瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金毘羅祭礼図屏風のうどん屋

 讃岐では宵法事や膳部(非時)にうどんやそばなどの麺類が出されています。私の家でも、二日法事の時には、近所にうどんを配ったり、法事にやってきた親族には、まずうどんが出されて、そのあと僧侶の読経が始まりました。法事に、うどんが出されるのは至極当然のように思っていましたが、他県から嫁に入ってきた妻は「おかしい、へんな」と云います。

坂出市史 村と島6 大庄屋渡部家
            青海村(坂出市)の大庄屋・渡辺家
 それでは讃岐にはいつ頃から法事にうどんが出されるようになったのでしょうか。それを青海村(坂出市)の大庄屋・渡辺家の記録で見ていくことにします。テキストは「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)」です。

近世前期まで、うどんは味噌で味をつけて食べていたようです。
なぜなら醤油がなかったからです。醤油は戦国時代に紀伊国の湯浅で発明されます。江戸時代前期には、まだ普及していません。江戸時代中期になって広く普及し、うどんも醤油で味をつけて食べるようになります。醤油を用いた食べ方の一つとして、出しをとった醤油の汁につけて食べる方法が生まれます。つまり中世には、付け麺という食べ方はなかったようです。これは、そばも同じです。醤油の普及が、うどんの消費拡大に大きな役割を果たしたことを押さえておきます。

歴史的な文書にうどんが登場するのを見ておきましょう。

①14世紀半ばの法隆寺の古文書に「ウトム」
②室町前期の『庭訓往来』に「饂飩」
③安土桃山時代に編まれた「運歩色葉集』に「饂飩」
④慶長八年(1603)に日本耶蘇会が長崎で刊行した「日葡辞書』は「Vdon=ウドン(温飩・饂飩)」で、次のように記します。

「麦粉を捏ねて非常に細く薄く作り、煮たもので、素麺あるいは切麦のような食物の一種」

⑤慶長15年(1610)の『易林本小山版 節用集』にも14世紀以降は「うとむ・うどん・うんとん・うんどん」などと呼ばれ、安土桃山以降は「切麦」と呼ばれていたようです。きりむぎは「切ってつくる麦索」の意で、これを熱くして食べるのをあつむぎ、冷たくして食べるのをひやむぎと呼んだようです。
   ここでは、うどんが登場するのは、中世以降のことであることを押さえておきます。 つまり、うどんを空海が中国から持ち帰ったというのは、根拠のない俗説と研究者は考えています。

1 うどん屋2 築造屏風図
築造屏風図のうどん屋
讃岐に、うどんが伝えられたのはいつ?
元禄時代(17世紀末)に狩野清信の描いた上の『金毘羅祭礼図屏風』の中には、金毘羅大権現の門前町に、三軒のうどん屋の看板をかかげられています。
1 金毘羅祭礼図のうどん屋2
金毘羅祭礼図屏風のうどん屋

中央の店でうどん玉をこねている姿が見えます。そして、その店先にはうどん屋の看板がつり下げられています。

DSC01341 金毘羅大祭屏風図 うどんや
         金毘羅祭礼図屏風のうどん屋
藁葺きの屋根の下には、うどん屋の看板が吊されています。上半身裸の男がうどん玉をこねているようです。その右側の店では、酒を酌み交わす姿が見えます。うどんを肴に酒を飲むこともあったのでしょうか。街道には、頭人行列に参加する人たちが急ぎ足で本宮へと急ぎます。
1 うどん屋の看板 2jpg
 讃岐では、良質の小麦とうどん作りに欠かせぬ塩がとれたので、うどんはまたたく間に広がったのでしょう。
「讃岐三白」と言われるようになる塩を用いて醤油づくりも、小豆島内海町安田・苗羽では、文禄年間(16世紀末)に紀州から製法を学んで、生産が始まります。目の前の瀬戸内海では、だしとなるイリコ(煮千し)もとれます。うどんづくりに必要な小麦・塩・醤油・イリコが揃ったことで、讃岐、特に丸亀平野では盛んにうどんがつくられるようになります。和漢三才図会(1713年)には、「小麦は丸亀産を上とする」とあります。讃岐平野では良質の小麦が、この時代から作られていたことが分かります。

1うどん


 江戸時代後半になると、讃岐ではうどんはハレの日の食べ物になります。
氏神様の祭礼・半夏生(夏至から数えて11日目で、7月2日頃)などは、田植えの終わる「足洗(あしあらい)」の御馳走として各家々でつくられるようになります。半夏生に、高松市の近郊では重箱に水を入れてその中にうどんを入れて、つけ汁につけて食べたり、綾南町ではすりばちの中にうどんを入れて食べたといいます。

