瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金剛拳菩薩

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鳥坂峠の上池(右)と大池(左) 背後は我拝師山
鳥坂峠は古来から丸亀平野と三野平野を結ぶ重要な峠です。鳥坂峠の手前で、伊予街道と分かれて弥谷寺に伸びる遍路道が分岐して、歓喜池(上池)の堤防を北に伸びていきます。

善通寺市デジタルミュージアム讃岐遍路道 曼荼羅寺道 - 善通寺市ホームページ

上池の堤防を渡りきった所に、かつての遍路宿があり、その庭に大きな地蔵さんが立っています。

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上池の大地蔵(初地地蔵菩薩)
初めてこの地蔵に出会った時には、びっくりしました。大きいのです。讃岐の中では一番大きな地蔵さまのように思います。なんで、こんなところにこんな大きな地蔵さんが立っているの?という最初の出会いで思った疑問でした。
なかなかこの答え見つけられずにいたのですが、弥谷寺調査報告書2015年を読んでいると、この謎がやっと解けてきました。そこには、弥谷寺の経営戦略があったようです。今回は、どうして碑殿町の歓喜池(上池)のほとりに大きな地蔵が建てられたのかを見ていくことにします。
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 上池の大地蔵(初地地蔵菩薩)

碑殿の上池に大地蔵は、いつ、だれによって建てられたのでしょうか?
寛政2年(1790)2月に、碑殿村の片山半左衛門は、次のような寄進状を残しています。
「上池之北山下畑の分畝有、残らず右地蔵尊御敷地、永代差し上ケ申し候」(「片山半左衛門寄進状」、文書1-15-55)、

意訳変換しておくと
「上池の北山下の畑地は、残らず地蔵尊御敷地として、永代寄進いたします。」

ここからは大地蔵の敷地を1790年に、片山半左衛門が寄進したことが分かります。このころから地蔵尊建立のための準備が進められていたようです。3年後の寛政5年に弥谷寺へ、常住寺から「上池尻石樋の西東」にある田1畝27歩(高3斗1升3合)が「永代譲り渡す田地」として、次のような文書が提出されています。

「此の度地蔵田二成され度思し召し二て、御所望の由仰せ聞かされ、至極御尤もの御儀二付き、早速御譲り申す」

ここからは弥谷寺の要望によって「地蔵田」が寄附されていることが分かります。この地蔵田に課せられる藩からの「諸役掛り物」は、弥谷寺が納めることになっています。以上から寛政5(1793)年には石地蔵菩薩は、現在地に姿を見せていたと研究者は考えています。

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大地蔵の台座側面

地蔵菩薩立像は花崗岩製で、高さが約3m、台座・台石と合わせると約4,9mになります。台石には次のように記されています。
(正面) 歓喜墜
(左面) 五名の戒名 泊浦宮本清二郎
(右面) 六名の戒名 与島岡崎
ここからは塩飽本島の泊浦の宮本氏と坂出市与島の岡崎氏が、この大地蔵を奉納したことが分かります。彼らは塩飽の有力人名衆になるようです。
 この地蔵菩薩立像は、『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))に、次のように記されています。
「穴薬師堂門を出て左手にあり、是より左へ山路を行。石地蔵尊 長二丈斗の石仏麓にあり」

弥谷寺 初地菩薩
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)には、地蔵菩薩立像が描かれていて、右横に「東入口初地菩薩 石像御長一丈六尺」と記されています。
この「初地」とは、菩薩の修行段階である十地(じゅうじ)の第一位のことで、十地とは「歓喜地・離啓地・発光地・焔慧地・難勝地・現前地・遠行地・不動地・善慧地。法雲地」で、「初地」とは、「歓喜地(かんぎじ)」のことになるようです。
また「弥谷寺全図」に描かれた「初地菩薩」の横に3間×4間の入り母屋造りの建物が見えます。よく見ると、正面には2間の扉が描かれているように見えます。お堂や庵のようにも見えますが、これが弥谷寺が建てた接待所だったようです。

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なお現在、地蔵菩薩立像(大地蔵)の横にある建物は、地元での聞き取りからは、旧雨峯小学校であったことが分かっているようです。私は遍路宿とばかり思っていましたが先入観でした。

この地蔵菩薩立像の前には、灯籠が1基建てられています。
灯籠竿部に刻銘文があり、寛政12年(1800)に亡くなった真蓮栄範信士の供養灯籠で、享和元年(1801)に造立されています。刻銘文には、「弥谷寺現住無縛代」とあり、無縛は弥谷寺中興第八世(1807寂)です。ここからは18世紀後半には、弥谷寺の影響範囲がここまで及んでいたことがうかがえます。

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この大地蔵は、単独で作られたものではなく、新たな接待所のシンボルモニュメントとして建立されたようです。
寛政4(1792)年3月に、碑殿村の上池尻に接待所を設置することが弥谷寺から多度津藩に願いでられています。
「往来の四国辺路え茶施し申し願い出」(「続故事謂」、「諸願書控。文書2-104-4)

