瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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金毘羅庶民信仰資料集 全3巻+年表 全4冊揃(日本観光文化研究所 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

1979(昭和54)年に、金毘羅さんに伝わる民間信仰史料が「重要有形民俗文化財」に指定されました。指定を記念して金刀比羅宮から調査報告書三巻と「年表編」が刊行されました。この年表を手にしたときに驚いたのは、近世以前の項目がないのです。何かのミスかと思いましたが「後記」を見て納得しました。
  この年表を作成した金刀比羅宮の松原秀明学芸員は、後記に次のように記します。

 金毘羅の資料では,天正以前のものは見当らなかった。筆者が,この仕事に当っていた間に香川県史編さん室でも,広く県内外の資料を調査されたが,やはり中世に遡る金毘羅の資料は見付からなかった様子である。ここでも記述を,確実な資料が見られる近世から始めることとした。

「金毘羅庶民信仰資料集」の「年表篇」を作るように言われてお引受けしたのは「第一巻」が出版された昭和57頃であった。それ以後,暇ごとに手近な資料から「年表」の材料になると思われる事柄をカードに書取って,それがかなりの分量になり,時間的にもこれ以上遅らせなくなったところで,年月順に並べて書き写したのがこの年表である。 
それでは松原秀明氏による年表の18世紀半ばまでの部分をアップしておきます。

