瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金毘羅大権現

丸亀の院主さんたちに「金毘羅神の誕生とその後」と題して、お話しをする機会がありました。その時のことを資料も含めてアップしておきます。
 今回は戦国時代末期の1570年ころから、元禄時代末までの約百年間の金毘羅さんのことをお話しさせていただきます。この時期は、金毘羅神が産み出され、成長して行く時期になります。金毘羅さんにかかわったその時々の人々を取り上げて、彼らの直面した課題と、残した業績をみていきたいとおもっています。


松尾寺 観音堂と金剛坊
金毘羅松尾寺の観音堂(讃岐国名勝図会)と、本尊の十一面観音


 その前に舞台となる金毘羅山上の様子を絵図で見ておきます。
①神仏分離前の幕末の金毘羅大権現の観音堂です。現在は、この地には大国主の姫神
三穂津姫を祀る建物があります。神仏分離後に神社風に改められて最近、重文指定を受けました。②その背後に金剛坊とあります。金剛坊は「死しては、天狗になって金毘羅を護らん」と云った宥盛という修験者です。宥盛を金光院では実質的な始祖としてきました。宥盛は神仏分離後は、奥社に奉られています。左の方には大きな絵馬堂 そして籠堂もあります。参拝者達がここで夜を明かしていたことがうかがえます。さて、このお寺は創建時は松尾寺と呼ばれました。観音堂が本堂なので観音信仰のお寺だったようです。観音堂の本尊を見ておきます。平安期の観音像です。頭の 十の観音が抜き取られて、かつては正観音とされていたようです。今は宝物館にいらっしゃいます。明治の神仏分離後も、この本尊を廃仏することはできなかったようです。観音堂の右側は、どうなっているのでしょうか?

松尾寺 金毘羅大権現と三十番社
金毘羅大権現の拝殿・本社と三十番社(讃岐国名勝図会)
右側の拝殿と本社は、現在とあまり変化がないようです。しかし、もともとはここに先ほどの観音堂があったようです。それがどうして、金比羅神にその座をゆずったかについては、おいおい見ていくことにします。ここでは三十番社を見ておきましょう。経蔵には、多くの経典が納められていました。その中で法華経は、中世には宗派を超えて大切にされたお経で、その守護神たちが三十番神でした。三十の神々が日替わりで順番に経典を護るのです。その建物を三十番社と呼び、三十の神々が安置されていました。神仏混淆信仰のもとでは「神が仏を守る」のが当たり前とされていました。幕末の伽藍配置の全体を押さえておきます。


金毘羅大権現伽藍 金毘羅参詣名所図会
金毘羅大権現の山上伽藍(金毘羅参詣名所図会)

金毘羅参詣名所図会に描かれた金毘羅大権現です。
ここでは、本社下の四段坂の一番下の本地堂を押さえておきます。ここが金毘羅神が最初に祀られた所になります。それが、本社の位置に格上げされて、観音堂を押しのけたかっこうになります。また金毘羅神の本地仏は、薬師堂とされました。そのため金堂の位置には薬師堂が建てられます。そして、幕末には大きな金堂として新築され、中には善通寺金堂の薬師さまと変わらない大きさの薬師さまが安置されていました。それは神仏分離後に売却され、金堂はもぬけの空となって旭社と呼ばれるようになります。
 もうひとつ押さえておきたいの、二天門です。これは土佐の長宗我部元親が寄進したものです。俗説では、逆(賢)木(さかき)門ともいわれ、一日で大急ぎで立てたので、柱の上下が逆になっているといわれる門です。

金光院 讃岐国名勝図会2
金光院(讃岐国名勝図会)
 松尾寺の伽藍の管理権を握るのが金光院院主です。
金毘羅さんの歴史を権力闘争という視点で見れば、金光院の支配権確立の歩みという見方も出来ます。表書院には円山応挙の鶴や虎の絵が描かれていることで有名ですが、ここで注目しておきたいのは護摩堂です。

金光院の護摩堂と阿弥陀堂
金毘羅の護摩堂と阿弥陀堂 右が護摩堂の本尊不動明王
この護摩堂に安置されていたのが、この不動明王になります。この不動さまの前で、社僧によって護摩が焚かれお札が渡されていました。お札は本社で発行されていたのではなく金光院に権利がありました。ちなみに、この不動さまは、今も宝物館の中にいらっしゃいます。神仏分離の際にも、当事の僧侶達はこの像だけは手放せなかったようです。金比羅宮はもうひとつ気になるのが阿弥陀堂です。真言の寺と阿弥陀堂はミスマッチのような気が、これにも時間があれば後に触れたいと思います。
大祭行列図屏風 山上拡大図 本殿 金剛院
金毘羅大祭図屏風(17世紀初頭)
神仏分離以前の金毘羅大権現の伽藍を見てきました。ここでは松尾寺の守護神である金毘羅神を祀る本社、三十番社、観音信仰の観音堂が山上に並び、その下に管理運営を握る金光院やそのたの子院があったことを押さえておきます。
これで、今回お話しの中に出てくる建物の紹介を終わります。さてこれから本番です。


金毘羅信仰についての今までの常識

金比羅さんについては、かつては上のように説明されてきました。

しかし、香川県史や町史ことひらなどは、このような立場をとりません。それでは現在の研究者は、金毘羅信仰についてどのように考えているのでしょうか? まず、「古い歴史をもつ金毘羅さん」について、見ておきましょう。

金毘羅中世文書は偽書

かつては上の5つの寄進状が、金毘羅大権現が古代末に遡ることを示すものとされてきました。しかし、現在では、これらは後世の偽書であると香川県史や町史ことひらは判断しています。
 「海の神様=金毘羅大権現」説については、奉納物の史料整理などから次のような事が分かってきました。
「金毘羅神=海の神様」説は、史料からは裏付けられない
こうして見ると、塩飽の人名や船頭達の奉納が始まるのは18世紀になってからです。しかも塩飽の船乗りや船主達の寄進した燈籠は、全体でも20基足らずです。彼らが大坂の住吉神社に寄進している数から比べると比較にならないほど少ないのです。塩飽の船乗り達は、もともとは金毘羅信者ではなかったようです。また芸予諸島でも、厳島神社・石鎚・大三島神社への奉納が中心で、金比羅には19世紀になるまではあまり見られません。また金毘羅側の史料からも、19世紀になるまでは海難防止祈祷などはあまりやっていないことが分かります。流し樽の風趣なども、これが一般化するのは明治になって呉の海軍がやるようになって以後であることを民俗学者が明らかにしています。ここでは金毘羅神はもともとは海とは関係なく、海の神様ではなかったことを押さえておきます。
金毘羅についての研究史のターニングポイントとなったのが「金毘羅庶民信仰資料集」です。
1988年に金比羅の鳥居・燈籠・玉垣・奉納物などが国指定を受けたのを期に作成された資料集です。この刊行の中心となったのが金刀比羅宮の学芸員の松原秀明さんで、長年にわたって金刀比羅宮の史料を収集整理してきた人物です。その松原さんが、第4巻の年表編の序文に次のような文章を書いています。

「金毘羅神


 流行(はやり)神というのは、それまでになかった神が突然現れて、爆発的に信者をあつめる現象です。この見解を、後に続く香川県史や「町史こんぴら」も、この立場を継承します。金比羅神が何者であるかは後回しにして、まずこの神がだれによって全国に拡げられたかを見ていくことにします。
当時の松尾山(象頭山)は、どうみられていたのでしょうか。

天狗経の金毘羅
天狗経(全国の天狗信仰の拠点が挙げられている)

これは天狗経という経典です。今では偽書とされていますが、当事はよく出回っていました。ここには、各地の有力天狗が列挙されています。そこは天狗信仰の拠点だったということです。先頭に来るのは京都の愛宕天狗です。鞍馬天狗もいます。高野山も天狗の拠点地です。そして、(赤丸)「黒眷属金比羅坊」が出てきます。「白峯相模坊」もでてきます。崇徳上皇が死して天狗になり怨念をはらんとしたのが、白峯です。その崇徳上皇の一番の子分が相模坊です。この下には多くの子天狗たちがいました。ひとつ置いて、象頭山金剛坊とあります。これが後の金光院です。こうして見ると象頭山は、天狗信仰の拠点だったことが見えてきます。
本当に金比羅・象頭山に天狗はいたのでしょうか? 

金刀比羅宮奥社の天狗信仰痕跡

その痕跡を残すのが奥社(厳魂神社(いづたまじんじゃ)です。ここには金剛坊とよばれた宥盛が神となって奉られています。奥社の横は断崖で天狗岩と呼ばれています。そこには、大天狗と烏天狗の面が架けられています。そして高瀬の昔話には上のように記されています。ここからはこの断崖や奥の葵滝などは、天狗信者の行場で各地から多くの人が修行に訪れていたことが分かります。 

金刀比羅宮奥社の天狗岩の天狗面

金刀比羅宮奥の院の天狗岩の天狗面(右が大天狗・左が小天狗)と奥社のお守り
右が団扇を持つ大天狗で、左が羽根がある烏天狗です。大天狗の方が格上になるようです。奥社のお守り袋は、天狗が書かれていて「御本宮守護神」と記されます。これは、ここに神となって奉られているのが天狗の親玉とされる金剛院宥盛なのです。彼は「死しては天となり、金比羅を護らん」といって亡くなったことは先にもお話しした通りです。どこか白峰寺の崇徳上皇の言葉とよく似ています。ここでは宥盛は天狗として、金毘羅宮を護っているということを押さえておきます。それでは、天狗になるためにここに修行しに来た修験者たちは、どんな布教活動を行っていたのでしょうか?

安藤広重の天狗面を背負った金毘羅行者
安藤広重の「沼津宿」に描かれた金毘羅行者

安藤広重の「沼津宿」には、天狗面を背負った行者が描かれています。
左は、金毘羅資料館の、金比羅行者です。箱に天狗面を固定し、注連縄(しめなわ)が張られています。天狗面自体が信仰対象であったことが分かります。天狗面を背負って布教活動を行う修験者を金比羅行者と呼んだようです。

金刀比羅宮に奉納された天狗面

金刀比羅宮には、金比羅行者が亡くなった後に、弟子たちが金毘羅に奉納した天狗面があります。ここからは金比羅行者が天狗面を背負って、全国に布教活動を行っていたが分かります。それでは、どんな布教活動だったのでしょうか?


金毘羅大権現と天狗への願掛け文

具体的な布教方法は分かりませんが、布教活動の成果が分かる史料があります。信州の芝生田村の庄屋・政賢の願文です。願文を意訳変換しておくと

金毘羅大権現の御利益で天狗早業の明験を得ることを願う。そのために月々十日に「火断」を一生行い大願成就を祈願する。


願掛け対象は、金毘羅大権現と大天狗・子天狗です。大願の内容は記されていませんが、「毎月十・二十・三十日に火を断つ」という断ち物祈願です。ここで押さえておきたいことは、海とは関係のない長野の山の中の庄屋が金毘羅大権現の信者となっていることです。それは金比羅行者の布教活動の成果であることがうかがえます。このように金毘羅大権現の初期の広がりは海よりも山に多いことが民俗研修者によって明らかにされています。

それでは、金毘羅大権現と、大天狗と子天狗は、どんな関係にあったのでしょうか。


Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗達(金光院)
そのヒントになるのが上の掛軸です。一番下に「別当金光院」とあります。金光院が発行したもののようです。正面が金比羅大権現です。その両脇が羽団扇を持った大天狗です。その他大勢が小天狗達です。金比羅の天狗集団は、こんなイメージで捉えられていたようです。この仲間入りをするためにプロの修験者たちは金比羅にやってきて、奥社や葵の滝などで修行を重ねます。そして多くの験を積めば、各地に金毘羅行者として天狗面を背負って布教活動を行いました。天狗信仰をもつ修験者たちによって、初期の金比羅信仰は拡がったと研究者は考えています。
それでは、金毘羅大権現はどんな姿をしていたのでしょうか?

金毘羅大権現は2つの姿で説明されていた
金比羅神は公式バージョンはクンピーラ、実際には天狗

 江戸時代中期に金比羅を訪れ、金剛坊に安置されていた金毘羅大権現を拝んだ天野信景は次のように記しています。

讃岐象頭山は金毘羅神の山である。金毘羅神の像は三尺ばかりの坐像で、僧侶姿である。すざましい面貌で、修験者のような頭巾を被っている。手には羽団扇をもつ。その姿は、十二神将の宮毘羅神将とは似ても似つかない。 


金光院の公式見解は次のようなものでした。

「金毘羅神は、インドのワニの神格化されたクンピーラである。それが権現したのが宮毘羅神将である」

しかし、これは金光院の公式文書の中に書かれたものです。この説明と実態は違っていたようです。つまり金光院は2つの説明バージョンを持っていて、使い分けていたようです。大名達の保護を受けるようになると、天狗の親玉が金比羅神では都合が悪くなります。そのために金比羅神の由来を聞かれたときに公式版回答マニュアルを作成しています。そこには、インドのガンジス側のワニが神霊化し守護神となったのがクンピーラで、その本地仏は宮毘羅神将だと書かれています。これが公式版です。が、実際の布教用には金比羅神は天狗の親玉と修験者たちは言い伝えていたようです。ダブルスタンダードで対応していたのです。
それが分かるのが、「塩尻」です。
そこで観音堂裏の金剛院にある金毘羅像を拝観したときのことを次のように記します。
僧のような姿で、修験者のような服装をして、手に羽根団扇を持つ。これは宮毘羅神将の姿ではない。死して天狗にならんとした宥盛が自らの姿を刻んだという自造木像を社僧たちは金毘羅神として崇めていたのではないかと私は想像しています。そこでは、「金毘羅大権現=天狗=宥盛」といった「混淆」が進みます。
 

天狗信仰から生まれた「崇徳上皇=金毘羅大権現」説

 ちなみに江戸時代後半になると京都の崇徳神社では、崇徳上皇と金毘羅神は同じ天狗だとされ、さらに崇徳上皇=金毘羅大権現という説が広まります。それが、明治になって金毘羅大権現を追放した後に、その身代わりとして崇徳上皇を祭神として金刀比羅宮が迎え入れる導線になるようです。ここまでで、一部終了です。

ここまでは以下のことを押さえておきます。

新しい「金毘羅信仰」観

①金比羅には、中世に遡る史料はないこと
②金毘羅は近世になって登場した流行神であること
③金毘羅神は、宮毘羅神将とはにても似つかない修験者姿であったこと

④金毘羅信仰をひろげたのは、天狗信仰をもつ修験者の「金毘羅行者」たちだったこと

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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地元で超少人数の「学習会」を開いています。今回は白川琢磨氏のお話が聞けることになりました。私たちだけで聞くにはもったいない機会なので、みなさまにもお誘いします。
 最近の金毘羅神研究者達は、この神様が近世に現れた流行神だと考えているようです。そして金毘羅神を象頭山に根付かせた宗教勢力は、修験者たちだったとします。こんぴら町誌もこの立場です。そのあたりのところを、宗教民俗学の立場からお話ししていただけるようです。私も白川先生の書いたものから、いろいろなことを学ばせていただいています。興味関心のある方は、是非おいでください。歓迎いたします。
 会場は満濃中学・図書館に併設されているスポーツセンターまんのうの会議室です。会費は資料・会場代200円。

白川先生の金毘羅大権現成立過程を紹介したもの。

金毘羅神 箸蔵寺
金毘羅大権現(箸蔵寺)
                               
 現在の金刀比羅宮は、祭神を大物主、崇徳帝としていますが、これは明治の神仏分離以後のことです。それ以前は、金毘羅大権現の祭神は金毘羅神でした。金毘羅神は近世始めに、修験者たちがあらたに作り出した流行神です。それは初代金光院宥盛を神格化したもので、それを弟子たちたちは金毘羅大権現として+崇拝するようになります。そういう意味では、彼らは天狗信者でした。しかし、これでは幕府や髙松藩に説明できないので、公的には次のような公式見解を用意します。
 金毘羅は仏神でインド渡来の鰐魚。蛇形で尾に宝玉を蔵する。薬師十二神将では、宮毘羅大将とも金毘羅童子とも云う。

 こうして天狗の集う象頭山は、金毘羅信仰の霊山として、世間に知られるようになります。これを全国に広げたのは修験者(金比羅行者=子天狗)だったようです。

天狗面を背負う行者
金毘羅行者

 「町誌ことひら」も、基本的にはこの説を採っています。これを裏付けるような調査結果が近年全国から報告されるようになりました。今回は広島県からの報告を見ていきたいと思います。テキストは、 「印南敏秀  広島県の金毘羅信仰  ことひら40 1985年」です。

広島県の金毘羅神の社や祠の分布を集計したのが次の表です。
広島県の金毘羅神社分布表
この表から分かることとに、補足を加えると次のようになります。
①山県郡や高田郡・比婆・庄原・沼隈などの県東部の県北農山村に多く、瀬戸内海沿岸や島嶼部にはあまり分布していない。
②県北では東城川流域や江川流域の川舟の船頭組に信仰者が多く、鎮座場所は河に突き出た尾根の上や船宿周辺に祀られることが多かった。
③各祠堂とも部落神以上の規模のものはなく、小規模なものが多く、信者の数は余り多くはなく、そのためか伝承記録もほとんど伝わっていない
④世羅郡世羅町の寺田には、津姫、湯津彦を同殿に祀って金比羅社と呼んでいる。
⑤宮島厳島には二つあり、一つは弥山にあって讃岐金比羅の遙拝所になっている。
⑥因島では社としては厳島神社関係が多く、海に沿うた灯寵などには、金刀比羅関係が多い。
⑤金比羅詣りは、沿岸の船乗りや漁師達は江戸時代にはあまり行わなかった。維新以後の汽船時代に入って、九州・大阪通いの石炭船の船乗さんが金比羅参りを始めに連れられるように始まった。

 以上からは安芸の沿岸島嶼部では、厳島信仰や石鎚信仰が先行して広がっていて、金毘羅信仰は布教に苦戦したことがうかがえます。金毘羅信仰が沿岸部に広がるようになるのは、近世後期で遅いところでは近代なってからのことのようです。

 廿日市の金刀比羅神社
広島県廿日市市の金刀比羅神社

因島三庄町 金刀比羅宮分祠

因島三庄町 金刀比羅宮分祠 右が金毘羅灯籠

例えば因島の海運業者には、根深い金刀比羅信仰があったとされます。
年に一回は、金刀比羅宮に参拝して、航海安全の祈祷札を受けていたようです。そして地元では金刀比羅講を組織して、港近くには灯籠を祀っています。
因島三庄町 金刀比羅宮分祠灯籠

因島三庄町 金刀比羅宮分祠の金毘羅灯籠


それでは、金毘羅さんにも灯籠などの石造物などを数多く寄進しているのかというと、そうでもないようです。讃岐金比羅本社の参道両側の灯寵に因島の名があるものは、「金毘羅信仰資料集成」を見る限りは見当たりません。広島県全体でも、寄進物は次の通りです。
芸州宮島花木屋千代松其他(寛永元年八月)。
芸州広島津国屋作右衛門(寛保二年壬戌三月)。
芸州広島井上常吉。
広島備後村上司馬。広島福山城主藤原主倫。 
 宮島や石鎚信仰に比べると、「海の神様」としての金毘羅さんの比重は決して高くないようです。これは讃岐の塩飽本島でも同じです。塩飽廻船の船乗りが金毘羅山を信仰していたために、北前船と共に金毘羅信仰は、日本海沿いの港港に拡大したと云われてきました。しかし、これを史料から裏付けることは難しいようです。北陸の山形や新潟などでも、金毘羅信仰は広島県と同じく、内陸部で始まり、それが海岸部に広がるという展開を見せます。塩飽北前船の廻航と関連づけは「俗説」と研究者は考えているようです。
 近世初頭の塩飽の廻船船主が、灯籠などの金毘羅への寄進物の数は限られています。それに比べて、難波住吉神社の境内には、塩飽船主からの灯籠が並んでいます。
産業の盛衰ともす636基 住吉大社の石灯籠(もっと関西): 日本経済新聞
難波の住吉神社の並び灯籠 塩飽船主の寄進も多い

ここからは塩飽の船乗りが信仰していたのは古代以来馴染みの深い難波の住吉神社で、近世になって現れた金毘羅神には、当初はあまり関心を示していなかったことがうかがえます。これは、芸予諸島の漁民たちには、石鎚信仰が強く、排他的であったことともつながります。これらの信仰の後には、修験者の勢力争いも絡んできます。
 因島における金刀比羅講社の拡大も近代になってからのようです。重井村の峰松五兵衛氏の家にも明治十一年のもの「崇敬構社授与」の証があります。また、因島の大浜村村上林之助氏が崇敬構社の世話掛りを命ぜられたものですが、これも明治になってからのものです。

  崇敬講社世話人依頼書
金刀比羅本宮からの崇敬講社世話人の依頼状
 以上から、次のような仮説が考えられます。
①近世初頭には船頭や船主は、塩飽は住吉神社、安芸では宮島厳島神社、芸予諸島の漁師達は石鎚への信仰が厚かった。
②そのため新参者の金毘羅神が海上関係者に信者を増やすことは困難であり、近世全藩まで金毘羅神は瀬戸内海での信仰圏拡大に苦戦した
③金毘羅信仰の拡大は、海ではなく、修験者によって開かれた山間部や河川航路であった。
④当初から金毘羅が「海の神様」とされたわけではなく、19世紀になってその徴候が現れる。
⑤流し樽の風習も近世末期になってからのもので、海軍などの公的艦船が始めた風習である。
⑥その背景には、近代になって金刀比羅宮が設立した海難救助活動と関連がある。
三次市の金刀比羅宮
三次市の金刀比神社

最後に広島県の安芸高田市向原町の金毘羅社が、どのように勧進されたのかを見ておきましょう。広島県安芸高田市

安芸高田市の向原町は広島県のほぼ中央部、高田郡の東南端にあたります。向原町は太田川の源流でその支流の三条川が南に流れ、江の川水系の二戸島川が北に向かって流れ山陰・山陽の分水界に当たります。
ヤフオク! -「高田郡」の落札相場・落札価格
高田郡史・資料編・昭和56年9月10日発行

そこに高田郡史には向原の金毘羅社の縁起について、次のように記されています。
(意訳)
当社金毘羅社の由来について
当社神職の元祖青山大和守から二十八代目の青山多太夫は、男子がなかった。青山氏の血脈が絶えることを歎いた多太夫は、寛文元朧月に夫婦諸共に氏神に籠もって七日七夜祈願し、次のように願った。日本国中の諸神祇当鎮守に祈願してきましたが、男の子が生まれません。当職青山家には二十八代に渡って血脈が相続いてきましたが、私の代になって男子がなく、血脈が絶えようとしています。まことに不肖で至らないことです。不孝なること、これ以上のことはありません。つきましては、神妙の威徳で私に男子を授けられるように夫婦諸共に祈願致します。
 するとその夜に衣冠正敷で尊い姿の老翁が忽然と夢に現れ、次のように告げました。我は金毘羅神である。汝等が丹誠に願望し祈願するの男子を授ける。この十月十日申ノ刻に誕生するであろう。その子が成長し、六才になったら讃岐国金毘羅へ毎年社参させよ。信仰に答えて奇瑞の加護を与えるであろう。
 この御告を聞いて、夢から覚めた。夫婦は歓喜した。それから程なくして妻は懐妊の身となり、神告通り翌年の十月十日申ノ刻に男子を出産した。幼名を宮出来とつけた。成人後は青山和泉守・口重と改名した。
 初月十日の夜夢に以前のように金毘羅神がれて次のように告げた
汝の寿命はすでに尽きて三月二十一日の卯月七日申ノ刻に絶命する。しかし、汝は長年にわたって篤信に務めてきたので特別の奇瑞を与える。死骸を他に移す事のないようにと家族に伝えておくこと。こうして夢から覚めた。不思議な夢だと思いながらも、夢の中で聞いた通りのことを家族に告げておいた。予言通りに卯月七日の申の刻終に突然亡くなった。しかし、遺体を動かすなと家族は聞いていたので、埋葬せずに家中において、家内で祈念を続けるた。すると神のお告げ通りの時刻の戌ノ刻に蘇生した。そして、尊神が次のように云ったという。
 この村の理右衛門という者と、因果の重なりから汝と交換する。そうすれば、長命となろう。そして、讃岐へ参詣すれば、その時に汝に授る物があろう。これを得て益々信心を厚くして、帰国後には汝の家の守神となり、世人の結縁に務めるべしという声を聞くと、夢から覚めたように生き返ったと感涙して物語った。不思議なことに、理右衛門は同日同刻に亡くなっていた。吉重はそれからは、肉食を断ち同年十月十日に讃岐国金毘羅へ参拝し、熱心に拝んで御札守を頂戴した。帰国時には、不思議なことに異なる五色の節がある小石が荷物の上ににあった。これこそが御告の霊験であると、神慮を仰ぎて奉幣祈念して21日に帰郷した。そして、その日の酉の刻に祇園の宮に移奉した。
 この地に米丸教善と云う83歳の老人に、比和という孫娘がいた。3年前から眼病に犯され治療に手を尽していたが効果がなかった。すると「今ここで多くの信者を守護すれば、汝が孫の眼病も速に快癒する。それが積年望んでいた験である」という声が祇園の宮から聞こえてきて、夢から覚めた。教善は歓喜して、翌22日の早朝に祇園の宮に参拝し、和泉守にあって夢の次第を語った。
 そこで吉重も自分が昨夕に讃岐から帰宅し、その際に手に入れた其石御神鉢を祇園の宮へ仮に安置したことを告げた。これを聞いて、教善は信心を肝に銘じて、吉重と語り合い、神前に誓願したところ神托通りに両眼は快明した。この件は、たちまち近郷に知れ渡り、遠里にも伝わり、参詣者が引も切らない状態となった。
 こうして新たに金毘羅の社殿を建立することになった。どこに建立するかを評議していると、夜風もない静まりかえる本社右手の山の中腹に神木が十二本引き抜け宮居の地形が現れた。これこそ神徳の奇瑞なるべしとして、ここの永代長久繁昌の宝殿を建立することになった。倒れた神木で仮殿を造営し、元禄十三年十一月十日未ノ刻遷宮した。その際に、空中から鳶が数百羽舞下り御殿の上に飛来し、儀式がが全て終わると、空中に飛去って行った。
 元禄十三年庚辰年仲冬  敬白

ここには元禄時代に向原町に金毘羅社が勧進されるまでの経緯が述べられています。
ここからは次のようなことが分かります。
①金比羅信仰が「海上安全」ではなく「男子出生」や「病気平癒」の対象として語られている。
②讃岐国金比羅への参拝が強く求められている
このようなストーリーを考え由緒として残したのは、どんな人物なのでしょうか。
天狗面を背負う行者 正面
金比羅行者
それが金比羅行者と呼ばれる修験者だったと研究者は考えています。彼らは、象頭山で修行を積んで全国に金毘羅信仰(天狗信仰)を広げる役割を担っていました。広島では、児島五流や石鎚信仰の修験者とテリトリーが競合するのを避けて、備後方面の河川交通や山間部の交通拠点地への布教を初期には行ったようです。それが、最初に見た金毘羅社の分布表に現れていると研究者は考えているようです。
  以上をまとめておくと
①近世当初に登場した金毘羅神は、象頭山に集う多くの修験者(金比羅行者)たちによって、全国各地に信仰圏を拡大していき流行神となった。
②、瀬戸内海にいては金毘羅信仰に先行するものとして、塩飽衆では難波の住吉神社、芸予諸島では石鎚信仰・大三島神社、安芸の宮島厳島神社などの信仰圏がすでに形成されていた。
③そのため金毘羅神は、近世前半においては瀬戸内海沿岸で信仰圏を確保することが難しかった。
④修験者(金比羅行者)たちは、備後から県北・庄原・三好への内陸地方への布教をすすめた。
⑤そのさいに川船輸送者たちの信仰を得て、河川交通路沿いに小さな分社が分布することからうかがえる。しかし、それは祠や小社にとどまるものであった。
⑥金毘羅信仰が沿岸部で勢力を伸ばすようになるのは、東国からの参拝者が急激に増える時期と重なり、19世紀前半遺構のことである。
⑦流し樽の風習も近世においてはなかったもので、近代の呉の海軍関係者によって一般化したものである。
 今まで語られていた金毘羅信仰は、古代・中世から金毘羅神が崇拝され、中世や近世はじめから塩飽や瀬戸内海の海運業者は、その信者であった。そして、流し樽のような風習も江戸時代から続いてきたとされてきました。しかし、金毘羅神を近世初頭に現れた流行神とすると、その発展過程をとして金毘羅信仰を捕らえる必要が出てきます。そこには従来の説との間に、様々な矛盾点や疑問点が出てきます。
 それが全国での金毘羅社の分布拡大過程を見ていくことで、少しずつ明らかにされてきたようです。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「広島県の金毘羅信仰  ことひら40 1985年」
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 近世の金毘羅では、封建的領主でもある松尾寺別当の金光院に5つの子院が奉仕するという体制がとられていました。
その中で多聞院は、金毘羅山内で特別の存在になっていきます。ときにはそれが、金光院に対して批判的な態度となってあらわれることあったことが史料からは見えてきます。また、多聞院に残された史料は、金光院の「公式記録」とは、食い違うことが書かれているものがいくつもあります。そして比べて見ると、金光院の史料の方が形式的であるのに対して、多聞院の史料の方が具体的で、リアルで実際の姿を伝えていると研究者は考えているようです。どちらにしても、別の視点から見た金毘羅山内の様子を伝えてくれる貴重な史料です。

金毘羅神 箸蔵寺
箸蔵寺の金毘羅大権現

 近世初期の金毘羅は、修験者の聖地で天狗道で世に知られるようになっていました。
 公的文書で初代金光院院主とされる宥盛は「死後は天狗となって金毘羅を守らん」と云って亡くなったとも伝えられます。彼は天狗道=修験道」の指導者としても有名で、数多くの有能な修験者を育てています。その一人が初代の多聞院院主となる片岡熊野助です。宥盛を頼って、土佐から金毘羅にやってきた熊野助は、その下で修験者として育てられます。

天狗達
金毘羅大権現と大天狗と烏天狗(拡大)
 修験(天狗道)の面では、宥盛の後継者を自認する多聞院は、後になると「もともとは当山派修験を兼帯していた金光院のその方面を代行している」と主張するようになります。しかし、金光院の史料に、それをしめすものはないようです。

1金毘羅天狗信仰 天狗面G4
天狗信者が金毘羅大権現に納めた天狗面
 
金光院の初期の院主たちは「天狗道のメッカ」の指導者に相応しく、峰入りを行っていて、帯剣もしています。そういう意味でも真言僧侶であり、修験者であったことが分かります。しかし、時代を経るにつれて自ら峰入りする院主はいなくなります。それに対して歴代の多聞院院主は、修験者として入峯を実際に行っています。

松尾寺の金毘羅大権現像
松尾寺の金毘羅大権現

宝暦九(1760)年の「金光院日帳」の「日帳枝折」には、次のように記されています。

「六月廿二日、多聞院、民部召連入峯之事」

天保4(1833)年に隠居した多聞院章範の日記には、大峰入峯を終えた後に、近郷の大庄屋に頼み配札したことが書かれています。
多聞院が嫡男民部を連れて入峯することは、天保四年の「規則書」の記事とも符合します。
 次に多聞院の院主の継承手続きや儀式が当山派の醍醐寺・三宝院の指導によって行われていたことを見ておきましょう。
(前略)多聞院儀者先師宥盛弟子筋二而 同人代より登山為致多聞院代々嫡子之内民部与名附親多聞院召連致入峯 三宝院御門主江罷出利生院与相改兼而役用等茂為見習同院相続人二相定可申段三宝院御門主江申出させ置多聞院継目之節者 拙院手元二而申達同院相続仕候日より則多聞院与相名乗役儀等も申渡侯尤此元二而相続相済院上又々入峯仕三宝院 御門主江罷出相続仕候段相届任官等仕罷帰候節於当山奥書院致目見万々無滞相済満足之段申渡来院(後略)
意訳変換しておくと
(前略)多聞院については、金光院初代の先師宥盛弟子筋であり、その時代から大峰入峯を行ってきた。その際に、多聞院の代々嫡子は民部と名告り、多聞院が召連れて入峯してきた。そして三宝院御門主に拝謁後に利生院と改めて、役用などの見習を行いながら同院相続人に定められた。このことは、三宝院御門主へもご存じの通りである。
 多聞院継目を相続する者は、拙院の手元に置いて指導を行い、多聞院を相続した日から多聞院を名告ることもしきたりも申渡している。相続の手続きや儀式が終了後に、又入峯して三宝院御門主へその旨を報告し、任官手続きなどを当山奥書院で行った後に来院する(後略)

ここには多聞院の相続が、醍醐寺の三宝院門主の承認の下に進めらる格式あるものであることが強調されています。金光院に仕えるその他の子院とは、ランクが違うと胸を張って自慢しているようにも思えてきます。
 このように多聞院に残る「古老伝」には、修験の記事が詳しく具体的に記されています。現実味があって最も信憑性があると研究者は考えているようです。そのため当時の金毘羅の状況を知る際の根本史料ともされるべきだと云います。 
新編香川叢書 史料篇 2(香川県教育委員会 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

それでは、古老伝旧記 ( 香川叢書史料編226p)を見ておきましょう。

    古老伝旧記 
〔古老伝旧記〕○香川県綾歌郡国分寺町新名片岡清氏蔵
(表紙) 証記 「当院代々外他見無用」
極秘書
古老之物語聞伝、春雨之徒然なる儘、取集子々孫々のためと、延享四(1748)年 七十余歳老翁書記置事、かならす子孫之外他見無用之物也。

「古老伝旧記」は多聞院四代慶範が延享4年(1744)に記述、九代文範が補筆、十代章範が更に補筆、補修を加えたもので、文政5年(1822)の日付があります。古老日記の表紙には、「当院代々外他見無用」で「極秘書」と記されています。そして1748年に当時の多聞院院主が、子孫のために書き残すもので、「部外秘」であると重ねて記しています。ここからは、この書が公開されないことを前提に、子孫のために伝え聞いていたことをありのままに書き残した「私記」であることが分かります。それだけに信憑性が高いと研究者は考えています。
天狗面を背負う行者
天狗行者
例えば金毘羅については、次のように記されています。
一、当国那珂郡小松庄金毘羅山之麓に、西山村と云村有之、今金毘羅社領之内也、松尾寺と云故に今は松尾村と云、西山村之事也、
讃岐国中之絵図生駒氏より当山へ御寄附有之、右絵図に西山村記有之也、
一、金昆羅と申すは、権現之名号也、
一、山号は、象頭山   
一、寺号は、松尾寺
一、院号は、金光院    
一、坊号は、中の坊
社領三百三拾石は、国主代々御領主代々数百年已前、度々に寄附有之由申伝、都合三百三拾石也、
当山往古火災有之焼失、宝物・縁記等無之由、高松大守 松平讃岐守頼重公、縁記御寄附有之、
意訳変換しておくと
一、讃岐国那珂郡小松庄金毘羅山の麓に、西山村という村がある。今は金毘羅の社領となっていて、松尾寺があるために、松尾村とよばれているが、もともとは西山村のことである。
讃岐国中の絵図(正保の国絵図?)が、生駒氏より当山へ寄附されているが、その絵図には西山村と記されている。
一、金昆羅というのは、権現の名号である。
一、山号は、象頭山   
一、寺号は、松尾寺
一、院号は、金光院    
一、坊号は、中の坊
社領330石は、国主や御領主から代々数百年前から度々に寄附されてきたものと言い伝えられていて、それが、都合全部で330石になる。当山は往古の火災で宝物・縁記等を焼失し、いまはないので、高松大守 松平讃岐守頼重公が縁記を寄附していただいたものがある。
①生駒家から寄贈された国絵図がある
②坊号が中の坊
③松平頼重より寄贈された金毘羅大権現の縁起はある。
天狗面2カラー
金毘羅に奉納された天狗面
歴代の金光院院主については、次のように記されています。
金光院主之事   227p
一、宥範上人 観応三千辰年七月朔日、遷化と云、
観応三年より元亀元年迄弐百十九年、此間院主代々不相知、
一、有珂(雅) 年号不知、此院主西長尾城主合戦之時分加勢有之、鵜足津細川へ討負出院之山、其時当山の宝物・縁記等取持、和泉国へ立退被申山、又堺へ被越候様にも申伝、
一、宥遍 一死亀元度午年十月十二日、遷化と云、
元亀元年より慶長五年迄三十一年、此院主権現之御廟を開拝見有之山、死骸箸洗に有之由申伝、
意訳変換しておくと   
一、宥範上人 観応三(1353)年7月朔日、遷化という。その後の観応三年より元亀元年までの219年の間の院主については分からない。

宥範は善通寺中興の名僧とされて、中讃地区では最も名声を得ていた高篠出身の僧侶です。長尾氏出身の宥雅が新たに松尾寺を創建する際に、その箔をつけるために宥範を創始者と「偽作」したと研究者は考えています。こうして金毘羅の創建を14世紀半ばまで遡らせようとします。しかし、その間の院主がいないので「(その後の)219年の間の院主については、分からない」ということになるようです。
  一、有珂(雅)  没年は年号は分からない。
この院主は西長尾城の合戦時のときに長尾氏を加勢し、敗北して鵜足津の細川氏を頼って当山を出た。その時に当山の宝物・縁記は全て持ち去り、その後、和泉国へ立退き、堺で亡命生活を送った。
宥雅が金毘羅神を作り出し、金比羅堂を創建したことは以前にお話ししました。つまり、金毘羅の創始者は宥雅です。しかし、宥雅は「当山の宝物・縁記は全て持ち去り、堺に亡命」したこと、そして、金光院院主と金比羅の相続権をめぐって控訴したことから金光院の歴代院主からは抹消された存在になっています。多聞院の残した古老伝が、宥雅の手がかりを与えてくれます。
  一、宥遍  元亀元年十月十二日、遷化と云、
元亀元(1570)年より慶長五(1600)年まで31年間に渡って院主を務めた。金毘羅大権現の御廟を開けてその姿を拝見しようとし、死骸が箸洗で見つかったと言い伝えられている院主である。
宥遍が云うには、我は住職として金毘維権現の尊体を拝見しておく必要があると云って、、御廟を開けて拝見したところ、御尊体は打あをのいて、斜眼(にらみ)つけてきた。それを見た宥遍は身毛も立ち、恐れおののいて寺に帰ってきた。そのことを弟子たちにも語り、兎角今夜中に、我体は無事ではありえないかもしれない、覚悟をしておくようにと申渡して、護摩壇を設営して修法に勤めた。そのまわりを囲んで塞ぎ、勤番の弟子たちが大勢詰めた。しかし、夜中に何方ともなくいなくなった。翌日になって山中を探していると、南の山箸洗という所に、その体が引き裂かれて松にかけられていた。いつも身につけている剣もその脇に落ちていた。この剣は今は院内宝蔵に収められている。
  ここには金毘羅大権現の尊体を垣間見た宥遍が引き裂かれて松に吊されたという奇話が書かれています。もともと宥遍と云う院主は金毘羅にはいません。宥雅の存在を抹消したために、宥盛以前の金比羅の存在を説くために、何らかの院主を挿入する必要があり、創作されたようです。そこで語られる物語も奇譚的で、いかにも修験者たちが語りそうなものです。

7 金刀比羅宮 愛宕天狗
愛宕天狗

 なお、この中で注目しておきたいのは、次の2点です。
①宥遍には多くの弟子がいて、護摩壇祈祷の際には宥遍を、勤番の弟子たちが大勢詰めたとあること。
②「いつも身につけている剣もその脇に落ちていた。」とあり、常に帯刀していたこと。
ここからも当時の金光院院主をとりまく世界が「修験者=天狗」集団であったことがうかがえます。これは金毘羅大権現の絵図に描かれている世界です。

金毘羅と天狗
金毘羅大権現と天狗たち(修験者)
以上見てきたように多聞院に残された古老伝は、正式文書にはないリアルな話に満ちていて、私にとっては興味深い内容で一杯です。

最後に 金光院宥典が多聞院宥醒(片岡熊野助)を頼りとしていたことがうかがえる史料を見ておきましょう。古老伝旧記の多開院元祖宥醒法印(香川叢書史料編Ⅰ 240P)には次のように記されています。
万治年中病死已後、宥典法印御懇意之余り、法事等之義は、晩之法事は多聞院範清宅にて仕侯得は、朝之御法事は御寺にて有之、出家中其外座頭迄之布施等は、御寺より被造候事、

意訳変換しておくと
万治年中(1658~60)に多開院元祖宥醒の病死後、宥典法印は懇意であったので、宥醒の晩の法事は多聞院範清宅にて行い、朝の御法事は御寺(松尾寺?)にて行うようになった。僧侶やその他の座頭衆などの布施も、金光院が支払っていた。


道隆寺本堂
道隆寺本堂
  四国霊場の道隆寺は、中世の多度郡の港である堀江の管理センター的な機能を持ち、備讃瀬戸に向けて開けた寺院でした。この寺には多くの中世文書が残されていますが、その中に「道隆寺御影堂作事人日算用帳」という帳簿があります。これは、天文21年(1552)に御影堂再建にかかった経費を記録した帳簿です。この中には「番匠・かわら大工・人夫手伝い・番匠おかひき(大鋸引)・鍛冶」などの職人が登場してきます。今回は職人たちに焦点を当てて、御影堂再建を見ていくことにします。

