こうした幕府の政策は、諸国に寺社の修造ブームが巻き起こすことになります。鎌倉後半期の地方寺社の造営・修理の状況を見ると、文永の役から13世紀終末までに、地方では有力寺院の改築ラッシュが続いたことがこの表からはうかがえます。
讃岐では善通寺が上がっていますが、それ以外にも三豊の本山寺や観音寺本堂ははじめ、この時期の造営寺社は多いようです。この時の寺社修造ブームの背後には、修験者の活発な活動があったとされます。それを今までに見てきた讃岐での修験者や高野聖たちの活動に照らし合わせながら見ていきたいと思います。テキストは「榎原雅治 荘郷鎮守の地域的関係の成立 日本中世地域社会の構造 2000年」です。
中世寺院築造ムーヴメントについて、研究者は次の二点を指摘します。
第一は、この寺社修造運動が一宮などの国内の頂点的な寺社にとどまるのではなく、荘郷の鎮守にまで及ぶものだったこと第二は、地方末端にまで及ぶ寺社修造が勧進聖や修験者たちの勧進活動によって実現していたこと
正応四年(1291)の紀伊国神野・真国・猿川庄公文職請文に
「寄事於勧進、不可責取百姓用途事」
という条文があります。ここからは、修験者の勧進(募金活動)が公的に認められ、奨励されていたようにも見えます。これも時代状況をよく反映した文言と研究者は指摘します。
このような全国的な寺社修造と勧進盛行は、聖や修験者たちの動きを刺激し、村々を渡り歩く動きを活発化させたようです。聖や修験者の活動によって荘郷鎮守をはじめとするその地域の寺社ネットワークが作られていったのではないかと研究者は推測します。その原動力が蒙古襲来後の寺社造営の運動にあったというのです。
その代表例として研究者が挙げるのが西国三十三所観音霊場をコピーして、作られた巡礼ネットワークです。
例えば若狭三十三所は、国内の荘園公領の鎮守によって三十三所霊場が形成されます。このメンバーである寺社は、共同で「小浜千部経転読」などの一国規模での法会を営んだり、それぞれの寺院での法会の開催をめぐって相互に協力しあったりするようになります。この法会には、「十穀」=勧進聖が関わるようになります。つまりこの時期の若狭には、修験者や聖たちの活動に先導されて、荘郷鎮守の地域的ネットワークが成立していたのです。
例えば若狭三十三所は、国内の荘園公領の鎮守によって三十三所霊場が形成されます。このメンバーである寺社は、共同で「小浜千部経転読」などの一国規模での法会を営んだり、それぞれの寺院での法会の開催をめぐって相互に協力しあったりするようになります。この法会には、「十穀」=勧進聖が関わるようになります。つまりこの時期の若狭には、修験者や聖たちの活動に先導されて、荘郷鎮守の地域的ネットワークが成立していたのです。
長尾寺
このような動きは、讃岐の高松周辺の後の四国霊場にも見られます。
例えばに、四国辺路に訪れた澄禅の「四国遍路日記」(1653)には、長尾寺について次のように記されています。
長尾寺 本堂南向、本尊正観音也、寺ハ観音寺卜云、当国ニ七観音トテ諸人崇敬ス、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根香寺・志度寺、当寺ヲ加エテ七ケ所ナリ」
ここには、長尾寺はかつては観音寺と呼ばれていたこと、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根来寺・志度寺に当寺を加えて讃岐七観と呼ばれていったことが記されています。
また寺の伝えでは、江戸時代の初期までは観音信仰の拠点として「観音寺」と呼ばれていたといいます。坂出から高松に至る海岸沿いの後の辺路札所の寺院がメンバーとなって「七観音」を組織していたことが分かります。善通寺を中心とした「七ケ所詣り」のような集合体が、ここにもあったようです。それを進めたのは、白峰寺や志度寺を拠点とした備中の五流修験と私は考えています。
秘仏本尊の前立像として安置されている長尾寺の観音様
また寺の伝えでは、江戸時代の初期までは観音信仰の拠点として「観音寺」と呼ばれていたといいます。坂出から高松に至る海岸沿いの後の辺路札所の寺院がメンバーとなって「七観音」を組織していたことが分かります。善通寺を中心とした「七ケ所詣り」のような集合体が、ここにもあったようです。それを進めたのは、白峰寺や志度寺を拠点とした備中の五流修験と私は考えています。
また西讃地方では、雲辺寺・大興寺・観音寺・本山寺・弥谷寺・曼荼羅寺という寺も、七宝山をゲレンデにして辺路ルートを開き、修験道によって結びつけられていたことは以前にお話ししました。
修験者によって地域の寺がネットワークで結ばれるという動きは、当時は全国的なものでした。讃岐でも有力寺社が修験者や聖によってネットワーク化されていたのです。
