瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金毘羅丸亀街道

丸亀街道地図 公文周辺
丸亀街道 神野神社より富隈神社まで

赤ルートが金毘羅丸亀街道です。燈籠⑱⑲⑳と道標⑧⑨⑩が集まっているのが前回に見た与北の茶屋でした。ここには5mを越える大燈籠が大坂の順慶町の商人によって寄進されていました。中間地点の与北の茶屋で一服した後で、旅人たちは街道を南に歩み始めます。今の道は、明治になってから県道4号(丸亀・三好線)として整備されたものです。昔は、これよりも狭く、真っ直ぐでもなかったようです。
金毘羅丸亀街道
旧金毘羅丸公文周辺公文周辺

 街道が三叉路になって左右に分かれる真ん中に道標㉓㉔が立っています。
DSC06205
丸亀街道と大川街道の分岐点にある㉓道標(善通寺与北町)
もう少し近づいてみましょう。
DSC06206
㉓道標
左面  右 金毘羅
  左 大川剣山     道
右面 右 すぐ丸亀 
と読めます。この周辺の燈籠一覧表で、その他に何が書かれているのかを見てみましょう。
丸亀街道 公文 富隈神社の道標
        丸亀街道道標一覧表(与北・公文周辺)                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

㉓道標の建立日が、明治11年11月吉日と彫られています。世話人は、地元与北山下の山口藤兵とあります。この時期になると世の中も落ち着いてきて、幹線道路や里道整備が進められるようになります。それまで屈曲していた丸亀街道が真っ直ぐになり、幅も広げられ、新たに高篠から吉野へ抜けて行く道が整備され、この地点でつながったのかもしれません。
 しかし、目的地が「大川剣山 」というのが私には気になります。どうして、「大川剣山」なのでしょうか?
 大川山は、この地点からも遠く望める丸亀平野の里からの霊山で、雨乞い信仰の山でした。周辺には、山伏の存在がうかがえ、里での宗教活動も行っていたようです。それでは剣山が到達地として書き込まれたのはどうしてでしょうか。ここからは私の仮説です。この道標を建てた人たちは、山伏関係者ではなかったと私は考えています。
 阿波の剣山が霊山として開かれたのは、以前にお話ししてように近世も半ばになってからのことです。木屋平の龍光寺や見ノ越の円福寺の山伏たちによって、行場が開かれ開山されていきます。明治になると、神仏分離によって多くの山岳宗教が衰退するのを尻目に、龍光寺や円福寺は修験道組織の再編に乗り出します。龍光寺・円福寺は、自ら「先達」などの辞令書を信者に交付したり、宝剣・絵符その他の修験要具を給付するようになります。そして、信者の歓心を買い、新客の獲得につなげ教勢拡大を果たしていきます。そのような中で阿波の山伏たちは幕末から明治にかけて、箸蔵寺などと連携しながら讃岐に進出し、剣山への参拝登山を組織するようになります。こうして、彼らは箸蔵道の整備などを行う一方で、剣山への集団参拝を布教活動の一環として行うようになります。そのため伊予街道や金毘羅街道にも「箸蔵寺へ」という道標が出てくるようになります。善通寺の永井にも「はしくらじへ」へと書かれた大きな道標があります。あれは、ある意味では阿波の山伏たちの布教成就を示すものと私は考えています。そういう目で見ると、この「大川剣山」は見逃せない意味があるように私には思えてくるのです。
 さらに公文の地には、木食善住上人の活動の拠点が置かれていました。
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周辺には、山伏の共感者たちのネットワークが形成されていました。そのようなことを背景にして、この道標を改めて見てみると、明治の頃の山伏の活動が見えてくるような気がします。

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山裾に残る丸亀街道の道標兼常夜灯

 丸亀から90丁の地点に発つ㉓道標を右手にとると、街道は如意山の裾野をたどるようになります。この辺りが古い街道跡がそのまま残っている場所になるのかも知れませんが、ルートは寸断されてよく分かりません。先ほどの道標一覧表を見ると、この周辺にあった道標は富隈神社の参道に遷されています。
 富隈神社を描いた金毘羅参詣名所図会を見ておきましょう。
丸亀街道 公文から苗田
公文の富隈神社から苗田まで(金毘羅参詣名所図会)

