瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金毘羅富くじ

 近世の金毘羅関係の史料を見ていると、京都の九條家がよく登場してきます。その多くが金毘羅側への経済的な無心であり、無理難題などとして記録に残っています。九條家というのは京都九條家のことで、五摂家の一つで幕末には関白を勤めていました。しかし、江戸後半期の五摂家は経済的に窮乏していたようです。その九條家の財源確保ために金光院に興行を押しつけてきたのが「富くじ(九条富)」でした。その成立の経緯を、今回は見ていくことにします。テキストは「町史ことひら 近世202P 九條家と金毘羅」です。
まず、金光院と京都の朝廷や公家たちの関係がどのように始まったのかを見ておきましょう。

 初めて禁裏御料から金毘羅へ初めて祈疇の申し付けがあったのは、元文元年(1736)4月で、金光院八代・宥山の時です。これは名誉なことなので、そのお礼に「献金」が行われます。献金が行われた寺社は経済力のある寺社なので朝廷や公家は、さらなるつながりを深めようとします。こうして、金毘羅大権現には、正・五・九月には宝札の献上が求められるようになります。それを継続的に行うと御撫物や法印が下賜されるという手順になります。このころの朝廷や公家たちは、このような活動で貧しい台所を賄っていたようです。
金毘羅大権現に対しても次のような物が下賜されるようになります
寛保3年(1743)から御撫物の下賜、
宝暦3年(1753)12月に宥弁が法印に叙せられる
その延長線上に勅願所・日本一社の綸旨の下賜があったと私は考えています。こうした中で、九條家とその門流は、金毘羅に金銭の無心を繰り返すようになります。その最たるものが、金毘羅における九條富の興行です。
幕末の九条家2
京都御所の南側にあった九条家
九條富に至る金毘羅金光院と九條家の関係を見ておきましょう。
 髙松藩初代藩主松平頼重のおかげで、金光院は330石の朱印地の小領主として統治権を持つようになります。しかし、現実には高松藩寺社奉行の支配を受けていました。そんな中で高松藩三代藩主松平重豊の室は、正親町家の出であった縁で、宥山は正親町家の猶子となります。そして宝永6(1709)年に権僧正に昇進し、初めて客中に参内して拝天顔の例が開けます。
  宥山(実家山下家)の妹キチは菅家に嫁ぎ、その長兄菅長司は、九條家の諸太夫信濃小路家の養子となっていました。その菅長司の弟が金光院九代住職宥弁となります。これを受けて長司は、九條家を通して前関白近衛家久、関白二條吉忠の許しを得て、宥弁の官位を仁和、大覚両寺から離れて直任叙とすることに成功します。以後これが金光院の格式となります。さらに、長司は宥弁を鷲尾前大納言の猶子として金光院の格式を高めます。宥弁後の金光院歴代別当と、九條家につながる縁故の家々との猶子縁組(なほ子のごとし=あたかも実子のようである関係)について、町史ことひらは次のようにまとめています。
十 代宥存(1761~87年)、 姉小路大納言
十一代宥昌(1788~99年) 油小路前大納言
十二代宥彦(1799~1811年) 甘露寺前大納言
十三代宥慎(1811~13年)  鷲尾頭丼
十四代宥学(1813~13年)  綾小路中納言
十五代宥恰(1814~24年) 甘露寺前大納言
十六代宥天(1824~32年) 甘露寺前大納言
十七代宥日(1832~36年) 甘露寺前大納言
十八代宥黙(1827~1857) 葉室前大納言
一九代宥常(1857~明治元年)  甘露寺中納言
以上のように金光院別当は、京の九條家につながる門跡と猶子縁組を結び続けています。これは「父と子のごとし」で、父である九条家の云うことは、子である金光院院主は聞かなければなりません。歴代之金光院院主の官位は勅任となる名誉をもたらしたのは父なる九条家です。九条家のためには、子としてある程度の無理難題にも応えなければならないとされてきたのです。こうして、このような関係の上に立って、「九條富」の実施という見返りを金毘羅に求めてくるようになります。それを年表化して見ておきましょう。
文化13(1816)年 9月28日。九條家の日夏筑前介より、金毘羅万福院・菅納丈助・矢野延蔵に「九条家御講寄付」の申出あり。しかし、幕府が禁止する富くじと同様のものなので断る。

ここからは、この頃に九条家が金昆羅富興行を行う事を目論んでいたことが分かります。そして、以後はしきりに、九条家御用人日夏筑前介・入江斉宮という人物が出入するようになります。
文政7(1824)年8月2日。京都九条殿が金ぴら御代拝として佐々木高正を讃岐へ下向させる。
文政8(1825)年9月  九条殿富興行を金びらに行う。十ヶ年の期限つきで許可。
同年11月25日 初興行。九条殿大般若経御寄付のため万人講開催。
初興行の寄高は四十五十二枚の「文句富」で、入札一枚に付、銀六匁。この売り上げの3割が御用金として差し引かれて九条家に上納されることになります。

次の史料(金刀比羅宮史料第十九巻)で以上を裏付けておきます。

九條殿御富、当初金毘羅にて御興行の事として前々より御懸合これ有り候え共出来申さず処、大般若御寄附と御申立て、右御祈薦料として米御寄附に相成り、右御米入札を以て御払なされ候段、之表にて文政八酉年霜月より、初めて金山寺芝居土地にて出来申し候事

意訳変換しておくと

九條富を金毘羅で行う事については、当初はいろいろな懸念・障害があって実施することができなかった。そのような中で九條家より大般若経の講として寄附のための祈薦料という名目で行う事が提案され、(これで髙松藩にも暗黙の了解を得て)、表向きには「御米入札」という形で、文政八年霜月から、金山寺芝居が行われる場所で興行されることになった

