瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金毘羅神

丸亀の西教寺で「金毘羅神の誕生とその後」というテーマでお話しした内容の第3部です。

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前回までに金毘羅発展の重要人物として、金毘羅神を布教拡大した金毘羅行者たちと、新しく金毘羅神を創造した宥雅と良昌について見てきました。宥雅によって、松尾山には新しく観音堂と三十番社と金比羅堂が姿を見せました。これらの宗教施設全体を松尾寺と呼びます。
宥雅の松尾寺・金比羅堂建立

新しく出発した松尾寺を襲うのが南海の覇王・長宗我部元親の讃岐侵攻です。
おおおお

讃岐西讃守護代の天霧城・香川氏は、事前に長宗我部元親に通じていたようで抗戦しません。1578年には三豊方面、1579年には長尾氏の西長尾城が降伏します。香川氏の和睦工作に応じて多くの国衆たちは、形ばかりの抵抗で軍門に降り、土佐軍の先兵として働く者が多かったようです。これに対して、宥雅はどのような対応をしたのでしょうか?
宥雅の出自 多聞院日記

この時のことを多聞院日記には、「(宥雅が泉州の堺に落ちのびたこと。その際に、寺宝と記録を持ち去った。だから歴代院主には入れない。」とありました。こうして新築されたばかりで主人のいなくなった松尾寺を、長宗我部元親は無傷で手に入れます。そして、ブレーンとして従軍していた土佐修験集団にあたえます。こうして、金比羅は、土佐修験の集団管理下に置かれることになりました。その後の経緯を年表で押さえておきます。
長宗我部元親と金毘羅

元親は金比羅を管理下に置いた翌年1580年に、四国平定の祈願して矢を奉納しています。そして、その4年後に四国平定が完了すると成就返礼として仁王門を寄進しています。その棟札の写しを見ておきましょう。
金毘羅大権現松尾寺仁王堂棟札 宥厳

①中央に「上棟奉建立松尾寺仁王堂一宇、天正十二甲申年十月九日、
②右に 天下泰平・興隆仏法 大檀那大梵天王(だいぼんてんおう)長曽我部元親公、
左に 大願主帝釈天王(たいしゃくてんのう)権大法印宗仁
信長は「天下布武」印で天下への野心と示しました。元親は「天下泰平」と記します。これは天下、或いは四国平定の志を示したものと研究者は考えています。
③その下には元親の3人の息子達の名前が並びます。そこには天霧城に養子として入り、香川氏を継いだ長宗我部元親次男「五郎次郎」の名前も見えます。
④さらに下には、大工の名「大工仲原朝臣金家」「小工藤原朝臣金国」が見えます。
⑤「天正十二甲申年十月九日」という日付は、金刀比羅宮の大祭日の前日が選ばれています。
棟札の裏側(左)も見ておきましょう。
⑥「供僧」として地蔵寺・増乗坊・宝蔵坊・榎井坊など6つの寺と坊の名前が並びます。ここに出てくるのは、天狗信仰を持っていた修験者たちの坊や寺だったのでしょう。そして、支配者としてやって来た土佐の修験者で、その「集団指導体制下」にあったことがうかがえます。
⑦その下には「鍛治大工図  多度津伝左衛門」・「瓦大工宇多津三郎左衛門」とあり、これらが多度津や宇多津の職人であったことが分かります。多度津は、長宗我部元親と同盟関係になった香川氏の拠点です。香川氏配下の職人が数多く参加しています。この時期の伽藍整備が香川氏の手によって進められたことがうかがえます。二天門は、香川氏から長宗我部元親への「四国平定のお祝い」であったと私は考えています。
注目したいのは裏側の一番最後の行です。そこには次のように記します。(意訳)
「象頭山には瓦にする土は、それまでなかったのに、宥厳の加護によってあらわれた。」

ここに出てくる宥厳とは何者なのでしょうか?

宥厳支配下の金毘羅

土佐の資料「南路志」には、宥厳(南光院)のことが上記のように記されています。ここからは宥厳は土佐では南光院と呼ばれた修験者で、元親の従軍僧であったこと。そして、金毘羅一山を拝領して宥厳と名前を改めたとが分かります。南光院は四国霊場延光寺の子院です。延光寺は足摺の金剛福寺などを傘下に持つ土佐西部の修験道の拠点でした。元親は、松尾寺はを南光院(宥厳)に与え、土佐修験道集団集団管理下に置かれることになったようです。その意味を考えておきたいと思います。
長宗我部元親はブレーンとして修験者を重用したといわれます。
宥厳による松尾寺から金光院への転換

真言系修験者たちの中には、前回に見た島田寺の良昌のように、高野山で修行と修学を重ね高い知識をもった学僧がいました。彼らは修行や高野詣でのために、四国を往来しています。それは情報交換や外交交渉を行うのにも適任でした。また戦死者をともらうための従軍・医療僧としても重宝です。また、四国平定がおわると占領地の占領政策を策定する必要も出てきます。そのためにも新たな宗教センターが求められます。それが讃岐では松尾寺になります。そこにブレーンとして従軍してきた土佐の修験者たちを集めます。かれらはそれぞれ子房をもちます。そして権力者元親の意向を組んだ宗教センター作りが進められます。
 こうして見ると、この時点で松尾寺は長尾氏の氏寺的な存在から、四国平定を行った長宗我部元親の宗教施設にレベルアップしたことになります。そして、宥厳たちは、保護と寄進を求めるだけでなく、政策提言するだけの知識や胆力を長宗我部元親とのやりとりの中で養われていたのだと思います。それが後に、やってくる生駒氏や松平氏との関係の中で活かされます。こうして金比羅は支配者にとって利用するのに値する宗教センターに成長したのです。それが金毘羅大権現の保護と寄進につながると私は考えています。
こんな長宗我部元親の期待と要求に応えるために、宥厳は次のような「シフト改革」を行います。

宥厳の経営転換

①観音信仰から天狗信仰へ
②中心建物は、観音堂から金毘羅堂へ
③松尾寺から金光院へ
 長宗我部元親から与えられた松尾寺の使命が「四国鎮撫の総本山」であったとするなら、それに宥厳はこのような形で答えようとしたのかもしれません。ある意味、藩主としてやってくる支配者が求めるものを宥厳は知っていたことになります。そのためにも、松尾寺というどこにでもある宗教施設よりも、金毘羅大権現を祀る金比羅堂を前面に押し出した方が支配者には受けいれて貰いやすい判断したのではないでしょうか?松尾寺から金比羅堂へのシフト変更は宥厳の時代に始まったようです。そして、松尾寺住職ではなく、金毘羅大権現の別当金光院として、一山を管理していくという道を選んだとしておきましょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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讃岐の近世城郭 西長尾城は、長宗我部元親によって讃岐最大規模の山城にリニューアルされていた。


丸亀の院主さんたちに「金毘羅神の誕生とその後」と題して、お話ししたものの2回目です。今回は、金比羅神が誰によって、どんなふうに生み出されたのかを、その時代背景から見ていくことにします。
金毘羅神の誕生

今まで今まで日本にいなかった金比羅神が、どのようにして生まれてきたかを見ていくことにします。それは、言い換えれば誰が金比羅神を創造したのかということです。その根本史料が宝物館に保存されている金比羅堂の棟札です。それを見ていくことにします。

金毘羅堂棟札(1573年)
金毘羅堂棟札(1573年:金刀比羅宮宝物館)
金毘羅で最も古い史料とされているのがこの棟札です。

「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を別当金光院住職である宥雅が造営した。日付は1573年11月27日


裏は「金比羅堂を建立し、本尊が鎮座したので、法楽のための儀式を行った。その導師を高野山金剛三昧院の権大僧都法印良昌が勤めた。


 この棟札は、かつては「本社
再営棟札」と呼ばれ、「金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった」とされてきました。しかし、近世以前の資料が金比羅にないとすると、これが金比羅についての初見史料になります。この時に金比羅堂は建立されたのです。それでは宥雅とは何者なのでしょうか?

