりと雲龍を眺めてポットに入れたお茶を飲みます。私にとっての「豊かな時」です。
 ちなみに後日、この軒下のレリーフの「手本」と考えられているのが金毘羅宮の旭社だと知りました。
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金毘羅の旭社は、金光院の金堂として総工費2万両で1845年に完成しています。当時は、西日本では大きな金堂とされました。二階の軒下を拡大して見ます。

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ケヤキの大きな板一枚一枚に渦巻き文様が彫られています。この軒下の彫り物が、この金堂の特徴でもあるようです。
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これを見た安楽寺の住職が依頼したのかもしれません。金毘羅大権現という四国の寺社の文化発信地の流行を、機敏に受けいれて取り入れたことが考えられます。

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さて、本来の業務に戻ります。庚申塔捜しです。本堂の前には、いくつものお地蔵さんなどの石仏が並んでいます。しかし、ここにはありません。
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本堂前の庚申塔(一番右側)

ありました。境内の一番外れになります。
庚申塔は、青面金剛が三猿の上に立つ姿が刻まれています。
 青面金剛が邪鬼を踏みつけ、六臂で法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で、頭髪の間で蛇がとぐろを巻いていたり、手や足に巻き付いています。また、どくろを首や胸に掛けたりもします。彩色される時は、青い肌に塗られます。青は、釈迦の前世に関係しているとされます。そして青面金剛の下には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像がいます。

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安楽寺の庚申塔

 庚申塔があるということは、ここで庚申の夜に、寝ないで夜を明かす庚申待が行われていたことになります。60日に一度訪れる庚申の日に、集落の人達が庚申待をおこなっていた証です。今は、地蔵さんに主役を奪われていますが、2ヶ月に一度やって来る庚申待は、集落にとっては大きな意味のある行事でした。ここで光明真言が何千回も唱えられ、その後にいろいろなことが語られ、噂話や昔話なども伝わっていったのです。

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隣の泉田集落の庚申塔

 この庚申信仰をソラの集落に広げたのが修験者たちだったと、私は考えています。
修験者たちは、庚申講を組織し、庚申の日にはお堂に集い光明真言を唱える集会をリードすることを通じて、集落そのものを自分の「かすみ(テリトリー)」としていきます。こうして修験者たちの密度が高かった西阿波や伊予宇摩地方は、今でもお堂が残り、その傍らに庚申塔も立っていることが多いのです。安楽寺にも庚申塔はありました。
 では、讃岐ではお堂や庚申塔をあまり見かけないのはどうしてでしょうか?
それは浄土真宗の広がりと関係あると私は思っています。浄土真宗は、他力本願のもと六寺名号を唱えることを主眼としますので、庚申待などは「邪教」として排除されます。江戸時代になって、寺院制度が固まってくると、浄土真宗の教えが民衆レベルにまで広まるにつれて、讃岐では庚申信仰は衰退したと私は考えています。
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安楽寺の隣の茎室神社
安楽寺の隣には、大きな銀杏と拝殿が見えます。道一つ挟んで神社が鎮座しています。
立派な拝殿です。後にまわりこんで社殿にお参りします。

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近代以後のものでしょうが、手の込んだ細工が施されています。社殿の周囲にはいくつかの小さな摂社が並びます。

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この神社と安楽寺の今に至る経過を、私は次のように推測します。
①吉野川沿いに張り込んだ熊野行者が、この周辺の行場で修行を行い、定着してお堂を構えた。
②谷川の水量が豊かな土地が開かれ、そこに神社が勧進され、周辺の郷社へ成長した。
③有力な修験者が村から招かれ、安楽寺が建立され、神社の管理も行う神仏混淆体制が形成された。
④安楽寺の歴代住職は密教系修験者で、「熊野信仰+修験道+弘法大師信仰」の持ち主でもあった。
⑤彼らは代々、三角寺や雲辺寺、萩原寺などの密教系寺院とのつながりを保ち、大般若経写経などにも関わっていた。

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こんなことを考えながら「寺内」の里を離れました。岡の上から振り返ると、お寺と神社と学校が合わさった場所であることが分かります。小学校をどこに建てるのかは、地元の関心が高く政治問題化します。その中で宗教的・文化的な地域のセンターであった寺内が選ばれたのでしょう。郷社的な地域の中核寺院のそばに小学校が建てられているというパターンは、ソラの集落ではよく見かける光景です。
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寺内地区の上は、茶畑と白壁の家
 これで寺内ともお別れだと思っていると、もうひとつ驚きが用意されていました。
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泉田の高灯籠
目の前に現れたのがこの建物です。まるで燈台のようです。今まで見てきたソラの灯籠の中では、最大のものです。どうして、ここにこんな大きな灯籠が作られ、灯りを灯したのでしょうか。それは、ソラの集落の燈台の役割を果たしたのではないでしょうか。寺内はお寺があり、神社のあるところですが谷状になっていて、外からはよく見えません。
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泉田からの眺望
しかし、ここは尾根の先端部で周囲からはよく見えます。「心の支えとなるお寺と寺院があるのは、あの方向だ、灯りが今日も灯った、神と仏に感謝して合掌」という信仰が自然と湧いてきたのかもしれません。

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泉田の棚田

 ちなみにこの上には、和泉集落のお堂があり、庚申塔もありました。泉田集落の人々の心を照す燈台だったのかも知れません。
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ここにも刈り入れを終えたばかりの藁束が吊されていました。
こんなことを繰り返しながらソラ集落めぐりを原付バイクで行っている今日この頃です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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 金刀比羅宮 - Wikiwand
琴陵宥常
神仏分離令を受けて、若き院主宥常は金毘羅大権現が仏閣として存続できることを願い出るために明治元(1868)年4月に京都に上り、請願活動を開始します。しかし頼りにしていた、九条家自体が「神仏分離の推進母体」のような有様で、金毘羅大権現のままでの存続は難しいことを悟ります。そこで、宥常は寺院ではなく神社で立ってゆくという方針に転換するのです。
宥常(ゆうじょう)は,還俗し琴陵宥常(ひろつね)と改名します。彼が金毘羅大権現最後の住職となりました。

