瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金比羅詣

延岡藩2
日向延岡藩の内藤家
  幕末に大名夫人が金毘羅詣でをした記録を残しています。
その夫人というのが延岡藩内藤家の政順に嫁いでいた充真院で、桜田門で暗殺される井伊直弼大老の実姉(異母)だというのです。彼女は、金毘羅詣でをしたときの記録を道中記「海陸返り咲ことばの手拍子」の中に残しています。金毘羅参拝の様子が、細やかな説明文と巧みなスケッチで記されています。今回は、大名夫人の金毘羅道中記を見ていくことにします。テキストは神崎直美「日向国延岡藩内藤充真院の金毘羅参り」です。

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充真院(じゅうしんいん:充姫)
まずは、充真院のことにいて「事前学習」しておきます。
  充真院は、寛政12年(1800)年5月15日、近江国彦根藩・井伊家の江戸屋敷で生まれています。父は第11代彦根藩主の井伊直中(なおなか)です。直中は歴代藩主の中で最も子宝に恵まれた殿様で、記録に残るだけで男子16人、女子6人を儲けています。正室との間にのちに藩主を継ぐ直亮、側室君田富との間には充姫の異母弟にあたる直弼(後の大老)がいます。
 15歳で充姫は、2歳年上の延岡藩主内藤正順に嫁いで男子をもうけますが早世します。病弱だった正順も天保五年(1834)に亡くなったので、出家して「充真院」と称しました。
 
延岡藩 
内藤家と伊達家との関係

 跡継ぎを失った内藤家は、充姫の実家である井伊家と相談の上、充姫の弟で15歳になる直恭を養子として迎えます。この時、候補として20歳になる直弼もあがったようです。しかし早世した子に年齢が近い方がよかろうと直恭が選ばれます。
直恭は、正義と改名し内藤家を継ぐことになります。20歳年下の弟の養母となった充姫は、正義を藩主として教育し、彼が妻を迎えたのを機に一線を退きます。こうして見ると、充真院は実弟を養子として迎え、後継藩主に据えて、その養母となったことになります。このため充真院の立場は強く、単に隠居という立場ではなく、内藤家では特別な存在として過ごしたようです。
充姫は嫁ぐ前から琴や香道などの教養を身に着けていました。それだけに留まらず、婚姻後は古典や地誌といった学問に取り組むようになります。「源氏物語」の古典文学、歌集では「風山公御歌集」(内藤義概著)を初め「太田伊豆守持資入道家之集」「沢庵和尚千首和歌」、「豪徳寺境内勝他」など数多くの古典、歌集を自ら書写しています。
 さらに「日光道の記」「温泉道の記」、「玉川紀行」、「玉川日記」といった紀行文も好んで読んでいます。それが60歳を越えて江戸と延岡を二往復した際の旅を、紀行文として著す素材になっているようです。
彼女のことを研究者は次のように評しています。

生来多芸多能、特に文筆に長じ、和歌.絵をよくし.前項「海陸返り咲くこと葉の手拍子」など百五十冊余の文集あり.文学の外、唄、三味線の遊芸にも通じ、薬草、民間療法、養蚕に至るまであらゆる部門に亘り一見識を持ち、その貪埜な程の知識慾、旺盛な実行力、特に計り知れぬその記憶力は誠に驚く斗りのものがある。

 江戸時代の大名の娘は、江戸屋敷で産まれて、そこで育ち、そして他藩の江戸屋敷に嫁いでいきます。
一生、江戸を出ることはありませんでした。それなのに充真院は、本国の延岡に帰っています。「大名夫人が金毘羅詣り」と聞いて、私は「入り鉄砲に出女」の幕府の定めがある以上は、江戸を離れることは出来ないはずと最初は思いました。ところが幕末になって幕府は、その政策を百八十度政策転換して、藩主夫人達を強制的に帰国させる命令を出しています。そのために充真院も始めて江戸を離れ、日向へ「帰国」することになったようです。弟の井伊直弼暗殺後の4年後のことになります。
幕末大名夫人の寺社参詣―日向国延岡藩 内藤充真院・続 | 神崎 直美 |本 | 通販 | Amazon