 坂出青海村の渡辺家でも幕末になると宵法事や非時にはうどんやそばが出されています。

慶応4年の13回忌の法事には「温飩粉二斗前」(20㎏)が準備されています。
明治29年(1896)東讃岐の仏事史料には、次のように記します。

うとん 但シ壱貫目ノ粉二而 玉六十取 三貫目ニテ十二分二御座候

ここからは一貰目(3,75㎏)の小麦粉で60玉(一玉の小麦粉量63㌘)、3貫目の小麦で180玉を用意しています。渡辺家が、準備したうどん粉は20㎏なので約330玉が作られた計算になります。そばも、そば粉一斗を同じように計算すると約260玉になります。うどんとそばを合計すると590玉が法事には用意されていたことになります。参列者全員にうどんが出されていたのでしょう。
 その前の文久元年(1861)の仏事では、「一(銀) 温飩粉  二斗五升 但揚物共」とあるので、揚物の衣用の温鈍粉を除いても約300玉以上のうどんが作られ、すし同様に一部は周辺の人々への施与されています。現在のうどんは一玉の重さが200㌘で、約80㌘の小麦粉が使われています。そうすると幕末や明治のうどん玉は、今と比べると少し小振りだったことになります。
  ここでは幕末には、うどんやそばなどの麺類が、大庄屋の法事には出されるようになっていたことを押さえておきます。これが明治になると庶民にも拡がっていったようです。

次にうどんの薬味について見ておきましょう。
胡椒は買い物一覧に、次のように記されています。
「一 (銀)二分五厘(五分之内)温飩入用 粒胡椒
「一(銀)五分 粒胡椒代」
などの購人記録があります。胡椒は江戸初期の「料理物語(寛永20(1643年)」にも「うどん(中略)胡椒  梅」と記されています。胡椒と梅は、うどんの薬味として欠かせないものであったようです。しかし、胡椒は列島は栽培出来ずに輸人品であったので高価な物でした。そのため渡辺家では、年忌などの正式の仏事では胡椒を用いますが、祥月など内々の仏事には自家栽培可能で安価な辛子を使っています。仏事の軽重に併せて、うどんの薬味も、胡椒と辛子が使い分けられていたことを押さえておきます。
薬味じゃなく、メインでいただこう◎『新生姜』の美味しい楽しみ方 | キナリノ
 
現在のうどんの薬味と云えば、ネギと生姜(しょうが)です。
8世紀半ばの正倉院文書に、生姜(しょうが)は「波自加美」と記されます。生姜は、古代まで遡れるようです。江戸時代の諸国産物を収録した俳書『毛吹草』(正保2(1638)年)には、地域の特産物として、生姜が「良姜(伊豆)、干姜(遠江・三河、山城)、生姜(山城)、密漬生妾(肥前)」として記されています。また『本朝食鑑』(元禄10(1697)は、生姜は料理の他に、薬効があって旅行に携行するとこともあることが記されています。
 生姜は近世の讃岐では、階層を越えてよく使われた薬味でした。
丸亀藩が編纂した『西讃府志』(安政五年)にも、生姜は出てきます。生姜の料理への利用については、鮪、指身などの生物料理に「辛味」「けん」として添えられました。  以上から生姜は、日常的な薬味として料理に使われていたようです。それがうどんの薬味にも使われるようになったとしておきます。
以上をまとめておきます
①近世前期までは、うどんは味噌で味をつけて食べていた。
②だし汁をかけて食べるようになるのは、醤油が普及する江戸時代中期以後のことである。
③『金毘羅祭礼図屏風』(元禄時代(17世紀末)には、三軒のうどん屋が描かれているので、この時期には、讃岐にもうどん屋があったことが分かる。
④江戸時代後半になると、讃岐ではうどんはハレの日の食べ物になり特別な食べ物になっていく。
⑤大庄屋の渡辺家でも幕末になると宵法事や非時にはうどんやそばが出されている。
⑥明治になると、これを庶民が真似るようになり、法事にはうどんが欠かせないものになっていった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)
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前回は、うどんのルーツを探ってみました。史料にうどんが登場するは次の通りでした。
うどんのルーツ1

饂飩が登場するのは中世以後
①14世紀半ばの法隆寺の古文書に「ウトム」、
②室町前期の『庭訓往来』に「饂飩」
③安土桃山時代に編まれた「運歩色葉集』に「饂飩」
④慶長八年(1603)に日本耶蘇会が長崎学林で刊行した「日葡辞書』は「Vdon=ウドン(温飩・饂飩)」として、「麦粉を捏ねて非常に細く薄く作り、煮たもので、素麺あるいは切麦のような食物の一種」と説明しされています
⑤慶長15年(1610)の『易林本小山版 節用集』にも「饂飩」とあります
ここからは「うとむ・うどん・うんとん・うんどん」などと呼ばれた「うどん」が、登場するのは14世紀半ば以降であることが分かります。つまり、空海が唐から持ち帰ったという伝説は成立しないようです。今回は、近世の絵図に「うどん屋」がどのように登場し、描かれているのかを追いかけて見ようと思います。テキストは「小島道裕 近世初期の風俗画に見えるうどん屋について  国立歴史民俗博物館研究報告第 200 集 2016 年 1 月」です