番匠
職人絵図 番匠(大工)

御影堂再建にかかった経費は15貰421文です。そのうちの工賃が次の通りです。
番匠101人に  5貫50文
かわら大工23人 1貫150文 
番匠(大工)と瓦職人一人あたりの手間賃が50文、
これ以外に飯米として、それぞれに1升2合が支払われ、酒が振る舞われています。また人夫手伝いとして767人に一人当たり4合、かわら取り付け人夫に3合、しほたへの人夫に六合の飯米が支払われています。ここからは建築経費の内、職人への手間賃が約4割を占めていたことが分かります。それ以外にも飯米・酒代の支出が必要だったようです。
  まず驚かされるのが職人の数の多さです。「番匠(大工)101人、瓦大工23人」とあります。最初は延人数なのかと思いましたが、そうではないようです。これだけの職人が関わっていたのです。これらの大工職人を、どのようにして集め、組織していったのでしょうか? 今の私には分からないことだらけです。
5.瓦屋根の細部の名称-鬼瓦とか(屋根の雑学知識)
 
瓦大工については、馴染みが薄いので補足しておきます
それまでの瓦屋根は、軒先の瓦に釘を打って瓦が滑り落ちるのを防いでいました。これだと腐食した釘が釘穴の中で膨張して瓦を割ったり、修理のとき瓦を破損したりしてしまいます。そこで中世の瓦職人が考えだしたのが、釘を使わなくても滑り落ちない軒瓦です。軒先の木に丈夫な引っ掛かり部分をつけ、そこに瓦に設けた突起部分を引っ掛ける仕組みになっています。これは瓦の歴史の上で画期的な発明です。瓦大工が瓦を焼いていたかどうかは分かりませんが、瓦を葺く専門の大工であったようです。もちろん当時は、瓦葺きの屋根は寺院などの限られた建物に限られていましたから、瓦の需要はそれほど多くはなかったはずです。相当の広範囲のエリアを活動地域としていたことが考えられます。

帳簿には、次のようにも記されています。
「三貫三百文 大麻かハらの代」    大麻からの瓦代金
「八百八十文 しはくのかハらの代」     塩飽からの瓦代金
ここからは御影堂の瓦は、善通寺の大麻と塩飽で4:1の割合で焼かれた瓦が使われたことが分かります。塩飽からは海を越えて船で運ばれ、大麻からは川船で運ばれたのでしょう。同時に大麻や塩飽には、瓦を製造職人がいたことがうかがえます。大麻は大麻山の麓に開けたエリアで、古墳時代には積石塚古墳の集中地であり、忌部氏の氏寺とされる大麻神社が鎮座します。近くに善通寺があり、古くから善通寺で使用する瓦の製造を行う職人集団が存在していたことは、以前にお話ししました。

塩飽本島絵図
塩飽本島周辺(下が北)

塩飽は、九亀市の塩飽本島のことです。本島にも瓦職人集団がいたことがうかがえます。
 塩飽は近世になると、船大工や宮大工で活躍する職人を多数輩出します。高見島などは、幕末の戸籍調査によると戸数の1/3が大工でした。かつては、船大工として活躍していた人たちが、元禄期以後の「塩飽造船不況」で、宮大工に「転職」したとも云われました。しかし、それ以前から塩飽には「宮大工」の流れを汲む職人たちがいたような気配がします。どちらにしても、中世末の塩飽本島には、「建築総合組合」的な集団があり、備讃瀬戸沿岸からの寺社のさまざまな建築物発注に応える体制が出来あがっていたのではないでしょうか。これが近世における塩飽の宮大工の広域的な活動基盤になっていると私は考えています。
  下表は中世の道隆寺明王院の院主が導師として出席した遷宮・供養寺の一覧表です。

道隆寺 本末関係
道隆寺明王院が導師として出席した遷宮・供養寺の一覧表
導師として出席とすると云うことは、道隆寺がこれらの寺社の本寺にあったということになります。
6塩飽地図

そのエリアは塩飽本島から白方、詫間、荘内半島、粟島・高見島など備讃瀬戸にある寺社と本末関係にあり、末寺の信者集団も傘下に組み入れていたことにあります。大きな寺院が専属の建築者集団を持っていたように、中世の地方有力寺院も本末グループ全体で「建築職人集団」を持っていた可能性もあると私は考えています。
 そうだとすると、道隆寺グループの末寺の改修工事等は、道隆寺と契約関係にある建築集団が行っていたことになります。道隆寺は、讃岐守護代の香川氏の保護を受け発展していました。それに連れて道隆寺に属する職人集団も成長して行くことになります。こうして16世紀には、道隆寺を中心とする職人集団が香川氏のお膝的の多度津や、塩飽衆の拠点である本島には形成されていたという仮説は出せそうです。
200017999_00161道隆寺
道隆寺 江戸時代後半
道隆寺の御影堂建立から約30年後のことです。
土佐の長宗我部元親が讃岐平定の祈願と成就御礼のために、金毘羅(松尾寺)に三十番社と仁王堂を寄進しています。
天正十一年(1583)、讃岐平定祈願のために、松尾寺境内の三十番神社を修造。
天正十二年(1584)6月  元親による讃岐平定成就
天正十二年(1584)10月  元親の松尾寺の仁王堂(二天門)を建立寄進
当時の金毘羅(松尾寺)は、長宗我部元親が土佐から招聘した南光院(宥厳)が、院主を任されていました。「元親管轄下の松尾寺体制」で、元親の手によって、松尾寺の伽藍整備が進められます。そして、讃岐平定が完了した年に、成就御礼の意味が込めて寄進されたのが仁王堂(門)です。二天門棟札が讃岐国名勝図会には、次のように載せられています。

二天門棟札 長宗我部元親
金毘羅大権現二天門棟札(讃岐国名勝図会)
右側が表、左側が裏になります。まず表(右)側を、書き写したものを見ていきましょう。
真ん中に
「上棟奉建立松尾寺仁王堂一宇、天正十二甲申年十月九日、
左右に
大檀那大梵天王長曽我部元親
大願主帝釈天王権大法印宗仁
とあって、その間には元親の息子達の名前が並びます。天霧城の香川氏を継いだ次男の香川「五郎次郎」の名前も見えます。ここで注目したいのは、その下の大工の名です。
「大工 仲原朝臣金家」
「小工 藤原朝臣金国」
仲原と藤原という立派な姓を持つふたりが現場責任者で棟梁になるのでしょう。
左側(裏)には、「別当権大僧都宥厳(南光院)」の下に、6つの寺と坊の名前が並びます。ここに出てくる坊や寺は、「土佐占領下」の土佐修験道のメンバーだと私は考えています。
 その下には、職人たちの名前が次のように記されています。
「鍛治大工  多度津 小松伝左衛門」
「瓦大工  宇多津 三郎左衛門」
「杣番匠□□    圓蔵坊」
多度津や宇多津の鍛治大工や瓦大工が呼ばれていたことが分かります。多度津は、長宗我部元親と同盟関係にある香川氏の拠点です。松尾寺の伽藍整備には、香川氏配下の職人が数多く参加しているようです。これらの職人は、香川氏の保護を受けていた職人たちとも考えられます。この時期の松尾寺の伽藍整備が、実質的には香川氏によって進められたことがうかがえます。
その左には、次のように記されています。
「象頭山には瓦にする土はないのに、本尊が安置されている寺内から(瓦作りに相応しい)粘土があらわれた。この奇特に万人は驚いた。これも宥厳上人の加護である。」
 ここからは新たに発見された粘土を用いて、周辺に作られた瓦窯で瓦が焼かれたことがうかがえます。先ほど見た道隆寺の御影堂の瓦は、大麻や塩飽から運ばれ来ていました。それが松尾寺の場合には、「瓦大工 宇多津三郎左衛門」が請負って、松尾寺山内の土を使って焼かれたとあります。

 中世末には地方の有力寺院の建立には、多くの職人が組織され働いていたことが分かります。その組織がどのようにして組織され、運営されていたかについてを語る史料は、讃岐にはないようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  羽床正明       長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号
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    金毘羅船 4
金比羅船
延享元年三月(1744)に、「金毘羅船」の運行申請が大坂の船問屋たちから金毘羅大権現の金光院に提出されます。その結果、「日本最初の旅客船航路」とされる金毘羅船が大坂と四国・丸亀を結ぶようになります。以後、金毘羅信仰の高揚と共に、金毘羅船は年を追う毎に繁昌します。こうして、金毘羅船をめぐって、船舶・船宿・観光出版・お土産店など新たな観光産業が形成されていくようになります。 
金毘羅船 苫船
「大阪道頓堀丸亀出船の図」(金毘羅参詣続膝栗毛の挿入絵)

19世紀初め出版された弥次喜多コンビの金比羅詣では、大坂の船宿で金比羅船の往復チケットを購入しています。その際には、どこで買っても同一料金で、原則は往復チケットになっていました。行きも帰りも同じ船に乗ることが原則だったようです。また、大坂の船宿で、金比羅チケットを購入したときに、丸亀や金毘羅の提携宿も決まるシステムだったのは以前にお話ししました。
 こうして増える参拝客をめぐる攻防戦が船宿や指定宿・お土産店屋で繰り広げられるようになります。その際の広告媒介が航路案内図であり、丸亀から金毘羅への参拝案内図であったようです。

丸亀に上陸した参拝客は、ふたたび丸亀から帰路の船に乗ります。そのために手荷物を預かったり、案内図を無料で配布することで、購買客をふやす戦略を採るようになります。この結果。お土産店などが案内図作成を行うようになります。今回は丸亀で配布された金毘羅参拝案内図を見ていくことにします。テキストは「町史ことひら5 絵図写真篇112P 丸亀からの案内図」です。

丸亀街道 E① 町史ことひら5
E① 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」クリックで拡大します
E①はタイトルが「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」とあり、このシリーズの初版になるようです。
全体をみて気づくのは丸亀ー琴平の丸亀参拝道だけが描かれているのではないことです。弥谷寺や善通寺が金比羅参拝の「巡礼地」として描かれています。先ほども述べたように、この絵図は丸亀に上陸したときに宿やお土産店などで、参拝客に配布されたようです。参拝者に対しては、丸亀・琴平間の往復ではなく、「金毘羅大権現 + 四国巡礼の七ヶ所廻り」が奨められていたことがうかがえます。丸亀から琴平を目指し、善通寺を経て弥谷寺にお参りし、白方の海岸寺から多度津を経て丸亀に戻ってくると云う周遊ルートが売り出されていたようです。それは、金比羅舟の営業戦略でもあったようです。丸亀で下船したお客を、帰路も乗船させるために、金比羅船は往復チケットを販売します。そのため善通寺・弥谷寺をめぐる周遊ルートが売り出されてのではないかと私は考えています。
E①を、もうすこし具体的に見ておきましょう。
①板元名はない
②丸亀城下の見附屋の蘇鉄が注記されていて、港などは描かれていない。
③丸亀ー金毘羅間の丸亀街道沿いの飯野山などの情報は、何も記されていない。
④金毘羅の門前町から本社までの比率が長く詳細である
⑤桜の馬場が長く広く描かれている。その柵は、木製で石の玉垣ではない
⑥善通寺は五重塔と本堂だけで、周辺の門前町は描かれていない。
⑦弥谷寺は「いやだに」と山名だけ
⑧多度津の情報はなにもない
⑥の善通寺の五重塔が完成するのは、文化元年(1804)十月のことです。関東からやってきた廻国行者が善通寺境内に庵を造り、そこを根拠にして10年の勧進活動の後に完成します。建設計画から約80年余の月日を要しています。ここからは、この絵図が書かれたのは、それ以後であることが分かります。ちなみに丸亀福島湛甫が完成するのがその2年後になります。残念ながら絵図には、福島湛甫はエリア外になっています。丸亀街道 E② 町史ことひら5
E② 丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記
E②は、左下欄外に「文化十四(1817)丁丑年 十二月中旬調之 大野」と墨書があるので、それ以前のものであることが分かります。丸亀街道沿いについては、飯野山が描かれ郡家や公文あたりの情報量も増えてきました。それでも左半分は、金毘羅さんのエリアです。
これだと、鞘橋を渡ってすぐに仁王門があることになります。桜の馬場が長すぎます。
 丸亀街道 E③ 町史ことひら5
E③ 丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記
E③は、今までのもととは、俯瞰視点が大きく変わりました。そして家並みなどもしっかりと描き込まれて、情報量も格段に増えました。例えば、左下に「丸亀ヨリこんひらご二り(里) 一ノ坂ヨリ山上下一二十六丁 内町ヨリ善通寺へ七十五丁(以下略)」と各地への里程が書かれています。
 そして、E③には「板本谷一」と板元名が記されます。坂本谷一は、天保初年刊行の「丸亀繁盛記」にも「象頭山・四國巡路の書閲は板本谷一にとどまり」とあるので、当時は有名な絵図屋であったようです。
 描かれた時期は、丸亀に文化三年(1806)に完成した福島湛甫が見えます。また、金毘羅門前町の二本木に小さな鳥居が見えます。ここに江戸の鴻池儀兵衛などによって鳥居が立てられるのは天明七(1787)年のことです。
  また、丸亀のライバル港である多度津港が描かれています。しかし、多度津港新湛甫が完成するのは、天保9年(1838)のことです。まだ桜川河口に船は係留されているようです。
丸亀街道 E⑥ 町史ことひら5
     E⑥ 丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記
 E⑥は、街道が木道のように描かれ、分かりやすくなったことと、丸亀・金比羅・善通寺などの町屋の道筋が描き込まれるようになったのが特徴です。版元は右下に御免板元・吉田屋某と見えます。金毘羅山をみると、金堂が大きくなって描かれています。金堂が完成するのが弘化2年(1845)年ですので、それ以後のもののように思えます。しかし、金堂は瓦葺きのようにも思えます。瓦葺きで葺かれた後に、設計上の問題から銅板葺に改修されています。そうだとすると、1840年よりも前のことになります。以下気づくことをあげておくと次のようなことが分かります。
①多度津街道の終点である高藪に鳥居が描かれていること
②鞘橋を渡った後の内町。金山寺町などが表記されていること
③善通寺は赤門筋が門前町化し、南には街並みはみられないこと
丸亀街道 E⑨ 町史ことひら5大原東野
E⑨

 E⑨はそれまでと「金毘羅並びに七所霊場 名勝奮跡細見圖」とタイトルが変わりました。それまでの絵図と比べると、描写が写実的で細密でレベルがぐーっと上がった印象を受けます。絵師の大原東野は、奈良の小刀屋善助という興福寺南圓堂(西国三十一二所第九番札所)前の大きい旅龍の出身です。京都・大坂で画業活動を行った後に、文化元年(1804)に金毘羅へ移り住み、いろいろな作品を残しています。この人のすごいところは、それだけでなく金毘羅参詣道修理のために「象頭山行程修造之記」を配布して募金活動による街道整備も行っていることです。上方で活躍していた画家が「地方移住」して、残した絵図になるようです。金毘羅周辺の建物構成がきちんと描かれ、後の模範となる作品と評価されます。

この絵図の注目点は他にもあります。タイトルがそれまでの「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」から「金毘羅並びに七所霊場 名勝奮跡細見圖」に変更されています。それに伴い弥谷寺が消えました。善通寺の比重も低くなっているように見えます。うっすらぼやけてこの絵図では本堂も五重塔も見えないようです。実は、文化元年(1804)に再建された五重塔は、天保11年(1840)落雷を受けて焼失してしまいます。5年後の弘化2年(1845)に再建に着手しますが、完成するのは約60年後の明治35年(1902)のことになります。
 一方丸亀港に目を転じると、文化三年(1806)に完成した福島湛甫は見えますが、天保4年(1833)に竣工の丸亀新掘湛甫は、まだ姿を見せていないようです。
丸亀城 福島町3
福島湛甫 (新堀湛甫が姿は見せるのは1833年)

   この絵図には私たちの感覚からすると、金比羅詣案内図に弥谷寺がどうして描き込まれるのという疑問がありました。それが消えたのがこの絵図です。その代わりに登場させたのが「金毘羅並びに七所霊場」です。地元でお参りされた「四国霊場七ケ所詣 + 金毘羅大権現」ということになります。
丸亀街道 E⑩ 町史ことひら5
 E⑩「金毘羅參詣案内大略画」

E⑩「金毘羅參詣案内大略画」は、E⑨と板元が同じ大津屋です。
大津屋は、四国遍路の書物「四國遍路御詠歌道案内」「四國蜜験尋問記」の出版にも関係し、宝暦13年(1762)には「四國遍礼絵図」の板木を買い求めて、文化四年(1807)に、草子屋佐々井二郎右衛門の名で新しく刊行しています。
 丸亀の横開平八郎は、金毘羅参詣や四国遍路のことに強い関心を持っていたようで、大阪の二軒の草子屋と相合版でE⑨・E⑩図を出したことになります。彫工は、どちらも丸亀の成慶堂になっています。なお、この絵図のタイトルは、「金毘羅参詣案内大略圖」です。E⑨を更に進めて、「七ヶ所参り + 金毘羅大権現」から四国辺路巡礼にあたるルートがなくなりました。丸亀街道が、大阪・金毘羅の参詣道最後の道として、大切なものであるとの意識が強くなってきたものと研究者は指摘します。地図の中に描かれた情報は、E⑨と変わりないように見えます。
丸亀街道 E⑪ 町史ことひら5
E⑪「金毘羅參詣案内大略圖」

E⑪「金毘羅參詣案内大略圖」は標題も板元もE⑩と同じです。
ただ違うのは、丸亀港に新堀湛甫や太助灯籠が描かれています。新堀湛甫の完成は天保4年(1833)のことになるので、E⑩の改訂版と云えそうです。もうひとつ今までと違うところは、左下の枠内の記事のようです。これまでは、ここには丸亀から各地への里程が記されていました。それが金毘羅関係の書物九部の広告が出されています。これは初めての試みです。広告の書物の中には「金毘羅參詣海陸記」も入っています。広告の後には、次のように記されています。

地本弘所書林/丸亀加屋町碧松房/金物屋平八郎(横開平八郎)

  ここからは横開平八郎は房号を碧松房といったことが分かります。金毘羅案内書の名著「金毘羅山名勝図絵」は、大阪の石津亮澄の著作で、大原東野と横開碧松が校者を担当しています。東野は画家なので挿絵担当で、碧松は地理の案内をしたようです。この二人によって、金毘羅参拝絵図にも新風がもたらされたようです。ちなみに別の絵図には、次のように記されています。
「讃岐名産絵図小売おろし所、名物土産舗 丸かめ(丸亀)かや町 金物崖平八郎」

ここからは「地本弘所書林」は「名物土産舗」も兼業していたことが分かります。金物崖平八郎(碧松房)は、観光業の多角経営者であったようです。
丸亀街道 E⑬ 町史ことひら5 
E⑫「金毘羅土産所之圖」       120P
E⑫は仁尾・覚城院の南月堂三の「象頭山金毘羅大権現迢験記」の奥付にある図のようです。もともと、この書は明和六年(1769)、京都の梅村市兵衛・菊屋安兵衛・梅村宗五郎の相合版で出版されました。それを文政二年(1819)12月、丸亀の横闘平八郎が板木を買い取り、自分の名で出版します。その時に、この図を入れ、また丸亀・金毘羅の名物を四ページにもわたって広告します。
当時の金毘羅名物が、飴・湯婆・松茸・索麺・生姜などであったことが分かります。ここでは横開平八郎は「讃岐書堂」と名乗っています。
DSC06659
右側が福島湛甫 左手前が新堀湛甫


以上をまとめておきます。

①18世紀半ばに金比羅船が就航すると、クルージング気分で参拝できる金比羅詣での人気は急速に高まった。
②18世紀後半から19世紀かけて金比羅船関連の船宿・土産物・旅籠・観光出版業なども急成長し、同時に参拝客をめぐる競争も激化した。
③丸亀でも金比羅船にやって来る参拝客に、お土産店などが参拝案内図を無料配布するようになった。
④そのため案内図は、お土産店などが板元になって作成されたものが多くなる。
⑤その案内図の初期のものは、丸亀と金比羅のピストン往復詣ででなく善通寺周辺の四国霊場七ケ所巡りを奨める内容であった。そのため善通寺や弥谷寺が大きく扱われている。
⑥一方、丸亀港のライバルである多度津港の扱いは非常に小さいものとなっている。
⑦19世紀に半ば近くになってくると、弥谷寺や善通寺の比重は次第に低くなり、かわって対岸の備中児島の喩伽山を取り上げる絵図や、阿波の箸蔵寺を取り上げる案内図も出てくる。これも営業戦略のひとつであったようだ。
金毘羅 町史ことひら

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 
金毘羅周辺の建造物出現年表
天明2年1782 高藪の鳥居建立。
天明8年1788 二本木銅鳥居建立。
寛政元年1789 絵馬堂上棟。
寛政6年1794 桜の馬場に鳥居建立。多度津鶴橋に鳥居建立。
寛政10年1798 備中梶谷、横瀬に燈籠寄進。
寛政11年1799 丸亀中府に石燈籠建立。
文化元年 1804  善通寺の五重塔完成
文化3年 1806 薬師堂を廃して金堂建築計画。福島湛甫竣工。
文化5年 1808 中府に「百四十丁」石燈籠建立。
文化10年1813 金堂起工式。
文政元年 1818 二本木銅鳥居修覆。
文政5年 1822 十返舎一九撰、「讃岐象頭山金毘羅詣」
文政10年1827 大原東野筆、「金毘羅山名勝図会」。
天保2年 1831 金堂初重棟上げ
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工
天保5年 1834 神事場馬場完成、多度津港新湛甫起工。
天保6年 1835 芝居定小屋(金丸座)上棟。
天保7年 1836 仁王門再建発願。
天保8年 1837 金堂二重目上棟。
天保9年 1838 多度津港新湛甫完成。多度津鶴橋鳥居元に石燈籠建立。
天保11年1840 金堂銅屋根葺き終了。多度津須賀に石鳥居建立。
                        善通寺五重塔落雷を受けて焼失。
天保14年1843 仁王門修覆上棟。金堂厨子上棟。
弘化2年 1845 金堂、全て成就。観音堂開帳。
           善通寺五重塔に再建に着手。
弘化4年 1847 暁鐘成、「金毘羅参詣名所図会」。
嘉永元年 1848 阿波街道口に鳥居建立。
嘉永2年 1849 高藪町入口、地蔵堂建立。
嘉永5年 1852 愛宕町天満宮再建上棟。
安政元年 1854 満濃池、堤切れ。
    道作工人智典、丸亀口から銅鳥居までの道筋修理終了。
  高燈籠建立願い。大地震、新町の鳥居崩壊、高藪口の鳥居破損。
安政2年 1855 新町に石鳥居建立。
安政4年 1857 多度津永井に石鳥居建立。
安政5年 1858 高燈籠台石工事上棟。
安政6年 1859 一の坂口鉄鳥居建立。
万延元年 1860 高燈籠竣成。大水、大風あり札之前裏山崩れる。
文久元年 1861 内町本陣上棟。
文久2年 1862 阿州講中、大門から鳥居まで敷石寄付。
慶應3年 1867 賢木門前に真鍮鳥居建立。
武州佐藤佐吉、本地堂前へ唐銅鳥居奉納。
  旗岡に石鳥居建立。
参考文献
    「町史ことひら5 絵図写真篇112P 丸亀からの案内図」
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25弁財天十五童子像
絹本着色弁才天十五童子像(南北朝 金刀比羅宮蔵)

金刀比羅宮には、南北朝期の絹本着色弁才天十五童子像があります。弁才天画像をいれた箱の表には「春日社御祓講本尊」とあり、裏には19世紀中頃の文政の頃に金光院住職の宥天がこれを求めた書かれています。ここからは、もともとは春日社に伝わっていたものであることが分かります。

25弁財天
絹本着色弁才天十五童子像(南北朝 金刀比羅宮蔵)(拡大)

春日社にあった弁才天十五童子像がどうして、金刀比羅宮にあるのでしょうか。
今回は、その伝来について見ていきたいと思います。テキストは「羽床正明 金刀比羅宮蔵 弁オ天画像考 ことひら57」です。
金刀比羅宮の弁財天画を見る前に、弁財天の歴史について簡単に見ておきます
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ヒンズー教の現在のサラスヴァティー(弁才天)

弁財天の起源はインドです。古代インド神話でサラスヴァティーと呼ばれた河の神は、後になると言葉の神ヴァーチュと結び付いて、学問、叡知、音楽の女神となり、最高神ブラフマー(梵天)の妃の一人とされるようになります。それが仏教にとり入れられると、仏教名を弁才天、妙音天、 美音天などと呼ばれるようにます。さらに財宝神であることが強調されるようになると、弁財天と書かれるようになります。神も進化・発展します。その上に、『金光明最勝王経』は、弁才天を美神とか戦闘神であると説き、弓、箭、刀、鉾、斧、長杵、輪、霜索を持つ8つの手があるとします。後世にいろいろな効能が追加されていくのが仏像の常です。二本の手では足らなくなって8本になります。

かつての横綱、若乃花・貴乃花の手形石、意外と小さい - Photo de Mimurotoji Temple, Uji - Tripadvisor

日本で盛んに信仰されるようになるのは、宇賀弁才天です。
水神の白蛇や、その白蛇が発展を遂げて生まれた老翁面蛇体の宇賀神を、頭上に戴くのが宇賀弁財天です。宇賀神は稲荷信仰を混淆して生まれました。稲を担った老翁姿の稲荷神と、水神の蛇が結合したのが宇賀神となるようです。整理しておくと
宇賀神  = 稲荷神(老翁姿)+ 水神(蛇=龍)
宇賀弁才天= 宇賀神     + 弁才天
こうしてとぐろを巻いた蛇と老人の頭を持つ宇賀神を頭上に頂く宇賀弁才天が登場してきます。
弁才天と宇賀神

これが鎌倉時代末期のようです。弁才天の化身は蛇や龍とされますが、これはインド・中国の経典にはありません。日本で創作された宇賀弁才天の偽経で説かれるようになったようです。

弁才天3

 初期の宇賀弁才天が8本の手に持つのは『金光明経』に記されるように「鉾、輪、弓、宝珠、剣、棒、鈴(鍵)、箭」と全て武器でした。ところが、次第に「宝珠」と「鍵」(宝蔵の鍵とされる)が加えられ、福徳神・財宝神としての性格がより強くなり、商人達に爆発的に信仰が広がります。

弁才天には「十五童子」が従います。
これも宇賀弁才天の偽経に依るもので、「一日より十五日に至り、日々宇賀神に給使して衆生に福智を与える」と説かれます。

弁才天十五童子像3

絹本著色の弁才天十五童子像として代表的なものをあげると、
金刀比羅宮蔵弁才天十五童子像(鎌倉末期)
京都上善寺蔵弁才天十五童子像(南北朝期)
近江宝厳寺蔵弁才天十五童子像(南北朝期)
大和長谷寺能満院蔵天河曼荼羅(室町時代)
などがあります。これらの絵に共通する点は、主尊の弁才天と眷属神の十五童子(十六童子の場合もある)を中心に、龍神やその他の神々が描き込まれていることです。
弁才天十五童子像

        大阪府江戸前~中期/17~18世紀
      岩座の弁才天と十五童子を表す立体曼陀羅
弁才天十五童子像2

金刀比羅宮の弁才天画像を見てみましょう。

25弁財天十五童子像

25弁財天

岩の上に立つ一面六臀の弁才天を中心に天女のまわりを眷属神の十五童子がかためます。画像の上方の五つの円相の中には釈迦・薬師・地蔵・観音。文殊という春日明神の本地仏が描かれています。春日社の祭神の本地仏は、武甕槌命(本地は釈迦)・経津主命(薬師)・天児屋根命(地蔵)・比神(観音)とされます。祭神は一神一殿の同じ形の、同じ大きさの社殿に祀られています。ただ、文殊だけは一社だけ離れて若宮社に祀られています。

弁才天立像
武人的な要素の強い弁才天

日本三弁天と称しているのは、次の3社でした。
近江の都久夫須麻神社
鎌倉の江の島神社
安芸の厳島神社
神社が弁才天信仰の中心となったのは、弁才天が神仏習合したからです。弁才天の頭上には白蛇(宇賀神)と華表(鳥居)がのっています。

弁才天2
白蛇はさらに発展し、老翁面蛇体の宇賀神としてソロデビューしていきます。日本三弁天の神社の影響もあって、春日社でも宇賀弁才天を祀るようになったようです。頭上に、水神・食物神とされる宇賀神をいただく宇賀弁才天を祀ることは、多くの荘園を持つ春日社にとっては大切な要素です。雨が降らないと稲は育ちません。荘園経済の上に基盤を置く春日社にとつては死活問題です。そのため水神である宇賀弁才天を祀るようになったのでしょう。

弁才天画像を春日神社から手に入れたのは松尾寺住職の宥天です。彼の在職期間は、1824~32年まででした。
 江戸時代の庶民は移り気で、新たな流行神の出現を求めていました。そのために、寺社は境内や神域にそれまでない新たなメンバーの神仏を勧進し、お堂や行事を増やして行くことが求められました。金毘羅だけでは、参拝客の増加は見込めないし、寺の隆盛はないのです。それは善通寺もおなじでした。

金毘羅本社絵図


 金毘羅大権現の別当寺松尾寺では、明和六年(1766)に「三天講」を行うようになります。
三天とは、毘沙門天・弁才天・大黒天のことで、供物を供え、経を読んで祀つる宗教的なイヴェントで縁日が開かれ、多くの人々が参拝するようになります。毘沙門天は『法華経』、弁才天は「金光明経』、大黒天は『仁王経』の尊とされるので、この三天を祀ることは護国の三部経を信仰することにつながります。
 生駒氏が領主であった慶長六年(1601)に松尾寺の境内には、摩利支天堂と毘沙門天堂(大行事堂)が建立されています。すでに毘沙門天と大黒天の尊像はあったはずです。足らないのは、弁財天です。宥天が弁財天画像を求めたのは、「三天講」のためだったという推理が浮かんできます。こうして三天講の縁日当日には、三天の尊像が並べて祀られます。そこに祀られたのが春日社から購入した宇賀弁才天画で、三天講の本尊の一つだったようです。

文化十年(1813)には、金毘羅大権現の門前町である金山寺町に弁才天社の壇がつくられています。
さらに嘉永元年(1848)には金山寺町に弁才天社の拝殿が建立されています。松尾寺で三天講が行われるようになったことがきっかけとなって弁才天に対する信仰が高まり、門前町の金山寺町に弁才天社がつくられたようです。宥天の求めた弁才天十五童子像も、そうした弁才天信仰の高揚が背景にあったようです。
 松尾寺の境内には金毘羅大権現の本宮以外にも、諸堂・諸祠が建ち並び、多くの神や仏が祀られていました。それらの神や仏の中に、宇賀弁才天も加えられたということでしょう。弁才天の陀羅尼を誦せば所願が成就し、財を求めれば多くの財を得られるとされました。そのため庶民は弁才天が福徳の仏して、熱心に拝むよようになります。
3分でわかる弁財天とは?】ああっ幸福の弁天さまっ!のご利益や真言|仏像リンク

 弁財天はインドではもともとは川の神、水の神で水辺に生活する神とされていました。そのためいつのまにか雨と関連づけられ雨乞いにも登場するようになります。
松尾寺でも江戸時代には雨乞いが行われています。
宇賀弁才天木像及び弁才天十五童子像画像は、雨乞いにも活躍したようです。奥社からさらに工兵道を進むと、葵の滝があらわれます。ここは普段は一筋の瀧ですが、大雨が降った後は壮観な光景になります。かつては、ここは山伏たちの行場であった所です。私も何度かテントを張って野宿したことがあります。夜になるとムササビが飛び交う羽音がして、天狗が飛び回っているように思えたことを思い出します。
善通寺市デジタルミュージアム 葵の瀧 - 善通寺市ホームページ
葵の瀧

 流れ落ちる屏風岩の下に龍王社の祠が置かれます。ここが金毘羅大権現の祈雨の霊場で修験を重ねた社僧達がここで雨乞いを祈願したと私は考えています。宇賀弁才天が祀られるようになると、水の神である宇賀弁才天も雨乞い祈願の一端を担うようになったのでしょう。

四国のお寺には、かつては雨乞い神の善女龍王が祀られていた祠が、いつのまにか弁財天を祀る祠になっている所がいくつもあります。神様や仏様にも流行廃れがあり、寺社はあらたな神仏の「新人発掘」を行いプロモートの努力を続ける努力をしていたのです。それを怠ると繁栄していた神社もいつの間にか衰退の憂き目にあったようです。そういう意味では、江戸末期の金毘羅大権現の別当たちは、「新人発掘」に怠りがなかった。そのひとつの象徴が三天講の企画であり、そのための宇賀弁才天画の購入であったとしておきます。


以上をまとめておくと
①江戸時代になると商売繁盛の神として宇賀弁才天が信仰を集めるようになる。
②金毘羅大権現の別当金光院も、宇賀弁才天を勧進し三天講の開催を始める
③そのため宇賀弁天の本尊が春日神社から求められ、三天講の縁日の時には開帳されるようになる。
④宇賀弁天は、水神でもあったため雨乞い信仰の神としても信仰を集めるようになる
⑤その結果、それまでの善女龍王竜王に宇賀弁天がとって代わる所も現れた。
⑥江戸時代の庶民派移り気で、寺社も新たな流行神を勧進し信者を惹きつける努力を行っていた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     羽床正明 金刀比羅宮蔵 弁オ天画像考 ことひら57
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金毘羅大権現に成長して行く金毘羅堂の創建は、戦国時代のことになります。松岡調の『新撰讃岐風土記』には、次のような金比羅堂の創建棟札が紹介されています。
 (表)「上棟象頭山松尾寺 金毘羅王赤如神御宝殿 当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉 
于時元亀四年発酉十一月廿七日記之」
 (裏)「金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
ここからは次のようなことが分かります。
①金毘羅王赤如神が金毘羅神のことで、御宝殿が金比羅堂であること。
②元亀四年(1573)に金光院の宥雅は、松尾寺境内に「金毘羅王赤如神」を祀る金毘羅堂を建立した
③本尊の開眼法要を、高野山金剛三昧院の良昌に依頼し、良昌が開眼法要の導師をつとめた
宥雅は長尾一族の支援を受けながら松尾寺を新たに建立します。
さらにその守護神として「金毘羅王赤如神=金毘羅神」を祀るため金毘羅堂を建立したようです。それでは、後に金毘羅大権現に成長して行く金比羅堂は、どこに建立されたのでしょうか。今回は、創建時の観音堂や金比羅堂の変遷を追ってみることにします。テキストは羽床正明   松尾寺十一面観音の由来について ことひら平成12年」です。

長尾城城主の弟であった宥雅は、善通寺で修行して一人前の僧侶になった時、善通寺の末寺で善通寺の奥の院でもあった称名院を任されるようになります。そして善通寺で修行した長尾高広は師から宥の字を受け継ぎ「宥雅」と名乗るようになります。
「讃岐象頭山別当職歴代之記」には

宥範僧正  観応三辰年七月朔日遷化 住職凡応元元年中比ヨリ  観応比ヨリ元亀年中迄 凡三百年余歴代系嗣不詳」
意訳変換しておくと
宥範僧正は、 観応三年七月朔日に亡くなった。応元元年から  元亀年中まで およそ三百年の間、歴代住職の系譜については分からない。

宥範から後の凡そ300年近くの住職は分からないとした上で、「元亀元年」から突然のように宥雅を登場させます。この年が宥雅が松尾山の麓にあった称名院に入った年を指していると羽床正明は考えているようです。善通寺の末寺である称名院に、宥雅に入ったのは元亀元年(1570)頃としておきましょう。
 ここからは羽床氏の「仮説」を見ていくことにします
1570年 宥雅が称名院院主となる
1571年 現本社の上に三十番社と観音堂建立
1573年 四段坂の下に金比羅堂建立
宥雅は、荒廃していた三十番神社を修復してこれを鎮守の社にします。三十番社は、甲斐からの西遷御家人である秋山氏が法華経の守護神として讃岐にもたらしたとされていて、三野の法華信仰信者と共に当時は名の知れた存在だったようです。三十番社の祠のそばに観音堂を建立し、1573年の終わりに四段坂の下に金毘羅堂を建立したとします。


絵図で創建当時の松尾寺と金毘羅堂の位置を押さえておきましょう。本堂下の四段坂を拡大した「讃岐国名勝図会」のものを見てみましょう。四段坂 讃岐国名勝図会
讃岐国名勝図会の四段坂周辺

金堂の竣工に併せて四段坂も石段や玉垣が整備されました。
それがこの讃岐国名勝図会には描き込まれています。長い階段の上に本宮が雲の中にあるように描かれています。しかし、創建当初は松尾寺の本堂である観音堂がここに建っていました。その守護神として金毘羅堂が最初に姿を見せたのは、階段の下の矢印の所だと研究者は考えています。両者の位置関係からしても、この宗教施設は松尾寺を主役で、金比羅堂は脇役としてスタートしたことがうかがえます。

5 敷石四段坂1
幕末の四段坂 金毘羅堂はT39の創建された
金毘羅堂と観音堂の位置

今度は17世紀中頃正保年間の境内図を見てみましょう。
境内図 正保頃境内図:
正保年間の金毘羅大権現の境内図

  金毘羅神が流行神となり信仰をあつめるようになると金毘羅神を祀る新しい御宝殿(本宮=金毘羅堂))は、観音堂を押しのけて現在地に移っていきます。その本宮はどんな様式だったのでしょうか?
『古老伝旧記』には、この本宮について次のように記します。

元和九年御建立之神殿、七間之内弐間切り三間、梁五間之拝殿に被成、新敷幣殿、内陣今之場所に建立也、

ここからは元和九(1623)年に建てた金毘羅堂の寸法などが分かります。同時に「神殿」とあり、次いで拝殿、幣殿、内陣とあるので神道形式の社殿であったことが分かります。こうして観音堂は、金比羅堂に主役を譲って脇に下がります。
 階段の下にあったそれまでの金毘羅堂は、修験者たちの聖者を祀る役行者堂となります。このあたりにも当時の金毘羅さんが天狗信仰の中心として修験者たちの信仰を集めていたことがうかがえます。それは金光院の参道を挟んで護摩堂があることからも分かります。ここでは、社僧達がいろいろなお札のための祈祷・祈願をおこなっていたようです。神仏混淆化の金毘羅大権現を管理運営していたのは社僧達だったようです。
 創建当初の金毘羅堂には、祭神の金毘羅神は安置されていなかったようです。
代わって本地仏の薬師如来が安置されていました。金比羅堂が本宮として現在地に「昇格」してしまうと、それまで金比羅堂に祀られていた薬師様の居場所がなくなってしまいました。そこで新たに薬師堂が建立されることになります。
境内平面図元禄末頃境内図:左図拡大図konpira_genroku
元禄末期の境内図

薬師堂の建立場所は、鐘楼の南側の現在旭社がある場所が選ばれます
同時に高松藩初代領主の松平頼重の保護を受けた金光院は、境内の大改造を行い、参道を薬師堂の前を通って、本宮に登っていく現在のルートに変更します。
 また、観音堂も現在の三穂津姫社の位置に移します。そして観音堂の奥には、初代金光院院主の宥盛を祀る金剛坊が併設されます。宥盛は「死して天狗となり、金毘羅を守らん」と言い残して亡くなった修験のカリスマ的存在であったことは以前にお話ししました。全国から集まる金比羅行者や修験者の参拝目的はこちらであったのかもしれません。
 金光院のまわりを見ると、書院や客殿が姿を現しています。高松松平家の保護を受けて、全国からの大名たちの代参もふえてきたことへの対応施設なのでしょう。

金毘羅山本山図1
本宮と観音堂は回廊で結ばれている。その下の薬師堂はまだ小型

こうして松尾寺の中心的な3つの建築物が姿を現します。
金毘羅大権現 本宮
松尾寺本堂  観音堂
薬師堂          金毘羅神の本地仏
以後、明治の神仏分離までは、このスタイルは変わりません。

観音堂と絵馬堂の位置関係
幕末に大型化し金堂と呼ばれるようになった薬師堂が見える

19世紀になると、寺院の金堂は大型化していきます。
その背景には大勢の信者を集めたイヴェントが寺社で開催されるようになるためです。そのためには金堂前には大きな空間も必要とされます。同時代の善通寺の誕生院の変遷を見ても同じ動きが見られることは以前にお話ししました。
 金光院も急増する参拝客への対応策として、大型の金堂の必要性が高まります。そこで考えられたのが薬師堂を新築して、金堂にすることです。薬師堂は幕末に三万両というお金をかけて何十年もかけて建立されたものです。この竣工に併せるように、周辺整備や参道の石段化や玉垣整備が進められていくのは以前にお話ししました。
4344104-31多宝塔・旭社・二王門
金堂(薬師堂=現旭社)と整備された周辺施設(讃岐国名勝図会)

 そして明治維新の神仏分離で、仏教施設は排除されます。観音堂は大国主神の妻の神殿となり、金堂(薬師堂)は旭社と名前を変えています。金堂ににあった数多くの仏達は入札にかけられ売り払われたことが、当時の禰宜・松岡調の日記には記されています。ちなみに薬師像は600両で競り落とされています。また、ここにあった両界曼荼羅は善通寺の僧が買っていったとも記されています。