  神仏分離令をぐる金毘羅大権現の金光院別当宥常の動きを最初に年表で見ておきましょう。
明治元年(1868)
2月 新政府の神仏分離令通達
4月 金毘羅大権現の存続請願のために、宥常が都に上り、請願活動を開始
5月 宥常(ゆうじょう)は,還俗し琴陵宥常(ひろつね)と改名
5月 維新政府は宥常に、御一新基金御用(一万両)の調達命令
7月 金毘羅大権現の観音・本地・摩利支天・毘沙門・千体仏などの諸堂廃止決定
8月 弁事役所宛へ金刀比羅宮の勅裁神社化を申請
9月 東京行幸冥加として千両を献納。
   徳川家の朱印状十通を弁事役所へ返納。
   神祇伯家へ入門し、新道祭礼の修練開始
11月 春日神社富田光美について大和舞を伝習
    多備前守から俳優舞と音曲の相伝を受ける
12月 皇学所へ「大日本史」と「集古十種」を進献。
明治2(1869)年2月,宥常が古川躬行とともに帰讃。
ここからは、京都に上京した宥常が、監督庁に対して今後の関係の円滑化のために、貢納金や色々な品々を贈っていることが分かります。同時に神社として立っていくための祭礼儀式についても、自ら身につけようとしています。ただ、神道に素人の若い社務職と、還俗したばかりの元社僧スタッフでは、日々の神社運営はできません。そのために、迎えたのが白川家の故実家古川躬行です。彼は、宥常の帰讃に連れ立ってと金比羅にやってきたようです。
  月が改まった3月には,御本宮正面へ
 当社之義従天朝金刀比羅宮卜被為御改勅祭之神社被為仰付候事

という建札を立てています。実際に、金毘羅大権現から金刀比羅宮への「変身」が始まったのです。
  今回は、金毘羅さんの仏閣から神社への「変身」に、古川躬行が果たした役割を見ていきたいと思います。
 別の言い方をすると、神社として生きていくためのノウハウを、古川躬行がどのようにして金刀比羅宮に移植したかということです。仏閣から仏像・仏具が撤去するだけでは神仏分離は終わりません。仏教形式で行われていた祭礼や諸行事を神道化することが求められました。これは、書物だけでは習うことは出来ません。手取、足取り、口移しで習う種類のものです。明治政府が西洋文化・技術の移植のために、高い給領を支払って御雇外国人を招聘したように、金刀比羅宮も「お雇い京都人」を招く必要があったようです。
 そのために、京都滞在中の宥常が白羽の矢を立てたのが白川神祇伯家に仕える故実家の古川躬行でした。
古川躬行について、人物辞典では次のように記されています。
  没年:明治16.5.6(1883) 生年:文化7.5.25(1810.6.26)
幕末明治期の国学者,神官。号は汲古堂。江戸生まれ。黒川春村の『考古画譜』(日本画の遺作中心の総目録)を改訂編纂,『増補考古画譜』として完成したのは黒川真頼と躬行であり,その随所に「躬行曰」と記してその見識を示した。横笛,琵琶にも堪能であったという。明治6(1873)年枚岡神社(東大阪市)大宮司,8年内務省出仕。10年大神神社(桜井市)大宮司を経て,15年琴平神社(香川県)に神官教導のために呼ばれ,同地で没した。<著作>『散記』『喪儀略』『鳴弦原由』(白石良夫)
1古川

 古川躬行は、文化7年(1810)の江戸で生まれですので、明治維新を58歳で迎えていたことになります。別の人物辞典には
「幕末・維新期の国学者・神職で、早くから平田鉄胤に入門して国史・古典を修めるともに古美術(古き絵や古き絵詞)・雅楽にも造詣が深く、琵琶や龍笛も得意としていたようです。旧幕府時代には白川神祇伯家の関東執役を勤めており、通称を素平・将作・美濃守と称し、号を汲古堂と称した」

とあります。

1古川躬行

  彼が琴平にやってきたのは、先ほど見たように明治2年(1869)2月末のことです。
「扱記録門』二月二十八日条に、次のように記されています。

二月二十八日 此度大変革二付、御本社祭神替ヲ始、神式修行都而指図ヲ相請候人、於京師御筋合ヨリ御頼二依テ、白川家古実家古川躬行(みつら)ト申人来

意訳すると
二月二十八日 この度の大変革について、本社の祭神変更を始め、神式修行などの指示を受けるためにに招いた人である。京都の筋合からの話で、白川家古実家の古川躬行(みつら)という人がやってきた。

と記されています。宥常が1年近くの京都滞在から引き上げてくるのと、同行してやってきたようです。
さらに翌日の記録には次のように記されています。
            
2月29日夜、御本社金毘羅大権現、神道二御祭替修行、次諸堂、御守所等不残御改革に相成、御寺中(じちゅう)、法中、御伴僧、小僧辿御寺中へ相下ケ、禅門替りハ不取敢手代ノ者出仕、御守所小僧替りハ小間遣ノ者拍勤候也、当日ヨリ御守札、大小木札等都而御改二相成、以前之守ハ都而御廃止二成ル。
             (『金刀比羅宮史料』第九巻)
意訳しておくと
2月29日夜、本社金毘羅大権現の神道への改革のために、諸堂、守所など残らず改革されることになった。寺中(じちゅう)、法中、社僧や小坊主などは、すべて山下に下ろした。僧侶は使わずに手代が代わって出仕した。守所の小僧に代わって小間使いのものが勤めた。この日から御守札、大小木札等の全ては新しいものに改められて、以前のお守りは廃された。

とあります。着任翌日から改革に着手していることが分かります。社僧達が境内から追放されるという「現物教育」は、おおきなショックを山内の者達に与えたでしょう。
『禁他見』(部外秘)とある「琴陵光煕所蔵文書」の中には次のような記述もあります。
  明治二巳年二月二十九日夜
 御本宮神道二御祭替、魚味(ぎょみ)献シ、御祭典御報行被遊候事、附タリ、二月晦日、西京ヨリ宥常殿御帰社之事、右御祭替へ、古川躬行大人、神崎勝海奉仕ス。
  『金刀比羅宮史料』第八十五巻)
意訳すると
 明治2年2月29日夜  本宮の神道への御祭替に際して、魚味(ぎょみ=鯛? つまり生魚)が献じられ、祭典変革について神殿に報告した。二月晦日、京都より宥常殿がお帰りになり、御祭替については古川躬行と神崎勝海が奉仕することになった
                
 
全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 朝祭

社僧を山下に「追放」した後の夜、本殿神前には「魚味」が供えられています。それまでの「精進」をモットーとする仏閣からの転換であり、ある意味では神仏分離を象徴する典型的なアクションだったとも言えるようです。着任と同時に、具体的な改革が断行されたことが分かります。まさに、古川躬行の着任が金刀比羅宮の神式祭礼への改革スタート点だったようです。

