瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金毘羅参詣続膝栗毛

金毘羅船 航海図C4

前回に金毘羅船の航路が19世紀前半に、①→②→③のように変更されていることを見ました。
①初期は、室津から小豆島を東に見て高松沖から四国の海岸沿いに丸亀へ
②19世紀半ばからは、室津から牛窓沖を通過し、それから備讃瀬戸を縦断するコール
③室津から下津井半島の日比・田の口・下村を経由して丸亀へ
このコース変更の背景として考えられる事を挙げてみると
①下津井半島の五流修験が広めた「金比羅・喩伽山の両詣り」で喩伽山参りの人々の増加
②19世紀前半からの金毘羅船の大型化
などですが、その他にも原因があることを指摘する文章に出会いました。今回はそれを見ていきます。テキストは「羽床正明 金昆羅大権現に関する三つの疑問  ことひら68 H25年」です
金毘羅船 苫船
金毘羅参詣続膝栗毛 道頓堀で金毘羅船に乗りこむ弥次喜多

十返舎一九の『金毘羅参詣続膝栗毛』(1810年刊)には、弥次喜多コンビが夜半に道頓堀から乗った金毘羅船は、早朝に木津川河口に下ってきて、早朝に順風を得て出港します。室津で一夜を過ごし、その後は順風に恵まれて三日半で丸亀港に着いています。しかし、こんなにスムーズに行くのは珍しい方だったようです。

三谷敏雄「飯田佐兵衛の金毘羅参詣記」(『ことひら』四十一号、昭和61年)には嘉永三年(1850)の正月に武蔵国文蔵村の飯田佐兵衛が仲間11人と金比羅参りをしたときの記録が報告されています。当時は金比羅参りだけでなく、いろいろな聖地を一緒に巡礼するのが常でした。彼らの巡礼地を見てみると、東海道を下って伊勢神宮に参詣し、更に大阪・四国にも足を伸ばし、帰りには京都見物を行って中山道を通って帰村しています。この二ヶ月半を『伊勢参詣日記帳』という道中記にまとめています。この道中記には、金毘羅船について次のように記されています。
 佐兵衛一行は大阪から高砂に行き「つりや伊七郎」方で「同所より二日夜丸亀迄船を頼む、上下(往復料金)壱貫弐百文にて頼む、百八文ふとん一枚」を支払って金毘羅船に乗船しようとします。ところが「三、四日、殊の外逆風」で船が出せません。そこで船賃の払い戻しを要求するのですが、返金されたのは「四百八拾文舟銭。剰返請取。」と支払額の40%程度でした。全額返金に応じないことに憤慨して「金ひら参詣ニハ 決而舟二のるべからず」と、金比羅参拝には、決して船を利用するなと書いています。その後、彼らは岡山県まで歩いて行って、下津井から船に乗って対岸の四国に渡っています。
IMG_8095下村浦
下村湊

    西国巡礼者が金比羅詣コースとして利用した高砂~丸亀の記録には、次のように記されています。
「三月一日船中泊り、翌二日こき行中候得者、昼ハッ時分より風強く波高く船中不残船によひ、いやはや難渋仕申候、漸四ッ時風静二罷成候而漸人心地二罷成よみかへりたる計也」

「此時風浪悪しくして廿一日七ッ時二船二乗、廿四日七ッ時二丸亀の岸二上りて、三夜三日之内船中二おり一同甚夕難渋仕」

意訳変換しておくと
「三月一日に船中に泊り、翌日二日に漕ぎだしたが、昼ハッ時分に、風が強く吹きだし、波も高くなり、乗客はみんな船酔いに苦しめられ、難渋した。ようやく四ッ時に風が静まり、人々は人心地をついた次第である」

「風浪が強くなる中を、21日七ッ時に乗船し、24日七ッ時に丸亀に到着するまで、三夜三日の内船中に閉じ込められ、乗客達は大変難渋した。

 同じ頃に金毘羅大権現に参詣した江戸羽田のろうそく商、井筒屋卯兵衛の手記にも、良く似たことが書かれています。
卯兵衛は「金毘羅出船会所大和や(大和屋)弥三郎、丸亀迄詣用付舟賃九匁ふとん壱枚百六十四文払」と、前回に紹介した道頓堀川岸の大和屋弥三郎方で金昆羅船を頼み、「是より舟一り半程下りて富島町と申す所へ船をつなぐ」が、「六日朝南風にて出帆できず」と船を出すことが出来ず、「是より舟を上り、大和屋船賃を取り返しに行く」と船賃の一部を払い戻して貰い、陸路を岡山県まで歩いています。
 そして、次のようなコースで丸亀に向かいます
二月四日に牛窓村の「ちうちん屋」に泊り、
五日には喩伽大権現に参詣して、下津半島・下村の「油屋藤右衛門」方で百四文を払って乗船し、
六日の四ツ半頃に丸亀港に着き、船宿「あみや為次郎」方で弁当を整え、丸亀街道を歩いて金毘羅大権現に行き参詣した。再び丸亀「あみや」に戻って
六日昼より七日昼までの間逗留し、九ツ時に「あみや」を出立して船に乗り、七ツ頃に対岸の田の口港に着いています。
金毘羅船 航海図C10
上方から丸亀までの船旅は、風任せで順風でないと船は出ません。
中世の瀬戸内海では、北西の季節風が強くなる冬は、交易船はオフシーズンで運行を中止していました。近世の金毘羅船も大坂から丸亀に向かうのには逆風がつよくなり、船が出せないことが多かったようです。

IMG_8110丸亀・象頭山遠望
下津井半島からの讃岐の山々と塩飽の島々

 金毘羅船が欠航すると、旅人は山陽道を歩いて備中までき、児島半島で丸亀行きの渡し船に乗っています。児島半島の田の口、下村、田の浦、下津丼の四港からは、丸亀に渡る渡し船が出ていました。上方からの金毘羅船が欠航したり、船酔いがあったりするなら、それを避けて備中までは山陽道を徒歩で進み、海上最短距離の下津井半島と丸亀間だけを渡船を利用するという人々が次第に増えたのではないかと研究者は指摘します。

IMG_8108象頭山遠望
下津井半島からの象頭山遠望

 下津井からの丸亀間は、西北の風は追い風となります。上方からの船が欠航になっても、下津井からの船は丸亀湊に入港できたようです。
金毘羅船 田の口・下村

 児島半島には喩伽山大権現(蓮台寺)があつて、金毘羅大権現と喩伽山を「両参り」すると効験は倍増すると五流の修験者たちは宣伝します。喩伽大権現に近い田の口港は、両参りする人々で賑わうようになります。
IMG_8098由加山
喩伽山大権現(蓮台寺)

これに対抗して下村の船宿「油屋藤右衛門」方では「毎日出船」と天気に左右されない通常運行を売り物にして客を獲得しようとします。下津井半島には、日々、田の口、下村、下津井と4つの湊が金比羅船をだして、互いにサービス競争を行っていました。上方からの運賃に比べると1/5程度でリーズナブルでした。また、小形の金毘羅船にはトイレがありませんでした。弥次喜多は、苫の外から海に向かって用を足しています。女性参拝客が増えるに随って、最短で海を渡ろうとする人たちも増えたのかも知れません。

IMG_8105下津井より広島方面」
下津井半島からの四国方面遠望
 こうして江戸時代末期には、欠航や船酔いを避けて上方からではなく、海上最短距離になる下津井からの渡船に活躍の舞台が開けてきたようです。大阪と丸亀を結ぶ金毘羅船が「毎日出船」を売り物にすることができるようになつたのは、明治になって蒸気船が出現して天候の影響をうけなくなってのことのようです。
平野屋佐吉・まつや卯兵衛ちらし」平野屋の札は「蒸気金毘羅出船所

   以上をまとめておくと
①上方からの金毘羅船は順風だと3泊4日で、丸亀港に着くことができた
②しかし、北西の季節風が強くなる冬は逆風となり、欠航が多くなった。
③出発前の欠航や途中での欠航でも料金が全額払い戻されることはなくトラブルの原因となった
④江戸時代末期になると参拝客は、金毘羅船の欠点を避けて、陸路で下津井半島まで行き、そこから海上最短距離で丸亀や多度津を目指す者が増えた。
⑤そこには、五流修験者の喩伽山信仰策もあった。
⑥この結果、下津井半島の田の口や下村、下津井は金比羅渡船のでる港町として栄えるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

