京都市東山区の建仁寺の近くにある安井金毘羅宮は、今は縁切り寺として女性の人気を集めているようです。
しかし、30年ほど前までは、縁結びと商売繁昌祈願の「藻刈舟(儲かり舟)」の絵馬に人気がありました。流行神(商品)を生み出し続けることが、寺社繁栄の秘訣であるのは、昔も今も変わりないようです。
しかし、30年ほど前までは、縁結びと商売繁昌祈願の「藻刈舟(儲かり舟)」の絵馬に人気がありました。流行神(商品)を生み出し続けることが、寺社繁栄の秘訣であるのは、昔も今も変わりないようです。
安井金毘羅宮はかつては「商売繁昌 + 禁酒 + 縁結び」の神とされていました。祇園という色街にある神社ですから「商売繁昌と禁酒と良縁」を売り物とすることは土地柄に合ったうまい営業スタイルです。それでは現在の「縁切り神社」は、どんな由来なのでしょうか。そこで登場するのが崇徳上皇です。崇徳上皇は、全ての縁を絶って京都帰還を願ったということから、悪縁を絶つ神社と結びつけられているようです。これは断酒の場合と同じです。酒を断つという願いから悪縁を絶へと少しスライドしただけかも知れません。。
今回は、安井金毘羅と崇徳上皇と讃岐金毘羅大権現の関係を見ていきたいとおもいます。テキストは 「羽床正明 崇徳上皇御廟と安井金毘羅宮 ことひら53 H10年」です。
安井金毘羅宮の近くには「都をどり」の祇園歌舞練場があります。その片隅に崇徳上皇御廟があります。これは明治元年に坂出の白峰から移されたものとは別物です。それ以前からこの御廟はありました。
安井金毘羅宮と崇徳上皇のつながりを見ておきます。
崇徳上皇は保元の乱という政争に巻き込まれ、讃岐に流され不遇の内に亡くなりますが、その怨念を晴らすために生きながら天狗になったされるようになります。この天狗信仰と安井金毘羅宮は関係があるようです。
崇徳上皇は保元の乱という政争に巻き込まれ、讃岐に流され不遇の内に亡くなりますが、その怨念を晴らすために生きながら天狗になったされるようになります。この天狗信仰と安井金毘羅宮は関係があるようです。
保元の乱に敗れ、崇徳上皇は讃岐に流されます。上皇は6年間の流人生活の後、長寛二年(1164)8月、46歳で崩御し、その亡骸は白峰寺のほとりで荼毘に付され、そこに陵が営まれて白峰御陵と呼ばれるようになります。これについては以前にお話ししましたので省略します。
『保元物語』には、次のように記されています。
讃岐に流された崇徳上皇は「望郷の鬼」となって、髪も整えず、爪も切らず、柿色の衣と頭巾に身をつつみ、指から血を流して五部大乗経を書写した。その納経が朝廷から拒否されたことを知ると、経を机の上に積みおいて、舌の先を食い破ってその血で、「吾、この五部の大乗経を三悪道に投籠て、この大善根の力を以て、日本国を滅す大魔縁とならむ。天衆地類必ず合力給へ」という誓状を書いて、海底に投げ入れた「此君怨念に依りて、生きながら天狗の姿にならせ給ひけるが」
ここには崇徳上皇が死後、天狗になったとする説が記されています。
これを受けて作られたのが謡曲「松山天狗」です。
松山は草深い里でした。西行は,山風に誘われながらも御陵への道を踏み分けて行きますが,道はけわしく,生い繁げる荊は旅人の足を拒みます。そこへ一人の老翁(実は崇徳上皇の霊)が現れ「貴僧は何方より来られたか」と訊ねるのです。西行は「拙僧は都の嵯峨の奥に庵をむすぶ西行と申す者,新院がこの讃岐に流され,程なく亡くなられたと承り,おん跡を弔い申さんと思い,これまで参上した次第。 何とぞ,松山のご廟所をお教え願いたい」と案内を乞います。やがて二人は「踏みも見えぬ山道の岩根を伝い,苔の下道」に足をとられながら,ようやくご陵前にたどりつきます。しかし、院崩御後わずか数年にもかかわらず,陵墓はひどく荒廃し、ご陵前には詣でる人もなければ,散華焼香の跡さえ見えません。西行は涙ながらに、院に捧げた次のような鎮魂歌を送ります。よしや君むかしの玉の床とても叡慮をなぐさめる相模坊かからん後は何にかはせん
