瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金剛頂寺

前回は曼荼羅寺が、11世紀後半に廻国の山林修験者たちの勧進活動によって復興・中興されたことを見てきました。その中で勧進聖達が「大師聖霊の御助成人」という自覚と指命をもって勧進活動に取り組んでいる姿が見えてきました。これは別の言い方をすると、「弘法大師信仰をもった勧進僧達による寺院復興」ということになります。それは現在の四国霊場に「弘法大師信仰」が接ぎ木される先例として捉えることができます。そんな思惑で、弘法大師の伝記『行状集記』に載せられている四国の3つの寺、讃岐の善通寺・曼荼羅寺と阿波の太龍寺、土佐室戸の金剛頂寺の11世紀の状況を見ていくことにします。テキストは「野中寛文 曼荼羅寺から善通・曼荼羅両寺へ」香川史学 第三〇号(H15年)」です。
この3つの寺に共通することとして、次の2点が指摘できます。
①弘法大師の建立という縁起をもっていること
②東寺の末寺であったこと
まず土佐室戸の金剛頂寺です。
室戸は、空海の口の中に光が飛び込んで来たことで有名な行場です。三教指帰にも空海は記しているので初期修行地としては文句のつけようがない場所です。この室戸岬の西側の行当岬に、空海によって建立されたのが金剛頂寺であることは以前にお話ししました。

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      金剛定(頂)寺に現れた魔物を退治する空海

その金剛定寺も11世紀になると、地方豪族の圧迫を受けるようになります。1070(延久二)年に、土佐国奈半庄の庄司が寺領を押領します。それを東寺に訴え出た解案には、次のように記されています。
右、謹案旧記、件寺者、弘法大師祈下明星初行之地、 智弘和尚真言法界練行之砌天人遊之処、 明星来影之嶺也、因茲戴大師手造立薬師仏像安二置件嶺(中略)
是以始自国至迂庶民、為仰当寺仏法之霊験、各所施入山川田畠也、乃任各施本意、備以件地利、備仏聖燈油充堂舎修理 中略……、漸経数百歳也、而世及末代 ……、修理山川田畠等被押妨領  、茲往僧等、以去永承六年十二月十三日相副本公験注子細旨、訴申本寺随本寺奏聞 公家去天喜元年二月十三日停二止他妨
意訳変換しておくと
 謹しんで旧記を見ると、当寺は修行中の弘法大師が明星のもとで初めて悟りを開いた地とされている。智弘和尚も真言法界の修行の祭には天人が遊んだともされる明星来影の聖地であるとされる。それにちなんで、弘法大師の手造りの薬師如来像を安置された。(中略)
当寺は土佐ばかりでなく、広く全国の人々からも、仏法霊験の地として知れ渡っている。各所から山川田畠が寄進され、人々の願いを受けて、伽藍を整備し、聖たちは燈油を備え、堂舎の修理を行ってきた。 中略
それが数百年の長きに渡って守られ、末代まで続けられ……、(ところが)修理のための寺領田畠が押領された。そこで住僧たちは相談して、永承六(1051)年十二月十三日に、子細を東寺へ伝え、公験を差し出した。詳しくはここに述べた通りである。本寺の願いを聞き届けられるよう願い上げる。 公家去天喜元年二月十三日停止他妨
ここからは次のようなことが分かります。
①最初の縁起伝説は、東寺長者の書いた『行状集記』とほぼ同じ内容であること。(これが旧記のこと?)
②智弘和尚の伝説からは、金剛頂寺が修行場(別院)のような寺院であったこと
③そのため廻国の修行者がやってきて、室戸岬との行道修行の拠点施設となっていたこと
④金剛頂寺の寺領は、さまざまな人々から寄進された小規模な田畠の集まりであったこと。
⑥金剛頂寺が、庄司からの圧迫を防ぐために、東寺に寺地の公験を差出したのは、1051(永承六)年のこと

公験とは?

全体としては、「空海の初期修行地」という特性をバックに、東寺に向かって「何とかしてくれ」という感じが伝わっています。
①からは、これを書いた金剛頂寺の僧侶は、東寺長者の書いた『行状集記』を呼んでいることが裏付けられます。①②からは、室戸という有名な修行地をもつ金剛頂寺には、全国から山林修行者がやってきていたこと。しかし、寺領は狭くて経済基盤が弱かったことが④からはうかがえます。『行状集記』の金剛頂寺の伝説には、有力な信者がいないために、沖を往来する船舶にたいして「乞食行」が公認されていたという話が載せられていて、経済基盤の弱さを裏付けます。⑥の公験を差し出すと云うことは「末寺化=荘園化」を意味します。
ところが金剛頂寺では、これ以後は寺領が着実に増えていきます。その背景には、当時四国でもさかんになってきた弘法大師信仰が追い風となったと研究者は考えています。それが寺領・寺勢の発展をもたらしたというのです。それは後で見ることにして・・・。
4大龍寺16
太龍寺
次に、阿波国太龍寺を見ておきましょう。
1103(康和五)年8月16日の太龍寺の所領注進には、次のように記されています。
抑当山起、弘法大師之初行霊山也、……、於東寺別院既以数百歳、敢無他妨哉、 兼又勤仕本寺役耳、

意訳変換しておくと
そもそも当寺は、弘法大師の初修行地の霊山で・・東寺の別院として数百年の年月を経ている

大瀧寺も『行状集記』の「弘法大師之初行霊山也」以下の記述を、縁起に「引用」しています。この寺ももともとは、行場にやってきた山林修験者たちが宿泊する「草庵」から出発して、寺に発展してきたようです。
大瀧寺は、阿波国那賀郡加茂村の山の中にあります。
寺の周辺を寺域として、広い山域を占有していたことようで、注進文書では寺域内の荒野開発の承認を求めています。そして開発地を含む寺領の免租(本寺役のみの勤任)を、本寺の東寺にたいして要請しています。ここでも、それまでの庵や坊から寺に脱皮していくときに、東寺に頼っています。

 前回見た讃岐の曼荼羅寺と、今見てきた阿波国大瀧寺、土佐国金剛定寺の3つの寺は、「空海の初期修行地」とされ、そこに庵や坊が誕生していきます。そのためもともとの寺の規模は小さく、寺領も寺の周りを開墾した田畑と、わずかな寄進だけでした。それが寺領拡大していくのは、11世紀後半になってからで、その際に東寺の末寺となることを選んでいます。末寺になるというのは、経済的な視点で見ると本寺の荘園になるとも云えます。そして、本寺の東寺に対して、なにがしらの本務を担うことになります。
           
東寺宝蔵焼亡日記
          東寺宝蔵焼亡日記(右から6行目に「讃岐国善通寺公験」)

