瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金毘羅大権現形成史

松尾寺 観音堂と金剛坊
金毘羅大権現松尾寺の観音堂と本尊(讃岐国名勝図会)
日時 6月28日(土) 17:00
場所 まんのう町四条公民会
資料代 200円

内容は、まず金毘羅さんの次の「通説」について検討します。
金毘羅信仰についての今までの常識

これに対して、ことひら町史などはどのように記しているのかを見ていきます。金毘羅神は古代に遡るものではなく、近世初頭に登場した流行神であること、それを創り出したのは近世の高野山系の修験者たちだったことなど、今までの通説を伏するものになります。
今回は私が講師をつとめます。興味と時間のある方の参加を歓迎します。

悪魚+クンピーラ=金毘羅神
「金毘羅神=神櫛王の悪魚(神魚) + 蕃神クンピラーラ」説

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  今回は「金毘羅大権現信仰資料集NO2(以下略:資料集)」を片手に、境内の狛犬たちを見て回ろうと思います。文化財指定をうけた狛犬は全部で13対です。
出かける前に狛犬についての「予習」をしておきましょう
 邪悪なものが神域を入らないように、社殿の前や参道の入口に据えられたのが狛犬です。狛犬は獅子とも呼ばれ、いまでは「混同」して「同一視」されています。しかし、違いを確認しておくと同じく守護獣ではありますが、次の違いがあります。
①狛犬は頭上に角をはやし、
②獅子は角を生やさない
 神社の狛犬を見ると、頭上に角を生やした狛犬と、角を生やさない獅子を一対として据えてあることが多いようです。そのため、今では狛犬と呼んでも獅子と呼んでもあやまりとはいえなくなっています。
寺院は仁王様、神社は狛犬が守護神
 狛犬は、平安時代に神像がつくられるようになり、神像の守護獣として作られるようになります。仏教では、獅子は釈尊の足もとにいて守護獣のライオンを形どったもので、日本でも奈良時代に寺院の門に安置されるようになります。やがて、獅子のなかで角を生したものが狛犬といわれるようになりペアで宮中の御帳の前に守護獣としておかれるようになります。これが神社では、神像の前に据えられるようになります。そして「狛犬は神社、仁王は寺院の守護神」といわれるようになったとされます。しかし、神仏混淆の時代には、狛犬と仁王様が一緒に祀られることが多かったようです。金毘羅さんもそうでした。
1 金毘羅 伽藍図2

 金毘羅さんでも明治以前には、別当の金光院、その配下の五ヶ院(寺中)があり、数多くの仏教伽藍が立ち並んでいました。境内の入口には二王門(現在の大門)が建ち、仁王像が祀られていました。しかし、神仏分離で二王門は大門と名をあらため、仁王像は明治五年境内の裏谷で焼かれます。そして守護獣としての狛犬だけが残ったのです。
  金毘羅さんにの狛犬を、奉納年代の古い順に表にしたものです。
  
1 金毘羅 狛犬表
       「金毘羅大権現信仰資料集NO2」
この表にしたがって、古い順に金毘羅の狛犬を見ていきましょう
1 四段坂の狛犬
1 金毘羅 狛犬13表

四段坂というのは本堂へに続く、最後の階段で、4段に分かれていますのでこの名が付けられています。御本宮を仰ぐ石段道の左右に狛犬がいます。「資料集」は、この狛犬について次のように記します

1 金毘羅 狛犬11
四隅に隅入の装飾をほどこした花圈岩製の基壇(石工は丸亀の中村屋利左工門)があり、その上に青銅製の狛犬(鋳物師は大坂の長谷川久左衛門)がのっている。右側は口を開いた阿の獅子、左側は頭上に角を生やし口を閉じた吽の狛犬で、共に体は参道に対して直角に向くが、顔は下から登る参拝者の方にむけられている。邪心のある者を威嚇しているのかもしれません。たてがみや尾の毛束をのぞけば、むしろ動きのない狛犬である。しかし、しっかりと踏みしめられた前肢やひきしまった体からは、邪悪をはね返そうとする強い意志のようなものが感じられ、洗練された優品である。

1 金毘羅 狛犬1
四段坂御本宮前の狛犬 宝暦七年大坂の萬人講の奉納した青銅狛犬(阿)
狛犬―青銅製
右側(阿)
〈狛犬の〉 鋳物師 大坂住 長谷川久左衛門作

〈基壇二段〉
正面 萬人講
右面 講元大坂大川町 多田屋新右衛門
   丸亀石工    中村屋判左ヱ門
  金毘羅船の創始者多田屋が奉納した狛犬
基壇に「萬人講」と大きく刻まれています。この狛犬は宝暦七年(1757)に、人講によって奉納されたことが分かります。これは「この指止まれ」方式で「心願」ある人たちが社寺に奉納するため、不特定多数の人たちにひろく寄附者つのるためにつくられた講です。村や町を単位とした地縁、あるいは問屋中、魚買中といった商人仲間がつくったような特定の地縁や社縁の人たちがつくった講ではありません。
この萬人講の講元の名前が「大坂大川町の多田屋新右衛門」と見えます。 多田屋新右衛明は延享元年(1744)ころ、金毘羅さんの許しを得て、金毘羅参拝専用船を最初に運航した大坂の船宿の主人です。波隠やかな瀬戸内海の船旅は比較的安全で、早ければ3日ほどで丸亀に着くことが出来きました。これは山陽道を歩くよりも速いし、歩かなくても船が丸亀まで運んでくれます。船に乗るという経験が少なかった当時の人たちにとって、「瀬戸内海クルージング船」でもあったのではないかと私は考えています。「速くて安くて、便利でクルージング気分も楽しめる」と云うことで、金毘羅船の人気は急速に高まり、多田屋は繁盛したようです。
 この狛犬が建立されたのは金毘羅船が許可されて10年余り経って
多田屋が繁盛し始めた頃です。商売の増々の繁盛と、商売を許されていることへの御礼の意味も込めて、自分が講元となって萬人講をつくり、乗客や泊客などを含めひろく同志をつのって奉納したのでしょう。
 しかし残念ながら、名前が刻まれているのは講元だけで、萬人講のメンバーの名前はありません。どれだけの人数が、この狛犬奉納に加わったかは分かりません。
 多田屋はこの他にも、多度津街道の狛犬や境内の石燈箭に取次として名が残ります。金毘羅大権現とは馴染みの関係であったので、奉納者と金毘羅さんの間にたって仲介の労もとっていたようです。
 この狛犬を最初に見たときに基壇に「丸亀石工 中村屋判左ヱ門」とあるので、大坂から丸亀の石工に発注して作られたものだと早合点していました。しかし、よく見ると本体は青銅製です。どういうことなんだろうと不思議に思っていました。その不思議を解決してくれたのが「金毘羅大権現信仰資料集」です。力強い「工具」です。制作者の名前は狛犬の尻尾に刻まれていることも、この本から教わりました。

