瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:金毘羅遊女

決壊中の満濃池
金毘羅領と天領三村

 金毘羅大権現のお膝元・松尾の里(金毘羅)は、金光院院主が領主とする幕府の朱印地でした。そのため課役免除など「治外法権」的な面を持っていました。その東側の榎井村は、満濃池領の天領地で代官所は倉敷にあり、目が届きにくい面がありました。ある意味、金毘羅・榎井村は「朱印地 + 天領」で、幕藩体制下のなかでは「権力の空白地帯」であったようです。それがある意味で、庶民的な自由をもたらし、時にはデカダン風俗等を流行らせ、思想的には幕末の尊王攘夷思想を培養したとも考えられます。同時に、その自由さが門前町こんぴらの顔(文化)と富(経済)を支える発展の基盤になっていたのかも知れません。

金毘羅門前 全体

    こんぴら門前町を支えたひとつに「遊郭」があります。
 「遊廓」については「悪所」として、文化的な立場から捉え直そうとする動きがあるようです。その視点は、次の通りです。

「遊所は身分制社会の「辺界」に成立した解放区「悪所」であったから、日常の秩序の論理や価値観にとらわれない精神の発露が可能であった」

「悪所=遊所」を、文化創造の発信源として、そのプラス面を捕らえ返そうとする視座のようです。
 金毘羅の遊女の変遷を、研究者は次のよう時代区分しています。。
①参詣客相手の酌取女が出没しはじめる元禄期
②酌取女及び茶屋(遊女宿)の存在を認めた文政期
③当局側の保護のもと繁栄のピークを迎えた天保期
④高級芸者の活躍する弘化~慶応期
  そして、最初は禁止されていた「遊女」が門前町の発展のために公認され、制度化されていくプロセスがあったことを以前にお話ししました。同時に「芸を売る」芸者の登場と共に、新たな「文化」の芽生えを感じさえてくれました。
 また、遊女たちを支配する茶屋は、参詣客に食事や遊女を提供するだけではありませんでした。芝居小屋をつくり、その興行を勧進し、見物席チケット販売に至るまで、マルチな営業活動を繰り広げるようになります。
 興行的には赤字を続けた芝居小屋を支えたのは、遊女達に課せられた負担金でした。遊女の支払う貢納金なしでは、芝居興業はできなかったのです。門前町こんぴらの賑わいを支えていたのは、茶屋・遊女たちの陰の存在だったかもしれません。

 金毘羅門前町 高灯籠 大正2年
大正3年の高灯籠
今回は、明治以後のこんぴら遊女をとりまく変化をたどってみようと思います。
 万延元年(1860)秋、北神苑(琴電琴平駅東)の高灯寵が完成します。東讃地方の砂糖会所が発願し、金参千両を募金してできたものです。その門標の碑表に『講外燈上断』とあり、その碑側に、狂歌一首が、私には読めないような流麗な筆使いで刻まれています。ざれうたとはいえ、こんぴらの遊女たちの置かれた姿をよく捉えています。
   紅灯緑酒卜遊女と客と町衆と
   引請は茶屋阿り多けに 置屋中
   給仕めし毛里(飯盛) 跡は志らん楚
引請は「支える」で、ここではお客の評判等としておきましょう。
茶屋は客に飲食、遊興等をさせることを業とする店で、料理茶屋、引手茶屋などで、その中核的存在が「遊廓」です。置屋とは、芸妓、娼妓を抱えておく屋方で、茶屋からの注文に応じて、芸娼妓を派遣する業者です。飯盛女は江戸時代の宿場等で、旅人の給仕を専業とし、ときには売春行為も兼業した。飲食を給仕し、酒の酌をする女で「酌取女」とも呼ばれました。
 こんぴらの遊里は、繁盛するにつれて、町宿と遊女のトラブルもひん発するようになります。町方諸役はその解決のために、
酌取女を置く宿を「茶屋」と呼び、
酌取女を置かない宿を「旅龍」
と区別して、遊女の公認化への道を開きました。

鞘橋・芝居小屋・内町
鞘橋から内町・金山寺町周辺

そのころは、札の前、坂町、内町、金山寺町がこんぴら遊里の中心街でした。
香川県史近世2を、要約すると次のようになります。

『文政七年(1824)頃は、金山寺町界隈が、「遊廓」の街並みであった。旅籠を差し引き、残り八十軒を茶屋とすると、平均三人の遊女がいたとすると全体で240人近くなる。これは当時の金毘羅人口の約十分の一に当たる。』

