金光院の初代院主宥盛は、高野山で学んだ真言僧侶であると同時に、修験者で天狗信仰の持ち主でした。彼は象頭山にあったいろいろな宗教施設との権力闘争に勝ち抜いて支配権を得ていきます。明治以前の金毘羅大権現は別当寺の金光院が寺領の小領主となり「お山の大将」として支配するようになります。ある意味では、金毘羅大権現は「流行(はやり)神」として急成長していった「成り上がりもの」でした。そのため周辺寺社から羨望や反発を受けることもあったようです。その例が善通寺誕生院から出された「金光院は、我が寺の末寺である」という次のような提訴であることは以前にお話ししました。
以後、金光院は周辺寺院との反発や軋轢を生まないような対応を心がけたようです。それでは金光院は周辺の真言寺院と、どのような関係を保っていたのでしょうか。テキストは「町史ことひら 3(民俗)273P 近郷の諸寺院からの願い出」です。
初代高松藩主松平頼重の保護を受けた金毘羅大権現は、18世紀初頭の元禄年間になると讃岐の諸寺院を圧倒する力を持つようになります。その結果、近郷諸寺院からも色々な依頼や願い出を受けるようになります。その依頼や対応について、金光院日帳の中の記事を抜き出したものを見ていくことにします。
享保十一年(1726)
十一年二月二十日 予州宅善寺から、三月二十二日には多度郡明王院(道隆寺)から灌頂道具を借用依頼
十七年三月十九日 三野郡威徳院から灌頂道具を借用依頼、四月四日返納
十九年二月十七日 多度郡明王院と阿野郡摩尼珠院から、三月十一日には伊予誓源寺と一ノ宮大宝院から法衣借用を申し出る。
この年は、弘法大師九百年遠忌の年であったので法衣の借用申し入れが多かったようです。多度津の道隆寺は、潅頂用具や法衣などを金光院から借用しています。その他の借用依頼のあった寺名を挙げておきます。
享保二十(1730)年十月二十二日 阿州雲辺寺から曼荼羅供の道具借用寛保三(1743)年十月十七日 高松無量寿院へ法衣貸与。宝暦二年二月二十六日 中津村正花寺から天満宮年忌につき法衣借用申し出る。宝暦十三年六月七日 白峯寺より法衣借用依頼。文化元年(1804)九月二十五日 善通寺五重塔落慶供養につき丸亀藩役人より法衣借用申し来る。文化十年二月八日 崇徳天皇六百五十年忌につき、摩尼珠院より霊宝拝借したき旨願い出る。
ここからは、雲辺寺・無量寿院・白峰寺などからも特別な行事に着用する法衣を借りに来ていることが分かります。財政的に豊かだった金光院は、高価な法衣もそろえていたようです。また、本末論争を展開した善通寺誕生院も19世紀初めには、法衣借用を丸亀藩を通じて申し出ています。
次に立札の依頼を見ていくことにします。
次に立札の依頼を見ていくことにします。
天明四年(1784)1月多度郡善通寺から、弘法大師九百五十年遠忌の建札の件願い出る。坂口に建てさせる。文化十一(1814)年十一月十七日 丸亀円光寺が法華経講釈致したく、小坂下に建札したき旨願い出る。文化十四(1817)年三月九日 多度郡生野村浄証寺、開帳につき建札願。文久二(1862)年一月十七日 予州石槌山開帳に付き、当建札のこと願い出る。文久八年七月一日 隣村榎井村玄龍寺社領内に建札したき旨願い出る。那珂郡西念寺、説法の建札社領内に建てたい旨願い出る。
善通寺や石鎚山から賑わう金毘羅門前町に開帳などの立札を立てさせてくれとの依頼もあります。
また、他寺の火災再建などについても、次のように援助の手を差し伸べています
また、他寺の火災再建などについても、次のように援助の手を差し伸べています
宝暦元年(1751)6月2日 天領池領の龍松寺から材木をもらいたいと願い出た。それは断り、代りに本尊へ三百疋供える。安永五年(1776)10月27日 高野山浄菩提院焼失につき寄進を願い出る。文化九(1812)年十月二十日 那珂郡恵光寺(買田)全焼、助情として文銭十貫文遣わす。天保十二年(1841)十一月五日 三野郡財田村伊舎那院楼上棟につき鏡餅を献上する。使者を以て金三百疋・昆布三連遺わす。同月二十三日 京都愛宕山福寿院社頭再建に付き寄附を願い出る。慶応三年(1867)六月二十日 榎井村興泉寺へ本堂再建資金二百両遣わす。
こうして見ると、周辺の天領や買田などの寺に対しては、多額の援助を行っています。疑問なのは、榎井の興泉寺は真宗興正派に転宗していますが、宗派を超えて「本堂再建資金二百両」を提供していることです。金光院と興泉寺の特別な関係がうかがえます。また、京都愛宕山福寿院の社頭再建を援助しています。象頭山に続く愛宕山は、愛宕信仰の拠点として修験者たちが活発な動きを見せていた所であることは以前にお話ししました。本家の京都の愛宕山との関係があったことが、ここからはうかがえます。