②睦魂神社前 明和二年江戸の駿河屋奉納の狛犬(阿)
 狛犬・台座-青銅製 基壇-花崗岩製

 睦魂神社の前に建つ石鳥居の背後に、いる頭を下げ尾を高く上げた狛犬です。
金刀比羅宮(ことひらぐう)の睦魂神社をご参拝 | 今日どんな本をよみ ...

「資料集」には次のように記されています
1 金毘羅1 狛犬11

 狛犬の乗る台は、下の二段の基壇が花南岩製、上端の台座が青銅製である。上端の二面は枠どりされて、なかに牡丹の花と蕾の彫りものがる。この狛犬は右が阿、左が吽だがが、吽の頭上には角がなく、左右とも獅子である。共に前肢を折って低くかまえ、今にも飛びかかろうとする一瞬の姿をとらえ動きのある像である。しかし、たてがみや尾の毛束などにも見られるように装飾性が強過ぎ、それだけに力強さを欠くものとなっている。

台座に刻まれた文字から、
  奉納者は江戸本八丁堀四丁目(現中央区八丁堀)の駿河屋川口勝五郎で、明和(1765)に奉納されていることが分かります。江戸から奉納された最初のものになるようです。鋳物師も江戸神田住の西村政時で、飾装性が強いのは華やかさを好む江戸でつくられたからかもしれません。
金刀比羅宮(琴平町) | たんぽぽろぐ

 この狛犬は睦魂神社の前に座っています。
ここには明治以前には三十番神社が祀られていました。金毘羅堂が建設される前の松尾寺の守護神とも云われます。金毘羅金光院は、この神社と権力闘争を繰り返しながら象頭山のお山の大将に成長していきます。三十番神は法華経守護の神として祀られるようになった神で、天台仏教との関りが強かったようです。しかし、三十番社は仏教色の強さ故に、明治の神仏分離の際に、廃されます。代わって、修験者で金光院初代宥盛が祀られ、その後に大国魂神・大国主神を合祀した睦魂神社(境内末社)が、ここには建立されました。祀る神は代わっても、その前の狛犬はそのまま残ったようです。

                         ③ 桜馬場入口の狛犬
1 金毘羅 狛犬22表

 大門を入って五人百姓の傘を抜けると、桜馬場の長い玉垣がはじまります。そのスタート地点にいるのがこの狛犬です。上の写真では、傘の上に止まっているように見えます。参道をなかに向かいあい、顔だけが少し大門に向いている
1 金毘羅 狛犬222表
ようです。
資料集には次のように書かれています。
「台座基壇は計四段で下二段の基壇は花圈岩製、上二段の台座は青銅製である。最上段・の台座は、正面一区、側面二区に分けられていて、各々中央に龍の彫り物がある。狛犬も青銅製で右(阿)が頭上に角を生やし、左(吽)は珍しく頭上に宝珠をのせている。顔はもちろんのこと像の全体に誇張した表現が見られるが、太目につくられていることで、かえって各部が誇張され、守護獣としての風格が感じられる。」
 奉納は神田日本橋の江戸講中で、日本橋を中心とした総数210人の人たちです。よく見ると「長州家中」「雲座神門郡」(島根県出雲地方)の村々の人の名前もあります。こうした多方面の数多い人々の協力があって境内最大の高さの狛犬奉納となったのでしょう。奉納は明和三年(1766)で、睦魂神社前の狛犬が江戸八丁堀の駿河屋川口勝五郎によって奉納された翌年になります。この頃から灯籠・玉垣が競い合うように寄進され始めます。

鋳物師をみると、右側の狛犬は「江戸神田住、太田近江大橡藤原正次作」となっています。ところが左側のものは「鈴木播磨大禄作」です。左右が別の人の作のようです。別々の石工に発注し、基壇は、左右ともに当地丸亀の石工大坂屋文七です。ここからは青銅製の台座と狛犬は江戸から運ばれ、当所の石工の作った基壇にすえられたことが分かります。それから250年を越える年月が流れた事になります。

④遥拝所の狛犬
1 金毘羅 狛犬遙拝所3表
◆天明元年出雲の松江惣講中の奉納した狛犬  
 1 金毘羅 狛犬遙拝所33表
円型台座
 右面  雲陽松江
    奉願主 佐々木重兵衛
 左面 雲州松江
    石工門兵衛
 〈基壇一段〉
 正面 雲州松江
    奉 献
    惣講中
 右面 願主 山口口口口
        大口口口口
    頭取 口口口口
        石口口口口
 左面 天明元口口六
     松江寺町  石工口右衛門