宥雅の出自 多聞院日記

金比羅の民政一般を取り仕切ったのが多聞院です。
その歴代院主が日記を残しています。その日記の中に宥雅は次のように記されています。次の4点が分かります。
①宥雅は、西長尾(鵜足郡)の城主であった
長尾大隅守高家の甥(弟?)であること
②宥雅は、長宗我部元親の侵入に際して、堺への逃走したこと
③宥雅は、その時に記録や宝物を持ち去ったこと 
④宥雅は、そのため歴代院主に含めない。つまり歴代院主として抹殺された存在だった
これ以外は宥雅については分かりませんでした。ところが
高松の無量寿院に、宥雅が残した「控訴史料」が近年見つかりました。ここでは深くは触れませんが、ここから金比羅神を産み出す際に宥雅の果たした役割が分かるようになりました。宥雅の出自である長尾氏の居館を見ておきましょう。
どこいっきょん? 西長尾城跡(丸亀市・まんのう町)

西長尾城と麓の居館跡とされる超勝(ちょうしょう)寺と慈泉(じせん)寺
まんのう町長尾から西長尾城(城山)を眺めたところです。この麓が長尾無頭(むとう)で、超勝寺や慈泉寺が、長尾氏の館跡とされています。この辺りには「断頭」という地名や、中世の五輪塔も多く、近くの三島神社の西には高さ2㍍近くの五輪塔も残っているので館跡というのはうなづけます。
長尾氏 居館
長尾氏居館跡
西長尾城(城山)からは丸亀平野が一望できます。晴れていると瀬戸内海も望めます。丸亀平野北部が天霧山の香川氏、南を長尾氏が勢力下にしていたと研究者は考えています。さて、宥雅が善通寺や高野山で学んでいた頃の四国をめぐる情勢を見ていくことにします。

安楽寺末寺17世紀

阿波美馬の安楽寺(真宗興正派)の末寺 吉野川沿いと讃岐に集中

以前にお話したように、1520年に阿波美馬の安楽寺は、讃岐の財田に集団亡命してきました。安楽寺は、その際に三好氏から布教活動の自由などの特権を条件に美馬へ帰国しました。以後、安楽寺は吉野川沿いの船頭達(運輸労働者=わたり衆)を中心に、川港を拠点に道場を展開していきます。そして、三好氏が讃岐への進出を本格化させると、それを追うように教線ラインを讃岐山脈の越えて、髙松平野や丸亀平野へと伸ばしていきます。そして、長尾氏や羽床氏・香西氏も三好氏の配下に入ると、土器川沿いの丸亀平野にも道場が形成されるようになります。

 それに拍車がかかるのが石山合戦のはじまりです。

石山戦争と安楽寺・西光寺
1570年に、石山本願寺と信長の間で合戦が始まります。そうすると支援物資調達のために本山からのオルグ団が阿波や讃岐にも派遣されます。そのためにも道場が組織強化され物資が調達されます。それは、宇多津西光寺による銅や米など運び込みという形で西光寺文書に残っています。西光寺から送り込まれたものは、丸亀平野の各道場から集められたものであったかもしれません。また西光寺以外にも多くの道場が支援を展開したことが考えられます。まさに門徒達にとっては「すべてを戦場へ・石山本願寺へ」という戦時体制を求められたと私は考えています。同時に、それは真宗門徒の信仰心を高揚させます。今までにない真宗門徒による活発な活動が丸亀平野でも見られたはずです。長尾氏出身の宥雅が松尾寺や金比羅堂を建立するのは、これと同時代のことになります。こうした真宗の教線伸張に危機感を抱いたのが真言系の僧侶だったのではないでしょうか。その一人が長尾家の一族・宥雅です。

宥雅は長尾氏の一門として善通寺で出家したようです。それは善通寺中興の祖=宥範の一字を持っていることからも分かります。その後は、高野山でも修学をしたようです。そして、讃岐帰国後に拠点とするのが称名寺でした。

称名寺
善通寺中興の祖・宥範の隠居寺とされる称名寺(現在の金刀比羅宮の神田の上)
 あかね幼稚園から入ると金毘羅宮の神田が開かれています。その上に称名寺はあったようです。14世紀前半に、ここを訪れた高野山の高僧は、浄土阿弥陀信仰を持つ念仏聖が住職を務めていたと記します。今は何もありません。その跡も分かりません。 ここに宥雅が住職としてやって来た時に、すでにこの上に松尾寺を建立する計画を持っていたはずです。その構想を後押ししたのが、金比羅堂の導師を勤めた良昌だと私は思っています。それを年表で見ておきましょう。

宥雅の松尾寺・金比羅堂建立
石山合戦が始まった年に、宥雅は称名寺の院主になっています。そして、真宗門徒の活動が活発化する中で、翌年には松尾寺本堂(観音堂)と三十番社、その2年後に金毘羅堂を次々と建立しています。
その導師が良昌でした。
良昌とは何者なのでしょうか?
金比羅堂導師 良昌

  先ほどの棟札をもう一度見ておきます。導師として招かれているのが高野山金剛三昧院の住職良昌です。この寺は高野山の数多くある寺の中でも別格的な存在です。多宝塔のある寺と云った方が通りがいいのかも知れません。北条政子が夫源頼朝の菩提のために創建したお寺で、将軍家の菩提寺となります。

②もうひとつの史料からは、良昌は、讃岐三野郡の財田の生まれで、法勲寺と島田寺の住職も兼務していたこと、そして、天正8(1580)年に亡くなっていることが分かります。導師を勤めた5年後には亡くなっています。研究者が注目するのは、法勲寺と島田寺の住職だったということです。法勲寺といえば、「綾氏系図」に出てくる古代寺院で、古代綾氏の氏寺とされます。また、島田浄土寺は、法勲寺の流れをくむ寺です。この寺で神櫛王の「悪魚退治伝説」が生まれたとされます。

