瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:長宗我部元親の阿波侵攻

 天正7年(1579)から翌年にかけての長宗我部軍の阿波侵攻の経過を史料で追いかけていきます。テキストは「山下知之 戦国末期阿波国の政治情勢と阿波三好氏権力 四国中世史研究NO15 2019年」です。
 この時期になると、土佐軍によって三好軍はじりじりと追い詰められていきます。そのような中で、天正8(1580)年3月に大坂石山本願寺の顕如と織田信長との和睦(勅命講和)が成立し、翌月には顕如が大坂を退去します。この事件は本願寺方を支援していた三好氏に大きな転換点となったようです。次の史料は、天正7年後半頃の阿波をめぐる情勢を伝えるものです。
 阿波平定中の長宗我部元親が羽柴秀吉に宛てた全八カ条からなる書状(写)です。
【史料⑥】(東京大学史料編纂所架蔵「古田文書」)(括弧内は条数を示す)
雖度々令啓達候、向後之儀猶以可得御内証、態以使者申人候、(中略)
一(3)先度従在陣中如令注進候、讃州十河・羽床両城取詰而落居半、大坂を逃下牢人共紀州・淡州相催、阿州勝瑞へ被渡及再籠、
一 名東郡一宮之城を取巻候之条、十河・羽床搦手にハ対陣付置、一宮為後巻至阿州馳向候処、此方備まちうけす敵即敗北候、追而可及一戦処、阿州南方に在之新開道善と申者をはじめ雑賀之者に令同心、大都敵心之輩依在之軍利難計、先謀叛之輩共、或者令誅伐、或令追討、勝瑞一所に責縮、方角要々害・番手等堅固申付、一旦休汗馬候、敵方手成於武篇者手二取見究申間、可御心易候、
一(4)先度之御報に紀州者阿州無競望様二可被仰上之旨、尤大慶存候、既今度彼等謀略之状懸御目候、殊四国行之段御朱印頂戴仕旨、厳重申洩依致蜂起、万一如何様仁被成 御下知候哉と一先戦申加遠慮候、迪之儀詳に被仰上、委曲之御報所仰候、
一(5)阿・讃於平均者、雖為不肖身上西国表御手遣之節者、随分相当之致御馳走、可詢粉骨念願計候、
一(6)三好山城守(康長)近日讃州至(寒川郡)安富館下国必定候、子細口上可申分候、
一(7)淡州野口方(長宗)ノ所来、其元馳参被成御許容候由候、此比淡州之儀、如何可被仰付候、御模様候哉承度存候、紀州之儀被押置候者、阿・讃両国即時被及行可相呆候条、於其上者淡州之義、被(中略)
                                                     長宗我部宮内少輔 元親
(天正八年)霜月廿四日
羽柴筑前守(秀吉)殿人々御中
意訳変換しておくと
度々の報告でありますが、今後のこともありますので使者を立て以下のことを連絡いたします。(中略)
一(3)先日、陣中から注進したように、讃州の十河・羽床両城を攻撃中のことですが、石山本願寺を退城した牢人たちが紀州・淡路の者どもと共に、海を渡ってきて、阿波の勝瑞へ籠城しました。
一 さらに名東郡一宮城を取り囲む勢いです。我々は十河・羽床城攻撃のために(讃岐に)出陣中でしたが、阿波に転進して一宮を取り巻く勢力を敗走させました。それを追ってなお一戦しました。阿州南方には新開道善など雑賀と連携するものがいて、なかなか手強い相手でしたが、これを誅伐・追討することができました。そして勝瑞に迫りましたが、この城は要害化されて、もっとも手強い城なので一旦、兵馬を休め、敵方の様子を窺いながら攻城することにしました。
一(4)先だって報告したように、紀州者が阿波に侵入することがないように仰上いただいているのは大慶の至りです。なお、紀州衆の阿波への侵入事件について、私が四国統一の御朱印を頂戴していることを伝達し、これに従わないことがあれば一戦も辞さないことを申し伝えました。
一(5)阿波と讃岐の大勢は、西国方面の情勢を察して、相当の国衆が帰順しました。
一(6)三好山城守(康長)が近日中に、讃州の(寒川郡)安富館に下国するとのこと、詳しいことについては使者が口上で報告します。
一(7)淡路の野口方(長宗)については、其元馳参被成御許容候由候、此比淡州之儀、如何可被仰付候、御模様候哉承度存候、紀州之儀被押置候者、阿・讃両国即時被及行可相呆候条、於其上者淡州之義、被一中略一
                                                     長宗我部宮内少輔 元親
(天正八年)霜月廿四日
羽柴筑前守(秀吉)殿人々御中
(3)条に「讃州十河・羽床両城取詰而落居半、大坂を逃下牢人共紀州・淡州相催、阿州勝瑞へ被渡及再籠、 一宮之城を取巻候」とあります。長宗我部氏が讃岐の十河・羽床両城を攻囲中に、大坂石山本願寺を退城した「牢人共」が紀州勢・淡路勢とともに、阿波勝瑞に入城に立て籠もり、さらに一宮城を包囲したとあります。この「牢人共」というのは、顕如の大坂退去後も教如(顕如の子)に従って本願寺に籠城・抵抗していた者たちのようです。その勢力が紀伊雑賀衆(門徒衆ヵ)・淡路の反織田勢と合流して阿波勝瑞に入城したというのです。これは、当時三好氏本拠の勝瑞城が織田権力に抵抗する拠点の一つであったためのようです。反信長の旗印が磁場となって、同士たちを引き寄せたとしておきます。

阿波一宮城
阿波一宮城
阿波一宮城5
阿波一宮城
 「牢人共」の攻囲した一宮城は、城主一宮成相が長宗我部方に従属し、三好勢と敵対する関係にありました。この一宮城の攻防戦は、麻植郡内領主の木屋平氏がこの城に籠城していたことが史料から裏付けられます。
 同条(3条)には「阿州南方に在之新開道善と申者をはじめ雑賀之者に「令同心、大都敵心之輩依在之軍利難計」とあります。ここからは、牟岐城主の新開道善らが雑賀衆と連携して、長宗我部氏に抗戦する動きがあったことが分かります。
(6)には、織田信長配下の三好康長が近日中に讃岐の安富氏館へ下向することが記されています。この時期の安富氏は、織田方の東讃岐における拠点であったことは以前にお話ししました。
研究者が注目するのは(4)で、長宗我部元親が「紀州者」の行動について、「謀略」・「蜂起」と表現して、その経緯について説明を求めている点です。これは「牢人共」の行動を、裏で信長が操っているのではないかという疑念が長宗我部元親にあったと研究者は推測します。そのため信長に説明を求めていると云うのです。さらに(7)では「紀州」勢を制圧してくれるならば、「阿・讃両国即時被及行可相果候」とも述べています。
このように天正8年後半は、教如の石山本願寺退出に伴う余波が阿波にも及んでいたことが分かります。具体的には、反信長の旗印のもとに三好勢と雑賀衆(反織田方)が阿波海瑞に集結し、そのベクトルが長宗我部勢への抗戦に向かっていたことを押さえておきます。このような情勢に対応するために長宗我部元親は、織田方に対して紀伊雑賀の制圧と淡路への対応を求めていたのです。
長宗我部元親と明智家の系図
次の史料は、「石谷家文書」に含まれる長宗我部氏関係の史料です。
この史料は、長宗我部氏家臣の中島重房らが明智光秀家臣の斎藤利三・石谷頼辰(利三兄)宛に出した全9ヵ条の書状です。

