瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金毘羅大権現金堂

金光院歴代院主
歴代の金毘羅大権現金光院の院主
第9代金光院別当の宥存は、明和8年(1771)に金堂建立を思い立ちます。
そこで丸亀の金毘羅屋敷の佐野久太夫に「金堂再建趣意書」を刊行させています。この趣意書には、次のように記します。
 一讃州金毘羅象頭山の儀ハ御存じの通り諸堂相揃い居り申し候処、就中、金堂殊の外小さク御座候二付き、大堂二御再興成られたくの旨承知仕り候、此の儀ハ高札の通り是まで諸勧進何方えも申し出ず候間、此の差障り二少しも相成らざる義二候、勝手次第為るべき旨御聞き届け相済み候、これに依り同士の面々申し談じ新た二講組を立てられ、別紙絵図の通り桁行き拾間五尺八寸、梁行八間壱尺弐寸、柱高サ四間弐尺二造り立て仕りたく候へ共、過分の義故講中迄自カユ及び難く候二付き、当卯ノ冬より未ノ歳迄五ヶ年の開二成就仕りたき念願二御座候、左の通りの銘の寄進物世話所と相極め候間、
  御志の御方ハ多少に限らず御寄付成さるべく候、金子百匹以上の物の土地え掛け札に記して置き申し候、以上以
   明和八辛卯年初冬吉日      
惣請込 讃州丸亀 八筝 久太夫
講元  讃州丸亀 津作地又右衛門
講元  讃州丸亀 藤四田 為之丞
講元  讃州大浜 辻与左右衛門
意訳変換しておくと
一 讃州金毘羅象頭山については、ご存じの通り諸堂が整備されていますが、ただ金堂だけは、ことのほか小規模です。つきましては、これを大堂に再興することを承知願えないでしょうか。許可いただければ来年には高札を掲げて、世間への通知をおこなう予定です。その際には、藩の差障りにならないようにします。金毘羅が勝手次第に行う事ですので、聞き届けいただければご迷惑はおかけしません。
 同士の者達で協議した所、二講組を立て、別紙絵図の通り桁行き拾間五尺八寸、梁行八間壱尺弐寸、柱高サ四間弐尺の金堂を建立する計画です。過分のことですので、当冬より5ヶ年の開講し、成就させる念願です。左の通りの寄進物と世話所を定めます。つきましては、御志の御方は多少に関わらず御寄付いただけるようお願いします。金子百匹以上の物の土地え掛け札に記して置き申し候、以上以
要約すると次のようになります。
①金毘羅は緒堂が整備されているが、金堂が小さいので大きく再建したい
②そのために金堂建立場所を選定し、建立通知の高札を掲げたい。
③予定規模は、桁行 拾間五尺八寸、梁行 八間壱尺弐寸、柱高 四間弐尺 の超大型であること
④資金は5年間の寄進講
しかし、これは金毘羅を直撃した大水害や疫病流行、また宥存の病気のために建立計画は延期・頓挫していまいます。
象頭山金毘羅大権現 金堂改築前
金堂再建前の薬師堂は、小さかった
宥存の没後に、金堂再建に乗り出すのが宥昌です。
文化3年(1806)、金光院別当宥昌は、先代別当の宥存の意志を継いで、薬師堂を廃して金堂建立の願書を提出します。宥昌は、実務を金毘羅の酒屋の秦半左衛門と多田屋香川治兵衛に当たらせ、金堂建立のための講を組織させます。しかし、宥昌は翌年5月2日に没します。金堂再建は遺言のような形で残ります。
代わって院主となった宥彦の代になって 金堂再建のために講は開かれますが、なかなか軌道に乗らなかったようです。彼の死後の文化9(1812)年の11月になって施主が決まり、普請小屋の場所の見分が行われています。その翌年1813年に、起工式を執り行うまでにこぎつけています。以後、建築用材などが順調に集まり始めます。各地で講が組織され奉納金も着実に増加します。しかし、入仏がおこなわれたのは弘化2(1845)年のことになります。約30年余におよぶ大プロジェクトで、その間に費やされた人数と金銭は膨大なものでした。この資金をどのようにして集めたのでしょうか。
 それがうかがえる史料を見ておきましょう。

「金毘羅山 金堂御用 槻荒木材直段積」
「金毘羅山 金堂御用 槻荒木材直段積」酒井家文書
阿波の酒井家に残る「金毘羅山 金堂御用 槻荒木材直段積」と題する摺り物は、募金集めの宣伝ビラで次のようなことが分かります。
① 末尾の「癸酉五月」とあるので、文化十(1813)年5月に発行されたものです。これは建立が本格始動した翌年にあたります。
② 発行者の「引請世話人中」とは、金堂の建築用材を調達した大坂の西村屋愛助らのこと
③  冒頭の「金毘羅山 金堂御用 槻荒木材直段積」は金堂建築使用の柱等木材の値段で以下の通り
④ 「本柱」長さ四間半、断面一尺八寸四方 代金三十五両
⑤ 「外柱」長さ三間  断面一尺六寸四方 代金 十二両




⑥「虹梁」長さ二間  幅二尺 厚さ一寸二 代金  十両
⑦ 隅搉    代金 二十両
⑧ 間搉    代金  三両

斗栱 枡形

⑨ 本枡形 (斗栱) 代金五両
⑩ 小枡形  代金三両八分

旭社 正面 唐扉
旭社の唐扉
⑪ 唐扉  代金二十両

旭社の銅瓦調査1
旭社銅瓦の調査

⑫ 銅瓦 代金銀三匁
この広告には、必要な部材を一つ一つ書き上げ、その金額が示されています。ここに挙げられているのは、目立つ部材のみが挙げられているようです。この広告を見た人たちは、どのくらいの金銭で、どこの部材が調えられるか、具体的な感触を得て、こんな風に思ったはずです。
「35両で大黒柱一本か、金刀比さんの本堂に自分の寄進した大黒柱が使われるというのは、有難いこと」と考え、金堂が自分の寄進で成就する姿を思い浮かべ、寄進に応じようとする富裕層も出てきたはずです。詳しい数値、目立つ部材という仕掛けを通して、寄進者の気持ちをその気になせる巧みな戦略です。どちらにしても、数多くの人達の寄進によって旭社が出来上がったことが感じられます。