 開催決定に至る9年前の文化13年(1816)9月から、九条家は御講(富くじ)開催の交渉に諸太夫日夏筑前介を金毘羅に常駐させて、金毘羅当局との交渉に当たらせています。金毘羅当局は、万福院や矢野延蔵が対応します。金毘羅側では当初は、幕府の富くじ禁上の余波の中で、高松藩へ配慮して実施について前向きにはなれなかったようです。そのため「富同様の御仕方に付、差し障りがあるのでよんどころなくお断りに及んだ」とあります。
 しかし、それでも九條家は引き下がりません。交渉はその後も断続的に継続して行われ、高松藩の暗黙の了解をなんとか取り付け、9年後の文政八年(1825)9月に裁可が下ります。それも十か年の期限付きで、同年11月25日の初興行に漕ぎ着けます。こうして10月8日には金毘羅社領に次のような立札が建てられます。
九條殿御寄附
大般若講御米入札
来る十一月二十五日社領に於て
興行御座候事
これが金毘羅門前町での「九條富くじ」の初めての興行告示になるようです。

金毘羅の富くじは「九條富」とか「金毘羅の千両富」と呼ばれていました。
約60年後の元治元年(1884)五月に、金光院政務所で書き留めた「九條殿御寄附大般若講一件留記書抜」と「文政年間講一件始末」によって見ておきましょう。
最初の大般若講の興行時の寄高は4053枚で文句富。その銀録は入札一枚につき銀六匁で、寄高一万について、寄銀高の内3割が御益諸人用となる。
壱 番  銀壱〆八百目
拾 番  同壱〆二百目
廿 番  同番
大節  一二拾番  銀七〆弐百日
四拾番  同壱〆弐百目
五拾番  同断
乙錐  六拾番
銀弐〆七百六拾目
間々
同四百八拾目
右割合を以て寄高ニ応じ配当仕り候
興行の開催月は、正月・2月・4月・11月・12月の年六回
会日はその月の25日が講会日、
当りくじ銀度しは翌日、富会所(内町)で渡す。
 これだけでは富くじの仕組み・計算・運営方法については、史料がないのでよく分からないようです。
そこで金毘羅と同じように、社寺門前町で栄えた安芸の宮島の富くじを見ていくことにします。
宮島では古くから国守免許の下に、毎年六回宮島奉行所で富くじが開かれていました。その仕組みは次の通りです。
口入(くにゅう)  兵庫・長崎・鳥取その他各地に世話人あり、口入は募集札を取回る役目。凡そ二十四名。
口屋 口入が持かえりたる札を整理する。仲買役名。
銀座 口屋より持込む富札銀を取引し、 一般富くじの銀行の如き役所。
富座 銀座より領収印ある駒札を取集め、奉行所立会開票す。諸役人凡そ弐百人あり。
一回の募集十万国以上の時は、 一・二・三の組を同時に開く。
富の計算(推定) 銀八百五十貫、 一口手取八匁目の十万□、 一口分。
内訳 弐百貫目大束作業員。三百七十貫目、当りくじ百七本分。
壱等賞は大束五十万束として、正銀百貫目を渡す。壱貫目は米三石の価格なり。
六十貫目、役所費。
六十貫目、住民一戸へ毎月三十目づつ御手当金、但し後家は二十目
三十貫目。興行物、鹿の手入れ、町役人、米守級銀差引、 二百二十貫 国守運上銀
大束とは、たき木の大たばのことで、これを入札するという形で富くじが行われています。広島藩が富くじを免許していたのは、寺社の運営資金を賄うだけでなく、藩財政に編入して役立てるためでもあり、人寄せの手段とし芝居興行のプラスにもなると、資金を出して扶助していたとされます。ここでは、富くじには様々な利権と目論見があったことを押さえておきます。

富くじ場面1
富つきの場面(当選木札の決定方法は、富箱の木札を錐で突く)
富箱に入った富駒(木札)を錐で突き、当せん番号を決めています。見物人たちは「当りはせっしゃで御座る」などと言い合っています。もともとは富突きは、神社の御守を授与する時の抽せん方法で、17 世紀中期頃から、摂津国箕面の瀧安寺や山城国の鞍馬寺などで行われていたようです。それが江戸や上方でギャンブルとして興行化されブームとなります。これに対して幕府は、享保年間(1716 ~ 36)に富突き禁令を出しています。

当選がどのようにして決まるのかを「宮島芝居概説」には次のように記します。

富付場面2

富突き場面3

①富元(富座)に番号が書かれた木駒(縦横一寸の四角、厚さ三寸)。
②木駒の番号と口名(例えば高砂口)が書かれた「番号諸口(紙の名)」
③加入者は合鑑紙を受け取り、これに自分の思う文句を書き入れて、自身が持参するか、口入(仲介人)に託する
④費用は、一口藩札10文で富座に交付され、合鑑紙に富座の検印を受け、会の終了後まで加入者が保管
⑤木駒は富座で合鑑紙と同一の文句を記入し、これを巨大な箱に入れて、富座晴れの場所で、小童の錐で桶の小突から木駒を突かせる。
⑥親の十貫目が当たるか、次ぎ親の六貫目が当たるか、または掛金全部を投棄するか、
⑦先に富座へ渡した一口十匁の中で、二十分の一(五分)を奉行所に納め、残る九匁五分をもって加入者当たりの者への分配金となる

富くじ場面 熊本
               熊本藤崎社の千両富場之図 
熊本の藤崎八旛宮富講場での富突きと、見物している群衆を描いた錦絵です。富くじ興行には熊本藩も関わっていました。
江戸神田神社の富札
江戸神田神社の富札
富札番附売枚控帳
富札番附枚控帳(相模国足柄上郡谷ケ村)