旭社(金堂)設計図
松尾寺金堂(薬師堂)設計図

 金堂は今は旭社と名前を変え、祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大御神、天津神、国津神、八百万神 などで平田派神学そのものという感じです。今は堂内はからっぽです。

金毘羅本宮 明治以後
神仏分離後の絵図 
観音堂は三穂津姫殿となり旧金堂は雲で隠されている

 以上をまとめておきます
①16世紀後半に長尾一族出身の宥雅は、新たな寺院を松尾山に建立し松尾寺と名付けた。
②その本堂である観音堂は三十番社の下の平地に建立された。
③観音堂の下の四段坂に、守護神金比羅を祀るための金比羅堂を建立した
④金比羅神が流行神として信仰をあつめると、観音堂の位置に金比羅堂は移され金毘羅大権現の本宮となった。
⑤松尾寺の観音堂は、位置を金毘羅神に明け渡し、その横に建立された。
⑥金比羅堂に安置されていた薬師像(金毘羅神の本地仏)のために薬師堂が建立され、参道も整備された。
⑦19世紀には、薬師堂は大型化し松尾寺の金堂として姿を現し、多くの仏達が安置されていた。
⑧明治維新の廃仏毀釈で仏殿・仏像は追放された。
境内変遷図1

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明   松尾寺十一面観音の由来について ことひら平成12年」


金毘羅大権限神事奉物惣帳
金毘羅大権限神事奉物惣帳
金刀比羅宮に「金毘羅大権限神事奉物惣帳」と名付けられた文書が残されています。その表には、次のような目録が付けられています。
 一 諸貴所宿願状  一 八講両頭人入目
 一 御基儀識    一 熊野山道中事
 一 熊野服忌量   一 八幡服忌量
この目録のあとに、次のように記されています。
 右件惣張者、観応元年十月日 於讃州仲郡子松庄松尾寺宥範写之畢(おわんぬ)とあります。

宥範は、櫛無保出身で、善通寺中興の名僧です。その宥範が、観応元年(1350)十月に、この文書を小松荘松尾寺で写したというのです。そのまま読むと、松尾寺と宥範が関係があったと捉えられる史料です。かつては、これを根拠に金光院は、松尾寺の創建を宥範だとしていた時期がありました。しかし、観応元年の干支は己未ではなく庚寅です。宥範がこのような間違いをするはずはありません。ここからも、この記事は信用できない「作為のある文書」と研究者は考えているようです。そして、冊子の各項目は別々の時期に成立したもので、新設された金毘羅大権現のランクアップを図るために、宥範の名を借りて宥睨が「作為」したものと今では考えられています。

法華八講 ほっけはっこう | 輪王寺
輪王寺の法華八講
 この文書は「金毘羅大権現神事奉物惣帳」と呼ばれています。
中世小松荘史料
町誌ことひらNO1より
「金毘羅大権現」の名前がつけられていますが、研究者は「必ずしも適当ではなく『松尾寺鎮守社神事記』とでも言うべきもの」と指摘します。内容的には中世に松尾寺で行わていた法華八講の法会の記録のようです。これを宥範が写したことの真偽については、さて置おくとして、書かれた内容は実際に小松庄で行われていた祭礼記録だと研究者は考えているようです。つまり、実態のある文書のようです。
中世小松荘史料

ここに登場してくる人たちは、実際に存在したと考えられるのです。このような認識の上で、町誌ことひらをテキストに「諸貴所宿願状」に登場してくる人たちを探っていきます。
です。まず「宿願状」の記載例を見てみましょう。
 (第一丁表)
  八講大頭人ヨリ
奇(寄)進(朱筆)一指入御福酒弐斗五升 コレハ四ツノタルニ可入候        一折敷餅十五マイ クンモツトノトモニ
地頭同公方指合壱石弐斗五升
         一夏米壱斗 コレモ公方ヨリ可出候
         一加宝経米一斗
同立(朱筆)願所是二注也
         (中略)
(第三丁裏)
 八講大頭人ヨリ指入
 奇進      一奉物道具  一酒五升
         紙二条可出候 一モチ五マイ
         新庄石川方同公方指合弐斗五升
         立願所コレニ注   一夏米
      (下略)

ここには料紙半切の中央に、祭祀の宿(頭屋)を願い出た者の名前が書かれ、その脇にそれらの頭人からの寄進(指し入れの奉納物)が記入されています。この家々は、小松荘の地頭方や「領家分」「四分口」などという領家方の荘官(荘司)らの名跡が見えます。ここからは、彼らが小松庄を支配する国人・土豪クラスの領主などであることがうかがえます。家名の順序は、次のようになっています。
地頭方の地頭 → 地頭代官 →領家方の面々

まりこの記録には「実態」があるのです。

記された名前は祭祀の宿を願い出たもので、メンバーの名前の部分だけ列挙すると次のようになります。
  恩地頭同公家指合壱石弐斗五升
  御代官御引物
  御領家
  本庄大庭方同公方指合弐斗五升
  本荘伊賀方同公方指合弐斗五升
  新庄石川方同公方指合弐斗五升
  新荘香川方同公方弐斗五升
  能勢方同公方指合壱斗御家分
  岡部方同公方指合五升
  荒井方同公方指合五升
  滝山方同公方指合五升
  御寺石川方同公方指合弐斗五升
  金武同公方指合弐斗五升
  三井方
  守屋方
  四分一同公方指合壱斗
  石井方
 これは祭祀の興行を担う構成員で、いわゆる宮座の組織を示しているようです。諸貴所の右脇には、最初に「八講大頭人ヨリ指入」の奉物が書かれています。
小松の荘八講頭人

小松の荘八講頭人4

指入=差し入れ(奉納)」の内容は、道具・紙・福酒・折敷き餅などです。  以上から、この史料からは16世紀前半ころに小松庄には三十番神社が存在し、それを信仰する信者集団が組織され、法華八講の祭事が行われていたことが証明できます。
  この史料だけでは、分からないので補足史料として、江戸時代にの五条村の庄屋であった石井家の由緒書を見てみましょう。(意訳)
鎌倉時代には、新庄、本庄、安主、田所、田所、公文の5家が神事を執行していた。この五家は小松荘の領主であった九条関白家の侍であった。この五家が退転したあと、観応元(1350)年から、大庭、伊賀、石川、香川、能勢、荒井、滝山、金武、四分一同、石井、三井、守屋、岡部の13軒が五家の法式をもって御頭支配を勤めた。
 その後、能勢は和泉(泉田)に、滝井は山下となり、七家が絶家となって、石井、石川、守屋、岡部、和泉、山下の六家が今も上頭荘官として、先規の通りに上下頭家支配を勤めている
 ふたつの史料からは、次のようなことが分かります。
①「諸貴所宿願状」に登場してくる大庭以下13の家は、法華八講の法会において神霊の宿となり、祭礼奉仕の主役を勤める頭家に当たる家であった
②これが後に上頭と下頭に分かれた時には、上頭となる家筋の源流になる。
③「宿願状」には、何度かの加筆がされている永正十二(1515)から大永八年(1528)に作成された。その時期の小松荘の祭礼実態を伝える史料である
④この時期にはまだ上頭・下頭に分かれていないが、「岡部方同公方指合五升」とあるので、この公方が頭屋の負担を分担する助頭の役で、後に下頭となったことがうかがえる。
⑤「八講両頭人人目」には「上頭ヨリ」、「下頭ヨリ」とあるので、慶長八年(1603)ごろには、各村々に上頭人、下頭人が置かれていた
⑥「指合五升」などとあるのは、十月六日に行われる指合(さしあわせ)神事で、頭屋が負担する米の量である。

また、初期の投役には、「本荘大庭方」・「本荘伊賀方」・「新荘石川方」・「新荘香川方」と記載されています。ここからは小松荘に「本荘」と「新荘」のふたつの荘があり、そこにいた有力家が2つ投役に就いていたことがうかがえます。

 それでは本荘・新荘は、現在のどの辺りになるのでしょうか。
「本庄」という地名が琴平五条の金倉川右岸に残っています。このエリアが小松荘の中核で、もともとの立荘地とされています。しかし、新庄の地名は残っていません。町誌ことひらは、新荘を大井八幡神社の湧水を源とする用水を隔てた北側で、現在の榎井中之町から北の地域、つまり榎井から苗田にかけての地域と推測します。

小松庄 本荘と新荘
山本祐三 琴平町の山城より

 荘園の開発が進んで荘園エリアが広がったり、新しく寄進が行われたりした時に、もとからのエリアを本荘、新しく加わったエリアを新荘と呼ぶことが多いようです。ただ小松荘では、新しく開発や寄進が行われたことを示す史料はありません。
 それに対して、「松尾寺奉物日記之事」(慶長二十年(1615)という文書には「本荘殿」、「新荘殿」とあって、本荘と新荘それぞれに領主がいたことがうかがえます。これを領主による荘園支配の過程で、本・新荘が分かれたのではないかと「町誌ことひら」は推測しています。そして小松荘が本荘・新荘に分かれたのは鎌倉末期か、南北朝時代のことではないかとします。
戦国時代のヒエラルキー

 小松荘の地侍の台頭
この八講会には、地頭、代官、領家などの領主層が加わっているから、村人の祭とはいえない、それよりも領主主催の祭礼運営スタイルだと町誌ことひらは指摘します。
「石井家由諸書」によれば、この法会は嵯峨(後嵯峨の誤り)上皇によって定められたとあります。それはともかく、この三十番社の祭礼は小松荘領主九条家の意図によって始められたと研究者は考えています。荘園領主が庄内の信仰を集める寺社の祭礼を主催して、荘園支配を円滑に行おうとするのは一般的に行われたことです。その祭礼を行うために「頭役(とうやく)」が設けられたことは、以前にお話ししました。頭役(屋)になると非常に重い負担がかかってきますから、小松荘内の有力者を選んでその役に就けたとのでしょう。
 「石井家由諸書」には、九条家領のころは、預所のもとで案主、田所、公文などの荘官が中心になって法会を行っていたと記します。
それが南北朝時代以後になると、荘内の有力者が頭屋に定められて、法会に奉仕することになったというのです。彼らは領主側に立つ荘官とは違って、荘民です。南北朝のころになると、民が結合し、惣が作られるようになったとされます。小松荘にの惣については、よくわかりませんが、「金毘羅山神事頭人名簿」を見ると、慶長年間には次のような家が上頭人になっています
香川家が五条村
岡部家が榎井村
石川家が榎井村
金武家が苗田村
泉田家が江内(榎井)村、
守屋家が苗田村、
荒井家が江内(榎井)村
彼らは、それぞれの村の中心になった有力者だったようです。このような人たちを「地侍」と呼びました。侍という語からうかがえるように、彼らは有力農民であるとともに、また武士でもありました。
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石井家に伝わる古文には、次のように記されています。
 同名(石井)右兵衛尉跡職名田等の事、毘沙右御扶持の由、仰せ出され候、所詮御下知の旨に任せ、全く知行有るべき由に候也、恐々謹言
    享禄四            武部因幡守
      六月一日         重満(花押)
   石井毘沙右殿          
ここには、(石井)右兵衛尉の持っていた所領の名田を石井毘沙右に扶持として与えるという御下知があったから、そのように知行するようにと記された書状です。所領を安堵した武部因幡守については不明です。しかし、彼は上位の人の命令を取り次いでいるようで、有力者の奉行職にある人物のようです。
  石井毘沙右に所領名田を宛行ったのは誰なのでしょうか?
享禄4年(1531)という年は、阿波の細川晴元・三好元長が、京都で政権を握っていた細川高国と戦って、これを敗死させた年になります。この戦に讃岐の武士も動員されています。西讃の武将香川中務丞も、晴元に従って参戦し、閏五月には摂津柴島に布陣しています。小松荘の住人石井右兵衛尉、石井毘沙右も晴元軍の一員として出陣したのかもしれません。その戦闘で右兵衛尉が戦死したので、その所領が子息か一族であった毘沙右に、細川晴元によって宛行われたのではないかと町誌ことひらは推測します。
中世の惣村構造

このように地侍は、次のようなふたつの性格を持つ存在でした。
①村内の有力農民という性格
②守護大名や戦国大名の被官となって戦場にのぞむ武士
彼らは一族や姻戚関係などによって、地域の地侍と結び、小松庄に勢力を張っていたのでしょう。
Vol.440-2/3 人を変える-3。<ことでん駅周辺-45(最終):[琴平線]琴電琴平駅> | akijii(あきジイ)Walking &  Potteringフォト日記

興泉寺というお寺が琴平町内にあります。この寺の系図には次のように記されています。
泉田家の祖先である和田小二郎(兵衛尉)は、もと和泉国の住人であった。文明十五年(1483)、小松荘に下り、荒井信近の娘を妻とした。しかし、男子が生まれなかったので能勢則季の長子則国を養子とした。その後、能勢家の後継ぎがいなかったので、則国は和田、能勢両家を継いで名字を泉田と改めた。また和田、能勢家は、法華八講の法会の頭屋のメンバーであった。

ここからは、法華八講の法会の頭屋のメンバーによって宮座が作られ、宮座による祭礼運営が行われるようになっていたことがうかがえます。前回お話ししたように、南北朝時代から小松荘の領主は、それまでの九条家から備中守護細川氏に代わっていました。しかし、応仁の乱後には、細川氏の支配力は衰退します。代わって台頭してくるのが地侍たちです。戦国時代に小松荘を実質的に支配していたのは、このように宮座などを通じて相互に結び付きを強めた荘内の地侍たちであったと研究者は考えているようです。

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 その後、豊臣秀吉によって兵農分離政策が進められると、地侍たちは、近世大名の家臣になるか、農村にとどまって農民の道を歩むかの選択を迫られます。小松荘の地侍たちの多くは、後者を選んだようです。江戸時代になると次の村の庄屋として、記録に出てきます。
石井家は五条村
石川家・泉田家は榎井村
守屋家は苗田

地侍(有力百姓) | mixiコミュニティ
地侍(有力農民)
  彼らによって担われていた祭りは、金毘羅大権現の登場とともに様変わりします。
生駒藩のもとで、金光院が金毘羅山のお山の支配権を握ると、それまでお山で並立・共存していた宗教施設は、金光院に従属させられる形で再編されていきます。それを進めたのが金光院初代院主とされる宥盛です。彼は金光院の支配体制を固めていきますが、その際に行ったひとつが三十番社に伝わる法華八講の法会の祭礼行事を切り取って、金毘羅大権現の大祭に「接木」することでした。修験者として強引な手法が伝えられる宥盛です。頭人達とも、いろいろなやりとりがあった末に、金毘羅大権現のお祭りにすげ替えていったのでしょう。宥盛のこれについては何度もお話ししましたので、省略します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 町誌ことひらNO1 鎌倉・南北朝時代の小松・櫛梨」
関連記事

 


1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像2
琴陵宥常(ことおかひろつね)
 金毘羅大権現の最後の別当職は「宥常(ゆうじょう)」です。
彼は、明治の神仏分離の激流の中で、金刀比羅宮権現を神社化して生き残る道を選びます。そして、自らも還俗して琴陵宥常(ことおかひろつね)と名乗ることになります。彼が神仏分離の嵐とどのように向き合ったかについては、以前お話ししました。今回は、彼の結婚について焦点を絞って見ていきたいと思います。
  テキストは「山下柴  最後の別当職琴陵宥常の婚姻と山下盛好 ことひら39 昭和59年」で
1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像

  金毘羅大権現は、金光院の院主が「お山の殿様」でした。
金毘羅大権現は神仏習合の社で、最高責任者は、金光院の院主でした。社僧ですから妻帯できません。したがって跡目は実子ではなく、一族の山下家から優秀な子弟から選ばれていました。宥常の先代の金光院院主は、宥黙で優れた別当で和歌を愛する文化人でもありました。しかし、病弱だったようで、そのために早くから次の院主選びが動き出していたようです。 
皇霊殿遥拝式2

 山下家一族の中に、宇和島藩士の山下平三郎請記がいました。
その二男の繁之助(天保11年(1840)正月晦日生)の神童振りは、一族の中で噂になるほどで白羽の矢が当たります。宥黙は信頼できる側近の者を宇和島藩に派遣して、下調査を重ねた上で琴平・山下家への養子縁組みを整わせます。嘉永2年(1850)11月29日、10歳の繁之助は、次期院主として金毘羅に迎えられたのです。これが先ほど紹介した宥常で、18代別当宥黙(ゆうもく)の後継者に選ばれます。そして安政4(1857)年10月22日に第19代別当に就任しました。宥常18歳の時です。これを進めた琴平の山下家当主の盛好は、次のような歌を詠んでいます。
  「今日よりは象の御山の小松菊
       千代さかえ行く末や久しき」   
 ちなみに宥常は父平三郎、母おつ祢の二男で、兄弟姉妹は兄と妹3人の5人兄弟でした。宥常は、安政五年六月八日、徳川将軍家定公に御目見、同年七月十二日孝明天皇に拝謁しています。そして、明治維新を28歳で迎えることになります。何もなければ彼は、このまま金光院別当として生涯を過ごすはずでした。しかし時代は明治維新を迎え大きく変わります。「御一新」の嵐は、象頭山のにも吹き荒れます。
なぜ宇和島藩の藩士の子が、後継者に選ばれたのでしょうか。
 それは先述したとおり、金毘羅大権現のトップは山下家の一族の中から優秀な子弟から選ばれるよいうルールがあったからです。 山下家一族のうち、中の村(三豊郡)の山下助左衛門盛寿の男、盛昌、山下輿右衛門については
「延宝二年(1675)甲寅年、伊達侯に仕う。知行二百石、中奥頭取」
とあります。財田の出身の山下家の一族の中に、宇和島藩の伊達家に仕官した者がいました。それが山下盛昌で、俳諧が上手な文化人であったようです。山下盛昌は、琴平宮本社の棟札にも名が残っているので、恐らく金光院の関係で京、大坂へも上った際に、徘徊のたしなみを身につけたのでしょう。
 あるときに、金毘羅さん参詣した伊達家重役が彼の俳諧に傾倒し、宇和島まで同道し仕官を奨めたという話が伝えられます。時の藩主は、七万石に減石されていたのを元の十万石に高直したとされる名君伊達宗貳です。山下盛昌という人物に、文化人だけではない何かを見いだしたのでしょう。
 伊達家に仕えた山下盛昌は、中奥頭取にまで出世しています。彼が現実的経世的知識をそなえ、藩主の信頼を得ていたことがうかがえます。盛昌の叔父も宇和島藩の梶谷家(知行二百石)へ養子に入っています。こうして、山下家を通じて金毘羅さんは宇和島藩とのつながりを持っていたようです。
白峰神社例祭 …… 奥社遥拝


  琴平・山下家の盛好による嫁探し
 山下盛好の日記には
「小松を藤原朝臣に改め琴陵を廃し、小松屯に仕度申出候得共叶不申」明治二巳七月二十二日

とあります。宥常は金毘羅大権現を、神社化することで生き残る道を選びました。そして自らも還俗します。その結果、「嫁取り」の話が出て来ることになります。
 その候補者選びの方針は、「結婚相手を京都公卿の姫」に求めることだったようです。関係する高松藩松平家などから迎えるという選択もあったはずですが、公家から迎える道を選びます。御一新の時代、天皇家に近い公家との新たな関係を築くことが今後の金刀比羅宮の発展につながると考えたのでしょう。それでは、具体的に候補者をどのように選んだのでしょうか。
白峰神社例祭2

 具体的な候補者選びを行ったのは、琴平・山下家の盛好だとされています。彼の日記「山下盛好記」には、次のように記されています。
「御簾中 称千万姫・正二位大納言胤保卿御女 安政元申九月二日生レ玉フ」
「己レ今年両度上京六月二日 始テ保子姫御目見」
 盛好は二度上京し、交渉に当たったようで「辛労甚シ」とも書いています。千万姫は三十二才を迎えていましたが「才色兼備のお姫様、美しく漓たけた誠におやさしい」と宥常に報告します。これを聞いて、宥常は喜び「頬を染め厚く厚く礼を述べた」と、盛好は記しています。

潮川神事

結納や諸手続についての覚書が残されているので、見ておきましょう
一、御願立御日限之事但シ御下紙拝見仕度候事
  御内約御治定之上御結納紅白縮緬二巻差上申度候事 
  但シ右代料金五十両 差上度候事
  御家来内二ハ御肴料御贈申候事
一、御主従御手当金二百五十両差上申度候事 
  但シ御拵之儀 当方之御有合二而宜敷御座候事伏見御着 
  迄之警固入費金十五両差上候
  御乗船ヨリ当方マデ 御賄申上候御見送り御家来御開之
  節 同様京都迄御賄申上候事
  居残り御女中御手当金前後十五両御贈申候事
一、御供之儀 伏見御家政之内壱人御老女壱人御女中壱大
  御半下壱人刀差壱人御下部壱大二御省 略被下度 下部
  壱人当方ヨリ相廻シ申恨事 女中老人壱ケ年又ニケ年見
  合二而御嘔巾度似事
一、御由緒書拝見仕度候事
一、御内約御治定ノ上 先不取敢御肴料差上度候事
  但シ御家来内江モ同様御贈申上度候事
一、御土産物総而御断申上候事
一、御姫様御染筆御所望申上度候事
  右之件二御伺申上度営今之御時節柄二付可成丈御省略之御取計奉願候也
                 琴陵家従五位内
 明治四年辛未五月        山 下 真 澄
 
意訳変換しておくと
一、日取りや時間については、下紙(添付書)で確認すること
  御内約が整った上で、御結納は紅白の縮緬に巻いて差上ること。
  但し、代料金は五十両。御家来内には、御肴料をお贈りするこ
  と。
一、主従手当金として二百五十両を差上げること 
  但し、拵之儀(伏見までの警固費十五両)
  御乗船から金刀比羅宮までの費用、家来の京都までの見送り費用
  居残り女中の御手当金など、合わせて十五両
一、御供について、伏見御家、老女、女中、半下、刀差 御下部
  をひとりずつつけること。この費用については当方が負担するこ 
  と。女中老人は、1年か2年お供する予定である。
一、御由緒書を準備し拝見すること
一、御内約が決定した上で、御肴料を差上げること。但し御家来にも
同様の贈り物を準備すること
一、御土産物は、すべてお断りすること
一、姫様の御染筆(揮毫)を、所望すること
  以上についてお伺い申し上げ、御一新の時節柄に付き、省略できるものは省くようにお願いしたい。
            琴陵家従五位内
 明治四年辛未五月        山下真澄

 私が気になるのは婚礼費用です。
ここに出てくる数字だけだと650両前後になるようです。明治元年に新政府から求められて、貢納した額が1万両でした。この翌年に、神仏分離で廃物され蔵の中に収められていた仏像などを入札販売していますが、その時の一番高額で落札されたのは、金堂(現旭社)の丈六の薬師如来でした。その値段が600両と松岡調の日記には記されています。それらから比べると高額な出費とは、私には思えません。
金毘羅大権現 旭社
旭社(旧金堂)

こうして段取りが整った後、明治4年8月29日、山下盛好はお姫様をお迎えするため、粟井玄三、仲間の福太、房吉を連れ三度目の上京をします。そして約1ヶ月後の9月30日に、千万姫と共に丸亀港に還ってきます。その夜九ツに駕で丸亀を出発、丸亀街道を進んだようです。途中、小休止をニケ所でとり、無事に中屋敷へ到着します。
「御姫様御元気にて御休息。老女とよ、女中おゆき、家令の築山恒利大夫と挨拶をかわす。」
と記されます。その後の盛好記には、次のように記されています。

宥常殿報 恐悦至極ノ態 下山セシハ夜モホノボノ明渡り候事

「夜モ ホノボノ明渡り候事」に盛好の、満足感と大任を果たした安堵感がうかがえます。そして、3日後の「十月二日夜、御婚礼千秋万才目出度く」とあります。翌日、廣橋正二位大納言胤保殿へ逐一報告済と記るされています。
 18歳で出家し、金光院別当となった時には、仏に仕える身となりました。もう家庭をもつことは、なくなったと思っていた宥常は、32歳で妻帯することになったのです。そして一男二女を設けます。これを契機にするかのように、金刀比羅宮には追風が吹くようになります。
 金比羅講に代わって、近代的なシステムに整備されたは、多くの信者を組織化し、金刀比羅宮へと送り込むようになります。まさに「金を生むシステム」として機能するようになります。そこから生まれる資金を背景に、宥常は博覧会や新たな神道学校作りなどに取り組めるようになります。事業的にも、家庭的にもまさに「追い風に帆懸けてシュラシュシュシュ」だったのかもしれません。

 最後に宥常が21才の時に、京に上がって天皇に拝謁の時の記念として、御厨子を京で作らせ盛好に贈っています。自分を、院主に付けてくれた感謝の意だったのかもしれません。そこには次のように記されています
   奉献御厨子
    右意趣者為興隆仏法国家安穏
    殊者山下家子孫繁栄家運長久
    而已敬白
   万延元康中歳二月吉辰
      金光院権大僧都 宥常
 また「京師堀川 綾小路正流仏工 田中弘造 刻」ともあります。
この御厨子は、今は山下家の菩提寺の山本町の宋運寺(盛好の遠祖、山下宗運建立)に保管されているようです。この奉献厨子の中には、山下家云々とあります。ここからは、二人の間には山下家としての同族意識があったことがうかがえます。金毘羅大権現の影の実力者として山下家は山内に、大きな影響力を持ち続けていたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
1琴綾宥常 肖像画写真

琴綾宥常 高橋由一作

参考文献
「山下柴  最後の別当職琴陵宥常の婚姻と山下盛好 ことひら39 昭和59年」で


金刀比羅宮宝物館の十一面観音について
明治の神仏分離で、金毘羅大権現の仏像たちは全て追い出されて、金毘羅大権現は金刀比羅宮に変身しました。入札で引き取り手のある仏は、他の寺に移っていきました、引き取り手のないものは、燃やされたことが当時の禰宜であった松岡調の日記には書かれています。そして、金刀比羅宮には仏様はいなくなった・・・・はずなのですが二体だけ残されて、宝物館に展示されています。当時の金刀比羅宮の禰宜松岡調が、このふたつの仏だけは残すと決めた仏像です。金毘羅さんにとって、それだけ意味のある仏であったようです。
宝物館に行くと、松尾寺観音堂にあった十一面観音像が迎えてくれます。
11金毘羅大権現の観音
十一面観音(金刀比羅宮)
 もともとこの観音様は聖観音として伝来してきました。しかし、正面に立って見ると頭上の化仏が指し込められていた穴跡が見えます。聖観音ではなく、十一面観音だったことが分かります。

1 金毘羅大権現 十一面観音2
十一面観音(金刀比羅宮)
 左手に持っていた蓮の花を挿した花瓶も失われています。観音を乗せていた蓮華座もありません。よく見ると裳には華文を描いた彩色が残っています。
DSC01221
         十一面観音(金刀比羅宮)
藤原時代前期の作とされて、今は重文指定を受けています。
DSC01222

この十一面観音が神仏分離以前には、松尾寺の観音堂に安置されていたようです。

2.象頭山山上3 ピンク
本堂左側にあるのが松尾寺の観音堂

私はてっきり、この観音さんが本尊だとおもていたのですが、そうではないようです。江戸末期の『金毘羅参詣名勝図会』には、観音堂の本尊は「聖観音菩薩」で、この「十一面観音」は本尊の「前立て」として安置されていて、「古作」であると記されています。江戸末期には、化仏も失われ、花瓶も失われていたので、前立てとして脇役の位置に甘んじていたようです。

DSC01029観音堂

 さて、本題に入っていきます。観音堂が松尾寺の本堂として最初に創建されたのは戦国時代末でした。十一面観音の方は、それよりずっと古い藤原時代前期の作です。本堂と十一面観音の時代が一致しません。
金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現 観音堂(讃岐国名勝図会)

ここからは、創建された本堂に、どこからか十一面観音を持ち込んできて、いつの時代からは聖観音とされていたことが分かります。

金毘羅観音堂略図
十一面観応が安置されていた観音堂平面図
 それでは、この十一面観音は、どこからやってきたのでしょうか
まず考えられるのは、大麻山中にあった古刹の滝寺・小滝寺からやってきたという説です。

金毘羅宮の学芸員を長く勤めた松原秀明氏は「金毘羅信仰と修験道」の中で
①観音堂の本尊は、道範の『南海流浪記』に出てくる大麻山の滝寺の本尊を移したもの
②前立の十一面観音は、その麓にあった小滝寺の本尊であったもの
 滝寺とは、どこにあったお寺でしょうか。

DSC01220
滝寺は現在の葵の瀧辺りにあったいわれる

奥社からさらに、大麻山方面へ工兵道が伸びていきます。この道は戦前の善通寺11師団の工兵たちが演習で作ったので、工兵道と呼ばれています。ほぼ水平のの歩きやすい山道で、野田院古墳辺りに抜けていきます。その途中に、切り立った屏風岩という崖があり、高さはありますが水量は乏しい瀧が現れます。今は地元では、葵の瀧と呼ばれているようですが大雨の降った後は見応えがあります。金毘羅さんの中で、私のお勧めポイントです。ここは修験者の行場としてふさわしいところで、象頭山に全国から集まった「天狗」たちの聖地だったところと私は考えています。

 滝寺と呼ばれた寺院の本尊は?
仁治四年(1243)事に讃岐に流された高野山のエリート僧侶、道範は讃岐での生活を『南海流浪記』に残しています。

史料紹介 ﹃南海流浪記﹄洲崎寺本
南海流浪記 洲崎寺版
 放免になる前年の宝治二年(1248)年11月、道範は、琴平の奥にある仲南の尾の背寺を訪ねた帰路に、琴平山の称名院に立ち寄ったことが次のように記されています。

「……同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
             (原漢文『南海流浪記』) 
意訳すると
こじんまりと松林の中に庵寺があった。池とまばらな松林の景観といいなかなか風情のある雰囲気の空間であった。院主念念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
すると返歌が送られてきたようです。
 道範は念々房がいなかったので、その足で滝寺に参詣し、次のように記しています。
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」 (『南海流浪記』)

ここから分かることは
①道範が秋も深まる11月末に滝寺を訪れたこと
②坂を1,6㎞ほど登ると東向きに瀧があり
③古い寺の痕跡を示す礎石も所々に残り  → 古代山岳寺院?
④本堂は五間四方で、千手観音を本尊(?)とする山岳寺院
  大きさが五間というと山中にあるにしては、立派な本堂です。注目したいのは本尊です。「本仏御作千手云々」で「御作」とあるので弘法大師手作りなのでしょう。「千手」とあるので千手観音菩薩と考えられます。しかし、研究者が注目するのは最後の「云々」です。これは伝聞で、断定の「也」ではありません。ここからは宥範は、実際には瀧寺の本尊の観音さまを見ていなかったとも考えられます。そうだとすれば

「金刀比羅宮所蔵の十一面観音像は、滝寺の本尊であった」

という説とも矛盾しないというのです。「本仏御作千手云々」をどう解釈するかの問題になります。

「滝寺の千手観音 → 松尾寺観音堂の十一面観音」説

は、紙一重で生き残っていることになります。実は、これは金比羅神の本地物問題とも関わってくることのようです。そして、研究者が頭を抱えている問題でもあるようです。ここでは十一面観音が滝寺からやって来たということは、認められない立場の研究者の説を見ていくことにします。

称名寺 「琴平町の山城」より
金刀比羅宮神田の上にあった称名寺

十一面観音は、麓の称名寺からやってきたという説もあります。
称名寺の本尊については、道範は何も記していません。江戸時代の多聞院に伝わる『古老伝旧記』に称名院のことが、次のように書かれています。

「当山の内、正明(称名)寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」

意訳すると
象頭山に昔、称名寺という古寺があり、大門や緒堂があった。地域の鎮守として信仰され、西山村の氏神も祀られていたという。本堂には阿弥陀如来がまつられている。それが今の院内の阿弥陀仏である。

 地元では、阿弥陀如来が祀られていたと伝えられます。浄土教の寺としての称名院の姿がうかがえます。ここには十一面観音が称名院にあった痕跡はありません。高野聖に近い念仏聖がいた気配がします。

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称名寺跡の祠
 近世以前の象頭山には、金毘羅神の出現以前に滝寺・称名寺や大麻山などの宗教施設があり、地元の人々の信仰の対象となっていたことが分かります。同時に、霊山として修験者の行場としても機能していたようです。しかし、十一面観音を本尊とする寺院は周辺には見当たりません。
 金比羅神を創出し、金比羅堂を建立した宥雅にとって、十一面観音はどうしても手に入れ、安置したい仏でした。なぜなら金比羅神の本地物は、十一面観音とされていたからです。十一面観音は、どこからやってきたのでしょうか?  その前に、金比羅堂建立について、触れておきます。
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称名寺跡付近から眺めた小松荘

 松尾寺及び金毘羅堂は、いつだれによって建立されたのか
 松尾寺の創建は、古代や中世に遡るものではなく戦国時代末のことであったと現在の研究者の多くは考えるようになっています。その根本史料としてあげられるのが松岡調の『新撰讃岐風土記』に紹介されている次の金比羅堂の創建棟札です。
 (表)「上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿 当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉 
于時元亀四(1573)年発酉十一月廿七日記之」
 (裏)「金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
ここからは次のような事が分かります。
①元亀四年(1573)に宥雅は、松尾寺境内に「金毘羅王赤如神」を祀る金毘羅堂を建てた
②その新築された堂と堂内で祀られた本尊の開眼法要の導師を高野山金剛三昧院の良昌が勤めた
 この棟札は、以前は「本社再営棟札」とされていました。しかし、この内容からは、金毘羅神が鎮座するための金毘羅堂を新しく建立したと読めるのです。「再営」ではなく「創建」なのです。
大麻山と象頭山 A
象頭山
松尾寺のある象頭山は霊山で、修験者の行場も数多くあります。
最初に、ここに行場を開いたのは熊野行者であったようで、熊野行者が祀る薬師如来を本尊として松尾寺が開かれたようです。そのため金毘羅堂では「金毘羅王赤如神」を祀っていても、松尾寺の本尊は薬師如来で、それを春族の宮毘羅大将をはじめとする十二神将が守るという形がとられていた研究者は考えているようです。

 しかし、金毘羅神の本地仏は十一面観音なのです。
十一面観音を本尊とする本地堂(観音堂)が新たに必要になります。そのため寛永元(1624)年までには観音堂が、現在の金刀比羅宮本社前脇に建ってられたようです。そして、ここに十一面観音を安置することで、金毘羅神の由緒の歴史性と正統性が確立されることになります。
次に導師を勤めた良昌とは、何者なのでしょうか?
高野山大学図書館蔵の『折負輯』は、次のようにあります。
「第三十二世良昌善房、讃州財田所生法勲寺嶋田寺兼之、天正八年庚辰四月朔日寂」

とあって、ここからは、良昌は、讃岐三野郡の財田の生まれで、法勲寺と島田寺の管理も任されていたようです。天正8(1580)年に亡くなっていることが分かります。
 法勲寺といえば、「綾氏系図」に出てくる古代寺院で、綾氏の氏寺とされます。また、島田浄土寺は、同寺旧蔵の『讃留王神霊記』には綾氏の氏寺記され、神櫛王の「大魚退治伝説」の発信地のひとつです。以前に、「金比羅神=クンピラーラ + 神櫛王伝説の悪魚(神魚に変身)」説を紹介しました。金毘羅堂落慶供養導師良昌と島田浄土寺・法勲寺と「大魚退治伝説」とを結ぶ因縁が、金毘羅信仰成立にも絡んでいると研究者は考えているようです。

1櫛梨神社3233
神櫛王の悪魚退治伝説(宥範縁起と綾氏系図の比較表) 
悪魚伝説については何度も触れましたが、できるだけコンパクトに紹介しておきます
  法勲寺には、寺院縁起として次のような悪魚退治伝説が、伝えられてきました。
 景行天皇の時代、瀬戸内海には呑舟の大魚が棲んでおり、舟を襲ってば旅客に莫大な被害を与えた。そこで朝廷では、日本武尊の子で勇猛な神櫛王(武卵王)に悪魚を退治させるように命じた。神櫛王はみごと悪魚を退治したので、讃岐国を与えられ国造としてこの地を守ったので、人々は彼を、讃留霊王と呼ぶようになった。讃留霊王が亡くなると、法勲寺の西に墓がっくられて讃留霊王塚と呼んで法勲寺が供養してきた。

というのが、法勲寺に伝わる悪魚退治伝説の粗筋です。
金毘羅神=クンピーラ+神櫛王の悪魚退治伝説

神櫛王の悪魚退治伝説
悪魚は退治されてもその怨念は鎮まらず、たたりとなって悪疫や争乱を引き起こします。そこで、悪魚の怨念を鎮めるために、退治された悪魚の屍が流れ着いたという坂出市の福江浜には、悪魚を祀る魚の御堂が建てられます。
 宥雅は56歳の時、無量寿院縁起を筆録しています。
その中には悪魚退治伝説が含まれていました。宥雅は、法勲寺に伝わる悪魚退治伝説のことをよく知っていたのです。宥雅は、西長尾城城主の弟とも甥とも云われます。彼は長尾氏一族の支援を受けて、1573年に松尾寺境内に金毘羅堂を創建します。その数年前の1570年頃には、十一面観音を本尊として祀る松尾寺を、長尾城主の長尾大隅守高家を始めとする一族の支援を得て建てます。
 新しく建立した松尾寺を守る守護神として、今までの三十番神では役不足と考えた宥雅は、強力な力を持った蕃神の勧進を考えます。その結果生み出されたのが流行神の金毘羅神だという説です。その際に、金比羅神の「実態」イメージとして借用したのが「悪魚退治伝説」に登場する「悪魚」でした。これを「神魚」としてイメージアップして、金比羅神へと変身させていったのです。

   その辺りのことを研究者は次のように、述べます
 大魚を、仏典のワニ神クンビーラや大魚マカラと融合させていかめしく神として飾り立てたのが、金毘羅王赤如神だ。写本した無量寿院縁起の中で宥雅は、悪魚のことを「神魚」だと記している。金毘羅堂の祭神の金毘羅王赤如神は、仏典のクンビーラやマカラで飾り立てられた神魚であったといえる。古くよりワニのいない日本で、ワニとされたのは海に棲む凶暴な鮫であった。鮫=悪魚で、悪魚の姿は仏典に見える巨魚マカラと習合する事で巨大化し、呑舟の大魚となったといえよう。『大集念仏三昧経』には、「金毘羅摩端魚夜叉大将」とあって、ワニ神クンピーラと大魚の摩端魚(マカラ)を結び付けて、夜叉を支配する大将としていた。退治された悪魚は死して鬼神となり、夜叉=鬼神であったから、悪魚は夜叉の大将として祀られる事となった。

 以上をまとめると次のようになります。
①金毘羅堂の創建と悪魚退治伝説には密接な関連がある
②悪魚退治伝説は法勲寺の縁起であって、
③廃絶した法勲寺の寺宝類を預っていたのが良昌で、彼は島田寺も管理していた
④良昌は松尾寺内の金毘羅堂の開眼法要を行っている。
  この上に立って、研究者は次のステップに飛躍します。
松尾寺の十一面観音は、もとは法勲寺にあったのではないかというのです。そして、次のような仮説を立ち上げていきます。
①法勲寺の管理を委ねられた良昌は、その再建の機会をうかがっていた
②宥雅が松尾寺を建立することを聞いて、宥雅に十一面観首を譲ってその管理を頼んだ
③金毘羅堂の創建には、廃絶した法勲寺の悪魚退治伝説を受け継ぎ、後世に伝える期待が込められていた
つまり、現在の宝物館にある十一面観音は、もともとは法勲寺の本尊で、島田寺で保管されていた仏が、松尾寺本堂(観音堂)に持ち込まれたという説になります。
良昌が管理責任者だった頃の法勲寺は、どんな状態だったのでしょうか
法勲寺は室町後期に失火が原因で焼失して廃絶し、焼け残った仏像や聖典・仏具などを島田寺に預けていたと云います。しかし、島田寺も長宗我部元親の讃岐侵攻で焼けてしまいます。その後、生駒親正が讃岐の領主となって入国して高松に城をつくった時に、法勲寺は菩提寺として高松城下に移されてで再建されます。その法勲寺の属寺として、飯山の島田寺も再建されたようです。後に、法勲寺は親正の法名弘憲にちなんで、弘憲寺と呼ばれるようになります。
 再度確認しておくと良昌が法勲寺と島田寺の管理を任されていた頃、法勲寺は伽藍もお堂もない、状態で、焼け残った仏像や寺宝類を島田寺に預けていたと、研究者は考えているようです。
そのような中で良昌は、当時は島田寺に保管されていた十一面観音を宥雅に譲り、松尾寺で金比羅神の本地仏として祀ることを提案したのではないでしょうか。この時の良昌の頭の中には

松尾寺の本尊 薬師如来
=守護神 金比羅神 
=その本地仏・十一面観音

という図式があったのかもしれません。逆に考えると、十一面観音を本地物とする蕃神を新たな松尾寺の守護神とすることを、提案したのは良昌だったとも小説なら書けそうです。もちろん、悪魚伝説もセットになります。
 良昌にしてみれば、高野山にいて故郷の法勲寺や島田寺の荒廃には、心を痛めていたはずです。
そのような中で、悪魚伝説が金比羅神に姿を変えて伝えられることは、神櫛王=讃留霊王伝説を後世に伝え、ひいては綾氏創生伝説を引き継いでいくことにもなります。宥雅が松尾寺・金比羅堂を建立するのを聞いて、良昌は全面的な支援を行うことを決意したのでしょう。新たな地方寺院の建立に、故郷の讃岐の事とは云え、高野山のトップに近い高僧がやってくるというのは普通ではありません。そのくらいの背景があったと考えても不思議ではないでしょう。
もう一度、十一面観音を見てみましょう。
1 金毘羅大権現 十一面観音1

