瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金毘羅大権現と天狗信仰

象頭山と愛宕山2

金毘羅大権現(金毘羅神)が登場するのは近世になってからです。天狗信仰の修験者たちによって新しく生み出された流行神(はやりかみ)が金毘羅神です。それがクンピーラの住む山と結びつけられ「象頭山(琴平山)」と呼ばれるようになります。金毘羅大権現が現れる近世以前に、この山を象頭山と呼んだ記録はありません。それ以前は、この山は大麻山と呼ばれ、忌部氏の勢力下にありました。その氏寺が式内社となっている大麻神社です。この神社が鎮座する山なので大麻山です。しかし。近世以後に金毘羅大権現の勢力が大きくなると南側が象頭山と呼称されるようになります。それは、金刀比羅宮のある山の南側が象の頭とされているのもそれを裏付けます。
 金刀比羅宮の鎮座する象頭山から南に伸びる尾根をたどると愛宕山があります。今は忘れられた山となっていますが、神仏分離の金毘羅大権現時代には、この山も金比羅信仰を構成する重要な役割を担っていたようです。今回は、この愛宕山について見ていくことにします。テキストは「羽床正明 崇徳上皇御廟と安井金毘羅宮  羽床正明 ことひら53 H10年」です。
まず、絵図で愛宕山を確認しておきます。
愛宕権現 箸洗池 大祭行列屏風
金毘羅大祭行列図屏風(18世紀初頭) 
この図屏風は下図のように「六曲一双」で、10月10日の大祭の様子を描いたものであることは以前にお話ししました。愛宕山が描かれているのは左隻第六扇になります。一番最後で、象頭山の左端に「おまけ」のように描かれています。
554 金毘羅祭礼図・・・讃岐最古のうどん店 | 木下製粉株式会社

霊山として険しい岩稜の山のように描かれていますが、デフォルメされた姿です。拡大して見ておきましょう。
愛宕山と
愛宕権現と箸洗(はしあらい)池
金毘羅全図 一の橋2
金毘羅全図(1840年代後半)

象頭山と愛宕山の鞍部を伊予土佐街道が抜けています。この峠が牛屋口になります。この絵図には、山頂付近に社が見えます。次に金毘羅参詣名所図会の愛宕山を見ておきましょう。

2-17 愛宕山

2-13 金毘羅愛宕山
金毘羅参詣名所図会に描かれた愛宕山(幕末)

天神社
愛宕町の正面にあり。中央に天満大自在天神、相殿に愛宕権現、荒神等を祭る。
愛宕(あたご)山
愛宕町より向ふに見ゆる山也。山上に愛宕山大権現の社あり、金毘羅山の守護神すみ給ふ山にて魔所なりといふ。
箸洗池
愛宕の山中に巨巌ありて是に一つの小池あるをいふ。此の水いかなる早魃にも乾くことなし。是十月御神事に供ずる箸をことごとく御山に捨るを、守護神拾ひあつめ此の池にて洗ひ、阿州箸蔵寺の山谷にはこび給ふといひつたふ。ゆへに箸あらひの池と号す。
十二景の内
箸洗清漣(はしあらいのせいれん)             林春常
一飽有余清  波漣源口亨  漱流頻下箸  喚起子十刑情
意訳変換しておくと
天神社(天満宮:菅原道真)
愛宕町の正面に見える神社である。中央に天満大自在天神(菅原道真)を奉り、相殿に愛宕権現、荒神等を祭る。
愛宕(あたご)山
愛宕町から見える山である。山上に愛宕山大権現の社がある。この山は、①金毘羅山の守護神が住む山で、魔所とされている。
箸洗池
愛宕山の山中に巨巌があり、そこにある小さな池のことである。この水はどんな早魃でも干上がることはない。10月10日の大祭の御神事の後の食事で使用した箸は、すべて御山に捨てる。それを守護神(天狗)が拾い集めて、この池で洗い、阿波の箸蔵寺に運び去ると言い伝えられている。そのため箸洗池と呼ぶ号す。
ここで注目したいのは、次の2点です
①愛宕山が金毘羅神の守護神の住む山で「魔所」とされていること
②箸が洗われた後に、阿波修験道の拠点である箸蔵寺に持ち去られること
①の「金毘羅神の守護神」とされる愛宕権現とは何者なのでしょうか?
①修験道の役小角と泰澄が山城国愛宕山に登った時に天狗(愛宕山太郎坊)の神験に遭って朝日峰に神廟を設立したのが、霊山愛宕山の開基
②愛宕山は修験道七高山の一つとなり、「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕さんには月まいり」と言われるほど愛宕山は修験道場として栄えた。
③塞神信仰から、愛宕山は京の火難除けや盗難除けの神として信仰された。
④それに、阿当護神と本尊の勝軍地蔵が習合して火防せの神である愛宕権現として、愛宕修験者によって全国に広まった。
⑤愛宕修験でも天狗信仰が盛んだったため、愛宕太郎坊天狗も祀った。
こうして修験者の聖地で、天狗信仰のメッカでもあった金毘羅大権現も、愛宕信仰を受入たようですももうひとつ見ておきたいのは、愛宕信仰は妙見信仰も混淆していることです。