島田寺と綾氏系図 悪魚退治
綾氏系図 冒頭が神櫛王の悪魚退治伝説

神櫛王の悪魚退治伝説とは、綾氏系図(讃岐藤原氏・香西・羽床・滝宮氏)の冒頭を飾るお話しです。

悪魚退治伝説の粗筋
手短に言うと景行天皇の子神櫛王が、五色台沖で暴れ回る悪魚を退治し、その業績が認められて、讃岐最初の国造となった。その子孫が古代綾氏で、中世武士団の讃岐藤原氏は、その末裔であるという伝説です。そのためにこの子孫を名乗る家には、このように冒頭に悪魚退治の話、そのあとに景行天皇に始まる系図を持つ家があります。しかし、紀記に記されるのは景行天皇の子として、神櫛王の名前が出てくるだけです。物語は古代には出てきません。それが登場するのは、中世に綾氏系図が作られた時なのです。つまり、この物語は中世になって羽床氏や香西氏などを顕彰するために、島田寺の住職が創作したものと研究者は考えています。その島田寺の住職を良昌が兼帯していたというのです。もちろん良昌は悪魚退治の話をよく知っていたはずです。当時の法勲寺は退転し、島田寺も荒廃していたようです。島田寺には、行き場をなくしたいくつも仏像が寄せ集められていたようです。
悪魚+クンピーラ=金毘羅神

魚に飲み込まれて腹を割いて出てくる神櫛王(金毘羅参詣名所図会)
宥雅と良昌とは、旧知の間柄であったのではないかとおもいます。二人の間ではこんな話がされていたのではないでしょうか?ここからは私の作ったお話しです。

宥雅

「近頃は南無阿弥陀仏ばかりを称える人たちが増えて、一向のお寺はどんどん信者が増えています。それに比べて、真言のお寺は、勢いがありません。私が建立した松尾寺を盛んにするためにはどうしたらよいでしょうか」

良昌

「ははは・・それは新しい流行神を生み出すことじゃ。そうじゃ、わが島田寺に伝わる悪魚伝説の悪魚を新しい神に仕立てて売り出したらどうじゃ」


「なるほど、新しい神を登場させるのですか。


「祟り神である悪魚を、神魚にして、そこにインドの番神を接ぎ木するというのはどうじゃ。まあ、ワニの化身とされるクンピーラあたりがいいかもしれん。それは私にまかせておきなさい」


「強力なパワーを持つ誰も知らない異国の番神を勧進するのですか。それを是非松尾寺の守護神として迎え入れたいと思います。その時には、お堂の落慶法要においでください」


「よしよし、分かった。信心が人々を救うのじゃ。人々が信じられる神・仏を生み出すのも仏に仕える者の仕事ぞ」


悪魚を神魚に転換して、そこに異国の番神ワニ神クンピーラを接ぎ木・融合させ、これを金昆羅神として登場させたという説です。この神が祀られた金比羅堂は、現在の本社下の四段坂の登り口にありました。しかし、金比羅神の像が奉られることはなく本地仏して薬師如来が安置されていたことは前回にお話しした通りです。

金毘羅大権現伽藍 金毘羅参詣名所図会

松尾寺の観音堂下に姿を現した金毘羅堂

金毘羅神は宥雅と良昌の合作ですから、それまでいなかった神です。まさに新たな特色ある神です。また、得体が知れないので「神仏混淆」が行われやすい神でした。それが後には、修験者からは役業者の化身とされたり、権現の化身ともされるようになります。

 これは「布教」の際にも有利に働きます。「松尾山にしかいない金比羅神」というのは、大きなセールスポイントになります。讃岐にやって来る藩主への売り込みの際の「決め手」になります。ちなみに松尾寺の観音堂の本尊も、このとき島田寺経由でもたらされた法勲寺の仏のひとつではなかったのかと考える研究者もいます。

以上で第2部修了です。ここでは次のことを押さえておきます。
①金毘羅神は近世に現れた流行神である。
②金比羅神の登場した時代には、石山合戦の時代で、真宗興正派が丸亀平野で教線を急速に拡張する時期でもあった。
③そのような中で長尾氏出身の宥雅は、新たな流行神の勧進を行おうとした。
④相談を受けた良昌は、「島田寺の悪魚伝説 + 蛮神クンピーラ = 金毘羅神」を創りだした。
⑤こうして松尾寺の守護神として金比羅神が松尾山に現れることになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


参考文献 町史ことひら 近世編
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丸亀の院主さんたちに「金毘羅神の誕生とその後」と題して、お話しをする機会がありました。その時のことを資料も含めてアップしておきます。
 今回は戦国時代末期の1570年ころから、元禄時代末までの約百年間の金毘羅さんのことをお話しさせていただきます。この時期は、金毘羅神が産み出され、成長して行く時期になります。金毘羅さんにかかわったその時々の人々を取り上げて、彼らの直面した課題と、残した業績をみていきたいとおもっています。


松尾寺 観音堂と金剛坊
金毘羅松尾寺の観音堂(讃岐国名勝図会)と、本尊の十一面観音


 その前に舞台となる金毘羅山上の様子を絵図で見ておきます。
①神仏分離前の幕末の金毘羅大権現の観音堂です。現在は、この地には大国主の姫神
三穂津姫を祀る建物があります。神仏分離後に神社風に改められて最近、重文指定を受けました。②その背後に金剛坊とあります。金剛坊は「死しては、天狗になって金毘羅を護らん」と云った宥盛という修験者です。宥盛を金光院では実質的な始祖としてきました。宥盛は神仏分離後は、奥社に奉られています。左の方には大きな絵馬堂 そして籠堂もあります。参拝者達がここで夜を明かしていたことがうかがえます。さて、このお寺は創建時は松尾寺と呼ばれました。観音堂が本堂なので観音信仰のお寺だったようです。観音堂の本尊を見ておきます。平安期の観音像です。頭の 十の観音が抜き取られて、かつては正観音とされていたようです。今は宝物館にいらっしゃいます。明治の神仏分離後も、この本尊を廃仏することはできなかったようです。観音堂の右側は、どうなっているのでしょうか?

松尾寺 金毘羅大権現と三十番社
金毘羅大権現の拝殿・本社と三十番社(讃岐国名勝図会)
右側の拝殿と本社は、現在とあまり変化がないようです。しかし、もともとはここに先ほどの観音堂があったようです。それがどうして、金比羅神にその座をゆずったかについては、おいおい見ていくことにします。ここでは三十番社を見ておきましょう。経蔵には、多くの経典が納められていました。その中で法華経は、中世には宗派を超えて大切にされたお経で、その守護神たちが三十番神でした。三十の神々が日替わりで順番に経典を護るのです。その建物を三十番社と呼び、三十の神々が安置されていました。神仏混淆信仰のもとでは「神が仏を守る」のが当たり前とされていました。幕末の伽藍配置の全体を押さえておきます。


金毘羅大権現伽藍 金毘羅参詣名所図会
金毘羅大権現の山上伽藍(金毘羅参詣名所図会)

