瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金毘羅信仰

金毘羅神 箸蔵寺
金毘羅大権現(箸蔵寺)
                               
 現在の金刀比羅宮は、祭神を大物主、崇徳帝としていますが、これは明治の神仏分離以後のことです。それ以前は、金毘羅大権現の祭神は金毘羅神でした。金毘羅神は近世始めに、修験者たちがあらたに作り出した流行神です。それは初代金光院宥盛を神格化したもので、それを弟子たちたちは金毘羅大権現として+崇拝するようになります。そういう意味では、彼らは天狗信者でした。しかし、これでは幕府や髙松藩に説明できないので、公的には次のような公式見解を用意します。
 金毘羅は仏神でインド渡来の鰐魚。蛇形で尾に宝玉を蔵する。薬師十二神将では、宮毘羅大将とも金毘羅童子とも云う。

 こうして天狗の集う象頭山は、金毘羅信仰の霊山として、世間に知られるようになります。これを全国に広げたのは修験者(金比羅行者=子天狗)だったようです。

天狗面を背負う行者
金毘羅行者

 「町誌ことひら」も、基本的にはこの説を採っています。これを裏付けるような調査結果が近年全国から報告されるようになりました。今回は広島県からの報告を見ていきたいと思います。テキストは、 「印南敏秀  広島県の金毘羅信仰  ことひら40 1985年」です。

広島県の金毘羅神の社や祠の分布を集計したのが次の表です。
広島県の金毘羅神社分布表
この表から分かることとに、補足を加えると次のようになります。
①山県郡や高田郡・比婆・庄原・沼隈などの県東部の県北農山村に多く、瀬戸内海沿岸や島嶼部にはあまり分布していない。
②県北では東城川流域や江川流域の川舟の船頭組に信仰者が多く、鎮座場所は河に突き出た尾根の上や船宿周辺に祀られることが多かった。
③各祠堂とも部落神以上の規模のものはなく、小規模なものが多く、信者の数は余り多くはなく、そのためか伝承記録もほとんど伝わっていない
④世羅郡世羅町の寺田には、津姫、湯津彦を同殿に祀って金比羅社と呼んでいる。
⑤宮島厳島には二つあり、一つは弥山にあって讃岐金比羅の遙拝所になっている。
⑥因島では社としては厳島神社関係が多く、海に沿うた灯寵などには、金刀比羅関係が多い。
⑤金比羅詣りは、沿岸の船乗りや漁師達は江戸時代にはあまり行わなかった。維新以後の汽船時代に入って、九州・大阪通いの石炭船の船乗さんが金比羅参りを始めに連れられるように始まった。

 以上からは安芸の沿岸島嶼部では、厳島信仰や石鎚信仰が先行して広がっていて、金毘羅信仰は布教に苦戦したことがうかがえます。金毘羅信仰が沿岸部に広がるようになるのは、近世後期で遅いところでは近代なってからのことのようです。

 廿日市の金刀比羅神社
広島県廿日市市の金刀比羅神社

因島三庄町 金刀比羅宮分祠

因島三庄町 金刀比羅宮分祠 右が金毘羅灯籠

例えば因島の海運業者には、根深い金刀比羅信仰があったとされます。
年に一回は、金刀比羅宮に参拝して、航海安全の祈祷札を受けていたようです。そして地元では金刀比羅講を組織して、港近くには灯籠を祀っています。
因島三庄町 金刀比羅宮分祠灯籠

因島三庄町 金刀比羅宮分祠の金毘羅灯籠


それでは、金毘羅さんにも灯籠などの石造物などを数多く寄進しているのかというと、そうでもないようです。讃岐金比羅本社の参道両側の灯寵に因島の名があるものは、「金毘羅信仰資料集成」を見る限りは見当たりません。広島県全体でも、寄進物は次の通りです。
芸州宮島花木屋千代松其他(寛永元年八月)。
芸州広島津国屋作右衛門(寛保二年壬戌三月)。
芸州広島井上常吉。
広島備後村上司馬。広島福山城主藤原主倫。 
 宮島や石鎚信仰に比べると、「海の神様」としての金毘羅さんの比重は決して高くないようです。これは讃岐の塩飽本島でも同じです。塩飽廻船の船乗りが金毘羅山を信仰していたために、北前船と共に金毘羅信仰は、日本海沿いの港港に拡大したと云われてきました。しかし、これを史料から裏付けることは難しいようです。北陸の山形や新潟などでも、金毘羅信仰は広島県と同じく、内陸部で始まり、それが海岸部に広がるという展開を見せます。塩飽北前船の廻航と関連づけは「俗説」と研究者は考えているようです。
 近世初頭の塩飽の廻船船主が、灯籠などの金毘羅への寄進物の数は限られています。それに比べて、難波住吉神社の境内には、塩飽船主からの灯籠が並んでいます。
産業の盛衰ともす636基 住吉大社の石灯籠(もっと関西): 日本経済新聞
難波の住吉神社の並び灯籠 塩飽船主の寄進も多い

ここからは塩飽の船乗りが信仰していたのは古代以来馴染みの深い難波の住吉神社で、近世になって現れた金毘羅神には、当初はあまり関心を示していなかったことがうかがえます。これは、芸予諸島の漁民たちには、石鎚信仰が強く、排他的であったことともつながります。これらの信仰の後には、修験者の勢力争いも絡んできます。
 因島における金刀比羅講社の拡大も近代になってからのようです。重井村の峰松五兵衛氏の家にも明治十一年のもの「崇敬構社授与」の証があります。また、因島の大浜村村上林之助氏が崇敬構社の世話掛りを命ぜられたものですが、これも明治になってからのものです。

  崇敬講社世話人依頼書
金刀比羅本宮からの崇敬講社世話人の依頼状
 以上から、次のような仮説が考えられます。
①近世初頭には船頭や船主は、塩飽は住吉神社、安芸では宮島厳島神社、芸予諸島の漁師達は石鎚への信仰が厚かった。
②そのため新参者の金毘羅神が海上関係者に信者を増やすことは困難であり、近世全藩まで金毘羅神は瀬戸内海での信仰圏拡大に苦戦した
③金毘羅信仰の拡大は、海ではなく、修験者によって開かれた山間部や河川航路であった。
④当初から金毘羅が「海の神様」とされたわけではなく、19世紀になってその徴候が現れる。
⑤流し樽の風習も近世末期になってからのもので、海軍などの公的艦船が始めた風習である。
⑥その背景には、近代になって金刀比羅宮が設立した海難救助活動と関連がある。
三次市の金刀比羅宮
三次市の金刀比神社

最後に広島県の安芸高田市向原町の金毘羅社が、どのように勧進されたのかを見ておきましょう。広島県安芸高田市

安芸高田市の向原町は広島県のほぼ中央部、高田郡の東南端にあたります。向原町は太田川の源流でその支流の三条川が南に流れ、江の川水系の二戸島川が北に向かって流れ山陰・山陽の分水界に当たります。
ヤフオク! -「高田郡」の落札相場・落札価格
高田郡史・資料編・昭和56年9月10日発行

そこに高田郡史には向原の金毘羅社の縁起について、次のように記されています。
(意訳)
当社金毘羅社の由来について
当社神職の元祖青山大和守から二十八代目の青山多太夫は、男子がなかった。青山氏の血脈が絶えることを歎いた多太夫は、寛文元朧月に夫婦諸共に氏神に籠もって七日七夜祈願し、次のように願った。日本国中の諸神祇当鎮守に祈願してきましたが、男の子が生まれません。当職青山家には二十八代に渡って血脈が相続いてきましたが、私の代になって男子がなく、血脈が絶えようとしています。まことに不肖で至らないことです。不孝なること、これ以上のことはありません。つきましては、神妙の威徳で私に男子を授けられるように夫婦諸共に祈願致します。
 するとその夜に衣冠正敷で尊い姿の老翁が忽然と夢に現れ、次のように告げました。我は金毘羅神である。汝等が丹誠に願望し祈願するの男子を授ける。この十月十日申ノ刻に誕生するであろう。その子が成長し、六才になったら讃岐国金毘羅へ毎年社参させよ。信仰に答えて奇瑞の加護を与えるであろう。
 この御告を聞いて、夢から覚めた。夫婦は歓喜した。それから程なくして妻は懐妊の身となり、神告通り翌年の十月十日申ノ刻に男子を出産した。幼名を宮出来とつけた。成人後は青山和泉守・口重と改名した。
 初月十日の夜夢に以前のように金毘羅神がれて次のように告げた
汝の寿命はすでに尽きて三月二十一日の卯月七日申ノ刻に絶命する。しかし、汝は長年にわたって篤信に務めてきたので特別の奇瑞を与える。死骸を他に移す事のないようにと家族に伝えておくこと。こうして夢から覚めた。不思議な夢だと思いながらも、夢の中で聞いた通りのことを家族に告げておいた。予言通りに卯月七日の申の刻終に突然亡くなった。しかし、遺体を動かすなと家族は聞いていたので、埋葬せずに家中において、家内で祈念を続けるた。すると神のお告げ通りの時刻の戌ノ刻に蘇生した。そして、尊神が次のように云ったという。
 この村の理右衛門という者と、因果の重なりから汝と交換する。そうすれば、長命となろう。そして、讃岐へ参詣すれば、その時に汝に授る物があろう。これを得て益々信心を厚くして、帰国後には汝の家の守神となり、世人の結縁に務めるべしという声を聞くと、夢から覚めたように生き返ったと感涙して物語った。不思議なことに、理右衛門は同日同刻に亡くなっていた。吉重はそれからは、肉食を断ち同年十月十日に讃岐国金毘羅へ参拝し、熱心に拝んで御札守を頂戴した。帰国時には、不思議なことに異なる五色の節がある小石が荷物の上ににあった。これこそが御告の霊験であると、神慮を仰ぎて奉幣祈念して21日に帰郷した。そして、その日の酉の刻に祇園の宮に移奉した。
 この地に米丸教善と云う83歳の老人に、比和という孫娘がいた。3年前から眼病に犯され治療に手を尽していたが効果がなかった。すると「今ここで多くの信者を守護すれば、汝が孫の眼病も速に快癒する。それが積年望んでいた験である」という声が祇園の宮から聞こえてきて、夢から覚めた。教善は歓喜して、翌22日の早朝に祇園の宮に参拝し、和泉守にあって夢の次第を語った。
 そこで吉重も自分が昨夕に讃岐から帰宅し、その際に手に入れた其石御神鉢を祇園の宮へ仮に安置したことを告げた。これを聞いて、教善は信心を肝に銘じて、吉重と語り合い、神前に誓願したところ神托通りに両眼は快明した。この件は、たちまち近郷に知れ渡り、遠里にも伝わり、参詣者が引も切らない状態となった。
 こうして新たに金毘羅の社殿を建立することになった。どこに建立するかを評議していると、夜風もない静まりかえる本社右手の山の中腹に神木が十二本引き抜け宮居の地形が現れた。これこそ神徳の奇瑞なるべしとして、ここの永代長久繁昌の宝殿を建立することになった。倒れた神木で仮殿を造営し、元禄十三年十一月十日未ノ刻遷宮した。その際に、空中から鳶が数百羽舞下り御殿の上に飛来し、儀式がが全て終わると、空中に飛去って行った。
 元禄十三年庚辰年仲冬  敬白

ここには元禄時代に向原町に金毘羅社が勧進されるまでの経緯が述べられています。
ここからは次のようなことが分かります。
①金比羅信仰が「海上安全」ではなく「男子出生」や「病気平癒」の対象として語られている。
②讃岐国金比羅への参拝が強く求められている
このようなストーリーを考え由緒として残したのは、どんな人物なのでしょうか。
天狗面を背負う行者 正面
金比羅行者
それが金比羅行者と呼ばれる修験者だったと研究者は考えています。彼らは、象頭山で修行を積んで全国に金毘羅信仰(天狗信仰)を広げる役割を担っていました。広島では、児島五流や石鎚信仰の修験者とテリトリーが競合するのを避けて、備後方面の河川交通や山間部の交通拠点地への布教を初期には行ったようです。それが、最初に見た金毘羅社の分布表に現れていると研究者は考えているようです。
  以上をまとめておくと
①近世当初に登場した金毘羅神は、象頭山に集う多くの修験者(金比羅行者)たちによって、全国各地に信仰圏を拡大していき流行神となった。
②、瀬戸内海にいては金毘羅信仰に先行するものとして、塩飽衆では難波の住吉神社、芸予諸島では石鎚信仰・大三島神社、安芸の宮島厳島神社などの信仰圏がすでに形成されていた。
③そのため金毘羅神は、近世前半においては瀬戸内海沿岸で信仰圏を確保することが難しかった。
④修験者(金比羅行者)たちは、備後から県北・庄原・三好への内陸地方への布教をすすめた。
⑤そのさいに川船輸送者たちの信仰を得て、河川交通路沿いに小さな分社が分布することからうかがえる。しかし、それは祠や小社にとどまるものであった。
⑥金毘羅信仰が沿岸部で勢力を伸ばすようになるのは、東国からの参拝者が急激に増える時期と重なり、19世紀前半遺構のことである。
⑦流し樽の風習も近世においてはなかったもので、近代の呉の海軍関係者によって一般化したものである。
 今まで語られていた金毘羅信仰は、古代・中世から金毘羅神が崇拝され、中世や近世はじめから塩飽や瀬戸内海の海運業者は、その信者であった。そして、流し樽のような風習も江戸時代から続いてきたとされてきました。しかし、金毘羅神を近世初頭に現れた流行神とすると、その発展過程をとして金毘羅信仰を捕らえる必要が出てきます。そこには従来の説との間に、様々な矛盾点や疑問点が出てきます。
 それが全国での金毘羅社の分布拡大過程を見ていくことで、少しずつ明らかにされてきたようです。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「広島県の金毘羅信仰  ことひら40 1985年」
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金毘羅船 4

金毘羅船々 追風に帆かけて シュラ シュ シュシュ
回れば四国は 讃州那珂の郡 象頭山金毘羅大権現
も一度回って 金毘羅船々……

この歌は金毘羅船を謡ったものとして良く知られています。今回は金毘羅船がどのような船で、どこから出港していたのかを、見ていこうと思います。
まず、金比羅船の始まりを史料で見ておきましょう。
金刀比羅宮に「参詣船渡海人割願書人」という延享元年(1744)の文書が残されています。
参詣船渡海入割願書
一 讃州金毘羅信仰之輩参詣之雖御座候 海上通路容易難成不遂願心様子及見候二付比度参詣船取立相応之運賃二而心安致渡海候様仕候事
一 右之通向後致渡海候二付相願候 二而比度御山御用向承候 上者御荷物之儀大小不限封状等至迄無滞夫々汪相違可申候 将又比儀を申立他人妨申間敷事
一 御山より奉加勧進等一切御指出不被成旨御高札之面二候 得紛敷儀無之様可仕事
一 志無之輩江従是勧メ候儀且又押而船を借候儀仕間敷事
一 講を結候儀相楽信心を格別講銭等勧心ケ間敷申間敷並代参受合申間敷事
一 万一難風破船等有之如何様之儀有之有之候へ共元来御山仰二付取立候儀二候得者少茂御六ケ舗儀掛申間敷事
  右之趣堅可相守候若向後御山御障二相成申事候は何時二而茂御山御出入御指留可被成候為後日謐人致判形候上はは猶又少茂相違無御座候働而如件
  延享元甲子年三月
     大坂江戸堀五丁目   明石屋佐次兵衛 印
     同  大川町     多田屋新右衛門 印
     同  江戸堀荷貳丁目 鍔屋  吉兵衛 印
        道修町五丁目  和泉屋太右衛門 印
金光院様御役人衆中様
意訳変換しておくと
金毘羅参詣船の渡海についての願出について
一 讃州金毘羅参詣の海上航路が不便な上に難儀して困っている人が多いので「相応え運賃」(格安運賃)で参詣船を出し、心安く渡海できるように致します。
一 同時に、金毘羅大権現の御用向を伺い、御荷物等についても大小を問わず滞りなく配送いたします。 
一 金毘羅大権現よりの奉加・勧進等の一切の御指出を受けていないことを高札で知らせ、紛らわしい行為がないようにいたします。
一 信心のない輩に金毘羅船への参加を勧めたり、また船を課したりする行為は致しません。
一 金毘羅講を結成し講銭など集めたり、代参を請け負うことも致しません。
一 万一難破などの事故があったときには、どんな場合であろうとも金毘羅大権現に迷惑をおかけするようなことはありません。
以上の趣旨について今後は堅く遵守し、もし御山に迷惑をおかけするようなことがあった場合には何時たりとも、御山への出入差し止めを命じていただければと思います。
ここからは、次のようなことが分かります。
①延享元年三月(1744)に、大坂から讃州丸亀に向けて金毘羅参詣だけを目的とした金毘羅船と呼ばれる客船の運行申請が提出されたこと
②申出人は大坂の船問屋たちが連名で、金毘羅当局へ「参拝船=金毘羅船」の運航許可を求めていること
③寄進や勧進を語り募金集める行為や、金毘羅講などを通じての代参行為を行う行者(業者)がいた。
これは金光院に認められ、金毘羅船が大坂と四国・丸亀を結ぶようになります。これが「日本最初の旅客船航路」とされます。以後、金毘羅船は、金毘羅信仰の高揚と共に、年を追う毎に繁昌します。申出人の2番目に見える「大坂大川町 船宿 多田屋新右ヱ門」は、讃岐出身で大坂で船宿を営なんでいたようです。
多田屋の動きをもう少し詳しくみていきましょう。
 多田屋は、金毘羅本社前に銅の狛犬を献納し、絵馬堂の寄進も行っています。多田屋発行の引札も残っています。金毘羅関係の書物として最も古い「金毘羅参詣海陸記」「金毘羅霊験記」などにも多田屋の名は刷り込まれています。このように金比羅舟の舵取りや水夫には、多田屋のように讃岐出身者が多かったようです。そして、その中心は丸亀の三浦出身者だったようです。19世紀初頭に福島湊が完成するまでの丸亀の湊は土器川河口の河口湊でした。そこに上陸した金毘羅詣客で、三浦は栄えていたことは以前にお話ししました。

多田屋に少し遅れて、金毘羅船の運航に次のような業者が参入してきます
①道頓堀川岸(大阪市南区大和町)の 大和屋弥三郎
②堺筋長堀橋南詰(大阪市南区長堀橋筋一丁目) 平野屋佐吉
日本橋筋北詰(大阪市南区長堀橋筋二丁目) 岸沢屋弥吉
なども、多田屋に続いて金昆羅船を就航させています。強力なライバルが現れたようです。これらの業者は、それぞれの場所から金毘羅船を出港させていました。金毘羅船の出港地は一つだけではなかったことを押さえっておきます。
後発組の追い上げに対して、多田屋はどのような対応を取ったのでしょうか
『金毘羅庶民信仰資料集年表篇』90pには、多田屋新右衛門の対応策が次のように記されています。
宝暦四年 冥加として御用物運送の独占的引き受けを願い出る
同九年  狗犬一対寄進
天明七年 江戸浅草蔵前大口屋平兵衛の絵馬堂寄進建立を取り次ぎ
寛政十二年再度、金毘羅大権現の御用を独占を願い出。
享和三年 防州周防三輪善兵衛外よりの銅製水溜寄進を取り次ぎ
文化十三年大阪の金昆羅屋敷番人の追放に代わり、御用達を申し付け
天保三年 桑名城主松平越中守から高百石但し四ツ物成、大阪相場で代金納め永代寄進
天保五年 その代金六十両を納入
これ例外にも金毘羅山内での事あるごとに悦びや悔みの品を届けています。本人も母親も参詣してお目見えを許された記事もあります。ここからは多田屋新右衛門が、金毘羅大権現と密接な関連を維持しながら、金毘羅大権現への物資の運送を独占しようとしていたことがうかがえます。
『金毘羅山名所図会』には、次のように記されています。
  御山より大阪諸用向きにつきて海上往来便船の事は、大阪よどや橋南詰多田屋新右衛門これをあづかりつとむ。
ここからは多田屋新右衛門の船宿は、大阪淀屋橋南詰(大阪市東区大川町)にあったことがわかります。  
金毘羅船 淀屋橋
多田屋のあった、大阪淀屋橋南詰(大阪市東区大川町)
多田屋新右衛門には、大和屋弥三郎という強力なライバルが出現します。
大和屋弥三郎も金毘羅船を就航させ、金毘羅への輸送業に割り込もうと寄進や奉献を頻繁に行っています。そのため多田屋新右衛門が物資運送を独占することはできなかったようです。
『金毘羅庶民信仰資料集―年表篇』90Pには、大和屋弥三郎のことがが次のように記されています。
寛政九年 新しい接待所を丸亀の木屋清太夫とともに寄進
享和二年 瀬川菊之丞が青銅製角形水溜を奉納するのを取り次ぎ
文政九年 大阪順慶町で繁栄講が結成された時講元となり
文政十一年丸亀街道途中の与北村茶堂に繁栄講からとして、街道沿いでは最大の石燈籠を奉納
このように大坂の船宿は、参詣客の斡旋、寄進物の取り次ぎ、飛脚、為替の業務などを競い合うように果たしています。これが金毘羅の繁栄にもつながります
『金毘羅庶民信仰資料集―年表篇』の17頁の宝暦四年(1754)条には、
大阪の明石屋佐治兵衛。多田屋新右衛門、冥加として当山より大阪ヘの御用物運送仰せ付けられたく願い出る。

とあって、多田屋新右衛門が明石屋佐治兵衛と一緒に、物資運送を独占を願いでています。これに対して金毘羅大権現の金光院はどんな対応をしたのか見てみましょう。
『金毘羅庶民信仰資料集―年表篇』の24Pの寛政十二年(1800)春条には、
大阪多田屋新右衛門よりお山の御用を一手に申し付けられたき旨願い出る。多田屋の願いを丸亀藩へも相談した所、丸亀浜方の稼ぎにも影響するので、年三度のお撫物登りの時のみ多田屋の寄進にさせてはどうかという返事あり

ここには多田屋の願い出を丸亀藩に相談したところ、これを聞き留けると丸亀港での収入が減ることになるので、年三度の撫物だけを多田屋に運送させたら良いとの返事を得ています。この返事を多田屋に知らせ、多田屋はこれを受け入れたようです。ここに出てくる「撫物」と云うのは、身なでて穢れを移し、これを川に流し去ることで災厄を避ける呪物で、白紙を人形に切ったものだそうです。
  つまり金光院は、ひとつの船宿に独占させるのではなく、互いに競争させる方がより多くの利益につながると考え、特定業者に独占権を与えることは最後まで行わなかったようです。そのため多田屋が繁栄を独占することは出来ませんでした。

十返舎一九の『金毘羅参詣続膝栗毛』(1810年刊)で、弥次喜多コンビが乗った金毘羅船は、大和屋の船だったようです。
 道中膝栗毛シリーズは、旅行案内的な要素もあったので当時の最も一般的な旅行ルートが使われたようです。十返舎一九は『金毘羅参詣続膝栗毛』の中で、弥次・北を道頓堀から船出させています。しかし、その冒頭には次のような但書を書き加えています。
「此書には旅宿長町の最寄なるゆへ道頓堀より乗船のことを記すといへども金毘羅船の出所は爰のみに非ず大川筋西横堀長堀両川口等所々に見へたり」
意訳変換しておくと
「ここには旅宿長町から最も近いので道頓堀から乗船したと記すが、金毘羅船の出発地点は大川筋西横堀や長堀両川口などにもある」

ここからは、もともとの船場は多田屋のある大川筋の淀屋橋付近だったのが、弥次・喜多の時代には、金毘羅舟の乗船場は大川筋から道頓堀・長堀の方へ移動していたことがうかがえます。つまり、多田屋に代わって大和屋が繁盛するようになっていたのです。その後の記録を見ても「讃州金毘羅出船所」や「金ひらふね毎日出し申候」等と書かれた金毘羅舟の出船所をアピールする旅館や船宿は、大川筋よりもはるかに道頓堀の方が多くなっています。
 金毘羅船に乗る前や、船から下りた際には「航海無事」の祈願やお礼をするために、道頓堀の法善寺に金比羅堂が建立されていた研究者は推測します。法善寺は讃岐へ向かう旅人達たちにとって航海安全の祈願所の役割を果たしていたことになります。「海の神様」という金毘羅さんのキャッチフレーズもこの辺りから生まれたのではないかと私は考えています。

弥次喜多が乗りこんだ金毘羅船の発着場は、どこだったのでしょうか
金毘羅船 苫船

「大阪道頓堀丸亀出船の図」(金毘羅参詣続膝栗毛の挿入絵)
上図は「大阪道頓堀丸亀出船の図」とされた挿図です。本文には次のように記されます
   讃州船のことかれこれと聞き合わせ、やがて三人打ち連れ、長町を立ち出で、丸亀の船宿、道頓堀の大黒屋といえる、掛行燈(かけあんどん)を見つけて、野州の人、五太平「ハァ、ちくと、ものサ問いますべい。金毘羅様へ行ぐ船はここかなのし。」

意訳変換しておくと
讃州船のことをあれこれと聞き合わせ、やがて三人そろって、丸亀の船宿である道頓堀の大黒屋を訪ねた。掛行燈(かけあんどん)を見つけて、五太平が次のように聞いた「ハァ、ちょとおたずねしますが、金毘羅様へ行く船はここからでていますか」