 金毘羅参拝には、精進落としがつきもので「信仰と快楽」が「コインの裏表」の関係にあったようです。庶民の息抜きの場が、こんぴら門前町という「権力の空白地帯」に形成されます。それを権力者たちも「特定地域の寺社所領地」へ誘い込み、限定することで「安全弁」として容認していた風にも見えます。
 人びとが逗留すれば、それに比例して街は活気を呼び、商いも繁昌します。当時のこんぴらは、今風にの「街起こしイベント(奇策)」にたけていました。その最大の催しが、金毘羅さんの「ご開帳」です。厨子のとばりを開けて中の秘仏を、庶民におがませる行事です。人々は、秘仏を拝み見るためにイナゴのようにやって来て、信仰心を満足させます。そして、次の快楽を求めます。そこで用意された接待が、富くじ、芝居小屋、見せもの小屋、茶屋、みやげ物店等々です。自然に盛り場は、人で溢れるようになったでしょう。
 富くじとは、富突または富とも云ったようです。

17 富くじ

木札と紙札とがペアになっていて、木札を原牌、紙札を影牌と呼びました。影牌を売り出し、期限がくると公開で原牌を箱の中に入れ、上部の孔から錐で原牌を突き刺し、当札を決めるシステムです。今の宝くじのルーツです。これは庶民のギャンブル心を刺激しました。金毘羅金光院院主の山下家と姻戚関係にある京の五撮家の一つ九條家が、幕府の許可を得て、興行されていたので、別名「九條富」とも呼ばれていたようです。現在の公認ギャンブルです。この当辺の決定日には、多くの人が詰めかけました。

宝くじのルーツ、江戸時代の禁止ギャンブル「富くじ」とは【1等いくら ...

「遊廓」からは遊興代(線香代、揚代等の名目)の賦課金を徴収していました。
これが、刎銀とも「不浄金」とも呼ばれた貢納金です。この積立金で、建てられたのが金丸座です。この建物は富興行の場として建てられたものを芝居小屋として使っていました。つまり現在の「金毘羅大芝居」の前身である金丸座は「遊廓」の遊女たちの稼ぎで建てられたことになります。はなやかな上方歌舞伎興行を陰で支えていたのは遊郭であったようです。今でも金山寺町(現・小松町)には「富場」の古称が残っているようです。
4344104-04象頭山と琴平
金毘羅大権現 金毘羅参詣名所図会
 こんぴらさんには朱印地の特権を利用して「飲む、打つ、買う」の三拍子揃った「諸人快楽の歓楽街」が形作られていたようです。それが幕末期の道中案内や名所記等で広く喧伝されます。当時の旅行記の定番は、だいたい以下のような内容でした。

『ことひらの町は、旅龍屋軒をならべ、みやげ物売る店もいらかを競うている、京、大坂、兵庫、室津・鞆港からも金毘羅船が出入りし、丸亀、多度津、善通寺、弥谷寺から道は全て金毘羅に通じている。」

 こうして、こんぴらさんは社寺参詣番付の上位ランクの常連として、巷間に伝えられていきます。人々は「一生に一度は金毘羅参り」が夢となります。
鞘橋 明治中頃
大祭時の鞘橋
 明治維新でこんぴらさんは、二つの試練を受けます。
ひとつは、明治維新の神仏分離です。これにより寺院伽藍から神社への変身を迫られました。
 もうひとつは、明治5年10月20日の「公娼制度解放令」です。
しかし、これは神仏分離れに比べると影響は少なかったようです。その後も、貧しい家の少女たちが年季奉公という法の網の目をくぐって人身売買は続きます。「家」のため遊郭に身を沈める子女が数多いたのです。かけ声だけに終わった「公娼制度解放令」でした。
   遊女たちにとって、大きな変化は明治30年に訪れます。
DSC01455
内町
金山寺町から新地遊廓(栄町)への集団移転
こんぴら門前町の遊廓は、金山寺(きんざんじ)町 にあり、茶屋・賭場・富くじ小屋・芝居小屋なども立ち並ぶ遊興の地の中にありました。遊女の出入りする茶屋と芝居小屋は背中合わせにあり、遊女と芝居小屋は「同居」していました。