如意山の山裾を削るようにして付けられた街道が高篠・苗田方面に伸びています。如意山の尾根の先に鎮座するのが富隈神社です。金毘羅街道に面するように鳥居が建ち、その奧に本堂への参道階段が伸びているように見えます。山の向こう側には、式内社の櫛梨神社があります。街道沿いには、東櫛梨の産土社である大歳神社や、苗田の産土社である石井八幡が見えます。ここで私が気になるのは、やはり背景の山々です。このアングルだと後には大麻山から続く、象頭山が描かれていて欲しいところです。この山脈は象頭山には見えません。ほんまに取材旅行にきて、実際にみたんな?と突っ込みを入れたくなります。

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丸亀街道から見上げる富隈神社
  ここからは更にデイープな話になります。
私がお気に入りの眼鏡燈籠が3基あります。
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          眼鏡燈籠(摩尼輪灯) 善通寺東院
 ふたつは、善通寺東院の五重塔の東側にあります。ここからは、本堂が覗き見えます。

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 足下には「岡山家中」と彫られています。最初は、岡山の人が善通寺に寄進した変わった形の眼鏡灯籠やな、くらいにしか考えていませんでした。
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そして、眼鏡を通して見る本堂は絵になるなと、やって来る度にこの眼鏡灯籠から見る本堂を楽しんでいました。

DSC04654櫛梨神社
櫛梨神社参道に立つ眼鏡燈籠 
 ところがこれと同じものを、櫛梨神社の参道で見つけました。眼鏡から見える善通寺の五岳山を眺めていて、じわっと疑問が湧いてきました。下にはやはり「岡山家中」と彫られているのです。なんで同じものが善通寺と櫛梨神社にあるの?   この疑問はなかなか解けませんでした。善通寺や櫛梨神社を散策した時には、眼鏡燈籠の眼鏡を通してみることが、楽しみにもなってきました。
DSC04755櫛梨神社の眼鏡燈籠
眼鏡燈籠越しに見る五岳山 我拝師山
あるとき図書館から借りだした 善通寺文化財協会報のバックナンバーに、 川合信雄氏が木食善住上人について次のように述べていました。
 上人の入定は、地元では大きなニュースとなったこと。各地からの多くの浄財も集まり、入定塔周辺や富隈神社の境内整備にも使われたこと。上人は修験者として武道にも熟練していたので、丸亀藩・岡山藩等の家中の人との交流もあり、人望も厚かったこと。そのため岡山藩の藩士達が、眼鏡灯(摩尼輪灯)2基を寄進設置したこと。

 ここからは、眼鏡灯(摩尼輪灯)3基は岡山藩の家中の中で、木食善住上人と生前に関係の深かった人たちによって送られたことが分かります。それでは摩尼輪灯は、どこに設置されていたのでしょうか。それを教えてくれるのが明治になって発行された原田屋版の「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」です。高灯籠の右側が公文山になります。  拡大して見ると
丸亀街道 公文眼鏡灯籠

富隈神社のすぐ下の金毘羅街道沿いに眼鏡燈籠が2基並んで描かれています。燈籠建立は上人死後の翌々年のことなので明治5年(1872)になります。ここからこの案内図は明治5年以後の発行であることも分かります。

 上人をともらう人もいなくなった頃に、県道4号線に昇格し、道整備が行われ、その邪魔になったのかもしれません。そこで、ひとつが善通寺へ、もうひとつが式内社の櫛梨神社に引き取られたと推測できます。もともとあった富隈神社に、どうして残せなかったのかと思ってしまいます。文化財の保護のあり方にも関わってくる問題なのかも知れません。摩尼輪灯の由来は解けましたが、以前のように素直に眼鏡燈籠からの景色を楽しめなくなってしまいました。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 
 参考文献       川合信雄   木食善住上人    善通寺文化財協会報