ここからは道頓堀川の川岸の船宿・大黒屋を訪ねたこと、大黒屋も讃岐出身者であったことが分かります。道頓堀を発着する金毘羅船には、日本橋筋北詰の岸沢屋弥吉のものと、道頓堀川岸の大和屋弥三郎のものの二つがありました。岸沢屋の金毘羅船は道頓堀川に架かる日本橋の袂を発着場としていて引札には日本橋が描かれています。橋が描かれず川岸を発着場とするこの図の金毘羅船は「道頓堀の大黒屋=大和屋」の金毘羅船と研究者は考えているようです。

当時の金比羅舟は、どんな形だったのでしょうか?
上の絵には川岸から板一枚を渡した金毘羅船に弥次北が乗船していく姿が描かれています。手前が船首で、奥に梶取りがいるようです。船は苫(とま)屋根の粗末な渡海船だったことが分かります。苫屋根は菅(すげ)・茅(ちがや)などで編んだこものようなもので舟を覆って雨露をしのぐものでした。
金毘羅船 苫船2

淀川を行き来する三〇石船とよく似ているように思えます。
淀川30石舟 安藤広重


弥次喜多が道頓堀で乗船して、大坂河口から瀬戸内海に出港していくまでを意訳変換してみましょう
讃岐出身の船頭は、弥次喜多に次のように声をかける。
船頭「浜へ下りな。幟(のぼり)のある船じゃ。今(いんま)、出るきんな。サアサア、皆連(つ)れになって、乗ってくだせえ、くだせえ。」
 浜に下りると船では、揖(かじ)を降ろし、艪(ろ)をこしらえて、苫(とま)の屋根を葺いていた。
金毘羅船 屋根の苫
苫の屋根

水子(かこ)たちは布団、敷物などを運び入れ終わると、船宿の店先から勝手口まで並んでいた旅人を案内して、船に乗船させていく。
そこへいろいろな物売りがやってくる。
商人「サアサア、琉球芋(りゅうきゅういも)のほかしたてじゃ、ほっこり、ほっこり」
菓子売り「菓子いらんかいな、みづからまんじゅう、みづからまんじゅう。」
上かん屋「鯡昆布巻(にしんこぶまき)、あんばいよし、あんばいよし。」
船頭「皆さん、船賃は支払いましたかな、コレ、そこの親方衆、もう少しそっちゃの方へ移ってもらえませんか、」
五太平「コリャハァ、許さっしゃりまし。あごみますべい」と、人を跨いで向こう側へ座る。弥次郎・喜多八も同じように座ると、遠州の人が「エレハイ、どなたさんも胡座組んで座りなさい。乗り合い船なので、お互いにに心安くして参りましょう。ところで、船頭さん、船はいつ頃出ますか。」
船頭「いん(今)ますぐに、あただ(急)に出るわいの」
船宿の亭主「サアサアえいかいな、えいなら船を出さんせ。もう初夜(戌刻)過ぎじゃ。長い間お待たせして、ご退屈でござりました。さよなら、ご機嫌よう、行っておい出でなされませ。」
 と、もやい綱を解いて、船へ放り込むと、船頭たちは竿さして船を廻します。そうすると川岸通りには、時の太鼓、「どんどん、どどん」と響きます。
按摩(あんま)「あんまァ、けんびき、針の療治。」
 夜回りの割竹が「がらがら、がらがら」と鳴る中、船はだんだん河口へと下っていきます。
 木津川口に着いた頃には、夜も白み始める子(ね)刻(午前4時)頃になっていた。ここで風待ちしながら順風を待ち、その間は船頭・水子もしばらく休息していて、船中も静かで、それぞれがもたれ合って眠る者もいる、中には、肘枕や荷物包に頭をもたせて熟睡する者もいる。

難波天保山

 やがて、寅の刻(午前4時)過ぎになったと思う頃に、船頭・水子たちがにわかに騒ぎ立ちて、帆柱押し立て、帆綱を引き上げるなど出港準備をはじめ、沖に乗り出す様子が出てきた。船中の皆々も目を覚まして、船端に顔を出して、塩水をすくって手水使って浄めて象頭山の方に向かって、航海の安全を伏し拝む。
弥次郎・喜多八も遙拝して、一句詠む
    腹鼓うつ浪の音ゆたかにて 走るたぬきのこんぴらの船
 船出の安全を、語る内に早くも沖に走り出しす。船頭の「ヨウソロ、ヨウソロ」の声も勇ましく、追風(おいて)に帆かけて、矢を射るように走り抜け、日出の頃には、兵庫沖にまでやってきた。大坂より兵庫までは十里である。

ここからいろいろな情報を得ることが出来ます。
①弥次・喜多の乗った金毘羅船が小形の苫舟で、乗り換えなしで丸亀に直行したこと
②船頭が讃岐出身者だったこと。讃岐弁を使っているらしい。
③夜中(午後8時頃)に道頓堀や淀屋橋の船宿を出て、早朝(午前4時頃)に大坂河口に到着
④風待ち潮待ちしながら順風追い風を受けて出港していく
⑤この間に船の乗り換えはない。
金毘羅船 3

19世紀の中頃には、金毘羅船にとって大きな変化が起きていました。それまでの小形の苫舟に代わって、大型船が就航したことです。
金毘羅船 垣立


この頃には、垣立(上図の赤い部分)が高く、屋形がある大型の金毘羅船が登場します。これは樽廻船を金毘羅船用に仕立てたものと研究者は考えているようです。江戸時代に大阪と江戸の間の物資の運送で競争したのが、菱垣廻船と樽廻船です。

金毘羅船 大坂安治川の川口
大坂安治川の川口
 大坂安治川の川口の南には樽廻船の蔵が建ち並び、北には菱垣廻船の蔵が建ち並んでいる絵図があります。大型の金昆羅船は二日半で丸亀港に着いているので、船足の早い樽廻船と研究者は考えているようです。
ここで大きく成長するのが平野屋左吉です。
彼は、もともとは安治川の川口の樽廻船問屋でした。樽廻船を金毘羅船に改造して、堺筋長堀橋南詰に発着場を設けて、金毘羅船を経営するようになったと研究者は考えているようです。空に向かって大きくせり出した太鼓橋の下なら大きな船も通れます。しかし、長堀橋のように川面と水平に架けられた平橋の下を大きな船は通れません。そこで平野屋左吉が考えたのが、堺筋長堀橋南詰の発着場と安治川港の間を小型の船で結び、安治川港で大型の金毘羅船に乗り換えて丸亀港を目指すプランです。
金毘羅船 平野屋引き札
この平野屋の引き札からは次のようなことが分かります。
①平野屋が大型の金毘羅船を導入していたこと
②船の左には、平野屋本家として「金毘羅内町 虎屋」と書かれていて、虎屋=平野グループを形成していたこと。

  文政十年(1827)に歌人の板倉塞馬は、京・大阪から讃岐から安芸まで旅をして、『洋蛾日記』という紀行文を著しています。
その中の京都から丸亀までの道中についての部分を見てみましょう。
五月十二日、曇‥(中略)昼頃より京を立つ‥(中略)京橋池六より、乗船、浪花に下る。
十三日、晴。八つ(午後二時)頃より曇る。日の出るころ大阪肥後橋へ着く。(中略)
蟻兄(大阪の銭屋十左衛門)を訪れ、銭屋九兵衛という家(宿屋と思われる)にとまる。(以下略)
十五日、晴。(中略)日暮れて銭九を立つ。長堀橋平野屋佐吉より小舟に乗る。四つ橋より安治川口にて本船に移り、夜明け方出船。天徳丸弥兵衛という。
ここからは次のようなことが分かります。
①5月12日の昼頃に伏見京橋池六で川船に乗って淀川をくだり、13日早朝に大阪の肥後橋到着
②永堀橋の長堀橋の船宿平野屋佐吉の小舟で河口に下り
③15日、四つ橋より安治川口で大型の天徳丸(船頭弥兵衛)に乗り換え、夜明け方に出港した。

つまり平野屋左吉は、二種類の船を持っていたようです
①大阪市内と安治川港を結ぶ小型船
②安治川港と丸亀港を結ぶ大型船
淀川船八軒屋船の船場
川船の行き来する八軒家船着場 安治川湊までの小型船

平野屋は、二種類の船を使い分けて、金毘羅船経営を行う大規模経営者であったようです。普通の船宿経営者は、小型の船で大阪市内と丸亀港を直接結ぶ小規模の経営者が多かったようです。平野屋の売りは、金毘羅の宿は最高グレードの虎屋だったことです。富裕層は、大型船で最上級旅館にも泊まれる平野グループの金毘羅詣でプランを選んだのでしょう。このころには金毘羅船運行の主導権は、多田屋や大和屋から平野屋に移っていたようです。
平野屋佐吉・まつや卯兵衛ちらし」平野屋の札は「蒸気金毘羅出船所

  以上をまとめておくと
①18世紀半ばに金毘羅船の営業が認められ、讃岐出身の多田屋が中心となり運行が始まった。
②多田屋は金毘羅の運送業務の独占化を図ったが、これを金光院は認めず競争関係状態が続いた
③後発の船宿も参入し、金毘羅への忠誠心の証として数々の寄進を行った。これが金毘羅繁栄の要因のひとつでもあった。
④19世紀初頭の弥次喜多の金毘羅詣でには、道頓堀の船宿大和屋の船が使われている。
⑤金毘羅船の拠点が淀屋橋周辺から道頓堀に移ってきて、同時に多田屋に代わって大和屋の台頭がうかがえる
⑥道頓堀の法善寺は、金毘羅船に乗る人々にとっての航海安全を祈る場ともなっていた
⑦19世紀中頃には、平野屋によって樽廻船を改造した大型船が金比羅船に投入された。
⑧これによって、輸送人数や安全性などは飛躍的に向上し、金毘羅参拝者の増加をもたらすことになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明 金昆羅大権現に関する三つの疑問     ことひら68 H25
北川央  近世金比羅信仰の展開
町史こんぴら

1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像2
                                                          
 明治維新直後の神仏分離令を受けて、若き院主宥常は金毘羅大権現が仏閣として存続できることを願い出るために明治元(1868)年4月に京都に上り、請願活動を開始します。しかし頼りにしていた、九条家自体が「神仏分離の推進母体」のような有様で、金毘羅大権現のままでの存続は難しいことを悟ります。そこで、宥常は寺院ではなく神社で立ってゆくという方針に転換するのです。宥常(ゆうじょう)は,還俗し琴陵宥常(ひろつね)と改名します。彼が金毘羅大権現最後の住職となりました。

1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像

5月に、維新政府が宥常に最初に命じたのは、御一新基金御用(一万両)の調達でした。1845年に完成し、「西国一の建物」と称された金堂(現旭社)の建設費が2万両でした。その半額にあたります。6月下旬までに、半額の5000両調達の旨請書を差出します。それに対して、新政府から出されたのが宥常を「社務職に任じる」というものでした。以下、宥常の京都での活動状況を見てみましょう。
7月 観音・本地・摩利支天・毘沙門・千体仏などの諸堂廃止決定
8月13日,弁事役所宛へ金刀比羅宮の勅裁神社化を申請
9月 東京行幸冥加として千両を献納。徳川家の朱印状十通を弁事役所へ返納。神祇伯家へ入門し、新道祭礼の修練開始
11月 春日神社富田光美について大和舞を伝習。多備前守から俳優舞と音曲の相伝を受け,
12月 皇学所へ「大日本史」と「集古十種」を進献。
そして、翌年の明治2(1869)年2月,宥常は京都を発ち,月末に丸亀へ約1年ぶりに帰ってきます。
ここからは、神社化に供えて監督庁関係との今後の関係の円滑化のために、貢納金や色々な品々が贈られていることが分かります。同時に神社として立っていくための祭礼儀式についても、自ら身につけようとしています。ただ、神道に素人の若い社務職と、還俗したばかりの元社僧スタッフでは、日々の神社運営はできません。そのために、迎えたのが白川家の故実家古川躬行です。彼が社神式修行指導のためにやってきて、神社経営全体への指導助言を行ったようです。
三月には,御本宮正面へ
「当社之義従天朝金刀比羅宮卜被為御改勅祭之神社被為仰付候事」

という建札を立てています。実際に、金毘羅大権現から金刀比羅宮への「変身」が始まったのです。引き続いて、山内の改革を矢継ぎ早に行います
明治2年6月 はじめて客殿で大祓の神式を行い,
10月10日の会式も神式に改めます。それまでは「山上」で行われていたのを、神輿が御旅所(現神事場)まで下って渡御する現スタイルに改められます。
明治4年6月,国幣小社に列し官祭に列せられ
10月15日,神祇官から大嘗祭班幣目録が下賜されます。
明治5年4月月,宥常は権中講義に任じられ,布教計画見通し立てるよう教部省から指示されます。これに対して、5月には早速に,東京虎ノ門旧京極邸内の事比羅社内に神道教館の設置案を提出しています。
これには多くの経費が必要で、上京していた宥常は資金調達のため一旦帰国しています。その後に行われたのが、六月の仏像・仏具・武器・什物の類の「入札売却」であったことは、以前にお話しした通りです。
1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像3
宥常

明治6年3月,鹿児島県士族深見速雄が宮司として赴任して来ます。宥常は、京都滞在の折りに何度も宮司への就任願いを提出しています。しかし、新政府が任じたのは社務職であったのです。そして、実質的な責任者として松岡調が禰宜として就任しています。宥常が宮司に任命されたのは,明治19年3月深見速雄が亡くなった翌4月になってのことです。この当時、宥常は金刀比羅宮のトップでは、なかったことになります。このことは、注意して置かなければなりません。金刀比羅宮の記録は、このところを曖昧にしようとする意図が見え隠れするように思えます。
明治8年1月,御本宮再営の事業が開始され、翌年9月の4月に仮遷座,
明治10年4月に上棟祭が行われます。
この費用は,官費を仰がずに、すべて金刀比羅宮で賄ったようです。そのため落成の際に,内務省から宥常に褒美を下賜された記録があります。
  このように、見ると神仏分離から10年間で金比羅さんは、仏閣から神社にスムーズに移行したかのように見えます。しかし,この間に金刀比羅当局者が受けた衝撃や打撃も大きかったようです。 たとえば、明治元年1月には、土佐軍が新政府軍として讃岐に進行して、金比羅(琴平)に駐屯します。ある意味、この時期の琴平は土佐軍の軍事占領下に置かれたことになります。そして、金刀比羅宮に5000両の明納金を求めます。金毘羅さんは、この時期に京都の新政府に1万両、土佐藩に5000両を貢納したことになります。それを支える経済力があったということでしょう。
 土佐藩占領は,徳年の11月まで続き,それ以後は倉敷県の管轄から丸亀県・愛媛県を経て,香川県に所属することになります。
しかし、幕藩体制下で朱印地として認められていた行政権は失われます。さらに,明治4年2月に神祇官から出された「上知令」で、境内地を除く寺社領の返還を命ぜられます。これは、寺院の経済的基盤が失われたことを意味します。にも関わらず、神社となった金刀比羅宮は新たな社殿建設を初めて行くのです。そこには、明治という新時代がやって来ても金毘羅さんにお参りする人たちの数は減らなかったことがうかがえます。これは、行政からの「攻撃」を受けた四国霊場の札所が大きな打撃を受け、遍路の数を大きく減らしたことと対照的な動きです。
DSC01636金毘羅大祭図

宥常は明治政府に対しては、全く忠実でした。反抗や抵抗的な動きを見つけることはできません。
それでも,宮司に仰付られたいという願いは聞き届けられず,明治6年3月,鹿児島県士族深見速雄が宮司として赴任して来ます。その下での社務職を務めることになります。宥常が宮司に任命されたのは,明治19年3月に深見速雄が亡くなった後のことです
また,彼は元々は真言宗の社僧です。礼拝の対象は、仏像や経巻でした。それを売却し,焼き捨てるということに,何らかの感慨を抱いたはずですが、それに対する記録も残されていないようです。
全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 結願祭2


金刀比羅宮は、「勅祭の神社」とか「国幣小社」にランク付けはされましたが,それに頼っておればよいというものでありません。金毘羅大権現の名声を維持するためには,何か新しい施策を講ずる必要があると、若い社務職は考えていたようです。
1 金刀比羅宮蔵 講社看板g
 金刀比羅宮崇敬講社 定宿看板

明治7年2月に,そのために教部省宛に「金刀比羅宮崇敬講社」(略・講社)の設立を願い出ています。
信者へ直接的に働きかけ,これまで区々であった参詣講・寄進講を組織的に発展させ,金比羅の繁栄を一層確実にしようとする狙いがあったようです。講社については厖大な量の「講帳」が残っているようですが、「講帳」と関係資料を突き合わせ講社の実体を明らかにする研究は、まだ手が付けられていないようです。
 しかし、この講社の組織は「集金マシーン」として機能するようになり、金刀比羅宮に新たな資金供給源となったようです。ある意味、講社は「金の成る木」でした。宥常の最大の業績とされる「帝国水難救済会」も講社員の積立金によって、創設されています。

DSC01245
 
明治19年3月に宮司の深見速雄が亡くなり、宥常が宮司の座に着きます。名実共に、金刀比羅宮のトップになった訳です。
 その年の10月、イギリスの貨物船「ノルマントン号」が紀州大島沖で座礁沈没します。イギリス人乗組員は全員脱出して助かりましたが、乗り合わせていた日本人23人は船に取り残され全員が水死します。、同船船長に対する責任は、極めて軽微であり、日本国民の感情を大きく傷つけます。この水難事故は幕末に締結した日本と諸外国との間で結ばれていた不平等条約がからみ、大きな国際問題になります。このような水難事件に対して「海の神様」を標榜する金刀比羅宮として、出来ることは何かを宥常は考えたようです。

 「帝国水難救済会五十年史」によると,宥常はかねてから,
「神護は人力の限りを尽して初めて得られるもので,徒に神力にのみ依頼するのは却て神に敬意を失する」

と考えていたと記します。そこで、何とかして現実に海上遭難者を救うべき方法と組織を作り出したいと思っていたようです。
1 黒田清隆 日記 水難防止
黒田清隆伯の「環游日記」のロシアの水難救済協会の紹介部分

たまたま明治20年11月に出版された黒田清隆伯の「環游日記」の中に,ロシアの水難救済会の記事のあるのを見て,これこそ自分が探し求めていたものだと,「晴雲一時に舞れる心地がして勇躍,救済会の創設に取りかかった」とあります。
 明治21年8月,上京した宥常は,救済会設立のことを福家安定に相談します。
翌22年3月,再度上京して,その時は総理大臣に就任していた黒田清隆にも意見を聞き,また海軍に関係が深いことから海軍次官樺山資紀に相談すると,水路部長肝付兼行が協力してくれることになります。他にも逓信省は商船を管轄するので、管船部長塚原周造にも相談します。その他鍋島直大・藤波言忠・清浦奎吾等なども、この会の趣旨に讃同してくれ、何回かの協議を行います。
当時、金刀比羅宮崇敬講社の講員は300万人を越えいました。その積立金を,救済会設立資金に流用できる手はずになっていたようです。
こうして明治22年5月,正式に「帝国水難救済会設立願」を那珂多度郡長を経由して香川県知事に提出します。10月には,鍋島直大を副総裁に,琴陵宥常を会長に、本部を讃岐琴平に置き,支部を東京・大阪・函館に置くことに決まります。東京支社は、東京芝公園海軍水交社の建物を譲り受けています。そして11月3日(旧天長節)に,琴平本部での開会式後に,多度津救済所で遭難船救助の演習を行っっています。12月には各府県知事に本会役員として会員募集を行ってくれるよう依頼することを決めます。
1有栖川宮威仁親王

翌年明治23年4月には,有栖川宮威仁親王が総裁に就任することになります。こうして,宥常の長年の希望であった水難救済会は,着実な第一歩を踏み出していきます。ここへ来るまでに,宥常が救済会のために使った私財は多大なものであったと言われています。
 明治25年2月に宥常が53歳で亡くなります。
1琴綾宥常 肖像画写真
琴綾宥常 高橋由一作

これを契機に水難救済会の本部は東京に移されます。救済会を国家的事業として発展させてゆくための選択だったのでしょう。そして、生まれだばかりの救助会の帆には、時代の追い風が吹きます。
金刀比羅の宮は畏し舟人が流し初穂を捧ぐるもうべ - 八濱漂泊傳

明治28年日清戦争勃発前後になると、海軍軍艦からの流初穂(流し樽)が多く届けられるようになります。
4月 軍艦筑波から,
7月 磐城から,
明治28年4月 水雷母艦日光丸
6月 再度軍艦磐城から,
9月 軍艦龍田
からの流初穂が届けられています。この傾向は、戦後も続き、10年後の日露戦争の時には、さらに増加傾向を見せるようになります。この頃になると、軍艦だけでなく
海軍軍用船喜佐方丸
海軍運送船広島丸
連合艦隊工作船関東丸
横須賀海運造船廠機関工場造船部関東丸
陸軍御用船盛運丸
津軽海峡臨時布設隊新発田丸
などの陸海軍の御用船からの流初穂も含まれるようになります。これが次第に、一般商船,運送船などからの流初穂の奉納につながっていくようです。
モルツマーメイド号 金刀比羅宮 ( 7 ) | 札所参拝日記のブログ

 明治39年から大正初年までを見ても,
加賀国江沼郡槻越大家七平手船翁丸
東洋汽船株式会社満洲丸
大阪商船株式会社大知丸
日本郵船株式会社和歌浦丸
越中国新湊町帆船岩内丸
越中国氷見町八幡丸
日本郵船株式会社横浜丸
北海道小樽正運丸
加賀国江尻郡橋立村七浦丸
などから奉納が見えます。
 ここから見えてくることは「流樽」というのは、
①日清戦争前後に海軍軍艦 → ②軍関係の船舶 → ③日露戦争前後に民間船
へと拡大していたことが見えてきます。起源は、近代に海軍軍艦が始めたもので、江戸時代に遡る者ではないようです。

 これらはみな流初穂が本社まで届いたので,記事としても残っています。しかし、時には届かない場合もあったようです。明治39年12月,軍艦厳島からの初穂の裏書には,
「奉納数回せしも果して到着せしや否や不分明なれば今回御一報を乞う」

と書かれていたようです。
 以上の記事の見える船の所属機関・所有者を見ると,北海道から九州まで日本全域にわたっています。ここからは、金刀比羅宮が海上守護の神として,広く厚い信仰を集めるようになっていたことがうかがえます。これも神社に転進させた宥常が「海の神」という自覚を持ち,水難救済会創設という国家の仕事を代行するような活動を起したことから始まったようです。
参考文献
  松原秀明                神仏分離と近代の金刀比羅宮の変遷
                                                          

           金毘羅庶民信仰資料集 全3巻+年表 全4冊揃(日本観光文化研究所 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 今から40年ほど前の1979(昭和五十四)年に、金毘羅さんに伝わる民間信仰史料が「重要有形民俗文化財」に指定されました。
その指定を記念して、金刀比羅宮から調査報告書三巻が出されました。三冊の報告書は非売品です。図書館で借りだしては眺めるようになり、今では私の愛読書のひとつになりました。

1 金毘羅年表1

この報告書に続いて出されたのが「年表編」です。

 最初、この年表を手にしたとき驚きました。近世以前の項目がないのです。何かのミスかと思いましたが「後記」を見て納得しました。
  この年表を作成した金刀比羅宮の松原秀明学芸員は、後記に次のように記します。
 金毘羅の資料では,天正以前のものは見当らなかった
筆者が,この仕事に当っていた間に香川県史編さん室でも,広く県内外の資料を調査されたが,やはり中世に遡る金毘羅の資料は見付からなかった様子である。ここでも記述を,確実な資料が見られる近世から始めることとした。
 
DSC01034
そしてこの年表は、次の項目から始まります。      
1581 天正9 10.土佐国住人某(長曽我部元親か),矢一手を奉納。
1583 天正11 三十番神社葺替。
1584 天正12 10.9長曽我部元親,松尾寺仁王堂を建立。
1585 天正13 8.10仙石秀久,松尾寺に制札を下す。
       10.19仙石秀久,金毘羅へ当物成十石を寄進。
                                                                以下略
 それまで金毘羅さんの歴史としては、以下のような事が説かれ、その由緒の古さや崇徳上皇とのつながりをのべてきたものです。それがすっぱりと落とされています。
 それまで書かれていた近世以前の金毘羅大権現の年表
長保3年 1001 藤原実秋、社殿、鳥居を修築。
長寛元年 1163 崇徳上皇参拝。
元徳3年 1331 宥範 宥範、善通寺誕生院を再興。
建武3年 1336 宥範、足利尊氏より櫛梨社地頭職が与えられた。
観応元年 1350 別当宥範、当宮神事記。
観応3年 1352 別当宥範没。
康安2年 1362 足利義詮、寄進状。
応安4年 1371 足利義満、寄進状。
 崇徳上皇との関係も書かれていません。宥範のことにも触れられません。尊氏や義満からの寄進も載せません。これを最初見たときには驚きました。そして、研究者としての「潔さ」と、その出版を認めた金毘羅宮の懐の深さに感心したのを覚えています。
 後で振り返ってみれば金毘羅研究史にとって、ひとつの節目となるのがこの「金毘羅庶民信仰資料集 年表編 1988年刊行」だったように思います。後に続く香川県史や「町史こんぴら」も、
「近世以前の金毘羅の史料(歴史)はない」
という姿勢をとるようになります。それは「金毘羅神=流行(はやり)神」という視点から金毘羅神を捉え直す潮流とも結びつき、新たな研究成果を生み出すことになりました。今では、金毘羅さんの確実な歴史が分かる資料は近世以後で、それよりの前の史料はない。古代や中世に遡る史料は見つかっていない、というのが定説になったように思います。

