瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金剛峯寺建立修行縁起

「遺告二十五ヶ条」(略称「御遺告」)10世紀半ば成立
       遺告二十五条 巻頭部
「御遺告」は、承和三年(835)2月15日の日付があり、空海が亡くなる直前に書かれたとされてきました。しかし、今では10世紀半ばのものとされています。この中に「入定留身」信仰について、どのように触れられているのかを見ていくことにします。

「遺告二十五ヶ条」巻末に空海・実恵
遺告二十五条 巻尾部

遺告二十五条第1条「成立の由を示す縁起第一」には、次のように記されています。

   吾れ、去(いん)じ天長九年(832)十一月十二日より、(A)深く穀を厭(いと)いて、専ら坐禅を好む。皆是れ令法久住の勝計なり。并びに末世後生の弟子・門徒等が為なり。方(まさ)に今、諸の弟子等、諦(あきらか)に聴け。諦に聴け。(B)吾生期、今幾ばくならず。仁等(なんじたち)好く住して慎んで教法を守るべし。吾れ永く山に帰らん。吾れ入減せんと擬することは、今年三月廿一日の寅の刻なり。諸弟子等、悲泣を為すこと莫れ。吾れ即滅せば両部の三宝に帰信せよ。自然に吾れに代って眷顧を被らしめむ。吾生年六十二、

②吾れ初めは思いき. 一百歳に及ぶまで、世に住して教法を護り奉らんと。(C)然れども諸の弟子等を侍んで、忽(いそい)で永く即世せんと擬するなり。

A・B・Cは、「入定」のことを指す表現とも受けとれます。とくに(B)の「吾れ人滅せんと擬することは」は、「人滅に似せる、人滅をまねる」ともとれます。しかし、「人定」ということば自体は、まだ出てきません。また、自分の入滅日を「三月二十一日」と予告しています。これも今までになかった記述です。
次に、「御遺告」の第十七条を見ておきましょう。
夫れ以(おもんみ)れば東寺の座主大阿閣梨耶は、吾が末世後生の弟子なり。吾が滅度の以後、弟子数千萬あらん間の長者なり。門徒数千萬なりと雖も、併(しかし)ながらわ吾が後生の弟子なり。、租師の吾が顔を見ざると雖も、心有らん者は必ず吾が名号を開いて恩徳の由を知れ。
(D)是れ吾れ白屍の上に、更に人の労を欲するにあらず、密教の寿命を譲り継いで龍華三庭に開かしむべき謀(はかりごと)なり。
(E)吾れ閉眼の後に、必す方に兜率陀天(としつたてん)に往生して、弥勒慈尊の御前に侍すべし。五十六億余の後に、必ず慈尊と御供に下生して吾が先跡を問うべし。亦且(またかつ)うは、未だ下らざるの間は、微雲の菅より見て、信否を察すべし。是の時に勤め有んものは祐を得んの不信の者は不幸ならん。努力努力、後に疎(おろそ)かに為すこと勿れ。

意訳変換しておくと
 私(空海)が目を閉じた後に、以後の弟子が数千万いようとも、門徒が数千万いようとも、それらはすべて私の後生の弟子達である。祖師や、私の顔を見ることがなくても心ある人はかならず私の名号を聞いて恩徳のわけを知るべきである。このことは私が世を去ったことに、さらに人びとのいたわりをのぞんでいるわけではない。(D)ただ密教の生命を護りつないで、弥勒菩薩が下生し、三度の説法を開かせるためのはかりごとからである。
(E)私の亡き後には、かならず兜率天に往生して、弥勒菩薩の御前にはべるであろう。
五十六億七千万年後には、かならず弥勒菩薩とともに下生し私が歩んだ道をたずねるであろう。
ここで研究者が注目するのは、次の二点です。
(D)の弥勒片薩の浄土である兜率天への往生と
(E)②弥勒菩薩ががこの世に下生されるとき、ともに下生せん」の部分
これは『御遺告』で初めて登場する文章です。しかし、ここには空海を「お釈迦さまの入涅槃から弥勒菩薩の出生にいたる「無仏中間(ちゅうげん)」のあいだの菩薩」とみなす考えは、まだ見られません。
 『御遺告』で、空海の生涯が著しく神秘化・伝説化されたことは以前にお話ししました。
今までに書かれていなかった新しい記述が加えられ、新たな空海像が提示されていきます。これは、釈迦やイエスについても同じです。後世の弟子たちによってカリスマ化され、神格化させ、祀られていくプロセスの始まりです。以上からここでは『御選告』の特色として、次の点を押さえておきます。
①第1は「入定」が暗に隠されているふしがみられること
②第2は、兜率天往牛と弥勒善薩との下生説がみられること
③ 第3は、『御遺告』で、空海の生涯が著しく神秘化・伝説化されたこと

『空海僧都伝』

『御遺告』と、ほぼ同じ時代に成立したのが『空海僧都伝』です。

その最後の部分を、六段に分けて見ていくことにします。
 A 大師、天長九年(832)十二月十二日、深く世味を厭いて、常に坐禅を務む。弟子進んで曰く、「老いる者は唯飲食す。此れに非ざれば亦隠眠す。今已に然らず。何事か之れ有らん」と。報えて曰く「命には涯り有りの強いて留まるべからず。唯、尽きなん期を待つのみ。若(も)し、時の至るを知らば、先に在って山に入らん」と。
意訳変換しておくと
A 大師は、天長9年(832)十二月十二日に、深く世情を避けて、常に坐禅をするようになった。弟子が「老いる者はただ飲食のみか、そうでなければ眠るかである。ところが大師は、ちがう。どうしてなのか」と訊ねた。これに大師は、次のように答えた。「命には限りがあり、いつまでもこの世に留まることはできない。唯、尽きない時をまつだけである。もし、自分の死期を知れば、先に高野山に入ろうと思う」と。