①中島重房・忠秀書状 天正6年(1578)11月24日
①中島重房・忠秀書状 天正6年(1578)11月24日
(前略)
一(1)阿州之儀者、来春一行可被差競候、落着之段、兎角大坂・雑賀御手遣之節、可被探果候
一(2)淡州へ之御一勢、於御遠慮者、是非雑賀を被押置候やう之御申成肝要候、勝瑞をハ雑賀者過半相踏候、可被成共御分別候、
一(3)讃岐国之事、勝瑞一着を相願躰に候、当分此方敵心候へ共、至極之無遺恨候、千時中国二被搦、此方と敵筋候、勝瑞澄候ヘハ、讃岐之事ハ如何やうも可輛趣候、連々調略子細候間、今一握にて可相下候、
(4)被申入人候 御朱印之事、早速御申請候て可被差下儀、大用に存候、此隣国之儀、誰在之而只今可申請仁有間敷候へ共、とても元親無二御味方に被参事候間、能被人御精、安堵之 御書可被下候、(中略)
(7)(中略)伊予州表之事者、手間入ましき躰候へ共、阿州之儀被懸念第一、淡州・紀州遺恨に付而、与(予)州口之儀成次第之躰二候、 (中略)
十一月廿四日        忠秀(花押)
        (中島)重房(花押)
意訳変換しておくと
(前略)
一(1)阿波のことについては、来春に最終的な軍事行動を起こし、落着する予定です。その際に、雑賀衆への対応が重要になります
一(2)淡路の織田方が、紀州雑賀を押さえておくことが必要です。阿波勝瑞に立て籠もるのは、半分が雑賀者ですので、それへの対応がポイントになります。
一(3)讃岐については、阿波勝瑞が落ちれば、自然と平定は進むと思われます。讃岐衆は、当分は長宗我部方へ敵心を抱くかもしれませんが、遺恨はありません。また中国筋(備中遠征)をめぐって毛利氏とは敵筋になっています。それらから考えて、勝瑞が落ちれば、讃岐のことは如何ようにもなります。連々調略子細候間、一握にて済みましょう。
(4)申請していた「四国平定」の御朱印について、早速に差下しいただけること大用に存じます。元親を織田方の味方に加えていただけることに安堵しています。(中略)
(7)(中略)伊予州方面については、今後も手間がかかりそうそうです。しかし、全体的に見ると、阿波が第1の障害です。特に、淡州・紀州勢の動きが気がかりです。第2に与(予)州という順になります。
(中略)
(天正6年)十一月廿四日        忠秀(花押)
              (中島)重房(花押)
ここには長宗我部氏の阿波と讃岐攻略の見通しが述べられています。その概略は次の通りです。
(1)条に阿波攻略の最後の軍事行動を来春に行うこと
(2)条で三好氏の勝瑞城に雑賀衆が立て籠もっており、織田方に紀州雑賀の制圧を望むこと
(3)条に、讃岐については勝瑞を攻略すれば、その後は容易に攻略できるという見通しを持っていたこと
(4)条に「被申入人候 御朱印之事」「元親無二御味方に被参事候」とあり、信長の朱印状の存在が確認できます。ここからは次のようなことが分かります。
①元親による四国平定の戦いが信長の了解を得て行われていたこと
この時期の長宗我部元親は織田氏に臣従して行動していたこと
元親家臣らが元親と信長の関係が好ましいものと考えていたこと、


徳島県 – KAGAWA GALLERY-歴史館
阿波勝瑞城

この書簡が出された時期については『石谷家文書』の編者は、天正6(1578)年と推定しています。この史料で研究者が注目するのは、史料中に雑賀衆の勝瑞入城や織田方への雑賀衆制圧の要請など、先ほど見た長宗我部元親から秀吉宛の史料⑥とよく似た記述が何箇所かあることです。この時期になると、長宗我部氏の阿波攻勢に対し、三好氏側では雑賀衆などの反織田方勢力と合流して抗戦しようとする動きが出てきます。
 (3)条には「勝瑞澄候ヘハ、讃岐之事ハ如何やうも可輛趣候」とあります。ここからは、讃岐国衆は長宗我部元親に遺恨もなく、抵抗意欲が低く、三好氏が抵抗を止めれば戦うことなく帰順すると考えていたことがうかがえます。以上から長宗我部氏にとっては、三好氏本拠の勝瑞城攻略が阿波・讃岐制圧の最大の目標となっていたことが分かります。その達成のために長宗我部氏は、三好氏と提携して戦う雑賀衆の制圧を期待したと研究者は考えています。

次の史料は、この時期の讃岐・阿波の国内情勢を示す長宗我部側の史料です。阿波攻略を担当した香宗我部親泰から桑名氏(長宗我部氏家臣)に宛てた天正8年の讃岐・阿波の情勢を述べた書状です。
【史料⑧】「香宗我部家文書」
猶以去廿四日 財田よりの御書も相届申候、去廿六日御書昨日三日到着、得其意存候、
一(1)隣国而々儀、悉色立俵相申趣、香中(香川信景)始証人等被相渡、其外之模様条々、無残方相聞申候、是非之儀更難申上候、十河一城之儀も如此候時者、可有如何候哉、家中者心底可被難揃と申事候、
(2)昨日此御書到来、即刻先(一宮)成相ハ乗物にて(那東郡)桑野迄被越候、所労儀もしかじかなく候へとも相進候、
(3)御屋形様(旧阿波守護家細川真之)御進発事、此上者不及用捨事候間、可致御供心得候、常々さへ御いそきの事候間、以外御いらての事候間其覚悟候、兎角無人体見所之儀も如何候へとも左候とてためろふへきニあらす候間、先乗野迄御供いたすへく候、但其方今御一左右可待申覚悟候、
(4)牟岐辺事、此刻調略事候、成相申談相越候、
(5大栗衆手遣事、急度可申遣事、去廿八日太栗衆此方者相加佐那河内不残放火候時者能打入候、恐々謹言、
              (香宗我部)香左       親泰(花押)
十二月四日
桑名殿ヘ
意訳変換しておくと
去る24日に財田からの御書が届き、26日の御書が昨日三日に到着した。その要点を述べておく。
一(1)讃岐隣国の情勢が不安定な中で、香中(香川信景)を始め国衆が人質を出してきた。しかし、その他の情勢は見通しが付かない。十河城についても、いつ落城させられるか見通しがたたない。家中の者たちも、困難な状況だと感じている。
(2)阿波から昨日届いた御書によると、長宗我部方の(一宮)成相が、途中の傷害もなく(那東郡)桑野までやってきたこと
(3)で、「御屋形様(旧阿波守護家細川真之)」の出陣の際には、桑野まで御供をする用意があること
(4)の「牟岐辺事、此刻調略事候」は、牟岐城主新開道善への調略のようで、これに一宮成相とともに当たること
(5条)で、「太粟(名西郡山分)衆」の軍事動員のこと
(1)は讃岐情勢で、香川信景が人質を出して以後、有力国衆も次々と従っているが、抵抗が激しい十河城をいつ墜とせるかは分からないとしています。同時に、讃岐の情報が財田に集められ、そこからまとめて長宗我部元親のもとに送られてきたことがうかがえます。財田は土佐軍の情報収集センターだったのかもしれません。
(3)からは長宗我部元親と「阿波御屋形(守護)」の細川真之が連携していたことが裏付けられます。(4)条は、(1)の「新聞道善と申者をはじめ雑賀之者に令同心」への対応のようです。ここからはこの時期の長宗我部氏は、阿波南方の拠点は桑野(那東郡)であったことが分かります。史料⑧の年次は、内容から見て天正8年と研究者は判断します。