また、面白い所では次のような記録も残っています。
また、面白い所では次のような記録も残っています。
宝暦六(1756)年四月九日 阿州極楽寺隠居、四国巡拝の途中路の借用を頼み来る。三十目貸与。
これは四国巡礼に出た阿波の極楽寺の隠居が、金毘羅に立ち寄った際に路銀借用を願い出てきたので三十目貸したというものです。この時期には、四国の真言僧侶が四国巡礼に出ていたことが分かります。また、当時の四国巡礼では金毘羅大権現は札所ではありませんが、参拝するのが当然であったことは以前にお話ししました。
このように金光院が社領を朱印地として認められ、勅願所でもあり、徳川家祈願所でもあるという格式を持つようになると、周辺寺院から頼りとされるようになっていたことがうかがえます。また宗派の寺院でも、住職交替の挨拶に登山し、以後は出入りを願うというような例が多かったようです。それに対して金光院は、たいていの願い事は聞き届けていたようです。そのため善通寺よりも金比羅の金光院の方が頼りになると云われていたようです。
このように金光院が社領を朱印地として認められ、勅願所でもあり、徳川家祈願所でもあるという格式を持つようになると、周辺寺院から頼りとされるようになっていたことがうかがえます。また宗派の寺院でも、住職交替の挨拶に登山し、以後は出入りを願うというような例が多かったようです。それに対して金光院は、たいていの願い事は聞き届けていたようです。そのため善通寺よりも金比羅の金光院の方が頼りになると云われていたようです。
歴代金光院院主一覧
次に9代目金光院院主の宥弁の一周忌の法事について、どんな寺院がやってきているのかを金光院日帳で見ておきましょう。
宥弁は宝暦10(1760)年十二月五日に江戸で亡くなりました。一周忌の法要には、次のような寺に使僧が案内しています。
宥弁は宝暦10(1760)年十二月五日に江戸で亡くなりました。一周忌の法要には、次のような寺に使僧が案内しています。
丸亀藩領内下勝間威徳院・仁尾覚成院 仁尾瑞雲院 本山持宝院・財田伊舎邪院・同所宮坊・上ノ村萬福寺・上高ノ村延命院・西ノ村宗運寺・中ノ村薬師坊・姫ノ浜満願寺・大野阿弥陀院・下高野延寿寺・上高野宝積院・大野薬王寺・加茂明王院・笠岡長林寺・
高松藩領円明院・東福寺・愛染寺・行徳院・大宝院・栗熊能満寺・栗熊円福寺・羽床菩提院・滝宮龍灯院・四条村の浄願院・弘安寺・長尾村の佐岡寺・川津村の宝珠院
讃岐以外伊予川之江の宅善寺・阿波の舞寺・林下寺・極楽寺
案内した寺院の分布を見ると、高松領よりも丸亀領の方が多いようです。特に三豊とのつながりがうかがえます。以上が金光院と密接な関係にあった寺院と云えるようです。気になるのは、近隣の天領のこう
十一月二日に、法要に向けた役割分担が院主から次のように言い渡され準備が進められます。
十一月二日に、法要に向けた役割分担が院主から次のように言い渡され準備が進められます。
膳方奉行役人二人・膳方働人十四人・富士の間給仕人 内町綿屋清兵衛・同山屋富弥新町つねや惣右衛門・阿玉屋半蔵・同伊せや伊助・片原町國屋条松同石田屋孫七(四日の朝六時、羽織袴で登山する)
町料理札之前丹治郎・金山寺町吉次・横町金二郎・西山長七
夜具奉行役人二人 風呂奉行は玄関を兼ねて役人一人・台所奉行役人二人・長屋奉行役人一人・御次役人三人・玄関役人九人・生菓子方役人一人と手明日雇二人。町方からの夜具二十通・木綿の夜具十通借り上げる。寺には絹の夜具十通は備え付けがある。
十一月四日 二日法要なので前日から案内があった住職がやってきます。
阿波林下寺以下三十一か寺で、うち羽間佐岡寺は隠居が来られ、川之江宅善寺・高松蓮花寺・栗熊円満寺は代僧が見えた。諸寺院の弟子衆は二十六人、下部は六十人ばかりであった。右の寺院方へまず落付の煮染と茶を差し出した。諸寺院がそろったところで、お上は、上之間でお逢いになった。終わって午後四時、二汁五菜の食事を出す。膳部は百人前用意しておく。濃茶は五人詰にして出す。茶葉は羊羹・鰻頭・川葺である。食事の間に、お上は顔を出してあいさつされ、脇坊・役人もあいさつに出て来る。院内の出家分、先住実家の当主等へも二汁五菜の料理・茶菓子を出す。
