土佐の長宗我部元親が讃岐に侵入する直前に、金刀比羅のお山に新たに金毘羅神を招き金刀比羅堂を建立したのは長尾氏出身の宥雅でした。とすれば、彼が金毘羅大権現の「創始者」とされてもいいはずです。しかし、彼は正史から「抹殺」され、忘れ去られた存在になっていました。
讃州象頭山別当歴代之記
讃州象頭山別当職歴代之記(初代宥範 二代宥遍 三代宥厳 四代宥盛)
宥雅の出自や業績については、下記で紹介しました。詳しくはこちらをご覧ください
金比羅信仰 宥雅はどのようにして金毘羅神を登場させたか
 
以前に宥雅の業績を次のようにまとめました。

宥雅の業績

堺に亡命した宥雅が、どうして弟弟子の宥盛を訴えたのでしょうか?

1600年 関ヶ原の戦いの年に、長宗我部元親が院主に据えた宥厳が亡くなり、宥盛が新しい院主になります。これに対して、堺に亡命中だった元住職の宥雅は、自分が正統な院主であると訴訟を起こします。土佐の長宗我部の勢力も消滅し、自ら築き上げた金毘羅堂を取り戻すための反撃を開始したのです。その矛先は、金光院住職を継承した弟弟子の宥盛に向けられます。
 慶長十二年(1607)5月吉日、宥雅が、生駒藩の奉行に訴状を提出し、宥盛の非法を訴えました。その訴状の内容は次の通りです
第一は、宥盛は金光院の「代僧」で、正式の住職ではない。
第二は、宥盛が金光院下坊を相続したとき、その時の合力の報酬として(毎年)百貫文ずつ宥雅に支払することの約束を履行しない。
 第一の争点については、宥雅は金光院前住の立場から、宥盛の不適格性を指弾します
そして、自分こそが金比羅の主としてふさわしいとするのです。これに対して、宥盛は生駒藩奉行へ申し開きの書状「洞雲(宥盛)目安申披書」を提出して次のように反撃します。
 「洞雲(宥雅)拙者を代僧と申す儀 毛頭其の筋目これ無く候。(中略)
土佐長宗我部入国の節 おひいだされ落墜仕り、其の後仙石権兵衛殿当国御拝領の刻、落墜の質をかくし、寺をもち候はんとは候へとも、当山はむかしより、清僧居り候へば、叶はざる寺の儀二候ヘ、落墜にて居り候儀其の旧例無く候故、堪忍罷り成らず候二付き、拙者師匠宥厳二寺を譲り
 意訳変換しておくと
「洞雲(宥雅)は、私のことを「代僧」と呼ぶことについて、毛頭もそのような謂われはありません。(中略)
土佐の長宗我部元親が讃岐に入国した際に、宥雅は追い出され堺に亡命しました。その後、仙石殿が讃岐を御拝領した時に、落ちのびたことを隠して、松尾寺を取り返そうとしました。しかし、当山は昔から清僧の管理する寺なので、それは適いませんでした。(長尾氏に加勢して敗れ、)そのまま寺にいることができなくなったので、私(宥盛)や師匠の宥厳に寺を譲り

まず冒頭に、宥雅が「拙者を代僧と申儀」、末尾に「拙者師匠宥厳二寺を譲り」とあります。ここからは宥雅は、長宗我部元親さえいなくなればいつでも帰山できると考えていた節が見えます。だから、宥厳の後嗣である宥盛を「代僧」ともいったのでしょう。長宗我部退却後の生駒藩になっても帰山が許されないとわかってはじめて、宥雅は宥厳に松尾寺を「譲った」と思われます。
 これに対して宥盛は「代僧」については、その筋目(根拠)のないこと、洞雲(宥雅)は「そくしやう(俗姓)」の者でもなく、少しの間金光院住であったものの長宗我部侵入の際には、寺物を武具に代えたり、寺を捨てて退転するなどの悪行を重ねたことを挙げて反論します。
また、長宗我部退却後の仙石氏入国の際には、寺を捨て「亡命」したことを隠して、金比羅に還ろうとしたが許されなかったこと、その結果、宥雅は松尾寺・金比羅堂の二寺を宥盛の師である宥厳に譲ったこと。その上で、宥盛自身が、生駒雅楽頭親正から承認された正統な住職であることを主張します。
 ここには、宥雅が金比羅神創出に係わったことは、一言も触れられません。
これが、後の金比羅側の宥雅像になり、後世の記録から抹殺されることにつながっていくようです。別の面から注目しておきたいのは
長宗我部侵入の際には、寺物を武具に代えたり、寺を捨てて退転

