金比羅の街に、遊女達が現れたのはいつ頃でしょう?

金毘羅遊女の変遷
金毘羅遊女の変遷

近世の金比羅の街は、金毘羅大権現という信仰上の聖地と門前町という歓楽街とがワンセットの宗教都市として繁栄するようになります。参拝が終わった後、人々は精進落としに茶屋に上がり、浮き世の憂さを落としたのです。それにつれて遊郭や遊女の記録も現れるようになります。
金比羅の街にいつ頃、遊女達が現れたのかをまず見てみましょう
 遊女に関する記録が初めて見えるのは元禄年間です。
元禄二年(1689)四月七日の法度請書に、次のような遊女の禁止令が出されています。

遊女之宿堅停止 若相背かは可為重罪事」

「遊女を宿に置くことは堅く禁止する。もし背くようなことがあれば重罪に処す。」とあります。禁止令が出されると言うことは、金毘羅に遊女がいたと言うことです。元禄期になって、遊女取締りが見えはじめるのは、金毘羅門前町が発展してきたことが背景にあります。そして、遊女が取締対象となり始めたことがうかがえます。

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金比羅奉納絵馬 大願成就

  享保期、多聞院日記の書写者であった山下盛好は、覚書に次のように記します。
「三月・六月・十月の会式には参詣客殊に多く、市中賑わいとして遊女が入込み、それが済むと追払ったが、丸亀街道に当たる苗田村には風呂屋といって置屋もあり、遊女は忍び忍び横町を駕でやって来た
苗田の置屋から遊女が駕篭で横町を抜け金毘羅領に入り込んできたようです。町方に出没する遊女に当局側も手を焼いていたようです。享保13年(1728)6月6日、金光院当局は町年寄を呼び上げ、再度遊女取締強化を命じています。しかし、同15年3月6日の条には次のように記します。
「御当地近在遊女 野郎常に徘徊仕り」
「其外町方茶屋共留女これ有り、参詣者を引留め候」
意訳変換しておくと
「金毘羅の近在に遊女 がいて客引きが徘徊している」
「その外にも町方の茶屋にも遊女がいて、参詣者を引留める」
これを見ると、遊女は近在だけでなく、門前町の茶屋にも入り込んでいたことが分かります。追放することはできなかったようです。
 
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寛政元年10月9日の「日記」には、次のように記します。

「町方遊女杯厳申付、折々町廻り相廻候」

門前町の遊女達を取り締まるために、役人を巡視させ監視させます。しかし、同年11月25日の条には、次のように記します。
中村屋宇七、岡野屋新吉、幟屋たく、右三人之内江 遊女隠置相知レ戸申付候
と、宿屋の中に遊女を隠し置くところがでてきています。

享和2年(1802)春、金毘羅参詣を記した旅日記『筑紫紀行』の中で、旅人菱谷平七が金毘羅の町の様子について、次のように記します。
「此所には遊女、芸子なんと大坂より来りゐるを、宿屋、茶屋によびよせて、旅人も所のものもあそぶなり」
意訳変換しておくと
「金毘羅の遊女、芸子の中には大坂より、宿屋や茶屋がよびよせて、旅人も地元の者もあそんでいる」

上方から遊女や芸子をよびよせて提供する宿屋や茶屋も現れていたようです。19世紀になると金毘羅は、金毘羅信仰の高まりとともに一大遊興地の側面を見せはじめています。以上から、金光院当局は、何度も禁止令を出し遊女取締を打ち出しますが、効果はなかったようです。 

  「遊女」から「酌取女」「飯盛女」とへの呼称変更

92見立女三宮図 勝川春章

 見立女三宮図 勝川春章 金刀比羅宮奉納絵馬
こうして文政期になると、遊女を一切認めない方針で治安維持に努めてきた当局側も、もはや「金毘羅には遊女がいます」という黙認の形をとらざるをえない状況になってきます。まず、呼称の変更です。それまでの「遊女」という表現から、「酌取女」「飯盛女」といった呼称に変えます。「遊女」という露骨な表現を避け、「酌取女」「飯盛女」といった一見売春とはかけ離れた下働に従事する女性を想像させる呼称を使用します。