金毘羅船 4

金毘羅船々 追風に帆かけて シュラ シュ シュシュ 回れば四国は 讃州那珂の郡 象頭山金毘羅大権現 も一度回って 金毘羅船々……

この歌は金毘羅船を謡ったものとして良く知られています。今回は金毘羅船がどのような船で、どこから出港していたのかを、見ていこうと思います。
まず、金比羅船の始まりを史料で見ておきましょう。
金刀比羅宮に「参詣船渡海人割願書人」という延享元年(1744)の文書が残されています。
参詣船渡海入割願書
一 讃州金毘羅信仰之輩参詣之雖御座候 海上通路容易難成不遂願心様子及見候二付比度参詣船取立相応之運賃二而心安致渡海候様仕候事
一 右之通向後致渡海候二付相願候 二而比度御山御用向承候 上者御荷物之儀大小不限封状等至迄無滞夫々汪相違可申候 将又比儀を申立他人妨申間敷事
一 御山より奉加勧進等一切御指出不被成旨御高札之面二候 得紛敷儀無之様可仕事
一 志無之輩江従是勧メ候儀且又押而船を借候儀仕間敷事
一 講を結候儀相楽信心を格別講銭等勧心ケ間敷申間敷並代参受合申間敷事
一 万一難風破船等有之如何様之儀有之有之候へ共元来御山仰二付取立候儀二候得者少茂御六ケ舗儀掛申間敷事
  右之趣堅可相守候若向後御山御障二相成申事候は何時二而茂御山御出入御指留可被成候為後日謐人致判形候上はは猶又少茂相違無御座候働而如件
  延享元甲子年三月
     大坂江戸堀五丁目   明石屋佐次兵衛 印
     同  大川町     多田屋新右衛門 印
     同  江戸堀荷貳丁目 鍔屋  吉兵衛 印
        道修町五丁目  和泉屋太右衛門 印
金光院様御役人衆中様
意訳変換しておくと
金毘羅参詣船の渡海についての願出について
一 讃州金毘羅参詣の海上航路が不便な上に難儀して困っている人が多いので「相応え運賃」(格安運賃)で参詣船を出し、心安く渡海できるように致します。
一 同時に、金毘羅大権現の御用向を伺い、御荷物等についても大小を問わず滞りなく配送いたします。 
一 金毘羅大権現よりの奉加・勧進等の一切の御指出を受けていないことを高札で知らせ、紛らわしい行為がないようにいたします。
一 信心のない輩に金毘羅船への参加を勧めたり、また船を課したりする行為は致しません。
一 金毘羅講を結成し講銭など集めたり、代参を請け負うことも致しません。
一 万一難破などの事故があったときには、どんな場合であろうとも金毘羅大権現に迷惑をおかけするようなことはありません。
以上の趣旨について今後は堅く遵守し、もし御山に迷惑をおかけするようなことがあった場合には何時たりとも、御山への出入差し止めを命じていただければと思います。
ここからは、次のようなことが分かります。
①延享元年三月(1744)に、大坂から讃州丸亀に向けて金毘羅参詣だけを目的とした金毘羅船と呼ばれる客船の運行申請が提出されたこと
②申出人は大坂の船問屋たちが連名で、金毘羅当局へ「参拝船=金毘羅船」の運航許可を求めていること
③寄進や勧進を語り募金集める行為や、金毘羅講などを通じての代参行為を行う行者(業者)がいた。
これは金光院に認められ、金毘羅船が大坂と四国・丸亀を結ぶようになります。これが「日本最初の旅客船航路」とされます。以後、金毘羅船は、金毘羅信仰の高揚と共に、年を追う毎に繁昌します。申出人の2番目に見える「大坂大川町 船宿 多田屋新右ヱ門」は、讃岐出身で大坂で船宿を営なんでいたようです。
多田屋の動きをもう少し詳しくみていきましょう。
 多田屋は、金毘羅本社前に銅の狛犬を献納し、絵馬堂の寄進も行っています。多田屋発行の引札も残っています。金毘羅関係の書物として最も古い「金毘羅参詣海陸記」「金毘羅霊験記」などにも多田屋の名は刷り込まれています。このように金比羅舟の舵取りや水夫には、多田屋のように讃岐出身者が多かったようです。そして、その中心は丸亀の三浦出身者だったようです。19世紀初頭に福島湊が完成するまでの丸亀の湊は土器川河口の河口湊でした。そこに上陸した金毘羅詣客で、三浦は栄えていたことは以前にお話ししました。

多田屋に少し遅れて、金毘羅船の運航に次のような業者が参入してきます
①道頓堀川岸(大阪市南区大和町)の 大和屋弥三郎
②堺筋長堀橋南詰(大阪市南区長堀橋筋一丁目) 平野屋佐吉
日本橋筋北詰(大阪市南区長堀橋筋二丁目) 岸沢屋弥吉
なども、多田屋に続いて金昆羅船を就航させています。強力なライバルが現れたようです。これらの業者は、それぞれの場所から金毘羅船を出港させていました。金毘羅船の出港地は一つだけではなかったことを押さえっておきます。
後発組の追い上げに対して、多田屋はどのような対応を取ったのでしょうか
『金毘羅庶民信仰資料集年表篇』90pには、多田屋新右衛門の対応策が次のように記されています。
宝暦四年 冥加として御用物運送の独占的引き受けを願い出る
同九年  狗犬一対寄進
天明七年 江戸浅草蔵前大口屋平兵衛の絵馬堂寄進建立を取り次ぎ
寛政十二年再度、金毘羅大権現の御用を独占を願い出。
享和三年 防州周防三輪善兵衛外よりの銅製水溜寄進を取り次ぎ
文化十三年大阪の金昆羅屋敷番人の追放に代わり、御用達を申し付け
天保三年 桑名城主松平越中守から高百石但し四ツ物成、大阪相場で代金納め永代寄進
天保五年 その代金六十両を納入
これ例外にも金毘羅山内での事あるごとに悦びや悔みの品を届けています。本人も母親も参詣してお目見えを許された記事もあります。ここからは多田屋新右衛門が、金毘羅大権現と密接な関連を維持しながら、金毘羅大権現への物資の運送を独占しようとしていたことがうかがえます。
『金毘羅山名所図会』には、次のように記されています。
  御山より大阪諸用向きにつきて海上往来便船の事は、大阪よどや橋南詰多田屋新右衛門これをあづかりつとむ。
ここからは多田屋新右衛門の船宿は、大阪淀屋橋南詰(大阪市東区大川町)にあったことがわかります。  
金毘羅船 淀屋橋
多田屋のあった、大阪淀屋橋南詰(大阪市東区大川町)
多田屋新右衛門には、大和屋弥三郎という強力なライバルが出現します。
大和屋弥三郎も金毘羅船を就航させ、金毘羅への輸送業に割り込もうと寄進や奉献を頻繁に行っています。そのため多田屋新右衛門が物資運送を独占することはできなかったようです。
『金毘羅庶民信仰資料集―年表篇』90Pには、大和屋弥三郎のことがが次のように記されています。
寛政九年 新しい接待所を丸亀の木屋清太夫とともに寄進
享和二年 瀬川菊之丞が青銅製角形水溜を奉納するのを取り次ぎ
文政九年 大阪順慶町で繁栄講が結成された時講元となり
文政十一年丸亀街道途中の与北村茶堂に繁栄講からとして、街道沿いでは最大の石燈籠を奉納
このように大坂の船宿は、参詣客の斡旋、寄進物の取り次ぎ、飛脚、為替の業務などを競い合うように果たしています。これが金毘羅の繁栄にもつながります
『金毘羅庶民信仰資料集―年表篇』の17頁の宝暦四年(1754)条には、
大阪の明石屋佐治兵衛。多田屋新右衛門、冥加として当山より大阪ヘの御用物運送仰せ付けられたく願い出る。

とあって、多田屋新右衛門が明石屋佐治兵衛と一緒に、物資運送を独占を願いでています。これに対して金毘羅大権現の金光院はどんな対応をしたのか見てみましょう。
『金毘羅庶民信仰資料集―年表篇』の24Pの寛政十二年(1800)春条には、
大阪多田屋新右衛門よりお山の御用を一手に申し付けられたき旨願い出る。多田屋の願いを丸亀藩へも相談した所、丸亀浜方の稼ぎにも影響するので、年三度のお撫物登りの時のみ多田屋の寄進にさせてはどうかという返事あり

