
金毘羅大権現松尾寺の観音堂と本尊(讃岐国名勝図会)
場所 まんのう町四条公民会
資料代 200円
内容は、まず金毘羅さんの次の「通説」について検討します。
これに対して、ことひら町史などはどのように記しているのかを見ていきます。金毘羅神は古代に遡るものではなく、近世初頭に登場した流行神であること、それを創り出したのは近世の高野山系の修験者たちだったことなど、今までの通説を伏するものになります。今回は私が講師をつとめます。興味と時間のある方の参加を歓迎します。

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その前に舞台となる金毘羅山上の様子を絵図で見ておきます。
①神仏分離前の幕末の金毘羅大権現の観音堂です。現在は、この地には大国主の姫神三穂津姫を祀る建物があります。神仏分離後に神社風に改められて最近、重文指定を受けました。②その背後に金剛坊とあります。金剛坊は「死しては、天狗になって金毘羅を護らん」と云った宥盛という修験者です。宥盛を金光院では実質的な始祖としてきました。宥盛は神仏分離後は、奥社に奉られています。左の方には大きな絵馬堂 そして籠堂もあります。参拝者達がここで夜を明かしていたことがうかがえます。さて、このお寺は創建時は松尾寺と呼ばれました。観音堂が本堂なので観音信仰のお寺だったようです。観音堂の本尊を見ておきます。平安期の観音像です。頭の 十の観音が抜き取られて、かつては正観音とされていたようです。今は宝物館にいらっしゃいます。明治の神仏分離後も、この本尊を廃仏することはできなかったようです。観音堂の右側は、どうなっているのでしょうか?
金毘羅参詣名所図会に描かれた金毘羅大権現です。
ここでは、本社下の四段坂の一番下の本地堂を押さえておきます。ここが金毘羅神が最初に祀られた所になります。それが、本社の位置に格上げされて、観音堂を押しのけたかっこうになります。また金毘羅神の本地仏は、薬師堂とされました。そのため金堂の位置には薬師堂が建てられます。そして、幕末には大きな金堂として新築され、中には善通寺金堂の薬師さまと変わらない大きさの薬師さまが安置されていました。それは神仏分離後に売却され、金堂はもぬけの空となって旭社と呼ばれるようになります。
もうひとつ押さえておきたいの、二天門です。これは土佐の長宗我部元親が寄進したものです。俗説では、逆(賢)木(さかき)門ともいわれ、一日で大急ぎで立てたので、柱の上下が逆になっているといわれる門です。
金比羅さんについては、かつては上のように説明されてきました。
しかし、香川県史や町史ことひらなどは、このような立場をとりません。それでは現在の研究者は、金毘羅信仰についてどのように考えているのでしょうか? まず、「古い歴史をもつ金毘羅さん」について、見ておきましょう。
流行(はやり)神というのは、それまでになかった神が突然現れて、爆発的に信者をあつめる現象です。この見解を、後に続く香川県史や「町史こんぴら」も、この立場を継承します。金比羅神が何者であるかは後回しにして、まずこの神がだれによって全国に拡げられたかを見ていくことにします。
当時の松尾山(象頭山)は、どうみられていたのでしょうか。
これは天狗経という経典です。今では偽書とされていますが、当事はよく出回っていました。ここには、各地の有力天狗が列挙されています。そこは天狗信仰の拠点だったということです。先頭に来るのは京都の愛宕天狗です。鞍馬天狗もいます。高野山も天狗の拠点地です。そして、(赤丸)「黒眷属金比羅坊」が出てきます。「白峯相模坊」もでてきます。崇徳上皇が死して天狗になり怨念をはらんとしたのが、白峯です。その崇徳上皇の一番の子分が相模坊です。この下には多くの子天狗たちがいました。ひとつ置いて、象頭山金剛坊とあります。これが後の金光院です。こうして見ると象頭山は、天狗信仰の拠点だったことが見えてきます。
本当に金比羅・象頭山に天狗はいたのでしょうか?
その痕跡を残すのが奥社(厳魂神社(いづたまじんじゃ)です。ここには金剛坊とよばれた宥盛が神となって奉られています。奥社の横は断崖で天狗岩と呼ばれています。そこには、大天狗と烏天狗の面が架けられています。そして高瀬の昔話には上のように記されています。ここからはこの断崖や奥の葵滝などは、天狗信者の行場で各地から多くの人が修行に訪れていたことが分かります。
金刀比羅宮奥の院の天狗岩の天狗面(右が大天狗・左が小天狗)と奥社のお守り
右が団扇を持つ大天狗で、左が羽根がある烏天狗です。大天狗の方が格上になるようです。奥社のお守り袋は、天狗が書かれていて「御本宮守護神」と記されます。これは、ここに神となって奉られているのが天狗の親玉とされる金剛院宥盛なのです。彼は「死しては天となり、金比羅を護らん」といって亡くなったことは先にもお話しした通りです。どこか白峰寺の崇徳上皇の言葉とよく似ています。ここでは宥盛は天狗として、金毘羅宮を護っているということを押さえておきます。それでは、天狗になるためにここに修行しに来た修験者たちは、どんな布教活動を行っていたのでしょうか?
安藤広重の「沼津宿」には、天狗面を背負った行者が描かれています。
左は、金毘羅資料館の、金比羅行者です。箱に天狗面を固定し、注連縄(しめなわ)が張られています。天狗面自体が信仰対象であったことが分かります。天狗面を背負って布教活動を行う修験者を金比羅行者と呼んだようです。
金刀比羅宮には、金比羅行者が亡くなった後に、弟子たちが金毘羅に奉納した天狗面があります。ここからは金比羅行者が天狗面を背負って、全国に布教活動を行っていたが分かります。それでは、どんな布教活動だったのでしょうか?
具体的な布教方法は分かりませんが、布教活動の成果が分かる史料があります。信州の芝生田村の庄屋・政賢の願文です。願文を意訳変換しておくと
金毘羅大権現の御利益で天狗早業の明験を得ることを願う。そのために月々十日に「火断」を一生行い大願成就を祈願する。
願掛け対象は、金毘羅大権現と大天狗・子天狗です。大願の内容は記されていませんが、「毎月十・二十・三十日に火を断つ」という断ち物祈願です。ここで押さえておきたいことは、海とは関係のない長野の山の中の庄屋が金毘羅大権現の信者となっていることです。それは金比羅行者の布教活動の成果であることがうかがえます。このように金毘羅大権現の初期の広がりは海よりも山に多いことが民俗研修者によって明らかにされています。
それでは、金毘羅大権現と、大天狗と子天狗は、どんな関係にあったのでしょうか。
江戸時代中期に金比羅を訪れ、金剛坊に安置されていた金毘羅大権現を拝んだ天野信景は次のように記しています。
讃岐象頭山は金毘羅神の山である。金毘羅神の像は三尺ばかりの坐像で、僧侶姿である。すざましい面貌で、修験者のような頭巾を被っている。手には羽団扇をもつ。その姿は、十二神将の宮毘羅神将とは似ても似つかない。
金光院の公式見解は次のようなものでした。
「金毘羅神は、インドのワニの神格化されたクンピーラである。それが権現したのが宮毘羅神将である」
しかし、これは金光院の公式文書の中に書かれたものです。この説明と実態は違っていたようです。つまり金光院は2つの説明バージョンを持っていて、使い分けていたようです。大名達の保護を受けるようになると、天狗の親玉が金比羅神では都合が悪くなります。そのために金比羅神の由来を聞かれたときに公式版回答マニュアルを作成しています。そこには、インドのガンジス側のワニが神霊化し守護神となったのがクンピーラで、その本地仏は宮毘羅神将だと書かれています。これが公式版です。が、実際の布教用には金比羅神は天狗の親玉と修験者たちは言い伝えていたようです。ダブルスタンダードで対応していたのです。
それが分かるのが、「塩尻」です。
そこで観音堂裏の金剛院にある金毘羅像を拝観したときのことを次のように記します。
僧のような姿で、修験者のような服装をして、手に羽根団扇を持つ。これは宮毘羅神将の姿ではない。死して天狗にならんとした宥盛が自らの姿を刻んだという自造木像を社僧たちは金毘羅神として崇めていたのではないかと私は想像しています。そこでは、「金毘羅大権現=天狗=宥盛」といった「混淆」が進みます。
ちなみに江戸時代後半になると京都の崇徳神社では、崇徳上皇と金毘羅神は同じ天狗だとされ、さらに崇徳上皇=金毘羅大権現という説が広まります。それが、明治になって金毘羅大権現を追放した後に、その身代わりとして崇徳上皇を祭神として金刀比羅宮が迎え入れる導線になるようです。ここまでで、一部終了です。
ここまでは以下のことを押さえておきます。
①金比羅には、中世に遡る史料はないこと
②金毘羅は近世になって登場した流行神であること
③金毘羅神は、宮毘羅神将とはにても似つかない修験者姿であったこと④金毘羅信仰をひろげたのは、天狗信仰をもつ修験者の「金毘羅行者」たちだったこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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金毘羅は仏神でインド渡来の鰐魚。蛇形で尾に宝玉を蔵する。薬師十二神将では、宮毘羅大将とも金毘羅童子とも云う。
芸州宮島花木屋千代松其他(寛永元年八月)。芸州広島津国屋作右衛門(寛保二年壬戌三月)。芸州広島井上常吉。広島備後村上司馬。広島福山城主藤原主倫。
①金比羅信仰が「海上安全」ではなく「男子出生」や「病気平癒」の対象として語られている。②讃岐国金比羅への参拝が強く求められている
「六月廿二日、多聞院、民部召連入峯之事」
(前略)多聞院儀者先師宥盛弟子筋二而 同人代より登山為致多聞院代々嫡子之内民部与名附親多聞院召連致入峯 三宝院御門主江罷出利生院与相改兼而役用等茂為見習同院相続人二相定可申段三宝院御門主江申出させ置多聞院継目之節者 拙院手元二而申達同院相続仕候日より則多聞院与相名乗役儀等も申渡侯尤此元二而相続相済院上又々入峯仕三宝院 御門主江罷出相続仕候段相届任官等仕罷帰候節於当山奥書院致目見万々無滞相済満足之段申渡来院(後略)
(前略)多聞院については、金光院初代の先師宥盛弟子筋であり、その時代から大峰入峯を行ってきた。その際に、多聞院の代々嫡子は民部と名告り、多聞院が召連れて入峯してきた。そして三宝院御門主に拝謁後に利生院と改めて、役用などの見習を行いながら同院相続人に定められた。このことは、三宝院御門主へもご存じの通りである。