1581 天正9 10.土佐国住人某(長曽我部元親か)、矢一手を額仕立として奉納。
1583 天正11 三十番神社葺替。
1584 天正12 10.9長曽我部元親、松尾寺(のちの金毘羅)仁王堂を建立。
1585 天正13 8.10仙石秀久、松尾寺に制札を下す。
10.19仙石秀久、金毘羅へ当物成十石を寄進。仙石秀久、源信国作太刀一振を献納。
1586 天正14 2.13仙石秀久、金毘羅へ三十石寄進。
8.24仙石秀久、榎井村六条の内を以て、三十石寄進。
1587 天正15 1.24生駒親正、松尾村にて高二十石を献ず。
1588 天正16 7.18生駒一正、榎井村にて二十五石寄進。
1589 天正17 2.21生駒一正、小松村にて五石寄進。
1594 文禄3   8.10宥盛、松尾寺再興のため勧進帖を撰す。
1596 慶長1   3.5別当大僧都宥厳、観音堂に鰐口奉納。 7.上旬宥盛「破禅抄」書写。         
1597 慶長2   4.14宥盛「色葉経」書写。 5.下旬宥盛「南台門僧正空海記」書写。
1598 慶長3   8.1榎井村久右ヱ門より田地寄進。 
9.8大井八幡宮遷宮、導師善通寺誕生院尊翁、金光院宥厳・宥盛奉仕。
1600 慶長5   12.13生駒一正、院内にて三十一石寄進。
下川家初代帥坊、紀州下川村より移る。宥厳没、宥盛入院。
1601 慶長6   3.5生駒一正、諸国より金毘羅へ移住する者の税をゆるめる。
28生駒一正、金毘羅へ四十二石五斗寄進。
4.11生駒一正、三十番神社を改築。摩利支天堂・毘沙門天堂創祀。
1603 慶長8   「金毘羅山神事頭人名簿」書き始められる。
1604 慶長9   1.宥盛、禁戒文を撰す。護摩堂創祀、本尊不動明王造像(雪津入道作)。
1605 慶長10 1.土佐出身の片岡民部、宥盛の弟子となり、多聞天の像をもらって多聞院を名乗る。
宥盛、先師宥厳菩提のため、自ら如意輪観音を彫む。
1606 慶長11   3.宥盛高野山浄菩提院を兼任。 
  10.宥盛、自らの木像を彫み台座に「入天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛」と彫込む。
1607 慶長12   4.2生駒一正、生駒将監名にて、那珂郡高篠村にて三十石寄進。
生駒一正、浅井周防名にて、七ヶ村真野にて十石寄進。 
5.先の松尾寺住職宥雅、宥盛を生駒家へ訴える
6.宥盛、宥雅の訴えに答えて目安を撰す。 
9.6生駒一正、寺高諸役免許のことなど安堵する。 
9.21生駒一正、浅井喜八郎名にて、買田村にて十石寄進。
10.20生駒一正、浅井周防名にて、七ヶ村真野にて五石寄進。
1609 慶長14   9.6生駒一正、先規により、城山称名寺山を献じ、寺領諸役免除を安堵。
1610 慶長15   8.7生駒一正、浅井右京名にて、金毘羅へ出入する米の道切手を遣わす。
1611 慶長16   薩摩国島津義弘より紺紙金泥金剛不空三摩耶経二軸を献納。
1613 慶長18   1.6宥盛没。宥睨入院、実家山下家が、この頃豊田郡河内村から金毘羅へ移住。
14生駒正俊、城山称名寺山を従来の如く献じ、寺領諸役を免除する。
16生駒家より作事用木を寄進する。また寺領並びに称名寺分高八十石の諸役を免除
1614 慶長19   8.生駒家家老香川与三兵ヱより五条村にて初穂米寄進。
多聞院宥哩、土佐へ退去。金剛坊創祀。
   ※慶長年間 観音堂改築。
1615 元和1   長修理頭、金光明最勝王経十巻を献ず。
1616 元和2  木村家、寒川郡鶴羽村から移住。荒川家、鵜足郡栗熊村から移住。
1617 元和3   2.21生駒正俊寄付の鐘できる。
1618 元和4   3.10生駒正俊、先規により院内廻り七十三石五斗、苗田村五十石、木徳村二十三石五斗ばかりにて、百四十七石寄進。
閏3.10生駒正俊、金地着色三十六歌仙扁額三十六面寄進。
1620 元和6   9.生駒正俊、鐘楼堂建立寄進。
10.6生駒正俊、会式につき、八日より十一日まで米出入の儀に異議なき旨を申達す。
1621 元和7  5.18宥睨、法印となる。
11.28生駒高俊、五条村にて百石寄進。都合神領二百四十七石となる。
また、寺高諸役免除のことなど保証する。
1622 元和8   8.15生駒家よりの寄進、三百三十石となる。
1623 元和9   金毘羅本社でき、古堂は行者堂に引直す。
東元和年間、宥盛の弟子寛快、普門院を再興。
1624 寛永1   観音堂改築、宥睨、装飾のため擬宝珠を作らせる。
金倉川に鞘橋が架かる(元和七年とも)。
1626 寛永3   宥睨、多聞院宥哩に帰山の書状を遣わす。
1627 寛永4   9.10生駒円智院より頭屋米十石寄進。
1628 寛永5   菅納家、備前金川村より移住。竹川家、三野郡財田中ノ村より移住。
1629 寛永6   6.宥睨の付弟宥儀、高野山にて「金剛界念誦次第」(遍智院本)書写。
1631 寛永8   多聞院片岡家、土佐国より再度移住。A宥睨の付弟宥儀没。
1633 寛永10   12.荒川家より一ノ鳥居建立寄進。
小国小兵ヱ移住。付添って、備前岡山生れの塩屋惣四郎も移住。
1634 寛永11   1.岩手宗也、独吟和漢連句を奉納。
1635 寛永12   6.宥典、高野山にて「智袋」を求む。
1637 寛永14   11.2宥睨、京都嵯峨大覚寺宮御令旨により上人位となる。
1638 寛永15   11.里村玄陳、自筆「詠歌体」一冊奉納。A大覚寺宮尊性法親王参詣。
1639 寛永16   生駒高俊、頭屋米四十石寄進。
1640 寛永17   生駒高俊、讃岐国大絵図一舗を奉納。生駒家改易。
受城使として尼崎城主青山大蔵小輔参詣。
1642 寛永19   1.10別当宥睨、里村玄陳等を招き連歌を興行。
5.松平頼重、高松に入城 天領池領(五条村・榎井村・苗田村)設置。
1643 寛永20   丸井小助(虎屋惣右ヱ門:虎丸旅館)、豊田郡丸井村より移る。
   高松藩船奉行渡辺大和、玄海灘にて霊験を蒙る。
   ※寛永年中、荒川九郎兵ヱ、初めて町年寄役申付けらる。中村家、京都より移住。
1644 正保1   大井八幡宮改築。                                  
1645 正保2   1.6宥睨参府、将軍家光に御目見。
5.幕府寺社奉行宛、社領三百三十石に御朱印頂きたき旨願い出る。 
11.3宥睨没、五十一歳。 12.宥典入院。
] 寺中役人等より先代同様疎意なき旨の連判状をとる。
高松城主松平頼重、三十番神社を改築。大行司堂改築。
1646 正保3   1.21宥典、大覚寺宮御令旨により上人位となる。 2.宥典、将軍に謁す。 
11.25普門院・菅孫左ヱ門・木村猪右ヱ門等、三十番神社社人松太夫・権太夫の儀につき神文を差出す。
12.伊福院追放。宥典、再度参府。
1647 正保4 10.松平頼重より、寺社奉行安藤右京進・松平出雲守に金毘羅へ朱印状下されたき旨願出
 ※正保年間 尾崎家初代八兵ヱ召出される。
1648 慶安1   1.6宥典、将軍家光に謁す。 
2.24将軍家光、金毘羅権現社領、那珂郡五条村内百三十四石八斗余、榎井村内四十八石一斗余、苗田村内五十石、本徳村内二十三石五斗、社中七十三石五斗、都合三百三十石を先規に任せ寄付し、山林竹木諸役等免除の旨の朱印状を授く。
3.17初めて朱印状を頂戴す。 8.26松平頼重、参詣一宿。
松平頼重、三十六歌仙扁額奉納。従来の参詣道を変更して大略今日の如く改める。
1648 慶安2   1.松平頼重から用材の寄進を得て大門上棟。 
6.21三十番神社社人松太夫・権太夫のことで出入あり、この日、山下・菅納・木村などの諸家の取扱にて落着。
1650 慶安3  12.松平頼重、登山参龍して和歌を詠ず。
松平頼重、阿弥陀仏千体を寄進、これを阿弥陀堂に合祀し、以後この堂を千体仏堂という。
松平頼重神馬並びに飼葉料として毎年米三十石寄進。
1651 慶安4   8.松平頼重寄進の木馬舎上棟。仁王門を廃して中門とする。大門改築竣工。
新たに仁王像を作り、これを大門に安置。のち大門を仁王門と呼ぶ。
松平頼重、神馬舎に木馬を寄進、飼葉料は従来のままとする。
  ※慶安年間 京都仏師田中家二十五代弘教宗範、御内陣の獅子高麗彫刻。
1653 承応2   10.12京都智積院の学僧澄禅、四国順拝の途次参詣し、真光院に宿る。
12.17社領に宿かしのこと、博突停止のことなど触達す。
1654 承応3   10.里村玄陳等、石燈箭一対奉納、榎井長兵ヱ長好取持。
松平頼重より、二品良尚法親王筆「象頭山」「松尾寺」の額奉納、「象頭山」を仁王門に掲げる。
1655 明暦1   1.松平頼重、明本一切経奉納。 10.丸亀福島橋西畔に金毘羅屋敷普請成就。
12.20高松の金毘羅屋敷の地所を買取る。
従来の雪津入道作護摩堂本尊を廃し、伝智誼大師作不動尊像にかえる。
1656 明暦2   5.10松平頼重、自筆の「讃州路象頭山縁起」を奉納。
  池領の者、丸亀領佐文村へ入込み、入割になったのを調停に入る。
1657 明暦3   3.町方へ吉利支丹宗門のこと、旅人宿のことを申渡し請書を取る。
1659 万治2   4.10御本社下遷宮。 6.13京都大徳寺の天祐紹呆参詣。 8.28御本社上遷宮。
9.13善通寺内十善坊・常林坊、境内に潜入のところを見咎められ詫状を書く。
観音堂を御本社脇より下向坂方面に移転改築。
金剛坊を御本社前脇より観音堂脇に奉遷し、間もなく観音堂後堂に移転。
小松庄内の寄進にて、鐘楼のもとに鳥居建立。御祈祷参箭所移築。
1660 万治3   10.10松平頼重、一切経蔵を建立寄進。
本地堂創祀。中門に京都仏師田中家二十五代弘教宗範彫刻の持国・多聞の二天を安置、以後中門を二天門と称す。
丸亀城主京極高和、江戸三田の藩邸に金毘羅権現勧請。大阪の金毘羅屋敷造営。
 ※万治年間 日比常真「象頭山十二景図」を描く。
この頃、塗師五兵ヱ(のち役人河野家)備前岡山より移る。
1661 寛文1   3.15松平頼重、千体仏堂を改築。
1662 寛文2   3.高松大本寺日誓、経蔵一覧の碑文を撰す。
1665 寛文5   4.吉利支丹宗門の儀に付、念書を取る。 
7.11将軍家綱、社領の朱印状を授く。 9.28松平頼重参詣、願文を奉る。
1666 寛文6   7.1社領内へ博突停止などの触を出す。宥典隠居。宥栄入院。
1667 寛文7   1.15宥栄、将軍家綱に謁す。 
2.宥栄、大覚寺宮御令旨により上人位となる。 
9.28宥栄、神野大明神本尊鎮座法楽理趣三昧導師を勤める。
1668 寛文8   1.10松平頼重、石燈箭両基献納。
10.10僧一死、慶安元年四月房州平群天神山で拾得した不動尊を奉納。
多度郡生野村出生の大工棟梁平八(西屋、川添姓)、当所高藪町に移住。
1669 寛文9   1.10松平頼重、石燈龍両基献納。 11.15古田古畑たばこ作りのことで触達す。
1673 延宝元  11.10松平頼重、金毘羅大権現神供領、千体仏堂領並びに神馬領高五十石、
また金光院内王祠供料十石を寄進。
安房勝山城主酒井忠朝より古語二幅が献ぜらる。 
  2.19松平頼重隠居、嗣子頼常が継ぐ。
  5.3松平頼重、石燈販献納。12.松平頼重、多宝塔を建立寄進。
1674 延宝2  18.10池領の者たち、社領内で理不尽に池を掘る、高松藩より竹井西庵、郡代・大庄屋召連れ検使に来て調査の結果、社領に間違いないことを確認、松平頼重の命として、以後このようなことのなきよう申付らる。
1675  延宝3  11.吉野屋長治郎外八名、土佐光信筆「源氏物語図」額奉納。
閏4.瓦師久兵ヱ、備前岡山より移住。6.16社領と池領と地替え済み。
11.19右の件、公辺より裏書下さる。。25宥典没、五十九歳。
1676   延宝4  伊予国宇摩郡川之江より伊予屋市兵ヱ移住。
  多度郡中村出生の張物師大津屋権六郎移住。
1677   延宝5  9.10有馬玄蕃頭頼利室清涼院(松平頼重娘)、六歌仙扁額奉納。
護摩堂改築、旧護摩堂を移転改築して釈迦堂創祀。
1678  延宝6   5.14宥栄、先師宥典菩提のため阿弥陀堂廊下造築、奉行松寿院典醒。
のちの江戸湯島霊雲寺開山の浄厳参詣。
1679  延宝7  孔雀明王像を造る。また護摩堂の諸仏四大明王・十二天・八大童子像を造る。
丸亀藩主京極高豊、江戸三田の金毘羅祠を、虎の門の新邸へ遷座。
1680 延宝8  宥栄、将軍綱吉に謁す。
 ※延宝年間 狩野安信・時信筆「象頭山十二景図」なる。
1682 天和2   9.25俳人岡西惟中参詣、木村寸木邸に宿る。翌日、金光院に遊ぶ。
1683 天和3   宗門指出帳宛名、木村権平・荒川伊兵ヱ(三代)。
 ※天和年間 三井道安金毘羅小坂に住居。
1684 貞亨1   9.26宥栄、満濃池池宮大明神の本尊鎮座法楽導師を勤める、願主矢原政勝。
1685 貞享2   6.11将軍綱吉、社領の朱印状を授く、
俳人大淀三千風、金光院にて「不二の詞」を撰すo
         12.18古酒八分、新酒六分、豆腐十二文と値を決める。座頭への施物は軽く、日用賃一日一人七分と触達す。
この頃、谷川も町並みになる。
1686 貞享3   7.26大雨洪水、鞘橋流失。 10.3高松の城にて、将軍綱吉の朱印状を頂く。
1687 貞享4   9.9大風にて神林の松損木多し。材木にて鞘橋普請、川筋の石垣も出来る。
 ※貞享年間の頃 役人牧野家・高木家・東條家・医師安藤家、召し出さる。
1688 元禄1   3.28社領内、鉄砲所持の分書出す。金毘羅十日講銀にて頭屋米百石買上げる。
宥弁真念の「四国辺路道指南」刊す。
1689 元禄2   4.博突・遊女停止のこと申渡し、請書を取る。
9.11松寿院典醒を以て社領内鉄砲を高松矢倉へ納める。 9.社領内総鉄砲数七十挺。
11.高松より、境内にて殺生禁止、また山林竹本伐るべからざる旨の制札を二枚下さる。
小書院普請。寂本撰の「四国遍礼霊場記」刊。
1690 元禄3   「日本行脚文集」刊、大淀三千風撰。
1691 元禄4   7.11宥栄隠居、宥山入院。 11.宥山参府。 12.宥山、江戸にて霊雲寺浄厳と往来あり。
1692 元禄5   1.15宥山、将軍綱吉に謁す。
1693 元禄6   1.15宥栄没、六十四歳。
1694 元禄7   3.石槌山前神寺金毘羅堂に燈龍建立。 6.上旬御本社葦替。
7.9日向国細島の六兵ヱ・伜三之丞、佐田の沖にて霊験を蒙り難船を免れる。宥山その事を書誌す。
10.宿貨し・遊女・博突停止のことなど触達す。
予州宇摩郡天満村寺尾氏春、苗田村にて石燈龍奉納。
唐国雷音博「讃州象頭山十二境詩」撰す。
1695 元禄8   4.松平頼重没。 8.15六角越前守広治、願文を捧ぐ。
9.宥山の求により、高野山義剛、「覚禅抄」に朱点を付ける(元禄十一年まで)。
九月吉日、本地堂棟札、奉行坂上庄兵ヱ、大工吉田久右ヱ門。
町方升屋三平と三野郡上高野村百姓助九郎との田地に関わる訴訟、升屋三平非分となる。
1696 元禄9  2.5宥山、権律師になる。 3.予州宇摩郡中之庄坂上羨鳥、銅燈龍献納。
坂上羨鳥撰「簾」刊。
1697 元禄10   1.10浄厳、「金毘羅神勘文」を撰す。熊谷立閑「讃州象頭山十二境詩」撰す。
家内並に家来を召連れた浪人小河弥三郎、江戸へ出向き、以後社領住居の浪人はなく、浪人帳も廃す。
         町方にて喧嘩をし、相手を突殺した鍛冶伝右ヱ門、高松へ頼み斬罪申付らる。
1698 元禄11   大井八幡宮神門再興。宗門指出帳宛名、木村権平・荒川伊兵ヱ。「あしろ笠評リ、僧露泉編。
1699 元禄12   1.14松平頼豊参詣し、剣一振・黄金十両など奉納。4.10宥山、権少僧都となる。
観音堂開帳。観音の御影新刻さる。この頃、雲外車竺外「象頭山十二景詩」を撰す。
1700 元禄13   「金毘羅会計」、木村寸木編。
1701 元禄14   3.高野山通玄の法華経講鐘あり、町方へ聴聞衆への応待心得を触達す。 
5.松平頼豊、神供領・千体仏堂領並に神馬領高五十石安堵。
1702 元禄15   6.10本社屋根葺替。 7.20宥山、権大僧都となる。
8.29高松藩儒菊池武雅参詣一宿、宥山と詩の応酬あり。
9.池領代官遠藤新兵ヱ、榎井村着。多聞院尚範・山下弥右ヱ門盛安外挨拶に出向く。
寒川郡志度村金兵ヱ、御前四段坂に銅包本鳥居建立寄付。宥山、金兵ヱに感謝の詩を贈る。
1703 元禄16   3.3子供芝居寺へ上る。座本権左ヱ門・太夫本嵐勘四郎、お目見。 
3.池領榎井村の遊女を残らず追払った旨、札之前町組頭より届出あり。
4.11下屋敷にて宗門改。
  ※元禄年中 余島屋茂右ヱ門(のち吉右ヱ門)当地へ移住。
元禄末年 岩佐清信に「象頭山祭礼図屏風」を描かせる。
1704 宝永1  真光院引直し造作。
6.8姫路城主本多忠国より鶴奉納、豊島松翁立合にて、神前にて放す。
10.5大芝居・竹田代り浄瑠璃芝居の桟敷のこと申付る。
1705 宝永2   春。松平頼重二男靭負、東海道赤坂駅にて怪猫の難を免る。
5.2宥山、京都仁和寺宮御令旨により法印となる。
5.坂上羨鳥、手水鉢献納。 11.8宥山、多聞院に赴く。
1706 宝永3 3.9新町にて、阿州白地の長右ヱ門、白狸を見せ物にする。
3.20宥山、菅納三郎兵ヱ方へ出向く。
12.山奉行はじめてでき、河野助左ヱ門に申付ける。
町人布屋源四郎、金倉寺領三十石のうち十七石七斗買取る。
長崎浦上の無凡山神宮寺に金毘羅権現勧請。
1707 宝永4   2.19広谷庵上棟。 3
.26酒奉行呼あげ、上酒一匁八分・中酒一匁五分・下酒一匁二分を、高松なみに上酒一匁六分・中酒一匁三分・下酒一匁に値下申付る。
4.10役人小川又兵ヱ方にて不動講あり。
1708 宝永5   7.宥山後嗣宥曼、江戸湯島霊雲寺において「真言事」書写。
8.宥山、仁和寺院家自性院兼帯。
9.10高松城主松平頼豊より太刀一振献納。
9.24宥山の実父山下道移寄進の広谷庵地蔵菩薩供養。
10.7寺にて芝居。西山の片岡家、召出される。
1709 宝永6   1.23将軍家宣、庖癒につき、高松より平癒祈祷の依頼あり。
3.26酒運上御免。 4.17宥山出府に付、高松にて五十挺立船拝借のこと整う。 5.10宥山、権僧正となる。 6.1宥山、拝天顔。。14宥山の後嗣宥曼没。
7.1宥山、将軍家宣に謁す。
8.豊後の俳人来拙、木村寸本を訪う。
9.1当役所内、当番の者袴着用申渡す。
10.1芝居の者お目見。別宗祖縁外「和象頭山十二景詩」を撰す。
1710 宝永7   6.1太鼓堂上棟、宥山、普門院にて見物。参詣人多し。
7.11巡見使、宮崎七郎右ヱ門外社領通過。
10.15菅納源左ヱ門・近藤九郎左ヱ門・片岡松蔵三人に日帳を記すよう申付る。
        11.18町方木村平十郎外寒気見舞に登山。
城州伏見鍛冶職忠右ヱ門を当処へ呼下しお目見。
  ※宝永年間 銅華表建立。宝永初年、金川屋小次郎、備中成羽より移住。
宝永末年、三野郡財田中ノ村より渡辺家召出され移住。
1711 正徳1   1.12丸亀妙法寺看坊参詣、札守を受ける。
3.土州山御用木元締大橋屋源助外、太鼓堂造立料として小判百十両寄進。 4.29木村新右ヱ門、上方より帰り挨拶に登山。
6.6木村平十郎外、御留主見廻に登山。 10.3多聞院へ不動尊を下さる。 11.16高松より為替米代金の請求あり、町方へその段申渡す。
25予州松山の浄熊と中す座頭、中之庄坂上半兵ヱより大野原村平田源次へ頼み、源次より山下弥右ヱ門へ頼み、宥山、中之間にて三味線を弾かせる。
1712 正徳2   3.1多度津藩主京極壱岐守高澄より石燈龍寄進。。
2智貞(宥山実母)死去に付、近国の座頭集り取り遣りあり。
4.3多聞院尚範死去、四代目慶範家督。
12金川屋小次郎に菓子の御用申付る。 6.5引田屋(荒川)安太夫に閉門申付 
7.10智貞様追善のため町方べ接待。23豆腐値段申付る。念仏踊、御成門の外にて躍る。
8.14大井宮造営に付、白銀五十枚寄進。17大井宮へ材木二本寄進。
9.28大井宮普請に付、行器五荷、酒二斗遣わす。10.1神輿出来る。
12.7小川又兵ヱ・矢部惣右ヱ門へ社領境目調べるよう申付る。
1713 正徳3   2.3高松城より能の案内あり。5宥山、高松へ出向く。
25池領と社領との境を決めようと那珂郡高篠村庄屋千葉弥三郎より申出あり。 
4.22堺目見分のため高松役人・池領代官所役人到着。 
5.2大坂泉屋(住友)吉右ヱ門より、小守を遣わした御礼物が届く。
13引田屋安太夫の件で、多聞院高松へ出向く。28宥山、将軍家継に謁す。
6.29池領御巡見役人登山。7.2那珂郡大庄屋より雨乞願出る。
10智貞様追善のため、坂下にて接待、広谷坊主に世話申付る。
9.17五三昧庵主死去、それに付、後役真言道心の隨な者をおくよう申付る。
広谷坊主・五三昧庵主とも普門院弟子の振合。
23伊予屋半左ヱ門、片原町の家屋敷売払う。 10.8神馬屋に盗人入る。
12、7日より十二日まで夥しい人出、前代未聞。
12.18五条村五郎左ヱ門登山、大井宮遷宮成し下されたく願出る。
1714 正徳4   1.11堺目見分に付、高松領庄屋たちと当山役人が出会う。
15菅納三郎兵ヱ婿米屋文三郎、御目見、宥山より下され物あり。
20鍛冶忠右ヱ門、大工同様扶持下さる。
2.23高松買津屋作左ヱ門、初めてお目見え差上げ物あり。
3.4内町引田屋安太夫家屋敷、同族大黒屋助次郎に売渡す。
3.18宥山実父山下盛貞没、七十八歳。
4.22松平頼豊より、盛貞死去の悔状まいる。
5.7境目のこと埓明き、塚を築く。 6.20庚申待無用に申付る。
28前屋敷にて宗門判。
7.10満濃村庄屋登山、那珂郡中より五穀成就の祈祷願入る。
8.10高松金毘羅屋敷普請、宥山お忍びにて見分に出向く。
8.26池領代官高谷太兵ヱ、榎井村へ到着、それより登山参詣。
9.10寒川郡長尾村の西善寺初めて参り、宥山に挨拶、以後お出入りを願う。
13予州宇摩郡中之庄坂上羨鳥より唐金塔寄進。
25池領と社領の境目絵図でき、見分。
         11.1伊勢御師来田監物大夫直参に付、旅宿へ音物を遣わす。
22馬屋より出火、長屋奉行吉田庄右ヱ門に閉門申付る。
12.26草履取平二郎に庭木作りを命ずる。延宝三年度の「社領境目絵図」を改訂。
1715 正徳5   1.21京都政所様より絵馬奉納。 3.25金山寺町火事、類焼家数釜処二十六軒。
4.28木村寸木没、六十九歳。
6.21菅納市右ヱ門柳陰第七男宥英、江戸深川永代寺に入院。
塩飽牛島丸尾家の船頭たち、釣燈龍一対奉納。
7.23七ケ村念仏踊、当山にて例年三庭のところ、今年は五庭踊る。
8.21池領代官高谷太兵ヱ、榎井村到着。24予州代官平岡彦兵ヱ、参詣止宿。
坂上羨鳥、鋳塔献納。 9.20四条村・五条村より大井宮遷宮のこと願出る。 10.27大井遷宮の場所見分。 11.2宥山、大井宮遷宮に出向く。
高野山より職人町人御金蔵にて金請取のことにつき公儀触の廻状来り、差戻す。
1716 享保1   1.10多度津藩主京極高澄、大般若経六百巻を寄付、表題箱書は大通寺南谷。
12高野山より金銀通用のことで廻状あり、差戻す。
2.町の座頭豊都、官位につき白銀五枚遣わす。広谷の禅門、墓守御免。
3.池領巡見衆到着。 9.京極壱岐守より大般若寄進。太田備中守
今回は、このあたりまでとしておきます。
以上から松原秀明氏は次のように指摘します。
①創世記の金毘羅信仰において、大きな役割を果たしているのは金光院の修験者たちであること
②霊山象頭山にあった宗教勢力の権力闘争を勝ち抜いたのが金光院で、宥盛の力が大きい。
③「庶民信仰の金毘羅さん」と言われるが、その初期においては、長宗我部元親・生駒親正・松平頼重などの保護寄進で、経済基盤や伽藍整備が行われた。
④特に生駒藩による330石の寺領寄進と、髙松藩の松平頼重による朱印地化や伽藍整備が行われたことが大きい。
⑤これが西国大名からの代参や寄進を呼び、それが庶民参拝につながっていくという過程が見える。
⑥つまり「最初に庶民信仰ありき:でなく、藩主の保護 → 各大名の代参の活発化 → 庶民信仰という道筋であること
次に「海の神様・金毘羅さん」についてです。
18世紀初頭までの年表には、海や船に関することはほとんど出てきませんとよく言われます。このことについて松原秀明氏は、次のように記します。
これまでの多くの発言は,金毘羅が海の神であることは既定の事実として,その上に立っての所説であるように思われる。しかし筆者には,金毘羅が何時,どうして海の神になったのかよく分らないのである。
   金毘羅大権現は海の神であるという信仰は、多分,金毘羅当局者が全く知らない間に,知らない所から生れたもののように思われる。当局者が関知しないことだから,金毘羅当局の記録には「海の神」に関わる記事は大変に少ない。金毘羅大権現は,はじめから海の神であったわけではない。勝手に海の神様にまつりあがられたのだ
金毘羅大権現の年表 松原秀明


