瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金毘羅船

金毘羅船 航海図C4

前回に金毘羅船の航路が19世紀前半に、①→②→③のように変更されていることを見ました。
①初期は、室津から小豆島を東に見て高松沖から四国の海岸沿いに丸亀へ
②19世紀半ばからは、室津から牛窓沖を通過し、それから備讃瀬戸を縦断するコール
③室津から下津井半島の日比・田の口・下村を経由して丸亀へ
このコース変更の背景として考えられる事を挙げてみると
①下津井半島の五流修験が広めた「金比羅・喩伽山の両詣り」で喩伽山参りの人々の増加
②19世紀前半からの金毘羅船の大型化
などですが、その他にも原因があることを指摘する文章に出会いました。今回はそれを見ていきます。テキストは「羽床正明 金昆羅大権現に関する三つの疑問  ことひら68 H25年」です
金毘羅船 苫船
金毘羅参詣続膝栗毛 道頓堀で金毘羅船に乗りこむ弥次喜多

十返舎一九の『金毘羅参詣続膝栗毛』(1810年刊)には、弥次喜多コンビが夜半に道頓堀から乗った金毘羅船は、早朝に木津川河口に下ってきて、早朝に順風を得て出港します。室津で一夜を過ごし、その後は順風に恵まれて三日半で丸亀港に着いています。しかし、こんなにスムーズに行くのは珍しい方だったようです。

三谷敏雄「飯田佐兵衛の金毘羅参詣記」(『ことひら』四十一号、昭和61年)には嘉永三年(1850)の正月に武蔵国文蔵村の飯田佐兵衛が仲間11人と金比羅参りをしたときの記録が報告されています。当時は金比羅参りだけでなく、いろいろな聖地を一緒に巡礼するのが常でした。彼らの巡礼地を見てみると、東海道を下って伊勢神宮に参詣し、更に大阪・四国にも足を伸ばし、帰りには京都見物を行って中山道を通って帰村しています。この二ヶ月半を『伊勢参詣日記帳』という道中記にまとめています。この道中記には、金毘羅船について次のように記されています。
 佐兵衛一行は大阪から高砂に行き「つりや伊七郎」方で「同所より二日夜丸亀迄船を頼む、上下(往復料金)壱貫弐百文にて頼む、百八文ふとん一枚」を支払って金毘羅船に乗船しようとします。ところが「三、四日、殊の外逆風」で船が出せません。そこで船賃の払い戻しを要求するのですが、返金されたのは「四百八拾文舟銭。剰返請取。」と支払額の40%程度でした。全額返金に応じないことに憤慨して「金ひら参詣ニハ 決而舟二のるべからず」と、金比羅参拝には、決して船を利用するなと書いています。その後、彼らは岡山県まで歩いて行って、下津井から船に乗って対岸の四国に渡っています。
IMG_8095下村浦
下村湊

    西国巡礼者が金比羅詣コースとして利用した高砂~丸亀の記録には、次のように記されています。
「三月一日船中泊り、翌二日こき行中候得者、昼ハッ時分より風強く波高く船中不残船によひ、いやはや難渋仕申候、漸四ッ時風静二罷成候而漸人心地二罷成よみかへりたる計也」

「此時風浪悪しくして廿一日七ッ時二船二乗、廿四日七ッ時二丸亀の岸二上りて、三夜三日之内船中二おり一同甚夕難渋仕」

意訳変換しておくと
「三月一日に船中に泊り、翌日二日に漕ぎだしたが、昼ハッ時分に、風が強く吹きだし、波も高くなり、乗客はみんな船酔いに苦しめられ、難渋した。ようやく四ッ時に風が静まり、人々は人心地をついた次第である」

「風浪が強くなる中を、21日七ッ時に乗船し、24日七ッ時に丸亀に到着するまで、三夜三日の内船中に閉じ込められ、乗客達は大変難渋した。

 同じ頃に金毘羅大権現に参詣した江戸羽田のろうそく商、井筒屋卯兵衛の手記にも、良く似たことが書かれています。
卯兵衛は「金毘羅出船会所大和や(大和屋)弥三郎、丸亀迄詣用付舟賃九匁ふとん壱枚百六十四文払」と、前回に紹介した道頓堀川岸の大和屋弥三郎方で金昆羅船を頼み、「是より舟一り半程下りて富島町と申す所へ船をつなぐ」が、「六日朝南風にて出帆できず」と船を出すことが出来ず、「是より舟を上り、大和屋船賃を取り返しに行く」と船賃の一部を払い戻して貰い、陸路を岡山県まで歩いています。
 そして、次のようなコースで丸亀に向かいます
二月四日に牛窓村の「ちうちん屋」に泊り、
五日には喩伽大権現に参詣して、下津半島・下村の「油屋藤右衛門」方で百四文を払って乗船し、
六日の四ツ半頃に丸亀港に着き、船宿「あみや為次郎」方で弁当を整え、丸亀街道を歩いて金毘羅大権現に行き参詣した。再び丸亀「あみや」に戻って
六日昼より七日昼までの間逗留し、九ツ時に「あみや」を出立して船に乗り、七ツ頃に対岸の田の口港に着いています。
金毘羅船 航海図C10
上方から丸亀までの船旅は、風任せで順風でないと船は出ません。
中世の瀬戸内海では、北西の季節風が強くなる冬は、交易船はオフシーズンで運行を中止していました。近世の金毘羅船も大坂から丸亀に向かうのには逆風がつよくなり、船が出せないことが多かったようです。

IMG_8110丸亀・象頭山遠望
下津井半島からの讃岐の山々と塩飽の島々

 金毘羅船が欠航すると、旅人は山陽道を歩いて備中までき、児島半島で丸亀行きの渡し船に乗っています。児島半島の田の口、下村、田の浦、下津丼の四港からは、丸亀に渡る渡し船が出ていました。上方からの金毘羅船が欠航したり、船酔いがあったりするなら、それを避けて備中までは山陽道を徒歩で進み、海上最短距離の下津井半島と丸亀間だけを渡船を利用するという人々が次第に増えたのではないかと研究者は指摘します。

IMG_8108象頭山遠望
下津井半島からの象頭山遠望

 下津井からの丸亀間は、西北の風は追い風となります。上方からの船が欠航になっても、下津井からの船は丸亀湊に入港できたようです。
金毘羅船 田の口・下村

 児島半島には喩伽山大権現(蓮台寺)があつて、金毘羅大権現と喩伽山を「両参り」すると効験は倍増すると五流の修験者たちは宣伝します。喩伽大権現に近い田の口港は、両参りする人々で賑わうようになります。
IMG_8098由加山
喩伽山大権現(蓮台寺)

これに対抗して下村の船宿「油屋藤右衛門」方では「毎日出船」と天気に左右されない通常運行を売り物にして客を獲得しようとします。下津井半島には、日々、田の口、下村、下津井と4つの湊が金比羅船をだして、互いにサービス競争を行っていました。上方からの運賃に比べると1/5程度でリーズナブルでした。また、小形の金毘羅船にはトイレがありませんでした。弥次喜多は、苫の外から海に向かって用を足しています。女性参拝客が増えるに随って、最短で海を渡ろうとする人たちも増えたのかも知れません。

IMG_8105下津井より広島方面」
下津井半島からの四国方面遠望
 こうして江戸時代末期には、欠航や船酔いを避けて上方からではなく、海上最短距離になる下津井からの渡船に活躍の舞台が開けてきたようです。大阪と丸亀を結ぶ金毘羅船が「毎日出船」を売り物にすることができるようになつたのは、明治になって蒸気船が出現して天候の影響をうけなくなってのことのようです。
平野屋佐吉・まつや卯兵衛ちらし」平野屋の札は「蒸気金毘羅出船所

   以上をまとめておくと
①上方からの金毘羅船は順風だと3泊4日で、丸亀港に着くことができた
②しかし、北西の季節風が強くなる冬は逆風となり、欠航が多くなった。
③出発前の欠航や途中での欠航でも料金が全額払い戻されることはなくトラブルの原因となった
④江戸時代末期になると参拝客は、金毘羅船の欠点を避けて、陸路で下津井半島まで行き、そこから海上最短距離で丸亀や多度津を目指す者が増えた。
⑤そこには、五流修験者の喩伽山信仰策もあった。
⑥この結果、下津井半島の田の口や下村、下津井は金比羅渡船のでる港町として栄えるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  金毘羅 町史ことひら

大坂の金毘羅船の船宿は、乗船記念として利用者に金比羅参拝の海上航路案内図や引き札を無料で渡したようです。航路案内図は、印刷されたものを購入し空白部に、自分の船宿の名前を入れ込んだものです。そのために、時代と共にいろいろな航路案内図が残されています。参拝者は、それを記念として大事に保管していたようです。それが集められて町史ことひら5絵図・写真編(71P)に載せられています。今回は金毘羅船の海上航路図を見ていくことにします。
金毘羅船 航路図C1