 「金刀比羅宮神仏分離調書」にみる祭典の変革    
 明治政府は「神仏分離」に伴なう祭典行事や儀式作法の変革について、その変更点を調書として提出させています。
 金刀比羅宮は、どのような点を変革したと自己申告しているのでしょうか。「金刀比羅宮神仏分離調書」の中に記された変更点を見ていくことにします。
  〔本社〕意訳文
本社関係の祭礼行事については、神仏分離のための変遷は極めて少なかった。祭礼行事は、殆んどそのまま引き継がれた。ただし、これを行う方式や作法については、両部神道式を純然たる神道式に改めた。以前には両部神道式に、祝詞を奏し、和歌を頌し、中臣祓を唱へ、再拝拍手をなすなど神道の形式が多かったが、両部のために仏教形式の混入も少なくなかった。これらの神仏混淆の作法は、分離して純然たる神式に改めた。今金毘羅大権現の重要な祭礼行事に就いて、その変遷の概要を述べたい。
 
  祭礼行事に大きな変化はなかったとします。
しかし、10月10日の大祭神事は別で、大きな改変を伴うものになったようです
 大祭の変更については、倉敷県に出された明治三年十月の報告書には、次のように記されています。
 十月の大祀については、当年より次のように改めることになった。十日夕方に上、下頭人登山し、式後に神輿や頭人行列が、神事場の旅所向けて山を下る。到着後に、神事・倭舞を奉奏する。十日夜は御旅所に一泊、11日夕方上下頭人御旅所に相揃って式を済ませ、神輿が帰座する。御供が夜半のことになるが、御前(琴陵宥常)にも汐川行列の御供にも神輿の御供にもついていただき、11日まで御旅所に逗留し、神事の執行を行う。祝、禰宜、掛り役方などのいずれも10日から11日まで、御旅所へ詰める。
 本宮に待機し、9日夜の神事倭舞の助役舞人に加わり、旅所での十日夜倭舞にも参加する。
神人(五人百姓)の協力を得て、11日に神事が終われば、本宮から神璽を守護して丸亀に罷り越し、12日に帰社する。但し、駕龍、口入、両若党、草履取、提灯持四人、合羽龍壱荷の他に、警護人も連れ従わせる。神璽の先ヱ高張ニツ、町方下役人が下座を触れながら、街道を行く
 当社の十月十日、十一日の大祭について、先般の改革のため当年より金刀比羅宮宮神輿、頭人行列の変更点について、以上のように報告する。
以上、
 八月             金刀比羅宮社務
                琴 綾 宥 常 印
倉敷県御役所

 それまでの大祭行列は、観音堂と本宮の周辺で行われていたようで、境内を出ることはありませんでした。それが明治3年(1870)10月の大祭から神事場(御旅所)まで、パレードするようになります。そのために石淵に新たに神事場(じんじば)が整備されます。
神事場へのコースは、石段を下りて、内町から一の橋(鞘橋)を渡って、阿波街道を使っていたようです。後に、鞘橋が現在地に移されてからは通町をゆくようになります。山上の狭い空間で行われていた頭人行列が山下へ下りてきて、街道をパレードするようになった効果は大きかったようです。

金刀比羅宮最大の祭礼「例大祭」が齋行されました。 | イベントニュース | こんぴら へおいでまい | 古き良き文化の町ことひら 琴平町観光協会

 例えば内町に軒を並べる老舗の旅館外は、目の前を行列が通過するようになります。これはセールスポイントになります。大祭に合わせて全国から参拝にやってくる金毘羅講の信者には、何よりの楽しみとなります。参拝者を惹きつけるあらたな「観光資源」が生み出されたことになります。

金刀比羅宮最大の祭礼「例大祭」が齋行されました。 | イベントニュース | こんぴら へおいでまい | 古き良き文化の町ことひら 琴平町観光協会

 境内の旧仏閣は、どのように「変革」されたのでしょうか
 「金刀比羅宮神仏分離調書」をもう一度見てみましょう。
[境内仏堂]
 仏堂に於ては素より仏式の作法なりしが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃され、其建物は概ね境内神社の社殿に充当せらるヽと共に、仏式作法廃滅せり。
     (『中四国神仏分離史料』第九巻四国・中国編)
意訳すると
 仏堂は、もとから仏式作法であったが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃された。その建物は、境内神社の社殿に充当した。共に、仏式作法は廃滅した。

ここからは、両部神道形式の祭典の改正・変更が行われたこと、境内仏堂の廃止とその跡建物を利用した神社の整備・変更などを行なったことがうかがえます。
  さて政府に出された「金刀比羅宮神仏分離調書」を見てきましたが、これを書いたのは誰でしょうか。候補者は次の3人です。
①琴綾宥常(維新時28歳)
②松岡調  (維新時38歳)
③古川躬行(維新時58歳)
山下家当主であった琴綾宥常の業績を大きく評価する立場からすると、彼が神道への改革を取り仕切ったという説が多いようです。しかし、私にはそうは思えないのです。まず、その年齢と経験です。それまで真言宗の社僧として成長してきた宥常にとって、神道平田派の教理も祭礼なども殆ど知らないことばかりなのです。そんな彼に、仏閣から神道への衣替えをやりきる知識と実行力があったかというと疑問になります。
 何回か神仏分離調書(回答書)を読み直してみて感じることは、自信に満ちた文章で、報告書と云うよりも師匠が弟子に教え諭すような雰囲気がします。これが書けるのは古川躬行だけでしょう。彼は先ほど見たように、何冊かの本も出版している中央でも名の知れた神道の学者でもありました。彼が政府に提出した報告書に、頭からクレームが付けられる神学官僚はいなかったのではないでしょうか。②松岡調は、彼の日記などを見るともう少し実務的な仕事を、この時点では行っていたようです。
 金刀比羅宮の神仏分離の変革の立役者は、古川躬行だったと私は思っています。

古川躬行のプランに基づいて旧仏閣建築群が、どのようになったのかを報告書から見ていくことにします
 神仏分離の結果、金光院時代の諸仏堂を再利用して、明治2年(1869)6月に、次のような末社が創り出されています。
 ①旭社・②石立神社・③津嶋神社・④日子神社・⑤大年神社・⑥常磐神社・⑦天満宮・⑧火産霊社・⑨若比売社
 さらに、従来からの末社を次のように改称ています
旧金剛坊→⑩威徳殿、旧行者堂→⑪大峰社、
大行事堂→⑫大行事社

これだけの改革のための全体プラン作り、実行していったのも古川躬行を中心とするスタッフだったようです。
1金毘羅金堂 旭社

具体的に①の旭社の改変をみてみましょう。
 旭社は、松尾寺の金堂に当たります。「金堂上梁式の誌」には、次のように記されています
「文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね弐万余の黄金(2万両)をあつめ今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」