金光院日帳は、後のための記録資料として記録係が書いていたので、出されたお茶やお菓子などが具体的に記録されています。これが後世の担当者にとっては、役立つ史料となったのでしょう。暮れ時から始まる宵(前夜)法要を見ておきましょう。法要の場所は、本堂の観音堂ではありません。表書院で行われています。
食事が終わり、暮時分から法事が始まる。光明三昧の導師は上高村延命院、光明真言頭は下勝間威徳院、前讃は高松東福寺、伽陀は阿州林下寺が勤める。七賢の間から虎の間にかけて仏前の荘厳として檀・三方・折敷・玉幡二流・小幡四流・花鬘三ツ大幡六流を飾る。お供え物は御本尊へ饅頭二盛(盛五十積)干菓子二盛・柿一盛(以上塗三宝)・羊羹一盛・金子台、御神前へは饅頭一盛(五十積)・干菓子一盛・団子一盛・祐一盛(以上白木脚打)羊羹一盛・金子台、先寺様総牌前へは干菓子一盛・饅頭一盛(五十積、共に白木脚打)を供えた。外に諸方から到来した品々を見合わせに少しずつ供える。お上(金光院院主)は上段の間の紙を立て切った所でお勤をされたが、法事の席へは出ず、終わってから僧に「太儀に存じます」とあいさつされた。
今夜は客僧衆また院内の出家迄、夜食に饂飩・吸物・笠の飯を二菜で出す。ただし酒は出さず、客僧のうち特に望まれる人には見合わせに出すことにする。院内の侍以下にも夜食を出す。
加羅風呂屋に据風呂を二つ建てて客僧衆が追々に入られる。客僧衆のお供は長屋で朝夕とも一汁二菜の食事を出す。ここでも長前に据え風呂を二つ建てて入らせる。今夜は夜廻りを出し、拍子木を打って院内を回らせる。台所の使い水が不足なので町方から汲み上げさせる。今晩から明日にかけて非人たちに施行をする。
導師の名前、仏前の荘厳(飾り付け)、お供え物、夜食などが記されています。夜食には、饂飩が出されています。讃岐における饂飩の普及は、法要などで出されたことに始まるとされますが、それを裏付ける史料です。また、臨時の風呂も用意されています。非人立ちへの施しがされています。金毘羅門前町にも非人たちがいたことが分かります。
翌日の法要です。
翌日の法要です。
焼香は役人・侍分から始め、焼香台を富士の間の敷居の内一畳目くらいに置き直して手代・料理人・諸方の屋敷守と続く。そのまた、台を持仏堂入口に置き直して町方重立の者たちが焼香する。終わって、持仏堂正面の虎の間敷居際へ焼香台を出し、客僧衆焼香がある。終わって昨日の通り二汁五菜のお膳を出す。お膳の途中で、お上また脇坊役人中があいさつに出られることも昨日と同じである。茶菓子は餅と煮染を銘々盆で出す。薄茶も出す。お膳の後、お布施を拵えて払方が脇坊中へ渡し、脇坊中の取り計らいで列座の場へ盆に乗せて給仕の者に取らせる。本寺衆・一寺衆は金二百疋宛、末寺衆は金百疋宛である。諸寺院の弟子たちは銀二両ずつ、当山の脇坊中は金百疋、同宿は銀二両ずつであっ客衆がだんだん帰られるので、お上も表へ出て来られお暇いをされる。
お墓所へ五寸角一丈二尺余の卒都婆を建て香花を供え、墓前に縁取りを一枚ほど敷いておく。役人はじめ侍中へは餅と煮染を銘々に盛って、通りの間・六畳敷きなどで見合わせに出す。中通り以下の者にも食べさせる。法事のお供え料として十疋ずつ役人中から、五十銅ずつ差し上げる。お次表諸役手の侍中からも豆腐・菓子などを差し上げる。(以下略)
焼香の順番、お膳内容が記され、お布施については金額や、その渡し方まで記されています。その後に墓所にも出向いて卒塔婆を建てています。
こうしてみると金毘羅大権現は金光院という別当寺が支配し、近隣の真言寺院のネットーワークの核として機能していたことがうかがえます。しかし、注意しておきたいのは最初に見た本末争論を展開した善通寺の誕生院は呼ばれていないことです。誕生院と金光院は、その後も反目状態にあったのかもしれません。 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
町史ことひら 3(民俗)273P 近郷の諸寺院からの願い出」こうしてみると金毘羅大権現は金光院という別当寺が支配し、近隣の真言寺院のネットーワークの核として機能していたことがうかがえます。しかし、注意しておきたいのは最初に見た本末争論を展開した善通寺の誕生院は呼ばれていないことです。誕生院と金光院は、その後も反目状態にあったのかもしれません。 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
金毘羅庶民信仰資料集 年表編
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