秦氏の妙見信仰・虚空蔵

愛宕山自体が山城の秦氏の霊山で、妙見信仰(北斗星)を基盤にしていることは押さえておきます。それらを混淆して、愛宕山大権現として象頭山にももたらされたとしておきます。

象頭山天狗 飯綱
象頭山の愛宕明神と飯綱明神 火除けの神として信仰されていたことが分かる

知切光歳著『天狗考』上巻は、愛宕天狗について、次のように記します。

天狗の中で、愛宕、飯綱系の天狗は、ダキニ天を祀り、白狐に跨っており、天狗を祭り通力を得んとする修験、行者の徒が、ダキニの法を修し、これを愛宕の法、または飯綱の法と呼ぶ、(以下略)
整理しておくと
①愛宕天狗は両翼をもち白狐に乗り、ダキニ天を祀る。
②全国各地の金毘羅社の中には、烏天狗を祀るところが多い。
ここからは、各地の金毘羅宮は愛宕山を通じて愛宕天狗と結ばれていたことがうかがえます。そして、修行・参拝のために天狗になろうとする修験者たちが金比羅の愛宕山を目指したのでしょう。当然、それを迎え入れる愛宕系の子院があったはずです。それが私は多聞院であったと考えています。
京都愛宕山との交流を示す絵馬や記録も残っていることが、それを裏付けます。

『麒麟がくる』ゆかりの地・愛宕山4 勝軍地蔵と太郎坊天狗に祈りを捧げた明智光秀 - れきたびcafe
愛宕天狗
また、逆に愛宕権現と金毘羅大権現が習合して、各地に奉られていくという現象も起こります。
愛宕神社と金毘羅大権現の関係

愛宕神社と金毘羅大権現2 愛知県
        愛知県 井代星越 愛宕神社の奥社として鎮座する金毘羅大権現
上図の愛知県新庄市の愛宕神社では、奥社(守護神)として金毘羅大権現が奉られています。ここでは愛宕神社が本社で、金毘羅大権現が末社となっていて、主客が逆転していることを押さえておきます。このようなスタイルが各地で見られるようになります。

次に、金比羅の愛宕天狗以外の天狗たちを見ていくことにします。
江戸前期の『天狗経』には、全国で名前が知られた天狗がリストアップされています。これらが天狗信仰の拠点であったことになります。

7 崇徳上皇天狗

讃岐に関係するのは、赤い丸を付けた次の3つの天狗達です。
①黒眷属金毘羅坊(くろけんぞくこんぴらぼう) 
②白峯相模坊  天狗になった崇徳上皇に仕える白峰寺の天狗。
③象頭山金剛坊    
①③が金比羅の天狗ですが、このふたつには次のような役割分担があったと研究者は指摘します。
①黒眷属金毘羅坊 全国各地の金毘羅信者の安全と旅人の道中安全を司る天狗。地方の金比羅社
に奉られる天狗で姿は烏天狗
③象頭山金剛坊は、讃岐の本宮を守護する山伏姿の天狗で、金毘羅大権現の別当金光院が担当
両者の関係は、③の金剛坊が主人で、①黒眷属金毘羅坊はその家来とされました。

