瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金毘羅大権現繁盛記

 

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  金毘羅船々
  追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ
  廻れば四国は
  讃州那珂郡象頭山 金毘羅大権現
  一度廻れば

この歌が生まれたのは、大阪と地元のこんぴらさんのどちらかはっきりとしないようです。資料的にたどれるのは金毘羅説です。しかし、各地から金毘羅参詣客が集い、そして舟に乗って一路丸亀に向け旅立ってゆく金毘羅船の船頭が歌ったという話には、つい納得してしまいます。
しかし、実際には
   追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ
とは船は進まなかったようです。
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西国巡礼者が金比羅詣コースとして利用した高砂~丸亀の記録には、
「三月一日船中泊り、翌二日こき行中候得者、昼ハッ時分より風強く波高く船中不残船によひ、いやはや難渋仕申候、漸四ッ時風静二罷成候而漸人心地二罷成よみかへりたる計也」

「此時風浪悪しくして廿一日七ッ時二船二乗、廿四日七ッ時二丸亀の岸二上りて、三夜三日之内船中二おり一同甚夕難渋仕」
といった記述がみられます。
さらには、高砂から乗船しながら
「四日ハッ時頃迄殊之外逆風二付、牛まど村江舟右上り」
と、
逆風のために船が進まず、途中の牛窓で舟をおりて陸路を下村まで行き、そこから丸亀へ再び海を渡ったこともあったようです。この際に
「四百八拾文舟銭。剰返請取。金ひら参詣ニハ決而舟二のるべからず
と船賃の残額も返してくれなかったようで大いに憤慨しています。
追い風に風を受けてしゅらシュシュであって、向かい風にはどうしようもなかったようです。
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大坂から乗船したケースも見ておきましょう。
道頓堀の大和屋弥三郎から乗船した金比羅船の場合です。
「六日朝南風にて出帆できず、是より舟を上り、大和屋迄舟賃を取返しに行
と道中記に記されています。大阪湾から南風が吹かれたのでは、船は出せません。船賃を取り返し、陸路を進む以外になく、備前片上
から丸亀に渡っています。瀬戸内海でも、いったん風が出て海が荒れれば、船になれない人たちにとっては生きた心地がしなかったようです。
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陸路中心の当時の旅において、金比羅船は「瀬戸内海クルージング」が経験できる金毘羅参詣の目玉だったようですが、楽な反面「危険」は常に感じていたようです。少し大げさに言うと、危険きわまりない舟旅を無事終えて金毘羅参詣を果たせたのだという思いが、航海守護の神としての金毘羅信仰をより深くさせたのかもしれません。
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 金毘羅舟が着く讃岐・丸亀港の近くに玉積神社(玉積社)が鎮座します。この神社は
「天保年間新堀堪甫築造の際の剰土を盛りたる所に丸亀藩大坂蔵屋敷に祀りありし神社を奉遷した」
と伝わります。『讃州丸亀平山海上永代常夜燈講』という表題を持つ寄付募集帳には、
「御加入の御方様御姓名相印し置き、家運長久の祈願、丹誠を抽で、月々丸亀祈祷所に於て執行仕り候間、彼地御参詣の節は、私共方へ御出で下さるべく候。右御祈禧所へ御案内仕り、御札守差し申すべく候」
とあって、この神社が「丸亀祈祷所」と呼ばれていたことが分かります。
この玉積社は、なぜ丸亀港の直ぐ近くに鎮座するのでしょうか?
それは、金毘羅詣での参詣者が無事丸亀に上陸できたことを感謝し、そして金毘羅参詣を終えた人々が再び乗船するに際して舟旅の安全を祈る、そんな役割を担っていたのかもしれません。同じ役割を持った神社が大阪にもあります。
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 今は韓国や中国からやってくる観光客にとって人気NO1の大坂道頓堀の近くには法善寺があります。狭い法善寺横町を抜けていくと現れるこのお寺には今でも金毘羅が祀られています。
江戸時代に法善寺の鎮守堂再建の際に「これは金毘羅堂の新規建立ではないのか」と、讃岐の金毘羅本社よりクレームがつけられています。金毘羅大権現の「偽開帳」にあたるのではないかと言うのです。その時の法善寺の返答は
「当寺鎮守ハ愛染明王二而御座候得共、役行者と不動明王を古来より金毘羅と申伝、右三尊ヲ鎮守と勧請いたし来候」
とその由緒を述べ
「金毘羅新キ建立なと申義決而鉦之御事二候」
と申し開きを行なっています。つまり、金毘羅大権現像と姿が似ている役行者像、金毘羅大権現の本地仏とされた不動明王像の二体を法善寺では金毘羅大権現と称していたのです。どちらにしても、法善寺が金毘羅神を祀っていたのは間違いないようです。
  それではなぜ法善寺が金毘羅を祀っていたのでしょうか?
19世紀初頭に人気作家・十返舎一九が文化七年(1810)に出版した道中膝栗毛シリーズが『金毘羅参詣続膝栗毛』です。ここでは主人公の弥次郎兵衛・北八は、伊勢参宮を終えて大坂までやってきて、長町の宿・分銅河内屋に逗留して、そこからほど近い道頓堀で丸亀行の船に乗っています。
 道中膝栗毛シリーズは、旅行案内的な要素もあったので当時の最も一般的な旅行ルートが使われていますから、この時代の金毘羅参詣客の多くは、大坂からの金毘羅舟を利用したようです。十返舎一九は『金毘羅参詣続膝栗毛』の中で、弥次・北を道頓堀から船出させています。
しかし、その冒頭には次のような但書を書き加えています。
「此書には旅宿長町の最寄なるゆへ道頓堀より乗船のことを記すといへども金毘羅船の出所は爰のみに非ず大川筋西横堀長堀両川口等所々に見へたり」
つまり、もともとの船場は大川筋の淀屋橋付近だったのが、弥次・北が利用した時代には、金毘羅舟の乗船場はから道頓堀・長堀の方へ移動していたようです。その後の記録を見ると「讃州金毘羅出船所」や「金ひらふね毎日出し申候」等と書かれた金毘羅舟の出船所をアピールする旅館や船宿は、はるかに道頓堀の方が多くなっています。
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法善寺の金比羅堂の大祭
   つまり法善寺のある道頓堀は金毘羅船の発着所に近かったのです。丸亀港の玉積社と同じように金毘羅船に乗る前や、船から下りた際には「航海無事」の祈願やお礼をするために、法善寺に金比羅堂が建立されたと研究者は考えているようです。いずれにせよ、法善寺の金毘羅が讃岐へ向かう旅人達だけでなく、多くの大坂市民の信仰をうけていたこと間違いありません。