東寺百合文書の中に『東寺宝蔵焼亡日記』があります。

この中の北宝蔵納置焼失物等という項に「諸国末寺公験丼荘々公験等」があります。これは長保2(1000)年の火災で焼けた東寺宝蔵の寺宝目録です。これによると11月25日夜、東寺の北郷から火の手が上がり南北両宝蔵が類焼します。南宝蔵に納められていた灌頂会の道具類は取り出されて焼失を免れましたが、北宝蔵の仏具類のほか文書類が焼失しました。焼失した文書の中に讃岐国善通寺などの「諸国末寺公験并庄庄公験等」があったようです。
ここからは次のようなことが分かります。
①平安時代の東寺は、重要な道具類や文書・記録類は宝蔵に保管されていたこと
②讃岐国善通寺が東寺に公験を提出していたこと。
③阿波国大瀧寺、土佐国金剛定寺の公験はないこと。
つまり、善通寺はこの時点で東寺の末寺になっていたことが、太龍寺と金剛頂寺は末寺ではなかったことになります。両寺は縁起などには古くから東寺の末寺・別院であることを自称していました。しかし、本山東寺には、その記録がないということです。これは公験を預けるような本末関係にまでには、なってなかったことになります。金剛頂寺や大瀧寺が、東寺への本末関係を自ら積極的にのぞむようになるのは、11世紀後半になってからのようです。その背景として、弘法大師信仰の地方への拡大・浸透があったと研究者は考えています。
「寺領や寺勢の拡大のためには、人々の間に拡がってきた弘法大師信仰を利用するのが得策だ。そのためには、真言宗の総本山の東寺の末寺となった方が何かとやりやすい」と考えるようになってからだとしておきます。その際に、本末関係の縁結び役を果たしたのが弘法大師関連の伝説だったというのです。そのような視点で曼荼羅寺の場合を見ていくことにします。
曼荼羅寺の縁起について、1164(長寛二)年の善通・曼荼羅両寺所司の解には、次のように記されています。(意訳)
善通寺は、弘法大師の先祖の建立で、約五百年を経ており、弘法大師自作の薬師仏、自筆の金光明妙文、五筆額を安置する。曼茶羅寺は、大師入唐ののちに建立され、大師自作の七体の諸尊像を納める。


これによると、善通寺は佐伯氏の氏寺であり、曼茶羅寺は、空海建立とします。ふたつの寺が「善通・曼茶羅両寺」として並称され、一体視されるのは、応徳年間(1084年ごろ)以後のようです。それまでは、別々の寺でした。
 善通寺は、十世紀末には東寺の末寺となっていたことは、さきほど見たように公験が東寺に納められていることで裏付けられます。しかし、この時点では曼茶羅寺の名はまだ出てきません。善通寺は佐伯氏の氏寺だったので、そこから寄進された田畑があって、まとまった寺領があったのかもしれません。そのために寺領維持のために、早い時期に東寺の末寺となったことが考えられます。
 
 曼茶羅寺はもともとは、吉原郷を拠点とする豪族の氏寺だったと私は考えています。その根拠を以下の図で簡単に述べておきます。

旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
善通寺王国の旧練兵場遺跡
旧練兵場遺跡 銅剣出土状況

上の青銅器の出土の集中から旧練兵場遺跡がその中心で、ここに善通寺王国があったと研究者は考えています。しかし、その周辺を見ると善通寺とは別の勢力が我拝師山の麓の吉原エリアにはいたことがうかがえます。
青龍古墳1
青龍古墳(吉原エリアの豪族の古墳)

さらに、古墳時代になっても吉原エリアの豪族は、青龍古墳を築いて、一時的には善通寺エリアの勢力を圧倒する勢いを見せます。古墳時代後期になって、善通寺勢力は横穴式古墳の前方後円墳・王墓山や菊塚を築きますが、吉原エリアでも巨石墳の大塚池古墳を築造する力を保持しています。この勢力が律令国家になっても郡司に準ずる地方豪族として勢力を保持し続けた可能性はあります。そうすれば自分の氏寺を吉原に築いたことは充分に考えられると思います。その豪族が氏寺として建立したのが「曼荼羅寺」の最初の形ではなかったのかという説です。「原曼荼羅寺=吉原氏の氏寺説」としておきます。

青龍古墳 編年表
丸亀平野の古墳変遷
 弥生・古墳時代を通じて、吉原エリアは、善通寺勢力とは別の勢力がいたこと、その勢力が氏寺として建立したのが曼荼羅寺の原型という説になります。律令体制の解体と共に、吉原を基盤とする豪族が没落すると、その氏寺も退転します。地方の豪族の氏寺の歩む道です。しかし、曼荼羅寺が違っていたのは、背後に我拝師山を盟主とする霊山(修行地)を、持っていたことです。これは弘法大師信仰の高まりととともに、空海幼年期の行場とされ、山林修行者にとっては聖地とされていきます。ある意味では、先ほど見た土佐国金剛定(頂)寺、阿波国大瀧(龍)寺と同じように廻国の聖達から見られたのかも知れません。
 曼荼羅寺は、前回見たように11世紀後半には退転していました。それを復興させたのは廻国の山林修行者だったことはお話ししました。そういう意味では11世紀半ばというのは、曼荼羅寺にとっては、地方豪族の氏寺から山林修行者の拠点への転換期だったと云えるのかもしれません。以上をまとめておくと
        
曼荼羅寺の古代変遷

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「野中寛文 曼荼羅寺から善通・曼荼羅両寺へ」香川史学 第三〇号(H15年)」
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行当岬不動岩の辺路修行業場跡を訪ねて

   前回お話ししたように行場は孤立したものではなく、一定の行が終わると次の行場へと移っていくものでした。修行地から次の修行地へのルートが辺路と呼ばれ、四国辺路へとつながっていくと研究者は考えているようです。今回は古代・中世の四国辺路とはどんなものであったのかを史料で見ていくことにします。テキストは、「武田和昭  四国の辺地修行  四国へんろの歴史10P」です。

12世紀前半に作られた『今昔物語集』には仏教説話がたくさん収録されています。その中には四国での辺路修行を伝える物もあります。『今昔物語集』31の14、「通四国辺地僧行不知所被打」は、次のように始まります。

今昔、仏の道を行ける僧、三人伴なひて、四国の辺地と云は、伊予・讃岐・阿波・土佐の海辺の廻也、其の僧共、其(そこ)を廻けるに、思ひ懸けず山に踏入にけり。深き山に迷ひにければ、海辺に出む事を願ひけり。

意訳変換しておくと
 今は昔、仏道の修行をする僧が三人、四国の辺地である伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺を巡っていた。この僧たちがある日道に迷い、思いがけず深い山の中に入り込んでしまい、浜辺に出られなくなってしまった。

 ここには「仏道の修行をする僧」が、四国の辺地である伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺を巡っている姿が記されています。

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後白河法皇撰『梁塵秘抄』巻2の300には、次のように記されています。  
 われらが修行せしやうは、忍辱袈裟をば肩に掛け、又笈を負ひ、衣はいつとなくしほたれて、四国の辺地をぞ、常に踏む