  広告には、続いて「右に書き上げたほか(建立に必要な)品数が多くあるので、お志にまかせて御寄進ください。もっとも、御当山(金光院)から諸勧進の人は差し出しません」と記されています。つまり、引請世話人たちは、金光院からの援助とは別に、こうした摺り物を独自に作成して、木材購入に必要な金銭を集めたようです。
 こうした広告の成果を見ておきましょう。
天保三(1832)年には摂津国池田(大阪府池田市)の神酒講から本柱に必要な35両が奉納されています(『金毘羅庶民信仰資料集年表篇』金刀比羅宮社務所、 1988年)。本柱の35両とは、広告の摺物に書いてあった金額と一致します。摂津国は、引請世話人の西村屋の地元です。この広告が摂津国で流布して、それに応じた人達がいたことがうかがえます。その10年後の天保13(1834)年には西村屋が金堂用材の橡105本を秋田から廻送しています。

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         金刀比羅宮旭社(旧金堂)の柱に掘られた江戸の寄進者の名前

旭社正面の柱に彫られた江戸の寄進者の名前。先ほど見た広告によると「外柱(長さ三間・断面一尺六寸四方は、代金十二両」でした。その12両をこれらの人達で分割し寄進したことが考えられます。

 この摺り物は徳島県の酒井家に伝わったもので、今は徳島県立文書館蔵に酒井家文書として保管されています。
酒井家は、阿波国半田村(美馬郡つるぎ町)で運送業を営んだ町人で屋号は堺屋です。この摺り物を収集したのは、五代目武助のようです。武助は天保六年に亡くなり、金堂が完成した弘化二(1845)年には、六代目弥蔵が当主になっていました。金毘羅信者が多かった阿波国は、新浜(徳島市)の善蔵が金堂願主になっているので、金堂建設資金の募集拠点のひとつでもあったことがうかがえます。徳島繁栄講の講元である後藤民之助が360両を、また講中が畳料三貫五百目を寄進しています。

金毘羅参詣名所図会 旭社・二天門・観音堂
弘化二(1845)年に完成した金堂(旭社) 金毘羅参詣名所図会(1848年)

金堂寄進帖〜讃岐国
金毘羅大権現金堂への寄進名簿 丸亀や三豊の人々の名前が見える
こちらの寄進一覧には丸亀と三豊の人達の名前が並んでいます。奉納額は10両~20両です。名前を見ると丸亀の船頭中(船頭仲間)や福島湊の福島町の講も見えます。

金堂寄進帖〜武蔵国
武蔵国からの寄進帳

弘化二(1845)年、金毘羅では金堂入仏を祝して、2月から5月まで3ヶ月間に渡って開帳が行われました。
その間、堺屋(酒井)弥蔵は半田村から何度も金毘羅に参詣し、その模様を「弘化二年乙巳春中旅日記」(酒井家文書83)に次のように書き残しています。
2月1日
金堂御入仏の奉納物が内町から練り上るということで、おやま(遊女)たちが色々に持 え、三味線や太鼓で囃し練り歩いたのを面白く見物し、それから参詣をした
2月8日
参詣し、翌日の入仏式の当日には「参詣会式の事は中々筆に言われず、ここに略す」
3月11日 芝居見物
3月26日
内町南裏手からの出火に遭遇し、「金山寺町の小芝居が焼失、大芝居は無事であった、さてさて騒がしいこと」
4月7日 参詣
4月22日 母を伴い参詣。翌日に軽業見物
このように、弥蔵は足繁く阿波から金昆羅に足を運んでいます。おそらく自分や父親が寄進をした金堂が立派に成就したのを目の当たりにして、感無量だったのかもしれません。あるいは馴染みの芸子がいたのかもしれません。母に芝居や軽業も見せています。どちらにしても阿波の檀那衆を惹きつけるだけの娯楽と魅力が金比羅にはあったということでしょう。阿讃の峠を越えて、足繁く通っています。そういう意味では、金比羅は信仰の町であると同時に、歓楽・娯楽の町としての魅力にも溢れる街になっていたようです。巨大な金堂は、金毘羅の「集客モニュメント」としても機能していくことになります。

旭社正面 神社明細帳附図
完成した金毘羅大権現の金堂

以上を整理しておきます。
①初代髙松藩主松平頼重の保護を受けて、元禄期には金毘羅大権現の境内の整備は進んだ。
②18世紀後半になり、金比羅船を利用した参拝客が増えるに従って、さらなる集客力アップのための建造物モニュメントの必要性が出てきた。
③そこで1771年に、金堂建設計画を発表するが、数々の障害で着手には至らなかった。
④本格的な動きが開始されるのは1812年になってからで、講組織による全国的な資金集めが行われた。
⑤そこでは、金堂の建設資材の柱に値段を付けて寄進を募るという方法が採用された。
⑥こうして全国からの寄進で購入された柱には、寄進者の氏名が彫り込まれている。
⑦こうした幅広い寄進を行う事で、2万両という資金を40年掛かりで集め、金堂は完成した。

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旭社の「総六材木」 寄進者の名前が彫り込まれている
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

金刀比羅宮 旭社 氏子神饌【旭社→御本宮 編】
金刀比羅宮 旭社(旧金堂)

参考文献 徳島県酒井家文書にみる金刀比羅宮金堂建立の寄進  ことひら74
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まんのう町文化財協会の秋のフィールドワークで、金刀比羅宮の重要文化財の建物めぐりを行いました。別宮・本宮をめぐって、下りの石段を下りていきます。石段の途中から大きな建物が見えてきました。
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金刀比羅宮の旭社(旧金毘羅大権現の金堂)
逆光の中で建物が浮かび上がってくるように見えます。
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 金刀比羅宮 旭社 特徴は軒下の欅板に掘られた渦巻き文様
 ケヤキの大きな板一枚一枚に渦巻き文様が彫られています。この軒下の彫り物が、この金堂の特徴だそうです。組物も豪快です。

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金刀比羅宮 旭社の内部は空っぽです。太鼓がみえるだけです。

旭社は、神仏分離の前は何だったのでしょうか?