  「うどん屋」が風俗画に描かれるようになるのは江戸時代になってからのようです。
江戸時代以前に描かれた「洛中洛外図屏風」には、うどん屋は登場しません。うどん屋が描かれるようになるのは国立歴史民俗博物館(歴博)が所蔵する「洛中洛外図屏風」の一つ(歴博D本、17世紀前期)が一番古いと研究者は考えているようです。
1 うどん屋 洛中洛外
     「洛中洛外図屏風」(歴博D本、17世紀前期)

ここには相国寺とおもわれる寺院の前の家に、軒に突き出した棒の先に、「うとむ」と書かれた看板が見えます。その下に細長いひもが何本もぶら下がっていて、これが当時のうどん屋の看板だったことが分かります。まるで私には「烏賊の干し物」のように見えます。
1 うどん屋の看板 2jpg
 しかし、うどん屋の内部は描かれていません。描かれているのは、店の入口で半裸の男が杓子を振り上げて怒っているのを止めにかかっている女達。その外では険しい顔の白い服を着た女が男を指さしているように思えます。研究者はこれをうどん屋の夫婦げんかと考えているようです。

1 うどん屋の看板qjpg

 戦塵の余韻さめやらぬ江戸時代の初期の風俗画には暴力的な場面もしばしば描かれます。その際に、うどん屋の主人がその役を担わされることが多いと研究者は指摘します。その背景は後に考えることにして先に進みます。

古いうどん屋の絵図として、研究者が次に挙げるのは「築城図屏風」 (六曲一隻、名古屋市博物館蔵)です。

1 うどん屋 築造屏風図

この絵図は慶長12年(1607)の駿府城築城を描いたとされ、近世城郭の築城風景を描いた資料として貴重な絵画です。制作時期は、慶長年間の中頃ころとされ、盛んに城下町建設が行われていた時代のものです。この中にも、築城工事の現場近くにうどん屋、餅屋、飯屋の三軒の飲食店が描かれています。うどん屋と分かるのは、先ほど見た「烏賊の干し物」と同じ看板がかかっているからです。
1 うどん屋2 築造屏風図

店内では、 半裸の男がのし棒で生地を伸ばし、その右では朱色の椀を手にした男がうどんををすすっています。見世棚には、外が黒で内側が朱の椀や、全体が朱の椀、盆が重ねて置かれ、栓のある樽もあります。これはお酒でしょう。うどんの他に酒も売っていたようです。
 また、ここでも店の前では喧嘩が起こっています。うどん屋の主人自体が関わっているのではありませんが、「うどん屋=暴力」というイメージがあったことがここからもうかがえます。

うどん屋の光景を、最も詳しく描いているのは 「相応寺屏風」(徳川美術館所蔵)だと研究者は指摘します。

この絵は初期の妓楼遊楽図でさまざまな遊楽の情景が描かれた近世風俗画の名作で、寛永年間(1624~44)頃のものとされます。この屏風にも、遊里の町並みの一画にうどん屋が描かれています。
店の中では、主人が上半身裸でうどんの生地を伸ばしており、その傍にうどんが入った椀がもう一つ置かれている。客の上に描かれた軒先の部分には、例の「烏賊の干し物」のようなうどん屋の看板が掛けられています。
 この絵で研究者が注意するのは、うどん屋の看板の上にさらにもうひとつサインが記されていることです。木の枝を組んだ先には、中央部分を括った形の酒林があり、その下には、ヘラ状のものが下げられ「みそ有」と書かれている。これは擂り鉢から中の物を掻き出すのに用いられる 「せっかい (狭匙、 切匙)」の形です。味噌を連想させる物として、味噌屋の看板に使用されていました。酒と味噌は、両方ともに醸造によって作られます。一つの店で扱かっているのは必然性があります。さらにそこでうどんも提供する、という営業スタイルだったことがうかがえます。当時は醤油がまだ普及していませんでした。そのためうどんの汁も、味噌味であったことを考えると説得力が増します。また、狭匙の柄の部分のまわりには円形のものが描かれています。これは酢の看板です。酒から酢が作られるので、それも販売していたことが分かります。
6「江戸図屏風」 (国立歴史民俗博物館)
江戸図屏風 | 家や学校で楽しむれきはく | こどもれきはく(国立歴史民俗博物館)

この屏風は、明暦の大火(1657)以前の江戸のことが分かる数少ない絵画資料として貴重なものです。この屏風には7軒の「うどん屋」の看板が見えるようです。まず  ①不忍池の南側を見てみましょう。
江戸図屏風(湯島、湯島天神、東照大権現宮、不忍池)
「江戸図屏風」不忍池と寛永寺 
不忍池の南には、道の両側に計七軒の店舗が描かれています。これらの店は寛永寺の参詣客や遊覧客に飲食を提供する茶店のようです。その七軒の内、三軒に例の「烏賊の干し物=うどん屋の看板」が掲げられているのが見えます。向こう側の五軒の両端と、店内は見えない手前側の一軒で、どの店も看板は竹竿で掲げらています。
1 うどん屋の看板1 不忍池 2jpg