板笈(いたおい)とは? 意味や使い方 - コトバンク
笈(おい)と修行者
ここからは、笈を背負つた修行者がその衣を潮水に濡らしながら、四国の海辺の道を巡り、次の修行地をめざしている姿が記されています。確かに阿波日和佐の薬王寺を打ち終えて、室戸へ向かう海岸沿いの道は、海浜の砂浜を歩いていたようです。太平洋から荒波が打ち寄せる海岸を、波に打たれながら、砂に足を取られながらの難行の旅を続ける姿が見えてきます。
『梁塵秘抄』巻2の298には、次のようにも記します
聖の住所はどこどこぞ
大峯  葛城  石の槌(石鎚)
箕面よ 勝尾よ 播磨の書写の山
南は熊野の那知  新官
ここには、畿内の有名な山岳修行地とともに石の鎚(石鎚山)があげられています。石鎚山も古くから修験者の行場であったことが分かります。ちなみに石鎚山と並ぶ阿波剣山の開山は近世後期で、それまでは修験者たちの信仰対象でなかったことは、以前にお話ししました。
続いて『梁塵秘抄』巻2の310には、次のように記します。
四方の霊験所は
伊豆の走湯  信濃の戸隠  駿河の富士の山
伯者の大山  丹後の成相とか
土佐の室戸  讃岐の志度の道場とこそ聞け
ここには、四国の霊山はでてきません。出てくるのは、土佐の室戸と讃岐の志度の海の道場(行場)です。修験者の「人気行場リスト」には、霊山とともに海の行場があったことが分かります。
それでは「海の行場」では、どんな修行が行われていたのでしょうか
 海の行場を見る場合に「補陀落信仰」との関係が重要になってくるようです。「補陀落信仰」の行場痕跡が残る札所として、室戸岬の24番最御崎寺、足摺岬の38番金剛福寺、そして補陀落山の山号を持つ86番志度寺を見ていくことにします。
 補陀落信仰とは『華厳経』などに説かれる観音信仰のひとつです。善財童子が補陀落山で観音菩薩に出会ったとされます。ここから補陀落山が観音菩薩の住む浄土で、それは南の海の彼方にあるとされました。玄奘の西域の中には、補陀落山という観音浄土は、南インドの海上にあるとされています。それが、中国に伝わってくると、普(補)陀落は中国浙江省舟山群島の島々だとされ、観音信仰のメッカとなります。これが日本では、熊野とされるようになります。
 『梁塵秘抄』巻第2の37に、次のように記されています。

「観音大悲は船筏、補陀落海にぞ うかべたる、善根求める人し有らば、来せて渡さむ極楽へ」

ここからは観音浄土の補堕落へ船筏で渡海するための聖地が、各地に現れていたことが分かります。その初めは、熊野三山の那智山でした。平安時代後期になると阿弥陀の極楽浄土や弥勒の都率浄土などへの往生信仰が盛んになります。それにつれて観音浄土への信仰も高まりをみせ、那智山が「補陀落山の東の門」の入口とされます。そのため、多くの行者が熊野那智浦から船筏に乗って補陀落渡海します。これが四国にも伝わります。
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観音浄土めざしての補陀落渡海
補堕落渡海の場所として選ばれたのは、大海に突きだした岬でした。
その点では、四国の室戸と足摺は、補堕落渡海のイメージにぴったりとする場所だったのでしょう。34番札所の最御崎寺が所在する室戸崎に御厨洞と呼ばれる大きな洞窟があります。ここは空海修行地として伝えられ、当時から有名だったようです。『梁塵秘抄』巻2の348には「‥・御厨の最御崎、金剛浄土の連余波」とあるので、平安時代後期には、霊場として名が知られていたことが分かります。
 『南路志』には、次のように記されています。

「補陀落山に通じて、常に彼の山に渡ることを得ん、窟内にまた本尊あり、西域光明国如意輪馬璃聖像なり」

ここからは室戸の洞窟が、補陀落山への人口と考えられていたことが分かります。ここにはかつて石造如意輪観音が安置されていました。

室戸 石造如意輪観音
如意輪観音半跏像(国重要文化財 最御崎寺)

この観音さまを「平安時代後期の優美な像で、異国の補陀落を想起させるには、まことにふさわしい像」と研究者は評します。この如意輪観音像は澄禅『四国辺路日記』には、御厨洞に安置されていたことが記されていて、補陀落信仰に関わるものと研究者は考えています。
 室戸は、以前にお話ししたように空海修行地として有名で、修験者には人気の行場だったようです。そこで行われたのは「行道」でした。行道とは、どんなことをしたのでしょうか?
① 神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる本の周りを一日中、何十ぺんも回るのも行道。(小行道)
② 円空は伊吹山の「平等(行道)岩」で、百日の「行道」を行っている。
③ 「窟籠もり、木食、断食」が、行道と併行して行われる場合もある。
④ 断食をしてそのまま死んでいく。これが「入定」。
⑤ 辺路修行終了後に、観音菩薩浄土の補陀落に向かって船に乗って海に乗り出すのが補陀落渡海
  一つのお堂をめぐったり、岩をめぐるのが「小行道」です。
小さな山があると、山をめぐって行道の修行をします。室戸岬の東寺と西寺の行道岩とは約12㎞あります。この間をめぐって歩くような行道を「中行道」と名づけています。四国をめぐるような場合は「大行道」です。こうして、行道を重ねて行くと、大行道から四国遍路に発展していくと研究者は考えているようです。

 室戸岬で行われていた「行道」について、五来重は次のように記します。
室戸の東寺・西寺
① 室戸には、室戸岬に東寺(最御崎寺)、行当岬に西寺(金剛福寺)があった。
② 西寺の行当(道)岬は、今は不動岩と呼ばれている所で、そこで「小行道」が行われていた。
③ 西寺と東寺を往復する行道を「中行道」、不動岩(行当(道)岬)の行道が「小行道」。
④ 行道の東と西と考えて東寺・西寺と呼ばれ、平安時代は東西のお寺を合わせ金剛定寺と呼んでいた。
 密教では金胎両部一体だと言葉では言われます。それを辺路修行では、言葉や頭でなく躰で実践します。それは実際に両方を命がけで歩いて行道するのが修行です。こうして、西寺を拠点に行道岬に行って、金剛界とされる不動岩の周りを何百回も真言を唱えながら周り、さらには、不動明王の見守る中で海に向かって瞑想する。これを何日も繰り返す。これが「小行道」だったと研究者は考えています。さらに「中行道」は、東寺(最御崎寺)との間を何回も往復「行道」することになります。
   東寺では窟を修行の場所にして、洞窟をめぐったと考えられます。洞穴を胎蔵界、突き出たような岩とか岬とか山のようなところを金剛界とします。男と女というように分けて、両方をめぐることによって、金剛界・胎蔵界が一つになるのが金胎両部の修行です。
    