 左下に「安永三(1774)甲午正月吉日、浪花淡路町堺筋林萬助版」と板元と版行の年月があります。延享元年(1744)に、大阪の船宿が連名で金毘羅船を専門に仕立てたいということを願いでてから30年後のことになります。宝暦10(1760)年に、日本一社の綸旨を得て、参詣客も年とともに多くなってくる時期に当たります。
 表題は「讃岐金毘羅・安芸の宮島 参詣海上獨案内」です。
 ここからは、新興観光地の金毘羅の名前はまだまだ知られていなくて、安芸の宮島参拝の参拝客を呼び込むという戦略がうかがえます。
 構図的には左下が大坂で、そこから西(右)に向けてひょうご・あかし(明石)・むろ(室津)・うしまど(牛窓)と港町が並びます。金比羅舟は、この付近から備讃瀬戸を横切って丸亀に向かったようですが、航路は書き込まれていません。表題通り、この案内図のもうひとつ目的地は宮島です。そのため  とも(鞆)から、阿武兎観音を経ておのみち(尾道)・おんどのせと(音戸ノ瀬戸)を経て宮島までの行程と距離が記されています。ちょうど中央辺りに丸亀があり、右上にゴールの宮島が配されます。この絵図だけ見ると、丸亀が四国にあることも分からないし、象頭山金毘羅さんの位置もはっきりしません。また、瀬戸内海に浮かぶ島々は、淡路島も小豆島も描かれていません。描いた作者に地理的な情報がなかったことがうかがえます。
 重視されているのは上の段に書かれた各地の取次店名と土産物です。
大阪の取次店して讃岐出身の多田屋新右ヱ門ほか二名の名があり、丸亀の船宿としては、のだ(野田)や権八・佃や金十郎など四名があり、丸亀土産として、うどんがあるのに興味がひかれます。金毘羅では、飴と苗田村の三八餅が名物として挙げられています。印象としては、絵地図よりも文字の方に重点を置いた初期の「案内図」で、地理的にも不正確さが目立ちます。ここでは、まだ宮島参拝のついでの金毘羅参りという位置づけのようです。

金毘羅船 航海図C3
1枚目 丸亀まで
 二枚続きの図で、画師は丸亀の原田玉枝です。玉枝は天保15五年(1844)に53歳で亡くなっています。この図の彫師は丸亀城下の松屋町成慶堂です。この図も1枚目は下津井・丸亀までで、2枚目が鞆から宮島・岩国までの案内図になっています。

金毘羅船 航海図宮島
2枚目 鞆から宮島まで

 東国・上方からの参詣者が金毘羅から宮島へ足を伸ばす。あるいは、この時期にはまだ宮島参拝のついでに金毘羅さんにお参りするという人たちの方が多かったのかも知れません。淡路でも金毘羅と宮嶋は、一緒に参拝するのが風習だったようです。そんな需要に答えて、丸亀で宮嶋への案内図が出されても不思議ではないように思います。
   ここで注意しておきたいのは、大坂からの案内図は、最初は宮嶋と抱き合わせであったということです。大坂から金毘羅だけを目指した案内図が出るのは、少し時代が経ってからのことになります。

 構図的には、先ほど見たものと比べると文字情報はほとんどなくなって、ヴィジュアルになっています。位置的な配置に問題はありますが、淡路島や小豆島などの島々や、半島や入江も書き込まれています。山陽道の宿場街や、四国側の主要湊も書き込まれ、これが今後に出される案内図の原型になるようです。航路線は描かれていませんが。点々と描かれた船をつなぐと当時の航路は浮かび上がってきます。それはむろ(室津)から小豆島を左に見て備讃瀬戸を斜めに横切って丸亀をめざす航路のように見えます。この絵を原型にして、似たものが繰り返し出され、同時に少しずつ変化していくことになります。
金毘羅船 航海図C4
 C④「大坂ヨリ播磨名所讃州金毘羅迪道中絵圖」        

この絵の特徴は、3つあります
①標題は欄外上にあり、右からの横書きになっていること
②レイアウトがそれまでとは左右が逆になっていて、大坂が右下、岡山は左上、金毘羅が左下にあること。この図柄が、以後は受け継がれていきます。
③宮島への参拝ルートはなくなったこと。金比羅航路だけが単独で描かれています
 前回にお話しした十返舎一九の「金毘羅膝栗毛」の中で弥次喜多コンビは、夜に道頓堀を出発し、夜明け前に淀川河口の天保山に下ってきて風待ちします。そして早朝に追い風を帆に受けてシュラシュラと神戸・須磨沖を過ぎて、潮待ちしながら明石海峡を抜けて室津で女郎の誘いを受けながら一泊。そして、小豆島を通りすぎて、八栗・屋島を目印にしながら備讃瀬戸を横切り、讃岐富士を目指してやってきます。つまり19世紀初頭の弥次喜多の航路は、下津井には寄らずに、室津から小豆島の西側と通って丸亀へ直接にやってくるルートをとっています。
 しかし、この絵には室津と田の口が航路で結ばれ、下村や下津井と丸亀も航路図で結ばれています。五流修験の布教活動で、由加山信仰が高まりを見せたことがうかがえます。
   また、高松など東讃の情報は、きれいに省略されています。関係ルート周辺だけを描いています。絵図を見ていて、違和感があるのは島同士の位置関係が相変わらず不正確なことです。例えば小豆島の北に家島が描かれています。一度描かれると、以前のものを参考しにして刷り直されたようで、訂正を行う事はあまりなかったようです。
金毘羅船 航海図C7
この案内図には標題がありません。特徴点を挙げておくと
①右上に京都のあたご(愛宕山)が大きく描かれて、少し欄外に出て目立ちます。
②大坂は、住吉・さかい(堺)を注しています。
③相変わらず淡路島や小豆島など島の形も位置も変です。
④室津から丸亀への航路が変更されている。
以前は、小豆島の西側を通過して高松沖を西に進むコースが取られていました。しかし、ここでは牛窓沖を西へ更に向かい日比沖から南下して備讃瀬戸を横断する航路になっています。この背景には何があるか分かりません。
金毘羅船 航海図C10

  C⑩には右下に「作壽堂」とあり、「頭人行列圖」を発行している丸亀の板元のようです。この案内図で、研究者が注目するのは「むろ」(室津)からの航路です。牛窓沖を西に進み、そこから丸亀に南下する航路と、一旦田の口に立ち入る航路の2つが書き込まれています。そして、初期に取られた室津から小豆島の西側を南下し、高松沖を西行するコースは、ここでも消えています。考えられるのは、喩迦山の「二箇所参り」CM成果で、由加山参りに田の口や日々に入港する金毘羅船が増えたことです。田の口に上陸して喩迦山に御参りした後に、金毘羅を目指すという新しい参拝ルートが定着したのかもしれません。

金毘羅船 航海図C13
C13
 よく似た図柄が多いのは、船宿が印刷所から案内図を買い求めて、自分の名前を刷り込んだためと研究者は考えているようです。C13には大阪の船宿・大和屋の署名の所にかなり長い口上書が添えられています。欄外右下には「此圖船宿よリモライ」と墨の落書きがあったようです。ここからも乗船客が、船宿からこのような絵図をもらって大切に保管していたことがうかがえます。


以上の金毘羅船の航路案内図の変遷をまとめっておきます
①大阪の船宿は利用客に航路案内図を刷って配布するサービスを行っていた。
②最初は宮島参拝と併せた絵柄であったが、金比羅の知名度の高まりととに宮島への航路は描かれなくなっていく
③18世紀後半の航路は、室津から小豆島を東に見て高松沖を経て丸亀至るにコースがとられた。
④19世紀前半になると、日比や田の口湊を経由して、丸亀港に入港するコースに変更された。

③から④へのコース変更については、由加山信仰の高まりが背景にあるとされますが、それだけなのでしょうか。次回はその点について見ていこうと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました

参考文献 町史ことひら5絵図・写真編(71P)