店内が描かれた向こう側の店について詳しく見てみましょう。
1 うどん屋の看板 不忍池 2jpg

右端の店には、うどんの生地と「のし棒」が描かれ、うどん屋であること分かります。見世棚を見ると、生け花と徳利と椀、そして角樽が置かれています。酒も出す店のようです。
1 うどん屋の看板 不忍池 3jpg

左端のうどん屋には、店内に黒い角盆に乗せた赤い椀状の食器二つと小皿があります。見世棚にも同様のセットと花器が置かれています。
その右隣の店には酒林が掲げられています。そして店内には徳利と角樽、 見世棚には、赤い盃と、中が赤で外が黒の塗椀もあります。ここも酒と、うどんなどの食事も提供する店であることが分かります。
1 うどん屋の看板 不忍池42jpg
不忍池の左側のうどん屋 竹竿に掲げられた看板があげられている。 
不忍池界隈のお店は、酒も飲めるうどん屋が多かったとしておきます。

近世初期の風俗画に描かれたうどん屋について、まとめておきましょう。
①安土桃山時代の絵図には、うどん屋は登場しない。
②慶長年間の中期ころからうどん屋は描かれ始める
③店の立地としては、寺社門前、遊興地、街道沿い、普請現場、河岸などの多くの人が通る場所が多い
④営業スタイルは、酒屋および味噌・酢販売の店を兼ねていることが多い。
この時期のうどん屋は、江戸の「外食産業」 の走りだった研究者は考えているようです。
食事を提供する店舗としては、 明暦の江戸大火 (1657)からの復興とともに現れた「煮売り茶屋」が有名です。うどん屋の出現と流行は、それよりも半世紀ほど早いようです。大火後の復興で外食産業が発達したとすれば、うどん屋登場の背景は、近世都市の建設に伴う人口流入が考えられます。
1うどん

「築城図屏風」の普請場近くにうどん屋などの飲食店が描かれていることが、それを象徴していると研究者は指摘します。現場労働者は、外から流入した「単身赴任者」が多かったはずです。うどん屋などの「外食産業」発展のチャンスだったのかもしれません。「京都や大坂・江戸の以外の城下町でも、近世初期の都市の拡充と人口の流入・増大は目覚ましいものがありました。それまでの顧客を中心にした営業スタイル違った新しい飲食店が数多く現れたことが想像できます。それが酒と一緒にうどんのような簡単な食事を出したり、味噌も一緒に販売するようなお店だったと研究者は考えているようです。どちらにしても背景には、都市の膨張と都市への流入人口の増加、新たな外食産業の発展という動きが見えてきます。17世紀に入ってから突然うどん屋が現れ、普及していったのは、こんな背景があったとしておきましょう。
1うどん 『諸国道中金の草鞋』より


それでは讃岐に、うどんが伝わってきたのはいつ頃なのでしょうか?
 元禄時代(17世紀末)に狩野清信の『金毘羅祭礼図屏風』の中にも、うどん屋の看板をかかげた店が門前町に3軒見えます。

1 金毘羅屏風の饂飩屋

1軒目は、右端です。天領の榎井方面から高松街道をやってきた頭人行列の一行が新町の鳥居をくぐったあたりです。
DSC01341 金毘羅大祭屏風図 うどんや

藁葺きの屋根の下には、うどん屋の看板が吊されています。上半身裸の男がうどん玉をこねているようです。その右側の店では、酒を酌み交わす姿が見えます。うどんを肴に酒を飲むこともあったのでしょうか。街道には、頭人行列に参加する人たちが急ぎ足で本宮へと急ぎます。
1 うどん屋2 金毘羅祭礼屏風
2軒目は内町です。こちらでは包丁で、うどんを切っているようです。例の看板が掛かっています。
1 うどん屋3 金毘羅祭礼屏風

3軒目です。これは、何をしているのでしょうか?麺棒らしき物を持っているので、うどん玉を伸ばしているのでしょうか。ここにも、うどんを伸ばす男の上には、看板がかかっています。江戸や大坂の看板が17世紀初めの金毘羅大権現の門前町には、広まっていたことが分かります。これが讃岐で一番古い「うどん史料」になるようです。
1 うどん屋の看板jpg

ところで「烏賊の干し物」のようなうどん屋の看板は、江戸時代中頃になると京都でも江戸でも、姿を消してしまいます。そして地方の街道宿場などでしか見ることが出来なくなっていきます。どうしてなのでしょうか。それは又の機会に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
讃岐でのうどん普及