 蓮華座は失われていますが、その形態から十一面観音であることはとは明らかです。松尾寺の十一面観音は、もとは法勲寺のものという仮説はどうでしょうか。史料的な裏付けはありませんが、近世直前の金毘羅さんの動向を考える上では、私にとっては刺激剤となりました。
年表で宥雅と金比羅堂を取り巻く状況を最後に確認しておきましょう
元亀4年1573 宥雅が金毘羅宝殿を建立。良昌が導師として出席
天正元年1573 本宮改造。
天正7年1579 長宗我部元親の侵入を避けて宥雅が泉州へ亡命。
                土佐の修験者である宥厳が院主に
                元親側近の土佐修験者ブレーンによる松尾寺の経営開始 
天正9年1580 長宗我部元親が讃岐平定を祈って、天額仕立ての矢
       を松尾寺に奉納。
天正11年1583 三十番神社葺替。棟札には、「大檀那元親」・
「大願主宥秀」      
天正12年1584  讃岐は元親によって平定。
天正12年1584 長曽我部元親が仁王堂を寄進(賢木門改造)
                棟札の檀那は「大梵天王長曽我部元親公」願主は 「帝釈天王権大法印宗信」
 当時の象頭山は、三十番神、松尾寺、金比羅大権現の並立状態。

以上の仮説をまとめておくと次のようになります
① 松尾寺の観音堂の十一面観音は、松尾寺建立よりもずっ
  と古い藤原時代前期の仏像
② 松尾寺と金毘羅堂の創建は、宥雅と高野山金剛三昧院の
良昌の二人の僧侶の協力によって行われた
③ 良昌は法勲寺の寺宝類を管理する立場にあり、十一面観 音は焼け残った法勲寺の寺宝の一つであった

最後に高松に移され生駒親正の菩提寺となった弘憲寺について見ておきましょう
1 弘憲寺 讃留霊王G

 この寺には、江戸時代に描かれた讃留霊王(神櫛王)の肖像画があります。ここからは、弘憲寺が法勲寺を継承する寺であることがうかがえます。同時に、生駒藩時代には讃留霊王信仰が藩主によって広まっていた形跡もあります。

 弘憲寺の本尊は、平安時代の木像不動明王立像です。

木造不動明王立像|高松市
高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』は、この不動明王について、次のように記します。
 不動明王は、身の丈109センチの檜(ひのき)の一木造りで岩坐の上に立っておられる。頭の髪は、頂で蓮華(れんげ)の花型に結(ゆ)い、前髪を左右に分けて束ね、左肩から垂らす。腰には短い裳(も)をまとい、腰紐で結ぶ。このお姿から、印度の古代の田舎の童子の髪の結い方や服装がうかがわれる。額にしわをよせ眉をさかだて、左の目は半眼に右目はカッと見開く。いわゆる天地眼(てんちがん)で、左の上牙で下唇を右の下牙で上唇をかみしめ、忿怒相(ふんぬそう)をしている。不動信仰の厳しさを感じさせられる。
 全身の動きは少なく、重厚さの中に穏やかさを感じさせ、貞観彫刻から藤原彫刻への移行がみえる。旧法勲寺(ほうくんじ)(飯山町)から移されたと伝えられている。
この不動明王も、もともとは法勲寺にあったもののようです。不動明王は修験者の守護神ですから中世には、法勲寺や島田寺も修験者の寺であったことがうかがえます。しかし、修験者が守護神として身につけた不動明王は、空海によってもたらされた「新しい仏」で、白鳳・奈良時代にはいなかった仏です。奈良時代に開かれた法勲寺の本尊としては、ふさわしくありません。創建当時から本尊とされていたのは、不動明王以外の仏が本尊であったと考えるのが自然です。
それでは、法勲寺の本来の本尊は何だったのでしょうか
 第1候補として挙げられるのが観音菩薩です。そうだとすれば、金毘羅大権現の松尾寺の十一面観音は法勲寺のものであった可能性がでてきます。しかし、それを裏付ける史料はありません。あくまで仮説です。
松尾寺は別当寺として金毘羅大権現を祀り、この松尾寺の中心が観音堂でした
そういう意味では、十一面観音は金毘羅信仰の中でも重要な位置を占めていたわけです。そして、松尾寺は観音霊場でもあった痕跡があります。十一面観音は平安時代からの微笑を浮かべるだけで、その由来に関しては何も語りません。
参考文献
○松原秀明「金毘羅信仰と修験道」(守屋毅編『民衆宗教史叢書 金毘羅信仰』、雄山間発行、一九九六年)
○『琴平町史』巻一 (琴平町発行、一九九六年)
○「金毘羅参詣名勝図会」「讃岐国名勝図会」(『日本名所風俗図会 四国の巻』、角川書店発行)


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現在の金刀比羅宮は、大物主命を主祭神としています。しかし、明治の神仏分離までは金毘羅大権現が祭神でした。それではこの神社に祀られていた金毘羅大権現とは、どんな姿だったのかのでしょうか。金比羅については次のように云われます。
「サンスクリット語のクンビーラの音写で、ガンジス河に棲むワニを神格化した神とされる。この神は、仏教にとり入れられて、仏教の守護神で、薬師十二神将のひとり金毘羅夜叉大将となった。また金毘羅は、インドの霊鷲山の鬼神とも、象頭山に宮殿をかまえて住む神ともいわれる」
つまり、もともとはインドではヒンズーの神様で、それが仏教守護神として薬師十二神将のメンバーの一員となって日本にやってきたものと説明されてきました。
1drewniane-postaci-niebianskich

それでは、金毘羅大将は十二神将のメンバーとしては、どこにいるのでしょうか? 
最も古い薬師十二神将であると言われる薬師寺のお薬師さんを守る十二神将を見てみるとお薬師さんの左手の一番奥にいらっしゃいます。彼の本地仏は弥勒菩薩です。インドでは、彼の家は「象頭山」とされるので、讃岐の大麻山と呼ばれていた山も近世以後は象頭山と呼ばれるようになります。

1十二神将12金毘羅ou  
確認しておくと以下のようになります。
 クンピーラ = 薬師十二神将の金毘羅(こんぴら・くびら)= 象頭山にある宮殿に住む
 
12金毘羅ou  
十二神将の金比羅(クビラ)大将

しかし、こんぴらさんが祀っていたのは、この金比羅大将とは別物だったようです。松尾寺の本堂の観音堂の後に金比羅堂が戦国末期に、修験者達によって建立されます。
金比羅堂に祀られていた金毘羅大権現像はどんな姿だったのでしょうか?
江戸時代には、金毘羅を拝むことのできませんでした。しかし、特別に許された人には開帳されていたようで、その記録が残っています。
  『塩尻』の著者天野信景は、次のように記します。
金毘羅は薬師十二神将のうちのか宮毘羅(くびら)大将とされるが、現実に存在する金毘羅大権現像は、
薬師十二神将の像と甚だ異なりとかや」「座して三尺余、僧形なり。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所戴の頭巾を蒙り、手に羽団を取る」
CPWXEunUcAAxDkg金毘羅大権現
  天和二年(1682)岡西惟中の『一時随筆』の中で
「形像は巾を戴き、左に数珠、右に檜扇を持玉ふ也、巾は五智の宝冠に比し、数珠は縛の縄、扇は利剣也、本地は不動明王とぞ、二人の脇士有、これ伎楽、伎芸といふ也、これ則金伽羅と勢咤伽、権現の自作也」、
  延享年間に増田休意は
「頭上戴勝、五智宝冠也、(中略)
左手持二念珠・縛索也、右手執二笏子一利剣也、本地不動明王之応化、金剛手菩薩之化現也、左右廼名ご伎楽伎芸・金伽羅制叱迦也」、
 
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金光院が配布していた金毘羅大権現
幕末頃金毘羅当局者の編んだ『象頭山志調中之能書』のうち「権現之儀形之事」は
「優婆塞形也、但今時之山伏のことく持物者、左之手二念珠右之手二檜扇を持し給ふ、左手之念珠ハ索、右之手之檜扇ハ剣卜申習し候、権現御本地ハ不動明王也、権現之左右二両児有、伎楽伎芸と云也、伎楽ハ今伽羅童子伎芸ハ制叱迦童子と申伝候也、権現自木像を彫み給ふと云々、今内陣の神肺是也」
と、それぞれに金毘羅大権現像を記録しています。これらの史料から分かることはは金毘羅大権現の像は、十二神将の金比羅神とはまったくちがう姿だったことです。その具体的な姿は
①頭巾を被り
②左手に念珠、
③右手に扇もしくは笏を持ち、
④伎楽・伎芸の両脇士を従える
という共通点があったことを記録しています。ここからは江戸時代金比羅山に祀られていた金毘羅大権現像は「今の修験者」「今時之山伏のごと」き姿だったのです。それは役行者像を思い描かせる姿です。

konpiragongen金毘羅大権現
松尾寺に伝わる金毘羅大権現 
これを裏付けるように『不動霊応記』では
「金毘羅大権現ノ尊像ハ、苦行ノ仙人ノ形ナリ、頭二冠アリ、右ノ手二笏ヲ持シ、左ノ手二数珠ヲ持ス、ロノ髪長ウシテ、尺二余レリ、両ノ足二ハワラヂヲ著ケ、頗る役行者に類セリ
といった感想が記されています。金毘羅大権現像を見た人が「役行者像とよく似ている」と思っていたことは注目されます。
1円の業者
  記録に残された金毘羅大権現像について、もう少し具体的に見てみましょう。
①頭巾は五智宝冠に、
②左手の念珠は縛索に、
③右手の扇または笏は利剣に、
④伎楽・伎芸の両脇士は金伽羅・制叱迦の二童子
以上から姿をイメージすると、不動明王とも言えます。確かに金毘羅大権現の本地仏は不動明王とされますので納得がいきます。しかし、役行者像に付属する前鬼・後鬼についてもこれを衿伽羅・制叱迦の二童子とする解釈もあるようです。どちらにしても「役行者と不動明王」の姿はよく似ているのです。
 江戸時代に大坂の金毘羅で最も人気を集めた法善寺でした。
その鎮守堂再建の際に、「これは金毘羅堂の新規建立ではないのか」と、讃岐の金毘羅本社よりクレームがつきます。いわゆる「偽開帳」にあたるのではないかと言うのです。その時の法善寺の返答は
「当寺鎮守ハ愛染明王二而御座候得共、役行者と不動明王を古来より金毘羅と申伝、右三尊ヲ鎮守と勧請いたし来候」
とその由緒を述べ
「金毘羅新キ建立なと申義決而鉦之御事二候」
と申し開きを行なっています。つまり、金毘羅大権現像と姿が似ている役行者像、金毘羅大権現の本地仏とされた不動明王像の二体を法善寺では金毘羅大権現と称していたのです。

金毘羅大権現2
 これ以外にも役行者像を金毘羅大権現像と偽る贋開帳が頻繁に起きます。讃岐本社の金毘羅大権現像自体も、役行者像そのものではなかったかと思わせるぐらい似ていたことがうかがえます。ただ、琴平の金毘羅さんには金毘羅大権現以外に、役行者を祀る役行者堂が別にあったようなので、金毘羅大権現イコール役行者と考えるのは、少し気が早いようです。しかし、役行者堂についても『古老伝旧記』では
役行者堂 昔金毘羅古堂也 元和九年宥眼法印新殿出来、古堂行者に引札い」
と記しています。かつては「役行者堂は金毘羅の古堂」だったというのです。これも注目しておきたいポイントです。
1新羅明神
新羅明神
 この他にも金毘羅大権現の正体を新羅明神に求める研究者もいます。
確かにその姿はよく似ています。役行者は新羅大明神から作り出されたというのです。そうすると次のような進化プロセスが描けます。
新羅の弥勒信仰 → 新羅大明神 → 役行者 → 金毘羅大権現・蔵王権現
そして、新羅大明神には讃岐・和気氏出身の円珍の影がつきまといます。今も和気氏の氏寺であったとされる金蔵寺には新羅神社が祀られています。和気氏に伝わる新羅大明神の発展型が金毘羅大権現であるという仮説もありそうですが、今は置いておきましょう。
1蔵王権現
このように役行者像に似ている金毘羅大権現像を祀る象頭山ですが、この山は役行者開山との伝承を持ちます。弥生時代から霊山であったようで、中世には山岳信仰で栄えた修験道の行場となります。そのため戦国時代末期の初期の金光院別当は、すべて修験者出身です。

 長宗我部元親に従軍して土佐からやって来て、金光院別当として讃岐における宗教政策を押し進めたのが土佐出身の修験者宥厳です。彼は土佐郡占領下での実績を買われて、長宗我部軍が撤退した後も別当を引き続いて務めます。そして、松尾寺や三十番社との権力闘争を勝ち抜いて行きます。それを支えたの弟弟子に当たる宥盛です。彼は、生駒家と交渉を担当し寄進領を確実に増やすなどの実務能力に長けていたばかりでなく、修験者としても名声が高く、数多くの弟子達を育て各地に金毘羅大権現の種を飛ばすのです。その彼が死期を悟り、自らの姿を木像に刻んだ時に
入天狗道沙門金剛坊(宥盛)形像、当山中興権大僧都法印宥盛
と彫り込んだと伝えられます。この天狗道に入った金剛坊の木像には、後にいろいろな尾ひれが付けられていきます。例えば、生きながら天狗界に入ったと伝承で有名な崇徳上皇の怨霊が、死去の翌年、永万元年(1165)に、その廟所である白峰から金毘羅に勧請されたとの伝承が作られます。そして金毘羅=崇徳院との解釈が広まっていくのです。それでなくとも修験の山は天狗信仰と結びつきやすいのに、それが一層強列なイメージとなって金毘羅には定着します。「天狗のイラスト」が入った参詣道中案内図が作成され、天狗の面を背負った金毘羅道者が全国各地から金毘羅を目指すのも、このあたりに原因が求められそうなことは以前お話ししたとおりです。
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 もう一度、こんぴらさんの本堂に祀られていた金毘羅大権現像について見てみましょう。
江戸の初めに四国霊場が戦乱から復興していない承応二年(1653)に91日間にわたって四国八十ハケ所を巡り歩いた京都・智積院の澄禅大徳については以前に紹介しました。彼の『四国遍路日記』には、金毘羅に立ち寄り、本尊を拝んだ記録があります。
「金毘羅二至ル。(中略)
坂ヲ上テ中門在四天王ヲ安置ス、傍二鐘楼在、門ノ中二役行者ノ堂有リ、坂ノ上二正観音堂在り 是本堂也、九間四面 其奥二金毘羅大権現ノ社在リ。権現ノ在世ノ昔此山ヲ開キ玉テ 吾寿像ヲ作り此社壇二安置シ 其後入定シ玉フト云、廟窟ノ跡トテ小山在、人跡ヲ絶ツ。寺主ノ上人予力為二開帳セラル。扨、尊躰ハ法衣長頭襟ニテ?ヲ持シ玉リ。左右二不動 毘沙門ノ像在リ」
ここには、観音堂が本堂で、その奥に金比羅堂があったことが記されます。そして金光院住職宥典が特別に開帳してくれ、金毘羅大権現像を拝することができたと書き留めています。ここで注目したいのは2点です。ひとつは
「権現ノ在世ノ昔 此山ヲ開キ玉テ 吾寿像ヲ作り 此社壇二安置シ 其後入定シ玉フ」
とあることです。つまり安置されている金毘羅大権現像は、この山を開いた人物が自分の姿を掘ったものであると説明されているのです。
 2点目は金毘羅大権現の左右には「不動・毘沙門」の二躰が祀られていたことです。
つまり、金毘羅堂には金毘羅大権現と不動明王・毘沙門天が三点セットで祀られていたのです。そして、金毘羅大権現像は金毘羅山を開いた人物が自らの姿を掘ったものであると言い伝えられていたことが分かります。ここまで来ると、それは誰かと問われると「宥盛」でしょう。
さらに『古老伝旧記』は金光院別当の宥盛(金剛坊)のことを、次のように記します。
宥盛 慶長十八葵丑年正月六日、遷化と云、井上氏と申伝る
慶長十八年より正保二年迄間三十三年、真言僧両袈裟修験号金剛坊と、大峰修行も有之
常に帯刀也。金剛坊御影修験之像にて、観音堂裏堂に有之也、高野同断、於当山も熊野山権現・愛岩山権現南之山へ勧請有之、則柴燈護摩執行有之也
 ここには金剛坊の御影修験之像が観音堂裏堂(金毘羅堂)に安置されていると記されています。以上から金毘羅大権現として祀られていた修験者の姿をした木像は、金毘羅別当の宥盛であったと私は考えています。それをまとめると次のようになります
①金光院の修験者達は、その始祖・宥盛の「祖霊信仰」をはじめた。
②その信仰対象は宥盛が自ら彫った宥盛像であった。
③この像が金毘羅大権現像として金毘羅堂に安置された。
④その脇士として不動明王と毘沙門天が置かれた
その後、生駒家や松平家からの保護を受けるようになり「金比羅」とは何者かと問われた際の「想定問答集」が必要となり、十二神将の金毘羅との混淆が進められたというのが現在の私の「仮説」です。
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神仏分離で金毘羅大権現や仏達は、明治以後はこの山ではいられなくなりました多くの仏像が壊され焼かれたりもしました。
金毘羅堂にあった金毘羅大権現と不動明王・毘沙門天の三仏トリオは、どうなったのでしょうか。
金剛坊宥盛は、現在は祭神として奥社に祀られています。その自作の木像も奥社に密かに祀られているのかもしれません。
それでは脇士の不動明王・毘沙門天はどうなったのでしょうか。この仏たちは数奇な運命を経て、現在は、岡山の西大寺鎮守堂に「亡命」し安置されています。これについては別の機会で触れましたので詳しくはそちらをご覧ください。
img003金毘羅大権現 尾張箸蔵寺
金比羅さんから亡命した西大寺の「金毘羅大権現」(不動明王)
現在の金刀比羅宮は、大物主命を主祭神としています。
大物主命は、奈良県桜井市の大神神社(通称、三輪明神)の祭神として有名で、出雲大社の祭神・大国主命の別名とされています。明治になって、大物主命にとって代わられたのは所以を、どんな風に現在の金比羅さんは、説明しているのでしょうか。

金刀比羅宮 大物主尊肖像 崇徳天皇 M35
   天台僧顕真が「山家要略記』に智証大師円珍の『顕密内証義』を引いて、
「伝聞、日吉山王者西天霊山地主明神即金毘羅神也、随二乗妙法之東漸 顕三国応化之霊神」
と、「比叡山・日吉山の地主神は金比羅神」であると記します、
これを受けた神学者の古田兼倶は『神道大意』に次のように記します。
「釈尊ハ天地ノ為二十二神ヲ祭、仏法ノ為二八十神ヲ祭り、伽藍ノ為二十八神ヲ祭リ、霊山ノ鎮守二金毘羅神ヲ祭ル、則十二神ノ内也、此金毘羅神ハ日本三輪大明神也卜伝教大師帰朝ノ記文二被い載タリ、他国猶如也、何況ヤ吾神国於哉」
と最澄が延暦七年(七八八)比叡山延暦寺を建立する際、その鎮守として奉斎した地主神・日吉大社西本宮の祭神大物主命が金毘羅神だと位置づけます。
  そしてこうした見解は、さらに平田篤胤に受け継がれていきます。「玉欅』の中に
「彼象頭山と云ふは……元琴平と云ひて、大物主を祭れりしを仏書の金毘羅神と云ふに形勢感応似たる故に、混合して金毘羅と改めたる由……此は比叡山に大宮とて三輪の大物主神を祭りて在りけるに彼金毘羅神を混合せること山家要略記に見えたるに倣へるにや、然ればこそ金光院の伝書にも、出雲大社。大和、三輪、日吉、大宮の祭神と同じと云えり」
 と記します。平田篤胤の明治以後の神道における影響力は大きく、
「象頭山は元々は「琴平」といって大物主を奉っていた。象頭山は元々は大物主命を祀っていたが、中世仏教が盛んになるにつれて、その性格が似ているため金毘羅と称するようになった」
という彼の主張は神仏分離の際には大きな影響力を発揮します。金毘羅大権現が「琴平神社」と改められるのもこの書の影響が大きいようです。   しかし、研究者は、金毘羅以前に大物主が祀られていた史料的証拠は一切ないと云います。
むしろ神道家たちが金毘羅神に大物主を重ねあわせる以前は、象頭山には大物主と関係なく金毘羅神が鎮守として祀られていたのは見てきたとおりです。それを、神道家が逆に『山家要略記』等を根拠に金毘羅神とは実は大物主であったのだと、金毘羅=大物主同体説を主張してきたと研究者は考えているようですようです。

  阿波の酒井弥蔵のこんぴらさんと箸蔵寺の両参りについて
   前回に続いて金比羅詣が200回を越えた阿波の酒井弥蔵についてです。研究者は彼の金毘羅詣が3月21日と10月12日に集中してることを指摘し、前者が善通寺の百味講にあたり、先祖供養のためにお参りしていたことを明らかにしました。言うならば、彼にとってこの日は、善通寺にお参りしたついでの、金比羅参拝という気持ちだったのかも知れません。


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それでは弥蔵が10月12日に、こんぴらさんを参拝したのはどうしてでしょうか?
すぐに思い浮かぶのは、10月10日~12日は地元では「お十(とう)かさん」と呼ばれるこんぴらさんの大祭であることです。これは、金毘羅神がお山にやって来る近世以前の守護神であった三十番社の祭礼である日蓮の命日10月10日を、記念する祭礼がもともとの行事であったようです。

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 どうして祭りの最後の日にお参りに来ているのでしょうか
実は、その翌日に彼が参拝しているのが阿波の箸蔵寺なのです。
弥蔵は、大祭の最後の日にこんぴらさんにお参りして、翌日に箸蔵寺に詣でることを毎年のように繰り返していたのです。ここには、どんな理由があるのでしょうか?
このこんぴらさんの例祭について 『讃岐国名勝図会』には、次のような記されています。
『宇野忠春記』曰く(中略)同日(11日)晩、別当僧並びに社祝頭家へ来り。 (中略)
御神事終りて、観音堂にて、両頭人のすわりたる膳具・箸を堂の縁よりなげ捨つるを限りに、諸人一統下山して、方丈門前神馬堂の前に決界をなし、この夜は一人も留山せずこの両頭人の捨てたる箸を、当山の守護神その夜中に拾ひ集め、箸洗谷にて洗ひ、何所へやらんはこびけると云ひ伝ふ。
  『宇野忠春記』という本には
「ここには、例祭の神事に使用した箸などを観音堂から投げ捨て、全員が下山し、方丈門から上には誰もいない状態にした。そして、その投げ捨てられた箸は、箸洗谷で洗われて何処かへ運ばれる
と書かれていると記されます。
 この箸を洗った「箸洗谷」については、 『金毘羅参詣名所図会』には、
これ十月御神事に供ずる箸をことごとく御山に捨つるを、守護  神拾ひあつめ、この池にて洗ひ、阿州箸蔵寺の山谷にはこびたまふといひつたふ。故に箸あらひの池と号す。
   と記されています。ここから「箸洗谷=箸洗池」だったことが分かります。そして、『讃岐国名勝図会』では洗った箸は
「何所へやらんはこびける」
とあいまいな表現でしたが『金毘羅参詣名所図会』では、
  箸はその夜に阿州箸蔵谷へ守護神の運びたまふと言ひ伝ふ。」
と記されています。はっきりと「箸蔵寺のある箸蔵谷」へと運ばれると記されています。このように、金毘羅の祭礼で使われた祭具は、箸蔵寺に運ばれたと当時の人は信じていたのです。
images (16)箸蔵寺の金毘羅大権現
なぜ箸蔵寺へ運ばれなければならなかったのでしょうか?
箸蔵寺の縁起『宝珠山真光院箸蔵寺開基略縁起』の中には、
敬而其濫觴を尋奉るに、 我高祖弘法大師入定留身の御地造営ありて、父母の旧跡を弔ひ玉ひ善通寺に修禅の処、夜中天を見玉に正しく当山にあたり空に金色の光り立り、瑞雲これを覆ふ。依て光りを尋来り玉ふ。山中で金毘羅大権現とその眷属に会う其時異類ども形を現し稽首再拝して曰、
我々ハ金毘羅権現実類の眷属也。悲愍たれ免し給へと 乞時に山中赫奕して いと奥深き 巌窟より一陣の火焔燃上り 光明の真中に 黒色忿怒の大薬叉将忿然と出現し給へバ、無量のけんぞく七千の夜叉随逐守護し奉り 威々粛然たる形相也。
薬叉将 大師に向ひ微笑しての玉ハく、吾ハ東方浄瑠璃世界医王の教勅に従ひ此土の有情を救度し、十二微妙の願力に乗じ天下国家を鎮護し、病苦貧乏の衆生を助け寿福増長ならしめ、終に無上菩提に至らしめんと芦原の初穂の時より是巌窟に来遊する宮毘羅大将也。影を五濁の悪世にたれ金毘羅権現とハ我名也。然るに猶も海中等の急難を救わん為、東北に象頭の山あり。彼所へ日夜眷属往来して只今帰る所也。依而往昔より金毘羅奥院と記す事可知。 
この縁起は空海と金毘羅大権現を一度に登場させて、箸蔵の由来を説きます。まるで歌舞伎の名乗りの舞台のようです。 
①善通寺で修行中の空海は、山の上空に立つ金色の雲を見て当地にやって来ます。
②そこで金毘羅大権現と出会い自らを名乗り「効能」を説きます。
③その際に自分は「海中等の急難を救わん為に象頭山」いるが、「彼所(象頭山)へ日夜眷属往来して只今帰る所也」と象頭山にはいるが、本来の居場所はここであるというのです。
④金毘羅大権現は空海に、当山に寺院の建立と金毘羅宮で使用した箸などの奉納を求めます。 
⑤それを聞いて、空海はこの地に箸蔵寺を開山します。
⑥こうして、箸蔵寺は古来より金毘羅の奥之院として知られるようになった
以上が骨子です。
 しかし、象頭山における金毘羅大権現の創出自体が近世以後のものです。空海の時代に「金毘羅大権現」という存在自体が生み出されていません。また、この由来が「海中等の急難を救わん為」とすることなどからも、金毘羅信仰の高揚期の近世後半に作られたものであることがうかがえます。
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 同時に、この由来には空海と金毘羅大権現の問答を通じて、箸蔵寺が金毘羅大権現の奥社であり非常に関係が深いことが語られています。
この由緒に記されたように箸蔵寺は近世後半になると
「こんぴらさんだけお参りするのでは効能は半減」
「こんぴらさんの奥社の箸蔵」
「金比羅・箸蔵両参り」
を唱えるようになります。また、自らの金毘羅大権現の開帳を行い、何度も本家のこんぴらさんに訴えられた文書が残っています。この文書を見ると、岡山の喩迦山と同じく「こんぴらさんと両参り」は、箸蔵寺の「押しかけ女房」的な感じが私にはします。
 少し横道にそれたようです。話を弥蔵にもどしましょう。
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彼がこんぴらさんにお参りした10月11日〜12日は、金毘羅の例祭が行われる日でした。そして当時は、金毘羅の例祭において箸蔵寺は非常に重要な役割を果たしていると考えられていたこと、、また箸蔵寺は金毘羅の奥之院とされていたこと。こうした信仰的な繋がりを信じていたから、弥蔵はこんぴらさんの大祭が終わる10月12日にこんぴらさんをお参りし、箸がこんぴらさんからやってくる箸蔵寺をその翌日に参詣したのでしょう。
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 ここには、前回にこんぴらさんと善通寺を併せて同日に参拝した理由とは、違う理由がるようです。吉野川中流の半田に住む弥蔵にとって、信仰の原点は地元の箸蔵寺への信仰心から始まったのかも知れません。それが「こんぴらさんの奥社」という箸蔵寺のスローガンにによって、その本山であるこんぴらさんに信仰心が向かうようになり、そしてさらに、弘法大師生誕の地として善通寺に向かい、弘法大師信仰へと歩みだして行ったのかもしれません。どちらにしても、この時代の庶民の信仰が「神も仏も一緒」の流行神的な要素が強く、ひとつの神社仏閣に一新に祈りを捧げるというものではなかったことは分かってきました。
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参考文献   鬼頭尚義 寺社参拝の意識 酒井弥蔵の金毘羅参詣記録から見えてくるもの 

京都精華大学紀要44号

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「丸亀より金比羅・善通寺・弥谷寺案内図」と題される絵地図です。大坂から金毘羅船でやって来た参拝客に丸亀の旅籠や土産店屋が配ったと云われます。時代とともに数多くの種類が刷られて、それを歴史順に並べて比較すると、建物や鳥居に違いがあって金比羅街道の移り変わりが楽しめます。
少し、見方を説明しておくと、
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①右下が丸亀湊で、ここには福島湛甫が描かれているので19世紀半ばのものであることが分かります。
②双六で云えば、丸亀湊をスタートにこまを進めていく事になります。ランドマークタワーでもある丸亀城に見送られ、讃岐富士を左手に、一番左奥の象頭山へと丸亀街道を南へ足を進めていきます。
③丸亀街道は、丁石が150あったと云われるので約15㎞。江戸時代の人にとってはゆっくり歩いても3時間足らずの道程だったのではないでしょうか。この手の絵図は、その道程は大きく省略しています。
④そして、大きな鳥居(現高灯龍)をくぐると高松街道と合流して、金比羅の街並みに入って行きます。
230七箇所参り

  さて、最初にこの絵図を見たときの私の疑問は題名が「金比羅参拝絵図」でないことです。
「丸亀より金比羅・善通寺・弥谷寺案内図」
なのです。大阪からやって来る人たちは、こんぴらさんを目指してやって来ているのだと思っていました。ところが、そうとは言い切れなかったようです。それが、この絵図の題名にも現れています。
 弘法大師信仰が広まった江戸期には、その生地とされる善通寺や、学問・修行に励んだとされる弥谷寺も「聖地」とされ人気が高かったようです。弥次郎兵衛と喜多八のコンビも金比羅・善通寺・弥谷寺をめぐっています。
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五岳を背景にした善通寺(拡大図)
 これについても、金比羅詣でのついでに善通寺に詣でているのだと思っていたのですが、そうとばかりは言えないようです。
善通寺参りのついでに、金毘羅山に参っていた信者の話です。
主人公は酒井弥蔵という阿波の商人です
金毘羅信仰が高揚期を迎える19世紀初頭に阿波国半田村で商家を営んでいた父・武助と母・お芳の子として生まれました。半田町は吉野川中流にある町で、素麺が有名な所です。彼の父は、俳人でも有り、その影響から弥蔵も俳諧をたしなむ一方、易・相撲・芝居などにも興味を持って注解書を書くほどであったようです。また神仏への信仰心も篤く、亡くなる明治25年(1892)までの間に、伊勢始め高野山など数多くの参詣旅行をしていたことが、彼が残した参拝記録や日記から分かります。
 しかし、彼の旅は参拝だけでなく、仕事上の旅もありました。彼の商売記録である『大福帳』には、半田の大きな薬屋の代行として、目薬の商品入れ替えのための旅もあったようです。富山の薬売りをイメージしますが、そのため旅慣れていたようです。
  そんな彼が最も多く訪れていたのが、お隣の讃岐でした。
弥蔵の住んでいた半田からは、吉野川を渡り箸蔵寺を通って、二軒小屋を越えると讃岐の山脇集落に降りていけます。健脚な彼は、一日でこんぴらさんや善通寺に詣でる事はできたでしょう。
 そのため、弥蔵も讃岐へは頻繁に旅をしています。

233善通寺 五岳
善通寺から弥谷寺への道
さて、平蔵はこんぴらさんに何回くらいお参りしているとおもいますか?
 研究者が彼の参詣記録をまとめた一覧表によると、生涯を通じて200回以上も参拝しているようです。 弥蔵の金毘羅参詣記録から研究者は次のようなことを指摘します。
「特定の日の参拝回数が極端に多い」というのです。
特定の日とは、3月21日と10月12日です。
なぜ酒井弥蔵は、この日を選んで金毘羅参詣に行ったのでしょうか。まず、3月21日が、どんな日であったかを見てみましょう
 こんぴらさん側のことを調べても分かりません。これは善通寺と関係があるのです。
善通寺は空海の生誕地とされ「弘法大師信仰」の高まりの中で、信者達からは「聖地」とされてるようになりました。弥蔵も弘法大師信者であったようです。彼は、生涯を通じて50回以上、善通寺に参詣をしています。そして、善通寺を同参拝した日には、46回もこんぴらさんにも参拝しているのです。しかし、これだけだとこんぴらさんにお参りしたついでに、善通寺にも参拝したとも言えます。
IMG_8068善通寺五重塔
ところが参拝日が集中している3月21日は、善通寺に特別な行事があった日なのです。
この日は弘法大師が入定した日です。真言系の寺院にとっては特別詣の日に当たります。高野山では弘法大師の古くなった御衣を取り替える「御衣替」が行われます。そして、善通寺でも「百味講」という講が行われていたようです。では、この「百味講」とは、どのようなものなのでしょうか?

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 『毎年三月正御影供百味御膳講之記』には、「百味講」について次のように記します
讃岐之国善通寺は弘法大師第一の旧跡たる事、皆人の知る処にして、其昔より毎年三月二十一日信心の輩 飲食を奉る事久し。一度其講中に縁を結ぶ者は真言をさづかり又七色の御宝のおもひ出此事にして、現当二世安楽うたがひなきと、言事を物を拝し奉りて有がたさの数々短き筆に印しがたし。誠に此世 人々に進る者也。
 ここからは百味講が、3月21日に信徒が百味(いろいろな飲食物)を奉納し、善通寺に伝わる「七色の御宝物」を拝見する講だったことが分かります。弥蔵の『散る花の雪の旅日記』によると開帳される「七色の御宝物」とは、
一 泥塔    大師七歳之御作
一  五色仏舎利 八祖伝来
一 水瓶    大師の御所持
一 木鉢    同断
一 一字一仏法華経文字 大師尊形御母君
一 二十五条袈裟 祖師伝来
一 閻浮檀金錫杖 同断
の七つの宝物であったと記します。弥蔵の百味講最初の参加は『散る花の雪の旅日記』の中で、 
「斯講中を結びて、大師の霊場に参詣に趣事、去年今年両度なり」
とありますから弘化二年のことのようです。それ以降、毎年のように百味講に参加しています。
IMG_8069善通寺誕生院
 どうして弥蔵は百味講に参加するようになったのでしょうか?
百味講は、単に宝物開帳の場であっただけでなく、先祖供養の場でもあったようです。弥蔵が最初に参加した弘化二年には、祖父・孫助や父・武助を始め合計15名の供養を行っています。また文久三年の百味講では、母や妻など五名が加えられています。ここから弥蔵が百味講に毎年参加するようになったのは、先祖供養を行うためだったことがうかがえます。
 以上から三月二十一日は、先祖供養のために善通寺での百味講参加するために讃岐にやってきて、その途上にあるこんぴらさんにお参りしたようです。彼にとって、この日は善通寺が主であり、こんぴらさんは従だったのかもしれません。
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 この参拝絵図は和歌山の沽哉堂から出された『象頭山参詣路紀州加太ヨリ讃岐廻並播磨名勝附』です。左下が大坂で、紀州加太から播磨を経由して金毘羅へ参詣するための経路が描かれています。
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この中にも、弘法大師誕生の地である善通寺や、八十八ヶ所霊場の弥谷寺なども描かれています。高野山をお参りする参拝者にとって「弘法大師生誕地・善通寺」という地名は、彼らを惹き付ける魅力的な聖地であったのでしょう。そして、実際に和歌山から舟で阿波に上陸した参拝客には「この機会にこんぴらさんにもお参りしよう」という意識が強くなって行ったのかも知れません。
 こんぴらさんの幕末の賑わいは、善通寺や四国霊場、或いは法然をめぐる巡礼などの聖地巡りの渦の中から生まれてきたのかも知れないと思うようになってきたこの頃です。
289金毘羅参詣案内大略図
    さて、もうひとつの疑問であった酒井弥蔵の金毘羅詣が10月12日に多いのはどうして?これについては、また次回に・・・
関連記事は
参考文献 
  鬼頭尚義 寺社参拝の意識 酒井弥蔵の金毘羅参詣記録から見えてくるもの 京都精華大学紀要44号

