瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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金毘羅大権限神事奉物惣帳
金毘羅大権限神事奉物惣帳
金刀比羅宮に「金毘羅大権限神事奉物惣帳」と名付けられた文書が残されています。その表には、次のような目録が付けられています。
 一 諸貴所宿願状  一 八講両頭人入目
 一 御基儀識    一 熊野山道中事
 一 熊野服忌量   一 八幡服忌量
この目録のあとに、次のように記されています。
 右件惣張者、観応元年十月日 於讃州仲郡子松庄松尾寺宥範写之畢(おわんぬ)とあります。

宥範は、櫛無保出身で、善通寺中興の名僧です。その宥範が、観応元年(1350)十月に、この文書を小松荘松尾寺で写したというのです。そのまま読むと、松尾寺と宥範が関係があったと捉えられる史料です。かつては、これを根拠に金光院は、松尾寺の創建を宥範だとしていた時期がありました。しかし、観応元年の干支は己未ではなく庚寅です。宥範がこのような間違いをするはずはありません。ここからも、この記事は信用できない「作為のある文書」と研究者は考えているようです。そして、冊子の各項目は別々の時期に成立したもので、新設された金毘羅大権現のランクアップを図るために、宥範の名を借りて宥睨が「作為」したものと今では考えられています。

法華八講 ほっけはっこう | 輪王寺
輪王寺の法華八講
 この文書は「金毘羅大権現神事奉物惣帳」と呼ばれています。
中世小松荘史料
町誌ことひらNO1より
「金毘羅大権現」の名前がつけられていますが、研究者は「必ずしも適当ではなく『松尾寺鎮守社神事記』とでも言うべきもの」と指摘します。内容的には中世に松尾寺で行わていた法華八講の法会の記録のようです。これを宥範が写したことの真偽については、さて置おくとして、書かれた内容は実際に小松庄で行われていた祭礼記録だと研究者は考えているようです。つまり、実態のある文書のようです。
中世小松荘史料

ここに登場してくる人たちは、実際に存在したと考えられるのです。このような認識の上で、町誌ことひらをテキストに「諸貴所宿願状」に登場してくる人たちを探っていきます。
です。まず「宿願状」の記載例を見てみましょう。
 (第一丁表)
  八講大頭人ヨリ
奇(寄)進(朱筆)一指入御福酒弐斗五升 コレハ四ツノタルニ可入候        一折敷餅十五マイ クンモツトノトモニ
地頭同公方指合壱石弐斗五升
         一夏米壱斗 コレモ公方ヨリ可出候
         一加宝経米一斗
同立(朱筆)願所是二注也
         (中略)
(第三丁裏)
 八講大頭人ヨリ指入
 奇進      一奉物道具  一酒五升
         紙二条可出候 一モチ五マイ
         新庄石川方同公方指合弐斗五升
         立願所コレニ注   一夏米
      (下略)

ここには料紙半切の中央に、祭祀の宿(頭屋)を願い出た者の名前が書かれ、その脇にそれらの頭人からの寄進(指し入れの奉納物)が記入されています。この家々は、小松荘の地頭方や「領家分」「四分口」などという領家方の荘官(荘司)らの名跡が見えます。ここからは、彼らが小松庄を支配する国人・土豪クラスの領主などであることがうかがえます。家名の順序は、次のようになっています。
地頭方の地頭 → 地頭代官 →領家方の面々

まりこの記録には「実態」があるのです。

記された名前は祭祀の宿を願い出たもので、メンバーの名前の部分だけ列挙すると次のようになります。
  恩地頭同公家指合壱石弐斗五升
  御代官御引物
  御領家
  本庄大庭方同公方指合弐斗五升
  本荘伊賀方同公方指合弐斗五升
  新庄石川方同公方指合弐斗五升
  新荘香川方同公方弐斗五升
  能勢方同公方指合壱斗御家分
  岡部方同公方指合五升
  荒井方同公方指合五升
  滝山方同公方指合五升
  御寺石川方同公方指合弐斗五升
  金武同公方指合弐斗五升
  三井方
  守屋方
  四分一同公方指合壱斗
  石井方
 これは祭祀の興行を担う構成員で、いわゆる宮座の組織を示しているようです。諸貴所の右脇には、最初に「八講大頭人ヨリ指入」の奉物が書かれています。
小松の荘八講頭人