参考文献
「小島道裕 近世初期の風俗画に見えるうどん屋について  国立歴史民俗博物館研究報告第 200 集 2016 年
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大きな屏風絵が金刀比羅宮に残されたいます。この屏風絵は二双から成り、「清信筆」の署名と「岩佐」(方印)、「清信」(円印)の押印がありますので、作者が狩野休円清信であることがわかります。描かれた時期は、元禄年間(1688~1703)とされています。

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           金毘羅大祭行列図屏風(複製品:香川県立ミュージアム) 
 二双になっているのは、二王門から上のところを描いた山上の図と、二王門から下を描いた山下の図とに分かれているからです。屏風絵のテーマは、十月十日の金刀比羅宮の大祭で、頭人行列を中心に金毘羅の町のにぎわいが描かれています。この絵を見ながら、今から約三百年前の元禄時代の大祭で賑わう金毘羅の門前町の様子を見てみましょう。 
DSC01397大門祭礼図
象頭山正祭頭騎大略図
日蓮の命日であるお会式(えしき)と金毘羅さんの関係は?
汪戸時代のはじめになると全国の大きな寺社のお会式(えしき)や御開帳に大きな市が立つようになり、大イヴェントに成長して行きます。お会式(おえしき)は、日蓮の命日の10月13日にあわせて行われる法要のことです。日蓮の命日の前夜(10月12日)はお逮夜(おたいや)と呼ばれ、各地から集まった信徒団体の集まり(講中)が、行列し万灯や提灯を掲げ、纏を振り、団扇太鼓や鉦を叩き、題目を唱えながら境内や寺の近辺を練り歩きました。古くは、提灯に蝋燭を灯し、団扇太鼓を叩きながら参詣する簡素なものだったようです。それが、江戸末期から明治時代に町火消たちが参詣に訪れるようになると纏を振るようになり賑やかになったようです。日蓮宗の寺では、境内に鬼子母神を祀る場合が多く、鬼子母神の祭りを兼ねる場合も多いようです。また、寺によっては花まつりではなく、お会式や千部会に稚児行列が出る場合があります。
 どうして日蓮のお会式が金毘羅大権現に関係あるの?
  戦国末期に、インドからこの山に招来した金毘羅神は新参者です。信仰する信者集団もいなかったために法華宗の祀った守護神である三十番社の祭礼を、奪って金比羅堂の祭礼に「接ぎ木」するという荒療法を行いました。そのために金毘羅大権現の大祭には法華八講の祭礼が色濃く残るとともに、開催日も日蓮の命日であるお会式前後の十月十日になっているようです。
 十月十日の祭礼当日の門前町ことひらを見ていきましょう。

金毘羅大祭行列屏風図 新町 容量縮小版
天領榎井と金毘羅寺領の境から鞘橋まで(元禄金毘羅祭礼図屏風)
右端の高松道からやって来た頭人行列の動きに合わせて東(右)から西(左)に町並みの様子をたどります。まず行列は木戸をくぐります。ここが天領と金毘羅社領の境でした。

木戸前後
          金毘羅寺領 髙松街道入口の木戸(元禄金毘羅祭礼図屏風)
この木戸は、ここからが寺領の入口であることを示す役割を持っていました。この木戸を抜けると金毘羅領です。図には、頭人の奴行列の道具を持って金毘羅領に入ろうとしているところが描かれています。それを参拝者が、道の端に寄って、行列を眺めています。大祭に奉仕する女頭人を乗せた駕籠が、丸亀街道との合流点に立つ鳥居を今まさにくぐったところです。そして男頭人は、乗馬姿で髙松街道を池の御領方面からやってきて木戸に差し掛かろうとしています。
 現在の大祭は、夜中に神輿が山から神事場(御旅所)に下りてくるスタイルですが、これは明治の神仏分離以後のものです。江戸時代には反対に、昼間に行列が本宮に登り、本宮横にあった観音堂(現在の三穂津姫社付近)で神事が執り行われていました。この屏風は、昼間、本宮を目指して登山する頭人の行列を描いたものであることを押さえておきます。
この道筋には、次のようなうどん屋の看板を掲げた店が3軒描かれています。

1うどん
 明治時代のうどん屋の看板
DSC01341 金毘羅大祭屏風図 うどんや
真ん中が、うどんの看板を掲げて、うどんをうっているうどん屋
これが讃岐でのうどん屋史料第一号です。これよりも早いうどんの史料はありません。空海が中国から持ち帰ったのを弟子が讃岐に伝えたというのは俗説であることは以前にお話ししました。