とあるので、弥谷寺が参拝者へのサービス提供のために、遍路道の整備や接待所などの設置などに務めていたことがうかがえます。その接待所の前に設置されたのが大地蔵になるようです。接待所の敷地に課せられる年貢は、弥谷寺から納めることになっています。接待所と大地蔵の建立は弥谷寺の手で進められたことが分かります。
 接待所と大地蔵が建てられてから60年近く経った安政4年(1857)になると、その管理と世話が問題となります。そこで弥谷寺住職の維那は、碑殿村役所と茶堂庵講中へ次のような依頼をしています。「地蔵守之書付入」、文書1-17-40)。
上池の「大仏地蔵尊」は先の住職菩提林が造立し、碑殿村の勘蔵に田地を譲って「香華」の世話させていた。ところが田地を売り払って年を経るに随って世話が疎かになっている。そこで、このたび弥谷寺が管理することにする。就いては、その世話を「同所茶堂庵講中」に世話を頼みたいたい」

ここからは、安政4(1851)年頃には、接待所は茶堂庵と呼ばれて、それを維持するために「茶堂庵講中」が組織されていたことが分かります。
この背景には18世紀末ころから金毘羅大権現の伽藍整備が進み、東国からの金毘羅詣で急増することがあります。金毘羅船で丸亀港にやってきた参拝客は金比羅を往復するだけでなく、善通寺や弥谷寺・海岸寺など「七ケ寺めぐり」をするのが一般的になります。これには巧みな参拝者誘引のための手法があったことは、以前にお話ししました。
丸亀街道 E⑳ ことひら5pg
丸亀港にやってきた参拝客に配布された案内図

 18世紀末から金比羅船で丸亀や多度津港にやってくる金比羅詣客は急増していきます。その参拝客を金比羅だけでなく自分の所へも導いてこようと周辺の寺社は、あの手この手の広報戦略を駆使します。例えば、丸亀港に降り立った参拝客に配布された案内図は「金比羅参拝図」とは記されていません。「丸亀・金比羅・善通寺・弥谷寺参拝」と表題が書かれ、この4つの社寺をめぐるルートが描かれています。
丸亀街道 E27 ことひら5pg

 この案内地図を手にして金比羅詣でにやって来た弥次喜多コンビも弥谷寺に参拝しています。そして、天霧山を下って海岸寺・道隆寺を経て丸亀港から帰路に就いています。 また、東北からやって来た人の中には「伊勢神宮 + 高野山 + 金比羅 + 宮島厳島神社 + 西国三十三ヶ寺巡礼」という参拝の旅を行っている人も多かったようです。今のように目的地だけを目指すというものではなく、「金比羅詣でも四国巡礼も宮島もこの際ついでに、まとめて参拝」という感じなのです。そのような庶民の参拝気質を見込んで、「呼び物」と「参拝道」を整備すれば、人はやってくるというのが当時の寺社の広告戦略です。それを弥谷寺の住職たちは見抜いていたといえるかもしれません。

善通寺・弥谷寺
五重塔があるのが善通寺 そこから弥谷寺への遍路道が見える

 金比羅までやってきた参拝客をいかにして、自分の所まで誘引するのか。それがあらたな名所作りであり、シンボルモニュメントを登場させることであったようです。その一環として弥谷寺の住職が取り組んだのが、伊予街道から分岐する遍路道の整備であり、その分岐点近くに弥谷寺直営の接待所を設置し、そこに大きな地蔵をモニュメントとして建立するというプランだったようです。このプランはこれだけでは留まりません。さらに大きな仕掛けを考えていたようです。

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弥谷寺と曼荼羅寺を結ぶ曼荼羅寺道

天保11(1840)年の「続故事諄」には、次のように記されています。
「東、碑殿坂を以て十地の位に当たる、今此の盤石上の石仏を安置する所なり、則ち初地歓喜の像なり」
意訳変換しておくと
「東の碑殿坂が十地の位に当たる。今、この盤石上には石仏が安置されている、それが初地歓喜の地蔵菩薩である」

ここには碑殿の上池は弥谷寺まで「十地の位」に当たる場所なので、ここにスタート地点として「石像地蔵菩薩(初地歓喜像)」が造立されていると記されています。

また「剣五山弥谷寺記」には、次のように記されています。
「前住菩堤林及び法嗣霊苗、嘗つて行基の意を原ね、碑殿歓喜池の上の石像地蔵より、法雲橋頭に至るまど、離垢発光等の諸位の仏像を路傍に安んじ、十地の階級に擬えんと欲す、(中略)、
僅かに第十地に金剛拳菩薩を建て、以て其の梗概を示すのみ、二天門内丈六の鋳像、即ち此れなり」
意訳変換しておくと
「弥谷寺の前住職・菩堤林とその法嗣霊苗は、かつての行基の意を汲んで、碑殿歓喜池(上池)の石像地蔵より、弥谷寺境内の法雲橋頭に至るまで、離垢発光等の諸位の仏像を遍路道の路傍に安置して、十地の道しるべにしようと考えた。(中略)、しかし、第十地に金剛拳菩薩を建てただけに終わった。二天門内の丈六の鋳像がそれである。」
ここからは弥谷寺の住職によって、碑殿の石像菩薩から弥谷寺境内の法雲橋までの間の遍路道に、十の仏像を安置するプランがあったことが分かります。しかし「剣五山弥谷寺記」の書かれた弘化3年(1846)には、弥谷寺の境内の第十地に金剛拳菩薩(丈六の鋳像)が残されているだけだと記します。丈六の鋳像が、現在の金剛拳菩薩のようです。

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潅頂川にかかる法雲橋(弥谷寺)

つまり上池の大地蔵は、弥谷寺境内にある金剛挙菩薩とセットで建立されたものだというのです。
それをまとめてみると
①上池の巨大地蔵(石地蔵菩薩)から弥谷寺までの遍路道に、十の仏像を安置する計画があった
②そのスタート(初地)が歓喜池(上池)で、第十地(ゴール)が弥谷寺境内の金剛拳菩薩である。