DSC01231
 
金毘羅神がはじめて史料に現れるのは、元亀四年(1573)の金毘羅堂建立の棟札です。
ここには「金毘羅王赤如神」の御宝殿であること、造営者が修験者の金光院宥雅であることが記されています。宥雅は地元の有力武将長尾氏の当主の弟ともいわれ、その一族の支援を背景にこの山に、新たな神として番神・金比羅を勧進し、金毘羅堂を建立したのです。これが金毘羅神のスタートになります。
 宥雅は金毘羅の開祖を善通寺の中興の祖である宥範に仮託し、実在の宥範縁起の末尾に宥範と金毘羅神との出会いを加筆します。また、祭礼儀礼として御八講帳に加筆し観応元年(1350)に宥範が松尾寺で書写したこととし、さらに一連の寄進状を偽造も行います。こうして新設された金毘羅神とそのお堂の箔付けを行います。これらの史料は、宥雅の偽作であると多くの研究者は考えるようになりました。
200017999_00076本社・旭社

この年表の後記の中で、40年前に松原氏が
「金毘羅信仰を考える際の新たな視点と課題」
として挙げていることを、今回は振り返ってみよう思います。

権力者との関係。特に生駒家と高松松平家の関係を押さえる必要がある
 讃岐に戦国時代の終わりをもたらした生駒家は金毘羅大権現に対して、多くの社領寄進を行っています。何回かに分けて行われた寄進は、他の寺社に比べて数段多く、全部で330石に達します。生駒家菩提寺の法泉寺百石、国分寺や善通寺誕生院でも60石前後です。金毘羅が生駒家から特別に扱われていたようです。
それでは、その理由は何でしょうか。
 後に出されて「町史ことひら」では、その理由として生駒家2代目藩主の側室オナツの存在と、その実家である山下家に通じる系譜が「外戚」として、当時の生駒家で大きな門閥を形成したことを挙げています。また、この門閥が時代の流れに逆行する知行制を進めたことが生駒騒動の原因の一つであると考える研究者も現れています。どちらにしても生駒藩において、時の主流であった門閥の保護支援を受けたことが、金毘羅大権現発展の大きな力になったようです。

200017999_00077本社よりの眺望

松平頼重の寄進
 讃岐が高松・丸亀両藩に分れたあと高松へ入部した松平家も金毘羅保護支援を受け継ぎます。藩祖松平頼重は,社領330石を幕府の朱印地にするための支援を行うと同時に、次のような寄進を立て続けに行います。
境内の三十番神社を改築
大門建立のための用材を寄進
阿弥陀仏千体を寄付、
神馬とその飼葉料三十石を寄進,
そして時を置いて、以下の寄進を行います。
木馬舎を建立,
承応3年 良尚法親王筆「象頭山」「松尾寺」の木額を奉納,
明暦元年 明本一切経を寄進,
万治2年 それを納めるための経蔵を建立
寛文8年から4年間 毎年1月10日に灯籠1対ずつ寄進,
延宝元年12月 多宝塔を建立寄進
これは思いつきや単なる信仰心からの寄進ではないように私には思えます。
象頭山に讃岐一の伽藍施設を整備し、庶民の信仰のよりどころとする。さらに全国に売り出し、全国的な規模の寺社に育てていくという宗教戦略が松平頼重の頭の中には最初からあったような気がしてきます。それは、以前お話しした仏生山の建立計画と同じような深さと長期的な視野を感じます。
金毘羅大権現は,
①生駒家の社領寄進の上に,
②頼重の手による堂社の建立があって
他国に誇るべき伽藍出現が実現したと云えるようです。
 松原秀明氏が指摘するように「生駒藩・松平藩を除外して金毘羅のことは考えられない」ことを押さえておきます。
2 金毘羅神を支えたのは「庶民信仰」という通説への疑問
 金毘羅神が庶民信仰によって支えられるのは、流行神となって以後のことです。今見てきたように

権力者の金毘羅大権現保護が原動力
金毘羅大権現発展の原動力は、大名の保護

①長宗我部元親の讃岐支配のための宗教センター建設
②生駒家の藩主の側室オナツの系譜による寄進と保護
③松平頼重の統治政策の一環としての金毘羅保護
上記のような大名からの保護育成政策を受けて、金毘羅大権現は成長して行ったのです。例えば代参や灯籠奉納も最初は、大名たちが行っていたことです。それを、後に大坂や江戸の豪商達が真似るようになり、さらに庶民が真似て「流行神」となって爆発的な拡大につながったという経緯が分かってきました。庶民が形作っていったというよりも、大名が形作った金毘羅信仰のスタイルを、庶民が真似て拡大するという関係であったようです。

金毘羅大権現の成長原動力

3 「海の神様 金毘羅さん」への疑問
  松原氏は「海の神様・金毘羅」についての違和感を、次のように記します。
   金毘羅のことで発言する場合,必ず触れなくてはならないこととして「海の神金毘羅」という問題がある。これまでの多くの発言は,金毘羅が海の神であることは既定の事実として,その上に立っての所説であるように思われる。しかし筆者には,金毘羅が何時,どうして海の神になったのかよく分らないのである。
  金毘羅大権現は海の神であるという信仰は,多分,金毘羅当局者が全く知らない間に,知らない所から生れたもののように思われる。当局者が関知しないことだから,金毘羅当局の記録には「海の神」に関わる記事は大変に少ない。金毘羅大権現は,はじめから海の神であったわけではない。勝手に海の神様にまつりあがられたのだ
金毘羅神は最初から海の神様でなかった?
海の神様が出てこない金毘羅大権現

 例えば17世紀半ばに出された、将軍家の金毘羅大権現への朱印状には、次のように記されています。

「専神事祭礼可抽国家安全懇祈」

宝暦三年に,勅願所になったときの摂政執達状は、次のように記します。
宝祚長久之御祈祷,弥無怠慢可被修行」

朱印状とか摂政執達状とかは「国家安全」「宝祚長久」を祈祷するよう命じるのが本来なので「海上安全」の言葉のないのは当たり前かもしれません。それでは1718(享保三)年に、時の金光院住職宥山が,後々まで残る立派なものを作りたいという考えで,資料を十分用意して,高松藩儒菊池武雅に書かせた縁起書「象頭山金毘羅神祠記」を見てみましょう。
「祈貴者必得其貴,祈冨者必得其冨,祈寿者必得其寿,祈業者必得其業,及水旱・疾疫,百爾所祈,莫不得其応」

ここにも海との関わりを強調するような文言はどこにもありません。
 金光院の日々の活動を記録した「金光院日帳」でも,神前での祈禧は五穀成就と病気平癒の祈願がほとんどです。高松藩からは,毎年末に五穀豊穣祈願のため初穂料銀十枚が寄せられ,正月11日に祈祷修行して札守を指出すのが決まりだったようです。ここでも祈願していたのは「五穀成就」の祈祷です。
  それでは海の安全がいつごろから祈られるようになったのでしょうか? 海洋関係者が奉納した「モノ」から見ておきましょう。

1 金毘羅 奉納品1


 燈寵奉納は?
1716(正徳5)年 塩飽牛島の丸尾家の船頭たち奉納の釣燈寵
1761(宝暦11)年 大坂小堀屋庄左ヱ門廻船中寄進の釣燈寵
この2つが初期のもので、1863(文久2)年 尾州中須村天野六左ヱ門に至るまで海事関係者からの奉納は、十数回数えられるだけです。その間,他の職種の人達の奉納は150回を越えています。海事関係者のものは,全体の1/10にも満たないことになります。
 絵馬奉納は?
1724(享保 9)年 塩飽牛島の丸尾五左ヱ門が最初で
1729(享保14)年 宇多津廻船中奉納のもの
絵馬は燈龍よりも奉納されるのがさらに遅いようです。
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 船模型は?
1796(寛政 8年) 大坂西横堀富田屋吉右ヱ門手船金毘羅丸船頭悦蔵奉納
のものが一番古く,あとは嘉永4年,安政4年と、さらに遅いようです。
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 「年表」のなかに出てくる「海事関係記事」を時代順に並べると次のようになります
1643(寛永20)年 高松藩船奉行渡辺大和が玄海灘で霊験
1694(元禄 7)年 日向国の六兵ヱ佐田の沖で難船を免れた。
1715(正徳 5)年 塩飽牛島の丸尾家の船頭が青銅釣燈寵一対奉納
1724(享保 9)年 塩飽丸尾家四代五左ヱ門正次が「鯛釣り戎」の額を奉納,
 同年         宇多津の廻船中から「翁」の絵馬が献納
1 金毘羅 船模型小豆島1

小豆島草壁の金毘羅丸の船模型絵図

 以上のように奉納品からは、金毘羅さんと塩飽島民や宇多津の廻船との結び付きが、ある程度は分かります。特に牛島を拠点とした丸尾家の奉納品は早い時期からあるようです。宇多津は中世からの讃岐
NO1の港であったので廻船業が盛んだったのでしょう。

 しかし、海事関係者全体の奉納品の数を見るときに、果たして18世紀以前から金毘羅さんが「海の神様」と呼ばれていたかどうかは疑問が残ります。
海事関係者からの奉納物

享保頃は,ごく一部の人が海の神としての金毘羅の霊験を語っても,まだ金毘羅そのものが全国から広い信仰を集めていたわけではないようです。将来、「海の神となる可能性を秘めていた時代」と研究者は考えているようです。そして19世紀半ば以後に、金毘羅といえば海の神という受け取り方が定着してきたとします。金毘羅は、流行神になったときから海の神としての性格を強くしたととも云えるようです。
1 金毘羅 奉納品2

以上をまとめておきます
金毘羅「庶民信仰・海の神様」説
金毘羅「庶民信仰・海の神様説」への疑問
①「金毘羅庶民信仰資料集 年表編 1988年刊行」には、近世以前の項目は載せられていない。
②これ以後、戦国末期に作り出された金毘羅神が流行神として広がったと考えられるようになってきた。
③金毘羅信仰の発展過程で大切なのは、時の権力者からの保護支援であった
④金毘羅信仰は 長宗我部 → 生駒 → 松平という時の権力者の保護を受けて成長した
⑤これらの権力者の保護なしでは金毘羅信仰の成長発展はなかった。
⑥その意味では「金毘羅信仰は庶民信仰」という定説は疑ってみる必要がある
⑦金毘羅神が「海の神様」として信仰されるようになるのは、案外新しい

以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 松原秀明  解説・年表を読むにあたって   
               金毘羅庶民信仰資料集 年表編

 

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  金毘羅船々
  追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ
  廻れば四国は
  讃州那珂郡象頭山 金毘羅大権現
  一度廻れば

この歌が生まれたのは、大阪と地元のこんぴらさんのどちらかはっきりとしないようです。資料的にたどれるのは金毘羅説です。しかし、各地から金毘羅参詣客が集い、そして舟に乗って一路丸亀に向け旅立ってゆく金毘羅船の船頭が歌ったという話には、つい納得してしまいます。
しかし、実際には
   追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ
とは船は進まなかったようです。
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西国巡礼者が金比羅詣コースとして利用した高砂~丸亀の記録には、
「三月一日船中泊り、翌二日こき行中候得者、昼ハッ時分より風強く波高く船中不残船によひ、いやはや難渋仕申候、漸四ッ時風静二罷成候而漸人心地二罷成よみかへりたる計也」

「此時風浪悪しくして廿一日七ッ時二船二乗、廿四日七ッ時二丸亀の岸二上りて、三夜三日之内船中二おり一同甚夕難渋仕」
といった記述がみられます。
さらには、高砂から乗船しながら
「四日ハッ時頃迄殊之外逆風二付、牛まど村江舟右上り」
と、
逆風のために船が進まず、途中の牛窓で舟をおりて陸路を下村まで行き、そこから丸亀へ再び海を渡ったこともあったようです。この際に
「四百八拾文舟銭。剰返請取。金ひら参詣ニハ決而舟二のるべからず
と船賃の残額も返してくれなかったようで大いに憤慨しています。
追い風に風を受けてしゅらシュシュであって、向かい風にはどうしようもなかったようです。
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大坂から乗船したケースも見ておきましょう。
道頓堀の大和屋弥三郎から乗船した金比羅船の場合です。
「六日朝南風にて出帆できず、是より舟を上り、大和屋迄舟賃を取返しに行
と道中記に記されています。大阪湾から南風が吹かれたのでは、船は出せません。船賃を取り返し、陸路を進む以外になく、備前片上
から丸亀に渡っています。瀬戸内海でも、いったん風が出て海が荒れれば、船になれない人たちにとっては生きた心地がしなかったようです。
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陸路中心の当時の旅において、金比羅船は「瀬戸内海クルージング」が経験できる金毘羅参詣の目玉だったようですが、楽な反面「危険」は常に感じていたようです。少し大げさに言うと、危険きわまりない舟旅を無事終えて金毘羅参詣を果たせたのだという思いが、航海守護の神としての金毘羅信仰をより深くさせたのかもしれません。
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 金毘羅舟が着く讃岐・丸亀港の近くに玉積神社(玉積社)が鎮座します。この神社は
「天保年間新堀堪甫築造の際の剰土を盛りたる所に丸亀藩大坂蔵屋敷に祀りありし神社を奉遷した」
と伝わります。『讃州丸亀平山海上永代常夜燈講』という表題を持つ寄付募集帳には、
「御加入の御方様御姓名相印し置き、家運長久の祈願、丹誠を抽で、月々丸亀祈祷所に於て執行仕り候間、彼地御参詣の節は、私共方へ御出で下さるべく候。右御祈禧所へ御案内仕り、御札守差し申すべく候」
とあって、この神社が「丸亀祈祷所」と呼ばれていたことが分かります。
この玉積社は、なぜ丸亀港の直ぐ近くに鎮座するのでしょうか?
それは、金毘羅詣での参詣者が無事丸亀に上陸できたことを感謝し、そして金毘羅参詣を終えた人々が再び乗船するに際して舟旅の安全を祈る、そんな役割を担っていたのかもしれません。同じ役割を持った神社が大阪にもあります。
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 今は韓国や中国からやってくる観光客にとって人気NO1の大坂道頓堀の近くには法善寺があります。狭い法善寺横町を抜けていくと現れるこのお寺には今でも金毘羅が祀られています。
江戸時代に法善寺の鎮守堂再建の際に「これは金毘羅堂の新規建立ではないのか」と、讃岐の金毘羅本社よりクレームがつけられています。金毘羅大権現の「偽開帳」にあたるのではないかと言うのです。その時の法善寺の返答は
「当寺鎮守ハ愛染明王二而御座候得共、役行者と不動明王を古来より金毘羅と申伝、右三尊ヲ鎮守と勧請いたし来候」
とその由緒を述べ
「金毘羅新キ建立なと申義決而鉦之御事二候」
と申し開きを行なっています。つまり、金毘羅大権現像と姿が似ている役行者像、金毘羅大権現の本地仏とされた不動明王像の二体を法善寺では金毘羅大権現と称していたのです。どちらにしても、法善寺が金毘羅神を祀っていたのは間違いないようです。
  それではなぜ法善寺が金毘羅を祀っていたのでしょうか?
19世紀初頭に人気作家・十返舎一九が文化七年(1810)に出版した道中膝栗毛シリーズが『金毘羅参詣続膝栗毛』です。ここでは主人公の弥次郎兵衛・北八は、伊勢参宮を終えて大坂までやってきて、長町の宿・分銅河内屋に逗留して、そこからほど近い道頓堀で丸亀行の船に乗っています。
 道中膝栗毛シリーズは、旅行案内的な要素もあったので当時の最も一般的な旅行ルートが使われていますから、この時代の金毘羅参詣客の多くは、大坂からの金毘羅舟を利用したようです。十返舎一九は『金毘羅参詣続膝栗毛』の中で、弥次・北を道頓堀から船出させています。
しかし、その冒頭には次のような但書を書き加えています。
「此書には旅宿長町の最寄なるゆへ道頓堀より乗船のことを記すといへども金毘羅船の出所は爰のみに非ず大川筋西横堀長堀両川口等所々に見へたり」
つまり、もともとの船場は大川筋の淀屋橋付近だったのが、弥次・北が利用した時代には、金毘羅舟の乗船場はから道頓堀・長堀の方へ移動していたようです。その後の記録を見ると「讃州金毘羅出船所」や「金ひらふね毎日出し申候」等と書かれた金毘羅舟の出船所をアピールする旅館や船宿は、はるかに道頓堀の方が多くなっています。
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法善寺の金比羅堂の大祭
   つまり法善寺のある道頓堀は金毘羅船の発着所に近かったのです。丸亀港の玉積社と同じように金毘羅船に乗る前や、船から下りた際には「航海無事」の祈願やお礼をするために、法善寺に金比羅堂が建立されたと研究者は考えているようです。いずれにせよ、法善寺の金毘羅が讃岐へ向かう旅人達だけでなく、多くの大坂市民の信仰をうけていたこと間違いありません。

金毘羅船 苫船
金毘羅参詣続膝栗毛に描かれた金比羅船
江戸の大名屋敷に祀られた鎮守が流行神化していきます
高松松平家や丸亀京極家は江戸屋敷に金毘羅を祀っていました。これが江戸における金毘羅信仰の発火点になったというのが現在の定説のようです。高松藩や丸亀藩の屋敷では、毎月十日金毘羅の縁日に裏門を開放して一般庶民の参詣を許し、縁日以外の日には裏門に賽銭箱を置いて、人々はそこから願掛けを行なったようです。このような江戸庶民の金毘羅信仰の高まりが、丸亀の新堀湛甫(新港)を「江戸講」という民間資金の導入手法で成功させることにつながったと云えます。
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 それでは大坂の場合はどうでしょうか?
   江戸時代の大坂の祭礼行事一覧で例えば6月の欄を見てみると次のような祭礼が並びます
「宇和じま御屋しき祭」(六月十一日)
「出雲御屋しき祭」(六月十四日)
「なべしま御屋しき祭」六月十五日)
中国御屋しき祭」(六月十五日)、
「阿波御屋しき祭」(六月十六日)
「筑後御やしき祭」(六月十八日)
「明石御やしきご(六月十八日)、
「米子御やしき祭」(七月十九日)
ここからは江戸と同じように、大坂でも各藩蔵屋敷に祀られていた鎮守神が祭日には、庶民に開放されていたことが分かります。
さて10月の蘭を見てみると「千日ほうぜんじ」をあげたあとには、一つ置いて「丸亀御屋しき」・「高松御屋しき」と見えます。『摂津名所図会大成』には、 
金毘羅祠 同東丸亀御くらやしきにあり 
     毎月九日十日諸人群参してすこぶる賑わし
金毘羅祠 常安裏町高松御くらやしき二あり 
     霊験いちじるしきとて晴雨を論ぜず詣大常に間断なし殊に毎月九口十日ハ群参なすゆへ此辺より常安町どふりに夜店おびたゝしく出て至つてにぎわし又例年十月十日ハ神事相撲あり
とあります。ここからは江戸だけでなく、大坂でも蔵屋敷に祀られた金毘羅を毎月の縁日に庶民に開放することで金毘羅信仰がひろまっていたことがうかがえます。しかし、蔵屋敷に祀られた金毘羅は大名のものであり、縁日以外は庶民に開放されませんでした。
ところが、金毘羅信仰の高まると、庶民達はいつでも参拝できる金毘羅を自分たちの力で勧請します。法善寺の金毘羅もその一つと考えられます。『浪華百事談』には、「持明院金毘羅祠」について、次のように記されています。
「生国魂神社大鳥居の西の筋の角に、持明院といふ真言宗の寺あり、其寺内に金比羅の祠あり。其神体は京都御室仁和寺宮より、当院へ御寄附なりしを、鎮守とせしにて今もあり。昔は詣人多き社にて、上の金比羅と称す。当社をかく云へるは、法善寺の内の金比羅を、下の金比羅といひ、高津社の鳥居前にある寺院に祭るを、中の金比羅といひ、此を上の社といひて、昔は毎年十月十日の会式の時、衆人必らず三所へ参詣せしとぞ。余が若年の時も、三所へ詣る人多く、高津鳥居前より此辺大ひに賑はしき事なり。今は参詣人少き社なり」
この史料は大坂には、
上の金毘羅 生玉持明院
中の金毘羅 高津報恩院
下の金毘羅 法善寺
とそれぞれの寺院の中に勧進された金毘羅が上・中・下とならび称されて大坂市中の三大金毘羅として崇敬されていたことを教えてくれます。このような金毘羅信仰の高まりを背景に、金比羅講が組織され、多くの寄進物や石造物がこんぴらさんにもたらされることになるようです。「信仰心信者集団の中で磨かれ、高められていく」という言葉に納得します。

参考文献 北川央 近世金比羅信仰の展開

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現在の金刀比羅宮は、大物主命を主祭神としています。しかし、明治の神仏分離までは金毘羅大権現が祭神でした。それではこの神社に祀られていた金毘羅大権現とは、どんな姿だったのかのでしょうか。金比羅については次のように云われます。
「サンスクリット語のクンビーラの音写で、ガンジス河に棲むワニを神格化した神とされる。この神は、仏教にとり入れられて、仏教の守護神で、薬師十二神将のひとり金毘羅夜叉大将となった。また金毘羅は、インドの霊鷲山の鬼神とも、象頭山に宮殿をかまえて住む神ともいわれる」
つまり、もともとはインドではヒンズーの神様で、それが仏教守護神として薬師十二神将のメンバーの一員となって日本にやってきたものと説明されてきました。
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それでは、金毘羅大将は十二神将のメンバーとしては、どこにいるのでしょうか? 
最も古い薬師十二神将であると言われる薬師寺のお薬師さんを守る十二神将を見てみるとお薬師さんの左手の一番奥にいらっしゃいます。彼の本地仏は弥勒菩薩です。インドでは、彼の家は「象頭山」とされるので、讃岐の大麻山と呼ばれていた山も近世以後は象頭山と呼ばれるようになります。

1十二神将12金毘羅ou  
確認しておくと以下のようになります。
 クンピーラ = 薬師十二神将の金毘羅(こんぴら・くびら)= 象頭山にある宮殿に住む
 
12金毘羅ou  
十二神将の金比羅(クビラ)大将

しかし、こんぴらさんが祀っていたのは、この金比羅大将とは別物だったようです。松尾寺の本堂の観音堂の後に金比羅堂が戦国末期に、修験者達によって建立されます。
金比羅堂に祀られていた金毘羅大権現像はどんな姿だったのでしょうか?
江戸時代には、金毘羅を拝むことのできませんでした。しかし、特別に許された人には開帳されていたようで、その記録が残っています。
  『塩尻』の著者天野信景は、次のように記します。
金毘羅は薬師十二神将のうちのか宮毘羅(くびら)大将とされるが、現実に存在する金毘羅大権現像は、
薬師十二神将の像と甚だ異なりとかや」「座して三尺余、僧形なり。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所戴の頭巾を蒙り、手に羽団を取る」
CPWXEunUcAAxDkg金毘羅大権現
  天和二年(1682)岡西惟中の『一時随筆』の中で
「形像は巾を戴き、左に数珠、右に檜扇を持玉ふ也、巾は五智の宝冠に比し、数珠は縛の縄、扇は利剣也、本地は不動明王とぞ、二人の脇士有、これ伎楽、伎芸といふ也、これ則金伽羅と勢咤伽、権現の自作也」、
  延享年間に増田休意は
「頭上戴勝、五智宝冠也、(中略)
左手持二念珠・縛索也、右手執二笏子一利剣也、本地不動明王之応化、金剛手菩薩之化現也、左右廼名ご伎楽伎芸・金伽羅制叱迦也」、
 
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金光院が配布していた金毘羅大権現
幕末頃金毘羅当局者の編んだ『象頭山志調中之能書』のうち「権現之儀形之事」は
「優婆塞形也、但今時之山伏のことく持物者、左之手二念珠右之手二檜扇を持し給ふ、左手之念珠ハ索、右之手之檜扇ハ剣卜申習し候、権現御本地ハ不動明王也、権現之左右二両児有、伎楽伎芸と云也、伎楽ハ今伽羅童子伎芸ハ制叱迦童子と申伝候也、権現自木像を彫み給ふと云々、今内陣の神肺是也」
と、それぞれに金毘羅大権現像を記録しています。これらの史料から分かることはは金毘羅大権現の像は、十二神将の金比羅神とはまったくちがう姿だったことです。その具体的な姿は
①頭巾を被り
②左手に念珠、
③右手に扇もしくは笏を持ち、
④伎楽・伎芸の両脇士を従える
という共通点があったことを記録しています。ここからは江戸時代金比羅山に祀られていた金毘羅大権現像は「今の修験者」「今時之山伏のごと」き姿だったのです。それは役行者像を思い描かせる姿です。