ここには多田屋の願い出を丸亀藩に相談したところ、これを聞き留けると丸亀港での収入が減ることになるので、年三度の撫物だけを多田屋に運送させたら良いとの返事を得ています。この返事を多田屋に知らせ、多田屋はこれを受け入れたようです。ここに出てくる「撫物」と云うのは、身なでて穢れを移し、これを川に流し去ることで災厄を避ける呪物で、白紙を人形に切ったものだそうです。
  つまり金光院は、ひとつの船宿に独占させるのではなく、互いに競争させる方がより多くの利益につながると考え、特定業者に独占権を与えることは最後まで行わなかったようです。そのため多田屋が繁栄を独占することは出来ませんでした。

十返舎一九の『金毘羅参詣続膝栗毛』(1810年刊)で、弥次喜多コンビが乗った金毘羅船は、大和屋の船だったようです。
 道中膝栗毛シリーズは、旅行案内的な要素もあったので当時の最も一般的な旅行ルートが使われたようです。十返舎一九は『金毘羅参詣続膝栗毛』の中で、弥次・北を道頓堀から船出させています。しかし、その冒頭には次のような但書を書き加えています。
「此書には旅宿長町の最寄なるゆへ道頓堀より乗船のことを記すといへども金毘羅船の出所は爰のみに非ず大川筋西横堀長堀両川口等所々に見へたり」
意訳変換しておくと
「ここには旅宿長町から最も近いので道頓堀から乗船したと記すが、金毘羅船の出発地点は大川筋西横堀や長堀両川口などにもある」

ここからは、もともとの船場は多田屋のある大川筋の淀屋橋付近だったのが、弥次・喜多の時代には、金毘羅舟の乗船場は大川筋から道頓堀・長堀の方へ移動していたことがうかがえます。つまり、多田屋に代わって大和屋が繁盛するようになっていたのです。その後の記録を見ても「讃州金毘羅出船所」や「金ひらふね毎日出し申候」等と書かれた金毘羅舟の出船所をアピールする旅館や船宿は、大川筋よりもはるかに道頓堀の方が多くなっています。
 金毘羅船に乗る前や、船から下りた際には「航海無事」の祈願やお礼をするために、道頓堀の法善寺に金比羅堂が建立されていた研究者は推測します。法善寺は讃岐へ向かう旅人達たちにとって航海安全の祈願所の役割を果たしていたことになります。「海の神様」という金毘羅さんのキャッチフレーズもこの辺りから生まれたのではないかと私は考えています。

弥次喜多が乗りこんだ金毘羅船の発着場は、どこだったのでしょうか
金毘羅船 苫船

「大阪道頓堀丸亀出船の図」(金毘羅参詣続膝栗毛の挿入絵)
上図は「大阪道頓堀丸亀出船の図」とされた挿図です。本文には次のように記されます
   讃州船のことかれこれと聞き合わせ、やがて三人打ち連れ、長町を立ち出で、丸亀の船宿、道頓堀の大黒屋といえる、掛行燈(かけあんどん)を見つけて、野州の人、五太平「ハァ、ちくと、ものサ問いますべい。金毘羅様へ行ぐ船はここかなのし。」

意訳変換しておくと
讃州船のことをあれこれと聞き合わせ、やがて三人そろって、丸亀の船宿である道頓堀の大黒屋を訪ねた。掛行燈(かけあんどん)を見つけて、五太平が次のように聞いた「ハァ、ちょとおたずねしますが、金毘羅様へ行く船はここからでていますか」

ここからは道頓堀川の川岸の船宿・大黒屋を訪ねたこと、大黒屋も讃岐出身者であったことが分かります。道頓堀を発着する金毘羅船には、日本橋筋北詰の岸沢屋弥吉のものと、道頓堀川岸の大和屋弥三郎のものの二つがありました。岸沢屋の金毘羅船は道頓堀川に架かる日本橋の袂を発着場としていて引札には日本橋が描かれています。橋が描かれず川岸を発着場とするこの図の金毘羅船は「道頓堀の大黒屋=大和屋」の金毘羅船と研究者は考えているようです。

当時の金比羅舟は、どんな形だったのでしょうか?
上の絵には川岸から板一枚を渡した金毘羅船に弥次北が乗船していく姿が描かれています。手前が船首で、奥に梶取りがいるようです。船は苫(とま)屋根の粗末な渡海船だったことが分かります。苫屋根は菅(すげ)・茅(ちがや)などで編んだこものようなもので舟を覆って雨露をしのぐものでした。
金毘羅船 苫船2

淀川を行き来する三〇石船とよく似ているように思えます。
淀川30石舟 安藤広重


弥次喜多が道頓堀で乗船して、大坂河口から瀬戸内海に出港していくまでを意訳変換してみましょう
讃岐出身の船頭は、弥次喜多に次のように声をかける。
船頭「浜へ下りな。幟(のぼり)のある船じゃ。今(いんま)、出るきんな。サアサア、皆連(つ)れになって、乗ってくだせえ、くだせえ。」
 浜に下りると船では、揖(かじ)を降ろし、艪(ろ)をこしらえて、苫(とま)の屋根を葺いていた。
金毘羅船 屋根の苫
苫の屋根

水子(かこ)たちは布団、敷物などを運び入れ終わると、船宿の店先から勝手口まで並んでいた旅人を案内して、船に乗船させていく。
そこへいろいろな物売りがやってくる。
商人「サアサア、琉球芋(りゅうきゅういも)のほかしたてじゃ、ほっこり、ほっこり」
菓子売り「菓子いらんかいな、みづからまんじゅう、みづからまんじゅう。」
上かん屋「鯡昆布巻(にしんこぶまき)、あんばいよし、あんばいよし。」
船頭「皆さん、船賃は支払いましたかな、コレ、そこの親方衆、もう少しそっちゃの方へ移ってもらえませんか、」
五太平「コリャハァ、許さっしゃりまし。あごみますべい」と、人を跨いで向こう側へ座る。弥次郎・喜多八も同じように座ると、遠州の人が「エレハイ、どなたさんも胡座組んで座りなさい。乗り合い船なので、お互いにに心安くして参りましょう。ところで、船頭さん、船はいつ頃出ますか。」
船頭「いん(今)ますぐに、あただ(急)に出るわいの」
船宿の亭主「サアサアえいかいな、えいなら船を出さんせ。もう初夜(戌刻)過ぎじゃ。長い間お待たせして、ご退屈でござりました。さよなら、ご機嫌よう、行っておい出でなされませ。」
 と、もやい綱を解いて、船へ放り込むと、船頭たちは竿さして船を廻します。そうすると川岸通りには、時の太鼓、「どんどん、どどん」と響きます。
按摩(あんま)「あんまァ、けんびき、針の療治。」
 夜回りの割竹が「がらがら、がらがら」と鳴る中、船はだんだん河口へと下っていきます。
 木津川口に着いた頃には、夜も白み始める子(ね)刻(午前4時)頃になっていた。ここで風待ちしながら順風を待ち、その間は船頭・水子もしばらく休息していて、船中も静かで、それぞれがもたれ合って眠る者もいる、中には、肘枕や荷物包に頭をもたせて熟睡する者もいる。

難波天保山

 やがて、寅の刻(午前4時)過ぎになったと思う頃に、船頭・水子たちがにわかに騒ぎ立ちて、帆柱押し立て、帆綱を引き上げるなど出港準備をはじめ、沖に乗り出す様子が出てきた。船中の皆々も目を覚まして、船端に顔を出して、塩水をすくって手水使って浄めて象頭山の方に向かって、航海の安全を伏し拝む。
弥次郎・喜多八も遙拝して、一句詠む
    腹鼓うつ浪の音ゆたかにて 走るたぬきのこんぴらの船
 船出の安全を、語る内に早くも沖に走り出しす。船頭の「ヨウソロ、ヨウソロ」の声も勇ましく、追風(おいて)に帆かけて、矢を射るように走り抜け、日出の頃には、兵庫沖にまでやってきた。大坂より兵庫までは十里である。

ここからいろいろな情報を得ることが出来ます。
①弥次・喜多の乗った金毘羅船が小形の苫舟で、乗り換えなしで丸亀に直行したこと
②船頭が讃岐出身者だったこと。讃岐弁を使っているらしい。
③夜中(午後8時頃)に道頓堀や淀屋橋の船宿を出て、早朝(午前4時頃)に大坂河口に到着
④風待ち潮待ちしながら順風追い風を受けて出港していく
⑤この間に船の乗り換えはない。
金毘羅船 3

19世紀の中頃には、金毘羅船にとって大きな変化が起きていました。それまでの小形の苫舟に代わって、大型船が就航したことです。
金毘羅船 垣立


この頃には、垣立(上図の赤い部分)が高く、屋形がある大型の金毘羅船が登場します。これは樽廻船を金毘羅船用に仕立てたものと研究者は考えているようです。江戸時代に大阪と江戸の間の物資の運送で競争したのが、菱垣廻船と樽廻船です。