金毘羅船 4

金毘羅船々 追風に帆かけて シュラ シュ シュシュ
回れば四国は 讃州那珂の郡 象頭山金毘羅大権現
も一度回って 金毘羅船々……

この歌は金毘羅船を謡ったものとして良く知られています。今回は金毘羅船がどのような船で、どこから出港していたのかを、見ていこうと思います。
まず、金比羅船の始まりを史料で見ておきましょう。
金刀比羅宮に「参詣船渡海人割願書人」という延享元年(1744)の文書が残されています。
参詣船渡海入割願書
一 讃州金毘羅信仰之輩参詣之雖御座候 海上通路容易難成不遂願心様子及見候二付比度参詣船取立相応之運賃二而心安致渡海候様仕候事
一 右之通向後致渡海候二付相願候 二而比度御山御用向承候 上者御荷物之儀大小不限封状等至迄無滞夫々汪相違可申候 将又比儀を申立他人妨申間敷事
一 御山より奉加勧進等一切御指出不被成旨御高札之面二候 得紛敷儀無之様可仕事
一 志無之輩江従是勧メ候儀且又押而船を借候儀仕間敷事
一 講を結候儀相楽信心を格別講銭等勧心ケ間敷申間敷並代参受合申間敷事
一 万一難風破船等有之如何様之儀有之有之候へ共元来御山仰二付取立候儀二候得者少茂御六ケ舗儀掛申間敷事
  右之趣堅可相守候若向後御山御障二相成申事候は何時二而茂御山御出入御指留可被成候為後日謐人致判形候上はは猶又少茂相違無御座候働而如件
  延享元甲子年三月
     大坂江戸堀五丁目   明石屋佐次兵衛 印
     同  大川町     多田屋新右衛門 印
     同  江戸堀荷貳丁目 鍔屋  吉兵衛 印
        道修町五丁目  和泉屋太右衛門 印
金光院様御役人衆中様
意訳変換しておくと
金毘羅参詣船の渡海についての願出について
一 讃州金毘羅参詣の海上航路が不便な上に難儀して困っている人が多いので「相応え運賃」(格安運賃)で参詣船を出し、心安く渡海できるように致します。
一 同時に、金毘羅大権現の御用向を伺い、御荷物等についても大小を問わず滞りなく配送いたします。 
一 金毘羅大権現よりの奉加・勧進等の一切の御指出を受けていないことを高札で知らせ、紛らわしい行為がないようにいたします。
一 信心のない輩に金毘羅船への参加を勧めたり、また船を課したりする行為は致しません。
一 金毘羅講を結成し講銭など集めたり、代参を請け負うことも致しません。
一 万一難破などの事故があったときには、どんな場合であろうとも金毘羅大権現に迷惑をおかけするようなことはありません。
以上の趣旨について今後は堅く遵守し、もし御山に迷惑をおかけするようなことがあった場合には何時たりとも、御山への出入差し止めを命じていただければと思います。
ここからは、次のようなことが分かります。
①延享元年三月(1744)に、大坂から讃州丸亀に向けて金毘羅参詣だけを目的とした金毘羅船と呼ばれる客船の運行申請が提出されたこと
②申出人は大坂の船問屋たちが連名で、金毘羅当局へ「参拝船=金毘羅船」の運航許可を求めていること
③寄進や勧進を語り募金集める行為や、金毘羅講などを通じての代参行為を行う行者(業者)がいた。
これは金光院に認められ、金毘羅船が大坂と四国・丸亀を結ぶようになります。これが「日本最初の旅客船航路」とされます。以後、金毘羅船は、金毘羅信仰の高揚と共に、年を追う毎に繁昌します。申出人の2番目に見える「大坂大川町 船宿 多田屋新右ヱ門」は、讃岐出身で大坂で船宿を営なんでいたようです。
多田屋の動きをもう少し詳しくみていきましょう。
 多田屋は、金毘羅本社前に銅の狛犬を献納し、絵馬堂の寄進も行っています。多田屋発行の引札も残っています。金毘羅関係の書物として最も古い「金毘羅参詣海陸記」「金毘羅霊験記」などにも多田屋の名は刷り込まれています。このように金比羅舟の舵取りや水夫には、多田屋のように讃岐出身者が多かったようです。そして、その中心は丸亀の三浦出身者だったようです。19世紀初頭に福島湊が完成するまでの丸亀の湊は土器川河口の河口湊でした。そこに上陸した金毘羅詣客で、三浦は栄えていたことは以前にお話ししました。

多田屋に少し遅れて、金毘羅船の運航に次のような業者が参入してきます
①道頓堀川岸(大阪市南区大和町)の 大和屋弥三郎
②堺筋長堀橋南詰(大阪市南区長堀橋筋一丁目) 平野屋佐吉
日本橋筋北詰(大阪市南区長堀橋筋二丁目) 岸沢屋弥吉
なども、多田屋に続いて金昆羅船を就航させています。強力なライバルが現れたようです。これらの業者は、それぞれの場所から金毘羅船を出港させていました。金毘羅船の出港地は一つだけではなかったことを押さえっておきます。
後発組の追い上げに対して、多田屋はどのような対応を取ったのでしょうか
『金毘羅庶民信仰資料集年表篇』90pには、多田屋新右衛門の対応策が次のように記されています。
宝暦四年 冥加として御用物運送の独占的引き受けを願い出る
同九年  狗犬一対寄進
天明七年 江戸浅草蔵前大口屋平兵衛の絵馬堂寄進建立を取り次ぎ
寛政十二年再度、金毘羅大権現の御用を独占を願い出。
享和三年 防州周防三輪善兵衛外よりの銅製水溜寄進を取り次ぎ
文化十三年大阪の金昆羅屋敷番人の追放に代わり、御用達を申し付け
天保三年 桑名城主松平越中守から高百石但し四ツ物成、大阪相場で代金納め永代寄進
天保五年 その代金六十両を納入
これ例外にも金毘羅山内での事あるごとに悦びや悔みの品を届けています。本人も母親も参詣してお目見えを許された記事もあります。ここからは多田屋新右衛門が、金毘羅大権現と密接な関連を維持しながら、金毘羅大権現への物資の運送を独占しようとしていたことがうかがえます。
『金毘羅山名所図会』には、次のように記されています。
  御山より大阪諸用向きにつきて海上往来便船の事は、大阪よどや橋南詰多田屋新右衛門これをあづかりつとむ。
ここからは多田屋新右衛門の船宿は、大阪淀屋橋南詰(大阪市東区大川町)にあったことがわかります。  
金毘羅船 淀屋橋
多田屋のあった、大阪淀屋橋南詰(大阪市東区大川町)
多田屋新右衛門には、大和屋弥三郎という強力なライバルが出現します。
大和屋弥三郎も金毘羅船を就航させ、金毘羅への輸送業に割り込もうと寄進や奉献を頻繁に行っています。そのため多田屋新右衛門が物資運送を独占することはできなかったようです。
『金毘羅庶民信仰資料集―年表篇』90Pには、大和屋弥三郎のことがが次のように記されています。
寛政九年 新しい接待所を丸亀の木屋清太夫とともに寄進
享和二年 瀬川菊之丞が青銅製角形水溜を奉納するのを取り次ぎ
文政九年 大阪順慶町で繁栄講が結成された時講元となり
文政十一年丸亀街道途中の与北村茶堂に繁栄講からとして、街道沿いでは最大の石燈籠を奉納
このように大坂の船宿は、参詣客の斡旋、寄進物の取り次ぎ、飛脚、為替の業務などを競い合うように果たしています。これが金毘羅の繁栄にもつながります
『金毘羅庶民信仰資料集―年表篇』の17頁の宝暦四年(1754)条には、
大阪の明石屋佐治兵衛。多田屋新右衛門、冥加として当山より大阪ヘの御用物運送仰せ付けられたく願い出る。

とあって、多田屋新右衛門が明石屋佐治兵衛と一緒に、物資運送を独占を願いでています。これに対して金毘羅大権現の金光院はどんな対応をしたのか見てみましょう。
『金毘羅庶民信仰資料集―年表篇』の24Pの寛政十二年(1800)春条には、
大阪多田屋新右衛門よりお山の御用を一手に申し付けられたき旨願い出る。多田屋の願いを丸亀藩へも相談した所、丸亀浜方の稼ぎにも影響するので、年三度のお撫物登りの時のみ多田屋の寄進にさせてはどうかという返事あり

ここには多田屋の願い出を丸亀藩に相談したところ、これを聞き留けると丸亀港での収入が減ることになるので、年三度の撫物だけを多田屋に運送させたら良いとの返事を得ています。この返事を多田屋に知らせ、多田屋はこれを受け入れたようです。ここに出てくる「撫物」と云うのは、身なでて穢れを移し、これを川に流し去ることで災厄を避ける呪物で、白紙を人形に切ったものだそうです。
  つまり金光院は、ひとつの船宿に独占させるのではなく、互いに競争させる方がより多くの利益につながると考え、特定業者に独占権を与えることは最後まで行わなかったようです。そのため多田屋が繁栄を独占することは出来ませんでした。

十返舎一九の『金毘羅参詣続膝栗毛』(1810年刊)で、弥次喜多コンビが乗った金毘羅船は、大和屋の船だったようです。
 道中膝栗毛シリーズは、旅行案内的な要素もあったので当時の最も一般的な旅行ルートが使われたようです。十返舎一九は『金毘羅参詣続膝栗毛』の中で、弥次・北を道頓堀から船出させています。しかし、その冒頭には次のような但書を書き加えています。
「此書には旅宿長町の最寄なるゆへ道頓堀より乗船のことを記すといへども金毘羅船の出所は爰のみに非ず大川筋西横堀長堀両川口等所々に見へたり」
意訳変換しておくと
「ここには旅宿長町から最も近いので道頓堀から乗船したと記すが、金毘羅船の出発地点は大川筋西横堀や長堀両川口などにもある」

ここからは、もともとの船場は多田屋のある大川筋の淀屋橋付近だったのが、弥次・喜多の時代には、金毘羅舟の乗船場は大川筋から道頓堀・長堀の方へ移動していたことがうかがえます。つまり、多田屋に代わって大和屋が繁盛するようになっていたのです。その後の記録を見ても「讃州金毘羅出船所」や「金ひらふね毎日出し申候」等と書かれた金毘羅舟の出船所をアピールする旅館や船宿は、大川筋よりもはるかに道頓堀の方が多くなっています。
 金毘羅船に乗る前や、船から下りた際には「航海無事」の祈願やお礼をするために、道頓堀の法善寺に金比羅堂が建立されていた研究者は推測します。法善寺は讃岐へ向かう旅人達たちにとって航海安全の祈願所の役割を果たしていたことになります。「海の神様」という金毘羅さんのキャッチフレーズもこの辺りから生まれたのではないかと私は考えています。