金毘羅船 苫船
金毘羅参詣続膝栗毛に描かれた金比羅船
江戸の大名屋敷に祀られた鎮守が流行神化していきます
高松松平家や丸亀京極家は江戸屋敷に金毘羅を祀っていました。これが江戸における金毘羅信仰の発火点になったというのが現在の定説のようです。高松藩や丸亀藩の屋敷では、毎月十日金毘羅の縁日に裏門を開放して一般庶民の参詣を許し、縁日以外の日には裏門に賽銭箱を置いて、人々はそこから願掛けを行なったようです。このような江戸庶民の金毘羅信仰の高まりが、丸亀の新堀湛甫(新港)を「江戸講」という民間資金の導入手法で成功させることにつながったと云えます。
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 それでは大坂の場合はどうでしょうか?
   江戸時代の大坂の祭礼行事一覧で例えば6月の欄を見てみると次のような祭礼が並びます
「宇和じま御屋しき祭」(六月十一日)
「出雲御屋しき祭」(六月十四日)
「なべしま御屋しき祭」六月十五日)
中国御屋しき祭」(六月十五日)、
「阿波御屋しき祭」(六月十六日)
「筑後御やしき祭」(六月十八日)
「明石御やしきご(六月十八日)、
「米子御やしき祭」(七月十九日)
ここからは江戸と同じように、大坂でも各藩蔵屋敷に祀られていた鎮守神が祭日には、庶民に開放されていたことが分かります。
さて10月の蘭を見てみると「千日ほうぜんじ」をあげたあとには、一つ置いて「丸亀御屋しき」・「高松御屋しき」と見えます。『摂津名所図会大成』には、 
金毘羅祠 同東丸亀御くらやしきにあり 
     毎月九日十日諸人群参してすこぶる賑わし
金毘羅祠 常安裏町高松御くらやしき二あり 
     霊験いちじるしきとて晴雨を論ぜず詣大常に間断なし殊に毎月九口十日ハ群参なすゆへ此辺より常安町どふりに夜店おびたゝしく出て至つてにぎわし又例年十月十日ハ神事相撲あり
とあります。ここからは江戸だけでなく、大坂でも蔵屋敷に祀られた金毘羅を毎月の縁日に庶民に開放することで金毘羅信仰がひろまっていたことがうかがえます。しかし、蔵屋敷に祀られた金毘羅は大名のものであり、縁日以外は庶民に開放されませんでした。
ところが、金毘羅信仰の高まると、庶民達はいつでも参拝できる金毘羅を自分たちの力で勧請します。法善寺の金毘羅もその一つと考えられます。『浪華百事談』には、「持明院金毘羅祠」について、次のように記されています。
「生国魂神社大鳥居の西の筋の角に、持明院といふ真言宗の寺あり、其寺内に金比羅の祠あり。其神体は京都御室仁和寺宮より、当院へ御寄附なりしを、鎮守とせしにて今もあり。昔は詣人多き社にて、上の金比羅と称す。当社をかく云へるは、法善寺の内の金比羅を、下の金比羅といひ、高津社の鳥居前にある寺院に祭るを、中の金比羅といひ、此を上の社といひて、昔は毎年十月十日の会式の時、衆人必らず三所へ参詣せしとぞ。余が若年の時も、三所へ詣る人多く、高津鳥居前より此辺大ひに賑はしき事なり。今は参詣人少き社なり」
この史料は大坂には、
上の金毘羅 生玉持明院
中の金毘羅 高津報恩院
下の金毘羅 法善寺
とそれぞれの寺院の中に勧進された金毘羅が上・中・下とならび称されて大坂市中の三大金毘羅として崇敬されていたことを教えてくれます。このような金毘羅信仰の高まりを背景に、金比羅講が組織され、多くの寄進物や石造物がこんぴらさんにもたらされることになるようです。「信仰心信者集団の中で磨かれ、高められていく」という言葉に納得します。