金毘羅門前町 芝居小屋
芝居小屋(金丸座)と背中合わせにあった遊郭

つまり、吉原のように密閉化された存在ではなかったようです。そのため文明開化が進むと「一般の商店や旅館と遊女が混在するのは、風俗上問題がある」と云われ初めます。その対応として、茶屋を特定のエリアに集めるという方策がとられることになります。集団移転先として選ばれたのが金倉川の向岸です
 明治33 (1900)年に、遊廓は現在の栄町に移転され、新地と呼ばれるようになります。
金山寺町は色街という性格は、失いますが「琴検」 と呼ばれた芸妓検番が置かれ、娯楽の地として賑わいを続けます。

戦前の読売新聞は公娼制度を奴隷制度とみなしていた!? - Togetter

 金倉川畔の栄町に集団移転した遊郭は、大正末期に「琴平新地」と名前を改め、女の館は軒をつらねて色里を形成します。それは、戦後の一時期まで盛況を極め、親方連(棲主)はわが世の春を迎えます。
7 琴平遊郭1

戦前の新地遊廓(栄町)は?
 新地遊廓の北側の入口は、高灯籠の隣のコトデン琴平駅横になります。かつては、この前は食堂や観光案内所が立ち並んでいたようです。そして 戦前は約2000坪の空地で、凧揚げや盆踊りが催されていたようです。
 昭和10年(1935)頃、ここで矢野サーカスが1カ月ほど興行したり、大相撲が来たこともあるようです。 この頃の琴平は、JR以外 に琴電(コトデン)、琴参(コトサン) (昭和 38年廃線)、琴急 (コトキュウ)(昭和 19年廃線)の4つの鉄道が乗り入れていました。各線の駅も新駅が相次いで完成し、多くの参拝客が乗り降りします。
 当時の琴平には2軒の映画館があったようです。1軒は、金毘羅大芝居の小屋 ・金丸座を引き継いだものです。 もう1軒は栄町の新地遊廓に隣接していた金陵座です。 金陵座は明治末期に外観を金丸座を真似て建てられた劇場風映画館でした。
さて、戦前の新地遊郭を図1で見てみましょう
新地内は、貸座敷でほどんどが占められていたことが分かります。その周辺 に旅館、料亭、カフェーが立ち並んでいます。ここを利用するのは、参詣客が主だったようです。旅館や料亭には、金山寺町の 「琴検」から芸者連が御座敷に通ってきました。 カフェーの蓄音器から流行歌が流れ、女給達が外で熱心に客の呼び込みをし、客は酒を飲んで歌ったり、ダンスホールほど広くない店内の机の隙間でダンスを踊ったりもします。
 しかし、それも日中戦争が激化する昭和15年頃になると、御座敷は軍によって禁止されます。それでも、遊廓は残されたようです。そこには日曜日になると善通寺の11師団の兵隊連が大勢やってきました。武運長久を祈願し、その後は精進払いという段取りだったようです。
 戦時中になると新地遊廓の客は、以前とは打って変わって兵隊ばかりになります。しかし、それも、戦局が悪化すると新地を訪れる者はいなくなり、静まり返ってしまいます。

 戦後の琴平新地 栄町は? 
敗戦後、日本を占領統治したGHQ(連合国軍総司令部)は、昭和21年に「公娼廃止」の指令を出します。これで、公娼制度は消えたはずでした。
戦後日本の公娼制度廃止における警察の認識

しかし、内実は管理売春を禁止しただけで、個人の自由意志による売春は「自由恋愛」と称して、エリア限定で容認されます。同年十二月の内務省通達は、一定地域内での「特殊飲食店」の営業を認めます。そのエリアは、警察署の地図に赤い線に囲まれていましたから、これらの特飲街を総称して「赤線地帯」と呼ぶようになります。

7 琴平遊郭45

こうして遊郭は前後も、「赤線」として生き残ったようです。かつての遊女屋は、警察の許可をもらって、新たな特殊飲食店の名で公然と売春行為を続けます。看板が変わっただけのようです。