弥次喜多が乗りこんだ金毘羅船の発着場は、どこだったのでしょうか
金毘羅船 苫船

「大阪道頓堀丸亀出船の図」(金毘羅参詣続膝栗毛の挿入絵)
上図は「大阪道頓堀丸亀出船の図」とされた挿図です。本文には次のように記されます
   讃州船のことかれこれと聞き合わせ、やがて三人打ち連れ、長町を立ち出で、丸亀の船宿、道頓堀の大黒屋といえる、掛行燈(かけあんどん)を見つけて、野州の人、五太平「ハァ、ちくと、ものサ問いますべい。金毘羅様へ行ぐ船はここかなのし。」

意訳変換しておくと
讃州船のことをあれこれと聞き合わせ、やがて三人そろって、丸亀の船宿である道頓堀の大黒屋を訪ねた。掛行燈(かけあんどん)を見つけて、五太平が次のように聞いた「ハァ、ちょとおたずねしますが、金毘羅様へ行く船はここからでていますか」

ここからは道頓堀川の川岸の船宿・大黒屋を訪ねたこと、大黒屋も讃岐出身者であったことが分かります。道頓堀を発着する金毘羅船には、日本橋筋北詰の岸沢屋弥吉のものと、道頓堀川岸の大和屋弥三郎のものの二つがありました。岸沢屋の金毘羅船は道頓堀川に架かる日本橋の袂を発着場としていて引札には日本橋が描かれています。橋が描かれず川岸を発着場とするこの図の金毘羅船は「道頓堀の大黒屋=大和屋」の金毘羅船と研究者は考えているようです。

当時の金比羅舟は、どんな形だったのでしょうか?
上の絵には川岸から板一枚を渡した金毘羅船に弥次北が乗船していく姿が描かれています。手前が船首で、奥に梶取りがいるようです。船は苫(とま)屋根の粗末な渡海船だったことが分かります。苫屋根は菅(すげ)・茅(ちがや)などで編んだこものようなもので舟を覆って雨露をしのぐものでした。
金毘羅船 苫船2

淀川を行き来する三〇石船とよく似ているように思えます。
淀川30石舟 安藤広重


弥次喜多が道頓堀で乗船して、大坂河口から瀬戸内海に出港していくまでを意訳変換してみましょう
讃岐出身の船頭は、弥次喜多に次のように声をかける。
船頭「浜へ下りな。幟(のぼり)のある船じゃ。今(いんま)、出るきんな。サアサア、皆連(つ)れになって、乗ってくだせえ、くだせえ。」
 浜に下りると船では、揖(かじ)を降ろし、艪(ろ)をこしらえて、苫(とま)の屋根を葺いていた。
金毘羅船 屋根の苫
苫の屋根

水子(かこ)たちは布団、敷物などを運び入れ終わると、船宿の店先から勝手口まで並んでいた旅人を案内して、船に乗船させていく。
そこへいろいろな物売りがやってくる。
商人「サアサア、琉球芋(りゅうきゅういも)のほかしたてじゃ、ほっこり、ほっこり」
菓子売り「菓子いらんかいな、みづからまんじゅう、みづからまんじゅう。」
上かん屋「鯡昆布巻(にしんこぶまき)、あんばいよし、あんばいよし。」
船頭「皆さん、船賃は支払いましたかな、コレ、そこの親方衆、もう少しそっちゃの方へ移ってもらえませんか、」
五太平「コリャハァ、許さっしゃりまし。あごみますべい」と、人を跨いで向こう側へ座る。弥次郎・喜多八も同じように座ると、遠州の人が「エレハイ、どなたさんも胡座組んで座りなさい。乗り合い船なので、お互いにに心安くして参りましょう。ところで、船頭さん、船はいつ頃出ますか。」
船頭「いん(今)ますぐに、あただ(急)に出るわいの」
船宿の亭主「サアサアえいかいな、えいなら船を出さんせ。もう初夜(戌刻)過ぎじゃ。長い間お待たせして、ご退屈でござりました。さよなら、ご機嫌よう、行っておい出でなされませ。」
 と、もやい綱を解いて、船へ放り込むと、船頭たちは竿さして船を廻します。そうすると川岸通りには、時の太鼓、「どんどん、どどん」と響きます。
按摩(あんま)「あんまァ、けんびき、針の療治。」
 夜回りの割竹が「がらがら、がらがら」と鳴る中、船はだんだん河口へと下っていきます。
 木津川口に着いた頃には、夜も白み始める子(ね)刻(午前4時)頃になっていた。ここで風待ちしながら順風を待ち、その間は船頭・水子もしばらく休息していて、船中も静かで、それぞれがもたれ合って眠る者もいる、中には、肘枕や荷物包に頭をもたせて熟睡する者もいる。

難波天保山

 やがて、寅の刻(午前4時)過ぎになったと思う頃に、船頭・水子たちがにわかに騒ぎ立ちて、帆柱押し立て、帆綱を引き上げるなど出港準備をはじめ、沖に乗り出す様子が出てきた。船中の皆々も目を覚まして、船端に顔を出して、塩水をすくって手水使って浄めて象頭山の方に向かって、航海の安全を伏し拝む。
弥次郎・喜多八も遙拝して、一句詠む
    腹鼓うつ浪の音ゆたかにて 走るたぬきのこんぴらの船
 船出の安全を、語る内に早くも沖に走り出しす。船頭の「ヨウソロ、ヨウソロ」の声も勇ましく、追風(おいて)に帆かけて、矢を射るように走り抜け、日出の頃には、兵庫沖にまでやってきた。大坂より兵庫までは十里である。

ここからいろいろな情報を得ることが出来ます。
①弥次・喜多の乗った金毘羅船が小形の苫舟で、乗り換えなしで丸亀に直行したこと
②船頭が讃岐出身者だったこと。讃岐弁を使っているらしい。
③夜中(午後8時頃)に道頓堀や淀屋橋の船宿を出て、早朝(午前4時頃)に大坂河口に到着
④風待ち潮待ちしながら順風追い風を受けて出港していく
⑤この間に船の乗り換えはない。
金毘羅船 3

19世紀の中頃には、金毘羅船にとって大きな変化が起きていました。それまでの小形の苫舟に代わって、大型船が就航したことです。
金毘羅船 垣立


この頃には、垣立(上図の赤い部分)が高く、屋形がある大型の金毘羅船が登場します。これは樽廻船を金毘羅船用に仕立てたものと研究者は考えているようです。江戸時代に大阪と江戸の間の物資の運送で競争したのが、菱垣廻船と樽廻船です。

金毘羅船 大坂安治川の川口
大坂安治川の川口
 大坂安治川の川口の南には樽廻船の蔵が建ち並び、北には菱垣廻船の蔵が建ち並んでいる絵図があります。大型の金昆羅船は二日半で丸亀港に着いているので、船足の早い樽廻船と研究者は考えているようです。
ここで大きく成長するのが平野屋左吉です。
彼は、もともとは安治川の川口の樽廻船問屋でした。樽廻船を金毘羅船に改造して、堺筋長堀橋南詰に発着場を設けて、金毘羅船を経営するようになったと研究者は考えているようです。空に向かって大きくせり出した太鼓橋の下なら大きな船も通れます。しかし、長堀橋のように川面と水平に架けられた平橋の下を大きな船は通れません。そこで平野屋左吉が考えたのが、堺筋長堀橋南詰の発着場と安治川港の間を小型の船で結び、安治川港で大型の金毘羅船に乗り換えて丸亀港を目指すプランです。
金毘羅船 平野屋引き札
この平野屋の引き札からは次のようなことが分かります。
①平野屋が大型の金毘羅船を導入していたこと
②船の左には、平野屋本家として「金毘羅内町 虎屋」と書かれていて、虎屋=平野グループを形成していたこと。

  文政十年(1827)に歌人の板倉塞馬は、京・大阪から讃岐から安芸まで旅をして、『洋蛾日記』という紀行文を著しています。
その中の京都から丸亀までの道中についての部分を見てみましょう。
五月十二日、曇‥(中略)昼頃より京を立つ‥(中略)京橋池六より、乗船、浪花に下る。
十三日、晴。八つ(午後二時)頃より曇る。日の出るころ大阪肥後橋へ着く。(中略)
蟻兄(大阪の銭屋十左衛門)を訪れ、銭屋九兵衛という家(宿屋と思われる)にとまる。(以下略)
十五日、晴。(中略)日暮れて銭九を立つ。長堀橋平野屋佐吉より小舟に乗る。四つ橋より安治川口にて本船に移り、夜明け方出船。天徳丸弥兵衛という。
ここからは次のようなことが分かります。
①5月12日の昼頃に伏見京橋池六で川船に乗って淀川をくだり、13日早朝に大阪の肥後橋到着
②永堀橋の長堀橋の船宿平野屋佐吉の小舟で河口に下り
③15日、四つ橋より安治川口で大型の天徳丸(船頭弥兵衛)に乗り換え、夜明け方に出港した。

つまり平野屋左吉は、二種類の船を持っていたようです
①大阪市内と安治川港を結ぶ小型船
②安治川港と丸亀港を結ぶ大型船
淀川船八軒屋船の船場
川船の行き来する八軒家船着場 安治川湊までの小型船

