瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:鉄牛継印

観念寺 新居氏3 
観念寺(伊予西条市)     

観念寺には、61通の寄進状・寄進坪付注文、8通の観念寺宛の清却状が残されています。また、寺領注文には、122筆の寺領が書き上げられています。これを整理したのが、次の表です。これらを手がかりにして、観念寺の寺領復元を見ていくことにします。テキストは「川岡 勉   南北朝期の在地領主・氏寺と地域社会 中世の地域権力と西国社会2006」年です。

観念寺寺領寄進一覧表
観念寺寺領寄進一覧表

寺領注文の冒頭部に出てくるのは①山林です。
これによると、山林はつぎの3つに分類されています
a 寺内山林分
b 樺山前後山林分
c 吉岡界分
この寄進順は、a → b → c となります。
aは「寺内山林分」とあるので観念寺に近接した山林で、尊阿がこれを寄進したのは、正応5年(1292)前後のことのようです。aの四至北限は「庄界」とあります。これは隣接する安楽寿院領吉岡荘との境界部分で、cの吉岡界分に当たります。吉岡荘は、大明神川の上中流域を荘域とする天皇家の荘園で、鎌倉末期には164町5段290歩の田地を有しいたことが史料から分かります。

観念寺寺領分布図
観念寺寺領分布図

bは観念寺の背後の尾根線上にある樺山を西限とする山林です。東限が「尊阿寄進」とされているので、aの西側にあったことが分かります。寄進者の一人は「壇上殿」とあり、延文2(1357)年に「桑村本郡内恒名山地等」を寄進した越智信高のことだと研究者は考えています。この寄進状からは「山地一所」とあり、bのうちで樺河以西の山林が信高により寄進されたことが分かります。もう一人の寄進者である土佐殿は、正平15年(1360)に「桑村本郡内得恒名山野地等」を寄進した人物です。bの樺河以東の部分を寄進した人物のようです。
cについては、北限が吉岡河原、南限が得恒とあります。古岡川(大明神川)以南で、得恒名以北の山林を指すようです。これを寄進した五人のメンバーを見ておきます
①筆頭の壇上殿は、biの寄進主体でもあった越智信高で、延文元年の寄進状にみえる人物
②2人めの土佐殿は、bⅱを寄進した人物ですが、寄進状が残っていないので寄進地がどこだったのかは分かりません。
③4人目の得能越後殿は、正平15年の寄進状を残した越後守通居で、その寄進地は「吉岡庄内山野地事 四至田四段」と記されていて、①の信高の寄進地と同じ四至記載です。
④最後の越智一郎左衛門が、正平16年の寄進状を残した駿河守越智行増です。その寄進状には、次のように述べています。
「観念禅寺々領 山野地事  四至 右件山野等者、為古岡庄領家之間、所本寄進当寺也」

ここからその位置は、吉岡荘領家方に属し、西限はCの西限に一致し、東限は吉岡地頭方であったことが分かります。以上のデータを地図上に落としたのが上図です。 これをみると、観念寺背後の山林が広い範囲にわたって寺領とされたことが分かります。これは以下のように2つに区分できます。
c  吉岡界分が古岡荘内(領家方・地頭方)に含まれる山野地
 a・b得恒名の山林
ここでは観念寺に寄進された山林は国衙領部分(桑村本郡得恒名)を中核にして、吉岡荘との境界を越える部分を飲み込んでいたことを押さえておきます。
次の寄進者別に分類して見て見ましょう。
そうすると、「a寺内山林分」を寄進した尊阿の存在が大きかったことが見えて来ます。続いて、b・C共通の寄進者として名前のみえる壇上殿と土佐殿です。「壇上殿=越智信高」は、AとBに連署する三五名の人々の筆頭に署判している人物です。彼の署判の上部には「盛康方壇上」とか「盛康方新居」という注記がつけられています。ここからは彼が新居盛康の流れであることがうかがえます。
以上から、1340~50年代に氏人・一族の中心的存在であったのは、信高だったと研究者は判断します。
信高は、観念寺の裏山から大明神川北岸にかけての但之上の地に居館を構えていたので「壇上殿」と呼ばれたのでしょう。土佐殿については実名は分かりません。ただ「新居殿」とも呼ばれていることから、新居氏の一員であったことは確かです。このほかの寄進者を見ておきましょう。
①越智行益はA・Bに連署して、署判部分には「越智」という注記があります。ここからは、彼が観念寺からは遠く離れた越智郡に居館をもつ人物だったことが推測できます。
②得能通居については、その姓から観念寺のすぐ南に位置する桑村郡の得能保を本拠地としていたことがうかがえます。得能氏は、河野氏の有力庶家として知られる一族で、中世初頭に新居盛信の女子と河野通信の間に生まれた通俊を始祖としています。得能通居も、河野氏に共通する「通」の字を含む名乗りであることからみて、その流れをくむ人物だったとしておきます。
以上のような人々の寄進によって形成され観念寺の寺領山林は、中世末期まで維持されます。明応7年(1498)の河野道基壁書と元亀3年(1571)の河野牛福禁制で、先規之旨に任せて寺家が進退すべきことが定められています。
続いて寺領の田畑を見ていくことにします。