老翁は「院ご存命中は都のことを思い出されてはお恨みのことが多く,伺候する者もなく,ただ白峯の相模坊に従う天狗どもがお仕えするほかは参内する者もいない」と言い,いつしか木影にその姿を消してゆきます。ややあって何処からともなく「いかに西行 これまで遙々下る心ざしこそ返す返すも嬉しけれ 又只今の詠歌の言葉 肝に銘じて面白さに いでいで姿を現わさん・・・・・」との院の声。御廟しきりに鳴動して院が現れます。院は西行との再会を喜び,「花の顔ばせたおやかに」衣の袂をひるがえし夜遊の舞楽を舞う。こうして楽しく遊びのひと時を過ごされるが,ふと物憂い昔のことどもを思い出してか,次第に逆鱗の姿へと変わってゆきます。その姿は,あたりを払って恐ろしいまでの容相である。模坊大権現(坂出市大屋冨町)の相模坊(さがんぼう)天狗像
「そもそもこの白峯に住んで年を経る相模坊とはわが事なり さても新院は思わずもこの松山に崩御せらる 常々参内申しつつ御心を慰め申さんと 小天狗を引き連れてこの松山に随ひ奉り,逆臣の輩を悉くとりひしぎ蹴殺し仇敵を討ち平げ叡慮(天子のお気持ち)を慰め奉らん」と,ひたすら院をお慰め申しあげるのである。院はこの相模坊の忠節の言葉にいたく喜ばれ,ご機嫌もうるわしく次第にそのお姿を消してゆく。そして,天狗も頭を地につけて院を拝し,やがて小天狗を引き連れて,白峯の峰々へと姿を消してゆく。
以上が謡曲「松山天狗」のあらましです。
実際に西行は白峰を訪れ、崇徳上皇の霊をなぐさめ、その後は高野の聖らしく善通寺の我拝師山に庵を構えて、3年近くも修行をおこなっています。時は、鎌倉初期になります。ここからは崇徳上皇の下に相模坊という天狗を頭に数多くの天狗達がいたことになっています。天狗=修験者(山伏)です。確かに中世の白峰には数多くの坊が立ち並び修験者の聖地であったことが史料からもうかがえます。
謡曲「松山天狗」の果たした役割は大きく、以後は崇徳上皇=天狗説 相模坊=崇徳上皇に仕える天狗という説が中世には広がりました。
安井金毘羅社と崇徳上皇御廟の関係を『讃岐国名勝図会』は、次のように記します。
京都安井崇徳天皇の御社へ参詣群集し、皆々金毘羅神と称へ祭りしによりて、天皇の御社を他の地へ移し、旧社へ更へて金毘羅神を勧請なしけるとなん。
意訳変換しておくと
京都安井崇徳天皇御社へ参詣する人たちが崇徳上皇陵を金毘羅神と呼ぶようになったので、天皇の御社を他の場所へ移して、そのの跡に安井金毘羅神社を勧請建立したという
ここからは安井金毘羅神社の現在地には、かつては崇徳上皇陵があったことが分かります。
秋里籠島の『都名所図絵』には、安井金毘羅社の祭神について次のように記されています。
奥の社は崇徳天皇、北の方金毘羅権現、南の方源三位頼政、世人おしなべて安井の金毘羅と称し、都下の詣人常に絶る事なし、崇徳帝金毘羅同一体にして、和光の塵を同じうし、擁護の明眸をたれ給ひ云云。
奥社に崇徳天皇、北に金毘羅権現、南に源三位頼政が祀られているが、京都の人たちはこれを併せて「安井の金毘羅」と呼ぶ。参拝する人々の絶えることはなく、崇徳帝と金毘羅神は同一体である。
と記され、金毘羅権現が北の方の神として新たにつくられたので、崇徳天皇の社は移転して奥の社と呼ばれるようになったことが二の書からは分かります。どちらにしても「崇徳帝=金毘羅」と人たちは思っていたようです。
「崇徳帝=金毘羅」説を決定的にしたのが、滝沢馬琴の「金毘羅大権現利生略記』です。
世俗相伝へて金毘羅は崇徳院の神霊を祭り奉るといふもそのよしなきにあらず。
歌川国芳の浮世絵に「讃岐院眷属をして為朝を救う図」(1850年)があります。最初見たときには「神櫛王の悪魚退治」と思ってしまいました。しかし、これは滝沢馬琴の『椿説弓張月(ちんせつ ゆみはりづき)』(1806~10年刊行)の一場面を3枚続きの錦絵にしたものです。この絵の中には次の3つのシーンが同時に描き込まれています。
①為朝の妻、白縫姫(しらぬいひめ)が入水する場面(右下)②船上の為朝が切腹するところを讃岐院の霊に遣わされた烏天狗たちが救う場面(左下)、③為朝の嫡男昇天丸(すてまる)が巨大な鰐鮫(わにざめ)に救われる場面
