瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:長宗我部地検帳

河野氏・湯築城年表
戦国初期の伊予

 前回は伊予の河野氏が守護職という地位にありながら、戦国大名としての領国統治策が弱かった要因として、次のような点を挙げました。
①河野氏は、室町幕府の中では家格が低く、相次ぐ中央の戦争に切れ日なく動員されたこと。
②そのため伊予を不在にすることが多く、領国支配体制の強化がお留守になったこと
③別の見方をすると瀬戸内海交易で得た資本が、領国統治強化に使われずに、幕府の軍事遠征費として使用された
 これが河野氏が領国支配体制を強めていくためには大きなマイナス要因になったとしました。

さて、河野氏の室町幕府の将軍とのつきあい方には、ある特徴があると研究者は指摘します。今回は、河野氏の足利将軍との関係について見ていくことにします。テキストは、「永原啓二   伊予河野氏の大名領国・小型大名の歩んだ道   中世動乱期に生きる91p」です。
河野氏は、守護であるという地位にかなりこだわりを持ち続け、これを自分の立脚基盤にしようとしたようです。
 河野氏は戦国時代の終わりのころになっても、将軍に贈答を送り続けます。
1 秋山源太郎 haitaka

ハイタカ
具体的には「ハイタカ(鷹)」という猛禽類を贈る風習を止めませんでした。鷹狩りには、オオタカ・ハイタカ・ハヤブサが用いられましたが、将軍が使っていたのはハイタカでした。ハイタカは鳩くらいの小型の鷹で、その中で鷹狩りに用いられるのは雌だけです。そのハイタカにも細かいランク分けや優劣があったようです。贈答用のハイタカは領内の森林で捕らえられ、鷹匠が飼育し、狩りの訓練もしたもので、手間暇と費用のかかる最高ランクに近い贈答品だったようです。

地方の大名たちが鷹を捕らえて将軍に送るというのは、ひとつの儀礼で、忠誠心のあかしを示すもので、頻繁に行われていました。
河野氏はハイタカを、信長に追われた最後の将軍足利義昭のときまで贈っています。その結果、将軍とのやりとりが将軍のじきじきの手紙として、河野家関係の文書の中に残っているようです。

湯築城 河野氏
河野氏の居城 湯築城(松山市)
応仁の乱以降、戦国の動乱に入ると、多くの大名たちがこれを機会に幕府体制から離脱するという動きをとりだします。守護クラスの者でも幕府体制からの離脱する動きが増えます。
そんな中で河野氏が戦国時代になっても、将軍とのつながりを大事にしていたのはどうしてでしょうか。
それは幕府との結び付きを持つことによって、自分の立場を有利に計ろうと考えていたようです。河野氏は伊予の守護とは云っても難しい立場にありました。例えば伊予を取り巻く情勢を見てみると、次のような勢力に囲まれていました。

大洲城 ~伊予国攻防の歴史と美しい木造天守 | 戦国山城.com
①東 讃岐・阿波の細川氏という室町幕府で最も大きな勢力をもった勢力の東予侵入
②北 毛利、小早川氏の力の南下
③西 山名・大友の圧力
④南 土佐の長宗我部元親の北上
河野氏は大国の間に挟まれた小国の悲哀を味わい続けます。

それに加えて最初に見たように、幕府の動員に従って対外遠征を繰り返したために、領国支配体制は強化できず、国内はバラバラでした。河野氏は伊予国の守護ですが、実際には国全体に力が及ばないという弱みがあります。そのためにとられのが「幕府と強く結び付く」という外交方針だったのかもしれません。自分を幕府に結び付け、その権威に寄り掛かつて自分の弱い立場を補強しようとする手法を選んだと研究者は考えています。
当時、大名領国を形成しようとする指導者の中には、次の2つのタイプがいました。
①守護職を早くから得た家柄の出身者で、戦国大名として大きくなっても、守護であるということにこだわりを持ち、幕府との結び付きという点に自分の価値を見いだそうとする人。
②早々と幕府体制から離脱して、自分の実力で領国体制を作り出そうとする人
マロ眉&公家風のルックスから劇的変化!『信長の野望』に見る“今川義元”グラフィックの変遷<画像11 / 62>|信長の野望 出陣 Walker
今川義元(公家風衣装)