天正9年(1581)になると、織田信長が阿波・讃岐の経略に直接乗り出してきます。

具体的には、阿波三好氏一族の三好康長を阿波攻略の責任者として派遣したことです。京都馬揃の準備を命じた天正9年1月の織田信長朱印状写に「三好山城守(康長)、是ハ阿波へ遣候間、其用意可除候」と記されています。ここからは三好康長が阿波へ派遣される予定であったことが分かります。康長が四国にいつやって来たのかは、一次史料で確認できないようです。軍記ものには同年二月とする記事があります。以後、三好康長を取次として織田信長は、長宗我部氏の外交・軍事を担当した香宗我部親泰に書状を発給するようになります。そのひとつを見ておきましょう。
【史料⑨】(「香宗我部家伝証文」)          43P
三好式部少輔事、此方無別心候、然而於其面被相談候旨、先々相通之段、無異儀候条珍重候、猶以阿州面事、別而馳走専一候、猶三好(康長)山城守可申候也、謹言、
(天正九年)六月十二日           信長(朱印)
香宗我部安芸守(親秦)殿
意訳変換しておくと
【史料⑨】(「香宗我部家伝証文」)          43P
三好式部少輔について、阿波平定について、別心なく誠意を持って勤めていることは珍重である。よって、阿波方面のことについて馳走を行う。なお今後は、三好(康長)山城守に従うように申し伝える。謹言、
(天正九年)六月十二日           信長(朱印)
香宗我部安芸守(親秦)殿
史料⑨は、信長が長宗我部氏に対し三好式部少輔(美馬郡岩倉城主)を支援して阿波での馳走を伝えたものです。
【史料⑩】(「香宗我部家伝証文」)
爾来不申承候、乃就阿力初表之儀、従信長以朱印被申候、向後別而御入眼可為快然趣、相心得可申す旨候、随而同名式部少輔事、一円若輩ニ候、殊更近年就公心劇、無力之仕立候条、諸事御指南所希候、弥御肝煎於我等可為珍重候、恐々謹言、
(天正九年)六月十四日            康慶(花押)
香宗我部安芸守(親泰)  殿御宿所
史料⑩は三好康慶(康長)の副状で、同族で若輩の式部少輔への「御指南」を依頼した内容です。ふたつの史料は織田信長の対長宗我部氏政策に関わる史料として、これまでは見られてきました。史料の年次比定は諸説ありますが 三好康長の阿波派遣の時期から考えて天正9年と研究者は判断します。
史料⑨については、次の3つの説があります。
A 長宗我部氏に対し、式部少輔を支援して阿波支配を行うよう指示したことは、それまでの信長の長宗我部氏に対する政策変更を意味する
B 阿波で苦戦する長宗我部氏を支援するため、信長は三好康長を派遣して同国を康長と長宗我部氏との共同戦線強化に乗り出した
C 三好康長が長宗我部方の同族式部少輔に目を付け、信長と康長が式部少輔への支援を長宗我部氏に命じることで、長宗我部氏の阿波攻略に介入しようとした

このふたつの史料をどう評価するかについては、三好式部少輔をどのように捉えるかが問題となります。
「長宗我部元親」が、「岩倉城」城主「三好式部少輔」宛てに発給した書状
天正6年十月の長宗我部元親書状

天正6年十月の長宗我部元親書状(史料④)と併せて考えると、この時期に長宗我部氏が式部少輔と連携していたことは、史料⑨の「三好式部少輔事、此方無別心候、然而於其面被相談候旨、先々相通之段、無異儀候条珍重候」からも裏付けられます。三好式部少輔は、長宗我部方として行動し美馬郡内に一定の支配領域を持っていたことが推測できます。このことから、織田方が三好式部少輔に注目し、その支援を長宗我部氏に命ずることで、長宗我部氏の阿波攻略に介入したとするC説を研究者はとります。
 長宗我部方に属した一宮成相と日和佐氏の間で交わされた文書を見ておきましょう。
日和佐権頭宛の一宮成相書状には「其表御在陣御辛労不及是非候」、「此方諸口無異儀候、可御心易候」とあます。ここからは一宮・日和佐両氏が連携して長宗我部方として軍事行動をしていたことがうかがえます。
  天正9年11月、羽柴秀吉は淡路へ出兵し、織田権力の支配領域を拡大します。
その経過については「信長公記」や(天正9年)11月20日付の羽柴秀吉書状から裏付けられます。この書状には、次のように記します。

淡州之儀十六日七日先勢差遣、十八日二我等令渡海、所々令放火、洲本(津名郡)迄押詰候(中略)
始安宅各令懇望候条、則人質等取置候て召直、野口孫五郎をも本之在所三原之古城普請等申付入置、一国平均五十三日之中二申付」

意訳変換しておくと

淡路については、16・17日に先陣が先勢が出陣し、18日に我等も淡路に渡海し、所々に放火しながら、洲本(津名郡)まで押詰った。(中略)
洲本の安宅氏を降し人質を取って配下に加え、野口孫五郎に三原之古城(志知城)の普請を申付けた。一国平均五十三日之中二申付」

ここからは秀吉が淡路侵攻し、洲本の安宅氏(神五郎)を服属させて、人質を取ったこと。また野口孫五郎(長宗)に「三原之古城」(志知城)の普請を命じたことが分かります。こうして淡路は羽柴勢によって平定され、織田信長のもとに置かれたと研究者は判断します。

淡路 志知城
羽柴秀吉の淡路制圧を踏まえ、織田信長側近(堺代官)の松井友閑が讃岐東部の安富筑後守・同又三郎に発給した書状を見ておきましょう。
【史料⑪】(「東京大学史料編纂所所蔵志岐家旧蔵文書」)
今度淡州之儀、皆相済申候、於様子者不可有其隠候、就其阿・讃之儀、三好山城守(康長)弥被仰付候、其刻御人数一廉被相副、即時二両国不残一着候様二可被仰付候、可被得其意之旨、惟可申届之通、 上意候間、其元□  □、尤専用候、猶追々可申候、恐々謹言、
                        宮内卿法印
            友感(花押)
(天正九年)十一月十三日
安富筑後守殿
安富又三郎殿
御宿所
意訳変換しておくと
今度の淡路についての平定戦は総て終了したので、隠す必要はなくなった。ついては阿波・讃岐について、三好山城守(康長)を担当責任人者に命じた。阿讃両国の国衆は残らずに、これに従うことを仰せつかった。(信長様の意向を)申届る之通、 上意候間、其元□  □、尤専用候、猶追々可申候、恐々謹言、
ここでは信長は淡路平定を終えた11月時点で阿波・讃岐両国の攻略を三好康長に仰せ付け、安富氏に
その加勢を命じています。これによって、織田信長は三好康長を阿讃両国経営の責任者とする制圧政策を進めたことが分かります。これは一方では、長宗我部元親の反感を招き、両者の対立が一層高まったことが考えられます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山下知之 戦国末期阿波国の政治情勢と阿波三好氏権力 四国中世史研究NO15 2019年
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長宗我部元親の阿波侵攻1
ふたつの方向から阿波に侵入した長宗我部軍
戦国末期の阿波情勢 1573~76