文化3年(1806)の発願から40年の歳月をかけて完成したのが金毘羅さんの金堂でした。「西国一の大きな建物」というのが評判になって、金毘羅さんのセールスポイントのひとつにもなっていました。代参に訪れた清水次郎長の子分・森の石松が、本宮と間違えて帰ってしまい、帰路に殺された話の中にも登場する建物です。
 建立当時は中には、本尊の菩薩像を初めとする多くの仏像が並び、周りの柱や壁には金箔が施されたようです。それが明治の廃仏毀釈で内部の装飾や仏像が取り払われ、多くは売却・焼却され今は何もなくがらーんとした空間になっています。金箔も、そぎ落とされました。よく見るとその際の傷跡が見えてきます。柱間・扉などには人物や鳥獣・花弄の華美な彫刻が残ります。

かつての金堂 - 金刀比羅宮 旭社の口コミ - トリップアドバイザー

 この旭社(旧金堂)は、神道の「教導説教場」として使用されたことがあります。
神道の「三条の教憲」を教導するための講演場となったのです。その際に、天井や壁などから金箔がそぎ落され、素木となったようです。記録には「明治6年6月19日素木の講檀が竣成」とあります。説教活動が行なわれますが、神主の話は面白くなく、教導効果を上げることが出来なかったようです。そのため明治15年(1882)には説教講演は取りやめられます。その時に講演に使われていた講檀も撤去されたようです。そして、明治29年(1896)1月に、社檀を取り除いて殿内に霊殿を新築し、現在に至っているようです。
金刀比羅宮(香川県琴平町) : 好奇心いっぱいこころ旅

さて、神仏分離で仏さんを取り除いたあとの旧金堂(旭社)には、何が祭られているのでしょうか。
 神殿への改装当初の祭神は、
①伊勢大神の意をもって天照大御神
②八幡大神の意をもって誉多和気尊
③春日大神の意をもって武雷尊
の三神を祀っていたようです。それが明治6年(1873)7月に誉多和気尊と武雷尊とを境内末社常磐神社に移し、境内末社の産須毘社(旧大行事堂、後の大行事社)を廃社にして、そこに祀られていた祭神の高皇産霊神を合祀したようです。さらに後には、天御中主神・神皇産霊神・天津神・国津神をも合祀されて今日に至っているようです。しかし、閉ざされた建物の中をのぞき見ても何もない空間のように、私には見えるのです。幕末に金堂として建てられた仏閣を、持てあましているようにも見えます。参拝客も旭社の意味を分からずに、その大きさに圧倒されてお参りはしていきますが、何かしら不審顔のように思えるのです。
 話が逸れてしまったようです。古川躬行にもどりましょう
 古川躬行は、その後も亡くなるまで琴平にいたのかと私は思っていました。ところがそうではないようです。金刀比羅宮での指導後は枚岡(ひらおか)神社大宮司、大神神社大宮司などを歴任します。大神神社は三輪大明神とも呼ばれ大和の一宮です。その大宮司と云えば神職の長で、祭祀および行政事務を総括する役職にまで登り詰めています。彼は忙しい日々の中で、著述活動も続けています。そのような中で、琴平を離れた後も神職教導のために再三の招聘に応じています。
『盛好随筆』第六巻の明治15年8月条に、
 古川躬行先生、去ル十四日札ノ前 登茂屋久右衛門方法着、同十五日御山内壱番屋シキヘ引移り、十八日御本宮参拝、暫ク此方へ御雇入二相成候趣ナリ、(『金刀比羅宮史料』第五十二巻)
意訳すると
 古川躬行先生が去る14日に札ノ前の登茂屋久右衛門方に宿泊した。翌日15日に山内壱番屋へ移り、18日に本宮を参拝、しばらく金刀比羅宮で、雇入になるとのことである。

  この時の招聘にどんな背景があったのかは分かりません。
最初明治2年にやって来て、行なった神式改正の指導から15年近くが経っています。神式による祭典や摂末社の整備改廃整備も一段落していたので、この時には社務所分課章程・年間恒例祭典の祭式・祝詞・幣帛(神饌)などを一冊に取り纏めた『官私祭記年史祚』を琴平で著しています。そして、翌16年(1883)5月6日に、琴平の地において死没します。享年75歳でした。
 古川躬行の死去に際して、当時金刀比羅宮の運営する明道学校の教長であった水野秋彦は、次のような誄を起草しています。
うつりすまして、年の一年へしやへりやに、春のあらしに吹らる花口かなく過ぬる大人は、もとはむ古事たれこたふとか、過ませるたとらむみやひ誰しるへすとか、過ませる古川の大人や、かくあらむとかねてしりせは、古事のことのことこととひたヽしておかましものを、たヽしおかすてくやしきかも、ことのはのみやひのかきり、きヽしるしておかましもの、しるしおかすてくちをしきかも、しかはあれとも、くひてかひなき今よりは、かの抗訳のふかき契を、松の緑のときはかきはに忘れすしてのこしたまへる飢ともを、千代のかたみとよみて伝へて、もとより高きうまし名を、遠き世まてにかたらひつかせむ、かれこの事を、後安がる事のときこしめせ、石上古川大人、正七位古川大人。
     (『水野秋彦遺稿』〔『金刀比羅宮史料』第五十八巻)

古川躬行墓所については、次のように記されています。
  昨六日四時、古川躬行先生死去、齢七十五歳、
墓処遺言 但願旧主御代々之墓処ノ内 東南ノ処へ葬候事、(下略)、
 (『山下盛好随筆』第六巻 明治十六年五月七日条〔『金刀比羅宮史料』第五十二巻)
古川躬行の墓所は広谷の金光院歴代別当墓所域内の南東の角に設けられたようです。
金刀比羅宮 | 令和2年 累代別当及歴代宮司墓前祭
金毘羅大権現累代別当及び金刀比羅宮歴代宮司の墓域

このことからも琴陵宥常の古川躬行に対する想いがうかがえます。若い宥常が京都で古川躬行に出会ったことが、金毘羅さんを仏閣から神社へと変えていくための頼りになる指導者を得ることにつながりました。古川躬行の晩年を琴平で過ごしてもらい、出来るだけの加護をしたいという気持ちで、三度目の招聘を行ったのでしょう。ある意味、恩返しのような気持ちもあったと私は考えています。
   墓所については、神仏分離に難局に対して立ち向かった最大の貢献者(功労者)に対する礼のように思えます。「琴陵宥常にとって最大級の畏敬の表現」と研究者は考えているようです。

