瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金剛院経塚

   最後に中寺が退転した後の大川山がどうなっていくかを見ておきます。

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大川山は丸亀平野だけでなく瀬戸内海の島々からも眺められ、霊山として信仰されてきました。そして、神仏混淆下にあっては中寺の社僧たちが管理運営を担っていました。中寺には、遙拝所が設けられ、大川山との間で厳しい行道が行われていたのです。その間には、今は忘れ去られたいくつもの行場が会ったことが考えられます。こうして霊山大川山の神宮寺としての中寺の性格が定着していったと私は考えています。
 しかし、中寺は国衙や国分寺の保護によって創建され、管理運営されてきた古代の山林寺院です。平安末になり、古代国家が解体すると国衙機能も弱体化し、中寺に対する支援保護も失われたのでしょう。中寺は平安末には姿を消して、活動を停止していきます。しかし、人々の大川山信仰が失われたわけではありません。大川山には中寺に代わる宗教集団・施設が周辺部に姿を見せるようになります。それが備中児島の五流修験だと私の師匠は考えています。それを仮説としてお話ししておきます。

大川山と五流修験1
児島五州修験(新熊野修験者集団)
上の仮説を2つ出しておきます。これが現在の五流修験の拠点です。丸亀平野には五流修験者の痕跡が色濃く残っているようです。五流修験については以前にお話ししましたので、ここでは簡単に押さえておきます。
五流修験は、自らを紀伊の熊野神社の修験者の亡命集団と称します。それが、熊野神社の社領のあった備中児島にやってきて、分社したのが五流です。修験者の開祖とさえる役行者の5人の弟子が開いた寺院が中心になっているので五流です。この修験者集団にとっての課題は、近くに行場がないことでした。山林寺院は行場の近くに開かれるのが普通ですが、社領に分社されたので霊山がないのです。そこで彼らが開山したのが伯耆大山や石鎚です。後には小豆島も行場化します。さらに熊野水軍のお先棒を担いで、瀬戸内海や九州にも活発な布教活動を展開します。そのような中で、彼らは対岸の讃岐にもかすみ(テリトリー)を形成するようになります。その教線ラインは、大川山にものびてきます。そして古代末には衰退した中寺に代わって、五流が大川山を影響下にいれたようです。その痕跡が残るのが金剛院です。

「増補三代物語」にも、大川大権現(山)のことが次のように記されています。
大山大権現社 在高山上、不知奉何神、蓋山神、若龍族也、昔阿讃土予四州人皆崇敬焉、歳六月朔祀之、大早民会鳴鐘鼓祈雨、必有霊応、祠前有小池、当祈雨之時、小蛇出渉水、須央雲起,市然大雨、旧在天台宗寺奉守、今廃、今社家主祭、或日、大川当作大山、音転訛也、所奉大山積神也(在予州、載延喜式所也)、
 寛永中生駒氏臣尾池玄蕃、蔵鉦鼓三十余枚歴年久、『申祠類敗、承応二年先君英公修之、其後焚山火、寛文十二年壬子英公更経営、元禄十二年節公巡封境見其傾類而修之、宝永六年辛丑又焚実、恵公給穀若千以興復、近年有祈雨曲、一名大川曲(州之医生片岡使有者作之、散楽者流之歌也、)、


意訳変換しておくと
大山大権現社は、大川山の山頂に鎮座する。何神を祀るか分からないが、山神や龍族を祀るのであろう。昔は阿讃土予の四国の人々の崇敬を集めていたという。六月朔の祭礼や、大干ばつの際には人々は鐘や鼓を鳴らし、降雨を祈願すると、必ず雨が降った。
 祠の前に小池があり、雨乞い祈願し雨が降る際には、小蛇が現れて水が吹き出す。するとにわかに雲が湧き、大雨となる。かつては天台宗寺奉守がいたが今は廃絶し、今は社家が祭礼を主催する。大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。
 寛永年間に、生駒家家臣の尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したが、年月が経ち多くが破損した。そこで承応二年に先君英公がこれを修繕した。その後、山火事で延焼したのを、寛文十二年に英公更が再建した。元禄十二年に節公が阿讃国境の検分の際に修理した。宝永六年には、また焼け落ちたが、恵公の寄進された穀類で興復することができた。近頃、雨乞いの時の曲を、一名大川曲ともいう。
ここから得られる情報を列挙しておきます。
①社名を「大山大権現社」と「権現」しており、修験者の霊山となっていたこと
②山神や竜神を祀る神社で、雨乞いの霊山として信仰されていたこと
③社の前に小池があり子蛇が現れると雨が降ると「善女龍王」伝説を伝えること
④かつては天台宗の別当寺が神社を管理していたこと → 中寺のこと?
⑤大川は、もともとは大山で、伊予の大山祇神の山であること
⑥生駒時代に尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したこと
⑦歴代藩主によって修理・再建が行われてきたこと
①④⑤などからは、里人から信仰を集めた霊山が、山林修行の僧侶(修験者)たちによって行場となり、そこに雨乞い伝説が「接木」されていく様子が見えてきます