充真院は2度金毘羅詣でを行っていますが、最初に金毘羅を訪れたのは、文久三(1863)年5月15日です。
64歳にして、始めて江戸を離れる旅です。辛い長旅でもあったと思うのですが、充真院が残した旅行記「五十三次ねむりの合の手」を見てみると、充真院は辛い長旅をも楽しんでいる雰囲気が伝わってきます。精神的にはタフで、やんちゃな女性だったように私には思えます。

文久3(1863)4月6日に江戸を出発、名古屋で1週間ほど留まって大坂の藩屋敷に入ります。
金毘羅までの工程は次の通りです。
4月 6日 江戸出発
4月24日 大坂屋敷着
5月 6日 大阪で藩船に乗船
5月13日 多度津入港
5月15日 金毘羅参拝、
東海道は全行程を藩の御用籠を使っています。大坂に着くと、堂島新地にあった内藤家の大坂屋敷(現在の福島区福島一丁目)に入っています。ここで、藩の御座船がやってくるまで、10日間ほど過ごします。その間に、充真院は活動的に住吉神社などいくつもの大坂の寺社参詣を行っています。
日向国延岡藩内藤充真院の大坂寺社参詣
大坂の新清水寺(充真院のスケッチ)

 それまで外出する機会がほとんどなかった大名夫人が、寺社参りを口実に自由な外出を楽しんでいるようにも見えます。例えば、立寄った茶屋では接待女や女将らと気さくに交流しています。茶屋は疲れを癒しながらにぎやかなひとときをすごしたり、茶屋の人々から話を聞いて大坂人の気質を知る恰好の場所でもあったようです。そういう意味では、大坂での寺社参詣は長旅の過程で気晴らしになるとともに、充真院の知的関心・好奇心を満たしたようです。
5月6日 大坂淀川口の天保山から御座船で出港します。
そして、兵庫・明石・赤穂・坂出・大多府(?)を経て多度津に入港しています。ここまでで7日間の船旅になります。

IMG_8072
金毘羅航路の出発点 淀川河口の天保山

内藤藩の御座船は、大坂から延岡に下る場合には、次のような航路を取っていました。
①大坂の淀川の天保山河口を出て、牛窓附近から南下し、讃岐富士(飯野山)・象頭山をめざす。
②丸亀・多度津沖を経て、以後は四国の海岸線を進みながら佐田岬の北側を通って豊後水道を渡る。
③豊後国南部を目指し、以後は海岸沿いに南下して日向国の延岡藩領の入る。
④島野浦に立ち寄ってから、延岡の五ヶ瀬川の河口に入り、ここから上陸
この航海ルートから分かるように、内藤家の家中にとって、四国の金毘羅はその航海の途上に鎮座していることになります。大坂から延岡へ進む場合は、これからの航海の安全を祈り、延岡から大坂に向かう場合は、これまでの航海を感謝することとなります。どちらにしても、危険を伴う海路の安全を祈ったりお礼をするのは、古代の遣唐使以来の「海民」たちの伝統でした。そういう意味でも、九州の大名達が頻繁に、金毘羅代参を行ったのは分かるような気もします。

金毘羅船 航海図C13
金毘羅船の航路(幕末)

御座船のとった航行ルートで、私が気になるのは次の二点です。
①一般の金毘羅船は、大坂→室津→牛窓→丸亀というコースを取るが、延岡藩の御座船は明石・坂出などを経由していること。
②丸亀港でなく多度津に上陸して金毘羅詣でを行っていること。
①については、藩の御用船のコースがこれだったのかもしれませんがよく分かりません。
②については、九州方面の廻船は、多度津に寄港することが多かったようです。また、多度津新港の完成後は、利便性の面でも多度津港が丸亀港を上回るようになり、利用する船が急増したとされます。そのためでしょうか、

充真院は金毘羅を「金毘羅大権現」とは、一度も表記していません。
「金毘羅様」「金ひら様」「金毘羅」などと表記しています。当時の人々に親しまれた名称を充真院も使っているようです。