これは鳥坂峠で伊予街道と分かれた遍路道の整備計画でもありました。今に残る金剛挙菩薩と石地蔵菩薩とは、その計画のスタート地点とゴール地点に立っていることになります。しかし、なぜこんなの大きな仏像を建立したのでしょうか?                      
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金剛挙菩薩
次に弥谷寺境内の金剛挙菩薩を見てみることにしましょう。
この菩薩は「大日如来」として建立されたものが、いつの間にか金剛挙菩薩とされてしまったようです。その理由はよく分かりません。とにかく建立に向けた動きを追ってみます。

「銘曰く、寛政三辛亥起首願主先師菩堤林文化八辛来年成就幻住法印零苗代、鋳物師紀州住人蜂屋薩摩塚源政勝、右年号並びに時代、仏像の脇これそ記すなり」

とあって、住職菩堤林が寛政3年(1791)に建立のための募金活動に取りかかり、20年ほど後の、文化8年(1811)に完成したことが分かります。

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金剛拳菩薩(最初は大日如来として建立された)

弥谷寺には、寛政元年(1789)の 「灌頂仏募縁疏」の版木が残っています。
これは住持の菩提林によって書かれた大日如来造立のための募金趣意書に当たります。そこには次のように記されています。

弥谷寺の灌頂川の法雲橋の西の大岩の上には、かつては一丈六尺の金銅の大日如来があった。それを「第十地ノ菩薩」として再建を行いたい

 この再建のために、菩堤林と講中が勧進を行おうとした趣意書の版木です。この版木には寛政元年正月と記されているので、大日如来の造立の動きは寛政元年に始まっていたことが分かります。

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              金剛拳菩薩
また「五山弥谷寺記』には、次のように記されています


「碑殿歓喜地の上より法雲橋の頭に至るまで、離垢・発光等の諸位の仏像を路傍に安んじ、十地の階級に擬えんと欲す。」
意訳変換しておくと
「碑殿の歓喜池が初地にあたり、弥谷寺の法雲橋に至るまで、離垢・発光等の諸位の仏像を遍路道沿いに安置し、十地の階級を示したい。」

「讚岐剣御山弥谷寺全図」には「東入口初地菩薩石像一丈六尺」とあります。
弥谷寺 初地菩薩
「讚岐剣御山弥谷寺全図」(1844年)に描かれた初地菩薩

初地は別名「歓喜地」で、そこから第十地「法雲地」に至るまでに、十地各地に仏像を安置する計画があったことになります。しかし、今あるのは先ほど見た「初地」として碑殿の上池に「初地菩薩」、第十地「法雲地」とされる「法雲橋」の金剛拳菩薩だけです。

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「讚岐剣御山弥谷寺全図」(1844年)に描かれた丈六金仏(金剛拳菩薩)
 「金剛拳菩薩」は寛政3年(1791)に募金活動が始まり、完成したのは、文化8年(1811)ですから22年かかっています。
ふたつの間には仏像が造立された気配はないので、十仏像を設置するという計画は頓挫したようです。また、「法雲橋_|と「金剛拳菩薩」の間にあった「二天門」は、昭和6年(1931)の「諸堂建立年鑑」によれば文政12年(1829)に再建されています。この計画の一環として建立された可能性を研究者は指摘します。
弥谷寺 参道変遷
金剛拳菩薩の出現で変更された参道 

 「金剛拳菩薩」は、もともとは大日菩薩として建立されたことが資料で確認できます。
完成前年の8年の「灌頂仏再建三百人講」や、文政2年(1819)の「四国巡拝日記」では、大日如来と記しています。ところがそれから約30年後の弘化3年(1840)の記録には「金剛拳菩薩」と記されています。つまり大日如来として作られたが、その後に金剛拳菩薩へと変更されたことになります。その理由については、私にはよく分かりません。
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弥谷寺に残された史料の中に、「灌頂仏再建三百人講」があります。これは文化7年8月に弥谷寺の維綱がまとめたもので、大日如来(金剛拳菩薩)建立の経緯が次のように記されています。
「丈六の金仏を再建せんと思へとも、衣鉢乏しく少なくして自力に及びかたし、故に善男善女を勧進して、三百人講をいとなみ、此の浄財を以て大日尊を再建し奉らんと希ふ」(中略)
「此の尊に帰依して浄財を郷ち、早く再建の願いを遂げ、万代不朽の巨益を成就せしめん輩ハ、現世にハ子孫繁昌し福徳豊穣にして、快楽自在ならん、当来にハ摂取不捨の光明に照らされて、極楽都率任意往生せん、猶又施主家の姓名先祖の法名等大日尊の蓮座に彫り付け、永代毎歳の灌頂に廻向するなり」
意訳変換しておくと
「丈六の金仏(大日如来)を再建したいと願っても、資金に乏しく自力ではできない。そこで善男善女を勧進して三百人講を組織し、その寄付で大日尊を再建しようと計画した」(中略)
「この大日尊に帰依して浄財を寄進し、再建の願いが実現したあかつきには、万代不朽の巨益を手にした者達は、子孫繁昌し福徳豊穣で、快楽自在となろう。そして来世では摂取不捨の光明に照らされて、極楽都率で必ず往生する。さらに施主家の姓名先祖の法名などを大日尊の蓮座に彫り付け、永代に渡って毎年、灌頂廻向を行うことを約束する」
ここからは、三百人の寄附によって「丈六の金仏」を再建すること、寄附者の現世の御利益を説くとともに、その名を大日如来の「蓮座」に記すとしています。この大日如来の再建には銀25貫600目が必要であったようです。この序文に続けて大見村から始まって、多度津藩・丸亀藩の村々からの寄進者の名が記されています。施主一人前で金1両です。一番多いのは大見村庄屋の大井助左衛門の7人前で、次いで4人前の大見村の三谷恒右衛門。同三谷甚之丞。同三谷源六。同辻市郎右衛門となっています。その他はほとんどが一人前であり、二人で一人前の場合もあります。これらを郡ごと、村ごとに施主人前に整理したのが下表です。