多聞院継目を相続する者は、拙院の手元に置いて指導を行い、多聞院を相続した日から多聞院を名告ることもしきたりも申渡している。相続の手続きや儀式が終了後に、又入峯して三宝院御門主へその旨を報告し、任官手続きなどを当山奥書院で行った後に来院する(後略)
古老伝旧記〔古老伝旧記〕○香川県綾歌郡国分寺町新名片岡清氏蔵(表紙) 証記 「当院代々外他見無用」極秘書
古老之物語聞伝、春雨之徒然なる儘、取集子々孫々のためと、延享四(1748)年 七十余歳老翁書記置事、かならす子孫之外他見無用之物也。
一、当国那珂郡小松庄金毘羅山之麓に、西山村と云村有之、今金毘羅社領之内也、松尾寺と云故に今は松尾村と云、西山村之事也、讃岐国中之絵図生駒氏より当山へ御寄附有之、右絵図に西山村記有之也、一、金昆羅と申すは、権現之名号也、一、山号は、象頭山一、寺号は、松尾寺一、院号は、金光院一、坊号は、中の坊社領三百三拾石は、国主代々御領主代々数百年已前、度々に寄附有之由申伝、都合三百三拾石也、当山往古火災有之焼失、宝物・縁記等無之由、高松大守 松平讃岐守頼重公、縁記御寄附有之、
一、讃岐国那珂郡小松庄金毘羅山の麓に、西山村という村がある。今は金毘羅の社領となっていて、松尾寺があるために、松尾村とよばれているが、もともとは西山村のことである。讃岐国中の絵図(正保の国絵図?)が、生駒氏より当山へ寄附されているが、その絵図には西山村と記されている。一、金昆羅というのは、権現の名号である。一、山号は、象頭山一、寺号は、松尾寺一、院号は、金光院一、坊号は、中の坊社領330石は、国主や御領主から代々数百年前から度々に寄附されてきたものと言い伝えられていて、それが、都合全部で330石になる。当山は往古の火災で宝物・縁記等を焼失し、いまはないので、高松大守 松平讃岐守頼重公が縁記を寄附していただいたものがある。①生駒家から寄贈された国絵図がある②坊号が中の坊③松平頼重より寄贈された金毘羅大権現の縁起はある。
一、宥範上人 観応三千辰年七月朔日、遷化と云、観応三年より元亀元年迄弐百十九年、此間院主代々不相知、
一、有珂(雅) 年号不知、此院主西長尾城主合戦之時分加勢有之、鵜足津細川へ討負出院之山、其時当山の宝物・縁記等取持、和泉国へ立退被申山、又堺へ被越候様にも申伝、
一、宥遍 一死亀元度午年十月十二日、遷化と云、元亀元年より慶長五年迄三十一年、此院主権現之御廟を開拝見有之山、死骸箸洗に有之由申伝、
一、宥範上人 観応三(1353)年7月朔日、遷化という。その後の観応三年より元亀元年までの219年の間の院主については分からない。
一、有珂(雅) 没年は年号は分からない。この院主は西長尾城の合戦時のときに長尾氏を加勢し、敗北して鵜足津の細川氏を頼って当山を出た。その時に当山の宝物・縁記は全て持ち去り、その後、和泉国へ立退き、堺で亡命生活を送った。
一、宥遍 元亀元年十月十二日、遷化と云、元亀元(1570)年より慶長五(1600)年まで31年間に渡って院主を務めた。金毘羅大権現の御廟を開けてその姿を拝見しようとし、死骸が箸洗で見つかったと言い伝えられている院主である。宥遍が云うには、我は住職として金毘維権現の尊体を拝見しておく必要があると云って、、御廟を開けて拝見したところ、御尊体は打あをのいて、斜眼(にらみ)つけてきた。それを見た宥遍は身毛も立ち、恐れおののいて寺に帰ってきた。そのことを弟子たちにも語り、兎角今夜中に、我体は無事ではありえないかもしれない、覚悟をしておくようにと申渡して、護摩壇を設営して修法に勤めた。そのまわりを囲んで塞ぎ、勤番の弟子たちが大勢詰めた。しかし、夜中に何方ともなくいなくなった。翌日になって山中を探していると、南の山箸洗という所に、その体が引き裂かれて松にかけられていた。いつも身につけている剣もその脇に落ちていた。この剣は今は院内宝蔵に収められている。
①宥遍には多くの弟子がいて、護摩壇祈祷の際には宥遍を、勤番の弟子たちが大勢詰めたとあること。②「いつも身につけている剣もその脇に落ちていた。」とあり、常に帯刀していたこと。
万治年中病死已後、宥典法印御懇意之余り、法事等之義は、晩之法事は多聞院範清宅にて仕侯得は、朝之御法事は御寺にて有之、出家中其外座頭迄之布施等は、御寺より被造候事、
万治年中(1658~60)に多開院元祖宥醒の病死後、宥典法印は懇意であったので、宥醒の晩の法事は多聞院範清宅にて行い、朝の御法事は御寺(松尾寺?)にて行うようになった。僧侶やその他の座頭衆などの布施も、金光院が支払っていた。
番匠101人に 5貫50文かわら大工23人 1貫150文番匠(大工)と瓦職人一人あたりの手間賃が50文、
「三貫三百文 大麻かハらの代」 大麻からの瓦代金「八百八十文 しはくのかハらの代」 塩飽からの瓦代金
天正十一年(1583)、讃岐平定祈願のために、松尾寺境内の三十番神社を修造。天正十二年(1584)6月 元親による讃岐平定成就天正十二年(1584)10月 元親の松尾寺の仁王堂(二天門)を建立寄進
左右に「上棟奉建立松尾寺仁王堂一宇、天正十二甲申年十月九日、
大檀那大梵天王長曽我部元親
大願主帝釈天王権大法印宗仁
仲原と藤原という立派な姓を持つふたりが現場責任者で棟梁になるのでしょう。「大工 仲原朝臣金家」「小工 藤原朝臣金国」
「鍛治大工 多度津 小松伝左衛門」「瓦大工 宇多津 三郎左衛門」「杣番匠□□ 圓蔵坊」
①板元名はない②丸亀城下の見附屋の蘇鉄が注記されていて、港などは描かれていない。③丸亀ー金毘羅間の丸亀街道沿いの飯野山などの情報は、何も記されていない。④金毘羅の門前町から本社までの比率が長く詳細である⑤桜の馬場が長く広く描かれている。その柵は、木製で石の玉垣ではない⑥善通寺は五重塔と本堂だけで、周辺の門前町は描かれていない。⑦弥谷寺は「いやだに」と山名だけ⑧多度津の情報はなにもない
①多度津街道の終点である高藪に鳥居が描かれていること②鞘橋を渡った後の内町。金山寺町などが表記されていること③善通寺は赤門筋が門前町化し、南には街並みはみられないこと
地本弘所書林/丸亀加屋町碧松房/金物屋平八郎(横開平八郎)
「讃岐名産絵図小売おろし所、名物土産舗 丸かめ(丸亀)かや町 金物崖平八郎」
天明2年1782 高藪の鳥居建立。天明8年1788 二本木銅鳥居建立。寛政元年1789 絵馬堂上棟。寛政6年1794 桜の馬場に鳥居建立。多度津鶴橋に鳥居建立。寛政10年1798 備中梶谷、横瀬に燈籠寄進。寛政11年1799 丸亀中府に石燈籠建立。文化元年 1804 善通寺の五重塔完成文化3年 1806 薬師堂を廃して金堂建築計画。福島湛甫竣工。文化5年 1808 中府に「百四十丁」石燈籠建立。文化10年1813 金堂起工式。文政元年 1818 二本木銅鳥居修覆。文政5年 1822 十返舎一九撰、「讃岐象頭山金毘羅詣」文政10年1827 大原東野筆、「金毘羅山名勝図会」。天保2年 1831 金堂初重棟上げ天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工天保5年 1834 神事場馬場完成、多度津港新湛甫起工。天保6年 1835 芝居定小屋(金丸座)上棟。天保7年 1836 仁王門再建発願。天保8年 1837 金堂二重目上棟。天保9年 1838 多度津港新湛甫完成。多度津鶴橋鳥居元に石燈籠建立。天保11年1840 金堂銅屋根葺き終了。多度津須賀に石鳥居建立。善通寺五重塔落雷を受けて焼失。天保14年1843 仁王門修覆上棟。金堂厨子上棟。弘化2年 1845 金堂、全て成就。観音堂開帳。
善通寺五重塔に再建に着手。弘化4年 1847 暁鐘成、「金毘羅参詣名所図会」。嘉永元年 1848 阿波街道口に鳥居建立。嘉永2年 1849 高藪町入口、地蔵堂建立。嘉永5年 1852 愛宕町天満宮再建上棟。安政元年 1854 満濃池、堤切れ。道作工人智典、丸亀口から銅鳥居までの道筋修理終了。高燈籠建立願い。大地震、新町の鳥居崩壊、高藪口の鳥居破損。安政2年 1855 新町に石鳥居建立。安政4年 1857 多度津永井に石鳥居建立。安政5年 1858 高燈籠台石工事上棟。安政6年 1859 一の坂口鉄鳥居建立。万延元年 1860 高燈籠竣成。大水、大風あり札之前裏山崩れる。文久元年 1861 内町本陣上棟。文久2年 1862 阿州講中、大門から鳥居まで敷石寄付。慶應3年 1867 賢木門前に真鍮鳥居建立。武州佐藤佐吉、本地堂前へ唐銅鳥居奉納。旗岡に石鳥居建立。
宇賀神 = 稲荷神(老翁姿)+ 水神(蛇=龍)宇賀弁才天= 宇賀神 + 弁才天
金刀比羅宮蔵弁才天十五童子像(鎌倉末期)京都上善寺蔵弁才天十五童子像(南北朝期)近江宝厳寺蔵弁才天十五童子像(南北朝期)大和長谷寺能満院蔵天河曼荼羅(室町時代)
近江の都久夫須麻神社鎌倉の江の島神社安芸の厳島神社
(表)「上棟象頭山松尾寺 金毘羅王赤如神御宝殿 当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉于時元亀四年発酉十一月廿七日記之」(裏)「金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
①金毘羅王赤如神が金毘羅神のことで、御宝殿が金比羅堂であること。②元亀四年(1573)に金光院の宥雅は、松尾寺境内に「金毘羅王赤如神」を祀る金毘羅堂を建立した③本尊の開眼法要を、高野山金剛三昧院の良昌に依頼し、良昌が開眼法要の導師をつとめた
「宥範僧正 観応三辰年七月朔日遷化 住職凡応元元年中比ヨリ 観応比ヨリ元亀年中迄 凡三百年余歴代系嗣不詳」
宥範僧正は、 観応三年七月朔日に亡くなった。応元元年から 元亀年中まで およそ三百年の間、歴代住職の系譜については分からない。
1570年 宥雅が称名院院主となる1571年 現本社の上に三十番社と観音堂建立1573年 四段坂の下に金比羅堂建立
元和九年御建立之神殿、七間之内弐間切り三間、梁五間之拝殿に被成、新敷幣殿、内陣今之場所に建立也、
金毘羅大権現 本宮松尾寺本堂 観音堂薬師堂 金毘羅神の本地仏
一 諸貴所宿願状 一 八講両頭人入目一 御基儀識 一 熊野山道中事一 熊野服忌量 一 八幡服忌量