DSC01456栄町 稲荷神社
栄町の稲荷神社
 琴平の新地栄町も、その例外ではなかったようです。
 敗戦直後の様子を当時の新聞は、次のように伝えます。
こんぴらの街には通称「金山游廓」があった。明治の末期、この金山寺遊廓は発展的に解消して金倉川畔の現在地に集団移転、のち大正末期に「琴平新地」と改称され、現在にいたった。敗戦後の混乱期、とくに二十二年から二十五年までの四年間が一番もうけたと業者は述懐する。
 ○…当時の琴平町は労組の全国大会があいついで開かれ、地元は”労組ブーム”を現出した。その語り草の一つに、新地が一番歓迎したのがなんと日教組の代議員だったという。事実、ある業者は労組のなかで最高の水揚げ高を示したのが日教組だったといっている。三十軒、約百五十人の従業婦をかかえて文字通り、わが世の春をオウ歌していた
ここからは、琴平新地に活気が戻ってきたことが分かります。
そして、戦前に廃止された芸者が琴平の町に再び登場します。 昭和27年7月に、全国の花柳界に先がけて 「琴平技蛮学校」が開校します。この学校を卒業 した芸者達は、戦後の琴平観光名物の一つとなっていきます。
昭和30年代には、琴平には5軒の映画館がありました。
そのうち次の3軒は栄町に集まっていました。 
希望館は戦前からあった金陵座を改名したもの
日本館は昭和28年に建設され、ダンスホールを併設
琴平松竹座は昭和31年に建設され、深夜上映館
ここからも、栄町が琴平の娯楽の中心の盛場だったことがうかがえます。

DSC01454
琴平栄町

 この頃の思い出を、当時の人は次のように語っています
「夕方四時半 くらいになると、映画館が大音量でスピーカーからレコードの歌を流すんですね。これが今では考 えられないほど大きな音で、これは宣伝効果が大きかったですよ。ひとたび歌を聞いてしまうと、 じゃ、映画でも行くかって気分になってしまうんです。」
戦時中に、すべての娯楽が国策のもとに奪われていた人々は、映画に夢中になります。5軒の映画館は、映画会社が別系列だったため上映作品が違っていて、映画館のはしごをする人も少なくなかったようです。映画館が、娯楽の殿堂あった時代です。
DJYSKさん の人気ツイート - 1 - whotwi グラフィカルTwitter分析

これに対し、新地の「特殊飲食店」(赤線遊郭)は、参詣客が商売相手でした。
そのことを地元の人は次のように話しています。
「子供の頃は新地の中を通っていっても全く相手にされんかったけれど、戦後はハタチ超えてたからね。映画館行くのに新地通ると近道だったんで、よく中を通っていったけれど、たまに新人のねえさんに"兄さん遊んでいかんの~?"って腕をつかまれたりしましたよ。 それを見た顔見知 りのベテランさんが "これっ、あの人は地元の人だよっ" と新人さんをたしなめているんです。声が聞こえてきちゃうんですよ。 あの頃は道に女の人がいっぱい並んでいたよ。」

 新地は、一般の民家や旅館に隣接していましたが、塀や柵に囲まれることはありませんでした。

7 琴平遊郭2
 琴平栄町
しかし、参詣客用に新町通り側に2カ所の入口があり、そのうちの一方にはアーチが建てられ、「新地入口」と書かれた傘のついた電気がぶら下がっていたといいます。

7 琴平遊郭 稲荷神社42
琴平栄町の稲荷神社
 遊女と稲荷神社は切っても切れない関係です。
お稲荷さんは性的な感染病に効能があると信じられてきました。栄町にも、映画館の希望館 (金陵座)のとなりに、稲荷神社があります。この稲荷は栄稲荷神社と呼ばれ、毎年8月に栄町の有志で夏祭りが行なわれ、当時は氷屋、果物屋、アイス屋など露店商が立ち並び、賑わっていたと云います。
DSC01453栄町 遊郭跡

 琴平随一の盛り場として名を馳せていた琴平新地のネオンを消したのは「売春防止法」でした。
この法律の第一条(目的)には
「売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだすものであることにかんがみ…(下略)」、とし第二条で売春を次のように定義します。
 (定義)「売春」とは、対償を受け、又は受ける約束で、不特定の相手方と性交することをいう」
この法律が昭和32年4月1日から施行され、刑事処分が翌年から課せられることになります。
7 琴平遊郭売春防止法

 香川県警本部防犯課調べによると、昭和三十二年九月時点で、琴平新地の業者は三十軒、接客婦八十四人。すでに六軒が廃業し、残り三分の一も休業状態とあります。
 接客婦の出身地別では、
四国以外が31、四国島内30人、香川県内23人、近郷1人。
年齢別は、40歳を最高に大正生まれ6人、最年少は19歳、残りすべてが昭和生まれで、20~25五歳がもっとも多かったようです。
最後に、こんぴら遊郭の最後を記した新聞記事を見てみましょう
   
