前回までに金毘羅発展の重要人物として、金毘羅神を布教拡大した金毘羅行者たちと、新しく金毘羅神を創造した宥雅と良昌について見てきました。宥雅によって、松尾山には新しく観音堂と三十番社と金比羅堂が姿を見せました。これらの宗教施設全体を松尾寺と呼びます。
新しく出発した松尾寺を襲うのが南海の覇王・長宗我部元親の讃岐侵攻です。
讃岐西讃守護代の天霧城・香川氏は、事前に長宗我部元親に通じていたようで抗戦しません。1578年には三豊方面、1579年には長尾氏の西長尾城が降伏します。香川氏の和睦工作に応じて多くの国衆たちは、形ばかりの抵抗で軍門に降り、土佐軍の先兵として働く者が多かったようです。これに対して、宥雅はどのような対応をしたのでしょうか?
この時のことを多聞院日記には、「(宥雅が泉州の堺に落ちのびたこと。その際に、寺宝と記録を持ち去った。だから歴代院主には入れない。」とありました。こうして新築されたばかりで主人のいなくなった松尾寺を、長宗我部元親は無傷で手に入れます。そして、ブレーンとして従軍していた土佐修験集団にあたえます。こうして、金比羅は、土佐修験の集団管理下に置かれることになりました。その後の経緯を年表で押さえておきます。
元親は金比羅を管理下に置いた翌年1580年に、四国平定の祈願して矢を奉納しています。そして、その4年後に四国平定が完了すると成就返礼として仁王門を寄進しています。その棟札の写しを見ておきましょう。
④さらに下には、大工の名「大工仲原朝臣金家」「小工藤原朝臣金国」が見えます。
⑤「天正十二甲申年十月九日」という日付は、金刀比羅宮の大祭日の前日が選ばれています。
「象頭山には瓦にする土は、それまでなかったのに、宥厳の加護によってあらわれた。」
①観音信仰から天狗信仰へ②中心建物は、観音堂から金毘羅堂へ③松尾寺から金光院へ
参考文献