金毘羅参詣名所図会 旭社・二天門・観音堂
金毘羅参詣名所図会(1848年)  
金毘羅参詣名所図会は、金堂(旭社)について次のように記します。
金堂  観音坂の下、南の方にあり。境内中、第一の結構荘厳もっとも美麗なり。
本尊  薬師瑠璃光如来 知日証人師の御作
金毘羅参詣名所図会からは、次のような情報が読み取れます。
①観音堂の下の空間には巨大な「金堂」があった。
②金堂(旭社)の下には多宝塔があった。
③金堂は1845年に完成したばかりで、多宝塔横の参道は石段や玉垣が未整備で、燈籠もない。
④本尊が薬師如来像であった。

讃岐国名勝図会に描かれた金堂も見ておきましょう。

金堂・多宝塔・旭社・二天門 讃岐国名勝図会
讃岐国名勝図会の金毘羅大権現金堂(1853年)
金毘羅参詣名所図会の5年後に描かれた讃岐国名勝図会です。これを見ると金堂周辺整備が進み、石段や玉垣・燈籠なども石造物の整備が進んでいることが分かります。旭社は金毘羅大権現の金堂として、1845年に完成したことを押さえておきます。 

旭社正面 神社明細帳附図
金毘羅大権現金光院金堂(現旭社) 正面
金堂上梁式の誌には、次のように記します。
①文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね②弐万余の黄金(2万両)をあつめ
②今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①1806年の発願から1845の完成まで約40年がかりの建築工事だったこと
②建設資金は約2万両で勧進講で集めたこと
ちなみに、式では投げ餅が一日に7500、投銭が15貫文使われています。そのにぎわいがうかがえます。建立当時は中には本尊を初めとする多くの仏像が並び、周りの柱や壁には漆が塗られその上に金箔が施されたといいます。

旭社 神社明細帳附図
            金毘羅大権現金光院金堂(現旭社) 側面
 それではこの金堂には、どんな仏さまが本地仏として安置されていたのでしょうか?
松尾寺の本尊は、十一面観音だったので観音堂が本堂でした。それに対して、金堂に安置されたのは、金光院の本地仏である薬師如来像でした。そのため薬師堂とも呼ばれています。どうして薬師如来だったのかというと、次のように考えられていたようです。

金毘羅大権現の本地仏は薬師如来

1十二神将12金毘羅ou  
薬師十二神将

「金毘羅大権現の本地仏=薬師如来説」に対して、次のような熊野行者勧進説もあります。
山林寺院の中には熊野行者によって開かれた寺院が多く、熊野神宮の本地仏のひとつが薬師如来でした。そのため薬師如来を本尊とするところが多いとされます。後に薬師堂となる本地堂に薬師如来が安置されていたのは松尾寺の熊野行者や熊野信仰との結びつきを示すものと考える研究者もいます。このあたりは、今の私にはよく分かりません。

1 善通寺本尊2
善通寺東院金堂の本尊 薬師如来坐像
ちなみに象頭山周辺で薬師如来を金堂の本尊とするが善通寺東院です。東院金堂には、江戸時代になって勧進活動で得た資金で京都の仏師に発注した薬師さまがいらっしゃることは以前にお話ししました。金光院は善通寺をライバル視していて仲が悪かったので、善通寺金堂を意識していたはずです。「善通寺さんよりもよりも大きく高いものを!」と。しかし、どんな薬師さまが安置されていて、それが廃仏毀釈によって、どこに売却されたかは今の私には分かりません。

イメージ 2
金刀比羅宮 旭社(旧金堂)

 明治の廃仏毀釈で金堂はどうなったのでしょうか? 金刀比羅宮が県に提出した「金刀比羅宮神仏分離調書」を見てみましょう。

[境内仏堂]
 仏堂に於ては素より仏式の作法なりしが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃され、其建物は概ね境内神社の社殿に充当せらるヽと共に、仏式作法廃滅せり。
     (『中四国神仏分離史料』第九巻四国・中国編)
意訳すると
 仏堂は、もとから仏式作法であったが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃された。その建物は、境内神社の社殿に充当した。共に、仏式作法は廃滅した。

ここには境内仏堂の廃止と、その跡建物を利用した神社の整備・変更などを行なったことが報告されています。
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旭社の柱に掘られた江戸の寄進者の名前

金堂も旭社と名前を変え、祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大御神、天津神、国津神、八百万神 などを祀るようになります。しかし、今は空っぽに見えます。

旭社平面図 神社明細帳附図
旭社平面図
旭社(旧金堂)は、神仏分離後には神道の「教導説教場」として使用されるようになります。

旭社内部 天井 神道
現在の旭社内部の「素木の講壇」
明治の金刀比羅宮は、讃岐における神道の指導センターの役割を果たすようになります。そのため神道の教えを教導するための教習場となり、県下から神官が集まってきました。その時の講習会場として、この建物は使われるようになります。その際に、仏式に荘厳されていた天井や壁などから金箔がそぎ落され、素木とされたようです。記録には「明治6年6月19日 素木の講檀が竣成」とあります。
 しかし、神官による説法は僧侶に比べると面白くなく、教導効果を上げることが出来なかったようです。そのため明治15年(1882)には説教指導は取りやめられます。その時に講演に使われていた講檀も撤去されます。そして、明治29年(1896)1月に、社檀を取り除いて殿内に霊殿を新築し、現在に至っているようです。