平野屋は、二種類の船を使い分けて、金毘羅船経営を行う大規模経営者であったようです。普通の船宿経営者は、小型の船で大阪市内と丸亀港を直接結ぶ小規模の経営者が多かったようです。平野屋の売りは、金毘羅の宿は最高グレードの虎屋だったことです。富裕層は、大型船で最上級旅館にも泊まれる平野グループの金毘羅詣でプランを選んだのでしょう。このころには金毘羅船運行の主導権は、多田屋や大和屋から平野屋に移っていたようです。
平野屋佐吉・まつや卯兵衛ちらし」平野屋の札は「蒸気金毘羅出船所

  以上をまとめておくと
①18世紀半ばに金毘羅船の営業が認められ、讃岐出身の多田屋が中心となり運行が始まった。
②多田屋は金毘羅の運送業務の独占化を図ったが、これを金光院は認めず競争関係状態が続いた
③後発の船宿も参入し、金毘羅への忠誠心の証として数々の寄進を行った。これが金毘羅繁栄の要因のひとつでもあった。
④19世紀初頭の弥次喜多の金毘羅詣でには、道頓堀の船宿大和屋の船が使われている。
⑤金毘羅船の拠点が淀屋橋周辺から道頓堀に移ってきて、同時に多田屋に代わって大和屋の台頭がうかがえる
⑥道頓堀の法善寺は、金毘羅船に乗る人々にとっての航海安全を祈る場ともなっていた
⑦19世紀中頃には、平野屋によって樽廻船を改造した大型船が金比羅船に投入された。
⑧これによって、輸送人数や安全性などは飛躍的に向上し、金毘羅参拝者の増加をもたらすことになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明 金昆羅大権現に関する三つの疑問     ことひら68 H25
北川央  近世金比羅信仰の展開
町史こんぴら

 

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  金毘羅船々
  追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ
  廻れば四国は
  讃州那珂郡象頭山 金毘羅大権現
  一度廻れば

この歌が生まれたのは、大阪と地元のこんぴらさんのどちらかはっきりとしないようです。資料的にたどれるのは金毘羅説です。しかし、各地から金毘羅参詣客が集い、そして舟に乗って一路丸亀に向け旅立ってゆく金毘羅船の船頭が歌ったという話には、つい納得してしまいます。
しかし、実際には
   追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ
とは船は進まなかったようです。
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西国巡礼者が金比羅詣コースとして利用した高砂~丸亀の記録には、
「三月一日船中泊り、翌二日こき行中候得者、昼ハッ時分より風強く波高く船中不残船によひ、いやはや難渋仕申候、漸四ッ時風静二罷成候而漸人心地二罷成よみかへりたる計也」

「此時風浪悪しくして廿一日七ッ時二船二乗、廿四日七ッ時二丸亀の岸二上りて、三夜三日之内船中二おり一同甚夕難渋仕」
といった記述がみられます。
さらには、高砂から乗船しながら
「四日ハッ時頃迄殊之外逆風二付、牛まど村江舟右上り」
と、
逆風のために船が進まず、途中の牛窓で舟をおりて陸路を下村まで行き、そこから丸亀へ再び海を渡ったこともあったようです。この際に
「四百八拾文舟銭。剰返請取。金ひら参詣ニハ決而舟二のるべからず
と船賃の残額も返してくれなかったようで大いに憤慨しています。
追い風に風を受けてしゅらシュシュであって、向かい風にはどうしようもなかったようです。
IMG_8072難波天保山
大坂から乗船したケースも見ておきましょう。
道頓堀の大和屋弥三郎から乗船した金比羅船の場合です。
「六日朝南風にて出帆できず、是より舟を上り、大和屋迄舟賃を取返しに行
と道中記に記されています。大阪湾から南風が吹かれたのでは、船は出せません。船賃を取り返し、陸路を進む以外になく、備前片上
から丸亀に渡っています。瀬戸内海でも、いったん風が出て海が荒れれば、船になれない人たちにとっては生きた心地がしなかったようです。
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陸路中心の当時の旅において、金比羅船は「瀬戸内海クルージング」が経験できる金毘羅参詣の目玉だったようですが、楽な反面「危険」は常に感じていたようです。少し大げさに言うと、危険きわまりない舟旅を無事終えて金毘羅参詣を果たせたのだという思いが、航海守護の神としての金毘羅信仰をより深くさせたのかもしれません。
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 金毘羅舟が着く讃岐・丸亀港の近くに玉積神社(玉積社)が鎮座します。この神社は
「天保年間新堀堪甫築造の際の剰土を盛りたる所に丸亀藩大坂蔵屋敷に祀りありし神社を奉遷した」
と伝わります。『讃州丸亀平山海上永代常夜燈講』という表題を持つ寄付募集帳には、
「御加入の御方様御姓名相印し置き、家運長久の祈願、丹誠を抽で、月々丸亀祈祷所に於て執行仕り候間、彼地御参詣の節は、私共方へ御出で下さるべく候。右御祈禧所へ御案内仕り、御札守差し申すべく候」
とあって、この神社が「丸亀祈祷所」と呼ばれていたことが分かります。
この玉積社は、なぜ丸亀港の直ぐ近くに鎮座するのでしょうか?
それは、金毘羅詣での参詣者が無事丸亀に上陸できたことを感謝し、そして金毘羅参詣を終えた人々が再び乗船するに際して舟旅の安全を祈る、そんな役割を担っていたのかもしれません。同じ役割を持った神社が大阪にもあります。
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 今は韓国や中国からやってくる観光客にとって人気NO1の大坂道頓堀の近くには法善寺があります。狭い法善寺横町を抜けていくと現れるこのお寺には今でも金毘羅が祀られています。
江戸時代に法善寺の鎮守堂再建の際に「これは金毘羅堂の新規建立ではないのか」と、讃岐の金毘羅本社よりクレームがつけられています。金毘羅大権現の「偽開帳」にあたるのではないかと言うのです。その時の法善寺の返答は
「当寺鎮守ハ愛染明王二而御座候得共、役行者と不動明王を古来より金毘羅と申伝、右三尊ヲ鎮守と勧請いたし来候」
とその由緒を述べ
「金毘羅新キ建立なと申義決而鉦之御事二候」
と申し開きを行なっています。つまり、金毘羅大権現像と姿が似ている役行者像、金毘羅大権現の本地仏とされた不動明王像の二体を法善寺では金毘羅大権現と称していたのです。どちらにしても、法善寺が金毘羅神を祀っていたのは間違いないようです。
  それではなぜ法善寺が金毘羅を祀っていたのでしょうか?
19世紀初頭に人気作家・十返舎一九が文化七年(1810)に出版した道中膝栗毛シリーズが『金毘羅参詣続膝栗毛』です。ここでは主人公の弥次郎兵衛・北八は、伊勢参宮を終えて大坂までやってきて、長町の宿・分銅河内屋に逗留して、そこからほど近い道頓堀で丸亀行の船に乗っています。
 道中膝栗毛シリーズは、旅行案内的な要素もあったので当時の最も一般的な旅行ルートが使われていますから、この時代の金毘羅参詣客の多くは、大坂からの金毘羅舟を利用したようです。十返舎一九は『金毘羅参詣続膝栗毛』の中で、弥次・北を道頓堀から船出させています。
しかし、その冒頭には次のような但書を書き加えています。
「此書には旅宿長町の最寄なるゆへ道頓堀より乗船のことを記すといへども金毘羅船の出所は爰のみに非ず大川筋西横堀長堀両川口等所々に見へたり」
つまり、もともとの船場は大川筋の淀屋橋付近だったのが、弥次・北が利用した時代には、金毘羅舟の乗船場はから道頓堀・長堀の方へ移動していたようです。その後の記録を見ると「讃州金毘羅出船所」や「金ひらふね毎日出し申候」等と書かれた金毘羅舟の出船所をアピールする旅館や船宿は、はるかに道頓堀の方が多くなっています。
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法善寺の金比羅堂の大祭
   つまり法善寺のある道頓堀は金毘羅船の発着所に近かったのです。丸亀港の玉積社と同じように金毘羅船に乗る前や、船から下りた際には「航海無事」の祈願やお礼をするために、法善寺に金比羅堂が建立されたと研究者は考えているようです。いずれにせよ、法善寺の金毘羅が讃岐へ向かう旅人達だけでなく、多くの大坂市民の信仰をうけていたこと間違いありません。