観念寺寺領寄進一覧表
①山林の記載につづいて、寄進・買得により集積された寺領田畠が書き上げられています。それが上図の②~⑩の部分で、総計122筆、面積は34町2段150歩にのぼります。そのほとんどが1~3段程度の小さな田畑で、広範囲に散らばっていたことが分かります。このうちで寺領の中核となっているのは、②③の部分(桑村本郡内の得恒名の田畠)です。
もともと、新居氏は新居郡新居郷を本拠地として台頭した開発領主でした。
それが承久の乱で河野氏に従って法皇側について負け組となっていまい、新居郡の多くの所領を失います。その対応として、新居郡から桑村本郡へ本拠地を移して勢力回復を目指したことは前回お話ししました。そのため観念寺が創建されたときも、桑村本部内の得恒名田畠を中心に寺領寄進がなされています。尊阿・円心・弥阿をはじめ新居氏の一族が得恒名の寄進者として登場します。ここからも得恒名が彼ら基盤であったことが裏付けられます。
 得恒名田畠地は、桑村本郡だけでなく⑦古田郷・③池田郷・⑩拝志郷などにも分布しています。
得恒名は越智郡から新居郡まで東予一帯に広く分布していて、新居氏の「先祖開発重代相伝之地」として「関東六波羅殿大番以下諸公事等」を勤仕する対象地でした。新居氏が「諸郷散在得恒名」を本領としていたので、その寄進地も桑村本郡を中心に北は拝志郷から南は古川郷・池田郷まで、広い範囲に分布していることをここでは押さえておきます。

④は窪久経・義清・善阿など窪(久保)一族による寄進田畑です。
窪氏の寄進地も桑村本郡に多いようです。しかし、安永名・守貞名・定則名などは、新居氏にはない名田畠の寄進です。観念寺にはこれに対応す久米義清寄進状が残されていて、そこからは久米姓をもつ近隣領主で、観念寺から南東約2㎞地点に「久保」という小字が残っています。近隣には久米氏による寄進田畑が多くあるので「万田里」があることと併せて、この辺りを本拠地とする一族であったと研究者は推測します。
⑤の北条郷内の田地は、寄進地は一筆だけです。残りの五筆はすべて三島地の買得分です。文和2年(1353)の越智通成清却状には、ここは「三島出作田」とされていて、本名主方へ年貢納入義務が付随しています。
以上から、観念寺領を研究者は以下の二つに大別します。
① 桑村本部の得恒名田畠を中核として、桑村本部の恒光名・恒正名田畠、田・池田・拝志郷などに散らばる得恒名田畠、
②それ以外の部分
こうしてみると、観念寺が寄進や売買によって獲得した田畠は、大部分が国衙領です。桑村本郡の近隣には、安楽寿院領吉岡荘・鴨御祖大神宮領吉岡荘・祇園感神院領古田郷などの荘園がありました。しかし、こうした荘園耕地は観念寺の寺領にはなっていません。ここからも新居氏が平安末期から勢力を伸ばしてきた開発領主・在庁官人であったことが裏付けられるようです。

寺領注文が作成された康安2年(1362)の時点では、古岡荘との境界部分で山林や一部の耕地が寄進されたのみです。それ以上の荘園耕地の寺領化は確認できません。それが約40年後の応永13年(1406)の「吉岡庄有光名内田高地」の寄進の前後から荘園耕地の寺領化が進んだようです。南北朝期までは、大部分か国領部分の集積であったことをここでは押さえておきます。

康安2年(1362)の寺領注文からは、40名の人々が観念寺に下地を寄進したことが分かります。
このうち創建・再興に中心的役割を果たした盛氏・尊阿・円心・弥阿による寄進所領が、全体の約30%(10町7段)を占めます。彼らの寄進分は寺領注文の冒頭部に、まとめて書上げられています。ここからも彼らが大檀那として特別に位置づけられていたことが裏付けられます。
 また一方で、この時期になると多数の人々が寄進を行うようになっています。
①このうち寄進面積が大きいのは、窪(久米)義清・兼信・盛高・周庵主・盛家・盛・盛藤・俊兼です。
②特徴的な点としては、盛通・信秀・盛直・詮康が四人の連名で三所(九段)の田畑を寄進していること、
③印侍者諷経田とされた寺領が5カ所(1町7段)あること

