瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金毘羅参拝絵図

丸亀港2 福島湛甫・新堀湛甫
丸亀港 福島湛甫と新堀湛甫が並んで見える
 
19世紀になると金比羅船で上方からやって来る参拝客が激増して、受入港の丸亀は大賑わいとなります。そのため新たに、丸亀藩では福島湛甫や新堀湛甫を建設して、参拝客の受入対応が整備されていきます。その結果、船宿や旅籠や茶屋やお土産店などが数多く立ち並ぶようになり、観光産業が港周辺には形成されていきます。
 彼らの中には、参拝客獲得の客引きのために金毘羅案内図を無料で配布する者も現れます。これは、大坂の船宿が金毘羅船の航路図を配布していたのと同じやり方です。案内図を渡しながら次のような声かけを行ったと私は想像しています。
「金毘羅大権現だけでなく、弘法大師さんお生まれの善通寺もどうぞ、さらにはお四国めぐりの七ケ所めぐりもいかがですか」
「丸亀から帰りの船も出ますので、荷物はお預かりします、お土産は途中でお買いなると荷物になりますので、船に乗る前に当店で、是非どうぞ」
丸亀港3 福島湛甫・新堀湛甫
福島湛甫と新堀湛甫

 こうして多くの金毘羅参拝者たちは、「金毘羅大権現 + 七ケ寺巡礼」(金毘羅大権現→善通寺→甲山寺→曼荼羅寺→出釈迦寺→弥谷寺→海岸寺→道隆寺→金倉寺)を周遊巡礼して、丸亀に帰ってきました。そこで、帰路の船に乗船する前に荷物を預けたお土産店で、土産を買い込みます。
こうした動きを先取りしたのが、前回紹介した丸亀の横闘平八郎です。
丸亀街道 E⑬ 町史ことひら5 
金毘羅土産所の図 当時の金毘羅土産がわかる
 彼は板木を買い取り、自分で案内図などの出版を手がけるようになります。彼の金毘羅詣でなどの案内記には、丸亀・金毘羅の名物紹介したページが載せられるようになります。ここでは横開平八郎は「讃岐書堂」と名乗っています。観光業から出版業への進出と云えそうです。
「金毘羅御土産所」で扱っていた当時の金毘羅名物を見てみましょう
①玉藻のつと
②五しゆ漬
③小不二みそ
④あけぼの
⑤無事郎
⑥しだやうじ
⑦にとせし
⑧ちん其扇
⑨国油煙墨       油を燃やして煤を採煙し、膠、水、香料などと混ぜ合わせて造られた墨。
⑩寿上松葉酒     松葉は「ここに天の神薬を頂き、この身は天の無限の力
⑪はら薬舎
⑫五用心
⑬直に任せて
⑭あかひむ
⑮わすれ貝
 上に挙げられているお土産が一体何であるのか残念ながら私にはよく分かりません。③がみそ、⑨が墨、⑩が滋養酒のようです。それ以外にも飴、湯婆・みそ・松茸・索麺・生姜が含まれているようですが見当も付きません。ご存じの方があったら教えて下さい。
案内図の板元と土産店を経営する丸亀の横開平八郎が出版したふたつの絵図を見てみましょう。
丸亀街道 E⑪ 町史ことひら5
E⑪「金毘羅參詣案内大略圖」 (町史ことひら5)より

E⑪「金毘羅參詣案内大略圖」には、丸亀港に新堀湛甫や太助灯籠が描かれています。新堀湛甫の完成は天保4年(1833)のことになるので、それ以後に出されたものであることが分かります。これは、前回見たように、買い求めた版木に自分の名前と一部を入れ替えただけのものです。今まで丸亀から各地への里程が記されいた左下隅の枠内には、金毘羅案内の書物9部の広告が載せられています。広告の最後には、次のように記されています。
地本弘所書林/丸亀加屋町碧松房/金物屋平八郎(横関平八郎)

  ここからは横開平八郎は、房号を碧松房といったことが分かります。また先ほどの「金毘羅土産所の図」と併せると「地本弘所書林」は「名物土産舗」も兼業していたことが分かります。丸亀の金物屋平八郎(碧松房・横関平八郎)は、金物屋から土産店、そして出版版元へと多角経営に乗り出していたことが見えてきます。