戦国大名の中で①の例にふさわしいのは、駿河の今川氏でしょう。
今川義元は信長に倒されましたが、南北時代らの駿河の守護でした。室町時代に入ってからは、遠江の国の守護職も手に人れます。今川氏は守護として京勤務が義務づけられていましたから、ずっと都にいて、幕政の中でも重きをなしていました。その一族には今川了俊のような文化人も輩出します。これは都との関係が深いから生まれることです。歴代の今川氏は、京都の公家とも婚姻関係を持ち、文化的なつながりを保ちました。お歯黒をつけて公家風の衣装を纏い、都とのつながりを大事にしました。そして義元は大軍を率いて上洛しようとします。しかし、桶狭間で負けると、その後はほとんど立ち直れませんでした。義元のあと氏真のときには、為す術もない状態で武田氏に占領されてしまいます。これは今川氏の領国支配の根が浅かったからだと研究者は指摘します。
長宗我部元親1

土佐の長宗我部元親を見ておきましょう。
彼も領国支配には相当に力を人れていたようです。例えば、秀吉に征服された1585(天正13)年以降になって、秀吉の意向に沿った形で検地をやります。これは長宗我部自身の独自の検地ですから、秀古の役人が直接入ってきてやったものではありません。その時に作られたのが『長宗我部地検帳』で、土佐一国にわたって綿密に行われています。国内の職人たちが一人ひとり調べ上げて記されています。
長宗我部検地帳2
長宗我部地検帳

例えば「鍛冶職人」の項目を見ると、各郡に鍛冶がたくさんいたことが分かります。それが江戸時代になると「土佐の農鍛冶」として、全国的な市場を視野に入れた商品生産につながったと研究者は考えています。
木挽職人

 その他に「大鋸職人」、「結桶職人」もいます。
酒を入れたり、水を入れるのは、それまでは壷や甕でした。ところが大鋸が登場すると、タテ板製材が容易になります。それ以前は材木をくさびで割って、ちょうなで削っていたわけです。それが大鋸挽きだと、縦の細い材もつくりやすくなります。

樽職人2


そこに「結桶」がひろまると、これは「革新的変革」を引き起こす素地ができます。酒などを人れて運ぶのが壷・甕から木の桶に代ると輸送条件はぐっとよくなります。酒などは檜垣船で長距離輸送が可能になって、全国展開が開けてきます。領国支配というのは、そこまでの視野を持って、職人たちまでをしっかり組織していかないとできるものではないのです。研究者は次のように述べます。「経済力というものは、民衆が担っているものだが、それを組織し掌握するのは大名権力であった。」
 『長宗我部地検帳』からは、そういう方向を長宗我部氏が目指していたことが見えて来ます。だからこそ、長宗我部氏は比較的短期で、あれだけの力を持つことが出来たと研究者は考えています。
それと比べると、河野氏の場合いわゆる大名領国政策らしいものが見えてこないようです。
もちろん河野氏が全然やってなかたということではありません。例えば、応仁の乱が終わったころ、の15世紀後半になると、石手寺を再興したときの作業の分担関係の中に、「河野公の大工」という人物が出てきます。ここからは、河野氏に直属する番匠、大工がいて、職人編成をやっていたとが分かります。16世紀半ばの戦国時代の真っ最中には「段別銭本行役」という役職が出てきます。ここからは河野氏も領内から段銭を取るために「段別銭本行」を置いていたことが分かります。段銭は、守護が領国大名化するとき公的立場をしめすシンボリックな税目でもあります。
 このように河野家の出した文書からは、領国支配のための「本行人の制度」や、「段銭を徴収する体制」、「領国経済を掌握するための御用職人の編成」などがあったことが分かります。何もしていないとは云えないようです。
戦国時代には商人をどう組織するかが、ひとつのキーポイントだったようです。
兵糧や武器を調達することは、一国内だけではなかなか難しくなります。戦争のときには各出先でそれらが調達出来るようにしなければなりません。そのためには、国内を越えた活動範囲を持つ有力な商人を、国内に招致したり、御用商人に編成したりしておく必要がありました。そういう商人は、有力大名には必ずいました。先ほどは領国支配体制が不十分だったとした今川氏も、友野・松本と言う御用商人の活動が知られています。北条氏には賀藤・宇野、上杉では蔵田、越前の浅井氏には橘岸がいました。さらに織田信長には伊藤という商人頭がいて、商人を統括して、戦争のときには各地で兵糧を調達出来るような体制が作られていました。そういう点について、河野氏に関してはいまのところ見られないようです。
 河野氏はどうも守護であるということにこだわることによって、幕府との関係強化=中央権力依存型となり、実力を直接自らの手で作り上げていくという点においては、立ちおくれたと研究者は指摘します。