 金毘羅の富くじの益銀の分け前は、当初は「金毘羅:九條家=3:7」の割合でした。
これは九條家の音頭で始まったからでしょう。しかし、場所と機会を提供する金毘羅の発言力が次第に強くなり、配分は5:5の均等配分に改められます。それがさらに認可権を持つ髙松藩が入り込み「金毘羅3:九條家3:髙松藩4」の配分になります。それではどれくらいの利益があったのでしょうか。それがうかがえるのが金光院日記で、次のように記します。
九條家出役人入江丹宮へ、近年の一年分を平均として御講益金一五〇両、九條家役人中祝儀二十一両、出役祝儀九両の口演書を渡した。
「日帳」の同年十一月二十七日の条に、
大般若講高松上納
一、十一月七日 金七両
一、十一月二十二日 二十五両
右両度の御益、今日普門院出府に付相頼み遺し候事。但し去ル文政十二年十月より、当天保五年十月会迄納高七百三十二両也。
ここからは文政12(1829)年10月から天保5(1834)年までに732両が九条家に渡されたと記されています。さらに、再延長が決まった天保6(1835)年2月27日条には、次のように記します。
一ケ年 一銀弐貫也
髙松へ年々四月ニ相納候筈ニ成
右は九條殿御寄附大般若講入札指引詰残銀の内、寺社御役所へ相納候筈二、高松出役吉田甚介殿より寛又蔵殿へ申達し御聞き届に相成り候二付、午年(天保五年)分より相納候事。
意訳変換しておくと
一年に銀2貫を、髙松藩へ年々4月に納入することになった。これは九條富(九條殿御寄附の大般若講の入札指引詰)の延長に絡んで、高松出役の吉田甚介殿から寛又蔵殿への申し出を御聞き届いただいたことに伴うもので、午年(天保五年)分より上納する。

天保六(1835)年十月十三日の条には、次のように記します。
九條殿御講当会より、定小屋にて興行に相成候事。但し、当月より前会は番札壱万詰、後会は文句入に相改め候事、月に二回も興行に相成る也。代官技茂川杢之助、警固伊藤平右衛門、山下栄之助、年寄り井上太郎左衛門。右御講の日は、入札相済み候迄芝居相休みに成る也。木戸回へ九條様御紋附きの御幕張り、内は桟敷へ勘定場、買方、舞台真中へ富箱飾り同所にて開札致し候。御用人は西側桟敷に罷有り候。九條様御紋附の御幕を張り、代官警固は御山の御幕張る也。高張りも勿論□の也。年寄りは自分の高張用ゆる也。

当会より番札壱万詰に相成り、申(七年)の四月会迄番札、文句一度替りに相成り、申の五月十日会より亥(十年)の十二月会迄都て番札に相成り、結の義は壱又は弐万、五万迄。時に繁栄によって高下これ有り候。会日は月々弐回宛興行これ有り候。番札弐万結の割銀録別紙これ有り候。番札略す。

意訳変換しておくと
九條殿御講は今回から常設芝居小屋(金丸座)で興行することになった。そして、月2回の興行となった。月前半の前会は番札壱万詰、月後半の後会は文句入に改められた。役割は代官・技茂川杢之助、警固・伊藤平右衛門、山下栄之助、年寄・井上太郎左衛門。富くじの日は、入札(当選発表)が終わるまでは芝居は休みになる。木戸には九條様御紋附きの幕張り、内は桟敷へ勘定場、買方、舞台真中へ富箱を飾り、そこで開札を行う。御用人は、西側桟敷に座る。九條様御紋附の御幕を張り、代官警固は御山金毘羅の御幕を張る。高張りも□の也。年寄りは自分の高張を使用する。

 今回から番札壱万詰になり、七年四月会まで番札、文句一度替りに改まった。申の五月十日会から亥(十年)の十二月会まですべて番札で行うことになる。結の義は壱又は弐万、五万まで。その時々の集客で売上高に上下はある。実施回数は、月2回となった。。番札弐万結の割銀録の別紙もあるが、これは略す。
 
 ここからは九條富が金山寺町に新設された常設の芝居小屋(金丸座)で、行われるようになったことが分かります。
しかし、芝居小屋は、もともとは富くじの常小屋のために建てられたのであって、芝居は「兼ねる」でないかとの説もあります。つまり金丸座は、芝居小屋ではなく富くじの当選発表の場所として建てられたというのです。確かに、芝居興行は収益的には赤字で、それを遊女たちの基金で穴埋めしていたことは以前にお話ししました。それに対して、富興行は大盛況で大きな利益をもたらしていたのです。富くじのために建てられたというのも頷けます。天保年間には、茶屋(遊女)・富くじ・芝居といった三大遊所が金毘羅門前町に整備されます。これが金毘羅の賑わいにますます拍車をかけました。

 こうして富くじは、金毘羅当局にとっても重要な財源となっていきます。
天保年間の金毘羅は、このような財源をもとにして、巨大な金堂(現旭社)の新築にとりかかることになります。これは3万両という巨額の費用を要する大事業となり、約30年の年月を要します。それだけでなく金堂周辺の整備事業も同時に進めます。この資金はいくらあっても足りません。
 このような中で10年間の期限付実施の九條富の終了期限が迫ってきます。金毘羅側にとって九條富は巨額の資金を生み出す集金マシーンとしてなくてはならない存在になっていました。これを手放すことは考えられません。そこで、今度は金毘羅側が積極的に延長を髙松藩に働きかけていくことになります。
天保6(1835)年十月満講になった九條富について、さらに十年延年になったことが高松藩寺社方から金光院に伝えられた文書を見ておきましょう。
一昨日九條様御寄附大般若講御延年相済み候。左の通り寺社方より申し来り候。
一筆令啓上候、御社領二於て九條殿より御寄附の大般若講富十月二て満講に相成り候処、今拾ケ年相催しされ度御同所より御頼みに付、なお又当十一月ょり来る己の十月迄拾ケ年の同年迄、御申立の通り相済み候間、左様御心得成されべく候。
恐慢謹言
    七月二十七日                寛 又蔵
 金光院
天保七年(一八三六)三月十日、九條様御講会但し番札三万枚詰となる。出張菅納実。
意訳変換しておくと
一昨日、九條様御寄附の大般若講の延長について、髙松藩寺社方より以下のような連絡があった。
金毘羅寺領で開催されている九條殿から寄附された大般若講富は、この10月で10年の満期となる。これについて、10年間の延長申請が出されていたが、11月からの十年間の延長を認める。左様御心得成されべく候。
恐慢謹言
    七月二十七日                寛 又蔵
 金光院
これを受けて3月16日には、九條家の家人日夏筑前介が九條様御代参として金毘羅にやってきます。
これが新たな分け前の分配比率の交渉だったのでしょう。その結果が「金毘羅3:九條家3:髙松藩4」の配分となったようです。延長権限を持つ髙松藩の取り分が一番多く、残りを金毘羅と九条家で折半する形になっています。
 こうして翌年11月10日より、それまでは書版札が使われていたのが、初めて富札版本刷りで実施されます。また、それまでは年6回の開催でしたが、延期後は年12回開催と倍に増やされます。こうして天保6(1835)年4月10日から御講五・六・七月も休まないことを発表し、10月13日には、新しく建設された常設の芝居小屋(現金丸座)で講会が興行されます。