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CPWXEunUcAAxDkg金毘羅大権現

明治維新の御一新のスローガンとともに、こんぴらさんに嵐をもたらした「神仏分離」政策。その結果、
金毘羅大権現は金刀比羅宮へ、
象頭山は琴平山へと名前を変え、
その姿も仏教伽藍から神社へと
姿を変えていきました。こうして、仏号であった金毘羅大権現はお山から「追放」されます。しかし、このような「宗教改革」に対して反発を感じている人たちも数多くいたようです。その中から従来通りの仏式で金毘羅大権現をまつるスタイルの寺院を作ろうとする動きもあったようです。今回は琴平山(旧象頭山)と峰続きの大麻山の麓の大麻村での「金毘羅大権現」復活計画の動きを見てみましょう。
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  現在の琴平町榎井には長法寺というお寺があります。
このお寺は、鎌倉時代に善通寺の復興に活躍した宥範僧正が隠棲のために建立されたと伝えられ、もともとは丸亀市亀水町とまんのう町の境にある上池の南西にあったようです。広い伽藍を持っていたとされ、『仲多度郡史』には南門から現在の高篠小学校に至る県道が門前町であり、付近からときどき古瓦などを掘り出すと記されています。
 しかし、1579年 天正合戦で土佐から侵入してきた長宗我部元親軍と長尾氏の戦いで灰燼に帰したとされます。現在も、上池の池底には石碑が建っていて、碑面には(俗世)アビラウソナソの梵字が刻まれているようです。その後、榎井の地に再建されて現在地にあるようなのです。しかし、その寺伝には
「故ありて明治16年2月大麻村字上の村に移転し、同28年再び元の地に復せり」
という気になる記述があります。明治の時代に、12年間ほど隣村の大麻村に移動していたというのです。なぜでしょうか?
長法寺の金毘羅大権現復活の試み
 神仏分離に伴う狂信的な廃仏毀釈運動も熱が冷めてきた頃、象頭山の麓の榎井や大麻では、仏教徒を中心に金毘羅大権現の信仰を守り、かつての繁栄を回復しようとする動きが出てきます。そこには
「新たに生まれた金刀比羅宮は、本来の神である金毘羅大権現を追い出した後に、大国主命とし迎えた神社である。本来の金毘羅大権現を祀る仏式の宗教施設を自分たちの手で作りたい」
という願いがあったようです。
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 その中心となったのが長法寺の檀家の有力者達です。
彼らは長法寺を「金毘羅大権現」を祀る寺院にしていこうと考えます。そのためには、信仰対象となる金毘羅大権現像とそれを納める礼拝施設(お堂)が必要になります。こうして長法寺は、明治16年に新たな伽藍建設地とを求めて麻野村大麻に移転してきます。
  長法寺の檀家指導者達が、先ず取り組んだのが祈りの対象となる金毘羅大権現像を迎える事でした。当時の神仏分離政策下において、明治政府は寺院への管理を強めていましたので、諸仏の勧進についても、各方面の許可が必用でした。そのため金毘羅大権現像の安置・勧進を求める長法寺と本山や県のやりとりをめぐる文書が残されています。それを見てみましょう。
   護法神勧請之義二付御願
当寺本堂二於テ金比羅童子 威徳経儀軌 併せて大宝積経等々煥乎仏説有之候 金毘羅神ヲ安置シ金毘羅大権現卜公称シ鎮護ヲ祈り 利済ヲ仰キ人法弘通之経路ヲ開キ申度蓋シ大宝積経三十六巻 金毘羅天授記品 及金毘羅童子威徳経 二名号利益明説顕著ナリ
今名号ノツ二ツヲ挙レバ 時金毘羅即以出義告其衆云云 
又曰時二金毘羅与其部徒云云 又曰金毘羅浄心云云 
其他増一阿含経大般若経大日経等之説所不少 
且ツ権現之儀モ義説多分ナレトモ差当り 金光明最勝王経第二世学金剛体権現 於化身云云如此説所分明ナル上ハ 仏家二於テ公称勧請仕候テ 毫モ異論無之儀卜奉存候 勿論去ル明治十五年一月四日附 貴所之布教課御告諭之次第モ有之 旁以テ御差悶無之候得ハ速二御免許被成下度此段奉伏願候也
 愛媛県讃岐国多度郡大麻村 長法寺 住職 三宅光厳印
   同県同国郡那珂郡琴平村  信徒総代塩谷太三郎印
   同郡榎井村檀徒総代    斎藤寅吉印
   同郡 同村檀徒総代    斎藤荒太郎印
 明治十八年一月十一日
 本宗管長 三条西乗禅殿
   明治十八年十月二十一日付で当時の長法寺住職の三宅光巌、信徒総代、増谷太三郎、檀徒総代、斎藤寅吉の連名で、本宗管長の三条西乗禅宛「護法神勧請之儀二付御願」と題する文書が提出されています。当時は香川県は愛媛県に併合されていたので「愛媛県讃岐国」となっています。さて内容は、
「金毘羅神を安置して金毘羅大権現と呼んで信仰活動を行いたい。それが人々を救い世の中を栄えさせることにつながる」として金毘羅神についての「神学問答」が展開されます。
そして、金毘羅大権現を仏教徒が勧進信仰しても、何ら問題はないと主張します。しかし、先年明治15年の神祇官布告もあるので、問題が生じた場合は直ちに停止するので、認めていただきたい。
という内容です。このあつかいについては、本寺との間に長い協議があったようです。本寺からの正式の回答は6年後の明治24年に出されています。ふたつの条件付で、真言宗法務所名で「護法善神」としての礼拝を許されます。二つの条件について見ておきましょう。
     内  諭
長法寺住職 三宅 栄厳
護法神金毘羅大権現勧請之義 御聞置相成候二付ハ左之条々ヲ遵守スベシ此段相達候事
           真言宗 法務所印
  明治廿四年一月廿六日
   第壱条
 金毘羅大権現者仏家勧請之護法神タリト雖モ 従前象頭山金毘羅大権現卜公称之神社アリシヨリ 目下金刀比羅神社卜同一ノ物体ナリト意得ノ信徒等有之候 テハ却テ護法神勧請ノ本旨二背馳シ
神仏混淆廃止ノ朝旨ニモ戻り 甚夕不都合二候 宝前二於いて法式ヲ執行シ信徒之為メニ祈祷等ヲナサント欲セハ必ス先本宗ノ経軌ニヨリテ事務シ 毫モ神社前二紛敷所為など供物等不相備様屹度可致事
  第貳条
本堂内二勧請之尊体ハ固ヨリ 経説ニヨリテ彫刻スベキハ勿論 萬一他二在来ノ尊体ヲ招請スル訳ナレバ授受ノ際 不都合無之様注意シ 尚地方廳エハ順序ヲ践テ出願シ 其許可ヲ得テ 該寺シ内務省ヘモ可届出筋二付 此旨相意得疎漏之取計方無之様可致候事 以上
第一条では、金毘羅大権現は仏教の「護法神」ではあるが、以前は金毘羅大権現を公称する神社もあったので、そこと混同されるおそれがある。そうなると「護法神」の本旨にも背き、また「神仏分離」という政府の政策にも背くことになる。そのために法式や祈祷を行うときには、神前と異なることにくれぐれも留意しておこなうこと
第二条では
尊体(金毘羅大権現像)を迎えるに当たっての注意で、什宝帳への記載や郡庁や県丁への出願手続きに遺漏がないように求めています。
 この時期に、長法寺は本山の推薦で新住職を迎えています。
 明治二十三年十月一日付で、新たな住職として兵庫県武庫郡良元村、西南寺住職、権大僧都、筧光雅を迎えます。「兼務」ですので、長法寺には常駐することはなかったようですが、トップが変わることで体制づくりは進んだようです。そして、新住職の就任を祝うかのように本山から金毘羅大権現像が長法寺に寄付されます。
   寄 附 状 (写)
讃岐国多度郡麻野村 長 法 寺
 金毘羅大権現   木像 壱躯
  右令寄附畢
 明治廿四年三月十日
       大本山仁和寺門跡
       大僧正 別處 栄厳
  こうして待ちに待った金毘羅大権現さまが寺にやってきたのです。しかし、当時の神仏分離政策下において、明治政府は寺院への管理を強めていましたので、諸仏の勧進についても許可が必用でした。そこで檀徒惣代、安部長太郎と連名で麻野村長、渋谷丑太郎の副申を添え、香川県知事、谷森真男宛に兼務住職届と、同時に金毘羅大権現木像の什物帳編入願いが提出されます。  
御管内多度郡麻野村大字大麻長法寺儀 
別紙願面三通 金毘羅大権現木像壱躯 什物帳へ編入之義 
出願事実相違無之候
条右御聴許相成度此段副伸候也
    京都葛野郡花園村御室
     仁和寺門跡大僧正別處栄厳代
      権少僧正 鏝  瓊 憧
 明治廿四年五月十六日
香川県知事 谷森 真男 殿
これには仁和寺門跡、真言宗長者の副中と麻野村長渋谷丑太郎の次の添書が付けられていました。
御管下多度郡麻野村大字大麻長法寺 
明細帳へ金毘羅大権現木像壱体編入之儀 
別紙願出之通事実相違無之候条副申候也
  明治廿四年五月十九日
      真言宗長者  大僧正 原  心猛印
 香川県知事 谷森 真男殿
   しかし、県はこれを認めませんでした。
 そこで、翌年に、住職筧光雅は不在なので代理人の吉祥寺(高篠村)住職三輪慈長と外檀信徒惣代六名の連署を付けて、再度、金毘羅大権現像の什物編入を願い出ます。
今度は副中書(別掲)に詳しく補足説明を付けています。しかし、これも県は却下します。
 そこで、長法寺は次の手立てとして「仏体寄附ヲ受ケタル届書進達之義二付具申書」を那珂多度郡長高島光太郎に提出して、この一件についての理解と、とりなしを請願します。
 郡長高島光太郎が、出願に当たっての今までの不備を指摘、指導を加えた文書が残っています。こうして、明治二十五年七月三十日付文書は、郡長の指導を受けて作成したもので、三度目の県知事宛の願書を提出します。様式などに問題が無かったので、県も受けいれざる得なかったのでしょう。この結果、九月二十日付で、金毘羅大権現木像外四躯の仏像が宝物古器物古文書目録への編入を許されました。
 しかし、金毘羅大権現勧請については許可が下りませんでした。そればかりか、今までは許されていた明細帳に載せられた本尊以外の仏像の勧請や信者の参拝についても、その都度の許可が必用とされるようになります。これは常識的には考えられません。お寺にある仏像を拝むのに、いちいちその都度許可を求める内容です。
県が頑なに金毘羅大権現の復活を拒む理由は何だったのでしょうか?
大国主命を祭神として祀る金刀比羅宮としてリニューアルされた金刀比羅宮にとっては、足元の大麻村に金毘羅大権現が復活する事は、面白い事ではなかったはずです。
そして、金刀比羅宮の禰宜を勤めていたのは、以前に紹介した松岡調です。彼は明治維新期の讃岐の神仏分離政策を担った神道家であり研究者でもありました。彼が当時の香川県の宗教政策に影響力を持っていたことは、延喜式神社の指定選考過程にも見られます。
  また、当時の神道の教学・指導の宗教行政の中心は金刀比羅宮の中にありました。境内にあり廃寺となった3つの脇坊の建物が利用されていたのです。これらの神道組織を指導するのも松岡調の仕事の一つでした。つまり、当時の彼は県の宗教行政に大きな影響力を行使できるポストにあったのです。
 度重なる長法寺の金毘羅大権現像をめぐる動きに、県が許可を下ろそうとしなかったのは、松岡調の意向に「忖度」してのことだったのかもしれません。

 しかし長法寺は諦めません。
明治二十八年二月十四日に「金毘羅大権現木像勧請之義二付御願」なる書面を県に提出します。しかし、これも新任の小畑知事と、その側近によって一蹴されます。
  そこで長法寺は戦略を転換します。県を相手にするのではなく、国を相手にしたのです。
明治二十九年五月十四日、長法寺は「本堂建築願」を内務大臣板垣退宛てに提出します。ここにはかねてからの目論見である鎮守堂(護法善神としての金毘羅大権現堂)を中心とした千六百坪に及ぶ境内に本堂、書院、庫裏等の配置伽藍建設案が示されており、仏教中心のこんぴら信仰の復活を目指そうとするものでした。

長法寺の新伽藍工事始まるが・・・・
 そして、この願いは明治政府によって認められるのです。長法寺は、香川県の敷いた障害を越えたかのように思えました。関係者の喜びは大きかったでしょう。
 ところが建立工事が始まると、勧進資金が思うように集まりません。そのため資金不足で新伽藍建設は思うように進まなかったようです。その上に、台風が襲いかかり、建設途中の建物は大きな被害を受けました。こうして新伽藍の工事は中断したままで、工事資金をめぐる勧進の進め方についても信徒間での意見が対立するようになります。長い対立の後に、明治39年になって建設断念派が推す住職が就任し、お寺を元の榎井村にもどして新築する次の申請が県に出されます
  長法寺移転二付境内建物明細書
   寺院移転ノ儀二付願
 香川県仲多度郡善通寺町大字大麻
   真言宗御室派 長 法 寺
右寺儀今般檀徒及ビ信徒ノ希望二依り旧寺地ナル 仝那榎井村参蔭参拾番地へ移転致度候
条御許可被成下度 別紙明細書及図面相添へ此段上願仕候也
    右寺法類
     龍松寺住職 長谷 最禅
     圓光寺住職 出羽 興道
こうして金毘羅大権現信仰復活の拠点として、建設が目指された長法寺の新伽藍計画は、あっけなく幕を閉じることになります。
いままでのことを、最後にまとめておきましょう
I 金毘羅さんは金毘羅大権現と呼ばれ「寺院」として信仰されてきた。ところが明治政府の神道国教化の有力拠点としての思惑から仏教的な金毘羅大権現は追放され、代わって大国主命を祭神とする金刀比羅宮に生まれ変わった。
2 これに対して、金毘羅大権現の復活をはかる動きが地元で起きたが、県の「妨害・阻止」もあり、スムーズには新伽藍の建設は進まなかった。
3 神仏分離から30年近くたって新伽藍の建設工事の許可が下りたが、時流は金刀比羅宮に流れ、金毘羅大権現の伽藍建設を支援する募金活動は広がらずに、資金不足で中断に追い込まれた。
4 そして、長法寺はもとの榎井の地に新伽藍を小規模で建立し、現在に至っている。

ここから分かることは金毘羅大権現から金刀比羅宮への素早い「変身」ぶりに反感を覚え、古い形のこんぴら信仰を残そうとする動きが地元にあったということは、記録に留めて置くべき事のように私は思います
 
参考史料 榎井の長法寺について ことひら 昭和63年所収

  明治以前の金毘羅さんの姿を見てみましょう。
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 明治以前の神社は、本地垂迹(ほんちすいじゃく)のもとで神仏習合が行われていました。この考えは日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた「権現(ごんげん)」であるとするものです。「垂迹」とは神仏が現れることをいい、「権現」とは仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを意味します。
   インドからやって来た番神クンピーラ(金毘羅神)を権現としたので金毘羅大権現と呼ばれていました。そして象頭山は、金光院松尾寺とその守護神である金毘羅大権現との神仏混淆の地で、現在の旭社は薬師堂(金堂)、若比売社は阿弥陀堂、大年社は観音堂というように多くの寺院堂塔からなる一大伽藍地でした。金光院主の差配の下、普門院、尊勝院、神護院、萬福院、真光院という5つの寺の僧侶がお山の事務をとり行っていました。

これは幕末の「金毘羅参詣名所圖會」に見る金毘羅さんの姿です。
金毘羅本殿周辺1
大門から続く参道と石段を登ってきた参拝客が目にするのは、左下の金堂(現旭社)です。そして、参道は右に折れて仁王門をくぐって、最後の石段を登って本社へ至ります。山内の建物を挙げると次のようになります
 大別当金光院 当院は象頭山金毘羅大権現の別当なり
本殿・金堂・御成御門・ニ天門・鐘楼等多くの伽藍があり。
古義真言宗の御室直末派に属す。
山内には、大先達多聞院・普門院・真光院・尊勝院・万福院・神護院がある
この説明文だけを読むと、金毘羅さんが神社とは思えません。また当時の建築物群も、神社と云うよりも仏教伽藍と呼ぶ方がふさわしかったようです。
 この絵図だけ見ると、どの建築物が一番立派に見えますか?
金毘羅山多宝塔2
これは誰が見ても中段の金堂が立派です。
幕末に清水次郎長の代参で金毘羅さんに参拝した森の石松は、この金堂を右上の本殿と勘違いして、この上にある本殿まで行かずに帰ったことになっています。そのために、帰り道で事件に巻き込まれ殺されたと語られています。それが、納得できるほどこの建物は立派です。同時の参拝記録にも賛辞の言葉が数多く記されています。

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 この建物は以前にも紹介しましたが幕末に三万両というお金をかけて何十年もかけて建立されたものです。そして、ここに納められたのが薬師さまでした。それ以外にも堂内には、数多くの仏達が安置されたいたのです。金堂は今は旭社と名前を変え、祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大御神、天津神、国津神、八百万神 などで平田派神学そのものという感じです。しかし、今は堂内はからっぽです。
   目を転じて手前を見ると塔が建っています。多宝塔を記されているようです。別の角度から見てみましょう。
金毘羅山旭社金堂

★「讃岐名所圖會」にみる金堂と多宝塔
さきほどの金堂を別の角度から俯瞰した絵図です。参道には、蟻の子のように人々が描かれています。正面に金堂(現旭社)、そして右へ進むと長宗我部元親の寄進したと云われる二天門が参拝客を迎えます。そして、参道の両側には灯籠が並びます。今の金毘羅さんの姿とちがうのは・・? 右手に塔があります。よく見ると多宝塔と読めます。これは今はありません。ここには神馬が奉納されています。明治以前の金毘羅さんが仏教的な伽藍配置であったことを再確認して、先に進みましょう。
まず、明治以前の建物群の配置図を確認しましょう
konpira_genroku 元禄末頃境内図:
元禄末頃(1704)境内図
元禄末頃の作と推定される「金毘羅祭礼屏風図」の配置と参道です
   ①昔の参道(点線)は、普門院の門の所に大門がありました
   ②脇坊中前土手を通り、本坊の大庭の中を通り、築山の道を抜け
    ③宥範上人の墓の付近を通り、鐘楼堂仁王門に出て
    ④本地堂其の他末社の前を通り、神前に至るルートでした。
 ○宝永7年(1710) 太鼓堂上棟。
 ○享保年中(1716-36)本坊各建物、幣殿拝殿改築、御影堂建立。
 ○享保14年(1729)本坊門建立、神馬屋移築。
このころ四脚門前参道を玄関前から南に回る参道(現参道)に付替え
 ○寛延元年(1748)  万灯堂建立。
 ○天保3年(1832)  二天門を北側に曳屋。
○弘化3年(1846)  金堂が建立。この図中にはまだ姿がありません
そして明治の神仏分離以後の配置図です
明治13年神仏分離後
    
    神仏分離・廃仏毀釈によって、どう姿が変わったのかを確認します。
    ①三十番神社 廃止し、その建物を石立社へ
    ②阿弥陀堂 廃止し、その建物を若比売社へ
    ③観音堂 廃止し、その建物を大年社へ
    ④金堂    廃止し、その建物を旭社
    ⑤不動堂 廃止し、その建物を津嶋神社へ
    ⑥摩利支天堂・毘沙門堂(合棟):廃止し、常盤神社へ
    ⑦孔雀堂 廃止し、その建物を天満宮へ
    ⑧多宝塔 廃止の上、明治3年6月 撤去
    ⑨経蔵   廃止し、その建物を文庫へ
    ⑩大門   左右の金剛力士像を撤去し、建物はそのまま存置
    ⑪二天門 左右の多聞天像を撤去し、建物はそのまま中門
    ⑫万灯堂 廃止し、その建物を火産霊社へ
    ⑬大行事社 変更なし、後に産須毘社と改称
    ⑭行者堂 変更なし、大峰社と改称、明治5年廃社
    ⑮山神社 変更なし、大山祇社と改称
    ⑯鐘楼   明治元年廃止、取払い更地にして遙拝場へ 
    ⑰別当金光院 廃止、そのまま社務庁へ
    ⑱境内大師堂・阿弥陀堂は廃止
    松尾寺は徹底的に破壊され、神社に改造された跡が読み取れます。そして、金光院、金堂、大門などは転用されています。なかでも明治の宗教政策の様相がうかがえるのが5つあった門院の転用用途です。
    神護院→小教院塾、
    尊勝院→小教院支塾、
    万福院→教導係会議所、
    真光院→教導職講研究所、
    普門院→崇敬講社扱所への転用が行われています
    崇敬講社扱所以外では、讃岐における神道の指導センターとしての役割を忠実に実行したようです。 現在では、下の現在の境内図に見られるように坊舎跡は取り払われ、宝物館や公園になっています。  
     
konpira_genzai2002年境内図
2002年境内図
こうして仏教的な伽藍は、神社へと姿を変えたのですがそこには、おおきな痛みを伴いました。神仏分離が金毘羅大権現になにをもたらしどう変えていったのかを、次回は当時の金光院主に焦点を当てながら考えていきたいと思います。
金毘羅山旭社・多宝塔1

  関連記事 金堂(旭社)についてはこちらへ 


参考文献(HP) 讃岐象頭山金毘羅大権現多宝塔(象頭山松尾寺多宝塔)
    

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伊予土佐街道の一里道標をたどりながらやって来たのは旧山本町役場の前庭。
ここには「こんひら大門まで三里」と刻まれた金毘羅街道の三里道標が建っています。
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その表記の通り、金毘羅さんの階段途中にある大門まで、ここから3里(12㎞)を示します。その下に
「与州松山浮穴郡高井村 新七、弥助、 清次、粂左衛門」
の文字が読めます。伊予松山の南の浮穴郡の人たちが寄進したもののようです。伊予土佐街道の里呈や灯籠は、ほとんどが伊予の人々により建てられています。
 今は、ここにありますが、もとあった場所は、もう少し東へ行ったところで、街道が大きく南へ曲がった角にこの三里道標はあったそうです。おそらく交通の邪魔になり、ここに移転してきたのでしょう。役場に保管し、道行く人に見える場所に置くなど心遣いのあとが見られます。これも私にとっては先人からの「おもてなし」とかんじられます。
 この地域は「辻」と呼ばれる通り、交通の要地で、観音寺へ、伊予へ、こんぴらへ、箸蔵へと刻んだ大きな道標や灯籠が近くにも残されています。

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休憩後に、次の四里道標に向けて旧街道を原付バイクで走りだした。
すぐに祭りの幟が目に入りました。秋の高く澄んだ青い空にはためく幟は、絵になります。
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どこの神社の祭りかなとバイクを止めて仰ぎ見ると・「金毘羅大権現」とあります。
なぜ「金毘羅大権現」なの・・・???
と幟を見上げたまま、ぼけーと考えてしまいました。
DSC01987

さらによく見ると、その上に描かれているのは天狗さん、そして○金と○箸の文字。ますます、分からなくなりました。頭の中を整理します。
①金毘羅さんから遠く離れた山本町でなぜ「金毘羅大権現」の幟が揚がっているのか?
②神仏分離以後、金刀比羅神社は「金毘羅大権現」を捨てたはずなのにどうして・・?
③幟の一番上の天狗は何を意味するのか?
④○金は金毘羅神社、それなら○箸は、何なのか?
私の明晰な頭は疑問点を以上のようにまとめて、解決に向けての糸口を探ろうとします。視線が向かったのは幟の下の石造物です。
DSC01991

まず正面の墓石のようなものは何なのか?
○金とありますので、金毘羅信仰に関係するものであるようです。
さらに近づいて見ると、ここにも○金と○箸がなかよく並んでいます。そして、その下には金毘羅さんの御札が入れられているようです。

DSC01992
ここから私に分かることは、丸亀街道沿の神社の中にあるような「金毘羅さん遙拝施設」ではないということです。そして、金毘羅さんの御札が納められているということは、この石造物自体が「金毘羅大権現」としてお祭りされているのではないかということです。
 怪しげな男がボケーっと立ち尽くしているので、家の中から主人が出てきてきました。
さりげなく挨拶を交わして「ええ幟ですな」と声をかけると、主人は次のようなことを話してくれました。
①この地区の23軒で「山本境東組」という金比羅講をつくってお参りしてきた。
②年に3回、1月10日・6月10日・10月10日には、講メンバーでお祭りをして、ご馳走を食べる。
③その時には、当番が金毘羅さんへ参拝して新しい御札をもらってきて、ここへ納める。
④講メンバーにとって、この石造物が「金毘羅大権現」と思っている。
⑤いつ頃から始まったか分からないが、この石造物には大正の年号が彫り込まれている。
⑥いまはメンバーが減って7軒になって、運営が大変だ
⑦この石碑には3回も自動車が正面からぶつかってきた。それでも壊れなかった
主人の話から分かったことは以上です。
  ここからはこの地区の人たちが金比羅講を組織して、もらってきた御札をここに入れて、信仰対象としてきたようです。推論したとおり、この石造物は「金毘羅大権現」なのです。しかし、「金毘羅大権現」は、明治の神仏分離の際には神と認められずに、金毘羅さんからは追放されました。
なぜ、それなのにここでは「金毘羅大権現」を今でもお祭りしているのでしょうか?
 考えられることは、この信仰形態はそれ以前の江戸時代から行われていたということです。そのため、金毘羅大権現が金刀比羅宮と名前を変えて神道化しても、ここでは以前通りの名前と、祭礼方法が継続されたのではないでしょうか。
 これで疑問点の二つは、推論が見えてきました。あと二つは「天狗と○箸」です。
天狗とはなにか。これは簡単にいうと「修験者」の象徴です。
四国で、天狗達の巣のひとつが象頭山金毘羅大権現でした。江戸時代の初めの金毘羅大権現の創世記に活躍したのは、高野山で学問を積んだ宥盛のような真言宗の修験者達でした。彼は、土佐の修験道のリーダーをリクルートして多門院を開かせるなど、四国の修験者達のリーダーとして活躍し、多くの子弟を育成し四国中に「修験道」ネットワークを形成していきます。
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箸蔵寺の天狗
つまり、金毘羅さんは修験者の集まる山で、行場でもあり、天狗の山であったのです。
近世初頭においては、金毘羅さんは「海の神様」としての知名度はありません。天狗の住む修験者の山の方が有名だったと私は思っています。そして、まだ全国的にも知られていない、地方の小さな権現さんだったのです。それを全国へ広げていくのは、宥盛等が育成した修験者組織なのです。「塩飽の船乗り達が海の神金毘羅大権現をひろめた」というのは、本当だったとしてももっと後のことです。これについては別項の「金毘羅大権現形成史」で、述べましたのでこれ以上は触れません。
 どちらにしても、この地に金毘羅大権現をもたらしたのは天狗で、修験者たちの布教活動の成果だと私は考えます。そして、人々も天狗(修験者=山伏)を受けいれていたのでしょう。

それでは○箸とは、なんでしょうか。
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この先の財田川の長瀬橋のたもとに残る灯籠を兼ねた道しるべです。
ここには「右 はしくら」「左 こんぴら」と刻まれています。箸蔵寺は、讃岐山脈の猪ノ鼻峠を越えた阿波徳島にある山岳寺院です。この寺も近世には、高越山とともに阿波修験道の拠点のひとつとされていました。金毘羅大権現の「奥の院」として「両参り」を提唱して、幕末から明治にかけて寺勢を伸ばしました。讃岐山脈の麓にある各町村の村史や町史を読んでいると、阿波からの山伏が布教定着し、「山伏寺」を村々に立ち上げていた様子が記されています。その拠点が箸蔵寺になります。

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 箸蔵寺本堂

箸蔵寺は明治の神仏分離の際にも神道に転ずることがありませんでした。
そのため今でも「金毘羅大権現」をお祭りしています。本堂の前には大きな子天狗と大天狗のふたつの天狗面が掲げられています。
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また、明治になって大久保諶之丞による四国新道が財田から三好に抜けるようになると、このバイパス沿いに位置することが、有利に働き多くの信者を集めることになります。そのような寺勢を背景に修験者たちは、国内だけでなく植民地とした朝鮮や中国東北部(旧満州)へも布教団を送り込み信者を増やしていったのです。その時期に建立されたのが現在に残る本堂などの伽藍なのです。明治の建物にもかかわらず早くも重要文化財の指定を受けているように、彫り物などは四国の寺院建築物としては目を見張るものがあります。
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また、旧参道の玉垣の寄進者名も朝鮮や中国旧東北部からのものが多く残されています。
このように、幕末から大正時代にかけての箸蔵寺の修験者僧侶の布教活動には目をみはるものがあったのです。これが、讃岐の里へも影響を与えています。金刀比羅街道の標識に「はしくらへ」と刻まれているのは、当時の箸蔵寺の布教活動の勢いを示す物なのです。

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 こうして、○金と○箸がならぶのは、
①この地に「金毘羅大権現」をもたらしたのは、金毘羅さんの修験者たちだった
②しかし、神仏分離で金毘羅さんから天狗(修験者)は追放された
③その空白部へ入ってきたのが、箸蔵寺が組織した修験者集団であった。
④そのために「金毘羅大権現」は、そのままにして○金と○箸が並び立つことになった。
という推論にたどり着きました。
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箸蔵寺の金毘羅大権現 扁額

わたしにはもうひとつ気になる存在が、この地域にはあるのです。
それがこの背後の丘の上に鎮座する宋運寺と天満神社です。両者は、神仏分離以前は一体でした。建立者は山下氏で、金毘羅大権現の別当金光院を世襲していた家の氏寺でした。つまり、金毘羅さんとストレートにつながっていたのです。この地域への金毘羅神信仰の伝播について、この寺の果たした役割については次回、お話しすることにします。
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以前にも紹介した讃岐の金毘羅宮の「元禄祭礼図屛風」で、歌舞伎や人形浄瑠璃の芝居小屋について、説明不足だと指摘されました。その部分のみを補足します。

鞘橋 金毘羅大祭行列図屏風
鞘橋 (金毘羅祭礼図屏風)

金倉川に架かる鞘橋の下で身を清めて山上へ参拝を済ませます。その後は、精進落としのお楽しみです。内町から南の金山寺の道に入っていくと・・

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          鞘橋から内町へ(金毘羅祭礼図屏風)
内町の高級旅館の裏が入っていくと、賑やかな呼び込みの声や音楽が聞こえてきて、芝居小屋が姿を見せます。 ここが金山寺街です。参拝を済ませた客が、願を掛け終えた安堵感・開放感に浸りながら精進落としをする場所です。この辺りは金山寺町と呼ばれ、かつては金山寺というお寺があったと伝わります。金倉川の河畔には、歌舞伎や相撲・見世物などの小屋が六座描かれており、道も溢れんばかりの賑わいぶりを見せています。この図屏風にも、歌舞伎・浄瑠璃・相撲・見世物・辻芸人集団などが描かれています。
歌舞伎
       歌舞伎小屋(金毘羅祭礼図屏風)

①歌舞伎小屋は、竹矢来で周りを囲み、槍・梵天を配した矢倉に座元の家紋を入れた幕を張っています。鼠木戸を通って中に入ると、能舞台形式の板屋根舞台があり、六人の歌舞伎俳優が、三味線・鼓・太鼓の伴奏で演じています。若衆歌舞伎は承応元年(1652)に禁止されているので、ここでは野郎歌舞伎の段階と研究者は考えています。しかし、六人のうち三人は若衆か女のようにも見えます。

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 歌舞伎小屋の下には黒い幕を張った人形芝居の小屋が描かれています。
浄瑠璃(図屏風)

地方興行ということで、周囲を竹矢来で囲んだ小屋で、櫓の下の鼠木戸の部分だけが板塀です。
そのため後ろ側の囲いの横には、木戸銭を払わずに鐘の隙間から覗き見をする人がいます。小屋の中には桟敷席らしきものはありません。見物人は土間に腰を下ろして舞台を見上げています。舞台は平側を正面にした建物の中央部分に切妻の屋根をのせたような形になっています。
 人形が出ている手摺は上下二段構造になっています。元禄2年の「曾根崎心中」から本格化したとされる出語り・出遣い形式では、金毘羅のものはないようです。全体の手摺の形式は「西鶴諸国はなし」のものとよく似ていると専門家は指摘します。
 舞台を数えると八体の武者人形が出ています。さらに「本手摺」の前に「前手摺」には、二体の人形が出ています。上手と下手には山の装置が置かれていて、人形は中央部に出ているようです。低い手摺を使用する場合には、地面を掘り下げることもあったようです。
『尾陽戯場事始』に
「享保二丁酉より戌年頃 稲荷社内にて稽古浄瑠璃といふ事はじまり 手摺一重にひきくして 地を掘り通し 其中にて人形をつかへり 尤人形の数 五つ六つに限る」

とあります。浄瑠璃にも地面を掘って低い手摺を使ったことが分かります。
② 元禄9年(1696)には、操浄瑠璃芝居の竹本座が「当夏、讃州より宮嶋へ行く」(『外題年鑑』明和版)と記録されています。
③元禄16年(1703)3月の『多聞院抜書』には「子供芝居座本権左衛門、太夫本嵐勘四郎」の名が見えます。ここからは、歌舞伎や浄瑠璃が盛んに演じられていたことが分かります。
  
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内町・芝居小屋 讃岐国名勝図会
      内町と金山寺町の芝居小屋(讃岐国名勝図会1854年)
 参考文献
 人形舞台史研究会編、「人形浄瑠璃舞台史 第二章 古浄瑠璃、義太夫節併行時代」

10 

     
  幕末の瀬戸内海の芸予諸島を描いた一枚の絵図を見ています。
9639幕末~明治期古地図「宮島 錦帯橋 金毘羅ほか鳥瞰図
この絵は尾道・三原上空から南の瀬戸内海を俯瞰した形で描かれています。

i-img1024x767尾道沖2
下側には山陽道沿いの海岸線と主要な港町が東(左)から下津井・福山・とも(鞆)・尾道・三原と続き、

i-img1024x7宮島
 
竹原・おんど(音戸の瀬戸)を経て広島湾から宮島へと続きます。そして、西(右)端の岩国まで描かれています。

さて、この絵の作者の描きたかったのは何なのでしょうか?
この絵図はこのエリアの4つの名所を紹介するために書かれた絵図のようです。 分かりやすく描きたかった所には、丸い枠の中に地名が書き込まれています。
i-img1024x767-宮島・岩国

それは「宮島」・「岩国錦帯橋」「とも ギョン宮」「こんぴら大権現」のようです。しかし、この絵図で、最も丁寧に描き込まれているのは宮島、その次が錦帯橋ではないでしょうか。鞆と金毘羅大権現は脇役のような印象を受けます。関西人にとって瀬戸内海のナンバーワン名勝は「日本三景」の宮島でした。その宮島に匹敵するほどの参拝客が金毘羅を訪れるようになるのは19世紀になってからのようです。
 今回は大坂の船問屋が乗船客に配布した引札の金毘羅参拝絵図の航路図の変遷から見えてくるを探ってみます。

この絵図は18世紀末に、大坂の船問屋のはりまや伝兵衛が金毘羅船の乗船客に無料で配布した航路図です。
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両面刷りで、表(上)が高砂から金毘羅まで、裏(裏)がとも(鞆)から西の宮島までの海路が示されています。この絵地図の題名は「こんぴら並みやじま船路道中記案内」で、金毘羅と宮島の案内を兼ねていたことが分かります。つまり、18世紀後半の金毘羅の案内図は、宮島と抱き合わせであったようです。この図が出されてからは、各地の宿屋がこのような道中案内を出すようになるのですが、金毘羅単独ではなく宮島や西国巡礼の案内を兼ねた道中記です。
  ちなみにこの時期に何種類も出された「西国霊場並こんぴら道中案内記」の中には、
「さぬきこんぴらへ御さんけいあそばされ候は つりや伊七郎方へ御出被成可被下候、近年新宿多く出来申候てまぎらはしく候ゆへ ねんのため此方より御さしづ奉申上候」
と、金比羅詣での宿の手配依頼を受け付けることが書かれています。
    この時期の金毘羅さんには単独で四国讃岐まで遠方の参拝客を惹きつける知名度がなかったようです。

それが当時の旅ブームの高揚に載って、江戸での金毘羅大権現の知名度が高まる19世紀初頭になると多くの人たちが四国こんぴらさんを目指すようになります。前回見たように、十返舎一九の弥次さん北さんが「続膝栗毛」で金比羅詣でを行うのもこの時期です。そして、19世紀半ば頃から幕末に架けてひとつのピークを迎えるようになります。
そうなると、金比羅詣での客を自分たちの所へも呼び込もうとする動きが各地で出てきます。そのためにおこなうことは、金比羅詣でのついでに、我が地にもお寄りくださいとパンフや地図で呼び掛けることです。こうして、今までにないルートや名所が名乗りをあげてくることになります。
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 この絵図に何が書かれているのかが分かるためには少し時間が必用です。私も最初は戸惑いました。初期の金毘羅絵地図のパターンで、左下が大坂で、下側が山陽道の宿場町です。従来の金毘羅船の航路である大坂から播磨・備前を経て児島から丸亀へ渡る航路も示されています。しかし、この地図の変わっているのは、大坂から右上に伸びる半島です。半島の先が「加田」で、その前にあハじ島(淡路島)、川の向こうに若山(和歌山)です。この川はどうやら紀ノ川のようです。加田から東に伸びる街道の終点はかうや(高野山)のです。加田港からの帆掛船が向かっているのは「むや」(撫養)のようです。撫養港は徳島の玄関口でした。
 この絵図を発行しているのは、西国巡礼第三番札所粉川寺の門前町の旅籠の主金屋茂兵衛です。
彼がこの絵図を発行した狙いは、どこにあるのでしょうか。
私には、紀州加田から撫養へ渡り、讃岐の内陸部を通る新しい金毘羅参りのコース開発に力を入れているように思えます。もともと東国からの参拝者は弥次さん・北さんがそうであったように伊勢や高野山参りのついでに、金毘羅さんをめざす人たちが多かったのです。その人達の四国へのスタート地点を大坂から加田に呼び込もうとする目算が見えてくるようです。
さらに時代を経て出された絵図です。

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標題は「象頭山參詣道 紀州加田ヨリ 讃岐廻弁播磨名勝附」となっていて、「加田」が金毘羅へのスタート地点となっています。そして、四国の撫養に上陸してからの道筋が詳細に描き込まれています。
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讃岐山脈を越えて高松街道を西へ進み法然寺のある仏生山や滝宮を経て、象頭山の金毘羅へ向かいます。それ以外にも白鳥宮や志度寺、津田の松原など東讃岐の名所旧跡も書き込まれています。屋島がこの時点では陸と離れた島だったことも分かります。
 この絵を見ていると、地図制作技術が大幅に向上しているのが実感できます。色も鮮やかです。気がかりなのは、紀州加田の金毘羅への道の起点になろうとする戦略はうまく行ったのでしょうか?


さて次は、丸亀に上陸した後で旅籠から渡された絵図です。
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参拝者たちはこの地図を片手にウオークラリーのように、金毘羅さんだけでなく善通寺や弥谷寺などの名所旧跡にも足を運んだのです。いうなれば「讃岐版の金毘羅案内図」ということになるのでしょうか。
標題に「金毘羅並七ケ所霊場/名勝奮跡細見圖」とある通り、絵図の中では描写が写実的で最も細密でできばえがいいものです。絵師の大原東野は、文化元年(1804))に奈良から金毘羅へやってきて、定住していろいろな作品を残しています。それだけでなく「象頭山行程修造之記」を配って募金を行い金毘羅参詣道の修理を行うなど、ボランテイア事業も手がけた人です。彼の奈良の実家は、小刀屋善助という興福寺南圓堂(西国三十一二所第九番札所)前の大きい旅龍でもあったようです。
   さて、前回に登場した弥次さん北さんがそうであったように、江戸の参拝者は好奇心が強く「何でも見てやろう・聞いてやろう」と好奇心も強い上に、体力もタフでした。そのため「折角四国まで来たら金毘羅山だけではもったいない」という気持ちが強く、空海伝説の聖地である善通寺や弥谷寺などにも足を運んだことは紹介しました。

 その好奇心を逆手にとって、金毘羅客の呼び込みに成功したお寺が現れます。そのお寺が出した絵図がこれです。
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この絵図も見慣れない構図なので最初は戸惑いました。真ん中の平野のように見えるのは瀬戸内海です。金毘羅が鎮座する奥の象頭山と手前の丸亀の位置が分かると見えてきました。この絵図がアピールしたいのは丸亀と海を挟んで鎮座する喩迦山です。
 備前児島半島の喩迦山蓮台寺は、金毘羅参詣だけでは「片参り」になり、楡迦山へも参詣しないと本当の御利益は得られないと、巧みな宣伝をはじめます。これが功を奏して参詣客を集めることに成功します。これはその「両参り」用の案内書です。これを帰路の丸亀で見せられた参拝客は喩迦山まで足を伸ばすようになります。そして、次第に往路に喩迦山に立ち寄ってから金毘羅をめざす参拝者も増えるようになります。その結果、弥次・北の時代には室津から出発して小豆島の西で備讃瀬戸を横断していた金毘羅船の航路は、喩迦山の港である田の口港に寄港した後に丸亀に向かうようになるのです。その結果、金毘羅と喩迦山の間では門前町の宿屋や茶屋、土産物屋の間で参詣客の分捕り合戦が演じられるようになり、田引水の信仰や由来が作られ、双方が相手をけなし合う泥試合になっていきます。
これを庶民が表した諺が残っています。
○旨いこと由加はん 嘘をおっしゃる金毘羅さん 
観光誘致の所産の諺として、当時の人々に広まったようです。
塩飽諸島の盆歌に「笠を忘れた由加の茶屋へ空か曇れば思い出す」というフレーズがあるそうです。由加山蓮台寺門前町の昔のにぎわい振りがしのばれます。
 
18世紀までは、伊勢や高野山、宮島の参拝ついでに立ち寄られていた金毘羅さんでした。それが19世紀半ば頃から知名度を上げ「集客力」を高めるようになると、他の「観光地」が金毘羅さんからお客を呼び込もうとする戦略をとるようになっていったのです。
 観光地同士のせめぎ合いは、この時代からあったようです。
関連年表
延享元年 1744 大坂の船問屋に金毘羅参詣船許可。日本最初の客船運航開始
宝暦3年 1753 勅願所になる。
宝暦10年1760 日本一社の綸旨を賜う。
明和元年 1764 伊藤若冲、書院の襖絵を画く。
明和3年 1766 与謝蕪村、金毘羅滞在し「秋景山水図」を描く
天明7年 1787 円山応挙、書院の間の壁画を画く。
文化2年 1805 備中早島港、因島椋浦港に燈籠建立。
文化3年 1806 丸亀福島湛甫竣工。
文化7年 1810 『金毘羅参詣続膝栗毛初編(上下)』弥次郎兵衛と北八の金毘羅詣で
文化11年1814 瀬戸田港に常夜燈建立。
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工。天保の改革~6年間。
天保9年 1838 丸亀に江戸千人講燈籠建つ。(太助燈籠のみ)
  多度津港に新湛甫できる。
弘化2年 1845 金堂、全て成就。観音堂開帳。
嘉永6年 1853 黒船来航。吉田松陰参詣。
嘉永7年 1854 日米和親条約締結。
安政6年 1859 因島金因講、連子塀燈明堂上半分上棟。
  高燈籠の燈籠成就。
   参考文献 町史ことひら第5巻 絵図・写真編66P~

前回は金毘羅神を江戸で広げたのは山伏(天狗)達ではなかったのかという話でした。今回はそれをもう少し進めて、山伏達はどのように流行神として金毘羅神をプロモートしたのかを見ていきたいと思います。
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まず江戸っ子たちの「信仰」について見ておきましょう。
 江戸幕府は、中世以来絶大な力を持っていた寺社勢力を押さえ込む政策を着々と進めます。その結果、お寺は幕府からの保護を受ける代わりに、民衆を支配するための下部機関(寺請け)となってしまいます。民衆側からするとお寺の敷居は、高くなってしまいます。そのため寺院は、民衆信仰の受け皿として機能しなくなります。一方、民衆は 古道具屋の仏像ですら信仰するくらい新しい救いの神仏を渇望していました。そこに、流行神(はやりがみ)が江戸で数多く登場する背景があるようです。