弥谷寺 金剛拳菩薩趣意書
一番多いのは地元の大見村の77人前、次いで隣村の松崎村の42人前で、郡ごとでは三野郡が190人前と多いようです。全体で271人前となっています。施主1人前金1両とされていたので、金271両の寄附があったことになります。「三百人講」だったので、目標金額は300両です。それには達しなかったようですが、目標の9割を越える金額を集めています。大日如来(金剛拳菩薩)の建立には地元の大見村や松崎村をはじめとして、多度津藩。丸亀本藩領内、またそれ以外の各地の人々の支援によって行われていたことが分かります。
 完成した大日如来の像や蓮弁等には、先ほど見たように寄進者の名前等が刻まれています。
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以上をまとめておきます。
①18世紀末に、弥谷寺と曼荼羅寺を結ぶ遍路道の整備が行われ、伊予街道との分岐点近くに接待所と大地蔵が姿を現した。
②ここには仏像造立という宗教意味だけでなく、弥谷寺の経営戦略があった。
③それは金比羅参りの参詣者を、善通寺を経て弥谷寺へ誘導するという広報戦略の一環だった。
④その広報戦略の目玉として考えられたのが、上池をスタートとしてゴールの弥谷寺までに十の仏像を安置するプランであった。
⑤そのスタートに初地地蔵、ゴールに金剛拳菩薩が建立された。
⑦金銅制の金剛拳菩薩は、三野郡を中心とする富裕層の寄付金によって建立された。
⑧しかし、残りの仏像は資金難で建立されることはなかった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献 弥谷寺調査報告書2015年 香川県教育委員会
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「讃州剣五山弥谷寺一山之図」宝暦10年(1760)には、18世紀後半の弥谷寺の繁栄ぶりが描かれています。
弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺一山図1 」

仁王門から大師堂、そして一番上の本堂までの参道に堂舎が立ち並び、石造物が迎えます。金毘羅詣でにやってきた参拝客たちが善通寺を経てわざわざ弥谷寺を訪れたというのも分かるような気がします。それだけの施設や霊場としての雰囲気を供えた空間が、この時期までに整備されていたようです。
 しかし、弥谷寺は戦国末期には兵火で焼失したと伝えられます。その後の復興は、どのように展開されたのでしょうか。それを残された絵図から見ていくことにします。

IMG_0102天霧城の香川氏
天霧城
弥谷寺背後の天霧山には、天霧城がありました。
この城は讃岐守護代として中・西讃を支配した香川氏の居城とされます。貞治元年(1362)の白峰合戦で、南朝方の細川清氏を討ち取って、三野・豊田・多度の3郡を領地とし、天霧山に城を築いたのが始まりです。その後、管領細川氏の守護代として讃岐11郡のうち6郡を治め守護代から戦国大名への成長を遂げていきます。 
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弥谷寺から天霧城への道
その天霧城の中腹にあるのが弥谷寺です。
香川氏は弥谷寺の檀家として、この寺を保護したと云われます。それを裏付けるように、香川氏の墓石である五輪塔が弥谷寺の境内には、いくつか確認できます。中世の弥谷寺の繁栄は、守護代香川氏の保護が背景にあったようです。
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  浄土信仰の中心部・九品浄土にある生駒一正の墓石

 香川氏は、天正年間(1579)の、土佐の長宗我部元親の讃岐侵攻に際しては、いち早く降伏し同盟関係を結び、土佐軍の先兵として讃岐平定に活躍します。しかし、それもつかの間、天正11年(1585)の豊臣秀吉による四国征伐を前に、元親はなすすべなく敗退し、香川氏も土佐に落ち延びます。

弥谷寺 生駒一正の石塔
生駒一正の石塔(弥谷寺本堂下)
 天霧城は破棄され、弥谷寺もこの時に消失して荒廃したといいます。そしてわずかに本尊と鎮守の神体だけが残ったと伝えられます。確かに、現在の弥谷寺に中世に遡る仏像は3体のみです。建造物も近世以後のものです。弥谷寺は戦国末期に伽藍が焼け落ちたようです。
  『大見村誌』には、正徳四年(1714)宥洋法印の記録として、香川氏没落以後の弥谷寺について、以下のように記しています。 
その後戦乱平定するや、僧持兇念仏の者、当山旧址に小坊を営み、勤行供養怠たらざりき、時に慶長の初め、当国白峰寺住職別名法印、当山を兼務し、堂舎再建に努め、精舎僧坊を建立す。
 慶長五年十二月十九日、高松城主、生駒讃岐守一正より、田畑山林を寄付せられ、其証書今に存せり。別名法印遷化後、直弟宥慶法印常山後住となり執務中、図らすも藩廳に対して瑕径あり。爰に住職罷免され、善通寺に寄託される、その後の住職は善通寺僧徒、覚秀房宥嗇之に当り寛永十二年営寺に入院し、法務を執り堂塔再建に腐心廿り、
意訳しておきましょう 
その後、戦乱が平定されると、修験者や念仏行者が弥谷寺の旧址に小坊を営み、勤行供養を行うようになった。慶長年間の初めに、白峰寺住職別名法印が生駒親正の信認を受けて、当山を兼務するようになった。彼は堂舎再建に努め、精舎僧坊を建立した。慶長五年十二月十九日、高松城主、生駒讃岐守一正(親正の子)より、田畑山林を寄付せられた。その証書は今に伝わっている。別名法印が亡くなると、直弟宥慶法印が後を継いで後住となり執務を行ったが、図らすも藩廳に対して瑕径があり、宥慶は住職罷免された。その後、この寺は善通寺に寄託され、善通寺の僧徒である覚秀房宥嗇之が寛永十二年営寺に就任し、法務を執り堂塔再建に腐心した。