松原秀明は年表後記に次のように記します。

「資料集」三巻三冊は,奉納者の心がこもり,物としても立派な献納品を取扱うことで,自然と内容にも重みが伝わってきているが,この「年表篇」はそれに相応しいもとは言えそうにない。大事なことで見落したものも多く,資料の読み違いからくる誤も多いことと思われる。
しかし「年表篇」の仕事をさせて貰ったことで「勉強になって有難かった」という気持も強い。
 ここで,「やや明瞭になった」と思われる事を箇条書にしてみる。それが「資料集」とともに,このF年表篇」を読まれる方々の参考として少しでも役立てば幸いである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 松原秀明 金毘羅庶民信仰資料集 年表篇 
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丸亀新堀湛甫3

「丸亀繁昌記」の冒頭は、次のような文章で始まります。
「玉藻する亀府(丸亀)みなとのにぎわいは、昔も今も更らねど、猶神徳の著しく、象の頭の山へ(象頭山)、歩みを運ぶ遠近の道俗群参す、数多の船宿に市をなす」
また、江戸千人講の趣意書「讃州丸亀平山海上永代常夜灯講」『孤座特質』)には、
「讃州丸亀平山海岸は、往古より 金毘羅参詣の渡海着船の処にて象頭山へ順路の要地なり……」

と記されます。丸亀が金毘羅船の帰着港で「象の頭の山」に向けて多くの人が歩み始める要地として認識されていたことが分かります。
 19世紀になって新湛甫ができ銅灯寵が建立され、参詣客がいっそう増えると、その恩恵に浴した船宿やその他の人々が、玉垣講や灯明講を結成して玉垣や灯寵を寄進しているのは、以前にお話ししました。丸亀からの寄進について、もう少し踏み込んで今回は見ていきたいと思います。
 丸亀の玉垣講と灯明講について、金毘羅の側では次のように記録されています。

6 玉垣四段坂 丸亀奉納
丸亀玉垣講寄進の玉垣(四段坂)

  丸亀玉垣講 
右は御本社正面南側玉垣寄附仕り候、且つ又、御内陣戸帳奉納仕り度き由にて、戸帳料として当卯・天保12(1841)年に金子弐拾両、勘定方え相納め侯事、但し右講中参詣は毎年正月・九月両度にて凡そ人数百八拾人程御座候間、一度に九拾人位宛参り候様相極り候事、
当所宿余嶋屋吉右衛門・森屋嘉兵衛  金刀比羅宮文書
 意訳すると
丸亀玉垣講は本社正面の南側玉垣(四段坂)を寄進した。また内陣での参拝料として1841年に二十両を勘定方へ納めた。丸亀玉垣講のメンバーは毎年正月と九月の2回、総勢180人ほどで参拝する。取次宿は余嶋屋吉右衛門・森屋嘉兵衛である。