 「赤い灯は消えた。こんぴら名所の一つ赤線地帯
            ③山陽新聞・香川版 昭和33年4月5日所収。

去月三十一日午後十二時の最後のどたん場まで店を張って六十有余年の遊郭史に終止符を打った琴平新地。売春防止法全面実施後の同地を訪ねて、業者の転廃業、従業婦のその後などをきいてみた。
 ○…転廃業期における琴平新地の二十八軒の業者のフトコロ具合は、三分の一は一年以上の食いのばし可能、三分の一は一年以内ならまず安泰、あとは足元に火のついたも同然の組だったらしい。そこで問題の転業実体をみると理髪店、お好み焼、オートバイ修理と販売、魚屋などはまじめな転向だが、「女の城」で蓄えた財産をもとに高利貸を開業したのが二軒ある。また棲主が老人だったり未亡人だったりして「簡易旅館への板替」というのもある。
「検番事務所」は三十一日から「売家」のハリ紙が出されている。

昭和の記録と記憶(1958年) - 暮らしのなかで

○従業婦の更生保護の面はどうなったか。
スズメの涙ほどの更生資金の貸付を受けて自立しようとした者は1人もいない。その原因は貸付の条件がきびしいことやわずか数万円で抱束を受けたくないという女性心理が動いているためといわれる。最後まで店を張った五十余人の女性は、それぞれ棲主から最高二万円の退職金と旅費をもらって帰郷したというが、退職金名義にしろ、万と名のつく金を支給したのはほんの数軒、大半は旅費支給程度だった。
 これについて十川元副組合長は「業者もそれぞれフトコロ具合が違う。組合で統一の話も出たが実現不可能だった。それに従業婦自身もすでに今日あることをよく知っており、中には銀行預金八十余万円という者もあり、例外は別として、平均数万円の貯金はしているので、衝突はなかった」といっている。
新潟日報昭和三十三年(売春防止法施行時)の新聞記事 | お散歩日記

○…明るい話題の一つを拾うと
なじみ客とのロマンスが実を結び結婚にゴールインしたのが五組ある。だがこの半面には帰郷後、出身地で安住できる可能性のある者は約二割程度、その八割近くは帰っても家が貧しかったり、複雑な家族関係だったりして身のふり方にも困る気の毒な女性たちだ。
 抱え主さえどこへ行ったかわからない者、さらに行くあてのない従業婦が各棲にまだ二、三人は残留している。これらは毎月、家族(親ないし子供)ヘー万円近い送金をつづけていたクラスで、A子さんは「いまさら別の働き口を捜しても食って、着て、家に送金できる仕事はない。やはり水商売の世界に身を沈めるより仕方がない」と告白していた。
 一方帰郷したものの周囲の人々の異端者扱いや白眼視にがまんできないと再び舞いもどった例もある。普通旅館の仲居さんや土産品店の売子に転向した者もすでに半数近くが辛抱できず姿を消したという。これらの実例を拾ってゆくと、やはり場末の酒場や青線地帯へ流れ込んで。単独売春やひモ付売春のケースに再び転落しているのが実情といわれ、結局、いままでの赤線売春から潜行売春に移り変るものが多いと関係筋はみている。』

7 琴平遊郭7

こうして昭和33(1958)年に琴平新地遊廓の60年間の歴史は閉じました。
その後の栄町は、ソープランドやバー ・スナックが散在する 「夜の街」という性格は今でも持ち続けています。赤線当時は参詣客が主でしたが、今は地元の常連客がほとんどになっているようです。 栄町は、参詣客を相手にした門前町特有の賑やかな 色街から、赤線廃止後徐々に、地元の人に利用されるこじんまりとした小盛り場へと変遷してきたようです。
    おつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
因藤泉石  こんぴら遊廓覚書 
『売春防止法施行』で消えた赤線地帯  こんぴら 50号