それでは、③の象頭山金剛坊を象頭山に根付かせたのは誰なのでしょうか?
江戸時代中期(1715年)に浪華の吉林堂から出された百科辞書の『和漢三才図絵』(巻79)には、次のように記します。
相伝ふ、当山(金毘羅大権現)の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

また、江戸中期の国学者、天野信景著の『塩尻』には、次のように記します。
  讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや。

ここからは金毘羅宮の祭神は、僧(山伏)の姿をしていて団扇を持った天狗で、薬師十二神将のクビラ神とはまったくちがう姿であったとされています。『塩尻』に出てくる修験者の姿の木像とは、実は初代金光院主だった宥盛の姿です。観音堂の裏には威徳殿という建物があって、その中には、次のような名の入った木像がありました。

天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月

意訳変換しておくと
天狗道沙門の金剛坊像は、当山中興の権大僧都法印宥盛の姿である。慶長11年10拾月如意月

ここからは宥盛が金毘羅信仰の中に天狗信仰をとり入れ定着させた人物であったことが分かります。宥盛は修験道と天狗信仰を極め、死後は天狗になって金毘羅宮を守ると遺言して亡くなり、観音堂のそばにまつられます。宥盛は死後、象頭山金剛坊という天狗になったとされ、金剛坊は金毘羅信仰の中心として信仰を集めるようになります。
金毘羅大権現の天狗信仰を視覚化した絵図を見ておきましょう。

金毘羅と天狗
金毘羅大権現 別当金光院発行の金毘羅大権現と天狗達
一番下に「別当金光院」と書かれています。金光院が配布していた掛軸のようです。
①一番上の不動明王のように見えるのが金毘羅大権現
②その下の両脇で団扇を持っているのが金剛院で大天狗姿
③その下が多くが黒眷属金毘羅坊で、団扇を持たず羽根のある烏天狗姿
ここからは金比羅の修験者たちは、自分たちは金毘羅大権現に仕える天狗達と認識していたことがうかがえます。近世はじめに流行神として登場した金毘羅神を生み出したのは、このような天狗信仰をもった修験者たちであったと研究者は考えています。
そして、この2つの天狗達に後から仲間入りをするのが最初に見た愛宕山太郎坊になります。
この天狗信仰と金比羅信仰のつながりを、模式化したのが次の表です。

金毘羅の天狗信仰

江戸時代前期 もともとは「①黒眷属金毘羅坊と③象頭山金剛坊」に「愛宕山太郎坊」が追加    
江戸時代後期 ④「象頭山趣海坊」+⑤「安井金毘羅宮」の浸透
④「象頭山趣海坊」とは崇徳上皇の家来です。京都では安井金毘羅宮を中心に、崇徳上皇=金毘羅大権現とする説が普及し、滝沢馬琴も『金毘羅大権現利生略記』の中で崇徳上皇=金毘羅大権現とする説を採用しています。
文化五年(1808)の冬、幕臣の稲田喜蔵が神城騰雲から聞き取った『壺産圃雑記』という随筆集の中には、騰雲は趣海坊という金毘羅の眷属の天狗の導きで天狗界を見てきたとか、金毘羅権現は讃岐に流された崇徳上皇が人間界の王になれぬので天狗界の王になろうと天に祈った結果、終に天狗となったものだと語ったと記されています。
こうして見てくると、江戸時代の金光院などの社僧の僧侶は、根強い天狗信仰をもっていたことがうかがえます。そのような中で、愛宕信仰を持つ影響力の強い修験者がやってきて、金比羅に愛宕大権現を開山し、「金毘羅神」の守護者を名乗るようになったとしておきます。