 賢木門をくぐった遥拝所の玉垣の内に、一対の狛犬が奉納されています。台座・基壇から狛犬まで総て凝灰岩製です。この石は風化しやすい石材なので、台座・基壇の銘文の一部が剥離し、狛犬の口の辺が欠けています。二段の切り石造りの基壇上に、円形の台座を据え、円形の台座には正面と背面に、ここにも牡丹が薄肉彫りにされています。牡丹は中国から江戸時代に渡来し、豊麗な花として大流行したようです。「牡丹に唐獅子」のイメージもあって、狛犬の台座装飾に使われたのでしょう。当時の流行の一端が見えます。
 ここの狛犬は右側が口を閉じた吽、左側が口を開いた阿です。
これは普通見るポジションと例と左右が逆になっています。どうして?
 遥拝所は、神仏分離以前は仏教伽藍の鐘楼があった所です。それが撤去されて「崇徳上皇の白峰」との関係を示すために「遙拝所」とされました。その時に、ここに移動してきたようです。その際に左右を間違えて据え付けてしまったようです。150年前のことです。居心地が悪そうにも見えますが、そんなことも受けいれているような気もしてきます。

 願主は雲州松江惣講中で、講元は佐々木重兵衛と刻まれています。
天明元年(1781)奉納で、石工も同じ松江の門兵衛で、松江近辺で採れる凝灰岩(来待石か)をつかい、狛犬から台座・基壇まで同地方で作り、完成したものが金毘羅さんに運ばれ、奉納されたのでしょう。石造狛犬は細工するのにむつかしいので、技術が求められます。最初は、この狛犬のように軟質の凝灰岩や砂岩が多く利用されたようです。ここでも奉納元の大工に発注し、それが金毘羅まで運ばれています。地元讃岐の石工に直接に注文した方が便利なように思えますが、作られるのは地元です。
以上 金毘羅さんに残る狛犬を古い順に4つ見てきました。残りはまた次回に・・
参考文献 印南敏秀 狛犬 「金毘羅庶民信仰資料集NO2」

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善通寺さんと金毘羅さんが「本末争い」をしているようです。
これを聞いて最初感じたのは、なぜ神社である金毘羅さんが真言宗の善通寺の末寺とされるのかと思ったのですが、金毘羅さんの成り立ちを考えると納得します。当時は神仏混淆の時代で仏が人々を救うために、神に化身して現れるとされていました。もともと、小松荘のこのお山にあったのは松尾寺で、観音菩薩が本尊とされていました。その守護神として三十番社があったようです。
 しかし、戦国末期に、このお山で修行を行う修験者たちによって、新たな守護神として金毘羅神が作り出され、金比羅堂が建立されます。修験者たちは金比羅堂の別当として金光院を組織し、社僧として金毘羅大権現を祀るようになります。金光院は、三十番社や松尾寺との「権力闘争」を経て、お山のヘゲモニーを握っていったことは、以前にお話ししましたので省略します。
 社僧は、前回お話しした西長尾城主の甥(弟?)のように高野山で学んだ真言密教の修験者たちです。善通寺の僧侶から見れば、同じ高野山で学んだ同門連中が金毘羅大権現を祀り、時の藩主から保護を受けて急速に力を付けているように見えたはずです。ある意味、善通寺から見れば金毘羅大権現(金光院)は「新興の成り上がりの流行神」で、目の上のたんこぶのような存在に感じるようになっていたのかもしれません。

金毘羅大権現扁額1
本末争いの主人公は?
 本末の争いが起きたのは、丸亀藩山崎家の二代目藩主・志摩守俊家の時代(1648ー51)の頃です。争いの主人公は次の二人です。
善通寺誕生院では禽貞(1642~73在職)
金毘羅金光院では宥典(1645ー66在職)
  それでは、残された史料を見ていくことにしましょう
この事件については金光院側に「善通寺出入始末書」などの文書が残っています。内容は「金光院は誕生院の末寺ではない」理由を、九か条にわたって書き上げたものです。これは誕生院の「金光院は誕生院の末寺である」という主張に対する金光院の回答の」ようです。残念ながら善通寺側の文書は残っていません。
その「反論内容」を見てみましょう。
一 先々師宥盛果られ候節、金毘羅導師の儀、弘憲寺良純へ宥盛存生の内に直に申し置くべく候に付いて、弘憲寺へ頼み申し候、追善の法事、二、三度誕生院へ頼まれ候事
意訳すると

先々代の金光院院主が亡くなった頃に、金毘羅導師の件について、高松の生駒家菩提寺弘憲寺の良純様に宥盛生存の内に依頼しておくようにと云われました。なお、追善法要については、二、三度善通寺誕生院にお願いしたこともあります。

ここからは善通寺側が「宥盛の追悼法要を行ったのは善通寺である。それを、宥睨の代には別の寺院に変えた。本寺をないがしろにするものである」という主張がされていたことがうかがえます。

一 金毘羅社遷宮の事、先師宥睨は高野山無量寿院頼み申すべく存ぜられ候へども、権現遷宮の事は神慮に任かす旧例に従へば、僧侶四、五人御蔵を取り誕生院へうり申すに付き頼まれ候由に候右両条にて末寺と申され院哉、此方承引仕らざる

意訳すると
金毘羅社の遷宮については、先師宥睨は高野山無量寿院に依頼するようにという意向でしたが、権現の遷宮なので、神社のことで旧例に従えば、僧侶4,5人で行い、誕生院へ依頼したことはあります。しかし、これを持って金光院が誕生院の末寺であるというのには納得できません。
 