金毘羅船 大坂安治川の川口
大坂安治川の川口
 大坂安治川の川口の南には樽廻船の蔵が建ち並び、北には菱垣廻船の蔵が建ち並んでいる絵図があります。大型の金昆羅船は二日半で丸亀港に着いているので、船足の早い樽廻船と研究者は考えているようです。
ここで大きく成長するのが平野屋左吉です。
彼は、もともとは安治川の川口の樽廻船問屋でした。樽廻船を金毘羅船に改造して、堺筋長堀橋南詰に発着場を設けて、金毘羅船を経営するようになったと研究者は考えているようです。空に向かって大きくせり出した太鼓橋の下なら大きな船も通れます。しかし、長堀橋のように川面と水平に架けられた平橋の下を大きな船は通れません。そこで平野屋左吉が考えたのが、堺筋長堀橋南詰の発着場と安治川港の間を小型の船で結び、安治川港で大型の金毘羅船に乗り換えて丸亀港を目指すプランです。
金毘羅船 平野屋引き札
この平野屋の引き札からは次のようなことが分かります。
①平野屋が大型の金毘羅船を導入していたこと
②船の左には、平野屋本家として「金毘羅内町 虎屋」と書かれていて、虎屋=平野グループを形成していたこと。

  文政十年(1827)に歌人の板倉塞馬は、京・大阪から讃岐から安芸まで旅をして、『洋蛾日記』という紀行文を著しています。
その中の京都から丸亀までの道中についての部分を見てみましょう。
五月十二日、曇‥(中略)昼頃より京を立つ‥(中略)京橋池六より、乗船、浪花に下る。
十三日、晴。八つ(午後二時)頃より曇る。日の出るころ大阪肥後橋へ着く。(中略)
蟻兄(大阪の銭屋十左衛門)を訪れ、銭屋九兵衛という家(宿屋と思われる)にとまる。(以下略)
十五日、晴。(中略)日暮れて銭九を立つ。長堀橋平野屋佐吉より小舟に乗る。四つ橋より安治川口にて本船に移り、夜明け方出船。天徳丸弥兵衛という。
ここからは次のようなことが分かります。
①5月12日の昼頃に伏見京橋池六で川船に乗って淀川をくだり、13日早朝に大阪の肥後橋到着
②永堀橋の長堀橋の船宿平野屋佐吉の小舟で河口に下り
③15日、四つ橋より安治川口で大型の天徳丸(船頭弥兵衛)に乗り換え、夜明け方に出港した。

つまり平野屋左吉は、二種類の船を持っていたようです
①大阪市内と安治川港を結ぶ小型船
②安治川港と丸亀港を結ぶ大型船
淀川船八軒屋船の船場
川船の行き来する八軒家船着場 安治川湊までの小型船

平野屋は、二種類の船を使い分けて、金毘羅船経営を行う大規模経営者であったようです。普通の船宿経営者は、小型の船で大阪市内と丸亀港を直接結ぶ小規模の経営者が多かったようです。平野屋の売りは、金毘羅の宿は最高グレードの虎屋だったことです。富裕層は、大型船で最上級旅館にも泊まれる平野グループの金毘羅詣でプランを選んだのでしょう。このころには金毘羅船運行の主導権は、多田屋や大和屋から平野屋に移っていたようです。
平野屋佐吉・まつや卯兵衛ちらし」平野屋の札は「蒸気金毘羅出船所

  以上をまとめておくと
①18世紀半ばに金毘羅船の営業が認められ、讃岐出身の多田屋が中心となり運行が始まった。
②多田屋は金毘羅の運送業務の独占化を図ったが、これを金光院は認めず競争関係状態が続いた
③後発の船宿も参入し、金毘羅への忠誠心の証として数々の寄進を行った。これが金毘羅繁栄の要因のひとつでもあった。
④19世紀初頭の弥次喜多の金毘羅詣でには、道頓堀の船宿大和屋の船が使われている。
⑤金毘羅船の拠点が淀屋橋周辺から道頓堀に移ってきて、同時に多田屋に代わって大和屋の台頭がうかがえる
⑥道頓堀の法善寺は、金毘羅船に乗る人々にとっての航海安全を祈る場ともなっていた
⑦19世紀中頃には、平野屋によって樽廻船を改造した大型船が金比羅船に投入された。
⑧これによって、輸送人数や安全性などは飛躍的に向上し、金毘羅参拝者の増加をもたらすことになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明 金昆羅大権現に関する三つの疑問     ことひら68 H25
北川央  近世金比羅信仰の展開
町史こんぴら

 

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  金毘羅船々
  追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ
  廻れば四国は
  讃州那珂郡象頭山 金毘羅大権現
  一度廻れば

この歌が生まれたのは、大阪と地元のこんぴらさんのどちらかはっきりとしないようです。資料的にたどれるのは金毘羅説です。しかし、各地から金毘羅参詣客が集い、そして舟に乗って一路丸亀に向け旅立ってゆく金毘羅船の船頭が歌ったという話には、つい納得してしまいます。
しかし、実際には
   追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ
とは船は進まなかったようです。
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西国巡礼者が金比羅詣コースとして利用した高砂~丸亀の記録には、
「三月一日船中泊り、翌二日こき行中候得者、昼ハッ時分より風強く波高く船中不残船によひ、いやはや難渋仕申候、漸四ッ時風静二罷成候而漸人心地二罷成よみかへりたる計也」

「此時風浪悪しくして廿一日七ッ時二船二乗、廿四日七ッ時二丸亀の岸二上りて、三夜三日之内船中二おり一同甚夕難渋仕」
といった記述がみられます。
さらには、高砂から乗船しながら
「四日ハッ時頃迄殊之外逆風二付、牛まど村江舟右上り」
と、
逆風のために船が進まず、途中の牛窓で舟をおりて陸路を下村まで行き、そこから丸亀へ再び海を渡ったこともあったようです。この際に
「四百八拾文舟銭。剰返請取。金ひら参詣ニハ決而舟二のるべからず
と船賃の残額も返してくれなかったようで大いに憤慨しています。
追い風に風を受けてしゅらシュシュであって、向かい風にはどうしようもなかったようです。
IMG_8072難波天保山
大坂から乗船したケースも見ておきましょう。
道頓堀の大和屋弥三郎から乗船した金比羅船の場合です。
「六日朝南風にて出帆できず、是より舟を上り、大和屋迄舟賃を取返しに行
と道中記に記されています。大阪湾から南風が吹かれたのでは、船は出せません。船賃を取り返し、陸路を進む以外になく、備前片上
から丸亀に渡っています。瀬戸内海でも、いったん風が出て海が荒れれば、船になれない人たちにとっては生きた心地がしなかったようです。
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陸路中心の当時の旅において、金比羅船は「瀬戸内海クルージング」が経験できる金毘羅参詣の目玉だったようですが、楽な反面「危険」は常に感じていたようです。少し大げさに言うと、危険きわまりない舟旅を無事終えて金毘羅参詣を果たせたのだという思いが、航海守護の神としての金毘羅信仰をより深くさせたのかもしれません。
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 金毘羅舟が着く讃岐・丸亀港の近くに玉積神社(玉積社)が鎮座します。この神社は
「天保年間新堀堪甫築造の際の剰土を盛りたる所に丸亀藩大坂蔵屋敷に祀りありし神社を奉遷した」
と伝わります。『讃州丸亀平山海上永代常夜燈講』という表題を持つ寄付募集帳には、
「御加入の御方様御姓名相印し置き、家運長久の祈願、丹誠を抽で、月々丸亀祈祷所に於て執行仕り候間、彼地御参詣の節は、私共方へ御出で下さるべく候。右御祈禧所へ御案内仕り、御札守差し申すべく候」
とあって、この神社が「丸亀祈祷所」と呼ばれていたことが分かります。
この玉積社は、なぜ丸亀港の直ぐ近くに鎮座するのでしょうか?
それは、金毘羅詣での参詣者が無事丸亀に上陸できたことを感謝し、そして金毘羅参詣を終えた人々が再び乗船するに際して舟旅の安全を祈る、そんな役割を担っていたのかもしれません。同じ役割を持った神社が大阪にもあります。
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 今は韓国や中国からやってくる観光客にとって人気NO1の大坂道頓堀の近くには法善寺があります。狭い法善寺横町を抜けていくと現れるこのお寺には今でも金毘羅が祀られています。
江戸時代に法善寺の鎮守堂再建の際に「これは金毘羅堂の新規建立ではないのか」と、讃岐の金毘羅本社よりクレームがつけられています。金毘羅大権現の「偽開帳」にあたるのではないかと言うのです。その時の法善寺の返答は
「当寺鎮守ハ愛染明王二而御座候得共、役行者と不動明王を古来より金毘羅と申伝、右三尊ヲ鎮守と勧請いたし来候」
とその由緒を述べ
「金毘羅新キ建立なと申義決而鉦之御事二候」
と申し開きを行なっています。つまり、金毘羅大権現像と姿が似ている役行者像、金毘羅大権現の本地仏とされた不動明王像の二体を法善寺では金毘羅大権現と称していたのです。どちらにしても、法善寺が金毘羅神を祀っていたのは間違いないようです。
  それではなぜ法善寺が金毘羅を祀っていたのでしょうか?
19世紀初頭に人気作家・十返舎一九が文化七年(1810)に出版した道中膝栗毛シリーズが『金毘羅参詣続膝栗毛』です。ここでは主人公の弥次郎兵衛・北八は、伊勢参宮を終えて大坂までやってきて、長町の宿・分銅河内屋に逗留して、そこからほど近い道頓堀で丸亀行の船に乗っています。
 道中膝栗毛シリーズは、旅行案内的な要素もあったので当時の最も一般的な旅行ルートが使われていますから、この時代の金毘羅参詣客の多くは、大坂からの金毘羅舟を利用したようです。十返舎一九は『金毘羅参詣続膝栗毛』の中で、弥次・北を道頓堀から船出させています。
しかし、その冒頭には次のような但書を書き加えています。
「此書には旅宿長町の最寄なるゆへ道頓堀より乗船のことを記すといへども金毘羅船の出所は爰のみに非ず大川筋西横堀長堀両川口等所々に見へたり」
つまり、もともとの船場は大川筋の淀屋橋付近だったのが、弥次・北が利用した時代には、金毘羅舟の乗船場はから道頓堀・長堀の方へ移動していたようです。その後の記録を見ると「讃州金毘羅出船所」や「金ひらふね毎日出し申候」等と書かれた金毘羅舟の出船所をアピールする旅館や船宿は、はるかに道頓堀の方が多くなっています。
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法善寺の金比羅堂の大祭
   つまり法善寺のある道頓堀は金毘羅船の発着所に近かったのです。丸亀港の玉積社と同じように金毘羅船に乗る前や、船から下りた際には「航海無事」の祈願やお礼をするために、法善寺に金比羅堂が建立されたと研究者は考えているようです。いずれにせよ、法善寺の金毘羅が讃岐へ向かう旅人達だけでなく、多くの大坂市民の信仰をうけていたこと間違いありません。