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          金毘羅の九條富の上り札文句札(文政5年)
延長された3年後に、事件が発生します。
天保9(1838)年12月4日、大坂の同心が金毘羅にやってきた帰りに「備中辺にて、福引銀の売札(九條富)を扱った者を召捕えた」との話が伝えられます。金比羅当局は、この情報をすぐ京都の九條家に伝えています。これを受けて、翌年4月講を一時休み、五月以降の富興行には九條家の称号を外すことにします。そうするうちに九條家からは、大坂役所の取り調べが進み、交渉が大変難しいとの知らせが入ります。つまり、金毘羅の九條富は幕府の禁令に違反するという嫌疑です。
 12月22日になると、大坂木戸役の者が阿州へ下る途中に金毘羅に立寄り、講を見咎めて駒台(将棋で取った駒を置く台)、錐帳面、銀子に封印して町役人に預けます。金毘羅当局はこれを直ちに高松藩に届け出ています。それに対する髙松藩の回答は、次の通りです。

「九条富は、九條家と金毘羅との相談で行われてきたできたことだから、藩としては知らない体にする」

髙松藩は、利益の4割を受け取っていながら問題が生じたときには見てみぬ振りで、そちらで解決せよという態度をとります。金比羅側は翌年1月6日に、役人を高松へ遣わし、「この度の一件、金毘羅でなんとか解決するよう努めてみるが、どうしてもうまくいかないときは、相談にのってもらいたい」と申し出て了解を得ています。
 その四日後に、大坂同心古川杢右衛門がやってきて、講元鶴田屋卯兵衛、山尾直之進などの講係りの者を呼び出して吟味取り調べが行われます。さらに7月には講元、講係りの者が大坂奉行所へ呼び出されます。「文政年間講一件始末」には、次のように記します。
(前略) 翌年七月九日、大坂に於て講元ほか掛りの者共左の通り仰せ付けらる。
講元 鶴田屋卯兵衛 山尾 直之進
其方共諸堂傾覆のため大般若と相唱え、昨冬富博変以寄りの義相い企て申し候由、尤も自分得用にて仕まつらず共、右相い斗り候段不届の次第、これに依り過料五貫文ヅツ申付け候。跡掛りの者共右同断二て過料三貫文ヅツ申付け候。右の通りの御裁許二て過料相納め候ハバ、勝手次第国元へ引取り候申し渡す。
意訳変換しておくと
1840年7月9日、大坂奉行所で講元の他、関係者に次のような処分が下された。
講元 鶴田屋卯兵衛 山尾 直之進
その方どもは、堂修復のためと大般若経を唱え、昨年冬に富くじ講を組織した。これについては、私的利益のためではないと云え、幕府の禁止する富くじを行ったことは不届の次第である。よって、五貫文づつの過料を申付ける。残りの関係者についても同断で過料三貫文を申付ける。この裁許に従って過料を納めれば、勝手次第に国元へ引取ることを許す。
この判決を見ると、講元と関係者が罰金刑に問われただけの裁きとなっています。金光院に対しては、なんのお咎めもありません。これを受けて金毘羅当局は、7月21日に髙松藩に一件落着の報告をしています。こうして九条富は、大阪奉行所の摘発を受けて興行停止となります。九條富が行われたのは19世紀前半の十数年間のことでした。
 それから13年後の嘉永5年(1853)11月、金毘羅の役人山下周馬が高松藩に出向いて次のような申請を行っています
 九條家では御講(九條富)が中絶以来、経済均にひときわ難渋しています。その上に、姫君の御入内のことが決まり、莫大な費用が必要となっています。ついては、金毘羅に対して九条家より次のように申し入れがありました。
一、大塔建立を申し立てて、益金が九條家へも入るよう取計らう。
二、 一〇〇〇両、二〇〇〇両の調達、融通する。
三、九條富の再興をす。
この三か条のうちのどれかをお聞き取り願いたいとの強い申し入れがあった。金毘羅としては、一、二件は到底受け入れることはできないので、講を再興する以外ないと思うので、何卒お許し願いたい
これについては、12月に髙松藩寺社方から「聞き届け難い」との返事が届きます。
さらに10年後には文久2年(1863)正月、最後の金光院主となる宥常は年頭挨拶に高松に出向いた際に、次のような「御内談覚書」を提出して、許可を願いでています。

昨今善通寺が丸亀藩の許可を得て、大般若講同様の九條家寄進の護摩講と名付け講会を催している。金毘羅社領でも御講(富くじ)を再開したい

これに対する髙松藩の解答は次の通りです。
「近年は京都警護の人数も差し出しており、武備の手当も整い難いので、お聞き届けできない」

翌年の元治元年(1864)4月にも、御用向きのため役人を高松表へ遣わし、御講再会について次のように願いでています
「毎度御内談願っているが、近くは丸亀領善通寺も興行あり、其外向地辺の予州今治領三嶋にても、砂糖入札と称して近年興行しており、金毘羅が中絶のままでは町の繁栄にもかかわる」

さらに翌五月にも御講一条について、次のように願いでています
「御講一条入割も委敷相話し候虎、何様□□公辺御制禁の義に付、六ケ敷由中され、併せて御重役中も段々替り、時勢も替り候開、いかがこれ有るべきや篤と勤考致すべく由