新町の街並み
大祭行列図屏風 新町から鞘橋
金毘羅大祭行列図屏風 新町から鞘橋 
 この辺りは延宝3年(1675)に天領との土地交換で新しく寺領になって街並みが形成されてきた所なので「新町」と呼ばれました。道の両側には、板屋根の店棚がすき間なく並ぶ門前町を形成しています。地替えは、金毘羅さんには大きなプラスになったようです。
 新町の店は、道に面したところに簡単な棚を作り、その上に商品を並べています。よく見ると店の奥行は浅く、間取りは一部屋ほどですぐ裏に抜けます。裏は庭になっていたり、畑になっていたりします。この時期の新町は「新興商店街」で大店のお店はなく小さい店が並んでいたことが分かります。
 新町の町並みを木戸口の辺りから順にみてみましょう。
道の南側(下側)には、小さな宿屋が並んでいます。屋根は板葺きがほとんどで、その中に茅葺きの屋根がポツンポツンと混じっています。よく見ると、次のような光景が見えてきます。
生け花を飾った床の間のある部屋をもつ家
主人と思われる人が魚を料理している家
食事の用意をしている家
参詣の旅人らしい人が横になり休んでいる家
こんな家並みが鞘橋まで続きます。向かいの家並み(上側)の家並みでは木戸口のところから、めし屋、うどん屋と並び、丸亀道で一旦途切れます。そして、鳥居から魚屋、古着屋(服屋?)、道具屋(小間物屋?)、さらに同じような品物を並べた古着屋と続いて、屋根の付いた鞘橋のたもとにやってきます。
IMG_0001
     金倉川に架かる鞘橋 下では身を清めるために沐浴する人達
 
鞘橋のたもとに来たところで、川を見ると・・。裸になっている人が泳いでいる!
最初に、この絵を見たときの私の感想です。これは素人の見方です。本当は、ここで身を清めているのだそうです。鞘橋の下は、沐浴(コリトリ)場として神聖な場であったことを、この絵から知りました。参拝前に身を清めているひとが20人(1人は女性)が描かれています。
鞘橋の橋のたもとで、南(下)からの阿波街道、北(上)からの多度津街道が合流します。こちらからもたくさんの参詣人がやって来ています。多度津街道とのの合流点付近には馬が何頭か繋がれています。ここが馬屋だったようです。
檀那衆の家が並ぶ内町とその南

象頭山社頭并大祭行列図屏風 内町とうどん屋
内町とうどん屋AとB(金毘羅大祭行列図屏風)
身を清めて鞘橋を渡ると、町並みの南側には宿屋と思われる家並みが続いています。
 さらに西(左)へ進むと、この辺りから内町に入ります。
道の南側は宿屋(茶屋)がずっと続いています。入母屋の瓦屋根で立派な建物で、大きな庭もあります。内町は、「高級旅館街」として門前町の中心的な町として栄えていきます。先ほどの新町の宿屋は板葺屋根でしたので「格」が違うようです。後の史料からは茶屋27軒、酌取旦雇宿6軒の計33軒があったことが分かります。 「讃岐国名勝図絵」には、次のように記します。

「南海中の旅舎、三都に稀なる規模にて当地秀逸と謂べし」と讃えられた「とらや(虎屋)」

虎屋は延享四年(1747)に入口・玄関の普請が贅沢すぎて「分限不相応」として閉門を命じられます。そのため、破風・玄関・式台を取り除いてやっと許されたいう大旅館でした。その他にも、芳橘楼(ほうきつろう)・余島屋などの大旅館と共に、天保の打ちこわしで破壊対象になる米屋・酒屋・油屋などの大商店が軒を並べていました。

内町北側の店

内町(多度津街道との合流点付近)
 北側(上)は、鞘橋を渡ったすぐのところに①古着屋、その隣が②呉服屋のようです。その横に、北から合流するのが多度津街道になります。街道の終点には、馬が数頭つながれています。ここは③馬継所のようです。多度津街道を挟んだ向かいの側は、④煎餅らしいものを焼いている店があります。参詣客が、店主に注文しているようにも見えます。何を焼いているか分かりませんが、気になるところです。その隣は、惣菜屋(めし屋?)のようです。食べ物を売る見せも多いようです。一方北側(上側)を見ると、惣菜屋の隣は、弓師の店です。続いて、小間物屋、道具や、二軒分の家が空いて、桶屋と続きます。

大祭行列図屏風  山下左 内町

そして、西へ進んでいくと登り坂になって行きます。坂の両側にも、食べ物屋、うどん屋、宿屋、うどん屋、服屋、あめ屋と続きます。
参道の上り口に当たるこの辺りには札場があったので、札ノ前町と呼ばれました。
そして、その上には大門までの両側に階段状に町が形成されます。札之前町には11軒、坂町には4軒の茶屋がありました。この両町は、参詣客が両側を見ながら参道を登って行く所で、土産物屋や飲食店が建ち並んでいます。代表的な土産物には、上鈴(神鈴了延命酒・薬草・金毘羅団扇・天狗面・白髪素麺(宝暦十年1760年)、びっくりでこ、素麺師のかも屋甚右衛門が移住し、製造が始まったと伝えられます。なかでも、特に有名になったものが金毘羅飴です。あめ屋の向かい、少し斜め上辺りから南西(左)に、伊予からの道(伊予街道)が合流しています。