B 承和元年五月晦日、諸の弟子等を召して語らく、「生期(吾生イ)、今幾くならず。汝等、好く住して仏法を慎み守れ。我、永く山に帰らん」と。

C 九月初めに、自ら葬処を定む。
D 二年正月より以来、水漿(すいしょう)を却絶す。或る人、之を諫めて曰く、「此の身、腐ち易し。更に奥きをもって養いと為すべし」と。天厨前(てんちゅうさき)に列ね、甘露日に進む。止みね、止みね。人間の味を用いざれ、と.
E 三月二十一日後夜に至って、右脇にして滅を唄う。諸弟子等一二の者、揺病(ようびょう)なることを悟る。遺教に依りて東の峯に斂(おさ)め奉る。生年六十二、夏臓四十一

F 其の間、勅使、手づから諸の惟異(かいい)を詔る。弟子、左右に行(つら)なつて相い持つ。賦には作事及び遺記を書す。即の間、哀れんで送る。行状更に一二ならず。

意訳変換しておくと
B 承和九年(832)五月晦日に、弟子等を召して次のように語った。「私の命はもう長くない。汝等は、仏法を慎み守れ。私は、高野山に帰る」と。

C 九月初めには、自らの墓所を決めた。
D 835年正月から、水漿(=水や塩)を絶った。これを諫めた人に対して、「この身、は腐ちやすい。更に躰の奥から清めなければならない」と云った。滋養のあるものを並べ、食べていただこうとするが「止めなさい。人間の味を使うな」と云うばかりであった.
E 3月21日夜半になって、右脇を下にして最期を迎えた。諸弟子は、揺病(ようびょう)なることを悟る。遺言通りに東の峯に斂(おさ)めた。生年六十二、出家して四十一年

F この間のことを、勅使は「手づから諸の惟異(かいい)を詔る」(意味不明) 弟子、左右に行(つら)なつて相い持つ。賦には作事及び遺記を書す。即の間、哀れんで送る。行状更に一二ならず。

この中には次の4つの注目点があると研究者は指摘します。
①Aは832年に、最期のときを悟ったならば、高野山に入ろうと弟子たちに語ったこと。ここからは、空海が自分の死に場所は高野山だと、生前から弟子たちに語っていたことが記されます。
②C・Dは承和元年(834)年9月はじめに埋葬場所を決めいたこと。翌年正月からは水と塩気のあるものを絶ったこと。つまり、空海は最期に向けて「断食=木食(ミイラ化)」を行っていたこと。これが後の真言修験者の「木食修行」につながっていくようです。
③Eからは3月21日の深夜に、右脇を下にして最期を迎えたこと、そして遺言によって「東の峯に斂めた」とあります。従来は「東の峯=奥の院」とされてきました。本当にそう考えていいのでしょうか。また「斂」は「おさめる」で、「死者のなきがらをおさめる」意と解されていたことがうかがえます。そうだとすると「入定」とは少しかけ離れたことばと研究者は指摘します
④Fの「勅使、手づから諸の惟異を詔(つげ)る」と意味不明部分があること。文脈からすると、葬儀のあいだのできごとをさしているようですが、よく分かりません。

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G 雅真撰『金剛峯寺建立修行縁起』(修行縁起) 康保五年(968)成立 
この評伝は、草創期の高野山を考えるうえでの根本史料のひとつになります。そして、ここではじ
めて「入定」ということばが4ヶ所で使われます。長文になりますが見ていくことにします。
A 大師、諸の弟子等に告げて曰く。「吾れ、却世の思いあり。明年三月の中なり。金剛峯寺を以て真然大徳に付す。件の寺の創造、未だ終わらず。但し、件の大徳、自力未だ厚からず。実恵大徳、功を加うべし、と云々。吾れ、初めは思いき、一百歳の間、世に住して密教を流布し、蒼生を吸引せんと、然リと雖も、禅師等、恃(たの)む所の至篤(しとく)なり。吾が願、又足んぬ。仁等(なんじら)、まさに知るべし。吾れ、命を万波の中に忘れ、法を千里の外に尋ぬ。僅かに伝うる所の道教之を護持して、国家を安鎮し、万民を撫育(ぶいく)すべし。」と云々。
意訳変換しておくと
A 大師は、弟子等に次のように告げた。①「私の死期は明年3月半ばである。②ついては金剛峯寺は真然大徳に任せる。寺の造営は、まだ終わっていない。しかし、真然の力はまだまだ弱い。実恵大徳がこれを助けよ。」
「私は、百歳になるまで、長生きして密教を流布し、蒼生を吸引せんと、初めは考えていた。しかし、それも適わぬものであると知った。私の願いは達せられないことを、なんじらは知るべし。私は、命を幾万もの波の中に投げだし、法をもとめて千里の道を長安に訊ねた。③そこから持ち帰った教えを護持して、国家を安鎮し、万民を撫育すべし。」と云々。
以上の部分を整理・要約すると
①死期の預言
②金剛峯寺の後継者を真然(空海の弟)に指名し、それを東寺長者の実恵が助けよ
③教団の団結と教え
B 承和二年三月十五日、又いわく。「(ア)吾れ、人定に擬するは来る二十一日寅の刻なり。自今以後、人の食を用いず。仁等、悲泣すること莫れ。又、素服を着ること勿れ。
 吾れ(イ)入定の間、知足天に往きて慈尊の御前に参仕す。五十六億余の後、慈尊下生の時、必ず須く随従して吾が旧跡を見るべし。此の峯、等閑にすること勿れ。顕には、丹生山王の所領、官持大神を勧請して、嘱託する所なり。
 冥には、古仏の旧基、画部の諸尊を召集して安置する所なり。跡を見て必ず其の体成を知り、音を聞いて則ち彼の慈唄を弁ずる者なり。吾が末世の資、千万ならん。親(まのあ)たり、吾が顔を知らずと雖も、一門の長者を見、及び此の峯に寄宿せん者は、必ず吾が意を察すべし。吾が法、陵遅せんと擬する刻は、吾れ必ず絡徒禅侶の中に交わって、此の法を興さん。我執の甚しきにあらず。法を弘むる計なるのみ。
意訳変換しておくと
B 承和二年(835)三月十五日には、次のように言われた。④私が「人定に擬する」のは3月15日寅の刻である。今からは何も食べず断食に入るが、なんじらは悲泣するな。又、喪服も着るな。
 ⑤私が入定したら知足天に行って慈尊の御前に仕える。五十六億余年の後、慈尊が下生する時、必ず一緒に現れて、高野山に帰ってくる。その時までこの峯を守り抜け。⑥表では、丹生山王の所領、官持(高野)大神を勧請して、守護神としている。裏には、古仏の旧基、画部の諸尊を召集して安置した。その姿を見て必ず体成を知り、音を聞いて慈唄を弁ずるであろう。
 ⑦私に続く者達は末世まで続き、千万人にもなろう。その中には、私の顔を知らないものも出てこようが、一門の長者を見、高野山に寄宿する者は、必ず私の意が分かるはずである。私の教えを陵遅せんと擬する刻は、私は必ず禅侶の中に交わって、この法を興すであろう。我執の甚しきにあらず。教えを弘めることを考え実践するのみである。
この部分を整理・要約すると
④入滅日の予告と断食(木食)開始
⑤入定後の行き先と対処法
⑥高野山の守護神である丹生明神と官持(高野)大神の勧請(初見)
⑦高野山を護る弟子たちへの教えと願い
C 則ち承和二年乙卯三月二十一日、寅の時、結珈朕坐して大日の定印を結び、奄然として(ウ)人定したまう。兼日十日四時に行法したまう。其の間、御弟子等、共に弥勒の宝号を唱う。唯、目を閉じ言語無きを以て(エ)人定とす。自余は生身の如し。時に生年六十二、夏臓四十 。
意訳変換しておくと
C 承和二年(835)3月21日寅の刻、(大師は)結珈朕坐して大日の定印を結び、(ウ)人定した。その後、兼日(けんじつ)十日四時に行法した。その間、弟子たちは弥勒の宝号を唱えた。ただ目を閉じ話さないことを以て(エ)人定とする。それ以外は生身のようである。この時大師齢六十二、出家して四十一年目 。
基本的な内容と論の進め方は、先行する「遺告二十五条」と同じなので、これを下敷きにかかれたものであることがうかがえます。
読んで気がつくのは、「入定」ということばが次のように4回出てくることです。
ア、吾れ、入定に擬するは来る二十一日寅の刻刻なり。
イ、吾れ入定の間、知足天に往きて慈尊の御前に参仕す。
ウ、寅の時、結珈欧座して大日の定印を結び、奄然として入定したまう。
エ、唯、目を閉じ言語無きを以つて入定とす。自余は生身の如し。