最後に愛宕大名神の現在の姿を見ておくことにします。
琴平愛宕山ルート図

象頭山と愛宕山の鞍部の牛屋口から尾根づたいの整備された道を辿ります。この当たりは、昔は松茸がよく生えていた所で、戦前までは入札していたことが記録に残っています。

愛宕山;石柱:八景山遺蹟。

まず最初のピークに八景山遺構の石碑が立っています。昭和16年(1941)に建てられたものです。次のピークが愛宕山になります。

愛宕山山頂6
愛宕山山頂
山頂には
愛宕山遺蹟の石柱があります。頂上は、整地されていて広く、神社の拝殿などがあったことがうかがえます。

愛宕権現 琴平町
          愛宕山山頂の愛宕社の祠(琴平町)
そこには、いまは石の祠だけが鎮座しています。山頂にあった愛宕大権現の御神体は神仏分離後はふもとの天満宮に下ろされ、天満さま(菅原道真神社)と合祀されているようです。そちらに行って見ます。
愛宕神社・菅原神社の鳥居
金比羅芝居の金丸座の裏からの車道を300mほど行くと、菅原神社の登山口です。鳥居と石碑が迎えてくれまます。

菅原神社・愛宕神社

入口の石碑は菅原神社と愛宕神社がならんで刻まれています。もともとは、愛宕権現のテリトリーに天神信仰の高まりの中で天満宮が勧進されたのでしょう。それが愛宕権現と並んで奉られていたことは、最初に見た金毘羅参詣名所図会に書かれていました。長い階段を登っていくと本殿が見えて来ます。

菅原・愛宕神社
菅原神社・愛宕神社

中央が菅原社、右側が竈神社、左側が愛宕社です。今の主役は菅原道真です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 羽床正明 崇徳上皇御廟と安井金毘羅宮  羽床正明 ことひら53 H10年
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1金毘羅天狗信仰 金光院の御札
金毘羅大権現と天狗達 別当金光院が配布していた軸

金毘羅大権現の使いは、天狗であると言われていたようです。
そのためか金毘羅さんには、天狗信仰をあらわすものが多く残されています。文化財指定を受けている天狗面を今回は、見ていくことにします。
1金毘羅天狗信仰 天狗面G3

おおきな天狗面です。
面長60㎝、面幅50㎝・厚さ48㎝で、鼻の高さは25㎝もあります。檜木を彫りだしたもので、面の真中、左右の耳、そして鼻の中途から先が別々につくられ、表から木釘、裏からは鉄製のかすがいで止めてあります。木地に和紙を貼り、胡粉を塗り、その上から彩色をしていたようであるが、今はほとんどはげていて木地が見えている状態で、わずかに朱色が見えているようです。

1天狗面

 目は青銅の薄板を目の形に形どり、表面から釘で打ちつけてとめてあります。彩色していたようですが、これも剥げ落ちて、元の色は分かりません。口からは牙が出ています。面の周囲や、口の周囲、まゆには動物の毛が植え込んであるようです。

この面だけ見ると「なんでこんなにおおきいのかな、被るしにしては大きすぎるのでは?」という疑問が沸いてきます。

被るものではなく、拝む対象としての天狗面
1金毘羅天狗信仰 天狗面G4

 この面は、面長35㎝、面幅27㎝、厚さは30㎝、鼻の高さは14㎝で、別材で造ったものをさし込み式にしています。ひたい・あご・両耳の各部も別材が使われています。面は木地に和紙を張り、上に厚く胡粉をぬり、上から朱うるしを塗られています。口には隅取りがあり、ひたいの部分にも隅取りに似た筋肉の誇張と口と同じように朱うるしが塗られています。
 目と歯は金泥で、もみあげからひげにかけての地肌は墨でかかれています。瞳を除く各部には、人間の頭髪が小さな束にして、うえ込まれています。
 この面の面白い所は、「箱入り面」であることです。この箱から出すことは出来ないのです。それは背面を見ると分かります。面が箱に固定されているのです。両耳にあけられた穴に、ひもを通し背負いひもをつけた箱の内に固定されているのです。箱は高さは、54㎝、幅35㎝、厚さ17㎝で、置いたときにも倒れないようになっています。
 箱の上端にはシメ縄をはり、シデを垂らされます。それが面の前にさがっています。この天狗面は被るものでなく、おがむ対象だったと研究者は考えているようです。
 箱の背面には向って右側面と、あごの部分に次のような墨書銘があります。
  人形町
  天明2年(1782)
  細工人 倉橋清兵衛
 一家ノ安全
1金毘羅天狗信仰 天狗面G5