     参考文献   西牟田 崇生  金刀比羅宮と琴陵宥常  国書刊行会

  下の表は明治5年の壬申戸籍に基づいて作成された集落別職業別戸数です。
3  塩飽 戸籍$pg

塩飽の各集落の職業別戸数にもとづいて、地区ごとの大工比率が出されています
(イ)は大工数で総計は707人
(エ)が地区戸数で塩飽全体の総戸数が2264戸
(イ)÷(エ)=(オ)で、全体で31%、3軒に1軒が大工
ということになります。
細かく見ていくと本島の大浦・尻浜・生ノ浜、広島の茂浦・青木・市井、豊島の7集落は、半数以上が大工です。漁民の数と大工の数が、ほぼ一緒なのです。漁民の多い本島小阪、佐柳島、瀬居島には大工が少ないようです。
 私は塩飽の大工について、次のように考えていました。
廻船業で活躍した人たちは、海上運送業業の不振と共に漁業に進出するようになった。同時に、造船業に従事していた船大工が宮大工や家大工に「転進」したと、勝手に考えていました。しかし、この表からは私の予想しなかった塩飽の姿が見えてきそうです。
塩飽の大工集団がどのように形成されたのかを探ってみましょう。
まずは塩飽に木材加工職人や船大工が大量に入ってきた時代があります。その時代のことを見てみることから始めましょう
文禄元年の豊臣秀次の塩飽への朱印状に、塩飽代官に朝鮮出兵に向けての「大船」を作ることが命じられたことが記されています。時の代官は、そのための船大工や木材を集めます。この時代の塩飽や小豆島は、キリシタン大名の小西行長の支配下にありました。堺の通商ネットワークに食い込んでいる小西家によって各地から船大工をはじめとする造船技術者たちが塩飽本島に集められ、大船建造のための「造船所」がいくつも姿を現したのでしょう。そこでは朝鮮出兵のための軍船が造り続けられます。
3  塩飽 関船

この時には「関船」という軍船を短期間で大量に作ることが求められました。そのため技術革新と平準化が進んだと研究者は考えているようです。
  この時に新開発されたのが「水押(みよし)」だと云われます。
3  塩飽  水押

水押は波を砕いて航行することを可能にし、速力が必要な軍船に使われるようになります。それが、江戸初期には中型廻船にも使われるようになり、帆走専用化の実現で乗員数減にもつながります。船主にとっては大きな経済的利益となります。これが弁才船と呼ばれる船型で、塩飽発祥とも言われますが、よく分かりません。
3  塩飽  弁財船

この弁財船をベースに千石船と呼ばれる大型船が登場してくるようです。
 江戸時代になると塩飽は、廻船業を営む特権的な権利を持ちます
 そのために造船需要は衰えません。また、和船は木造船なので、海に浮かべておくと船底に海草や貝殻が生じ船脚が落ちます。それを取り除くためには「船焚(タデ)」が必要ですし、船の修繕も定期的に行なわなければなりません。
4 船たで1
船焚(タデ)で船底を焦がして、フナムシを駆除
牛島の丸尾家や長喜屋などの大船持になると、専用の修繕ドッグを持っていたと伝えられます。このように塩飽には、大小の船持が多くの船舶を持っていて、高い技術を持った船大工も数多く揃っていたのではないでしょうか。そこで作られる廻船は優れた性能で、周囲の港の船主の依頼も数多くあったのかもしれません。こうして、近世はじめの塩飽には、船大工が根付く条件が備わっていたのではないかと研究者は考えているようです。
  塩飽の造船所については、ドイツ人医師・シーボルトが「江戸参府紀行」に、次のように書き残しています
 文政九年(1826)6月12日の本島・笠島港の見聞です。
 六フイートの厚さのある花崗岩で出来ている石垣で、海岸の広い場所を海から遮断しているので、潮が満ちている時には、非常に大きい船でも特別な入口を通って入ってくる。引き潮になるとすっかり水が引いて船を詳しく検査することが出来る。人々は丁度たくさんの船の蟻装に従事していた。そのうち、いく隻かの船の周りでは藁を燃やし、その火でフナクイムシの害から船を護ろうとしていた。
  ここからは次のような事が分かります。 
①花崗岩の石垣で囲まれた造船所ドッグがあり、潮の干満の差を利用して入港できる
②引潮の時に何艘もの船がドッグに入って艤装作業が行われている
③藁を燃やし船焚(タデ)作業も行われている
造船所の構造と船タデの様子が、よく分かります。そして、ここは下関と大阪の間で、船を修理するのにもっとも都合のよい場所だという註釈まで加えられているのです。笠島浦に行った時に、この「造船所跡」を探しましたが、いまはその跡痕すらありませんでした。ちなみに、備後の鞆には残っているようです。

4 船たで場 鞆1
            鞆の船焚場跡

従来の説では、塩飽の宮大工は船大工が「陸上がり」したものだと云われてきました。
 塩飽で船持が鳴りを潜めた時代に、船大工から家大工への「転身」が行なわれたというのです。造船や修繕の需要が少なくなって、仕事がなくなった船大工が宮大工になることで活路を見い出したという説です。瀬戸内海を挟んだ岡山県や香川県には、塩飽大工が手がけた社寺が幾つも残っています。それらの寺院や神社建築物の建立時期が、塩飽回船が衰えた18世紀半以降と重なります。

3 吉備津神社
 例えば、岡山県吉備津神社がそうです。
備中一の宮にあるこの建物は鳥が翼を拡げたような見事な屋根を持ち「比翼入母屋造吉備津造」で名高いものです。この本殿・拝殿の再建・修理が宝暦九年(1759)から明和六年(1769)にかけて行なわれています。そのときの棟札には、泊浦(塩飽本島)出身の「塩飽大工棟梁大江紋兵衛常信」と工匠の名前が墨書されています。
 
4 塩飽大工 棟札
吉備津津神社本殿修造の棟札。
下部中央には「塩飽大工棟梁大江紋兵衛常信」の名がある(岡山県立博物館蔵)