これを分類すると、アは「入定に擬する」で、「入定のまねをする」ととれます。それに対して、イ・ウ・エでは「入定の間」「入定したまう」「入定とす」とあって、まさに「入定」です。また(エ)では、「入定」の定義が次のように示されています。

唯、目を閉じ言語無きを以って入定とす。自余は生身の如し。

ここからは、入定とはただ目を閉じ、ことばを発しないだけでって、それ以外は生きているときと同じ「生身の如し」とします。

奥院への埋葬の次第については、次のように記されています。

⑧然りと雖も世人の如く、喪送(そうそう)したてまつらず。厳然として安置す。則ち、世法に准じて七々の御忌に及ぶ。御弟子等、併せ以て拝見したてまつるに、顔色衰えず髪髪更に長ず。之に因って剃除を加え、衣裳を整え、石壇を畳んで、例(つね)に人の出入すべき許りとす。其の上に石匠に仰せて五輪の率都婆を安置し、種々の梵本・陀羅尼を人れ、其の上に更に亦宝塔を建立し、仏舎利を安置す。其の事、 一向に真然僧正の営む所なり。

意訳変換しておくと
⑧(空海は亡くなったが)、世人のような葬儀は行わなかった。ただ厳然と安置した。それは、世法に准じて七日ごとの忌日を務めた。弟子たちが、空海の姿を拝見すると、顔色は変わらず、髪は伸びていた。そこで剃髪し、衣裳を整え、石壇を畳んで、つねに人が出入し世話できるようにした。その上に石工に依頼して五輪の率都婆を安置し、種々の梵本・陀羅尼を入れて、その上に更にまた宝塔を建立し、仏舎利を安置した。これを行ったのは、真然僧正である。

葬儀を筒条書きにすると、次の通りです。
1、通常の葬送儀礼は行わず、厳然と安置した。
2、常の習いに准じて、七日七日の忌日は勤めた。
3、弟子らが拝見すると、この間も大師の顔の色はおとろえず、頭髪・あご髪はのびていた。
4、そこで、髪・鬚を剃り、衣を整え、人の出入りできる空間を残して石壇を組み、
5、その上に、石工に命じて五輪塔を安置し、梵本・陀維尼を入れ、さらにその上に、宝搭を建て
仏合利を安置した。
6、これらはすべて、真然僧正が執り行った。

これらの記述を読んで、次のような疑問が湧いてきます。
①石壇を組んだ場所はどこか
②梵本・陀羅尼を入れたのはどこか
③仏舎利を安置したのはどこか
これらについては示されていません、また、これらをすべて真然が執り行ったとする点と、①で金剛峯寺の責任者に真然を指名したという話については、研究者は疑問を持ちます。

このように『修行縁起』には、はじめて登場する話が数多く載せられています。
別の見方をすると、に遺告二十五条や『空海僧都伝』と、この雅真撰『金剛峯寺建立修行縁起』とのとのあいだには、大きな相違・発展があるということです。分量自体が大幅に増えていることからも分かります。9世紀には一行であった空海の最期についての記述が11世紀になると大幅に増えていることをどう考えればいいのでしょうか。
 これについて、考証学は「偉人の伝記が時代を経て分量が増えるのは、後世の附会によるもの」とします。新たな証拠書類が出てきたわけではなく、附会する必要が出てきて後世の人物が、有りもしないことをあったこととして書き加えていくことは、世界中の宗教団体に残された史料からも分かります。11世紀に「入定」を附会する必要性が高野山側には生まれていたとしておきます。その背景については、また別の機会に・・。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 武内孝善 「弘法大師」の誕生 137P
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飛行三鈷杵 弘法大師行状絵詞
飛行三鈷杵 明州から三鈷法を投げる空海(高野空海行状図画)