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松尾寺に伝わる金毘羅大権現 
これを裏付けるように『不動霊応記』では
「金毘羅大権現ノ尊像ハ、苦行ノ仙人ノ形ナリ、頭二冠アリ、右ノ手二笏ヲ持シ、左ノ手二数珠ヲ持ス、ロノ髪長ウシテ、尺二余レリ、両ノ足二ハワラヂヲ著ケ、頗る役行者に類セリ
といった感想が記されています。金毘羅大権現像を見た人が「役行者像とよく似ている」と思っていたことは注目されます。
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  記録に残された金毘羅大権現像について、もう少し具体的に見てみましょう。
①頭巾は五智宝冠に、
②左手の念珠は縛索に、
③右手の扇または笏は利剣に、
④伎楽・伎芸の両脇士は金伽羅・制叱迦の二童子
以上から姿をイメージすると、不動明王とも言えます。確かに金毘羅大権現の本地仏は不動明王とされますので納得がいきます。しかし、役行者像に付属する前鬼・後鬼についてもこれを衿伽羅・制叱迦の二童子とする解釈もあるようです。どちらにしても「役行者と不動明王」の姿はよく似ているのです。
 江戸時代に大坂の金毘羅で最も人気を集めた法善寺でした。
その鎮守堂再建の際に、「これは金毘羅堂の新規建立ではないのか」と、讃岐の金毘羅本社よりクレームがつきます。いわゆる「偽開帳」にあたるのではないかと言うのです。その時の法善寺の返答は
「当寺鎮守ハ愛染明王二而御座候得共、役行者と不動明王を古来より金毘羅と申伝、右三尊ヲ鎮守と勧請いたし来候」
とその由緒を述べ
「金毘羅新キ建立なと申義決而鉦之御事二候」
と申し開きを行なっています。つまり、金毘羅大権現像と姿が似ている役行者像、金毘羅大権現の本地仏とされた不動明王像の二体を法善寺では金毘羅大権現と称していたのです。

金毘羅大権現2
 これ以外にも役行者像を金毘羅大権現像と偽る贋開帳が頻繁に起きます。讃岐本社の金毘羅大権現像自体も、役行者像そのものではなかったかと思わせるぐらい似ていたことがうかがえます。ただ、琴平の金毘羅さんには金毘羅大権現以外に、役行者を祀る役行者堂が別にあったようなので、金毘羅大権現イコール役行者と考えるのは、少し気が早いようです。しかし、役行者堂についても『古老伝旧記』では
役行者堂 昔金毘羅古堂也 元和九年宥眼法印新殿出来、古堂行者に引札い」
と記しています。かつては「役行者堂は金毘羅の古堂」だったというのです。これも注目しておきたいポイントです。
1新羅明神
新羅明神
 この他にも金毘羅大権現の正体を新羅明神に求める研究者もいます。
確かにその姿はよく似ています。役行者は新羅大明神から作り出されたというのです。そうすると次のような進化プロセスが描けます。
新羅の弥勒信仰 → 新羅大明神 → 役行者 → 金毘羅大権現・蔵王権現
そして、新羅大明神には讃岐・和気氏出身の円珍の影がつきまといます。今も和気氏の氏寺であったとされる金蔵寺には新羅神社が祀られています。和気氏に伝わる新羅大明神の発展型が金毘羅大権現であるという仮説もありそうですが、今は置いておきましょう。
1蔵王権現
このように役行者像に似ている金毘羅大権現像を祀る象頭山ですが、この山は役行者開山との伝承を持ちます。弥生時代から霊山であったようで、中世には山岳信仰で栄えた修験道の行場となります。そのため戦国時代末期の初期の金光院別当は、すべて修験者出身です。

 長宗我部元親に従軍して土佐からやって来て、金光院別当として讃岐における宗教政策を押し進めたのが土佐出身の修験者宥厳です。彼は土佐郡占領下での実績を買われて、長宗我部軍が撤退した後も別当を引き続いて務めます。そして、松尾寺や三十番社との権力闘争を勝ち抜いて行きます。それを支えたの弟弟子に当たる宥盛です。彼は、生駒家と交渉を担当し寄進領を確実に増やすなどの実務能力に長けていたばかりでなく、修験者としても名声が高く、数多くの弟子達を育て各地に金毘羅大権現の種を飛ばすのです。その彼が死期を悟り、自らの姿を木像に刻んだ時に
入天狗道沙門金剛坊(宥盛)形像、当山中興権大僧都法印宥盛
と彫り込んだと伝えられます。この天狗道に入った金剛坊の木像には、後にいろいろな尾ひれが付けられていきます。例えば、生きながら天狗界に入ったと伝承で有名な崇徳上皇の怨霊が、死去の翌年、永万元年(1165)に、その廟所である白峰から金毘羅に勧請されたとの伝承が作られます。そして金毘羅=崇徳院との解釈が広まっていくのです。それでなくとも修験の山は天狗信仰と結びつきやすいのに、それが一層強列なイメージとなって金毘羅には定着します。「天狗のイラスト」が入った参詣道中案内図が作成され、天狗の面を背負った金毘羅道者が全国各地から金毘羅を目指すのも、このあたりに原因が求められそうなことは以前お話ししたとおりです。
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 もう一度、こんぴらさんの本堂に祀られていた金毘羅大権現像について見てみましょう。
江戸の初めに四国霊場が戦乱から復興していない承応二年(1653)に91日間にわたって四国八十ハケ所を巡り歩いた京都・智積院の澄禅大徳については以前に紹介しました。彼の『四国遍路日記』には、金毘羅に立ち寄り、本尊を拝んだ記録があります。
「金毘羅二至ル。(中略)
坂ヲ上テ中門在四天王ヲ安置ス、傍二鐘楼在、門ノ中二役行者ノ堂有リ、坂ノ上二正観音堂在り 是本堂也、九間四面 其奥二金毘羅大権現ノ社在リ。権現ノ在世ノ昔此山ヲ開キ玉テ 吾寿像ヲ作り此社壇二安置シ 其後入定シ玉フト云、廟窟ノ跡トテ小山在、人跡ヲ絶ツ。寺主ノ上人予力為二開帳セラル。扨、尊躰ハ法衣長頭襟ニテ?ヲ持シ玉リ。左右二不動 毘沙門ノ像在リ」
ここには、観音堂が本堂で、その奥に金比羅堂があったことが記されます。そして金光院住職宥典が特別に開帳してくれ、金毘羅大権現像を拝することができたと書き留めています。ここで注目したいのは2点です。ひとつは
「権現ノ在世ノ昔 此山ヲ開キ玉テ 吾寿像ヲ作り 此社壇二安置シ 其後入定シ玉フ」
とあることです。つまり安置されている金毘羅大権現像は、この山を開いた人物が自分の姿を掘ったものであると説明されているのです。
 2点目は金毘羅大権現の左右には「不動・毘沙門」の二躰が祀られていたことです。
つまり、金毘羅堂には金毘羅大権現と不動明王・毘沙門天が三点セットで祀られていたのです。そして、金毘羅大権現像は金毘羅山を開いた人物が自らの姿を掘ったものであると言い伝えられていたことが分かります。ここまで来ると、それは誰かと問われると「宥盛」でしょう。
さらに『古老伝旧記』は金光院別当の宥盛(金剛坊)のことを、次のように記します。
宥盛 慶長十八葵丑年正月六日、遷化と云、井上氏と申伝る
慶長十八年より正保二年迄間三十三年、真言僧両袈裟修験号金剛坊と、大峰修行も有之
常に帯刀也。金剛坊御影修験之像にて、観音堂裏堂に有之也、高野同断、於当山も熊野山権現・愛岩山権現南之山へ勧請有之、則柴燈護摩執行有之也
 ここには金剛坊の御影修験之像が観音堂裏堂(金毘羅堂)に安置されていると記されています。以上から金毘羅大権現として祀られていた修験者の姿をした木像は、金毘羅別当の宥盛であったと私は考えています。それをまとめると次のようになります
①金光院の修験者達は、その始祖・宥盛の「祖霊信仰」をはじめた。
②その信仰対象は宥盛が自ら彫った宥盛像であった。
③この像が金毘羅大権現像として金毘羅堂に安置された。
④その脇士として不動明王と毘沙門天が置かれた
その後、生駒家や松平家からの保護を受けるようになり「金比羅」とは何者かと問われた際の「想定問答集」が必要となり、十二神将の金毘羅との混淆が進められたというのが現在の私の「仮説」です。
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神仏分離で金毘羅大権現や仏達は、明治以後はこの山ではいられなくなりました多くの仏像が壊され焼かれたりもしました。
金毘羅堂にあった金毘羅大権現と不動明王・毘沙門天の三仏トリオは、どうなったのでしょうか。
金剛坊宥盛は、現在は祭神として奥社に祀られています。その自作の木像も奥社に密かに祀られているのかもしれません。
それでは脇士の不動明王・毘沙門天はどうなったのでしょうか。この仏たちは数奇な運命を経て、現在は、岡山の西大寺鎮守堂に「亡命」し安置されています。これについては別の機会で触れましたので詳しくはそちらをご覧ください。
img003金毘羅大権現 尾張箸蔵寺
金比羅さんから亡命した西大寺の「金毘羅大権現」(不動明王)
現在の金刀比羅宮は、大物主命を主祭神としています。
大物主命は、奈良県桜井市の大神神社(通称、三輪明神)の祭神として有名で、出雲大社の祭神・大国主命の別名とされています。明治になって、大物主命にとって代わられたのは所以を、どんな風に現在の金比羅さんは、説明しているのでしょうか。

金刀比羅宮 大物主尊肖像 崇徳天皇 M35
   天台僧顕真が「山家要略記』に智証大師円珍の『顕密内証義』を引いて、
「伝聞、日吉山王者西天霊山地主明神即金毘羅神也、随二乗妙法之東漸 顕三国応化之霊神」
と、「比叡山・日吉山の地主神は金比羅神」であると記します、
これを受けた神学者の古田兼倶は『神道大意』に次のように記します。
「釈尊ハ天地ノ為二十二神ヲ祭、仏法ノ為二八十神ヲ祭り、伽藍ノ為二十八神ヲ祭リ、霊山ノ鎮守二金毘羅神ヲ祭ル、則十二神ノ内也、此金毘羅神ハ日本三輪大明神也卜伝教大師帰朝ノ記文二被い載タリ、他国猶如也、何況ヤ吾神国於哉」
と最澄が延暦七年(七八八)比叡山延暦寺を建立する際、その鎮守として奉斎した地主神・日吉大社西本宮の祭神大物主命が金毘羅神だと位置づけます。
  そしてこうした見解は、さらに平田篤胤に受け継がれていきます。「玉欅』の中に
「彼象頭山と云ふは……元琴平と云ひて、大物主を祭れりしを仏書の金毘羅神と云ふに形勢感応似たる故に、混合して金毘羅と改めたる由……此は比叡山に大宮とて三輪の大物主神を祭りて在りけるに彼金毘羅神を混合せること山家要略記に見えたるに倣へるにや、然ればこそ金光院の伝書にも、出雲大社。大和、三輪、日吉、大宮の祭神と同じと云えり」
 と記します。平田篤胤の明治以後の神道における影響力は大きく、
「象頭山は元々は「琴平」といって大物主を奉っていた。象頭山は元々は大物主命を祀っていたが、中世仏教が盛んになるにつれて、その性格が似ているため金毘羅と称するようになった」
という彼の主張は神仏分離の際には大きな影響力を発揮します。金毘羅大権現が「琴平神社」と改められるのもこの書の影響が大きいようです。   しかし、研究者は、金毘羅以前に大物主が祀られていた史料的証拠は一切ないと云います。
むしろ神道家たちが金毘羅神に大物主を重ねあわせる以前は、象頭山には大物主と関係なく金毘羅神が鎮守として祀られていたのは見てきたとおりです。それを、神道家が逆に『山家要略記』等を根拠に金毘羅神とは実は大物主であったのだと、金毘羅=大物主同体説を主張してきたと研究者は考えているようですようです。

金毘羅さんの大祭は10月10日に行われるので、地元では「お十日(おとうか)さん」と呼ばれています。
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 現在の祭は、十月九日十日十一日のいわゆるお頭人(とうにん)さんとよんでいる祭礼行列です。これは十月十日の夜、本社から山を下って神事場すなわちお旅所まで神幸し、十一日の早朝からお旅所でかずかずの神事があり、十一日は山を上って再び本社まで帰るというスケジュールです。
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しかし、本社をスタートしてお旅所まで神幸し、そこで一日留まり、翌々日に本社に還幸するという今のスタイルは、神仏分離以後のもののようです。それ以前は、神事場もありませんから「旅所への神幸」という祭礼パレードも山上で行われていたのです。
その祭がどんなものであったか「金毘羅山名勝図会」の記述で見てみましょう。
「金毘羅山名勝図会」は19世紀前半に上下二巻が成立したものです。これを読むと大祭は次のふたつに分けて考える事が出来るようです
山麓の精進屋で何日にもわたる物忌と
その忌み龍りの後で、山上で行なわれる各種神事
そして、江戸時代に人々が最も楽しみにしたのが山麓から山上の本宮に到る頭人出仕の行列で、それが盛大なイヴェント委だったようです。当時の祭礼行列は下るのではなく、本宮に向けて登っていたのです
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大祭行事に地元の人たちはどんな形で参加していたのでしょうか
 金毘羅大権現が鎮座する小松荘は苗田、榎井、四条、五条の四村からなります。この四村の中には石井、守屋、阿部、岡部、泉、本荘、田附の七軒の有力な家があって、その七軒の家を荘官とよんでいました。大頭人になるのはこの七軒の家の者に限っていました。中世の宮座にあたる家筋です。その家々が、年々順ぐりに大頭人を勤めることになっていたようです。
9月1日がくると大頭屋の家に「精進屋」と呼ぶ藁葺きの家を建てます。柱はほりたてで壁は藁しとみで、白布の幕が張られます。その家の心柱の根には、五穀の種が埋められます。
9月8日は潮川の神事です。
この日がくると瀬戸内海に面した多度津から持って来た樽に入れた潮と苅藻葉を神事場の石淵に置き、これを川上から流して頭人、頭屋などが潮垢離をします。この日から男女の頭人と、瓶取り婆は毎日三度ずつ垢離を取り、精進潔斎で精進屋で忌みごもりをするのです。
9月9日は大頭屋の家へ、別当はじめ諸役人が集まります。
青竹の先に葉が着づきのままご幣をつけて精進屋の五穀を埋めた柱のところへ結びつけて、その竹を棟より少し高く立てます。
9月10日はトマリソメと言って、この日から大頭屋の家の精進屋で頭人たりちが正式に泊ります。
10月1日は小神事です。
10月6日は「指合の神事」です。
来年の頭屋について打合せる神富が大頭屋の家の精進屋で行なわれます。この時に板付き餅といって、扇の形をした檜の板の上に餅をおき板でしめつけます。これはクツカタ餅ともよばれます。この餅は三日参り(ミツカマイリ)の時の別当や頭司、山百姓などの食べるものだといいます。
10月7日は小頭屋指合の神事です。
10月10日は、いよいよ頭人が山上に出仕する日です。
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頭人は烏帽子をかぶり白衣騎馬で武家の身なりで出かけます。先頭には甑取りの姥が緋のうちかけで馬に乗って行きます。アツタジョロウ又はヤハタグチと呼ばれるこの姥は月水のない老婆の役目です。乗馬の列もあって大名行列になぞらえた仮装パレードで麓から本社への坂や階段を登って行きます。この仮装行列が祭りの一番の見世物となります。

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頭人は金光院の客殿で饗応をうけ、本社へ参詣し、最後に三十番神社で奉幣をします。
10月11日は、観音堂で饗応の後、神輿をかつぎ出して観音堂のまわりを三度まわります。これが行堂めぐりです。ここには他社の祭礼に見るようなミタマウツシの神事もなく、神輿は「奥坊主」が担ぎます。
 神輿には頭人が供奉します
頭人は草鮭をはき、杖をついて諜(ゆかけ)を身につけます。このゆかけは、牛の皮をはぎとって七日の内に作ったもので臭気があるといいます。そして杵を四本かついで行きます。小頭人は花桶花寵を肩にかけて行きます。山百姓(五人百姓)は金毘羅大権現のお伴をしてやって来た家筋の者ですが、この人たちは錐やみそこしや杓子等を持って行列に参加します。そして神輿が観音堂を三巡りすると、神事は終わりとなります。
金毘羅山本山図1

 この神事が終わると、観音堂で祭事に用いた膳具のすべては縁側から下へ捨てます。
祭事に参加した者はもとより、すべての人々がこの夜は境内から出て行きます。一年中でこの夜だけは誰も神前からいなくなるのです。この日神事に使った箸は木の根や石の下などに埋めておく。また箸はその夜、ここから五里ばかり離れた阿波の箸倉山(現在三好郡池田町)へ守護神が運んで行くともいわれます。

金毘羅参詣名所圖會」に見る象頭山松尾寺金光院zozuzan

11日の祭事が終わると、山を下りて精進屋へ行き小豆飯を炊いて七十五膳供えます。
14日は三日参りの式です。これは頭屋渡しとも云われ、本年の頭屋から来年の頭屋へと頭屋の仕事を引き渡す儀式です。
16日は火被の神事で、はらい川で精進屋を火にかけて焼きます。
 以上が「金毘羅山名勝図会」に記録された金毘羅大祭式の記事です。
江戸末期の文化年間の金毘羅大権現の祭礼はこのようなものでした。これを読んでいると分からないことが増えていきます。それをひとつひとつ追いかけてみましょう。
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大祭の1ヶ月以上前から大頭人を担当する家では、頭人の忌み寵りの神事が始まっています。
大頭屋は小松荘の苗田、榎井、四条、五条の荘官の中より選ばれていました。しかし、これらの村々には次のような古くからの氏神があって、いずれもその氏子です。
 苗田  石井八幡
 榎井  春日神社
 四条  各社入り組む
 五条  大井八幡
これらの社の氏子が大祭には金毘羅大権現の氏子として参加することになります。これは地元神社の氏子であり、金毘羅さんの氏子であるという二面性を持つことになります。現在でも琴平の祭りは「氏子祭り」と「大祭」は別日程で行われています。
それでは「氏神」と「金毘羅さん」では、成立はどちらが先なのでしょうか。
 これは、金毘羅大権現の大祭の方が後のようです。金比羅さんが朱印領となった江戸時代になってから、いつとはなく金毘羅大権現の氏子と言われ始めたようです。ここにも金毘羅大権現は古代に遡るものではなく、近世になって登場してきたものであることがうかがえます。
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鞘橋(一の橋)を渡って山上に登る祭礼行列

次に、およそ二ヶ月にもおよぶ長い忌寵の祭です。
これは大頭屋の家に建てられる「精進屋」で行なわれます。
「精進屋」の心柱の下には五穀の種子を埋めるとありました。その年に穫れたもので、忌寵の神事の過程で五穀の種子の再生を願う古代以来の信仰から来ていると研究者は考えています。
 また、五穀の種子を埋めた柱に結わえつけた青竹を、棟より高くかかげて立てて、その尖端は青竹の葉をそのままにしておいて、ご幣を立てるとあります。これは「名勝図会」の説明によると「遠く見ゆるためなり、不浄を忌む故なり」と述べていまますが、やはり神の依代でしょう。ここからは精進屋が、頭人達の忌寵の場というだけでなく、神を招きおろすための神屋であったことがうかがえます。

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元禄の祭礼屛風
 明治の神仏分離で大祭は大きく変化しました。例えば今は、神輿行列は本社から長い石段を下りて新しく造営された神事場へ下りてきて、一夜を過ごします。しかし、明治以前は、十月十日に大頭屋の家から行列を作って山上に登っていく行列でした。
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 祭礼行列に参加する人たちが「仮装」して高松街道をやってくる様子

その行列の先頭にアツタジョロウとよぶ甑取りの姥が参加するのはどうしてでしょうか
 甑取りというのは神に供えるための神酒をかもす役目の女性です。それがもはや月水のない女であるということは、古代以来の忌を守っていることを示すものと研究者は指摘します。
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木戸を祭礼行列の参加者が入って行くのを見守る参拝者達

三十番社について
 山上に登った頭人は本社へ参詣してから三十番神社へ詣でて奉幣すると記されますが、三十番神社については古くからこんな伝承が残っています。
 三十番神社はもともと古くから象頭山に鎮座している神であった。金毘羅大権現がやって来て、この地を十年間ばかり貸してくれと言った。そこで三十番神が承知をすると大権現は三十番神が横を向いている間に十の上に点をかいて千の字にしてしまった。そこで千年もの間借りることができるようになった
と云うのです。
 このような神様の「乗っ取り伝承」は、他の霊山などにもあり、金毘羅山だけのものではありません。ここでは三十番神がもともとの地主神であって、あとからやって来た客神が金毘羅大権現なのを物語る説話として受け止めておきましょう。なにしろ、この大祭自体が三十番社の祭礼を、金毘羅大権現が「乗っ取った祭礼」なのですから。
 本社と三十番神に奉幣するというのは、研究者の興味をかき立てる所のようです。
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祭礼後の膳具は、どこへいくのか?
山上における祭は十日の観音堂における頭人の会食と、十一日の同じ献立による会食、それからのちの神輿の行堂巡りが主なものです。繰り返しますが、この時代はお堂のめぐりを廻るだけ終わっていたのです。行列は下には下りてきませんでした。
 諸式終わると膳具を全て観音堂の縁側より捨てるのです。これを研究者は「神霊との食い別れ」と考えているようです。そしてこの夜は、御山に誰も登山しないというのは、暗闇の状態を作りだし、この日を以って神事が終わりで、神霊はいずれかへ去って行こうとする、その神霊の姿を見てはならないという考えからくるものと研究者達は指摘します。
 翌日、観音堂の縁側より捨てられた膳具はなくなっています。神霊と共に、いずれかへ去って行てしまったというのです。どこへ去って行ったのか?