金毘羅船 苫船
金毘羅参詣続膝栗毛に描かれた金比羅船
江戸の大名屋敷に祀られた鎮守が流行神化していきます
高松松平家や丸亀京極家は江戸屋敷に金毘羅を祀っていました。これが江戸における金毘羅信仰の発火点になったというのが現在の定説のようです。高松藩や丸亀藩の屋敷では、毎月十日金毘羅の縁日に裏門を開放して一般庶民の参詣を許し、縁日以外の日には裏門に賽銭箱を置いて、人々はそこから願掛けを行なったようです。このような江戸庶民の金毘羅信仰の高まりが、丸亀の新堀湛甫(新港)を「江戸講」という民間資金の導入手法で成功させることにつながったと云えます。
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 それでは大坂の場合はどうでしょうか?
   江戸時代の大坂の祭礼行事一覧で例えば6月の欄を見てみると次のような祭礼が並びます
「宇和じま御屋しき祭」(六月十一日)
「出雲御屋しき祭」(六月十四日)
「なべしま御屋しき祭」六月十五日)
中国御屋しき祭」(六月十五日)、
「阿波御屋しき祭」(六月十六日)
「筑後御やしき祭」(六月十八日)
「明石御やしきご(六月十八日)、
「米子御やしき祭」(七月十九日)
ここからは江戸と同じように、大坂でも各藩蔵屋敷に祀られていた鎮守神が祭日には、庶民に開放されていたことが分かります。
さて10月の蘭を見てみると「千日ほうぜんじ」をあげたあとには、一つ置いて「丸亀御屋しき」・「高松御屋しき」と見えます。『摂津名所図会大成』には、 
金毘羅祠 同東丸亀御くらやしきにあり 
     毎月九日十日諸人群参してすこぶる賑わし
金毘羅祠 常安裏町高松御くらやしき二あり 
     霊験いちじるしきとて晴雨を論ぜず詣大常に間断なし殊に毎月九口十日ハ群参なすゆへ此辺より常安町どふりに夜店おびたゝしく出て至つてにぎわし又例年十月十日ハ神事相撲あり
とあります。ここからは江戸だけでなく、大坂でも蔵屋敷に祀られた金毘羅を毎月の縁日に庶民に開放することで金毘羅信仰がひろまっていたことがうかがえます。しかし、蔵屋敷に祀られた金毘羅は大名のものであり、縁日以外は庶民に開放されませんでした。
ところが、金毘羅信仰の高まると、庶民達はいつでも参拝できる金毘羅を自分たちの力で勧請します。法善寺の金毘羅もその一つと考えられます。『浪華百事談』には、「持明院金毘羅祠」について、次のように記されています。
「生国魂神社大鳥居の西の筋の角に、持明院といふ真言宗の寺あり、其寺内に金比羅の祠あり。其神体は京都御室仁和寺宮より、当院へ御寄附なりしを、鎮守とせしにて今もあり。昔は詣人多き社にて、上の金比羅と称す。当社をかく云へるは、法善寺の内の金比羅を、下の金比羅といひ、高津社の鳥居前にある寺院に祭るを、中の金比羅といひ、此を上の社といひて、昔は毎年十月十日の会式の時、衆人必らず三所へ参詣せしとぞ。余が若年の時も、三所へ詣る人多く、高津鳥居前より此辺大ひに賑はしき事なり。今は参詣人少き社なり」
この史料は大坂には、
上の金毘羅 生玉持明院
中の金毘羅 高津報恩院
下の金毘羅 法善寺
とそれぞれの寺院の中に勧進された金毘羅が上・中・下とならび称されて大坂市中の三大金毘羅として崇敬されていたことを教えてくれます。このような金毘羅信仰の高まりを背景に、金比羅講が組織され、多くの寄進物や石造物がこんぴらさんにもたらされることになるようです。「信仰心信者集団の中で磨かれ、高められていく」という言葉に納得します。

参考文献 北川央 近世金比羅信仰の展開

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丸亀の宿は船頭の旅籠 
 順風に恵まれて弥次・北を乗せた金毘羅船は、三日目の夕方には東汐入川の旧港に入港します。前回に話したとおり、大坂の船宿に申し込むと、船から讃岐側の宿まで全て手配されるというシステムですので、上陸して宿を探す必要がありません。船頭が丸亀の宿まで案内してくれます。弥次・北の宿は、船頭が経営する旅籠ですからその心配すらありません。安心して船頭に任せっきりです。
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 福島湛甫完成以前の丸亀港の様子が分かる絵図 東汐入川河口が港
旅館までの足取りを見てみましょう
 
 讃岐丸亀の名は諸国に広がりて、ここも買船入津の一都会なれば、繁昌ことに言うべくもあらず。町屋は浜辺に沿いて建て続き、旅籠屋なども多く、いずれも家居きらびやかなり。弥次郎兵衛・北八は、船頭の案内(あない)に連れて大物屋というに入り来るに、女ども出で向かい、
女ども「コレハようお出でなさんした。サアこちお上がりなさんせ。」
弥次郎兵衛「アイ、お世話になりやしょう。」
 と、上へ上がる。このうちは船頭の宅なれば、母親らしきが走り出で、
母親らしき「親方ち殿戻らんたか。アノネヤ昨日ぶりの大あなぜナァ。たまがった(仰天)じゃあろナァ。」
  と讃岐弁で一昨日の大嵐のことを心配し、宿に導き入れます。
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丸亀から金毘羅までの街道が示された案内図