右件惣張者、観応元年十月日 於讃州仲郡子松庄松尾寺宥範写之畢(おわんぬ)とあります。
(第一丁表)八講大頭人ヨリ奇(寄)進(朱筆)一指入御福酒弐斗五升 コレハ四ツノタルニ可入候 一折敷餅十五マイ クンモツトノトモニ御地頭同公方指合壱石弐斗五升一夏米壱斗 コレモ公方ヨリ可出候一加宝経米一斗同立(朱筆)願所是二注也(中略)(第三丁裏)八講大頭人ヨリ指入奇進 一奉物道具 一酒五升紙二条可出候 一モチ五マイ新庄石川方同公方指合弐斗五升立願所コレニ注 一夏米(下略)
地頭方の地頭 → 地頭代官 →領家方の面々
恩地頭同公家指合壱石弐斗五升御代官御引物御領家分本庄大庭方同公方指合弐斗五升本荘伊賀方同公方指合弐斗五升新庄石川方同公方指合弐斗五升新荘香川方同公方弐斗五升能勢方同公方指合壱斗御家分岡部方同公方指合五升荒井方同公方指合五升滝山方同公方指合五升御寺石川方同公方指合弐斗五升金武同公方指合弐斗五升三井方守屋方四分一同公方指合壱斗石井方
鎌倉時代には、新庄、本庄、安主、田所、田所、公文の5家が神事を執行していた。この五家は小松荘の領主であった九条関白家の侍であった。この五家が退転したあと、観応元(1350)年から、大庭、伊賀、石川、香川、能勢、荒井、滝山、金武、四分一同、石井、三井、守屋、岡部の13軒が五家の法式をもって御頭支配を勤めた。その後、能勢は和泉(泉田)に、滝井は山下となり、七家が絶家となって、石井、石川、守屋、岡部、和泉、山下の六家が今も上頭荘官として、先規の通りに上下頭家支配を勤めている
香川家が五条村
岡部家が榎井村石川家が榎井村金武家が苗田村泉田家が江内(榎井)村、守屋家が苗田村、荒井家が江内(榎井)村
同名(石井)右兵衛尉跡職名田等の事、毘沙右御扶持の由、仰せ出され候、所詮御下知の旨に任せ、全く知行有るべき由に候也、恐々謹言享禄四 武部因幡守六月一日 重満(花押)石井毘沙右殿
①村内の有力農民という性格②守護大名や戦国大名の被官となって戦場にのぞむ武士
泉田家の祖先である和田小二郎(兵衛尉)は、もと和泉国の住人であった。文明十五年(1483)、小松荘に下り、荒井信近の娘を妻とした。しかし、男子が生まれなかったので能勢則季の長子則国を養子とした。その後、能勢家の後継ぎがいなかったので、則国は和田、能勢両家を継いで名字を泉田と改めた。また和田、能勢家は、法華八講の法会の頭屋のメンバーであった。
石井家は五条村石川家・泉田家は榎井村守屋家は苗田
「今日よりは象の御山の小松菊千代さかえ行く末や久しき」
「延宝二年(1675)甲寅年、伊達侯に仕う。知行二百石、中奥頭取」
「小松を藤原朝臣に改め琴陵を廃し、小松屯に仕度申出候得共叶不申」明治二巳七月二十二日
「御簾中 称千万姫・正二位大納言胤保卿御女 安政元申九月二日生レ玉フ」「己レ今年両度上京六月二日 始テ保子姫御目見」
一、御願立御日限之事但シ御下紙拝見仕度候事御内約御治定之上御結納紅白縮緬二巻差上申度候事
但シ右代料金五十両 差上度候事御家来内二ハ御肴料御贈申候事一、御主従御手当金二百五十両差上申度候事但シ御拵之儀 当方之御有合二而宜敷御座候事伏見御着
迄之警固入費金十五両差上候御乗船ヨリ当方マデ 御賄申上候御見送り御家来御開之
節 同様京都迄御賄申上候事居残り御女中御手当金前後十五両御贈申候事一、御供之儀 伏見御家政之内壱人御老女壱人御女中壱大
御半下壱人刀差壱人御下部壱大二御省 略被下度 下部
壱人当方ヨリ相廻シ申恨事 女中老人壱ケ年又ニケ年見
合二而御嘔巾度似事一、御由緒書拝見仕度候事一、御内約御治定ノ上 先不取敢御肴料差上度候事但シ御家来内江モ同様御贈申上度候事一、御土産物総而御断申上候事一、御姫様御染筆御所望申上度候事右之件二御伺申上度営今之御時節柄二付可成丈御省略之御取計奉願候也琴陵家従五位内明治四年辛未五月 山 下 真 澄
「御姫様御元気にて御休息。老女とよ、女中おゆき、家令の築山恒利大夫と挨拶をかわす。」
宥常殿報 恐悦至極ノ態 下山セシハ夜モホノボノ明渡り候事
奉献御厨子右意趣者為興隆仏法国家安穏殊者山下家子孫繁栄家運長久而已敬白万延元康中歳二月吉辰金光院権大僧都 宥常
①観音堂の本尊は、道範の『南海流浪記』に出てくる大麻山の滝寺の本尊を移したもの②前立の十一面観音は、その麓にあった小滝寺の本尊であったもの
「……同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
こじんまりと松林の中に庵寺があった。池とまばらな松林の景観といいなかなか風情のある雰囲気の空間であった。院主念念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。すると返歌が送られてきたようです。
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」 (『南海流浪記』)
①道範が秋も深まる11月末に滝寺を訪れたこと②坂を1,6㎞ほど登ると東向きに瀧があり③古い寺の痕跡を示す礎石も所々に残り → 古代山岳寺院?④本堂は五間四方で、千手観音を本尊(?)とする山岳寺院
「金刀比羅宮所蔵の十一面観音像は、滝寺の本尊であった」
「当山の内、正明(称名)寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」
象頭山に昔、称名寺という古寺があり、大門や緒堂があった。地域の鎮守として信仰され、西山村の氏神も祀られていたという。本堂には阿弥陀如来がまつられている。それが今の院内の阿弥陀仏である。
(表)「上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿 当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉于時元亀四(1573)年発酉十一月廿七日記之」(裏)「金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
①元亀四年(1573)に宥雅は、松尾寺境内に「金毘羅王赤如神」を祀る金毘羅堂を建てた②その新築された堂と堂内で祀られた本尊の開眼法要の導師を高野山金剛三昧院の良昌が勤めた
「第三十二世良昌善房、讃州財田所生、法勲寺嶋田寺兼之、天正八年庚辰四月朔日寂」
景行天皇の時代、瀬戸内海には呑舟の大魚が棲んでおり、舟を襲ってば旅客に莫大な被害を与えた。そこで朝廷では、日本武尊の子で勇猛な神櫛王(武卵王)に悪魚を退治させるように命じた。神櫛王はみごと悪魚を退治したので、讃岐国を与えられ国造としてこの地を守ったので、人々は彼を、讃留霊王と呼ぶようになった。讃留霊王が亡くなると、法勲寺の西に墓がっくられて讃留霊王塚と呼んで法勲寺が供養してきた。
大魚を、仏典のワニ神クンビーラや大魚マカラと融合させていかめしく神として飾り立てたのが、金毘羅王赤如神だ。写本した無量寿院縁起の中で宥雅は、悪魚のことを「神魚」だと記している。金毘羅堂の祭神の金毘羅王赤如神は、仏典のクンビーラやマカラで飾り立てられた神魚であったといえる。古くよりワニのいない日本で、ワニとされたのは海に棲む凶暴な鮫であった。鮫=悪魚で、悪魚の姿は仏典に見える巨魚マカラと習合する事で巨大化し、呑舟の大魚となったといえよう。『大集念仏三昧経』には、「金毘羅摩端魚夜叉大将」とあって、ワニ神クンピーラと大魚の摩端魚(マカラ)を結び付けて、夜叉を支配する大将としていた。退治された悪魚は死して鬼神となり、夜叉=鬼神であったから、悪魚は夜叉の大将として祀られる事となった。
①金毘羅堂の創建と悪魚退治伝説には密接な関連がある②悪魚退治伝説は法勲寺の縁起であって、③廃絶した法勲寺の寺宝類を預っていたのが良昌で、彼は島田寺も管理していた④良昌は松尾寺内の金毘羅堂の開眼法要を行っている。
①法勲寺の管理を委ねられた良昌は、その再建の機会をうかがっていた②宥雅が松尾寺を建立することを聞いて、宥雅に十一面観首を譲ってその管理を頼んだ③金毘羅堂の創建には、廃絶した法勲寺の悪魚退治伝説を受け継ぎ、後世に伝える期待が込められていた
松尾寺の本尊 薬師如来
=守護神 金比羅神
=その本地仏・十一面観音
元亀4年1573 宥雅が金毘羅宝殿を建立。良昌が導師として出席天正元年1573 本宮改造。天正7年1579 長宗我部元親の侵入を避けて宥雅が泉州へ亡命。土佐の修験者である宥厳が院主に元親側近の土佐修験者ブレーンによる松尾寺の経営開始天正9年1580 長宗我部元親が讃岐平定を祈って、天額仕立ての矢
を松尾寺に奉納。天正11年1583 三十番神社葺替。棟札には、「大檀那元親」・
「大願主宥秀」天正12年1584 讃岐は元親によって平定。天正12年1584 長曽我部元親が仁王堂を寄進(賢木門改造)棟札の檀那は「大梵天王長曽我部元親公」願主は 「帝釈天王権大法印宗信」当時の象頭山は、三十番神、松尾寺、金比羅大権現の並立状態。
① 松尾寺の観音堂の十一面観音は、松尾寺建立よりもずっ
と古い藤原時代前期の仏像② 松尾寺と金毘羅堂の創建は、宥雅と高野山金剛三昧院の
良昌の二人の僧侶の協力によって行われた③ 良昌は法勲寺の寺宝類を管理する立場にあり、十一面観 音は焼け残った法勲寺の寺宝の一つであった
不動明王は、身の丈109センチの檜(ひのき)の一木造りで岩坐の上に立っておられる。頭の髪は、頂で蓮華(れんげ)の花型に結(ゆ)い、前髪を左右に分けて束ね、左肩から垂らす。腰には短い裳(も)をまとい、腰紐で結ぶ。このお姿から、印度の古代の田舎の童子の髪の結い方や服装がうかがわれる。額にしわをよせ眉をさかだて、左の目は半眼に右目はカッと見開く。いわゆる天地眼(てんちがん)で、左の上牙で下唇を右の下牙で上唇をかみしめ、忿怒相(ふんぬそう)をしている。不動信仰の厳しさを感じさせられる。全身の動きは少なく、重厚さの中に穏やかさを感じさせ、貞観彫刻から藤原彫刻への移行がみえる。旧法勲寺(ほうくんじ)(飯山町)から移されたと伝えられている。
「サンスクリット語のクンビーラの音写で、ガンジス河に棲むワニを神格化した神とされる。この神は、仏教にとり入れられて、仏教の守護神で、薬師十二神将のひとり金毘羅夜叉大将となった。また金毘羅は、インドの霊鷲山の鬼神とも、象頭山に宮殿をかまえて住む神ともいわれる」
それでは、金毘羅大将は十二神将のメンバーとしては、どこにいるのでしょうか?