ここからは、丸亀玉垣講が本社正面の南側玉垣(四段坂)を寄進したことが分かります。この時期は、金毘羅さんにとって着工から30年近くを経た金堂(現旭社)がやっと姿を見せて、周辺整備が進められる中でした。また、丸亀新港も姿を見せ、参拝客はうなぎ登りに増え続ける時代でした。上方からの金毘羅船を迎える丸亀も、そのおかげで大いに潤いました。
 そんな中で、
「金堂の完成を祝して、我々もこの際に一肌脱ごうではないか、日頃お世話になっている金毘羅さんに、何かお返しができないものか」
という気運が盛り上がり、玉垣講の結成となったようです。
6 玉垣四段坂 丸亀奉納2

親柱に、「天保十三年(1842)九月」と奉納年月があります。

 この玉垣講のメンバーはどんな人たちなのでしょうか。

6 玉垣四段坂 丸亀奉納3
親柱3には、奉納年月の下に「世話方船宿中」と刻まれています。
 「船宿中」の「中」は「御中」と同じような意味で「仲間・衆」と考えれば良いようです。「船宿衆」が世話役として、この玉垣建立を進めたことが分かります。そのメンバーとしては、佃屋金十郎と明石屋又兵衛、柏屋団次、阿波屋栄吉、備前屋藤蔵、大黒屋清太夫の名前が見えますが、彼らは銅灯寵建立のときの寄進にも名前があります。その末尾には「丸亀船宿」としてあみや為次郎、米屋弥太夫、つくたや金十郎の名前もあります。文化十四年(1817)、奈良の椛屋半助の四角形石灯寵一基の奉納を取り次いだ淡路屋市兵衛、天保五年京錦講の八角形青銅灯寵二基の寄進を取り次いだ多田屋為助の名もみえます。
 ここからは、この丸亀玉垣講のメンバー180名の多くが船宿の宿主で、丸亀港周辺の整備や灯籠・丁石設置に関わっていたことがうかがえます。
次に灯籠を寄進した丸亀灯明講について見てみましょう
講元は梶春助、灯明料として一五〇両、また神前へ仙徳灯寵一対奉納、講中は毎年九月十一日に残らず参詣して内陣人、そのたびに金子五〇両寄附、宿は高松屋源兵衛
と記されています。
意訳すると
丸亀灯明講の講元は梶春助で、灯明料として150両、また神前へ仙徳灯寵一対奉納した。講中は毎年9月11日に講員が残らず参詣して内陣に入る。そのたびに金子50両を寄附する、取次宿は高松屋源兵衛である。

 灯明講も玉垣講と同じ年の天保十二年(1841)に結成されています。両者が競い合うように同時期に作られたようです。そしてすぐに六角形青銅灯寵両基を奉納しています。

 「町史ことひら」には玉垣講と灯明講のメンバー表が載せられています。
1 金毘羅大権現 丸亀玉垣講と灯明講人名対照表
まず、灯明講の講員は、屋号から職業が想像できそうな人が多いようです。例えば
鉄屋弥兵衛、竹屋粂蔵、板屋清助、槌屋茂右衛門、銘酒屋喜兵衛、指物屋嘉右衛門、油屋茂助、糸屋喜四郎、笹屋仁兵衛、万屋豊蔵です。扱っている商品が目に浮かんできます。

船宿以外の商人たちで構成されているのが灯明講という印象を受けます。
屋号毎に見ていくことにします。
①吉田屋は灯明講に6軒ありますが、玉垣講にはなし。。
②唐津屋は灯明講に3軒あるが、玉垣講には1軒のみ。
③松屋が灯明講では7軒、玉垣講では2軒のみ。
④塩飽屋は灯明講に4軒、玉垣講に8軒
⑤越後屋は灯明講に6軒、玉垣講には1軒もなし。
 ここからは、灯明講と玉垣講のメンバーは丸亀城下でも異なった仲間同士であったことがうかがえます。丸亀玉垣講寄進の玉垣は、天保十三(1842)年9月、四段坂の権現前に建てられます。その二年後に、その対面に明石玉垣講からの寄進の玉垣が建立されます。この取次を行ったのは、丸亀船宿・明石屋又兵衛です。明石屋は、その屋号どおり、明石に縁のある家だったようです。丸亀の玉垣講の前に、自分の故郷の明石講を導いたようです。

 金毘羅参拝客相手の客商売の旅館(船宿)の主と、城下町の住民を相手にする商売主との間には人脈的にも、隔たりがあったようです。

参考文献 町誌ことひら


  
1

幕末の「金毘羅参詣名所圖會」[1847]に描かれた象頭山松尾寺金光院を見てみましょう
大門をくぐって桜馬場からの参道は、石段も玉垣も見えません。ここを登りきると、金堂(現旭社)前の広場にたどり着きます。金堂は、三万両という巨費をかけて2年前(1845)に完成したばかりでした。清水次郎長の代参でやってきた森の石松が、これを金毘羅大権現の本社と勘違いして帰ったと伝えられますが、それほど立派な建物です。当時は「西国一の建物」とも云われたようです。
 この金堂の下には多宝塔が建っています。真言密教の寺であることの存在証明のようなモニュメントです。この他にも鐘楼などの建物が建ち並ぶ姿が描かれます。金毘羅大権現の境内は、神社と云うよりは仏教伽藍と呼ぶ方がふさわしかったことがよく分かります。
 さて今回は玉垣を見ていきます。金堂の右側の石段は、下り専用です。ここには、石段がまっすぐに描かれています。しかし、玉垣は見えません。まだ作られていないようです。さらに、金堂の登ってくる左下の坂道を見ると、ここには石段もないように見えます。

それから7年後の「讃岐名所圖會」(1854)に描かれた金堂です。
★「讃岐名所圖會」にみる金刀毘羅宮konpira2

描かれた角度がちがいます。作者は、新たな構図から描かれた俯瞰図をめざしたのでしょう。金堂と多宝塔の位置に注意しながら90度くらい回転させた構図になります。蟻のように参拝者が描かれて金毘羅さんの「繁盛ぶり」が伝わってきます。
 旭社周辺の様子を、7年前の絵図と比較してみると・・・・
①旭社前の坂道は、石段が整備され玉垣もある。
②灯籠が立ち並んでいる
③二天門が移築され、前に鳥居が建立されている
④二天門に続く参道には長い回廊(休息所)ができている
⑤一直線であった本宮からの下り道が90度に曲がって下りてくるようになっている。
今回は脇目を振らずに玉垣に集中するために①②のみを追いかけます
  それでは、多宝塔から金堂へ上がっていく玉垣はいつ整備されたのでしょうか?

★「讃岐名所圖會」にみる多宝塔2

  それをしるための工具が「金毘羅庶民信仰資料集巻2」です。
4 玉垣旭社前
「金毘羅庶民信仰資料集巻2」

ここには文化財に指定された鳥居・狛犬・石段・敷石・祈念碑・玉垣がすべておさめられています。たとえば、多宝塔から金堂への坂道の玉垣には、右側がT22、左側がT23の番号が打たれています。そして、その親柱と小柱に刻まれた奉納者氏名や住所・奉納年月日・取次者・石工までが載せられています。
それでは玉垣T22を見てみましょう。
 
4 玉垣旭社前11
一番下の起点になる親柱に刻まれた奉納年月日は
嘉永6(1853)年五月吉日です。「讃岐名所圖會」(1854)が描かれた前年に、この玉垣は完成したようです。その下に名前があるとのは、取次世話人で実質的な責任者で、資金集めや支払い、金毘羅金光院と連絡事務などをすべて行った人物で、大きな旅籠の主人などが務めることが多かったようです。
そして、親柱と親柱に小柱が5本あります。そこに寄進者の名前が刻まれることになります。ここには「米屋周助」とあります。5本目は「米屋周次郎」とありますから、跡継ぎでしょうか。そんなことを想像していると、何かしらドラマが生まれそうな気がしてきます。
さて、これを寄進したのはどこの人たちなのでしょうか?
それは、この玉垣の一番上の最後の親柱8に刻まれています。

4 玉垣旭社前12
  親柱8にはもう一人の世話人の住所が「予州松山三津濱(浜)」とあります。松山の外港で繁栄した三津浜の商人たち寄進した玉垣だと分かります。親柱6と7の間の小柱には「海上安全」とありますので、三津屋は廻船問屋など海に関係した商売に携わっていたのかもしれません。
今までの所を確認しておきましょう。
 玉垣を奉納する場合、親柱の数が十数本あるのが普通です。
一連の玉垣は100人近くの奉納者によって建立されたということになります。そして、奉納年月日や願主、世話人は、端の親柱の1ヶ所にしか彫られていません。したがって一連の玉垣の親柱、小柱に彫られた多くの人名は、何らかの関係で結ばれた人々と考えられます。

4 玉垣旭社前90

 玉垣はそれまでの灯籠や鳥居などに比べ、ひとりひとりの名前を親柱・小柱に大きく彫りつけることができます。長い参道を登る金毘羅さんの参拝客にとってはいやが上にも目に入ってきます。これは奉納者にとっては魅力であったはずです。金比羅講で参拝した裕福な商人たちが、まだ繋がっていない玉垣をみて、ここに私たちの名前を刻んだ玉垣を奉納しようと話し合い、定宿の旅館の主に相談すれば、後の事務手続はすべてやってくれます。お金を支払うだけです。
 こうして、境内の長い参道に玉垣が短期間に出来上がっていったようです。
4 玉垣旭社前122

   金堂が30年近い工期を経て完成するのが1845年でした。
金堂完成に併せて石段や敷石などの周辺整備も進みます。それと同時歩調で玉垣整備が進められたのがこの表からはわかります。その契機になったのが金堂完成なのでしょう。ここでも石の玉垣が姿を現したのは幕末になってからで、思ったよりも新しいことが分かります。

  それでは、石の玉垣が現れる以前は、どうだったのでしょうか?
 『金毘羅参詣続膝栗毛』を書いた十返舎一九は、『讃岐国象頭山金毘羅詣』(文化七年-1810)に桜馬場あたりのことを、次のように記しています。
  「坊舎の桜樹は朱の玉垣と等く美し」
ここからはこの時の桜馬場の玉垣は、奈良時代のような朱塗りの木造であったことが分かります。鳥居が木造から石造に代わったように、玉垣も最初は木造で、それが幕末期に石の玉垣が大量に出現するようになったのです。玉垣建立の年代をしめした上表からも、江戸時代の末期から石造玉垣が急増していったことが分かります。。
この向かいのT23の玉垣は、どんな人たちの寄進なのでしょうか?