丸亀街道 E⑬ 町史ことひら5
E⑬ 象頭山喩伽山両社参詣道名所旧跡絵図

E⑬も横開平八郎の刊です。
今まで絵図に比べると上下が広い印象を受けます。そして見たことのない構図です。それもそのはずです。E⑪の下に、瀬戸内海と対岸の備中が付け加えられているのです。追加された下の部分で目立つのは、丸亀対岸の児島半島の喩迦山蓮台寺です。蓮台寺では、五流修験者たちが金比羅詣で客を喩伽山に引き込むためにいろいろな営業活動が行われるようになります。そのひとつが、金毘羅参詣だけでは「片参り」になり、楡迦山へも参詣しないと本当の御利益は得られないという巧みな宣伝です。このため19世紀半ばになると参拝客も増えます。そのために出されたのが「両参り」用のこの案内書E⑬のようです。喩伽山とタイアップして、観光開発をすすめる平八郎の経営姿勢がうかがえます。
 丸亀街道 E⑭ 町史ことひら5
E⑭「金毘羅參詣案内大略圖」
E⑭「金毘羅參詣案内大略圖」標題下の板元名の欄が空白です。また、左下欄も半分が真っ白です。それ以外は、横関平八郎が版木を買って発行したE⑪と全く同じもののようです。板木が摩滅して見にくくなっています。ここからは、横関平八郎の手元にあった版木が、嶺松庵に売り渡されて出されたものがこのE⑭になるようです。版木は、売買の対象でした。横関平八郎は、「金毘羅バブル」に乗って、は派手な仕事をしていたようで、経営は長続きせずに板木を手放したようです。
丸亀街道 E⑮ 町史ことひら5
E⑮「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷寺道案内図」

 E⑮はタイトルが「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷寺道案内図」にもどりました。板元は丸亀富屋町原田屋です。左下の枠の中に、丸亀より、こんひら・ぜんつうじ・いやたに・たかまつへの里程を示し、金毘羅の3度の会式、善通寺の御影供と誕生仝の期日を示したあとに、「別二御土産物品々御座候」とあります。ここからは、原田屋も金物屋平八郎と同じように、土産物経営と絵図出版をセットで行っていたことが分かります。
E⑮では、福島湛甫は見えますが、東側に新堀湛甫がまだ姿を見せていません。新掘湛甫竣工は天保4年(1833)年なので、それ以前のものになります。この図で面白いのは、左上の伊予街道の牛屋口の上に高い山と道が書かれていることです。私は最初は伊予の石鎚山かと思いました。よく見ると阿波の箸蔵寺なのです。箸蔵寺周辺は、阿波修験者の拠点で、寺院建立後に活発な布教活動を展開します。そして喩伽山と同じように、金毘羅山の参拝客を呼び込むための広報活動も展開されます。その動きを受けて、丸亀の原田屋は、ここに箸蔵寺を書き加えたことが考えられます。金物屋平八郎は備前喩伽山、原田屋は箸蔵寺の修験者たちの影響下にあったことがうかがえます。

以上を整理しておくと
①金毘羅船就航以後、金比羅参拝者は激増し、丸亀港は上方からの人々で溢れるようになった。
②それを出迎える丸亀では、金毘羅船の船頭が船宿を営み、旅籠やお土産店などが数多く現れ観光産業を形成するようになる。
③その中のお土産店の中には、金比羅詣案内パンフレットを自分の手で発行する者も現れる。
④そこには、兼業するお土産店やタイアップする旅籠などの広告が載せられ客引き用に用いられた。⑤案内図が示す参拝ルートは、丸亀から金毘羅を往復ピストンするものではなく、善通寺 + 四国霊場七ケ寺」の巡礼を奨める者であった。
⑥当時の金毘羅参拝客の多くが「金毘羅 → 善通寺 → 甲山寺 → 曼荼羅寺 → 出釈迦寺 → 弥谷寺 → 白方の海岸寺 → 道隆寺 → 金倉寺 → 丸亀」の周遊ルートを巡っていた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


     
  幕末の瀬戸内海の芸予諸島を描いた一枚の絵図を見ています。
9639幕末~明治期古地図「宮島 錦帯橋 金毘羅ほか鳥瞰図
この絵は尾道・三原上空から南の瀬戸内海を俯瞰した形で描かれています。

i-img1024x767尾道沖2
下側には山陽道沿いの海岸線と主要な港町が東(左)から下津井・福山・とも(鞆)・尾道・三原と続き、

i-img1024x7宮島
 
竹原・おんど(音戸の瀬戸)を経て広島湾から宮島へと続きます。そして、西(右)端の岩国まで描かれています。

さて、この絵の作者の描きたかったのは何なのでしょうか?
この絵図はこのエリアの4つの名所を紹介するために書かれた絵図のようです。 分かりやすく描きたかった所には、丸い枠の中に地名が書き込まれています。
i-img1024x767-宮島・岩国