これに対して、高松藩取次杉止喜次郎から金光院表役菅納□左衛門への回答は次の通りです。

「嘉永五子年並びに文久二成年二も御答への通りで、九條様よりお申し立てがあっても、御断りになられるように」と、残念なことではあるがとの返事があった。

髙松藩は、九條富の再開を認めることはありませんでした。

以上をまとめておきます
①18世紀以後、金毘羅院院主と九条家は猶子縁組を通じて関係を深めた
②猶子関係を背景に、九条家は金毘羅に経済的な無心を繰り返すようになり、その一環として「富くじ」興行を持ちかけた。
③金毘羅側は当初は及び腰であったが十年近い九条家の要請に押し切られる形で、髙松藩を説得し10年の期限付で開催が許可された。
④年6回の興行は大盛況で、多大な売り上げが九条家や金毘羅側に入るようになった。
⑤遊郭と富くじという集客マシーンが機能して天保年間の金毘羅大権現は大飛躍期を迎える
⑥10年の期限が来ると、延長を髙松藩に願いで許可されるが、その際には利益の4割を髙松藩が取り、残りを九条家と金毘羅が折半する形になった。
⑦盛況な「九條富」の開催場所として新たに建設されたのが金丸座であり、それが芝居小屋としても使用された。
⑧しかし、九條富開設から十数年後に大阪奉行所の摘発を受けて中止に追い込まれた。
⑨その後も、九條家や金毘羅は、何度も富くじ復活を髙松藩に願いでているが、許されることはなかった。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
        町史ことひら 近世202P 九條家と金毘羅

決壊中の満濃池
金毘羅領と天領三村

 金毘羅大権現のお膝元・松尾の里(金毘羅)は、金光院院主が領主とする幕府の朱印地でした。そのため課役免除など「治外法権」的な面を持っていました。その東側の榎井村は、満濃池領の天領地で代官所は倉敷にあり、目が届きにくい面がありました。ある意味、金毘羅・榎井村は「朱印地 + 天領」で、幕藩体制下のなかでは「権力の空白地帯」であったようです。それがある意味で、庶民的な自由をもたらし、時にはデカダン風俗等を流行らせ、思想的には幕末の尊王攘夷思想を培養したとも考えられます。同時に、その自由さが門前町こんぴらの顔(文化)と富(経済)を支える発展の基盤になっていたのかも知れません。

金毘羅門前 全体

    こんぴら門前町を支えたひとつに「遊郭」があります。
 「遊廓」については「悪所」として、文化的な立場から捉え直そうとする動きがあるようです。その視点は、次の通りです。

「遊所は身分制社会の「辺界」に成立した解放区「悪所」であったから、日常の秩序の論理や価値観にとらわれない精神の発露が可能であった」

「悪所=遊所」を、文化創造の発信源として、そのプラス面を捕らえ返そうとする視座のようです。
 金毘羅の遊女の変遷を、研究者は次のよう時代区分しています。。
①参詣客相手の酌取女が出没しはじめる元禄期
②酌取女及び茶屋(遊女宿)の存在を認めた文政期
③当局側の保護のもと繁栄のピークを迎えた天保期
④高級芸者の活躍する弘化~慶応期
  そして、最初は禁止されていた「遊女」が門前町の発展のために公認され、制度化されていくプロセスがあったことを以前にお話ししました。同時に「芸を売る」芸者の登場と共に、新たな「文化」の芽生えを感じさえてくれました。
 また、遊女たちを支配する茶屋は、参詣客に食事や遊女を提供するだけではありませんでした。芝居小屋をつくり、その興行を勧進し、見物席チケット販売に至るまで、マルチな営業活動を繰り広げるようになります。
 興行的には赤字を続けた芝居小屋を支えたのは、遊女達に課せられた負担金でした。遊女の支払う貢納金なしでは、芝居興業はできなかったのです。門前町こんぴらの賑わいを支えていたのは、茶屋・遊女たちの陰の存在だったかもしれません。

 金毘羅門前町 高灯籠 大正2年
大正3年の高灯籠
今回は、明治以後のこんぴら遊女をとりまく変化をたどってみようと思います。
 万延元年(1860)秋、北神苑(琴電琴平駅東)の高灯寵が完成します。東讃地方の砂糖会所が発願し、金参千両を募金してできたものです。その門標の碑表に『講外燈上断』とあり、その碑側に、狂歌一首が、私には読めないような流麗な筆使いで刻まれています。ざれうたとはいえ、こんぴらの遊女たちの置かれた姿をよく捉えています。
   紅灯緑酒卜遊女と客と町衆と
   引請は茶屋阿り多けに 置屋中
   給仕めし毛里(飯盛) 跡は志らん楚
引請は「支える」で、ここではお客の評判等としておきましょう。
茶屋は客に飲食、遊興等をさせることを業とする店で、料理茶屋、引手茶屋などで、その中核的存在が「遊廓」です。置屋とは、芸妓、娼妓を抱えておく屋方で、茶屋からの注文に応じて、芸娼妓を派遣する業者です。飯盛女は江戸時代の宿場等で、旅人の給仕を専業とし、ときには売春行為も兼業した。飲食を給仕し、酒の酌をする女で「酌取女」とも呼ばれました。
 こんぴらの遊里は、繁盛するにつれて、町宿と遊女のトラブルもひん発するようになります。町方諸役はその解決のために、
酌取女を置く宿を「茶屋」と呼び、
酌取女を置かない宿を「旅龍」
と区別して、遊女の公認化への道を開きました。

鞘橋・芝居小屋・内町
鞘橋から内町・金山寺町周辺

そのころは、札の前、坂町、内町、金山寺町がこんぴら遊里の中心街でした。
香川県史近世2を、要約すると次のようになります。

『文政七年(1824)頃は、金山寺町界隈が、「遊廓」の街並みであった。旅籠を差し引き、残り八十軒を茶屋とすると、平均三人の遊女がいたとすると全体で240人近くなる。これは当時の金毘羅人口の約十分の一に当たる。』