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 ここに登場するのが阿波の箸蔵寺です。
この寺は
「祭礼に使われた箸は箸蔵寺に飛んでくる」
と言い出します。その所以は
「箸蔵山は空海が修行中に象頭山から帰ってきた金毘羅大権現に出会った山であること、この山が金毘羅大権現の奥の院であること、そのために空海が建立したのが箸蔵寺であること」
という箸蔵寺の由緒書きです。
金毘羅大権現 箸蔵寺2

私の興味があるのは、箸を運んだ(飛ばした?)のは誰かということです?
 祭りの後の真っ暗な金比羅のお山から箸倉山に飛び去って行く神霊の姿、そして膳具。なにか中世説話の「鉢飛ばし」の絵図を思い浮かべてしまいます。私は、ここに登場するのが天狗ではないかと考えています。中世末期の金毘羅のお山を支配したのは修験者たちです。箸蔵寺も近世には、阿波修験道のひとつの拠点になっていきます。そして、金毘羅さんの現在の奥社には、修験者の宥盛が神として祀られ、彼が行場とした断崖には天狗の面が掲げられています。箸倉寺の本堂には今も、烏天狗と子天狗が祀つられています。天狗=修験道=金毘羅神で、金比羅山と箸蔵山は結ばれていったようです。それは、多分に箸蔵寺の押しかけ女房的なアプローチではなかったかとは思いますが・・・
 天狗登場以前の形は十一日の深夜に神霊がはるかなる山に去って行くと考えていたのでしょう。いずれにしても十一日の夜は、この大祭のもっとも慎み深い日であったようです。


金毘羅神を生み出したのは修験者たちだった   
金毘羅大権現2
金毘羅信仰については、金毘羅神が古代に象頭山に宿り、近世に塩飽の船乗り達によって全国的に広げられたと昔は聞いてきました。しかし、地元の研究者たちが明らかにしてきた事は、金毘羅神は戦国末期に新たに創り出された仏神で、それを生み出したのは象頭山に拠点を置く修験者たちであったこと、彼らがそれまでの三十番社や松尾寺に代わってお山の支配権を握っていく過程でもあったということです。その拠点となったのが松尾寺別当の金光院です。そして、この金光院の院主が象頭山の封建的な領主になるのです。

e182913143.1金比羅大権現 天狗 烏天狗 絵入り印刷掛軸
 この過程を今回は「政治史」として、できるだけ簡略にコンパクトに記述してみようと思います。
 戦国末期から17世紀後半にかけて、金光院院主を務めた修験系住職六代の動きをながめると、新たに作りだした金毘羅大権現を祀り、象頭山の権力掌握をおこなった動きが見えてきます。金毘羅大権現を祀る金毘羅堂は近世始めに創建されたもので、金光院も当寺は「新人」だったようです。新人の彼らがお山の主になって行くためには政治的権力的な「闘争」を経なければなりませんでした。それは金毘羅神の三十番神に対する、あるいは金光院の松尾寺に対する乗っ取り伝承からも垣間見ることができます。
20150708054418金比羅さんと大天狗

宥雅による金毘羅神創造と金毘羅堂の建立
金毘羅神がはじめて史料に現れるのは、元亀四年(1573)の金毘羅堂建立の棟札です。
ここに「金毘羅王赤如神」の御宝殿であること、造営者が金光院宥雅であることが記されています。 宥雅は地元の有力武将長尾氏の当主の弟ともいわれ、その一族の支援を背景にこの山に、新たな神として番神・金比羅を勧進し、金毘羅堂を建立したのです。これが金毘羅神のスタートになります。

宥雅による金毘羅堂建立

 彼は金毘羅の開祖を善通寺の中興の祖である宥範に仮託し、実在の宥範縁起の末尾に宥範と金毘羅神との出会いをねつ造します。また、祭礼儀礼として御八講帳に加筆し観応元年(1350)に宥範が松尾寺で書写したこととし、さらに一連の寄進状を偽造も行います。こうして新設された金毘羅神とそのお堂の箔付けを行います。
 当時、松尾寺一山の中心施設は本尊を安置する観音堂であり、その別当は普門院西淋坊という滅罪寺院でした。さらに一山の地主神として、また観音堂の守護神として神人たちが奉じた三十番社がありました。これらの先行施設と「競合」関係に金毘羅堂はあったのです。
 そのような中で金光院は、あらたに建立された金毘羅堂を観音堂守護の役割を担う神として、松尾寺の別当を主張するようになります。それまでの別当であった普門院西淋坊が攻撃排斥されたのです。このように新たに登場した金毘羅堂=金光院と先行する宗教施設の主導権争いが展開されるようになります。
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 そのような中で天正六年(1578)から数年にわたる長曽我部元親の讃岐侵攻が始まります。

長宗我部元親支配下の金毘羅

これに対して長尾氏の一族であった金光院の宥雅は堺に亡命します。空きポストになった金光院院主の座に、長宗我部元親が指名したのが、陣営にいた土佐幡多郡寺山南光院の修験者である宥厳です。彼は、元親の信任を受け金毘羅堂を「讃岐支配のための宗教センター」としての役割と機能を果たす施設に成長させていきます。

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 こうして宥厳は土佐勢力支配下において、金光院の象頭山における地位を高めていきます。彼は土佐勢撤退後も金光院院主を務めます。その亡き後に院主となるのが宥盛です。彼は「象頭山には金剛坊」と称せられる傑出した修験者で、金毘羅の社会的認知を高め、その基盤を確立したといわれます。歿する際には自らの修験形の木像を観音堂の後堂に安置しますが、彼は神として現在の奥社に祀られています。
 一方、宥雅は堺からの復帰をはかろうと、当時の生駒藩に訴え出ますが認められませんでした。彼は、金刀比羅宮の正史には金光院歴代住職に数えられていません。抹殺された存在です。長宗我部元親による讃岐支配は、宥雅とっては創設した金比羅堂を失うという大災難でしたが、金比羅神にとってはこの激動が有利に働いたようです。権力との接し方を学んだ金光院はそれを活かし、生駒家や松平頼重の良好な関係を結び、寺領を増加させていきます。同時に親までの支配権を強化していくのです。

o0420056013994350398金毘羅大権現

 それに対して「異議あり!」と申し立てたのは山内の三十番社の神人でした。
もともと、三十番社の神人は、祭礼はもとより多種の神楽祈禧や託宣などを行っていたようです。ところが金毘羅の知名度が上昇し、金光院の勢力が増大するに連れて彼らの領分は次第に狭められ、その結果、経済的にも追い詰められていきます。そのような中で、彼らは金光院を幕府寺社奉行への訴えるという反撃に出ます。
 しかし、幕府への訴えは同十年(1670)8月に「領主たる金光院を訴えるのは、逆賊」という判決となりました。その結果、11月には金毘羅領と高松領の境、祓川松林で、訴え出た内記太夫、権太夫の獄門、一家番属七名の斬罪という結末に終わります。これを契機に金毘羅(金光院)は吉田家と絶縁し、日本一社金毘羅大権現として独自の道を歩み出します。
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つまり、封建的な領主として金光院院主が「山の殿様」として君臨する体制が出来上がったのです。金毘羅神が生み出されてから約百年後のことになります。
 宥盛以降、宥睨(正保二年歿)・宥典(寛文六年隠居)・宥栄(元禄六年歿)までの院主を見てみると、彼らは大峯修行も行い、帯刀もしており「修験者」と呼べる院主達でした。

参考文献 

白川琢磨        金毘羅信仰の形成 -創立期の政治状況-

     
  幕末の瀬戸内海の芸予諸島を描いた一枚の絵図を見ています。
9639幕末~明治期古地図「宮島 錦帯橋 金毘羅ほか鳥瞰図
この絵は尾道・三原上空から南の瀬戸内海を俯瞰した形で描かれています。

i-img1024x767尾道沖2
下側には山陽道沿いの海岸線と主要な港町が東(左)から下津井・福山・とも(鞆)・尾道・三原と続き、

i-img1024x7宮島
 
竹原・おんど(音戸の瀬戸)を経て広島湾から宮島へと続きます。そして、西(右)端の岩国まで描かれています。

さて、この絵の作者の描きたかったのは何なのでしょうか?
この絵図はこのエリアの4つの名所を紹介するために書かれた絵図のようです。 分かりやすく描きたかった所には、丸い枠の中に地名が書き込まれています。
i-img1024x767-宮島・岩国

それは「宮島」・「岩国錦帯橋」「とも ギョン宮」「こんぴら大権現」のようです。しかし、この絵図で、最も丁寧に描き込まれているのは宮島、その次が錦帯橋ではないでしょうか。鞆と金毘羅大権現は脇役のような印象を受けます。関西人にとって瀬戸内海のナンバーワン名勝は「日本三景」の宮島でした。その宮島に匹敵するほどの参拝客が金毘羅を訪れるようになるのは19世紀になってからのようです。
 今回は大坂の船問屋が乗船客に配布した引札の金毘羅参拝絵図の航路図の変遷から見えてくるを探ってみます。

この絵図は18世紀末に、大坂の船問屋のはりまや伝兵衛が金毘羅船の乗船客に無料で配布した航路図です。
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両面刷りで、表(上)が高砂から金毘羅まで、裏(裏)がとも(鞆)から西の宮島までの海路が示されています。この絵地図の題名は「こんぴら並みやじま船路道中記案内」で、金毘羅と宮島の案内を兼ねていたことが分かります。つまり、18世紀後半の金毘羅の案内図は、宮島と抱き合わせであったようです。この図が出されてからは、各地の宿屋がこのような道中案内を出すようになるのですが、金毘羅単独ではなく宮島や西国巡礼の案内を兼ねた道中記です。
  ちなみにこの時期に何種類も出された「西国霊場並こんぴら道中案内記」の中には、
「さぬきこんぴらへ御さんけいあそばされ候は つりや伊七郎方へ御出被成可被下候、近年新宿多く出来申候てまぎらはしく候ゆへ ねんのため此方より御さしづ奉申上候」
と、金比羅詣での宿の手配依頼を受け付けることが書かれています。
    この時期の金毘羅さんには単独で四国讃岐まで遠方の参拝客を惹きつける知名度がなかったようです。

それが当時の旅ブームの高揚に載って、江戸での金毘羅大権現の知名度が高まる19世紀初頭になると多くの人たちが四国こんぴらさんを目指すようになります。前回見たように、十返舎一九の弥次さん北さんが「続膝栗毛」で金比羅詣でを行うのもこの時期です。そして、19世紀半ば頃から幕末に架けてひとつのピークを迎えるようになります。
そうなると、金比羅詣での客を自分たちの所へも呼び込もうとする動きが各地で出てきます。そのためにおこなうことは、金比羅詣でのついでに、我が地にもお寄りくださいとパンフや地図で呼び掛けることです。こうして、今までにないルートや名所が名乗りをあげてくることになります。
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 この絵図に何が書かれているのかが分かるためには少し時間が必用です。私も最初は戸惑いました。初期の金毘羅絵地図のパターンで、左下が大坂で、下側が山陽道の宿場町です。従来の金毘羅船の航路である大坂から播磨・備前を経て児島から丸亀へ渡る航路も示されています。しかし、この地図の変わっているのは、大坂から右上に伸びる半島です。半島の先が「加田」で、その前にあハじ島(淡路島)、川の向こうに若山(和歌山)です。この川はどうやら紀ノ川のようです。加田から東に伸びる街道の終点はかうや(高野山)のです。加田港からの帆掛船が向かっているのは「むや」(撫養)のようです。撫養港は徳島の玄関口でした。
 この絵図を発行しているのは、西国巡礼第三番札所粉川寺の門前町の旅籠の主金屋茂兵衛です。
彼がこの絵図を発行した狙いは、どこにあるのでしょうか。
私には、紀州加田から撫養へ渡り、讃岐の内陸部を通る新しい金毘羅参りのコース開発に力を入れているように思えます。もともと東国からの参拝者は弥次さん・北さんがそうであったように伊勢や高野山参りのついでに、金毘羅さんをめざす人たちが多かったのです。その人達の四国へのスタート地点を大坂から加田に呼び込もうとする目算が見えてくるようです。
さらに時代を経て出された絵図です。

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標題は「象頭山參詣道 紀州加田ヨリ 讃岐廻弁播磨名勝附」となっていて、「加田」が金毘羅へのスタート地点となっています。そして、四国の撫養に上陸してからの道筋が詳細に描き込まれています。
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讃岐山脈を越えて高松街道を西へ進み法然寺のある仏生山や滝宮を経て、象頭山の金毘羅へ向かいます。それ以外にも白鳥宮や志度寺、津田の松原など東讃岐の名所旧跡も書き込まれています。屋島がこの時点では陸と離れた島だったことも分かります。
 この絵を見ていると、地図制作技術が大幅に向上しているのが実感できます。色も鮮やかです。気がかりなのは、紀州加田の金毘羅への道の起点になろうとする戦略はうまく行ったのでしょうか?


さて次は、丸亀に上陸した後で旅籠から渡された絵図です。
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参拝者たちはこの地図を片手にウオークラリーのように、金毘羅さんだけでなく善通寺や弥谷寺などの名所旧跡にも足を運んだのです。いうなれば「讃岐版の金毘羅案内図」ということになるのでしょうか。
標題に「金毘羅並七ケ所霊場/名勝奮跡細見圖」とある通り、絵図の中では描写が写実的で最も細密でできばえがいいものです。絵師の大原東野は、文化元年(1804))に奈良から金毘羅へやってきて、定住していろいろな作品を残しています。それだけでなく「象頭山行程修造之記」を配って募金を行い金毘羅参詣道の修理を行うなど、ボランテイア事業も手がけた人です。彼の奈良の実家は、小刀屋善助という興福寺南圓堂(西国三十一二所第九番札所)前の大きい旅龍でもあったようです。
   さて、前回に登場した弥次さん北さんがそうであったように、江戸の参拝者は好奇心が強く「何でも見てやろう・聞いてやろう」と好奇心も強い上に、体力もタフでした。そのため「折角四国まで来たら金毘羅山だけではもったいない」という気持ちが強く、空海伝説の聖地である善通寺や弥谷寺などにも足を運んだことは紹介しました。

 その好奇心を逆手にとって、金毘羅客の呼び込みに成功したお寺が現れます。そのお寺が出した絵図がこれです。
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この絵図も見慣れない構図なので最初は戸惑いました。真ん中の平野のように見えるのは瀬戸内海です。金毘羅が鎮座する奥の象頭山と手前の丸亀の位置が分かると見えてきました。この絵図がアピールしたいのは丸亀と海を挟んで鎮座する喩迦山です。
 備前児島半島の喩迦山蓮台寺は、金毘羅参詣だけでは「片参り」になり、楡迦山へも参詣しないと本当の御利益は得られないと、巧みな宣伝をはじめます。これが功を奏して参詣客を集めることに成功します。これはその「両参り」用の案内書です。これを帰路の丸亀で見せられた参拝客は喩迦山まで足を伸ばすようになります。そして、次第に往路に喩迦山に立ち寄ってから金毘羅をめざす参拝者も増えるようになります。その結果、弥次・北の時代には室津から出発して小豆島の西で備讃瀬戸を横断していた金毘羅船の航路は、喩迦山の港である田の口港に寄港した後に丸亀に向かうようになるのです。その結果、金毘羅と喩迦山の間では門前町の宿屋や茶屋、土産物屋の間で参詣客の分捕り合戦が演じられるようになり、田引水の信仰や由来が作られ、双方が相手をけなし合う泥試合になっていきます。
これを庶民が表した諺が残っています。
○旨いこと由加はん 嘘をおっしゃる金毘羅さん 
観光誘致の所産の諺として、当時の人々に広まったようです。
塩飽諸島の盆歌に「笠を忘れた由加の茶屋へ空か曇れば思い出す」というフレーズがあるそうです。由加山蓮台寺門前町の昔のにぎわい振りがしのばれます。
 
18世紀までは、伊勢や高野山、宮島の参拝ついでに立ち寄られていた金毘羅さんでした。それが19世紀半ば頃から知名度を上げ「集客力」を高めるようになると、他の「観光地」が金毘羅さんからお客を呼び込もうとする戦略をとるようになっていったのです。
 観光地同士のせめぎ合いは、この時代からあったようです。
関連年表
延享元年 1744 大坂の船問屋に金毘羅参詣船許可。日本最初の客船運航開始
宝暦3年 1753 勅願所になる。
宝暦10年1760 日本一社の綸旨を賜う。
明和元年 1764 伊藤若冲、書院の襖絵を画く。
明和3年 1766 与謝蕪村、金毘羅滞在し「秋景山水図」を描く
天明7年 1787 円山応挙、書院の間の壁画を画く。
文化2年 1805 備中早島港、因島椋浦港に燈籠建立。
文化3年 1806 丸亀福島湛甫竣工。
文化7年 1810 『金毘羅参詣続膝栗毛初編(上下)』弥次郎兵衛と北八の金毘羅詣で
文化11年1814 瀬戸田港に常夜燈建立。
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工。天保の改革~6年間。
天保9年 1838 丸亀に江戸千人講燈籠建つ。(太助燈籠のみ)
  多度津港に新湛甫できる。
弘化2年 1845 金堂、全て成就。観音堂開帳。
嘉永6年 1853 黒船来航。吉田松陰参詣。
嘉永7年 1854 日米和親条約締結。
安政6年 1859 因島金因講、連子塀燈明堂上半分上棟。
  高燈籠の燈籠成就。
   参考文献 町史ことひら第5巻 絵図・写真編66P~

前回は金毘羅神を江戸で広げたのは山伏(天狗)達ではなかったのかという話でした。今回はそれをもう少し進めて、山伏達はどのように流行神として金毘羅神をプロモートしたのかを見ていきたいと思います。
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まず江戸っ子たちの「信仰」について見ておきましょう。
 江戸幕府は、中世以来絶大な力を持っていた寺社勢力を押さえ込む政策を着々と進めます。その結果、お寺は幕府からの保護を受ける代わりに、民衆を支配するための下部機関(寺請け)となってしまいます。民衆側からするとお寺の敷居は、高くなってしまいます。そのため寺院は、民衆信仰の受け皿として機能しなくなります。一方、民衆は 古道具屋の仏像ですら信仰するくらい新しい救いの神仏を渇望していました。そこに、流行神(はやりがみ)が江戸で数多く登場する背景があるようです。

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江戸っ子達は「現世利益」を目的に神社仏閣にお祈りしています。
 その際に、本尊だけでは安心・満足できずに、様々な神仏を同時に拝んでいくというのが庶民の流儀でした。これは、現在の私たちにもつながっています。神社・仏閣側でも、人々の要求に応じて舞台を整えます。氏神様は先祖崇拝が主で、病気治癒や悪霊退散などの現世利益の願いには効能を持たないと考えるようになった庶民に対して、新たに「流行神」を勧進し「分業体制」を整えます。例えばお稲荷さんです。各地域の神社の境内に行くと、本殿に向かう参道沿いに稲荷などの新参の神々が祀られているのは、そんな事情があるようです。地神の氏神さまは、それを拒否せず境内に新参の流行神を迎え入れます。寺院の場合も、鬼子母神やお地蔵さんなどの機能別の御利益を説く仏さまを境内に迎えるようになります。
境内には「効能」に応じた仏やいろいろなお堂が立ち並ぶようになります。
このような「個人祈願の神仏の多様化」が見られるようになるのは江戸時代の文化・文政期のようです。つまり「神仏が流行するという現象」、言い換えれば「人々の願いに応じて神仏が生まれ流行する」という現象が18世紀後半に生まれるのです。それを研究者は「流行神(はやりがみ)」と呼んでいるようです。それを流行らせたのが「山伏・聖者・行者・巫女」といったプロモーターだったようです。
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元禄から百年間の流行神の栄枯盛衰をつづった史料を見ておきましょう。
百年前世上薬師仏尊敬いたし、常高寺の下り途の薬師、今道町寅薬師有、殊の外参詣多くはやらせ、上の山観音仏谷より出て薬師仏参り薄く、上の山繁昌也、夫より熱村七面明神造立せしめ参詣夥鋪、四十年来紀州吉野山上参りはやり行者講私り、毎七月山伏姿と成山上いたし、俗にて何院、何僧都と宮をさつかり異鉢を好む、
 是もそろそろ薄く成、三十年此かた妙興寺二王諸人尊信甚し、又本境寺立像の祖師、常然寺元三大師なと、近年地蔵、観音の事いふへくもなくさかんなり、西国巡礼に中る事、隣遊びに異ならす、十年此かた讃州金比羅権現へ参詣年々多く成る。
意訳変換しておくと
百年前には、薬師仏が信仰を集め、常高寺の下り途の薬師や、今道町の寅薬師などが、殊の外参詣者が多かった。ところが上の山の観音仏が登場すると、薬師参りは参拝者が少なくなり、上の山が繁昌するようになった。さらに熱村の七面明神が造立されると参詣が多くなり、四十年前からは紀州吉野山参りが流行りとなり行者講が組織され、七月には山伏姿で山上し、俗に何院、何僧都を授かり、異鉢を好むようになった。それもそろそろ下火になると、三十年前からは妙興寺の二王への参拝が増えた。また本境寺立像の祖師、常然寺の元三大師なと、近年地蔵、観音さまへの信仰も盛んになった。西国巡礼に赴くものの中には、十年ほど前からついでに讃州金比羅権現へ参拝するものも多くなっている。
ここには元禄時代から百年間の「流行神」の移り変わりが辿られています。
「世上薬師仏 → 上の山観音 → 熱村七面明神 →紀州吉野のはやり行者講→ 妙興寺 → 西国巡礼 → 金毘羅大権現」
と神様の流行があっることをふり還ります。
ちなみに、金毘羅神の江戸における広がりも「十年此かた讃州金比羅権現へ参詣年々多く成る」ことから、元禄から百年後の19世紀初頭前後が江戸における金毘羅信仰高揚の始まりであったことが裏付けられます。
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流行神の出現を 弘法清水伝説の場合を見てみましょう
 宝暦六年に下総国古河にて、御手洗の石を掘ると弘法大師の霊水が出てきた。盲人、いざりはこの水に触れると眼があいたり腰が立つたという。この水に手拭を浸すと梵字が現われたりして、さまざまの奇蹟があった。
そこで江戸より参詣の者夥しく、参詣者は、竹の筒に霊水を入れて持ち帰る、道中はそのため群集で大変混雑していたという。そもそもこのように流行したのは、ある出家がこの地を掘ってみよといったので、旱速掘ったらば、清水が湧き出てきたのだという。世間では石に目が出たと噂されて流行したと伝えられている。(喜田遊順『親子草』)
 これは四国霊場のお寺によくある弘法清水伝説と同じ内容です。出家(僧)の言葉で石から清水が湧き出したことから、霊験があると巷間に伝えられて流行りだしたといいます。
流行神の登場の仕方には次のようなパターンがあります。
    ①最初に奇跡・奇瑞のようなものが現れる。
    ②たとえば予知夢、光球が飛来する、神仏増が漂着したり掘り出される等。
    ③続いて山伏・祈祷し・瞽女続いて神がかりがあったり、霊験を説く縁起話などが宣伝される。
    こうして流行神が生み出されていきます。 それを宣伝していくのが修験者や寺院でした。流行神の出現・流布には、山伏や祈祷師などがプロモーターとして関わっていることが多いのです。

修験者(行者・山伏)がメシアになった例を見てみましょう。
彼らはいろいろな呪法を行使して祈祷を行ない、一般民衆の帰依を受けることが多かったようです。霊山の行場で修行を経て、山伏が、ふたたび江戸に帰り民衆に接します。その際の荒々しい活力は、人々に霊験あらたかで「救済」の予感を感じさせます。そういった系譜を引く行者たちは、次のように生身の姿で人々に礼拝されることがありました。
 正徳の比、単誓・澄禅といへる両上人有、浄家の律師にて、いづれも生れながら成仏の果を得たる人なり、澄禅上人は俗成しとき、近在の日野と云町に住居ありしが、そこにて出家して、専修念仏の行人となり、後は駿河の富士山にこもりて、八年の間勤修怠らず生身の弥陀の来迎ををがみし人也、八年の後富士山より近江へ飛帰りて、同所平子と云山中に胆られたり、

単誓上人
もいづくの人たるをしらず、是は佐渡の国に渡りて、かしこのだんどくせんといふ山中の窟にこもり、千日修行してみだの来迎を拝れけるとぞ、その時窟の中ことぐく金色の浄土に変瑞相様々成し事、木像にて塔の峰の宝蔵に収めあり、
此両上人のちに京都東風谷と云所に住して知音と成往来殊に密也しとぞ、単誓上人は其後相州箱根の山中、塔の峯に一宇をひらきて、往生の地とせられ、終にかしこにて臨終を遂られける。澄禅上人の終はいかん有けん聞もらす、東風谷の庵室をば、遺命にて焼払けるとぞ、共にかしこきひじりにて、存命の内種々奇特多かりし事は、人口に残りて記にいとまあらずといふ
(『譚海』五)
 ここに登場する単誓・澄禅の二行者は、山岳で厳しい修行を積み、生身の弥陀の来迎を拝んだり、山中の窟を金色の浄土に変ぜしめたりする奇蹟を世に示す霊力を持つようになります。いわば「生れながら成仏の果を得たる人」でした。かれらの出現は、まさに民衆にとってはメシア的な存在で、信仰対象となったのです。このように修験者(山伏)の中には、「生き神様」として民衆の信仰を集める人もいたことが分かります。


 
一方、山伏たちは、江戸幕府にとってはずいぷんと目障りの存在だったようです。
このことは、寛文年間の次の町触れの禁令の中にもうかがうことができます.
 一、町中山伏、行人之かんはん並にほんてん、自今以後、出し置申間敷事
 一、出家、山伏、行人、願人宿札は不苦候間、宿札はり置可申事
 一、出家、山伏、行人、願人仏壇構候儀無用之由、最前モ相触候通、違背仕間敷候、
 一、町中ニテ諸出家共法談説候儀、無用二可仕事
 一、町中にて念仏講題目講出家並に同行とも寄合仕間敷事
 この禁令からは、山伏、行人たち宗教活動に大きな規制がかけられていることが分かります。一方では、こうした町触れが再三再四出されていることは、民衆が行者たちに祈祷を頼んだりして、彼らを日常的に「活用」していたことも分かります。山伏たちは、寺院に直接支配されない民間信仰の指導者だったのです.
  このような中に、天狗面を背負って金毘羅山からやって来た山伏達の姿もあったのではないでしょうか。四国金毘羅山で金光院や多門院の修験道修行を受けた弟子達が江戸でどんな活動を行ったかは、今後の課題となります。
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  江戸庶民の流行神信仰リストとその願掛けの御供えは? 
因幡町庚申堂にはを備よ
  赤坂榎坂の榎に歯の願を掛け楊枝を備ふ
  小石川源覚寺閻魔王に萄罰を備よ
  内藤新宿正受院の奪衣婆王には綿を備ふ
  駒込正行寺内覚宝院霊像にはに蕃根を添備ふ
  浅草鳥越甚内橋に廬の願を掛け甘酒を備よ
  谷中笠森稲荷は願を掛る時先土の団子を備よ
  大願成就の特に米の団子を備ふ
  小石川牛犬神後の牛石塩を備ふ
  代官町往還にある石にも塩を備よ
  所々日蓮宗の寺院にある浄行菩薩の像に願を掛る者は水にて洗よ
芝金地院塔中二玄庵の問魔王には煎豆と茶を備ふ 此別当は甚羨し 我聯として煎豆を好む事甚し 身のすぐれざる時も之を食すれば朧す
四谷鮫ヶ橋の傍へ打し杭を紙につつみて水引を掛けてあり、これ何の願ひなるや末だ知らず、後日所の者に問はん
 永代橋には、歯の痛みを治せんと、錐大明神へ願をかけ、ちいさき錐を水中に納めん              『かす札のこと下』
文化文政期ごろの江戸庶民の願掛けリストと、その時のお供え物が一覧表になっています。このうち、地蔵、閻魔、鬼王、奪衣婆、三途川老婆、浄行菩薩などは、寺院の境内にある持仏の一つであり、どれも「粉飾した霊験譚」をつけられて、宣伝された流行神ばかりです。同時に、どんな願をかけているのかを見ると「病気平癒」を祈っているのが多いようです。
 その中でもっとも多かっただのは、眼病でした。
よく知られた江戸の眼病の神は、市谷八幡の境内に祀られていた地主神の「茶の木稲荷」でした。『江戸名所花暦』には、
表門鳥居の内左のかたに、茶の木稲荷と称するあり、俗説に当山に由狐あり、あやまって茶の木にて目を突きたる故に茶を忌むといへり、此神の氏子三ヶ日今以て茶をのまず、又眼をわづらふもの一七日二七日茶をたちて願ひぬれば、すみやかに験ありといふ(中略)
と記され、約一週間茶断ちして祈願すれば、眼病は平癒するといわれていました。