    この史料は、次のようないろいろな情報を提供してくれます。
①弥谷寺焼失後は、「念仏行者」が小坊を建てて布教活動の拠点となった
②白峰寺住職別名法印が、当山を兼務し、堂舎再建に努めた
③生駒親正の子・一正より、田地の寄進を受けた
④別名法印死後、直弟の宥慶法印は生駒氏の怒りを受け住職を罷免された。
⑤その後、弥谷寺は善通寺に寄託され、善通寺僧徒が住持となり、そのもとで堂塔再建が進んだ。
  ここからは、近世はじめには念仏行者の活動拠点となっていたことが分かります。そして、生駒家の保護の下に再建が進められますが、当時の住持が罷免され、善通寺の影響下に置かれたようです。
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弥谷寺参道の石仏

17世紀後半に「遍路」として「四国巡礼」を行った僧侶たちが残した3つの案内記を見ていきましょう。
まず、エリート学僧の澄禅の「四国遍路日記」(承応2(1653)年の記述です。彼の日記からは弥谷寺には「二王門」「持仏堂」「鐘楼」「護摩堂」「本堂」「蔵王権現ノ社」の5つの堂があったことが分かります。

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弥谷寺仁王門
坂の登り口には仁王門があったようですが、これは寛永年中(1624~1648)に大破します。澄禅が見た「二王門」は「二天門」だったようです。この「二王門」から続く参道の上の「高き石面」(断崖)には、彫り付けられた「仏像」や「五輪塔」が数え切れないほどあるといいます。中世以来の宗教活動の成果なのでしょう。自然石を切り出した階段を上ると「寺ノ庭に上がる」とあります。

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現在の百八階段

この「寺ノ庭」は、諸堂の立ち並ぶ平坦地で、現在の本坊、寺仏殿、寺務所、蔵などが立ち並ぶ平坦地のようです。
  「持仏堂」は、
「西向二厳ニ指カリタル所ヲ、広サニ間半奥ヘハ九尺、高サ人ノ頭ノアタラヌ程ニ イカニモ堅固二切入テ、仏壇間奥へ四尺二是モ切入テ左右二五如来ヲ切付玉ヘリ。中尊ハ大師ノ御影木像、左右二藤新大夫夫婦像二切玉フ。」

とあり、岩盤の窟内に五如来を陽刻しているとあるので、現在の「大師堂」、「獅子之岩屋」のようです。ここには、「大師ノ御影木像」の左右に藤新(とうしん)大夫夫婦像」があったといいます。藤新(とうしん)大夫夫婦像は、「空海=多度津白方生誕地説」で、空海の父母とされる人物です。この時点までは、弥谷寺は「空海=多度津白方生誕地説」を流布していたことになります。

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「鐘楼」は、「庭ヨリー段上リテ」とあります。

現在の鐘楼も寺の平坦地より、約1m程度高い位置にあるので合致します。

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弥谷寺護摩堂

「護摩堂」は、「鐘楼」から

「又一段上リテ護摩堂在、広サ九尺斗二間二岩ヲ切テロニ、戸ヲ仕合ソノ内ニハ本尊不動其外ノ仏像何モ石也」

とあり、護摩堂も岩盤の窟内で、本尊が不道明王なので、現在の「岩窟の護摩堂」なのでしょう。
「護摩堂」から本堂への参道には
「少シ南ノ方へ往テ水向(水祭)在り、石ノ面三二寸五歩斗ノ刷毛ヲ以テ阿字ヲ遊バシ彫付玉ヘリ、廻リハ円相也。 ・・其下二岩穴在、爰ニ死骨ヲ納ル也。 ・・・
 其アタリニ、石面二、五輪ヲ切付玉フ事幾千万卜云数不知。又一段上リテ石面二阿弥陀ノ三尊、脇二六字ノ名号ヲ三クダリ宛 六ツ彫付玉り、 ・・・又一段上リテ本堂在、」
意訳すると
「岩窟の護摩堂」から少し行ったところからの岩面には、五輪塔が彫られており、灰岩製の切石の石段を上ると「水場所」、「納骨所」があり、その左には「ア(種字)」が彫られ、そこから石段を上れば、岩面には「阿弥陀三尊」、「南無阿弥陀仏の六字名号」が彫られている。
とあり、ここが九品浄土で、中世の阿弥陀=浄土信仰の中心的な場所であったようです。
弥谷寺 九品浄土1