 金毘羅参拝には、精進落としがつきもので「信仰と快楽」が「コインの裏表」の関係にあったようです。庶民の息抜きの場が、こんぴら門前町という「権力の空白地帯」に形成されます。それを権力者たちも「特定地域の寺社所領地」へ誘い込み、限定することで「安全弁」として容認していた風にも見えます。
 人びとが逗留すれば、それに比例して街は活気を呼び、商いも繁昌します。当時のこんぴらは、今風にの「街起こしイベント(奇策)」にたけていました。その最大の催しが、金毘羅さんの「ご開帳」です。厨子のとばりを開けて中の秘仏を、庶民におがませる行事です。人々は、秘仏を拝み見るためにイナゴのようにやって来て、信仰心を満足させます。そして、次の快楽を求めます。そこで用意された接待が、富くじ、芝居小屋、見せもの小屋、茶屋、みやげ物店等々です。自然に盛り場は、人で溢れるようになったでしょう。
 富くじとは、富突または富とも云ったようです。

17 富くじ

木札と紙札とがペアになっていて、木札を原牌、紙札を影牌と呼びました。影牌を売り出し、期限がくると公開で原牌を箱の中に入れ、上部の孔から錐で原牌を突き刺し、当札を決めるシステムです。今の宝くじのルーツです。これは庶民のギャンブル心を刺激しました。金毘羅金光院院主の山下家と姻戚関係にある京の五撮家の一つ九條家が、幕府の許可を得て、興行されていたので、別名「九條富」とも呼ばれていたようです。現在の公認ギャンブルです。この当辺の決定日には、多くの人が詰めかけました。

宝くじのルーツ、江戸時代の禁止ギャンブル「富くじ」とは【1等いくら ...

「遊廓」からは遊興代(線香代、揚代等の名目)の賦課金を徴収していました。
これが、刎銀とも「不浄金」とも呼ばれた貢納金です。この積立金で、建てられたのが金丸座です。この建物は富興行の場として建てられたものを芝居小屋として使っていました。つまり現在の「金毘羅大芝居」の前身である金丸座は「遊廓」の遊女たちの稼ぎで建てられたことになります。はなやかな上方歌舞伎興行を陰で支えていたのは遊郭であったようです。今でも金山寺町(現・小松町)には「富場」の古称が残っているようです。
4344104-04象頭山と琴平
金毘羅大権現 金毘羅参詣名所図会
 こんぴらさんには朱印地の特権を利用して「飲む、打つ、買う」の三拍子揃った「諸人快楽の歓楽街」が形作られていたようです。それが幕末期の道中案内や名所記等で広く喧伝されます。当時の旅行記の定番は、だいたい以下のような内容でした。

『ことひらの町は、旅龍屋軒をならべ、みやげ物売る店もいらかを競うている、京、大坂、兵庫、室津・鞆港からも金毘羅船が出入りし、丸亀、多度津、善通寺、弥谷寺から道は全て金毘羅に通じている。」

 こうして、こんぴらさんは社寺参詣番付の上位ランクの常連として、巷間に伝えられていきます。人々は「一生に一度は金毘羅参り」が夢となります。
鞘橋 明治中頃
大祭時の鞘橋
 明治維新でこんぴらさんは、二つの試練を受けます。
ひとつは、明治維新の神仏分離です。これにより寺院伽藍から神社への変身を迫られました。
 もうひとつは、明治5年10月20日の「公娼制度解放令」です。
しかし、これは神仏分離れに比べると影響は少なかったようです。その後も、貧しい家の少女たちが年季奉公という法の網の目をくぐって人身売買は続きます。「家」のため遊郭に身を沈める子女が数多いたのです。かけ声だけに終わった「公娼制度解放令」でした。

明治には、内町の中央に「琴平芸妓検番」があって、芸者の数は約160名ほどいたようです。
夕方6時頃になると、日本髭に結った芸者達が箱屋をしたげて左裾をとって、旅館や料亭へ花に出むく風悄が見られたと古老は伝えます。この芸者の置屋(やかた)は、小松町(富場とんば)に多く、銭虎、新もみぢ、高砂などには、それぞれ十数名の抱えの芸妓がいました。小松町は、昔から艶な町で、金丸座があり、それに関係したお茶子(小屋仲居)や舞台方が多く住んでいました。秋田輿市、王尾嘉吉、萩野梅吉と言う人は舞仕方であり顔役でもあったようです。
 小松町に牡丹湯と言う風呂屋がありました。午前11時頃から沸いていて、黒襟の絆纒を着た芸者衆が、杉の小桶に風呂道具を入れて、素足に塗り下駄を履いて、脂粉の香を流して風呂から帰る様子は浮世絵を見る思いだったと古老は回想しています。
   遊女たちにとって、大きな変化は明治30年に訪れます。

DSC01455
内町
金山寺町から新地遊廓(栄町)への集団移転
こんぴら門前町の遊廓は、金山寺(きんざんじ)町 にあり、茶屋・賭場・富くじ小屋・芝居小屋なども立ち並ぶ遊興の地の中にありました。遊女の出入りする茶屋と芝居小屋は背中合わせにあり、遊女と芝居小屋は「同居」していました。

内町・芝居小屋 讃岐国名勝図会

芝居小屋(金丸座)と背中合わせにあった遊郭 (讃岐国名勝図会)

つまり、吉原のように密閉化された存在ではなかったのです。そのため文明開化が進むと「一般の商店や旅館と遊女が混在するのは、風俗上問題がある」と云われ初めます。その対応として、茶屋を特定のエリアに集めるという方策がとられることになります。集団移転先として選ばれたのが金倉川の向岸です。
 明治33 (1900)年に、遊廓は現在の栄町に移転され、新地と呼ばれるようになります。
金山寺町は色街という性格は、失いますが「琴検」 と呼ばれた芸妓検番が置かれ、娯楽の地として賑わいを続けます。

 金倉川畔の栄町に集団移転した遊郭は、大正末期に「琴平新地」と名前を改め、女の館は軒をつらねて色里を形成します。それは、戦後の一時期まで盛況を極め、親方連(棲主)はわが世の春を迎えます。
7 琴平遊郭1