参考文献 北川央 近世金比羅信仰の展開

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「象頭山祭礼図屏風」に描かれた遍路達が物語るものは?
 「象頭山祭礼図屏風」は、十月十日の金毘羅大会式の当日を描いた六曲一双の大きな屏風です。神前に出仕する上頭・下頭の行列が、参詣客の詰めかけた境内の諸堂、芝居・見世物等で賑わう町方の様子とともに描かれています。元禄年間の17世紀末に描かれたもので、文献の乏しい時代の絵画史料としては、かけがえのないものです。研究者によると、この中に遍路姿の参拝客が合計で10人描かれているといいます。
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 戦国時代の荒廃からまだ立ち直っていない承応二年(1653)に91日間にわたって四国八十ハケ所を巡り歩いた京都・智積院の澄禅大徳が綴った『四国遍路日記』には、金毘羅に立ち寄り、本尊を拝んだ記録があります。
 それから約30年後の元禄二年(1689)版行の『四国遍礼霊場記』には
「金毘羅は順礼の数にあらずといへども、当州(讃岐)の壮観、名望の霊区なれば、遍礼の人、当山に往詣せずといふ事なし
とあります。ここからも金比羅詣でにやってきた人たちが、善通寺や弥谷寺・海岸寺の「七箇所参り」=「ミニ版の四国巡礼」を行っていたように、遍路たちも金毘羅大権現にお参りに来ていたことが分かります。元禄年間に、金比羅さんの大祭に四国遍路の姿が描かれていても不思議ではないようです。今でも、金比羅さんでは歩き遍路の姿を時々見かけます。

大祭5
西国巡礼者は金毘羅大権現にもお参りしていた
 四国遍路が西国巡礼の影響をうけて笈摺を着用することになったのもこの頃のようですから、「象頭山祭礼図屏風」に四国八十ハケ所を巡拝する遍路が描かれていても不思議ではないようです。
 さて、西国巡礼者達がその巡礼の途中で金毘羅に立ち寄るようになるのは19世紀初頭前後からのようです。そして金毘羅参詣が西国巡礼中の一つのコースとして定番化します。西国巡礼の途中で、足を伸ばして四国に渡り金毘羅にも参っていくようになるのです。
IMG_8108象頭山遠望
江戸時代の巡礼者達は、札所から札所へと番付順に忠実に巡礼を続けるだけでなく、危険を回避するためにたとえ番付が逆になろうとも迂回をしたり、巡礼途中で高野山等の有名な寺社へ立ち寄ったりします。さらには、大坂市中で芝居見物して長逗留する人たちまでいました。私たちが考えるようなストイックな遍路姿とは異なる、非常に生き生きとした貪欲な巡礼者像が見えてきます。
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 東国からやってきた伊勢・西国巡礼の社寺参詣ルートは?
①「伊勢 十 西国巡礼ルート」
往路東海道を伊勢神宮に向かい、一番青岸渡寺より順次西国三十三所霊場を巡り、中山道を復路とする
②「伊勢参宮モデルルート」
往路東海道を伊勢神宮に向かい、伊勢より奈良・大坂・京都の社寺を巡り、中山道を復路とする
の二つが基本コースだったようです。これに次のようなオプションルートが加えられます。
③金毘羅参詣を加えた「普及型」、
④安芸の宮島、岩国の錦帯橋見物を加えた「拡張型」
  ここからは東国からの参詣旅行者が伊勢神宮や西国札所、あるいは高野山・金毘羅・善光寺等の有名諸社寺を一つの巨大ルートとして旅していた分かります。これらのルートの中に金毘羅や四国遍路も入っていたのです。
z金毘羅大権現参拝絵図 航海図