   宥睨の時の行われた金毘羅堂の遷宮の導師について、善通寺側から出された「善通寺誕生院の僧侶が行ったと」いう主張への反論のようです。

一 観音堂入仏、先の誕生院致され候様に今の住持申さる由承り候、相違の様に存じ院、此の導師は先々師宥盛仕られ候証拠これあるべき事

 意訳すると
観音堂入仏の儀式については、先の誕生院によって行われたと、誕生院現住持はおっしゃているようですが、これは事実と異なります。この時の導師は先々代の宥盛によて行われたもので、証拠も残っています。

本堂や観音堂などの落慶法要の際には、本寺から導師を招いて執り行うのが当時のスタイルでした。そのため誕生院は、あれもこれもかつては善通寺の僧侶が導師を勤めたと主張し、故に金光院は善通寺の末寺であるという論法だったことがうかがえます。

一 先師宥睨の代、当山鎮守三十番神の社、松平右京太夫殿御建立、遷宮賀茂村明王院に仕り候、その時誕生院より二言の申され様これ無き事
意訳すると
先師宥睨の時に、当山鎮守の三十番社については、松平右京太夫殿が建立し、賀茂村明王院が遷宮を勤めています。その時に、誕生院が関わった事実はありません。

三十番社はもともとの松尾寺の守護神を祀る神社でした。この三十番社に取って代わって、金比羅堂が建立され台頭していきます。そのため三十番社と金比羅堂別当の金光院との間には「権力闘争」が展開されたことは、以前お話しした通りです。

一 年頭の礼日、正月十日に相定まり、その後誕生院金光院へ参られ候由申さると承り候、相違申す事に候、前後の日限相定らず候、十日は権現の会日に院へば自由に他出仕らず候、その上金光院へ誕生院の尊翁正月八日に年頭の礼に参られ候、(中略)

意訳すると
 年頭の礼日は正月十日と定められています。その後に、誕生院と金光院へ参られるとおっしゃっているようですが、これも事実とは異なります。期日については、前後の日限は定まっていません。十日は権現の会日ですので、我々(金光院)は参加することはできません。

これは本末関係を示す事例として、年頭の正月十日に金光院主が年始挨拶のために本寺の善通寺にやってきていたことを善通寺側が主張した事への反論のようです

一 法事又は公事、何事にても国中の院家集合の席、往古は存ぜず、金光院二、三代の座配は一薦或は二蕩、金光院より座上の出家は多くこれ無く候、諸院家多分下座仕られ候事その隠れ無く、誕生院の末寺として座上仕り侯はば、諸院家付会に申し分られこれ在る間敷く候哉(後略)

 法事や公事など公式の席上に、国中の院家が集まり同席することは昔はありませんでしが、その席順について金光院の二、三代の座配は高い位置に配されています。金光院より座上の寺社は多くはありません。諸院家は金光院の下座にあることが隠れない事実です。もし、金光院が誕生院の末寺というのなら、末寺よりも下になぜ我々の席があるのかと諸院家から異議があるはずですが、そのようなことは聞いたこともありません

ここからは17世紀半ばには、金光院が讃岐の寺社の中でも高い格式を認められていたことが分かります。それを背景に、末社にそのような格式が与えられるはずがないという論法のようです。
  以上から善通寺の主張を推察してみると、次のようになるのではないでしょうか
かつては金光院の主催する落慶法要のような式典には善通寺の僧侶が導師を勤めていた。ここから善通寺が金光院の本寺であったことが分かる。その「本末関係」が宥睨の頃からないがしろになされて現在に至っている。これは嘆かわしいことなので善通寺が本寺で、金光院はその末寺であることを再確認して欲しい。

o0420056013994350398金毘羅大権現
金毘羅大権現像
 これ以外に善通寺側が本寺を主張するよりどころとなったもうひとつの「文書」があったのではないかと私は思っています。
それは初代金光院主・宥雅が改作した文書です。宥雅は「善通寺の中興の祖」とされる宥範を「金比羅寺」の開祖にするための文書加筆を行ったようです。研究者は、次のように指摘します。
宥範以前の『宥範縁起』には、宥範について
「小松の小堂に閑居」し、
「称明院に入住有」、
「小松の小堂に於いて生涯を送り」云々
とだけ記されていました。ここには松尾寺や金毘羅の名は、出てきません。つまり、宥範と金比羅は関係がなかったのです。ところが、宥雅の書写した『宥範縁起』には、次のような事が書き加えられています。
「善通寺釈宥範、姓は岩野氏、讃州那賀郡の人なり。…
一日猛省して松尾山に登り、金毘羅神に祈る。……
神現れて日く、我是れ天竺の神ぞ、而して摩但哩(理)神和尚を号して加持し、山威の福を贈らん。」
「…後、金毘羅寺を開き、禅坐惜居。寛(観)庶三年(一三五二)七月初朔、八十三而寂」(原漢文)
 ここでは、宥範が
「幼年期に松尾山に登って金比羅神に祈った」
と加筆されています。この時代から金毘羅神を祭った施設があったと思わせる書き方です。金毘羅寺とは、金毘羅権現などを含む松尾寺の総称という意味でしょう。
「宥範が・・・・金毘羅寺を開き、禅坐惜居」
とありますから金比羅堂の開祖者は宥範とも書かれています。裏書三項目は
「右此裏書三品は、古きほうく(反故)の記写す者也」
と、書き留められています。
金毘羅山旭社・多宝塔1