ここに登場する巨大な|鰐鮫は「悪魚」ではなく主人公の息子を救う救世主として描かれています。以前にお話しした「金毘羅神=神魚」説を裏付ける絵柄です。
神櫛王の悪魚退治伝説
また、ここでも崇徳上皇は天狗達の親分として登場します。
『椿説弓張月』が刊行された頃は、「崇徳上皇=金毘羅大権現}であって、崇徳上皇は天狗の親分で、多くの天狗を従えているという俗信が人々に信じられるようになっていたことが、この絵の背景にはあることを押さえておきます。その上で京都では、崇徳帝御社があった所に、安井金昆羅宮がつくられたということになります。
研究者がもうひとつ、この絵の中で指摘するのは、この絵が「海難と救助」というテーマをもっていることです。
金毘羅宮の絵馬の中には、荒れ狂う海に天狗が出現して海難から救う様子を描いたものがいくつもあります。もともとの金毘羅は天狗信仰で海とは関係のなかったことは、近年の研究が明らかにしてきたことです
「海の神様 こんぴら」というイメージが定着していくのは19世紀になってからのことのようです。その中でこの絵は、金比羅と海の関わりを描いています。絵馬として奉納される海難救助図は、このあたりに起源がありそうだと研究者は考えているようです。
海に落ちた子どもを救う天狗達(金刀比羅宮絵馬)
「海の神様 こんぴら」というイメージが定着していくのは19世紀になってからのことのようです。その中でこの絵は、金比羅と海の関わりを描いています。絵馬として奉納される海難救助図は、このあたりに起源がありそうだと研究者は考えているようです。
今度は讃岐の金毘羅さんと天狗との関係を見ていきましょう
江戸時代中期(1715年)に浪華の吉林堂から出された百科辞書の『和漢三才図絵』(巻七九)には、
相伝ふ、当山(金毘羅大権現)の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。
と記されます。
また、江戸中期の国学者、天野信景著の『塩尻』には、
また、江戸中期の国学者、天野信景著の『塩尻』には、
讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや。
ここからは江戸中期には金毘羅宮の祭神は、僧(山伏)の姿をしていて団扇を持った天狗で、十二神将のクビラ神とはまったくちがう姿であったことが報告されています。『塩尻』に出てくる修験者の姿の木像とは、実は初代金光院主だった宥盛の姿です。観音堂の裏には威徳殿という建物があって、その中には、次のような名の入った木像がありました。
入天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月
松尾寺に伝わる金毘羅大権現 蔵王権現のようにも見える
ここからは宥盛が金毘羅信仰の中に天狗信仰をとり入れ定着させた人物であったことが分かります。宥盛は修験道と天狗信仰に凝り、死後は天狗になって金毘羅宮を守ると遺言して亡くなり、観音堂のそばにまつられます。宥盛は死後、象頭山金剛坊という天狗になったとされ、金剛坊は金毘羅信仰の中心として信仰を集めるようになります。
これは白峰の崇徳上皇と相模坊の関係と似ています。
戦国末期の金比羅の指導者となった土佐出身の宥厳やその弟弟子にあたる宥盛によって、金比羅は修験・天狗道の拠点となっていきます。宥盛は、初代金光院院主とされ、現在では奥の院に神として祀られています。
江戸前期の『天狗経』には、全国の著名な天狗がリストアップされています。
これらが天狗信仰の拠点であったようです。その中に金毘羅宮の天狗として、象頭山金剛坊・黒眷属金毘羅坊の名前が挙げています。崇徳上皇に仕えたという相模坊もランクインされています。ここからも象頭山や白峰が天狗=修験者の拠点であったことがうかがえます。宥盛によって基礎作られた天狗拠点は、その後も発展成長していたようです。