伊予街道沿いの町並みが谷川町です。
 延宝三年の地替図では本殿への参拝道が脇道で、伊予街道の方が本道のように描かれ、谷川町が奥の広谷墓地に向かって伸びて賑わっている様子が描かれていました。それから30年余りで状況は逆転して、この屏風絵では参詣道の方がはるかににぎやかになっているようです。谷川町は伊予街道のゴール地点として食べ物屋が建ち並んで、にぎやいだ雰囲気があります。 この町並みには宿屋と思われる店がずっと並んで描かれています。                                                                        
 これより上、大門(二王門)までは坂町です。
象頭山社頭并大祭行列図屏風  大門内側
       大門からの「桜の馬場」には、各院の建物が並んでいた。
大門を入ると、そこは山上と呼ばれる境内です。これからは金光院家中の家が続きます。さて山上の様子は、またの機会にして、ここからやってきた道を鞘橋まで引き返します。

ここで視点を換えて、研究者がこの屏風からいろいろな情報を読み取り、データー化した数値を見ていくことにします。
金毘羅大祭行列屏風図の建物データー

金毘羅大祭行列屏風図の建物データー2
金毘羅祭礼図屏風の建物データー
まず建築物です。1728年の役用日記には「町方家数三百軒」と記されています。この絵図にはその約52%に当たる157軒が描かれているようです。金毘羅門前町の建物の特徴は次の通りです。
①店前面が開放的で格子等で仕切られていない。
②前土間がなく、上がりかまちが直接通りに面している。
③二階建てはないが、中二階で一部に庇と虫龍窓をもった建物や天井の低い厨子二階をもった建物も見られる。
④屋根は瓦葺き(38%)・板葺き(11%)・藁葺き(51%)で混合している。
⑤山の上へ登るほど瓦葺きの割合が74%から17%に減っていく。
⑥門前中央の参詣道に合流する阿波街道・伊予街道・多度津街道・丸亀街道沿いの建物は草葺きが大部分である。
⑦屋根の形式は平入りで、斜面下方の妻は入母屋。
⑧建物は奥行より間口が大きく、部屋は奥行方向に二段に分かれている
⑨金倉川に架かる「鞘橋」は、「象頭山十二景図」では、屋根が一棟であったが、この図屏風では三棟屋根の橋が描かれている。これは一棟屋根の橋が貞享三年(1686)に流失したあと、翌年の改築普請でスタイルを変えて完成したものが描かれているから。

内町の往来(図屏風)
         内町の往来

次に人物についてです。

金毘羅大祭行列屏風図の人物データー1
金毘羅祭礼図屏風の人物データー 

図屏風には、男1191人・女1271人・子供6人・幼児7人・不明22人の合計1492人の人物が描かれているようです。
いろいろな身分や職業の参詣客が、一人または数人のグループで、徒歩や馬・駕寵を使って参詣している様子が表情豊かに描かれています。杖を使ってる者も何人か見います。
「四国遍路の人が皆詣するところ」として、この図屏風にも四国遍路と思われる一行が21人描かれていると研究者は指摘します。
 また、山伏も14人登場しています。金毘羅神は修験者(山伏)たちによって近世になって創作された流行神と研究者達は考えています。天狗信仰をもつ山伏たちが金毘羅を霊山として参拝に訪れていたことがうかがえます。しかし、天狗面を背負った金毘羅道者は描かれていないようです。元禄7年(1694)には庶民からの献灯もはじまるなど庶民の金毘羅信仰熱が次第に高まった時期とされます。金光院の表書院では先を争って参詣客がお札をもらっている風景が描かれています。
 