修験者によって地域の寺がネットワークで結ばれるという動きは、当時は全国的なものでした。讃岐でも有力寺社が修験者や聖によってネットワーク化されていたのです。
浅香年木氏は「中世北陸の在地寺院と村堂」の中で、次のような事を指摘します。
①14世紀前後のころ、一宮、荘郷鎮守などの有力寺院が周辺の小規模な村堂を末寺化していくこと②在地寺院同士が造営や写経などをめぐって「合力しあう地縁的な一種の連帯関係を有していた」こと、③在地寺院の連帯関係が、自由信仰、石動信仰といった地域の村落の上層農民の信仰を基盤に成立していたこと
道隆寺は、中世の多度郡の港である堀江港の港湾管理センターとして機能していました。そのため海に向けて勢力を拡大していきます。戦略として塩飽や庄内半島の神社や寺院の造営や写経などに協力しながら、これらを末寺化していきます。それを示したの下の年表です。道隆寺が導師を務めた寺社一覧です。神仏混淆時代ですから神社も支配下に組み込まれています。
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮文明一四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことが分かります。『多度津公御領分寺社縁起』には道隆寺明王院について、次のように記されています。
意訳変換しておくと「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院より執行仕来候」
「古来より門末の寺院や堂舎の供養、並びに門末支配の神社遷宮の導師はすべて当院(道隆寺)が執行してきた
とあり中世以来の本末関係にもとづいて堂供養や神社遷宮が近世になっても道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力はの多度津周辺に留まらず、瀬戸内海の島嶼部まで及んでいたようです。道隆寺は塩飽諸島と深いつながりが見られます。
永正一四年(1517)立石嶋阿弥陀院神光寺入仏開眼供養享禄三年 (1530)高見嶋善福寺の堂供養弘治二年 (1556)塩飽荘尊師堂供養について、
塩飽諸島の島々の寺院の開眼供養なども道隆寺明王院主が導師を務めていて、その供養の際の願文が残っています。海浜部や塩飽の寺院は、供養導師として道隆寺僧を招く一方、道隆寺の法会にも結集しました。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には
「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」
と記されています。つまり、道隆寺が讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。
このように室町期には、讃岐でも荘郷を超えた寺社の地域的な相互扶助的関係が成立していたことが分かります。そして研究者が重視するのは、この寺社間のネットワークが上から権力的に編成されたものではなく、修験者たちによって下から結びつけられていったものだという点です。そして、道隆寺も長尾寺の場合も、修験者や聖たちによって形成されたものなのです。これが「西国33ケ所廻り」のミニコピー版であったり、「七観音めぐり」「七ヶ所参り」であったようです。そして、「四国大辺路」へと成長して行きます。ここでは百姓の信仰に基盤をもった地域の寺社が、修験者らに導かれてネットワークを結ぶようになっていたことを押さえておきます。
讃岐でも寺院修造だけでなく、大般若勧進も連携・連帯が行われます。
大般若経が国家安泰の経典とされ、異国降伏のために読誦されたことは、いろいろな研究で明らかにされています。そして、次のような事が明らかにされています。
①鎌倉末期ごろには多くの有力寺社に大般若経が備えられていたこと②大般若経を備えることは荘郷鎮守の資格とさえ考えられるようになっていたこと③大般若経を備えるために勧進が行われていたこと
この大般若経の各巻からは、文二年(1357)11月から次のような寺院で写経されたことが分かります。
①巻第四百七・四百九 讃州安国寺北僧坊 明俊②巻第五百十七 如幻庵居 比丘慈日③巻第五百二十七 讃岐州宇足長興寺方丈 恵鼎④巻第五百二十八 讃州長興知蔵寮 沙門聖原⑤巻第五百五十三 讃州綾南条羽床郷 西迎寺坊中同郷大野村住 金剛佛子宥伎⑥巻第五百七十二・五百七十三仲郡金倉庄金蔵寺南大門 大賓坊 信勢
①の安国寺は、足利尊氏・直義兄弟が、夢窓疎石の勧めにより、元弘以来の戦死者の供養をとむらい平和を析願するために、各国守護の菩提寺である五山派の禅院を指定した寺院です。讃岐では宇多津の長興寺が安国寺に宛てられたとされます。