空海が中国の明州(寧波)の港から「密教寺院の建立に相応しい地を教え給え」と念じて三鈷杵を投げるシーンです。この三鈷杵が高野山の樹上で見つかり、高野山こそが相応しい地だというオチになります。中国で投げた三鈷杵が高野山まで飛んでくるというのは、現在の科学的な見方に慣れた私たちには、すんなりとは受けいれがたいお話しです。ここに、合理主義とか科学では語れない「信仰」の力があるのかも知れません。それはさておくにしても、どうして、このような「飛行三鈷杵」の話は生れたのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実」
まず「飛行三鈷」についての「先行研究」を見ておきましょう。
  ①和多秀来氏の「三鈷の松」は、山の神の神木であった説
高野山には呼精という行事があり、毎年六月、山王院という丹生、高野両大明神の神社の前のお堂で神前法楽論議を行います。そのとき、竪義(りゅうぎ)者が山王院に、証義者が御形堂の中に人って待っていますと、伴僧が三鈷の松の前に立ち、丹生、高野両大明神から御影常に七度半の使いがまいります。そうやつてはじめて、証義者は、堅義者がいる山王院の中へ入っていくことができるのです。これは神さまのお旅所とか、あるいは神さまのお下りになる場所が三鈷の松であったことを示す古い史料かと思います。一中略一
 三鈷の松は、山の神の祭祀者を司る狩人が神さまをお迎えする重要な神木であったということがわかります。(『密教の神話と伝説』213P)
ここでは、「三鈷の松=神木」説が語られていることを押さえておきます。  
  
三鈷宝剣 高野空海行状図画 地蔵院本
右が樹上の三鈷杵を見上げる空海 左が工事現場から出来た宝剣を見る空海

次に、三鈷杵が、いつ・どこで投げられたかを見ていくことにします。
使用する史料を、次のように研究者は挙げます。
①  金剛峯寺建立修行縁起』(以下『修行縁起』) 康保5(968)成立
② 経範接『大師御行状集記』(以下『行状集記』)寛治2(1089)成立
③ 兼意撰『弘法大師御伝』(以下『大師御伝」) 水久年間(1113~18)成立
④ 聖賢撰『高野大師御広伝』(以下『御広伝』) 元永元(1118)年成立
⑤『今昔物語集』(以下『今昔物語』)巻第十  第九話(12世紀前期成立)
これらの伝記に、三鈷杵がどのように書かれているのかを見ておくことにします。
飛行三鈷杵のことを記す一番古い史料は①の「修行縁起」で、次のように記します。

大同二年八月を以って、本郷に趣く。舶を浮かべるの日、祈誓して云はく。

ここには大同2年8月の明州からの船出の時に「祈誓して云はく」と記されています。しかし、「祈誓」が、陸上・船上のどちらで行われたかは分かりません。敢えていうなら「舶を浮かべる日」とあるので、船上でしょうか。
  ②『行状集記』は、次のように記します。

本朝に赴かんとして舶を浮かべるの日、海上に於いて祈誓・発願して曰く。

ここには、「海上に於いて祈誓・発願」とあり、海上で投げたとしています。
  ③『大師御伝』は、
大同元年八月、帰朝の日、大師舶を浮かべる時、祈請・発誓して云はく
これは①『修行縁起』とほぼ同じ内容で、海上説です。

④『御広伝』には、
大同元年八月、本郷に趣かんと舶を浮かべる日、祈請して誓を発して曰く
『修行縁起』『大師御伝』と同じような内容で、海上説です。

⑤『今昔物語』には、
和尚(空海)本郷二返ル日、高キ岸二立テ祈請シテ云ク
ここで初めて、「高キ岸二立ちテ」と陸上で祈請した後で、三鈷杵を投げたことが出てきます。しかし、具体的な場所はありません。以上からは次のようなことが分かります。
A ①~④の初期の伝記では、海上の船の上から「三鈷杵」は投げられた「船上遠投説」
B 12世紀に成立した⑤の今昔物語では「陸上遠投説」
つまり、真言宗内では、もともとは三鈷杵を投げたのは船上として伝えられていたのです。それが、今昔物語で書き換えられたようです。
空海小願を発す。

前回も見ましたが天皇の上表書と共に、主殿寮の助・布勢海(ふせのあま)にあてた手紙には、次のように記されています。
①此処、消息を承わらず。馳渇(ちかつ)の念い深し。陰熱此温かなり。動止如何。空海、大唐より還る時、数漂蕩に遇うて、聊か一の小願を発す。帰朝の日、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利生せんが為に、一の禅院(寺院)を建立し、法に依って修行せん。願わくは、善神護念して早く本岸に達せしめよと。神明暗からず、平かに本朝に還る。日月流るるが如くにして忽ち一紀を経たり。若し此の願を遂げずんば、恐らくは神祇を欺かん。
 
意訳変換しておくと
  A ここ暫く、消息知れずですが、お会いしたい気持ちが強くなる一方です。温かくなりましたが、いかがお過ごしでしょうか。さて私・空海が、大唐から還る際に、嵐に遭って遭難しそうになった時に、一つの小願を祈念しました。それは無事に帰朝した時には、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利生するために、一の寺院を建立し、法に依って修行する。願わくは、善神護念して、無事に船を日本に帰着させよと。その結果、神明が届き、無事に本朝に還ることができました。そして、月日は流れ、10年という年月が経ちました。この願いを実現できなければ、私は神祇を欺むくことになります。

これを見ると伝記の作者は、空海の上表文や布勢海宛ての手紙を読み込んだ上で、「飛行三鈷」の話を記していることがうかがえます。つまり、「悪天候遭遇による難破の危機 → 天候回復のための禅院(密教寺院)建立祈願 → 飛行三鈷杵」は、一連のリンクされ、セット化された動きだったと研究者は考えています。そうだとすると三鈷杵は当然、船の上から投げられたことになります。初期の真言宗内の「伝記作家」たちは、「飛行三鈷杵=船上遠投説」だったことが裏付けられます。