多度津湛甫 33
多度津湛甫(新港)天保9年(1838)完成
 多度津入港後の動きを見ていくことにします。
13日の夕七つ(午後四時頃)に多度津に入港して、その日は船中泊。
14日も多度津に滞在して仕度に備えた後、
15日に金毘羅に向けて出発。
充真院の旅行記には、13日の記録に次のように記します。
「明日は金昆羅様へ参詣と思ひし所、おそふ(遅く)成しまゝ、明日一統支度して、明後早朝よりゆかん(行かん)と申出しぬ」

ここからは当初の予定では14日に金毘羅を参拝する予定だったようですが、前日13日に多度津に到着するのが遅くなったので、予定を変更して、15日早朝からの参拝になったようです。大名夫人ともなると、それなりの格式が求められるので金毘羅本宮との連絡や休息所確保などに準備が必要だったのでしょう。
 充真院の金毘羅参りに同行した具体的な人数は分かりません。
同行したことが確認できるのは、御里附重役の大泉市右衛門明影と老女の砂野、小使、駕籠かきとして動員された船子たちなどです。同行しなかったことが確実な者は、重役副添格の斎藤儀兵衛智高、その他に付女中の花と雪です。斎藤儀兵衛智高は、御座船の留守番を勤め、花と雪は連絡準備のために前日に金毘羅に先行させています。      

 充真院にとって金昆羅参りは、その道中の多度津街道での見聞きも大きな関心事だったようです。 
そのため見たり聞いたりしたことを詳しく記録しています。幸いにも参拝日となった15日は朝から天気に恵まれます。一行は、夜が明けぬうちから準備をして出発します。多度津から金毘羅までは3里(12㎞)程度で、ゆっくり歩いても3時間です。そんなに早く出発する必要があるのかなと思いますが、後の動き見るとこのスケジュールにしたことが納得できます。
 旧暦の5月当初は、現在の六月中旬に相当するので、一年の中でも日の出が早く、午前4時頃には、明るくなります。まだ暗い午前4時頃の出発です。まず、「船に乗て」とあります。ここからは、係留した御座船で宿泊していたことがうかがえます。御座船から小船に乗り換えて上陸したようです。岸に移る小船から充真院は、「日の出之所ゆへ拝し有難て」と日の出を眺めて拝んでいます。海上から海面が赤々と光輝く朝日を見て、有難く感じています。

  多度津港の船タデ場
多度津湛甫拡大図 船番所近くに御座船は係留された?

船から上陸した波止場は石段がひどく荒れていて、足元が悪く危険だったようです。
「人々に手こしをおしもらひしかと」
「ずるオヽすへりふみはつしぬれは、水に入と思て」
「やうノヽととをりて駕籠に入」
と、お付きの手を借りながら、もしも石段がすべり足を踏み外したならば、海に落ちてしまうと危険な思いをしながらも、やっとのことで石段を登って駕籠に乗り込みます。
多度津港から駕籠に揺られて金毘羅までの小旅行が始まります。
充真院は駕籠の中から周囲の景色を眺め、多度津の町の様子を記します。この町は「大方小倉より来りし袴地・真田、売家多みゆる」
袴の生地や真田紐を販売する店が沢山あることに目を止めています。これらの商品の多くが小倉から船で運ばれてきたことを記しています。充真院が興味を持ち、御付に尋ねさせて知ったのかもしれません。それだけの好奇心があるのです。このあたりが現在の本町通りの辺りでしょうか。
多度津絵図 桜川河口港
金毘羅案内絵図 (拡大図)
 さらに進むと農家らしき建物が散在して、城下であると云います。
多度津港に上陸した参詣客達は、金毘羅大権現の潮川神事が行われる須賀金毘羅宮を左手に見ながら金毘羅山への道を進みはじめます。門前町(本通り一丁目)を、まっすぐ南進すると桜川の川端に出ます。
門前町のことを「城下」と呼んでいたとしておきます。
 また、三町(327m)程進むと松並木が続き、左側には池らしいものが見えたと記します。松並木が続くのは、街道として、このあたりが整備されていたことがうかがえます。そこから先は田畑や農家が多くあったというので、街道が町屋から農村沿いとなったようです。