しかし、5町前後の大口寄進を行なった尊阿や円心に匹敵するほどの者は現れていません。ここでは、最初に有力者が大口の寄進をして、それに続いて一族が寄進を行うようになったことを押さえておきます。
この寺領注文は中興開山住持・鉄牛継印の手で書き上げられたものです。
この文書から半年後に発給された河野通遠安堵状では、「寺領等事任注文旨」せて安堵するとされています。安堵状の主の通遠は、伊予国守護河野通盛の子息です。ここからこの寺領注文は河野氏からの安堵をうける目的で鉄牛が作成・提出したものと研究者は推察します。
 寺領田畠も、寺領山林の場合と同じ様に、河野氏からの保証をうけながら維持されていきます。
 観念寺文書には、末寺の寄進が一例あります。
応永14(1407)年に、比丘元雲が古田の道興寺と寺領田畠を寄進したものです。道興寺は観念寺の末寺とされたのです。新居氏の氏寺から出発した観念寺が、近隣の在地寺院を本末関係に組み込んでいく始まりです。こうして観念寺は新居氏の氏寺としての性格と、地域社会の宗教的拠点としての性格を併せ持つようになっていきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

清文堂出版:中世の地域権力と西国社会〈川岡 勉著〉
参考文献
「川岡 勉   南北朝期の在地領主・氏寺と地域社会 中世の地域権力と西国社会(2006年)」

丸亀市飯山町の法勲寺は、古代綾氏の氏寺と伝えられます。綾氏が中世に武士団化すると、その氏寺となるのが法勲寺の跡を継いだ島田寺です。島田寺は、綾氏の流れを汲む讃岐藤原氏の氏寺とされます。しかし、中世武士団の氏寺というのがどのように生まれてくるのかが私には、よく分かりません。具体的なイメージがつかめないのです。そのような中でで出会ったのが「川岡勉  南北朝期の在地領主・氏寺と地域社会 中世の地域権力と西国社会2006年」です。ここには伊予新居氏と、その氏寺である観念寺がどのように姿を現したのが描かれています。今回は、これを見ていくことにします。

観念寺 新居氏2 
新居氏の氏寺・観念寺(西条市壬生川)
西条市の観念寺は、中世伊予の代表的な武士団である新居氏の氏寺として知られます。
  この寺は、新居一族によって建立されたといわれ、本堂、山門、石垣、宝筺印塔などが市指定文化財となっています。特に“呑海楼”といわれる重層の入母屋造りの山門は、竜宮門のような風格があり、「観念寺の門を見ずして結構言うな」と言われるほどの名建築とされるようです。

観念寺 新居氏3 
観念寺
研究者が注目するのは102通の古文書(県指定文化財)です。これは寺院所蔵の中世文書としては伊予では最も多い数になります。その内容は寺領の寄進状が大部分で、時代的には南北朝期に集中しています。
この寺を創建した新居氏は、古代の越智郡の郡司越智氏の系譜を引く一族とされます。

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予州新居系図

予州新居系図

『与州新居系図』には、笛為成の子息成俊について「新居大夫 兄部」と記されいます。平安末期に新居郡新居郷を中心に台頭してきた開発領主で、伊予国衙では有力な在庁官人でもあったようです。

新居氏系図
                   予州新居系図


 もともと新居氏の本拠地は、新居郡でした。しかし、承久3年(1221)の承久の乱では、新居氏は河野氏に従って平家側について負け組になってしまいます。このときに河野氏は、多くの所領を没収されますが、新居氏も東予一帯の所領をかなり失ったようです。こうした中で、それまでの新居郡から桑村郡に本拠地を移し一族の再興を計ろうとします。その一族の氏寺として建立されたのが観念寺です。その動きを観念寺に残された文書で見ていくことにします。

新居氏勢力分布図
新居氏の勢力分布図
「縁起」には、延応2年(1240)、新居盛氏が親父玉氏13回忌にあたり当寺を創建したと伝えます。観念寺の最も古い古文書は元応2年(1321)の状で、創建時期について触れた史料はありません。しかし、研究者は後年に作成されたA~Eの史料を手がかりにして、創建年代を次のように割り出します。
A.康永3(1344)年9月9日          越智信高以下35名連署寄進
B.康永3(1344)年11月5日          越智兼信以下3名連署置文
C.貞和3(1347)年9月9H          越智信高以ド35名連署師壇文
D.貞和4(1348)年12月15日        鉄牛継印置文
E.康安2(1362)年4月8日 観念寺々領注文
Aには「夫本寺者、新居大夫盛氏建立之氏寺也」と記され、Cには「当寺則是新居大夫盛氏文永年中初建立之寺也」とあります。盛氏が創建したという点は「縁起」と同じです。しかし、その年代には30年前後のズレがあります。史料的価値から、文永年中(1264~75)説を研究者はとります。
 尊阿の寄進状自体はありませんが、Cには次のように引用されています。