金毘羅参詣名所図会に描かれた金毘羅大権現です。
ここでは、本社下の四段坂の一番下の本地堂を押さえておきます。ここが金毘羅神が最初に祀られた所になります。それが、本社の位置に格上げされて、観音堂を押しのけたかっこうになります。また金毘羅神の本地仏は、薬師堂とされました。そのため金堂の位置には薬師堂が建てられます。そして、幕末には大きな金堂として新築され、中には善通寺金堂の薬師さまと変わらない大きさの薬師さまが安置されていました。それは神仏分離後に売却され、金堂はもぬけの空となって旭社と呼ばれるようになります。
 もうひとつ押さえておきたいの、二天門です。これは土佐の長宗我部元親が寄進したものです。俗説では、逆(賢)木(さかき)門ともいわれ、一日で大急ぎで立てたので、柱の上下が逆になっているといわれる門です。

金光院 讃岐国名勝図会2
金光院(讃岐国名勝図会)
 松尾寺の伽藍の管理権を握るのが金光院院主です。
金毘羅さんの歴史を権力闘争という視点で見れば、金光院の支配権確立の歩みという見方も出来ます。表書院には円山応挙の鶴や虎の絵が描かれていることで有名ですが、ここで注目しておきたいのは護摩堂です。

金光院の護摩堂と阿弥陀堂
金毘羅の護摩堂と阿弥陀堂 右が護摩堂の本尊不動明王
この護摩堂に安置されていたのが、この不動明王になります。この不動さまの前で、社僧によって護摩が焚かれお札が渡されていました。お札は本社で発行されていたのではなく金光院に権利がありました。ちなみに、この不動さまは、今も宝物館の中にいらっしゃいます。神仏分離の際にも、当事の僧侶達はこの像だけは手放せなかったようです。金比羅宮はもうひとつ気になるのが阿弥陀堂です。真言の寺と阿弥陀堂はミスマッチのような気が、これにも時間があれば後に触れたいと思います。
大祭行列図屏風 山上拡大図 本殿 金剛院
金毘羅大祭図屏風(17世紀初頭)
神仏分離以前の金毘羅大権現の伽藍を見てきました。ここでは松尾寺の守護神である金毘羅神を祀る本社、三十番社、観音信仰の観音堂が山上に並び、その下に管理運営を握る金光院やそのたの子院があったことを押さえておきます。
これで、今回お話しの中に出てくる建物の紹介を終わります。さてこれから本番です。


金毘羅信仰についての今までの常識

金比羅さんについては、かつては上のように説明されてきました。

しかし、香川県史や町史ことひらなどは、このような立場をとりません。それでは現在の研究者は、金毘羅信仰についてどのように考えているのでしょうか? まず、「古い歴史をもつ金毘羅さん」について、見ておきましょう。

金毘羅中世文書は偽書

かつては上の5つの寄進状が、金毘羅大権現が古代末に遡ることを示すものとされてきました。しかし、現在では、これらは後世の偽書であると香川県史や町史ことひらは判断しています。
 「海の神様=金毘羅大権現」説については、奉納物の史料整理などから次のような事が分かってきました。
「金毘羅神=海の神様」説は、史料からは裏付けられない
こうして見ると、塩飽の人名や船頭達の奉納が始まるのは18世紀になってからです。しかも塩飽の船乗りや船主達の寄進した燈籠は、全体でも20基足らずです。彼らが大坂の住吉神社に寄進している数から比べると比較にならないほど少ないのです。塩飽の船乗り達は、もともとは金毘羅信者ではなかったようです。また芸予諸島でも、厳島神社・石鎚・大三島神社への奉納が中心で、金比羅には19世紀になるまではあまり見られません。また金毘羅側の史料からも、19世紀になるまでは海難防止祈祷などはあまりやっていないことが分かります。流し樽の風趣なども、これが一般化するのは明治になって呉の海軍がやるようになって以後であることを民俗学者が明らかにしています。ここでは金毘羅神はもともとは海とは関係なく、海の神様ではなかったことを押さえておきます。
金毘羅についての研究史のターニングポイントとなったのが「金毘羅庶民信仰資料集」です。
1988年に金比羅の鳥居・燈籠・玉垣・奉納物などが国指定を受けたのを期に作成された資料集です。この刊行の中心となったのが金刀比羅宮の学芸員の松原秀明さんで、長年にわたって金刀比羅宮の史料を収集整理してきた人物です。その松原さんが、第4巻の年表編の序文に次のような文章を書いています。

「金毘羅神


 流行(はやり)神というのは、それまでになかった神が突然現れて、爆発的に信者をあつめる現象です。この見解を、後に続く香川県史や「町史こんぴら」も、この立場を継承します。金比羅神が何者であるかは後回しにして、まずこの神がだれによって全国に拡げられたかを見ていくことにします。
当時の松尾山(象頭山)は、どうみられていたのでしょうか。

天狗経の金毘羅
天狗経(全国の天狗信仰の拠点が挙げられている)

これは天狗経という経典です。今では偽書とされていますが、当事はよく出回っていました。ここには、各地の有力天狗が列挙されています。そこは天狗信仰の拠点だったということです。先頭に来るのは京都の愛宕天狗です。鞍馬天狗もいます。高野山も天狗の拠点地です。そして、(赤丸)「黒眷属金比羅坊」が出てきます。「白峯相模坊」もでてきます。崇徳上皇が死して天狗になり怨念をはらんとしたのが、白峯です。その崇徳上皇の一番の子分が相模坊です。この下には多くの子天狗たちがいました。ひとつ置いて、象頭山金剛坊とあります。これが後の金光院です。こうして見ると象頭山は、天狗信仰の拠点だったことが見えてきます。
本当に金比羅・象頭山に天狗はいたのでしょうか? 

金刀比羅宮奥社の天狗信仰痕跡

その痕跡を残すのが奥社(厳魂神社(いづたまじんじゃ)です。ここには金剛坊とよばれた宥盛が神となって奉られています。奥社の横は断崖で天狗岩と呼ばれています。そこには、大天狗と烏天狗の面が架けられています。そして高瀬の昔話には上のように記されています。ここからはこの断崖や奥の葵滝などは、天狗信者の行場で各地から多くの人が修行に訪れていたことが分かります。 

金刀比羅宮奥社の天狗岩の天狗面

金刀比羅宮奥の院の天狗岩の天狗面(右が大天狗・左が小天狗)と奥社のお守り
右が団扇を持つ大天狗で、左が羽根がある烏天狗です。大天狗の方が格上になるようです。奥社のお守り袋は、天狗が書かれていて「御本宮守護神」と記されます。これは、ここに神となって奉られているのが天狗の親玉とされる金剛院宥盛なのです。彼は「死しては天となり、金比羅を護らん」といって亡くなったことは先にもお話しした通りです。どこか白峰寺の崇徳上皇の言葉とよく似ています。ここでは宥盛は天狗として、金毘羅宮を護っているということを押さえておきます。それでは、天狗になるためにここに修行しに来た修験者たちは、どんな布教活動を行っていたのでしょうか?