更に石段をあがると本堂です。本堂は岩面に接するように建てられ、その岩面には五輪塔が多数彫り込まれていいます。現在の「本堂」の位置と変わりません。
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弥谷寺本堂
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本堂磨崖に彫られた五輪塔

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弥谷寺本堂からの眺め
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本堂内部の磨崖仏や五輪塔
また「蔵王権現ノ社」|は、「其近所二」とあることから、「岩窟の護摩堂」の上方にある現在の「鎮守堂」であったようです。
以上が澄禅の『四国遍路日記』に書かれた承応2(1653)年の弥谷寺境内の諸堂の様子です。
 弥谷寺は、戦国末に兵火で焼失したとされますが、寛永十二(1635)年以後の善通寺からやってきた住持のもとで、生駒氏の支援を受けて堂塔再建が進んだと記されていました。確かに澄禅も、「退転=荒廃」した姿でなく再建が進む境内の様子を伝えています。退転したままだった阿波の霊場よりも、讃岐の霊場は立ち直りが早かったことがここからもうかがえます。
次に、やって来るのは真念です。彼の『四国辺路道指南』(貞享4年(1687)を見てみましょう
「七十一番弥谷寺 南むき。」
「まんだら寺ヘハニ王門より左リヘゆく。」
と記述は非常に少ないのです。ここから解るのは、本堂が「南むき」であつたことと、ちょうど「仁王門」を出て左に行けば、第72番曼荼羅寺への遍路道となることだけです。
最後にやって来るのが寂本です。彼の『四国偏礼霊場記』(元禄2年(1689))には、
彼の案内記の特徴は、スケッチが挿入されていることです。これは非常に役に立ちます。まずそのスケッチで境内を見ていきましょう。
弥谷寺 伽藍図

 スケッチの①二王(二王門)手前で分岐し、右へ行くのが曼荼羅寺への辺土道で道で、②「薬師窟」、③「岩松窟」(弥谷坊)が描かれています。「仁王」から左へ進み道弥谷寺参道で、多数の石仏の間を抜け坂道を登ると平坦地にある④「千手院」(本坊)に着きます。この上部には⑤「聞持窟」(現大師堂)があり、参道は右方向に延び、左右に⑥「鎮守」⑦「鐘楼」⑧「二尊」(籠堂)⑨「護摩窟」⑩「弁財天」と上り、そして⑪「観音堂」(本堂)へと続きます。

  本文には次のように記されます
「山南にひらけ、三染の峰北西に峙てり。其中軸に就て大師岩屋を掘、仏像を彫刻し玉ふ_|
「本堂岩屋より造りつづけて、欄干雲を帯、錦帳日をいる」
「護摩の岩屋二間四方、石壇の上に不動,弥勒・阿弥陀の像まします。其脇の石壇に高野道範阿閣梨の像あり。」
 
「聞持窟(大師堂)は九尺に二間余、内のまわり岩面には五仏・虚空蔵・地蔵等切付られたり。・・・又大師の御影もあり、いにしへは木像にてありけるを、石にて改め作り奉る。其岩窟の前四六間の拝堂南むきにかけ作りにこしたり」

ここには約30年前の澄禅が訪れたときには「大師像」の両脇に置かれていた藤新大夫夫婦像は姿を消しています。この期間に弥谷寺は「空海=多度津白方生誕説」の流布を止めたようです。

 本文からはは本堂(観音堂)・「護摩の岩屋(護摩窟)」「聞持窟」「鐘楼」「住坊」「二王門「石窟薬師堂」の7つの堂舎があったことが分かります。さらに先ほど見たスケッチには「岩松窟」「鎮守」「二尊」「弁財天」の4つの堂舎が描かれていますので合計11の堂舎があったことになります。30年で着実に境内整備は進んでいます。金毘羅大権現に次ぐ規模だったのではないでしょうか。弥谷寺が多くの信者を擁し、経済力を持っていたことがうかがえます。
次に、残されているのが弥谷寺所蔵の版木「讃州剣五山弥谷寺一山之図」です。
この版木は裏面に「大阪北久弐 細工中澤彦四郎」と刻銘があり、「大坂」ではなく「大阪」とあることから、明治以降に復刻されたもののようです。しかし、使われている版木は宝暦10年(1760)のものと研究者は考えているようです。この版画絵を見ていきます。
弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺一山図1 」

  この絵図も弥谷寺の境内は、「二王門」から始まります。
仁王門までの参道には、「フジ橋」「大門奮(旧)跡」「石橋」があり、両側には墓石、供養塔と考えられる石造物がたくさん並んでいます。「二王門」手前で遍路道が右に分岐し、次の札所である曼荼羅寺方向と、「穴薬師」が描かれています。
「二王門_|を抜けると左に「南無阿弥陀仏」と書かれた「船ハカ(墓)」があり「手掛岩」→「法雲橋」→「独古坊跡」→「大日」と続きます。参道の左右に五輪塔が描かれており、岩面には数多くの磨崖五輪塔があります。「大日」も磨崖仏として彫られているようです。
「大日」から茶道下の坂道を登ると、平坦な地点に着き、ここに緒堂が並びます。寂本のスケッチには「千手院(本坊)」とあった所です。この正面に「奥院(大師堂)」「求聞持窟」「茶堂」「方丈」(本坊)、
右手に「中之院」「三十三番」「十三堂」「鐘楼」などです。今は「茶堂」「中之院」「三十三番」「十王堂」などはありませんが、それ以外はほぼ同じ所にあります。さらにこの平坦地から「十王堂」と「鐘楼」の間の坂道を登れば、正面に「護摩岩屋」が見えてきます。
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護摩の窟内部
階段を登りきった護摩堂前で参道は左右に分かれます。