中世の大川山の修験活動の中心拠点が金剛院集落にある金剛寺だったとという説を見ておきましょう。

坊集落金剛院1
金剛寺(まんのう町金剛院集落)
裏山が金華山です。ここからは中世の経塚が数多く出てきました。この集落には「空海はここに大伽藍をつくろうとした」という伝承が伝えられています。近寄ってみてみましょう。

金剛院石塔
金剛寺十三重塔(まんのう町金光院)
参道の十三重の石塔は、鎌倉時代中期に天霧石で、弥谷寺の石工達によって作られたものです。
よく似たものが白峰寺の十三重塔石塔(西塔)であることは以前にお話ししました。白峯寺や弥谷寺は、中世においては讃岐最大の山林寺院で「別院」などもあり、修験者(廻国山林修行者)の拠点でもありました。それらの寺(行場)と金光院は結ばれていたようです。

また先ほど見た裏山の金華山の頂上からは、こんな石で覆われた穴がいくつも発掘されました。
金剛院経塚2018報告書
金剛院の経塚

金剛院金華山
これが経塚の構造です。

経塚 経筒

穴を掘って石組みして、そこに経典を陶器や金銅制の筒に入れて奉納します。その際に、周囲には鏡や刀などの副葬品が埋葬されていることもあります。左が金光院の経塚からでてきた経筒です。このような経塚が金光院には何十と見つかっています。これは当時の修験者が金華山が霊場と認識していたことを示します。同時に、多くの山林修行者がここにやってきていたことが分かります。彼らは、写経して経筒を奉納するだけではありません。奉納するまでに長い修行を行って、それが成就したからこれを奉納したのです。つまり、この金剛院の周辺の山々は、行場でもあったのです。当然、大川山も行道コースの一部だったことが考えられます。

坊集落金光院2
坊集落としての金剛院集落
金剛院集落には、いまも何軒かの農家があります。その多くが藤尾坊・華厳坊・中ノ坊・別当坊と云うように坊名をもっています。これは彼らの祖先が修験者であったことを示しています。つまり、この集落にやって来た修験者たちがこの地に定着し、周辺の山野を開墾・開発してできた集落だと研究者は判断します。
「金剛院部落の仏縁地名が多いこと + 金華山が経塚群 = 金剛寺を中心とした坊集落」

 北の阿弥陀越や法師越を通って部落に入った修験者の人々がそれぞれの所縁坊に杖をとどめ、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に籠って修行を行う。そして霊山大川寺への行道を繰り返す。さらに看経や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者にことづけを残し次の霊域を目指して旅立っていく姿が見えてきます。
 さらに視野を拡げて「霊山大川山」をとりまく状況を考えてみます。

五流修験による大川山開山

児島五流修験は、周辺に行場がなかったことは先ほど触れました。そのため早くから行場を求めて各地に修験者たちが「探索活動」を行います。そして、伯耆大山や伊予石鎚などを行場化していきます。同時に、讃岐方面にも塩飽諸島の本島を足がかりに、多度津の道隆寺・白方海岸寺などに拠点地を開きます。そして、金倉川沿いの金倉寺を経て、丸亀平野の霊山大川山を大山大権現として「開山」します。そのため大山神社の由縁には、蔵王権現や役行者が登場します。また、三代記には「大川は、伊予大三島の大山祇神社の転化」とも書かれます。大山祇神社も中世には五流修験の影響力が大きかったことは以前にお話ししました。
以上を整理しておきます。