天正3(1575)年に土佐国内を統一した長宗我部元親は、阿波に対して南部(海部郡)と西部(三好郡)の二方面から侵攻します。阿波南部への出兵時期に関しては、「元親記」に天正3年秋と記されています。しかし、現在一次史料で確認できるのは天正5年になるようです。長宗我部軍の阿波侵攻については、これまでも何回か見てきましたが、今回は一次史料で押さえておきます。テキストは「山下知之 戦国末期阿波国の政治情勢と阿波三好氏権力 四国中世史研究NO15 2019年」 です。

日和佐城

この時期の阿波南方領主の動向を示す史料として、海部郡内の日和佐肥前守に宛てた長宗我部氏方の起請文があります。
【史料3】(「高知県立歴史民俗資料館所蔵旧浜家文書」)
今度当方帰参之儀、尤珍重存候、自今以後猶以忠節御覚悟専用候、然上者御進退等儀、不可有疎意候、若此旨於偽者、 弓矢八幡・愛宕山殊氏神可蒙御罰者也、傷起請文如件、
天正五(1577)年 十一月十七日           香宗我部安芸守  親泰(花押)
日和佐肥前守殿
同新次郎殿
この史料は、香宗我部親泰(元親の甥)が日和佐氏の長宗我部氏への「帰参」に際して、今後は忠信を誓うことを誓約させたした起請文です。親泰は海部郡内への侵攻後、攻略した海部城に入城し、周辺領主への調略を図っていたことがうかがえます。これが長宗我部の日和佐方面の軍事行動が最初に見える史料のようです。
 翌年9月には、長宗我部元親自らが日和佐肥前守に起請文を発給して同盟関係を強化しています。天正5年から翌年にかけて阿波南方における長宗我部氏の勢力範囲は、香宗我部親泰の指揮のもとに拡大したことが裏付けられます。調略が順調に進んだ背景には、天正4年に三好長治と対立して阿波南方へ出奔した旧阿波守護家細川真之の強力があったと研究者は考えています。長宗我部氏が反三好方の細川真之を何らか利用しようとした可能性はありますが、両者の連携を史料で裏付けることはできません。

白地城2
大西覚用の白地城
次に、長宗我部氏の阿波西部(上郡)への侵攻を見ていくことにします。
この方面では三好郡内の白地城の大西覚用との役割が重要です。しかし、彼に関する一次史料はほとんどないようです。ウキは大西覚用について、次のように記します。

大西覚用は三好長慶の妹を娶り、三好家と密接な関係を築きあげ、白地城を拠点に阿波・讃岐・伊予の辺境地帯を支配した。阿波国における三好氏の勢力が後退し、土佐長宗我部氏が台頭すると、四国の中央に位置する白地城は四国統一を目指す長宗我部元親の攻勢にあう。城主の覚用は、一族の大西頼包を人質として一旦は和議を結んだ。しかし、三好氏が織田氏に援軍を頼み長宗我部氏に対し対決姿勢を鮮明にすると、覚用は三好笑岩の求めに応じ、和議の条件を破り戦闘準備に取り掛かった。それを知った元親は、まずは阿波の三好軍を破り、続いて天正5年(1577年)白地城の支城・田尾城をわずか2日で攻め落とすと、覚用は讃岐国麻城へ逃げ延びた。天正6年(1578年)には麻城も落城し、覚用は元親に厚遇されていた頼包の勧めに応じて降伏した。阿波に戻った覚用は、三好方に服属している重清城城主で娘婿の重清長政を頼り、長宗我部への降伏を勧めるも拒否されたのでこれを謀殺した。覚用は元親より重清城の守備を任せられるが、程なくして三好方の十河存保の反撃を受けて敗死した
白地城と大西氏
三好郡の阿波大西氏

「元親記」には、次のように記します。
①天正四年に大西覚用は長宗我部氏の調略に内応するが、その後離反し、翌年長宗我部氏の大西攻めで覚用は讃岐の麻口城の近藤氏の元へ落ちのびた。
②一方、大西覚用の弟・上野守〔介〕頼包?)は、阿・讃・予州の境目で長宗我部氏に対し忠功を励んだ。
③その後、長宗我部氏が重清城(美馬郡)を攻略し、その際に岩倉城主三好式部少輔が降伏した
これらを、一次史料で見ておきましょう。
前回に見た史料「(天正5年)二月付大西覚用・同高森書状」には、前回に見たように毛利氏に対して接近し「隣国表(讃岐国)第一申合候」とあって、この時期に長宗我部氏の侵攻の気配を窺うことはできません。従って阿波西部への侵攻は、天正5年以後と考えられます。
次の史料は、長宗我部元親が三好式部少輔に宛てた書状です。
【史料④】(天正6(1578年)十月十三日長宗我部元親書状「長宮三式少 御宿所  一九親」

尚々虎口之様林具可示給候、脇上・太丹へも此由申度候、①先度至南方被示越即御報申候き敵動之事、②頓而引退之由御飛脚日上之間、乗野方之儀も堅固申付、為番手昨日打入候、③然者又自勝瑞十日二相動候由大西方注進候、ホ今居陣候欺、於事実者加勢之儀不可移時日候、⑤将亦大西之儀覚用下郡被取組之由候、⑥大左・同上此方無別義趣共候、乍去彼邊之事弥承究機遣緩有間敷候、⑦定而敵表之儀為指事雖不可在之候、御手前堅固御武略肝要候、猶追々可申入候、恐々謹言、
拾月十三日        元親(花押)
三式少御宿所

意訳変換しておくと
三好式部少輔が阿波南方(勝浦郡以南の地域)に対して10月13日に連絡をとった書簡
①返事が出された敵の動きについて、まもなく撤退したという南方からの飛脚の口上があった
②それを受けて10月12日に那東郡桑野についても堅岡に命じ、番手を配置した。
③10月10日には、勝瑞から岩倉表へ軍事行動があったと大西から注進を受けた。
④現在も居陣しているのか、事実であれば早期に加勢を派遣したい。
⑤大西の動向について、大西覚用が下郡と戦闘に及んでいるとのことである。
⑥「太左」「同上」は、長宗我部氏に別儀ない様子である
⑦敵の動きは大したことはないだろうが、三好式部少輔の堅固な武略が肝要である。
⑦虎口の様子を詳しく知らせて欲しい。
⑨「太丹」「脇上」へもこの旨を伝えたい。」
宛所の「長宮三式少 御宿所 」は美馬郡岩倉城主の三好式部少輔(三好康長の一族?)とされます。ここからは長宗我部元親と式部少輔の間で阿波国内の戦況についての連絡が交わされていたことが分かります。つまり、岩倉城は毛利方が握っていたことになります。内容としては、
①元親が阿波南方の「敵動(三好勢の動き)を受けて桑野城の守備を命じ、番手を配置したこと、
②勝瑞(三好氏本拠)から当月十日に軍事行動があったことが大西(三好郡の大西覚用?)注進があり、現在も三好勢の居陣の事実があれば、すぐに加勢をすることなど
以上からは、三好勢と長宗我部勢との間には、南方や上郡で交戦状態にあったことが分かります。
③大西氏の動向に関しては「大西之儀、覚用下郡被取組之由候」とあり、大西覚用が「下郡」(三好勢)に与していることに対して、「太左・同上此方無別儀趣共候」とあることから、大西左馬頭長頼と大西上野介頼包は、長宗我部方であったことが分かります。
④「このような情勢のもとに元親は、岩倉城主三好式部少輔に対し堅固な武略を求めるとともに、「虎口之様躰」についての教示を依頼しています。
史料⑤の年次については、勝端の三好氏の軍事行動から判断して天正6(1578)年と研究者は判断します。
以上からは、天正6(1578)年前後について、次のような事がうかがえます。
A この時期の長宗我部氏の勢力範囲が南部では那東郡桑野周辺まで、西部では三好・美馬両郡(上郡)に及んでいたこと
B これら地域で三好氏勢力と交戦状態にあったこと、
C 上郡では、大西氏(覚用を除く)をはじめ三好式部少輔、武田氏等が長宗我部氏に従属していたこと
 .次の史料は、岩倉表(美馬郡)での三好氏と長宗我部氏との合戦の様子を伝えるものです