クンピーラ = 薬師十二神将の金毘羅(こんぴら・くびら)= 象頭山にある宮殿に住む
「薬師十二神将の像と甚だ異なりとかや」「座して三尺余、僧形なり。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所戴の頭巾を蒙り、手に羽団を取る」
「形像は巾を戴き、左に数珠、右に檜扇を持玉ふ也、巾は五智の宝冠に比し、数珠は縛の縄、扇は利剣也、本地は不動明王とぞ、二人の脇士有、これ伎楽、伎芸といふ也、これ則金伽羅と勢咤伽、権現の自作也」、
「頭上戴勝、五智宝冠也、(中略)
左手持二念珠・縛索也、右手執二笏子一利剣也、本地不動明王之応化、金剛手菩薩之化現也、左右廼名ご伎楽伎芸・金伽羅制叱迦也」、
「優婆塞形也、但今時之山伏のことく持物者、左之手二念珠右之手二檜扇を持し給ふ、左手之念珠ハ索、右之手之檜扇ハ剣卜申習し候、権現御本地ハ不動明王也、権現之左右二両児有、伎楽伎芸と云也、伎楽ハ今伽羅童子伎芸ハ制叱迦童子と申伝候也、権現自木像を彫み給ふと云々、今内陣の神肺是也」
①頭巾を被り②左手に念珠、③右手に扇もしくは笏を持ち、④伎楽・伎芸の両脇士を従える
「金毘羅大権現ノ尊像ハ、苦行ノ仙人ノ形ナリ、頭二冠アリ、右ノ手二笏ヲ持シ、左ノ手二数珠ヲ持ス、ロノ髪長ウシテ、尺二余レリ、両ノ足二ハワラヂヲ著ケ、頗る役行者に類セリ」
①頭巾は五智宝冠に、②左手の念珠は縛索に、③右手の扇または笏は利剣に、④伎楽・伎芸の両脇士は金伽羅・制叱迦の二童子
「当寺鎮守ハ愛染明王二而御座候得共、役行者と不動明王を古来より金毘羅と申伝、右三尊ヲ鎮守と勧請いたし来候」
「金毘羅新キ建立なと申義決而鉦之御事二候」
「役行者堂 昔金毘羅古堂也 元和九年宥眼法印新殿出来、古堂行者に引札い」
新羅の弥勒信仰 → 新羅大明神 → 役行者 → 金毘羅大権現・蔵王権現
入天狗道沙門金剛坊(宥盛)形像、当山中興権大僧都法印宥盛
「金毘羅二至ル。(中略)坂ヲ上テ中門在四天王ヲ安置ス、傍二鐘楼在、門ノ中二役行者ノ堂有リ、坂ノ上二正観音堂在り 是本堂也、九間四面 其奥二金毘羅大権現ノ社在リ。権現ノ在世ノ昔此山ヲ開キ玉テ 吾寿像ヲ作り此社壇二安置シ 其後入定シ玉フト云、廟窟ノ跡トテ小山在、人跡ヲ絶ツ。寺主ノ上人予力為二開帳セラル。扨、尊躰ハ法衣長頭襟ニテ?ヲ持シ玉リ。左右二不動 毘沙門ノ像在リ」
「権現ノ在世ノ昔 此山ヲ開キ玉テ 吾寿像ヲ作り 此社壇二安置シ 其後入定シ玉フ」
宥盛 慶長十八葵丑年正月六日、遷化と云、井上氏と申伝る慶長十八年より正保二年迄間三十三年、真言僧両袈裟修験号金剛坊と、大峰修行も有之常に帯刀也。金剛坊御影修験之像にて、観音堂裏堂に有之也、高野同断、於当山も熊野山権現・愛岩山権現南之山へ勧請有之、則柴燈護摩執行有之也
その後、生駒家や松平家からの保護を受けるようになり「金比羅」とは何者かと問われた際の「想定問答集」が必要となり、十二神将の金毘羅との混淆が進められたというのが現在の私の「仮説」です。①金光院の修験者達は、その始祖・宥盛の「祖霊信仰」をはじめた。②その信仰対象は宥盛が自ら彫った宥盛像であった。③この像が金毘羅大権現像として金毘羅堂に安置された。
④その脇士として不動明王と毘沙門天が置かれた
「伝聞、日吉山王者西天霊山地主明神即金毘羅神也、随二乗妙法之東漸 顕三国応化之霊神」
「釈尊ハ天地ノ為二十二神ヲ祭、仏法ノ為二八十神ヲ祭り、伽藍ノ為二十八神ヲ祭リ、霊山ノ鎮守二金毘羅神ヲ祭ル、則十二神ノ内也、此金毘羅神ハ日本三輪大明神也卜伝教大師帰朝ノ記文二被い載タリ、他国猶如也、何況ヤ吾神国於哉」
「彼象頭山と云ふは……元琴平と云ひて、大物主を祭れりしを仏書の金毘羅神と云ふに形勢感応似たる故に、混合して金毘羅と改めたる由……此は比叡山に大宮とて三輪の大物主神を祭りて在りけるに彼金毘羅神を混合せること山家要略記に見えたるに倣へるにや、然ればこそ金光院の伝書にも、出雲大社。大和、三輪、日吉、大宮の祭神と同じと云えり」
「象頭山は元々は「琴平」といって大物主を奉っていた。象頭山は元々は大物主命を祀っていたが、中世仏教が盛んになるにつれて、その性格が似ているため金毘羅と称するようになった」
『宇野忠春記』曰く(中略)同日(11日)晩、別当僧並びに社祝頭家へ来り。 (中略)御神事終りて、観音堂にて、両頭人のすわりたる膳具・箸を堂の縁よりなげ捨つるを限りに、諸人一統下山して、方丈門前神馬堂の前に決界をなし、この夜は一人も留山せず。この両頭人の捨てたる箸を、当山の守護神その夜中に拾ひ集め、箸洗谷にて洗ひ、何所へやらんはこびけると云ひ伝ふ。
「ここには、例祭の神事に使用した箸などを観音堂から投げ捨て、全員が下山し、方丈門から上には誰もいない状態にした。そして、その投げ捨てられた箸は、箸洗谷で洗われて何処かへ運ばれる
これ十月御神事に供ずる箸をことごとく御山に捨つるを、守護 神拾ひあつめ、この池にて洗ひ、阿州箸蔵寺の山谷にはこびたまふといひつたふ。故に箸あらひの池と号す。
「何所へやらんはこびける」
箸はその夜に阿州箸蔵谷へ守護神の運びたまふと言ひ伝ふ。」
敬而其濫觴を尋奉るに、 我高祖弘法大師入定留身の御地造営ありて、父母の旧跡を弔ひ玉ひ善通寺に修禅の処、夜中天を見玉に正しく当山にあたり空に金色の光り立り、瑞雲これを覆ふ。依て光りを尋来り玉ふ。山中で金毘羅大権現とその眷属に会う。其時異類ども形を現し稽首再拝して曰、
我々ハ金毘羅権現実類の眷属也。悲愍たれ免し給へと 乞時に山中赫奕して いと奥深き 巌窟より一陣の火焔燃上り 光明の真中に 黒色忿怒の大薬叉将忿然と出現し給へバ、無量のけんぞく七千の夜叉随逐守護し奉り 威々粛然たる形相也。薬叉将 大師に向ひ微笑しての玉ハく、吾ハ東方浄瑠璃世界医王の教勅に従ひ此土の有情を救度し、十二微妙の願力に乗じ天下国家を鎮護し、病苦貧乏の衆生を助け寿福増長ならしめ、終に無上菩提に至らしめんと芦原の初穂の時より是巌窟に来遊する宮毘羅大将也。影を五濁の悪世にたれ金毘羅権現とハ我名也。然るに猶も海中等の急難を救わん為、東北に象頭の山あり。彼所へ日夜眷属往来して只今帰る所也。依而往昔より金毘羅奥院と記す事可知。
「こんぴらさんだけお参りするのでは効能は半減」
「こんぴらさんの奥社の箸蔵」
「金比羅・箸蔵両参り」
「丸亀より金比羅・善通寺・弥谷寺案内図」