 前 島 裕 美(まえしま ・ひろみ)
お茶の水女子大学大学院人間文化研究科
 香川県仲多度郡琴平町新地遊廓周辺の復原


 金毘羅の遊女の変遷をたどってみると・・・

①町の一角に参詣客相手の酌取女が出没しはじめる元禄期
②酌取女及び茶屋(遊女宿)の存在を認めた文政期
③当局側の保護のもと繁栄のピークを迎えた天保期
④高級芸者の活躍する弘化~慶応期
以上四つの時期に区切ることができます。前回①~③を見ました
今日は④高級芸者の活躍する弘化~慶応期を見て行きます。
元禄以来、取り締まってきた酌取女に対して緩和策がだされます。慶応四年(明治元、1868)には、町方の茶汲女(酌取女)の徘徊について、
近村の神仏詣や遊楽は日帰り、
船場までの客見送り一夜泊り
大雨のときは一日限りの日延べが許されます。
ここからは遊女が参拝客を多度津や丸亀の港まで見送って、そこで何泊も逗留している実態があったことがうかがえます。その背景には、参詣客からのさまざまな要望や、遊客獲得のためにそうせざるをえなかった事情があったのでしょう。こうして、当局側の妥協策が積み重ねられます。
御開帳に芸子百五十人のパレード
 万延元年(1860)に行われた金毘羅大権現御開帳の「御開帳記録」には、遊女屋花屋房蔵が次のような記録を残しています。 
内町はねりものなく、大キなる鳥居と玉垣を拵へ、山桜の拵ものをそこくへ結付、其内へ町内の芸子舞子不残、三味線飯太飯笛小きうなどを携へ囃子立て、町中を歩行 町内の若い衆は、こんじやう二桜の花盛りの揃え着もの着る、
是もぽっちは札之前二同じ、此時芸子百五十人斗り居候
茶屋の並ぶ内町衆は、町内の芸子が残らず参加し、三味線や太鼓・笛などで囃し立てパレードしたとあります。ここには酌取女・飯盛女ではなく、新しく「芸子」「舞子」の登場がします。その数芸子百五十人という多くの人数が記されているのです。

この「芸子」を、酌取女とどう区別すれば良いのでしょうか?

「芸者」は、広く酒席や宴席で遊芸を売る女性とされています。事実、幕末江戸には芸で身を立て自分で稼いで生きる自立自存の「町芸者」(芸子)が多くいました。金毘羅の「芸子」の中にも、昨日紹介した廓番付などから、江戸のように高い芸を身につけた女性と酌取女同格の者、両種の「芸子」が共存していたのではないでしょうか。
幕末の金毘羅は名妓が多く、それが文人の手によって描かれています。
 文久二年(1864)、西讃観音寺の入江、上杉、桃の舎ぬしの三人が、金比羅参詣ののち芳橘楼に宿り遊んだ「象の山ふ心」という作品があります。ここには歌舞音曲に秀でた小楽、小さへ、雛松、小かやなどの芸妓が登場します。また、榎井村の詩人で勤王の志としても知られる日柳燕石や高杉晋作などと共に酒席に侍り、尊王攘夷に一役かった勤王芸者と呼ばれる女性の存在も確認できます。

 明治二年(一八六九)十一月六日、もと幕府の騎兵奉行、外国奉行、会計副総裁を歴任し、のち朝野新聞社長となった成島柳北は「航薇日記」の中で、金毘羅の芸子を次のように記します。
「此地の女校書は東京の人に多く接したれば衣服も粗ならず。歌もやゝ東京に近き所あり」
 「遊廓」については「悪所」としての文化的な立場から論じる研究が進んできました。この説は「遊所は身分制社会の「辺界」に成立した解放区「悪所」であったから、日常の秩序の論理や価値観にとらわれない精神の発露が可能であった」としています。
 悪所=遊所を文化創造の発信源説です。

金比羅門前町も、このような芸者が多数いて座敷遊びの土壌があったことが、金比羅舟船などの唄が生み出された背景なのでしょう。
   金比羅舟船は元々は金刀比羅宮の参詣客相手に座敷で歌われた騒ぎ唄の一種でした。
騒ぎ唄とは江戸時代に、遊里で三味線や太鼓ではやしたてて、うたったにぎやかな歌のことです。転じて、広く宴席でうたう歌になります。琴平のお座敷芸子衆の金毘羅船舟の小気味よいテンポ、情景豊かに詠まれた歌詞、 お座敷遊びとしての面白さが、この唄の魅力です。金比羅参拝を終えて、精進落としで茶屋で芸子と遊んだ富豪達が地元に帰り、大坂や京都のお座敷で演じて見せて、それが全国に繋がったのではないでしょうか?

琴平の稲荷神社 
遊郭といえば、稲荷神社。性病(梅毒)の予防に稲荷が効果があると信じられていました。

参考文献 林 恵 近世金毘羅の遊女
       

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金比羅の街に、遊女達が現れたのはいつ頃でしょう?