4 玉垣旭社前1222
T23の玉垣の寄進年月日を見ると寛成8(1796)年10月7日とあります。T22よりも半世紀も前のものです。初期に作られた玉垣の一つです。左側の玉垣はできても右側はなかなか姿を見せなかったようです。10月10日の大祭の前にやって来て奉納の儀式を終えたのかもしれません
 この玉垣には「玉垣講」とあります。
玉垣講には、大洲城下講中、米湊村・宮之下村講中(大洲城下講中)、小豆島厚演講中、明石吹上村講中・井出村講中・和坂村講中(明石玉垣講中)、松山城 下大唐人四丁目講中など、城下町や村単位の講があったことが分かります。この玉垣は大洲の玉垣講ですが、特徴的なのは大洲城下だけでなく周辺の村々の講中も加わっていたようです。
   地名でなく、おめでたい言葉がつけられた講もあります。
 鶴亀講、栄講、賓来講、金吉講、永代講、繁栄講、繁昌講中、栄壽講、金豊講などで、兵庫の鶴亀講、栄講などに見られるように、商人たちの講で、商売繁昌を願ってつけられることが多かったようです。
  講のあり方を示す言葉が名称になったものもあります。
 月参和順講(大洲)・初日講(兵庫)月参和順講は、毎月、講から代表の参拝者を出していたところからつけられた名前でしょう。初日講は、毎月の一日に参拝者を出すか、あるいは、その日ごとに集まって金毘羅さんを拝むなどしていたのでしょう。
4 玉垣旭社前12224

こうした人々の信仰心に支えられて、玉垣寄進は幕末に爆発的に増えて、急速に金毘羅さんの境内は整備されていったようです。どこにもないような玉垣と石段と灯籠の続く参道を人目みたいとと参拝客は増え続けたのです。
以上をまとめておきます。
①19世紀になり東国からの金比羅詣が増え、参拝客は増加した。
②これを背景に、1845年に総工費三万両をかけた金堂が完成した。
③新たな観光名所とするために金堂周辺の整備が進められた。
④その一環が参道の石段化や玉垣・灯籠の整備であった。
⑤こうして19世紀半ばには、金毘羅さんの参道は、石で白く輝く参道に生まれ変り、周辺の寺社と差別化が進み、さらなる参拝客の増加へとつながった。
⑥周辺の寺社の坂道が石段化し、玉垣で囲まれるようになるのは、幕末以後の明治になってからのことであった。

   以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

C-11
 金毘羅さんには、いくつの鳥居があるの?  
①1782 天明二 高藪(現北神苑)  粟島廻船中 徳重徳兵衛 
②1787 天明七 二本木(現書院下) 江戸 鴻池儀兵衛他 
③1794 寛政六 牛屋口       予州 績本孫兵衛
④1794 寛政六 奥社道入口     当国 森在久       
⑤1848 嘉永元 阿波町(現学芸館前)三好郡講中
⑥1855 安政二 新町        当国 武下一郎兵衛
⑦1859 安政六 一ノ坂(撤去)   予州 伊予講中   
⑧1867 慶応三 賢木門前      予州 松齢構       
⑨1878 明治11 四段坂御本宮前  当国 平野屋利助・妻津祢
⑩1910 明治四三 闇峠       京都 錦講         
⑪1915 大正四  白峰神社上    岡山 中村某  
⑫1916 大正五  下向道      大阪 油商仲間他
⑬1918 大正七  白峰神社下    淡路 間浦喜蔵 
⑭1925 大正一四 大宮橋詰     愛知 金明講    
⑮1933 昭和八  桜馬場詰     東京 前田栄次郎  
⑯1955 昭和三四 奥社下    福岡県戸畑市山田宇太郎・同鈴子
⑰1974 昭和四九 桜馬場入口    愛媛県波方町 斎宮源四郎他 
⑱1982 昭和五七 奥社     香川県坂出 田中義勝・妻(ナエ)
現在ある鳥居がいつ、誰によって奉納されたかがこの表からは分かります。境内と旧町内のものだけだと18基が数えられるようです。しかし、これらの鳥居がはじめて、そこに建てられたことを意味するものではありません。以前あったものに代わって建て替えられたことも考えられます。

C-12-2
 ①~④の一番古い4基のグループが建てられたのは18世紀末で、それぞれの金毘羅街道の起点に建てられています。
①は多度津街道の起点の高藪町に、粟島の廻船衆が奉納
②は、丸亀街道の起点(現高灯籠)に江戸の豪商が奉納。
③は、伊予土佐街道の金毘羅領の入口に故人が奉納
④は、本社から奥社への参拝道の始点に三野郡の庄屋が。
この時期には、個人や少数者で奉納していて「講」による団体奉納はないようです。その後、何故か半世紀ほどの空白期間があります。第2期の鳥居建立は、幕末期になります。
⑤は阿波街道の起点に、阿波の人たちが奉納。
⑥は高松街道の起点に、高松の豪商が個人で奉納
⑦は、伊予土佐街道の起点に、伊予講中が団体で奉納。
奉納された8基の鳥居の建てられた位置を見てみると、仁王門(現大門)より内側のものはないようです。しかし、内側に鳥居がなかった訳ではありません。絵図などには、いくつかの鳥居が内にも描かれています。それらは石造ではなかったのかもしれません。
②明神鳥居

 明治になって、奉納によって石造の鳥居が大門の内側に建てられるのは、次の順番です
⑧賢木門外側 → ⑨四段坂御本宮前 → ⑩闇峠
と、かつての金堂(現旭社)から本社への間に、3つの鳥居が明治大正に建ちます。そういう意味では、思っていたよりも現在の鳥居が姿を現すのは新しいようです。
 
金毘羅さんで重要有形民俗文化財の指定を受けた鳥居は、上から数えて10番目までです。それが何で出来ているかで分類すると
石造製7
青銅製2
鉄製 1
立地場所で分類すると
1 境内 五
  書院下・賢木門前・闇峠・四段坂 奥社道入口 
  神苑2(学芸館前・北神苑)
2 街道  高松街道・土佐伊予街道・札ノ前
しかし、このうち次の三基は事情があって今の場所へ他から移転したものです。
①境内書院下の鳥居は丸亀街道から移転、
②神苑学芸館前の鳥居は阿波街道から移転、
③北神苑の高灯籠正面の鳥居は多度津街道から移転
この3つと旧位置に戻してみると、
 境内 4  街道 6
となり、金毘羅五街道の各街道口には、どこも鳥居が建っていたことになります。

  まず、指定されている境内にある4つを参道の下の方から順番に見ていくことにしましょう。
⑧賢木門(二天門)前の鳥居  明治になって松山の講中より奉納
 
2.金毘羅大権現 象頭山山上3

神仏分離以前の金毘羅の姿です。幕末に二万両をかけて完成した金堂を中心に多宝塔や諸堂が立ち並ぶ仏教伽藍世界があったことがよく分かります。神道的な空間は本社と三十番社の周りだけです。

 金堂(旭社)まで登ってくると、ここで参道は二つに別れます。
御本宮への登り道と、参拝を終え三穂津姫社をめぐって下る下向道です。
3 賢木門鳥居

⑧の鳥居は登り道の入口に建つ賢木(さかき)門の前にあります。青銅製の明神鳥居で、柱の銘文から伊予松山の松齢講が、慶応三年(1867)九月に奉納したものであることが分かります。
   この鳥居のすぐ左側に切り石の台座を据えた青銅製の角柱碑が建っています。
正面には大きく
「麻鐘華表(鳥居) 伊予国松山松齢構中」
とあり、この碑が鳥居と共に奉納されたもののようです。他の三面には講員の人名と奉納の経過、和歌などがぎっしりと刻まれています この碑文からは、次のような事が分かります。
①万延元年(1860)に青銅製の鳥居を奉納したが、鋳造がうまく出来てなかったのか自然に折れて壊れてしまった。
②慶応二年(1866)九月、再び青銅製鳥居の再建が発起され、明治四年十二月に落成
③明治十六年三月中旬にめでたく上棟式が行なわれた。
鳥居の慶応三年九月の紀年銘は、完成した年ではなく、再建発起した年のようです。
 この位置には、古い時代から鳥居が建っていたようです
1 金毘羅 伽藍図1
 境内変遷図を見ると、金光院から本宮までの参道は、かつては真直ぐに登っていたようです。それが金毘羅信仰の隆盛で人々で賑わい出すと諸堂がいくつも新しく建てられ、元禄頃に参道が延長され、登り道とは別に下向道も造られます。この鳥居は、参拝道と下向道を一目でわからせる意味もあって、はやくから建てられていたようです。
 現在の鳥居は高さが二四尺(約七・ニ㍍)と巨大で、加えて青銅製です。建設資金は相当かかったと思います。そのために「松齢講」という講が組織されます。講元は松山萱町二丁目の和泉屋蔵之助、発起人も同じ松山の三津ケ浜の三和屋常助です。講の構成を見ると、
①個人参加が933名、
②生串村中・三町村中といった村の有志からの寄進
③第一・第二金刀比羅丸・下怒和丸と船名があるので、船員からの寄進
④網方中といった漁師の奉納
 多くの人たちからの寄進を集めています。いわゆる「勧進」方式です。そのため発起から落成まで六年がかかっています。この鳥居を奉納するには、それだけ多くの人々の協力が必要だったということなのでしょう。
 講員は、現在の松山市を中心に中予全域に広がっていますが次のような特徴がうかがえます
①上浮穴郡久方町といった山間部では少ない。
②講元の和泉屋蔵之助か松山萱町二丁目で、発起人の三和屋常助も松山三津ヶ浜と、海沿いであることが影響している
③安居島・興居島・恕和島といった島嶼部や海岸線の村々に分布が濃く、仁社丸勝五郎・長久丸元吉といった船主の名前が見られ、金毘羅さんに海上安全などを願って寄附した人が多かった
 松山の豊かな経済力をもつ商人層と周辺の信者の合力で、奉納された鳥居といえるようです。
 闇峠の石鳥居    明治四十三年五月京都の錦講中から奉納
 賢木門を入ってすぐ右側の遥拝所から、手水舎をすぎてすぐのところにかかる連理橋までの間を闇峠と呼ぶようです。この間は、常緑樹が欝蒼と繁り、真夏の太陽の下でもなお薄暗い。そんなところから闇峠と名付けられたといいます。その手水舎の手前に鳥居が建っています。
3 闇峠鳥居
 闇峠の鳥居は花岡岩製の神明鳥居です。金毘羅さんに建つ鳥居は、神明が明神鳥居かのどちらかです。多いのは明神鳥居で、神明鳥居は、明治以後奉納された三つだけです。神明鳥居は伊勢神宮に代表される鳥居なので、明治以後国家神道の影響をうけて、奉納されるようになったようです。
 この鳥居は柱の銘文に、明治43年5月に京都の錦講中から奉納されたことが記されています。錦は京都市中京区の錦小路に面し、古くから生鮮・加工食料品店が建ち並ぶ「京都市民の台所」として有名な町です。奉納者として名前が記されている45人も、錦町の店主たちなのでしょう。
 錦からの奉納は、これがはじめてではないようです。この鳥居の奉納よりも80年ほど前の天保五年(1834))に、錦の魚立店の講中から燈船が一対奉納されています。賢木門前に並ぶ青銅製の燈船のひとつです。錦の人々のあいだでは、金毘羅信仰がつづいていたようです。

2
  四段坂の鳥居                      37P
 闇峠を抜けると、御本宮を正面にあおぎ見る最後の石段が待っています。4つに別れているので四段坂と呼ばれます。この階段の途中、事知神社前に鳥居が建ちます。ここからは本宮まで、あと数十段の石段をのこすのみです。