高野山選定 猟師と犬 高野空海行状図画2

次に、高野山で三鈷杵を発見する経緯を見ていくことにします。    
①の『修行縁起』は、次のような構成になっています。

弘法大師行状絵詞 高野山の絵馬
高野空海行状図画(高野山絵馬)

A 弘仁7(816)年4月、騒がしく穢れた俗世間がいやになり、禅定の霊術を尋ねんとして大和国字知那を通りかかったところ、 一人の猟師に出会った。その猟師は「私は南山の犬飼です。霊気に満ちた広大な山地があります。もしここに住んで下さるならば、助成いたしましょう」と、犬を放ち走らせた。

B 紀伊国との堺の大河の辺で、一人の山人に出会った。子細を語ったところ、「昼は常に奇雲聳え夜には常に霊光現ず」と霊気溢れるその山の様子をくわしく語ってくれた。

C 翌朝、その山人にともなわれて山上にいたると、そこはまさに伽藍を建立するに相応しいところであった。山人が語るには「私はこの山の王です。幸いにも、いまやっと菩薩にお逢いすることができた。この土地をあなたに献じて、威福を増さんとおもう」と。

D 次の日、伊都部に出た空海は、「山人が天皇から給わつた土地とはいえ、改めて勅許をえなければ、罪をおかすことになろう」と考えた。そうして六月中旬に上表し、一両の草庵を作ることにした。

E 多忙ではあったが、一年に一度はかならず高野山に登った。その途中に山王の丹生大明神社があった。今の天野宮がそれである。大師がはじめて登山し、ここで一宿したとき、託宣があった。「私は神道にあって久しく威福を望んでいました。今、あなたがお訪ねくださり、嬉しく思います。昔、応神天皇から広大な土地を給わりました。南は南海を限り、北は日本(大和)河を限り、東は大日本の国を限り、西は応神山の谷を限ります。願わくは、この土地を永世に献じ、私の仰信の誠を表したくおもいます。

F 重ねて官符をたまわった。「伽藍を建立するために樹木を切り払っていたところ、唐土において投げた三鈷を挟む一本の樹を発見したので、歓喜すること極まりなかった。とともに、地主山王に教えられたとおり、密教相応の地であることをはっきりと知った。
 さらに平らなる地を掘っていたところ、地中より一つの宝剣を掘り出した。命によって天覧に供したところ、ある祟りが生じた。ト占させると、「鋼の筒に入れて返納し、もとのごとく安置すべし」とのことであった。今、このことを考えてみるに、外護を誓った大明神が惜しんだためであろう。(『伝全集』第一 53P)

こうしてみると、三鈷杵については、最後のFに登場するだけで、それ以前には何も触れていません。
伽監建立に至る経過が述べられた後で、「樹に彼の唐において投げる所の三鈷を挟むで厳然として有り。弥いよ歓喜を増す」と出てきます。この部分が後世に加筆・追加されたことがうかがえます。ここで、もうひとつ注意しておきたいのは、「彼の唐において投げる所の三鈷」とだけあって、「三鈷の松」という表現はでてきません。どんな木であったかについては何も記されていないのです。この点について、各伝記は次の通りです。
『行状集記』は「柳か刈り掃うの間、彼の海上より投る三鈷、今此の虎に在りし」
『大師御伝』には、高野山上で発見した記述はなし
『御広伝』には、「樹木を裁り払うに、唐土に於いて投ぐる所の三鈷、樹間に懸かる。弥いよ歓喜を増し」
  『今古物語』、三鈷杵が懸かっていた木を檜と具体的に樹木名を記します。
山人に案内されて高野山にたどり着いた直後のことを今昔物語は次のように記します。
檜ノ云ム方無ク大ナル、竹ノ様ニテ生並(おいなみ)タリ。其中二一ノ檜ノ中二大ナル竹股有り。此ノ三鈷杵被打立タリ。是ヲ見ルニ、喜ビ悲ブ事無限シ。「足、禅定ノ霊窟也」卜知ヌ。   (岩波古典丈学大系本「今昔物語集』三 106P
空海の高野山着工 今昔物語25
今昔物語第25巻

ここでは、一本の檜の股に突き刺さっていたと記されています。ここでも今昔物語は、先行する伝記類とは名内容が異なります。以上を整理しておくと、
①初期の大師伝や説話集では、三針杵が懸かっていた木を単に「木」と記し、樹木名までは明記していないこと
②『今普物語』だけが檜と明記すること。
③「松」と記すものはないこと

高野山三鈷の松
三鈷の松(高野山)

それでは「三鈷の松」が登場するのは、いつ頃からなのでしょうか?
寛治2(1088)年2月22日から3月1日にかけての白河上皇の高野山参詣記録である『寛治二年高野御幸記』には、京都を出立してから帰洛するまでの行程が次のように詳細に記されています。
2月22日 出発 ― 深草 ― 平等院 ― 東大寺(泊)
  23日   東大寺 ― 山階寺 ‐― 火打崎(泊)
  24日  真上山 ― 高野山政所(泊)
  25日 天野鳥居― 竹木坂(泊)
  26日 大鳥居 ― 中院 (泊)
  27日   奥院供養
     28日    御影堂 薬師堂(金堂) 三鈷松 ― 高野山政所(泊)
  29日   高野山政所 ― 火打崎(泊)
  30日   法隆寺 ― 薬師寺 ― 東大寺(泊)
3月 1日   帰洛
これを見ると、東大寺経由の十日間の高野山参拝日程です。この『高野御幸記』には「三鈷の松」が2月28日の条に、次のように出てきます。
影堂の前に二許丈の古松有り。枝條、痩堅にして年歳選遠ならん。寺の宿老の曰く、「大師、唐朝に有って、有縁の地を占めんとして、遙に三鈷を投つ。彼れ萬里の鯨波を飛び、此の一株の龍鱗に掛かる」と。此の霊異を聞き、永く人感傷す。結縁せんが為めと称して、枝を折り実を拾う。斎持せざるもの無く帰路の資と為す。      (『増補続史料大成』第18巻 308P)