讃岐之国善通寺は弘法大師第一の旧跡たる事、皆人の知る処にして、其昔より毎年三月二十一日信心の輩 飲食を奉る事久し。一度其講中に縁を結ぶ者は真言をさづかり又七色の御宝のおもひ出此事にして、現当二世安楽うたがひなきと、言事を物を拝し奉りて有がたさの数々短き筆に印しがたし。誠に此世 人々に進る者也。
一 泥塔 大師七歳之御作一 五色仏舎利 八祖伝来一 水瓶 大師の御所持一 木鉢 同断一 一字一仏法華経文字 大師尊形御母君一 二十五条袈裟 祖師伝来一 閻浮檀金錫杖 同断
「斯講中を結びて、大師の霊場に参詣に趣事、去年今年両度なり」
金毘羅大権現は金刀比羅宮へ、象頭山は琴平山へと名前を変え、その姿も仏教伽藍から神社へと
「故ありて明治16年2月大麻村字上の村に移転し、同28年再び元の地に復せり」
「新たに生まれた金刀比羅宮は、本来の神である金毘羅大権現を追い出した後に、大国主命とし迎えた神社である。本来の金毘羅大権現を祀る仏式の宗教施設を自分たちの手で作りたい」
当寺本堂二於テ金比羅童子 威徳経儀軌 併せて大宝積経等々煥乎仏説有之候 金毘羅神ヲ安置シ金毘羅大権現卜公称シ鎮護ヲ祈り 利済ヲ仰キ人法弘通之経路ヲ開キ申度蓋シ大宝積経三十六巻 金毘羅天授記品 及金毘羅童子威徳経 二名号利益明説顕著ナリ今名号ノツ二ツヲ挙レバ 時金毘羅即以出義告其衆云云
又曰時二金毘羅与其部徒云云 又曰金毘羅浄心云云
其他増一阿含経大般若経大日経等之説所不少 且ツ権現之儀モ義説多分ナレトモ差当り 金光明最勝王経第二世学金剛体権現 於化身云云如此説所分明ナル上ハ 仏家二於テ公称勧請仕候テ 毫モ異論無之儀卜奉存候 勿論去ル明治十五年一月四日附 貴所之布教課御告諭之次第モ有之 旁以テ御差悶無之候得ハ速二御免許被成下度此段奉伏願候也愛媛県讃岐国多度郡大麻村 長法寺 住職 三宅光厳印同県同国郡那珂郡琴平村 信徒総代塩谷太三郎印同郡榎井村檀徒総代 斎藤寅吉印同郡 同村檀徒総代 斎藤荒太郎印明治十八年一月十一日本宗管長 三条西乗禅殿
「金毘羅神を安置して金毘羅大権現と呼んで信仰活動を行いたい。それが人々を救い世の中を栄えさせることにつながる」として金毘羅神についての「神学問答」が展開されます。そして、金毘羅大権現を仏教徒が勧進信仰しても、何ら問題はないと主張します。しかし、先年明治15年の神祇官布告もあるので、問題が生じた場合は直ちに停止するので、認めていただきたい。
内 諭長法寺住職 三宅 栄厳護法神金毘羅大権現勧請之義 御聞置相成候二付ハ左之条々ヲ遵守スベシ此段相達候事真言宗 法務所印明治廿四年一月廿六日第壱条金毘羅大権現者仏家勧請之護法神タリト雖モ 従前象頭山金毘羅大権現卜公称之神社アリシヨリ 目下金刀比羅神社卜同一ノ物体ナリト意得ノ信徒等有之候 テハ却テ護法神勧請ノ本旨二背馳シ且神仏混淆廃止ノ朝旨ニモ戻り 甚夕不都合二候 宝前二於いて法式ヲ執行シ信徒之為メニ祈祷等ヲナサント欲セハ必ス先本宗ノ経軌ニヨリテ事務シ 毫モ神社前二紛敷所為など供物等不相備様屹度可致事第貳条本堂内二勧請之尊体ハ固ヨリ 経説ニヨリテ彫刻スベキハ勿論 萬一他二在来ノ尊体ヲ招請スル訳ナレバ授受ノ際 不都合無之様注意シ 尚地方廳エハ順序ヲ践テ出願シ 其許可ヲ得テ 該寺シ内務省ヘモ可届出筋二付 此旨相意得疎漏之取計方無之様可致候事 以上
寄 附 状 (写)讃岐国多度郡麻野村 長 法 寺金毘羅大権現 木像 壱躯右令寄附畢明治廿四年三月十日大本山仁和寺門跡大僧正 別處 栄厳
御管内多度郡麻野村大字大麻長法寺儀別紙願面三通 金毘羅大権現木像壱躯 什物帳へ編入之義
出願事実相違無之候条右御聴許相成度此段副伸候也京都葛野郡花園村御室仁和寺門跡大僧正別處栄厳代権少僧正 鏝 瓊 憧明治廿四年五月十六日香川県知事 谷森 真男 殿
御管下多度郡麻野村大字大麻長法寺
明細帳へ金毘羅大権現木像壱体編入之儀
別紙願出之通事実相違無之候条副申候也明治廿四年五月十九日真言宗長者 大僧正 原 心猛印香川県知事 谷森 真男殿
長法寺移転二付境内建物明細書寺院移転ノ儀二付願香川県仲多度郡善通寺町大字大麻真言宗御室派 長 法 寺右寺儀今般檀徒及ビ信徒ノ希望二依り旧寺地ナル 仝那榎井村参蔭参拾番地へ移転致度候条御許可被成下度 別紙明細書及図面相添へ此段上願仕候也右寺法類龍松寺住職 長谷 最禅圓光寺住職 出羽 興道
大別当金光院 当院は象頭山金毘羅大権現の別当なり本殿・金堂・御成御門・ニ天門・鐘楼等多くの伽藍があり。古義真言宗の御室直末派に属す。山内には、大先達多聞院・普門院・真光院・尊勝院・万福院・神護院がある
○宝永7年(1710) 太鼓堂上棟。○享保年中(1716-36)本坊各建物、幣殿拝殿改築、御影堂建立。○享保14年(1729)本坊門建立、神馬屋移築。このころ四脚門前参道を玄関前から南に回る参道(現参道)に付替え○寛延元年(1748) 万灯堂建立。○天保3年(1832) 二天門を北側に曳屋。
○弘化3年(1846) 金堂が建立。この図中にはまだ姿がありません
①三十番神社 廃止し、その建物を石立社へ②阿弥陀堂 廃止し、その建物を若比売社へ③観音堂 廃止し、その建物を大年社へ④金堂 廃止し、その建物を旭社へ⑤不動堂 廃止し、その建物を津嶋神社へ⑥摩利支天堂・毘沙門堂(合棟):廃止し、常盤神社へ⑦孔雀堂 廃止し、その建物を天満宮へ⑧多宝塔 廃止の上、明治3年6月 撤去。⑨経蔵 廃止し、その建物を文庫へ⑩大門 左右の金剛力士像を撤去し、建物はそのまま存置⑪二天門 左右の多聞天像を撤去し、建物はそのまま中門へ⑫万灯堂 廃止し、その建物を火産霊社へ⑬大行事社 変更なし、後に産須毘社と改称⑭行者堂 変更なし、大峰社と改称、明治5年廃社⑮山神社 変更なし、大山祇社と改称⑯鐘楼 明治元年廃止、取払い更地にして遙拝場へ⑰別当金光院 廃止、そのまま社務庁へ⑱境内大師堂・阿弥陀堂は廃止
神護院→小教院塾、尊勝院→小教院支塾、万福院→教導係会議所、真光院→教導職講研究所、普門院→崇敬講社扱所への転用が行われています
「与州松山浮穴郡高井村 新七、弥助、 清次、粂左衛門」
①金毘羅さんから遠く離れた山本町でなぜ「金毘羅大権現」の幟が揚がっているのか?②神仏分離以後、金刀比羅神社は「金毘羅大権現」を捨てたはずなのにどうして・・?③幟の一番上の天狗は何を意味するのか?④○金は金毘羅神社、それなら○箸は、何なのか?