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 歯病も眼病と並んで霊験の対象となっていました。
 歯の神として、江戸で名高かっだのは、おさんの方です。西久保かわらけ町の善長寺に祀られた霊神の一つで、寺の本堂で楊枝を借りて、おさんの方に祈願すると痛が治るとされ、楊枝を求めてきて、おさんの方に納めたようです。
 おさんの方は、『海録』によると、備後国福山城主水野日向守勝成の奥方珊といわれます。彼女は一生、歯痛に苦しみ、臨終の時に誓言して、
「我に祈らば応験あるべし」
と言い残したと伝わります。寛永十一(1634)年に流行だしたと史料に残っています。
このリストを見れば、まさに現世利益の「病気治癒」の神々ばかりが並んでいるのが分かります。

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金毘羅神は「海の安全」の神様といわれ始めます
しかし、この時代に「海の神様」というキャッチコピーでは、江戸っ子には受けいれられなかったと私は思います。金毘羅神はこの時期は「天狗神」として、「病気平癒」などの加持祈祷を担当していたのではないでしょうか。それを担当していたのは山伏達たちだった思うのです。

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 前回は金毘羅信仰の高まりが金比羅講の結成につながり、寄進物が増えていく様子を見てみました。その信仰の広がりと高まりの背景に山伏(修験者)達の布教活動があったのではないかということを指摘しました。
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 大坂湊のスタート 天保山
今回は熱烈な金毘羅信仰「ファン」を見てみましょう。
江戸の人山田桂翁が、天保二年(1831)71歳の時に書き上げた「宝暦現来集」には、天明のころ両国薬研堀に初めて金毘羅社を祀った元船頭の金毘羅金兵衛という男のことが載っています。その金毘羅金兵衛という名前からも熱烈な金毘羅信者であったことが想像できます。こう言う人物が何人も現れてきたようです。
 金毘羅山の境内には、金毘羅参拝を何度も行った人の記念碑が建てられています。まず、それを見ていきましょう。
寛政五年(1793)伊予国松山の吉岡屋伝左衛門が100回参詣
天保十三年(1843)作州津山船頭町の高松屋虎蔵(川船の船頭?)が61度の参詣
安政元年(1854)信州安曇郡柏原村から33度の参詣を果たした中島平兵、
万延元年(1860)松山の亀吉は人に頼まれて千度の代参
万延元年 参州吉田宿から30度目の参詣したかつらぎ源治、
文久四年(1864)松山から火物断ちして15度の参詣を遂げた岩井屋亀吉。
金毘羅山に回数を重ねて何度も参拝する「金毘羅山の熱狂的ファン」が出現しています。今でも似たような碑文を、四国霊場のお寺の境内で見ることがあります。一般の参拝客が増える中で、強い信仰心を持ち参拝回数を競うように増やし、それを誇りとして碑文に残しているようです。現在の「ギネス記録に挑戦!」といったノリでしょうか。

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難波湊を出航して
大坂の高額寄進者、廻船問屋西村屋愛助の場合は?
 当時の金毘羅大権現は、薬師堂を金堂に立て替える大規模工事が文化10年(1813)から始まっていました。それに伴い寄進を求める動きが活発化していた時期でもあります。それに応えていく信者の代表が大坂の廻船問屋の西村屋愛助です。
彼の名が最初に見えるのは、江戸と大坂で同志を募って天保十二年春に奉納した銑鉄水溜の銘文の中に刻まれています。しかし、この水溜は、戦時中の戦争遂行のための金属供出で溶かされ、弾薬に姿を変えてしまいました。それ以外で、彼の名前の残るものを挙げてみると
天保13年月 金堂の用材橡105本を奥州秋田から丸亀へ廻送。
天保14年 「潮川神事場碑」の裏に讃岐の大庄屋クラスの人々と名前あり。弘化4年(1847) 五月に100両を、続いて11月に150両を献納
金堂が完成するのは、着工から30年以上経った1845年のことでした。愛助のような熱烈な信者がいたからこそ総工費三万両という大事業であった金堂が完成にこぎ着けることができたのでしょう。全国の金比羅講と共に、裕福で熱心な信者の人々によっても金毘羅信仰は支えられていたことが分かります。
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文人旅行客が残した参拝日記(道中記)から分かることは?
各地での金比羅講の成立と共に、講から送り込まれる金比羅詣での人たちが増えていきます。そして、参拝よりも「旅」に重きをおく「旅行者」も増えます。例えば「弥次さん・喜多さん」のような個人客も混ざってきます。彼らは信仰としての参拝というよりも、物見遊山・レジャーとしての参拝の色彩が強いようです。そして、裕福でゆとりをもった目、何でも見てやろうという好奇心の目で周囲を眺めながら、その様子を日記(旅行記)に記す人が現れます。
 承応二年(1653)の澄禅の「四国遍路日記」や元禄二年(1689)刊の「四国徊礼霊場記」にも
「……金毘羅は、順礼の数にあらすといえとも、当州の壮観、名望の霊区なれは、遍礼の人、当山には詣せすという事なし……」
と記されているように、四国巡礼の人々も善通寺参拝のついでに金毘羅まで足を伸ばすことが多かったようです。当時の人たちにとっては神も仏も関係なかったのです。さて、参詣者の数が増え始めるのは享保年間(1716~)のあたりからです。年表を見ると、この時期に急速に諸堂が整備されていったことが分かります。
享保7年 1722 文殊・普賢像、釈迦堂へ安置。
享保8年 1723 神前不動像、愛染不動像出来る。新町鳥居普請。
享保15年1730 観音堂開帳
享保17年1732 広谷墓地に閻魔堂建立。享保の大飢饉。
享保18年1733 龍王社造立
1730年の33年ぶりの観音堂の開帳に向けての整備計画が行われことが分かります。それが、また人々を惹きつける要因になります。
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東国からの金毘羅参拝者が増えるのはいつから?
文政11年(1828)鹿児島の郷士右田此右衛門一行は、伊勢参宮の途上に金毘羅に参詣し「……参銭の音絶ゆるひまなく・…」と記しています。参拝客の落とす賽銭も増えます。
また、九州の豊前中津藩や肥後熊本藩、筑後柳川藩などの藩士らの出張願いなどには、神社、特に金毘羅への参詣を希望する者が多かったことが史料に残っています。
安政二(1855)出羽の清河八郎は、旅行記『西遊草』に次のように記します。
「……金毘羅は、数年この方、天下に信仰しない者はなく、伊勢の大神宮同様に、人々が遠国から参拝に集まり、その上船頭たちが、大そう尊崇する
……数十年前までは、これほど盛んなこともなかったのであるが、近頃おいおい繁昌するようになった。…金毘羅と肩を並べている神仏は、伊勢を除いては、浅草と善光寺であろう……」と。
  ここには、金毘羅信仰が「数十年前までは、これほど盛んなこともなかった」と述べられています。つまり、18世紀の末頃までは金比羅詣で客は、伊勢神宮などに比べるとはるかに少なかったというのです。
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それでは、いつ頃から伊勢と肩を並べるほどに参拝者が増えたのでしょうか?
 18世紀に書かれた東国発の伊勢神宮への参拝道中記である宝永三年(1706)の「西国道中記」、宝暦十三年(1763)の「西国巡礼道中細記」と享和三年(1803)のを見てみましょう。すると一番最後の19世紀なって書かれた「西国巡礼道中細記」だけが、伊勢参拝後に金毘羅にも参詣しているのが分かります。関東地方からの参詣者が増加するのは、私が思っていた時期よりも遅く文政期以後(1818~)のようです。参拝者の急増を追い風に、金毘羅山の金堂は着工したのかもしれません。
 もうひとつ注目しておきたいのは、金毘羅への単独参拝が目的ではなく伊勢詣や四国八十八霊場と併せて参拝する人たちが多かったことです。残された「道中記」からは奥羽・関東・中部等の東国地方からの金毘羅参拝者の半数は、伊勢や近畿方面へ参拝を済ませて金毘羅へ寄っていることが分かります。
  ここから、「東日本から金毘羅宮へ参詣するようになるのは、19世紀初頭年前後からという結論が出される」と研究者は言います。

113574淡路・舞子浜

 讃岐は巡礼スタンプラリーのメッカ? 
東国の人々が、金毘羅参詣を行うようになってくるのは、19世紀の文化・文政期になってからといいました。それは東国に限らず、全国的に「旅行する」ということが盛んになってくるのが、宝暦から天明ごろだったことも合致します。このころから、「四国八十八ヶ所巡礼」「西国三十三ヶ所巡拝」「伊勢参宮」などの聖域・聖地を巡る人々が増えているのです。讃岐においても巡礼に関する記事が庄屋に残史料の中に見られるようになります
       願上げ奉る口上
 一私共宅の近辺、仏生山より金毘羅への街道二而御座候処、毎度遠方旅人踏み迷い難渋仕り候、これに依り二・三ヶ年以来申し合わせ少々の講結び御座候 而何卒道印石灯寵建立仕り度存じ奉り候、則場所・絵図相添え指し出し候間、
願の通り相済み候様宜しく仰せ上げられ下さるべく候、
願上げ奉り候、以上
 文化七午年   香川郡東大野村百姓     半五郎 金七
    政所交左衛門殿
これは、高松の大野村百姓の半五郎と金七が政所(大庄屋)の文左衛門にあてて願い出た文書です。そこには半五郎らの家の近くで、仏生山へ参詣した後に金毘羅へ向かっている遠方からの旅人が、道に迷って困っている事例が多く出てきている。そこで道標・石灯籠を建立したいと庄屋に願い出ています。
 庄屋・藩の許可がないと灯籠も建てられないという江戸時代の一面を映し出していますが、ここで注目したいのは仏生山に参拝した後、金毘羅へ向かう遠方からの旅人が多数いるという内容です。
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四国霊場でもない仏生山に遠方からの旅人が参拝するのはなぜ?
 法然寺へ参詣するという動きは、法然上人の五百五十回忌の宝暦十一年に、法然上人の遺跡として、二十五霊場が指定されます。これ以後、法然信者による聖地巡礼が始まります。高松藩主松平頼重により菩提樹として整備された仏生山法然寺は、その札所の二番目に指定されます。ちなみに最後の二十五番目は京都の大谷知恩院のようです。この時期は、その二十五番霊場巡りが知られるようになり巡礼者も増えていたようです。
紀州加田より金毘羅絵図1

 こんなことを知った上で、当時の瀬戸内海をはさんだ讃岐と山陽道を描いた絵図を見てみると別の見方が浮かんで来ます。讃岐の中には四国八十ハケ所の霊場あり、金毘羅あり、そして法然上人ゆかりの遺跡があり「聖地巡礼」のポイントが豊富な上に変化に富んで存在しています。旅人たちは、手にした絵図を見ながら金毘羅へ、善通寺へ、また法然寺へと参拝を繰り返しつつ旅を続けたのかもしれません。江戸時代の「金毘羅詣」とは、このような聖地巡礼中の大きな「通過点」であったのかもしれません。
 これは現在の印綬を集めての神社めぐりや、映画のロケ地を訪ね旅する「聖地ロケ地」巡りへと姿を変えているのかも知れません。日本人は、この時代から旅をするのが好きな民族になっていったのかもしれません。
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参考文献 旅行者から見る金毘羅信仰 町史ことひら97P

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10 

 前回までに戦国末期から元禄年間までの百年間に金毘羅山で起きた次のような「変化・成長」を見てきました。
①歴代藩主の保護を受けた新興勢力の金光院が権勢を高めた
②朱印状を得た金光院は金毘羅山の「お山の殿様」になった
③神官達が処刑され金光院の権力基礎は盤石のものとなった
④神道色を一掃し、金毘羅大権現のお山として発展
⑤池料との地替えによって金毘羅寺領の基礎整備完了
 流行神の金毘羅神を勧進して建立された金毘羅堂は、創建から百年後には金光院の修験道僧侶達によって、金毘羅大権現に「成長」していきます。その信仰は17世紀の終わりころには、宮島と並ぶほどのにぎわいを見せるようになります。
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今回のテーマは「金毘羅信仰を広めたのは誰か」ということです。
通説では、次のように云われています。
「金毘羅山は海の神様 塩飽の船乗り達の信仰が北前船の船乗り達に伝わり、日本全国に広がった」

そうだとすれば、海に関係のない江戸っ子たちに金毘羅信仰が受けいれられていったのは何故でしょう? 彼らにとって海は無縁で「海の神様」に祈願する必要性はありません。
 まず信仰の拡大を示す「モノ」から見ていきましょう。
金毘羅信仰の他国への広まりを示す物としては
①十八世紀に入ると西国大名が参勤交代の折に代参を送るようになる
②庶民から玉垣や灯箭の寄進、経典・書画などの寄付が増加
③他国からの民間人の寄進が元禄時代から始まる。
 (1696)に伊予国宇摩郡中之庄村坂上半兵衛から、
  翌年には別子銅山和泉屋吉左衛門(=大坂住吉家)から銅灯籠
④正徳五年(1715)塩飽牛島の丸尾家船頭たちの釣灯寵奉納
 これが金毘羅が海の神の性格を示し始めるはしりのようです。
⑤享保三年(1718)仏生山腹神社境内(現高松市仏生山町)の人たちが「月参講」をつくって金毘羅へ参詣し、御札をうけて金毘羅大権現を勧請。この時に建てた「金毘羅大権現」の石碑をめぐって紛争が起きます。高松藩が介入し、石碑撤去ということで落着したようですが、この「事件」からは高松藩内に「月参講」ができて、庶民が金毘羅に毎月御参りしていることが分かります。

金毘羅大権現扁額1
金毘羅大権現の扁額(阿波箸蔵寺)
地元讃岐で「金毘羅さん」への信頼を高めたもののひとつが「罪人のもらい受け」です。
罪人の関係者がら依頼があれば、高松・丸亀藩に減刑や放免のための口利き(挨拶)をしているのが史料から分かります。
①享保十八年一月、三野郡下高瀬村の牢舎人について金毘羅当局が丸亀藩に「挨拶」の結果、出牢となり、村人がお礼に参拝、
②十九年十二月高瀬村庄屋三好新兵衛が永牢を仰せ付けられたことに対し、寺院・百姓共が助命の減刑を金毘羅当局に願い出て、丸亀藩に「挨拶」の結果、新兵衛の死罪は免れた。
③寛延元年(1748)多度津藩家中岡田伊右衛門が死罪になるべきところ、金光院の宥弁が挨拶してもらい受けた。
④香川郡東の大庄屋野口仁右衛門の死罪についても、金光院が頼まれて挨拶し、仁右衛門は罪を許された。
このような丸亀・高松藩への「助命・減刑活動」の成果を目の前にした庶民は、金毘羅さんの威光・神威を強く印象付けられたことでしょう。同時に「ありがたや」と感謝の念を抱き、信仰心へとつながる契機となったのではないでしょうか。
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金毘羅信仰の全国拡大は、江戸における高まりがあるとされます。
 江戸の大名邸に祀られた守護神(その多くは領国内の霊威ある神)を、江戸っ子たちに開放する風習が広がり、久留米藩邸の水天宮のように大きな人気を集める神社も出てきます。虎ノ門外の丸亀京極藩邸の金毘羅も有名になり、縁日の十日には早朝から夕方まで多くの参詣人でにぎわったようです。宝暦七年(1757)以後、丸亀江戸藩邸にある当山御守納所から金毘羅へ初穂金が奉納されていますが、宝暦七年には金一両だったものが、約四半世紀後の、天明元年(1781)には100両、同五年には200両、同八年からは150両が毎年届けられるようになったというのです。江戸における金毘羅信仰の飛躍的な高まりがうかがえます。
 天保二年(一八三一)丸亀藩が新湛甫を築造するに当たって、江戸において「金毘羅宮常夜灯千人講」を結成し、募金を始め、集まった金で新湛甫を完成させ、さらに青銅の常夜灯三基を建立するという成果を収めたのも、このような江戸っ子の金毘羅信仰の高まりが背景にあったようです。
この動きが一層加速するのは、朝廷より「日本一社」の綸旨を下賜された宝暦十年五月二十日てからです。
さらに、安永八年(一七七九)に将軍家へ正・五・九月祈祷の巻数を献上するよう命じられ、幕府祈願所の地位を獲得してます。もちろんこれは、このころ頻発し始めた金毘羅贋開帳を防止するためでもありましたが「将軍さんが祈願する金毘羅大権現を、吾も祈願するなり」という機運につながります。そして、各大名の代参が増加するのも、宝暦のころからです。
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しかし、それだけで遠くの異国神で蕃神である金毘羅大権現への信仰が広がったのでしょうか。
海に関係ない江戸っ子がなぜ、金毘羅大権現を信仰したのか?ということです。別の視点から問い直すと、
江戸庶民は、金毘羅大権現に何を祈願したかということです。
 それは「海上安全」ではありません。金毘羅信仰が全国的に、広まっていくのは十八世紀後半からです。当時の人々の願うことは「強い神威と加護」で、金毘羅神も「流行神」のひとつであったというのが研究者の考えのようです。
この時期の記録には、
高松藩で若殿様の庖療祈祷の依頼を行ったこと
丸亀藩町奉行から悪病流行につき祈祷の依頼があった
という記事などが、病気平癒などの祈祷依頼が多いのです。朝廷や幕府に対しても、主には疫病除けの祈願が中心でした。ちなみに、日本一社の綸旨を下賜されるに至ったきっかけも、京都高松藩留守居より依頼を受けて院の庖療祈祷を行ったことでした。
「加持祈祷」は修験道山伏の得意とするところです。
ここには金毘羅山が「山伏の聖地」だったことが関係しているようです。祈祷を行っていたのは神職ではなく修験道の修行を積んだ僧侶だったはずです。
「安藤広重作「東海道五十三次」の「沼津」」の画像検索結果
天狗面を背負っている修験者は、何を語っているのか?
広重の作品の中には、当時の金毘羅神の象徴である「天狗面」を背にして東海道を行く姿が彫り込まれています。彼らは霊験あらたかかな金毘羅神の使者(天狗)として、江戸に向かっているのかも知れません。或いは「霊力の充電」のために天狗の聖地である金毘羅山に還っているのかも知れません。
  信仰心というのは、信者集団の中の磨かれ高められていくものです。そこには、先達(指導者)が必要なのです。四国金毘羅山で修行を積んだ修験者たちが江戸や瀬戸の港町でも「布教活動」を行っていたのではないかと、この版画を見ながら私は考えています。

天狗面を背負う行者
金毘羅神は天狗信仰をもつ金比羅行者(修験者)によって広められた

 修験僧は、町中で庶民の中に入り込み病気平癒や悪病退散の加持祈祷を行い信頼を集めます
そして、彼らが先達となって「金毘羅講」が作られていったのではないでしょうか。信者の中に、大店の旦那がいれば、その発願が成就した折には、灯籠などの寄進につながることもあったでしょうし、講のメンバー達が出し合った資金でお堂や灯籠が建立されていったと思います。どちらにしても、何らかの信仰活動が日常的に行われる必要があります。その核(先達)となったのが、金毘羅山から送り込まれた修験者であったと考えます。信仰心というのは、信者集団の中の磨かれ高められていくものです。そこには、先達(指導者)が必要なのです。
1金毘羅天狗信仰 天狗面G4
金比羅行者によって寄進された天狗面(金刀比羅宮蔵)

 金毘羅神が、疫病に対して霊験があったことを示した史料を見てみましょう
 願い上げ奉る口上
 一当夏以来所々悪病流行仕り候二付き、百相・出作両村の内下町・桜之馬場の者共金毘羅神へ祈願仕り候所、近在迄入り込み候時、その病一向相煩い申さず、無難二農業出精仕り、誠二御影一入有り難く存じ奉り候、右二付き出作村の内横往還縁江石灯籠壱ツ建立仕り度仕旨申し出候、尤も人々少々宛心指次第寄進を以て仕り、決して村人目等二指し加へ候儀並びに他村他所奉加等仕らず候、右絵図相添え指し出し申し候、此の段相済み候様宜しく仰せ上げられ下さるべく候、願い上げ奉り候、以上
   寛政六寅年   香川郡東百相村の内桜之馬場
     十月          組頭 五郎右衛門
      別所八郎兵衛殿
これは香川郡東百相村(現高松市仏生山町)桜の馬場に住む組頭の五郎右衛門が、庄屋の別所八郎兵衛にあてて金毘羅灯寵の建立を願ったものです。建立の理由は、近くの村に悪病が流行していた時に金毘羅神へ祈願したところ百相村・出作村はその被害にまったく遭わなかった。そのお礼のためというものです。

7 金刀比羅宮 愛宕天狗
京都愛宕神社の愛宕神社の絵馬

 「悪霊退散」の霊力を信じて金毘羅神に祈願していることが分かります。ここには「海の神様」の神威はでてきません。このような「効能ニュース」は、素早く広がっていきます。現在の難病に悩む人々が「名医」を探すのと同じように「流行神」の中から「霊験あらたかな神」探しが行われていたのです。
 そして「効能」があると「お礼参り」を契機に、信仰を形とするために灯籠やお堂の建立が行われています。こうした「信仰活動」を通じて、金毘羅信仰は拡大していったのでしょう。ちなみに、仏生山のこの灯籠は、その位置を県道の側に移動されましたが今でも残されているようです。
 金毘羅信仰は、さらに信仰の枠を讃岐の東の方へ広がり、やがて寒川郡・大内郡へも伸びていきます。そこは当時、砂糖栽培が軌道に乗り始め好景気に沸いていた地域でした。それが東讃の砂糖関係者による幕末の高灯籠寄進につながっていきます。。
天狗面2カラー
金刀比羅宮に寄進された天狗面

 金毘羅信仰の高まりは、庶民を四国の金毘羅へ向かわせることになります
実は大名の代参・寄進は、文化・文政ごろから減っていました。しかし、江戸時代中期以降からは庶民の参詣が爆発的に増えるのです。大名の代参・寄進が先鞭をつけた参拝の道に、どっと庶民が押し寄せるようになります。
 当時の庶民の参詣は、個人旅行という形ではありませんでした。
先ほど述べたとおり、信仰を共にする人々が「講を代表しての参拝」という形をとります。そして、順番で選ばれた代表者には講から旅費や参拝費用が提供されます。こうして、富裕層でなくても講のメンバーであれば一生に一度は金毘羅山に御参りできるチャンスが与えられるようになったのです。これが金比羅詣客の増加につながります。ちなみに、参拝できなかった講メンバーへのお土産は、必要不可欠の条件になります。これは現在でも「修学旅行」「新婚旅行」などの際の「餞別とお礼のお土産」いう形で、残っているのかも知れません。

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丸亀のふたつの金毘羅講を見てみましょう
延享元年(1744)讃岐出身の大坂の船宿多田屋新右衛門の金毘羅参詣船を仕立てたいという願いが認められます。以後、大坂方面からの金毘羅参詣客は、丸亀へ上陸することが多くなります。さらに、天保年間の丸亀の新湛甫が完成してからは参詣客が一層増えます。その恩恵に浴したのは丸亀の船宿や商家などの人々です。彼らはそのお礼に玉垣講・灯明講を結成して玉垣や灯明の寄進を行うようになります。この丸亀玉垣講については、金刀比羅神社に次のような記録が残されています。
    丸亀玉垣講 
右は御本社正面南側玉垣寄付仕り候、
且つ又、御内陣戸帳奉納仕り度き由にて、
戸帳料として当卯年に金子弐拾両 勘定方え相納め候蔓・・・・・
但し右講中参詣は毎年正月・九月両度にて凡そ人数百八拾人程御座候間、
一度に九拾人位宛参り候様相極り候事、
  当所宿余嶋屋吉右衛門・森屋嘉兵衛
  金刀比羅宮文書(「諸国講中人名控」)
とあって、本社正面南側の長い階段の玉垣と内陣の戸帳(20両)を寄進したこと、この講のメンバーは毎年正月と9月の年に2回、およそ180人ほどで参拝に訪れ、その際の賑やかな様を記しています。寄進をお山に取り次いだのは金毘羅門前町の旅館・余嶋屋吉右衛門・森屋嘉兵衛です。
 玉垣講が実際に寄進した玉垣親柱には「世話方船宿中」と彫られています。そして、人名を見ると船宿主が多いことに気がつきます。
一方、灯明講については、燈明料として150両、また神前へ灯籠一対奉納、講のメンバーは毎年9月11日に参詣して内陣に入り祈祷祈願を受けること、そのたびに50両を寄付する。取次宿は高松屋源兵衛である。
この講は、幕末の天保十二年(1841)に結成されて、すぐ六角形青銅灯籠両基を奉納しています。灯明講の寄進した灯籠には、竹屋、油屋、糸屋とか板屋、槌屋、笹屋、指物屋という姓が彫られていて、どんな商売をしているのか想像できて楽しくなります。玉垣講と灯明講は、丸亀城下の金毘羅講ですが、そのメンバーは違っていたようです。
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瀬戸内海の因島浦々講中が寄進した連子塀灯明堂をみてみましょう
この連子塀灯明堂は、一の坂にあり、今も土産物店の並ぶ中に建っています。幕末ころに作られた『稿本 讃岐国名勝図会 金毘羅之部』に
連子塀並び灯龍 奥行き一間 長十二間
下六間安政五年十一月上棟 上六間
安政六年五月上棟
と記されています。
「金毘羅宮 灯明堂」の画像検索結果
一ノ坂の途中の左側にある重要有形民俗文化財「灯明堂」で、瀬戸内海の島港の講による寄進らしく、船の下梁を利用して建てられています。当時としては、巨額の経費を必要とするモニュメントです。この燈明堂を寄進した因島浦々講中とは、何者なのでしょうか?
 この講は因島を中心として向島・生口島・佐木島・生名島・弓削島・伯方島・佐島など芸予諸島の人々で構成された講です。メンバーは廻船業・製塩業が多く、階層としては庄屋・組頭・長百姓などが中心となっています。因島の中では、椋浦が最も大きな湊だったようで、この地には、文化二年(1805)10月建立の石製大灯籠が残っていて、当時の瀬戸内海の交易活動で繁栄する因島の島々の経済力を示すものです。
生口島の玄関湊に当たる瀬戸田にも、大きい石灯籠があります。
三原から生口島の瀬戸田へ : レトロな建物を訪ねて