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           旭社の扁額
この建物が完成したのが1845年のことで、180年前のことになります。近年南側の欅の軒下の松材が白蟻の被害を大きく受けていることが分かりました。そのため大改修が来年から始まるようです。金刀比羅宮のHPには次のような「旭社 令和の大改修プロジェクト御奉賛のお願い」が載せられています。
今般、二階の屋根材木に白蟻被害が確認され、一部の柱に圧壊も認められたことから、半解体による大規模な修理工事が必要となりました。
調査の結果、修理には、工事用道路、覆屋の建設、解体、修理、復元とさまざまな工程を18年に亘り進める必要があり、約50億円の経費が必要であることが分かりました。旭社は国の重要文化財に指定されておりますので、修理費の一部は国や地元自治体からの補助をいただく予定ですが、事業規模がこれまでになく大きく、「令和の大改修プロジェクト」として、旭社の建築時と同様、多くの方々から御奉賛をいただきながら、事業を確実に進めていきたいと考えております。
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           金刀比羅宮旭社 南面部 この軒下部が白蟻被害部分
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                      その拡大
渦巻きの掘られた檜板は被害を受けていませんが、その内部の松材が被害甚大だそうです。
完成から200年後の2045年頃まで改修工事が続くことになるようです。私が生きているうちには、改宗後の姿は見られないようです。大切なものを未来に残していく作業が、ここでも始まろうとしています。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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 金刀比羅宮 - Wikiwand
琴陵宥常
神仏分離令を受けて、若き院主宥常は金毘羅大権現が仏閣として存続できることを願い出るために明治元(1868)年4月に京都に上り、請願活動を開始します。しかし頼りにしていた、九条家自体が「神仏分離の推進母体」のような有様で、金毘羅大権現のままでの存続は難しいことを悟ります。そこで、宥常は寺院ではなく神社で立ってゆくという方針に転換するのです。
宥常(ゆうじょう)は,還俗し琴陵宥常(ひろつね)と改名します。彼が金毘羅大権現最後の住職となりました。

  神仏分離令をぐる金毘羅大権現の金光院別当宥常の動きを最初に年表で見ておきましょう。
明治元年(1868)
2月 新政府の神仏分離令通達
4月 金毘羅大権現の存続請願のために、宥常が都に上り、請願活動を開始
5月 宥常(ゆうじょう)は,還俗し琴陵宥常(ひろつね)と改名
5月 維新政府は宥常に、御一新基金御用(一万両)の調達命令
7月 金毘羅大権現の観音・本地・摩利支天・毘沙門・千体仏などの諸堂廃止決定
8月 弁事役所宛へ金刀比羅宮の勅裁神社化を申請
9月 東京行幸冥加として千両を献納。
   徳川家の朱印状十通を弁事役所へ返納。
   神祇伯家へ入門し、新道祭礼の修練開始
11月 春日神社富田光美について大和舞を伝習
    多備前守から俳優舞と音曲の相伝を受ける
12月 皇学所へ「大日本史」と「集古十種」を進献。
明治2(1869)年2月,宥常が古川躬行とともに帰讃。
ここからは、京都に上京した宥常が、監督庁に対して今後の関係の円滑化のために、貢納金や色々な品々を贈っていることが分かります。同時に神社として立っていくための祭礼儀式についても、自ら身につけようとしています。ただ、神道に素人の若い社務職と、還俗したばかりの元社僧スタッフでは、日々の神社運営はできません。そのために、迎えたのが白川家の故実家古川躬行です。彼は、宥常の帰讃に連れ立ってと金比羅にやってきたようです。
  月が改まった3月には,御本宮正面へ
 当社之義従天朝金刀比羅宮卜被為御改勅祭之神社被為仰付候事

という建札を立てています。実際に、金毘羅大権現から金刀比羅宮への「変身」が始まったのです。
  今回は、金毘羅さんの仏閣から神社への「変身」に、古川躬行が果たした役割を見ていきたいと思います。
 別の言い方をすると、神社として生きていくためのノウハウを、古川躬行がどのようにして金刀比羅宮に移植したかということです。仏閣から仏像・仏具が撤去するだけでは神仏分離は終わりません。仏教形式で行われていた祭礼や諸行事を神道化することが求められました。これは、書物だけでは習うことは出来ません。手取、足取り、口移しで習う種類のものです。明治政府が西洋文化・技術の移植のために、高い給領を支払って御雇外国人を招聘したように、金刀比羅宮も「お雇い京都人」を招く必要があったようです。
 そのために、京都滞在中の宥常が白羽の矢を立てたのが白川神祇伯家に仕える故実家の古川躬行でした。
古川躬行について、人物辞典では次のように記されています。
  没年:明治16.5.6(1883) 生年:文化7.5.25(1810.6.26)
幕末明治期の国学者,神官。号は汲古堂。江戸生まれ。黒川春村の『考古画譜』(日本画の遺作中心の総目録)を改訂編纂,『増補考古画譜』として完成したのは黒川真頼と躬行であり,その随所に「躬行曰」と記してその見識を示した。横笛,琵琶にも堪能であったという。明治6(1873)年枚岡神社(東大阪市)大宮司,8年内務省出仕。10年大神神社(桜井市)大宮司を経て,15年琴平神社(香川県)に神官教導のために呼ばれ,同地で没した。<著作>『散記』『喪儀略』『鳴弦原由』(白石良夫)
1古川

 古川躬行は、文化7年(1810)の江戸で生まれですので、明治維新を58歳で迎えていたことになります。別の人物辞典には
「幕末・維新期の国学者・神職で、早くから平田鉄胤に入門して国史・古典を修めるともに古美術(古き絵や古き絵詞)・雅楽にも造詣が深く、琵琶や龍笛も得意としていたようです。旧幕府時代には白川神祇伯家の関東執役を勤めており、通称を素平・将作・美濃守と称し、号を汲古堂と称した」

とあります。

1古川躬行

  彼が琴平にやってきたのは、先ほど見たように明治2年(1869)2月末のことです。
「扱記録門』二月二十八日条に、次のように記されています。

二月二十八日 此度大変革二付、御本社祭神替ヲ始、神式修行都而指図ヲ相請候人、於京師御筋合ヨリ御頼二依テ、白川家古実家古川躬行(みつら)ト申人来

意訳すると
二月二十八日 この度の大変革について、本社の祭神変更を始め、神式修行などの指示を受けるためにに招いた人である。京都の筋合からの話で、白川家古実家の古川躬行(みつら)という人がやってきた。