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江戸っ子達は「現世利益」を目的に神社仏閣にお祈りしています。
 その際に、本尊だけでは安心・満足できずに、様々な神仏を同時に拝んでいくというのが庶民の流儀でした。これは、現在の私たちにもつながっています。神社・仏閣側でも、人々の要求に応じて舞台を整えます。氏神様は先祖崇拝が主で、病気治癒や悪霊退散などの現世利益の願いには効能を持たないと考えるようになった庶民に対して、新たに「流行神」を勧進し「分業体制」を整えます。例えばお稲荷さんです。各地域の神社の境内に行くと、本殿に向かう参道沿いに稲荷などの新参の神々が祀られているのは、そんな事情があるようです。地神の氏神さまは、それを拒否せず境内に新参の流行神を迎え入れます。寺院の場合も、鬼子母神やお地蔵さんなどの機能別の御利益を説く仏さまを境内に迎えるようになります。
境内には「効能」に応じた仏やいろいろなお堂が立ち並ぶようになります。
このような「個人祈願の神仏の多様化」が見られるようになるのは江戸時代の文化・文政期のようです。つまり「神仏が流行するという現象」、言い換えれば「人々の願いに応じて神仏が生まれ流行する」という現象が18世紀後半に生まれるのです。それを研究者は「流行神(はやりがみ)」と呼んでいるようです。それを流行らせたのが「山伏・聖者・行者・巫女」といったプロモーターだったようです。
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元禄から百年間の流行神の栄枯盛衰をつづった史料を見ておきましょう。
百年前世上薬師仏尊敬いたし、常高寺の下り途の薬師、今道町寅薬師有、殊の外参詣多くはやらせ、上の山観音仏谷より出て薬師仏参り薄く、上の山繁昌也、夫より熱村七面明神造立せしめ参詣夥鋪、四十年来紀州吉野山上参りはやり行者講私り、毎七月山伏姿と成山上いたし、俗にて何院、何僧都と宮をさつかり異鉢を好む、
 是もそろそろ薄く成、三十年此かた妙興寺二王諸人尊信甚し、又本境寺立像の祖師、常然寺元三大師なと、近年地蔵、観音の事いふへくもなくさかんなり、西国巡礼に中る事、隣遊びに異ならす、十年此かた讃州金比羅権現へ参詣年々多く成る。
意訳変換しておくと
百年前には、薬師仏が信仰を集め、常高寺の下り途の薬師や、今道町の寅薬師などが、殊の外参詣者が多かった。ところが上の山の観音仏が登場すると、薬師参りは参拝者が少なくなり、上の山が繁昌するようになった。さらに熱村の七面明神が造立されると参詣が多くなり、四十年前からは紀州吉野山参りが流行りとなり行者講が組織され、七月には山伏姿で山上し、俗に何院、何僧都を授かり、異鉢を好むようになった。それもそろそろ下火になると、三十年前からは妙興寺の二王への参拝が増えた。また本境寺立像の祖師、常然寺の元三大師なと、近年地蔵、観音さまへの信仰も盛んになった。西国巡礼に赴くものの中には、十年ほど前からついでに讃州金比羅権現へ参拝するものも多くなっている。
ここには元禄時代から百年間の「流行神」の移り変わりが辿られています。
「世上薬師仏 → 上の山観音 → 熱村七面明神 →紀州吉野のはやり行者講→ 妙興寺 → 西国巡礼 → 金毘羅大権現」
と神様の流行があっることをふり還ります。
ちなみに、金毘羅神の江戸における広がりも「十年此かた讃州金比羅権現へ参詣年々多く成る」ことから、元禄から百年後の19世紀初頭前後が江戸における金毘羅信仰高揚の始まりであったことが裏付けられます。
 江戸のはやり神 (法蔵館文庫) | 宮田 登, 小松和彦 |本 | 通販 | Amazon
流行神の出現を 弘法清水伝説の場合を見てみましょう
 宝暦六年に下総国古河にて、御手洗の石を掘ると弘法大師の霊水が出てきた。盲人、いざりはこの水に触れると眼があいたり腰が立つたという。この水に手拭を浸すと梵字が現われたりして、さまざまの奇蹟があった。
そこで江戸より参詣の者夥しく、参詣者は、竹の筒に霊水を入れて持ち帰る、道中はそのため群集で大変混雑していたという。そもそもこのように流行したのは、ある出家がこの地を掘ってみよといったので、旱速掘ったらば、清水が湧き出てきたのだという。世間では石に目が出たと噂されて流行したと伝えられている。(喜田遊順『親子草』)
 これは四国霊場のお寺によくある弘法清水伝説と同じ内容です。出家(僧)の言葉で石から清水が湧き出したことから、霊験があると巷間に伝えられて流行りだしたといいます。
流行神の登場の仕方には次のようなパターンがあります。
    ①最初に奇跡・奇瑞のようなものが現れる。
    ②たとえば予知夢、光球が飛来する、神仏増が漂着したり掘り出される等。
    ③続いて山伏・祈祷し・瞽女続いて神がかりがあったり、霊験を説く縁起話などが宣伝される。
    こうして流行神が生み出されていきます。 それを宣伝していくのが修験者や寺院でした。流行神の出現・流布には、山伏や祈祷師などがプロモーターとして関わっていることが多いのです。

修験者(行者・山伏)がメシアになった例を見てみましょう。
彼らはいろいろな呪法を行使して祈祷を行ない、一般民衆の帰依を受けることが多かったようです。霊山の行場で修行を経て、山伏が、ふたたび江戸に帰り民衆に接します。その際の荒々しい活力は、人々に霊験あらたかで「救済」の予感を感じさせます。そういった系譜を引く行者たちは、次のように生身の姿で人々に礼拝されることがありました。
 正徳の比、単誓・澄禅といへる両上人有、浄家の律師にて、いづれも生れながら成仏の果を得たる人なり、澄禅上人は俗成しとき、近在の日野と云町に住居ありしが、そこにて出家して、専修念仏の行人となり、後は駿河の富士山にこもりて、八年の間勤修怠らず生身の弥陀の来迎ををがみし人也、八年の後富士山より近江へ飛帰りて、同所平子と云山中に胆られたり、

単誓上人
もいづくの人たるをしらず、是は佐渡の国に渡りて、かしこのだんどくせんといふ山中の窟にこもり、千日修行してみだの来迎を拝れけるとぞ、その時窟の中ことぐく金色の浄土に変瑞相様々成し事、木像にて塔の峰の宝蔵に収めあり、
此両上人のちに京都東風谷と云所に住して知音と成往来殊に密也しとぞ、単誓上人は其後相州箱根の山中、塔の峯に一宇をひらきて、往生の地とせられ、終にかしこにて臨終を遂られける。澄禅上人の終はいかん有けん聞もらす、東風谷の庵室をば、遺命にて焼払けるとぞ、共にかしこきひじりにて、存命の内種々奇特多かりし事は、人口に残りて記にいとまあらずといふ
(『譚海』五)
 ここに登場する単誓・澄禅の二行者は、山岳で厳しい修行を積み、生身の弥陀の来迎を拝んだり、山中の窟を金色の浄土に変ぜしめたりする奇蹟を世に示す霊力を持つようになります。いわば「生れながら成仏の果を得たる人」でした。かれらの出現は、まさに民衆にとってはメシア的な存在で、信仰対象となったのです。このように修験者(山伏)の中には、「生き神様」として民衆の信仰を集める人もいたことが分かります。


 
一方、山伏たちは、江戸幕府にとってはずいぷんと目障りの存在だったようです。
このことは、寛文年間の次の町触れの禁令の中にもうかがうことができます.
 一、町中山伏、行人之かんはん並にほんてん、自今以後、出し置申間敷事
 一、出家、山伏、行人、願人宿札は不苦候間、宿札はり置可申事
 一、出家、山伏、行人、願人仏壇構候儀無用之由、最前モ相触候通、違背仕間敷候、
 一、町中ニテ諸出家共法談説候儀、無用二可仕事
 一、町中にて念仏講題目講出家並に同行とも寄合仕間敷事
 この禁令からは、山伏、行人たち宗教活動に大きな規制がかけられていることが分かります。一方では、こうした町触れが再三再四出されていることは、民衆が行者たちに祈祷を頼んだりして、彼らを日常的に「活用」していたことも分かります。山伏たちは、寺院に直接支配されない民間信仰の指導者だったのです.
  このような中に、天狗面を背負って金毘羅山からやって来た山伏達の姿もあったのではないでしょうか。四国金毘羅山で金光院や多門院の修験道修行を受けた弟子達が江戸でどんな活動を行ったかは、今後の課題となります。
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  江戸庶民の流行神信仰リストとその願掛けの御供えは? 
因幡町庚申堂にはを備よ
  赤坂榎坂の榎に歯の願を掛け楊枝を備ふ
  小石川源覚寺閻魔王に萄罰を備よ
  内藤新宿正受院の奪衣婆王には綿を備ふ
  駒込正行寺内覚宝院霊像にはに蕃根を添備ふ
  浅草鳥越甚内橋に廬の願を掛け甘酒を備よ
  谷中笠森稲荷は願を掛る時先土の団子を備よ
  大願成就の特に米の団子を備ふ
  小石川牛犬神後の牛石塩を備ふ
  代官町往還にある石にも塩を備よ
  所々日蓮宗の寺院にある浄行菩薩の像に願を掛る者は水にて洗よ
芝金地院塔中二玄庵の問魔王には煎豆と茶を備ふ 此別当は甚羨し 我聯として煎豆を好む事甚し 身のすぐれざる時も之を食すれば朧す
四谷鮫ヶ橋の傍へ打し杭を紙につつみて水引を掛けてあり、これ何の願ひなるや末だ知らず、後日所の者に問はん
 永代橋には、歯の痛みを治せんと、錐大明神へ願をかけ、ちいさき錐を水中に納めん              『かす札のこと下』
文化文政期ごろの江戸庶民の願掛けリストと、その時のお供え物が一覧表になっています。このうち、地蔵、閻魔、鬼王、奪衣婆、三途川老婆、浄行菩薩などは、寺院の境内にある持仏の一つであり、どれも「粉飾した霊験譚」をつけられて、宣伝された流行神ばかりです。同時に、どんな願をかけているのかを見ると「病気平癒」を祈っているのが多いようです。
 その中でもっとも多かっただのは、眼病でした。
よく知られた江戸の眼病の神は、市谷八幡の境内に祀られていた地主神の「茶の木稲荷」でした。『江戸名所花暦』には、
表門鳥居の内左のかたに、茶の木稲荷と称するあり、俗説に当山に由狐あり、あやまって茶の木にて目を突きたる故に茶を忌むといへり、此神の氏子三ヶ日今以て茶をのまず、又眼をわづらふもの一七日二七日茶をたちて願ひぬれば、すみやかに験ありといふ(中略)
と記され、約一週間茶断ちして祈願すれば、眼病は平癒するといわれていました。

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 歯病も眼病と並んで霊験の対象となっていました。
 歯の神として、江戸で名高かっだのは、おさんの方です。西久保かわらけ町の善長寺に祀られた霊神の一つで、寺の本堂で楊枝を借りて、おさんの方に祈願すると痛が治るとされ、楊枝を求めてきて、おさんの方に納めたようです。
 おさんの方は、『海録』によると、備後国福山城主水野日向守勝成の奥方珊といわれます。彼女は一生、歯痛に苦しみ、臨終の時に誓言して、
「我に祈らば応験あるべし」
と言い残したと伝わります。寛永十一(1634)年に流行だしたと史料に残っています。
このリストを見れば、まさに現世利益の「病気治癒」の神々ばかりが並んでいるのが分かります。

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金毘羅神は「海の安全」の神様といわれ始めます
しかし、この時代に「海の神様」というキャッチコピーでは、江戸っ子には受けいれられなかったと私は思います。金毘羅神はこの時期は「天狗神」として、「病気平癒」などの加持祈祷を担当していたのではないでしょうか。それを担当していたのは山伏達たちだった思うのです。

関連記事 


 前回は金毘羅信仰の高まりが金比羅講の結成につながり、寄進物が増えていく様子を見てみました。その信仰の広がりと高まりの背景に山伏(修験者)達の布教活動があったのではないかということを指摘しました。
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 大坂湊のスタート 天保山
今回は熱烈な金毘羅信仰「ファン」を見てみましょう。
江戸の人山田桂翁が、天保二年(1831)71歳の時に書き上げた「宝暦現来集」には、天明のころ両国薬研堀に初めて金毘羅社を祀った元船頭の金毘羅金兵衛という男のことが載っています。その金毘羅金兵衛という名前からも熱烈な金毘羅信者であったことが想像できます。こう言う人物が何人も現れてきたようです。
 金毘羅山の境内には、金毘羅参拝を何度も行った人の記念碑が建てられています。まず、それを見ていきましょう。
寛政五年(1793)伊予国松山の吉岡屋伝左衛門が100回参詣
天保十三年(1843)作州津山船頭町の高松屋虎蔵(川船の船頭?)が61度の参詣
安政元年(1854)信州安曇郡柏原村から33度の参詣を果たした中島平兵、
万延元年(1860)松山の亀吉は人に頼まれて千度の代参
万延元年 参州吉田宿から30度目の参詣したかつらぎ源治、
文久四年(1864)松山から火物断ちして15度の参詣を遂げた岩井屋亀吉。
金毘羅山に回数を重ねて何度も参拝する「金毘羅山の熱狂的ファン」が出現しています。今でも似たような碑文を、四国霊場のお寺の境内で見ることがあります。一般の参拝客が増える中で、強い信仰心を持ち参拝回数を競うように増やし、それを誇りとして碑文に残しているようです。現在の「ギネス記録に挑戦!」といったノリでしょうか。

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難波湊を出航して
大坂の高額寄進者、廻船問屋西村屋愛助の場合は?
 当時の金毘羅大権現は、薬師堂を金堂に立て替える大規模工事が文化10年(1813)から始まっていました。それに伴い寄進を求める動きが活発化していた時期でもあります。それに応えていく信者の代表が大坂の廻船問屋の西村屋愛助です。
彼の名が最初に見えるのは、江戸と大坂で同志を募って天保十二年春に奉納した銑鉄水溜の銘文の中に刻まれています。しかし、この水溜は、戦時中の戦争遂行のための金属供出で溶かされ、弾薬に姿を変えてしまいました。それ以外で、彼の名前の残るものを挙げてみると
天保13年月 金堂の用材橡105本を奥州秋田から丸亀へ廻送。
天保14年 「潮川神事場碑」の裏に讃岐の大庄屋クラスの人々と名前あり。弘化4年(1847) 五月に100両を、続いて11月に150両を献納
金堂が完成するのは、着工から30年以上経った1845年のことでした。愛助のような熱烈な信者がいたからこそ総工費三万両という大事業であった金堂が完成にこぎ着けることができたのでしょう。全国の金比羅講と共に、裕福で熱心な信者の人々によっても金毘羅信仰は支えられていたことが分かります。
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文人旅行客が残した参拝日記(道中記)から分かることは?
各地での金比羅講の成立と共に、講から送り込まれる金比羅詣での人たちが増えていきます。そして、参拝よりも「旅」に重きをおく「旅行者」も増えます。例えば「弥次さん・喜多さん」のような個人客も混ざってきます。彼らは信仰としての参拝というよりも、物見遊山・レジャーとしての参拝の色彩が強いようです。そして、裕福でゆとりをもった目、何でも見てやろうという好奇心の目で周囲を眺めながら、その様子を日記(旅行記)に記す人が現れます。
 承応二年(1653)の澄禅の「四国遍路日記」や元禄二年(1689)刊の「四国徊礼霊場記」にも
「……金毘羅は、順礼の数にあらすといえとも、当州の壮観、名望の霊区なれは、遍礼の人、当山には詣せすという事なし……」
と記されているように、四国巡礼の人々も善通寺参拝のついでに金毘羅まで足を伸ばすことが多かったようです。当時の人たちにとっては神も仏も関係なかったのです。さて、参詣者の数が増え始めるのは享保年間(1716~)のあたりからです。年表を見ると、この時期に急速に諸堂が整備されていったことが分かります。
享保7年 1722 文殊・普賢像、釈迦堂へ安置。
享保8年 1723 神前不動像、愛染不動像出来る。新町鳥居普請。
享保15年1730 観音堂開帳
享保17年1732 広谷墓地に閻魔堂建立。享保の大飢饉。
享保18年1733 龍王社造立
1730年の33年ぶりの観音堂の開帳に向けての整備計画が行われことが分かります。それが、また人々を惹きつける要因になります。
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東国からの金毘羅参拝者が増えるのはいつから?
文政11年(1828)鹿児島の郷士右田此右衛門一行は、伊勢参宮の途上に金毘羅に参詣し「……参銭の音絶ゆるひまなく・…」と記しています。参拝客の落とす賽銭も増えます。
また、九州の豊前中津藩や肥後熊本藩、筑後柳川藩などの藩士らの出張願いなどには、神社、特に金毘羅への参詣を希望する者が多かったことが史料に残っています。
安政二(1855)出羽の清河八郎は、旅行記『西遊草』に次のように記します。
「……金毘羅は、数年この方、天下に信仰しない者はなく、伊勢の大神宮同様に、人々が遠国から参拝に集まり、その上船頭たちが、大そう尊崇する
……数十年前までは、これほど盛んなこともなかったのであるが、近頃おいおい繁昌するようになった。…金毘羅と肩を並べている神仏は、伊勢を除いては、浅草と善光寺であろう……」と。
  ここには、金毘羅信仰が「数十年前までは、これほど盛んなこともなかった」と述べられています。つまり、18世紀の末頃までは金比羅詣で客は、伊勢神宮などに比べるとはるかに少なかったというのです。
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それでは、いつ頃から伊勢と肩を並べるほどに参拝者が増えたのでしょうか?
 18世紀に書かれた東国発の伊勢神宮への参拝道中記である宝永三年(1706)の「西国道中記」、宝暦十三年(1763)の「西国巡礼道中細記」と享和三年(1803)のを見てみましょう。すると一番最後の19世紀なって書かれた「西国巡礼道中細記」だけが、伊勢参拝後に金毘羅にも参詣しているのが分かります。関東地方からの参詣者が増加するのは、私が思っていた時期よりも遅く文政期以後(1818~)のようです。参拝者の急増を追い風に、金毘羅山の金堂は着工したのかもしれません。
 もうひとつ注目しておきたいのは、金毘羅への単独参拝が目的ではなく伊勢詣や四国八十八霊場と併せて参拝する人たちが多かったことです。残された「道中記」からは奥羽・関東・中部等の東国地方からの金毘羅参拝者の半数は、伊勢や近畿方面へ参拝を済ませて金毘羅へ寄っていることが分かります。
  ここから、「東日本から金毘羅宮へ参詣するようになるのは、19世紀初頭年前後からという結論が出される」と研究者は言います。

113574淡路・舞子浜

 讃岐は巡礼スタンプラリーのメッカ? 
東国の人々が、金毘羅参詣を行うようになってくるのは、19世紀の文化・文政期になってからといいました。それは東国に限らず、全国的に「旅行する」ということが盛んになってくるのが、宝暦から天明ごろだったことも合致します。このころから、「四国八十八ヶ所巡礼」「西国三十三ヶ所巡拝」「伊勢参宮」などの聖域・聖地を巡る人々が増えているのです。讃岐においても巡礼に関する記事が庄屋に残史料の中に見られるようになります
       願上げ奉る口上
 一私共宅の近辺、仏生山より金毘羅への街道二而御座候処、毎度遠方旅人踏み迷い難渋仕り候、これに依り二・三ヶ年以来申し合わせ少々の講結び御座候 而何卒道印石灯寵建立仕り度存じ奉り候、則場所・絵図相添え指し出し候間、
願の通り相済み候様宜しく仰せ上げられ下さるべく候、
願上げ奉り候、以上
 文化七午年   香川郡東大野村百姓     半五郎 金七
    政所交左衛門殿
これは、高松の大野村百姓の半五郎と金七が政所(大庄屋)の文左衛門にあてて願い出た文書です。そこには半五郎らの家の近くで、仏生山へ参詣した後に金毘羅へ向かっている遠方からの旅人が、道に迷って困っている事例が多く出てきている。そこで道標・石灯籠を建立したいと庄屋に願い出ています。
 庄屋・藩の許可がないと灯籠も建てられないという江戸時代の一面を映し出していますが、ここで注目したいのは仏生山に参拝した後、金毘羅へ向かう遠方からの旅人が多数いるという内容です。
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四国霊場でもない仏生山に遠方からの旅人が参拝するのはなぜ?
 法然寺へ参詣するという動きは、法然上人の五百五十回忌の宝暦十一年に、法然上人の遺跡として、二十五霊場が指定されます。これ以後、法然信者による聖地巡礼が始まります。高松藩主松平頼重により菩提樹として整備された仏生山法然寺は、その札所の二番目に指定されます。ちなみに最後の二十五番目は京都の大谷知恩院のようです。この時期は、その二十五番霊場巡りが知られるようになり巡礼者も増えていたようです。
紀州加田より金毘羅絵図1

 こんなことを知った上で、当時の瀬戸内海をはさんだ讃岐と山陽道を描いた絵図を見てみると別の見方が浮かんで来ます。讃岐の中には四国八十ハケ所の霊場あり、金毘羅あり、そして法然上人ゆかりの遺跡があり「聖地巡礼」のポイントが豊富な上に変化に富んで存在しています。旅人たちは、手にした絵図を見ながら金毘羅へ、善通寺へ、また法然寺へと参拝を繰り返しつつ旅を続けたのかもしれません。江戸時代の「金毘羅詣」とは、このような聖地巡礼中の大きな「通過点」であったのかもしれません。
 これは現在の印綬を集めての神社めぐりや、映画のロケ地を訪ね旅する「聖地ロケ地」巡りへと姿を変えているのかも知れません。日本人は、この時代から旅をするのが好きな民族になっていったのかもしれません。
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参考文献 旅行者から見る金毘羅信仰 町史ことひら97P

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 前回までに戦国末期から元禄年間までの百年間に金毘羅山で起きた次のような「変化・成長」を見てきました。
①歴代藩主の保護を受けた新興勢力の金光院が権勢を高めた
②朱印状を得た金光院は金毘羅山の「お山の殿様」になった
③神官達が処刑され金光院の権力基礎は盤石のものとなった
④神道色を一掃し、金毘羅大権現のお山として発展
⑤池料との地替えによって金毘羅寺領の基礎整備完了
 流行神の金毘羅神を勧進して建立された金毘羅堂は、創建から百年後には金光院の修験道僧侶達によって、金毘羅大権現に「成長」していきます。その信仰は17世紀の終わりころには、宮島と並ぶほどのにぎわいを見せるようになります。
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今回のテーマは「金毘羅信仰を広めたのは誰か」ということです。
通説では、次のように云われています。
「金毘羅山は海の神様 塩飽の船乗り達の信仰が北前船の船乗り達に伝わり、日本全国に広がった」

そうだとすれば、海に関係のない江戸っ子たちに金毘羅信仰が受けいれられていったのは何故でしょう? 彼らにとって海は無縁で「海の神様」に祈願する必要性はありません。
 まず信仰の拡大を示す「モノ」から見ていきましょう。
金毘羅信仰の他国への広まりを示す物としては
①十八世紀に入ると西国大名が参勤交代の折に代参を送るようになる
②庶民から玉垣や灯箭の寄進、経典・書画などの寄付が増加
③他国からの民間人の寄進が元禄時代から始まる。
 (1696)に伊予国宇摩郡中之庄村坂上半兵衛から、
  翌年には別子銅山和泉屋吉左衛門(=大坂住吉家)から銅灯籠
④正徳五年(1715)塩飽牛島の丸尾家船頭たちの釣灯寵奉納
 これが金毘羅が海の神の性格を示し始めるはしりのようです。
⑤享保三年(1718)仏生山腹神社境内(現高松市仏生山町)の人たちが「月参講」をつくって金毘羅へ参詣し、御札をうけて金毘羅大権現を勧請。この時に建てた「金毘羅大権現」の石碑をめぐって紛争が起きます。高松藩が介入し、石碑撤去ということで落着したようですが、この「事件」からは高松藩内に「月参講」ができて、庶民が金毘羅に毎月御参りしていることが分かります。

金毘羅大権現扁額1
金毘羅大権現の扁額(阿波箸蔵寺)
地元讃岐で「金毘羅さん」への信頼を高めたもののひとつが「罪人のもらい受け」です。
罪人の関係者がら依頼があれば、高松・丸亀藩に減刑や放免のための口利き(挨拶)をしているのが史料から分かります。
①享保十八年一月、三野郡下高瀬村の牢舎人について金毘羅当局が丸亀藩に「挨拶」の結果、出牢となり、村人がお礼に参拝、
②十九年十二月高瀬村庄屋三好新兵衛が永牢を仰せ付けられたことに対し、寺院・百姓共が助命の減刑を金毘羅当局に願い出て、丸亀藩に「挨拶」の結果、新兵衛の死罪は免れた。
③寛延元年(1748)多度津藩家中岡田伊右衛門が死罪になるべきところ、金光院の宥弁が挨拶してもらい受けた。
④香川郡東の大庄屋野口仁右衛門の死罪についても、金光院が頼まれて挨拶し、仁右衛門は罪を許された。
このような丸亀・高松藩への「助命・減刑活動」の成果を目の前にした庶民は、金毘羅さんの威光・神威を強く印象付けられたことでしょう。同時に「ありがたや」と感謝の念を抱き、信仰心へとつながる契機となったのではないでしょうか。
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金毘羅信仰の全国拡大は、江戸における高まりがあるとされます。
 江戸の大名邸に祀られた守護神(その多くは領国内の霊威ある神)を、江戸っ子たちに開放する風習が広がり、久留米藩邸の水天宮のように大きな人気を集める神社も出てきます。虎ノ門外の丸亀京極藩邸の金毘羅も有名になり、縁日の十日には早朝から夕方まで多くの参詣人でにぎわったようです。宝暦七年(1757)以後、丸亀江戸藩邸にある当山御守納所から金毘羅へ初穂金が奉納されていますが、宝暦七年には金一両だったものが、約四半世紀後の、天明元年(1781)には100両、同五年には200両、同八年からは150両が毎年届けられるようになったというのです。江戸における金毘羅信仰の飛躍的な高まりがうかがえます。
 天保二年(一八三一)丸亀藩が新湛甫を築造するに当たって、江戸において「金毘羅宮常夜灯千人講」を結成し、募金を始め、集まった金で新湛甫を完成させ、さらに青銅の常夜灯三基を建立するという成果を収めたのも、このような江戸っ子の金毘羅信仰の高まりが背景にあったようです。
この動きが一層加速するのは、朝廷より「日本一社」の綸旨を下賜された宝暦十年五月二十日てからです。
さらに、安永八年(一七七九)に将軍家へ正・五・九月祈祷の巻数を献上するよう命じられ、幕府祈願所の地位を獲得してます。もちろんこれは、このころ頻発し始めた金毘羅贋開帳を防止するためでもありましたが「将軍さんが祈願する金毘羅大権現を、吾も祈願するなり」という機運につながります。そして、各大名の代参が増加するのも、宝暦のころからです。
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しかし、それだけで遠くの異国神で蕃神である金毘羅大権現への信仰が広がったのでしょうか。
海に関係ない江戸っ子がなぜ、金毘羅大権現を信仰したのか?ということです。別の視点から問い直すと、
江戸庶民は、金毘羅大権現に何を祈願したかということです。
 それは「海上安全」ではありません。金毘羅信仰が全国的に、広まっていくのは十八世紀後半からです。当時の人々の願うことは「強い神威と加護」で、金毘羅神も「流行神」のひとつであったというのが研究者の考えのようです。
この時期の記録には、
高松藩で若殿様の庖療祈祷の依頼を行ったこと
丸亀藩町奉行から悪病流行につき祈祷の依頼があった
という記事などが、病気平癒などの祈祷依頼が多いのです。朝廷や幕府に対しても、主には疫病除けの祈願が中心でした。ちなみに、日本一社の綸旨を下賜されるに至ったきっかけも、京都高松藩留守居より依頼を受けて院の庖療祈祷を行ったことでした。
「加持祈祷」は修験道山伏の得意とするところです。
ここには金毘羅山が「山伏の聖地」だったことが関係しているようです。祈祷を行っていたのは神職ではなく修験道の修行を積んだ僧侶だったはずです。
「安藤広重作「東海道五十三次」の「沼津」」の画像検索結果
天狗面を背負っている修験者は、何を語っているのか?
広重の作品の中には、当時の金毘羅神の象徴である「天狗面」を背にして東海道を行く姿が彫り込まれています。彼らは霊験あらたかかな金毘羅神の使者(天狗)として、江戸に向かっているのかも知れません。或いは「霊力の充電」のために天狗の聖地である金毘羅山に還っているのかも知れません。
  信仰心というのは、信者集団の中の磨かれ高められていくものです。そこには、先達(指導者)が必要なのです。四国金毘羅山で修行を積んだ修験者たちが江戸や瀬戸の港町でも「布教活動」を行っていたのではないかと、この版画を見ながら私は考えています。

天狗面を背負う行者
金毘羅神は天狗信仰をもつ金比羅行者(修験者)によって広められた

 修験僧は、町中で庶民の中に入り込み病気平癒や悪病退散の加持祈祷を行い信頼を集めます
そして、彼らが先達となって「金毘羅講」が作られていったのではないでしょうか。信者の中に、大店の旦那がいれば、その発願が成就した折には、灯籠などの寄進につながることもあったでしょうし、講のメンバー達が出し合った資金でお堂や灯籠が建立されていったと思います。どちらにしても、何らかの信仰活動が日常的に行われる必要があります。その核(先達)となったのが、金毘羅山から送り込まれた修験者であったと考えます。信仰心というのは、信者集団の中の磨かれ高められていくものです。そこには、先達(指導者)が必要なのです。
1金毘羅天狗信仰 天狗面G4
金比羅行者によって寄進された天狗面(金刀比羅宮蔵)

 金毘羅神が、疫病に対して霊験があったことを示した史料を見てみましょう
 願い上げ奉る口上
 一当夏以来所々悪病流行仕り候二付き、百相・出作両村の内下町・桜之馬場の者共金毘羅神へ祈願仕り候所、近在迄入り込み候時、その病一向相煩い申さず、無難二農業出精仕り、誠二御影一入有り難く存じ奉り候、右二付き出作村の内横往還縁江石灯籠壱ツ建立仕り度仕旨申し出候、尤も人々少々宛心指次第寄進を以て仕り、決して村人目等二指し加へ候儀並びに他村他所奉加等仕らず候、右絵図相添え指し出し申し候、此の段相済み候様宜しく仰せ上げられ下さるべく候、願い上げ奉り候、以上
   寛政六寅年   香川郡東百相村の内桜之馬場
     十月          組頭 五郎右衛門
      別所八郎兵衛殿
これは香川郡東百相村(現高松市仏生山町)桜の馬場に住む組頭の五郎右衛門が、庄屋の別所八郎兵衛にあてて金毘羅灯寵の建立を願ったものです。建立の理由は、近くの村に悪病が流行していた時に金毘羅神へ祈願したところ百相村・出作村はその被害にまったく遭わなかった。そのお礼のためというものです。

7 金刀比羅宮 愛宕天狗
京都愛宕神社の愛宕神社の絵馬

 「悪霊退散」の霊力を信じて金毘羅神に祈願していることが分かります。ここには「海の神様」の神威はでてきません。このような「効能ニュース」は、素早く広がっていきます。現在の難病に悩む人々が「名医」を探すのと同じように「流行神」の中から「霊験あらたかな神」探しが行われていたのです。
 そして「効能」があると「お礼参り」を契機に、信仰を形とするために灯籠やお堂の建立が行われています。こうした「信仰活動」を通じて、金毘羅信仰は拡大していったのでしょう。ちなみに、仏生山のこの灯籠は、その位置を県道の側に移動されましたが今でも残されているようです。
 金毘羅信仰は、さらに信仰の枠を讃岐の東の方へ広がり、やがて寒川郡・大内郡へも伸びていきます。そこは当時、砂糖栽培が軌道に乗り始め好景気に沸いていた地域でした。それが東讃の砂糖関係者による幕末の高灯籠寄進につながっていきます。。
天狗面2カラー
金刀比羅宮に寄進された天狗面

 金毘羅信仰の高まりは、庶民を四国の金毘羅へ向かわせることになります
実は大名の代参・寄進は、文化・文政ごろから減っていました。しかし、江戸時代中期以降からは庶民の参詣が爆発的に増えるのです。大名の代参・寄進が先鞭をつけた参拝の道に、どっと庶民が押し寄せるようになります。
 当時の庶民の参詣は、個人旅行という形ではありませんでした。
先ほど述べたとおり、信仰を共にする人々が「講を代表しての参拝」という形をとります。そして、順番で選ばれた代表者には講から旅費や参拝費用が提供されます。こうして、富裕層でなくても講のメンバーであれば一生に一度は金毘羅山に御参りできるチャンスが与えられるようになったのです。これが金比羅詣客の増加につながります。ちなみに、参拝できなかった講メンバーへのお土産は、必要不可欠の条件になります。これは現在でも「修学旅行」「新婚旅行」などの際の「餞別とお礼のお土産」いう形で、残っているのかも知れません。

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丸亀のふたつの金毘羅講を見てみましょう
延享元年(1744)讃岐出身の大坂の船宿多田屋新右衛門の金毘羅参詣船を仕立てたいという願いが認められます。以後、大坂方面からの金毘羅参詣客は、丸亀へ上陸することが多くなります。さらに、天保年間の丸亀の新湛甫が完成してからは参詣客が一層増えます。その恩恵に浴したのは丸亀の船宿や商家などの人々です。彼らはそのお礼に玉垣講・灯明講を結成して玉垣や灯明の寄進を行うようになります。この丸亀玉垣講については、金刀比羅神社に次のような記録が残されています。
    丸亀玉垣講 
右は御本社正面南側玉垣寄付仕り候、
且つ又、御内陣戸帳奉納仕り度き由にて、
戸帳料として当卯年に金子弐拾両 勘定方え相納め候蔓・・・・・
但し右講中参詣は毎年正月・九月両度にて凡そ人数百八拾人程御座候間、
一度に九拾人位宛参り候様相極り候事、
  当所宿余嶋屋吉右衛門・森屋嘉兵衛
  金刀比羅宮文書(「諸国講中人名控」)
とあって、本社正面南側の長い階段の玉垣と内陣の戸帳(20両)を寄進したこと、この講のメンバーは毎年正月と9月の年に2回、およそ180人ほどで参拝に訪れ、その際の賑やかな様を記しています。寄進をお山に取り次いだのは金毘羅門前町の旅館・余嶋屋吉右衛門・森屋嘉兵衛です。
 玉垣講が実際に寄進した玉垣親柱には「世話方船宿中」と彫られています。そして、人名を見ると船宿主が多いことに気がつきます。
一方、灯明講については、燈明料として150両、また神前へ灯籠一対奉納、講のメンバーは毎年9月11日に参詣して内陣に入り祈祷祈願を受けること、そのたびに50両を寄付する。取次宿は高松屋源兵衛である。
この講は、幕末の天保十二年(1841)に結成されて、すぐ六角形青銅灯籠両基を奉納しています。灯明講の寄進した灯籠には、竹屋、油屋、糸屋とか板屋、槌屋、笹屋、指物屋という姓が彫られていて、どんな商売をしているのか想像できて楽しくなります。玉垣講と灯明講は、丸亀城下の金毘羅講ですが、そのメンバーは違っていたようです。
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瀬戸内海の因島浦々講中が寄進した連子塀灯明堂をみてみましょう
この連子塀灯明堂は、一の坂にあり、今も土産物店の並ぶ中に建っています。幕末ころに作られた『稿本 讃岐国名勝図会 金毘羅之部』に
連子塀並び灯龍 奥行き一間 長十二間
下六間安政五年十一月上棟 上六間
安政六年五月上棟
と記されています。
「金毘羅宮 灯明堂」の画像検索結果
一ノ坂の途中の左側にある重要有形民俗文化財「灯明堂」で、瀬戸内海の島港の講による寄進らしく、船の下梁を利用して建てられています。当時としては、巨額の経費を必要とするモニュメントです。この燈明堂を寄進した因島浦々講中とは、何者なのでしょうか?
 この講は因島を中心として向島・生口島・佐木島・生名島・弓削島・伯方島・佐島など芸予諸島の人々で構成された講です。メンバーは廻船業・製塩業が多く、階層としては庄屋・組頭・長百姓などが中心となっています。因島の中では、椋浦が最も大きな湊だったようで、この地には、文化二年(1805)10月建立の石製大灯籠が残っていて、当時の瀬戸内海の交易活動で繁栄する因島の島々の経済力を示すものです。
生口島の玄関湊に当たる瀬戸田にも、大きい石灯籠があります。
三原から生口島の瀬戸田へ : レトロな建物を訪ねて

これには住吉・伊勢・厳島などと並んで金毘羅大権現と彫られています。自らの港に船の安全を祈願して大灯籠を建てると、次には「海の神様」として台頭してきた金毘羅山に連子塀灯明堂を寄進するという運びになったようです。経済力と共に強力なリーダーが音頭を取って連子塀灯明堂が寄進されたことを思わせます こうして、瀬戸内海の海運に生きる「海の民」は、住吉や宮島神社とともに新参の金毘羅神を「海の神」として認めるようになっていったようです。
金毘羅神
天狗姿の金毘羅大権現(松尾寺蔵)
このような金毘羅信仰の拡大の核になったのは、ここでも金毘羅の山伏天狗たちではなかったのかと私は思います。
金毘羅山は近世の初めは修験者のメッカで、金光院は多門院の院主たちは、その先達として多くの弟子を育てました。金毘羅山に残る断崖や葵の滝などは、その行場でした。そこを修行ゲレンデとして育った多くの修験者(山伏)は、天狗となって各地に散らばったのです。あるものは江戸へ、あるものは尾道へ。
 尾道の千光寺の境内に残る巨石群は、古代以来の信仰の対象ですし、行者達の行場でもありました。また、真言宗の仏教寺院で足利義教が寄進したとされる三重塔や、山名一族が再建した金堂など、多数の国重要文化財がある護国寺の塔頭の中で大きな力を持っていたのは金剛院という修験僧を院主としています。尾道を拠点として、金毘羅の天狗面を背負った山伏達が沖の島々の船主達に加持祈祷を通じた「布教活動」を行っていた姿を私は想像しています。
 そして、ここでは「海の守り神」というキャッチコピーが使われるようになったではないでしょうか。江戸時代の後半になるまでは、金毘羅大権現は加持祈祷の流行神であったと資料的には言えるようです。
金毘羅神 箸蔵寺
阿波箸蔵寺の金毘羅大権現

参考文献 金毘羅信仰の高まり 町史ことひら 91P
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高松藩初代藩主 松平頼重
寛永19年(1642)に東讃岐12万石の領主となった高松藩主松平頼重は、家康の孫に当たり、家光とは従兄弟、そして弟が光圀という徳川家の御三家の出身です。彼は、初代藩主として金毘羅を保護し、金毘羅領330石を朱印地にすることに尽力しました。領主としても、代拝も含めると17回の金比羅参拝が記録されています。特に、幕府から朱印地に認められた年の八月には、参拝して一泊しています。

讃岐国絵図 琴平 佐文周辺
金毘羅周辺地図

松平頼重が金毘羅大権現に祈願のための願文をささげたことは二回あるようです。
1回目は寛文五年(1665) 養女大姫の安産を祈ったものです。大姫は頼重の父徳川頼房の娘女でしたが、頼重の養女となり将軍徳川家綱の命によって、熊本藩主の細川綱利に嫁していました。
2回目は寛文十一年(1671)に、次のような願文を金光院に出しています。

「今度参勤を遂げ、心中祈願相叶い、悉地成就せしめ、帰国致すに於いては、直ちに宝前に参詣し奉るべきなり」

「心中所願」とは、当時の頼重は病みがちで、隠居願いのことだったようです。二年後に、隠居が許されると頼重は、江戸から帰藩すると直ちに金毘羅大権現へ参拝しています。これより先延宝元年(1673)正月に、頼重は社領50石を三条村から割いて寄進しています。このときの寄進状は次のとおりです。
供田 松平頼重寄進
松平頼重寄進の御供田50石(那珂郡三条村)

 那珂郡三条村において、本高の外興高を以て五拾石の事、金毘羅大権現神供料・千鉢仏堂料井びに神馬料として、これを寄進せしめ詑んぬ。全く収納有るべきの状、件の如し。

50石の内訳は、神供料が10石、千体仏堂料10石、神馬料30石でした。三条村に住んでいた善左衛門に耕作が命じられています。

決壊中の満濃池
金比羅領(赤)と天領池御料の3村(白)

 前回お話ししたように朱印地金毘羅領330石の土地は、生駒時代に十数回にわたって寄進されたものです。そのため土地は飛び地でした。満濃池の池御料として天領の苗田村・榎井村・五条村と、境界が入り組んでいたようです。
天領池御料
天領池御料と金毘羅寺領(明治維新拡大図)

そのため松平頼重の肝煎で、金毘羅大権現の寺領(「院内廻り」)周囲に集められることになります。これは頼重の指示があったからこそ、できたことです。現在金刀比羅宮には、この時の絵図の写しが残っています。その絵図には、幕府寺社奉行三名の裏判が押されています。

この中に金毘羅領分は「院内(境内の周囲)廻りへ片付ける」ようにとの指示が書き込まれています。

つまり、天領3村の中に飛び地として分散していた土地を金毘羅領内にまとめようとしたようです。
池御両郷帳(榎井・五条・苗田)図
       金比羅領(赤)と天領池御料の3村(黄色)
この
結果、榎井村では一町ほどの土地が金毘羅へ、金毘羅領に遠い四條村の場合はすべて池領へ移っています。そして、全体ではほぼ同じ面積、石高が交換されています。おそらく、金毘羅に有利な形で、境界も定まったと思われます。これは、天領と金毘羅大権現の土地交換という難しい作業でした。実施に向けては、時の幕府の重役達の内々の同意を取り付けることが前提になります。これが出来るのは、親藩高松藩主としての頼重の政治力を抜きにしてはできなかったことでしょう。
 実施に当たっては、次のような要人が立ち会っています。
高松藩から大横目・代官・郡奉行と大庄屋
丸亀藩から大横目・郡奉行と庄屋
池御料からは代官・庄屋
金毘羅からは多聞院と山下弥右衛門ら町年寄
これも、後に禍根を残さない配慮でしょう。この結果、朱印地の寺領は、金倉川を越えた東側にも広がることになります。

金毘羅全図 宝暦5(1755)年
金毘羅神社絵図(宝暦5年 18世紀後半) 鞘橋から東が新町

この時に、金倉川の東側で得た現在の「新町」については、「古老伝旧記」に次のように記されています。

「地替相調い候て町並に家も立ち候」

地替(土地交換)で得た土地に家が建ち街並みとなっていることが分かります。高松街道沿いに榎井方面に向かって家々が並び立つようになり、門前町の発展に大きく寄与することになります。これも頼重の金毘羅に果たした大きな業績のひとつです。
一の橋・鞘橋
金倉川に架かる鞘橋と、それに続く新町