①この地区の23軒で「山本境東組」という金比羅講をつくってお参りしてきた。②年に3回、1月10日・6月10日・10月10日には、講メンバーでお祭りをして、ご馳走を食べる。③その時には、当番が金毘羅さんへ参拝して新しい御札をもらってきて、ここへ納める。④講メンバーにとって、この石造物が「金毘羅大権現」と思っている。⑤いつ頃から始まったか分からないが、この石造物には大正の年号が彫り込まれている。⑥いまはメンバーが減って7軒になって、運営が大変だ⑦この石碑には3回も自動車が正面からぶつかってきた。それでも壊れなかった
①この地に「金毘羅大権現」をもたらしたのは、金毘羅さんの修験者たちだった②しかし、神仏分離で金毘羅さんから天狗(修験者)は追放された③その空白部へ入ってきたのが、箸蔵寺が組織した修験者集団であった。④そのために「金毘羅大権現」は、そのままにして○金と○箸が並び立つことになった。
「享保二丁酉より戌年頃 稲荷社内にて稽古浄瑠璃といふ事はじまり 手摺一重にひきくして 地を掘り通し 其中にて人形をつかへり 尤人形の数 五つ六つに限る」
「さぬきこんぴらへ御さんけいあそばされ候は つりや伊七郎方へ御出被成可被下候、近年新宿多く出来申候てまぎらはしく候ゆへ ねんのため此方より御さしづ奉申上候」
関連年表延享元年 1744 大坂の船問屋に金毘羅参詣船許可。日本最初の客船運航開始宝暦3年 1753 勅願所になる。宝暦10年1760 日本一社の綸旨を賜う。明和元年 1764 伊藤若冲、書院の襖絵を画く。明和3年 1766 与謝蕪村、金毘羅滞在し「秋景山水図」を描く天明7年 1787 円山応挙、書院の間の壁画を画く。文化2年 1805 備中早島港、因島椋浦港に燈籠建立。文化3年 1806 丸亀福島湛甫竣工。文化7年 1810 『金毘羅参詣続膝栗毛初編(上下)』弥次郎兵衛と北八の金毘羅詣で文化11年1814 瀬戸田港に常夜燈建立。天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工。天保の改革~6年間。天保9年 1838 丸亀に江戸千人講燈籠建つ。(太助燈籠のみ)多度津港に新湛甫できる。弘化2年 1845 金堂、全て成就。観音堂開帳。嘉永6年 1853 黒船来航。吉田松陰参詣。嘉永7年 1854 日米和親条約締結。安政6年 1859 因島金因講、連子塀燈明堂上半分上棟。高燈籠の燈籠成就。
百年前世上薬師仏尊敬いたし、常高寺の下り途の薬師、今道町寅薬師有、殊の外参詣多くはやらせ、上の山観音仏谷より出て薬師仏参り薄く、上の山繁昌也、夫より熱村七面明神造立せしめ参詣夥鋪、四十年来紀州吉野山上参りはやり行者講私り、毎七月山伏姿と成山上いたし、俗にて何院、何僧都と宮をさつかり異鉢を好む、是もそろそろ薄く成、三十年此かた妙興寺二王諸人尊信甚し、又本境寺立像の祖師、常然寺元三大師なと、近年地蔵、観音の事いふへくもなくさかんなり、西国巡礼に中る事、隣遊びに異ならす、十年此かた讃州金比羅権現へ参詣年々多く成る。
百年前には、薬師仏が信仰を集め、常高寺の下り途の薬師や、今道町の寅薬師などが、殊の外参詣者が多かった。ところが上の山の観音仏が登場すると、薬師参りは参拝者が少なくなり、上の山が繁昌するようになった。さらに熱村の七面明神が造立されると参詣が多くなり、四十年前からは紀州吉野山参りが流行りとなり行者講が組織され、七月には山伏姿で山上し、俗に何院、何僧都を授かり、異鉢を好むようになった。それもそろそろ下火になると、三十年前からは妙興寺の二王への参拝が増えた。また本境寺立像の祖師、常然寺の元三大師なと、近年地蔵、観音さまへの信仰も盛んになった。西国巡礼に赴くものの中には、十年ほど前からついでに讃州金比羅権現へ参拝するものも多くなっている。
「世上薬師仏 → 上の山観音 → 熱村七面明神 →紀州吉野のはやり行者講→ 妙興寺 → 西国巡礼 → 金毘羅大権現」と神様の流行があっることをふり還ります。
宝暦六年に下総国古河にて、御手洗の石を掘ると弘法大師の霊水が出てきた。盲人、いざりはこの水に触れると眼があいたり腰が立つたという。この水に手拭を浸すと梵字が現われたりして、さまざまの奇蹟があった。そこで江戸より参詣の者夥しく、参詣者は、竹の筒に霊水を入れて持ち帰る、道中はそのため群集で大変混雑していたという。そもそもこのように流行したのは、ある出家がこの地を掘ってみよといったので、旱速掘ったらば、清水が湧き出てきたのだという。世間では石に目が出たと噂されて流行したと伝えられている。(喜田遊順『親子草』)
こうして流行神が生み出されていきます。 それを宣伝していくのが修験者や寺院でした。流行神の出現・流布には、山伏や祈祷師などがプロモーターとして関わっていることが多いのです。①最初に奇跡・奇瑞のようなものが現れる。②たとえば予知夢、光球が飛来する、神仏増が漂着したり掘り出される等。③続いて山伏・祈祷し・瞽女続いて神がかりがあったり、霊験を説く縁起話などが宣伝される。
正徳の比、単誓・澄禅といへる両上人有、浄家の律師にて、いづれも生れながら成仏の果を得たる人なり、澄禅上人は俗成しとき、近在の日野と云町に住居ありしが、そこにて出家して、専修念仏の行人となり、後は駿河の富士山にこもりて、八年の間勤修怠らず生身の弥陀の来迎ををがみし人也、八年の後富士山より近江へ飛帰りて、同所平子と云山中に胆られたり、
単誓上人もいづくの人たるをしらず、是は佐渡の国に渡りて、かしこのだんどくせんといふ山中の窟にこもり、千日修行してみだの来迎を拝れけるとぞ、その時窟の中ことぐく金色の浄土に変瑞相様々成し事、木像にて塔の峰の宝蔵に収めあり、
此両上人のちに京都東風谷と云所に住して知音と成往来殊に密也しとぞ、単誓上人は其後相州箱根の山中、塔の峯に一宇をひらきて、往生の地とせられ、終にかしこにて臨終を遂られける。澄禅上人の終はいかん有けん聞もらす、東風谷の庵室をば、遺命にて焼払けるとぞ、共にかしこきひじりにて、存命の内種々奇特多かりし事は、人口に残りて記にいとまあらずといふ(『譚海』五)
一、町中山伏、行人之かんはん並にほんてん、自今以後、出し置申間敷事一、出家、山伏、行人、願人宿札は不苦候間、宿札はり置可申事一、出家、山伏、行人、願人仏壇構候儀無用之由、最前モ相触候通、違背仕間敷候、一、町中ニテ諸出家共法談説候儀、無用二可仕事一、町中にて念仏講題目講出家並に同行とも寄合仕間敷事
因幡町庚申堂には塩を備よ赤坂榎坂の榎に歯の願を掛け楊枝を備ふ小石川源覚寺閻魔王に萄罰を備よ内藤新宿正受院の奪衣婆王には綿を備ふ駒込正行寺内覚宝院霊像には酒に蕃根を添備ふ浅草鳥越甚内橋に廬の願を掛け甘酒を備よ谷中笠森稲荷は願を掛る時先土の団子を備よ大願成就の特に米の団子を備ふ小石川牛犬神後の牛石塩を備ふ代官町往還にある石にも塩を備よ所々日蓮宗の寺院にある浄行菩薩の像に願を掛る者は水にて洗よ芝金地院塔中二玄庵の問魔王には煎豆と茶を備ふ 此別当は甚羨し 我聯として煎豆を好む事甚し 身のすぐれざる時も之を食すれば朧す四谷鮫ヶ橋の傍へ打し杭を紙につつみて水引を掛けてあり、これ何の願ひなるや末だ知らず、後日所の者に問はん永代橋には、歯の痛みを治せんと、錐大明神へ願をかけ、ちいさき錐を水中に納めん 『かす札のこと下』
表門鳥居の内左のかたに、茶の木稲荷と称するあり、俗説に当山に由狐あり、あやまって茶の木にて目を突きたる故に茶を忌むといへり、此神の氏子三ヶ日今以て茶をのまず、又眼をわづらふもの一七日二七日茶をたちて願ひぬれば、すみやかに験ありといふ(中略)
「我に祈らば応験あるべし」
寛政五年(1793)伊予国松山の吉岡屋伝左衛門が100回参詣天保十三年(1843)作州津山船頭町の高松屋虎蔵(川船の船頭?)が61度の参詣
安政元年(1854)信州安曇郡柏原村から33度の参詣を果たした中島平兵、万延元年(1860)松山の亀吉は人に頼まれて千度の代参
万延元年 参州吉田宿から30度目の参詣したかつらぎ源治、文久四年(1864)松山から火物断ちして15度の参詣を遂げた岩井屋亀吉。
天保13年月 金堂の用材橡105本を奥州秋田から丸亀へ廻送。天保14年 「潮川神事場碑」の裏に讃岐の大庄屋クラスの人々と名前あり。弘化4年(1847) 五月に100両を、続いて11月に150両を献納
「……金毘羅は、順礼の数にあらすといえとも、当州の壮観、名望の霊区なれは、遍礼の人、当山には詣せすという事なし……」
享保7年 1722 文殊・普賢像、釈迦堂へ安置。享保8年 1723 神前不動像、愛染不動像出来る。新町鳥居普請。享保15年1730 観音堂開帳。享保17年1732 広谷墓地に閻魔堂建立。享保の大飢饉。享保18年1733 龍王社造立。
「……金毘羅は、数年この方、天下に信仰しない者はなく、伊勢の大神宮同様に、人々が遠国から参拝に集まり、その上船頭たちが、大そう尊崇する
……数十年前までは、これほど盛んなこともなかったのであるが、近頃おいおい繁昌するようになった。…金毘羅と肩を並べている神仏は、伊勢を除いては、浅草と善光寺であろう……」と。
願上げ奉る口上一私共宅の近辺、仏生山より金毘羅への街道二而御座候処、毎度遠方旅人踏み迷い難渋仕り候、これに依り二・三ヶ年以来申し合わせ少々の講結び御座候 而何卒道印石灯寵建立仕り度存じ奉り候、則場所・絵図相添え指し出し候間、願の通り相済み候様宜しく仰せ上げられ下さるべく候、
願上げ奉り候、以上文化七午年 香川郡東大野村百姓 半五郎 金七政所交左衛門殿
①歴代藩主の保護を受けた新興勢力の金光院が権勢を高めた②朱印状を得た金光院は金毘羅山の「お山の殿様」になった③神官達が処刑され金光院の権力基礎は盤石のものとなった④神道色を一掃し、金毘羅大権現のお山として発展