これには住吉・伊勢・厳島などと並んで金毘羅大権現と彫られています。自らの港に船の安全を祈願して大灯籠を建てると、次には「海の神様」として台頭してきた金毘羅山に連子塀灯明堂を寄進するという運びになったようです。経済力と共に強力なリーダーが音頭を取って連子塀灯明堂が寄進されたことを思わせます こうして、瀬戸内海の海運に生きる「海の民」は、住吉や宮島神社とともに新参の金毘羅神を「海の神」として認めるようになっていったようです。
金毘羅神
天狗姿の金毘羅大権現(松尾寺蔵)
このような金毘羅信仰の拡大の核になったのは、ここでも金毘羅の山伏天狗たちではなかったのかと私は思います。
金毘羅山は近世の初めは修験者のメッカで、金光院は多門院の院主たちは、その先達として多くの弟子を育てました。金毘羅山に残る断崖や葵の滝などは、その行場でした。そこを修行ゲレンデとして育った多くの修験者(山伏)は、天狗となって各地に散らばったのです。あるものは江戸へ、あるものは尾道へ。
 尾道の千光寺の境内に残る巨石群は、古代以来の信仰の対象ですし、行者達の行場でもありました。また、真言宗の仏教寺院で足利義教が寄進したとされる三重塔や、山名一族が再建した金堂など、多数の国重要文化財がある護国寺の塔頭の中で大きな力を持っていたのは金剛院という修験僧を院主としています。尾道を拠点として、金毘羅の天狗面を背負った山伏達が沖の島々の船主達に加持祈祷を通じた「布教活動」を行っていた姿を私は想像しています。
 そして、ここでは「海の守り神」というキャッチコピーが使われるようになったではないでしょうか。江戸時代の後半になるまでは、金毘羅大権現は加持祈祷の流行神であったと資料的には言えるようです。
金毘羅神 箸蔵寺
阿波箸蔵寺の金毘羅大権現

参考文献 金毘羅信仰の高まり 町史ことひら 91P
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金毘羅全図 宝暦5(1755)年
象頭山金比羅神社絵図

金比羅神が象頭山に現れたのを確認できるのはいつから?
それは宝物館に展示されている元亀四年(1573)銘の金毘羅宝殿の棟札が最も古いようです。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
銘を訳すれば、
表「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都宥雅が造営した」
裏「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」
 この棟札は、かつては「本社再営棟札」と呼ばれ、「金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった」と考えられてきました。しかし、近年研究者の中からは、次のような見解が出されています。
「この時(元亀四年)、はじめて金毘羅堂が創建されたように受け取れる。『本尊鎮座』とあるので、はじめて金比羅神が祀られたと考えられる」
 
 元亀四年(1573)には、現在の本社位置には松尾寺本堂がありました。その下の四段坂の階段の行者堂の下の登口に金比羅堂は創建されたと研究者は考えています。
1金毘羅大権現 創建期伽藍配置

正保年間(江戸時代初期)の金毘羅大権現の伽藍図 本宮の左隣の三十番社に注目

幕末の讃岐国名勝図会の四段坂で、元亀四年(1573)に金比羅堂建立位置を示す
しかし、創建時の金比羅堂には金毘羅神は祀られなかったと研究者は考えているようです。金比羅堂に安置されたのは金比羅神の本地物である薬師如来が祀られたというのです。松尾寺はもともとは、観音信仰の寺で本尊には十一面観音が祀られていました。正保年間の伽藍図を見ると、本殿の横に観音堂が見えます。
 金比羅神登場以前の松尾寺の守護神は何だったのでしょう

DSC01428三十番社
金刀比羅宮の三十番社
それは「三十番社」だったようです。地元では古くからの伝承として、次のような話が伝わります。
「三十番神は、もともと古くから象頭山に鎮座している神であった。金毘羅大権現がやってきてこの地を十年ばかり貸してくれといった。そこで三十番神が承知をすると、大権現は三十番神が横を向いている間に十の上に点をかいて千の字にしてしまった。そこで千年もの間借りることができるようになった。」
これは三十番神と金毘羅神との関係を物語っている面白い話です。
この種の話は、金毘羅だけでなく日本中に分布する説話のようです。ポイントは、この説話が神祇信仰において旧来の地主神と、後世に勧請された新参の客神との関係を示しているという点です。つまり、三十番神が、当地琴平の地主神であり、金毘羅神が客神であるということを伝えていると考えられます。これには、次のような別の話もあります。
「象頭山はもとは松尾寺であり、金毘羅はその守護神であった。しかし、金毘羅ばかりが大きくなって、松尾寺は陰に隠れてしまうようになった。松尾寺は、金毘羅に庇を貸して母屋を奪われたのだ」
この話は、前の説話と同じように受け取れます。しかし、松尾寺と金毘羅を、寺院と神社を全く別組織として捉えています。明らかに、明治以後の神仏分離の歴史観を下敷きにして書かれています。おそらく、前の説話をモデルにリメイクされて、明治期以降に巷に流されたものと研究者は考えています。

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             護国寺・三十番神
三十の神々が法華経を一日交替で守護する三十番神
なぜ三十番社があるのに、新しく金比羅堂を建立したのでしょうか
 院主の宥雅は、それまでの三十番神から新しく金毘羅神を松尾寺の守護神としました。そのために金毘羅堂を建立しました。その狙いは何だったのでしょうか?
  琴平山の麓に広がる中世の小松荘の民衆にとって、この山は「死霊のゆく山」でもありました。その拠点が阿弥陀浄土信仰の高野聖が拠点とした称名寺でした。そして現在も琴平山と愛宕山の谷筋には広谷の墓地が広がります。こうして見ると、松尾寺は称名寺の流れをくむ墓寺的性格であったことがうかがえます。松尾寺は、小松荘内の住人の菩提供養を行うとともに、彼らの極楽浄土への祈願所でもあったのでしょう。ところがやがて戦国時代の混乱の世相が反映して、庶民は「現利益」を強く望むようになります。その祈願にも応えていく必要が高まります。そのために、仏法興隆の守護神としての性格の強い三十番神では、民衆の望む現世利益の神にしては応じきれません。
 また、丸亀平野には阿波の安楽寺などから浄土真宗興正派の布教団が阿波三好氏の保護を受けて、教線を伸ばし道場を各地に開いていました。宥雅は長尾氏の一族でしたが、領内でも一向門徒が急速に増えていきます。このような状況への危機感から、強力な霊力を持つ新たな守護神を登場させる必要を痛感するようになったと私は考えています。これが金毘羅神の将来と勧請ということになります。これは島田寺の良昌のアイデアかもしれませんが、それは別の機会にお話しするとして話を前に進めます。

讃州象頭山別当歴代之記
     讃州象頭山別当職歴代之記(初代宥範 二代宥遍 三代宥厳 四代宥盛)
                   宥雅の名前はない
讃州象頭山別当歴代之記2

 正史から消された宥雅と彼が残した史料から分かってきたことは?
 金毘羅堂建立の主催者である宥雅は、地元の有力武士団長尾氏の一族で、善通寺で修行を積んだ法脈を持つ真言密教系の僧侶です。それは宥範以来の「宥」の一文字を持っていることからも分かります。ところが宥雅は金刀比羅宮の正史からは抹殺されてきた人物です。正史には登場しないのです。何らかの意図で消されたようです。研究者は「宥雅抹殺」の背景を次のように考えます。

宥雅の後に金光院を継いだ金剛坊宥盛のころよりの同院の方針」

なぜ、宥雅は正史から消されたのでしょうか?
 正史以外の史料から宥雅を復活させてみましょう
宥雅は『当嶺御歴代の略譜』(片岡正範氏所蔵文書)文政十二年(1829)には、次のように記されています。
「宥珂(=宥雅)上人様
 当国西長尾城主長尾大隅守高家之甥也、入院未詳、
 高家所々取合之節御加勢有之、戦不利後、御当山之旧記宝物過半持之、泉州堺へ御落去、故二御一代之 烈に不入云」
意訳変換しておくと
「宥珂(=宥雅)上人様について
 讃岐の西長尾城主・長尾大隅守高家の甥にあたる。僧籍を得た時期は未詳、
 高家の時に(土佐の長宗我部元親の侵入の際に、長尾家に加勢し敗れた。その後、当山の旧記や宝物を持って、泉州の堺へ政治亡命した。そのため宥雅は、歴代院主には含めないと伝わる入云」
ここには宥雅は、西長尾(鵜足郡)の城主であった長尾大隅守の甥であると記されています。ちなみに長尾氏は、長宗我部元親の讃岐侵入以前には丸亀平野南部の最有力武将です。その一族出身だというのです。そして、長宗我部元親の侵入に際して、天正七年(1579)に堺への逃走したことが記されます。しかし、これ以外は宥雅の来歴は、分からないことが多く、慶長年間(1596~1615)に金光院の住持職を宥盛と争っていることなどが知られているくらいでした。
なぜ、高松の高松の無量寿院に宥雅の「控訴史料」が残ったの? 
ところが、堺に亡命した宥雅は、長宗我部の讃岐撤退後に金光院の住持職を、宥盛とめぐって争い訴訟を起こすのです。その際に、控訴史料として金光院院主としての自分の正当性を主張するために、いろいろな文書が書写されます。その文書類が高松の無量寿院に残っていたのが発見されました。その結果、金毘羅神の創出に向けた宥雅の果たした役割が分かるようになってきました。

金毘羅神を生み出すための宥雅の「工作方法」は?
例えば「善通寺の中興の祖」とされる宥範を、「金比羅寺」の開祖にするための「手口」について見てみましょう。もともとの『宥範縁起』には、宥範については
「小松の小堂に閑居」し、
「称明院に入住有」、
「小松の小堂に於いて生涯を送り」云々
とだけ記されています。宥範が松尾寺や金毘羅と関係があったことは出てきません。つまり、宥範と金比羅は関係がなかったのです。ところが、宥雅の書写した『宥範縁起』には、次のような事が書き加えられています。
「善通寺釈宥範、姓は岩野氏、讃州那賀郡の人なり。…
一日猛省して松尾山に登り、金毘羅神に祈る。……
神現れて日く、我是れ天竺の神ぞ、而して摩但哩(理)神和尚を号して加持し、山威の福を贈らん。」
「…後、金毘羅寺を開き、禅坐惜居。寛(観)庶三年(一三五二)七月初朔、八十三而寂」(原漢文)
 ここでは、宥範が
「幼年期に松尾寺のある松尾山登って金比羅神に祈った」・・金毘羅寺を開き

と加筆されています。この時代から金毘羅神を祭った施設があったと思わせる書き方です。金毘羅寺とは、金毘羅権現などを含む松尾寺の総称という意味でしょう。裏書三項目は
「右此裏書三品は、古きほうく(反故)の記写す者也」

と、「これは古い記録を書き写したもの」と書き留められています。
このように宥雅は、松尾寺別当金光院の開山に、善通寺中興の祖といわれる宥範を据えることに腐心しています。
 もうひとつの工作は、松尾寺の本尊の観音さまです。

十一面観音1
十一面観音立像(金刀比羅宮宝物館)
宥雅は松尾寺に伝来する十一面観音立像の古仏(滝寺廃寺か称名寺の本尊?平安時代後期)を、本地仏となして、その垂迹を金毘羅神とします。しかも、金比羅神は鎌倉時代末期以前から祀られていたと記します。研究者は、このことについて、次のように指摘します。

「…松尾寺観音堂の本尊は、道範の『南海流浪記』に出てくる象頭山につづく大麻山の滝寺(高福寺)の本尊を移したものであり、前立十一面観音は、これも、もとはその麓にあった小滝寺の本尊であった。」

「松尾寺観音堂本尊 = (瀧寺本尊 OR 称名寺本尊説)」については、また別の機会にお話しします。先を急ぎます。 

さらに伝来文書をねつ造します
「康安2年(1362)足利義詮、寄進状」「応安4年(1371)足利義満、寄進状」などの一連の寄進状五通(偽文書と見られるもの)をねつ造し、金比羅神が古くから義満などの将軍の寄進を受けていたと箔をつけます。これらの文書には、まだ改元していない日付を使用しているどいくつかの稚拙な誤りが見られ、後世のねつ造と研究者は指摘します。
そして神魚と金毘羅神をリンクさせる 
宥雅の「発明」は『宥範縁起』に収録された「大魚退治伝説」に登場してくる「神魚」と金毘羅神を結びつけたことです。もともとの「大魚退治伝説」は、高松の無量寿院の建立縁起として、その霊威を示すために同院の覚道上人が宥範に語ったものであったようです。「大魚退治伝説」は、古代に神櫛王が瀬戸内海で暴れる「悪魚」を退治し、その褒美として讃岐国の初代国主に任じられて坂出の城山に館を構えた。死後は「讃霊王」と諡された。この子孫が綾氏である。という綾氏の先祖報奨伝説として、高松や中讃地区に綾氏につながる一族がえていた伝説です。

 羽床氏同氏は、「金毘羅信仰と悪魚退治伝説」(『ことひら』四九号)で次のように記します。

200017999_00178悪魚退治
神櫛王の悪魚退治伝説(讃岐国名勝図会)
①「宥雅は、讃岐国の諸方の寺社で説法されるようになっていたこの大魚退治伝説を金毘羅信仰の流布のために採用した」
②「松尾寺の僧侶は中讃を中心にして、悪魚退治伝説が広まっているのを知って、悪魚を善神としてまつるクンビーラ信仰を始めた。」
③「悪魚退治伝説の流布を受けて、悪魚を神としてまつる金毘羅信仰が生まれたと思える。」
このストーリーを考えたのは、宥雅ではないと考える研究者もいます。それは、最初に見た元亀四年(1573)銘の金毘羅宝殿棟札の裏側には「高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」と良昌の名前があることです。良昌は財田出身ので当時は、高野山の高僧であり、飯山の法勲寺の流れを汲む島田寺の住職も兼務していました。宥雅と良昌は親密な関係にあり、良昌の智恵で金毘羅神が産みだされ、宥雅が金比羅堂を建立したというのが「こんぴら町誌」の記すところです。

 いままでの流れを整理しておきます。
①金毘羅神は宮毘羅大将または金毘羅大将とも称され、その化身を『宥範縁起』の「神魚」とした。
②神魚とは、インド仏教の守護神クンビーラで、ガンジス川の鰐の神格化したもの。
③インドの神々が、中国で千手観音菩薩の春属守護神にまとめられ、日本に将来された。
④それらの守護神たちを二十八部衆に収斂させた。
 最後の課題として残ったのが、松尾寺に伝来する本尊の十一面観音菩薩です。
先ほども見たように、金毘羅神の本地仏は千手観音なのです。新たに迎え入れた本尊は十一面観音です。私から見れば「十一面であろうと千手であろうと、観音さまに変わりない。」と考えます。しかし、真言密教の学僧達からすれば大問題です。  真言密教僧の宥雅は「この古仏を本地仏とすることによって金毘羅神の由緒の歴史性と正統性が確立される」と、考えていたのでしょう。

          十一面観音立像(重文) 木造平安時代(金刀比羅宮宝物館)

宝物館にある
重文指定の十一面観音立像について、
「本来、十一面観音であったものを頭部の化仏十体を除去した」
のではないかと研究者は指摘します。これは、十一面観音から「頭部の化仏十体を除去」することで千手観音に「変身」させ、金毘羅神と本地関係でリンクできるようにした「苦肉の工作」であったのではないかというのです。こうして、三十番社から金比羅神への「移行」作業は進みます。

それまで行われていた三十番社の祭礼をどうするか?
 最後に問題として残ったのは祭礼です。三十番神の祭礼については、それを担う信者がいますので簡単には変えられません。そこで、三十番社で行われていた祭式行事を、新しい守護神である金毘羅神の祭礼(現世利益の神)会式(えしき)として、そのまま、引き継いだのです。

金毘羅大権現 観音堂行堂(道)巡図
                     観音堂行道巡図
      明治以前の大祭は、金毘羅大権現本殿ではなく観音堂の周りで行われていた

こうして金毘羅権現(社)は、松尾寺金光院を別当寺として、象頭山一山(松尾寺)の宗教的組織の改編を終えて再出発をすることになります。霊力の強烈な外来神であり、霊験あらたかな飛来してきた蕃神の登場でした。

金刀比羅神社の鎮座する象頭(ぞうず)山です

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丸亀平野の東側から見ると、ほぼ南北に屛風を立てたような山塊が横たわります。この山は今では琴平側では象頭山(琴平山)、善通寺市側からは大麻山と呼ばれています。江戸時代に金毘羅大権現がデビューすると、祭神クンピーラの鎮座する山は象頭山なのでそう呼ばれるようになります。しかし、それ以前は別の名前で呼ばれていました。象頭山と呼ばれるようになったのは金毘羅神が登場する近世以後のようです。
 
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真っ直ぐな道の向こうが善通寺の五岳山 その左が大麻山(丸亀宝幢寺池より)

それまでは、この山は大麻山(おおあさ)と呼ばれていました。
この山は忌部氏の氏神であり、式内社大麻神社の御神体で霊山として信仰を集めていたようです。

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金毘羅大権現の鎮座した象頭山
この山の東山麓に鎮座する大麻神社の参道に立ってみます。
200017999_00083大麻神社
大麻神社(讃岐国名勝図会)
大麻神社
大麻神社(讃岐国名勝図会)
すると、鳥居から拝殿に向け一直線に階段が伸び、その背後に大麻山がそびえます。この山は、祖先神が天上世界から降り立ったという「甘南備(かんなび)山」にふさわしい山容です。そして、この山の周辺は、阿波の大麻山を御神体とする忌部氏の一族が開発したという伝承も伝わります。

 大麻神社以外にも、多度郡の延喜式内雲気神社(善通寺市弘田町)や那珂郡の雲気八幡宮(満濃町西高篠)は、そこから仰ぎ見る大麻山を御神体としたのでしょう。御神体(大麻山)の気象の変化を見極めるのに両神社は、格好の位置にあり、拝殿としてふさわしいロケーションです。山自体を御神体として、その山麓から遥拝する信仰施設を持つ霊山は数多くあります。

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多度津方面からの五岳山(右)と雲がかかる大麻山
 大麻山は瀬戸内海方面から見ると、善通寺の五岳山と屛風のようにならび円錐型の独立峰として美しい姿を見せます。その頂上付近には、積み石塚の前方後円墳である野田野院古墳が、この地域の古代における地域統合のモニュメントとして築かれています。

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野田院古墳(善通寺)
その後は大麻山の北側の有岡の谷に茶臼山古墳から大墓山古墳に首長墓が続きます。彼らの子孫が古代豪族の佐伯氏で、空海を生み出したと考えられています。また、大麻山の東側山麓には阿波と共通する積石塚古墳が数多く分布していました。
 つまり現在の行政区分で言うと、大麻神社の北側の善通寺側は古墳や式内神社などの氏族勢力の存在を示す物が数多く見られます。しかし、大麻神社の南側(琴平町内)には、善通寺市側にあるような弥生時代や大規模な集落跡や古墳・古代寺院・式内社はありません。善通寺地区に比べると古代における開発は遅れたようです。

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琴平町苗田象頭山
古代においてこの山は、大麻神社の御神体として大麻山と呼ばれていたと考えるのが妥当のようです。
現在はどうなっているかというと、国土地理院の地図ではこの山の北側のピークに大麻山、中央のピークに象頭山の名前を印刷しています。そして、山塊の中央に防火帯が見えるのですが、これが善通寺市と琴平町の行政区分になっているようです。

称名寺 「琴平町の山城」より
大麻山の称名寺周辺地図
 大麻山には、中世にはどんな宗教施設があったのでしょうか?
まず、道範の『南海流浪記』には称名院や滝寺(滝寺跡)などの寺院・道場が記されています。道範は、13世紀前半に、高野山金剛峯寺執行を兼ねた真言宗の逸材です。当時の高野山内部の対立から発生した焼き討ち事件の責任を負って讃岐に配流となります。
 彼は、赦免される建長元年(1249)までの八年間を讃岐国に滞留しますが、その間に書いた日記が残っています。これは、当時の讃岐を知る貴重な資料となっています。最初は守護所(宇多津)の近くで窮屈な生活を送っていましたが、真言宗同門の善通寺の寺僧らの働きかけで、まもなく善通寺に移り住んできます。それからは、かなり自由な生活ができたようです。
 
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大麻神社参道階段
放免になる前年の宝治二年(1248)には、伊予国にまで開眼供養導師を勤めに旅行をしているほどです。この年11月、道範は、琴平の奥にある仲南の尾の背寺を訪ねます。この寺は満濃池の東側の讃岐山脈から張り出した尾根の上にある山岳寺院です。善通寺創建の時に柚(そま)山(建築用材を供給した山)と伝えられている善通寺にゆかりの深い寺院です。帰路に琴平山の称名院を訪ねたことが次のように記されています。
「……同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。
彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
             (原漢文『南海流浪記』) 
意訳すると
こじんまりと灘洒な松林の中に庵寺があった。池とまばらな松林の景観といいなかなか風情のある雰囲気の空間であった
院主念念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
すると返歌が送られてきた
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象頭山と五岳山
 道範は、念々房不在であったので、その足で滝寺に参詣します。
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。 古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」 (原漢文『南海流浪記』)
 滝寺は、称名院から坂道を一六丁ほど上った琴平山の中腹にある「葵の滝」辺りにあったようです。本尊仏は「御作」とあるので弘法大師手作りの千手観音菩薩と記しています。金刀比羅宮所蔵の十一面観音像が、この寺の本尊であったとされます。しかし、道範の記述は千手観音です。この後は、称名院の名は見えなくなります。寺そのものは荒廃してしまい、その寺跡としての「しょうみょうじ」という地名だけが遺ったようです。江戸時代の『古老伝旧記』に称名院のことが、次のように書かれています。
「当山の内、正明寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」
 阿弥陀如来が祀られているので浄土教の寺としての称名院の姿を伝えているようです。また、河内正栄氏の「金刀比羅宮神域の地名」には
称名院は、町内の「大西山」という所から西に谷川沿いに少し上った場所が「大門口」といい、称名院(後の称明寺か)の大門跡と伝える。そこをさらに進んで、盆地状に開けた所が寺跡(「正明寺」)である。ここには、五輪塔に積んだ用石が多く見られ、瓦も見つかることがある

現在の町域を越えて古代の「大麻山」というエリアで考えると野田院跡や大麻神社などもあり、このような宗教施設を併せて、琴平山の宗教ゾーンが形作られていたようです。

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 現在の金刀比羅神社神域の中世の宗教施設については? 
プラタモリでこの山が取り上げられていましたが、奥社や葵の滝には、岩肌を露呈した断崖が見えますし、金毘羅本殿の奥には岩窟があり、山中には風穴もあると言われます。
修験者の行場としてはもってこいのロケーションです。山伏が天狗となって、山中を駆け回り修行する拠点としての山伏寺も中世にはあったでしょう。
それが善通寺 → 滝寺 → 尾の背寺 → 中寺廃寺 という真言密教系の修験道のネットワークを形成していたことが考えられます。

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もうひとつのこの山の性格は「死霊のゆく山」であったことです。
現在も琴平山と愛宕山の谷筋には広谷の墓地があります。ここは、民俗学者が言うように、四国霊場・弥谷寺と同じように「死霊のゆく山」でした。里の小松荘の住民にとっては、墓所の山でもあったのです。
 こうして先行する称名院や滝寺が姿を消し廃寺になっていく中で、琴平山の南部の現在琴平神社が鎮座する辺りに、松尾寺が姿を見せます。この寺の周辺で金毘羅神は生まれ出してくるのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 町史ことひら 第1巻 中世の宗教と文化
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 江戸時代には、各大名の下屋敷などには、その本国の神々が祀られ、それが流行神として江戸庶民の間に爆発的に広がり出すことがありました。金毘羅信仰もそのなかの「流行神」のひとつです。今の私たちは「金毘羅さん」といえば「海の神様」というイメージが強いのですが、金比羅神が江戸でデビューした当時は、どのように見られていたのでしょうか。そして、江戸や大坂などでどのように受け入れられていたのでしょうか。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗たち (金毘羅金光院発行)

「金毘羅祈願文書」から見ていくことにしましょう
 江戸時代に信州芝生田村の庄屋が、金毘羅大権現に願を掛けた願文を見ておきましょう。この村は群馬県嬬恋村に隣接する県境の地域で、旧地名が長野県小県郡東部町で、平成16年の市町村合併によって東御市となっているようです。
  金毘羅大権現御利薬を以て天狗早業の明を我身に得給ふ。右早業之明を立と心得は月々十日にては火之者を断 肴ゑ一世不用ヒつる
  右之趣大願成就致給ふ
 乍恐近上
  金毘羅大権現
     大天狗
     小天狗  
千早ふる神のまことをてらすなら我が大願を成就し給う
   九月廿六日       願主 政賢
意訳変換しておくと
金毘羅大権現の御利益で天狗早業の明を我身に得ることを願う。「早業之明」を得るために月々十日に「火断」を一生行い大願成就を祈願する
   金毘羅大権現
     大天狗
     小天狗  
神のまことを照し我が大願を成就することを
   9月26日       願主 政賢


「金毘羅大権現御利薬を以て、天狗早業の明を我が身に得給う」とあり、「天狗」が出てきます。大願の内容は記されていませんが、「毎月十日に火を断つ」という断ち物祈願です。そして祈願しているのは「金毘羅大権現」「大天狗」「小天狗」に対してです。金毘羅大権現とならんで大・小の天狗に祈っているのです。
Cg-FljqU4AAmZ1u金毘羅大権現
前掲拡大図 中央が金毘羅大権現 右が大天狗、左が子天狗
 この祈願文の「大天狗」「小天狗」とは何者なのでしょうか?