金毘羅大祭行列屏風図 内町5

金毘羅祭礼図屏風 内町付近
 描かれている人達に服装について、研究者は次のように指摘します。
①小袖が主流で、格子や横縞模様が多く、当時は異装と見られていた縦縞模様は10人だけでなので、江戸中期から増えてくる縦縞模様への過渡期にあたる
②家紋のような装飾紋を入れた着物を来ている男性が4人描かれている。これは元禄頃から町人の間で流行した草花・鳥獣・山水・器物・文字などを紋所風にアレンジした伊達紋。
③女性の髪型は、垂髪から髪を後ろで束ねる結髪スタイルへの移行期で、寛永期に上方で流行った唐輪髭も見られる。
④若衆も女性的な風俗を好み、垂れ前髪に元結で惺を締めて二つ折りにした若衆が何人か描かれている。
⑤男性は、近世になると月代を剃り、元結で後ろをくくって髭はつくらず無帽が多くなり中世的な鳥帽子から露頭へと変化するようになるが、まだ鳥帽子を被っている者が数人見える。
⑥中世は顔を隠す社会であり、近世は顔を出す社会であるとされているが、覆面姿の女性が目立つのも特色で、元禄期には女性の気儒(奇特)頭巾姿が流行した。
⑦被りものついては、外出時に女性が顔を隠すために大きい衣を頭から被る「被衣」スタイルから、「深い笠」へ移行する。その両者が混在している
⑧「覆面」まではいかないが、口だけを隠す女性も見られる。
⑨「被衣」姿は、頭人行列の先 頭を行く馬上のあつた女郎の二人のみ
です。
金毘羅大祭行列屏風図 金山寺町
金毘羅祭礼図屏風 金山寺町
 遊女や金毘羅参詣客が多くなると、接客相手の遊女(風俗営業の女性)や衆道(男色)も現れたようです。
遊女については、元禄二年の取締令に続いて、5年後には「遊女博突之宿堅く停止」という触れが出されます。衆道については、平賀源内が『菊の園』(明和元年)で、讃岐で男色の盛んなところは金毘羅と白鳥であると紹介しています。参拝の後は、精進落としの場として金山寺町が栄えたようです。
 煙管を持っている人物が14人描かれているので、金毘羅でも喫煙風習が広まっていたことが分かります。この他、女性が桶のようなものを頭の上にのせて運ぶ頭上運搬の風習や、幼児を着物の中で抱いたり、子供を肩に担いだりする風習があったこともわかる。
 
金毘羅大祭行列屏風図の土地空間データー1
金毘羅祭礼図屏風の土地利用データー
大門と鞘橋の前にはそれぞれ高札場が見えます。この二つの場所は特別な空間領域であったことがうかがえます。

大門周辺(金毘羅図屏風)
        大門前(右が入口 左が桜の馬場)
馬や駕寵も大門からは入れず、門前で待機しています。享保6年には、大門の飴売りが高利を取るのでお叱りを受けたことが史料に残されています。大門前では参詣客相手の土産物売場が盛んであったことが分かります。この図屏風でも大門前で串にさした食べ物が販売され、大門の中では緋毛脱を敷いた六人の客が折り詰め弁当のようなものを食べています。

内町の往来(図屏風)2

 参道の両側には、漆器・布・弓・かんざし・魚・鍋・具などを売る店が並び、お茶や菓子・食事を出す店もあります。
 芝居小屋が並ぶ金山地町の賑わい
先ほど見た内町の高級旅館の裏が入っていくと、賑やかな呼び込みの声や音楽が聞こえてきて、芝居小屋が姿を見せます。 ここが金山寺街です。参拝を済ませた客が、願を掛け終えた安堵感・開放感に浸りながら精進落としをする場所です。この辺りは金山寺町と呼ばれ、かつては金山寺というお寺があったと伝わりますが史料は残りません。金山寺町に入ると、ちょうど歌舞伎小屋が立ち、中では歌舞伎が演じられているようです。常設の芝居小屋である金丸座が建つのは百年後のことです。

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さらに奥へ行くと、浄瑠璃を演じている小屋もあります。道を挟んだ向かい側には、別な歌舞伎小屋も見えます。参詣客は、歌舞伎・浄瑠璃などを十分に楽しんで、あとそれぞれの村、家へ帰っていったのであろう。この屏風絵には、金毘羅の大祭の賑わいがリアルに描かれています。

  この屏風絵が描かれた元禄年間(17世紀末)の金山寺町の広場には、所狭しと小屋が架けられ、芝居が興行されていたのです。
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 江戸中期以降、全国に131か所もの歌舞伎小屋が散在していました。
その場所と規模を伝えるものに「諸国芝居繁栄数望」(天保十一年子之十一月大新板)という芝居番付が残っています。そこには金毘羅大芝居は金沢・宮島などと並んで、西の前頭六枚目の最上段に「サヌキ金毘羅市」と名前が載っています。ここからは金毘羅の芝居が西国における第一級の芝居として、高い知名度と人気があったことが分かります。
 井原西鶴の「好色一代男」の中にも、安芸の宮島と金毘羅の賑わいを、旅芸人に語らせるシーンがあります。元禄年間おいては、金毘羅の賑わいは有名であったようです。しかし、それに引かれて東国から参拝者が押し寄せるようになるのには、まだ百年の歳月が必要でした。

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 この絵からは人寄せのために芸能や見世物などが催されにぎわうこんぴらの様子が伝わって来ます。金毘羅信仰が盛んになるにつれて、市立と芸能は共に栄え、門前町ことひらは一層繁栄するようになっていった様子が分かります。
金毘羅大祭図屏風 馬屋
金毘羅祭礼図屏風 多度津街道との合流点の馬屋

金毘羅大祭行列屏風図の動物ーター1
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
2024/12/25 改訂
参考文献 
金毘羅門前町 町史ことひら 127P~
溝渕利博 「金毘羅祭礼図屏風」研究ノート  こんぴら53号 平成10年

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