右に行けば「天神」「比丘尼谷」「東院旧跡」「権現社」へ
左に行けば「一正石塔」、「観経文」「三尊弥陀」のある九品浄土を経て、「本堂」に続きます。今は「六本杉_|はありませんが、「籠所」を今の薬師堂と考えれば、ほぼ同じ所に諸堂が建っていることになります。現在の弥谷寺の緒堂の空間配置は、この時には出来上がっていたことになります。

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弥谷寺磨崖仏の位置

元禄2年(1689)の『四国遍礼霊場記』から70年近く建った宝暦10年(1760)には、緒堂がさらに増え、境内が整えられていることが分かります。

  「讃州剣五山弥谷寺一山之図」刊行から9年後の「多度津公御領分寺社縁起」(明和6年(1769)の中の「讃州三野郡 剣五山弥谷寺故事譚」には、次のように記されています。
開基は行基で、当初「東ノ御堂亦伝東院」「多宝塔名中尊院」「両ノ御堂又伝西院」を中心伽藍として、「遍明院」「和光院」「青木坊」「其師坊」「納涼坊亦伝籠所」「功徳院」「弥之坊」、「谷之坊」「独古坊」「竜花坊「安養坊」「海印坊」の十二坊があった。それが天正年間に天霧城主香川氏の退城後に、兵火にり仏閣僧坊が灰儘に帰し、その後生駒氏の命を受け白峯寺の住持別名法印が弥谷寺を兼帯し、伽藍再興に東とりかかった。弥谷寺はその後も生駒氏、京極氏の庇護を受け、伽藍再興が進んだ。
 
当時の境内にある堂舎の建立者と年月日が次のように記されています。
大悲心院(本堂)一宇 享保十二未年、幹事宥雄法印
納涼坊   幹縁宥沢法印
十王堂  享保七壬寅十一月七日 宥雄法印代」
鐘楼  大和三壬戌年 幹営宥澤法印
奥院    岩窟也(求聞持窟)
前段(大師堂)延宝九年酉九月吉日幹事宥沢法印
鎮守社  貞享五辰九月吉日  幹造宥沢法印
青木堂   明和六年四月吉日   同人
与手院            幹営宥沢法印
寂光院   岩屋也(護摩窟)
前殿  明和元年五月吉日  幹事瑞応法印
止観院 延享三寅五月廿六日 瑞応法印代(三十三所)
弁財社 宝暦二年中九月令甲 幹営菩提林
天神社 同年         同人
愛宕社 明和六丑六月
泰山附君社  同五千九日吉  卓令事菩提林権律師
接待所  享保十巳施主宇野浄智宥雄法印代
中門  延宝九百六月吉日 卓全縁宥沢法印
とあり、着実に堂舎建立が進み、18世紀中葉までには境内の伽藍整備が終わったようです。特に宥沢の時代に、多くの堂宇が建立されたことが分かります。
次に『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800)を見てみましょう。

弥谷寺 四国遍礼図絵1800年

一番高いところにある①本堂から見ていきましょう。
挿図からは、本堂が片入母屋造で妻入りの建物であることが分かります。描く技術も格段に進歩しています。本堂から4つの石段を下った平坦部のほぼ中央部に④「護摩の窟」があり、③「弁天社」⑤「権現社」「天神社」の位置には変わりがありません。
弥谷寺 九品浄土1

 ここで気づくのが②阿弥陀三尊の下の南無阿弥陀仏の六字名号が小さくなっているような気がします。この「九品浄土」は中世の阿弥陀=浄土信仰の中心部であったのですが、真言密教観と弘法大師伝説の「流行」に押されて、その役割を終えようとしているようにも見えます。

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護摩堂

 「護摩の窟」の前の正面石段を下ると平坦部となり、正面に鐘楼、右手には「十王堂」と「観音堂」が並びます。十王堂は入母屋造り、観音堂は宝形造りのようです。その平坦部の端には「奥院大師堂」、「求聞持の窟」「茶堂」があり、以前と変わりません。

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一段高い所にある十王堂

 「茶堂」より石段を下ると右手に「独鈷坊古跡」があったようですが、この絵図には最初の平坦部に石塔2基が描かれ、次の平坦部には多角形の線が描かれている。今はここに「金剛拳菩薩」が立っています。
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金剛拳菩薩

「金剛拳菩薩」は、寛政3年(1791)から文化8年(1811)の間に造られたことが紀年銘から確認できます。ちょうどこの絵図が描かれたいた頃に建立中だったようです。多角形の線は、金剛拳菩薩の台座の部分のみの表現と研究者は考えているようです。
 
  「讃州剣五山弥谷寺一山之図」(宝暦10年(1760))と『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))を比較すると、「中之院」は無くなっていますが、境内の諸堂や配置には大きな変化はありません。
しかし、小さな変化が2点あるようです。
一点目は、境内参道の一部が石段になっていることです。
①「二王門」前、
②「独鈷坊古跡」から茶堂へ
③「十三堂」から「護摩の窟」さらに本堂への参道
が石段として表現されています。18世紀後半には金毘羅さんでも石段化が始められ、19世紀前半には全域の石段化が完了します。さらに石畳化や玉垣・灯籠整備へと進みます。弥谷寺の石段整備はそのような流れと合致します。
  2つ目は「法雲橋」から「茶堂」への参道の付け替えです。
弥谷寺 参道変遷
弥谷寺の参道変遷