意訳変換しておくと
A 御影常の前に6mあまりの。古松があった。その枝は、痩せて堅く相当の年数が経っているように思われた。

B 金剛峯寺の宿老の話によると、「お大師さまは唐土にあって、有縁の地(密教をひろめるに相応しいところ)あれば示したまえと祈って、遥かに三鈷杵を投げあげられた。すると、その三鈷杵は万里の波涛を飛行し、この一本の古松に掛かつていた」と。

C この霊異諄を耳にした人たちは、たいそう感動した様子であった。そして、大師の霊異にあやかりたいとして、枝を折りとり実を拾うなどして、お土産にしない人はいなかった。

これが三鈷の松の登場する一番古い記録のようです。この話に誘発されたのか、白河天皇はこのときに、大師から代々の弟子に相伝されてきた「飛行三鈷杵」を京都に持ち帰ってしまいます。

以上をまとめておきます。
①「飛行三鈷杵」と「三鈷の松」の話は、高野山開創のきっかけとなった、漂流する船上で立てられた小願がベースにあること
②それは初期の大師伝が、三鈷を投げたところをすべて海上とみなしていることから裏付けられること。
③開山以前の高野山には「山の神の神木」、つまり神霊がやどる依代となっていた松が伽藍にあったこと
以上の3つの要素をミックスして、唐の明州から投げた三鈷杵が高野山で発見された、というお話に仕立てあげられたと研究者は考えています。この方が、高野山の開創を神秘化し、強烈な印象をあたえます。そのため、あえて荒唐無稽な話に仕立てられたとしておきます。
 ちなみに高野山御影常宝庫には、この「飛行三鈷杵」が今も伝わっているようです。

飛行三鈷杵2
高野山の飛行三鈷杵
この三鈷杵は、一度高野山から持ち去れてしまいますが、後世に戻ってきます。「仁海の記」には、その伝来について次のように記します。
①南天竺の金剛智三蔵 → 不空三蔵 → 恵果和尚 → 空海と相伝されたもので、空海が唐から持ち帰ったもの。
②その後は、真然―定観―雅真―仁海―成尊―範俊と相伝
③寛治三(1088)2月の白河天皇の高野御幸の際に、京都に持ち帰り、鳥羽宝蔵に収納
④これを鳥羽法王が持ち出して娘の八条女院に与え、次のように変遷。
⑤養女の春花門院 → 順徳天皇の第三皇子雅成親王 → 後鳥羽院の皇后・修明門院から追善のために嵯峨二尊院の耐空に寄進 
⑥耐空は建長5(1253)年11月に、高野山御影堂に奉納
白河天皇によって持ち出されて以後、約130年ぶりに耐空によって、高野山に戻されたことになります。その後、この「飛行三鈷杵」は御影堂宝庫に秘蔵され、50年ごとの御遠忌のときに、参詣者に披露されてきたとされます。
飛行三鈷杵3

飛行三鈷杵(高野山)
それまで語られることのなかった飛行三鈷杵が、9世紀後半になって語られはじめるのはどうしてでしょうか?
「飛行三鈷杵」の話は、康保五年(968)成立の『修行縁起』に、はじめて現れます。その背景として、丹生・高野両明神との関係を研究者は指摘します。
丹生明神と狩場明神
        重要文化財 丹生明神像・狩場(高野)明神像 鎌倉時代 13世紀 金剛峯寺蔵

丹生・高野両明神が高野山上にはじめて祀られたのが、天徳年間(957~61)のことです。場所は、当初は奥院の御廟の左だったとされます。

高野山丹生明神社
丹生・高野両明神が祀られていた奥の院

この頃のことを年表で見てみると、天暦6(952)年6月に、奥院の御廟が落雷によって焼失しています。それを高野山の初代検校であった雅真が復興し、御廟の左に丹生・高野明神を祀ります。これと無縁ではないようです。「飛行三鈷杵」の話をのせる最古の史料『修行縁起』の著者とされているのが、この初代検校・雅真だと研究者は指摘します。そして、次のような考えを提示します。

 御廟の復興は、高野山独自で行うことは経済的に困難がともなった。そこで雅真は、丹生津比売命を祭祀していた丹生祝に助力を請うた。その際に、一つの交換条件を出した。その一つは奥院に丹生・高野両明神を祀ることであり、あと一つは丹生明神の依代であつた「松」を、高野山の開創を神秘化する伝承として組み入れることであった。

この裏には、空海の時代から丹生祝一族から提供された物心にわたる援助に酬いるためであったとします。
狩場明神さまキャンペーンせねば。。 | 神様の特等席
弘法大師・高野・丹生明神像

  以上をまとめておきます
①空海は唐からの洋上で、難破寸前状態になり、「無事帰国できれば密教寺院を建立する」という小願を船上で立てた。
②その際に、三鈷杵を船から日本に向けて投げ「寺院建立に相応しい地を示したまえ」と念じた。
③帰国から十年後に、空海は高野山を寺院建立の地として、下賜するように上表文を提出した。
④そして整地工事に取りかかったところ、樹木の枝股にある三鈷杵を見つけた。
⑤こうして飛行三鈷杵は、高野山が神から示された「約束の地」であることを告げる物語として語られた。
⑥しかし、当初は三鈷杵があった樹木は何であったは明記されていなかった。
⑦もともと奥院に丹生・高野両明神を祀られ、丹生明神の依代であつた「松」が神木とされていた。
⑧そこで、その松を神秘化するために、「三鈷の松」とされ伝承されることになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献        「武内孝善 弘法大師 伝承と史実」
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東博模写本 高野空海行状図画のアーカイブ https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/510912

空海の「五筆和尚」のエピソードを、ご存じでしょうか? 私は、高野空海行状図画を見るまでは知りませんでした。まずは、その詞から見ておきましょう。高野空海行状図画は、何種類もの版があります。ここでは読みやすいものを示します。