小松の荘八講頭人4

指入=差し入れ(奉納)」の内容は、道具・紙・福酒・折敷き餅などです。  以上から、この史料からは16世紀前半ころに小松庄には三十番神社が存在し、それを信仰する信者集団が組織され、法華八講の祭事が行われていたことが証明できます。
  この史料だけでは、分からないので補足史料として、江戸時代にの五条村の庄屋であった石井家の由緒書を見てみましょう。(意訳)
鎌倉時代には、新庄、本庄、安主、田所、田所、公文の5家が神事を執行していた。この五家は小松荘の領主であった九条関白家の侍であった。この五家が退転したあと、観応元(1350)年から、大庭、伊賀、石川、香川、能勢、荒井、滝山、金武、四分一同、石井、三井、守屋、岡部の13軒が五家の法式をもって御頭支配を勤めた。
 その後、能勢は和泉(泉田)に、滝井は山下となり、七家が絶家となって、石井、石川、守屋、岡部、和泉、山下の六家が今も上頭荘官として、先規の通りに上下頭家支配を勤めている
 ふたつの史料からは、次のようなことが分かります。
①「諸貴所宿願状」に登場してくる大庭以下13の家は、法華八講の法会において神霊の宿となり、祭礼奉仕の主役を勤める頭家に当たる家であった
②これが後に上頭と下頭に分かれた時には、上頭となる家筋の源流になる。
③「宿願状」には、何度かの加筆がされている永正十二(1515)から大永八年(1528)に作成された。その時期の小松荘の祭礼実態を伝える史料である
④この時期にはまだ上頭・下頭に分かれていないが、「岡部方同公方指合五升」とあるので、この公方が頭屋の負担を分担する助頭の役で、後に下頭となったことがうかがえる。
⑤「八講両頭人人目」には「上頭ヨリ」、「下頭ヨリ」とあるので、慶長八年(1603)ごろには、各村々に上頭人、下頭人が置かれていた
⑥「指合五升」などとあるのは、十月六日に行われる指合(さしあわせ)神事で、頭屋が負担する米の量である。

また、初期の投役には、「本荘大庭方」・「本荘伊賀方」・「新荘石川方」・「新荘香川方」と記載されています。ここからは小松荘に「本荘」と「新荘」のふたつの荘があり、そこにいた有力家が2つ投役に就いていたことがうかがえます。

 それでは本荘・新荘は、現在のどの辺りになるのでしょうか。
「本庄」という地名が琴平五条の金倉川右岸に残っています。このエリアが小松荘の中核で、もともとの立荘地とされています。しかし、新庄の地名は残っていません。町誌ことひらは、新荘を大井八幡神社の湧水を源とする用水を隔てた北側で、現在の榎井中之町から北の地域、つまり榎井から苗田にかけての地域と推測します。

小松庄 本荘と新荘
山本祐三 琴平町の山城より

 荘園の開発が進んで荘園エリアが広がったり、新しく寄進が行われたりした時に、もとからのエリアを本荘、新しく加わったエリアを新荘と呼ぶことが多いようです。ただ小松荘では、新しく開発や寄進が行われたことを示す史料はありません。
 それに対して、「松尾寺奉物日記之事」(慶長二十年(1615)という文書には「本荘殿」、「新荘殿」とあって、本荘と新荘それぞれに領主がいたことがうかがえます。これを領主による荘園支配の過程で、本・新荘が分かれたのではないかと「町誌ことひら」は推測しています。そして小松荘が本荘・新荘に分かれたのは鎌倉末期か、南北朝時代のことではないかとします。
戦国時代のヒエラルキー