以前にも紹介しましたが、善通寺の五重塔も塩飽大工の手によるものです。幕末から明治にかけて長い期間をかけてこの塔を再建したのも塩飽大工左甚五郎です。
  彼らは浦ごとに集団を組んで、備中や讃岐から入ってくる仕事に出向いたようです。それが次第に仕事先の丸亀や三豊の三野、金毘羅あたりに定住するようになります。このように塩飽の宮大工が、船大工に「転身」したという従来の説は、大筋では納得のいくものです。しかし、これに対して「異議あり」という本が出ました。これがその題名もそのもの「塩飽大工」です。この本は、地元の研究会の人たちによる備讃瀬戸沿岸の塩飽大工の手による建築物の調査報告書的な書物です。
4 塩飽大工
その中で、調査を通じて感じた「違和感」が次のように記されています。
自分の家を家大工に立てさせた宮大工
 塩飽本島笠島浦の高島清兵衛は宮大工で、1805文化2年に月崎八幡神社鐘楼堂(総社市)を弟子の高島輿吉、高島新蔵とともに建ています。同じ文化2年に清兵衛の自宅を、隣浦の大工妹尾忠吉に建てさせているのです。その棟札に宮大工の清兵衛一族の名はないというのです。つまり、宮大工として出稼ぎに出ている間に、島の自宅を地元の家大工に建てさせているのです。ここには、船大工、宮大工、家大工の間に、大きな垣根があったことがうかがえます。宮大工が片手間に民家を建てることや、船大工が宮大工の仕事に簡単にスライドできるようなものではないようです。それぞれの仕事は、私たちが考えるよりもはるかに分化し、専業化していたようです。
その例を、この本ではいくつかの視点から指摘していますので見ていきます。
例えば、技術面でも船大工と宮大工に求められたものは異なります
船大工は秘伝の木割術に基づき、材の選定、乾燥、曲げ、強度、耐久性、水密と腐食防止等、高度な設計技術と工作技術が求められます。舵・帆柱等は可動性、内装には軽さと強さといった総合的な技術が必要であることに加えて、莫大な稼ぎにかかわるため短期間で完成させなければならないという条件があります。
宮大工は、本堂のような建造物を、数十年という長い年月をかけて、神仏の坐する場所にふさわしい格調と荘厳に満ちたものにする専門技術が求められました。そこには彫刻技術が必須です。
 船は木材の曲げと水密技術が多用されます。それに対して寺社は、曲りを使わずに屋根の曲線は精密な木取りで実現します。宮大工は船大工に比べて非常に高価ないい大工道具を使ったといいます。船は実用性優先で、寺は崇高で洗練されたものでなけらばなりません。
 このように見てくると、従来から云われてきた
「塩飽大工は船大工の転化で、曲げの技術を堂宮造りに活かした」
という説は成り立たないと「塩飽大工」の筆者は云います。棟梁格が臨機に船大工と宮大工を兼ねたということは考えられないとして、塩飽には宮大工と船大工の二つの流れが同時に存在していたとします。
 ただ、小さな民家の場合は、船大工でも宮大工でも片手間で建てることができます。船乗りという仕事は、海の上で限られた人数で、船を応急修繕しなければならないこともあります。みんながある程度の大工技能を持っていたようです。江戸中期までは、冬場は船が動きませんでした。仕事のない冬の季節は、大工棟梁のもとで働く「半水半工」が塩飽にはいたかもしれません。
 ① 廻船業の視点からの疑問
 塩飽の大型船は確かに1720享保5年を境に急激に減っています。
  この背景には幕府の城米の輸送方針の変化があったようです。
 塩飽全体の廻船数は
正徳三年(1713) 121艘
享保六年(1721) 110艘
明和二年(1765)  25艘
寛政二年(1790)   7艘
確かに北前船は激減していますが、実は塩飽の総隻数は漸減なのです。 
3  塩飽人口と船数MG

これは塩飽船が北前船から瀬戸内海を舞台とする廻船に「転進」したことがうかがえます。
塩飽手島の栗照神社を調査したある研究者の報告を紹介します。
北前船の絵馬が5枚あるというので出向いたところ、文化初年(1805頃)を下らない1500石積の大型弁才船が描かれてるものがあったようです。これは北前船の船型ではなく、奉納者はすべて大坂の船主で、船は大坂を拠点にする瀬戸内海の廻船であったことがうかがえます。報告者はこう記します。
「弁才船というのは型の呼称であって、北前船というのは北陸地方を中心とする日本海沿岸地域の廻船の汎称である。戦後日本海運史研究で北前船が一躍表面に出て、北前船が戸時代海運を代表する廻船だったかのように誤解されてしまい、いつの問にか弁才船即北前船と錯覚する向きも出てきた」
 つまり江戸後期になると、弁才船の多くは大坂を拠点に瀬戸内海を走るようになっていたというのです。

3  塩飽  弁財船2
弁財船
その多くは船主が大坂商人で、借船あるいは運行受託になっていたと研究者は考えているようです。
 塩飽の1790寛政2年、400石積以上の廻船数はわずか7隻と記されています。しかし、「異船」が57隻もあります。「異船」と何なのでしょうか?これが持ち主は大坂商人で、乗り組んでいたのは塩飽の船頭に水夫たちだったのではないか、それが東照神社絵馬のような船ではないかと筆者は推測します。
 全国各港に残る入船納帳や客船帳は、江戸中期以降塩飽船の数が減ることを「塩飽衰退の証拠」としてきました。確かに塩飽船主でないため塩飽とは記録されませんが、船頭や水主に塩飽人が混乗する船は多かったと考えられます。
 以上のように塩飽船籍の船は減ったが乗る船はあったので、水主の減り方は緩やかだったとするのです。
明治5年時点でも、塩飽戸数の1割にあたる210戸が船乗りです。文化、文政、文久、万延といった江戸後期の塩飽廻船中が寄進した灯篭や鳥居が、そこかしこにあることからも、塩飽の海運活動の活発さがうかがえます。
次は乗組員(水主)の立場から見てみましょう。
 船乗りは出稼ぎで、賃雇いの水主です。彼らにとって乗る船があればよいのであって、地元船籍にこだわる必要はありません。腕に覚えがあれば、船に乗り続けられます。賃金の面でみても、水主の方が魅力的だったようです。塩飽の水主は多くが買積船に乗り、賃銀に歩合の比率が大きかったため、固定賃銀の運賃積船よりも稼ぎが多かったようです。塩飽の船乗りは、船主は代わっても船に乗り続けていたのです。
 塩飽牛島に自前の造船所を持っていた塩飽最大の船主丸尾家は、
 江戸中期になると、拠点を北前船の出発地である青森へ移します。それは、船造りに適したヒバ材が豊富なで所に造船所を移すというねらいもあったようです。与島にも1779安永8年頃に造船所を造っていますが、そこは小型船専用でした。千石船が入ってくるのは船タデと整備のためだったようです。