3 四段坂鳥居
 この鳥居は花崗岩製の神明鳥居で、明治11年4月、丸亀の浜町に住む平野屋利助と津怜によって奉納されています。 鳥居は奉納物としては規模も大きく費用もかさみます。そのため個人での奉納は少なく、講中や仲間といった団体での奉納が普通です。先ほど見た賢木門前の青銅鳥居の伊予講中などがその代表例です。そんな中でこの四段坂の鳥居は、小さいとはいえ、個人の奉納です。

3 四段坂鳥居2
どんな人が奉納したのか興味がわいてきます
 奉納した平野屋利助は石工だったようです。金刀比羅宮の大門の前に、この鳥居と同じ明治11年12月に富山の売薬人中が奉納した石燈龍が建っています。花崗岩製で、笠の四面の軒先に破風をつくり出すなど、精巧な造りで職人芸を感じます。この石燈龍の銘に「石工平野屋利助」とあります。利助は腕のいい石工だったようです。
 ただの石工ではないようです。天保のころ(1830~48)の丸亀の町のことを描いた『丸亀繁昌記』のなかに、彼の店が次のように登場します。
 商売の元手堅むる礎には石屋のきも連りて 神社の玉垣、石灯龍、鳥居の出来合、望次第。施主の名をほる石盤に阿吽の高麗狗のき端を守る。石凛然と積上たり
 彼の店は、本にも取りあげられるほどの大きな石屋だったようです。鳥居を個人で奉納したのは、それまでの感謝や信心もありますが、利助自身が腕の良い職人として手広く商売を行っていたという経済力を抜きにしては考えられません。
 また、ここにはそれ以前から鳥居があったようです。享保ころの絵図には、四段坂に鳥居が描かれています。御本宮の前ということではやくから建てられたようです。

  奥社道入口の鳥居                   
 讃岐平野と瀬戸内海の眺望を後に、奥社への参道入口で迎えてくれるのがこの鳥居です。

3 奥社参道入口鳥居
花崗岩製の明神鳥居で、寛政六年(1794)仲秋(旧八月)に奉納されています。願主は三野郡(現三豊市)の次の4人の庄屋です。
羽方村(三豊郡高瀬町羽方)の森在久、
松崎村(同郡詫間町松崎)の白井胤林、
上勝間村(同郡高瀬町上勝間)の安藤清次、
大野村 (同郡山本町大野)の小野嘉明
3 奥社参道入口鳥居.2jpg

金毘羅が鎮座する象頭山の西側の三豊の村々です。これらの村の中には、象頭山や大麻山の西側に入会権を持ち芝木や下草刈りによく登ってきていたようです。近世初頭までは、大麻山の頂上稜線一体は、牛や馬の牧場であったことが資料からは分かります。本社から奥社への道は、修験者の通う修行の道であると同時に、農民たちにとっては下草刈りなどの生活の道だったと私は思っています。

以上、金毘羅さんの重要有形民俗文化財に指定されている10の鳥居の中で、境内に建てられた4つを見て回りました。感じるのは、案外新しいものだということです。今ある鳥居は、全て18世紀末になって姿を現したというのが以外のようにも感じます。
 金毘羅さん=古くからの神社という先入観に囚われすぎているのかもしれません。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  印南敏秀  鳥居 
         「金毘羅庶民信仰資料集NO2」

1 金毘羅 伽藍図2

前回に続いて金毘羅さんの狛犬を見て歩記(あるき) します。
訪れるのは「金毘羅庶民信仰資料集2」に紹介されているように古い順なので、場所が前後しますが悪しからず。よろしけらばおつきあいください。

 大門前の狛犬  河内国全域の村々から享和元年(1801)に奉納
 こんぴらさんへ交通安全のお守りを買いに②金刀比羅宮の表参道 | 土佐 ...
石段を登って行くと両側のお土産店の上に大きな建物が見えてきます。その前には下乗の木札が建ちます。これが大門で、かつての仁王門です。しかし、神仏分離で仁王様は撤去され焼かれてしまい、大門と名前が変わりました。今は参道をはさみ狛犬が向かいあっています。
1 金毘羅 大門狛犬11
 
右側(阿)
〈基壇一段〉
正面 大坂谷町二丁目
   世話人
   亀屋善兵衛
〈基壇二段〉
正面 堂島涜二丁目
   大塚屋宗八
   舟橋村松永氏
   鴻池新田
   箕輪村弥三兵衛
   同村 弥三右工門
   八尾座村塚口源七
   川辺村源右工門
   河湯油方
右面 河州
右面 長田村源三右ヱ門
   同村市兵衛
   稲 田 村
   高井田村
   上若江村善左ヱ門
   下若江村彦兵衛
   小坂合村
   菱屋新田
   三島新田
   萱 振 村
   御 厨 村
   稲葉村善助
左面 享和元辛酉十月吉日
左面 川辺村田中氏
   水本村元右ヱ門
   毛人谷村茂八
   箕南備幸右ヱ門
   南別井村
   北別井村
   山 城 村
   伯 原 村
   市村新田七良兵衛
   二俣新田
   安中新田右ヱ門
   中山村甚右ヱ門
裏面 木戸村徳兵衛
   松原村半左ヱ門
   岩 室 村
   今 熊 村
   円 明 村
   太田村七良左ヱ門
   長田村妻右ヱ門
   近江堂村
この狛犬は、高さ三尺余と大門前におかれる狛犬にしては少し小ぶりな印象です。しかし、形は小さくとも基壇に「河州」と大きく二文字が彫り込まれています。河州とは河内国のことで、河内国全域の広い範囲の村々の名前が基壇には見えます。これらの村々から享和元年(1801)に奉納されたもののようです。
 銘文中に「菱屋新田」「三島新田」「鴻池新田」というのが見えます。これは、元禄17年(1704))に行なわれた大和川つけかえ工事の後の旧大和川筋や、深野池・新開池を埋め立てて出来た新しい村だそうです。中でも宝永四年(1707))に大坂の豪商鴻池善右衛門によって開発された鴻池新田は200町歩(約二平方キロメートル)におよぶ広大なものでした。このような新田開発で開かれた耕地には、稲作が行われるのではなく、綿花が栽培され有名な河内木綿の産地になります。
 北前船が運んでくるニシン粕などの金肥を使えば使うほど、良い綿花が大量に出来たと云います。ニシン粕などの金肥なしでは、綿花栽培はなかったのです。讃岐のサトウキビ栽培と同じように、北前船への依存度が高かったようです。東讃の砂糖産業に関わる農民たちが高灯籠を寄進するように、河内の木綿産業に関わる人たちにも金毘羅信仰が広がっていたことがうかがえます。
2

 正面基壇の一番最後にある「河州油方」とあるのは、灯油用の油を商った人々のことだそうです。
北河内地方は、米の裏作として菜種の栽培もさかんで、菜種から絞りとっだ種油は灯油用として大坂に集められ、多くは江戸への「下り物」となっていたようです。このように河内地方の村々は「天下の台所」の大坂に近く、はやくから大坂と結びついて、農村とはいっても貨幣経済が浸透していました。この狛犬の世話人大坂谷町二丁目の亀屋喜兵衛がどういった人かは分からないようです。しかし、大坂の町場だけでなく河内の村々から寄附を集めているのは、新田開発などで潤う村々の経済的な発展があったことがうかがえます。
 なお、この狛犬には頭に角がなく、獅子です。大門は神仏分離以前は、松尾寺の仁王門で仁王像が立っていました。寺社であったので、その前に狛犬でなく獅子が置かれたのでしょう。
1 金毘羅 真須賀神社1

                      真須賀神社の狛犬 
 真須賀神社は、賢木門をくぐってまっすぐに進んだ突き当たりにある摂社です。もともとは神仏分離以前には、ここには不動明王を本尊とする本地堂が建っていました。したがって、この狛犬もどこかからここへ移動してきたようです。

1 金毘羅 真須賀神社狛犬12

右側(吽)          
 正面 紀州   壽永講   若山(和歌山)   
右面 願主
    日高屋平左衛門
   元掛世話人
    有田屋文右衛門
   世話人
    粟村屋禰兵衛
    駿河屋荘兵衛
    船所村新九郎
    桶屋助五郎
    有本村徳三郎
    田中屋楠右ヱ門
    山東屋傅蔵
    雑賀屋清蔵
裏面 南紀和歌山住
    石工 辻 林蔵
〈基壇二段〉
裏面 富所取次 備前屋幸八
この狛犬は右が口を開いた阿、左が口を閉じた吽で頭上に角があります。獅子と狛犬で一対をなす一般によく見られる狛犬のペアです。奉納は「紀州若山(和歌山)」の「壽永講」で、文化七年(1810)に奉納されています。
 石質は大門前の狛犬と同じ砂岩です。大阪府と和歌山県の境には、和泉山脈が東西に横たわり、中世以来、ここから和泉砂岩の良質の石材が切り出されてきたようです。そのため和泉地方には、石工も多くいました。この狛犬の作者、石工辻林蔵のいた和歌山市の石工については、よく分かりません。しかし、和泉地方の石工と交流があったようで、先ほど見た大門前の狛犬と真須賀社の狛犬は全体のプロポーションや前後の肢の表現がよく似ていると研究者は考えているようです。
1 金毘羅 賢木門狛犬1
  賢木門前の狛犬 
   この狛犬は、賢木門前の石段の左右に向かいあっています。
1 金毘羅 賢木門狛犬21

 基壇2段目の正面に発起人の名古屋の藤屋松兵衛・同瀬戸物方と飛騨高山の井筒屋源左工門があります。そして3、4段目には、「尾州名古屋」を中心に、「大坂」「信州飯田」(長野県飯田市)「濃州高山」「江州」「東部」「東都」と非常に広い範囲の人々からの奉納です。どうやってこれらの人々からの寄進を集めたのか、その人的なネットワークに興味がわきますが資料はありません。
 「明治三年十月吉日」とありますから、神仏分離直後の十月十日の大祭にあわせて奉納されたようです。この狛犬は、この賢木門くぐった先にある前回紹介した遥拝所の狛犬と非常によく似ていると研究者は指摘します。遙拝所の狛犬は、天明元年(1781)に松江惣講中から奉納されています。こちらは明治3年ですから約110年後のものになります。狛犬の高さは、この狛犬のほうが五寸程大きいようです。しかし、全体のプロポーション、なかでも特徴あるたてがみや尾の毛束の手法、狛犬をのせる円形の台座や牡丹の彫り物などは共通します。さらに石質も共に凝灰岩製ですが、賢木門前の狛犬のほうが若干簡略化されているようです。110年前に奉納された狛犬をモデルに、江州で作られたのかもしれません。
  この賢木門前の狛犬の基壇には「石工久太良」とあります。
久太良(久太郎)は地元琴平の石工で、幕末から明治にかけて金毘羅さんに奉納された石造物を数多く手がけた名工です。しかし、ここでも久太郎が関わったのは台石だけで、狛犬は完成品が持ち込まれています。硬質の花崗岩と軟質の凝灰岩では、彫る技術も、道具も異なるようです。久太郎のつくった石造の奉納物はみな花崗岩製です。独特の様式および石質の類似性から考え、賢木門前の狛犬も、雲州地方から完成品を運んできたと研究者は考えているようです。
 この狛犬のように基壇だけを地元の石工がつくる例は、青銅製の燈龍や狛犬、あるいは一部の石造の狛犬に見られます。その方が運送の手間を省くことが出来ます。
1 金毘羅 三穂津姫社の青銅製狛犬g