盛氏後家尊阿正応五年二月晦日当寺寄進状云、右寄進願者、故散位越智宿祢盛氏、依為御興行之寺、為奉訪彼後菩提、所令興行不断念仏三味者也、然者氏人時衆相共致忠勤之思、至千未来際、無退転可令勤行者也、若背此旨、珈於寺内山林并田畠等、寄事於左右、於致違乱煩之不信之輩者、氏人相共同心合力、可令停止彼悪行者也云々、

意訳変換しておくと

盛氏の後家である尊阿による正応五年二月晦日の当寺への寄進状には次のように記されている。この寄進発願者は、故越智宿祢盛氏であり、この寺の設立者でもある。よってこの寺を菩提寺として、不断念仏三味行うものとする。一族・氏人は時衆を信仰し忠勤し、未来来迎まで退転することなく勤行するべし。もし、これに背いて寺内の山林や田畠などを侵そうとする不信の輩がいれば、氏人・一族が心を一つにして共同で、悪行者を排除すべし。

ここからは、次のようなことが分かります。
①観念寺が盛氏の「御興行之寺」で、念仏三昧の時衆の寺として創建されたこと
②つまり盛氏生前から寺院としての体裁をある程度供えていたこと
③しかし、寺領は三段の仏供田だけで「盛氏の個人的寺院」という性格が強かったこと
④これに対して、妻の尊阿が、盛氏亡き後に多大の所領を寄進したこと
⑤当時の観念寺は時衆で、一族も時衆の信徒であったこと
⑥観念寺が氏寺として一族の団結の場となることへの期待があったこと

④について、正応5(1292)年3月に、後家の尊阿は観念寺に山林と田畑の追加寄進を行っています。その目的は、夫盛氏の菩提を訪うために不断念仏三味を興行することにあります。 Aにも「尊阿勺本訪彼後菩提、雖被興行不断念仏道場」と記されています。ここでは不断念仏道場(時宗道場)の興行で、氏人・時衆による勤行が申し伝えられていいます。これが、氏寺成立のスタートになると研究者は考えています。
 後年に、一族は「任尊阿遺属之旨、為奉訪累祖代々尊霊」として師檀契約を結んでいます。こうして観念寺は、「尊阿遺属之旨」として氏寺の性格を帯びるようになります。とはいえ、尊阿寄進の時点では、あくまで盛氏の菩提を訪うことが目的で、一族を結集させる力はなかったようです。そのためこの後に堂舎は維持されず、法会は行われなくなり、観念寺は次第に退転していきます。
復興の手が加えられるようになるのは、尊阿寄進から40年あまりを経た元弘年中(1321~24)のことです。Aに次のように記されています。

「新居弥三郎盛康之族後家弥阿同息男盛清等、且為奉祈 天長地久之御願、ユ為本訪先祖代々之菩提、専改禅院為氏寺、重寄進田畠等所奉寄附鉄牛和尚也」

意訳変換しておくと
「新居弥三郎盛康の一族である後家弥阿と息子の盛清などが、観念時を再興し天長地久の祈願所とと先祖代々の菩提として禅院に改宗し氏寺として、田畠を鉄牛和尚に寄進した」

ここからは次のようなことが分かります。
①大檀那として観念寺再興を発願したのが新居盛康の後家弥阿と子息盛清であったこと
②麻康の死後、後家弥阿と子息盛清は、この寺を時宗から禅宗に改宗したこと
③そして、臨済宗聖一派の鉄牛継印に田畠の寄附を行ったこと

①の新居盛康の後家弥阿と子息盛清が康盛氏や尊阿と、どのようにつながる人物であるかはよく分かりませんが、鎌倉末期の新居氏の家督相続者であることは間違いないようです。③の鉄牛は、新居氏の発願を受けて、このあと長期間にわたって当寺の再興に励みます。
 観念寺には、この頃の寄進状が数多く残されています。その中でとくに重要なのが、延元2年(1337)12月の沙弥円心寄進状だと研究者は指摘します。ここで円心は、「当寺者円心之先祖建立氏寺也」とします。その上で、まとめて8ケ所(合計面積は三町三段)の田畠の寄進を行なっています。これらは、観念寺燈油田や僧食のほかに、祖父定阿と父親の智阿の追善供養にあてることとされています。
 またこの時に作成された目録には次のように記されています。