 司馬遼太郎の「菜の花の沖」には、廻船商人の高田屋嘉兵衛の活躍と共に、当時の経済や和船の設計・航海術などが記されています。
そこにも大型船の新造は、適材を経済的に入手でき、人材も豊富な商業都市・大坂で行われていたことが描かれていました。経済発展とともに大量輸送の時代が訪れ、造船需要は拡大しました。このような中で、塩飽の船大工が考えることは、仕事のある大阪へ出稼ぎやは移住だったのではないかと作者はいいます。確かに塩飽に残り宮大工に転じたと考えるよりも無理がないかもしれません。ちなみに、200石以下の小型船は塩飽でも建造され続けているようです。機帆船や漁船は昭和40年代まで造られていて、船大工の仕事はあったのです。
 船大工は家大工よりも工賃が高かった
 大坂での大型弁才船の船大工賃は家大工に比べて4割程度高かったと云います。塩飽でも1769明和6年に起きた塩飽大工騒動に関する岡崎家文書に、当時の工賃が記されています。
船大工は作料1匁8分、
家大工・木挽・かや屋は1匁7分とある。
日当1分の差は大きく、これも船大工からの転業は少なかったと考える根拠のひとつとされます。この額は、大坂の千石船大工に比べると半分程度になるようです。塩飽の腕のある船大工なら大坂へ出稼ぎに出たいと思うのも当然です。家大工との工賃差が大坂より小さいのは、塩飽では小型船しか作らなくなっていたからでしょう。
誰が大工になったのか
 最初の疑問である
「浦の3軒に1軒は大工の家」という背景をもう一度考えて見ます。これは、は江戸を通じて大工が増え続けた結果だと作者は推測します。その供給源は、どこにあったのか、何故増えたのかを考えます。
人的資源の供給源は「人名株を持った水主家の二男三男」説です。
  以前見た資料を見返してみましょう。
  元文一(1727)年、対岸の備中・下津井四か浦は、塩飽の漁場への入漁船を増やして欲しいと塩飽年寄に次のように願い出ています
 塩飽島の儀、御加子浦にて人名株六百五拾人御座候右の者共へ人別に釣御印札壱枚宛遣わせらる筈に御座候由、承り申し候、六百五拾人の内猟師廿艘御座候、残りは作人・商船・大工にて御座候、左候へば御印札六百余も余慶有るべきと存じ候……。
  ここでは下津井の漁師たちが「塩飽は好漁場を持っているのに人名の船は2艘しかなく、残りは「作人・商船・大工」だと云っています。
  明和二(1765)年の廻船衰退の際の救済申請所には、塩飽の苦境が記されています。
 島々の者 浦稼渡世の儀、先年は回船多く御座候に付、船稼第一に仕り候得共、段々回船減じ候に付、小魚猟仕り候者も御座候。元来小島の儀に御座候得者、島内に渡世仕り難く、男子は十二三歳より他国へ罷り越し、大工・・
と、塩飽には仕事がないので12、3才から宮大工や家大工の弟子になり、棟梁について他国へ出稼ぎに出ていると、島の困窮を訴えっています。
 ここからは塩飽には18世紀から大工が多くいたことが分かります。この上に次のようなストーリーを描きます
① 島には古くから続く宮大工家があった
② そこに人名株を持った次男・三男が預けられた
③ 素質のある者は宮大工になり、並の者は家大工になった。
④ 名門宮大工家には弟子たちが養子入りした事例が多いのは、技術の伝承目的もあった
  このようにして、宮大工の棟梁が住む浦には大きな大工集団がうまれていったのです。
塩飽本島の春の島巡礼をお接待を受けながら歩いていると、大きな墓石に出会います。
3  塩飽  人名墓
幕府はたびたび
「百姓町人の院号居士号は、たとえ富有者や由緒有る者でも行ってはならず、墓碑も台石共で高さ4尺(約121cm)まで」
と、「墓石制限令」をだしています。しかし、水主家や大工家の墓は、この大きさを超え名字を記したものが数多くあります。このような大きな墓が建てられること自体、宮大工の人名の家は裕福だったようです。
  以上をまとめておきます。
①秀吉の朝鮮出兵の際に、塩飽は関船の造船拠点となり、多くの船大工がやってきた
②短期間で大量の関船を造るために「水押」などの新技術が採用された
③江戸時代になっても塩飽は廻船拠点として、造船・修繕需要があり船大工は定着していた。
④これに対して、宮大工の系譜を引く集団も中世以来存在した。
⑤廻船業が普請になると、廻船業者の次男たちは宮大工の棟梁に預けられた
⑥浦毎に組織された大工集団は、備前・備中・讃岐の寺社建築に出稼ぎに呼ばれるようになる
⑦その結果、腕の立つ棟梁のいる浦には、その弟子たちを中心に大工集団が形成された。
こうして形成された山下家の大工集団からは、出稼ぎ先の三豊に定着し、三野の本門寺や仁尾の寺社の建築物を手がける者もあらわれます。そして、その中からは以前に紹介したように、琴平に移住して、旭社(旧金堂)建立の際には棟梁として活躍する者もあらわれるのです。
   備讃瀬戸の真ん中の塩飽に住んで、周囲の国々をテリトリーにして活躍する宮大工集団がいたのです。それが明治の戸籍には痕跡として残っているようです。

参考文献 高倉哲雄・三宅邦夫 塩飽大工 塩飽大工顕彰会

ペリーが来航した頃の幕末の金毘羅さんは建築ラッシュ

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 ペリーが来航した頃の幕末の金毘羅さんは建築ラッシュでした。
まずは、本堂(現旭社)の再建工事が40年にわたる長き工期を終えて完成を迎えます。
「金堂上梁式の誌」には
「文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね弐万余の黄金(2万両)をあつめ今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」と書かれています。
ちなみに、式では投げ餅が一日に七五〇〇、投げ銭が一五貫文使われています。そのにぎわいがうかがえます。

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 今は旭社と呼ばれていますが文化3年(1806)の発願から40年をかけて建築された仏教寺院の金堂として、建立されました。そのため、建立当時は中には本尊の菩薩像を初めとする多くの仏像が並び、周りの柱や壁には金箔が施されたといいます。それが明治の廃仏毀釈で内部の装飾や仏像が取り払われ、多くは破棄・焼却され今は何もなくがらーんとした空洞になっています。金箔も、そぎ落とされました。よく見るとその際の傷跡が見えてきます。柱間・扉などには人物や鳥獣・花弄の華美な彫刻が残ります。
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清水次郎長の代参をした森の石松が、この金堂に詣って参拝を終えたと思い、本殿には詣らずに帰つたという俗話が知られています。確かに規模でも壮麗さでも、この金堂がこんぴらさんの中心と合点して不思議でなかったでしょう。
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 金堂が完成すると境内では、金堂のすぐ前に手水鉢・釣り灯箭・井戸の寄進(弘化二年)、坂の付け替え(嘉永二年)、廻廊の寄進(安政元年)などの整備が進みます。また、町方では、嘉永三年(1850)に銅鳥居から新町口までの間に、江戸火消し四十八組から石灯龍が寄進され「並び燈籠」として丸亀街道沿いに整備されます。
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   高灯寵の建造  