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丸亀:金毘羅参拝図 高灯籠以後 
金毘羅案内図
金毘羅船で丸亀にやってきた参拝客は、案内絵図を手渡されます。その案内図に従って「金毘羅+四国霊場善通寺 + 七ヶ寺」巡礼を行って、再び丸亀に帰ってきて、帰路の船に乗ることが多かったことを、前回までにお話ししました。案内図には、目印となるモニュメントが描かれるのがお約束でした。新たに描かれるようになったモニュメントで、その案内図がいつごろ出版されたかもわかります。今回は絵図に描かれたモニュメントを見ながら絵図の発行年代を推測していきたいと思います。

最初に、参拝道モニュメントの完成年を押さえておきます。
天明2年 1782 粟島庄屋、高藪の鳥居寄進。
天明8年 1788 二本木銅鳥居建立。
文化元年1804  善通寺の五重塔完成
文化3年 1806 丸亀福島湛甫竣工
文政元年 1818 二本木銅鳥居修覆。
文政5年 1822 十返舎一九、「讃岐象頭山金毘羅詣」
天保2年 1831 金堂初重棟上げ。
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工
天保5年 1834 神事場馬場完成、多度津港新湛甫起工。
天保6年 1835 芝居定小屋(金丸座)上棟。
天保11年1840 多度津須賀に石鳥居建立。 善通寺五重塔落雷を受けて焼失。
弘化2年 1845 金堂、全て成就。
嘉永元年 1848 阿波街道口に鳥居建立。
嘉永2年 1849 高藪町入口、地蔵堂建立。
嘉永4年 1851 二本木に江戸火消組奉納の並び灯龍完成
安政元年 1854 安政地震で新町の鳥居崩壊、高藪口の鳥居破損。
  道作工人智典、丸亀口から銅鳥居までの道筋修理終了。
安政2年 1855 新町に石鳥居再建。(位置が東に移動)
安政4年 1857 多度津永井に石鳥居建立。
安政6年 1859 一の坂口の鉄鳥居建立。
万延元年 1860 高燈籠竣成
文久元年 1861 内町本陣上棟。
元治元年 1864 榎井村六条西口に鳥居建立。
慶應3年 1867 賢木門前に真鍮鳥居建立。旗岡に石鳥居建立。
上の年表を、年代判定の「ものさし」にして。案内絵図の発行年代を推測してみます。
丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋
      E27「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」
 この絵図で、大きな指標となるのが丸亀港のふたつの湛甫①②と、二本木周辺⑤のモニュメント群です
②に天保4年(1833)に完成した新堀が描かれ、江戸町人の寄進灯龍2基が並ぶこと
⑤に万延元年(1860)に建設された高燈籠が描かれていること。
さらに金毘羅の山上を見ると、金堂が旭社と改名されていること
ここからは、神仏分離の進んだ明治以後に発行されたものであることが分かります。年表を見ると慶應3(1867)年に、賢木門前に真鍮の鳥居建立されたという情報があります。確かに、賢木門前には鳥居があります。しかし、これが、真鍮かどうかは分かりません。また、金毘羅大権現から金刀比羅宮へと切り替えが進み、神仏分離が実質的に進められるのは、翌年の明治2年以後です。下限年代を絞り込む情報を、私は見つけることができません。絵図の発行年代は明治2年(1867)~明治5年くらいまでとしておきます。

善通寺・弥谷寺
善通寺 ないはずの五重塔が描かれる

私がこの案内図を見ていて不思議に思うのは、善通寺の五重塔です。
この塔は、戦国末期に焼け落ちてなかったものが文化元年(1804)に再建されます。ところがそれもつかのまで、天保11(1840)年には落雷で焼失します。それが再建されるのは明治の後半になってからのことです。つまり、幕末から明治前半には、善通寺の五重塔は姿を消していたはずです。ところがどの金毘羅案内図を見ても、善通寺の五重塔は描かれているのです。これをどう考えればいいのでしょうか?