DSC06360
              多度津本町橋
ここが桜川の川端で、本町橋が架かるところです。その左手には絵図には遊水池らしきものがえがかれています。この付近で「金ひら参の人に行合」とあり、同じ様に金昆羅参りに向かう人に出会っています。 
多度津街道ルート上 jpg
 多度津から善通寺までの金毘羅街道(多度津街道調査報告書 香川県教育委員会 1992年)

その後、 一里半(6㎞)程進んでから、小休憩をとります。ちょうど中間点の善通寺門前あたりでしょうか。地名は書かれていないので分かりません。建物の間取りが「マイブーム」である充真院は、さっそく休憩した家の造作を観察して次のように書き留めています。
「此家は間を入と少し庭有て、座敷へ上れは、八畳計の次も同じ」
「脇に窓有て、めの下に田有て、夫(それ)にて馬を田に入て植付の地ならし居もめつらしく(珍しく)」
門や庭があることや、八畳間が二部屋続いている様子を確認しています。ここで充真院は休憩をとります。そして、座敷にある窓から外を見るとすぐ下に田んぼが広がり、馬を田に入れて田植えに備えて地ならしをしていたのが見えました。こんなに近くで農作業を見ることは、充真院にとって初めての体験だったのかもしれません。飽かず眺めます。そして「茶杯のみ、いこひし」とあるので、お茶を飲みながら寛いだようです。
  このあたりが善通寺の門前町だと思うのですが、善通寺については何も記されていません。充真院の眼中には「金毘羅さん」しかなかったようです。
多度津街道を歩く(4)金刀比羅神社表参道まで
    金毘羅案内絵図 天保二(1831)年春日 工屋長治写

 休憩を終えて再び駕篭に乗って街道を進みます。

「百姓やならん門口によし津をはりて、戸板の上にくたもの・徳りに御酒を入、其前に猪口を五ツ・六ツにな(ら)へて有、幾軒も見へ候」

意訳変換しておくと
「百姓屋の門口に葦簀をはって、簡素な休憩所を設けて、戸板の上に果物・徳利に御酒を入れて、その前に猪口を五ツ・六ツに並べてある、そんな家を幾軒も見た」

ここからは、金毘羅街道を行き来する人々のために農家が副業で簡素な茶店を営業していたことが分かります。庶民向けの簡素な休憩所も、充真院の目に珍しく写ったようです。ちなみに充真院は、お酒が好きだったようなので、並んだ徳利やお猪口が魅力的に見えたのかも知れません。このあたりが善通寺門前から生野町にかけてなのでしょうか。
丸亀街道 田村 馬子
    枠付馬(三宝荒神の櫓)に乗った参拝客(金毘羅参詣名勝図会)

充真院は街道を行く人々にも興味を寄せています。
 反対側から二人乗りした馬が充真院一行とすれ違った時のことです。充真院らを見て、急いで避けようとして百姓らが設置した休憩所の葦簾張りの中に入ろうとしました。ところが馬に乗ってい人が葦簾にひっかかり、葦簾が落ちて囲いが壊れます。それに、馬が驚いて跳ねて大騒ぎになります。充真院は、この思いがけないハプニングを見て肝を冷やしたようです。「誠にあふなくと思ふ」と心配しています。
 実は、充真院を載せた籠は、本職の籠かきが担いでいるのではなかったようです。
「舟中より参詣する事故、駕籠之者もなく」
    船中からの参拝なので籠かきを同行していない
「舟子共をけふは駕籠かきにして行」   
      今日は船子を籠かきにして参拝する
其ものヽ鳴しを聞は、かこは一度もかつぎし事はなけれと、先々おとさぬ様に大切にかつき行さへすれはよからんと云しを聞き
  船子等は駕籠を担いだことが一度もないので本人たちも不安げだ。駕籠を落とさないように大切に担いでいけば良いだろうと話し合っていたのを耳にした。
これを聞いて充真院の感想は、「かわゆそうにも思、又おかしともおもへる由」と、本職ではない仕事を命じられた船子たちを可哀相であると同情しながらも、その会話を愉快にも感じています。同時に気の毒に思っています。身分の低い使用人たちに対しても思いやりの心を寄せる優しさが感じられます。
 こうして船子たちは