戦前の新地遊廓(栄町)は?
 新地遊廓の北側の入口は、高灯籠の隣のコトデン琴平駅横になります。かつては、この前は食堂や観光案内所が立ち並んでいたようです。そして 戦前は約2000坪の空地で、凧揚げや盆踊りが催されていたようです。
 昭和10年(1935)頃、ここで矢野サーカスが1カ月ほど興行したり、大相撲が来たこともあるようです。 この頃の琴平は、JR以外 に琴電(コトデン)、琴参(コトサン) (昭和 38年廃線)、琴急 (コトキュウ)(昭和 19年廃線)の4つの鉄道が乗り入れていました。各線の駅も新駅が相次いで完成し、多くの参拝客が乗り降りします。
 当時の琴平には2軒の映画館があったようです。1軒は、金毘羅大芝居の小屋 ・金丸座を引き継いだものです。 もう1軒は栄町の新地遊廓に隣接していた金陵座です。 金陵座は明治末期に外観を金丸座を真似て建てられた劇場風映画館でした。
さて、戦前の新地遊郭を図1で見てみましょう
新地内は、貸座敷でほどんどが占められていたことが分かります。その周辺 に旅館、料亭、カフェーが立ち並んでいます。ここを利用するのは、参詣客が主だったようです。旅館や料亭には、金山寺町の 「琴検」から芸者連が御座敷に通ってきました。 カフェーの蓄音器から流行歌が流れ、女給達が外で熱心に客の呼び込みをし、客は酒を飲んで歌ったり、ダンスホールほど広くない店内の机の隙間でダンスを踊ったりもします。
 しかし、それも日中戦争が激化する昭和15年頃になると、御座敷は軍によって禁止されます。それでも、遊廓は残されたようです。そこには日曜日になると善通寺の11師団の兵隊連が大勢やってきました。武運長久を祈願し、その後は精進払いという段取りだったようです。
 戦時中になると新地遊廓の客は、以前とは打って変わって兵隊ばかりになります。しかし、それも、戦局が悪化すると新地を訪れる者はいなくなり、静まり返ってしまいます。

 戦後の琴平新地 栄町は? 
敗戦後、日本を占領統治したGHQ(連合国軍総司令部)は、昭和21年に「公娼廃止」の指令を出します。これで、公娼制度は消えたはずでした。
戦後日本の公娼制度廃止における警察の認識

しかし、内実は管理売春を禁止しただけで、個人の自由意志による売春は「自由恋愛」と称して、エリア限定で容認されます。同年十二月の内務省通達は、一定地域内での「特殊飲食店」の営業を認めます。そのエリアは、警察署の地図に赤い線に囲まれていましたから、これらの特飲街を総称して「赤線地帯」と呼ぶようになります。

7 琴平遊郭45

こうして遊郭は前後も、「赤線」として生き残ったようです。かつての遊女屋は、警察の許可をもらって、新たな特殊飲食店の名で公然と売春行為を続けます。看板が変わっただけのようです。

DSC01456栄町 稲荷神社
栄町の稲荷神社
 琴平の新地栄町も、その例外ではなかったようです。
 敗戦直後の様子を当時の新聞は、次のように伝えます。
こんぴらの街には通称「金山游廓」があった。明治の末期、この金山寺遊廓は発展的に解消して金倉川畔の現在地に集団移転、のち大正末期に「琴平新地」と改称され、現在にいたった。敗戦後の混乱期、とくに二十二年から二十五年までの四年間が一番もうけたと業者は述懐する。
 ○…当時の琴平町は労組の全国大会があいついで開かれ、地元は”労組ブーム”を現出した。その語り草の一つに、新地が一番歓迎したのがなんと日教組の代議員だったという。事実、ある業者は労組のなかで最高の水揚げ高を示したのが日教組だったといっている。三十軒、約百五十人の従業婦をかかえて文字通り、わが世の春をオウ歌していた
ここからは、琴平新地に活気が戻ってきたことが分かります。
そして、戦前に廃止された芸者が琴平の町に再び登場します。 昭和27年7月に、全国の花柳界に先がけて 「琴平技蛮学校」が開校します。この学校を卒業 した芸者達は、戦後の琴平観光名物の一つとなっていきます。
昭和30年代には、琴平には5軒の映画館がありました。
そのうち次の3軒は栄町に集まっていました。 
希望館は戦前からあった金陵座を改名したもの
日本館は昭和28年に建設され、ダンスホールを併設
琴平松竹座は昭和31年に建設され、深夜上映館
ここからも、栄町が琴平の娯楽の中心の盛場だったことがうかがえます。

DSC01454
琴平栄町

 この頃の思い出を、当時の人は次のように語っています
「夕方四時半 くらいになると、映画館が大音量でスピーカーからレコードの歌を流すんですね。これが今では考 えられないほど大きな音で、これは宣伝効果が大きかったですよ。ひとたび歌を聞いてしまうと、 じゃ、映画でも行くかって気分になってしまうんです。」
戦時中に、すべての娯楽が国策のもとに奪われていた人々は、映画に夢中になります。5軒の映画館は、映画会社が別系列だったため上映作品が違っていて、映画館のはしごをする人も少なくなかったようです。映画館が、娯楽の殿堂あった時代です。
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これに対し、新地の「特殊飲食店」(赤線遊郭)は、参詣客が商売相手でした。
そのことを地元の人は次のように話しています。
「子供の頃は新地の中を通っていっても全く相手にされんかったけれど、戦後はハタチ超えてたからね。映画館行くのに新地通ると近道だったんで、よく中を通っていったけれど、たまに新人のねえさんに"兄さん遊んでいかんの~?"って腕をつかまれたりしましたよ。 それを見た顔見知 りのベテランさんが "これっ、あの人は地元の人だよっ" と新人さんをたしなめているんです。声が聞こえてきちゃうんですよ。 あの頃は道に女の人がいっぱい並んでいたよ。」

 新地は、一般の民家や旅館に隣接していましたが、塀や柵に囲まれることはありませんでした。

7 琴平遊郭2
 琴平栄町
しかし、参詣客用に新町通り側に2カ所の入口があり、そのうちの一方にはアーチが建てられ、「新地入口」と書かれた傘のついた電気がぶら下がっていたといいます。