                        三穂津姫社の青銅製狛犬
 三穂津姫社の社前にの青銅製の狛犬です。
1 金毘羅 三穂津姫社の青銅製狛犬21g

 右が口を開いた阿、左が口を閉じた吽であるが頭上に角は見えません。全体に細身で、それがかえって精悍な印象をあたえています。製作は青銅器具の製造で全国に知られる富山県高岡市の竹中製作所です。青銅製の台座の銘文には、愛知金明講が昭和四十八年十月に参拝百年を記念して奉納したことが刻まれています。
1 金毘羅 三穂津姫社の青銅製狛犬1g

 愛知金明講は、幕末、今の愛知県西春日井郡西枇杷島町に住む佐藤定蔵が、目の病いに罹り金毘羅さんに祈願したところ、お蔭があって全快します。それで金毘羅さんへの信仰を深めると同時に、周囲の人々にも勧めて金明講をつくったのがはじまりで、六代定蔵さんまで金明講の講元は代々佐藤家がつとめたようです。
 西枇杷島町は濃尾平野のほぼ中ほどで、名古屋市に隣接するという地の利もあって金毘羅講は急速に発展し、大正のはじめ頃の三代目定蔵が講元のとき「愛知金明講」「名古屋金明講」「乙金明講」に発展分化したようです。金明講は団体参拝をするので、講員が多くなりすぎると参拝が難しくなるようです。適度の人数というのがあるようです。
 講元として名前が彫られている定蔵は、初代定蔵から六代目、講元としては五代目になるようです。
彼が講元を勤めた戦前は300人、昭和30年には専用列車で500人の参拝者を出したといいます。しかも、昭和39年までは現在のように十月十日の大祭だけでなく、三月十一日の春祭にも参拝していたようです。もっとも参拝者は全員が講員というわけでなく、希望者があれば自由に参加することができるシステムだったようです。そのため毎年参拝をくりかえす講員よりも、何年かに一度、講の参拝に加わる人が多かったと云います。こうした参拝者の構成は、狛犬奉納者についても同じことがいえるようです。
 銘文には、発起人9人、世話人22人、功労者21人と、会社名などを含め451人の奉納者名があります。発起人は世話人と同じく、狛犬奉納に関して寄附を集めるなど実務的な世話をした人々で、高額寄附し奉納推進に大きな功績をはたした人々です。また、功労者はかつての世話人たちで高齢者が多いようです。彼らの師弟が発起人となっている人もいます。
 私は寄附したのは、ここに名前の刻まれている人たちだけだと思っていました。ところがそうではないようです。銘文を彫る場所の都合で彫られなかった人々が、数多くいるのです。そのために、狛犬の台座のなかには寄附者全員の名を書いたものが納められているそうです。その数は約800人といいます。こうしたなかには、奉納の呼びかけで講員ではないけれども、参拝に参加した人などが寄附をしたようです。 愛知金明講は、代々の講元、および世話人といった人々の努力によって維持されてきたようです。
 愛知金明講からの奉納は、この狛犬に限らないようです。琴電琴平駅前の大宮橋詰の高さ15㍍のの大鳥居は、参拝50年の記念に建てられたもので金刀比羅宮に奉納された鳥居としては最大のものです。こうした奉納が行われたのは、遠い愛知県に金毘羅信仰が根付いていたからこそでしょう。

1 金毘羅 高灯籠1
              高灯籠の丸亀街道の狛犬                       
 高燈龍のすぐ東側、丸亀街道の旧金毘羅領入口にいる狛犬です。
もともと、ここは丸亀から4里の位置で、一里塚の大松が参拝客を迎えた場所です。丸亀街道をやって来た人たちにとっては金毘羅の町の入口でもありました。そのためここには、天明八年(1788)に奉納された青銅製の「金鳥居」が建てられました。この金鳥居は名物となり、金毘羅の町を描いた一枚刷りの絵図にも、良く描かれています。幕末には、ここに高灯籠が姿を見せ、一里塚の大松や金灯籠とともに描かれるようになります。
1 金毘羅 高灯籠1

 「泉州堺」(大阪府堺市)の富貴講による奉納で、篭屋伊兵衛と池宮九兵衛が講元です。篭屋内中・米荷廻船中・南薪中買仲・柳力世話中など、名前を見ているだけでもさまざまなな職種の人々が参加していることが分かります。総数は122名だそうです。
 この狛犬は寛政七年(1795)の奉納ですから黒い金鳥居ができて7年後に、寄進されたようです。以後、この狛犬を起点にして街道沿いには富士見町にいたるまで灯籠が並んでいくことになります。その灯籠建立のスタートを告げる狛犬です。しかし、この付近の灯籠は、砂岩が使われているので欠損がめだちます。


  JR琴平駅前の狛犬     多度津街道の入口にあったもの
文化・文政の頃河内楠葉栄講の奉納した狛犬(阿)
1 金毘羅 JR駅前狛犬1

 右側(阿)
 〈基壇一段〉 右面 河州楠葉さかへ講
 〈基壇二段〉
  右面 中村屋半左ヱ門
  左面 取次新町  大工荘右ヱ門
     大坂取次  多田屋新右ヱ門
     丸亀船宿  大和屋傅次郎
     石工    丸亀  中村屋半左ヱ門
 この狛犬は、もともとは多度津街道の金毘羅入口にいましたが、今はJR琴平駅前広場に移されています。狛犬は砂岩、基壇は花崗岩です。 
1 JR琴平駅前狛犬

「河州楠葉」の「さかえ(栄)講」からの奉納です。楠葉は京都との県境に近い淀川沿いの村で、今は大阪府枚方市になるようです。石工は丸亀の中村屋半左ヱ門ですが、紀年銘がありません。取次の大坂船宿多田屋新右工門と丸亀船宿大和屋傅次郎の二人は、金毘羅山内に奉納された石燈に取次として共に名前を連ねていますので、だいたい19世紀前半の文化年間の奉納と考えられます。

1 金毘羅 備前焼狛犬1
  備前焼の一ノ坂口の狛犬               
 一ノ坂の登り口(札ノ前)のもと鉄製の鳥居が建っていたすぐ後脇に据えられている狛犬です。 右が阿、左が吽で頭上に角をはやした通例の狛犬です。高さが約五尺の大きなものですが、通常と違うのは備前焼で作られていることです。奉納は備前岡山の「長柴講」で、紺屋町講中・久山町講中他、69名の名前が見られます、天保十五年(1844)に奉納されたものですが、基壇には天保十三年(1842)の紀年銘があるので、基壇が先に出来ていたようです。
 備前焼は、岡山県備前市伊部を中心に古くからつづいた焼物で、壷を中心にさまざまなものがつくられてきました。備前焼の狛犬もその一つで近世、岡山を中心に数多く残されているようです。この狛犬は、伊部の木村長十郎他六人の細工人によってつくられたようです。彼らは木村一族の人々で、長十郎は金毘羅の他、岡山市の高松稲荷の狛犬にも細工人として名前が残っているようです。
1 金毘羅 備前焼狛犬1
   右側(阿) 
    〈狛犬の左腹部刻名〉    正面
     備前國
      伊部村御細工人
       木村長十郎友直
       同新七郎貞泰
       同儀三郎貞幹
     天保十五年
       辰三月吉旦   作
 
  牛屋口に建つ寛政六年(一七九四)の石鳥居の前の砂岩の狛犬
1 金毘羅 牛屋口狛犬1

「西條新居郡多喜潰」(愛媛県新居浜市多喜浜)の岡本政治郎が個人で、弘化二年(1845)に奉納しています。基壇部に石工銘があり、愛媛県川之江市の泉屋清兵衛と分かります。猫足を形どった二脚の基壇は、ユーモラスで独特な感じがします。
1 金毘羅 牛屋口狛犬12
以上、金毘羅さんの狛犬めぐりでした。おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 参考文献 印南 敏秀  狛犬 
              「金毘羅大権現信仰資料集NO2」

           金毘羅庶民信仰資料集 全3巻+年表 全4冊揃(日本観光文化研究所 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 今から40年ほど前の1979(昭和五十四)年に、金毘羅さんに伝わる民間信仰史料が「重要有形民俗文化財」に指定されました。
その指定を記念して、金刀比羅宮から調査報告書三巻が出されました。三冊の報告書は非売品です。図書館で借りだしては眺めるようになり、今では私の愛読書のひとつになりました。

1 金毘羅年表1

この報告書に続いて出されたのが「年表編」です。

 最初、この年表を手にしたとき驚きました。近世以前の項目がないのです。何かのミスかと思いましたが「後記」を見て納得しました。
  この年表を作成した金刀比羅宮の松原秀明学芸員は、後記に次のように記します。
 金毘羅の資料では,天正以前のものは見当らなかった
筆者が,この仕事に当っていた間に香川県史編さん室でも,広く県内外の資料を調査されたが,やはり中世に遡る金毘羅の資料は見付からなかった様子である。ここでも記述を,確実な資料が見られる近世から始めることとした。
 
DSC01034
そしてこの年表は、次の項目から始まります。      
1581 天正9 10.土佐国住人某(長曽我部元親か),矢一手を奉納。
1583 天正11 三十番神社葺替。
1584 天正12 10.9長曽我部元親,松尾寺仁王堂を建立。
1585 天正13 8.10仙石秀久,松尾寺に制札を下す。
       10.19仙石秀久,金毘羅へ当物成十石を寄進。
                                                                以下略
 それまで金毘羅さんの歴史としては、以下のような事が説かれ、その由緒の古さや崇徳上皇とのつながりをのべてきたものです。それがすっぱりと落とされています。
 それまで書かれていた近世以前の金毘羅大権現の年表
長保3年 1001 藤原実秋、社殿、鳥居を修築。
長寛元年 1163 崇徳上皇参拝。
元徳3年 1331 宥範 宥範、善通寺誕生院を再興。
建武3年 1336 宥範、足利尊氏より櫛梨社地頭職が与えられた。
観応元年 1350 別当宥範、当宮神事記。
観応3年 1352 別当宥範没。
康安2年 1362 足利義詮、寄進状。
応安4年 1371 足利義満、寄進状。
 崇徳上皇との関係も書かれていません。宥範のことにも触れられません。尊氏や義満からの寄進も載せません。これを最初見たときには驚きました。そして、研究者としての「潔さ」と、その出版を認めた金毘羅宮の懐の深さに感心したのを覚えています。
 後で振り返ってみれば金毘羅研究史にとって、ひとつの節目となるのがこの「金毘羅庶民信仰資料集 年表編 1988年刊行」だったように思います。後に続く香川県史や「町史こんぴら」も、
「近世以前の金毘羅の史料(歴史)はない」
という姿勢をとるようになります。それは「金毘羅神=流行(はやり)神」という視点から金毘羅神を捉え直す潮流とも結びつき、新たな研究成果を生み出すことになりました。今では、金毘羅さんの確実な歴史が分かる資料は近世以後で、それよりの前の史料はない。古代や中世に遡る史料は見つかっていない、というのが定説になったように思います。