五筆和尚 文字

意訳変換しておくと
唐の宮中に2,3間の壁がある。もともとは①晋の王羲之という人の書が書かれていたが、②破損したあとは修理して、そのままになっていた。③怖れ多くて揮毫する人がいない。④そこで皇帝は、空海に書くことを命じた。空海は参内し、⑤左右の手足と口に5本の筆を持って、五行同時に書き進めた。それを見ていた人達は、驚き、怪しんだ。まだ書かれていない一間ほどの壁が空白のまま残っている。それを、どのようにして書くのだろうかと、人々は注目して見守った。
 空海は墨を摺って、⑤盥に入れて壁に向かって投げ込むと、「樹」という文字になった。それを見た人々は、深く感嘆した。そこで皇帝は、「五筆和尚」の称号を空海に与えた。書道を学ぶ者は、中国には数多くいるが、皇帝からの称号をいただいたのは空海だけである。これこそが日本の朝廷の威を示すものではなかろうか。
要約しておくと
①長安宮中に、晋王朝の書聖王羲之が書を書いた壁があった。
②しかし、時代を経て壁が破損した際に、崩れ落ちてしまった。
③修理後の白壁には、お恐れ多いと、命じられても誰も筆をとろうとしなかった。
④そこで、空海に白羽の矢がたち、揮毫が命じられた
⑤空海は、左右の手足と口に5本の筆を持って、五行同時に書き進めた
⑥残りの余白に、盥に入れた墨をそそぎかけたところ、自然に「樹」の字となった

このエピソードが高野空海行状図画には、次のように描かれています。


五筆和尚 右
高野空海行状図画 第二巻‐第7場面 五筆勅号
A 空海が口と両手両足に5本の筆を持って、同時に五行の書を書こうとしているところ。
B その右側の白壁に盥で注いだ墨が「樹」になる
五筆和尚 弘法大師行状絵詞2
五筆和尚(弘法大師行状絵詞)

口と両手・両足に五本の筆を持って、一度に五行の書をかけるのは曲芸師の技です。これが皇帝の命で宮中で行ったというのは、中国の宮中のしきたりを知らない者の空言です。これは、どう考えてもありえない話です。しかし、弘法空海伝説の高まりとともに、後世になるほど、この種のエピソードが付け加えられていきます。それを大衆が求めていたのです。

五筆和尚 左
皇帝から「菩提子の念珠」を送られる空海
上画面は、帰国の挨拶に空海が皇帝を訪れた時に、別れを惜しんで「菩提子の念珠」を送ったとされる場面です。その念珠が東寺には今も伝わっているようです。ここにも、後世の弘法大師伝説の語り部によって、いろいろな話が盛り込まれていく過程が垣間見えます。

唐皇帝から送られた菩提実念珠
            唐の皇帝から送られたと伝わる菩提実の念珠(東寺)

五筆和尚の話は、皇帝から宮中の壁に書をかくよう命ぜられた空海が、口と両手・両足に筆をもち、一度に五行の書を書いたという話でした。

空海の漢詩文を集めた『性霊集』の文章からは、空海が書を書くときには、筆・紙などに細心の心配りをしていたことがうかがえます。その点から考えると宮中で、皇帝の勅命という状況で、山芸師まがいのことをしたとは、研究者や書道家達は考えていないようです。とすると、この話は何か別のことを伝えるために挿入されたのではないかと思えてきます。
 実は、「五筆和尚」という言葉が、50年後の福州の記録に現れます。

智弁大師(円珍) 根来寺
それは天台宗の円珍が残したものです。円珍は853(仁寿3)年8月21日に、福州の開元寺にやってきて「両宗を弘伝せんことを請う官案」(草庵本第一)に、次のようなエピソードを残しています。

(福州の開元寺)寺主憎恵潅(えかん)は、「五筆和尚、在りや無しや」と借聞せられた。円珍はこれが空海であることに気がついて、「亡化せらる」と応えた。すると恵潅は胸をたたき悲慕して、その異芸のいまだかつて類あらざることを、と賞賛された。

意訳変換しておくと
(半世紀前に唐土を訪ねた空海のことを)、開元恵湛が「五筆和尚はいまもお健やかですか」と聞かれた。最初は、誰のことか分からないで訝っていたが、すぐに空海のことだと気がいた。そこで「亡化なさいました」と答えたところ、恵湛は悲歎のあまり胸をたたいて、類まれなる空海の異芸を賞讃した。

空海ゆかりの開元寺を訪ねる』福州(中国)の旅行記・ブログ by Weiwojingさん【フォートラベル】
                      福州の開明寺
 どうして、50年後の福州の僧侶が空海のことを知っていたのでしょうか?

それを探るために研究者は、中国・福州での空海の足跡をふりかえります。遣唐大使・藤原葛野麻呂の帰国報告で、804(延暦23)年7月から11月の空海を取り巻く状況を年表化すると次のようになります。
7月 6日 第一船に大使とともに、肥前国松浦を出帆
8月10日 福州長渓県赤岸鎮の已南に漂着
10月3日  福州到着「藤原葛野麻呂のために、福州観察使に書状を代筆。
10月      福州の観察使に書状を送り、自らの人京を請う。
11月3日  大使一行とともに福州を発ち、長安に向かう。

これに対して空海の残したとされる『遺告二十五ヶ条』(10世紀半ば成立)には、この間のできごととして、次のように記されています。
通常は、海路三千里にして揚州・蘇州に至っていたが、今回は七百里を増して福州(原文は衡州)に到った。そこで、大使藤原葛野麻呂は福州の長官に書を呈すること三度におよんだが、長官は開き見るだけで捨て置かれ、船を対じ、人々は湿沙の上に留め置かれていた。最後の切り札として、大使は空海に書状をしたためることを依頼した。空海が書状を呈する、福州の長官は「披(開)き覧て、咲(笑)を含み、船を開き、問いを加えて長安に奏上した。