 宥雅が金光院の開山に、善通寺中興の祖といわれる宥範を据えることに腐心していることが分かります。これは、新しく建立した金比羅堂に箔を付けるために、当時周辺で最も有名だった宥範の名前を利用したのでしょう。
 それから70年近く経ち、金毘羅さんは讃岐で一番の寄進地をもつ最有力寺社に成長しました。金毘羅大権現の開祖を宥範に求める由来が世間には広がっています。さらに宥雅が書写した加筆版『宥範縁起』が善通寺側に伝わればどうなるでしょうか。善通寺誕生院の院主が「こっちが本寺で、金毘羅は末寺」と訴えても不思議ではありません。
 しかし、これは事実に基づいた主張ではありません。いろいろと「状況証拠」を挙げて主張したのでしょうが、受けいれられることはなかったようです。

金毘羅山本山図1
次に、その経緯を次に見ていくことにします。
民間の手による調停工作は?
 この争いがまだ公にならない前に、丸亀の備前屋小右衛門の親が仲に入って、一度は和睦の約束ができていたと丸亀市史は云います。宥睨の年忌のときに、国中の出家衆が金光院へ集まり会合することになっていました。ところが、出席するはずの誕生院禽貞がやってこなかったようです。そのために和談の話は流れてしまいます。禽貞にとっては、和睦は不満だったのでしょう。
 さらに、誕生院の本寺である京都の随心院門跡からも、山崎藩へ両院の争いを仲裁してほしいとの申し出があったようです。そこで、両院を呼んで、持宝院(本山寺)と威徳院(高瀬町)にも同席させ和解の場を設けましたが、うまく運びません。
sim (2)金毘羅大権現6

山崎藩による調停工作は?
 そこで金光院宥典は、自分の考えを山崎藩家老の由羅外記・奉行の谷田三右衛門・新海半右衛門へ申し出ます。その中で、慶安元年(1648)に金毘羅へ将軍家の朱印状が下されたことに触れて、次のように主張します

「愚僧儀は近年御朱印頂戴致し……右京太夫殿・志摩守殿(藩主)へも出入り仕り、御言にも懸り候へば、左様の儀を心にあて、旧規に背き非例の沙汰も申かと、志摩守殿又は各御衆中も思し召すべき儀迷惑仕り候」

 
誕生院禽貞の本末論争について、まったく根拠のない、言いがかりのような主張で迷惑千万と、のべています。志摩守殿とは、山崎藩二代志摩守俊家のことです。志摩守は、金光院の申し出に納得し
「皆とも誕生院へ異見挨拶致し、仕らる様に申し談ずべき旨申し付けられた。」
と、誕生院に言い聞かせて、しかるべき様に取りはからうよう命じます。 藩主の指示を受けて、家老たちは誕生院を呼んで、次のようなやりとりが行われたようです
「誕生院は丸亀山崎藩の領内、金光院は朱印地で他領になる。そのため松尾寺(金光院)を善通寺の末寺というのは難しい。証明する証文があるなら急いで提出するように」
誕生院「照明する文書は、ございません」
「証文がなければ、本末関係を判断することはできない」
といって席を立ちます。そして、次第を志摩守俊家に報告します。
報告を受けた藩主志摩守は
「誕生院のいわれのない主張のようだ。双方の和談にするように」
と命じます
20150708054418金比羅さんと大天狗
こうして、藩主命による調停が行われることになり、金光院院主宥典も呼ばれて丸亀へ出向きます。場所は妙法寺です。藩からは御名代として家老が出席しました。
 しかし、杯を交わす段になって、誕生院禽貞が
「和平の盃を誕生院より金光院へ指し申すべき取りかはしの盃ならは和睦仕る間敷く」
と、自分たちの主張が認められない調停には承服できないと言い出します。これには調停役をつとめた藩主も立腹して、
「以後百姓檀那ども誕生院へ出入り仕る間敷き旨」
と、誕生院への人々の出入禁止を申しつけます。
 禁門措置に対して金光院宥典は、誕生院の閉門を解いてもらえるように藩に願い出ています。その後、山崎藩は廃絶しますが、この事件を担当した家老たちの金光院にあてた手紙が残っています。これは金光院から、のちのち誕生院から異変がましいことを言い出すことがないよう先年の一件を確認しておいてもらいたいという願いに答えたもので、次のように記されています。
「後々年に至りて御念の為め……拙者など存命の内に右の段弥御正し置き成され度き御内存の旨、一通りは御尤もにて、併しその時分の儀、丸亀領内陰れ無き事に御座候へは、後々年に至り誕生院後主・同人衆も先年より証文・証跡これ無き事を重ねて申し立られるべき儀とは存ぜられず候」

「誕生院に、本末関係を証明する文書はないので、心配無用」ということのようです。事件後決着後に、金光院は本末論争を善通寺側が蒸し返さないように「再発防止」策として、山崎家を離れた家老の由羅外記、大河内市郎兵衛にまで連絡をとっていたことが分かります。
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 ところが金光院が心配した通り、誕生院は新領主となった京極家にも「本末関係」を申し立てるのです。「権現堂(金毘羅堂)御再興の遷宮導師食貞仕るべき旨」を提出し、金比羅堂再興の導師に誕生院主を呼ぶことを求めています。
 京極藩の郡奉行赤田十兵衛は、金光院にこのことについて問い合わせ、山崎藩時代の事件の顛末を確認し動きません。「それはもうすでに終わったこと」として処理されます。金毘羅さんの遷宮導師を、誕生院院主が勤めることはありませんでした。
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 以上をまとめておくと次のようになります
①山崎藩時代に善通寺は金毘羅金光院を善通寺の末寺であると訴えた。 
②その根拠は、金光院歴代の葬儀やお堂の落慶法要に善通寺の僧侶が導師となっていることであった。
③また、当時は金毘羅大権現は「善通寺中興の祖・宥範」によって建立されたという由緒が流布されていたこともある
④これに対して、山崎藩は和解交渉を行うが善通寺側の強硬な姿勢に頓挫する
⑤立腹した藩主は善通寺誕生院への立入禁止令を出す
⑥金光院は藩主への取りなし工作を行うと同時に、再発防止策も講じた。
⑦金光院の危惧した通り、京極藩に代わって誕生院は「本末論争」を再度訴える
⑧しかし、金光院の「再発防止策」によって京極藩は善通寺の訴えを認めなかった。

