丸亀街道 神野神社より富隈神社まで
赤ルートが金毘羅丸亀街道です。燈籠⑱⑲⑳と道標⑧⑨⑩が集まっているのが前回に見た与北の茶屋でした。ここには5mを越える大燈籠が大坂の順慶町の商人によって寄進されていました。中間地点の与北の茶屋で一服した後で、旅人たちは街道を南に歩み始めます。今の道は、明治になってから県道4号(丸亀・三好線)として整備されたものです。昔は、これよりも狭く、真っ直ぐでもなかったようです。
旧金毘羅丸公文周辺公文周辺
街道が三叉路になって左右に分かれる真ん中に道標㉓㉔が立っています。
左面 右 金毘羅左 大川剣山 道右面 右 すぐ丸亀
と読めます。この周辺の燈籠一覧表で、その他に何が書かれているのかを見てみましょう。
丸亀街道道標一覧表(与北・公文周辺)
㉓道標の建立日が、明治11年11月吉日と彫られています。世話人は、地元与北山下の山口藤兵とあります。この時期になると世の中も落ち着いてきて、幹線道路や里道整備が進められるようになります。それまで屈曲していた丸亀街道が真っ直ぐになり、幅も広げられ、新たに高篠から吉野へ抜けて行く道が整備され、この地点でつながったのかもしれません。
しかし、目的地が「大川剣山 」というのが私には気になります。どうして、「大川剣山」なのでしょうか?
大川山は、この地点からも遠く望める丸亀平野の里からの霊山で、雨乞い信仰の山でした。周辺には、山伏の存在がうかがえ、里での宗教活動も行っていたようです。それでは剣山が到達地として書き込まれたのはどうしてでしょうか。ここからは私の仮説です。この道標を建てた人たちは、山伏関係者ではなかったと私は考えています。
阿波の剣山が霊山として開かれたのは、以前にお話ししてように近世も半ばになってからのことです。木屋平の龍光寺や見ノ越の円福寺の山伏たちによって、行場が開かれ開山されていきます。明治になると、神仏分離によって多くの山岳宗教が衰退するのを尻目に、龍光寺や円福寺は修験道組織の再編に乗り出します。龍光寺・円福寺は、自ら「先達」などの辞令書を信者に交付したり、宝剣・絵符その他の修験要具を給付するようになります。そして、信者の歓心を買い、新客の獲得につなげ教勢拡大を果たしていきます。そのような中で阿波の山伏たちは幕末から明治にかけて、箸蔵寺などと連携しながら讃岐に進出し、剣山への参拝登山を組織するようになります。こうして、彼らは箸蔵道の整備などを行う一方で、剣山への集団参拝を布教活動の一環として行うようになります。そのため伊予街道や金毘羅街道にも「箸蔵寺へ」という道標が出てくるようになります。善通寺の永井にも「はしくらじへ」へと書かれた大きな道標があります。あれは、ある意味では阿波の山伏たちの布教成就を示すものと私は考えています。そういう目で見ると、この「大川剣山」は見逃せない意味があるように私には思えてくるのです。
さらに公文の地には、木食善住上人の活動の拠点が置かれていました。
周辺には、山伏の共感者たちのネットワークが形成されていました。そのようなことを背景にして、この道標を改めて見てみると、明治の頃の山伏の活動が見えてくるような気がします。
周辺には、山伏の共感者たちのネットワークが形成されていました。そのようなことを背景にして、この道標を改めて見てみると、明治の頃の山伏の活動が見えてくるような気がします。
山裾に残る丸亀街道の道標兼常夜灯
丸亀から90丁の地点に発つ㉓道標を右手にとると、街道は如意山の裾野をたどるようになります。この辺りが古い街道跡がそのまま残っている場所になるのかも知れませんが、ルートは寸断されてよく分かりません。先ほどの道標一覧表を見ると、この周辺にあった道標は富隈神社の参道に遷されています。
富隈神社を描いた金毘羅参詣名所図会を見ておきましょう。
公文の富隈神社から苗田まで(金毘羅参詣名所図会)
如意山の山裾を削るようにして付けられた街道が高篠・苗田方面に伸びています。如意山の尾根の先に鎮座するのが富隈神社です。金毘羅街道に面するように鳥居が建ち、その奧に本堂への参道階段が伸びているように見えます。山の向こう側には、式内社の櫛梨神社があります。街道沿いには、東櫛梨の産土社である大歳神社や、苗田の産土社である石井八幡が見えます。ここで私が気になるのは、やはり背景の山々です。このアングルだと後には大麻山から続く、象頭山が描かれていて欲しいところです。この山脈は象頭山には見えません。ほんまに取材旅行にきて、実際にみたんな?と突っ込みを入れたくなります。
丸亀街道から見上げる富隈神社
ここからは更にデイープな話になります。
私がお気に入りの眼鏡燈籠が3基あります。
足下には「岡山家中」と彫られています。最初は、岡山の人が善通寺に寄進した変わった形の眼鏡灯籠やな、くらいにしか考えていませんでした。
そして、眼鏡を通して見る本堂は絵になるなと、やって来る度にこの眼鏡灯籠から見る本堂を楽しんでいました。
ところがこれと同じものを、櫛梨神社の参道で見つけました。眼鏡から見える善通寺の五岳山を眺めていて、じわっと疑問が湧いてきました。下にはやはり「岡山家中」と彫られているのです。なんで同じものが善通寺と櫛梨神社にあるの? この疑問はなかなか解けませんでした。善通寺や櫛梨神社を散策した時には、眼鏡燈籠の眼鏡を通してみることが、楽しみにもなってきました。
眼鏡燈籠越しに見る五岳山 我拝師山
あるとき図書館から借りだした 善通寺文化財協会報のバックナンバーに、 川合信雄氏が木食善住上人について次のように述べていました。
上人の入定は、地元では大きなニュースとなったこと。各地からの多くの浄財も集まり、入定塔周辺や富隈神社の境内整備にも使われたこと。上人は修験者として武道にも熟練していたので、丸亀藩・岡山藩等の家中の人との交流もあり、人望も厚かったこと。そのため岡山藩の藩士達が、眼鏡灯(摩尼輪灯)2基を寄進設置したこと。
ここからは、眼鏡灯(摩尼輪灯)3基は岡山藩の家中の中で、木食善住上人と生前に関係の深かった人たちによって送られたことが分かります。それでは摩尼輪灯は、どこに設置されていたのでしょうか。それを教えてくれるのが明治になって発行された原田屋版の「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」です。高灯籠の右側が公文山になります。 拡大して見ると
富隈神社のすぐ下の金毘羅街道沿いに眼鏡燈籠が2基並んで描かれています。燈籠建立は上人死後の翌々年のことなので明治5年(1872)になります。ここからこの案内図は明治5年以後の発行であることも分かります。
上人をともらう人もいなくなった頃に、県道4号線に昇格し、道整備が行われ、その邪魔になったのかもしれません。そこで、ひとつが善通寺へ、もうひとつが式内社の櫛梨神社に引き取られたと推測できます。もともとあった富隈神社に、どうして残せなかったのかと思ってしまいます。文化財の保護のあり方にも関わってくる問題なのかも知れません。摩尼輪灯の由来は解けましたが、以前のように素直に眼鏡燈籠からの景色を楽しめなくなってしまいました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 川合信雄 木食善住上人 善通寺文化財協会報
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