 小松荘の地侍の台頭
この八講会には、地頭、代官、領家などの領主層が加わっているから、村人の祭とはいえない、それよりも領主主催の祭礼運営スタイルだと町誌ことひらは指摘します。
「石井家由諸書」によれば、この法会は嵯峨(後嵯峨の誤り)上皇によって定められたとあります。それはともかく、この三十番社の祭礼は小松荘領主九条家の意図によって始められたと研究者は考えています。荘園領主が庄内の信仰を集める寺社の祭礼を主催して、荘園支配を円滑に行おうとするのは一般的に行われたことです。その祭礼を行うために「頭役(とうやく)」が設けられたことは、以前にお話ししました。頭役(屋)になると非常に重い負担がかかってきますから、小松荘内の有力者を選んでその役に就けたとのでしょう。
 「石井家由諸書」には、九条家領のころは、預所のもとで案主、田所、公文などの荘官が中心になって法会を行っていたと記します。
それが南北朝時代以後になると、荘内の有力者が頭屋に定められて、法会に奉仕することになったというのです。彼らは領主側に立つ荘官とは違って、荘民です。南北朝のころになると、民が結合し、惣が作られるようになったとされます。小松荘にの惣については、よくわかりませんが、「金毘羅山神事頭人名簿」を見ると、慶長年間には次のような家が上頭人になっています
香川家が五条村
岡部家が榎井村
石川家が榎井村
金武家が苗田村
泉田家が江内(榎井)村、
守屋家が苗田村、
荒井家が江内(榎井)村
彼らは、それぞれの村の中心になった有力者だったようです。このような人たちを「地侍」と呼びました。侍という語からうかがえるように、彼らは有力農民であるとともに、また武士でもありました。
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石井家に伝わる古文には、次のように記されています。
 同名(石井)右兵衛尉跡職名田等の事、毘沙右御扶持の由、仰せ出され候、所詮御下知の旨に任せ、全く知行有るべき由に候也、恐々謹言
    享禄四            武部因幡守
      六月一日         重満(花押)
   石井毘沙右殿          
ここには、(石井)右兵衛尉の持っていた所領の名田を石井毘沙右に扶持として与えるという御下知があったから、そのように知行するようにと記された書状です。所領を安堵した武部因幡守については不明です。しかし、彼は上位の人の命令を取り次いでいるようで、有力者の奉行職にある人物のようです。
  石井毘沙右に所領名田を宛行ったのは誰なのでしょうか?
享禄4年(1531)という年は、阿波の細川晴元・三好元長が、京都で政権を握っていた細川高国と戦って、これを敗死させた年になります。この戦に讃岐の武士も動員されています。西讃の武将香川中務丞も、晴元に従って参戦し、閏五月には摂津柴島に布陣しています。小松荘の住人石井右兵衛尉、石井毘沙右も晴元軍の一員として出陣したのかもしれません。その戦闘で右兵衛尉が戦死したので、その所領が子息か一族であった毘沙右に、細川晴元によって宛行われたのではないかと町誌ことひらは推測します。
中世の惣村構造

このように地侍は、次のようなふたつの性格を持つ存在でした。
①村内の有力農民という性格
②守護大名や戦国大名の被官となって戦場にのぞむ武士
彼らは一族や姻戚関係などによって、地域の地侍と結び、小松庄に勢力を張っていたのでしょう。
Vol.440-2/3 人を変える-3。<ことでん駅周辺-45(最終):[琴平線]琴電琴平駅> | akijii(あきジイ)Walking &  Potteringフォト日記

興泉寺というお寺が琴平町内にあります。この寺の系図には次のように記されています。
泉田家の祖先である和田小二郎(兵衛尉)は、もと和泉国の住人であった。文明十五年(1483)、小松荘に下り、荒井信近の娘を妻とした。しかし、男子が生まれなかったので能勢則季の長子則国を養子とした。その後、能勢家の後継ぎがいなかったので、則国は和田、能勢両家を継いで名字を泉田と改めた。また和田、能勢家は、法華八講の法会の頭屋のメンバーであった。

ここからは、法華八講の法会の頭屋のメンバーによって宮座が作られ、宮座による祭礼運営が行われるようになっていたことがうかがえます。前回お話ししたように、南北朝時代から小松荘の領主は、それまでの九条家から備中守護細川氏に代わっていました。しかし、応仁の乱後には、細川氏の支配力は衰退します。代わって台頭してくるのが地侍たちです。戦国時代に小松荘を実質的に支配していたのは、このように宮座などを通じて相互に結び付きを強めた荘内の地侍たちであったと研究者は考えているようです。

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 その後、豊臣秀吉によって兵農分離政策が進められると、地侍たちは、近世大名の家臣になるか、農村にとどまって農民の道を歩むかの選択を迫られます。小松荘の地侍たちの多くは、後者を選んだようです。江戸時代になると次の村の庄屋として、記録に出てきます。
石井家は五条村
石川家・泉田家は榎井村
守屋家は苗田