③④の長興寺は細川氏の守護所の置かれた宇(鵜)足郡宇多津に細川顕氏が建立した神宗寺院のようです。
⑤羽床の西迎寺は今はありません。綾南条羽床郷とあるので宇多津から南方の阿野郡内にあった寺のようです。同じく⑤の大野村についても分かりません。書写をした宥伎は金剛佛子とあるので西迎寺は密教寺院であったようです。
正覚寺(丸亀市本島)の大般若経 讃州仲郡金倉下村惣蔵社にあったことが分かる
正覚寺(丸亀市本島)の大般若経 讃州仲郡金倉下村惣蔵社にあったことが分かる
⑥の金蔵寺は智証大師円珍ゆかりの寺院で那珂部(善通寺市)にある天台宗寺院で、後の四国霊場でもあります。その大宝坊は応永十七年三月の金蔵寺文書に見える「大宝院」の前身のようです。この寺は、多度津の道隆寺と共に、写経センターとして機能するようになります。経典類も数多く集められ、学問所として認められ、多くの学僧が訪れるようになり、地域の有力寺院に成長していきます。大川郡の与田寺と同じような役割を果たしていたと私は考えています。
以上からは、僧侶等は真言や天台など宗派にかかわらず書写事業に参加していたことがうかがえます。宗派よりも地域の連帯性の方が重視されたようにも思えます。
この中で中心的な位置をしめた寺院が「願主」の記載のある巻第五百七十一・五百七十三を書写した金蔵寺だと研究者は考えています。
正覚寺の大般若経 「道隆寺中坊祐業」の名前が見える
この中で中心的な位置をしめた寺院が「願主」の記載のある巻第五百七十一・五百七十三を書写した金蔵寺だと研究者は考えています。
そして、これらの寺社はいずれも石動山系(石鎚)の修験と関わりの深い寺社のようです。
金蔵寺で大般若経が書写されていた時代に、大川郡与田寺で活躍していたのが増吽(正平21年(1366)~宝徳元年(1449)です。
彼は中世の僧侶として、次のようないくつもの顔を持っています。
①讃岐・虚空蔵院(与田寺)を拠点とする書写センターの運営者②熊野修験者としての熊野先達③讃岐の覚城院・無量寿院、備前の蓮台寺・安住院、備中の国分寺など、荒廃した寺院を数多く復興した勧進僧④弘法大師信仰をもつ高野山真言密教僧
修験者・勧進僧・弘法大師信仰者として「荘郷を超えた寺社の地域的な相互扶助的関係」を讃岐・阿波・備中・備前の数多くの寺との間に作り上げていました。まさに、時代の寵児ともいえます。増吽のようなスーパー修験者によって、各地域の寺院は国を超えて結ばれネットワーク化されていったのです。
水主神社
中世の大内郡の神祇信仰の中心は、水主神社でその別当寺が与田寺でした。 水主神社は大内郡の鎮守社であり、讃岐国式内社24社の一つでした。江戸時代のものですが「水主神社関係神宮寺坊絵図(水主神社蔵)」、文政四(1822)年には、水主大明神を中心にして約67の寺社が描かれています。与田川流域の狭いエリアにこれだけ多くの宗教施設がひしめきあっていたのです。坊舎をふくめると100を越える数になります。与田山周辺を含めると、さらに数は増えるでしょう。その中には、宗教活動だけでなく経済活動に従事する出家の者たちもいたようです。彼らは、信仰を紐帯にいろいろなネットワークを結んでいたようです。これらは増吽に代表されるように修験者たちによって形成されたもののようです。
以上をまとめておきます。
①元寇後に、異国降伏祈祷が地方でも行われ、それに伴い讃岐でも有力寺院の改築ラッシュが続いたこと
②寺社修造は勧進聖や修験者たちの勧進活動によって実現したこと以上をまとめておきます。
①元寇後に、異国降伏祈祷が地方でも行われ、それに伴い讃岐でも有力寺院の改築ラッシュが続いたこと
③その結果、勧進聖や修験者の活動は活発化し、国や郡郷を超えた寺社のネットワーク形成が進んだこと
④それと平行して地方の有力寺社は周辺寺社を支援しながら系列化を進めたこと
⑤そのひとつのやり方が寺社修造や大般若経写経の支援活動であったこと
⑥こうして勧進聖や修験者によって、地方の有力寺社はネットワーク化され「七観音参り」「七箇寺参り」「小辺路」などのメンバーとなっていく。
⑦これが後の「四国大辺路」へとつながっていく。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
④それと平行して地方の有力寺社は周辺寺社を支援しながら系列化を進めたこと
⑤そのひとつのやり方が寺社修造や大般若経写経の支援活動であったこと
⑥こうして勧進聖や修験者によって、地方の有力寺社はネットワーク化され「七観音参り」「七箇寺参り」「小辺路」などのメンバーとなっていく。
⑦これが後の「四国大辺路」へとつながっていく。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献