伊予国御家人新居三郎五郎入道円心相伝知行分諸郷散在得恒名并各別相伝田畠等内観念寺寄進」

得恒名田出については
「為沙弥円心先祖開発重代相伝之地、関東六波羅殿大番以下諸公事等令勤仕」

このとき、円心は重い病を患っていたようです。そのため観念寺への寄進と同時に、五名の甥や養女・養子に対して所領の配分を申しわたしています。そして円心はまもなく死去したことが、翌年に作成された次の寄進状から分かります。

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建武5年6月2日 ミあミたふ寄進状 (愛媛県史638)
    この寄進状は、前年に円心房の手で寄進された下地が不足していたため、円心の遺言をうけた「ミあミたふ」という女性が、重ねて観念寺に寄進を行なったものです。彼女は新居盛康の後家と記されています。ここからは、「ミあミたふ」は大檀那弥阿その人と研究者は判断します。
 Eの「観念寺々領注文」の冒頭部、得恒名田畠の寄進を書き上げた所には、根本檀那麻氏寄進田、尊阿寄進田畠につづいて、円心寄進田畑六筆、弥阿寄進田畑三筆が列挙されています。しかも、得恒名以外の田畑を加えると、円心の寄進は計十筆(四町八段)、弥阿の寄進は計五筆(六段)となります。これは両者で寺領全体の15%強を占めます。盛氏・尊阿・円心・弥阿の寄進田畠を合計すれば、寺領の約30%になります。当寺の再興にあたつて、円心と弥阿の果たした役割が大きなものであつたことが分かります。
それでは「円心房」とは誰なのでしょうか?
これについては、次のふたつに説があるようです。
①「円心坊=新居盛康」説をとる岩本裕氏
②「円心坊=子息盛清」説をとる店本裕志氏
これに対して最近の研究成果から新居氏の氏寺の開創・再興にあたって、後家の果たした役割を重視する見解が示されています。近年の研究では、中世前期の後家の力の大きさが注目されるようになっています。後家の多くは再婚することなく、亡夫の菩提をともらいました。そして、後家は次の家長となる予定の子息を補佐し、時には自分が家長代行として、家の継承をはかろうとします。北条政子がひとつの姿です。
 その一方で、所領の管領権限は家督継承者の盛清の手にあったはずです。寺の経済的基盤を支えていく上では、盛清が決定権を握っていたと研究者は考えています。そう考えると「御家人」と自称して数多くの所領寄進を行なった円心房は、盛清と同一人物と研究者は考えています。子息盛清(円心)とともに観念寺再興を発願し、夫盛康に先立たれて以後も彼の遺吾を踏まえて当寺への寄進をつづけたとしておきます。

観念寺4
観念寺
観念寺の禅宗への改宗と、鉄牛継印の活動について
観念寺はもともとは、時宗道場として設立されたことは先ほど見たとおりです。円心の祖父定阿、親父智阿、母弥阿などは、時宗に多い阿号を称しています。ところが、元弘年中の再興を機会に、時宗から禅宗(臨済宗)への改宗が行われています。そして、鉄牛継印に田畠の寄進が行なわれます。鉄牛は、東福寺を開いた円爾(聖一国師)派に属した禅僧です。彼は、弥阿・盛清から田畑の寄進をうけて、観念寺の中興開山住持として活発な活動を展開します。具体的には、「十方檀那」に働きかけて数多くの寄進・買得田畑を獲得し、新仏殿・僧堂・庫司・方丈・衆寮・山門・惣門など次々に造営していきます。こうした活動は、氏人・一族の支持を集めるようになり、やがて康永・貞和年間にA~C寄進状・置文・師檀契約状の作成に結びついていきます。Cに連署した35名の氏人・一族は、先祖代々の霊魂をともらうために各々三段の田畑を寄進し、毎月先亡之忌日に読経・斎僧の孝養を行う事を申し合わせています。そして次のように記されています。
「当寺繁晶是氏入繁昌、当寺衰微是氏人衰微也」
意訳変換しておくと
「当寺(観念寺)の繁栄は、新居氏一族の繁栄であり、当寺の衰微は新居氏の衰微である」

こうして観念寺と新居氏一族は一体のものとされていきます。Eの寺領注文には、多数の散在所領が書き上げられています。それまでの寺領の中核は、今まで見てきたように尊阿・円心(盛清)・弥阿からの寄進所領でした。それに加えて数多くの氏人・一族も寄進行為を行うようになったことが分かります。鉄牛は、Dの置文の中で、次のように述べています。