⑤池料との地替えによって金毘羅寺領の基礎整備完了
「金毘羅山は海の神様 塩飽の船乗り達の信仰が北前船の船乗り達に伝わり、日本全国に広がった」
①享保十八年一月、三野郡下高瀬村の牢舎人について金毘羅当局が丸亀藩に「挨拶」の結果、出牢となり、村人がお礼に参拝、②十九年十二月高瀬村庄屋三好新兵衛が永牢を仰せ付けられたことに対し、寺院・百姓共が助命の減刑を金毘羅当局に願い出て、丸亀藩に「挨拶」の結果、新兵衛の死罪は免れた。③寛延元年(1748)多度津藩家中岡田伊右衛門が死罪になるべきところ、金光院の宥弁が挨拶してもらい受けた。④香川郡東の大庄屋野口仁右衛門の死罪についても、金光院が頼まれて挨拶し、仁右衛門は罪を許された。
高松藩で若殿様の庖療祈祷の依頼を行ったこと丸亀藩町奉行から悪病流行につき祈祷の依頼があった
願い上げ奉る口上一当夏以来所々悪病流行仕り候二付き、百相・出作両村の内下町・桜之馬場の者共金毘羅神へ祈願仕り候所、近在迄入り込み候時、その病一向相煩い申さず、無難二農業出精仕り、誠二御影一入有り難く存じ奉り候、右二付き出作村の内横往還縁江石灯籠壱ツ建立仕り度仕旨申し出候、尤も人々少々宛心指次第寄進を以て仕り、決して村人目等二指し加へ候儀並びに他村他所奉加等仕らず候、右絵図相添え指し出し申し候、此の段相済み候様宜しく仰せ上げられ下さるべく候、願い上げ奉り候、以上寛政六寅年 香川郡東百相村の内桜之馬場十月 組頭 五郎右衛門別所八郎兵衛殿
丸亀玉垣講右は御本社正面南側玉垣寄付仕り候、
且つ又、御内陣戸帳奉納仕り度き由にて、戸帳料として当卯年に金子弐拾両 勘定方え相納め候蔓・・・・・但し右講中参詣は毎年正月・九月両度にて凡そ人数百八拾人程御座候間、一度に九拾人位宛参り候様相極り候事、
当所宿余嶋屋吉右衛門・森屋嘉兵衛金刀比羅宮文書(「諸国講中人名控」)
一方、灯明講については、燈明料として150両、また神前へ灯籠一対奉納、講のメンバーは毎年9月11日に参詣して内陣に入り祈祷祈願を受けること、そのたびに50両を寄付する。取次宿は高松屋源兵衛である。
連子塀並び灯龍 奥行き一間 長十二間
下六間安政五年十一月上棟 上六間
安政六年五月上棟
「今度参勤を遂げ、心中祈願相叶い、悉地成就せしめ、帰国致すに於いては、直ちに宝前に参詣し奉るべきなり」
那珂郡三条村において、本高の外興高を以て五拾石の事、金毘羅大権現神供料・千鉢仏堂料井びに神馬料として、これを寄進せしめ詑んぬ。全く収納有るべきの状、件の如し。
この中に金毘羅領分は「院内(境内の周囲)廻りへ片付ける」ようにとの指示が書き込まれています。
高松藩から大横目・代官・郡奉行と大庄屋丸亀藩から大横目・郡奉行と庄屋池御料からは代官・庄屋金毘羅からは多聞院と山下弥右衛門ら町年寄
「地替相調い候て町並に家も立ち候」
正保二年(1645)三十番神社の修復を初めとして、慶安三年(1650)神馬屋の新築、慶安四年(1651 仁王門新築、万治二年(1659)本社造営、寛文元年(1661)阿弥陀堂の改築延宝元年(1673)高野山の大塔を模した二重宝塔の建立と
一 金毘羅寺高、諸役免許せしむ事、付けたり、荒れひらき同前の事一 城山勝名寺、前々の如く寄進せしむ事一 金毘羅新町に於いて、他国より罷り越し候者の儀、諸公事緩め置き候間、
住宅仕り候様二申し付けらるべき事一 神役前々の如く申し付けらるべき事一 先の金光院定めの如く万法度堅く申し付けらるべき事 右条々永代相違有る間敷き者なり
金毘羅寺(金光院)の寺領、諸役免許の件、荒地開墾についても従前通りの権利を認めること。一 城山勝名寺については、以前通りに寄進すること。一 金毘羅新町で他国からやってきた商人が商売を行う事
住宅を建てて住み着くこと
一 神役についえは従来通り申し付けることができること事一 従来のように金光院が定めた法は、今後も継続されること
以上の件について、永代相違有る間敷き者なり
「先代御朱印給はらざる寺社領、こたび願いにより新たにたまふもの百八十二」
讃岐国那珂郡小松庄金毘羅権現領、同郡五条村内百三拾四石八斗余、榎内村の内四拾八石壱斗余、苗田村の内五拾石、木徳村内弐拾三石五斗、社中七拾三石五斗、都合参百三拾石事、先規に任せこれを寄付し詑んぬ。全く社納すべし。
并びに山林竹木諸役等免除、有り来たりの如くいよいよ弥相違有るべからず。
てへれば、神事祭礼を専らとし、天下安泰の懇祈を抽んずべきの状、件の如し。慶安元年二月廿四日御朱印 別当金光院
正保三年大猷院様御時代、金光院住僧宥睨御目見相済み候以後、御朱印の義 安藤右京進殿松平出雲守殿御両人ヘ讃岐守取り遣り仕り候処、当地に於いて相煩い、讃州へ着き、程なく宥睨相果て申し候間、其の讃岐守申し付け候は、後住宥典義御朱印の御訴訟申し上ぐべく候間、彼の山の寺家・俗家、領内下々迄後住宥典に申し分これ有る間敷哉、山の由来詮義仕るべきの由、讃州へ申し遣わし、彼の山穿繋仕り候処、一山の者共家来にてこれ無き者一人も御座無く候。門下の寺中弟子等其の外双び立ちたる者、連判の手形に仕り、彼の内記・権太夫連判届きに付き、連判致させ所持仕り、其の節江 府へ持参仕り、(後略)
正保三年に大猷院様(松平頼重)の時代に、金光院の宥睨との初会見した。その後に(金毘羅大権現の)朱印状については、松平頼重公が安藤右京進殿・松平出雲守殿へ取り次いだ。その結果、当地に出向いて調査確認を行ったが、その後程なくして宥睨が亡くなってしまった。松平頼重公の申し付けは、その跡を継いだ宥典の時に、御朱印についての訴訟が起こりました。その前に金毘羅山中の寺家・俗家、領内下々に至るまで、宥典が金毘羅全山の最高責任者であることを確認しています。山の者総てが、金光院の家来で、そうでないものは一人もいません。そのことについては、門下の寺社関係者たち総ての連判の手形も取っています。そして、現在控訴人となっている内記・権太夫も連判状に記銘しています。それは今回、江戸に持参予定です。
御寺方之事 往古依神代古式以神職付山内故云御寺方明応六年秋山土佐守泰忠 三十番神奉勧請使加祭御八講
厨子には「開眼主 慧光山本隆寺日政(花押)」と記されています。
一日 熱田大明神 愛知県名古屋 衣 冠二日 諏訪大明神 長野県諏訪 狩人姿二日 広田大服神 兵庫県西宮 黒束帯四日 気比大明神 福井県敦賀 衣 冠五日 気多大明神 石川県羽咋 黒束帯六日 鹿島大明神 茨城県鹿島 神将姿七日 北野天神 京都府葛野 衣冠八日 お七大明神 京都府愛宕 唐 服(女神)九日 貴松大明神 京都府愛宕 鬼神形十日 伊勢大明神 三重県伊勢 黒束帯十一日 八幡大菩薩 京都府鳩峰 僧形十二日 賀茂大明神 ″ 愛宕 黒束帯十三日 松尾大明神 ″ 葛野 黒衣冠十四日 大原野明神 乙訓 唐 服(女神)十五日 春日大明神 奈良県奈良 鹿座十六日 平野大明神 京都府葛野 黒束帯十七日 大比叡大明神 滋賀県滋賀 僧形十八日 小比叡大明神 滋賀県滋賀 大津 白狩衣十九日 聖真子権現 滋賀県滋賀 僧形二十日 客人大明神 滋賀県滋賀 唐服(女神)二十一日 八王子大明神 滋賀県滋賀 黒束帯二十二日 稲荷大明神 京都府紀伊 唐服(女神)二十三日 住吉大明神 大阪府住吉 白衣老形二十四日 祇園大明神 京都市八坂 神将形二十五日 斜眼大明神 京都府談山西麓 黒束帯二十六日 建部大明神 滋賀県瀬田 ″二十七日 三上大明神 滋賀県野洲 ″二十八日 兵主大明神 滋賀県兵主 随身形二十九日 苗鹿(のうか)大明神 滋賀 唐 服(女神)三十日 吉備大明神 岡山県岡山 黒束帯
「三十番神は、もともと古くから象頭山に鎮座している神であった。金毘羅大権現がやってきてこの地を十年ばかり貸してくれといった。そこで三十番神が承知をすると、大権現は、三十番神が横を向いている間に十の上に点を入れて千の字にしてしまった。そこで千年もの間借りることができるようになった。」
第一は、宥盛は金光院の「代僧」で、正式の住職ではない。第二は、宥盛が金光院下坊を相続したとき、その時の合力の報酬として(毎年)百貫文ずつ宥雅に支払することの約束を履行しない。
「洞雲(宥雅)拙者を代僧と申す儀 毛頭其の筋目これ無く候。(中略)
土佐長宗我部入国の節 おひいだされ落墜仕り、其の後仙石権兵衛殿当国御拝領の刻、落墜の質をかくし、寺をもち候はんとは候へとも、当山はむかしより、清僧居り候へば、叶はざる寺の儀二候ヘ、落墜にて居り候儀其の旧例無く候故、堪忍罷り成らず候二付き、拙者師匠宥厳二寺を譲り」
「洞雲(宥雅)は、私のことを「代僧」と呼ぶことについて、毛頭もそのような謂われはありません。(中略)土佐の長宗我部元親が讃岐に入国した際に、宥雅は追い出され堺に亡命しました。その後、仙石殿が讃岐を御拝領した時に、落ちのびたことを隠して、松尾寺を取り返そうとしました。しかし、当山は昔から清僧の管理する寺なので、それは適いませんでした。(長尾氏に加勢して敗れ、)そのまま寺にいることができなくなったので、私(宥盛)や師匠の宥厳に寺を譲り」
長宗我部侵入の際には、寺物を武具に代えたり、寺を捨てて退転
「下之坊御請け取り候時、合力百貫ツツ給うべき旨申し定め候。然れ共今程は前々の如く、神銭も御座なき由候間、拾貫ツツニ相定め候間、此の上相違有る間敷く候」
「下之坊(金比羅堂)の管理運営については、年に百貫を支払うことで譲渡契約した。ところが近頃は前々のように、神銭が支払われない。(参拝者が少なく賽銭が少ないというので)値下げして十貫で辛抱することにした。ところが、それも宥盛は守らない。
毎年百貫の銭を送る以外に秘密協定として、宥厳の後は、宥雅が院主の座に返り咲く。
年未詳八月八日の生駒讃岐守一正書状によると、宥雅は、豊臣秀吉の時代にも大谷刑部少輔吉継や幸蔵主など秀吉の側近・奥向き筋を利用して、その旨を陳情しています。しかし、その結果は「役銭の出入りばかり」色々いってきたが一正の父親正は承引しなかったと記されています。
