前回は18世紀末に、金刀比羅宮表書院のふすま絵リニューアルを円山応挙が担当することになったこと。担当者となった応挙は、それまでの各間の呼称に従って絵を描いたことを見ました。今回は、そのなかで玄関に一番近い鶴の間に、応挙がどんな絵を収めたのかを見ていくことにします。まずもう一度、表書院の間取りを確認しておきます。
玄関に一番近いところにあるのが鶴の間です。各間には、次のようなふすま絵が描かれました。
表書院の間取りと各部屋の障壁画
最初に迎えてくれるのが鶴の間で、ここには遊鶴画が描かれています。鶴の間は、東西二間、南北二間の十二畳の部屋です。玄関を入ってすぐ左にあって、西側の虎の間に続きます。鶴の間の絵図配置の拡大版を見ておきます。
表書院 鶴の間の配置図
玄関に一番近いところにあるのが鶴の間です。各間には、次のようなふすま絵が描かれました。
表書院の間取りと各部屋の障壁画
最初に迎えてくれるのが鶴の間で、ここには遊鶴画が描かれています。鶴の間は、東西二間、南北二間の十二畳の部屋です。玄関を入ってすぐ左にあって、西側の虎の間に続きます。鶴の間の絵図配置の拡大版を見ておきます。
表書院 鶴の間の配置図
1ーA 稚松双鶴図(ちしょうそうかくず) 東側の壁貼付で床の間三面1ーB 稚松図(ちしょうず) 障子腰貼付二面1ーC 稚松丹頂図 西側の襖四面1ーD 芦(あし)丹頂図 北側の大襖四面1ーE 芦図(あしず) 南側の障子腰貼付四面
全て円山応挙の障壁画です。ここに描かれている鶴たちを見ていくことにします。テキストは「金刀比羅宮の名宝(絵画)298P」です。
鶴の間の西側(1-C)と北側(1-D)
鶴の間には見る者の視線を次のように誘導する配慮・配置がされていると研究者は指摘します。
①まず縁側廊下を西に進むと最初に見えてくるのが西側(1-C)です。
1ーC 稚松丹頂図 西側の襖(金刀比羅宮表書院)
②西側には松と3羽の鶴が描かれています。わたしは若鶏を連れた丹頂の夫婦と思っていました。北海道の道東地方の沼や湿原で、こんな丹頂の姿を何度も見ました。異なる鶴同士が一緒に行動することはほとんどありません。しかし、右端はマナヅルだそうです。当時はいろいろな種類の鶴が描き込まれるのが流行だったようです。
③左端の丹頂は、首をひねって後方を見渡しています。その鶴の視点に誘導され、西側から北側(正面)へと視線を移動させると、「1-D」の芦の中の丹頂たちと向き合うことになります。
鶴の間の西側(1-C)と北側(1-D)
鶴の間には見る者の視線を次のように誘導する配慮・配置がされていると研究者は指摘します。
①まず縁側廊下を西に進むと最初に見えてくるのが西側(1-C)です。
1ーC 稚松丹頂図 西側の襖(金刀比羅宮表書院)
②西側には松と3羽の鶴が描かれています。わたしは若鶏を連れた丹頂の夫婦と思っていました。北海道の道東地方の沼や湿原で、こんな丹頂の姿を何度も見ました。異なる鶴同士が一緒に行動することはほとんどありません。しかし、右端はマナヅルだそうです。当時はいろいろな種類の鶴が描き込まれるのが流行だったようです。
③左端の丹頂は、首をひねって後方を見渡しています。その鶴の視点に誘導され、西側から北側(正面)へと視線を移動させると、「1-D」の芦の中の丹頂たちと向き合うことになります。
④北側4面(1ーD)の大襖の2枚には、舞い降りてくる丹頂が描かれています。鶴の動きを追ってみると、後ろの鶴は飛翔体制ですが、前の鶴は脚を出していて着地体制に入っています。ここには時間的連続性が感じられます。そのまま私たちの方まで飛んできそうな感じです。大空を飛ぶ躍動感が伝わってきます。
1ーD 芦(あし)丹頂図 北側の大襖四面(金刀比羅宮表書院)
⑤その隣が芦辺に舞い降りた一対の丹頂鶴が描かれています。警戒心を持つ左が牡で、エサをついばもうとしているのが牝と私は勝手に思っています。これもつがいで行動する丹頂のよく見える姿です。
鶴の間東側(1-A)の「稚松双鶴図」(金刀比羅宮表書院)
⑥そして、視線が最後に行き着くのが東側(1-A)の「稚松双鶴図」です。ここには床の間に身を寄せ合うようにし一本立ちで眠る二羽の真鶴と松が描かれています。この鶴は小さく描かれ、左側には大きな余白が作られています。これはどうしてなのでしょうか? それはここが床の間で、空白部分には軸を飾るためだそうです。
1ーD 芦(あし)丹頂図 北側の大襖四面(金刀比羅宮表書院)
⑤その隣が芦辺に舞い降りた一対の丹頂鶴が描かれています。警戒心を持つ左が牡で、エサをついばもうとしているのが牝と私は勝手に思っています。これもつがいで行動する丹頂のよく見える姿です。