この面は 面長44,5㎝ 面幅34,3㎝、厚さは裏の一枚板から鼻の先までが44,5㎝、鼻の高さだけで28㎝もあります。鼻の部分は別材をつぎたしています。木地に胡粉を塗って、その上に朱うるしを塗っていますが、胡粉を塗った刷毛跡が見えます。目は金泥に、瞳を黒うるしでかき、頭髪とまゆ毛・ひげは人毛と思われる動物質の黒毛をうめ込んでいるようです。眉は、囲まりに毛がが植え込まれ、その内側は黒うるしが塗られています。口はへの字形に結ばれ、ユーモラスな印象を受けます。この面も裏側には、厚手の白木綿の背負いひもを通し、背負って歩けるようになっています。これも背負い面のようです。
面はどのようにして、金毘羅大権現に奉納されたのでしょうか?
これらの面は、今は宝蔵館に保管されていますが、もとは絵馬堂にかかっていたようです。最初に見た天狗面は、天明七年(1787)に江戸から奉納された額にかかっていたことが分かっています。
 
天狗面を背負う山伏 浮世絵

 金毘羅大権現に奉納された天狗面は、背負って歩けるよう面の裏に板をうちつけたり、箱に入れたりしていました。天狗面を背負って歩く姿は、江戸時代の浮世絵などにも見えます

天狗面を背負う行者

 彼らのことを「金毘羅行人(道者)」と呼んでいました。全身白装束で、白木綿の衣服に、手甲脚半から頭まで白です。右手に鈴を持ち、口に陀羅尼などを唱えながら施米を集めてまわる宗教者がいたようです。

天狗面を背負う行者 正面

 白装束で天狗面を背負って行脚する姿は、当時は見なれた風俗であったようです。金毘羅さんに奉納されている天狗面は、背負って歩くにちょうどいい大きさかもしれません。金毘羅行人(道者)が金剛坊近くの絵馬堂に納めて行ったということにしておきます。

 金毘羅大権現が産み出された頃、天狗信仰のボスが象頭山にはいました。
宥盛?
宥盛(金剛院)

江戸時代の初期に金光院の別当を務めた宥盛です。宥盛は、金毘羅さんの正史では初代別当とされ、現在は神として奥社に祀られています。それだけ、多くの業績があった人物だったことになります。彼は、高野山で真言密教を学んだ修験者でもあり、金剛坊と呼ばれ四国では非常に有名な指導者だったようです。彼については以前にお話ししましたので省略しますが、慶長十一年(1606)に自分の像を彫った時に、その台座の裏に
「入天狗道 沙門金剛坊(宥盛)形像(後略)」

と、自筆で書き入れたと伝えられます。また彼自身が常用していた机の裏にも、 
某月某日 天狗界に入る

 と書き、まさしくその日に没したといわれます。宥盛と天狗信仰には、修験道を通じて深いかかわりがあったようです。

宥盛(金剛坊)が自分の姿を刻んだという木像を追いかけて見ることにします。
宥盛の木像は、万治二年(1659)以後は、松尾寺の本堂である観音堂の裏に金剛坊というお堂が建てられ、そこに祀られていたようです。ここからも死後の宥盛の位置づけが特別であったことが分かります。ある意味、宥盛は金毘羅大権現の創始者的な人物であったようです。
1観音堂と絵馬堂の位置関係

 本堂・観音堂の建っていた位置は、現在の美穂津姫社のところです。すぐ南に絵馬堂があります。つまり、絵馬堂と金剛坊をまつった堂とは、隣接していたことになります。奉納された天狗面が絵馬堂付近に、多くかかげられたのはこのような金剛坊を祀るお堂との位置関係があったと研究者は考えているようです。
 神仏分離の混乱がおちつきはじめた明治30年には、現在の奥社付近に仮殿をたてて、そこに金剛坊は移されます。神道的な立場からすると修験者であった宥盛を、本殿付近から遠ざけたいという思惑もあったようです。明治38年には奥社に社殿が新築されて、宥盛は厳魂彦命として神社(奥社)にまつられるようになります。
DSC03293