文政6年(1823)2月2日夜、遊女の殺害事件が起きます。

場所は内町糸屋金蔵方で、同町の金屋庄太郎召遣の酌取女ゑんが高松藩の一ノ宮村の百姓与四郎の弟鉄蔵(当時無宿)に殺されたのです。犯人は六日後に自首。遺体は、ゑんの故郷京都より実父と親類が貰い受け、2月20日には一件落着となりました。しかし、この事件は大きなスキャンダルとなり、金光院当局側に相当なダメージを与えたようです。というのもこの後、金光院側から町方へ酌取女のことで厳しい達が出されていることから分かります。


それが「文政七申三月酌取女雇人茶屋同宿一同へ申渡 並請書且同年十月追願請書通」として残っています。そこには、今までの触達にない次のような条項が盛り込まれています。 
「此度願出之内(中略)酌取女雇入候 茶屋井酌取女差置候宿 此度連印之人名。相限り申度段願之通御聞届有之候」「酌取女雇入候宿屋。向後茶屋と呼、酌取女不入雇宿屋 旅篭屋と名付候様申渡候」
意訳変換しておくと
「この度の願出の中で(中略)酌取女の雇い入れについて、茶屋や酌取女を置く宿は、連名で申し込めば、お聞き届けになることになった」
「酌取女を雇入れる宿屋は、今後は茶屋と呼び、酌取女を置かない宿屋は旅篭屋と名付けるよう申しつける」
ここからは酌取女を置く宿を「茶屋」として、当局側か遊女宿の存在を認めたことが分かります。そして、その管理役を任命しているのが次の史料です。

久太郎義最早致成人候二付旅人引受。同人壱天。被仰付候間、右様相心得可申候、尤此度茶屋惣代之者両三人申付候間、別。・茶屋之者とも三人宛月行司相定、月二順番相勤、右惣代井久太郎へ万事加談之上不埓無之様取計可申候」、

「右旅人引請世話方之者たりとも諸入目銀不及用捨取立可申候、尤引請久太郎町廻り茶屋惣代等。種々雑費等。可有之候間、夫々割合を以雑費手当銀相渡可申候事辻

意訳変換しておくと
久太郎については成人に達したので旅人引受人を命じる。そして、旅人引受人を筆頭に、茶屋惣代・月行司の三役で、月番で勤め、惣代の久太郎へ万事について僧団の上で不埓なことがないように取り計らうこと」、

「旅人引請世話方の者といえども、諸入目銀などを捨取ることは認めない。しかし、久太郎の町廻りや、茶屋惣代の様々な経費についてはこれを認める。それぞれ割合をきめて雑費手当銀を渡すことにする。

ここからは、公的に認めた遊女や茶屋の管理のために新たに旅人引受人として久太郎という人物が登場してきます。この旅人引受人を頭に茶屋惣と代月行司という三役でもって茶屋中の管理がなされるようになります。そして、彼らは「雑費手当銀」という手当を金光院側からもらっていたということも分かります。
こうして公的に酌取女を置く「茶屋」が急速に増えます。

金毘羅の町別の茶屋と遊女数
金毘羅の町別の茶屋数

文政7年(1824)に、金比羅には茶屋は95軒ありました。
①金山寺町に、37軒(約40%)
②内町は約に 33軒(約35%) 、
金山寺町火災図 天保9年3
金山寺町の略図 ●が茶屋 37軒ある
金山寺町と内町両町だけで全体の 約75%の茶屋がありました。仮に一軒に3人の酌取女がいたとすれば、両町だけで200人を超える酌取女が働いていたということになります。文政年間には、他の職業から遊女宿に転業するものも増え、金山寺町と内町は遊女宿が軒を並べて繁盛するようになります。。
  文政7年の「申渡」は、それまでの「遊女禁止策」に代わって、制限を加えながらも当局側か遊女宿の存在を認めたもので、金毘羅の遊女史におけるターニングポイントとなりました。