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近世の金比羅の街は、金毘羅大権現という信仰上の聖地と門前町という歓楽街とがワンセットの宗教都市として繁栄するようになります。参拝が終わった後、人々は精進落としに茶屋に上がり、浮き世の憂さを落としたのです。それにつれて遊郭や遊女の記録も現れるようになります。
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金比羅の街にいつ頃、遊女達が現れたのかをまず見てみましょう
 遊女に関する記録が初めて見えるのは元禄年間です。
元禄二年(1689)四月七日の法度請書に
遊女之宿堅停止 若相背かは可為重罪事」
禁止令が出されています。禁止令が出されると言うことは、遊女が存在したと言うことです。元禄期になって、遊女取締りが見えはじめるのは、金毘羅信仰の盛り上がりで門前町が発展してきたことが背景にあります。そして、遊女の存在が門前町を監督する金光院当局の取締対象となり始めたのでしょう。

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金比羅奉納絵馬 大願成就

  享保期、多聞院日記の書写者であった山下盛好は、覚書に
「三月・六月・十月の会式には参詣客殊に多く、市中賑わいとして遊女が入込み、それが済むと追払ったが、丸亀街道に当たる苗田村には風呂屋といって置屋もあり、遊女は忍び忍び横町を駕でやって来た
というような記録を残しています。町方に出没する遊女に当局側も手を焼いていたようです。
 享保13年(1728)6月6日、金光院当局は町年寄を呼び上げ、再度遊女取締強化を命じています。しかし、同15年3月6日の条には
「御当地近在遊女 野郎常に徘徊仕り」
「其外町方茶屋共留女これ有り、参詣者を引留め候」
とありあす。遊女を追放することはできなかったようです。
 
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寛政元年10月9日の「日記」には
「町方遊女杯厳申付、折々町廻り相廻候」
とあるように、役人を巡視させ監視させますが、同年11月25日の条には
中村屋宇七、岡野屋新吉、幟屋たく、右三人之内江 遊女隠置相知レ戸申付候
と、宿屋の中に遊女を隠し置くところがでてきます。
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享和2年(1802)春、金毘羅参詣を記した旅日記『筑紫紀行』の中で、旅人菱谷平七が金毘羅の町の様子について
「此所には遊女、芸子なんと大坂より来りゐるを、宿屋、茶屋によびよせて、旅人も所のものもあそぶなり」
と記しているように、金毘羅はこの頃から、金毘羅信仰の高まりとともに一大遊興地の側面を見せはじめています。以上から、金光院当局は、何度も禁止令を出し遊女取締を打ち出しますが、あまり効果があがらなかったようです。 

  「遊女」から「酌取女」「飯盛女」とへの呼称変更

92見立女三宮図 勝川春章

 見立女三宮図 勝川春章 金刀比羅宮奉納絵馬
こうして文政期になると、遊女を一切認めない方針で治安維持に努めてきた当局側か、もはや「金毘羅には遊女がいます」という黙認の形をとらざるをえない状況になってきます。
 まず、呼称の変更です。それまでの「遊女」という表現から、「酌取女」「飯盛女」といった呼称に変えます。「遊女」という露骨な表現を避け、「酌取女」「飯盛女」といった一見売春とはかけ離れた下働に従事する女性を想像させるこの呼称をあえて使用します。

文政6年(1823)2月2日夜、遊女の殺害事件が起きます。

場所は内町糸屋金蔵方で、同町金屋庄太郎召遣の酌取女ゑんが高松藩の一ノ宮村百姓与四郎弟鉄蔵(当時無宿)に殺されたのです。犯人は六日後に自首。遺体は、ゑんの故郷京都より実父と親類が貰い受け、2月20日には一件落着となりました。
 しかし、このこの事件は大きなスキャンダルとなり、金光院当局側に相当なダメージを与えたようです。というのもこの後、金光院側から町方へ酌取女のことで厳しい達が出されるのです。

それが「文政七申三月酌取女雇人茶屋同宿一同へ申渡 並請書且同年十月追願請書通」として残っています。そこには、今までの触達にないいくつかの条項が盛り込まれています。 
「此度願出之内(中略)酌取女雇入候 茶屋井酌取女差置候宿 此度連印之人名。相限り申度段願之通御聞届有之候」「酌取女雇入候宿屋。向後茶屋と呼、酌取女不入雇宿屋 旅篭屋と名付候様申渡候」
とあり、酌取女を置く宿を「茶屋」として、当局側か遊女宿の存在を認めたのですこうして酌取女を置く「茶屋」が急速に増えます。