そして風呂に入るところで一騒動です。
弥次郎兵衛「どうだ北八、早くあがらねぇか。」
北八「コレコレ弥次さん、ちょっと見ねぇ。コノ風呂はなんだろうテ。」
 と、言うゆえ弥次風呂場へ入りて見れば、素焼きの瓶を据え風呂にしたるなり。すべてこの辺の習いにて、風呂桶の代わりに素焼きの瓶を用ゆ。そこより少し上のかたに三所四所、焼き付けたる土のあるにもたせて下(げ)す板を置く。京大坂などにいう五右衛門風呂というに等し。詳しくは図に表すがごとし。金毘羅参詣の人は皆よく知るところなりとぞ。
弥次郎兵衛「ハハハハ、なるほどこいつは珍しい。」
 と絵図入りで丸亀の風呂を紹介します。それによると風呂桶の代わりに素焼きの瓶を使った五右衛門風呂風の風呂だったようです。これが当時の丸亀の一般的なお風呂だったのかどうかは、私には分かりません。
  風呂から上がり、夕食も済ませると、一昨日の厄払いに一杯飲もうということになります。
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そこで酒の肴の話になるのですが「讃岐ことば」が分からずに、右往左往します。
弥次郎兵衛「おかげで今夜こそは大船に乗ったような心持さ。ヤ時にこの海上無難に着いた祝いに一杯やろうか。モシ何ぞおめぇの所に肴はありやせんか。」
船頭「エイ茶袋とな、“どうびん”ノウありおったネヤ、どうばりとも煮付けてなどあげましょかいネヤ。」
北八「茶袋と土瓶を煮付ける。こいつはとんだ話だ。そんなものが食われるものか。」
船頭「そしたらナ、とっぱこ(鯵)のお汁はどうじゃいなァ。」
弥次郎兵衛「とっぱこいやろか。三番叟の吸いもので外へはやらじと、俺ばかり呑もうか、ハハハハ。何でもいいから早く酒を出してくんなせぇ。」
北八「モシモシその茶袋や土瓶の後で、鉄瓶を刺身にして薬鑵のころいり、鍋釜の潮(うしお)煮なんぞよかろうぜ。」
船頭「ハハハハハ、えらいひょうまづいて(きょくるということ)じゃ。ドレいんま一気にあげましょいネヤ。」
 と、勝手へ行く。ほどなく女盃を持ち出ると、やがて“うづわ”の煮付けたるを鉢に入れて、船頭持ち出づる。後より女房銚子と蛸のさくら煮を持ち来たり
船頭「“どうびん”の太いのじゃがな。あんじょら(味良く)とようたけ(煮)たわいなァ。サア一つおあがりなさんせ。」
北八「ハハァ、“どうびん”とは蛸のこと、茶袋というはこの“うづわ”のことだな。」
船頭「さよじゃ、サアろくに居ざなりなさんせ。わしさきへじょうらく(胡坐かく)も、お許しなされ。そのだいナアお方が“いんぎん袋”じゃネヤ、ハハハハ」
 “いんぎん袋”とは、袴のことなり。女房が前垂れしているを洒落て、かくは言うとみえたり。
弥次郎兵衛「おとし役においらから始めやしょう。オトトトありますあります」
 と、一杯ぐっと呑みて北八へさす。
北八「おっと、いただきのわたせるはしにか、ありがてぇの」
弥次喜多の旅は、滑稽と駄洒落が軽快に飛び交い、軽く、他愛がないものです。
 土地の言葉が通じないすれ違いのおかしさと珍しさが、この場の狙い目なのでしょう。作者の一九は讃岐の言葉や風呂桶などに解説を加えています。これは江戸の読者の「旅心」をくすぐり、関心を煽るような「ネタ」になっているようです。
その後、寝静まってからの女中衆との艶っぽい話もあるのですが、それは残念ながら省略して・・
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 翌朝、船頭の道案内で金毘羅に向けての街道を歩きます。
金毘羅への道筋が「道中案内記」のように詳しく記されているのかと思いましたが「道案内」はありません。あくまでこの冊子は「滑稽本」なのだということを思い知らされます。
  例えば丸亀から餘木田(与北)までの記述は、以下の通りです。
早くも夜明けて起き出で支度整え、今日はお山に参るべしと、船頭を案内に頼み、この宿を立ち出で行くほどに、餘木田(与北)の郷といえるに至る。(丸亀より一里半)それより松が鼻というには、厄払いなりとて十歳餘りなる子供に獅子頭をかぶせ、太鼓打ち叩き銭を乞うものあり、
厄払い「サアサア旦那様方、お厄ノウ払いましょ。銭下んせネヤ。」
 トンチキ、トンチキ、トトトトトン、トトトトトン。
弥次郎兵衛「ナンダ厄払いだ。晦日に来さっし、払ってやろう。」
     節分の夜にはあらねど厄払い おもてに立る松が鼻かな
   以上です。与北の茶堂や灯籠などは一切出てきません。

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そして、次は榎井まで場面は一気に飛びます
 余木田の郷、松が鼻を過ぎ、さらに行くと旅寵屋・茶屋などの多い榎井村に入ります。ここには江戸の人の建てたという唐銅の鳥居があり、そのたもとの茶屋で一休みということになります。酒を断っている弥次郎兵衛が、餅を十個注文して、酒好きの北八が腐っている所へ、「大坂講中月参」と染め抜いた羽織を着た男が入ってきて酒五合を注文、グィと呷って二人にも振る舞おうとするのです。この場面も江戸者と大坂者、それに地元讃岐の茶屋女の間で交わされる方言の応酬が面白くテンポよく続きます。
 「讃岐 + 大坂 + 江戸」 それぞれのお国言葉の面白さ
 『東海道中膝栗毛』『金毘羅参詣続膝栗毛』も、十返舎一九の狙いのひとつは色々な土地の者がしゃべる方言の面白さにあると言われます。彼の方言への注目のきっかけは『膝栗毛』が出版される数年前に、江戸の俳諧師越谷吾山によって刊行された「本邦初の本格的方言辞典」と言われる『物類称呼』です。これを「教科書」にして、この物語の讃岐人のセリフは書かれたのでしょうか。しかし、ほとんど知らない讃岐の言葉を『物類称呼』だけでここまで書き込むことは無理です。一九は若いころに八年間、大坂で浄瑠璃作者として修行した経験を持っていますので、関西の地理・人の言葉には慣れていたはずです。とすれば、『続膝栗毛』に見られる讃岐者の言葉は、まず大坂の言葉で文の骨格を作り、そこに『物類称呼』などの書物から得た知識を加えて肉付けし、それらしく仕立て上げたと研究者は考えているようです。
222金毘羅山大権現 浮世絵 木版画