 
天保年間の全国遊郭番付には、金毘羅門前が入っています。

金毘羅遊女 諸国遊郭番付

天保年間の全国遊郭番付 左欄下から2段目に「サヌキ 金ひら」
「諸国遊所見立角力並に直段附」によると讃岐金毘羅では、上妓・下妓の二種類のランク付けがあったようで、上妓は25五匁、下妓は4匁の値段が記されています。これを米に換算すると、だいたい上は4斗7合弱、下は6升7合弱に当たるようです。相当なランク差があったことが分かります。
それでは「上妓」とは、どんな存在だったのでしょうか?
 天保3年(1832)9月、当時金毘羅の名奴ともてはやされた小占という遊女がいました。彼女が、高松藩儒久家暢斎の宴席へ招かれるという「事件」が起きます。これは大きな話題となりました。この頃すでに、売春を必ずしも商売とせず、芸でもって身をたてる芸妓がいたようです。先の廓番付にみられる値段の格差など考えれば、遊女の中でも参詣客の層にあわせた細分化されたランク付けがあったのでしょう。そして、ここにはひとつの文化的な空間が生まれます。


金毘羅大権現 愛宕山

内町・芝居小屋 讃岐国名勝図会
金山寺町の芝居小屋
天保期の金毘羅門前町の発展を促したものに、金山寺町の芝居定小屋建設があります。この定小屋は、当時市立ての際に行われていた富くじの開札場も兼ね備えていました。茶屋・富くじ・芝居といった三大遊所の確立は、ますます金毘羅の賑わいに拍車をかけました。
 天保4年(1833)2月、高松藩の取締役人は酌取女に対し、芝居小屋での舞の稽古を許可しています。さらに、次のように記します。
「平日共徘徊修芳・粧ひ候様申附候」

ここからは、酌取女の行動や服装に対しても寛大な態度を示しています。

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花下遊女図 江戸新吉原講中よりの金比羅さんへの寄進絵馬

遊女をめぐる事件
 いくらかの自由を与えられた酌取女の行動は、前にも増して周囲の若者へ刺激となります。
1842年の天領三ヶ所を中心とした騒動は、倉敷代官所まであやうく巻き込みそうになるほどの大きな問題に発展します。事の起こりは、周辺天領からの次のような動きでした。
「若者共が金毘羅に出向いて遊女に迷い、身持ちをくずす者が多いので、倉敷代官所へ訴え出る」
慌てた金光院側が榎井村の庄屋長谷川喜平次のもとへ相談に行きます。結局、長谷川の機転のよさで、もし御料の者が訴え出ても取り上げないよう倉敷代官所へ前もって願い出、代官所の協力も得ることになりました。その時の長谷川の金毘羅町方手代にむかって、こう云っています。

「繁栄すると自分たち御料も自然と賑わうのだから、なんとか訴える連中をなだめましょう」

当時の近隣村々の上層部の本音がかいまみえます。この騒動の後、御料所と金毘羅双方で、不法不実がましいことをしない、仕掛けないという請書連判を交換する形で一応騒動は決着をみています。長谷川喜平次は、後に満濃池の大改修の際に底樋の石造化を行った人物です。

93桜花下遊女図 落合芳幾
         桜花下遊女図 落合芳幾 (金刀比羅宮奉納絵馬)
 行動の自由を少しずつ許された金毘羅の遊女が引き起こす問題は、周囲に様々な波紋を広げました。しかし、それに対する当局側の姿勢は、「門前町繁栄のための保護」という形に近っかたようです。上層部の保護のもと、天保期、金毘羅の遊女は門前町とともに繁栄のピークを迎えます。
この続きは次回へ
参考文献 林 恵 近世金毘羅の遊女
 
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