地侍(有力百姓) | mixiコミュニティ
地侍(有力農民)
  彼らによって担われていた祭りは、金毘羅大権現の登場とともに様変わりします。
生駒藩のもとで、金光院が金毘羅山のお山の支配権を握ると、それまでお山で並立・共存していた宗教施設は、金光院に従属させられる形で再編されていきます。それを進めたのが金光院初代院主とされる宥盛です。彼は金光院の支配体制を固めていきますが、その際に行ったひとつが三十番社に伝わる法華八講の法会の祭礼行事を切り取って、金毘羅大権現の大祭に「接木」することでした。修験者として強引な手法が伝えられる宥盛です。頭人達とも、いろいろなやりとりがあった末に、金毘羅大権現のお祭りにすげ替えていったのでしょう。宥盛のこれについては何度もお話ししましたので、省略します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 町誌ことひらNO1 鎌倉・南北朝時代の小松・櫛梨」
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金毘羅さんの大祭は10月10日に行われるので、地元では「お十日(おとうか)さん」と呼ばれています。
大祭5
 現在の祭は、十月九日十日十一日のいわゆるお頭人(とうにん)さんとよんでいる祭礼行列です。これは十月十日の夜、本社から山を下って神事場すなわちお旅所まで神幸し、十一日の早朝からお旅所でかずかずの神事があり、十一日は山を上って再び本社まで帰るというスケジュールです。
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しかし、本社をスタートしてお旅所まで神幸し、そこで一日留まり、翌々日に本社に還幸するという今のスタイルは、神仏分離以後のもののようです。それ以前は、神事場もありませんから「旅所への神幸」という祭礼パレードも山上で行われていたのです。
その祭がどんなものであったか「金毘羅山名勝図会」の記述で見てみましょう。
「金毘羅山名勝図会」は19世紀前半に上下二巻が成立したものです。これを読むと大祭は次のふたつに分けて考える事が出来るようです
山麓の精進屋で何日にもわたる物忌と
その忌み龍りの後で、山上で行なわれる各種神事
そして、江戸時代に人々が最も楽しみにしたのが山麓から山上の本宮に到る頭人出仕の行列で、それが盛大なイヴェント委だったようです。当時の祭礼行列は下るのではなく、本宮に向けて登っていたのです
20170908131043
大祭行事に地元の人たちはどんな形で参加していたのでしょうか
 金毘羅大権現が鎮座する小松荘は苗田、榎井、四条、五条の四村からなります。この四村の中には石井、守屋、阿部、岡部、泉、本荘、田附の七軒の有力な家があって、その七軒の家を荘官とよんでいました。大頭人になるのはこの七軒の家の者に限っていました。中世の宮座にあたる家筋です。その家々が、年々順ぐりに大頭人を勤めることになっていたようです。
9月1日がくると大頭屋の家に「精進屋」と呼ぶ藁葺きの家を建てます。柱はほりたてで壁は藁しとみで、白布の幕が張られます。その家の心柱の根には、五穀の種が埋められます。
9月8日は潮川の神事です。
この日がくると瀬戸内海に面した多度津から持って来た樽に入れた潮と苅藻葉を神事場の石淵に置き、これを川上から流して頭人、頭屋などが潮垢離をします。この日から男女の頭人と、瓶取り婆は毎日三度ずつ垢離を取り、精進潔斎で精進屋で忌みごもりをするのです。
9月9日は大頭屋の家へ、別当はじめ諸役人が集まります。
青竹の先に葉が着づきのままご幣をつけて精進屋の五穀を埋めた柱のところへ結びつけて、その竹を棟より少し高く立てます。
9月10日はトマリソメと言って、この日から大頭屋の家の精進屋で頭人たりちが正式に泊ります。
10月1日は小神事です。
10月6日は「指合の神事」です。
来年の頭屋について打合せる神富が大頭屋の家の精進屋で行なわれます。この時に板付き餅といって、扇の形をした檜の板の上に餅をおき板でしめつけます。これはクツカタ餅ともよばれます。この餅は三日参り(ミツカマイリ)の時の別当や頭司、山百姓などの食べるものだといいます。
10月7日は小頭屋指合の神事です。
10月10日は、いよいよ頭人が山上に出仕する日です。
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頭人は烏帽子をかぶり白衣騎馬で武家の身なりで出かけます。先頭には甑取りの姥が緋のうちかけで馬に乗って行きます。アツタジョロウ又はヤハタグチと呼ばれるこの姥は月水のない老婆の役目です。乗馬の列もあって大名行列になぞらえた仮装パレードで麓から本社への坂や階段を登って行きます。この仮装行列が祭りの一番の見世物となります。
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頭人は金光院の客殿で饗応をうけ、本社へ参詣し、最後に三十番神社で奉幣をします。
10月11日は、観音堂で饗応の後、神輿をかつぎ出して観音堂のまわりを三度まわります。これが行堂めぐりです。ここには他社の祭礼に見るようなミタマウツシの神事もなく、神輿は「奥坊主」が担ぎます。
 神輿には頭人が供奉します
頭人は草鮭をはき、杖をついて諜(ゆかけ)を身につけます。このゆかけは、牛の皮をはぎとって七日の内に作ったもので臭気があるといいます。そして杵を四本かついで行きます。小頭人は花桶花寵を肩にかけて行きます。山百姓(五人百姓)は金毘羅大権現のお伴をしてやって来た家筋の者ですが、この人たちは錐やみそこしや杓子等を持って行列に参加します。そして神輿が観音堂を三巡りすると、神事は終わりとなります。
金毘羅山本山図1