 弘法大師行状絵詞に描かれた空海の修行姿を見ておきましょう。

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金剛定(頂)寺に現れた魔物たちと瞑想中の空海
詞書には次のように記します。
  室戸岬の30町(3,3㎞)ほど西に、景色の良い勝地があった。大師は行道巡りのために室戸岬とここを往復し、庵を建てて住止していたが、宿願を果たすために、一つの伽藍を建立し、額を金剛定寺と名けた。ところがここにも魔物が立ち現れて、いろいろと悪さをするようになった。そこで大師は、結界を張って次のように言い放った。
「我、ここにいる間は、汝らは、ここに近づくな」
 そして、庭に下りると大きな楠木の洞に御形代(かたしろ=祈祷のための人形)を掘り込んだ。そうすると魔類は現れなくなった。この楠木は、今も枝繁く繁茂しているという。その悪魔は、土佐の足摺岬に追い籠めらたと伝へられる。大師は、土佐の悪魔を退散させ自分の姿を樹下に残して、勝利の証とした。仏陀の奇特を疑う者はいない。祖師の霊徳を尊びたい。
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楠に仏を彫り込む空海

ここには、室戸での修行のために金剛定寺を建立したとあります。ここからは行場が室戸岬で、寺と行場は遠く離れたところにあったことが分かります。金剛定寺と室戸岬を行道し、岩籠もりを行っていたことがうかがえます。
  辺路修行では、修行の折り目折り目には、神に捧げるために不滅の聖なる火を焚きました。五来重の説を要約すると次のようになります。
① 阿波の焼山寺では、山が焼けているかとおもうくらい火を焚いた。だから焼山寺と呼ばれるようになった。焼山寺が辺路修行の聖地であったことをしめす事例である。
②  室戸岬でも辺路修行者によって不滅の火が燃やされた。そこに、後に建立されたのが東寺。
③ 聖火は、海のかなだの常世の祖霊あるいは龍神に捧げたもの。後には観音信仰や補陀落伝説と結びついた。
④ これが後の山伏たちの柴灯護摩の起源になる。
⑤ 山の上や岬で焚かれた火は、海民たちの目印となり、燈台の役割も果たし信仰対象にもなる。
⑥  辺路の寺に残る龍燈伝説は、辺路修行者が燃やした火
⑦ 柳田国男は「龍燈松伝説」で、山のお寺や海岸のお寺で、お盆の高灯龍を上げるのが龍燈伝説のもとだとしているが、これは誤り。
こうした行を重ねた後に、観音菩薩の浄土とされる南方海上に船出していったのです。
根井浄 『観音浄土に船出した人びと ― 熊野と補陀落渡海』 (歴史文化ライブラリー) | ひとでなしの猫

 足摺岬の38番金剛福寺にも補陀落信仰の痕跡が残ります。
この寺には嵯峨天皇の勅額とされる「補陀落東門(補阿洛東門ふだらくとうもん)」が残されています。

金剛福寺 補陀落門
勅額とされる補陀落東門
これは、弘仁13年(822)に、空海が金剛福寺を開創した当時に嵯峨天皇より賜ったものと伝えられます。
また『土佐国雌陀山縁起』(享禄五年:1532)の金剛福寺の縁起は、次のように記します。

平安時代中期の長保年間(999~04)頃に賀東上人が補陀落渡海のために難行、苦行の末に徳を積んで、その時をまっていた。ところが弟子の日円坊が奇瑞によって、先に渡海してしまった。上人は五体投地し涙を流したと

 ここからも足摺岬が補陀落渡海のための「辺路修行地」であったことが分かります。
 鎌倉時代の『とわずがたり』の乾元元年(1302)は次のように記します。
かの岬には堂一つあり。本尊は観音におはします。隔てもなく坊主もなし、ただ修行者、行かきかかる人のみ集まりて、上もなく下もなし。
ここからは、この頃の足招岬(金剛福寺)が観音菩薩が安置される本堂があるだけで、それを管理する住職も不在で、修行者や廻国者が修行を行う行場だったことが分かります。
その後、南北朝時代の暦応五年(1342)に現本尊が造立されます。

木造千手観音立像及び両脇侍立像(県⑨) - 土佐清水市

千手観音立像(秘仏)
檜材による寄木造りで、平成の修理の際に像内から発見された墨書銘から暦応5年(1342)の作と断定。
この本尊は熊野の補陀落山寺と同じ三面千手観音です。

補陀洛山寺(ふだらくせんじ) 和歌山県東牟婁(むろ)郡那智勝浦町 | 静地巡礼
補陀落山寺の三面千手観音
ここからは、熊野行者によって補陀落信仰が持ち込まれたことがうかがえます。こうして、足摺岬には補陀落渡海を目指す行者が集まる修行地になっていきます。このため中世には足摺岬周辺には、修験者たちが色濃く分布し、独自の宗教圏を形作って行くようになります。その中から現れるのが南光院です。南光院は、戦国時代に長宗我部元親のブレーンとなって、讃岐の松尾寺金光院(金毘羅大権現)の管理運営を任されます。
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志度寺の扁額「補陀落山」
86番札所の志度寺は、山号を「補陀落山」と称しています。
しかし、この寺が補堕落渡海の修行地であったことを示す直接的な史料はないようです。
『志度道場縁起文」7巻の内の『御衣本縁起』の冒頭部分を見ておきましょう。
近江の国にあった霊木が琵色湖から淀川を下り、瀬戸内を流れ、志度浦に漂着し、推古天皇33年の時に、凡菌子尼法名智法が草庵に引き入れ安置した。その後、24・5歳の仏師が現れ、霊木から一日の内に十一面観音像を彫りあげた。その時、虚空から「補陀落観音やまします」という大きな声が2度すると、その仏師は忽然と消えた。この仏像を補陀落観音として本尊とし、一間四面の精合を建立したのが志度寺の始まりである。この仏師は土師黒王丸で、閻魔大王の化身でぁり、薗子尼は文殊書薩の化身であった。

P1120221志度寺 十一面観音
志度寺の本尊十一面観音
ここからは、志度寺本尊の十一面観音が補陀落信仰と深く結びついていいることが分かります。しかし、この志度浦から補陀落渡海を行った記録は見つかっていないようです。
P1120223
          志度寺の本尊十一面観音
  以上、補陀落渡海の痕跡を残す四国の行場と四国霊場の関係を見てきました。これ以外にも、讃岐には海上に筏を浮かべて瞑想修行を行っていた修行者がいたことを伝える記録が、いくつかの霊場札所に残っています。例えば、空海誕生地説の異説を持つ海岸寺(多度津町白方)や、宇多津の郷照寺などです。これらと補陀落渡海とを直接に結びつけることは出来ないかも知れませんが、海での修行の一つの形態として、突き出た半島の岩壁の上なども、行場の最適地とされていたことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田和昭  四国の辺地修行  四国へんろの歴史10P」
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前回は、大学中退後の空海が正式に得度し、修行生活に入ったと絵巻物には書かれていることを見ました。平城京の大学をドロップアウトして、沙門として山林修行に入った空海のその後は、絵巻ではどのように描かれているのでしょうか。今回は空海の山林修業時代のことを見ていきます。舞台は、四国の阿波の太龍寺と土佐の室戸岬です。
まず、山林修行のことが次のように記されます