それは「宮島」・「岩国錦帯橋」「とも ギョン宮」「こんぴら大権現」のようです。しかし、この絵図で、最も丁寧に描き込まれているのは宮島、その次が錦帯橋ではないでしょうか。鞆と金毘羅大権現は脇役のような印象を受けます。関西人にとって瀬戸内海のナンバーワン名勝は「日本三景」の宮島でした。その宮島に匹敵するほどの参拝客が金毘羅を訪れるようになるのは19世紀になってからのようです。
 今回は大坂の船問屋が乗船客に配布した引札の金毘羅参拝絵図の航路図の変遷から見えてくるを探ってみます。

この絵図は18世紀末に、大坂の船問屋のはりまや伝兵衛が金毘羅船の乗船客に無料で配布した航路図です。
DSC01184
両面刷りで、表(上)が高砂から金毘羅まで、裏(裏)がとも(鞆)から西の宮島までの海路が示されています。この絵地図の題名は「こんぴら並みやじま船路道中記案内」で、金毘羅と宮島の案内を兼ねていたことが分かります。つまり、18世紀後半の金毘羅の案内図は、宮島と抱き合わせであったようです。この図が出されてからは、各地の宿屋がこのような道中案内を出すようになるのですが、金毘羅単独ではなく宮島や西国巡礼の案内を兼ねた道中記です。
  ちなみにこの時期に何種類も出された「西国霊場並こんぴら道中案内記」の中には、
「さぬきこんぴらへ御さんけいあそばされ候は つりや伊七郎方へ御出被成可被下候、近年新宿多く出来申候てまぎらはしく候ゆへ ねんのため此方より御さしづ奉申上候」
と、金比羅詣での宿の手配依頼を受け付けることが書かれています。
    この時期の金毘羅さんには単独で四国讃岐まで遠方の参拝客を惹きつける知名度がなかったようです。

それが当時の旅ブームの高揚に載って、江戸での金毘羅大権現の知名度が高まる19世紀初頭になると多くの人たちが四国こんぴらさんを目指すようになります。前回見たように、十返舎一九の弥次さん北さんが「続膝栗毛」で金比羅詣でを行うのもこの時期です。そして、19世紀半ば頃から幕末に架けてひとつのピークを迎えるようになります。
そうなると、金比羅詣での客を自分たちの所へも呼び込もうとする動きが各地で出てきます。そのためにおこなうことは、金比羅詣でのついでに、我が地にもお寄りくださいとパンフや地図で呼び掛けることです。こうして、今までにないルートや名所が名乗りをあげてくることになります。
DSC01191
 この絵図に何が書かれているのかが分かるためには少し時間が必用です。私も最初は戸惑いました。初期の金毘羅絵地図のパターンで、左下が大坂で、下側が山陽道の宿場町です。従来の金毘羅船の航路である大坂から播磨・備前を経て児島から丸亀へ渡る航路も示されています。しかし、この地図の変わっているのは、大坂から右上に伸びる半島です。半島の先が「加田」で、その前にあハじ島(淡路島)、川の向こうに若山(和歌山)です。この川はどうやら紀ノ川のようです。加田から東に伸びる街道の終点はかうや(高野山)のです。加田港からの帆掛船が向かっているのは「むや」(撫養)のようです。撫養港は徳島の玄関口でした。
 この絵図を発行しているのは、西国巡礼第三番札所粉川寺の門前町の旅籠の主金屋茂兵衛です。
彼がこの絵図を発行した狙いは、どこにあるのでしょうか。
私には、紀州加田から撫養へ渡り、讃岐の内陸部を通る新しい金毘羅参りのコース開発に力を入れているように思えます。もともと東国からの参拝者は弥次さん・北さんがそうであったように伊勢や高野山参りのついでに、金毘羅さんをめざす人たちが多かったのです。その人達の四国へのスタート地点を大坂から加田に呼び込もうとする目算が見えてくるようです。
さらに時代を経て出された絵図です。

DSC01192
標題は「象頭山參詣道 紀州加田ヨリ 讃岐廻弁播磨名勝附」となっていて、「加田」が金毘羅へのスタート地点となっています。そして、四国の撫養に上陸してからの道筋が詳細に描き込まれています。
DSC01193
讃岐山脈を越えて高松街道を西へ進み法然寺のある仏生山や滝宮を経て、象頭山の金毘羅へ向かいます。それ以外にも白鳥宮や志度寺、津田の松原など東讃岐の名所旧跡も書き込まれています。屋島がこの時点では陸と離れた島だったことも分かります。
 この絵を見ていると、地図制作技術が大幅に向上しているのが実感できます。色も鮮やかです。気がかりなのは、紀州加田の金毘羅への道の起点になろうとする戦略はうまく行ったのでしょうか?