 この神事が終わると、観音堂で祭事に用いた膳具のすべては縁側から下へ捨てます。
祭事に参加した者はもとより、すべての人々がこの夜は境内から出て行きます。一年中でこの夜だけは誰も神前からいなくなるのです。この日神事に使った箸は木の根や石の下などに埋めておく。また箸はその夜、ここから五里ばかり離れた阿波の箸倉山(現在三好郡池田町)へ守護神が運んで行くともいわれます。

金毘羅参詣名所圖會」に見る象頭山松尾寺金光院zozuzan

11日の祭事が終わると、山を下りて精進屋へ行き小豆飯を炊いて七十五膳供えます。
14日は三日参りの式です。これは頭屋渡しとも云われ、本年の頭屋から来年の頭屋へと頭屋の仕事を引き渡す儀式です。
16日は火被の神事で、はらい川で精進屋を火にかけて焼きます。
 以上が「金毘羅山名勝図会」に記録された金毘羅大祭式の記事です。
江戸末期の文化年間の金毘羅大権現の祭礼はこのようなものでした。これを読んでいると分からないことが増えていきます。それをひとつひとつ追いかけてみましょう。
DSC01214
大祭の1ヶ月以上前から大頭人を担当する家では、頭人の忌み寵りの神事が始まっています。
大頭屋は小松荘の苗田、榎井、四条、五条の荘官の中より選ばれていました。しかし、これらの村々には次のような古くからの氏神があって、いずれもその氏子です。
 苗田  石井八幡
 榎井  春日神社
 四条  各社入り組む
 五条  大井八幡
これらの社の氏子が大祭には金毘羅大権現の氏子として参加することになります。これは地元神社の氏子であり、金毘羅さんの氏子であるという二面性を持つことになります。現在でも琴平の祭りは「氏子祭り」と「大祭」は別日程で行われています。
それでは「氏神」と「金毘羅さん」では、成立はどちらが先なのでしょうか。
 これは、金毘羅大権現の大祭の方が後のようです。金比羅さんが朱印領となった江戸時代になってから、いつとはなく金毘羅大権現の氏子と言われ始めたようです。ここにも金毘羅大権現は古代に遡るものではなく、近世になって登場してきたものであることがうかがえます。
DSC01211
鞘橋(一の橋)を渡って山上に登る祭礼行列

次に、およそ二ヶ月にもおよぶ長い忌寵の祭です。
これは大頭屋の家に建てられる「精進屋」で行なわれます。
「精進屋」の心柱の下には五穀の種子を埋めるとありました。その年に穫れたもので、忌寵の神事の過程で五穀の種子の再生を願う古代以来の信仰から来ていると研究者は考えています。
 また、五穀の種子を埋めた柱に結わえつけた青竹を、棟より高くかかげて立てて、その尖端は青竹の葉をそのままにしておいて、ご幣を立てるとあります。これは「名勝図会」の説明によると「遠く見ゆるためなり、不浄を忌む故なり」と述べていまますが、やはり神の依代でしょう。ここからは精進屋が、頭人達の忌寵の場というだけでなく、神を招きおろすための神屋であったことがうかがえます。