DSC01231
 
金毘羅神がはじめて史料に現れるのは、元亀四年(1573)の金毘羅堂建立の棟札です。
ここには「金毘羅王赤如神」の御宝殿であること、造営者が修験者の金光院宥雅であることが記されています。宥雅は地元の有力武将長尾氏の当主の弟ともいわれ、その一族の支援を背景にこの山に、新たな神として番神・金比羅を勧進し、金毘羅堂を建立したのです。これが金毘羅神のスタートになります。
 宥雅は金毘羅の開祖を善通寺の中興の祖である宥範に仮託し、実在の宥範縁起の末尾に宥範と金毘羅神との出会いを加筆します。また、祭礼儀礼として御八講帳に加筆し観応元年(1350)に宥範が松尾寺で書写したこととし、さらに一連の寄進状を偽造も行います。こうして新設された金毘羅神とそのお堂の箔付けを行います。これらの史料は、宥雅の偽作であると多くの研究者は考えるようになりました。
200017999_00076本社・旭社

この年表の後記の中で、40年前に松原氏が
「金毘羅信仰を考える際の新たな視点と課題」
として挙げていることを、今回は振り返ってみよう思います。

権力者との関係。特に生駒家と高松松平家の関係を押さえる必要がある
 讃岐に戦国時代の終わりをもたらした生駒家は金毘羅大権現に対して、多くの社領寄進を行っています。何回かに分けて行われた寄進は、他の寺社に比べて数段多く、全部で330石に達します。生駒家菩提寺の法泉寺百石、国分寺や善通寺誕生院でも60石前後です。金毘羅が生駒家から特別に扱われていたようです。
それでは、その理由は何でしょうか。
 後に出されて「町史ことひら」では、その理由として生駒家2代目藩主の側室オナツの存在と、その実家である山下家に通じる系譜が「外戚」として、当時の生駒家で大きな門閥を形成したことを挙げています。また、この門閥が時代の流れに逆行する知行制を進めたことが生駒騒動の原因の一つであると考える研究者も現れています。どちらにしても生駒藩において、時の主流であった門閥の保護支援を受けたことが、金毘羅大権現発展の大きな力になったようです。

200017999_00077本社よりの眺望

松平頼重の寄進
 讃岐が高松・丸亀両藩に分れたあと高松へ入部した松平家も金毘羅保護支援を受け継ぎます。藩祖松平頼重は,社領330石を幕府の朱印地にするための支援を行うと同時に、次のような寄進を立て続けに行います。
境内の三十番神社を改築
大門建立のための用材を寄進
阿弥陀仏千体を寄付、
神馬とその飼葉料三十石を寄進,
そして時を置いて、以下の寄進を行います。
木馬舎を建立,
承応3年 良尚法親王筆「象頭山」「松尾寺」の木額を奉納,
明暦元年 明本一切経を寄進,
万治2年 それを納めるための経蔵を建立
寛文8年から4年間 毎年1月10日に灯籠1対ずつ寄進,
延宝元年12月 多宝塔を建立寄進
これは思いつきや単なる信仰心からの寄進ではないように私には思えます。
象頭山に讃岐一の伽藍施設を整備し、庶民の信仰のよりどころとする。さらに全国に売り出し、全国的な規模の寺社に育てていくという宗教戦略が松平頼重の頭の中には最初からあったような気がしてきます。それは、以前お話しした仏生山の建立計画と同じような深さと長期的な視野を感じます。
金毘羅大権現は,
①生駒家の社領寄進の上に,
②頼重の手による堂社の建立があって
他国に誇るべき伽藍出現が実現したと云えるようです。
 松原秀明氏が指摘するように「生駒藩・松平藩を除外して金毘羅のことは考えられない」ことを押さえておきます。
2 金毘羅神を支えたのは「庶民信仰」という通説への疑問
 金毘羅神が庶民信仰によって支えられるのは、流行神となって以後のことです。今見てきたように

権力者の金毘羅大権現保護が原動力
金毘羅大権現発展の原動力は、大名の保護

①長宗我部元親の讃岐支配のための宗教センター建設
②生駒家の藩主の側室オナツの系譜による寄進と保護
③松平頼重の統治政策の一環としての金毘羅保護
上記のような大名からの保護育成政策を受けて、金毘羅大権現は成長して行ったのです。例えば代参や灯籠奉納も最初は、大名たちが行っていたことです。それを、後に大坂や江戸の豪商達が真似るようになり、さらに庶民が真似て「流行神」となって爆発的な拡大につながったという経緯が分かってきました。庶民が形作っていったというよりも、大名が形作った金毘羅信仰のスタイルを、庶民が真似て拡大するという関係であったようです。

金毘羅大権現の成長原動力

3 「海の神様 金毘羅さん」への疑問
  松原氏は「海の神様・金毘羅」についての違和感を、次のように記します。
   金毘羅のことで発言する場合,必ず触れなくてはならないこととして「海の神金毘羅」という問題がある。これまでの多くの発言は,金毘羅が海の神であることは既定の事実として,その上に立っての所説であるように思われる。しかし筆者には,金毘羅が何時,どうして海の神になったのかよく分らないのである。
  金毘羅大権現は海の神であるという信仰は,多分,金毘羅当局者が全く知らない間に,知らない所から生れたもののように思われる。当局者が関知しないことだから,金毘羅当局の記録には「海の神」に関わる記事は大変に少ない。金毘羅大権現は,はじめから海の神であったわけではない。勝手に海の神様にまつりあがられたのだ
金毘羅神は最初から海の神様でなかった?
海の神様が出てこない金毘羅大権現

 例えば17世紀半ばに出された、将軍家の金毘羅大権現への朱印状には、次のように記されています。

「専神事祭礼可抽国家安全懇祈」

宝暦三年に,勅願所になったときの摂政執達状は、次のように記します。
宝祚長久之御祈祷,弥無怠慢可被修行」

朱印状とか摂政執達状とかは「国家安全」「宝祚長久」を祈祷するよう命じるのが本来なので「海上安全」の言葉のないのは当たり前かもしれません。それでは1718(享保三)年に、時の金光院住職宥山が,後々まで残る立派なものを作りたいという考えで,資料を十分用意して,高松藩儒菊池武雅に書かせた縁起書「象頭山金毘羅神祠記」を見てみましょう。
「祈貴者必得其貴,祈冨者必得其冨,祈寿者必得其寿,祈業者必得其業,及水旱・疾疫,百爾所祈,莫不得其応」

ここにも海との関わりを強調するような文言はどこにもありません。
 金光院の日々の活動を記録した「金光院日帳」でも,神前での祈禧は五穀成就と病気平癒の祈願がほとんどです。高松藩からは,毎年末に五穀豊穣祈願のため初穂料銀十枚が寄せられ,正月11日に祈祷修行して札守を指出すのが決まりだったようです。ここでも祈願していたのは「五穀成就」の祈祷です。
  それでは海の安全がいつごろから祈られるようになったのでしょうか? 海洋関係者が奉納した「モノ」から見ておきましょう。

1 金毘羅 奉納品1


 燈寵奉納は?
1716(正徳5)年 塩飽牛島の丸尾家の船頭たち奉納の釣燈寵
1761(宝暦11)年 大坂小堀屋庄左ヱ門廻船中寄進の釣燈寵
この2つが初期のもので、1863(文久2)年 尾州中須村天野六左ヱ門に至るまで海事関係者からの奉納は、十数回数えられるだけです。その間,他の職種の人達の奉納は150回を越えています。海事関係者のものは,全体の1/10にも満たないことになります。
 絵馬奉納は?
1724(享保 9)年 塩飽牛島の丸尾五左ヱ門が最初で
1729(享保14)年 宇多津廻船中奉納のもの
絵馬は燈龍よりも奉納されるのがさらに遅いようです。
DSC01230

 船模型は?
1796(寛政 8年) 大坂西横堀富田屋吉右ヱ門手船金毘羅丸船頭悦蔵奉納
のものが一番古く,あとは嘉永4年,安政4年と、さらに遅いようです。
DSC01234

 「年表」のなかに出てくる「海事関係記事」を時代順に並べると次のようになります
1643(寛永20)年 高松藩船奉行渡辺大和が玄海灘で霊験
1694(元禄 7)年 日向国の六兵ヱ佐田の沖で難船を免れた。
1715(正徳 5)年 塩飽牛島の丸尾家の船頭が青銅釣燈寵一対奉納
1724(享保 9)年 塩飽丸尾家四代五左ヱ門正次が「鯛釣り戎」の額を奉納,
 同年         宇多津の廻船中から「翁」の絵馬が献納
1 金毘羅 船模型小豆島1

小豆島草壁の金毘羅丸の船模型絵図

 以上のように奉納品からは、金毘羅さんと塩飽島民や宇多津の廻船との結び付きが、ある程度は分かります。特に牛島を拠点とした丸尾家の奉納品は早い時期からあるようです。宇多津は中世からの讃岐
NO1の港であったので廻船業が盛んだったのでしょう。

 しかし、海事関係者全体の奉納品の数を見るときに、果たして18世紀以前から金毘羅さんが「海の神様」と呼ばれていたかどうかは疑問が残ります。
海事関係者からの奉納物

享保頃は,ごく一部の人が海の神としての金毘羅の霊験を語っても,まだ金毘羅そのものが全国から広い信仰を集めていたわけではないようです。将来、「海の神となる可能性を秘めていた時代」と研究者は考えているようです。そして19世紀半ば以後に、金毘羅といえば海の神という受け取り方が定着してきたとします。金毘羅は、流行神になったときから海の神としての性格を強くしたととも云えるようです。
1 金毘羅 奉納品2

以上をまとめておきます
金毘羅「庶民信仰・海の神様」説
金毘羅「庶民信仰・海の神様説」への疑問
①「金毘羅庶民信仰資料集 年表編 1988年刊行」には、近世以前の項目は載せられていない。
②これ以後、戦国末期に作り出された金毘羅神が流行神として広がったと考えられるようになってきた。
③金毘羅信仰の発展過程で大切なのは、時の権力者からの保護支援であった
④金毘羅信仰は 長宗我部 → 生駒 → 松平という時の権力者の保護を受けて成長した
⑤これらの権力者の保護なしでは金毘羅信仰の成長発展はなかった。
⑥その意味では「金毘羅信仰は庶民信仰」という定説は疑ってみる必要がある
⑦金毘羅神が「海の神様」として信仰されるようになるのは、案外新しい

以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 松原秀明  解説・年表を読むにあたって   
               金毘羅庶民信仰資料集 年表編

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