松平頼重の寄進で境内は、どのように姿を変えたのでしょうか?
 松平頼重は、多くの寄進を金毘羅山にしています。建築物だけを数え上げると
正保二年(1645)三十番神社の修復を初めとして、
慶安三年(1650)神馬屋の新築、
慶安四年(1651 仁王門新築
万治二年(1659)本社造営
寛文元年(1661)阿弥陀堂の改築
延宝元年(1673)高野山の大塔を模した二重宝塔の建立と
これだけでも本堂を始めとして、山内の堂舎が一新されたことを意味します。

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頼重寄進の仁王門(大門)

松平頼重の金毘羅大権現への寄進物を一覧表化したものを見ておきましょう。
松平頼重寄進物一覧表
松平頼重の金毘羅大権現への寄進物一覧表(町誌ことひら3 64P)

例えば一番下の石灯籠をみると、寛文8年から11年までの四年間に、毎年正月に石灯寵を二基ずつ、
延宝元年と同3年にも石灯寵を5月に二基寄進しています。こうして松平頼重の多くの寄進によって、境内は面目を一新します。同時に高松藩の殿様の厚い信心を受けていると評判になったはずです。整備された境内の堂舎は人々の目を楽しませ、殿様の寄進建築物・灯籠として話題になり、参拝者の数を増やしていったのではないでしょうか。

DSC04053石灯籠(頼重寄進)


松平頼重は、自分が身につけた刀や甲冑なども寄進しています。
それが讃岐国名勝図会に、次のように載せられています。

4344104-58松平頼重
松平頼重寄進の太刀

4344104-57松平頼重
松平頼重公寄進の太刀

4344104-56讃岐国名勝図会
           松平頼重公寄進の長刀

4344104-49福山城主阿倍氏甲冑
          松平頼重公寄進の馬具

4344104-48讃岐国名勝図会
          松平頼重公寄進の鎧

4344104-47松平頼重甲冑 讃岐国名勝図会
        松平頼重公寄進の鎧(左側)
ちなみに讃岐国名勝図会の挿絵は、若き日の松岡調が担当したとされます。そうだとすれば、讃岐国名勝図会が発刊される1850年代に、松岡調は金刀比羅宮にやってきて、これらを描いたことになります。
4344104-73
讃岐国名勝図会の裏表紙裏には「真景 松岡信正(調)模」と記されている
ちなみに、神仏分離後に松岡調は金刀比羅宮の禰宜として、仏式の金毘羅大権現から神道の金刀比羅宮への変身を進めていくことになるのは以前にお話ししました。

日本史賢兄賢弟

 頼重の弟が水戸光圀です。
光圀は弟である自分が水戸本家を継いだことについて儒教的孝徳意識から「不義」感を持っていたと言われます。そこで、兄頼重の実子の綱方、綱條を自分の養子として、水戸藩の家督は綱條に継がせます。一方、兄頼重は光圀の実子・松平頼常を養子に迎え、延宝元年(1673年)に幕府より隠居を認められ高松に帰ってきます。そして、真っ先に、金毘羅山に参拝し、報告しています。
 頼重は病気と闘いながら元禄8年(1695年)に没します。これ以後、金毘羅山は頼重が寄進したものを財産として、大きな発展がはじまるのです。

関連画像
頼重の眠る高松松平家菩提寺 仏生山(高松市)

   
琴平 本庄・新庄2
中世末期の琴平

 戦国時代末期・天正年間の象頭山のお山では、松尾寺を中心に三十番神社などの諸社が建ち並び、そこに新参者の金毘羅堂が割り込んでくるという神仏・諸堂の雑居状態でした。人々は金倉川の東側に広がる中世以来の小松庄に生活していて、金毘羅山の麓には「門前町」は、まだ姿を見せていませんでした。
 豊臣秀吉の天下統一の動きが進む中で、讃岐の領主は、仙石氏から尾藤氏、そして生駒氏へと目まぐるしく変っていきます。この中で、金毘羅山内では新参者の金毘羅神・金光院がその中心的地位につくといった大変革が進んで行きます。その変革の中心にいたのが金光院院主の宥盛や宥睨であったことを、前回までに見てきました。
 宥睨は、実家の叔母オナツが生駒家二代目の一正の側室に入り、左門という男子を出産するという「運と縁」を授かります。甥と叔母という縁を活かし、生駒家からの寄進を幾度も重ねて得ることに成功します。それは最終的には330石という石高になります。これは、他の神社仏閣への寄進高と比べるとダントツです。

詳しくは「http://tono202.livedoor.blog/archives/1684460.htmlを参照


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生駒正俊
 このような中で、第三代藩主になった生駒正俊は、金毘羅支配の方針にといえる「条々」を慶長十八年に出します。
一 金毘羅寺高、諸役免許せしむ事、付けたり、荒れひらき同前の事
一 城山勝名寺、前々の如く寄進せしむ事
一 金毘羅新町に於いて、他国より罷り越し候者の儀、諸公事緩め置き候間、
  住宅仕り候様二申し付けらるべき事
一 神役前々の如く申し付けらるべき事
一 先の金光院定めの如く万法度堅く申し付けらるべき事 右条々永代相違有る間敷き者なり
意訳変換しておくと

 金毘羅寺(金光院)の寺領、諸役免許の件、荒地開墾についても従前通りの権利を認めること。
一 城山勝名寺については、以前通りに寄進すること。
一 金毘羅新町で他国からやってきた商人が商売を行う事      
  住宅を建てて住み着くこと
一 神役についえは従来通り申し付けることができること事
一 従来のように金光院が定めた法は、今後も継続されること
 以上の件について、永代相違有る間敷き者なり
ここからは、生駒正俊が寺高・諸役の免除、城山勝名寺領の寄進、金毘羅への商人などの移住奨励、神役負課、金光院の院領内の裁量権を従来通りに認めたことが分かります。
 ある意味では、金毘羅山域に対してある種の「治外法権」が認められていたといえます。特に研究者が注目するのは、、金毘羅門前への「他国よりの移住奨励策」が認められている点です。これが金毘羅領が門前街として発達していく重要な条件になります。

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   35年もの間、金光院住職を勤めてきた宥睨に、最後の荒波が押し寄せます。
それは生駒騒動の結果、生駒家が矢島へ転封になってしまうのです。宥睨は理解ある大切なパトロンを失います。そして、新たな領主との関係を作ることが求められることになります。その交渉相手が初代高松藩として水戸からやって来た松平頼重だったのです。これは、宥睨にとっては幸いなことでした。

讃岐高松藩 初代藩主松平頼重は、どうして真宗興正派を保護したのか : 瀬戸の島から
松平頼重
 頼重は、生駒家の宗教政策を基本的に継承し、金毘羅山の既得権を認めます。

そして、当時幕府が行っていた全国の神社仏閣の朱印地認定作業に、金毘羅山の登録申請を行うのです。頼重の配慮、努力によって、慶安元年(1648))三月十七日に幕府からの朱印状を得ます。 
『徳川実紀』に
「先代御朱印給はらざる寺社領、こたび願いにより新たにたまふもの百八十二

とあるように、このとき朱印状を与えられたのは金光院だけでなく、全国の寺社領が対象でした。その182の寺社の中のひとつに、金毘羅山も登録されたと言うことです。
朱印状の内容はは次の通りです。
讃岐国那珂郡小松庄金毘羅権現領
同郡五条村内百三拾四石八斗余、
榎内村の内四拾八石壱斗余、
苗田村の内五拾石、
木徳村内弐拾三石五斗、
社中七拾三石五斗、都合参百三拾石事、
先規に任せこれを寄付し詑んぬ。全く社納すべし。
并びに山林竹木諸役等免除、有り来たりの如く
いよいよ弥相違有るべからず。
てへれば、神事祭礼を専らとし、天下安泰の懇祈を抽んずべきの状、件の如し。
    慶安元年二月廿四日
  御朱印  別当金光院

決壊中の満濃池
明治維新時の天領池御料と金毘羅寺領
朱印料として認められ他のは、金毘羅領と、その金倉川の東岸の3つの村に飛び地としてある土地でモザイク的なものでした。三つの村が寺領となったのではありません。これらは生駒藩時代に寄進された物です。これらを総て併せた330石が朱印地として認められたことになります。

金毘羅山を代表して朱印状を受けたのは金光院でした。
朱印状が渡される前年には、これを金光院が受け取ることについての賛否が山内で問われたようです。後に金光院を訴え獄門にされる三十番社の神職が起こした訴訟資料には、次のように記されています。
正保三年大猷院様御時代、金光院住僧宥睨御目見相済み候以後、御朱印の義 安藤右京進殿松平出雲守殿御両人ヘ讃岐守取り遣り仕り候処、当地に於いて相煩い、讃州へ着き、程なく宥睨相果て申し候間、其の讃岐守申し付け候は、後住宥典義御朱印の御訴訟申し上ぐべく候間、彼の山の寺家・俗家、領内下々迄後住宥典に申し分これ有る間敷哉、山の由来詮義仕るべきの由、讃州へ申し遣わし、彼の山穿繋仕り候処、
一山の者共家来にてこれ無き者一人も御座無く候。
門下の寺中弟子等其の外双び立ちたる者、連判の手形に仕り、彼の内記・権太夫連判届きに付き、連判致させ所持仕り、其の節江  府へ持参仕り、(後略)
意訳変換しておくと
正保三年に大猷院様(松平頼重)の時代に、金光院の宥睨との初会見した。その後に(金毘羅大権現の)朱印状については、松平頼重公が安藤右京進殿・松平出雲守殿へ取り次いだ。その結果、当地に出向いて調査確認を行ったが、その後程なくして宥睨が亡くなってしまった。松平頼重公の申し付けは、その跡を継いだ宥典の時に、御朱印についての訴訟が起こりました。その前に金毘羅山中の寺家・俗家、領内下々に至るまで、宥典が金毘羅全山の最高責任者であることを確認しています。山の者総てが、金光院の家来で、そうでないものは一人もいません。そのことについては、門下の寺社関係者たち総ての連判の手形も取っています。そして、現在控訴人となっている内記・権太夫も連判状に記銘しています。それは今回、江戸に持参予定です。

ここからは次のようなことが分かります。
①正保三年(1646)12月に、金光院宥睨が亡くなり宥典が継ぎいだこと、
②正保四年に朱印状を金光院が受け取ることについての賛否が問われたこと
③その結果、「一山の者」全員が金光院が金毘羅山の主人として受け取ることに賛成したこと
④それを「連判の手形」として署名したこと
これは、中世以来の松尾寺・三十番社・金比羅堂等の諸寺諸堂の並立状態が終わったことを意味するものです。ここに正式に、金光院が金比羅領の「お山の大将」としての地位が確認され、金光院の権勢が確立したことを示します。
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  同時に金光院院主が、330石の寄進地を含む「お山の領主」になったことを意味します。
それは、讃岐国は松平家と京極家、塩飽の「人名」に加えて、金毘羅山という新しい「領主」の誕生と言えるかもしれません。金光院院主は、宗教的な存在としてだけでなく、金比羅領の「殿様」として政治的な存在として、この地に形成されていく金比羅門前町を治めていくことにもなるのです。
この時すでに宥睨は亡く、院主は宥典に交代していました。
 宥睨は生駒家から得た寄進地を、幕府の朱印地に格上することに成功したわけです。そういう意味では、宥睨が金毘羅山に果たした役割は大きく「金毘羅山の大恩人」として、江戸時代に書かれた書物では大きく評価されることになります。それが宥睨の実家である
山下家が金光院住職の地位を世襲化することにつながるようです。以上をまとめておきます。
金光院の支配権確立まで

①近世初頭の 象頭山は、さまざまな宗教施設の混淆状態にあった。
②そこに長尾家出身の僧宥雅が、守護神として金毘羅神を造りだし、そのお堂を建立した。
③長宗我部元親はこの地を占領すると、土佐から有力な修験者を招き、松尾寺の管理運営を任せた。
④こうして、金毘羅は丸亀平野の拠点宗教センターに改装された。
⑤当時の松尾寺は、天狗信仰の修験者たちの拠点で、彼らがいくつもの院坊をもち管理するようになった。
⑥その中で最も有力になったのが宥盛の金光院であった。
⑦金光院は、生駒家に姻戚関係をもつ院主の元で寄進地を次々と増やして行った。
⑧生駒家転封後の高松藩初代藩主・松平頼重は、金光院への保護を継続した。
⑨松平頼重によって、金光院の寺領は朱印地となり、その領主として金光院が認められた。

こうして見ると、近世初頭に流行神としてして登場した金毘羅神が急速な成長を遂げるのは、長宗我部元親・生駒藩・松平頼重という支配者達の保護を受けてきたことが大きな要因であることが分かります。
ここからは金毘羅信仰を「庶民信仰」として捉える従来の考えに対する疑問が生まれてきます。時の支配者の寄進・保護を受けて経済基盤を調え、伽藍整備を行い、その後に庶民達がやってくるようになったと云えそうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
最終改訂2024/11/29
町史ことひら

参考文献  金比羅領の成立  町史ことひら3 42P~
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象頭山にあった松尾寺の守護神は、もともとは三十番社だったとされます。
金毘羅権現の創生期を考える時に、三十番神の存在を避けて通るわけには行かないようです。ということで、今回は三十番神と向き合うことにします。
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江戸時代中期に書かれた「箸片治良太夫日記」という記録があります。
これは「象頭山内五家之神職」、つまり、五人百姓の一つである箸片家の日記です。箸片氏は、御寺方と称し象頭山内で神職の地位にあり、神前において箸一本を得たので箸片氏と改めたと記されています。この中に、つぎのような記事があります。
 御寺方之事 往古依神代古式以神職付山内故云御寺方 
 明応六年秋山土佐守泰忠 三十番神奉勧請使加祭御八講  
ここには明応六年(1497)、秋山泰忠が三十番神を勧請して御八講の神事を始めたと記されています。
秋山泰忠というのは、西遷御家人として東国からやって来た法華経門徒で、三野町に本門寺を建立した秋山氏のことです。讃岐の日蓮宗は正応二年(1289)に、この秋山泰忠が日華を招いて、那珂郡杵原郷(現丸亀市)に本門寺大坊を建立したことに始まります。同寺は焼失した後は、日仙が正中元年(1324)に三野郡高瀬郷(現)に本門寺を建立します。秋山氏は所領など関係をもっていた那珂郡の柞原などの讃岐内の七か所に日蓮宗の三十番神を建立したといいます。その一つが、この史料の象頭山の南嶺の三十番神なのでしょうか。これをそのまま信じることはできませんが、当時の人達は法華経や、それを守護する三十番神は秋山氏がもたらしたものと考えていたことはうかがえます。

法華八講 三十番神

中世の法華経は、日蓮宗に限られものではありませんでした。天台宗のよりどころとなる教典も「法華経」でした。天台宗では法華教八巻を講説する法要を「法華八講」といいます。この法華宗信仰は、祖先や由縁の人々を供養する法事として、平安時代以降広く一般民衆の中に深く根を下ろしていきます。小松荘の墓寺としての機能を果たしていた松尾寺に法華経講会が行われていても不思議ではありません。しかし、鎌倉末期の泰忠と箸方氏の伝える泰忠とは、時代の差に二百年の隔たりがあります。ただ、秋山氏を先祖とする法華経信者集団が小松荘にもいて、信仰行事としておこなっていたことは考えられます。秋山氏の祖先で、讃岐における法華信者の大恩人としての秋山泰忠を担ぎ出したのかもしれません。このあたりはよく分かりません。
 あるいは、明応6年の15世紀末頃に、番神社が再興(創建?)されたことを示す物かもしれません。いずれにしても、この象頭山でも法華信仰の八講法会が、死者への追善供養のために行われ、墓寺や氏寺では、氏人らの回忌ごとに盛んに行われていたとしておきます。

  それでは、守護神である三十番社とは何者なのでしょうか。
古代末から中世には「神が仏を守る」ということが始まります。その先駆けは八幡信仰です。九州の八幡神が東大寺造営の際に守護神として勧進されたのをスタートに、八幡神は寺院の境内の中に守護神として「勧進=移住」してきます。こうして「仏を守る守護神」たちが姿を変えて、寺院の境内に姿を見せるようになります。それは「神は仏の姿を変えたもの インドの仏が日本では神に化身して現れる」と神仏習合へと進むようになります。番神は、最澄が中国の唐から帰り、比叡山に天台宗法華経の道場を開いた時、その山門を守護してもらうため、これまで日本にあった神々を祭ったことに始まるといいます。
 「三十番社」の画像検索結果  
続いて円仁は、法華経の功徳は「授持・読誦・解説・書写」にありといって、法華経の経典を人に授けたり、持っていたり、唱えたり、解説したり、書写したり、そのどれか一つを行っただけでも仏の功徳を受けることができると説きます。円仁自身も法華経八巻約七万字を越える経典を三ヵ年かかって写経し、これを如法経と呼びます。この写経を安置する堂を比叡山横川に造って根本如法堂として、この法華経の守護を神々に願います。


番社神の神像の一部
 そして日本国中から主な神々三十神を勧進して祀り、一ヵ月三十日を一日交替で守護するようにしました。三十の神々が順番に守護するから、三十番神と呼ばれるようになります、現在で比叡山では、根本道場の横川如法堂の隣に鎮座して、法華経を守護しています。
 鎌倉時代に出た日蓮は、法華経を最高の経典と定め、その教えを実践し布教することが真実の道だと説きます。そのためには、まず日本の国の神々に加護を願わねばならぬと考えるようになります。こうして、法華経とともに大小の神々を祭るという思想が発展します。

丸亀市の田村町にある番社を訪ねてみましょう。 
番神宮-パワースポット情報(香川県)<パワスポ.com>

田村町の旧国道沿いの道路の北側に面して鳥居が立っています。これが番神宮です。ここの三十番神は、木像で、五体七段の35体が厨子に祀られています。それぞれ厚畳の上に座る神像で、一体の高さは約七㎝と小さいものです。最も下の段は、両端に一体ずつの衛士、中央の三体は向かって右から、一日の熱田大明神、三日の広田大明神、四日の気比大明神であり、最上段は向かって右から、十日の伊勢大明神の座像、大日天王の立像、中央は大明星天王の立像、大月天王の立像、左端は十一日の八幡大菩薩の僧形座像です。最上段のこの五体を特に五番神と呼ぶようです。

 厨子には「開眼主 慧光山本隆寺日政(花押)」と記されています。

日政は弘化四年から嘉永三年まで本隆寺貫主として四ヵ年在職していますが丸亀を訪れたという記録はありません。この神像は京都の仏師によって作られ、日政によって開眼された後に丸亀へ祭られたものではないかと考えられています。田村の番神さまは、江戸末期の天保から弘化のころまでに作られたもののようです。ちなみに、京極藩は藩主とともに家臣にも番神信仰が厚かったようです。

三十番神の全像(祭壇の中)
 それでは日本中から勧進された三十の神々を見てみましょう
一日 熱田大明神 愛知県名古屋 衣 冠
二日 諏訪大明神 長野県諏訪 狩人姿
二日 広田大服神 兵庫県西宮 黒束帯
四日 気比大明神 福井県敦賀 衣 冠
五日 気多大明神 石川県羽咋 黒束帯
六日 鹿島大明神 茨城県鹿島 神将姿
七日 北野天神  京都府葛野 衣冠
八日 お七大明神 京都府愛宕 唐 服(女神)
九日 貴松大明神 京都府愛宕 鬼神形
十日 伊勢大明神 三重県伊勢 黒束帯
十一日 八幡大菩薩 京都府鳩峰 僧形
十二日 賀茂大明神 ″ 愛宕 黒束帯
十三日 松尾大明神 ″ 葛野 黒衣冠
十四日 大原野明神 乙訓 唐 服(女神)
十五日 春日大明神 奈良県奈良 鹿座
十六日 平野大明神 京都府葛野 黒束帯
十七日 大比叡大明神 滋賀県滋賀 僧形
十八日 小比叡大明神 滋賀県滋賀 大津 白狩衣
十九日 聖真子権現  滋賀県滋賀 僧形
二十日 客人大明神  滋賀県滋賀 唐服(女神)
二十一日 八王子大明神 滋賀県滋賀 黒束帯
二十二日 稲荷大明神 京都府紀伊 唐服(女神)
二十三日 住吉大明神 大阪府住吉 白衣老形
二十四日 祇園大明神 京都市八坂 神将形
二十五日 斜眼大明神 京都府談山西麓 黒束帯
二十六日 建部大明神 滋賀県瀬田  ″
二十七日 三上大明神 滋賀県野洲  ″
二十八日 兵主大明神 滋賀県兵主 随身形
二十九日 苗鹿(のうか)大明神 滋賀 唐 服(女神)
三十日  吉備大明神 岡山県岡山 黒束帯
「日本中から集めた」といわれますが、殆どが畿内で、最も東が鹿島大明神(茨城県鹿島)、もっとも西が「吉備大明神」(岡山県岡山)のようです。東北・九州・四国からは一社も呼ばれていないようです。当時の「世界観」の反映なのかなと思ったりもします。



金毘羅大権限神事奉物惣帳
         「金毘羅大権現神事奉物惣帳」 伝宥範書写の神事記について
この文書は、冠名に「金毘羅大権現」の名前がつけられていますが、研究者は「必ずしも、適当ではなく、『松尾寺鎮守社神事記』とでも言うべきもの」と指摘します。
また「右件の惣張(帳)者、観慮元年己未十月日於讃屈仲郡子松庄松尾寺宥範写之畢」とありますが、書き込みや年号などの検討から善通寺中興の祖である宥範が写したものではなく、後世に書き加えられたものと研究者は判断しています。

金毘羅大権現神事奉物惣帳 香川叢書
                   金毘羅大権現神事奉物惣帳
金毘羅大権現神事奉物惣帳2

ここに記載された神事の内容は、「八講大頭人」とあることからも分かるように、法華八講についてのものです。また、江戸時代以降の金毘羅大権現の大祭の儀式も、その頭人名簿のことを「御八講帳」と呼んでいます。さらに、精進屋の祭壇の後ろに掲げられる札にも「奉勧請金毘羅大権現御八講大頭人守護所」と書かれています。以上からも、金毘羅大権現の大祭は中世の法華八講の姿をそのまま踏襲していることが分かります。

金毘羅大権現神事奉物惣帳拡大版

 諸貴所宿願状は第一丁から第八丁までの料紙に記載された事項です。
ここには料紙半切の中央に、祭祀の宿(頭屋)を願い出た者の名前を書き、その脇にそれらの頭人からの寄進(指し入れの奉納物)が記入されています。それらの家々は、小松荘の地頭方や「領家分」「四分口」などという領家方の荘官(荘司)らの名跡が見えるなど、当時のこの地域を支配する国人・土豪クラスの領主などと比定することができます。
 家名の順序は、地頭方の地頭、地頭代官、そして、領家方の面々となっています。
つまり中世の惣村の「実態」があるのです。このことから彼らが祭祀を担う構成員で、いわゆる宮座の組織を示していると判断できます。諸貴所の右脇には、最初に「八講大頭人ヨリ指入」の奉物が書かれていて、その内容は、道具・紙・福酒・折敷き餅などです。
  以上から、この史料は宥範が写したものというのは疑わしいようですが、16世紀前半ころに小松庄に三十番神社が存在し、それを信仰する信者集団が組織され、法華八講の祭事が行われていたことを示すものです。 その祭事を、戦国末に金比羅堂を建立し、金比羅信仰を創出した初期の指導者である宥雅・宥盛は、三十番社から金比羅大権現の祭事に「接ぎ木」したということです。

DSC03332
琴平の地元では、こんな話がよく言われます
「三十番神は、もともと古くから象頭山に鎮座している神であった。
金毘羅大権現がやってきてこの地を十年ばかり貸してくれといった。
そこで三十番神が承知をすると、大権現は、三十番神が横を向いている間に十の上に点を入れて千の字にしてしまった。
そこで千年もの間借りることができるようになった。」
この種の話は、金毘羅特有の話ではなく、広く日本中に分布するものです。ポイントは、この説話が、旧来の地主神と、後世に勧請された新参の客神との関係を伝えていることです。つまり、三十番神が、当地の地主神であり、金毘羅神が客神であるということになります。

本社 讃岐国名勝図会
本社の後方にあった三十番社(讃岐国名勝図会)

 かつての三十番神社は、いまは睦魂(むつたま)神社とされています。
                  睦魂神社(旧三十番社)
睦魂神社(旧三十番社)
睦魂神社の説明版

金毘羅会式の祭礼日である十月十日には、今でも頭人が本社に参詣の後、この社に奉幣するようです。小松庄で中世以来の宮座を組織し、祭事を担ってきた人々の後裔たちにとって三十番神社拝礼は、特別の意味をもっていたはずです。そうした過去の伝統に対して畏敬の念を示すものであり、かつての儀礼・作法の残照と言えるのかも知れません。そして、三十番神の祭礼として行われてきた「法華八講」の法式を金毘羅権現の祭礼として取り込んでしまったことへの鎮魂のセレモニーかもしれません。しかし、現在の睦魂神社の説明版からは、三十番社の痕跡をもうかがえません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 土佐の長宗我部元親が讃岐に侵入する直前に、金刀比羅のお山に新たに金毘羅神を招き金刀比羅堂を建立したのは長尾氏出身の宥雅でした。とすれば、彼が金毘羅大権現の「創始者」とされてもいいはずです。しかし、彼は正史から「抹殺」され、忘れ去られた存在になっていました。
讃州象頭山別当歴代之記
讃州象頭山別当職歴代之記(初代宥範 二代宥遍 三代宥厳 四代宥盛)
宥雅の出自や業績については、下記で紹介しました。詳しくはこちらをご覧ください
金比羅信仰 宥雅はどのようにして金毘羅神を登場させたか
 
以前に宥雅の業績を次のようにまとめました。

宥雅の業績

堺に亡命した宥雅が、どうして弟弟子の宥盛を訴えたのでしょうか?

1600年 関ヶ原の戦いの年に、長宗我部元親が院主に据えた宥厳が亡くなり、宥盛が新しい院主になります。これに対して、堺に亡命中だった元住職の宥雅は、自分が正統な院主であると訴訟を起こします。土佐の長宗我部の勢力も消滅し、自ら築き上げた金毘羅堂を取り戻すための反撃を開始したのです。その矛先は、金光院住職を継承した弟弟子の宥盛に向けられます。
 慶長十二年(1607)5月吉日、宥雅が、生駒藩の奉行に訴状を提出し、宥盛の非法を訴えました。その訴状の内容は次の通りです
第一は、宥盛は金光院の「代僧」で、正式の住職ではない。
第二は、宥盛が金光院下坊を相続したとき、その時の合力の報酬として(毎年)百貫文ずつ宥雅に支払することの約束を履行しない。
 第一の争点については、宥雅は金光院前住の立場から、宥盛の不適格性を指弾します
そして、自分こそが金比羅の主としてふさわしいとするのです。これに対して、宥盛は生駒藩奉行へ申し開きの書状「洞雲(宥盛)目安申披書」を提出して次のように反撃します。
 「洞雲(宥雅)拙者を代僧と申す儀 毛頭其の筋目これ無く候。(中略)
土佐長宗我部入国の節 おひいだされ落墜仕り、其の後仙石権兵衛殿当国御拝領の刻、落墜の質をかくし、寺をもち候はんとは候へとも、当山はむかしより、清僧居り候へば、叶はざる寺の儀二候ヘ、落墜にて居り候儀其の旧例無く候故、堪忍罷り成らず候二付き、拙者師匠宥厳二寺を譲り
 意訳変換しておくと
「洞雲(宥雅)は、私のことを「代僧」と呼ぶことについて、毛頭もそのような謂われはありません。(中略)
土佐の長宗我部元親が讃岐に入国した際に、宥雅は追い出され堺に亡命しました。その後、仙石殿が讃岐を御拝領した時に、落ちのびたことを隠して、松尾寺を取り返そうとしました。しかし、当山は昔から清僧の管理する寺なので、それは適いませんでした。(長尾氏に加勢して敗れ、)そのまま寺にいることができなくなったので、私(宥盛)や師匠の宥厳に寺を譲り

まず冒頭に、宥雅が「拙者を代僧と申儀」、末尾に「拙者師匠宥厳二寺を譲り」とあります。ここからは宥雅は、長宗我部元親さえいなくなればいつでも帰山できると考えていた節が見えます。だから、宥厳の後嗣である宥盛を「代僧」ともいったのでしょう。長宗我部退却後の生駒藩になっても帰山が許されないとわかってはじめて、宥雅は宥厳に松尾寺を「譲った」と思われます。
 これに対して宥盛は「代僧」については、その筋目(根拠)のないこと、洞雲(宥雅)は「そくしやう(俗姓)」の者でもなく、少しの間金光院住であったものの長宗我部侵入の際には、寺物を武具に代えたり、寺を捨てて退転するなどの悪行を重ねたことを挙げて反論します。
また、長宗我部退却後の仙石氏入国の際には、寺を捨て「亡命」したことを隠して、金比羅に還ろうとしたが許されなかったこと、その結果、宥雅は松尾寺・金比羅堂の二寺を宥盛の師である宥厳に譲ったこと。その上で、宥盛自身が、生駒雅楽頭親正から承認された正統な住職であることを主張します。
 ここには、宥雅が金比羅神創出に係わったことは、一言も触れられません。
これが、後の金比羅側の宥雅像になり、後世の記録から抹殺されることにつながっていくようです。別の面から注目しておきたいのは
長宗我部侵入の際には、寺物を武具に代えたり、寺を捨てて退転

とあり、宥雅が一族の長尾氏とともに反長宗我部勢力側に立って金比羅のお山を「武装化」していたこともうかがえます。
  第二の件は、下坊(=金毘羅堂)をめぐる契約不履行の問題です。
「中正院宥雅証文」で宥雅は、次のように記します
「下之坊御請け取り候時、合力百貫ツツ給うべき旨申し定め候。然れ共今程は前々の如く、神銭も御座なき由候間、拾貫ツツニ相定め候間、此の上相違有る間敷く候」
意訳変換しておくと
「下之坊(金比羅堂)の管理運営については、年に百貫を支払うことで譲渡契約した。ところが近頃は前々のように、神銭が支払われない。(参拝者が少なく賽銭が少ないというので)値下げして十貫で辛抱することにした。ところが、それも宥盛は守らない。

ここからは宥雅は、仙石氏の統治下において、金毘羅への帰還を求めていたこと。それが認められなかったために、宥厳に下の坊を譲ったことがうかがえます。下之坊が別当する神殿といえば「金毘羅 下之坊」ですから、宥雅が建立した金毘羅神殿のことと考えられます。

 宥雅はこの訴訟に先立つ16年前の天正十八年(1590)に、宥盛に督促状を送っています
そこには「下坊=金比羅堂」の管理権のことが触れられています。もともと金比羅堂は長尾一族の支援を受けて宥雅が新たに建立したものです。そこで「所有者」の宥雅がいなくなった後の管理が問題になります。そこで宥雅との管理交渉を行ったのが、宥盛だったのではないでしょうか。宥盛は、長宗我部元親が土佐に退いて、後見人を失った別当の宥厳の権勢が衰えかけた頃に、高野山から讃岐に帰り、宥厳を補佐するようになります。仙石氏や生駒氏との信頼関係を築き、寄進石高を増やす中で、宥雅との交渉を進めたと私は考えています。
 そして、「合力」として毎年百貫ずつを宥雅に送るという「契約」を結んだようです。宥雅は「神銭不足の折から十貫に値下げ」されたのに、その約束さえも守らずらないと宥盛を責めています。
 ここには宥雅と宥盛の間には、「密約」があったと研究者は推測します。その内容は

毎年百貫の銭を送る以外に秘密協定として、宥厳の後は、宥雅が院主の座に返り咲く。

といううものではなかったのでしょうか。
 ところが、宥盛はこれを守らなかった。宥盛自らが院主の座につき、約束の銭も送らなかった。つまり宥雅からすれば、弟弟子に裏切られ、金毘羅の山を乗っ取られたということになります。
 宥雅は、コネをつかって自らの主張、すなわち金光院へ帰還を遂げようと工作します。

年未詳八月八日の生駒讃岐守一正書状によると、宥雅は、豊臣秀吉の時代にも大谷刑部少輔吉継や幸蔵主など秀吉の側近・奥向き筋を利用して、その旨を陳情しています。しかし、その結果は「役銭の出入りばかり」色々いってきたが一正の父親正は承引しなかったと記されています。

 
さらに宥雅は、宥盛の「かき物」(その旨の契約状)を堺から取り寄せ、証拠書類として提出することも書き加えています。そして、この証文通りにしないのならと、次のように脅しています。

「愛宕・白山の神を始め、「殊二者」金毘羅三十番神の罰を蒙であろう」

愛宕・白山の神に誓うのは修験者らしい台詞です。ちなみにこの時に宥雅が集めた「証拠資料」が、後世に残りこの時代の金毘羅山の内部闘争を知る貴重な資料となっています。

   訴訟の結果は、どうだったのでしょうか?
宥雅の完全敗訴だったようです。しかも、宥盛の言い分によれば
「宥雅の悪逆は四国中に知れ渡り、讃岐にいたたまれず阿波国に逃げ、そこでも金毘羅の名を編って無道を行う。
(中略)(宥雅は)女犯魚鳥を服する身」
と宥雅を「まひすの山伏なり」と断罪します。
これらの内容は、後世の金毘羅史諸本の説く「金比羅堂建立者」としての宥雅の所業とは、かなり違っています。ちなみに宥雅の宥盛を非難しての物言いは「彼のしゅうこん(秀厳=宥盛の房号)いたつら物」、すなわち、悪賢い者といっている程度です。それに比べて宥盛の宥雅に対する反駁の形容詞は猛烈なまでに辛辣な表現です。ここには、以前にも述べた宥盛の「闘争心」が遺憾なく発揮されているように思えます。

 宥雅との訴訟事件に勝利した宥盛は、強引に琴平山を金毘羅大権現のお山にしていくことに邁進していきます。
まさに金毘羅大権現の基礎を作った人物にふさわしいとされ、後の正史には「創始者」として扱われ、彼は神として現在の奥社に祀られます。 一方、金毘羅神を創出し、金比羅堂を創建した宥雅は、宥盛を訴えた元院主として断罪され、金毘羅大権現の歴史からは抹殺されていくことになるのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
唐木 裕志   讃岐国中世金毘羅研究拾 
 

                     
金毘羅全図 宝暦5(1755)年
象頭山金比羅神社絵図

金比羅神が象頭山に現れたのを確認できるのはいつから?
それは宝物館に展示されている元亀四年(1573)銘の金毘羅宝殿の棟札が最も古いようです。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
銘を訳すれば、
表「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都宥雅が造営した」
裏「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」
 この棟札は、かつては「本社再営棟札」と呼ばれ、「金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった」と考えられてきました。しかし、近年研究者の中からは、次のような見解が出されています。
「この時(元亀四年)、はじめて金毘羅堂が創建されたように受け取れる。『本尊鎮座』とあるので、はじめて金比羅神が祀られたと考えられる」
 
 元亀四年(1573)には、現在の本社位置には松尾寺本堂がありました。その下の四段坂の階段の行者堂の下の登口に金比羅堂は創建されたと研究者は考えています。
1金毘羅大権現 創建期伽藍配置

正保年間(江戸時代初期)の金毘羅大権現の伽藍図 本宮の左隣の三十番社に注目

幕末の讃岐国名勝図会の四段坂で、元亀四年(1573)に金比羅堂建立位置を示す
しかし、創建時の金比羅堂には金毘羅神は祀られなかったと研究者は考えているようです。金比羅堂に安置されたのは金比羅神の本地物である薬師如来が祀られたというのです。松尾寺はもともとは、観音信仰の寺で本尊には十一面観音が祀られていました。正保年間の伽藍図を見ると、本殿の横に観音堂が見えます。
 金比羅神登場以前の松尾寺の守護神は何だったのでしょう

DSC01428三十番社
金刀比羅宮の三十番社
それは「三十番社」だったようです。地元では古くからの伝承として、次のような話が伝わります。
「三十番神は、もともと古くから象頭山に鎮座している神であった。金毘羅大権現がやってきてこの地を十年ばかり貸してくれといった。そこで三十番神が承知をすると、大権現は三十番神が横を向いている間に十の上に点をかいて千の字にしてしまった。そこで千年もの間借りることができるようになった。」
これは三十番神と金毘羅神との関係を物語っている面白い話です。
この種の話は、金毘羅だけでなく日本中に分布する説話のようです。ポイントは、この説話が神祇信仰において旧来の地主神と、後世に勧請された新参の客神との関係を示しているという点です。つまり、三十番神が、当地琴平の地主神であり、金毘羅神が客神であるということを伝えていると考えられます。これには、次のような別の話もあります。
「象頭山はもとは松尾寺であり、金毘羅はその守護神であった。しかし、金毘羅ばかりが大きくなって、松尾寺は陰に隠れてしまうようになった。松尾寺は、金毘羅に庇を貸して母屋を奪われたのだ」
この話は、前の説話と同じように受け取れます。しかし、松尾寺と金毘羅を、寺院と神社を全く別組織として捉えています。明らかに、明治以後の神仏分離の歴史観を下敷きにして書かれています。おそらく、前の説話をモデルにリメイクされて、明治期以降に巷に流されたものと研究者は考えています。

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             護国寺・三十番神
三十の神々が法華経を一日交替で守護する三十番神
なぜ三十番社があるのに、新しく金比羅堂を建立したのでしょうか
 院主の宥雅は、それまでの三十番神から新しく金毘羅神を松尾寺の守護神としました。そのために金毘羅堂を建立しました。その狙いは何だったのでしょうか?
  琴平山の麓に広がる中世の小松荘の民衆にとって、この山は「死霊のゆく山」でもありました。その拠点が阿弥陀浄土信仰の高野聖が拠点とした称名寺でした。そして現在も琴平山と愛宕山の谷筋には広谷の墓地が広がります。こうして見ると、松尾寺は称名寺の流れをくむ墓寺的性格であったことがうかがえます。松尾寺は、小松荘内の住人の菩提供養を行うとともに、彼らの極楽浄土への祈願所でもあったのでしょう。ところがやがて戦国時代の混乱の世相が反映して、庶民は「現利益」を強く望むようになります。その祈願にも応えていく必要が高まります。そのために、仏法興隆の守護神としての性格の強い三十番神では、民衆の望む現世利益の神にしては応じきれません。
 また、丸亀平野には阿波の安楽寺などから浄土真宗興正派の布教団が阿波三好氏の保護を受けて、教線を伸ばし道場を各地に開いていました。宥雅は長尾氏の一族でしたが、領内でも一向門徒が急速に増えていきます。このような状況への危機感から、強力な霊力を持つ新たな守護神を登場させる必要を痛感するようになったと私は考えています。これが金毘羅神の将来と勧請ということになります。これは島田寺の良昌のアイデアかもしれませんが、それは別の機会にお話しするとして話を前に進めます。

讃州象頭山別当歴代之記
     讃州象頭山別当職歴代之記(初代宥範 二代宥遍 三代宥厳 四代宥盛)
                   宥雅の名前はない
讃州象頭山別当歴代之記2

 正史から消された宥雅と彼が残した史料から分かってきたことは?
 金毘羅堂建立の主催者である宥雅は、地元の有力武士団長尾氏の一族で、善通寺で修行を積んだ法脈を持つ真言密教系の僧侶です。それは宥範以来の「宥」の一文字を持っていることからも分かります。ところが宥雅は金刀比羅宮の正史からは抹殺されてきた人物です。正史には登場しないのです。何らかの意図で消されたようです。研究者は「宥雅抹殺」の背景を次のように考えます。

宥雅の後に金光院を継いだ金剛坊宥盛のころよりの同院の方針」

なぜ、宥雅は正史から消されたのでしょうか?
 正史以外の史料から宥雅を復活させてみましょう
宥雅は『当嶺御歴代の略譜』(片岡正範氏所蔵文書)文政十二年(1829)には、次のように記されています。
「宥珂(=宥雅)上人様
 当国西長尾城主長尾大隅守高家之甥也、入院未詳、
 高家所々取合之節御加勢有之、戦不利後、御当山之旧記宝物過半持之、泉州堺へ御落去、故二御一代之 烈に不入云」
意訳変換しておくと
「宥珂(=宥雅)上人様について
 讃岐の西長尾城主・長尾大隅守高家の甥にあたる。僧籍を得た時期は未詳、
 高家の時に(土佐の長宗我部元親の侵入の際に、長尾家に加勢し敗れた。その後、当山の旧記や宝物を持って、泉州の堺へ政治亡命した。そのため宥雅は、歴代院主には含めないと伝わる入云」
ここには宥雅は、西長尾(鵜足郡)の城主であった長尾大隅守の甥であると記されています。ちなみに長尾氏は、長宗我部元親の讃岐侵入以前には丸亀平野南部の最有力武将です。その一族出身だというのです。そして、長宗我部元親の侵入に際して、天正七年(1579)に堺への逃走したことが記されます。しかし、これ以外は宥雅の来歴は、分からないことが多く、慶長年間(1596~1615)に金光院の住持職を宥盛と争っていることなどが知られているくらいでした。
なぜ、高松の高松の無量寿院に宥雅の「控訴史料」が残ったの? 
ところが、堺に亡命した宥雅は、長宗我部の讃岐撤退後に金光院の住持職を、宥盛とめぐって争い訴訟を起こすのです。その際に、控訴史料として金光院院主としての自分の正当性を主張するために、いろいろな文書が書写されます。その文書類が高松の無量寿院に残っていたのが発見されました。その結果、金毘羅神の創出に向けた宥雅の果たした役割が分かるようになってきました。