岩倉城2
岩倉城(脇町)
【史料⑤】(「藩中古文書」穂出5郎右衛門蔵)    38P
今度於岩倉表不慮儀、不及是非□、渡辺源太差越候処、関二相帰国候、然者左右延引候、然処二従其方人数可被越之旨、従両所中被申越候、誠不始千今儀快然候、此表之儀、敵於相働者、以一戦可討果候、兎角其方ョリ馳走段、可為喜悦候、恐々謹言、
正月朔日              (三好存保)義賢判
穂出五郎右衛門尉殿
これは、三好義堅(存保)が紀伊雑賀衆の穂出氏に宛てた書状(写)です。この時期、三好氏と穂出氏などの紀州雑賀衆が「反信長」で団結して軍事行動していたことがうかがえます。この史料で研究者が注目するのは、「今度於岩倉表不慮儀」です。これは三好氏が岩倉表で長宗我部勢と戦い、敗退したことを示しています。
 この合戦については、同時期の麻植郡山間部領主の木屋平越前守に宛てた長宗我部元親書状にも「今度於岩倉被及一戦、彼表へ歴々無比類手柄共候」とあります。元親は従軍した木屋平氏の戦功を賞しています。これがいつだったかについては、「元親記」などから天正7年末~天正8年のことと研究者は考えています。ここからは三好氏の勢力範囲が、本拠地の勝瑞に向かって後退を続けていることが見えて来ます。
 この時期の長宗我部元親は、阿波国内への侵攻作戦と同時に、織田信長との関係強化を図ります。
(天正6年)十月の(A)織田信長書状写や(B)同年12月の長宗我部元親書状には、信長から元親嫡男弥三郎(信親)への偏諄授与のことが記されています。
(A)の信長書状写に「阿州面在陣尤候」
(B)の元親書状には「阿州之儀、調略不存由断候」
とあるので、長宗我部氏は織田信長との関係を強めながら、織田権力を背景に隣国への侵攻と調略を進めたことがうかがえます。この時期の三好氏は、国内で長宗我部勢と対戦する一方で、毛利氏らと大坂本願寺を支援して織田権力に対峙していたと研究者は判断します。
以上 1576年から77年までの阿波三好氏を取り囲む情勢を史料でみてみました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山下知之 戦国末期阿波国の政治情勢と阿波三好氏権力 四国中世史研究NO15 2019年」 

                  長宗我部元親の阿波侵攻1

長宗我部元親は天正5(1577)年には、海部郡や祖谷山を支配下に収め、さらに池田城主の大西覚用の籠絡にも成功します。大西覚用は元親に甥の上野介を入質として差し出しますが、後に元親を離反し三好方につきます。そこで元親は香宗我部親泰に大将を命じて4月末には池田城侵攻を行っています。その時には、人質であった大西上野介が先導役を勤めています。覚用は敗れて讃岐に逃れ、元親は戦後処理として白地城を築き谷忠兵衛に守らせ、上野介には馬路城を与えます。

白地城

白地城 吉野川水運の終点
この白地の地は、「土佐の豊永と云ふ在所より道のほど二里、讃岐堺(境)なり」(『長元物語』)とされ、土佐国から阿波国に入る玄関口にあたり、吉野川水運の終点でもあり、伊予や讃岐への分岐点で交通の要衝地でした。
天正6年には重清城を陥落させ、翌年の天正7(1579)年には岩倉城を攻略して阿波国西半を手中にします。
岩倉城2
岩倉城(脇町)
   岩倉城は、美馬市脇町の田上にあった城で、文永4年(1267年)に守護としてやってきた小笠原長房が居城としていたとされます。戦国時代に入ると三好康俊が城主となり、脇城と連携して、この地方一帯を支配していました。徳島自動車道の建設に伴う発掘調査では、空堀状の溝や犬走状の遺構が出てきています。本丸曲輪は東西約17m・南北約39m、北側に幅約9mの堀切があります。本丸の周辺には、観音坊や丹波ノ坊など六坊と呼ばれる6つの出城が配され、防御を固めています。城跡北側の真楽寺(真言宗大覚寺派)は、岩倉城廃城後に六坊の1つである北ノ坊に建立されています。

天正7(1579)年のこととして『元親記』には、次のように記します。

「大西の下郡へ打出でらるる処、三好も大西の下、重清と云ふ城まで打出で、川越に戦あり。大西上野守・久武内蔵助先陣して川を渡り、三好方の武者、川へ下り入りて、鎗を合す処に、猛勢に追立てられ数人討たるなり。重清の城へも籠らず、下郡さして敗軍す。その儘重清の城を乗取り、この競を以て則ち下郡岩倉表へ発向すべしと、人数を差向けらるる処、岩倉城主式部少輔の老、大嶋丹波と云ふ者御礼に罷出る。是も実子を召しつれ人質に進る。この度にて上郡二郡分相済み、先づ帰陣ありしなり」
 
意訳変換しておくと
「大西城の下郡へ陣を進めていくと、三好方も重清城までやってきて、川越で戦いとなった。大西上野守・久武内蔵助が先陣として川を渡ると、三好方の武者も川へ入り、鎗を合せた。
しかし、猛勢に追立てられ数人討たれると三好方は、重清城を捨てて下郡へ敗走した。そこで、重清城に入城し、この勢いで岩倉城を目指すべし、軍勢を差向けようと準備していた。すると、岩倉城主の式部少輔の老、大嶋丹波と云ものが使者とやってきた。そして実子を人質に差し出した。こうして上郡二郡を占領下に置いて帰陣した」

康俊と脇城の武田信顕は、長宗我部元親に降ります。そして、三好勢を岩倉城に誘き出し、土佐勢とともに、三好方の多くの武将を脇城下で殲滅します。これが岩倉合戦(脇城外の戦い)です。これによって、天正7(1579)年には岩倉城のある美馬郡まで、土佐軍の占領下に置かれます。