「かこかきおほへし小使有しゆへ、おしヘノヽ行し」

と、駕籠かきを経験したことがある小使に教えられながら、金毘羅街道を進んで行きます。
 しかし、素人の悲しさかな、中に乗っている人に負担にならぬよう揺れを抑えるように運ぶことまではできません。そのためか乗っていた充真院が、籠酔いしたようです。  なんとか酔い止めの漢方薬を飲んで、周りの風景を眺めて美しさを愛でる余裕も出てきます。

早苗のうへ渡したる田は青々として詠よく、向に御山みへると知らせうれしく、夜分はさそな蛍にても飛てよからんと思ひつゝ

意訳変換しておくと
 一面に田植え後の早苗の初々しい緑が広がる田は、清清しく美しい。向こうに象頭山が見えてきたという知らせも嬉しい。この辺りは夜になると、蛍が飛び交ってもいい所だと思った。」

充真院の心を満たし短歌がふっと湧くように詠めたようです。このあたりが善通寺の南部小学校の南の寺蔵池の堰堤の上辺りからの光景ではないかと私は推測しています。
美しい風景を堪能した後で、寺で小休憩をとります。
この寺の名前は分かりません。位置的には大麻村のどこかの寺でしょうか。この寺は無住で、村の管理下にあったようです。充真院一行が休憩に立ち寄ることが急に決まったので、あらかじめ清掃できず、寺の座敷は荒れ放題で、次のように記します。
「すわる事もならぬくらひこみ(ゴミ)たらけ、皆つま(爪先)たてあるきて」

と、座ることも出来ない程、ごみだらけで、 人々は汚れがつかないように爪先立ちで歩いたと記します。そして「たはこ(煙草)杯のみて、早々立出る」と、煙草を一服しただけで、急いで立ち去っています。ここからは、彼女が喫煙者であったことが分かります。
 大名夫人にとって、荒れ放題でごみだらけの部屋に通されることは、日常生活ではあり得ないことです。非日常の旅だからこそ経験できることです。汚さに辟易して早々に立ち去った寺ですが、充真院は庭に石が少しながら配してあったことや、さつきの花が咲いているが、雑草に覆われて他は何も見えなかった記します。何でも見てやろう的なたくましい精神力を感じます。
 寺を出てから、再び田に囲まれた道を進みます。
この辺りが大麻村から金毘羅への入口あたりでしょうか。しばらくすると町に近づいてきます。子供に角兵衛獅子の軽業を演じさせて物乞いしている様子や、大鼓を叩いている渡世人などを見ながら進むうちに、金毘羅の街までやってきたようです。「段々近く間ゆる故うれしく」と鰐口の響く音が次第に近づいて聞こえてくることに充真院は心をときめかせています。
象頭山と門前町
象頭山と金毘羅門前(金毘羅参詣名勝図会)
金昆羅の参道沿いの町について次のように記します。
「随分家並もよく、いろいろの売物も有て賑わひ」と、家並みが整って、商売が繁盛していることを記します。また「道中筋の宿場よりもよく、何もふしゆうもなさそふにみゆ」と、多度津街道の街道の町場と比較して、金毘羅の門前町の方が豊かであると指摘します。
 充真院一行は、内藤家が定宿としている桜屋に向います。
桜屋は表参道沿いの内町にある大名達御用達の宿屋でした。先行した女中たちが充真院一行が立ち寄ること伝えていたので、桜屋の玄関には「延岡定宿」と札が掛けてあります。一階の座敷で障子を開けて、少し休憩して暑さで疲れた体を休めようとします。ところが参道をいく庶民がのぞき込みます。そこで、二階に上って風の通る広間で息つきます。そして、いよいよ金昆羅宮へ参詣です。
今回はここまでにします。続きはまた次回に 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     神崎直美「日向国延岡藩内藤充真院の金毘羅参り」