233善通寺 五岳
善通寺の東院と誕生院 五重塔

  善通寺にとって五重塔は必要不可欠のアイテムなので、実際になくても描くというのが「お約束」だったのかもしれません。どちらにしても五重塔は、絵図がいつ描かれたかを知るための基準にはならないことを押さえておきます。

丸亀街道 E22 ことひら5pg
E㉒「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」

これも原田屋の版で、先ほど見た明治ものと描かれているモニュメントはほとんど同じです。ところが、山上の宗教施設の註が全て異なっています。金堂や観音堂など神仏混淆時代の呼名が記されています。ということは、神仏分離前に発行されたものであることが分かります。山下のモニュメントを見てみると、次の2つが描かれています
・二本木の高灯龍(万延元年(1860)完成)
・仁王門下の一ノ坂口の鉄鳥居(安政六年(1859)建立)
以上から、E㉒は高灯籠建立後から明治維新までの間に出されたものと分かります。

丸亀街道 E27 ことひら5pg
      E㉗「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」

E㉗を先ほどのE㉒と比べて、何がなくなっているかを「引き算」してみます。
・二本木の高灯龍(万延元年(1860)完成)がありません。
・しかし、1851年に完成した並び燈籠はあります
・仁王門下の一ノ坂口の鉄鳥居(安政六年(1859)建立)もありません。
・新町の燈籠もありません。



年表を見ると分かるように、新町の燈籠は、安政元年(1854)の大地震で倒れてしまいます。そして、その翌年・安政2(1855)年に、位置を東側に移して石鳥居として建立されます。これが現在のもののようです。以上からこの案内図は、新町鳥居の建立より前で、並び灯籠完成後の間に出版されたことになります。
丸亀街道 E⑳ ことひら5pg
      E⑳「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」
最後にE⑳です
①天保4年(1833)に完成した新堀湛甫が描かれ、江戸町人の寄進灯龍も3基並ぶこと
②弘化2年(1845)に完成した金堂が描かれていること。
③万延元年(1860)に、二本木に建設される高燈籠が描かれていないこと。
④安政元年(1854)に倒壊した新町の鳥居が再建前の位置に描かれていること。
⑤二本木に嘉永4年(1851)に江戸火消組奉納の並び灯龍がなく、玉垣だけであること
以上からE⑳は、1845年~51年の間に出版されたと推測できます。しかし、金堂に関しては、完成の5年前には、銅葺き屋根は姿を見せていたので、さらに遡る可能性はあります。
高灯籠8
幕末の二本木 高灯籠建立後で二本差しの武士が見えるので幕末期

こうしてみると金堂が整備される時期にあわせて、石段や玉垣なども整備され景観が一変していきます。それが人々にアピールして、さらなる参拝客の増加を招くという結果を招きます。案内絵図を見ていても燈籠や道標などのモニュメントが急速に増えていくのも、この時期です。高灯籠の出現は、この時期に出現したモニュメントのシンボルであったと私は考えています。
丸亀街道 弥谷寺めぐり


 丸亀から善通寺や七ヶ所霊場を周遊する霊場巡りは、明治になっても変わりません。これが大きく変化していくのは、明治20年代に登場する多度津と琴平を結ぶ汽車です。汽車の登場によって、歩いての金毘羅参拝は下火になり、善通寺やそのまわりの七ヶ寺を巡礼する参拝者は激減していくようになります。金毘羅参拝と四国巡礼が次第に分離していくことになります。それ以前は、神仏混淆下で金毘羅も善通寺もおなじ金比羅詣でだったようです。
高灯籠23
明治の二本木周辺 並燈籠+鳥居+一里塚の巨木+高灯籠

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「町史ことひら5 絵図写真篇112P 丸亀からの案内図」
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丸亀港2 福島湛甫・新堀湛甫
丸亀港 福島湛甫と新堀湛甫が並んで見える
 