安藤広重の天狗面を背負った金毘羅行者
安藤広重の「沼津宿」に描かれた金毘羅行者

安藤広重の「沼津宿」には、天狗面を背負った行者が描かれています。
左は、金毘羅資料館の、金比羅行者です。箱に天狗面を固定し、注連縄(しめなわ)が張られています。天狗面自体が信仰対象であったことが分かります。天狗面を背負って布教活動を行う修験者を金比羅行者と呼んだようです。

金刀比羅宮に奉納された天狗面

金刀比羅宮には、金比羅行者が亡くなった後に、弟子たちが金毘羅に奉納した天狗面があります。ここからは金比羅行者が天狗面を背負って、全国に布教活動を行っていたが分かります。それでは、どんな布教活動だったのでしょうか?


金毘羅大権現と天狗への願掛け文

具体的な布教方法は分かりませんが、布教活動の成果が分かる史料があります。信州の芝生田村の庄屋・政賢の願文です。願文を意訳変換しておくと

金毘羅大権現の御利益で天狗早業の明験を得ることを願う。そのために月々十日に「火断」を一生行い大願成就を祈願する。


願掛け対象は、金毘羅大権現と大天狗・子天狗です。大願の内容は記されていませんが、「毎月十・二十・三十日に火を断つ」という断ち物祈願です。ここで押さえておきたいことは、海とは関係のない長野の山の中の庄屋が金毘羅大権現の信者となっていることです。それは金比羅行者の布教活動の成果であることがうかがえます。このように金毘羅大権現の初期の広がりは海よりも山に多いことが民俗研修者によって明らかにされています。

それでは、金毘羅大権現と、大天狗と子天狗は、どんな関係にあったのでしょうか。


Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗達(金光院)
そのヒントになるのが上の掛軸です。一番下に「別当金光院」とあります。金光院が発行したもののようです。正面が金比羅大権現です。その両脇が羽団扇を持った大天狗です。その他大勢が小天狗達です。金比羅の天狗集団は、こんなイメージで捉えられていたようです。この仲間入りをするためにプロの修験者たちは金比羅にやってきて、奥社や葵の滝などで修行を重ねます。そして多くの験を積めば、各地に金毘羅行者として天狗面を背負って布教活動を行いました。天狗信仰をもつ修験者たちによって、初期の金比羅信仰は拡がったと研究者は考えています。
それでは、金毘羅大権現はどんな姿をしていたのでしょうか?

金毘羅大権現は2つの姿で説明されていた
金比羅神は公式バージョンはクンピーラ、実際には天狗

 江戸時代中期に金比羅を訪れ、金剛坊に安置されていた金毘羅大権現を拝んだ天野信景は次のように記しています。

讃岐象頭山は金毘羅神の山である。金毘羅神の像は三尺ばかりの坐像で、僧侶姿である。すざましい面貌で、修験者のような頭巾を被っている。手には羽団扇をもつ。その姿は、十二神将の宮毘羅神将とは似ても似つかない。 


金光院の公式見解は次のようなものでした。

「金毘羅神は、インドのワニの神格化されたクンピーラである。それが権現したのが宮毘羅神将である」

しかし、これは金光院の公式文書の中に書かれたものです。この説明と実態は違っていたようです。つまり金光院は2つの説明バージョンを持っていて、使い分けていたようです。大名達の保護を受けるようになると、天狗の親玉が金比羅神では都合が悪くなります。そのために金比羅神の由来を聞かれたときに公式版回答マニュアルを作成しています。そこには、インドのガンジス側のワニが神霊化し守護神となったのがクンピーラで、その本地仏は宮毘羅神将だと書かれています。これが公式版です。が、実際の布教用には金比羅神は天狗の親玉と修験者たちは言い伝えていたようです。ダブルスタンダードで対応していたのです。
それが分かるのが、「塩尻」です。
そこで観音堂裏の金剛院にある金毘羅像を拝観したときのことを次のように記します。
僧のような姿で、修験者のような服装をして、手に羽根団扇を持つ。これは宮毘羅神将の姿ではない。死して天狗にならんとした宥盛が自らの姿を刻んだという自造木像を社僧たちは金毘羅神として崇めていたのではないかと私は想像しています。そこでは、「金毘羅大権現=天狗=宥盛」といった「混淆」が進みます。
 

天狗信仰から生まれた「崇徳上皇=金毘羅大権現」説

 ちなみに江戸時代後半になると京都の崇徳神社では、崇徳上皇と金毘羅神は同じ天狗だとされ、さらに崇徳上皇=金毘羅大権現という説が広まります。それが、明治になって金毘羅大権現を追放した後に、その身代わりとして崇徳上皇を祭神として金刀比羅宮が迎え入れる導線になるようです。ここまでで、一部終了です。

ここまでは以下のことを押さえておきます。

新しい「金毘羅信仰」観

①金比羅には、中世に遡る史料はないこと
②金毘羅は近世になって登場した流行神であること
③金毘羅神は、宮毘羅神将とはにても似つかない修験者姿であったこと

④金毘羅信仰をひろげたのは、天狗信仰をもつ修験者の「金毘羅行者」たちだったこと

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事

金毘羅神を生み出したのは修験者たちだった   
金毘羅大権現2
金毘羅信仰については、金毘羅神が古代に象頭山に宿り、近世に塩飽の船乗り達によって全国的に広げられたと昔は聞いてきました。しかし、地元の研究者たちが明らかにしてきた事は、金毘羅神は戦国末期に新たに創り出された仏神で、それを生み出したのは象頭山に拠点を置く修験者たちであったこと、彼らがそれまでの三十番社や松尾寺に代わってお山の支配権を握っていく過程でもあったということです。その拠点となったのが松尾寺別当の金光院です。そして、この金光院の院主が象頭山の封建的な領主になるのです。

e182913143.1金比羅大権現 天狗 烏天狗 絵入り印刷掛軸
 この過程を今回は「政治史」として、できるだけ簡略にコンパクトに記述してみようと思います。
 戦国末期から17世紀後半にかけて、金光院院主を務めた修験系住職六代の動きをながめると、新たに作りだした金毘羅大権現を祀り、象頭山の権力掌握をおこなった動きが見えてきます。金毘羅大権現を祀る金毘羅堂は近世始めに創建されたもので、金光院も当寺は「新人」だったようです。新人の彼らがお山の主になって行くためには政治的権力的な「闘争」を経なければなりませんでした。それは金毘羅神の三十番神に対する、あるいは金光院の松尾寺に対する乗っ取り伝承からも垣間見ることができます。
20150708054418金比羅さんと大天狗

宥雅による金毘羅神創造と金毘羅堂の建立
金毘羅神がはじめて史料に現れるのは、元亀四年(1573)の金毘羅堂建立の棟札です。
ここに「金毘羅王赤如神」の御宝殿であること、造営者が金光院宥雅であることが記されています。 宥雅は地元の有力武将長尾氏の当主の弟ともいわれ、その一族の支援を背景にこの山に、新たな神として番神・金比羅を勧進し、金毘羅堂を建立したのです。これが金毘羅神のスタートになります。