 天狗信仰については、金毘羅宮の学芸員を長く務めた松原秀明氏は、次のように記されています。

金毘羅信仰における天狗の存在について、金毘羅大権現を奉祀していた初期院主たちの影響が大きい。別当金光院歴代住職の事歴が明らかになるのは戦国末期の天正前後であり、その当時の住職には「修験的なものが色濃くつきまとって見える」

ここからは次のようなことが分かります。
①金毘羅大権現の初期の中心は「天狗信仰」だったこと
②天狗信仰は戦国末期に金毘羅大権現を開いた金光院の院主によってもたらされたこと
③初期金光院院主は、修験者たちだったこと
金毘羅神
金毘羅大権現とは天狗?(松尾寺蔵)
 なかでも初代金光院院主とされる宥盛は、象頭山内における修験道の存在を確立します。
『古老伝旧記』に、宥盛は「真言僧両袈裟修験号金剛坊」とあり、「金剛坊」という修験の号をもつ修験者であったことが分かります。ちなみに、宥盛は、厳魂と諡名されて現在の奥社に祀られています。

1 金刀比羅宮 奥社お守り
宥盛を祀る金毘羅宮奥社の守護神は、今も天狗

 修験者たちは、修行によって天狗になることを目指しました。
修験道は、日本古来の山岳信仰に端を発し、道教、神道・真言密教の教義などの影響を受けながらを平安時代後期に一つの宗教としての形を取るようになります。山岳修行と、修行で獲得した霊力を用いて行う呪術的な宗教活動の二つの面をもっています。そして、甘南備山としての山容や、神の住まう磐座や滝などをめぐる行場を辺路修行が行われました。
 さらに農耕を守護する水分神が龍る聖地を、崇拝しました。
金毘羅大権現が鎮座する象頭山は、断崖や葵の滝などの滝もあり、「ショーズ山」=水が生ずる水分神の山であり、修験道の行場として中世以来行者たちが拠点とした場所だったようです。この修験道の宗教的指導者は山伏と呼ばれました。

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奥社の岩壁
 天狗信仰を広めた別当宥盛は奥の院(厳魂神社)に祀られている。彼が修行を行った岩壁は「天狗岩(威徳巖)」とも呼ばれています。


山伏とは?

 山伏は鈴掛・結袈裟・脚絆・笈・錫杖・金剛杖など山伏十六道具と呼ばれる独自の衣体や法具をまとって山岳に入って修行します。その姿は、中世の『太平記』では「山伏天狗」と記されるように山の妖怪である天狗と一体視されるようになります。ここに山伏(修験者)と天狗の結びつきが深まります。
中世末に成立したといわれる『天狗経』には、48の天狗が列挙されています。研究者は次のように指摘します。

「天狗信仰の隆盛は、修験道の隆盛と時期を同じくする」
「江戸時代の金比羅象頭山は、天狗信仰の聖地であった」
 
つまり、戦国末期から江戸時代初期にかけては、象頭山内において天狗信仰が高まった時代なのです。  そして、その仕掛け人が松尾寺の金光院だったようです。
金毘羅大権現は、どんな姿で表されたのでしょうか?

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天狗として描かれた金毘羅神
金毘羅大権現の姿については、次のような言い伝えがあります。

「烏天狗を表している」
「火焔光背をもち岩座に立っている」
「右手に剣(刀)を持つ」
「古くは不動明王のように剣と索を持ち、
飯綱信仰などの影響をうけ狐に乗った姿だった」
江戸時代の岡西惟中『一時軒随筆』(天和二年(1682)には次のようにあります。
万葉のうち、なかの郡にたけき神山有と見えぬ。
これもさぬきの金毘羅の山成べし。
金毘羅の地を那珂の郡といふ也。
金毘羅は、もと天竺の神、釈迦説法の守護神也。
飛来して此山に住給ふ。形像は巾を戴き、左に珠数、右に檜扇を持玉ふ也。
巾は五智の宝冠を比し、珠数は縛の縄、扇は利剣也。
本地は不動明王也とぞ。
二人の脇士有。これ伎楽、伎芸という也。
これ則金伽羅と勢陀伽権現の自作也。
金光院の法院宥栄らただちにかたせ給ふ趣也。
まことにたけき神山ともよめらん所也。
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金毘羅大権現
  金比羅神は、釈迦説法の守護神で天竺から飛んできた神で、本地は不動明王というのです。不動明王は修験者の守護神です。
当時、人々に信じられていた天狗は二種類ありました。
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それが最初に視た願文中の「大天狗」・「小天狗」です。
「大天狗」とは鼻が異様に高く、山伏のような服装をして高下駄を履き、羽団扇を持って自由自在に空中を飛翔するというイメージです。
「小天狗」とは背に翼を備え、鳥の嘴をもつ鳥類型というイメージです。
でそれでは「金毘羅坊」とは、どのような天狗なのでしょう。
 戦国末期に金光院別当であった宥盛(修験号名「金剛坊」)は、自分の姿を木像に自ら彫りました。彼の死後、この像は御霊代(みたましろ)として祀られていました。この木造について、江戸時代中期の尾張国の国学者天野信景は『塩尻』の中に、次のように記している。
讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。
いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、
手に羽団(団扇)を取る。薬師十二神将の像とは、甚だ異なるとかや。
その姿は「山伏の姿で岩に腰かける」というものでした。
山伏姿であるところから「大天狗」にあたると考えられます。
安藤広重作「東海道五十三次」の「沼津」に見られる金毘羅行者は、この大天狗を背に負っています。
「安藤広重作「東海道五十三次」の「沼津」」の画像検索結果

 一方「黒春属金毘羅坊」は
「黒は烏につながる」
「春属には親族とか一族の意味がある」ことから
「黒春属金毘羅坊は金剛坊の仲間の烏天狗として信仰された」とします。
つまり、烏天狗ということは、願文中の「小天狗」になります。
 そして大天狗・小天狗は、今でも金毘羅山を護っているのです。
現在の金刀比羅宮奥の院の左側の断崖絶壁に祀られています。

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 以上のことから、最初に見た願文の願主は、金毘羅信仰の天狗についてよく分かっていたようです。信濃の庄屋さんの信仰とは、金毘羅大権現=「大天狗≒小天狗」への信仰、つまり「天狗信仰」にあったと言えるのかも知れません。
天狗面を背負う行者
天狗面を背負った金比羅行者 彼らが金毘羅信仰を広めた
さらに深読みするならば、この時期の信州では天狗信仰を中心とした金毘羅信仰が伝わり、受けいれられたようです。それが信州における金毘羅信仰の始まりだったのです。ここには「金比羅信仰=海の神様」というイメージは見られません。また、「クンピーラ=クビラ信仰」もありません。これらは後世になって附会されたものなのです。
 
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 江戸時代初期の丸亀藩や高松藩の下屋敷に勧請され、当時の「開帳ブーム」ともいうべき風潮によって広く江戸市民に知られ、その後爆発的な流行をみせた金毘羅信仰。
その信仰の中心にあったものは、航海安全・豊漁祈願・海上守護の霊験と言われてきました。しかし、それは近世後半から幕末にかけて現れてくるようです。初期の金毘羅大権現は、修験道を中心とした「天狗信仰」=「流行神の一種」だったようです。その願いの中に、当時の人々が願う「現世利益」があり「大願成就」を願う心があったようです。
1金毘羅天狗信仰 天狗面G3
金比羅行者が奉納した天狗面(金刀比羅宮蔵)
1金毘羅天狗信仰 天狗面G4
1金毘羅天狗信仰 天狗面G5

天狗面2カラー
            金比羅行者が奉納した天狗面(金刀比羅宮蔵)

参考文献  前野雅彦 金毘羅祈願文書について こと比ら63号(平成20年)
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讃岐琴平 草創期の金比羅神に関しての研究史覚え書き 

金比羅神については色々なことが伝えられているが、研究者の間ではどのようなな見解が出されているのかをまずは知りたかった。そのために金比羅神の草創期に絞って図書館で見て取れる範囲で、書物にあたってみた。その報告である。

まずは、金毘羅大権現についての復習

①仏教の神のひとつで、日本では海上の守護神としてひろく信仰。
②ガンジス川のワニの神格化を意味するサンスクリットのUMBHIRA(クンビーラ)の音写。
③薬師如来にしたがう十二神将のひとつ
④金毘羅信仰で有名な金刀比羅宮は、もとは松尾寺という寺院。
⑤その伽藍の守護神だった金毘羅神を、信仰の中心とするようになり、金毘羅大権現と称した。
⑥インドでは、この神の宮殿は「王舎城外宮比羅山」で、これを訳すると象頭山。
⑦そのため金刀比羅宮がある山は象頭山とよばれる。
⑧大物(国)主神を金比羅神(大黒天)と同一視し主祭神
⑨金比羅を「こんぴら」と呼ぶのは江戸っ子の発音。正しくは「ことひら」(これは後の神道学者の言い出したこと)
⑩仏や菩薩が、衆生救済のために神などの仮の姿をとってあらわれる神仏習合がすすみ、本地垂迹思想がおこると、神々は仏や菩薩の権化と考えられるようになった。
⑪明治維新の神仏分離で権現号は廃されたが、通称として生きつづけている。
以上のことは定説。それでは金比羅信仰がいつ、どのように作り出されてきたのかをめぐる論考に当たっていきたい。

小島櫻礼「金比羅信仰」1961年

①金比羅山の頭人制は、古い神を祭る祭礼であり村の神的な性格
②松尾寺の守護神であった神が、江戸初期に急速に発展した背景は?
③金比羅を金比羅として祭らず、ある日本古来の神として祭っていた江戸以前
④何か新しい「外部的な動機」によって、「流行(はやり)神」として全国的な信仰獲得?
⑤仏典に見える「金比羅竜王説」
⑥金比羅=留守神=蛇・竜=農業神的な性格
 古風な固有信仰の中核である農神が水神の性格を持ち蛇体・竜
 習合以前の「原金比羅信仰」は農神の痕跡
 ここの鰐を神体とする金比羅という外部の神が勧進
龍神⇒⇒海神⇒⇒船人の神へという転換
地元の龍神が、「外部の信仰」を引き寄せて全国展開へ
地元の信仰から原金比羅信仰に迫るために、金比羅祭礼の詳細な記述と分 析が今後の重要な作業。
⑦この信仰を説いたのはいかなる人たちか⇒⇒聖による流布?

  近藤喜博「山頂の菖蒲」1960年
問題意識 
金比羅という異国の神が、どうして琴平に勧進されたのか?
①「あり嶺よし」としての象頭山(万葉集1-62)
あり嶺よし 対馬の渡り 海中に 弊取り向けて はや還り来ぬ」

*航海上高く現れて目立つ山で「よき山」
*「海中に 弊取り向けて」は、航海安全の祈り。弊とは?奉弊上の幣帛?
古代の航海にあって「雷電・風波」は最も危険で恐れられたもの。
潮待ち風待ちの港の背後の山の「雲気」の動静は、関心事の最大
*弊串として串との一体で考慮。初穂・流し樽へ
②コトヒラ・コトビキの地名由来
*航海の安全を祈るために、「琴を引く」風習の存在
*播磨風土記の「琴の落ちし処は、即ち琴丘と名づく」
*本殿と並び立つ「三穂津姫社」の存在は、何を意味する?
③伴信友の延喜式社「雲気神社」は、「金刀比羅神社」説?
*「ありみねよき琴平山への海洋航海族の憧憬を雲気神社に」
*後に農耕神となり、雨乞いなどを祈り捧げる山へ
*周防国熊毛郡の式内社「熊毛(雲気)神社」も同じ性格
④「琴平山」の「原始雷電信仰」の痕跡が山上の竜王池
        *かつては大麻神社が管理。7月17日に祭神
*龍蛇は雷電に表裏したもの。稲妻は葦や菖蒲のシンボルへ
*稲妻⇒⇒稲葉⇒⇒因幡⇒⇒岐阜の伊奈波神社
⑤崇徳上皇の怨霊            
*保元物語の死に際に大魔王へ「怨念によりて、生きながらに天狗の姿に」
 都に相次ぐ不祥事を払うために白峰宮建立
*同時に讃岐に起こる風塵も崇徳上皇の怨念で、これを鎮めることが必要?
*そのような「怨霊」=「雷電神」=「天狗」を祭る鎮魂の社殿建設?
*京都北野の雷電信仰の上に、道真の「雷神=天神」が合祀され北野天満宮へ
*天狗は「天津鳥」で、「高津神」「高津鳥」(火の鳥)につながる系譜
*火の鳥は雷神の使令
          天狗の正体は烏で、人間の怨霊と結びついたもの?
 ⑥菖蒲の呪力
*菖蒲による人間への復活説話の意味 剣状のの植物の神聖さ
*雷電を避ける呪力のある菖蒲=「剣尖に座す神々」の存在=鉾
*竜王池の菖蒲の意味は?
*「大麻神社」の麻も長剣状葉の持つ呪術性の延長線上に
 ⑦本殿奥の神窟の存在
*讃岐国名勝図会
 「神の廟の巌窟に鎮座し、一社の深秘にて他に知ること無し」
*禁足林の存在。三十番社の大木の麓に岩窟⇒⇒古来以来の聖地
*雷=鬼の姿で表現。その巣が洞窟

武田明「金比羅信仰と民俗」

①死霊の赴き安まる山としての琴平山⇒⇒修験道の信仰の山へ
 *かつての行者堂の存在
 *降雨を祈る山
②金比羅山の祭礼=明治以前の神事の復元
*荘官と呼ばれる七軒の頭人
③地主神としての三十番神社
*あとからやってきた客神としての金比羅神
「この地を十年貸してくれ」⇒⇒十の上に点を付けて千年へ
④大祭後の心霊は、箸蔵山に天狗として去っていく?修験道の影響?
⑤地元の神としては、農耕神の雨乞い神として信仰
金比羅神は竜神、別名「金比羅龍王」
⑥恵比寿信仰は大漁神で、漁師の信仰⇒その後に、金比羅信仰の流行
 *漁民には入り込む余地がなかったので、航海者たちに浸透
 *金比羅神と山から吹き下ろす風の関係⇒⇒海難救助の神へ
⑦「象頭山金比羅大権現霊験記」(1769)の海難よけ信仰霊験集
 *このような霊験を伝播させたのは誰か?
 *天狗の面を背につけ、白装束に身を固めた「金比羅道者」の流布
 彼らによる金比羅講の組織
 *金比羅山から吹き下ろす風に乗って現れる金比羅大権現が海難から救う
*神窟からの風?
⑧代参講としての金比羅講
 *講の加入者が講金を集めて代参を立てる。代参しお札をもらい土産を買う。旅のおみやげという習慣は、この代参から来ているのかもしれない。
*各地の講からの寄進を請け、はやり神となった金比羅神の発展
⑨巨大な流行り神となっても古い信仰の名のこりを残す金比羅山

松原秀明「金比羅信仰と修験道」

①修験道の象頭山
*ふたのない箱に大きな天狗面を背中に背負った金比羅詣での姿
*修験道者のシンボルとしての天狗
*道中の旅を妨げる悪霊をはらうおまじない。弘法大師の「同行二人」的
*日柳燕石
「夜、象山に登る 崖は人頭を圧して勢い傾かんと欲す。
 満山の露気清に堪えず、夜深くして天狗きたりて翼を休む。
 十丈の老杉揺らいで声有り」 天狗はムササビ?
 *江戸時代の人々は、金比羅の神は天狗、象頭山は修験道の山という印象
②象頭山を騙る修験道者の出現
 *修験道系の寺院や行者による「金比羅」の使用
 *修験者が多数いた箸蔵寺は「奥の院」と称して執拗に使用
③金比羅神飛来説とその形は?
 *生身は岩窟鎮座。ご神体は頭巾をかぶり、数珠と檜扇を持ち、脇士を従える。これは、修験道の神そのもの 飛来したというのも天狗として飛行?
④天正前後の別当住職の修験道的な色合い
*長尾氏一族の宥雅⇒⇒長宗我部配下の宥厳⇒⇒宥雅の弟子の宥盛
*宥厳の業績の抹殺と宥盛の業績評価という姿勢

宮田 登「江戸の民間信仰と金比羅」

①19世紀初頭の都市市民の信仰タイプ → 流行神  
 *個人祈祷型で現世利益が目的。仏像・神像が所狭しと配列。
 *それぞれが分化した霊験を保持し、庶民の願掛けに対応。
 *農村部においても氏神の境内に、摂社末社が勧進
 *流行神のひとつとしての金比羅神
②江戸大名屋敷に祀られた地方神の流行
 *江戸に作られた大名屋敷に領地内の霊験あらたかな神を勧進
 *その屋敷神が一般市民に、月の10日に解放される機会あり
  大勢の人が参拝し、市が立つほどの賑わいへ⇒金比羅講の形成へ
   金刀毘羅宮
  虎ノ門をさらに名所にしたのが金刀毘羅大権現である。
讃岐国丸亀藩主の京極高和が、万治3年(1660)国元の本宮から三田藩邸に分祀。藩邸内に祀られた金比羅宮に塀の外から賽銭を投げ込んで参拝するほど江戸市民の熱烈な信仰を集め、毎月10日に限り邸内を開き参拝を許可した。

以上から推論できること

1 金比羅神草創は古代・中世の古くまで遡るものではない。
2 戦国末の天正年間に新たに作り出された神である。
3 その契機は、長宗我部元親の讃岐侵攻と四国平定事業と関わりがあるのではないか。
4 長宗我部支配下の修験道僧侶による金光院支配。
  新たな四国平定事業のモニュメント的な神の創設と宗教施設が求められたのではないか。
5 金比羅神草創から流行神流布まで、その中核には金光院別当を中心とする修験者たちの存在あり。
6 松尾寺別当金光院から金毘羅神別当金光院への転身の背景は?
7 生駒家による330石の寄進と山下家の系譜は?




金光院別当「宥雅」の「業績」について       房号「洞雲」
①金比羅堂を建立しながら正史からは「抹殺された存在
②西長尾城主の甥(弟)で、金光院別当職を宥盛と争う。
③三十番神にかわる金比羅大権現を新しい守護神に据え、金比羅堂建立。背景に仏法興隆の三十番神だけでは、「現世利益」に対応できず。強力な霊力の新たな神の勧進が必要。
⑤滝寺からの伝来する十一面観音を本地仏として、その垂迹として金比羅神を草創。
⑥金比羅神の創始を鎌倉末期以前のことと改作
⑦「大魚退治伝説」の神魚と金比羅神との結合。
⑧三十番神の祭礼(法華8講)を金比羅大権現の祭礼として転用
⑨金比羅大権現は、松尾寺金光院を別当寺として出発
⑩長宗我部の侵入で長尾方に属した宥雅は、宝物を持って堺逃亡
⑪仙石秀久の讃岐支配で帰国できると思ったが・・
    生駒家に訴え出るも許されず「宥巌」に松尾寺を譲った
⑫宥巌が没して宥盛が別当になると非を並び立て、生駒家に提訴
⑬生駒家での裁判。その時の記録が「洞雲目安申」。
    「宥巌」なきあと別当を継承した「宥盛」への断罪するも失敗
⑭16世紀末には、松尾寺別当金光院から、金比羅大権現(社)別当金光院への衣替えを勧めた?
「洞雲目安申」には、次のように非難されている
   「宥雅の悪逆、四国に隠れなき候、・・女犯魚鳥を服する身として、まひすの山伏と罷成」

本来の松尾寺の性格は?
①鎌倉前期 小松庄の琴平山の谷筋の墓所墓寺的な存在
②鎌倉末期 宥範の時代には、松尾寺・称名院や三十番神の混在。
③1585(天正13)年の仙石秀久からの禁制はあるが寄進状はなし。別当の金比羅大権現には寄進あり。
④金比羅大権現の勢力が松尾寺全体を席巻する状態?
本地仏十一面観音。
本社前脇に海に向かって建っていた観音堂。
この本尊は大麻山の滝寺の本尊を移したもの。
前立十一面観音も、麓の小滝寺の本尊。
 
 「大魚退治伝説」の神魚と金比羅神との結合は?

①中世の法勲寺の僧侶によって広められていた悪魚退治の物語。
 松尾寺の僧侶は、その上に悪魚を神として祭る金比羅信仰の創設と流布。
②「宥範縁起」の中で悪魚が「神魚」に変身伝説、
 それをインド仏教のクンピーラに宛てた。クンピーラはガンジスのワニの神格化。 中国で千手観音菩薩の守護神化し日本伝来。
③しかし、松尾寺の本地仏は十一面観音で千手観音ではなかったので改造工作?
④それまでの松尾寺の守護神は三十番神
 古くから象頭山に鎮座していたのは三十番神。
⑤言い伝えは?
 外来の金比羅大権現が後からやってきて、この地を「十年」ばかり貸してくれ。三十番神が承知すると、金比羅大権現は三十番神が横を向いている隙に、「千」に書き換えてしまった。
「古来の三十番神はひさしを貸して母屋を金比羅神に乗っ取られてしまった」というのが地元の言い伝え。
⑥この説話は旧来の地主神と後世に勧進された新参の神との関係を示すもの。

    長宗我部元親の関与と宥巌 
① 1583(天正11)年 長宗我部元親寄進 松尾寺仁王堂の棟札
②三十番神を修復し、仁王堂新築。後の二天門「こんぴらのさかき門」だが、こんぴらの名前は見えない。 
 後に松平頼重が新築して寄進したときには金比羅の二天門。
③同年に三十番神も建立 
 当時の象頭山は、三十番神、松尾寺、金比羅大権現の並立状態。
④元親は「四国の総鎮守」として金比羅大権現を創建?
⑤土佐軍占領下の金比羅。
 金比羅大権現が松尾寺に取って代わる「変革」が起こった?
⑥第3代「別当宥巌」は元親の陣中にいた南光という修験者。
彼は土佐の当山派修験道のリーダーで、元親により金光院別当に任命
 1600(慶長5)年死亡。後の金比羅大権現にとって、長宗我部に支配され、その家来の修験道者に治められていたことを隠す意図が生まれてきたのでは?
⑦後の記録は、宥巌の在職を長宗我部が撤退した1585(天正一三)年まで以後は隠居としている。 実際は1600(慶長5)年まで在職 江戸期になると宥巌の名前は忘れ去られる。

金比羅大権現の基礎確立した金光院別当宥盛について 
①生駒藩家臣・井上家(400石)の嫡男で高野山で13年の修行
 宥雅の法弟で、宥●の兄弟子   
②弟は助兵衛は生駒藩に仕え、大坂夏の陣で落命 
③1586(天正14)年 長宗我部ひきあげ後に帰国。
 後援者をなくした別当宥巌を助け、仙石・生駒の庇護獲得に活躍
④1600(慶長5)年 宥巌亡き後、別当として13年間活躍 
   堺に逃亡した宥雅の断罪に反撃し、生駒家の支持を取り付ける
⑤金比羅神の神格化「由来書」の作成。
「金比羅神とは、いかなるものや」に答える返答書。
 善通寺・尾の瀬寺・称明寺・三十番神との関係調整に辣腕発揮。
⑥修験僧「金剛坊」として多くの弟子を育て、道場を形成。
⑦土佐の片岡家出身の熊の助を育て「多門院」を開かせ院首に。
⑧真言学僧としての叙述が志度の多和文庫に残る。高野山南谷浄菩提院の院主を兼任
⑨三十番神を核に、小松庄に勢力を持ち続ける法華信仰を金比羅大権現へと「接木」工作
⑦1606(慶長11)年自らの姿を木像に刻み。「長さ3尺5寸 山伏の姿 岩に腰を掛け給う所を作る」とあり修験姿の木像。自らを「入天狗道沙門」
 この時期までの別当職は山伏・修験道の色彩が強い。
⑧1613(慶長18)年1月6日 死亡
 観音堂の横に祭られ「金剛坊」と呼ばれる。
⑨1857(安政4)年 大僧正位追贈、金比羅の守護神「金光院」へ
⑩1877(明治10)年 宥盛に厳魂彦命(いずたまひこのみこと)の神号を諡り「厳魂神社」創設。
⑪1905(明治38)年神殿完成、現在の奥社は、山伏であった有盛を祀る神社。行場であった磐の上には天狗面が掲げられている。
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