鶴の間東側(1-A)の「稚松双鶴図」(金刀比羅宮表書院)
⑥そして、視線が最後に行き着くのが東側(1-A)の「稚松双鶴図」です。ここには床の間に身を寄せ合うようにし一本立ちで眠る二羽の真鶴と松が描かれています。この鶴は小さく描かれ、左側には大きな余白が作られています。これはどうしてなのでしょうか? それはここが床の間で、空白部分には軸を飾るためだそうです。
鶴の間東側(1-A)の「稚松双鶴図」(金刀比羅宮表書院)
見てきた通り、この部屋には多くの鶴が描かれています。
日本画に描かれるのが最も多いのが丹頂鶴で、次に真鶴(マナヅル)が続き、鍋鶴は毛色が地味なのでほとんど描かれることはないようです。野鳥観察という視点から見ると、応挙は鶴をよく観察していると思います。相当な時間を鶴のバードウオッチングに費やしていることがうかがえます。
応挙と鶴の関係を見ておきましょう。
見てきた通り、この部屋には多くの鶴が描かれています。
日本画に描かれるのが最も多いのが丹頂鶴で、次に真鶴(マナヅル)が続き、鍋鶴は毛色が地味なのでほとんど描かれることはないようです。野鳥観察という視点から見ると、応挙は鶴をよく観察していると思います。相当な時間を鶴のバードウオッチングに費やしていることがうかがえます。
応挙と鶴の関係を見ておきましょう。
①享保18年(1733)丹波国穴太村(京都府亀岡市)の農家出身②延享 4年(1747)15歳頃、京都の呉服商に奉公し、後に玩具商尾張屋(中島勘兵衛)の世話になり、眼鏡絵を描く作業に携わる。同時に、尾張屋の援助で狩野派の石田幽汀門に入り絵の修業を積む。③宝暦 9年(1759)27歳頃、「主水(もんど)」の署名で、タンチョウとマナヅルを描いた「群鶴図」(円山主水落款・個人蔵)制作

④明和2年(1765)、30歳頃から「仙嶺」の署名で「双鶴図」(八雲本陣記念財団蔵)制作⑤応挙が師事した石田幽汀の代表作品は「群鶴図屏風」(六曲一双・静岡県立美術館蔵)⑥若き日の応挙は、石田幽汀の下で、鶴の絵の技法などを学ぶ。
応挙の師である石田幽汀の作品を見ておきましょう。
石田幽汀 《群鶴図屏風》1757-77 六曲一双屏風 各156.0×362.6cm
ここにはさまざまな姿の鶴が描かれています。種類は、タンチョウ・ナベヅル・マナヅルの他にも、ソデグロツル・アネハヅルまでいます。趣味として野鳥観察を行っていたレベルを越えています。博物学的な興味となんらかの制作事情が重なったことがうかがえます。そして、若き日の応挙は、この石田幽汀一門下にいたのです。鶴への知識が豊富なはずです。それが18世紀の「写生」時代の絵画の世界だったのかもしれません。ここでは、応挙は、鶴の博物学的な師匠から学んだことを押さえておきます。
ただ、師匠の描く鶴は多種多様な鶴たちの乱舞する鶴たちでした。しかし、晩年の応挙が鶴の間に残した鶴たちは、つがいで行動する鶴たちでした。印象は大きく違います。
ただ、師匠の描く鶴は多種多様な鶴たちの乱舞する鶴たちでした。しかし、晩年の応挙が鶴の間に残した鶴たちは、つがいで行動する鶴たちでした。印象は大きく違います。
鶴の間には落款がありませんが、その作風から隣の虎の間と同じ天明7年(1787)、応挙55歳の作と研究者は判断します。ところがその翌年に、応挙は京都の大火に被災して焼け出されてしまいます。そのため一時は創作活動が停止します。その困難を克服後の寛政6年(1794)に完成させたのが七間・風水の間の絵になるようです。
ちなみに客殿として使用された表書院には、各間に次のようなランクがあったことは前回お話しました。やってきた人の身分によって通す部屋が違っていたのです。その中で鶴の間は、玄関に一番近く部屋ので、最も格下の部屋とされていました。格下の部屋には、画題として「花鳥図」が描かれるのがお約束だったようです。円山応挙に表書院のふすま絵のオファーが来たときから、それは決まっていたことは前回にお話しした通りです。
幕末から明治にかけては、満濃池にも鶴が越冬のためにやってきたようです。
満濃池遊鶴(1845年)に描かれた群舞する鶴
金堂(旭社)の完成を記念して刷られた刷物には、満濃池の上を乱舞して、岸辺に舞い降りた鶴の姿が描かれ「満濃池遊鶴」と題して、鶴が遊ぶ姿を歌った漢詩や和歌が添えられています。ここからは、200年前の丸亀平野には鶴がやって来ていたことが分かります。そして、いま鶴よりも先にコウノトリが帰ってきたとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画)
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