〔第二段〕空海の山林修行について
大師、弱冠のその上、章塵(ごうじん)を厭ひて饒(=飾)りを落とし、経林に交はりて色を壊せしよりこの方、常しなへに人事を擲って世の煩ひを忘れ、常に幽閑を栖(すまい)として寂黙を心とし給ふ。
山より山に入り、峰より峰に移りて、練行年を送り、薫修日を重ぬ。暁、苔巌の険しきを過ぐれば、雲、経行の跡を埋み、夜、羅洞の幽(かす)かなるに眠れば、風、坐禅の窓を訪ふ。煙霞を舐めて飢ゑを忘れ、鳥獣に馴れて友とす。
意訳変換しておくと
大師は若い頃に、世の中の厭い避けて、出家して山林修行の僧侶の仲間に入って行動した。人との交わりを絶って世間の憂いを忘れ、常に奥深い山々の窟や庵を住まいとして、行道と座禅を行った。
山より山に入り、峰より峰に移り、行く年もの年月の修行を積んだ。
 夜明けに苔むす巌の険しい行道を過ぎ、雲が歩んできた道跡を埋める。夜、窟洞に眠れば、風が坐禅の窓を訪ねてくる。煙霞を舐めて餓を忘れ、鳥獣は馴れてやがて友とする。
  ここからは、空海が山林修行の一団の中に身を投じて、各地で修行を行ったことが記されています。

   当時の行者にとって、まず行うべき修行はなんだったのでしょう?
 それは、まずは「窟龍り」、つまり洞窟に龍ることです。
そこで静に禅定(瞑想)することです。行場で修行するという事は、そこで暮らすということです。当時はお寺はありません。生活していくためには居住空間と水と食糧を確保する必用があります。行場と共に居住空間の役割を果たしたのが洞窟でした。阿波の四国霊場で、かつては難路とされた二十一番の太龍寺や十二番の焼山寺には龍の住み家とされる岩屋があります。ここで生活しながら「行道」を行ったようです。そのためには、生活を支えてくれる支援者(下僕)を連れていなければなりません。室戸岬の御蔵洞は、そのような支援者が暮らしたベースキャンプだったと研究者は考えているようです。ここからすでに、私がイメージしていた釈迦やイエスの苦行とは違っているようです。

 行道の「静」が禅定なら、「動」は「廻行」です。
神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる本の周りを一日中、何十ぺんも回ります。修行者の徳本上人は、周囲500メートルぐらいの山を三十日回ったという記録があります。歩きながら食べたかもしれません。というのは休んではいけないからです。
 円空は伊吹山の平等岩で行道したということを書いています。
「行道岩」がなまって現在では「平等岩」と呼ばれるようになっています。江戸時代には、ここで百日と「行道」することが正式の行とされていたようです。空海も阿波の大瀧山で、虚空蔵求聞持法の修行のための「行道」を行い、室戸岬で会得したのです。

それを絵詞は次のように記します。
或は、阿波の大滝の岳に登り、虚空蔵の法を修行し給ひしに、宝創(=剣)、壇上に飛び来りて、菩薩の霊応を顕はし,件の例〈=剣〉、彼の山の不動の霊窟に留まれり)、

意訳変換しておくと
あるときには、阿波の大瀧山に登り、虚空蔵の法を修行していると、宝創(=剣)が壇上に飛んできた。これは菩薩の霊感の顕れで、この時の剣は、いまも大瀧山の不動の霊窟にあるという。
DSC04627
大瀧山の不動霊窟で虚空蔵法を念ずる空海と 飛来する宝剣

空海の前の黒い机には、真ん中に金銅の香炉、左右に六器が置かれています。百万回の真言を唱えれば、一切のお経の文句を暗記できるという行法です。合掌し瞑想しながら一心に真言を唱える空海の姿が描かれます。
  雲海が切れて天空が明るなります。すると雲に乗った宝剣が飛んできて空海の前机に飛来しました。空海の唱えた真言が霊験を現したことが描かれます。雲海の向こう(左)は、室戸に続きます。
室戸での修行
或は、土佐(=高知県)の室戸の崎に留まりて、求聞持の法を観念せしに、明星、口の中に散じ入りて、仏力の奇異を現ぜり。則ち、かの明星を海に向かひて吐き出し給ひしに、その光、水に沈みて、今に至る迄、闇夜に臨むに、余輝猶簗然たり。大凡、厳冬深雪の寒き夜は、藤の衣を着て精進の道を顕はし、盛夏苦熱の暑き日は、穀漿を絶ちて懺悔の法を凝らしまします事、朝暮に怠らず、歳月稍(ややも)積もれり。
意訳変換しておくと
 土佐(高知県)の室戸岬に留まり、求聞持の法を観念していた。その時に明星が、口の中に飛んで入り、仏力の奇異を体で感じた。しばらくして、明星を海に向かひて吐き出すと、波間に光が漂いながら沈んでいった。しかし、燦然と輝く光はいつまでも輝きを失わない。闇夜に、今も輝き続けている。厳冬の深雪の寒い夜でも、藤の衣を着て精進の道を励み、盛夏苦熱の暑き日は、穀類を絶って木食を行って、懺悔法を行うことを、朝夕に怠らず、修練を積んだ。