宥雅による金毘羅堂建立

 彼は金毘羅の開祖を善通寺の中興の祖である宥範に仮託し、実在の宥範縁起の末尾に宥範と金毘羅神との出会いをねつ造します。また、祭礼儀礼として御八講帳に加筆し観応元年(1350)に宥範が松尾寺で書写したこととし、さらに一連の寄進状を偽造も行います。こうして新設された金毘羅神とそのお堂の箔付けを行います。
 当時、松尾寺一山の中心施設は本尊を安置する観音堂であり、その別当は普門院西淋坊という滅罪寺院でした。さらに一山の地主神として、また観音堂の守護神として神人たちが奉じた三十番社がありました。これらの先行施設と「競合」関係に金毘羅堂はあったのです。
 そのような中で金光院は、あらたに建立された金毘羅堂を観音堂守護の役割を担う神として、松尾寺の別当を主張するようになります。それまでの別当であった普門院西淋坊が攻撃排斥されたのです。このように新たに登場した金毘羅堂=金光院と先行する宗教施設の主導権争いが展開されるようになります。
sim (2)金毘羅大権現6

 そのような中で天正六年(1578)から数年にわたる長曽我部元親の讃岐侵攻が始まります。

長宗我部元親支配下の金毘羅

これに対して長尾氏の一族であった金光院の宥雅は堺に亡命します。空きポストになった金光院院主の座に、長宗我部元親が指名したのが、陣営にいた土佐幡多郡寺山南光院の修験者である宥厳です。彼は、元親の信任を受け金毘羅堂を「讃岐支配のための宗教センター」としての役割と機能を果たす施設に成長させていきます。

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 こうして宥厳は土佐勢力支配下において、金光院の象頭山における地位を高めていきます。彼は土佐勢撤退後も金光院院主を務めます。その亡き後に院主となるのが宥盛です。彼は「象頭山には金剛坊」と称せられる傑出した修験者で、金毘羅の社会的認知を高め、その基盤を確立したといわれます。歿する際には自らの修験形の木像を観音堂の後堂に安置しますが、彼は神として現在の奥社に祀られています。
 一方、宥雅は堺からの復帰をはかろうと、当時の生駒藩に訴え出ますが認められませんでした。彼は、金刀比羅宮の正史には金光院歴代住職に数えられていません。抹殺された存在です。長宗我部元親による讃岐支配は、宥雅とっては創設した金比羅堂を失うという大災難でしたが、金比羅神にとってはこの激動が有利に働いたようです。権力との接し方を学んだ金光院はそれを活かし、生駒家や松平頼重の良好な関係を結び、寺領を増加させていきます。同時に親までの支配権を強化していくのです。

o0420056013994350398金毘羅大権現

 それに対して「異議あり!」と申し立てたのは山内の三十番社の神人でした。
もともと、三十番社の神人は、祭礼はもとより多種の神楽祈禧や託宣などを行っていたようです。ところが金毘羅の知名度が上昇し、金光院の勢力が増大するに連れて彼らの領分は次第に狭められ、その結果、経済的にも追い詰められていきます。そのような中で、彼らは金光院を幕府寺社奉行への訴えるという反撃に出ます。
 しかし、幕府への訴えは同十年(1670)8月に「領主たる金光院を訴えるのは、逆賊」という判決となりました。その結果、11月には金毘羅領と高松領の境、祓川松林で、訴え出た内記太夫、権太夫の獄門、一家番属七名の斬罪という結末に終わります。これを契機に金毘羅(金光院)は吉田家と絶縁し、日本一社金毘羅大権現として独自の道を歩み出します。
20157817542
つまり、封建的な領主として金光院院主が「山の殿様」として君臨する体制が出来上がったのです。金毘羅神が生み出されてから約百年後のことになります。
 宥盛以降、宥睨(正保二年歿)・宥典(寛文六年隠居)・宥栄(元禄六年歿)までの院主を見てみると、彼らは大峯修行も行い、帯刀もしており「修験者」と呼べる院主達でした。

参考文献 

白川琢磨        金毘羅信仰の形成 -創立期の政治状況-

近世初頭の金毘羅さんは、どのように見られていたのでしょうか?

「修験道 天狗」の画像検索結果
 
当時の参拝姿を描いた絵図には、ふたのない箱に大きな天狗面を背中に背負った金比羅詣での姿が描かれています。江戸時代の人々にとって天狗面は、修験道者のシンボルでした。
 幕末の勤王の志士で日柳燕石は次のような漢詩を残しています
夜、象山(金毘羅さんの山号)に登る
崖は人頭を圧して勢い傾かんと欲す。
満山の露気清に堪えず、
夜深くして天狗きたりて翼を休む
十丈の老杉揺らいで声有り
 ここにも天狗が登場します。当時の人々にとって、金比羅の神は天狗、象頭山は修験道の山という印象であったようです。

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金毘羅宮奥社 ここには天狗となった宥盛が祭られている
金毘羅神(大権現)を、金光院は公式にはどんな神だと説明していたのでしょうか。
薬師瑠璃光如来本願功徳経には、次のように記されています。
「爾時衆中有十二薬叉大将俱在会坐。所謂宮比羅大将...」
薬師如来十二神将の筆頭に挙げられ、
「此十二薬叉大将。各有七千薬叉以為眷属。」
金毘羅神は、ガンジス川のワニの神格化を意味するサンスクリットのKUMBHIRA(クンビーラ)の音写で、薬師如来十二神将(天部)の筆頭で、「宮毘羅、金毘羅、金比羅、禁毘羅」と表記されます。十二神将としては宮比羅大将、金毘羅童子とも呼ばれ、水運の神とされていました。つまり仏教の天部の仏のひとつということです。
新薬師寺 公式ホームページ 十二神将
新薬師寺のクビラ大将

それがインドから象頭山に飛来したというのです。ところが金毘羅に祭られていた金毘羅神とクビラ大将とは似ても似つかない別物でした。江戸時代の金毘羅の観音堂近くに祭られていた金毘羅神を見た人たちは、次のような記録を残しています。
「生身は岩窟に鎮座。ご神体は頭巾をかぶり、数珠と檜扇を持ち、脇士を従える」
これは、役行者や蔵王権現など修験道の神そのものです。その金比羅神が象頭山の断崖の神窟に住み着きます。その地は人の立ち入りをこばみ、禁をやぶると暴風が吹きあれ、災いをもたらすと説きます。今日でも神窟は、本殿背後の禁足林の中にあり、神職すら入れないようです。 ã€Œé‡‘比羅ç\žã€ã®ç”»åƒæ¤œç´¢çµæžœ 
金毘羅大権現像
 ギメ東洋美術館

最初にこの金毘羅大権現像を見たときは、びっくりしました。まるでドラゴンボールのサイヤ星人の戦士のように思えたからです。神様と思い込んでいたから戸惑ったので、最初から仏を守る天部の武人像姿と思っていれば違和感なく受けいれられたのかもしれません。
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本殿から奥社に向かう参道の入口

つまり、金光院は金毘羅神について、次のようにふたつの説明を使い分けていたようです。

①幕府・髙松藩などへの説明 インドより渡来したクビラ神②実際に祭られていたのは  初代院主宥盛の自らが彫った自像

金毘羅神が修験者の姿をしていると伝えられたのはなぜ?