この経過については、遣唐大使・藤原葛野麻呂は朝廷への帰国報告書には、何も記していないことは以前にお話ししました。しかし、空海が大使に替わって手紙を書いたという次の草案2通は、『性霊集』巻第5に、載せられています。
A 大使のために福州の観察使に与ふるの書
B 福州の観察使に請うて人京する幣
特にAは、空海の文章のなか、名文中の名文といわれるものです。文章だけでなく、書も見事なものだったのでしょう。それが当時、福州では文人達の間では評判になったと研究者は推測します。それが、さきの忠湛の話から、福州の開元寺の寺主憎恵潅(えかん)の「五筆和尚、在りや無しや」という円珍への問いにつながると云うのです。
 確かに先に漂着した赤岸鎮では、船に閉じ込められ外部との接触を禁じられていたようですが、福州では、遣唐使であることを認められてからは、外部との交流は自由であったようです。空海は、中国語を自由に話せたようなので、「何でも見てやろう」の精神で、暇を惜しんで、現地の僧たちとの交流の場を持たれていたという話に、発展させる研究者もいます。しかし、通訳や交渉人としての役割が高まればたかまるほど、空海の役割は高くなり、大使の側を離れることは許されなかったと私は考えています。ひとりで、使節団の一員が自由に、福州の街を歩き回るなどは、当地の役人の立場からすればあってはならない行為だった筈です。

福州市内観光 1 空海縁の地 開元寺』福州(中国)の旅行記・ブログ by 福の海さん【フォートラベル】
福州の開明寺の空海像 後ろに「空海入唐之地」

 円珍の因支首氏(後の和気氏)で、本籍地は讃岐で、その母は空海の姉ともされます。
因支首氏は、空海の名声が高まるにつれて佐伯直氏と外戚関係にあったことを、折に触れて誇るようになることは以前にお話ししました。円珍もこのエピソー下を通じて、空海と一族であることをさらりと示そうとしているようにも私には思えます。

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福州の人々(弘法大師行状絵詞)

五筆和尚の話は、平安時代に成立した空海伝には、どのように記されているのでしょうか?

写本】金剛峯寺建立修行縁起(金剛峯寺縁起)(仁海僧正記) / うたたね文庫 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
      ①968(康保5)年 雅真の『金剛峯寺建立修行縁起』(金剛峯寺縁起)
唐の宮中三間の壁あり。王羲之の手跡なり。破損・修理の後、手を下す人なし。唐帝、大師に書かしむ。空海、筆を五処、口・両手・両足に執り、五行を同時に書く。主・臣下、感嘆極まりなし。今、一間には、缶に墨をいれそそぎ懸けると、「樹」の字となる。唐帝、勅して「五筆和尚」と号し、菩提樹の念珠を賜う。  (『伝全集』第一 51~52P)
② 1002(長保4)年 清寿の『弘法空海伝』63P
 大唐には之を尊んで、通じて日本の大阿閣梨と称し、或いは五筆和尚と号す(中略)
又、神筆の功、天下に比い無し。(中略) 或いは五筆を用いて、一度に五行を成し、或いは水上に書を書くに、字点乱れず。筆に自在を得ること、勝て計うべからず。 『伝全集』第一 63P)
③1111(天永2年)に没した大江拒房の『本朝神仙伝』
大師、兼ねて草法を善くせり。昔、左右の手足、及び口に筆を持って、書を成す。故に、唐朝に之を五筆和尚と謂う。                      
空海御行状集記
          ④ 1089(覚治2)年成立の経範投『空海御行状集記』
神筆の条第七十三
或る伝に曰く。大唐公城の御前に、 三間の壁有り。是れ則ち義之通壁の手跡なり。而るに、一間間破損して修理の後、筆を下すに人無し。今、大和尚之に書すべし、者。勅の旨に依って、墨を磨って盥に集め入れ、五筆を五処に持って、一度に五行を書すなり。殿上・階下、以って之を感ず。残る方、争処日、暫らくも捨てず。即ち次に、盥を取って壁上に沃ぎ懸けるに、自然に「樹」の字と成って間に満つ、と云々。   (『同73P頁)
⑤1113(永久年間(1113~18)成立の兼意撰『弘法空海御伝』
御筆精一正
唐の宮内に三間の壁有り。王羲之の手跡なり。破損して以後、二間を修理するに、筆を下すに人無し。唐帝、勅を下して日本の和尚に書かしめよ、と。大師、筆を五処に執って、五行を同時に之に書す。主上・臣下、感歎極まり無し。今一間、之を審らかにせず。腹千廻日、暫らくも捨てず。則ち大師、墨を磨り盥に入れて壁に注ぎ懸けるに、自然に間に満ちて「樹」の字と作る。唐帝、首を低れて、勅して五筆和尚と号す。菩提実の念珠を施し奉って、仰信を表すなり。(『同右』208P)
⑥1118(元永元)年の聖賢の『高野空海御広伝』
天、我が師に仮して伎術多からしむ。なかんずく草聖最も狂逸せり。唐帝の宮内、帝の御前に二間の壁有り。王義之の手跡有り。一間頽毀して修補を加うるに、筆を下すに人無し。唐帝、勅を下しして大師をして之を書かせしむ。大師、墨を磨り其れを盥器に入れ、五処に五筆を持し、一度に五行を書す。主上・臣下、悉く以って驚き感じて之を見る。目、暫らくも捨てず。いまだ書せざる一字有り。大師、即ち磨りたる墨を壁面に沃ぎ瀞ぐに、自然に「樹」の字と成る。唐帝、勅して五筆和尚と号す。

これらの記録を比較すると、次のようなことが分かります。
A 最初に書かれた①の『金剛峯寺建立修行縁起』を参考にして、以下は書かれていること
B ②③は簡略で、文章自体が短い。
C 内容的には、ほぼ同じで付け加えられたものはない。
D ①⑤は、皇帝から「菩提実の念珠」を賜ったとある。
以上から「五筆和尚」の話は、10世紀半ばすぎに、東寺に伝来していた唐の皇帝から賜わつたという「菩提実の念珠」の伝来を伝説化するために、それ以後に創作されたモノと研究者は推測します。つまり、五筆和尚の荒唐無稽のお話しは、最後の「菩提実の念珠」の伝来を語ることにあったと云うのです。そう考えると、「念珠」に触れているのは、①と⑤のみです。東寺に関係のない人達にとっては、重要度は低いので省略されて、お話しとして面白い「五筆和尚」の方が話の主役になったようです。  
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く80P 五筆和尚の伝承をめぐって
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