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元禄の祭礼屛風
 明治の神仏分離で大祭は大きく変化しました。例えば今は、神輿行列は本社から長い石段を下りて新しく造営された神事場へ下りてきて、一夜を過ごします。しかし、明治以前は、十月十日に大頭屋の家から行列を作って山上に登っていく行列でした。
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 祭礼行列に参加する人たちが「仮装」して高松街道をやってくる様子

その行列の先頭にアツタジョロウとよぶ甑取りの姥が参加するのはどうしてでしょうか
 甑取りというのは神に供えるための神酒をかもす役目の女性です。それがもはや月水のない女であるということは、古代以来の忌を守っていることを示すものと研究者は指摘します。
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木戸を祭礼行列の参加者が入って行くのを見守る参拝者達

三十番社について
 山上に登った頭人は本社へ参詣してから三十番神社へ詣でて奉幣すると記されますが、三十番神社については古くからこんな伝承が残っています。
 三十番神社はもともと古くから象頭山に鎮座している神であった。金毘羅大権現がやって来て、この地を十年間ばかり貸してくれと言った。そこで三十番神が承知をすると大権現は三十番神が横を向いている間に十の上に点をかいて千の字にしてしまった。そこで千年もの間借りることができるようになった
と云うのです。
 このような神様の「乗っ取り伝承」は、他の霊山などにもあり、金毘羅山だけのものではありません。ここでは三十番神がもともとの地主神であって、あとからやって来た客神が金毘羅大権現なのを物語る説話として受け止めておきましょう。なにしろ、この大祭自体が三十番社の祭礼を、金毘羅大権現が「乗っ取った祭礼」なのですから。
 本社と三十番神に奉幣するというのは、研究者の興味をかき立てる所のようです。
DSC01331
祭礼後の膳具は、どこへいくのか?
山上における祭は十日の観音堂における頭人の会食と、十一日の同じ献立による会食、それからのちの神輿の行堂巡りが主なものです。繰り返しますが、この時代はお堂のめぐりを廻るだけ終わっていたのです。行列は下には下りてきませんでした。
 諸式終わると膳具を全て観音堂の縁側より捨てるのです。これを研究者は「神霊との食い別れ」と考えているようです。そしてこの夜は、御山に誰も登山しないというのは、暗闇の状態を作りだし、この日を以って神事が終わりで、神霊はいずれかへ去って行こうとする、その神霊の姿を見てはならないという考えからくるものと研究者達は指摘します。
 翌日、観音堂の縁側より捨てられた膳具はなくなっています。神霊と共に、いずれかへ去って行てしまったというのです。どこへ去って行ったのか?

DSC01629
 ここに登場するのが阿波の箸蔵寺です。
この寺は
「祭礼に使われた箸は箸蔵寺に飛んでくる」
と言い出します。その所以は
「箸蔵山は空海が修行中に象頭山から帰ってきた金毘羅大権現に出会った山であること、この山が金毘羅大権現の奥の院であること、そのために空海が建立したのが箸蔵寺であること」
という箸蔵寺の由緒書きです。
金毘羅大権現 箸蔵寺2

私の興味があるのは、箸を運んだ(飛ばした?)のは誰かということです?
 祭りの後の真っ暗な金比羅のお山から箸倉山に飛び去って行く神霊の姿、そして膳具。なにか中世説話の「鉢飛ばし」の絵図を思い浮かべてしまいます。私は、ここに登場するのが天狗ではないかと考えています。中世末期の金毘羅のお山を支配したのは修験者たちです。箸蔵寺も近世には、阿波修験道のひとつの拠点になっていきます。そして、金毘羅さんの現在の奥社には、修験者の宥盛が神として祀られ、彼が行場とした断崖には天狗の面が掲げられています。箸倉寺の本堂には今も、烏天狗と子天狗が祀つられています。天狗=修験道=金毘羅神で、金比羅山と箸蔵山は結ばれていったようです。それは、多分に箸蔵寺の押しかけ女房的なアプローチではなかったかとは思いますが・・・
 天狗登場以前の形は十一日の深夜に神霊がはるかなる山に去って行くと考えていたのでしょう。いずれにしても十一日の夜は、この大祭のもっとも慎み深い日であったようです。


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