と記されています。宥常が1年近くの京都滞在から引き上げてくるのと、同行してやってきたようです。
さらに翌日の記録には次のように記されています。
            
2月29日夜、御本社金毘羅大権現、神道二御祭替修行、次諸堂、御守所等不残御改革に相成、御寺中(じちゅう)、法中、御伴僧、小僧辿御寺中へ相下ケ、禅門替りハ不取敢手代ノ者出仕、御守所小僧替りハ小間遣ノ者拍勤候也、当日ヨリ御守札、大小木札等都而御改二相成、以前之守ハ都而御廃止二成ル。
             (『金刀比羅宮史料』第九巻)
意訳しておくと
2月29日夜、本社金毘羅大権現の神道への改革のために、諸堂、守所など残らず改革されることになった。寺中(じちゅう)、法中、社僧や小坊主などは、すべて山下に下ろした。僧侶は使わずに手代が代わって出仕した。守所の小僧に代わって小間使いのものが勤めた。この日から御守札、大小木札等の全ては新しいものに改められて、以前のお守りは廃された。

とあります。着任翌日から改革に着手していることが分かります。社僧達が境内から追放されるという「現物教育」は、おおきなショックを山内の者達に与えたでしょう。
『禁他見』(部外秘)とある「琴陵光煕所蔵文書」の中には次のような記述もあります。
  明治二巳年二月二十九日夜
 御本宮神道二御祭替、魚味(ぎょみ)献シ、御祭典御報行被遊候事、附タリ、二月晦日、西京ヨリ宥常殿御帰社之事、右御祭替へ、古川躬行大人、神崎勝海奉仕ス。
  『金刀比羅宮史料』第八十五巻)
意訳すると
 明治2年2月29日夜  本宮の神道への御祭替に際して、魚味(ぎょみ=鯛? つまり生魚)が献じられ、祭典変革について神殿に報告した。二月晦日、京都より宥常殿がお帰りになり、御祭替については古川躬行と神崎勝海が奉仕することになった
                
 
全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 朝祭

社僧を山下に「追放」した後の夜、本殿神前には「魚味」が供えられています。それまでの「精進」をモットーとする仏閣からの転換であり、ある意味では神仏分離を象徴する典型的なアクションだったとも言えるようです。着任と同時に、具体的な改革が断行されたことが分かります。まさに、古川躬行の着任が金刀比羅宮の神式祭礼への改革スタート点だったようです。

 「金刀比羅宮神仏分離調書」にみる祭典の変革    
 明治政府は「神仏分離」に伴なう祭典行事や儀式作法の変革について、その変更点を調書として提出させています。
 金刀比羅宮は、どのような点を変革したと自己申告しているのでしょうか。「金刀比羅宮神仏分離調書」の中に記された変更点を見ていくことにします。
  〔本社〕意訳文
本社関係の祭礼行事については、神仏分離のための変遷は極めて少なかった。祭礼行事は、殆んどそのまま引き継がれた。ただし、これを行う方式や作法については、両部神道式を純然たる神道式に改めた。以前には両部神道式に、祝詞を奏し、和歌を頌し、中臣祓を唱へ、再拝拍手をなすなど神道の形式が多かったが、両部のために仏教形式の混入も少なくなかった。これらの神仏混淆の作法は、分離して純然たる神式に改めた。今金毘羅大権現の重要な祭礼行事に就いて、その変遷の概要を述べたい。
 
  祭礼行事に大きな変化はなかったとします。
しかし、10月10日の大祭神事は別で、大きな改変を伴うものになったようです
 大祭の変更については、倉敷県に出された明治三年十月の報告書には、次のように記されています。
 十月の大祀については、当年より次のように改めることになった。十日夕方に上、下頭人登山し、式後に神輿や頭人行列が、神事場の旅所向けて山を下る。到着後に、神事・倭舞を奉奏する。十日夜は御旅所に一泊、11日夕方上下頭人御旅所に相揃って式を済ませ、神輿が帰座する。御供が夜半のことになるが、御前(琴陵宥常)にも汐川行列の御供にも神輿の御供にもついていただき、11日まで御旅所に逗留し、神事の執行を行う。祝、禰宜、掛り役方などのいずれも10日から11日まで、御旅所へ詰める。
 本宮に待機し、9日夜の神事倭舞の助役舞人に加わり、旅所での十日夜倭舞にも参加する。
神人(五人百姓)の協力を得て、11日に神事が終われば、本宮から神璽を守護して丸亀に罷り越し、12日に帰社する。但し、駕龍、口入、両若党、草履取、提灯持四人、合羽龍壱荷の他に、警護人も連れ従わせる。神璽の先ヱ高張ニツ、町方下役人が下座を触れながら、街道を行く
 当社の十月十日、十一日の大祭について、先般の改革のため当年より金刀比羅宮宮神輿、頭人行列の変更点について、以上のように報告する。
以上、
 八月             金刀比羅宮社務
                琴 綾 宥 常 印
倉敷県御役所

 それまでの大祭行列は、観音堂と本宮の周辺で行われていたようで、境内を出ることはありませんでした。それが明治3年(1870)10月の大祭から神事場(御旅所)まで、パレードするようになります。そのために石淵に新たに神事場(じんじば)が整備されます。
神事場へのコースは、石段を下りて、内町から一の橋(鞘橋)を渡って、阿波街道を使っていたようです。後に、鞘橋が現在地に移されてからは通町をゆくようになります。山上の狭い空間で行われていた頭人行列が山下へ下りてきて、街道をパレードするようになった効果は大きかったようです。

金刀比羅宮最大の祭礼「例大祭」が齋行されました。 | イベントニュース | こんぴら へおいでまい | 古き良き文化の町ことひら 琴平町観光協会

 例えば内町に軒を並べる老舗の旅館外は、目の前を行列が通過するようになります。これはセールスポイントになります。大祭に合わせて全国から参拝にやってくる金毘羅講の信者には、何よりの楽しみとなります。参拝者を惹きつけるあらたな「観光資源」が生み出されたことになります。