こうして見てみると、改めて感じるのは善通寺の金光院への「怨念」ともいえる想いです。これがどうして生まれたのか。それは以前にもお話ししたように、金光院の成り上がりともいえるサクセスストーリーにあったと私は思っています。

参考文献
       善通寺誕生院と金毘羅金光院の本末争い 丸亀市史957P

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現在の金刀比羅宮は、大物主命を主祭神としています。しかし、明治の神仏分離までは金毘羅大権現が祭神でした。それではこの神社に祀られていた金毘羅大権現とは、どんな姿だったのかのでしょうか。金比羅については次のように云われます。
「サンスクリット語のクンビーラの音写で、ガンジス河に棲むワニを神格化した神とされる。この神は、仏教にとり入れられて、仏教の守護神で、薬師十二神将のひとり金毘羅夜叉大将となった。また金毘羅は、インドの霊鷲山の鬼神とも、象頭山に宮殿をかまえて住む神ともいわれる」
つまり、もともとはインドではヒンズーの神様で、それが仏教守護神として薬師十二神将のメンバーの一員となって日本にやってきたものと説明されてきました。
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それでは、金毘羅大将は十二神将のメンバーとしては、どこにいるのでしょうか? 
最も古い薬師十二神将であると言われる薬師寺のお薬師さんを守る十二神将を見てみるとお薬師さんの左手の一番奥にいらっしゃいます。彼の本地仏は弥勒菩薩です。インドでは、彼の家は「象頭山」とされるので、讃岐の大麻山と呼ばれていた山も近世以後は象頭山と呼ばれるようになります。

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確認しておくと以下のようになります。
 クンピーラ = 薬師十二神将の金毘羅(こんぴら・くびら)= 象頭山にある宮殿に住む
 
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十二神将の金比羅(クビラ)大将

しかし、こんぴらさんが祀っていたのは、この金比羅大将とは別物だったようです。松尾寺の本堂の観音堂の後に金比羅堂が戦国末期に、修験者達によって建立されます。
金比羅堂に祀られていた金毘羅大権現像はどんな姿だったのでしょうか?
江戸時代には、金毘羅を拝むことのできませんでした。しかし、特別に許された人には開帳されていたようで、その記録が残っています。
  『塩尻』の著者天野信景は、次のように記します。
金毘羅は薬師十二神将のうちのか宮毘羅(くびら)大将とされるが、現実に存在する金毘羅大権現像は、
薬師十二神将の像と甚だ異なりとかや」「座して三尺余、僧形なり。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所戴の頭巾を蒙り、手に羽団を取る」
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  天和二年(1682)岡西惟中の『一時随筆』の中で
「形像は巾を戴き、左に数珠、右に檜扇を持玉ふ也、巾は五智の宝冠に比し、数珠は縛の縄、扇は利剣也、本地は不動明王とぞ、二人の脇士有、これ伎楽、伎芸といふ也、これ則金伽羅と勢咤伽、権現の自作也」、
  延享年間に増田休意は
「頭上戴勝、五智宝冠也、(中略)
左手持二念珠・縛索也、右手執二笏子一利剣也、本地不動明王之応化、金剛手菩薩之化現也、左右廼名ご伎楽伎芸・金伽羅制叱迦也」、
 
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金光院が配布していた金毘羅大権現
幕末頃金毘羅当局者の編んだ『象頭山志調中之能書』のうち「権現之儀形之事」は
「優婆塞形也、但今時之山伏のことく持物者、左之手二念珠右之手二檜扇を持し給ふ、左手之念珠ハ索、右之手之檜扇ハ剣卜申習し候、権現御本地ハ不動明王也、権現之左右二両児有、伎楽伎芸と云也、伎楽ハ今伽羅童子伎芸ハ制叱迦童子と申伝候也、権現自木像を彫み給ふと云々、今内陣の神肺是也」
と、それぞれに金毘羅大権現像を記録しています。これらの史料から分かることはは金毘羅大権現の像は、十二神将の金比羅神とはまったくちがう姿だったことです。その具体的な姿は
①頭巾を被り
②左手に念珠、
③右手に扇もしくは笏を持ち、
④伎楽・伎芸の両脇士を従える
という共通点があったことを記録しています。ここからは江戸時代金比羅山に祀られていた金毘羅大権現像は「今の修験者」「今時之山伏のごと」き姿だったのです。それは役行者像を思い描かせる姿です。