さて次は、丸亀に上陸した後で旅籠から渡された絵図です。
DSC01182
参拝者たちはこの地図を片手にウオークラリーのように、金毘羅さんだけでなく善通寺や弥谷寺などの名所旧跡にも足を運んだのです。いうなれば「讃岐版の金毘羅案内図」ということになるのでしょうか。
標題に「金毘羅並七ケ所霊場/名勝奮跡細見圖」とある通り、絵図の中では描写が写実的で最も細密でできばえがいいものです。絵師の大原東野は、文化元年(1804))に奈良から金毘羅へやってきて、定住していろいろな作品を残しています。それだけでなく「象頭山行程修造之記」を配って募金を行い金毘羅参詣道の修理を行うなど、ボランテイア事業も手がけた人です。彼の奈良の実家は、小刀屋善助という興福寺南圓堂(西国三十一二所第九番札所)前の大きい旅龍でもあったようです。
   さて、前回に登場した弥次さん北さんがそうであったように、江戸の参拝者は好奇心が強く「何でも見てやろう・聞いてやろう」と好奇心も強い上に、体力もタフでした。そのため「折角四国まで来たら金毘羅山だけではもったいない」という気持ちが強く、空海伝説の聖地である善通寺や弥谷寺などにも足を運んだことは紹介しました。

 その好奇心を逆手にとって、金毘羅客の呼び込みに成功したお寺が現れます。そのお寺が出した絵図がこれです。
DSC01181
この絵図も見慣れない構図なので最初は戸惑いました。真ん中の平野のように見えるのは瀬戸内海です。金毘羅が鎮座する奥の象頭山と手前の丸亀の位置が分かると見えてきました。この絵図がアピールしたいのは丸亀と海を挟んで鎮座する喩迦山です。
 備前児島半島の喩迦山蓮台寺は、金毘羅参詣だけでは「片参り」になり、楡迦山へも参詣しないと本当の御利益は得られないと、巧みな宣伝をはじめます。これが功を奏して参詣客を集めることに成功します。これはその「両参り」用の案内書です。これを帰路の丸亀で見せられた参拝客は喩迦山まで足を伸ばすようになります。そして、次第に往路に喩迦山に立ち寄ってから金毘羅をめざす参拝者も増えるようになります。その結果、弥次・北の時代には室津から出発して小豆島の西で備讃瀬戸を横断していた金毘羅船の航路は、喩迦山の港である田の口港に寄港した後に丸亀に向かうようになるのです。その結果、金毘羅と喩迦山の間では門前町の宿屋や茶屋、土産物屋の間で参詣客の分捕り合戦が演じられるようになり、田引水の信仰や由来が作られ、双方が相手をけなし合う泥試合になっていきます。
これを庶民が表した諺が残っています。
○旨いこと由加はん 嘘をおっしゃる金毘羅さん 
観光誘致の所産の諺として、当時の人々に広まったようです。
塩飽諸島の盆歌に「笠を忘れた由加の茶屋へ空か曇れば思い出す」というフレーズがあるそうです。由加山蓮台寺門前町の昔のにぎわい振りがしのばれます。
 
18世紀までは、伊勢や高野山、宮島の参拝ついでに立ち寄られていた金毘羅さんでした。それが19世紀半ば頃から知名度を上げ「集客力」を高めるようになると、他の「観光地」が金毘羅さんからお客を呼び込もうとする戦略をとるようになっていったのです。
 観光地同士のせめぎ合いは、この時代からあったようです。
関連年表
延享元年 1744 大坂の船問屋に金毘羅参詣船許可。日本最初の客船運航開始
宝暦3年 1753 勅願所になる。
宝暦10年1760 日本一社の綸旨を賜う。
明和元年 1764 伊藤若冲、書院の襖絵を画く。
明和3年 1766 与謝蕪村、金毘羅滞在し「秋景山水図」を描く
天明7年 1787 円山応挙、書院の間の壁画を画く。
文化2年 1805 備中早島港、因島椋浦港に燈籠建立。
文化3年 1806 丸亀福島湛甫竣工。
文化7年 1810 『金毘羅参詣続膝栗毛初編(上下)』弥次郎兵衛と北八の金毘羅詣で
文化11年1814 瀬戸田港に常夜燈建立。
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工。天保の改革~6年間。
天保9年 1838 丸亀に江戸千人講燈籠建つ。(太助燈籠のみ)
  多度津港に新湛甫できる。
弘化2年 1845 金堂、全て成就。観音堂開帳。
嘉永6年 1853 黒船来航。吉田松陰参詣。
嘉永7年 1854 日米和親条約締結。
安政6年 1859 因島金因講、連子塀燈明堂上半分上棟。
  高燈籠の燈籠成就。
   参考文献 町史ことひら第5巻 絵図・写真編66P~

このページのトップヘ