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 境内の旧仏閣は、どのように「変革」されたのでしょうか
 「金刀比羅宮神仏分離調書」をもう一度見てみましょう。
[境内仏堂]
 仏堂に於ては素より仏式の作法なりしが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃され、其建物は概ね境内神社の社殿に充当せらるヽと共に、仏式作法廃滅せり。
     (『中四国神仏分離史料』第九巻四国・中国編)
意訳すると
 仏堂は、もとから仏式作法であったが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃された。その建物は、境内神社の社殿に充当した。共に、仏式作法は廃滅した。

ここからは、両部神道形式の祭典の改正・変更が行われたこと、境内仏堂の廃止とその跡建物を利用した神社の整備・変更などを行なったことがうかがえます。
  さて政府に出された「金刀比羅宮神仏分離調書」を見てきましたが、これを書いたのは誰でしょうか。候補者は次の3人です。
①琴綾宥常(維新時28歳)
②松岡調  (維新時38歳)
③古川躬行(維新時58歳)
山下家当主であった琴綾宥常の業績を大きく評価する立場からすると、彼が神道への改革を取り仕切ったという説が多いようです。しかし、私にはそうは思えないのです。まず、その年齢と経験です。それまで真言宗の社僧として成長してきた宥常にとって、神道平田派の教理も祭礼なども殆ど知らないことばかりなのです。そんな彼に、仏閣から神道への衣替えをやりきる知識と実行力があったかというと疑問になります。
 何回か神仏分離調書(回答書)を読み直してみて感じることは、自信に満ちた文章で、報告書と云うよりも師匠が弟子に教え諭すような雰囲気がします。これが書けるのは古川躬行だけでしょう。彼は先ほど見たように、何冊かの本も出版している中央でも名の知れた神道の学者でもありました。彼が政府に提出した報告書に、頭からクレームが付けられる神学官僚はいなかったのではないでしょうか。②松岡調は、彼の日記などを見るともう少し実務的な仕事を、この時点では行っていたようです。
 金刀比羅宮の神仏分離の変革の立役者は、古川躬行だったと私は思っています。

古川躬行のプランに基づいて旧仏閣建築群が、どのようになったのかを報告書から見ていくことにします
 神仏分離の結果、金光院時代の諸仏堂を再利用して、明治2年(1869)6月に、次のような末社が創り出されています。
 ①旭社・②石立神社・③津嶋神社・④日子神社・⑤大年神社・⑥常磐神社・⑦天満宮・⑧火産霊社・⑨若比売社
 さらに、従来からの末社を次のように改称ています
旧金剛坊→⑩威徳殿、旧行者堂→⑪大峰社、
大行事堂→⑫大行事社

これだけの改革のための全体プラン作り、実行していったのも古川躬行を中心とするスタッフだったようです。
1金毘羅金堂 旭社

具体的に①の旭社の改変をみてみましょう。
 旭社は、松尾寺の金堂に当たります。「金堂上梁式の誌」には、次のように記されています
「文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね弐万余の黄金(2万両)をあつめ今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」

文化3年(1806)の発願から40年の歳月をかけて完成したのが金毘羅さんの金堂でした。「西国一の大きな建物」というのが評判になって、金毘羅さんのセールスポイントのひとつにもなっていました。代参に訪れた清水次郎長の子分・森の石松が、本宮と間違えて帰ってしまい、帰路に殺された話の中にも登場する建物です。
 建立当時は中には、本尊の菩薩像を初めとする多くの仏像が並び、周りの柱や壁には金箔が施されたようです。それが明治の廃仏毀釈で内部の装飾や仏像が取り払われ、多くは売却・焼却され今は何もなくがらーんとした空間になっています。金箔も、そぎ落とされました。よく見るとその際の傷跡が見えてきます。柱間・扉などには人物や鳥獣・花弄の華美な彫刻が残ります。

かつての金堂 - 金刀比羅宮 旭社の口コミ - トリップアドバイザー

 この旭社(旧金堂)は、神道の「教導説教場」として使用されたことがあります。
神道の「三条の教憲」を教導するための講演場となったのです。その際に、天井や壁などから金箔がそぎ落され、素木となったようです。記録には「明治6年6月19日素木の講檀が竣成」とあります。説教活動が行なわれますが、神主の話は面白くなく、教導効果を上げることが出来なかったようです。そのため明治15年(1882)には説教講演は取りやめられます。その時に講演に使われていた講檀も撤去されたようです。そして、明治29年(1896)1月に、社檀を取り除いて殿内に霊殿を新築し、現在に至っているようです。
金刀比羅宮(香川県琴平町) : 好奇心いっぱいこころ旅

さて、神仏分離で仏さんを取り除いたあとの旧金堂(旭社)には、何が祭られているのでしょうか。
 神殿への改装当初の祭神は、
①伊勢大神の意をもって天照大御神
②八幡大神の意をもって誉多和気尊
③春日大神の意をもって武雷尊
の三神を祀っていたようです。それが明治6年(1873)7月に誉多和気尊と武雷尊とを境内末社常磐神社に移し、境内末社の産須毘社(旧大行事堂、後の大行事社)を廃社にして、そこに祀られていた祭神の高皇産霊神を合祀したようです。さらに後には、天御中主神・神皇産霊神・天津神・国津神をも合祀されて今日に至っているようです。しかし、閉ざされた建物の中をのぞき見ても何もない空間のように、私には見えるのです。幕末に金堂として建てられた仏閣を、持てあましているようにも見えます。参拝客も旭社の意味を分からずに、その大きさに圧倒されてお参りはしていきますが、何かしら不審顔のように思えるのです。
 話が逸れてしまったようです。古川躬行にもどりましょう
 古川躬行は、その後も亡くなるまで琴平にいたのかと私は思っていました。ところがそうではないようです。金刀比羅宮での指導後は枚岡(ひらおか)神社大宮司、大神神社大宮司などを歴任します。大神神社は三輪大明神とも呼ばれ大和の一宮です。その大宮司と云えば神職の長で、祭祀および行政事務を総括する役職にまで登り詰めています。彼は忙しい日々の中で、著述活動も続けています。そのような中で、琴平を離れた後も神職教導のために再三の招聘に応じています。
『盛好随筆』第六巻の明治15年8月条に、
 古川躬行先生、去ル十四日札ノ前 登茂屋久右衛門方法着、同十五日御山内壱番屋シキヘ引移り、十八日御本宮参拝、暫ク此方へ御雇入二相成候趣ナリ、(『金刀比羅宮史料』第五十二巻)
意訳すると
 古川躬行先生が去る14日に札ノ前の登茂屋久右衛門方に宿泊した。翌日15日に山内壱番屋へ移り、18日に本宮を参拝、しばらく金刀比羅宮で、雇入になるとのことである。