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松尾寺に伝わる金毘羅大権現 
これを裏付けるように『不動霊応記』では
「金毘羅大権現ノ尊像ハ、苦行ノ仙人ノ形ナリ、頭二冠アリ、右ノ手二笏ヲ持シ、左ノ手二数珠ヲ持ス、ロノ髪長ウシテ、尺二余レリ、両ノ足二ハワラヂヲ著ケ、頗る役行者に類セリ
といった感想が記されています。金毘羅大権現像を見た人が「役行者像とよく似ている」と思っていたことは注目されます。
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  記録に残された金毘羅大権現像について、もう少し具体的に見てみましょう。
①頭巾は五智宝冠に、
②左手の念珠は縛索に、
③右手の扇または笏は利剣に、
④伎楽・伎芸の両脇士は金伽羅・制叱迦の二童子
以上から姿をイメージすると、不動明王とも言えます。確かに金毘羅大権現の本地仏は不動明王とされますので納得がいきます。しかし、役行者像に付属する前鬼・後鬼についてもこれを衿伽羅・制叱迦の二童子とする解釈もあるようです。どちらにしても「役行者と不動明王」の姿はよく似ているのです。
 江戸時代に大坂の金毘羅で最も人気を集めた法善寺でした。
その鎮守堂再建の際に、「これは金毘羅堂の新規建立ではないのか」と、讃岐の金毘羅本社よりクレームがつきます。いわゆる「偽開帳」にあたるのではないかと言うのです。その時の法善寺の返答は
「当寺鎮守ハ愛染明王二而御座候得共、役行者と不動明王を古来より金毘羅と申伝、右三尊ヲ鎮守と勧請いたし来候」
とその由緒を述べ
「金毘羅新キ建立なと申義決而鉦之御事二候」
と申し開きを行なっています。つまり、金毘羅大権現像と姿が似ている役行者像、金毘羅大権現の本地仏とされた不動明王像の二体を法善寺では金毘羅大権現と称していたのです。

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 これ以外にも役行者像を金毘羅大権現像と偽る贋開帳が頻繁に起きます。讃岐本社の金毘羅大権現像自体も、役行者像そのものではなかったかと思わせるぐらい似ていたことがうかがえます。ただ、琴平の金毘羅さんには金毘羅大権現以外に、役行者を祀る役行者堂が別にあったようなので、金毘羅大権現イコール役行者と考えるのは、少し気が早いようです。しかし、役行者堂についても『古老伝旧記』では
役行者堂 昔金毘羅古堂也 元和九年宥眼法印新殿出来、古堂行者に引札い」
と記しています。かつては「役行者堂は金毘羅の古堂」だったというのです。これも注目しておきたいポイントです。
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新羅明神
 この他にも金毘羅大権現の正体を新羅明神に求める研究者もいます。
確かにその姿はよく似ています。役行者は新羅大明神から作り出されたというのです。そうすると次のような進化プロセスが描けます。
新羅の弥勒信仰 → 新羅大明神 → 役行者 → 金毘羅大権現・蔵王権現
そして、新羅大明神には讃岐・和気氏出身の円珍の影がつきまといます。今も和気氏の氏寺であったとされる金蔵寺には新羅神社が祀られています。和気氏に伝わる新羅大明神の発展型が金毘羅大権現であるという仮説もありそうですが、今は置いておきましょう。
1蔵王権現
このように役行者像に似ている金毘羅大権現像を祀る象頭山ですが、この山は役行者開山との伝承を持ちます。弥生時代から霊山であったようで、中世には山岳信仰で栄えた修験道の行場となります。そのため戦国時代末期の初期の金光院別当は、すべて修験者出身です。