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「丸亀より金比羅・善通寺・弥谷寺案内図」と題される絵地図です。大坂から金毘羅船でやって来た参拝客に丸亀の旅籠や土産店屋が配ったと云われます。時代とともに数多くの種類が刷られて、それを歴史順に並べて比較すると、建物や鳥居に違いがあって金比羅街道の移り変わりが楽しめます。
少し、見方を説明しておくと、
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①右下が丸亀湊で、ここには福島湛甫が描かれているので19世紀半ばのものであることが分かります。
②双六で云えば、丸亀湊をスタートにこまを進めていく事になります。ランドマークタワーでもある丸亀城に見送られ、讃岐富士を左手に、一番左奥の象頭山へと丸亀街道を南へ足を進めていきます。
③丸亀街道は、丁石が150あったと云われるので約15㎞。江戸時代の人にとってはゆっくり歩いても3時間足らずの道程だったのではないでしょうか。この手の絵図は、その道程は大きく省略しています。
④そして、大きな鳥居(現高灯龍)をくぐると高松街道と合流して、金比羅の街並みに入って行きます。
230七箇所参り

  さて、最初にこの絵図を見たときの私の疑問は題名が「金比羅参拝絵図」でないことです。
「丸亀より金比羅・善通寺・弥谷寺案内図」
なのです。大阪からやって来る人たちは、こんぴらさんを目指してやって来ているのだと思っていました。ところが、そうとは言い切れなかったようです。それが、この絵図の題名にも現れています。
 弘法大師信仰が広まった江戸期には、その生地とされる善通寺や、学問・修行に励んだとされる弥谷寺も「聖地」とされ人気が高かったようです。弥次郎兵衛と喜多八のコンビも金比羅・善通寺・弥谷寺をめぐっています。
DSC01390善通寺
五岳を背景にした善通寺(拡大図)
 これについても、金比羅詣でのついでに善通寺に詣でているのだと思っていたのですが、そうとばかりは言えないようです。
善通寺参りのついでに、金毘羅山に参っていた信者の話です。
主人公は酒井弥蔵という阿波の商人です
金毘羅信仰が高揚期を迎える19世紀初頭に阿波国半田村で商家を営んでいた父・武助と母・お芳の子として生まれました。半田町は吉野川中流にある町で、素麺が有名な所です。彼の父は、俳人でも有り、その影響から弥蔵も俳諧をたしなむ一方、易・相撲・芝居などにも興味を持って注解書を書くほどであったようです。また神仏への信仰心も篤く、亡くなる明治25年(1892)までの間に、伊勢始め高野山など数多くの参詣旅行をしていたことが、彼が残した参拝記録や日記から分かります。
 しかし、彼の旅は参拝だけでなく、仕事上の旅もありました。彼の商売記録である『大福帳』には、半田の大きな薬屋の代行として、目薬の商品入れ替えのための旅もあったようです。富山の薬売りをイメージしますが、そのため旅慣れていたようです。
  そんな彼が最も多く訪れていたのが、お隣の讃岐でした。
弥蔵の住んでいた半田からは、吉野川を渡り箸蔵寺を通って、二軒小屋を越えると讃岐の山脇集落に降りていけます。健脚な彼は、一日でこんぴらさんや善通寺に詣でる事はできたでしょう。
 そのため、弥蔵も讃岐へは頻繁に旅をしています。

233善通寺 五岳
善通寺から弥谷寺への道
さて、平蔵はこんぴらさんに何回くらいお参りしているとおもいますか?
 研究者が彼の参詣記録をまとめた一覧表によると、生涯を通じて200回以上も参拝しているようです。 弥蔵の金毘羅参詣記録から研究者は次のようなことを指摘します。
「特定の日の参拝回数が極端に多い」というのです。
特定の日とは、3月21日と10月12日です。
なぜ酒井弥蔵は、この日を選んで金毘羅参詣に行ったのでしょうか。まず、3月21日が、どんな日であったかを見てみましょう
 こんぴらさん側のことを調べても分かりません。これは善通寺と関係があるのです。
善通寺は空海の生誕地とされ「弘法大師信仰」の高まりの中で、信者達からは「聖地」とされてるようになりました。弥蔵も弘法大師信者であったようです。彼は、生涯を通じて50回以上、善通寺に参詣をしています。そして、善通寺を同参拝した日には、46回もこんぴらさんにも参拝しているのです。しかし、これだけだとこんぴらさんにお参りしたついでに、善通寺にも参拝したとも言えます。
IMG_8068善通寺五重塔
ところが参拝日が集中している3月21日は、善通寺に特別な行事があった日なのです。
この日は弘法大師が入定した日です。真言系の寺院にとっては特別詣の日に当たります。高野山では弘法大師の古くなった御衣を取り替える「御衣替」が行われます。そして、善通寺でも「百味講」という講が行われていたようです。では、この「百味講」とは、どのようなものなのでしょうか?