そして、いよいよ金毘羅参詣です。
 此所をたちいで五六丁ゆけば、こんぴらの町にいたる。丸亀より是まで三里なり。まちのなかほどにさやばしといふはしあり。上にやかたありて、いとめずらしきはしなり。上を覆ふ屋形のさやにおさまれる御代の刀のやうな反橋是より権現の宮山に登る。
麓より二三町ばかりのほどは、商家たちつづきて、地黄煎薬飴売る家多し。
弥次郎その商人の白髪なるを見て、
  うる人の頭の白髪大根はちとさし合ふか地黄煎見世 
頓て仁王門に入り、十五六町の坂をのぼりて御本社にいたる。
その荘厳いと尊く、拝殿は桧皮葺きにしていかめしく、華麗殊にいわんかたなし。先づ広前に額突き奉りて、
 露盤に達せし人も神徳のおもさはしれぬ象頭山かな
此の御山より海上の島々浦々里々、一望の中に見わたされて、風景いふも更なり。
さすが宝前は大真面目で、その点で前後とは色合いを異にしています。
しかし、金毘羅
参拝で触れられているのはこれだけです。鞘橋と地黄煎薬飴(こんぴら飴)と本社からの絶景など、気抜けするくらい簡単です。私は、もう少し分量を割いて筆を走らせるのかと思っていましたので、期待外れでした。しかも、金毘羅に一泊して精進落に金山寺の歓楽街に繰り出していくのかと思っていると、金毘羅には泊まらないのです。
 それは御参りが終わり石段を降りて行く大坂の女と父親に、よからぬ魂胆を抱いて近付き、道連になったからです。そして、女と父親が善通寺から弥谷寺に詣でると聞いて、下心からこの二人に同行することになるのです。こうして、参拝が終わると精進落としもせずに、多度津街道を善通寺方面に向かうのです。
DSC01390善通寺
善通寺 後の五岳山
  さて善通寺参りの場面をのぞいて見ましょう
このうちはや善通寺に至る。本堂は薬師如来四国遍路の札所なり。ここに参詣して門前の茶屋に休まんと入る。
亭主「ようお出でなさんした。」
弥次郎兵衛「何ぞうめえものがあるかね。」
女「わしゃナいこひもじゅうてならんわいな。」
弥次郎兵衛「おめぇ飯にしなせぇ。コレコレ御亭主さん、何ぞうめえ肴でこの子に飯を出してくんなせぇ。」
北八「おいらは酒にしよう。」
弥次郎兵衛「酒はならねぇ。断ちものだ。」
  多度津街道の様子は何も触れられません。そして、善通寺への御参り場面はこれだけです。本堂の薬師如来には御参りしたようですが、誕生院まで行って朱印をもらったかどうかは分かりません。「花より団子」で、すぐ4人での昼飯場面に転換します。
女の大飯喰らいに驚いた弥次さんが
「イヤおめぇ顔に似合わぬ大食いだな、コリャおそれるおそれる。」
と、二人は肝ばかりつぶして見ているうち、女は委細かまわず、さっさと食いしまうと、かの親父もたらふく呑んでしまい、
親父「サア、えいぞ、えいぞ。もうお出でんかいな。」
弥次郎兵衛「いかさま出かけやしょう。ご亭主さん勘定はいくらだの。」
茶屋「エイエイ六百五十文おくれなさんせ。」
弥次郎兵衛「コリャえらいわ。北八半分出さっせぇ。」
北八「エエしかたがねえ。」
 と、不承不承に、このところの払いをなして立ち出で、曼陀羅寺へ参り、やがて弥谷寺の麓に至る。金毘羅よりこのところまで三里あり。
  と昼食後は曼荼羅寺まで飛びます。そして、夕刻前には弥谷寺の麓の旅籠に4人で泊まります。
230七箇所参り
絵図では丸亀の奥に、多度津、その奥に天霧山と弥谷寺が描かれる
  そして、事件発生です。夜になって同道した女の閨に忍び込んでいくと・
弥次郎時分はよしと。北八が寝息を考え、そっと起き出で、次の間の唐紙をそろそろと開きたるに、有明の灯火なければ、探り回りて女の頭に手がさわり、これこそとて布団を引きまくり入らんとするところ、女しきりに呻く様子に、弥次郎声を潜めて、
弥次郎「コウコウおめえどうぞしたか。」
女「誰じゃいな、オオ好かん何しいじゃぞいな。」
弥次郎「何をするものか。内々の咄があって来たものを、おめぇも承知であろうじゃァねえか。」
女「わしゃナ、先にから按配が悪いわいな。」
弥次郎「何としたのだ。」
女「アノナ持病の疝気がおこったわいな。」
弥次郎「イヤ悪じゃればかり言う。女に疝気があってつまるものか。」
女「ナンノイナ、わしゃ女じゃないわいな。」
弥次郎「女でなくてこんな美しい男が、どこにあるものだ。但し女か男かドレドレ見届けてやろう。」
 と、無理にこすりつきて、そこら探り回わせば、手足は毛だらけ、弥次郎とは相婿どし、角突き合いでもしようという様子に、弥次郎びっくりして、
弥次郎「ヤァヤァヤァヤァ、コリャ男だ、男だ。どうしておめぇが男だか俺にはさっぱりわからねぇ。但しはかど違えではねぇか。合点がいかねぇ。」
女「そじゃあろぞいな。わしゃ赤村鼻之助というてナ、道頓堀の舞台子じゃわいな。去年えろう痔を煩ろうてナ、もう死ぬかと思うた程のこっちゃあったがナ、このととさんは、わし一人頼りにしてじゃさかい、金毘羅様へ願かけしてじゃあったが、そのお影やらしてとんとようなったさかい、それでお礼参りに参じたのじゃわいな。したが船でえろう冷えたせいかして、また先にから痔が痛うて、それに持病の疝気があるさかい、一時に起こって、おお痛おお痛、どうぞ腰さすっておくれいな。オオ痛やの痛やの。」
弥次郎「ハァそれでさっぱり分かったが、おいらぁとんだつまらなくなった。」
鼻之助「そないなこと言わんせずと、ちとの間じゃ、ここさすっておくれんかいな。」
弥次郎「おいらぁもうおめぇを女だと思いつめて、とんだ余計なことをした。ホンニこの疝気の看病をしようとは夢にも知らなんだ。ソレここかここか。」
鼻之助「アイお嬉しいこっちゃ。どうやらちとようなった。もう行てお休みなされ。」
弥次郎「アイ大きにお世話、休もうと休めぇと、コリャァねっからうまらねぇこった。」
 と、ぶつぶつ、小言言いながらわが寝所へ帰り、思えば思えば馬鹿馬鹿しい目に遭った。こいつ俺ばかり恥をかくこともねえ、北八をも勧めてやらんと心に頷(うなず)き、よく寝入りいるをゆすり起こして、     
弥次郎「コリャ北八、北八、ちと起きさっせえ。」
女は道頓堀の役者男(オカマ)だったのです。そしてまたドタバタ劇が始まります。
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弥谷寺 空海の学問所とされていた
さて、一夜明けて翌日の弥次・北の道のりを見てみましょう
 弥次郎・北八二人のみ先へ出掛けて、かの男を女と思い違いせし話など、語り興じて弥谷寺の仁王門より石段を登り、本堂に参り、奥の院求聞持の岩屋というに、一人前十二文づつ出して、開帳を拝み、この峠を打ち越えて、屏風ヶ浦というに下り立つ。
    薄墨に隈どる霞ひきわたす 屏風ヶ浦の春の景色
 それより弘法大師の誕生し給うという垂迹の御堂を過ぎて十四津橋を渡り、行き行きて多度津の御城下に至る。
弥谷寺 → 海岸寺 → 多度津 という行程を歩いています。
地元讃岐では、戦前では「七ケ所参り」という御札巡りが地元の人たちに、よく歩かれていました。それは
「善通寺 → 曼荼羅寺 → 出釈迦寺 → 弥谷寺 → 海岸寺 → 道隆寺 → 金蔵寺」という6つの四国霊場札所と海岸寺を加えたものです。神仏分離以前の江戸時代には、これに金毘羅大権現も加えられて「一日巡礼」で、多くの人がこの道を歩いて御参りしていたようです。

DSC01386多度津街道1
多度津より金毘羅への道 多度津街道の案内図
 そして、各地からやってきた参拝客も金毘羅山だけを御参りしたのではないようです。
例えば、大坂の船宿が利用者に無料で配った参拝案内図の表題は「金毘羅案内図」ではありません。「金毘羅・善通寺・弥谷寺道案内図」なのです。そこには、丸亀から金毘羅への丸亀街道と、金毘羅から多度津への多度津街道の二本の街道を中心に参拝地として金毘羅・善通寺・弥谷寺が描かれています。当時の旅行記を見ても、善通寺から弥谷寺に足を伸ばしているのが分かります。金毘羅山に御参りして、丸亀街道を往復というパターンは少なかったようです。

IMG_8067善通寺
善通寺
なぜ、善通寺や弥谷寺までに足を伸ばしたのでしょうか?
善通寺は空海=お大師(おだいし)さんの誕生地です。
弥谷寺は、お大師さんの「学問所」です。
つまり、善通寺周辺は弘法大師伝説=太子伝説の聖地でもあるのです。
それを、江戸時代の人々は金毘羅大権現とともに御参りしていたようです。
今からの視点からすると「弥谷寺」の健闘が光ります。弥谷寺は金比羅詣でにやって来た参拝客の多くを惹きつけていたのです。そして、天霧山を越えた海岸寺も「空海生誕地伝説」が流布された時期があります。
こうして「金毘羅大権現 + 太子伝説の聖地」を巡礼して、多度津から丸亀に戻っていきます。
どうして多度津港から大坂行きの金比羅舟に乗らないのでしょうか?
  丸亀の宿に、荷物を預けていたようです。江戸からの参拝客は、荷物を丸亀の宿に預けて身軽になって金毘羅さんや善通寺・弥谷寺に御参りして、出発点の丸亀に帰って行く人が多かったようです。そして、馴染みとなった船宿の船に乗って大坂への帰路に着いたのです。
 また、多度津に新港が開かれ参拝客が急増するのは、これから後のことになります。
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新港完成前の多度津港
さて、北さんが多度津で歯が痛くなったようです。
弥次郎兵衛「チトそこらで休もうか北八手めぇどうぞしたか。とんだ顔つきがなまけてきた。」
北八「イヤ今朝からどうしてか、虫歯が痛くてならねぇ。久しくこんなことはなかったが、アアこたえられなく痛んできた。」
弥次郎兵衛「ソリャわりいの。金毘羅様へ願をかけるがいい。
北八「酒を断ってか。そうはいかねぇ。」
弥次郎兵衛「イヤ幸い向こうに、アレ金毘羅御夢想虫歯の薬という看板がある。買ってつけて見さっせえ。」
北八「ドレドレあんまり痛い。買ってみようか。」