五流修験による大川山開山説

①古代の山林寺院である中寺が鎌倉時代初期には退転した
②しかし、人々の霊山大川山にたいする信仰心はなくなることはなかった
③中世になると、児島五流修験が大川山を「権現」化し、行場化した。
④熊野行者でもある五流修験は、大川権現を熊野三山に例えた
⑤そして、その北の入口を吉野、南の入口を勝浦と呼んだ
⑥コリトリ場としては、造田に天川(てんかわ)が現れ、ここで禊ぎをおこなって大川山行道に入った。
⑦このラインは、阿波街道の要衝であり勝浦や真鈴峠・二双越えなどには、修験者が定住するようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
関連記事

まんのう町金剛院が中世の修験者たちによって拓かれた「坊集落」であること、石造十三重塔が鎌倉時代末に、弥谷寺石工によって天霧石によって作成されたことを、前回までに見てきました。今回は、金剛院に残されたもう一つの手がかりである「経塚」について見ていくことにします。テキストは、次の報告書です。
金剛院経塚2018報告書
                   写真は出土した経塚S3

南方に開けた金剛院集落の真ん中にあるのが金華山です。その山に南面した金剛寺が建っています。

イメージ 7
金剛院集落の金華山と金剛寺
位置的にも金華山が霊山として信仰を集め、そこに建てられた寺院であることがうかがえます。この山の頂上には、かつては足の踏み場もないほどの経塚があったようです。経塚とは末法思想の時代がやってくるという危機感から、仏教経典を後世に伝え残すために、書写した経巻を容器に納め地中に埋納した遺跡のことです。見晴らしの良い丘や神社仏閣などの聖地とされる場所に造られます。そのため数多くの経塚が群集して発見されることも少なくありません。その典型例が讃岐では、金剛院になるようです。

金剛寺2 まんのう町

拡大して経塚のある第1テラスと第2テラスの位置を確認します。

金剛院金華山

次に、これまで発掘経緯を見ておきましょう。
金剛院経塚は今から約60年前の1962年9月に草薙金四郎氏によって最初の調査が行われました。その時には2つの経塚を発掘し、次のようなものが出土しています。
陶製経筒外容器7点
鉄製経筒   2点
和鏡     1点

金剛院経筒 1962年発掘
               陶製経筒外容器(まんのう町蔵)

この時には完全に発掘することなく調査を終えています。問題なのは、経筒発見に重きが置かれて、発掘過程がきちんと残されていません。例えば経塚の石組みなどについては何も触れていません。今になってはこの時の発掘地がどこだったのかも分かりません。その後、目で確認できる経塚からは、その都度遺物が抜き取られ本堂に「回収」されたようです。ちなみに経塚には「一番外が須恵器の外容器 → 鉄・銅・陶器などの経筒 → 経典」という順に入れられていますが、地下に埋められた経典は紙なので姿を消してしまいます。経典が中から出てくることはほとんどないようです。

古代の善通寺NO11 香色山山頂の経塚と末法思想と佐伯氏 : 瀬戸の島から
                一般的な経塚の構造と副葬品例 

 金剛院経塚の本格的な調査が始まるのは、仲寺廃寺が発掘によって明らかになった後のことです。
2012(平成23)年度から調査が始まり、次のように試掘を毎年のように繰り返してきました。
2012年度 
第2テラスのトレンチ調査で、柱穴3、土穴1、排水溝1が確認され、山側を切土して谷側に盛土して平坦面を人工的につくったテラスであることを確認
2013年度
石造十三重塔の調査・発掘が行われ、次のような事を確認。
①金剛寺造営の際に、十三重塔周辺の尾根が削られて平坦にされたこと
②両側が石材で縁取られた参道が整備されたこと
③14世紀半ばに参道東側に盛土して、弥谷・天霧山産の十三重塔が運ばれ設置されたこと
④参道と塔の一部は、その後の地上げ埋没しているが当初設置位置から変わっていないこと
合わせてこの年には、第1テラスの測量調査を行い、地上に残された石材群を16グループに分類                 
2015年度
現状記録のために検出状況を調査して、12ケ所で埋蔵物が抜き取られていることを確認
2016年度 
経塚S9の調査を行い、主体部が石室構造で、その下に別の経塚があること、つまり上下二重構造であったことを確認。
金剛院経塚第1テラスS9
 第1テラス 経塚S9(金剛院経塚:まんのう町)