つまり、宥盛は神として、今は奥社に祀られているのです。
 奥社の建つ所は、内瀧といい、奥社の南側は岩の露呈した断崖です。
DSC03290

水が流れていないのにも関わらず「瀧」と名がつくのは、修験者の行場であったことを示します。ここ以外にも、葵の瀧など象頭山は、かつての行場が数多くありました。象頭山は、山岳信仰と結びついた天狗が、いかにもあらわれそうな所だと思われていたのです。
 今でも奥社の断崖には、天狗と烏天狗の面がかけられています。これが、宥盛と天狗信仰との深い結びつきを今に伝える痕跡かもしれません。
DSC03291

このように、金毘羅大権現のスタート時期には象頭山は天狗信仰のお山だったのです。そして、天狗信仰を信じる行者や修験者たちが、大坂や江戸での布教活動を行うことで都市市民に、浸透していったようです。その布教指導者を育てたのが宥盛だったと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
金毘羅信仰と天狗信仰

参考文献        印南敏秀  信仰遺物  金比羅庶民信仰資料集

近世初頭の金毘羅さんは、どのように見られていたのでしょうか?

「修験道 天狗」の画像検索結果
 
当時の参拝姿を描いた絵図には、ふたのない箱に大きな天狗面を背中に背負った金比羅詣での姿が描かれています。江戸時代の人々にとって天狗面は、修験道者のシンボルでした。
 幕末の勤王の志士で日柳燕石は次のような漢詩を残しています
夜、象山(金毘羅さんの山号)に登る
崖は人頭を圧して勢い傾かんと欲す。
満山の露気清に堪えず、
夜深くして天狗きたりて翼を休む
十丈の老杉揺らいで声有り
 ここにも天狗が登場します。当時の人々にとって、金比羅の神は天狗、象頭山は修験道の山という印象であったようです。

イメージ 8
金毘羅宮奥社 ここには天狗となった宥盛が祭られている
金毘羅神(大権現)を、金光院は公式にはどんな神だと説明していたのでしょうか。
薬師瑠璃光如来本願功徳経には、次のように記されています。
「爾時衆中有十二薬叉大将俱在会坐。所謂宮比羅大将...」
薬師如来十二神将の筆頭に挙げられ、
「此十二薬叉大将。各有七千薬叉以為眷属。」
金毘羅神は、ガンジス川のワニの神格化を意味するサンスクリットのKUMBHIRA(クンビーラ)の音写で、薬師如来十二神将(天部)の筆頭で、「宮毘羅、金毘羅、金比羅、禁毘羅」と表記されます。十二神将としては宮比羅大将、金毘羅童子とも呼ばれ、水運の神とされていました。つまり仏教の天部の仏のひとつということです。
新薬師寺 公式ホームページ 十二神将
新薬師寺のクビラ大将

それがインドから象頭山に飛来したというのです。ところが金毘羅に祭られていた金毘羅神とクビラ大将とは似ても似つかない別物でした。江戸時代の金毘羅の観音堂近くに祭られていた金毘羅神を見た人たちは、次のような記録を残しています。
「生身は岩窟に鎮座。ご神体は頭巾をかぶり、数珠と檜扇を持ち、脇士を従える」
これは、役行者や蔵王権現など修験道の神そのものです。その金比羅神が象頭山の断崖の神窟に住み着きます。その地は人の立ち入りをこばみ、禁をやぶると暴風が吹きあれ、災いをもたらすと説きます。今日でも神窟は、本殿背後の禁足林の中にあり、神職すら入れないようです。 ã€Œé‡‘比羅ç\žã€ã®ç”»åƒæ¤œç´¢çµæžœ 
金毘羅大権現像
 ギメ東洋美術館

最初にこの金毘羅大権現像を見たときは、びっくりしました。まるでドラゴンボールのサイヤ星人の戦士のように思えたからです。神様と思い込んでいたから戸惑ったので、最初から仏を守る天部の武人像姿と思っていれば違和感なく受けいれられたのかもしれません。
イメージ 1
本殿から奥社に向かう参道の入口

つまり、金光院は金毘羅神について、次のようにふたつの説明を使い分けていたようです。

①幕府・髙松藩などへの説明 インドより渡来したクビラ神②実際に祭られていたのは  初代院主宥盛の自らが彫った自像

金毘羅神が修験者の姿をしていると伝えられたのはなぜ?