「讃州剣五山弥谷寺一山之図」では、「法雲橋」を渡り、参道は磨崖五輪塔が描かれた岩の向こう側を通り、右に「大日」、左に「独鈷坊跡」見て、「茶堂」坂道を上るように描かれていました。
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潅頂川にかけられた現在の法雲橋
ところが『四国遍礼名所図会』では、「法雲橋」を渡り、参道は磨崖五輪塔が描かれた岩の手前を通り、「独鈷坊古跡」を左手に、若干上り右に「大日」を見て、「茶堂」への坂を上るように描かれています。この間に参道の変更があったようです。
 どうしてでしょうか。金毘羅さんの参道も、「戦略」的に何度か付け替えられています。それは、当時新しく造られた建造物やシンボルモニュメントを参拝者に印象づけようとする意図があったことは以前に見ました。
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金剛拳菩薩
そういう視点で、弥谷寺を見ると新たなシンボルといえば、金剛拳菩薩です。旧道では、完成したばかりの金剛拳菩薩が参道から視野に入ってきません。石段を登ってくる参拝者を上から慈悲の視線で金剛拳菩薩迎えるように参道が付け替えられたと私は考えています。
最後に幕末の、「讃州剣御山弥谷寺全図」を見ておきましょう。
この版木は弥谷寺に残されたもので裏面に天保十五年(1844)の墨書があり、製作年代が分かります。金毘羅さんの旭社完成し、玉垣や石畳などの周辺整備が進められ参拝者が爆発的に増えた時期です。それに、併せるように新たな絵図が制作され弥谷寺への参拝客の呼び込みを行ったことがうかがえます。

弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」

 この絵図を見ると弥谷寺境内は今までのように、「二王門」から始まります。しかし、ちがうのは「二王門」までの参道に次のような院房が並んで描かれています。

①「大門跡」「和光院跡」「安養院アト」「遍明院アト」「青木院跡」「功徳院跡」「龍花院跡」

 往時の境内が今よりもかなり広かったようです。これらの子院は中世には、念仏行者や山岳修験者として活動していた下級僧侶たちの拠点だったのかもしれません。それがいつの時代に衰退し、破棄されていったのでしょうか。考えられるのは金毘羅大権現のいろいろな宗教施設が別当金光院により統制・排除されていく動きや、白峰寺の一院化と同じ頃ではなかったのかと私はおぼろがながら考えています。何かしらの「政治的な力」が働いた結果だと思うのですが・・・。今はよく分かりません。
「大門跡」は柵で囲われており、「大門跡」と書かれた高札が設置されています。
また「大門跡」の外側には、 3間×4間の入母屋造りの建物、
②「功徳院跡」と書かれた部分には、 2間×2間の入母屋造りの建物が描かれています。これらの子院跡を抜けると十字路の交差点です。右は曼荼羅寺への道、左は西入口となります。この交差点から右に「穴薬師」「薬師院」、左に茅葺の建物を見て、二王門が迎えます。
 ③「二王門」は3間×3間の二層入母屋造りで、土塀を廻らし、かなり立派です。
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二天門(現仁王門)の上の参道横に立つ「船墓」

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船墓

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船墓(レーザー撮影)

「仁王門」を抜けると右手に「南無阿弥陀仏」の名号が描かれた④「船ハカ」(墓)があります。これも中世の弥谷寺が荒野の念仏聖(時宗)の活動拠点であったことを示すモニュメントのようです。
これを過ぎると「潅頂川」に⑤「法雲橋」が係っています。これもアーチ状で、欄干がある石橋で、かなり立派なものになっています。これも参拝者が喜びそうです。
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「法雲橋」を過ぎると、今までなかった⑦「丈六金佛(金剛拳菩薩)」が正面に現れます。
「天金佛」から坂道を上ると諸堂の立ち並ぶ平坦地になる。左手に「茶堂」、「本坊」、正面に「大師堂「獅子窟」があります。本堂へは、右に折れ左手に「大塔」「三十三所」「十王堂」を見ながら、右手「鐘楼」で、左に折れ、さらに坂道を上ります。坂道を上れば、正面に「護摩堂」があり、参道は左右に分岐します。
右に行けば「天神」「比丘尼谷」「東院堂アト」⑧「蔵王権現」へ、
左に行けば「納涼院」、⑨「前讃岐守生駒一正石塔」、⑩「九品浄土」を経て、「本堂」に至ります。今は「六本杉」はありませんが、「納涼院」を薬師堂とすれば、ほぼ同じ所に各お堂があることになります。金毘羅大権現のように、神仏分離で大きく変化したと云うこともありません。
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)と「讃州剣五山弥谷寺一山之図」(宝暦10年(1760))を比べてみましょう。
「中之院」はなくなっていますが「二天門」、「丈六金佛」、「大塔」、「経蔵」などあたらしいお堂やモニュメントが姿を見せ、さらに伽藍の整備が進んでいます。特に「法雲橋」「二天門」「丈六金佛」は、参拝者に喜ばれたことでしょう。それが評判となってさらなる参拝者を招き入れるという発展らせん階段を弥谷寺は上っていきます。
  ここにも金毘羅さんと同じように、惜しみなく資本投資を行い伽藍整備を進め参拝客を増やし続けるという経営戦略を見る思いがします。
以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献

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