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 画面は右の太龍寺の霧の海からは、左の土佐室戸へとつながっています。 大海原は太平洋。逆巻く波濤を前に望む岬の絶壁を背にして瞑想するのが空海です。拡大して見ましょう。
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幾月もの行道と瞑想の後、明星が降り注いだと思うと、その中の星屑の一つが空海の口の中にも飛び込んで来ました。空海の口に向かって、赤い流星の航跡が描かれています。このような奇蹟を身を以て体感し悟りに近づいていきます。ここまではよく聞く話ですが、次の話は始めて知りました。
〔第三段〕  空海 室戸の悪龍を退散させる 
室戸の崎は、南海前に見え渡りて、高巌傍らに峙(そばだ)てり。遠く補陀落を望み、遥かに鐵(=鉄)囲山を限りとせり。松を払う峯(=峰)の嵐は旅人の夢を破り、苔を伝ふ谷の水は隠士の耳を洗ふ。村煙渺々(びょうびょう)として、水煙茫々たり。呉楚東南に折(↓琢)く、乾坤日夜に浮かぶ」など言ふ句も、斯かる佳境にてやと思ひ出でられ侍り。大師、この湖を歴覧し給ひしに、修練相応の地形なりと思し召し、やがて、この所に留まりて草奄(庵)など結びて行なひ給ひしに、折に触れて物殊に哀れなりければ、我が国の風とて三十一字を斯く続け給ひけるとかや。
法性の室戸と聞けど我が住めば
 有為の波風寄せぬ日ぞなき
又、夜陰に臨むごとに、海中より毒竜出現し、異類の形現はれ来りて、行法を妨げむとす。大師、彼等を退けむが為に、密かに呪語を唱へ、唾を吐き出し給ふに、四方に輝き散じて、衆星の光を射るが如くなりしかば、毒竜・異類、悉くに退散せり。その唾の触るヽ所、永く海浜の沙石に留まりて、夜光の珠の如くして、昏(くら)き道を照らすとなむ。
意訳変換しておきます。
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海の中から現れた毒龍 
室戸岬の先端は太平洋を目の前にして、後に絶壁がひかえる。遠くに観音菩薩の住む補陀落を望み、その遥かに鉄囲山に至る。松を払うように吹く峰の嵐は、旅人の夢を破り、苔をつたう谷の水は行者の耳を洗ふ。村の煙が渺々(びょうびょう)とあがり、水煙は茫々と巻き上がる。
 思わず「呉楚東南に折(↓琢)く、乾坤日夜に浮かぶ」などという句も浮かんでくる。
 空海は室戸周辺を見てまわり、修行最適の地として、しばらくここに留まり修行をおこなうことにした。この周辺は、何を見ても心に触れるものが多く、三十一字の句も浮かんでくる。
   法性の室戸と聞けど我が住めば
         有為の波風寄せぬ日ぞなき
 浜辺の松が、強い海風にあおられて枝が折れんばかりにたわむ。海は逆巻く怒濤となって押し寄せる。そして夜がくるごとに、海中より毒竜がいろいろな異類の姿で現はれて、大師の行法を妨げようとする。そこで大師は、密かに呪語を唱へて、唾を吐き出した。すると四方に輝き散じて、あまたの星の光をのように飛び散り、毒竜・異類は退散した。その唾が触れた所は、海浜の沙石に付着して、夜光の珠のように、暗い道を道を照らしていたという。
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現れた毒龍や眷属に向かって、空海は一心不乱に呪文を唱え、目を見開き海に向かって唾を吐き出します。唾は星の光のように、辺りに四散します。すると波もやみ静かになります。見ると毒龍や異類も退散していました。
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毒龍に向かって唾を吐き出す空海

ここでは「陰陽師」と同じように、祈祷師のようなまじないで毒龍や悪魔を退散させます。まさにスーパーヒーローです。
次は場面を移して、金剛頂寺です。
〔第四段〕
室戸の崎の傍らに、丹有余町を去りて勝地あり。大師、雲臥(うんが)の便りにつきて草履の通ひを為し、常にこの制に住み給ひし時、宿願を果たさむが為に、 一つの伽藍を立てられ、額を金剛定寺と名け給へり。此の所に魔縁競ひ発りて、種々に障難を為しけり。大師、則ち、結界し給ひて、悪魔と様々御問答あり。
「我、こヽに在らむ限りは、汝、この砌に臨むべからず」
と仰せられて、大なる楠木の洞に御形代(かたしろ)を作り給ひしかば、其の後永く、魔類競ふ事なかりき。彼の楠木は、猶栄へて、枝繁く葉茂して、末の世迄、伝はりけり。その悪魔は、同国波多の郡足摺崎に追ひ籠めらると申し伝へたり。
 昔、釈尊、月氏の毒龍を降し給ふ真影を窟内に写して、隠山の奇異を示し、今、大師、土州(土佐)の悪魔を退くる影像を樹下に残して、古今の勝利を施し給ふ。何ぞ、唯、仏陀の奇特を怪しまむ。尤も、又、祖師の霊徳を尊むべき物をや。
  意訳変換しておくと

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金剛定(頂)寺に現れた魔物や眷属達
室戸岬の30町(3,3㎞)ほど西に、景色の良い勝地があった。大師は行道巡りのために室戸岬とここを往復し、庵を建てて住止していたが、宿願を果たすために、一つの伽藍を建立し、額を金剛定寺と名けた。ところがここにも魔物が立ち現れて、いろいろと悪さをするようになった。そこで大師は、結界を張って次のように言い放った。
「我、ここにいる間は、汝らは、ここに近づくな」
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 そして、庭に下りると大きな楠木の洞に御形代(かたしろ=祈祷のための人形)を掘り込んだ。そうすると魔類は現れなくなった。この楠木は、今も枝繁く繁茂しているという。
その悪魔は、土佐の足摺岬に追い籠めらたと伝へられる。
 大師は、土佐の悪魔を退散させ自分の姿を樹下に残して、勝利の証とした。仏陀の奇特を疑う者はいない。祖師の霊徳を尊びたい。
ここには、室戸での修行のために 西方20㎞離れた所に金剛定寺を建立したとあります。ここからは行場が室戸岬で、寺はそこから遠く離れたところにあったことが分かります。金剛定寺と室戸岬を行道し、室戸岬で座禅するという修行が行われていたことがうかがえます。
 絵詞に描かれた金剛頂寺は、壁が崩れ、その穴から魔物が空海をのぞき込んでいる姿が描かれています。退廃した本堂に空海は住止し、日夜の修行に励んだと記されます。
五来重氏は、この金剛定(頂)寺が金剛界で、行場である足摺岬が奥の院で胎蔵界であったとします。そして、この両方を毎日、行道することが当時の修行ノルマであったと指摘します。もともとは金剛頂寺一つでしたが、奥の院が独立し最御崎寺となり、それぞれが東寺、西寺と呼ばれるようになったようです。この絵詞で舞台となるのは西の金剛頂寺です。

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 空海の修行するお堂の周りに、有象無象の魔物が眷属を従えてうごめいています。そこで、空海は修行の邪魔をするな、この決壊の中には一歩も入るな」と威圧します。そして、空海がとった次の行動とは?
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 庭先の大きな楠の下にやってきます。この老樹には大きな洞がありました。大師は、ここに人形を彫り込めます。一刻ほどすると、そこには大師を写した人形(真影)が彫り込まれていました。以後、魔物は現れませんでした。という伝説になります。これは、金剛頂寺にとっては、大きなセールスポイントになります。
 これに続けと、他の札所もいろいろな「空海伝説」を創り出し、広めていくことになります。江戸時代になるとそれは、寺にとっては大きな経営戦略になっていきます。

今回紹介した大師の修行時代を描いた部分は、「史実の空白部分」で謎の多い所です。
それをどのように図像化するかという困難な問題に、向き合いながら書かれたのがこれら絵巻になります。見ているといつの間にか、ハラハラどきどきとしてくる自分がいることに気づきます。ある意味、ここでは空海はスーパーマンとして描かれています。毒龍などの悪者を懲らしめる正義の味方っです。勧善懲悪の中のヒーローとも云えます。それが「大師信仰」を育む源になっているような気もしてきました。作者はそれを充分に若手いるようです。他の巻では説話的な内容が多いのですが、この巻では様々な鬼神を登場させることによって、「謎の修業時代」を埋めると共に、「弘法大師伝説」から「弘法大師神話」へのつないで行おうとしていると思えてきました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
     小松茂美 弘法大師行状絵詞 中央公論社1990年刊
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行当(道)岬(室戸市)