  この時の招聘にどんな背景があったのかは分かりません。
最初明治2年にやって来て、行なった神式改正の指導から15年近くが経っています。神式による祭典や摂末社の整備改廃整備も一段落していたので、この時には社務所分課章程・年間恒例祭典の祭式・祝詞・幣帛(神饌)などを一冊に取り纏めた『官私祭記年史祚』を琴平で著しています。そして、翌16年(1883)5月6日に、琴平の地において死没します。享年75歳でした。
 古川躬行の死去に際して、当時金刀比羅宮の運営する明道学校の教長であった水野秋彦は、次のような誄を起草しています。
うつりすまして、年の一年へしやへりやに、春のあらしに吹らる花口かなく過ぬる大人は、もとはむ古事たれこたふとか、過ませるたとらむみやひ誰しるへすとか、過ませる古川の大人や、かくあらむとかねてしりせは、古事のことのことこととひたヽしておかましものを、たヽしおかすてくやしきかも、ことのはのみやひのかきり、きヽしるしておかましもの、しるしおかすてくちをしきかも、しかはあれとも、くひてかひなき今よりは、かの抗訳のふかき契を、松の緑のときはかきはに忘れすしてのこしたまへる飢ともを、千代のかたみとよみて伝へて、もとより高きうまし名を、遠き世まてにかたらひつかせむ、かれこの事を、後安がる事のときこしめせ、石上古川大人、正七位古川大人。
     (『水野秋彦遺稿』〔『金刀比羅宮史料』第五十八巻)

古川躬行墓所については、次のように記されています。
  昨六日四時、古川躬行先生死去、齢七十五歳、
墓処遺言 但願旧主御代々之墓処ノ内 東南ノ処へ葬候事、(下略)、
 (『山下盛好随筆』第六巻 明治十六年五月七日条〔『金刀比羅宮史料』第五十二巻)
古川躬行の墓所は広谷の金光院歴代別当墓所域内の南東の角に設けられたようです。
金刀比羅宮 | 令和2年 累代別当及歴代宮司墓前祭
金毘羅大権現累代別当及び金刀比羅宮歴代宮司の墓域

このことからも琴陵宥常の古川躬行に対する想いがうかがえます。若い宥常が京都で古川躬行に出会ったことが、金毘羅さんを仏閣から神社へと変えていくための頼りになる指導者を得ることにつながりました。古川躬行の晩年を琴平で過ごしてもらい、出来るだけの加護をしたいという気持ちで、三度目の招聘を行ったのでしょう。ある意味、恩返しのような気持ちもあったと私は考えています。
   墓所については、神仏分離に難局に対して立ち向かった最大の貢献者(功労者)に対する礼のように思えます。「琴陵宥常にとって最大級の畏敬の表現」と研究者は考えているようです。

     参考文献   西牟田 崇生  金刀比羅宮と琴陵宥常  国書刊行会

  
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幕末の「金毘羅参詣名所圖會」[1847]に描かれた象頭山松尾寺金光院を見てみましょう
大門をくぐって桜馬場からの参道は、石段も玉垣も見えません。ここを登りきると、金堂(現旭社)前の広場にたどり着きます。金堂は、三万両という巨費をかけて2年前(1845)に完成したばかりでした。清水次郎長の代参でやってきた森の石松が、これを金毘羅大権現の本社と勘違いして帰ったと伝えられますが、それほど立派な建物です。当時は「西国一の建物」とも云われたようです。
 この金堂の下には多宝塔が建っています。真言密教の寺であることの存在証明のようなモニュメントです。この他にも鐘楼などの建物が建ち並ぶ姿が描かれます。金毘羅大権現の境内は、神社と云うよりは仏教伽藍と呼ぶ方がふさわしかったことがよく分かります。
 さて今回は玉垣を見ていきます。金堂の右側の石段は、下り専用です。ここには、石段がまっすぐに描かれています。しかし、玉垣は見えません。まだ作られていないようです。さらに、金堂の登ってくる左下の坂道を見ると、ここには石段もないように見えます。

それから7年後の「讃岐名所圖會」(1854)に描かれた金堂です。
★「讃岐名所圖會」にみる金刀毘羅宮konpira2

描かれた角度がちがいます。作者は、新たな構図から描かれた俯瞰図をめざしたのでしょう。金堂と多宝塔の位置に注意しながら90度くらい回転させた構図になります。蟻のように参拝者が描かれて金毘羅さんの「繁盛ぶり」が伝わってきます。
 旭社周辺の様子を、7年前の絵図と比較してみると・・・・
①旭社前の坂道は、石段が整備され玉垣もある。
②灯籠が立ち並んでいる
③二天門が移築され、前に鳥居が建立されている
④二天門に続く参道には長い回廊(休息所)ができている
⑤一直線であった本宮からの下り道が90度に曲がって下りてくるようになっている。
今回は脇目を振らずに玉垣に集中するために①②のみを追いかけます
  それでは、多宝塔から金堂へ上がっていく玉垣はいつ整備されたのでしょうか?