徳島県 – KAGAWA GALLERY-歴史館
三好氏の拠点だった勝瑞城

勝瑞城は「阿州表之儀、重而被申越候、勝瑞弥堅固之由尤候」と言われていました。
ところが天正10(1582)年の本能寺の変を境に、長宗我部氏の侵攻を受けて、にわかに風雲急を告げます。この時期の三好氏をめぐる動向について、藤田達生氏は次のように述べています。(要約)
⓵天正3年10月に、信長が嫡子信親の烏帽子親となり、以降は明智光秀が取次として信長と元親を結びつける。
⓶ところが瀬戸内海での水軍掌握に努めることになった秀吉が、淡路水軍をつかさどる安宅信康に働きかけるとともに三好氏にも接近する。
③そのため、秀吉は三好康長に阿波旧領の回復の助成を行った。
④天正9年6月、秀吉は信長に対しても元親との関係を見直す四国政策の変更を決定させた。
⑤この直後、元親は伊予の金子氏と軍事同盟を結び、讃岐天霧城で毛利氏とも同盟を結び反信長の姿勢を鮮明にしていく。
⑥天正10年8月に中富河の戦いで長宗我部元親は十河(三好)存保を破り、9月に勝瑞城を陥落
藤田氏が「元親は本能寺の変と連動して軍事行動をおこない、短期間で四国統一を実現しようとした」と評価します。
中富川合戦記3
中富川の合戦
中富川の合戦から勝瑞の陥落、三好氏の讃岐敗走にいたる経緯を『南海通記』は次のように記します。
天正十年八月初に、土州元親二万三千の兵を挙げて、阿州牛岐の城に着陣す。同国勝瑞の城主三好存保は、後援信長公莞じ玉ひて、孤独と成て援けなけれども、責め我が一人の上に受けて、撓む気色もなく、勝瑞に住しける。
  凡二万三千余人の着到にて、親泰が居城牛岐に馳集まり、五日の評定有て、八月十六日に打立ち、其日一の宮・夷山両城の間を押通りて、早淵に至る。城より足軽を出し、鉄砲を打ちかくる。天正十年八月廿八日、中富川の戦に元親勝利を得て、直に勝瑞の城に取かくる。此城は上代より屋形構なれば、方一町にして土居堀一重なり.其内に楼十四、五掻双て、僅に五千余人を以て相守る
  (中略)
勝瑞の城は二万余の大兵を以て昼夜とり囲み、攻戦ふ処、六、七日過ぎて大雨ふり、雷動して山を崩す。世人みな、久しく相続したる屋形を攻崩す故に、天の咎かと恐る。元親は一里引取り、黒田原に陣を居へ、存保は勝瑞の城を明けて、九月十一日の夜、東讃岐へ退去す。元親即ち勝瑞の城を破却せらる。  撫養の内に、本津山城には篠原肥前人道自遁が居城なり。いまだ元親にも服せず、三好にも同心せずして、自立の志あり。其後は信長を後盾にて居たりしが、信長崩じ玉ひて後、元親力を得て、四国に横行する故に、城を明捨て、淡州へ退去す。

  意訳変換しておくと
天正10(1582)年8月初に、長宗我部元親23000の兵力で、阿波の牛岐の城を囲んだ。本能寺の変で同盟関係にあった信長の支援が受けられなくなった勝瑞城主の三好存保は、勝瑞を動こうとしない。  23000余人の軍勢が牛岐に結集し、5日に評定。8月16日に出陣し、一の宮・夷山両城の間を押通って、早淵に至る。両城からは足軽がでてきて、鉄砲を打ちかけてくる。天正10年8月28日、中富川の戦に長宗我部元親は勝利して、ただちに勝瑞城の後略に取りかかる。この城は細川氏や三好氏の屋形であったため、方一町で土居堀に囲まれていた。その中には楼十四が建ち並び、五千余人で護っていた。
  (中略)
  勝瑞城を土佐軍二万余の大兵が昼夜とり囲み、攻戦が行われた。六、七日過ぎて大雨が降り、雷動して山が崩れた。これを世人は、長く続いた屋形を攻崩ことへの天の怒りと噂した。 そこで、元親は一里ほど陣を下げて、黒田原に着陣し、城を明け渡すことを求めた。これに対して、存保は勝瑞城を明けて、9月11日の夜、東讃岐へ退去した。そこで元親は勝瑞城の破却を命じた。
  撫養の本津山城は、篠原肥前人道自遁のが居城であったが、元親にも服せず、三好にも就かずに、自立志向であった。そのため信長を後盾にていたが、信長が亡くなった後は、城を打ち捨てて、淡路に退去した。
中富川合戦記2
紫色が土佐軍の動き(二方面から侵攻) 水色が三好方 

以上を整理しておくと
① 1582年 長宗我部元親軍は牛岐城(富岡城)で作戦会議を開いた。
②8月26日 夷山城・一宮城を経て、勝瑞城を目指し、翌27日全軍を集結させた。
③二手に分け、香宗我部親秦が約3千兵を率いて中富川の南岸へ着陣した。
④これより前に十河存保は一宮、夷山の両城を放棄して、勝瑞城に兵力を集中させていた。
⑤28日長宗我部元親は全軍に出撃命令を下し、先陣の香宗我部親秦隊は北岸へ突入した。
⑥十河存保軍はこれに対して勝瑞城を本陣とし、矢上城を先陣とした。
⑦矢上城大手付近に約2千兵、後陣として約3千兵を配して防塞を築いた。

中富川合戦記 

⑧香宗我部親秦隊が中富川を渡り始め、長宗我部本隊が南東より、香宗我部親秦隊は南西より進み両方から攻め立てた。
⑨元親と和讓を結んでいた一宮城主小笠原成助、桑野城主桑野康明らが6千の兵を率いて中富川へ押し寄せた。
⑩十河軍の激しい反撃にあい、元親軍は一時怯んだが、大軍で数の力で勝瑞城まで追い詰め包囲した。
⑪9月5日に大雨が5日間降り続き、後方の吉野川本流と中富川が氾濫。板野平野一帯が大洪水となり戦略は一時休止。
⑫水が引いた後に、中富川を挟んで戦闘が始まり、勝瑞城の内外でも両軍の入り乱れで乱戦となり多くの死傷者がでた。
⑬三好勢の形成は不利で、矢上城主矢野虎村、赤澤、七条、寒川氏らの多くの戦死者を出した。
⑭勝瑞城の明け渡しを条件に讃岐への退去を十河存保は許された。
⑮両軍の死者数の合計は約1500名、重軽傷数はこれらをはるかに上回った。

  中富川合戦で三好方の戦死した城主一覧

矢上(矢上虎村)、下六条(三好何右衛門)、板東(板東清利)、七条(七条兼仲)、板西(赤沢宗伝)、保崎(馬詰駿河)、西条(西条益太夫)、北原(北原義行)、知恵島(知恵島重綱)、南島(甘利奥右衛門)、乗島(乗島来心)、高畠(高畠時清)、第十(第十拾太夫)、日開(鎌田光義)、徳里(白鳥左近)、下浦西(田村盤右衛門)、鈴江(鈴江友明)、櫛淵(櫛淵国武)、長塩(長塩六之進)、大寺(大寺松太夫)、野本(野本左近)、大代(大代内匠)、佐藤須賀(佐藤長勝)、瀬部(瀬部友光)、高志(高志右近)、讃岐・大内(寒川三河守)、讃岐・宇多津(奈良太郎左衛門)、飯尾(飯尾常重)、中島(片山重長)、角田(角田平右衛門)、湯浅(湯浅豊後守)、福井(芥川宗長)、大潟(四宮光武)、古川(古川友則)、市楽(石河吉行)、中庄(中庄主膳)、新居(堀江国正)、原(原田信綱)、香美(香美馬之進)、吉田(原田小内膳)、姫田(姫田甚左衛門)、由岐(由岐有興)【長宗我部に味方した阿波の城主】牛岐(新開道善)、一宮(一宮成助)、夷山(庄野兼時)、桑野(東条関之兵衛)【その他】木津(篠原自遁)」      

中富川合戦の戦士将兵の墓石集積(愛染院)
中富川合戦の墓石群(愛染院)
この戦死者名を見ると、板野郡の武将に集中していると研究者は指摘します。
その背景には中富川合戦の段階で、長宗我部元親に敵対するのは勝瑞のある板野郡に限られていたことがうかがえます。つまり、阿波国内の他地域の武将の多くは、この時すでに元親の傘下にあったことになります。
中富川合戦後、反元親の十河(三好)存保は9月21日、三好康俊は10月10日にそれぞれの居城である勝瑞城・岩倉城を明け渡して阿波から撤退しています。富岡城主新開道善は9月16日に、一宮城主一宮成助は11月7日に夷山城で虐殺されます。