金毘羅船 苫船
金毘羅参詣続膝栗毛に描かれた金比羅船
江戸の大名屋敷に祀られた鎮守が流行神化していきます
高松松平家や丸亀京極家は江戸屋敷に金毘羅を祀っていました。これが江戸における金毘羅信仰の発火点になったというのが現在の定説のようです。高松藩や丸亀藩の屋敷では、毎月十日金毘羅の縁日に裏門を開放して一般庶民の参詣を許し、縁日以外の日には裏門に賽銭箱を置いて、人々はそこから願掛けを行なったようです。このような江戸庶民の金毘羅信仰の高まりが、丸亀の新堀湛甫(新港)を「江戸講」という民間資金の導入手法で成功させることにつながったと云えます。
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 それでは大坂の場合はどうでしょうか?
   江戸時代の大坂の祭礼行事一覧で例えば6月の欄を見てみると次のような祭礼が並びます
「宇和じま御屋しき祭」(六月十一日)
「出雲御屋しき祭」(六月十四日)
「なべしま御屋しき祭」六月十五日)
中国御屋しき祭」(六月十五日)、
「阿波御屋しき祭」(六月十六日)
「筑後御やしき祭」(六月十八日)
「明石御やしきご(六月十八日)、
「米子御やしき祭」(七月十九日)
ここからは江戸と同じように、大坂でも各藩蔵屋敷に祀られていた鎮守神が祭日には、庶民に開放されていたことが分かります。
さて10月の蘭を見てみると「千日ほうぜんじ」をあげたあとには、一つ置いて「丸亀御屋しき」・「高松御屋しき」と見えます。『摂津名所図会大成』には、 
金毘羅祠 同東丸亀御くらやしきにあり 
     毎月九日十日諸人群参してすこぶる賑わし
金毘羅祠 常安裏町高松御くらやしき二あり 
     霊験いちじるしきとて晴雨を論ぜず詣大常に間断なし殊に毎月九口十日ハ群参なすゆへ此辺より常安町どふりに夜店おびたゝしく出て至つてにぎわし又例年十月十日ハ神事相撲あり
とあります。ここからは江戸だけでなく、大坂でも蔵屋敷に祀られた金毘羅を毎月の縁日に庶民に開放することで金毘羅信仰がひろまっていたことがうかがえます。しかし、蔵屋敷に祀られた金毘羅は大名のものであり、縁日以外は庶民に開放されませんでした。
ところが、金毘羅信仰の高まると、庶民達はいつでも参拝できる金毘羅を自分たちの力で勧請します。法善寺の金毘羅もその一つと考えられます。『浪華百事談』には、「持明院金毘羅祠」について、次のように記されています。
「生国魂神社大鳥居の西の筋の角に、持明院といふ真言宗の寺あり、其寺内に金比羅の祠あり。其神体は京都御室仁和寺宮より、当院へ御寄附なりしを、鎮守とせしにて今もあり。昔は詣人多き社にて、上の金比羅と称す。当社をかく云へるは、法善寺の内の金比羅を、下の金比羅といひ、高津社の鳥居前にある寺院に祭るを、中の金比羅といひ、此を上の社といひて、昔は毎年十月十日の会式の時、衆人必らず三所へ参詣せしとぞ。余が若年の時も、三所へ詣る人多く、高津鳥居前より此辺大ひに賑はしき事なり。今は参詣人少き社なり」
この史料は大坂には、
上の金毘羅 生玉持明院
中の金毘羅 高津報恩院
下の金毘羅 法善寺
とそれぞれの寺院の中に勧進された金毘羅が上・中・下とならび称されて大坂市中の三大金毘羅として崇敬されていたことを教えてくれます。このような金毘羅信仰の高まりを背景に、金比羅講が組織され、多くの寄進物や石造物がこんぴらさんにもたらされることになるようです。「信仰心信者集団の中で磨かれ、高められていく」という言葉に納得します。

参考文献 北川央 近世金比羅信仰の展開

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 今から二百年ほど前の文化年間の江戸では「旅」ブームが湧き上がっていました。
その中で大ベストセラーになったのが『東海道中膝栗毛』です。この売り上げに気をよくした版元は、続編の執筆を十返舎一九に依頼します。こうして、一九は、主人公の弥次郎兵衛と北八をそのまま使って、大坂から讃岐金毘羅へと向かわせる道中記を一気に書き上げ、翌年の文化七年(1810)に刊行します。それが『金毘羅参詣続膝栗毛初編(上下)』です。

13572十返舎一九 滑稽本 絵入 ■金毘羅参詣 続膝栗毛
  十返舎一九『金毘羅参詣続膝栗毛初編」の弥次さん北さんを描いた挿絵

 これに刺激されて全国的な金毘羅参詣が湧き上がって行きます。この本は、その後も版を重ねて読まれますが、明治以後はあまり顧みられなくなってしまったようです。
 この本で弥次・北コンビの金比羅詣の様子を追って見ましょう。
『東海道中膝栗毛』の主人公、弥次郎兵衛と北八は、江戸を出発して途中数々の滑稽な失敗を重ねながら、大坂は長町にたどり着き長い道中を終えます。そこで二人は帰国の旅支度を始めるのですが、たまたま相宿になった五太平という関東者から金比羅詣を誘われます。その誘いに乗り、足を伸ばして金毘羅参詣に赴くという設定で物語は始まります。
 ここに、弥次郎兵衛・北八なるもの、伊勢参りの刷毛(はけ)ついでに、浪花長町に来り逗留し、既に帰国の用意なしけるところに、相宿(あいやど)に野州の人の由、(名は五太平)泊り合わせたるが金毘羅参詣に赴くとて、一人旅なれば、この弥次郎・北八をも同道せんと勧むる。
 両人幸いのこととは思いながら、路用金乏しければと断わりたつるを、かの人聞きて、その段は気遣いなし、もしも不足のことあらば、償わんとの約束にて、讃州船のことかれこれと聞き合わせ、やがて三人打ち連れ、長町を立ち出で、丸亀の船宿、道頓堀の大黒屋といえる、掛行燈(かけあんどん)を見つけて、野州の人、五太平「ハァ、ちくと、ものサ問いますべい。金毘羅様へ行ぐ船はここかなのし。」
船頭「左様じゃわいな。」
五太平「そんだらハァ、許さっしゃりまし、ここの施主殿に会いますべい。わしどもハァ、金毘羅様へ行ぐのだが、船賃サァいくら積んだしますべい。」
船宿の亭主「ハイ、おいくたり様じゃな。」
五太平「三人同志でござる。」
船宿の亭主「ハイ、お一人前、船賃雑用とも、拾八匁(じゅうはちもんめ)づつでござりますわいな。」
五太平「あんだちぅ、ソリャハァでこ高いもんだのし、ちくとまけさっしゃい。」
船宿の亭主「イヤ、これは定値段でござりますさかい、どなたもさよじゃ。ハテ、高いもんじゃござりませぬわいな。船中というものは日和次第で、何日かかろやら知れんこともあるさかい。」
五太平「それだァとってむげちない、主(にし)達ゃァあじょうするのし。」
弥次郎兵衛「ハテ、お前(おめぇ)、定値段といやぁ如才はあんめえ。」
五太平「あるほど、金毘羅様へ心ざしだァ、あじょうすべい。」
 と、打ちがえより金取り出し、船賃を払う。弥次郎・北八も同じく払いて、
北八「モシ、船はどこから乗りやすね。」
 船頭は讃州者
船頭「浜へ下りさんせ。幟(のぼり)のある船じゃ。今(いんま)、一気に出(づ)るわいな。サアサア、皆連(つ)んのうてごんせ、ごんせ。」
 と、このうち船には、がたひしと揖(かじ)を降ろし、艪(ろ)をこしらえ、苫(とま)を吹きかけると、水子(かこ)どもは布団、敷物、何かをめいめいに運び入れると、船宿の店先から勝手口まで居並びたる旅人、皆々うち連れて、だんだんと、その船に乗り移る。
商人「サアサア、琉球芋(りゅうきゅういも)のほかしたてじゃ、ほっこり、ほっこり。」
菓子売り「菓子んい、んかいな、みづからまんじゅう、みづからまんじゅう。」
上かん屋「鯡昆布巻(にしんこぶまき)、あんばいよし、あんばいよし。」
船頭「皆、船賃サえいかいネヤ、コレ、そこの親がたち殿、えっとそっちゃのねきへついて居ざらんせ。」
五太平「コリャハァ、許さっしゃりまし。あごみますべい。」
 と、人を跨いで向こうへ座る。弥次郎・北八も同じく座ると、遠州の人「エレハイ、どな達も胡座(あづ)組みなさい。乗り合いだァ、お互いにけけれ(心)安くせずにャァ。時に船頭どん、船はハイ、いづ出るのだャァ。」
船頭「いんま、あただ(急)に出(づ)るわいの。」
船宿の亭主「サアサアえいかいな、えいなら出さんせ。もう初夜(戌刻)過ぎじゃ。コレハあなた方、ご退屈でござりました。さよなら、ご機嫌よう、いてお出でなされませ。」
 と、もやい綱を解きて、船へ放り込むと、船頭共竿さして船を廻す。このうち、川岸通りには時の太鼓、「どんどん、どどん」。
按摩(あんま)「あんまァ、けんびき、針の療治。」
 夜回りの割竹、「がらがら、がらがら」と、このうち船はだんだんと下へさがる。
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           大坂の船宿の引札(広告) 明治期
私が読んでいて気になった点を挙げていきます。
1 弥次・北八コンビの当初の目的は「伊勢参りの刷毛(はけ)」でした。その、ついでに金毘羅詣でをすることになります。
もともと東国からの金比羅詣客は、金毘羅への単独参拝が目的ではなく伊勢詣や四国八十八霊場と併せて参拝する人たちが多かったようです。この時期に残された「道中記」からは奥羽・関東・中部等の東国地方からの金毘羅参拝者の半数は、伊勢や近畿方面へ参拝を済ませて金毘羅へ寄っていることが分かります。弥次喜多も「伊勢参りの刷毛(はけ)のついでの金毘羅詣」だったのです。
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 大坂から丸亀の航路図 下が山陽道で左下が大坂 上が四国で右上が丸亀