(当寺は)「大檀那氏人并一族等永任寄付契約之旨、可被致護持者也」

弥阿と盛清が大檀那として再興を発願して十年あまりで、観念寺は大檀那だけでなく多くの氏人・一族を巻き込むほどに信仰者の範囲を拡大させ、共通の精神的紐帯として位置づけられるようになったのです。また信仰内容も、「居盛盛氏の菩提を訪う段階から、氏人・一族の先祖代々の霊を訪うという方向へ拡大しています。こうして正応年間に尊阿によって氏寺化された観念寺は、元弘年間の弥阿・盛清の発願を経て、康永・貞和年間に名実とも・氏寺としてのあり方を黎備・確立させたと研究者は判断します。それだけの手腕を鉄牛は持っていたというこでしょう。

これと同じような動きが丸亀平野の飯野山の南麓の法勲寺周辺で起こっていたのではないかと私は考えています。
その動きを挙げておくと次のようになります。
①古代綾氏の大束川沿いの開発と古代寺院法勲寺の建立
②中世綾氏の国衙の在庁官人への転進と武士集団化
③綾氏から讃岐藤原氏への脱皮と、法勲寺再興(=島田寺へ移行)と氏寺化
④讃岐藤原氏一族(羽床・香西・滝宮氏など)の源平合戦での源氏支援と御家人化
⑤島田寺が讃岐藤原氏の氏寺化と団結の拠点へ
⑥島田寺住職による讃岐藤原氏の系図と、その文頭を飾る神櫛王の悪魚退治伝説の創作
⑦讃岐藤原氏の分裂抗争
しかし、法勲寺や島田寺には綾氏の氏寺であったことを示す文書はありません。そういう意味では、三豊市三野町の本門寺と秋山氏の関係の方が比較ができそうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 川岡 勉   南北朝期の在地領主・氏寺と地域社会 中世の地域権力と西国社会2006年
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観音寺湊 復元図1

中世の観音寺湊の復元図です。この湊が河口に浮かぶ巨大な中洲に展開していたことが分かります。
琴弾八幡宮とその別当寺・観音寺の門前町として発展した港町
 観音寺は讃岐国の西端の苅田郡(中世以降は豊田郡に改称)に属し、琴弾八幡宮とその別当寺であった神恵院観音寺の門前町として、中世には町場が形成されていたようです。
観音寺琴弾神社絵図
鎌倉後期の「琴弾宮絵縁起」には、琴弾八幡宮が海辺に浮かぶ聖地として描かれています。聖地は人の住むところではないようです。この絵図には、集落は描かれていません。今回は、川のこちら側の人の住む側を見ていくことにします。
観音寺地図1
 財田川と手前の一ノ谷川に挟まれた中洲には、いくつかの浦があり、それぞれに町場をともなって港湾機能をもっていたようです。中洲と琴弾神社と、財田川に架かる橋で結ばれます。この橋から一直線に伸びる街路が町場の横の中心軸となります。そして、中洲上を縦断する街路と交差します。中洲上には「上市や下市」と呼ばれる町場ができています。