 このような中で、明治維新を目の前にした慶応元年(1865)に次のような寄付状が金光院に提出されます。
寄付状の事  一 高灯龍 壱基
 右は親甚左衛門の鎮志願いニ付き発起いたし候処、此の度成就、右灯龍其れ御山え長く寄付仕り者也、依って件の如
      讃岐寒川住  上野晋四郎  元春(花押)
      慶応元年    乙丑九月弐拾三日
 これは、子の晋四郎が父・甚左衛門の鎮志願いに発起し、金光院へ寄付を、高灯籠の完成後に願い出たものです。願主の上野晋四郎は、寒川郡の大庄屋を務めていた人物です。しかし、この寄付は上野晋四郎一人によるものではなく、寒川郡全体の寄付でした。次の史料からそれがうかがえます。 
高灯籠の事
 右 発起人 高松御領寒川郡津田浦上野甚右衛門、同志度浦岡田達蔵、引請人志度浦岡田藤五郎、寄付人寒川郡申一統 嘉永七寅年十月願書を以て申し出、嘉永八卯年則安政二年二成正月十三日願い済み二相成り申し候、安政五午年三月二日ヨリ十月二十三日迄二石台出来、同未年四月十八日ヨリハ月二十九日迄二灯箭成就仕り候事
ここには、高灯寵の建設過程が簡単に記されています。意訳すると
安政元年(1854)10月に上野甚右衛門が総代発起人となって高灯寵建築の願書を差し出し、翌安政二年に許可になった。翌年の三年には、さっそく地堅めのための相撲を挙行し、四年の二月から地築きに取り掛かる。そして、五年に石台が完成し、六年八月には灯龍が完成したのである。
   年表にすると
1854嘉永7年建築願書
1857安政4年地築
1858安政5年石台完成
1859安政6年燈寵造立
1860万延元年9月最終完成
こうして出来上がった高灯寵の大きさは次のようになっています。
「石台高さ5間3尺(約10m)、石台下端幅51尺(約5.45m)、石台上端幅28尺(約8.48m)、総高15間」

ところが安政2年に書かれた播磨屋嘉兵衛の見積仕様書によると
「石台高さ二一尺五寸、石台下端幅四一尺、石台上端幅二八尺、総高63尺」
で計画されています。つまり、出来上がった実物は1,5倍になっていたのです。そのいきさつは、よく分かりませんが「瀬戸内海を行く船からよく見えるように少し高くした」と地元では言い伝えられています。
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 この高灯籠建設に関する募金額について「高灯籠入目総目録」と記された史料が残されています。それを見ると「一金三千両内子三拾六両郡中寄附」と書かれており、以下寄付した人名と金額が並んでいる。ちなみに、発起人総代の上野甚左衛門は、四〇〇両という大金を寄付しています。また、「郡中寄附」として1036両もの額が集まっています。名前は記されていませんが募金に応じた人々が数多くいたのです。この募金には前山村・小田村・原村をはじめに、富田・津田・牟礼・大町・鶴羽・是弘・神前・志度・石田といった寒川郡内のすべての村が漏れる事なく網羅されています。その上に、郡内は「萬歳講」、郡外は「千秋講」という当時流行の「講」を組織して集められています。
これだけの募金が集められた経済力の源は何だったのでしょうか?
 東讃においては寛政元年(1789)ころより、薩摩に習って砂糖生産が行われるようになります。そして、天保六年(1835)の砂糖為替金趣法の実施などで軌道に乗るようになります。ちなみに、高松藩の甘藷植え付け面積の推移を簡単にみると、
天保五年1210町程度であったものが
弘化元年(一八四四) 一七五〇町、
嘉永元年(一八四八)二〇四二町、
安政三年(一八五六)三二二〇町、
安政五年(1858)三七一五町と着実に増加しています。
では、なぜ金毘羅への寄進になったのか。それは、大坂などへ砂糖を運ぶ際の船の安全を祈願することでもあったと言われます。
 
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総工費3,000両のうち1,036両という費用が寒川郡中の砂糖生産を背景として、経済的な成長を遂げた人々の寄付で付で賄われました。ちなみに1835天保6年に建てられた金丸座が1000両、金堂(旭社)が20000両です。

工事を担当したのは、塩飽大工の山下家の末裔である綾豊矩です。彼の父は金毘羅さんの金堂建築に棟梁として腕を振るった名大工でした。その子豊矩が最初に手掛けた大規模建築が高灯籠でした。

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 上の絵はこんぴら町史の図版編に収められている高灯籠を描いたものです。これを見て、高灯籠とは思えませんでした。それは、周辺の様子が今と全く違うからです。まず、この絵には湖面か入江のように広い水面が描かれていますが、今の金倉川からは想像も付きません。高灯籠の足下近くまで川岸が迫っているように見えます。この絵からは高灯籠が丸亀街道と金倉川の間に建てられていますが、周囲は河原であったことが分かります。もう少しワイドに見てみましょう。

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日清戦争後の明治28年(1895)の「金刀比羅神山全図」です。
右下から左に伸びているのが丸亀街道、その途中に先ほどみた高灯籠がロケットのように建ち、その境内の前には大きな鳥居と一里松が見えます。もう少し部分的に拡大してみましょう。
 
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右手からは煙をはいて讃岐鐡道の豆蒸気機関車が神明町の琴平駅に入ってきています。その手前に平行して走るのが大久保諶之丞によって開かれた四国新道。そして、金倉川が高灯籠の間を流れます。
もちろん、まだ金倉川に大宮橋は架かっていません。
 鳥居と大きな木に注目して下さい。

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丸亀街道の高灯籠方面を眺めた明治30年ころの写真です。

丸亀街道を南から北に向かって撮影されています。いくつかの気になるものを映り込ませています。まず黒い鳥居。これは天保年間に江戸の鴻池一族により寄進されたものですが、この後の明治36年に崩れ落ちてしまします。その後、修復されて現在は社務所南に建っています。右手には江戸の火消組などから寄進された灯籠が並んでいます。灯籠の前には櫻の苗が植えられています。それが今も春には花を咲かせます。灯籠の向こう側には「一里松」と親しまれた大きな松がまだ建材です。今は、姿を消しました。

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1900年前後の高灯籠周辺は空き地

土讃線が財田まで伸びて新琴平駅が開業するのは1923年のことです。その時に駅前から真っ直ぐに高灯籠の前を通って神明町に伸びる道路が作られますが、この写真には、その道路はありません。この時代も高灯籠の周りは空き地です。高灯籠と金倉川の間には木造家屋が建っていますが、約30年後にこの辺りに琴電琴平駅が姿を見せるようになります。その前に、この家屋は洪水で姿を消します。

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大正年間に大雨により琴平町内を流れる金倉川は、大洪水となり護岸を崩し、橋を流しました。
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その普及後の護岸がこれです。石組み護岸に補強され、ここに線路が敷かれて琴電琴平駅が姿を現すのが1926年のことでした。
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参考文献 町史 ことひら 

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