 金比羅船の運行はいつ頃から始まるの?
金刀比羅宮に「参詣船渡海人割願書人」という延享元年(1744)の文書が残されています。
       参詣船渡海入割願書人
一 讃州金毘羅信仰之輩参詣之雖御座候 海上通路容易難成不遂願心様子及見候二付比度参詣船取立相腹之運賃二而心安致渡海候様仕候事
一 右之通向後致渡海候二付相願候 二而比度御山御用向承候 上者御荷物之儀大小不限封状等至迄無滞夫々汪相違可申 候将又比儀を申立他人妨申間敷事
一 御山より奉加勧進等一切御指出不被成旨御高札之面二候 得紛敷儀無之様可仕事
一 志無之輩江従是勧メ候儀且又押而船を借候儀仕間敷事
一 講を結候儀相楽信心を格別講銭等勧心ケ間敷申間敷井代 参受合申間敷事
一 万一難風破船等有之如何様之儀有之有之候へ共元来御山仰二付取立候儀二候得者少茂御六ケ舗儀掛申間敷事
  右之趣堅可相守候若向後御山御障二相成申事候は何時二而茂御山御出入御指留可被成候為後日謐人致判形候上はは猶又少茂相違無御座候働而如件
  延享元甲子年三月
     大坂江戸堀五丁目   明石屋佐次兵衛 印
     同  大川町     多田屋新右衛門 印
     同  江戸堀荷貳丁目 鍔屋  吉兵衛 印
        道修町五丁目  和泉屋太右衛門 印
    金光院様御役人衆中様
延享元年三月(1744)に、大坂から讃州丸亀に向けて金毘羅参詣だけを目的とした金毘羅船と呼ばれる客船の運行申請です。申出人は大坂の船問屋たちが連名で、金毘羅当局へ参拝船の運航許可を求めています。ここでは、金毘羅船は「参詣船」と書かれています。
 内容は、金毘羅詣の人々は、海上通路が不便で困っている人が多いので「相応え運賃」(格安運賃)で参詣船を出し、心安く渡海できるようにしたと目的が述べられます。加えて荷物だけでなく、大小の封状も届けるといいます。そして万一難船、破船があっても「御山(金毘羅)」には迷惑をかけないとします。
  こうして、18世紀半ばに金毘羅船が大坂と四国・丸亀を結ぶようになります。これが「日本最初の旅客船航路」といわれます。以後、金毘羅参詣渡海船は年を追う毎に繁昌します。
135721十返舎一九 滑稽本 絵入 ■金毘羅参詣 続膝栗毛
『金毘羅参詣続膝栗毛初編(上下)』
運行開始の3年後に金毘羅門前の旅籠「虎屋」は新築します。
その造作が「分限不相応」とされ当局から一時閉門になる事件が起きます。これも大坂の船問屋多田屋と虎屋が結んで、多田屋の客を虎屋へ送り込むようになって急増した宿泊客への対応をめぐる結果ではなかったのかと言われます。
 享和二年(一八〇二)若狭の船問屋古河泰教が参詣した時の紀行文にも「多田屋の相宿が虎屋」と記されています。後に多田屋は、金毘羅本社前に銅の狛犬を献納しり。絵馬堂の寄進も行っています。多田屋発行の引札も残っており、金毘羅関係の書物として最も古い「金毘羅参詣海陸記」「金毘羅霊験記」などにも多田屋の名は刷り込まれています。こんな関係から金比羅舟の舵取りや水夫には、讃岐出身者が多かったようです。
 しかし、多田屋は幕末には衰退し、それに代わって台頭してきたのが平野屋です。
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これは「平野屋グループ」の引札(広告ちらし)です。
大坂で平野屋の船に乗った客は、丸亀では備前屋藤蔵が出迎え、金毘羅・内町の虎屋惣右衛門方へ送り届けていたことが分かります。参拝客は大坂の船宿まで行けば、後は自動的に金毘羅まで行けるシステムが出来上がっていたようです。
 そして平野屋の店や船だけでなく、丸亀の備前崖、金毘羅の虎屋も山に平の字印の看板を出しておりひとつの「観光グループ」を形成していたようです。
さて弥次喜多コンビの船宿大黒屋の主人との船賃交渉です
船宿の亭主が「お一人前、船賃雑用ともで18匁(もんめ)」というと
「ソリャハァでこ高いもんだのし、ちくとまけさっしゃい。」
と値切り交渉が始まるのかと思ったら船宿の亭主は
「イヤ、これは定値段でござりますさかい、どなたもさよじゃ。ハテ、高いもんじゃござりませぬわいな。船中というものは日和次第で、何日かかろやら知れんこともあるさかい。」
と軽くいなします。
 ここには、値下げによる価格競争を防ぐ智慧があります。同時に、運行開始から70年余りで運営が運行ルールが定められシステム化していることがうかがえます。

こうして弥次喜多は「丸亀の船宿、道頓堀の大黒屋」と行灯を掲げた船宿に行き、船賃・雑用込み一八匁の約束で、讃州船の人となります。
当時の金比羅舟は、どんな形だったのでしょうか?
下の絵は「続膝栗毛」に載せられた挿絵です。川岸から板一枚を渡した金毘羅船に弥次北が乗船していく姿が描かれています。
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 彼らが乗り込んだ金毘羅船は、苫(とま)屋根をふく程度の粗末な渡海船だったことが分かります。苫屋根は菅(すげ)・茅(ちがや)などで編んだこものようなもので舟を覆って雨露をしのぐものでした。
「金毘羅膝栗毛」の四年前になる文化三年(1806)に刊行された『筑紫紀行』にも、大坂での乗船風景が載せられています。やはり船上は、まだ屋形ではありません。弥次喜多が載った船と同じくように「苫掛け」だったことがわかります。
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 上の絵は、それから50年近く後の幕末に出版された『金毘羅参詣名所図会』に出てくる金毘羅船です。船には垣立が装備され、本格的な渡海船に成長しています。ここからは文化から弘化までの四〇年の間に、苫掛けから総屋形に発展していったことがうかがえます。この時期は、江戸の金毘羅信仰が最も高揚した時期とも重なります。東国からの乗船者の急増への対応がこのような形になったのではないでしょうか。ちなみに広重の「日本湊尽」の丸亀の船も、総屋形の金毘羅船として描かれています。
金毘羅船の航路を追ってみましょう。道頓堀から夜に出航します 
  船は暗くなった戌の刻(午後八時前後)に道頓堀を出船して淀川を下ります。
夜中の暗いときに出て行きますが、淀川を下っている間は、揺れもなく貸し布団で快適に眠れたのかも知れません。寅の刻(午前四時前後)に河口から沖に乗り出します。順風を受けて日の出のころには兵庫沖を通過します。
はや木津川口に至れば、夜も子(ね)の刻ばかりになりぬ。
 ここに風待ちして夜明けなば、乗り出ださんと、船頭・水子もしばらく休息のていに、船中もひそまり、おのが様々、もたれ合うて居眠るもあり。あるいは肘枕あるは荷物包ようのものに、頭をもたせて打ち伏しけるが、
 やがて、寅の刻(午前4時)にもやあらんと思う頃、船頭・水子どもにわかに騒ぎ立ちて、帆柱押し立て、帆綱引き上げなどして、今や沖に乗り出でんとする様子に、船中皆々目を覚まし、船端に顔差し出し、手水使いて象頭山の方を伏し拝む。
弥次郎・北八もともに遙拝して、
    腹鼓うつ浪の音ゆたかにて 走るたぬきのこんぴらの船
 かく興じつつ船出を寿(ことぶき)、彼これうち語るうち、早くも沖に走り出し、船頭がヨウソロ、ヨウソロの声勇ましく、追風(おいて)に帆かけて、矢を射るごとく、はや日の出でたる頃は、兵庫の沖にぞ到りける。(大坂よりこの所まで十里)
 ここにて四方を見渡せば、東の方に続き、甲山(かぶとやま)、摩耶山(まやさん)、丹生のやま、鉄塊(てっかい)が峯なんど目前に鮮やかなり。
    仙人の住むかは知らず霞より 吐き出したる鉄塊が峯
 また、陸地(くがじ)には西の宮、御影(みかげ)、神戸、須磨なんどいう、浦々里々見渡されて、眺望の景色はいうばかりなし。
和田の岬、烏(からす)岬といえるを廻る頃は、牛の刻ばかりなん。
このとき、にわかに風変わりたりとて、帆綱引き換え、楫(かじ)取り直し、真切走りということをなして走るほどに、船中には野州の人、船に酔いたるにや心もち悪しきとて、色青ざめ、鉢巻きして、・・・・・
113574淡路・舞子浜
淡路島と舞子浜の間を明石海峡に向けて進む金比羅舟
神戸・須磨と船中からの眺めを楽しみながら正午ころに和田岬にさしかかります。
ところが急に逆風・大風に変わり、水子たちは、帆に斜めに風を受けながらジグザグに前進する「真切り走り」の航法を取ります。その間の船酔いから、同行の五太平が死んでしまうというハプニングが起こります。ようやく波も静まり、夜になって室津に上陸します。
 室津は
「西国諸侯方の船出し給う所にて、播州一箇の繁昌の地なれば、商家みな土蔵づくりの軒を並べて建ち続けり」
という賑わう港町で、ここでも女郎達の誘いを受けます。
13576室津の女郎
室津の色町の女
しかし、船中で急死した五太平の弔いが先です。お寺を探すのですが死人が「往来手形」を持っていないためにひと苦労します。ようやく死者を無事にともらい船に還った二人は
酒肴をとりよせ、船頭・水子ども相手にして、その夜は寝もやらず飲み明かしける。
    死ぬものは貧乏なれやこれからは 船に追風の富貴自在なれ
 かく祝い直して、既に夜明けなれば、船頭・水子ども船中を洗い清め、修験者を呼び来たりて不浄除けの祈祷をなし・・・
   室津から丸亀までの船中は順風満帆の瀬戸内クルージング
 翌日、修験者によって清められた船で室津を出航します。
135725 ■金毘羅参詣 続膝栗毛. 室津jpg
室津港
朝の追風(おいて)に帆かけて、この湊口を乗り出し、早くも備前の大多婦(おおたぶ)の沖に至りける。(播州室よりこの所まで五里)
 海中には小豆島の見えたるに、
景色の実入りもよしや小豆島 
       たはらころびに寝ながらぞ見る