 北八が虫歯の歯痛をこらえかねて立ち寄った歯医者が、実は下駄の歯入れ屋でした。虫歯の隣の歯を抜かれて散々の挙げ句、頬を抱えながら、未の刻(午後三時)過ぎに、丸亀の宿大物屋にたどり着くところで、この話は終わります。
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 讃岐の中には四国八十ハケ所の霊場あり、弘法大師=太子伝説あり、金毘羅あり、の「聖地巡礼」のポイントが豊富な上に変化に富んで存在しています。旅人たちは、手にした案内絵図を見ながら金毘羅へ、善通寺へ、また法然寺へと参拝を繰り返しつつ旅を続けたのかもしれません。江戸時代の「金毘羅詣」とは、このような聖地巡礼中の大きな「通過点」であったのかもしれません。それを支える航路や街道、旅籠なども整備され、旅行案内本や地図も用意されていたようです。
 これは現在の印綬を集めての神社めぐりや、映画のロケ地を訪ね旅する「聖地ロケ地」巡りへと姿を変えているのかも知れません。日本人は、この時代から旅をするのが好きな民族だったようです。

  金比羅舟々は、いつ頃、どこで歌われ始めたのでしょうか?


金毘羅船々(こんぴらふねふね)
 追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ♪ 
まわれば 四国は讃州(さんしゅう)
那珂の郡(なかのごおり) 
象頭山(ぞうずさん)
金毘羅大権現(こんぴら だいごんげん) 
一度まわれば♫ 
小さい頃は「お池に帆掛けて」と信じて唄っていました。
追い風に帆を上げてと言う意味だと知ったのは、ずーっと後のことです。そう言えば「赤とんぼ」も「負われて見たのはいつの日か・・」を「追われて・・」と、故郷を追われる唄と思っていた私です。
 金毘羅船で賑わう多度æ´\湊 
幕末に金比羅船で賑わった多度津港

歌詞を確認しておきましょう。

金毘羅船々
金毘羅(こんぴら)とは四国讃岐(香川県)にある金毘羅大権現のことです。明治以前の神仏混淆時代には金毘羅大権現と称していました。
追風に帆かけて
進む方向に吹く追い風のこと。風を帆に受けて順風満帆のこと。
金比羅船が帆を上げて、大阪湾を出航して、四国讃岐へ向かう様です。
シュラシュシュシュ
船が速く進む様子です。シュラは修羅で、巨石など重い物を載せて引く、そりの形の運搬具かけたという人もいます。
四国は讃州那珂の郡
那珂郡(なかのごおり=なかぐん)は、讃岐の古代郡名で、現在の丸亀市、琴平町一帯です。
象頭山
象頭山(ぞうずさん)は、金比羅神(クンピーラ)を祀る山です。山容が象の頭を思わせることからついたというのは俗説です。どう眺めても像には見えてきません。信仰上の命名なのです。古くは大麻神社の鎮座する大麻山と呼ばれていました。象頭山は、金比羅神が近世に流行神と登場してからの呼び名です。
大坂からの玄関口となっていた丸亀の湊
大坂からの玄関口 丸亀港

さて、この歌はいつ頃、どこで歌われ始めたのでしょうか?

この歌の成立年代については、元禄説と幕末説の二説があります。
①元禄説は金毘羅船の起点となった大坂港で歌い出された
②幕末説は、金毘羅信仰の庶民化が進んだ頃に金毘羅参詣客を相手に歌われた宣伝唄や座敷唄から起こった
それでは、この歌の発生地はどこでしょう?
これについても大坂説と金毘羅説の二説があります。
大坂説は、金毘羅船の出発地であること、
金比羅説の論拠としては、金毘羅信仰の大衆化と参詣客増加の時期、金毘羅の町における宿屋や茶屋の発達時期などがあげられます。

2.この唄の性格は?

「金比羅船」の画像検索結果
これも、
①金毘羅船の船中で参詣客相手に歌われた宣伝唄説
②金毘羅の酒席で参詣客相手に歌われた座敷唄説
の二説があります。
宣伝唄説は、夜間航行が多かった当時の金比羅船で舵取は、常に眠気ざましと他の乗組員に絶えず自分の存在を知らせて安心感を与えるために歌を歌い続けることが義務づけられていました。そのため、舵取りは港々の流行唄をできるだけ多く仕入れて櫓漕ぎ唄にしていったと言われます。つまり、瀬戸内海を行く金比羅船の中で唄われたものというのですが・・・。
 
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しかし、文化七年(1710)刊の十返舎一九の『金毘羅参詣続膝栗毛』にも
「ゆたゆたと船はさはかぬ象頭山云々」

と書かれ、シュラシュシュとは形容されていません。元禄前後から文化・文政期までの流行唄を集めた歌謡集にも、この唄は登場しません。大坂や金毘羅船の寄港地でも、この唄が伝承されていないのです。そして、大阪=宣伝唄説は、史料に乏しいのです。
 ここから、この歌は地元金毘羅を中心とした限られた地域において、最初は歌われたものと考えられます。

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金毘羅門前町に賑わいぶりと遊芸のようすをのぞいてみましょう。
元禄期の「金毘羅祭礼図屏風」には、門前町の賑わいぶりとともに、参詣客相手の諸芸能の催しや店で三味線を弾く女性も描かれています。文政七年(一八二四)の記録には「茶屋酌取日雇宿、九十六軒」と記され、金毘羅門前町における遊芸と茶屋の発達ぶりがを窺い知れます。
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文化三年(1806)刊の菱屋平七の『筑紫紀行』には
「此所には遊女、芸子なお大坂より来りぬるを、宿屋、茶屋によびよせて、旅人も所のものも遊ぶなり」
とあります。弘化二年(1845)の二宮如水の金毘羅参詣記録にも
「近き日と間に旅ゐせる人々、浮かれて御阿をよびて三味線の琴ひかせ、歌はせなど、夜もすがらゑらき遊べるは、耳姦しきまでになん」
と書き留められています。
金毘羅芝居定小屋が完成するのもこの時期です。
 金毘羅大権現という信仰上の聖地と門前町という歓楽街とがワンセットの形で発展し、金毘羅という門前町が繁栄していたのです。参拝が終わった後、人々は精進落としに茶屋に上がり、この唄を唄い遊び日々の浮き世の憂さを落としたのかもしれません。
「金比羅船」の画像検索結果

4.「金毘羅船々」の発生

 明治元年(1868)6月太政官達によって金毘羅大権現は琴平神社、そして金刀比羅宮に改称されますから歌詞の中に「金毘羅大権現」が出てくるこの唄は、それ以前に出来上がっていたことになります。
 この唄は明治元年までの間に、金毘羅の茶屋などで芸妓たちが参詣客を相手に歌った座敷の騒ぎ唄として生まれたのでしょう。
 歌詞の中の「廻れば四国は」と「一度廻れば」の部分も、芸者や参詣客が、座敷遊びで畳の上を回りながら、この唄を歌っていたことが記録には見えます。

「金比羅船」の画像検索結果

「金毘羅船々」の普及

 明治2年から琴平で四国十三藩による四国会議が開催され、各藩の公議人らか親睦を図るために宴会が盛んに開かれます。また、明治12年3月から6月にかけては琴平山大博覧会が開催されます。このようなイベントを通じて琴平や丸亀・多度津などでは盛んに歌われたと思われます。これが全国に広がるきっかけとなったようです。
 明治25年刊の『西洋楽譜日本俗曲集』には「金毘羅船」が紹介されます。明治27年頃の地方民謡流行期には、香川県の代表的民謡として全国的に紹介されています。これも「金毘羅船々」が全国で唄われるきっかけとなりました。
る。
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 しかし、もともと参詣客相手の御座敷の騒ぎ唄から自然発生的に起こったものです。歌詞もシンプルで、歌謡としては今一つでした。そこで昭和3年頃に新民謡運動が盛んになると、地元の俳人大西一外氏が二番以下の歌詞を追補して新民謡「金毘羅船々」が誕生します。この新民謡「金毘羅船々」は、昭和十年代の広沢虎造の浪曲「森の石松、次郎長代参」の大流行によって、さらに多くの人に唄われるようになります。こうして、この唄は全国区の民謡へと成長していったのです。
 以上のようにこの唄の歴史は、幕末から明治にかけて生まれたもので、案外新しいものなのです。
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参考文献 溝渕 利博 金毘羅庶民歌謡の研究

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