室戸の金剛頂寺の下の海岸には、海の行場が残されています。実際に不動岩のある村と港は、行道とはっきりと書いてあったことが資料からも確かめられます。この岩をめぐるのは、非常に危険なことです。こういう岩をぐるぐると何回も、めぐることを行道といいました。
金剛頂寺 行道不動看板
行道不動(室戸市)

 山や岩があれば行道をするというのは、すでに700年ほど前の記録に出てきます。

例えば、歌人で有名な西行は修験者としての修行も行っています。彼の歌に、非常に苦労し善通寺の我拝師山に登って行道したという詞書があります。我拝師山に行ってみると『山家集』の詞書にあるとおりの山であり、行道所があります。それが善通寺五岳の捨身岳です。
金剛頂寺 行道岬
行道岬と行道岩(現 行道不動)

行道には小行道・中行道・大行道があります。

一つのお堂をめぐったり、岩をめぐるのが「小行道」です。小さな山があると、山をめぐって行道の修行をします。室戸岬の東寺と西寺の行道岩とは約12㎞あります。この間をめぐって歩くような行道を「中行道」と名づけています。
 四国をめぐるような場合は「大行道」です。したがって、大行道に当たるものが遍路ということになるわけです。もちろん、小さい場所でも辺路修行ができました。足摺岬の場合も当然そういうことが考えられます。海岸には胎蔵窟があり、山には金剛福寺があるので、金剛界と胎蔵界をめぐるのが中行道です。そして、何年かかるかわかりませんが、八十八か所を回るのは大行道です。
 西国三十三所も同じように大行道です。

金剛頂寺 行道岬2jpg
行道岬の行場
 
 海を神様にする信仰が行われた場所が、このあたりなのです。これが辺路というものです。海と陸との境を修行する辺路修行がのちに遍路になりました。弘法大師より先にすでに海洋宗教がありました。奈良時代には明らかにあったので、弘法大師は青年時代に海洋宗教の辺路修行というものに入っていきました。とくに新しい法として求聞持をしながら辺路修行をしています。弘法大師が来たといわれるところには、行道の跡と聖火の跡があります。適当な場所や岩があると、これをぐるぐると回る修行をしました。歩くということは、結局は何かをめぐっているわけです。
四国という島がありますと、ところどころにめぐる岩なり山があって、これをめぐりながら次のところに行き、またそれをめぐりながらそれを越えていきました。

 行当岬にも、行道岩があります。

『四国偏礼霊場記』には「行道岩」と書かれています。
現在は不動さんをまつっているので不動岩と呼ばれています。これはちゃんと回るところもある小行道です。元禄十何年かの碑が立っているので、元禄年間(1688-1704)のころには、回っていたことは確実です。 行当岬も行道岬です。
空海の見た風景「高知室戸・行当岬」の不動堂の景色がスゴい! | 高知県 | トラベルjp 旅行ガイド
行道窟から見える景色
西寺ではそういう行道が行われました。東寺では窟を修行の場所にして、洞窟をめぐったと考えられます。洞穴を胎蔵界、突き出たような岩とか岬とか山のようなところを金剛界とします。男と女というように分けて、両方をめぐることによって、金剛界・胎蔵界が一つになるのが金胎両部の修行です。
空海の見た風景「高知室戸・行当岬」の不動堂の景色がスゴい! | 高知県 | トラベルjp 旅行ガイド
行道窟(室戸市)

 足摺岬に行くと、もっとはっきりしますが、室戸岬にも金剛界と胎蔵界をめぐる行道があったに違いないとおもいます。東寺と西寺の間は、12㎞ほどありますので、全部で24㎞ぐらい
は毎日歩かなければなりません。それを「中行道」と呼びます。四国全体を回るのが「大行道」です。

東寺と西寺は洞穴と岩になっているので、中行道としてめぐったと推定できます。
真言を唱えるのが三時間ぐらいだとすると、お香を焚いたり、花を供えたりする準備まで入れる5時間ぐらいです。実際にこれをやった人の話では、何もなしに唱えていたら退屈だといっていました。退屈なものですから、現在は求聞持法は50日で完成します。 
聖火を焚くことがないと求聞持法にならない、というのが求聞持法です。お経を唱えるだけをやっていたとしたら、命がけの行だといわれる理由がわかりません。

 行道と聖火があるから命がけになるのです。
空海の見た風景「高知室戸・行当岬」の不動堂の景色がスゴい! | 高知県 | トラベルjp 旅行ガイド

 
ここで弘法大師が行った求聞持法は、ただお堂あるいは洞窟の中に入って、一日に一万遍の真言を唱えてじっとしていたということではありません。真言宗の坊さんたちが求聞持法を完了したというのは修行中の坊さんとしての最高の名誉です。しかし、弘法大師のころはいまやっているような甘いものではありません。室戸岬から行当岬まで一日に一往復ずつしていました。それもなかなかたいへんだったとかもいます。
「五来重 四国遍路の寺」より
 

行当岬不動岩の辺路修行業場跡を訪ねて

原付バイクで室戸岬を五日かけて廻ってきた。「あてのない旅」が目的みたいなものであるが、行当岬には立ち寄りたいと思っていた。ここが辺路修行者にとって、室戸岬とセットの業場であったと五重来氏が指摘しているからだ。
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五重氏の辺路修行者の修行形態に関する要旨を、確認のために記しておきたい。

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修行の形態は?

1 行道から補陀落渡海まで辺路でいちばん大事なのは「行道」をすること。
2 空海(弘法大師)の四国の辺路修行でもっとも確かなのは室戸岬。
3 そこでどういう修行をしたか。一つは「窟龍り」、つまり洞窟に龍ること。
4 お寺が建つさらに以前のことだから辺路なら海岸に入ると、建物はない
5 弘法大師が修行したと伝わって、その跡を慕って修行者がやってくる。
6 そういう人々のために小屋のようなものが建つ。そして寺ができる。お寺でなくてもお堂ができて、そこに常住の留守居が住むようになる。
7 やがて留守居が住職化することによって現在のお寺になる。
8 鎌倉時代の終わりのころは、留守居もいない、修行に来た者が自由に便う小屋。
9 弘法大師が修行したころは建物などはなかったので、窟に籠もった。
10 最初の修験道の修行は「窟龍り」であった。

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修行の形態のひとつが行道。行道とは何か?