 それより牛窓前という辺りを行くほどに、八島(屋島)の矢くり(八栗)が獄、南の方に鋭く聳(そび)え、讃岐の小冨士手にとるごとく、下津井の浦見えわたり、海中には飯山石島など、すべてこの辺り小島多く、景色佳麗(かれい)、いわんかたなし。その日申(さる)の刻過ぎたると思う頃、讃岐の国丸亀の川口にぞ着きたりける。(室よりこの所まで二十三里に近し)
 龍宮へ行く浦島にあらねども 
           乗り合うせたる丸亀の舟
 
折節、汐干(しおひ)にあいて二丁ばかり沖の方に船を留めて満汐を待つ、この湊は遠浅にて、いつもかかる難渋ありと言えり。暮れ過ぐる頃、ようやく川中に乗り入り、弥次郎兵衛・北八は、大物屋(だいもつや)といえる旅籠屋に宿る。これは船頭の宅のよし、案内に任せてここに入り、始めて安堵の思いをなしたりける。
 室津からは順風満帆の瀬戸内海クルージングです。幕末から明治に船で日本にやって来た西洋人達が楽しんだ「船から移りゆく景観(シークエンス)」を楽しみます。備前大多婦沖に入ってくると南に小豆島、北に牛窓が見えてきます。そして、讃岐方面には八島(屋島)・八粟獄を望み、甘南備山の讃岐の小富士が少しずつ近づいてきます。まさに島々の景色佳麗を賞でながらの船旅です。
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備前から見た青野山・飯野山と備讃瀬戸
金比羅詣での人気のひとつに、「船旅の魅力」があったようです。
日頃乗ったことのない船に乗って瀬戸内海を渡って行くという経験は得がたい経験でした。しかも、自分の足で歩かなくても船に乗っていれば丸亀に運んでくれるのです。これは、東海道や中山道を旅するのとは違いました。この辺りの魅力を挿絵入りで書き込んでいます。旅行記としても及第点が与えられます。
丸亀港は遠浅で干潮時は入港出来なかった?
「続膝栗毛」は、丸亀港への入港の模様を次のように述べています。
「その日中の刻過ぎ(午後三時ころ)、丸亀河口(に到着したが干潮で港には入れなかった。満潮を待って、暮れ頃に港に乗り入れて上陸した」

   丸亀河口(土器川河口)の舟入に満潮を待って入港したと記します。弥次北がやって来たときに、丸亀の新港である「福島湛甫」は、出来上がっていなかったのでしょうか?
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福島湛甫 
丸亀市史には、福島湛甫について次のように記されています。
文化三年(一八〇六)、福島町北岸に船舶の停泊所をつくり、福島湛甫と称した。その規模は、東西六一間(約一〇九・八び)、南北五〇間(約九〇び)、東側に一八開(約三二・四び)の入り口を設けた。水深は満潮時に一丈余であった。場所は、現在丸亀港にかかる京極大橋の西橋脚の付近である。
 従来は、福島町の東岸の石垣に船が繋留されていたが福島湛甫へ完成により、丸亀港の航行が容易となったばかりでなく、上陸した旅客は福島町内を通り浜町方面へと向かうため、町内の旅寵、土産物屋などが急増し福島町は賑わった。
 干潮でも入港できる福島湛甫は1806年に出来上がっています。「続膝栗毛」の刊行は、その4年後です。これをどう考えればいいのでしょうか? 
 十返舎一九は、福島湛甫の完成を知らずに、完成前の自分の経験と情報で丸亀上陸の部分を書いたのでしょうか。
彼は、「続膝栗毛」の巻頭で次のように述べています。
「予、若年の頃、浪速にありし時、一とせ高知に所用ありて下りし船の序(ついで)に、象頭山に参詣し、善通寺、弥谷(いやだに)を遊歴したり・・・」
「予、彼の地理行程のあらましは知得した」
と若い頃に一度金毘参りをしたことがあることを述べた上で、けれども全てを知っている訳ではないと断っています。福島湛甫の竣工という「最新情報」を知らずに書いたようです。

弥次喜多が上陸した丸亀の港は、どこにあったのでしょうか?
丸亀城下町比較地図41


丸亀城の外堀は、東は東汐入川で、西は外堀より分かれた堀によって海につながっていました。そして、東西の両汐入川の川口が港となっていたようです。港は河口のために、年とともに浅くなっていきました。江戸時代初期の山崎時代の「讃岐国丸亀絵図」では、御供所の真光寺東で東汐入川と土器川が合流し、真光寺の東北に番所が描かれています。これが港に出入りする船を見張る船番所とされています。つまり、近世初期における丸亀港は、東汐入川の河口が港だったようです。

丸亀市東河口 元禄版
 また17世紀中頃の「丸亀繁昌記」の書き出し部分には、この河口の港の賑わいぶりを次のように記します
 玉藻する亀府の湊の賑いは、昔も今も更らねど、なお神徳の著明き、象の頭の山へ、歩を運ぶ遠近の道俗群参す、数多(あまた)の船宿に市をなす、諸国引合目印の幟は軒にひるがえり、中にも丸ひ印の棟造りは、のぞきみえし二軒茶屋のかかり、川口(河口の船着場)の繁雑、出船入り船かかり船、ぶね引か おはやいとの正月言葉に、船子は安堵の帆をおろす
  網の三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あり」
御供所の川口に上陸した旅客は東の二軒茶屋を眺め、御供所・北平山・西平山へと進み、その通りにある貸座敷や料亭で遊ぶ様子が記されています。ここからもこのころまでは東川口が丸亀の港であったことが分かります。


丸亀城下町 土器川との関係

弥次喜多の乗った金比羅舟は、潮待ちしたことを次のように記します
「汐干(しおひ)にあいて二丁ばかり沖の方に船を留めて満汐を待つ、この湊は遠浅にて、いつもかかる難渋ありと言えり。暮れ過ぐる頃、ようやく川中に乗り入り

ということは、旧来の東川口の港のことを示しています。
そして、この船の船頭の自宅である大物屋という旅籠屋に入ったところで上巻は終わります。
DSC01089丸亀旧港

「丸亀繁昌記は、東河口の賑わいぶりを次のように記します。
 玉藻する亀府の湊の賑いは、昔も今も更らねど、なお神徳の著明き、象の頭の山へ、歩を運ぶ遠近の道俗群参亀す、数多(あまた)の船宿に市をなす、諸国引合目印の幡は軒にひるがえり、中にも丸ひ印の宗造りは、のぞきみえし。二軒茶屋のかゝり、川口(河口の船着場)の繁雑、出船入り船かゝり船、ふね引がおはやいとの正月言葉に、船子は安堵の帆をおろす網の三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あれば
意訳変換しておくと
 玉藻なる丸亀湊の賑いは、昔も今も変わらない。神霊ありがたい象頭山金毘羅へ向かう海の道は丸亀に集まる。数多(あまた)の船宿が集まり、諸国の引合目印の幟が軒にひるがえり、○金印がのぞきみえる。二軒茶屋のあたりや、土器川河口の船着場の繁雑し、出船入り船や舫いを結ぶ船に、「お早いおつきで・・」と正月言葉が」かけられると、船子(水夫)は安堵の帆をおろす。三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あれば・・・

 ここからは、御供所の川口に上陸した金毘羅参拝客は東の二軒茶屋を眺め、御供所・北平山・西平山へと進み、その通りにある貸座敷や料亭で遊ぶ様子が描かれています。三浦は水夫街で漁師町と思っていると大間違いで、彼らは金毘羅船の船頭として大坂航路を行き来する船の船主でもあり、船長でもあり、大きな交易を行う者もいたようです。ここで一泊して、弥次喜多は金毘羅へ向かいます。
その模様は、また次回に・・

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