とあり、宥雅が一族の長尾氏とともに反長宗我部勢力側に立って金比羅のお山を「武装化」していたこともうかがえます。
  第二の件は、下坊(=金毘羅堂)をめぐる契約不履行の問題です。
「中正院宥雅証文」で宥雅は、次のように記します
「下之坊御請け取り候時、合力百貫ツツ給うべき旨申し定め候。然れ共今程は前々の如く、神銭も御座なき由候間、拾貫ツツニ相定め候間、此の上相違有る間敷く候」
意訳変換しておくと
「下之坊(金比羅堂)の管理運営については、年に百貫を支払うことで譲渡契約した。ところが近頃は前々のように、神銭が支払われない。(参拝者が少なく賽銭が少ないというので)値下げして十貫で辛抱することにした。ところが、それも宥盛は守らない。

ここからは宥雅は、仙石氏の統治下において、金毘羅への帰還を求めていたこと。それが認められなかったために、宥厳に下の坊を譲ったことがうかがえます。下之坊が別当する神殿といえば「金毘羅 下之坊」ですから、宥雅が建立した金毘羅神殿のことと考えられます。

 宥雅はこの訴訟に先立つ16年前の天正十八年(1590)に、宥盛に督促状を送っています
そこには「下坊=金比羅堂」の管理権のことが触れられています。もともと金比羅堂は長尾一族の支援を受けて宥雅が新たに建立したものです。そこで「所有者」の宥雅がいなくなった後の管理が問題になります。そこで宥雅との管理交渉を行ったのが、宥盛だったのではないでしょうか。宥盛は、長宗我部元親が土佐に退いて、後見人を失った別当の宥厳の権勢が衰えかけた頃に、高野山から讃岐に帰り、宥厳を補佐するようになります。仙石氏や生駒氏との信頼関係を築き、寄進石高を増やす中で、宥雅との交渉を進めたと私は考えています。
 そして、「合力」として毎年百貫ずつを宥雅に送るという「契約」を結んだようです。宥雅は「神銭不足の折から十貫に値下げ」されたのに、その約束さえも守らずらないと宥盛を責めています。
 ここには宥雅と宥盛の間には、「密約」があったと研究者は推測します。その内容は

毎年百貫の銭を送る以外に秘密協定として、宥厳の後は、宥雅が院主の座に返り咲く。

といううものではなかったのでしょうか。
 ところが、宥盛はこれを守らなかった。宥盛自らが院主の座につき、約束の銭も送らなかった。つまり宥雅からすれば、弟弟子に裏切られ、金毘羅の山を乗っ取られたということになります。
 宥雅は、コネをつかって自らの主張、すなわち金光院へ帰還を遂げようと工作します。

年未詳八月八日の生駒讃岐守一正書状によると、宥雅は、豊臣秀吉の時代にも大谷刑部少輔吉継や幸蔵主など秀吉の側近・奥向き筋を利用して、その旨を陳情しています。しかし、その結果は「役銭の出入りばかり」色々いってきたが一正の父親正は承引しなかったと記されています。

 
さらに宥雅は、宥盛の「かき物」(その旨の契約状)を堺から取り寄せ、証拠書類として提出することも書き加えています。そして、この証文通りにしないのならと、次のように脅しています。

「愛宕・白山の神を始め、「殊二者」金毘羅三十番神の罰を蒙であろう」

愛宕・白山の神に誓うのは修験者らしい台詞です。ちなみにこの時に宥雅が集めた「証拠資料」が、後世に残りこの時代の金毘羅山の内部闘争を知る貴重な資料となっています。

   訴訟の結果は、どうだったのでしょうか?
宥雅の完全敗訴だったようです。しかも、宥盛の言い分によれば
「宥雅の悪逆は四国中に知れ渡り、讃岐にいたたまれず阿波国に逃げ、そこでも金毘羅の名を編って無道を行う。
(中略)(宥雅は)女犯魚鳥を服する身」
と宥雅を「まひすの山伏なり」と断罪します。
これらの内容は、後世の金毘羅史諸本の説く「金比羅堂建立者」としての宥雅の所業とは、かなり違っています。ちなみに宥雅の宥盛を非難しての物言いは「彼のしゅうこん(秀厳=宥盛の房号)いたつら物」、すなわち、悪賢い者といっている程度です。それに比べて宥盛の宥雅に対する反駁の形容詞は猛烈なまでに辛辣な表現です。ここには、以前にも述べた宥盛の「闘争心」が遺憾なく発揮されているように思えます。

 宥雅との訴訟事件に勝利した宥盛は、強引に琴平山を金毘羅大権現のお山にしていくことに邁進していきます。
まさに金毘羅大権現の基礎を作った人物にふさわしいとされ、後の正史には「創始者」として扱われ、彼は神として現在の奥社に祀られます。 一方、金毘羅神を創出し、金比羅堂を創建した宥雅は、宥盛を訴えた元院主として断罪され、金毘羅大権現の歴史からは抹殺されていくことになるのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
唐木 裕志   讃岐国中世金毘羅研究拾