 それは山内を治めていた別当・金光院の初期の院主が修験道とかかわりが深かったからです。例えば、現在の奥の院に神として祀られている金毘羅神は、慶長11年(1606)、自らの姿を木像に刻み、その底に「入天狗道沙門金剛坊像」と彫り込んでいます。
 この金剛坊像、すなわち宥盛の像は、元々は現在の本殿脇に祀られていましたが、参拝者に祟るため、観音堂の後堂に祀りなおされ、最終的には奥社に祀られます。
イメージ 2
金毘羅宮奥の院 岩場は修験者等の行場でもあった
奥社は、金比羅信仰以前から修験者の行場として聖地だったところです。列柱岩が立ち並んで切り立っていて行場には最適です。宥盛も修験者として、ここで業を行っていたのかもしれません。

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金毘羅宮奥の院の威徳巌
 神窟の暴風や金剛坊の祟りにみられる神秘的な信仰要素は、修験特有のものです。このように金毘羅信仰の誕生には、山岳信仰や修験道の要素が入り込んでいます。この二つの信仰が合わさって、風をあやつる異形の天狗となり、海難時に現れ救済する霊験譚や海難絵馬に登場するようになったのかもしれません。
五来重(仏教民俗学)は修験道について、次のように述べています。
「天台宗、真言宗の一部のようにみられているけれども、仏教の日本化と庶民信仰化の要求から生まれた必然的な宗教形態であって、その根幹は日本の民俗宗教であり神祇信仰である」
 修験道の解明は日本の庶民信仰(金毘羅信仰を含む)の解明につながるとの思いが託されているようです。

イメージ 4

 磐の上には烏天狗と(左)と天狗(右)がかけられています。
明治の神仏分離で金毘羅大権現を初め、修験道色は一掃された金毘羅さんです。しかし、ここにはわずかに残された修験道の痕跡を見ることができます。  

奥社に祀られる 金光院別当宥盛(ゆうせい)の年譜

①高松川辺村の400石の生駒家・家臣井上家の嫡男として生まれる。高野山で13年の修行後に真言僧
②1586(天正14)年 長宗我部の讃岐からの撤退後に高野山より帰国。
 別当宥巌を助け、仙石・生駒の庇護獲得に活躍
③1600(慶長5)年 宥巌亡き後、別当として13年間活躍 
    堺に逃亡した宥雅の断罪に反撃し、生駒家の支持を取り付ける。 金比羅神の「由来書」作成。金比羅神とは、いかなるものや」に答える返答書。善通寺・尾の瀬寺・称明寺・三十番神との関係調整に辣腕発揮。
④修験僧としてもすぐれ「金剛坊」と呼ばれて多くの弟子を育て、道場を形成。
⑤土佐の片岡家出身の熊の助を育て「多門院」を開かせ院首につかせる。   
⑥真言学僧としての叙述が志度の多和文庫に残る  高野山南谷浄菩提院の院主兼任
⑦三十番神を核に、小松庄に勢力を持ち続ける法華信仰を金比羅大権現へと切り替えていく作業を行う。
⑧1606(慶長11)年 自らの岩に腰を掛る山伏の姿を木像に刻む
⑨1613(慶長18)年1月6日 死亡
⑩1857(安政4)年 朝廷より大僧正位を追贈され、名実共に金比羅の守護神に
⑪1877(明治10)年 宥盛に厳魂彦命(いずたまひこのみこと)の神号を諡り「厳魂神社」
⑫1905(明治38)年 神殿完成、これを奥社と呼ぶ
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金毘羅宮 巌魂神社(奥社)
ちなみにこの厳魂神社を御参りして、記念に私が求めたのは・・・

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このお守りでした。
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天狗が描かれ「御本宮守護神」と記されています。宥盛は神となり守護神として金毘羅宮を守っているのかもしれません。

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