これらが天狗信仰の拠点であったようです。その中に金毘羅宮の天狗として、象頭山金剛坊・黒眷属金毘羅坊の名前が挙げています。崇徳上皇に仕えたという相模坊もランクインされています。ここからも象頭山や白峰が天狗=修験者の拠点であったことがうかがえます。宥盛によって基礎作られた天狗拠点は、その後も発展成長していたようです。
金毘羅大権現のもとに集まる天狗(山伏)達 別当寺金光院発行
知切光歳著『天狗の研究』は、象頭山のふたつの天狗は次のような分業体制にあったと指摘します。
①黒眷属金毘羅坊は全国各地の金毘羅信者の安全と旅人の道中安全を司る天狗②象頭山金剛坊は、讃岐の本宮を守護する天狗
そのため②は、金比羅本山で、①は、それ以外の地方にある金毘羅社では、黒眷属金毘羅坊を祭神として祀ったとします。姿は、象頭山金剛坊は山伏姿の天狗で、黒眷属金毘羅坊は金剛坊の仲間の鳥天狗として描かれます。また、黒眷属金毘羅坊は金剛坊の家来とも考えられました。他に、象頭山趣海坊という天狗がいたようです。
この天狗は先ほどの「讃岐院眷属をして為朝を救う図」にも出てきた崇徳上皇の家来です。
文化五年(1808)の冬、幕臣の稲田喜蔵が神城騰雲から聞き取った『壺産圃雑記』という随筆集があります。その中には、騰雲は趣海坊という金毘羅の眷属の天狗の導きで天狗界を見てきたとか、金毘羅権現は讃岐に流された崇徳上皇が人間界の王になれぬので天狗界の王になろうと天に祈った結果、ついに天狗となったものだと語ったと記されています。。
金比羅には象頭山から南に伸びる尾根上に愛宕山があります。
右が象頭山、左が愛宕山
この山がかつては信仰対象であったことは、今では忘れ去られています。しかし、この山は金毘羅さんの記録の中には何度も登場し、何らかの役割を果たしていた山であることがうかがえます。この山の頂上には愛宕山太郎坊という天狗がまつられていて、金毘羅宮の守護神とされてきたようです。愛宕系の天狗とは何者なのでしょうか?知切光歳著『天狗の研究』は、愛宕天狗について次のように記されています。
天狗の中で、愛宕、飯綱系の天狗は、ダキニ天を祀り、白狐に跨っており、天狗を祭り通力を得んとする修験、行者の徒が、ダキニの法を修し、これを愛宕の法、または飯綱の法と呼ぶ、(以下略)
愛宕天狗
とあって、狐に乗りダキニ天を祀る天狗が、愛宕・飲綱糸の天狗だとします。全国各地の金毘羅社の中には天狗を祭神ととしているところが多く、両翼をもち狐に跨る烏天狗を祀っていることが数多く報告されています。金毘羅宮は愛宕山を通じて愛宕・飯綱系の天狗と結ばれていたようです。ダキニ天
以上から「崇徳上皇=天狗=金毘羅神」という考えが江戸時代には広く広がっていたことがうかがえます。ところが明治以後は、このような説は姿を消して行きます。その背景には、明治政府の進める天皇制国家建設があったようです。皇国史観に見られるように歴代天皇は神聖化されていきます。その中で天皇が天狗になったなどというのは不敬罪ものです。こうして「崇徳上皇=天狗」は葬られていくことになります。しかし、「崇徳上皇=金毘羅」説は別の形で残ります
天狗信仰と金毘羅大権現
以上をまとめると、こんなストーリーが考えられます
天狗信仰と金毘羅大権現
以上をまとめると、こんなストーリーが考えられます
①江戸後期になって安井金毘羅宮などで崇徳上皇=天狗=金昆羅権現」説が広まった。
②金毘羅本社でも、この思想が受け入れられるようになる。
②金毘羅本社でも、この思想が受け入れられるようになる。
③明治の神仏分離で金毘羅大権現を追放して、何を祭神に迎え入れるかを考えたときに、世俗で広がっていた「金毘羅=崇徳上皇」説が採用された。
④こうして祭神の一人に崇徳上皇が迎え入れられ、明治21年には白峰神社が建立された
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「羽床正明 崇徳上皇御廟とことひら53 H10年」
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