金毘羅神を生み出すための宥雅の「工作方法」は?
例えば「善通寺の中興の祖」とされる宥範を、「金比羅寺」の開祖にするための「手口」について見てみましょう。もともとの『宥範縁起』には、宥範については
「小松の小堂に閑居」し、
「称明院に入住有」、
「小松の小堂に於いて生涯を送り」云々
とだけ記されています。宥範が松尾寺や金毘羅と関係があったことは出てきません。つまり、宥範と金比羅は関係がなかったのです。ところが、宥雅の書写した『宥範縁起』には、次のような事が書き加えられています。
「善通寺釈宥範、姓は岩野氏、讃州那賀郡の人なり。…
一日猛省して松尾山に登り、金毘羅神に祈る。……
神現れて日く、我是れ天竺の神ぞ、而して摩但哩(理)神和尚を号して加持し、山威の福を贈らん。」
「…後、金毘羅寺を開き、禅坐惜居。寛(観)庶三年(一三五二)七月初朔、八十三而寂」(原漢文)
 ここでは、宥範が
「幼年期に松尾寺のある松尾山登って金比羅神に祈った」・・金毘羅寺を開き

と加筆されています。この時代から金毘羅神を祭った施設があったと思わせる書き方です。金毘羅寺とは、金毘羅権現などを含む松尾寺の総称という意味でしょう。裏書三項目は
「右此裏書三品は、古きほうく(反故)の記写す者也」

と、「これは古い記録を書き写したもの」と書き留められています。
このように宥雅は、松尾寺別当金光院の開山に、善通寺中興の祖といわれる宥範を据えることに腐心しています。
 もうひとつの工作は、松尾寺の本尊の観音さまです。

十一面観音1
十一面観音立像(金刀比羅宮宝物館)
宥雅は松尾寺に伝来する十一面観音立像の古仏(滝寺廃寺か称名寺の本尊?平安時代後期)を、本地仏となして、その垂迹を金毘羅神とします。しかも、金比羅神は鎌倉時代末期以前から祀られていたと記します。研究者は、このことについて、次のように指摘します。

「…松尾寺観音堂の本尊は、道範の『南海流浪記』に出てくる象頭山につづく大麻山の滝寺(高福寺)の本尊を移したものであり、前立十一面観音は、これも、もとはその麓にあった小滝寺の本尊であった。」

「松尾寺観音堂本尊 = (瀧寺本尊 OR 称名寺本尊説)」については、また別の機会にお話しします。先を急ぎます。 

さらに伝来文書をねつ造します
「康安2年(1362)足利義詮、寄進状」「応安4年(1371)足利義満、寄進状」などの一連の寄進状五通(偽文書と見られるもの)をねつ造し、金比羅神が古くから義満などの将軍の寄進を受けていたと箔をつけます。これらの文書には、まだ改元していない日付を使用しているどいくつかの稚拙な誤りが見られ、後世のねつ造と研究者は指摘します。
そして神魚と金毘羅神をリンクさせる 
宥雅の「発明」は『宥範縁起』に収録された「大魚退治伝説」に登場してくる「神魚」と金毘羅神を結びつけたことです。もともとの「大魚退治伝説」は、高松の無量寿院の建立縁起として、その霊威を示すために同院の覚道上人が宥範に語ったものであったようです。「大魚退治伝説」は、古代に神櫛王が瀬戸内海で暴れる「悪魚」を退治し、その褒美として讃岐国の初代国主に任じられて坂出の城山に館を構えた。死後は「讃霊王」と諡された。この子孫が綾氏である。という綾氏の先祖報奨伝説として、高松や中讃地区に綾氏につながる一族がえていた伝説です。

 羽床氏同氏は、「金毘羅信仰と悪魚退治伝説」(『ことひら』四九号)で次のように記します。

200017999_00178悪魚退治
神櫛王の悪魚退治伝説(讃岐国名勝図会)
①「宥雅は、讃岐国の諸方の寺社で説法されるようになっていたこの大魚退治伝説を金毘羅信仰の流布のために採用した」
②「松尾寺の僧侶は中讃を中心にして、悪魚退治伝説が広まっているのを知って、悪魚を善神としてまつるクンビーラ信仰を始めた。」
③「悪魚退治伝説の流布を受けて、悪魚を神としてまつる金毘羅信仰が生まれたと思える。」
このストーリーを考えたのは、宥雅ではないと考える研究者もいます。それは、最初に見た元亀四年(1573)銘の金毘羅宝殿棟札の裏側には「高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」と良昌の名前があることです。良昌は財田出身ので当時は、高野山の高僧であり、飯山の法勲寺の流れを汲む島田寺の住職も兼務していました。宥雅と良昌は親密な関係にあり、良昌の智恵で金毘羅神が産みだされ、宥雅が金比羅堂を建立したというのが「こんぴら町誌」の記すところです。

 いままでの流れを整理しておきます。
①金毘羅神は宮毘羅大将または金毘羅大将とも称され、その化身を『宥範縁起』の「神魚」とした。
②神魚とは、インド仏教の守護神クンビーラで、ガンジス川の鰐の神格化したもの。
③インドの神々が、中国で千手観音菩薩の春属守護神にまとめられ、日本に将来された。
④それらの守護神たちを二十八部衆に収斂させた。
 最後の課題として残ったのが、松尾寺に伝来する本尊の十一面観音菩薩です。
先ほども見たように、金毘羅神の本地仏は千手観音なのです。新たに迎え入れた本尊は十一面観音です。私から見れば「十一面であろうと千手であろうと、観音さまに変わりない。」と考えます。しかし、真言密教の学僧達からすれば大問題です。  真言密教僧の宥雅は「この古仏を本地仏とすることによって金毘羅神の由緒の歴史性と正統性が確立される」と、考えていたのでしょう。

          十一面観音立像(重文) 木造平安時代(金刀比羅宮宝物館)

宝物館にある
重文指定の十一面観音立像について、
「本来、十一面観音であったものを頭部の化仏十体を除去した」
のではないかと研究者は指摘します。これは、十一面観音から「頭部の化仏十体を除去」することで千手観音に「変身」させ、金毘羅神と本地関係でリンクできるようにした「苦肉の工作」であったのではないかというのです。こうして、三十番社から金比羅神への「移行」作業は進みます。

それまで行われていた三十番社の祭礼をどうするか?
 最後に問題として残ったのは祭礼です。三十番神の祭礼については、それを担う信者がいますので簡単には変えられません。そこで、三十番社で行われていた祭式行事を、新しい守護神である金毘羅神の祭礼(現世利益の神)会式(えしき)として、そのまま、引き継いだのです。

金毘羅大権現 観音堂行堂(道)巡図
                     観音堂行道巡図
      明治以前の大祭は、金毘羅大権現本殿ではなく観音堂の周りで行われていた

こうして金毘羅権現(社)は、松尾寺金光院を別当寺として、象頭山一山(松尾寺)の宗教的組織の改編を終えて再出発をすることになります。霊力の強烈な外来神であり、霊験あらたかな飛来してきた蕃神の登場でした。

金刀比羅神社の鎮座する象頭(ぞうず)山です

DSC04880

丸亀平野の東側から見ると、ほぼ南北に屛風を立てたような山塊が横たわります。この山は今では琴平側では象頭山(琴平山)、善通寺市側からは大麻山と呼ばれています。江戸時代に金毘羅大権現がデビューすると、祭神クンピーラの鎮座する山は象頭山なのでそう呼ばれるようになります。しかし、それ以前は別の名前で呼ばれていました。象頭山と呼ばれるようになったのは金毘羅神が登場する近世以後のようです。
 
DSC00284
真っ直ぐな道の向こうが善通寺の五岳山 その左が大麻山(丸亀宝幢寺池より)

それまでは、この山は大麻山(おおあさ)と呼ばれていました。
この山は忌部氏の氏神であり、式内社大麻神社の御神体で霊山として信仰を集めていたようです。

DSC04906
金毘羅大権現の鎮座した象頭山
この山の東山麓に鎮座する大麻神社の参道に立ってみます。
200017999_00083大麻神社
大麻神社(讃岐国名勝図会)
大麻神社
大麻神社(讃岐国名勝図会)
すると、鳥居から拝殿に向け一直線に階段が伸び、その背後に大麻山がそびえます。この山は、祖先神が天上世界から降り立ったという「甘南備(かんなび)山」にふさわしい山容です。そして、この山の周辺は、阿波の大麻山を御神体とする忌部氏の一族が開発したという伝承も伝わります。

 大麻神社以外にも、多度郡の延喜式内雲気神社(善通寺市弘田町)や那珂郡の雲気八幡宮(満濃町西高篠)は、そこから仰ぎ見る大麻山を御神体としたのでしょう。御神体(大麻山)の気象の変化を見極めるのに両神社は、格好の位置にあり、拝殿としてふさわしいロケーションです。山自体を御神体として、その山麓から遥拝する信仰施設を持つ霊山は数多くあります。

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多度津方面からの五岳山(右)と雲がかかる大麻山
 大麻山は瀬戸内海方面から見ると、善通寺の五岳山と屛風のようにならび円錐型の独立峰として美しい姿を見せます。その頂上付近には、積み石塚の前方後円墳である野田野院古墳が、この地域の古代における地域統合のモニュメントとして築かれています。

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野田院古墳(善通寺)
その後は大麻山の北側の有岡の谷に茶臼山古墳から大墓山古墳に首長墓が続きます。彼らの子孫が古代豪族の佐伯氏で、空海を生み出したと考えられています。また、大麻山の東側山麓には阿波と共通する積石塚古墳が数多く分布していました。
 つまり現在の行政区分で言うと、大麻神社の北側の善通寺側は古墳や式内神社などの氏族勢力の存在を示す物が数多く見られます。しかし、大麻神社の南側(琴平町内)には、善通寺市側にあるような弥生時代や大規模な集落跡や古墳・古代寺院・式内社はありません。善通寺地区に比べると古代における開発は遅れたようです。

DSC04887
琴平町苗田象頭山
古代においてこの山は、大麻神社の御神体として大麻山と呼ばれていたと考えるのが妥当のようです。
現在はどうなっているかというと、国土地理院の地図ではこの山の北側のピークに大麻山、中央のピークに象頭山の名前を印刷しています。そして、山塊の中央に防火帯が見えるのですが、これが善通寺市と琴平町の行政区分になっているようです。

称名寺 「琴平町の山城」より
大麻山の称名寺周辺地図
 大麻山には、中世にはどんな宗教施設があったのでしょうか?
まず、道範の『南海流浪記』には称名院や滝寺(滝寺跡)などの寺院・道場が記されています。道範は、13世紀前半に、高野山金剛峯寺執行を兼ねた真言宗の逸材です。当時の高野山内部の対立から発生した焼き討ち事件の責任を負って讃岐に配流となります。
 彼は、赦免される建長元年(1249)までの八年間を讃岐国に滞留しますが、その間に書いた日記が残っています。これは、当時の讃岐を知る貴重な資料となっています。最初は守護所(宇多津)の近くで窮屈な生活を送っていましたが、真言宗同門の善通寺の寺僧らの働きかけで、まもなく善通寺に移り住んできます。それからは、かなり自由な生活ができたようです。
 
DSC09461
大麻神社参道階段
放免になる前年の宝治二年(1248)には、伊予国にまで開眼供養導師を勤めに旅行をしているほどです。この年11月、道範は、琴平の奥にある仲南の尾の背寺を訪ねます。この寺は満濃池の東側の讃岐山脈から張り出した尾根の上にある山岳寺院です。善通寺創建の時に柚(そま)山(建築用材を供給した山)と伝えられている善通寺にゆかりの深い寺院です。帰路に琴平山の称名院を訪ねたことが次のように記されています。
「……同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。
彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
             (原漢文『南海流浪記』) 
意訳すると
こじんまりと灘洒な松林の中に庵寺があった。池とまばらな松林の景観といいなかなか風情のある雰囲気の空間であった
院主念念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
すると返歌が送られてきた
DSC08912
象頭山と五岳山
 道範は、念々房不在であったので、その足で滝寺に参詣します。
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。 古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」 (原漢文『南海流浪記』)
 滝寺は、称名院から坂道を一六丁ほど上った琴平山の中腹にある「葵の滝」辺りにあったようです。本尊仏は「御作」とあるので弘法大師手作りの千手観音菩薩と記しています。金刀比羅宮所蔵の十一面観音像が、この寺の本尊であったとされます。しかし、道範の記述は千手観音です。この後は、称名院の名は見えなくなります。寺そのものは荒廃してしまい、その寺跡としての「しょうみょうじ」という地名だけが遺ったようです。江戸時代の『古老伝旧記』に称名院のことが、次のように書かれています。
「当山の内、正明寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」
 阿弥陀如来が祀られているので浄土教の寺としての称名院の姿を伝えているようです。また、河内正栄氏の「金刀比羅宮神域の地名」には
称名院は、町内の「大西山」という所から西に谷川沿いに少し上った場所が「大門口」といい、称名院(後の称明寺か)の大門跡と伝える。そこをさらに進んで、盆地状に開けた所が寺跡(「正明寺」)である。ここには、五輪塔に積んだ用石が多く見られ、瓦も見つかることがある

現在の町域を越えて古代の「大麻山」というエリアで考えると野田院跡や大麻神社などもあり、このような宗教施設を併せて、琴平山の宗教ゾーンが形作られていたようです。

DSC08913

 現在の金刀比羅神社神域の中世の宗教施設については? 
プラタモリでこの山が取り上げられていましたが、奥社や葵の滝には、岩肌を露呈した断崖が見えますし、金毘羅本殿の奥には岩窟があり、山中には風穴もあると言われます。
修験者の行場としてはもってこいのロケーションです。山伏が天狗となって、山中を駆け回り修行する拠点としての山伏寺も中世にはあったでしょう。
それが善通寺 → 滝寺 → 尾の背寺 → 中寺廃寺 という真言密教系の修験道のネットワークを形成していたことが考えられます。

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もうひとつのこの山の性格は「死霊のゆく山」であったことです。
現在も琴平山と愛宕山の谷筋には広谷の墓地があります。ここは、民俗学者が言うように、四国霊場・弥谷寺と同じように「死霊のゆく山」でした。里の小松荘の住民にとっては、墓所の山でもあったのです。
 こうして先行する称名院や滝寺が姿を消し廃寺になっていく中で、琴平山の南部の現在琴平神社が鎮座する辺りに、松尾寺が姿を見せます。この寺の周辺で金毘羅神は生まれ出してくるのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 町史ことひら 第1巻 中世の宗教と文化
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 江戸時代には、各大名の下屋敷などには、その本国の神々が祀られ、それが流行神として江戸庶民の間に爆発的に広がり出すことがありました。金毘羅信仰もそのなかの「流行神」のひとつです。今の私たちは「金毘羅さん」といえば「海の神様」というイメージが強いのですが、金比羅神が江戸でデビューした当時は、どのように見られていたのでしょうか。そして、江戸や大坂などでどのように受け入れられていたのでしょうか。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗たち (金毘羅金光院発行)

「金毘羅祈願文書」から見ていくことにしましょう
 江戸時代に信州芝生田村の庄屋が、金毘羅大権現に願を掛けた願文を見ておきましょう。この村は群馬県嬬恋村に隣接する県境の地域で、旧地名が長野県小県郡東部町で、平成16年の市町村合併によって東御市となっているようです。
  金毘羅大権現御利薬を以て天狗早業の明を我身に得給ふ。右早業之明を立と心得は月々十日にては火之者を断 肴ゑ一世不用ヒつる
  右之趣大願成就致給ふ
 乍恐近上
  金毘羅大権現
     大天狗
     小天狗  
千早ふる神のまことをてらすなら我が大願を成就し給う
   九月廿六日       願主 政賢
意訳変換しておくと
金毘羅大権現の御利益で天狗早業の明を我身に得ることを願う。「早業之明」を得るために月々十日に「火断」を一生行い大願成就を祈願する
   金毘羅大権現
     大天狗
     小天狗  
神のまことを照し我が大願を成就することを
   9月26日       願主 政賢


「金毘羅大権現御利薬を以て、天狗早業の明を我が身に得給う」とあり、「天狗」が出てきます。大願の内容は記されていませんが、「毎月十日に火を断つ」という断ち物祈願です。そして祈願しているのは「金毘羅大権現」「大天狗」「小天狗」に対してです。金毘羅大権現とならんで大・小の天狗に祈っているのです。
Cg-FljqU4AAmZ1u金毘羅大権現
前掲拡大図 中央が金毘羅大権現 右が大天狗、左が子天狗
 この祈願文の「大天狗」「小天狗」とは何者なのでしょうか?

 天狗信仰については、金毘羅宮の学芸員を長く務めた松原秀明氏は、次のように記されています。

金毘羅信仰における天狗の存在について、金毘羅大権現を奉祀していた初期院主たちの影響が大きい。別当金光院歴代住職の事歴が明らかになるのは戦国末期の天正前後であり、その当時の住職には「修験的なものが色濃くつきまとって見える」

ここからは次のようなことが分かります。
①金毘羅大権現の初期の中心は「天狗信仰」だったこと
②天狗信仰は戦国末期に金毘羅大権現を開いた金光院の院主によってもたらされたこと
③初期金光院院主は、修験者たちだったこと
金毘羅神
金毘羅大権現とは天狗?(松尾寺蔵)
 なかでも初代金光院院主とされる宥盛は、象頭山内における修験道の存在を確立します。
『古老伝旧記』に、宥盛は「真言僧両袈裟修験号金剛坊」とあり、「金剛坊」という修験の号をもつ修験者であったことが分かります。ちなみに、宥盛は、厳魂と諡名されて現在の奥社に祀られています。

1 金刀比羅宮 奥社お守り
宥盛を祀る金毘羅宮奥社の守護神は、今も天狗

 修験者たちは、修行によって天狗になることを目指しました。
修験道は、日本古来の山岳信仰に端を発し、道教、神道・真言密教の教義などの影響を受けながらを平安時代後期に一つの宗教としての形を取るようになります。山岳修行と、修行で獲得した霊力を用いて行う呪術的な宗教活動の二つの面をもっています。そして、甘南備山としての山容や、神の住まう磐座や滝などをめぐる行場を辺路修行が行われました。
 さらに農耕を守護する水分神が龍る聖地を、崇拝しました。
金毘羅大権現が鎮座する象頭山は、断崖や葵の滝などの滝もあり、「ショーズ山」=水が生ずる水分神の山であり、修験道の行場として中世以来行者たちが拠点とした場所だったようです。この修験道の宗教的指導者は山伏と呼ばれました。

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奥社の岩壁
 天狗信仰を広めた別当宥盛は奥の院(厳魂神社)に祀られている。彼が修行を行った岩壁は「天狗岩(威徳巖)」とも呼ばれています。


山伏とは?

 山伏は鈴掛・結袈裟・脚絆・笈・錫杖・金剛杖など山伏十六道具と呼ばれる独自の衣体や法具をまとって山岳に入って修行します。その姿は、中世の『太平記』では「山伏天狗」と記されるように山の妖怪である天狗と一体視されるようになります。ここに山伏(修験者)と天狗の結びつきが深まります。
中世末に成立したといわれる『天狗経』には、48の天狗が列挙されています。研究者は次のように指摘します。

「天狗信仰の隆盛は、修験道の隆盛と時期を同じくする」
「江戸時代の金比羅象頭山は、天狗信仰の聖地であった」
 
つまり、戦国末期から江戸時代初期にかけては、象頭山内において天狗信仰が高まった時代なのです。  そして、その仕掛け人が松尾寺の金光院だったようです。
金毘羅大権現は、どんな姿で表されたのでしょうか?

CPWXEunUcAAxDkg金毘羅大権現
天狗として描かれた金毘羅神
金毘羅大権現の姿については、次のような言い伝えがあります。

「烏天狗を表している」
「火焔光背をもち岩座に立っている」
「右手に剣(刀)を持つ」
「古くは不動明王のように剣と索を持ち、
飯綱信仰などの影響をうけ狐に乗った姿だった」
江戸時代の岡西惟中『一時軒随筆』(天和二年(1682)には次のようにあります。
万葉のうち、なかの郡にたけき神山有と見えぬ。
これもさぬきの金毘羅の山成べし。
金毘羅の地を那珂の郡といふ也。
金毘羅は、もと天竺の神、釈迦説法の守護神也。
飛来して此山に住給ふ。形像は巾を戴き、左に珠数、右に檜扇を持玉ふ也。
巾は五智の宝冠を比し、珠数は縛の縄、扇は利剣也。
本地は不動明王也とぞ。
二人の脇士有。これ伎楽、伎芸という也。
これ則金伽羅と勢陀伽権現の自作也。
金光院の法院宥栄らただちにかたせ給ふ趣也。
まことにたけき神山ともよめらん所也。
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金毘羅大権現
  金比羅神は、釈迦説法の守護神で天竺から飛んできた神で、本地は不動明王というのです。不動明王は修験者の守護神です。
当時、人々に信じられていた天狗は二種類ありました。
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それが最初に視た願文中の「大天狗」・「小天狗」です。
「大天狗」とは鼻が異様に高く、山伏のような服装をして高下駄を履き、羽団扇を持って自由自在に空中を飛翔するというイメージです。
「小天狗」とは背に翼を備え、鳥の嘴をもつ鳥類型というイメージです。
でそれでは「金毘羅坊」とは、どのような天狗なのでしょう。
 戦国末期に金光院別当であった宥盛(修験号名「金剛坊」)は、自分の姿を木像に自ら彫りました。彼の死後、この像は御霊代(みたましろ)として祀られていました。この木造について、江戸時代中期の尾張国の国学者天野信景は『塩尻』の中に、次のように記している。
讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。
いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、
手に羽団(団扇)を取る。薬師十二神将の像とは、甚だ異なるとかや。
その姿は「山伏の姿で岩に腰かける」というものでした。
山伏姿であるところから「大天狗」にあたると考えられます。
安藤広重作「東海道五十三次」の「沼津」に見られる金毘羅行者は、この大天狗を背に負っています。
「安藤広重作「東海道五十三次」の「沼津」」の画像検索結果

 一方「黒春属金毘羅坊」は
「黒は烏につながる」
「春属には親族とか一族の意味がある」ことから
「黒春属金毘羅坊は金剛坊の仲間の烏天狗として信仰された」とします。
つまり、烏天狗ということは、願文中の「小天狗」になります。
 そして大天狗・小天狗は、今でも金毘羅山を護っているのです。
現在の金刀比羅宮奥の院の左側の断崖絶壁に祀られています。

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 以上のことから、最初に見た願文の願主は、金毘羅信仰の天狗についてよく分かっていたようです。信濃の庄屋さんの信仰とは、金毘羅大権現=「大天狗≒小天狗」への信仰、つまり「天狗信仰」にあったと言えるのかも知れません。
天狗面を背負う行者
天狗面を背負った金比羅行者 彼らが金毘羅信仰を広めた
さらに深読みするならば、この時期の信州では天狗信仰を中心とした金毘羅信仰が伝わり、受けいれられたようです。それが信州における金毘羅信仰の始まりだったのです。ここには「金比羅信仰=海の神様」というイメージは見られません。また、「クンピーラ=クビラ信仰」もありません。これらは後世になって附会されたものなのです。
 
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 江戸時代初期の丸亀藩や高松藩の下屋敷に勧請され、当時の「開帳ブーム」ともいうべき風潮によって広く江戸市民に知られ、その後爆発的な流行をみせた金毘羅信仰。
その信仰の中心にあったものは、航海安全・豊漁祈願・海上守護の霊験と言われてきました。しかし、それは近世後半から幕末にかけて現れてくるようです。初期の金毘羅大権現は、修験道を中心とした「天狗信仰」=「流行神の一種」だったようです。その願いの中に、当時の人々が願う「現世利益」があり「大願成就」を願う心があったようです。
1金毘羅天狗信仰 天狗面G3
金比羅行者が奉納した天狗面(金刀比羅宮蔵)
1金毘羅天狗信仰 天狗面G4
1金毘羅天狗信仰 天狗面G5

天狗面2カラー
            金比羅行者が奉納した天狗面(金刀比羅宮蔵)

参考文献  前野雅彦 金毘羅祈願文書について こと比ら63号(平成20年)
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近世初頭の金毘羅さんは、どのように見られていたのでしょうか?

「修験道 天狗」の画像検索結果
 
当時の参拝姿を描いた絵図には、ふたのない箱に大きな天狗面を背中に背負った金比羅詣での姿が描かれています。江戸時代の人々にとって天狗面は、修験道者のシンボルでした。
 幕末の勤王の志士で日柳燕石は次のような漢詩を残しています
夜、象山(金毘羅さんの山号)に登る
崖は人頭を圧して勢い傾かんと欲す。
満山の露気清に堪えず、
夜深くして天狗きたりて翼を休む
十丈の老杉揺らいで声有り
 ここにも天狗が登場します。当時の人々にとって、金比羅の神は天狗、象頭山は修験道の山という印象であったようです。

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金毘羅宮奥社 ここには天狗となった宥盛が祭られている
金毘羅神(大権現)を、金光院は公式にはどんな神だと説明していたのでしょうか。
薬師瑠璃光如来本願功徳経には、次のように記されています。
「爾時衆中有十二薬叉大将俱在会坐。所謂宮比羅大将...」
薬師如来十二神将の筆頭に挙げられ、
「此十二薬叉大将。各有七千薬叉以為眷属。」
金毘羅神は、ガンジス川のワニの神格化を意味するサンスクリットのKUMBHIRA(クンビーラ)の音写で、薬師如来十二神将(天部)の筆頭で、「宮毘羅、金毘羅、金比羅、禁毘羅」と表記されます。十二神将としては宮比羅大将、金毘羅童子とも呼ばれ、水運の神とされていました。つまり仏教の天部の仏のひとつということです。
新薬師寺 公式ホームページ 十二神将
新薬師寺のクビラ大将

それがインドから象頭山に飛来したというのです。ところが金毘羅に祭られていた金毘羅神とクビラ大将とは似ても似つかない別物でした。江戸時代の金毘羅の観音堂近くに祭られていた金毘羅神を見た人たちは、次のような記録を残しています。
「生身は岩窟に鎮座。ご神体は頭巾をかぶり、数珠と檜扇を持ち、脇士を従える」
これは、役行者や蔵王権現など修験道の神そのものです。その金比羅神が象頭山の断崖の神窟に住み着きます。その地は人の立ち入りをこばみ、禁をやぶると暴風が吹きあれ、災いをもたらすと説きます。今日でも神窟は、本殿背後の禁足林の中にあり、神職すら入れないようです。 ã€Œé‡‘比羅ç\žã€ã®ç”»åƒæ¤œç´¢çµæžœ 
金毘羅大権現像
 ギメ東洋美術館

最初にこの金毘羅大権現像を見たときは、びっくりしました。まるでドラゴンボールのサイヤ星人の戦士のように思えたからです。神様と思い込んでいたから戸惑ったので、最初から仏を守る天部の武人像姿と思っていれば違和感なく受けいれられたのかもしれません。
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本殿から奥社に向かう参道の入口

つまり、金光院は金毘羅神について、次のようにふたつの説明を使い分けていたようです。

①幕府・髙松藩などへの説明 インドより渡来したクビラ神②実際に祭られていたのは  初代院主宥盛の自らが彫った自像

金毘羅神が修験者の姿をしていると伝えられたのはなぜ?

 それは山内を治めていた別当・金光院の初期の院主が修験道とかかわりが深かったからです。例えば、現在の奥の院に神として祀られている金毘羅神は、慶長11年(1606)、自らの姿を木像に刻み、その底に「入天狗道沙門金剛坊像」と彫り込んでいます。
 この金剛坊像、すなわち宥盛の像は、元々は現在の本殿脇に祀られていましたが、参拝者に祟るため、観音堂の後堂に祀りなおされ、最終的には奥社に祀られます。
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金毘羅宮奥の院 岩場は修験者等の行場でもあった
奥社は、金比羅信仰以前から修験者の行場として聖地だったところです。列柱岩が立ち並んで切り立っていて行場には最適です。宥盛も修験者として、ここで業を行っていたのかもしれません。

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金毘羅宮奥の院の威徳巌
 神窟の暴風や金剛坊の祟りにみられる神秘的な信仰要素は、修験特有のものです。このように金毘羅信仰の誕生には、山岳信仰や修験道の要素が入り込んでいます。この二つの信仰が合わさって、風をあやつる異形の天狗となり、海難時に現れ救済する霊験譚や海難絵馬に登場するようになったのかもしれません。
五来重(仏教民俗学)は修験道について、次のように述べています。
「天台宗、真言宗の一部のようにみられているけれども、仏教の日本化と庶民信仰化の要求から生まれた必然的な宗教形態であって、その根幹は日本の民俗宗教であり神祇信仰である」
 修験道の解明は日本の庶民信仰(金毘羅信仰を含む)の解明につながるとの思いが託されているようです。

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 磐の上には烏天狗と(左)と天狗(右)がかけられています。
明治の神仏分離で金毘羅大権現を初め、修験道色は一掃された金毘羅さんです。しかし、ここにはわずかに残された修験道の痕跡を見ることができます。  

奥社に祀られる 金光院別当宥盛(ゆうせい)の年譜

①高松川辺村の400石の生駒家・家臣井上家の嫡男として生まれる。高野山で13年の修行後に真言僧
②1586(天正14)年 長宗我部の讃岐からの撤退後に高野山より帰国。
 別当宥巌を助け、仙石・生駒の庇護獲得に活躍
③1600(慶長5)年 宥巌亡き後、別当として13年間活躍 
    堺に逃亡した宥雅の断罪に反撃し、生駒家の支持を取り付ける。 金比羅神の「由来書」作成。金比羅神とは、いかなるものや」に答える返答書。善通寺・尾の瀬寺・称明寺・三十番神との関係調整に辣腕発揮。
④修験僧としてもすぐれ「金剛坊」と呼ばれて多くの弟子を育て、道場を形成。
⑤土佐の片岡家出身の熊の助を育て「多門院」を開かせ院首につかせる。   
⑥真言学僧としての叙述が志度の多和文庫に残る  高野山南谷浄菩提院の院主兼任
⑦三十番神を核に、小松庄に勢力を持ち続ける法華信仰を金比羅大権現へと切り替えていく作業を行う。
⑧1606(慶長11)年 自らの岩に腰を掛る山伏の姿を木像に刻む
⑨1613(慶長18)年1月6日 死亡
⑩1857(安政4)年 朝廷より大僧正位を追贈され、名実共に金比羅の守護神に
⑪1877(明治10)年 宥盛に厳魂彦命(いずたまひこのみこと)の神号を諡り「厳魂神社」
⑫1905(明治38)年 神殿完成、これを奥社と呼ぶ
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金毘羅宮 巌魂神社(奥社)
ちなみにこの厳魂神社を御参りして、記念に私が求めたのは・・・

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このお守りでした。
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天狗が描かれ「御本宮守護神」と記されています。宥盛は神となり守護神として金毘羅宮を守っているのかもしれません。

讃岐琴平 草創期の金比羅神に関しての研究史覚え書き 

金比羅神については色々なことが伝えられているが、研究者の間ではどのようなな見解が出されているのかをまずは知りたかった。そのために金比羅神の草創期に絞って図書館で見て取れる範囲で、書物にあたってみた。その報告である。

まずは、金毘羅大権現についての復習

①仏教の神のひとつで、日本では海上の守護神としてひろく信仰。
②ガンジス川のワニの神格化を意味するサンスクリットのUMBHIRA(クンビーラ)の音写。
③薬師如来にしたがう十二神将のひとつ
④金毘羅信仰で有名な金刀比羅宮は、もとは松尾寺という寺院。
⑤その伽藍の守護神だった金毘羅神を、信仰の中心とするようになり、金毘羅大権現と称した。
⑥インドでは、この神の宮殿は「王舎城外宮比羅山」で、これを訳すると象頭山。
⑦そのため金刀比羅宮がある山は象頭山とよばれる。
⑧大物(国)主神を金比羅神(大黒天)と同一視し主祭神
⑨金比羅を「こんぴら」と呼ぶのは江戸っ子の発音。正しくは「ことひら」(これは後の神道学者の言い出したこと)
⑩仏や菩薩が、衆生救済のために神などの仮の姿をとってあらわれる神仏習合がすすみ、本地垂迹思想がおこると、神々は仏や菩薩の権化と考えられるようになった。
⑪明治維新の神仏分離で権現号は廃されたが、通称として生きつづけている。
以上のことは定説。それでは金比羅信仰がいつ、どのように作り出されてきたのかをめぐる論考に当たっていきたい。

小島櫻礼「金比羅信仰」1961年

①金比羅山の頭人制は、古い神を祭る祭礼であり村の神的な性格
②松尾寺の守護神であった神が、江戸初期に急速に発展した背景は?
③金比羅を金比羅として祭らず、ある日本古来の神として祭っていた江戸以前
④何か新しい「外部的な動機」によって、「流行(はやり)神」として全国的な信仰獲得?
⑤仏典に見える「金比羅竜王説」
⑥金比羅=留守神=蛇・竜=農業神的な性格
 古風な固有信仰の中核である農神が水神の性格を持ち蛇体・竜
 習合以前の「原金比羅信仰」は農神の痕跡
 ここの鰐を神体とする金比羅という外部の神が勧進
龍神⇒⇒海神⇒⇒船人の神へという転換
地元の龍神が、「外部の信仰」を引き寄せて全国展開へ
地元の信仰から原金比羅信仰に迫るために、金比羅祭礼の詳細な記述と分 析が今後の重要な作業。
⑦この信仰を説いたのはいかなる人たちか⇒⇒聖による流布?

  近藤喜博「山頂の菖蒲」1960年
問題意識 
金比羅という異国の神が、どうして琴平に勧進されたのか?
①「あり嶺よし」としての象頭山(万葉集1-62)
あり嶺よし 対馬の渡り 海中に 弊取り向けて はや還り来ぬ」

*航海上高く現れて目立つ山で「よき山」
*「海中に 弊取り向けて」は、航海安全の祈り。弊とは?奉弊上の幣帛?
古代の航海にあって「雷電・風波」は最も危険で恐れられたもの。
潮待ち風待ちの港の背後の山の「雲気」の動静は、関心事の最大
*弊串として串との一体で考慮。初穂・流し樽へ
②コトヒラ・コトビキの地名由来
*航海の安全を祈るために、「琴を引く」風習の存在
*播磨風土記の「琴の落ちし処は、即ち琴丘と名づく」
*本殿と並び立つ「三穂津姫社」の存在は、何を意味する?
③伴信友の延喜式社「雲気神社」は、「金刀比羅神社」説?
*「ありみねよき琴平山への海洋航海族の憧憬を雲気神社に」
*後に農耕神となり、雨乞いなどを祈り捧げる山へ
*周防国熊毛郡の式内社「熊毛(雲気)神社」も同じ性格
④「琴平山」の「原始雷電信仰」の痕跡が山上の竜王池
        *かつては大麻神社が管理。7月17日に祭神
*龍蛇は雷電に表裏したもの。稲妻は葦や菖蒲のシンボルへ
*稲妻⇒⇒稲葉⇒⇒因幡⇒⇒岐阜の伊奈波神社
⑤崇徳上皇の怨霊            
*保元物語の死に際に大魔王へ「怨念によりて、生きながらに天狗の姿に」
 都に相次ぐ不祥事を払うために白峰宮建立
*同時に讃岐に起こる風塵も崇徳上皇の怨念で、これを鎮めることが必要?
*そのような「怨霊」=「雷電神」=「天狗」を祭る鎮魂の社殿建設?
*京都北野の雷電信仰の上に、道真の「雷神=天神」が合祀され北野天満宮へ
*天狗は「天津鳥」で、「高津神」「高津鳥」(火の鳥)につながる系譜
*火の鳥は雷神の使令
          天狗の正体は烏で、人間の怨霊と結びついたもの?
 ⑥菖蒲の呪力
*菖蒲による人間への復活説話の意味 剣状のの植物の神聖さ
*雷電を避ける呪力のある菖蒲=「剣尖に座す神々」の存在=鉾
*竜王池の菖蒲の意味は?
*「大麻神社」の麻も長剣状葉の持つ呪術性の延長線上に
 ⑦本殿奥の神窟の存在
*讃岐国名勝図会
 「神の廟の巌窟に鎮座し、一社の深秘にて他に知ること無し」
*禁足林の存在。三十番社の大木の麓に岩窟⇒⇒古来以来の聖地
*雷=鬼の姿で表現。その巣が洞窟

武田明「金比羅信仰と民俗」

①死霊の赴き安まる山としての琴平山⇒⇒修験道の信仰の山へ
 *かつての行者堂の存在
 *降雨を祈る山
②金比羅山の祭礼=明治以前の神事の復元
*荘官と呼ばれる七軒の頭人
③地主神としての三十番神社
*あとからやってきた客神としての金比羅神
「この地を十年貸してくれ」⇒⇒十の上に点を付けて千年へ
④大祭後の心霊は、箸蔵山に天狗として去っていく?修験道の影響?
⑤地元の神としては、農耕神の雨乞い神として信仰
金比羅神は竜神、別名「金比羅龍王」
⑥恵比寿信仰は大漁神で、漁師の信仰⇒その後に、金比羅信仰の流行
 *漁民には入り込む余地がなかったので、航海者たちに浸透
 *金比羅神と山から吹き下ろす風の関係⇒⇒海難救助の神へ
⑦「象頭山金比羅大権現霊験記」(1769)の海難よけ信仰霊験集
 *このような霊験を伝播させたのは誰か?
 *天狗の面を背につけ、白装束に身を固めた「金比羅道者」の流布
 彼らによる金比羅講の組織
 *金比羅山から吹き下ろす風に乗って現れる金比羅大権現が海難から救う
*神窟からの風?
⑧代参講としての金比羅講
 *講の加入者が講金を集めて代参を立てる。代参しお札をもらい土産を買う。旅のおみやげという習慣は、この代参から来ているのかもしれない。
*各地の講からの寄進を請け、はやり神となった金比羅神の発展
⑨巨大な流行り神となっても古い信仰の名のこりを残す金比羅山

松原秀明「金比羅信仰と修験道」

①修験道の象頭山
*ふたのない箱に大きな天狗面を背中に背負った金比羅詣での姿
*修験道者のシンボルとしての天狗
*道中の旅を妨げる悪霊をはらうおまじない。弘法大師の「同行二人」的
*日柳燕石
「夜、象山に登る 崖は人頭を圧して勢い傾かんと欲す。
 満山の露気清に堪えず、夜深くして天狗きたりて翼を休む。
 十丈の老杉揺らいで声有り」 天狗はムササビ?
 *江戸時代の人々は、金比羅の神は天狗、象頭山は修験道の山という印象
②象頭山を騙る修験道者の出現
 *修験道系の寺院や行者による「金比羅」の使用
 *修験者が多数いた箸蔵寺は「奥の院」と称して執拗に使用
③金比羅神飛来説とその形は?
 *生身は岩窟鎮座。ご神体は頭巾をかぶり、数珠と檜扇を持ち、脇士を従える。これは、修験道の神そのもの 飛来したというのも天狗として飛行?
④天正前後の別当住職の修験道的な色合い
*長尾氏一族の宥雅⇒⇒長宗我部配下の宥厳⇒⇒宥雅の弟子の宥盛
*宥厳の業績の抹殺と宥盛の業績評価という姿勢

宮田 登「江戸の民間信仰と金比羅」

①19世紀初頭の都市市民の信仰タイプ → 流行神  
 *個人祈祷型で現世利益が目的。仏像・神像が所狭しと配列。
 *それぞれが分化した霊験を保持し、庶民の願掛けに対応。
 *農村部においても氏神の境内に、摂社末社が勧進
 *流行神のひとつとしての金比羅神
②江戸大名屋敷に祀られた地方神の流行
 *江戸に作られた大名屋敷に領地内の霊験あらたかな神を勧進
 *その屋敷神が一般市民に、月の10日に解放される機会あり
  大勢の人が参拝し、市が立つほどの賑わいへ⇒金比羅講の形成へ
   金刀毘羅宮
  虎ノ門をさらに名所にしたのが金刀毘羅大権現である。
讃岐国丸亀藩主の京極高和が、万治3年(1660)国元の本宮から三田藩邸に分祀。藩邸内に祀られた金比羅宮に塀の外から賽銭を投げ込んで参拝するほど江戸市民の熱烈な信仰を集め、毎月10日に限り邸内を開き参拝を許可した。

以上から推論できること

1 金比羅神草創は古代・中世の古くまで遡るものではない。
2 戦国末の天正年間に新たに作り出された神である。
3 その契機は、長宗我部元親の讃岐侵攻と四国平定事業と関わりがあるのではないか。
4 長宗我部支配下の修験道僧侶による金光院支配。
  新たな四国平定事業のモニュメント的な神の創設と宗教施設が求められたのではないか。
5 金比羅神草創から流行神流布まで、その中核には金光院別当を中心とする修験者たちの存在あり。
6 松尾寺別当金光院から金毘羅神別当金光院への転身の背景は?
7 生駒家による330石の寄進と山下家の系譜は?




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