★「讃岐名所圖會」にみる多宝塔2

  それをしるための工具が「金毘羅庶民信仰資料集巻2」です。
4 玉垣旭社前
「金毘羅庶民信仰資料集巻2」

ここには文化財に指定された鳥居・狛犬・石段・敷石・祈念碑・玉垣がすべておさめられています。たとえば、多宝塔から金堂への坂道の玉垣には、右側がT22、左側がT23の番号が打たれています。そして、その親柱と小柱に刻まれた奉納者氏名や住所・奉納年月日・取次者・石工までが載せられています。
それでは玉垣T22を見てみましょう。
 
4 玉垣旭社前11
一番下の起点になる親柱に刻まれた奉納年月日は
嘉永6(1853)年五月吉日です。「讃岐名所圖會」(1854)が描かれた前年に、この玉垣は完成したようです。その下に名前があるとのは、取次世話人で実質的な責任者で、資金集めや支払い、金毘羅金光院と連絡事務などをすべて行った人物で、大きな旅籠の主人などが務めることが多かったようです。
そして、親柱と親柱に小柱が5本あります。そこに寄進者の名前が刻まれることになります。ここには「米屋周助」とあります。5本目は「米屋周次郎」とありますから、跡継ぎでしょうか。そんなことを想像していると、何かしらドラマが生まれそうな気がしてきます。
さて、これを寄進したのはどこの人たちなのでしょうか?
それは、この玉垣の一番上の最後の親柱8に刻まれています。

4 玉垣旭社前12
  親柱8にはもう一人の世話人の住所が「予州松山三津濱(浜)」とあります。松山の外港で繁栄した三津浜の商人たち寄進した玉垣だと分かります。親柱6と7の間の小柱には「海上安全」とありますので、三津屋は廻船問屋など海に関係した商売に携わっていたのかもしれません。
今までの所を確認しておきましょう。
 玉垣を奉納する場合、親柱の数が十数本あるのが普通です。
一連の玉垣は100人近くの奉納者によって建立されたということになります。そして、奉納年月日や願主、世話人は、端の親柱の1ヶ所にしか彫られていません。したがって一連の玉垣の親柱、小柱に彫られた多くの人名は、何らかの関係で結ばれた人々と考えられます。

4 玉垣旭社前90

 玉垣はそれまでの灯籠や鳥居などに比べ、ひとりひとりの名前を親柱・小柱に大きく彫りつけることができます。長い参道を登る金毘羅さんの参拝客にとってはいやが上にも目に入ってきます。これは奉納者にとっては魅力であったはずです。金比羅講で参拝した裕福な商人たちが、まだ繋がっていない玉垣をみて、ここに私たちの名前を刻んだ玉垣を奉納しようと話し合い、定宿の旅館の主に相談すれば、後の事務手続はすべてやってくれます。お金を支払うだけです。
 こうして、境内の長い参道に玉垣が短期間に出来上がっていったようです。
4 玉垣旭社前122

   金堂が30年近い工期を経て完成するのが1845年でした。
金堂完成に併せて石段や敷石などの周辺整備も進みます。それと同時歩調で玉垣整備が進められたのがこの表からはわかります。その契機になったのが金堂完成なのでしょう。ここでも石の玉垣が姿を現したのは幕末になってからで、思ったよりも新しいことが分かります。

  それでは、石の玉垣が現れる以前は、どうだったのでしょうか?
 『金毘羅参詣続膝栗毛』を書いた十返舎一九は、『讃岐国象頭山金毘羅詣』(文化七年-1810)に桜馬場あたりのことを、次のように記しています。
  「坊舎の桜樹は朱の玉垣と等く美し」
ここからはこの時の桜馬場の玉垣は、奈良時代のような朱塗りの木造であったことが分かります。鳥居が木造から石造に代わったように、玉垣も最初は木造で、それが幕末期に石の玉垣が大量に出現するようになったのです。玉垣建立の年代をしめした上表からも、江戸時代の末期から石造玉垣が急増していったことが分かります。。
この向かいのT23の玉垣は、どんな人たちの寄進なのでしょうか?

4 玉垣旭社前1222
T23の玉垣の寄進年月日を見ると寛成8(1796)年10月7日とあります。T22よりも半世紀も前のものです。初期に作られた玉垣の一つです。左側の玉垣はできても右側はなかなか姿を見せなかったようです。10月10日の大祭の前にやって来て奉納の儀式を終えたのかもしれません
 この玉垣には「玉垣講」とあります。
玉垣講には、大洲城下講中、米湊村・宮之下村講中(大洲城下講中)、小豆島厚演講中、明石吹上村講中・井出村講中・和坂村講中(明石玉垣講中)、松山城 下大唐人四丁目講中など、城下町や村単位の講があったことが分かります。この玉垣は大洲の玉垣講ですが、特徴的なのは大洲城下だけでなく周辺の村々の講中も加わっていたようです。
   地名でなく、おめでたい言葉がつけられた講もあります。
 鶴亀講、栄講、賓来講、金吉講、永代講、繁栄講、繁昌講中、栄壽講、金豊講などで、兵庫の鶴亀講、栄講などに見られるように、商人たちの講で、商売繁昌を願ってつけられることが多かったようです。
  講のあり方を示す言葉が名称になったものもあります。
 月参和順講(大洲)・初日講(兵庫)月参和順講は、毎月、講から代表の参拝者を出していたところからつけられた名前でしょう。初日講は、毎月の一日に参拝者を出すか、あるいは、その日ごとに集まって金毘羅さんを拝むなどしていたのでしょう。
4 玉垣旭社前12224

こうした人々の信仰心に支えられて、玉垣寄進は幕末に爆発的に増えて、急速に金毘羅さんの境内は整備されていったようです。どこにもないような玉垣と石段と灯籠の続く参道を人目みたいとと参拝客は増え続けたのです。
以上をまとめておきます。
①19世紀になり東国からの金比羅詣が増え、参拝客は増加した。
②これを背景に、1845年に総工費三万両をかけた金堂が完成した。
③新たな観光名所とするために金堂周辺の整備が進められた。
④その一環が参道の石段化や玉垣・灯籠の整備であった。
⑤こうして19世紀半ばには、金毘羅さんの参道は、石で白く輝く参道に生まれ変り、周辺の寺社と差別化が進み、さらなる参拝客の増加へとつながった。
⑥周辺の寺社の坂道が石段化し、玉垣で囲まれるようになるのは、幕末以後の明治になってからのことであった。

   以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

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