当時、金比羅全町で茶屋は95軒ありました。
①金山寺町には、全体の約三九%の三七軒、
②内町は約三五%の三三軒、
金山寺町と内町両町だけで全体の 約七四%の茶屋がありました。仮に一軒に三人の酌取女がいたとすれば、両町においては二百人を超える酌取女が働いていたということになります。文政年間には、他の職業から遊女宿に転業するものも増え、金山寺町と内町は遊女宿が軒を並べて繁盛するのです。
  文政7年の「申渡」は、それまでの「遊女禁止策」に代わって、制限を加えながらも当局側か遊女宿の存在を認めたもので、金毘羅の遊女史におけるターニングポイントとなりました。
 
天保年間の全国遊郭番付には、金毘羅門前があります。

「諸国遊所見立角力並に直段附」によると讃岐金毘羅では、上妓・下妓の二種類のランク付けがあったようで、上妓は二十五匁、下妓は四匁の値段が記されています。 これを米に換算すると、だいたい上は四斗七合弱、下は六升七合弱に当たるようです。相当なランク差です。
それでは「上妓」とは、どんな存在だったのでしょうか?
 天保3年(1832)9月、当時金毘羅の名奴ともてはやされた小占という遊女がいました。彼女が、高松藩儒久家暢斎の宴席へ招かれるという「事件」が起きます。。これは大きな話題となりました。
 この頃すでに、売春を必ずしも商売とせず、芸でもって身をたてる芸妓がいたようです。先の廓番付にみられる値段の格差など考えれば、遊女の中でも参詣客の層にあわせた細分化されたランク付けがあったのでしょう。

麦湯のå\³ã€‚麦茶を提供する「麦湯店」の看板娘(『十二ケ月の内 六月門涼』渓斎英泉 画)の拡大画像

天保期の金毘羅門前町の発展を促したものに、金山寺町の芝居定小屋建設があります。この定小屋は、当時市立ての際に行われていた富くじの開札場も兼ね備えていたともいわれます。茶屋・富くじ・芝居といった三大遊所の確立は、ますます金毘羅の賑わいに拍車をかけました。
 天保4年(1833)2月、高松藩の取締役人は酌取女に対し、芝居小屋での舞の稽古を許可しています。さらに、
「平日共徘徊修芳・粧ひ候様申附候」
とあるように、酌取女の服装に対しても寛大な態度を示しています。

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花下遊女図 江戸新吉原講中よりの金比羅さんへの寄進絵馬

遊女をめぐる事件
 いくらかの自由を与えられた酌取女の行動は、前にも増して周囲の若者へ刺激となります。1842年の天領三ヶ所を中心とした騒動は、倉敷代官所まであやうく巻き込みそうになるほどの大きな問題に発展します。事の起こりは、周辺天領から
「若者共が金毘羅に出向いて遊女に迷い、身持ちをくずす者が多いので、倉敷代官所へ訴え出る」
という動きでした。慌てた金光院側が榎井村の庄屋長谷川喜平次のもとへ相談に行きます。結局、長谷川の機転のよさで、もし御料の者が訴え出ても取り上げないよう倉敷代官所へ前もって願い出、代官所の協力も得ることになりました。 その時の長谷川の金毘羅町方手代にむかって
「繁栄すると自分たち御料も自然と賑わうのだから、なんとか訴える連中をなだめましょう」
と言っています。当時の近隣村々の上層部の本音がかいまみえます。
 この騒動の後、御料所と金毘羅双方で、不法不実がましいことをしない、仕掛けないという請書連判を交換する形で一応騒動は決着をみています。

93桜花下遊女図 落合芳幾
         桜花下遊女図 落合芳幾 (金刀比羅宮奉納絵馬)
 行動の自由を少しずつ許された金毘羅の遊女が引き起こす問題は、周囲に様々な波紋を広げました。しかし、それに対する当局側の姿勢は、「門前町繁栄のための保護」という形に近っかたようです。上層部の保護のもと、天保期、金毘羅の遊女は門前町とともに繁栄のピークを迎えます。
この続きは次回へ
参考文献 林 恵 近世金毘羅の遊女
 
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