十河(三好)存保を讃岐に追放して、阿波のほぼ全域を支配下においた元親は、服属した阿波の諸将に所領の宛行を次のように行っています。
今度及検地内参百町進之候、右之外於河北式千貫、申合之旨、不可有相違候、恐々謹言、
天正十一(1583)年二月十九日
                        長宗我部宮内少輔 元親(花押)
                        長宗我部弥三郎  信親(花押)
一宮民部少輔殿
御宿所へ
これは一官民部少輔に「河北式千貫」を宛行ったものです。その他、戦功のあった諸将を以下のように
配したことが『長元物語』に次のように記されています。
阿波一ケ国元親公御仕置ノ事
牛岐城ヘハ、御舎弟香宗我部親泰入城有テ、阿波一ケ国諸侍物頭二仰付ラルゝ
一ノ宮ヘハ先手物頭ノ江村孫左衛門入城ニテ、組与力此所ニヲイテ知行給ル
岩倉ノ城ヘハ、長宗我部掃部頭入城組与力此所ニテ知行給ル
海部ノ城ハ、香宗我部親泰根城
吉田ノ城ヘハ、北村間斎入城ス
宍喰ノ城ヘハ、野中三郎左衛門人城ス
二ウ殿、東条殿、其降参ノ国侍、歴々ノ城持、前々持来ル知行無相違仰付ラレ、年頭歳末ノ御礼有之事
主要な城主を挙げておくと次のようになります
牟岐城に香曽我部親泰
一宮城に江村孫左衛門
岩倉城に長宗我部掃部頭
古田城に北村問斎
宍喰城に野中三郎左衛門
この書状は天正11年のものとされ、長宗我部元親が阿波国内をほぼ制圧して以後のものです。
元親が阿波一国を征服たのかどうかについては、研究者の意見の分かれる所のようです。
例えば次のような秀吉の書状があります。
八木弐百石、あわとさとまり(阿波国土佐泊)の篠原甚五
はりましかまつにて可相渡者也、
天正十弐
十月十六日     秀吉(花押)
弥ひやうヘ
もりしまのかみかたへ、
この秀吉の書状が示すように天正12年10月の段階で、秀吉は阿波国土佐泊城に籠もる篠原甚五・森志摩守村春に支援を行っています。こうした動きは天正九年の頃から始まっています。

阿波土佐泊城
秀吉からの支援を受けて、長宗我部元親に抵抗を続けた土佐泊城

土佐泊城
撫養港の入口に位置する土佐泊城

同年10月の黒田官兵衛宛ての秀吉書状には、次のように記されています。

木津・土佐泊兵糧之事、申付相渡候、右両城玉葉事、先度書付候分、是又申付候」

ここからは秀吉が三好勢を支える木津や土佐泊の篠原・森両氏への兵糧支援を、この時期にも黒田官兵衛に命じていたことが分かります。そのため長宗我部元親の土佐泊城攻略は、讃岐虎丸城とともに困難をきわめます。ここからは元親は、阿波や讃岐の完全攻略には成功していないと研究者は考えています。
 従来の通説では次の通りでした。

「小牧・長久手の戦いの最中であった天正11(1583)年6月に長宗我部氏が十河勢力を掃討したことで阿波と讃岐を掌中におさめた。」

これに対して津野氏は次のように疑問を呈します。

「実際には秀吉の支援をうける十河勢力が讃岐虎九・阿波土佐泊を拠点に抵抗しており、それは長宗我部氏が同盟者金子氏に加勢を要請するほどの攻勢をとりさえした」

長宗我部元親の阿波・讃岐・伊予侵攻について、野本亮氏の見解を再度挙げておきます。

急峻な四国山地を一領具足を主力とした数万の軍勢が越えるのはほとんど不可能に近く、武器・弾薬・食料の輸送という面から見ても現実的ではない。阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」

以上をまとめておくと
①元親は、土佐から他国への軍事行動について、地理的に困難が伴うことを熟知していた。
②そのため土佐軍による単独の軍事的侵攻を極力抑えていた節がある。
③その方策として、日和佐氏と同盟関係を結んだり、豊楽寺を通して祖谷山衆を傘下に組み込んだりしている。
④侵攻に至るまでに充分な事前の工作と準備を行っている。
⑤このような情報収集や外交交渉を行ったのが長宗我部元親に仕える修験者ブレーンたちであった。

長宗我部元親の讃岐侵攻については以前にお話ししましたので、今回は阿波国西部への侵攻について見ていくことにします。その際のポイントは、
①阿波西部(祖谷地方)を、どのようにして配下に置いたか。
②その支配管理システムとして機能したのは、どんな組織なのか
③祖谷山衆は、長宗我部元親の配下でどのような役割を担ったのか
テキストは、「石尾和仁 長宗我部元親による阿波国侵攻の「記録」と「記憶」 四国中世史研究」です
中世後半の祖谷山地域の構成メンバー36名は次の通りでした。

祖谷山三十六名
祖谷山36名
東祖谷山12名
菅生・久保・西山・落合・奥井・栗枝渡・下瀬・大枝・阿佐・釣井・今井・小祖谷
西祖谷山24名
閑定・竜末・名地・有瀬・峯・鍛冶屋西・中屋・平・榎・徳善・西岡・後山・尾井内
・戸谷・田野内・田窪・大窪,地平・片山・久及・中尾・友行
元親は、これらの祖谷山衆を配下に組み込み、先陣とするかたちで阿波国内への侵攻を進めていきます。それを示す史料として研究者が取り上げるのが高知県大豊町の旧豊永郷の豊楽寺(ぶらくじ)の史料です。
豊楽寺薬師堂/ホームメイト
豊楽寺薬師堂(国宝:四国最古の建造物)

豊楽寺についてウキは次のように記します。
 豊楽寺は高知県長岡郡大豊町にある真言宗智山派の仏教寺院。山号は大田山。大田山大願院豊楽寺と号する。本尊は薬師如来。別名は柴折薬師。薬師堂は国宝に指定されている。
  薬師堂は12世紀頃(平安時代末期 - 鎌倉時代初期)建立の四国最古の建造物。内陣に如来像3体を安置。1574年に長曾我部元親が、1637年に山内忠義が修理し、1637年の修理で前面中央に1間の向拝が追加された
 豊楽寺は724年(神亀元年)、吉野川北岸の険しい丘に聖武天皇の勅願所として行基が開創したと伝わる。寺号は聖武天皇が薬師本願経説の一節「資求足身心安」より名付けたとされる。」((https://ja.wikipedia.org/wiki/豊楽寺))
豊楽寺薬師堂
豊楽寺薬師堂

この寺は、行基創建の伝承を持っていますが、初見史料は仁平元(1151)年の「豊楽寺薬師如来像胎内銘」になります。
また熊野信仰との神仏混淆が強く見られる寺でもあります。土佐への熊野信仰の流布は、吉野川支流の銅山川沿いの伊予新宮の熊野神社や、この豊楽寺が拠点になったことは以前にお話ししました。これらの寺は、熊野行者や廻国の聖や修験者の活動拠点となっていました。ある意味では。熊野詣での道筋を修験者が土佐軍を先導したという見方もできます。長宗我部元親のブレーンとなっていた土佐の修験者たちも、この寺を拠点として阿波や讃岐の情報収集センターとして活用していたと私は考えています。
豊楽寺には、天文24(1555)年の豊楽寺鐘勧進帳の写しが残されています。ここには小笠原・豊永一族など阿波小笠原氏の一族の名があります。その他にも、西山氏・森氏など阿波国関係者の人名が見えます。 さらに、天正5年に再興された豊楽寺に残された2通の「大田山豊楽寺御堂修造奉加帳」には、次のような人名が見えます。