 それは山内を治めていた別当・金光院の初期の院主が修験道とかかわりが深かったからです。例えば、現在の奥の院に神として祀られている金毘羅神は、慶長11年(1606)、自らの姿を木像に刻み、その底に「入天狗道沙門金剛坊像」と彫り込んでいます。
 この金剛坊像、すなわち宥盛の像は、元々は現在の本殿脇に祀られていましたが、参拝者に祟るため、観音堂の後堂に祀りなおされ、最終的には奥社に祀られます。
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金毘羅宮奥の院 岩場は修験者等の行場でもあった
奥社は、金比羅信仰以前から修験者の行場として聖地だったところです。列柱岩が立ち並んで切り立っていて行場には最適です。宥盛も修験者として、ここで業を行っていたのかもしれません。

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金毘羅宮奥の院の威徳巌
 神窟の暴風や金剛坊の祟りにみられる神秘的な信仰要素は、修験特有のものです。このように金毘羅信仰の誕生には、山岳信仰や修験道の要素が入り込んでいます。この二つの信仰が合わさって、風をあやつる異形の天狗となり、海難時に現れ救済する霊験譚や海難絵馬に登場するようになったのかもしれません。
五来重(仏教民俗学)は修験道について、次のように述べています。
「天台宗、真言宗の一部のようにみられているけれども、仏教の日本化と庶民信仰化の要求から生まれた必然的な宗教形態であって、その根幹は日本の民俗宗教であり神祇信仰である」
 修験道の解明は日本の庶民信仰(金毘羅信仰を含む)の解明につながるとの思いが託されているようです。

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 磐の上には烏天狗と(左)と天狗(右)がかけられています。
明治の神仏分離で金毘羅大権現を初め、修験道色は一掃された金毘羅さんです。しかし、ここにはわずかに残された修験道の痕跡を見ることができます。  

奥社に祀られる 金光院別当宥盛(ゆうせい)の年譜

①高松川辺村の400石の生駒家・家臣井上家の嫡男として生まれる。高野山で13年の修行後に真言僧
②1586(天正14)年 長宗我部の讃岐からの撤退後に高野山より帰国。
 別当宥巌を助け、仙石・生駒の庇護獲得に活躍
③1600(慶長5)年 宥巌亡き後、別当として13年間活躍 
    堺に逃亡した宥雅の断罪に反撃し、生駒家の支持を取り付ける。 金比羅神の「由来書」作成。金比羅神とは、いかなるものや」に答える返答書。善通寺・尾の瀬寺・称明寺・三十番神との関係調整に辣腕発揮。
④修験僧としてもすぐれ「金剛坊」と呼ばれて多くの弟子を育て、道場を形成。
⑤土佐の片岡家出身の熊の助を育て「多門院」を開かせ院首につかせる。   
⑥真言学僧としての叙述が志度の多和文庫に残る  高野山南谷浄菩提院の院主兼任
⑦三十番神を核に、小松庄に勢力を持ち続ける法華信仰を金比羅大権現へと切り替えていく作業を行う。
⑧1606(慶長11)年 自らの岩に腰を掛る山伏の姿を木像に刻む
⑨1613(慶長18)年1月6日 死亡
⑩1857(安政4)年 朝廷より大僧正位を追贈され、名実共に金比羅の守護神に
⑪1877(明治10)年 宥盛に厳魂彦命(いずたまひこのみこと)の神号を諡り「厳魂神社」
⑫1905(明治38)年 神殿完成、これを奥社と呼ぶ
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金毘羅宮 巌魂神社(奥社)
ちなみにこの厳魂神社を御参りして、記念に私が求めたのは・・・

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このお守りでした。
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天狗が描かれ「御本宮守護神」と記されています。宥盛は神となり守護神として金毘羅宮を守っているのかもしれません。

讃岐琴平 草創期の金比羅神に関しての研究史覚え書き 

金比羅神については色々なことが伝えられているが、研究者の間ではどのようなな見解が出されているのかをまずは知りたかった。そのために金比羅神の草創期に絞って図書館で見て取れる範囲で、書物にあたってみた。その報告である。

まずは、金毘羅大権現についての復習

①仏教の神のひとつで、日本では海上の守護神としてひろく信仰。
②ガンジス川のワニの神格化を意味するサンスクリットのUMBHIRA(クンビーラ)の音写。
③薬師如来にしたがう十二神将のひとつ
④金毘羅信仰で有名な金刀比羅宮は、もとは松尾寺という寺院。
⑤その伽藍の守護神だった金毘羅神を、信仰の中心とするようになり、金毘羅大権現と称した。
⑥インドでは、この神の宮殿は「王舎城外宮比羅山」で、これを訳すると象頭山。
⑦そのため金刀比羅宮がある山は象頭山とよばれる。
⑧大物(国)主神を金比羅神(大黒天)と同一視し主祭神
⑨金比羅を「こんぴら」と呼ぶのは江戸っ子の発音。正しくは「ことひら」(これは後の神道学者の言い出したこと)
⑩仏や菩薩が、衆生救済のために神などの仮の姿をとってあらわれる神仏習合がすすみ、本地垂迹思想がおこると、神々は仏や菩薩の権化と考えられるようになった。
⑪明治維新の神仏分離で権現号は廃されたが、通称として生きつづけている。
以上のことは定説。それでは金比羅信仰がいつ、どのように作り出されてきたのかをめぐる論考に当たっていきたい。

小島櫻礼「金比羅信仰」1961年

①金比羅山の頭人制は、古い神を祭る祭礼であり村の神的な性格
②松尾寺の守護神であった神が、江戸初期に急速に発展した背景は?
③金比羅を金比羅として祭らず、ある日本古来の神として祭っていた江戸以前
④何か新しい「外部的な動機」によって、「流行(はやり)神」として全国的な信仰獲得?
⑤仏典に見える「金比羅竜王説」
⑥金比羅=留守神=蛇・竜=農業神的な性格
 古風な固有信仰の中核である農神が水神の性格を持ち蛇体・竜
 習合以前の「原金比羅信仰」は農神の痕跡
 ここの鰐を神体とする金比羅という外部の神が勧進
龍神⇒⇒海神⇒⇒船人の神へという転換
地元の龍神が、「外部の信仰」を引き寄せて全国展開へ
地元の信仰から原金比羅信仰に迫るために、金比羅祭礼の詳細な記述と分 析が今後の重要な作業。
⑦この信仰を説いたのはいかなる人たちか⇒⇒聖による流布?