観音寺 琴弾神社放生会
 享徳元年(一四五二)の「琴弾八幡宮放生会祭式配役記」(資料21)には、上市・下市・今市の住人の名があり、門前市が常設化してそれぞれ集落(町場)となっていたことがうかがえます。放生会の祭には、各町場の住人が中心となって舞楽や神楽、大念仏などの芸能を催していたようです。町場を越えて人々を結びつける役割を、琴弾神社は果たしていたようです。
そして各町場は、財田川沿いにそれぞれの港を持ちます。
 文安二年(1455)の「兵庫北関入船納帳」には、観音寺船が米・赤米・豆・蕎麦・胡麻などを積み、兵庫津を通過したことが記されています。財田川の背後の耕作地から集められた物資がここから積み出されていたことが分かります。そして、いつの頃からかこの中洲全体が、観音寺と呼ばれるようになります。
 かつて財田川沿いには、船が何隻も舫われていたことを思い出します。その中には冬になると広島の福山方面からやって来て、営業を始める牡蠣船もありました。裁判所の前の河岸も、かつては船の荷揚場であったようで、それを示す境界石がいまでも残っています。その側に立つのが西光寺です。立地ロケーションからして、町場の商人達の信仰を一番に集めていたお寺だったことがうかがえます。
 中世の宇多津や仁尾がそうであったように、中核として寺院が建立されます。寺院が、交易・情報センターとして機能していたのです。そういう目で観音寺の財田川沿いの町場を歩いてみると、お寺が多いのに気がつきます。さらに注意してみると、西光寺をはじめ臨済宗派の寺院がいくつもあるのです。気になって調べてみると、興昌寺・乗蓮寺・西光寺などは臨済宗聖一派(しよういち)に属するようです。私にとって、初めて聞く言葉でした。
「聖一派」とは? 
またどうして、同じ宗派のお寺がいくつも建立されたのでしょうか?  国史辞典で開祖を調べてみると
弁円(諡・聖一国師)が京都東福寺を中心に形成した顕密禅三教融合の習合禅
②弁円は駿河国(静岡県)に生まれ,5歳のときに久能山に入り教典,外典の研鑽に努める
③22歳で禅門を志し,上野長楽寺に臨済宗の栄朝を訪ね
④嘉禎1(1235)年4月34歳で入宋。臨済宗大慧派の無準師範に7年間参学,
⑤帰国後,寛元1(1243)年,九条道家の帰依を得て、道家が建立した東福寺の開山第1世となる。
⑥入院後、後嵯峨,亀山両上皇へ授戒を行い、東大寺,天王寺の幹事職を勤める
 当時の朝廷・幕府・旧仏教へ大きな影響力を持った禅僧だったようです。さらに、東山湛照,白雲慧暁,無関玄悟など,のちの五山禅林に関わる人たちに影響を与える弟子を指導しています。この門流を彼の諡から聖一派と呼んでいるようです。
  ここでは教義内容的なことには触れず、弁円の「交易活動」について見ておきましょう。
淳祐二年(1242)、宋から帰国して博多に留まっていた彼のもとに、留学先の径山の大伽藍が火災で焼失した知らせが届きます。彼は直ちに博多商人の謝国明に依頼して良材千枚を径山に贈り届けています。弁円から師範に材木などの財施がなされ、師範からは円爾に墨蹟その他の法施が贈られています。ここには南宋禅僧が仏道達成の証しになるものをあたえると、日本僧が財力をもってその恩義に報いるというパターンがみられます。
 日本僧が財力を持って入宋している例は、栄西や明全・道元らの場合にも見られるようですが、円爾にもうかがえます。彼の第1の保護者は、謝国明ら博多の商人たちで、その支援を受けて中国留学を果たしたのです。そして、資力に任せて最先端の文物を買つけて帰国します。その中には仏典ばかりではく流行の茶道具なども最先端の文物も数多くあったはずです。大商人達たちに布教を行うと同時に、サロンを形成するのです。同時に、彼は博多商人の宋との貿易コンサルタントであったと私は考えています。これは、後の堺の千利休に至るまで変わりません。茶道は、交易業者のたしなみになっていくのです。博多商人の船には、弁円の弟子達が乗り込み宋への留学し、あるときには通訳・医者・航海祈祷師としての役割も果たしたのではないでしょうか。それは、宋王朝に対する対外的活動だけではなく瀬戸内海においても行われます。
 こうして、円爾弁円(聖一国師)を派祖とする聖一派は、京都東福寺や博多を拠点として、各港町に聖一派の寺院ネットワークを形成し、モノと人の交流を行うようになります。観音寺が内海屈指の港町となるなかで、こうした聖一派の禅僧が博多商人の船に乗ってやって来て、信者を獲得し寺院が創建されていったと考えられます。
 これは、日隆が宇多津に本妙寺を開くのと同じ布教方法です。
日隆は、細川氏の庇護を受けて瀬戸内海沿岸地域で布教を展開し、備前牛窓の本蓮寺や備中高松の本條寺、備後尾道の妙宣寺を建立しています。いずれも内海屈指の港町であり、流通に携わる海運業者の経済力を基盤に布教活動が行われています。お寺が日宋貿易や瀬戸内海交易のネットワークの中心になっていたのです。その中で僧侶の果たす意味は、宗教的信仰を超え、ビジネスマン、コンサルタント、情報提供など雑多な役割を果たしていたようです。
伊予への弁円(聖一国師)の門下による聖一派の布教を見てみましょう。弁円の師弟関係が愛媛県史に載っています。