金刀比羅宮 栄稲荷神社にて「栄稲荷神社例祭
琴平栄町の稲荷神社
 遊女と稲荷神社は切っても切れない関係です。
お稲荷さんは性的な感染病に効能があると信じられてきました。栄町にも、映画館の希望館 (金陵座)のとなりに、稲荷神社があります。この稲荷は栄稲荷神社と呼ばれ、毎年8月に栄町の有志で夏祭りが行なわれ、当時は氷屋、果物屋、アイス屋など露店商が立ち並び、賑わっていたと云います。

DSC01453栄町 遊郭跡

 琴平随一の盛り場として名を馳せていた琴平新地のネオンを消したのは「売春防止法」でした。
この法律の第一条(目的)には
「売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだすものであることにかんがみ…(下略)」、とし第二条で売春を次のように定義します。
 (定義)「売春」とは、対償を受け、又は受ける約束で、不特定の相手方と性交することをいう」
この法律が昭和32年4月1日から施行され、刑事処分が翌年から課せられることになります。
7 琴平遊郭売春防止法

 香川県警本部防犯課調べによると、昭和三十二年九月時点で、琴平新地の業者は三十軒、接客婦八十四人。すでに六軒が廃業し、残り三分の一も休業状態とあります。
 接客婦の出身地別では、
四国以外が31、四国島内30人、香川県内23人、近郷1人。
年齢別は、40歳を最高に大正生まれ6人、最年少は19歳、残りすべてが昭和生まれで、20~25五歳がもっとも多かったようです。
最後に、こんぴら遊郭の最後を記した新聞記事を見てみましょう
   
 「赤い灯は消えた。こんぴら名所の一つ赤線地帯
            ③山陽新聞・香川版 昭和33年4月5日所収。

去月三十一日午後十二時の最後のどたん場まで店を張って六十有余年の遊郭史に終止符を打った琴平新地。売春防止法全面実施後の同地を訪ねて、業者の転廃業、従業婦のその後などをきいてみた。
 ○…転廃業期における琴平新地の二十八軒の業者のフトコロ具合は、三分の一は一年以上の食いのばし可能、三分の一は一年以内ならまず安泰、あとは足元に火のついたも同然の組だったらしい。そこで問題の転業実体をみると理髪店、お好み焼、オートバイ修理と販売、魚屋などはまじめな転向だが、「女の城」で蓄えた財産をもとに高利貸を開業したのが二軒ある。また棲主が老人だったり未亡人だったりして「簡易旅館への板替」というのもある。
「検番事務所」は三十一日から「売家」のハリ紙が出されている。

○従業婦の更生保護の面はどうなったか。

スズメの涙ほどの更生資金の貸付を受けて自立しようとした者は1人もいない。その原因は貸付の条件がきびしいことやわずか数万円で抱束を受けたくないという女性心理が動いているためといわれる。最後まで店を張った五十余人の女性は、それぞれ棲主から最高二万円の退職金と旅費をもらって帰郷したというが、退職金名義にしろ、万と名のつく金を支給したのはほんの数軒、大半は旅費支給程度だった。

 これについて十川元副組合長は「業者もそれぞれフトコロ具合が違う。組合で統一の話も出たが実現不可能だった。それに従業婦自身もすでに今日あることをよく知っており、中には銀行預金八十余万円という者もあり、例外は別として、平均数万円の貯金はしているので、衝突はなかった」といっている。
新潟日報昭和三十三年(売春防止法施行時)の新聞記事 | お散歩日記

○…明るい話題の一つを拾うと
なじみ客とのロマンスが実を結び結婚にゴールインしたのが五組ある。だがこの半面には帰郷後、出身地で安住できる可能性のある者は約二割程度、その八割近くは帰っても家が貧しかったり、複雑な家族関係だったりして身のふり方にも困る気の毒な女性たちだ。
 抱え主さえどこへ行ったかわからない者、さらに行くあてのない従業婦が各棲にまだ二、三人は残留している。これらは毎月、家族(親ないし子供)ヘー万円近い送金をつづけていたクラスで、A子さんは「いまさら別の働き口を捜しても食って、着て、家に送金できる仕事はない。やはり水商売の世界に身を沈めるより仕方がない」と告白していた。
 一方帰郷したものの周囲の人々の異端者扱いや白眼視にがまんできないと再び舞いもどった例もある。普通旅館の仲居さんや土産品店の売子に転向した者もすでに半数近くが辛抱できず姿を消したという。これらの実例を拾ってゆくと、やはり場末の酒場や青線地帯へ流れ込んで。単独売春やひモ付売春のケースに再び転落しているのが実情といわれ、結局、いままでの赤線売春から潜行売春に移り変るものが多いと関係筋はみている。』

7 琴平遊郭7

こうして昭和33(1958)年に琴平新地遊廓の60年間の歴史は閉じました。
その後の栄町は、ソープランドやバー ・スナックが散在する 「夜の街」という性格は今でも持ち続けています。赤線当時は参詣客が主でしたが、今は地元の常連客がほとんどになっているようです。 栄町は、参詣客を相手にした門前町特有の賑やかな 色街から、赤線廃止後徐々に、地元の人に利用されるこじんまりとした小盛り場へと変遷してきたようです。

金刀比羅宮 栄稲荷神社にて「栄稲荷神社例祭2
琴平栄町の稲荷神社の例祭
追伸
栄町の稲荷町は、現在は金刀比羅宮の末社になっています。そして、例祭が行われています。
金刀比羅宮 栄稲荷神社にて「栄稲荷神社例祭4
琴平栄町の稲荷神社とおいなりさん
    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
因藤泉石  こんぴら遊廓覚書 
『売春防止法施行』で消えた赤線地帯  こんぴら 50号

 前 島 裕 美(まえしま ・ひろみ)
お茶の水女子大学大学院人間文化研究科
 香川県仲多度郡琴平町新地遊廓周辺の復原


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