中世讃岐の仁尾 仁尾浦商人の営業圈は土佐まで伸びていた : 瀬戸の島から
「大田山豊楽寺御堂修造奉加帳」
この中には「仁尾 塩田又市郎」も見えます。
仁尾の肩書きと塩田の名字から見て、仁尾の神人の流れを汲む塩田一族の一人と考えられます。又市郎は豊楽寺の修造に際し、長宗我部家臣団とともに奉加しています。それは元親の強制や偶然ではなく、以前からの豊永郷や豊楽寺と又市郎との密接な繋がりがあったことをしめします。彼が讃岐の西讃地方への侵入の際には手引きを行った可能性もあります。

 本題の祖谷山衆にもどります。ここには、次のような祖谷山衆の名前も見えます。

「西山三郎左衛門」「有瀬有京進」「峯将監」「尾井内孫九良」「今井孫一」
「奥井孫吉郎」「阿佐出羽守」「平孫四良」「徳善河内守」「後山孫二郎」
「大窪右近」「大枝大炊介」「西雅楽介」

ここには祖谷の各名の有力者の人物名が並んでいます。吉野川上流部に当たる阿波国西部と土佐国北部の国境をはさんで 、2つの地域的連合が豊楽寺を核にして形成されていたことが分かります。彼らの宗教的紐帯になっていた豊楽寺を、長宗我部氏が押さたということは、祖谷山衆も天正年間の初期にはすでに掌握していたことがうかがえます。
市村高男氏は、これについて次のように述べます。

  長宗我部氏が阿波から讃岐への進出を目指し、土佐から阿波への北の玄関口に当たる豊永郷へ、制圧した本山氏の一族・旧臣と、服属した阿波の祖谷山山中の在地武士たちとを結集させ、いつでも出撃できる態勢を整えさせるとともに、豊永郷の押さえに当たらせていたことを示すものであろう。

祖谷山衆が長宗我部元親の配下に置かれたことを裏付ける史料を見ておきましょう。
『祖谷山旧記』には、長宗我部元親から次のような具体的な軍事行動が求められていたことが記されています。
さたミつ(貞光)口ヘ被打出(進出)候由、御心遣不及是非、万若殿請合を以、山分けんこの御機遣尤専用候、連々入魂じるしたるへし、猶自是可申、謹言
                                    長宮(長宗我部)元艘(元親) 判
すけをい殿
く ほ 殿
西   殿
ここには、「すけをい」「くほ(久保)」「西」の祖谷山衆に対して、祖谷山中から吉野川平野へ抜けるための要衝であった「さたミつ(貞光)口」へ打ち出る(侵攻)ことを求めています。曽根氏は、この史料を天正6(1572)年頃のものと推定します。ここからも祖谷山衆の一部が長宗我部氏の配下となっていたことを示します。
  天正8(1574)年のものと推定される長宗我部元親から木屋平越前守宛の書状を見ておきましょう。
今春慶事珍重々々、去冬岩倉伝二預音状候両国武略付而此表在陣候処、今度於岩倉被及 戦彼表へ暦々無比類手柄共候、定而して可有其聞候条、具不及申候、弥相談下郡表可及行評儀候条、相応之御馳走可為此節候、当表居陣候間、互切々可申通候、恐々謹言
正月二日          長宮(長宗我部)元親(花押)
木越御返報
意訳変換しておくと
今春慶事珍重々々、冬の岩倉伝二からの武略・陣そろえにについて報告を受けた。この度の岩倉城攻防戦において、大きな手柄を挙げたと聞いている。云うまでもないが、論功行賞については評議を行った上で、相応の褒美を与えるつもりである。今は陣中なので、抜かりなく供えるように申しつける。恐々謹言
正月二日          長宮(長宗我部)元親(花押)
木越御返報
ここには天正7(1573)年12月の岩倉城をめぐる攻防が記されています。その戦いの際の木屋平氏の軍忠を「暦々無比類手柄共候」と賞したものです。木屋平氏が長宗我部元親の傘下で働いていたことが分かります。
 天正5年に三好長治が自刃し、翌年十河(三好)存保が勝瑞に入ります。この時の情勢を『三好家成立之事』は、次のように記します。

「山方ハ去年ノ秋ヨリ(一宮)成助二雖順、里々ハ何レモ(十河)存保治メ給ケル」

ここからは、この時点で一宮城主の一宮成助は、「山方」を支配下に置いていたことが分かります。
次に三好方が一宮城の攻撃を企てたときに元親が一宮成助を救援するために木屋平氏らを動員した書状を見ておきましょう。
態音間本望候、誠今度一宮詰口之儀、可追払諸卒着向候処、後巻不持付敵敗北無是非候、殊御一類中御籠城所々即時被得勝利珍重候、向後弥御馳走可為肝要候、猶従是可申候条、不能子細候、恐々謹言
九月十日      長宮元親(花押)
木上
木越人    御返報
木上は木屋平上野介、木越入は木屋平越前守人道のことです。元親は両者に対して一宮城に籠城して戦ったことに対する軍忠を賞しています。その他にも、木屋平氏に対しては三好勢の侵攻に対して動員をかけている書状もあります。以上からも山間土豪層は、天正年間、元親の傘下として活動していると研究者は判断します。

長宗我部元親の阿波侵攻1
長宗我部元親の阿波侵攻図
『祖谷山旧記』にも以下のように記されています。

「土佐国長曽我部宮内少輔元親、四国分国之節、私共六代之曾祖父菅生孫一郎、久保源次郎、西山主殿介三人旗下二加り、土佐并御当日・伊予・讃岐二而知行給候」

意訳変換しておくと

「土佐の長曽我部元親は、四国分国の際に、私どもの六代曾祖父である菅生孫一郎、久保源次郎、西山主殿介の三人が長宗我部元親の旗下に加り、土佐や阿波・伊予・讃岐に知行を得ました」

ここには長宗我部氏の配下として活動した祖谷山衆が、四国各地で知行を得ていたことが記されています。ここからも祖谷山間部土豪が長宗我部元親の配下にあったことを裏付けます。

天正13(1585)年に長宗我部元親が撤退して、蜂須賀氏が入部してきた時に、山間土豪の大規模な一揆が勃発します。
これに対して従来は「阿波の山間土豪は豊臣勢と長宗我部勢の対抗の日和を見ていた状況で、傍観の態であった」とされてきました。しかし、傍観していたわけではなく、積極的に長宗我部氏に与しようとしために豊臣系大名である蜂須賀氏の入部に対して山間土豪による一揆が勃発したと考えるべきだと研究者は指摘します。
以上をまとめておくと
①長宗我部元親は西阿波への侵入に際して、祖谷山衆を配下に置いた
②それは、地域の宗教的中核寺院である豊楽寺の史料からも分かる。
③祖谷山衆は長宗我部元親の阿波侵攻の戦陣として活動し、四国各地に知行地を得た。

長宗我部元親の阿波・讃岐・伊予侵攻について、野本亮氏は次のように記します。

急峻な四国山地を一領具足を主力とした数万の軍勢が越えるのはほとんど不可能に近く、武器・弾薬・食料の輸送という面から見ても現実的ではない。阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」

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