金剛院経塚S9の遺物 
経塚S9(2016年度の発掘)出土の経筒外容器

経塚調査の最後になったのが2017年度で、経塚S3を発掘しています。

金剛院経塚テラスS3
       金剛院経塚・第1テラスの経塚分布と経塚グループS3の位置


金剛院経塚第1テラスS3
             第1テラス 経塚S3(金剛院経塚:まんのう町)
この時は経塚S3の調査を行い、次のような成果を得ています。
①石室に経筒外容器3点が埋葬時のまま出土
②和紙の付着した銅製経筒が出土したこと。これで紙本経の経塚であることが確定。
この時の発掘について報告書は次のように記します。
金剛院経塚出土状況4
経塚S3 平面図
金剛院経塚出土状況2
経塚S3 断面図
金剛院経塚S3発掘状況1
要約しておきます。
①経塚S3の上部石材を取り除くと、平面が円形状(直径1,4m)の石室が見えてきた。
②そこには経筒外容器が破損した土器片が多数散乱していた。
③石室内部からは、土師器の経筒外容器2点(AとB)、瓦質の甕1(C)が出てきた。

金剛院経塚1
     金剛院経塚S3から出土した外容器 土師器質のA・Bと瓦質の甕のC(後方)

この経筒外容器A・B・Cの中からは、何が出てきたのでしょうか。報告書は次のように記します。
金剛院経塚C3出土の外容器
要約しておくと
①外容器Aからは、鉄製外容器が酸化して粉末状になったものと、鉄製外容器の蓋の小片
②外容器Bからも、鉄製外容器の蓋の一部
③外容器Cの甕からは、銅製経筒が押しつぶされた状態で出てきた。その内部には微量の和紙が付着
④最初はAとCしか見えず、Bはその下にあった。つまり石室は2段の階段構造だった
          外容器Cの甕 和紙が付着した銅製経筒が出てきた
発掘すれば、これ以外にもいろいろな経筒がでてくるはずですが、初期の目的を達成して発掘調査は終わりました。ここからは経塚から出てきた遺物は中世鎌倉時代に作られたもので、金華山頂上に連綿と経塚が造られていた事が分かります。金剛院の伝承では、弘法大師が寺院を建立するための聖地を求めて、この地に建立されたとされます。聖地の金華山山頂という限られた狭い空間に、山肌が見えないほどにいくつもの経塚が造られ続けたのです。これをどう考えたらいいのでしょうか?
 比較のために以前にお話しした善通寺香色山の経塚を見ておきましょう。

DSC01066
 
 香色山山頂からは4つの経塚が発掘されています。
香色山一号経塚
香色山の経塚と副葬品
 そのうちの一号経塚は四角い立派な石郭を造り、その内部を上下二段に仕切り、下の石郭には平安時代末期(12世紀前半)の経筒が納められていて、上の石郭からはそれより遅い12世紀中頃から後半代の銅鏡や青白磁の皿が出土しました。上と下で時間差があることをどう考えたらいいのでしょうか?
 研究者はつぎのように説明します。
「2段構造の下の石郭に経筒や副納品を埋納した後、子孫のために上部に空間を残し、数十年後にその子孫が新たにその上部石郭に経筒や副納品を埋納した「二世代型の経塚」だ。

上下2段スタイルは全国初でした。先ほど見たように、金剛院経塚S3も2段構造で追葬の可能性があります。作られたのも同時代的です。善通寺と金剛院の間には、何らかの結びつきがうかがえます。
 1号経塚は上下2段構造が珍しいだけでなく、下の石郭から出土した銅製経筒は作りが丁寧で、鉦の精巧さなどから国内屈指の銅板製経筒と高く評価されています。ちなみに上の段は、盗掘されていました。しかし、下の段には盗掘者は気がつかなかったようです。そこで貴重な副葬品が数多く出てきたようです。
香色山1号経筒 副葬品
香色山1号分の埋葬品

 香色山経塚群は、平安時代後期に造られているようです。
作られた場所が香色山山頂という古代以来の「聖域」という点から、ここに経塚を作った人物については、次のような説が一般的です。