1 神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる本の周りを一日中、何十ぺんも回る。
2 円空は伊吹山の平等岩で行道したと書いている。「行道岩」がなまって「平等岩」となるので、正式には百日の「行道」を行っている。
3 窟脂り、木食、行道をする坊さんが出てくる。
4 最も厳しい修行者は断食をしてそのまま死んでいく。これを「入定」という。明治十七年(一八八四)に那智の滝から飛び下りた林実利行者もそのひとり。
5 辺路修行では海に入って死んでいく。補陀落渡海は、船に乗って海に乗り出す。熊野の場合も水葬。それまでに、自殺行為にも等しい木食・断食があった。

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  辺路修行では、不滅の聖なる火を焚いた

1 辺路の寺には龍燈伝説がたくさん残っている。柳田国男の「龍燈松伝説」には、山のお寺や海岸のお寺で、お盆の高灯龍を上げるのが龍燈伝説のもとだと結論。
2 阿波札所の焼山寺では、山が焼けているかとおもうくらい火を焚いた。
3 それが柴灯護摩のもと。金刀比羅の常夜灯、淡路の先山千光寺の常夜灯は海の目印、燈台の役割。
4 葛城修験の光明岳でも火を焚く。『泉佐野市史』には紀淡海峡を航海する船が、大阪府泉佐野市の大噴出七宝滝寺の上の燈明岳の火を闇夜に見ると記載。
5 不滅の聖火は、海のかなだの常世の祖霊あるいは龍神に捧げたもの。
6 それが忘れられて、龍神が海に面した雪仏にお灯明を上げるに転意。
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室戸岬と行当岬

1 室戸では室戸岬と行当岬に東寺と西寺があって、10㎞ほど離れている。
2 室戸岬と行当岬を、行道の東と西と考えて東寺・西寺と名付けられた。
3 その中間の室戸の町に、平安時代の『土佐日記』に出てくる津照寺がある。
4 ところが、それは無視している。平安時代は、東西のお寺を合わせ金剛定寺と呼んでいた。
5 火を焚いた場所にあとでつくられたのが最御崎寺(東寺)。
  (注 金剛福寺の方が古いことに留意)
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6 行当岬は、現在は不動岩と呼ばれている。
7 もとは行道という村があり、船が入って西風を防ぐ避難港だった。
8 その後、国道拡張で追われて、いまは行当岬の下のほうの新村に移動。
9 行当岬は「行道」岬。波が寄せているところに二つの洞窟があった。辺路で不動さんをまつって、現在は波切不動に「変身」
10 調査により二つの行道の存在を確認。西寺と東寺を往復する行道を「中行道」、不動岩の行道を「小行道」と呼んでいる。
11 四国全体の海岸を回るのが「大行道」。

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12 二つの洞窟のうちで虚空蔵菩薩を祀った虚空蔵窟は東寺が管理しているので、かつて東寺と西寺がひとつになって祀っていたと推察可能。
13 現在では西寺を金剛頂寺と呼んでいるが、平安時代は西寺と東寺を含めて金剛定寺と呼んでいた。
14 足摺岬の場合は、金剛福寺のある山は金剛界。灯台の下には胎蔵窟と呼ばれる洞窟があり、金剛界・胎蔵界は、必ず行道にされているので、両方を回る。
15 密教では金胎両部一体だとされるが、辺路の場合はそういう観念的なものではない。頭の中で考えて一体になるのではなくて、実際に両方を命がけで回るから一体化する。
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辺路修行者と従者の存在

1 辺路修行者には従者が必要。山伏の場合なら強力。弁慶や義経が歩くときも強力が従っている。安宅聞で強力に変身した義経を、怠けているといって弁慶がたたく芝居(「勧進帳」)の場面からも、強力が付いていたことが分かる。
2 修行をするにしても、水や食べ物を運んだり、柴灯護摩を焚くための薪を集めたりする人が必要。
3 修行者は米を食べない。主食としては果物を食べた。
4 『法華経』の中に出てくる「採菓・汲水、採薪、設食」は、山伏に付いて歩く人、新客に課せられる一つの行。
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室戸岬にも、弘法大師に食べ物を世話した者がいた。

1 室戸で弘法大師を世話した者が御厨明神(御栗野明神)にまつられる。厨とは台所のこと。御厨明神にまつられた者は、弘法大師が高野山に登るときに高野山に従いていった。
2 御厨明神は弘法大師に差し上げる食べ物を料理する御供所に鎮座。江戸時代は地蔵さんになる。弘法大師に差し上げるものを最初に「嘗試地蔵」に差し上げて、毒味をした。
3 室戸岬には、洞窟が四つ開いている。右から二番目の「みくろ洞」は地図では「御蔵洞」と表記されているが、もとは「みくりや洞」といって、そこに従者がいた。
4 左端の弘法大師が一夜で建立したという洞窟は、昔は虚空蔵菩薩をまつっていた。そのため求問法持を修したのは、この洞穴ではないか。
5 右端の洞窟は神明窓。現在は「みくろ洞」には石の神殿があって、不思議なことに天照大御神を祀っている。その次のところは何もない。
6 お寺や神社の信仰を、ひとつ前の時代へ、さらにもうひとつ前の時代へとたどっていくと、いまとは違った宗教的な実態がわかってきて、なかなか興味深い。

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四国の辺路を始めたのはだれか  

 弘法大師が都での栄達に繋がる道をドロップアウトして、辺路修行者として四国に帰ってきたとされる。その時に、すでに辺路修行という修行形態はあった。その群れの中に身を投じたということだ。したがって、弘法大師が四国の辺路修行を始めたというわけではない。仏教や道教や陰陽道が入る以前から辺路修行者たちが行ってきた宗教的行為がその始まりといえよう。

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 不動岩周辺は、室戸ジオパークの西の入口として遊歩道が整備されている。そして深海で生成された奇岩が隆起して、異形を見せている。

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奇岩大好きの行者達がみれば、喜びそうな光景が続く。
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海に突き出した地の果てで、行場として最適の場所だったのかもしれない。「小行道」として、不動岩の周りを一日に何回も歩いたのだろう。海辺の辺路の「小行場」のイメージを描くのには、私には大変役だった。 そして、ここを拠点に室戸岬の先端までの「中行道」へも歩き、修行を重ねる。

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この行場からは金剛頂寺への遍路道が残っている。

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ここで辺路修行者がどんな行を行っていたのか、そんなことをボケーッと考えていると、「どこから来たんな」と話しかけられた。
金剛頂寺の檀家でボランテイアで、ここのお堂のお世話をしているというおばさんである。彼女が言うには
「弘法大師さんが悟りを開いたのはここで。室戸岬ではないで。お寺やって金剛頂寺が本家、最御崎寺は分家やきに。ここが室戸の修行の本家やったんで。」
さらに
「ジオパークの研究者が言うとったけど、弘法大師さんの時代は室戸岬の御蔵洞は海の下やったんで。海の中で修行は出来んわな。ここの不動岩の洞窟は海の上。ここで弘法大師さんは、悟られたんや。」と。

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なるほどな・・・。その確信の元にこの絵があるんやなと改めて納得。海の辺路信仰の行場のあり方を考えさせてくれた場所でした。

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