 長宗我部元親に従軍して土佐からやって来て、金光院別当として讃岐における宗教政策を押し進めたのが土佐出身の修験者宥厳です。彼は土佐郡占領下での実績を買われて、長宗我部軍が撤退した後も別当を引き続いて務めます。そして、松尾寺や三十番社との権力闘争を勝ち抜いて行きます。それを支えたの弟弟子に当たる宥盛です。彼は、生駒家と交渉を担当し寄進領を確実に増やすなどの実務能力に長けていたばかりでなく、修験者としても名声が高く、数多くの弟子達を育て各地に金毘羅大権現の種を飛ばすのです。その彼が死期を悟り、自らの姿を木像に刻んだ時に
入天狗道沙門金剛坊(宥盛)形像、当山中興権大僧都法印宥盛
と彫り込んだと伝えられます。この天狗道に入った金剛坊の木像には、後にいろいろな尾ひれが付けられていきます。例えば、生きながら天狗界に入ったと伝承で有名な崇徳上皇の怨霊が、死去の翌年、永万元年(1165)に、その廟所である白峰から金毘羅に勧請されたとの伝承が作られます。そして金毘羅=崇徳院との解釈が広まっていくのです。それでなくとも修験の山は天狗信仰と結びつきやすいのに、それが一層強列なイメージとなって金毘羅には定着します。「天狗のイラスト」が入った参詣道中案内図が作成され、天狗の面を背負った金毘羅道者が全国各地から金毘羅を目指すのも、このあたりに原因が求められそうなことは以前お話ししたとおりです。
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 もう一度、こんぴらさんの本堂に祀られていた金毘羅大権現像について見てみましょう。
江戸の初めに四国霊場が戦乱から復興していない承応二年(1653)に91日間にわたって四国八十ハケ所を巡り歩いた京都・智積院の澄禅大徳については以前に紹介しました。彼の『四国遍路日記』には、金毘羅に立ち寄り、本尊を拝んだ記録があります。
「金毘羅二至ル。(中略)
坂ヲ上テ中門在四天王ヲ安置ス、傍二鐘楼在、門ノ中二役行者ノ堂有リ、坂ノ上二正観音堂在り 是本堂也、九間四面 其奥二金毘羅大権現ノ社在リ。権現ノ在世ノ昔此山ヲ開キ玉テ 吾寿像ヲ作り此社壇二安置シ 其後入定シ玉フト云、廟窟ノ跡トテ小山在、人跡ヲ絶ツ。寺主ノ上人予力為二開帳セラル。扨、尊躰ハ法衣長頭襟ニテ?ヲ持シ玉リ。左右二不動 毘沙門ノ像在リ」
ここには、観音堂が本堂で、その奥に金比羅堂があったことが記されます。そして金光院住職宥典が特別に開帳してくれ、金毘羅大権現像を拝することができたと書き留めています。ここで注目したいのは2点です。ひとつは
「権現ノ在世ノ昔 此山ヲ開キ玉テ 吾寿像ヲ作り 此社壇二安置シ 其後入定シ玉フ」
とあることです。つまり安置されている金毘羅大権現像は、この山を開いた人物が自分の姿を掘ったものであると説明されているのです。
 2点目は金毘羅大権現の左右には「不動・毘沙門」の二躰が祀られていたことです。
つまり、金毘羅堂には金毘羅大権現と不動明王・毘沙門天が三点セットで祀られていたのです。そして、金毘羅大権現像は金毘羅山を開いた人物が自らの姿を掘ったものであると言い伝えられていたことが分かります。ここまで来ると、それは誰かと問われると「宥盛」でしょう。
さらに『古老伝旧記』は金光院別当の宥盛(金剛坊)のことを、次のように記します。
宥盛 慶長十八葵丑年正月六日、遷化と云、井上氏と申伝る
慶長十八年より正保二年迄間三十三年、真言僧両袈裟修験号金剛坊と、大峰修行も有之
常に帯刀也。金剛坊御影修験之像にて、観音堂裏堂に有之也、高野同断、於当山も熊野山権現・愛岩山権現南之山へ勧請有之、則柴燈護摩執行有之也
 ここには金剛坊の御影修験之像が観音堂裏堂(金毘羅堂)に安置されていると記されています。以上から金毘羅大権現として祀られていた修験者の姿をした木像は、金毘羅別当の宥盛であったと私は考えています。それをまとめると次のようになります
①金光院の修験者達は、その始祖・宥盛の「祖霊信仰」をはじめた。
②その信仰対象は宥盛が自ら彫った宥盛像であった。
③この像が金毘羅大権現像として金毘羅堂に安置された。
④その脇士として不動明王と毘沙門天が置かれた
その後、生駒家や松平家からの保護を受けるようになり「金比羅」とは何者かと問われた際の「想定問答集」が必要となり、十二神将の金毘羅との混淆が進められたというのが現在の私の「仮説」です。
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神仏分離で金毘羅大権現や仏達は、明治以後はこの山ではいられなくなりました多くの仏像が壊され焼かれたりもしました。
金毘羅堂にあった金毘羅大権現と不動明王・毘沙門天の三仏トリオは、どうなったのでしょうか。
金剛坊宥盛は、現在は祭神として奥社に祀られています。その自作の木像も奥社に密かに祀られているのかもしれません。
それでは脇士の不動明王・毘沙門天はどうなったのでしょうか。この仏たちは数奇な運命を経て、現在は、岡山の西大寺鎮守堂に「亡命」し安置されています。これについては別の機会で触れましたので詳しくはそちらをご覧ください。
img003金毘羅大権現 尾張箸蔵寺
金比羅さんから亡命した西大寺の「金毘羅大権現」(不動明王)
現在の金刀比羅宮は、大物主命を主祭神としています。
大物主命は、奈良県桜井市の大神神社(通称、三輪明神)の祭神として有名で、出雲大社の祭神・大国主命の別名とされています。明治になって、大物主命にとって代わられたのは所以を、どんな風に現在の金比羅さんは、説明しているのでしょうか。

金刀比羅宮 大物主尊肖像 崇徳天皇 M35
   天台僧顕真が「山家要略記』に智証大師円珍の『顕密内証義』を引いて、
「伝聞、日吉山王者西天霊山地主明神即金毘羅神也、随二乗妙法之東漸 顕三国応化之霊神」
と、「比叡山・日吉山の地主神は金比羅神」であると記します、
これを受けた神学者の古田兼倶は『神道大意』に次のように記します。
「釈尊ハ天地ノ為二十二神ヲ祭、仏法ノ為二八十神ヲ祭り、伽藍ノ為二十八神ヲ祭リ、霊山ノ鎮守二金毘羅神ヲ祭ル、則十二神ノ内也、此金毘羅神ハ日本三輪大明神也卜伝教大師帰朝ノ記文二被い載タリ、他国猶如也、何況ヤ吾神国於哉」
と最澄が延暦七年(七八八)比叡山延暦寺を建立する際、その鎮守として奉斎した地主神・日吉大社西本宮の祭神大物主命が金毘羅神だと位置づけます。
  そしてこうした見解は、さらに平田篤胤に受け継がれていきます。「玉欅』の中に
「彼象頭山と云ふは……元琴平と云ひて、大物主を祭れりしを仏書の金毘羅神と云ふに形勢感応似たる故に、混合して金毘羅と改めたる由……此は比叡山に大宮とて三輪の大物主神を祭りて在りけるに彼金毘羅神を混合せること山家要略記に見えたるに倣へるにや、然ればこそ金光院の伝書にも、出雲大社。大和、三輪、日吉、大宮の祭神と同じと云えり」
 と記します。平田篤胤の明治以後の神道における影響力は大きく、
「象頭山は元々は「琴平」といって大物主を奉っていた。象頭山は元々は大物主命を祀っていたが、中世仏教が盛んになるにつれて、その性格が似ているため金毘羅と称するようになった」
という彼の主張は神仏分離の際には大きな影響力を発揮します。金毘羅大権現が「琴平神社」と改められるのもこの書の影響が大きいようです。   しかし、研究者は、金毘羅以前に大物主が祀られていた史料的証拠は一切ないと云います。
むしろ神道家たちが金毘羅神に大物主を重ねあわせる以前は、象頭山には大物主と関係なく金毘羅神が鎮守として祀られていたのは見てきたとおりです。それを、神道家が逆に『山家要略記』等を根拠に金毘羅神とは実は大物主であったのだと、金毘羅=大物主同体説を主張してきたと研究者は考えているようですようです。

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