「弘法大師の末裔である佐伯一族と真言宗総本山善通寺が関わったものであることは疑いない。」

しかし、以前にお話ししたように空海の子孫である佐伯氏は本貫地を京に移し、善通寺から去っています。この時期まで、佐伯直氏一族が善通寺の経営に関わっていたとは思えません。そうであれば、もう少し早くから「善通寺=空海生誕地」を主張するはずです。
  どちらにしても世の中の混乱を1052年から末世が始まるとされる「末法思想の現実化」として僧侶や貴族は捉えるようになります。彼らが経典を写し、経筒や外容器を求め、副納品を集めて経塚を築くようになります。その心情は、悲しみや怒り、あるいは諦念で満たされていたのかも知れません。もしかしたら仏教教典を弥勒出世の世にまで伝えるという目的よりも、自分たちの支配権を取り戻すことを願う現世利益的祈願の方が強かったのかもしれません。
 私は経塚に経典を埋めた人達は、周辺の有力者と思っていたのですが、そうばかりではないようです。遙か京の有力者や、地方の有力者が「廻国行者(修験者)」に依頼して、作られたものもあるのです。その例を白峰寺(西院)に高野聖・良識が納めた経筒で見ておきましょう。
 白峰寺経筒2
白峰寺(西院)の経筒
何が書いてあるか確認します
①が「釈迦如来」を示す種字「バク」、
②が「奉納一乗真文六十六施内一部」
③が「十羅刹女 」
④が三十番神
⑤が四国讃岐住侶良識」
⑥が「檀那下野国 道清」
⑦「享禄五季」、
⑧「今月今日」(奉納日時が未定なのでこう記す)
これは白峰寺から出てきた経筒で、⑥の「檀那の下野国道清」の依頼を受けて讃岐出身の高野聖(行人)の良識が六十六部として奉納したものでであることが分かります。これは経筒を埋めたのは、地元の人間ではなく他国の檀那の依頼で「廻国の行人(修験者や聖)」が全国の聖地を渡り歩きながら奉納していたことを示すものです。これが六十六部と呼ばれる行人です。

四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から
 「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。彼らは日本国内66ケ国の1国1ケ所に滞在し、それぞれ『法華経』を書写奉納する修行者とされます。ここからは、金剛院に経塚を埋めたのも六十六部などの全国廻り、経塚を作り経典を埋めるプロ行者であったことがうかがえます。 
 そのことを金剛院の説明版は、次のように記しています。
金剛院部落の仏縁地名について考える一つの鍵は、金剛寺の裏山の金華山が経塚群であること。経塚は修験道との関係が深く、このことから金剛院の地域も、 平安末期から室町時代にかけて、金剛寺を中心とした修験道の霊域であったとおもわれる。
各地から阿弥陀越を通り、法師越を通って部落に入った修験者の人々がそれぞれの所縁坊に杖をとどめ、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に籠って、 看経や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者にことづけを残し次の霊域を目指して旅立っていった。
以上をまとめておきます。

①平安末期になると末法思想の時代がやってくるという危機感から、仏教経典を後世に伝え残すために、書写した経巻を容器に納め地中に埋納した経塚が作られるようになる。
②その場所は、見晴らしの良い丘や神社仏閣などの聖地に密集して作られることが多い。
③その例が金剛院の金華山や善通寺の香色山の山頂の経塚である。
④経塚造営の檀那は地元の有力者に限らず、全国66ヶ国の聖地に経典を埋葬することを願う六十六部や、その檀那も行った。
⑤白峰寺には、下野国の檀那から依頼された行人が収めた経筒が残されていることがそれを物語る。
⑥このような経典を聖地に埋め経塚を造営するという動きが阿弥陀浄土信仰とともに全国に拡がった。
⑦讃岐でその聖地となり、全国からの行人を集めたのが金剛院であった。
⑧こうして金華山山頂には、足の踏み場もないほどの経塚が造営され、経典が埋められた。
⑨全国からやって来る行人の中には、金剛院周辺に定着し周囲を開墾するものも現れ、「坊集落」が姿を見せるようになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 調査報告書 金剛院経塚 まんのう町教育委員会2018年
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