西国巡礼者の道中記から金毘羅参詣ルートを見てみると
9割以上が金毘羅までやってきているようです。西国巡礼者の金比羅詣でのコースは、播磨の高砂の船宿の用意した金比羅船で丸亀へ渡り、丸亀からは丸亀街道を金毘羅へと向かいます。その場合も金毘羅参詣だけ済まして四国をあとにしたのはわずかです。多くは空海の生誕地で四国霊場の聖地善通寺や弥谷寺をも併せて参拝し再び丸亀に戻っています。
13572十返舎一九 滑稽本 絵入 ■金毘羅参詣 続膝栗毛

以前お話しした十返舎一九の弥次喜多コンビの歩いたコースです。これは「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷寺道案内図」と題された道中案内図が何種類も残っていることとからも裏付けできます。
 
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喩伽山蓮台寺と金毘羅大権現の両参り
 丸亀に戻った巡礼者達は、再び船に乗りこみます。
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向かう港は、児島半島の下津井・田ノロや牛窓・赤穂、そして室津が多かったようです。この中で特に多いのが児島半島へ渡っている西国巡礼者が多いのです。児島半島に彼らを引きつけるものがあったからです。それが楡伽山蓮台寺でした。金毘羅に参った西国巡礼者の半分は、行きか帰りかいずれかに喩伽山に参詣しています。

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喩伽山蓮台寺は、心流修験と称された修験道本山派内の有力集団が、その本拠児島半島に勧請した熊野三山のうち那習山に比定された寺院で、ここも金毘羅さんと同じく修験者達のメッカでした。彼らは
金比羅参詣だけでは「片参り」に過ぎず、金毘羅参詣者は必ず楡伽山へも参詣せねば本当の功徳は得られぬ
と喧伝するようになります。
 この「両参り」用の道中案内図が「象頭山楡伽山両社参詣道名所旧跡絵図」です。こうした宣伝が効いたのか、多くの金毘羅参詣者か行きか帰りに必ず児島半島を通過して行くようになります。後には、これを見て阿波の箸蔵も「金比羅さんの奥社」を称え「両参り」を宣伝するようになり、参拝客を急増させることに成功したことは、以前にお話ししたとおりです。
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 東国からの西国三十三所巡礼者は、その巡礼の途中で四国に渡り金毘羅参詣を行っていたことをお話ししました。彼らは播磨の高砂からコースを外れて讃岐丸亀に渡った訳ですが、金比羅詣が終われば、西国巡礼ルートに戻らなければなりません。
それではどこで「巡礼ルートに復帰」したのでしょうか? 
それは西国巡礼で一番西の札所になる第二十七番札所書写山円教寺です。児島半島の蓮台寺に「両参り」を済ませた後には、姫路の書写山へと足を進めました。東国からの西国巡礼者のルートを確認しておくと次のようになります。
①東海道で伊勢神宮へ
②高野山へ
③西国巡礼ルート開始 
④高砂から丸亀へ金比羅船で金毘羅大権現へ
⑤善通寺七ケ寺巡礼
⑥丸亀から児島半島の蓮台寺へ
⑦山陽道を経て姫路・書写山へ
という回遊ルートを巡っていたようです。 
また、西国巡礼を行わずに金比羅詣でや四国遍路を行う人たちもいました。彼らのとったコースは以前紹介したように和歌山から阿波の撫養に渡り、金毘羅をめざしたようです。
紀州加田より金毘羅絵図1
どちらにしても、私たちが現在行っているひとつの目的地を目指す短期間旅行とは、スタイルがちがうのです。四国遍路にしても札所だけを訪れるのではなく周辺の神社仏閣を、貪欲に訪れていることが分かります。現在の「旅行」感覚で見ていると、見えてこないものがいっぱいあります。
参考文献 北川央 近世金比羅信仰の展開

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