19世紀になると金比羅船で上方からやって来る参拝客が激増して、受入港の丸亀は大賑わいとなります。そのため新たに、丸亀藩では福島湛甫や新堀湛甫を建設して、参拝客の受入対応が整備されていきます。その結果、船宿や旅籠や茶屋やお土産店などが数多く立ち並ぶようになり、観光産業が港周辺には形成されていきます。
 彼らの中には、参拝客獲得の客引きのために金毘羅案内図を無料で配布する者も現れます。これは、大坂の船宿が金毘羅船の航路図を配布していたのと同じやり方です。案内図を渡しながら次のような声かけを行ったと私は想像しています。
「金毘羅大権現だけでなく、弘法大師さんお生まれの善通寺もどうぞ、さらにはお四国めぐりの七ケ所めぐりもいかがですか」
「丸亀から帰りの船も出ますので、荷物はお預かりします、お土産は途中でお買いなると荷物になりますので、船に乗る前に当店で、是非どうぞ」
丸亀港3 福島湛甫・新堀湛甫
福島湛甫と新堀湛甫

 こうして多くの金毘羅参拝者たちは、「金毘羅大権現 + 七ケ寺巡礼」(金毘羅大権現→善通寺→甲山寺→曼荼羅寺→出釈迦寺→弥谷寺→海岸寺→道隆寺→金倉寺)を周遊巡礼して、丸亀に帰ってきました。そこで、帰路の船に乗船する前に荷物を預けたお土産店で、土産を買い込みます。
こうした動きを先取りしたのが、前回紹介した丸亀の横闘平八郎です。
丸亀街道 E⑬ 町史ことひら5 
金毘羅土産所の図 当時の金毘羅土産がわかる
 彼は板木を買い取り、自分で案内図などの出版を手がけるようになります。彼の金毘羅詣でなどの案内記には、丸亀・金毘羅の名物紹介したページが載せられるようになります。ここでは横開平八郎は「讃岐書堂」と名乗っています。観光業から出版業への進出と云えそうです。
「金毘羅御土産所」で扱っていた当時の金毘羅名物を見てみましょう
①玉藻のつと
②五しゆ漬
③小不二みそ
④あけぼの
⑤無事郎
⑥しだやうじ
⑦にとせし
⑧ちん其扇
⑨国油煙墨       油を燃やして煤を採煙し、膠、水、香料などと混ぜ合わせて造られた墨。
⑩寿上松葉酒     松葉は「ここに天の神薬を頂き、この身は天の無限の力
⑪はら薬舎
⑫五用心
⑬直に任せて
⑭あかひむ
⑮わすれ貝
 上に挙げられているお土産が一体何であるのか残念ながら私にはよく分かりません。③がみそ、⑨が墨、⑩が滋養酒のようです。それ以外にも飴、湯婆・みそ・松茸・索麺・生姜が含まれているようですが見当も付きません。ご存じの方があったら教えて下さい。
案内図の板元と土産店を経営する丸亀の横開平八郎が出版したふたつの絵図を見てみましょう。
丸亀街道 E⑪ 町史ことひら5
E⑪「金毘羅參詣案内大略圖」 (町史ことひら5)より

E⑪「金毘羅參詣案内大略圖」には、丸亀港に新堀湛甫や太助灯籠が描かれています。新堀湛甫の完成は天保4年(1833)のことになるので、それ以後に出されたものであることが分かります。これは、前回見たように、買い求めた版木に自分の名前と一部を入れ替えただけのものです。今まで丸亀から各地への里程が記されいた左下隅の枠内には、金毘羅案内の書物9部の広告が載せられています。広告の最後には、次のように記されています。
地本弘所書林/丸亀加屋町碧松房/金物屋平八郎(横関平八郎)

  ここからは横開平八郎は、房号を碧松房といったことが分かります。また先ほどの「金毘羅土産所の図」と併せると「地本弘所書林」は「名物土産舗」も兼業していたことが分かります。丸亀の金物屋平八郎(碧松房・横関平八郎)は、金物屋から土産店、そして出版版元へと多角経営に乗り出していたことが見えてきます。