  近藤喜博「山頂の菖蒲」1960年
問題意識 
金比羅という異国の神が、どうして琴平に勧進されたのか?
①「あり嶺よし」としての象頭山(万葉集1-62)
あり嶺よし 対馬の渡り 海中に 弊取り向けて はや還り来ぬ」

*航海上高く現れて目立つ山で「よき山」
*「海中に 弊取り向けて」は、航海安全の祈り。弊とは?奉弊上の幣帛?
古代の航海にあって「雷電・風波」は最も危険で恐れられたもの。
潮待ち風待ちの港の背後の山の「雲気」の動静は、関心事の最大
*弊串として串との一体で考慮。初穂・流し樽へ
②コトヒラ・コトビキの地名由来
*航海の安全を祈るために、「琴を引く」風習の存在
*播磨風土記の「琴の落ちし処は、即ち琴丘と名づく」
*本殿と並び立つ「三穂津姫社」の存在は、何を意味する?
③伴信友の延喜式社「雲気神社」は、「金刀比羅神社」説?
*「ありみねよき琴平山への海洋航海族の憧憬を雲気神社に」
*後に農耕神となり、雨乞いなどを祈り捧げる山へ
*周防国熊毛郡の式内社「熊毛(雲気)神社」も同じ性格
④「琴平山」の「原始雷電信仰」の痕跡が山上の竜王池
        *かつては大麻神社が管理。7月17日に祭神
*龍蛇は雷電に表裏したもの。稲妻は葦や菖蒲のシンボルへ
*稲妻⇒⇒稲葉⇒⇒因幡⇒⇒岐阜の伊奈波神社
⑤崇徳上皇の怨霊            
*保元物語の死に際に大魔王へ「怨念によりて、生きながらに天狗の姿に」
 都に相次ぐ不祥事を払うために白峰宮建立
*同時に讃岐に起こる風塵も崇徳上皇の怨念で、これを鎮めることが必要?
*そのような「怨霊」=「雷電神」=「天狗」を祭る鎮魂の社殿建設?
*京都北野の雷電信仰の上に、道真の「雷神=天神」が合祀され北野天満宮へ
*天狗は「天津鳥」で、「高津神」「高津鳥」(火の鳥)につながる系譜
*火の鳥は雷神の使令
          天狗の正体は烏で、人間の怨霊と結びついたもの?
 ⑥菖蒲の呪力
*菖蒲による人間への復活説話の意味 剣状のの植物の神聖さ
*雷電を避ける呪力のある菖蒲=「剣尖に座す神々」の存在=鉾
*竜王池の菖蒲の意味は?
*「大麻神社」の麻も長剣状葉の持つ呪術性の延長線上に
 ⑦本殿奥の神窟の存在
*讃岐国名勝図会
 「神の廟の巌窟に鎮座し、一社の深秘にて他に知ること無し」
*禁足林の存在。三十番社の大木の麓に岩窟⇒⇒古来以来の聖地
*雷=鬼の姿で表現。その巣が洞窟

武田明「金比羅信仰と民俗」

①死霊の赴き安まる山としての琴平山⇒⇒修験道の信仰の山へ
 *かつての行者堂の存在
 *降雨を祈る山
②金比羅山の祭礼=明治以前の神事の復元
*荘官と呼ばれる七軒の頭人
③地主神としての三十番神社
*あとからやってきた客神としての金比羅神
「この地を十年貸してくれ」⇒⇒十の上に点を付けて千年へ
④大祭後の心霊は、箸蔵山に天狗として去っていく?修験道の影響?
⑤地元の神としては、農耕神の雨乞い神として信仰
金比羅神は竜神、別名「金比羅龍王」
⑥恵比寿信仰は大漁神で、漁師の信仰⇒その後に、金比羅信仰の流行
 *漁民には入り込む余地がなかったので、航海者たちに浸透
 *金比羅神と山から吹き下ろす風の関係⇒⇒海難救助の神へ
⑦「象頭山金比羅大権現霊験記」(1769)の海難よけ信仰霊験集
 *このような霊験を伝播させたのは誰か?
 *天狗の面を背につけ、白装束に身を固めた「金比羅道者」の流布
 彼らによる金比羅講の組織
 *金比羅山から吹き下ろす風に乗って現れる金比羅大権現が海難から救う
*神窟からの風?
⑧代参講としての金比羅講
 *講の加入者が講金を集めて代参を立てる。代参しお札をもらい土産を買う。旅のおみやげという習慣は、この代参から来ているのかもしれない。
*各地の講からの寄進を請け、はやり神となった金比羅神の発展
⑨巨大な流行り神となっても古い信仰の名のこりを残す金比羅山

松原秀明「金比羅信仰と修験道」

①修験道の象頭山
*ふたのない箱に大きな天狗面を背中に背負った金比羅詣での姿
*修験道者のシンボルとしての天狗
*道中の旅を妨げる悪霊をはらうおまじない。弘法大師の「同行二人」的
*日柳燕石
「夜、象山に登る 崖は人頭を圧して勢い傾かんと欲す。
 満山の露気清に堪えず、夜深くして天狗きたりて翼を休む。
 十丈の老杉揺らいで声有り」 天狗はムササビ?
 *江戸時代の人々は、金比羅の神は天狗、象頭山は修験道の山という印象
②象頭山を騙る修験道者の出現
 *修験道系の寺院や行者による「金比羅」の使用
 *修験者が多数いた箸蔵寺は「奥の院」と称して執拗に使用
③金比羅神飛来説とその形は?
 *生身は岩窟鎮座。ご神体は頭巾をかぶり、数珠と檜扇を持ち、脇士を従える。これは、修験道の神そのもの 飛来したというのも天狗として飛行?
④天正前後の別当住職の修験道的な色合い
*長尾氏一族の宥雅⇒⇒長宗我部配下の宥厳⇒⇒宥雅の弟子の宥盛
*宥厳の業績の抹殺と宥盛の業績評価という姿勢

宮田 登「江戸の民間信仰と金比羅」

①19世紀初頭の都市市民の信仰タイプ → 流行神  
 *個人祈祷型で現世利益が目的。仏像・神像が所狭しと配列。
 *それぞれが分化した霊験を保持し、庶民の願掛けに対応。
 *農村部においても氏神の境内に、摂社末社が勧進
 *流行神のひとつとしての金比羅神
②江戸大名屋敷に祀られた地方神の流行
 *江戸に作られた大名屋敷に領地内の霊験あらたかな神を勧進
 *その屋敷神が一般市民に、月の10日に解放される機会あり
  大勢の人が参拝し、市が立つほどの賑わいへ⇒金比羅講の形成へ
   金刀毘羅宮
  虎ノ門をさらに名所にしたのが金刀毘羅大権現である。
讃岐国丸亀藩主の京極高和が、万治3年(1660)国元の本宮から三田藩邸に分祀。藩邸内に祀られた金比羅宮に塀の外から賽銭を投げ込んで参拝するほど江戸市民の熱烈な信仰を集め、毎月10日に限り邸内を開き参拝を許可した。

以上から推論できること

1 金比羅神草創は古代・中世の古くまで遡るものではない。
2 戦国末の天正年間に新たに作り出された神である。
3 その契機は、長宗我部元親の讃岐侵攻と四国平定事業と関わりがあるのではないか。
4 長宗我部支配下の修験道僧侶による金光院支配。
  新たな四国平定事業のモニュメント的な神の創設と宗教施設が求められたのではないか。
5 金比羅神草創から流行神流布まで、その中核には金光院別当を中心とする修験者たちの存在あり。
6 松尾寺別当金光院から金毘羅神別当金光院への転身の背景は?
7 生駒家による330石の寄進と山下家の系譜は?




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