観音寺 弁円

①山叟恵雲は
正嘉二年(1258)入宋、円爾門十禅師の一人で正覚門派祖、東福寺五世で宇摩郡土居町関川東福寺派大福寺は、弘安三年(1280)に彼によって開かれたと伝えられます。
②弁円の高弟癡兀(ちこつ)大恵は、
平清盛の遠孫で、東福寺九世で没後仏通禅師号を賜わっています。彼は保国寺(西条市中野、東福寺末)の中興開山とされ、その坐像は重要文化財に指定されています。伊予に巡回してきた禅師を迎えて開山としたと伝えられます。しかし、禅師の伊予来錫説については否定的見解が有力で、臨済宗としての中興開山は二世とされる嶺翁寂雲であると研究者は考えているようです。
③孫弟子に鉄牛継印は、
観念寺(東福寺末、東予市上市)の開祖とされます。もとは時宗による念仏道場だったようですが、元弘二年(1332)元から帰朝して間もない鉄牛を迎えて中興し禅寺としたと伝えられます。鉄牛は諱を継印、越智郡の菅氏の生まれです。晩年の祖師弁円に学んだ後、元王朝に渡り帰朝しています。
④悟庵智徹(ごあんちてつ)近江の人で、
豊後を中心に九州に布教の後で、宇和島にやってきて正平20年(1365)に、西江寺を開きます。また、西光寺も同じような由来を伝えます。
⑤伊予に最も深い関係をもつのは弟子南山士雲の法系のようです。
彼は北条・足利両氏の帰依を受けた当時のMVPです。伊予の河野通盛が遊行上人安国のすすめで南山士雲の下で剃髪して善恵と号したと云われます。この剃髪によって河野通盛は、足利尊氏の知遇を得て、通信以来の伊予の旧領の安堵されたと『予章記』には、次のように記されています。
 建武三年(1336)、通盛は自己の居館を寺院とし、南山士雲の恩顧を重んじてその⑥弟子正堂士顕を長福寺から迎えて善応寺(現東福寺派、北条市河野)を開創した。ちなみに、正堂士顕は渡元して無見に参じて印可を受け、帰国後当時長福寺(東予市北条)にあった。善応寺第二世はその法弟南宗士綱である。
 河野通盛は、足利尊氏への取りなしの御礼として、建立したのが北条市の善応寺のようです。しかし、正堂士顕が長福寺にいたことを記すのは『予章記』のみのようです。同寺の縁起には、河野通有が、弘安の役に戦死した将兵を弔うため、士顕の弟子雲心善洞を開山として弘安四年(1281)に開創したと伝えますが、年代があいません。
⑥正堂士顕を招請開山として応永二一年(1414)に中興したと伝えるのが宗泉寺(美川村大川)です。しかし、正堂士顕の没年は応安六年(1373)とされますので、これも没後のことになります。
⑦南山士雲の弟子中溪一玄は、暦応二年(1339)開創の仏城寺(今治市四村)の開山に迎えられています。さらに、河野通盛によって中興したとされる西念寺(今治市中寺)は、南山士雲を勧請開山としますが、事実上の開山はその法孫枢浴玄機のようです。
 このように中世の伊予には、弁円(聖一国師)の弟子達が多くの寺院を開いたことが分かります。
1高屋神社
高屋神社から望む観音寺市街
讃岐の西端で燧灘に面する観音寺は、西に向かって開かれた港で、古代以来、九州や伊予など瀬戸内海西部との関係が深かった地域です。伊予での禅宗聖一派ネットワークの形成が進むにつれて、その布教エリア内に入ったのでしょう。それが観音寺町場に、聖一派の禅宗寺院が建立された背景と考えられます。
 しかし、なぜいくつもの寺院が必要だったのでしょうか。
宇多津の日蓮宗寺院は本妙寺だけです。しかし、伊予の場合を見ていると、宇和島や今治・北条市などには、複数の聖一派寺院が建立されています。周辺部への拡大とも考えられますが。観音寺では、各町場毎に競い合うように建立されたのではないかと私は考えています。
観音寺の旧市街の狭い街並みを歩いていると、瀬戸の港町の風情を感じます。
観音寺 アイムス焼き

古くから続く乾物屋さんには、伊吹のいりこをはじめ、酒のつまみになるいろいろな乾物があります。アイムス焼き物や山地のカマボコ、路地の中の柳川うどんなどを味わいながらの町場歩きは楽しいものです。そんな町場の荷揚場に面して禅宗聖一派の西光寺はあります。ここがかつての伊予の同宗派の拠点の一つで、ここに禅僧達がもたらす情報やモノが集まっていた時代があったようです。
 以上、これまでのことをまとめておきます。
①中世の財田川と一ノ谷川に挟まれた中洲に、琴弾神社の門前にいくつかの町場が形成された
②定期市から発展した上市・下市・今市などの町場全体が観音寺と呼ばれるようになった。
③各町場は、それぞれ港を持ち瀬戸内海交易を展開した。
④中世には各宗派のお寺が建立されるようになるが、臨済宗聖一派のお寺がいくつかある
⑤これは開祖弁円(聖一国師)の支援者に博多商人が多かったためである。
⑥博多商人の進める日宋貿易や瀬戸内海交易とリンクして聖一派の布教活動はすすめられた。
⑦伊予は開祖弁円の弟子達が活発に布教活動を進め、各港に寺院が建立された。
⑧そのような動きの中で燧灘に開かれた観音寺もそのネットワークに組み込まれ、商人達の中に信者が増えた
⑨それが観音寺にいくつもの聖一派のお寺が作られる背景である

以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。

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