丸亀街道 E⑬ 町史ことひら5
E⑬ 象頭山喩伽山両社参詣道名所旧跡絵図

E⑬も横開平八郎の刊です。
今まで絵図に比べると上下が広い印象を受けます。そして見たことのない構図です。それもそのはずです。E⑪の下に、瀬戸内海と対岸の備中が付け加えられているのです。追加された下の部分で目立つのは、丸亀対岸の児島半島の喩迦山蓮台寺です。蓮台寺では、五流修験者たちが金比羅詣で客を喩伽山に引き込むためにいろいろな営業活動が行われるようになります。そのひとつが、金毘羅参詣だけでは「片参り」になり、楡迦山へも参詣しないと本当の御利益は得られないという巧みな宣伝です。このため19世紀半ばになると参拝客も増えます。そのために出されたのが「両参り」用のこの案内書E⑬のようです。喩伽山とタイアップして、観光開発をすすめる平八郎の経営姿勢がうかがえます。
 丸亀街道 E⑭ 町史ことひら5
E⑭「金毘羅參詣案内大略圖」
E⑭「金毘羅參詣案内大略圖」標題下の板元名の欄が空白です。また、左下欄も半分が真っ白です。それ以外は、横関平八郎が版木を買って発行したE⑪と全く同じもののようです。板木が摩滅して見にくくなっています。ここからは、横関平八郎の手元にあった版木が、嶺松庵に売り渡されて出されたものがこのE⑭になるようです。版木は、売買の対象でした。横関平八郎は、「金毘羅バブル」に乗って、は派手な仕事をしていたようで、経営は長続きせずに板木を手放したようです。
丸亀街道 E⑮ 町史ことひら5
E⑮「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷寺道案内図」

 E⑮はタイトルが「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷寺道案内図」にもどりました。板元は丸亀富屋町原田屋です。左下の枠の中に、丸亀より、こんひら・ぜんつうじ・いやたに・たかまつへの里程を示し、金毘羅の3度の会式、善通寺の御影供と誕生仝の期日を示したあとに、「別二御土産物品々御座候」とあります。ここからは、原田屋も金物屋平八郎と同じように、土産物経営と絵図出版をセットで行っていたことが分かります。
E⑮では、福島湛甫は見えますが、東側に新堀湛甫がまだ姿を見せていません。新掘湛甫竣工は天保4年(1833)年なので、それ以前のものになります。この図で面白いのは、左上の伊予街道の牛屋口の上に高い山と道が書かれていることです。私は最初は伊予の石鎚山かと思いました。よく見ると阿波の箸蔵寺なのです。箸蔵寺周辺は、阿波修験者の拠点で、寺院建立後に活発な布教活動を展開します。そして喩伽山と同じように、金毘羅山の参拝客を呼び込むための広報活動も展開されます。その動きを受けて、丸亀の原田屋は、ここに箸蔵寺を書き加えたことが考えられます。金物屋平八郎は備前喩伽山、原田屋は箸蔵寺の修験者たちの影響下にあったことがうかがえます。

以上を整理しておくと
①金毘羅船就航以後、金比羅参拝者は激増し、丸亀港は上方からの人々で溢れるようになった。
②それを出迎える丸亀では、金毘羅船の船頭が船宿を営み、旅籠やお土産店などが数多く現れ観光産業を形成するようになる。
③その中のお土産店の中には、金比羅詣案内パンフレットを自分の手で発行する者も現れる。
④そこには、兼業するお土産店やタイアップする旅籠などの広告が載せられ客引き用に用いられた。⑤案内図が示す参拝ルートは、丸亀から金毘羅を往復ピストンするものではなく、善通寺 + 四国霊場七ケ寺」の巡礼を奨める者であった。
⑥当時の金毘羅参拝客の多くが「金毘羅 → 善通寺 → 甲山寺 → 曼荼羅寺 → 出釈迦寺 → 弥谷寺 → 白方の海岸寺 → 道隆寺 → 金倉寺 → 丸亀」の周遊ルートを巡っていた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


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