「愛宕・白山の神を始め、「殊二者」金毘羅三十番神の罰を蒙であろう」
「宥雅の悪逆は四国中に知れ渡り、讃岐にいたたまれず阿波国に逃げ、そこでも金毘羅の名を編って無道を行う。
(中略)(宥雅は)女犯魚鳥を服する身」
(表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」于時元亀四年突酉十一月廿七記之」(裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
表「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都宥雅が造営した」裏「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」
「この時(元亀四年)、はじめて金毘羅堂が創建されたように受け取れる。『本尊鎮座』とあるので、はじめて金比羅神が祀られたと考えられる」
「三十番神は、もともと古くから象頭山に鎮座している神であった。金毘羅大権現がやってきてこの地を十年ばかり貸してくれといった。そこで三十番神が承知をすると、大権現は三十番神が横を向いている間に十の上に点をかいて千の字にしてしまった。そこで千年もの間借りることができるようになった。」
「象頭山はもとは松尾寺であり、金毘羅はその守護神であった。しかし、金毘羅ばかりが大きくなって、松尾寺は陰に隠れてしまうようになった。松尾寺は、金毘羅に庇を貸して母屋を奪われたのだ」
宥雅の後に金光院を継いだ金剛坊宥盛のころよりの同院の方針」
「宥珂(=宥雅)上人様当国西長尾城主長尾大隅守高家之甥也、入院未詳、高家所々取合之節御加勢有之、戦不利後、御当山之旧記宝物過半持之、泉州堺へ御落去、故二御一代之 烈に不入云」
「宥珂(=宥雅)上人様について讃岐の西長尾城主・長尾大隅守高家の甥にあたる。僧籍を得た時期は未詳、高家の時に(土佐の長宗我部元親の侵入の際に、長尾家に加勢し敗れた。その後、当山の旧記や宝物を持って、泉州の堺へ政治亡命した。そのため宥雅は、歴代院主には含めないと伝わる入云」
「小松の小堂に閑居」し、「称明院に入住有」、「小松の小堂に於いて生涯を送り」云々
「善通寺釈宥範、姓は岩野氏、讃州那賀郡の人なり。…
一日猛省して松尾山に登り、金毘羅神に祈る。……
神現れて日く、我是れ天竺の神ぞ、而して摩但哩(理)神和尚を号して加持し、山威の福を贈らん。」「…後、金毘羅寺を開き、禅坐惜居。寛(観)庶三年(一三五二)七月初朔、八十三而寂」(原漢文)
「幼年期に松尾寺のある松尾山登って金比羅神に祈った」・・金毘羅寺を開き
「右此裏書三品は、古きほうく(反故)の記写す者也」
「…松尾寺観音堂の本尊は、道範の『南海流浪記』に出てくる象頭山につづく大麻山の滝寺(高福寺)の本尊を移したものであり、前立十一面観音は、これも、もとはその麓にあった小滝寺の本尊であった。」
このストーリーを考えたのは、宥雅ではないと考える研究者もいます。それは、最初に見た元亀四年(1573)銘の金毘羅宝殿棟札の裏側には「高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」と良昌の名前があることです。良昌は財田出身ので当時は、高野山の高僧であり、飯山の法勲寺の流れを汲む島田寺の住職も兼務していました。宥雅と良昌は親密な関係にあり、良昌の智恵で金毘羅神が産みだされ、宥雅が金比羅堂を建立したというのが「こんぴら町誌」の記すところです。①「宥雅は、讃岐国の諸方の寺社で説法されるようになっていたこの大魚退治伝説を金毘羅信仰の流布のために採用した」②「松尾寺の僧侶は中讃を中心にして、悪魚退治伝説が広まっているのを知って、悪魚を善神としてまつるクンビーラ信仰を始めた。」
③「悪魚退治伝説の流布を受けて、悪魚を神としてまつる金毘羅信仰が生まれたと思える。」
①金毘羅神は宮毘羅大将または金毘羅大将とも称され、その化身を『宥範縁起』の「神魚」とした。②神魚とは、インド仏教の守護神クンビーラで、ガンジス川の鰐の神格化したもの。③インドの神々が、中国で千手観音菩薩の春属守護神にまとめられ、日本に将来された。④それらの守護神たちを二十八部衆に収斂させた。
「本来、十一面観音であったものを頭部の化仏十体を除去した」
「……同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」(原漢文『南海流浪記』)
こじんまりと灘洒な松林の中に庵寺があった。池とまばらな松林の景観といいなかなか風情のある雰囲気の空間であった院主念念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。すると返歌が送られてきた
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。 古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」 (原漢文『南海流浪記』)
「当山の内、正明寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」
称名院は、町内の「大西山」という所から西に谷川沿いに少し上った場所が「大門口」といい、称名院(後の称明寺か)の大門跡と伝える。そこをさらに進んで、盆地状に開けた所が寺跡(「正明寺」)である。ここには、五輪塔に積んだ用石が多く見られ、瓦も見つかることがある
金毘羅大権現御利薬を以て天狗早業の明を我身に得給ふ。右早業之明を立と心得は月々十日にては火之者を断 肴ゑ一世不用ヒつる右之趣大願成就致給ふ乍恐近上金毘羅大権現大天狗小天狗千早ふる神のまことをてらすなら我が大願を成就し給う九月廿六日 願主 政賢
金毘羅大権現の御利益で天狗早業の明を我身に得ることを願う。「早業之明」を得るために月々十日に「火断」を一生行い大願成就を祈願する金毘羅大権現大天狗小天狗神のまことを照し我が大願を成就することを9月26日 願主 政賢
金毘羅信仰における天狗の存在について、金毘羅大権現を奉祀していた初期院主たちの影響が大きい。別当金光院歴代住職の事歴が明らかになるのは戦国末期の天正前後であり、その当時の住職には「修験的なものが色濃くつきまとって見える」
「天狗信仰の隆盛は、修験道の隆盛と時期を同じくする」
「江戸時代の金比羅象頭山は、天狗信仰の聖地であった」
「烏天狗を表している」「火焔光背をもち岩座に立っている」「右手に剣(刀)を持つ」「古くは不動明王のように剣と索を持ち、飯綱信仰などの影響をうけ狐に乗った姿だった」
万葉のうち、なかの郡にたけき神山有と見えぬ。
これもさぬきの金毘羅の山成べし。金毘羅の地を那珂の郡といふ也。
金毘羅は、もと天竺の神、釈迦説法の守護神也。飛来して此山に住給ふ。形像は巾を戴き、左に珠数、右に檜扇を持玉ふ也。巾は五智の宝冠を比し、珠数は縛の縄、扇は利剣也。
本地は不動明王也とぞ。二人の脇士有。これ伎楽、伎芸という也。
これ則金伽羅と勢陀伽権現の自作也。金光院の法院宥栄らただちにかたせ給ふ趣也。
まことにたけき神山ともよめらん所也。
讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団(団扇)を取る。薬師十二神将の像とは、甚だ異なるとかや。
「黒は烏につながる」「春属には親族とか一族の意味がある」ことから「黒春属金毘羅坊は金剛坊の仲間の烏天狗として信仰された」とします。
夜、象山(金毘羅さんの山号)に登る
崖は人頭を圧して勢い傾かんと欲す。
満山の露気清に堪えず、
夜深くして天狗きたりて翼を休む。
十丈の老杉揺らいで声有り
「爾時衆中有十二薬叉大将俱在会坐。所謂宮比羅大将...」
と薬師如来十二神将の筆頭に挙げられ、
「此十二薬叉大将。各有七千薬叉以為眷属。」
「生身は岩窟に鎮座。ご神体は頭巾をかぶり、数珠と檜扇を持ち、脇士を従える」
①幕府・髙松藩などへの説明 インドより渡来したクビラ神②実際に祭られていたのは 初代院主宥盛の自らが彫った自像
「天台宗、真言宗の一部のようにみられているけれども、仏教の日本化と庶民信仰化の要求から生まれた必然的な宗教形態であって、その根幹は日本の民俗宗教であり神祇信仰である」
①高松川辺村の400石の生駒家・家臣井上家の嫡男として生まれる。高野山で13年の修行後に真言僧
②1586(天正14)年 長宗我部の讃岐からの撤退後に高野山より帰国。
別当宥巌を助け、仙石・生駒の庇護獲得に活躍
③1600(慶長5)年 宥巌亡き後、別当として13年間活躍
堺に逃亡した宥雅の断罪に反撃し、生駒家の支持を取り付ける。 金比羅神の「由来書」作成。金比羅神とは、いかなるものや」に答える返答書。善通寺・尾の瀬寺・称明寺・三十番神との関係調整に辣腕発揮。
④修験僧としてもすぐれ「金剛坊」と呼ばれて多くの弟子を育て、道場を形成。
⑤土佐の片岡家出身の熊の助を育て「多門院」を開かせ院首につかせる。
⑥真言学僧としての叙述が志度の多和文庫に残る 高野山南谷浄菩提院の院主兼任
⑦三十番神を核に、小松庄に勢力を持ち続ける法華信仰を金比羅大権現へと切り替えていく作業を行う。
⑧1606(慶長11)年 自らの岩に腰を掛る山伏の姿を木像に刻む
⑨1613(慶長18)年1月6日 死亡
⑩1857(安政4)年 朝廷より大僧正位を追贈され、名実共に金比羅の守護神に
⑪1877(明治10)年 宥盛に厳魂彦命(いずたまひこのみこと)の神号を諡り「厳魂神社」
⑫1905(明治38)年 神殿完成、これを奥社と呼ぶ
讃岐琴平 草創期の金比羅神に関しての研究史覚え書き