IMG_8067善通寺
 『毎年三月正御影供百味御膳講之記』には、「百味講」について次のように記します
讃岐之国善通寺は弘法大師第一の旧跡たる事、皆人の知る処にして、其昔より毎年三月二十一日信心の輩 飲食を奉る事久し。一度其講中に縁を結ぶ者は真言をさづかり又七色の御宝のおもひ出此事にして、現当二世安楽うたがひなきと、言事を物を拝し奉りて有がたさの数々短き筆に印しがたし。誠に此世 人々に進る者也。
 ここからは百味講が、3月21日に信徒が百味(いろいろな飲食物)を奉納し、善通寺に伝わる「七色の御宝物」を拝見する講だったことが分かります。弥蔵の『散る花の雪の旅日記』によると開帳される「七色の御宝物」とは、
一 泥塔    大師七歳之御作
一  五色仏舎利 八祖伝来
一 水瓶    大師の御所持
一 木鉢    同断
一 一字一仏法華経文字 大師尊形御母君
一 二十五条袈裟 祖師伝来
一 閻浮檀金錫杖 同断
の七つの宝物であったと記します。弥蔵の百味講最初の参加は『散る花の雪の旅日記』の中で、 
「斯講中を結びて、大師の霊場に参詣に趣事、去年今年両度なり」
とありますから弘化二年のことのようです。それ以降、毎年のように百味講に参加しています。
IMG_8069善通寺誕生院
 どうして弥蔵は百味講に参加するようになったのでしょうか?
百味講は、単に宝物開帳の場であっただけでなく、先祖供養の場でもあったようです。弥蔵が最初に参加した弘化二年には、祖父・孫助や父・武助を始め合計15名の供養を行っています。また文久三年の百味講では、母や妻など五名が加えられています。ここから弥蔵が百味講に毎年参加するようになったのは、先祖供養を行うためだったことがうかがえます。
 以上から三月二十一日は、先祖供養のために善通寺での百味講参加するために讃岐にやってきて、その途上にあるこんぴらさんにお参りしたようです。彼にとって、この日は善通寺が主であり、こんぴらさんは従だったのかもしれません。
DSC01232

 この参拝絵図は和歌山の沽哉堂から出された『象頭山参詣路紀州加太ヨリ讃岐廻並播磨名勝附』です。左下が大坂で、紀州加太から播磨を経由して金毘羅へ参詣するための経路が描かれています。
DSC01193

この中にも、弘法大師誕生の地である善通寺や、八十八ヶ所霊場の弥谷寺なども描かれています。高野山をお参りする参拝者にとって「弘法大師生誕地・善通寺」という地名は、彼らを惹き付ける魅力的な聖地であったのでしょう。そして、実際に和歌山から舟で阿波に上陸した参拝客には「この機会にこんぴらさんにもお参りしよう」という意識が強くなって行ったのかも知れません。
 こんぴらさんの幕末の賑わいは、善通寺や四国霊場、或いは法然をめぐる巡礼などの聖地巡りの渦の中から生まれてきたのかも知れないと思うようになってきたこの頃です。
289金毘羅参詣案内大略図
    さて、もうひとつの疑問であった酒井弥蔵の金毘羅詣が10月12日に多いのはどうして?これについては、また次回に・・・
関連記事は
参考文献 
  鬼頭尚義 寺社参拝の意識 酒井弥蔵の金毘羅参詣記録から見えてくるもの 京都精華大学紀要44号

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