  以上をまとめておきます。
①河野氏は、戦国時代末になっても、足利将軍との贈答関係を緊密に続けた。
②具体的にはハイタカを、信長に追われた最後の将軍足利義昭のときまで贈っている。
③その背景には、河野氏を取り巻く内外の苦しい状況があった。
④河野氏は幕府との結び付きを強めることによって、自分の立場を有利に計ろうという政治的な思惑があった。
⑤守護へこだわりが「幕府との関係強化=中央権力依存型」志向となり、自分の実力で領国体制を作り出そうとする動きを弱めた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

中世動乱期に生きる : 一揆・商人・侍・大名(永原慶二 著) / 南陽堂書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

参考文献       永原啓二   伊予河野氏のの大名領国・小型大名の歩んだ道   中世動乱期に生きる91p
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 土佐中村の一条氏は、対明勘合貿易に参加していたのか? : 瀬戸の島から

応仁の乱が始まった翌年(1468)年9月に、前関白一条教房は、兵火を避けて家領があった土佐国幡多郡の荘園に避難してきます。
そして、中村を拠点に公家大名に変身していきます。その間も、一条氏は、中村と上方の間を堺港を利用して何度も船で往復しています。
文明11(1479)年に、京都の一条家の造営用木材が、土佐中村から堺商人によって取引されて、運ばれるようになります。このころから堺商人と土佐一条家の関係が始まったようです。堺商人と土佐の一条家の間には、これ以後も頻繁に材木の取引が行われています。

畿内と関係の深い一条家は、堺を支配する細川氏との関わりも深かったようです。『大乗院寺社雑事記』の明応三年(1494)2月25日には、当時の大阪湾周辺の情勢が次のように記されています。
「細川方へ罷上四国船雑物 紀州海賊落取之、畠山下知云々、掲海上不通也」

意訳変換しておくと
細川氏への献上品を乗せた四国船が、紀州海賊に襲われ献上品が奪われた。畠山氏の命にも関わらず、紀伊水道は通行不能状態である。

 ここからは、土佐中村と堺を結ぶ太平洋ルートがあったこと、それが紀州海賊によって脅かされていることがうかがえます。この交易ルートを通じて、土佐への布教を展開していたのが本願寺でした。

 天文年間の本願寺法主は証如でした。
四国真宗伝播 本願寺第十世證如(しょうにょ)
本願寺第十世 證如(しょうにょ)

證如の時代の本願寺は、教団内部で対立が激化した時期でした。証如は、これを抑えて法主の指導力強化に努めます。そのような中で享禄5(1532)年6月に舞い込んだのが、細川晴元からの河内国に滞陣中の阿波・三好元長(法華宗)に対する襲撃依頼です。これに応えて証如は門徒を動員し、三好元長を和泉国まで追い立てて敗死させています。ところが、これを見て一向一揆勢の戦闘力を恐れた細川晴元は、本願寺と決別して京都の日蓮宗教団や六角定頼と手を結びます。そして、本願寺の本拠地であった山科本願寺を、焼き討ちにします。

四国真宗伝播 本願寺第十世證如本願寺 釋證如 方便法身尊形)
天文三年 本願寺 釋證如 方便法身尊形

 山科本願寺を追われた証如は、大坂御坊へ拠点を移して大坂本願寺とし、新たな教団の本拠地とします。その後は晴元の養女を長男・顕如と婚約させて晴元と和睦し、室町幕府とも親密な関係を築いて中央との関係修復に努め、本願寺の体制強化を進めます。また、山科本願寺の戦いを教訓として、各地の一向一揆に対しても自制的な動きをもとめるようになります。こうして、加賀一向一揆に対しても調停という形で門徒集団への介入を深めます。そのような中で、土佐の一条氏への接近を図っていきます。

大系真宗史料 文書記録編8 天文日記 1の通販/真宗史料刊行会/証如光教 - 紙の本:honto本の通販ストア
 天文日記

證如が残したのが「天文日記」です。

これは證如が21歳の天文五年(1536)正月から天文23年8月に39歳で亡くなる10日前まで書き続けた19年間の日記です。
『天文日記』の天文6(1537)年正月27日条に、次のように記されています。
今朝従土佐一条殿尊致来候 堺商人持而来之

ここからは、中村の一条氏が堺の商人に連れられて、初めて大坂本願寺に證如を訪ねていることが分かります。土佐中村の一条家と堺商人の関係に、本願寺が関わるようになっていたようです。

四国真宗伝播 土佐一条家の貿易船
土佐一条氏の貿易船建造計画

 以前にお話ししたように、一条氏は明との交易に参入するために渡唐船建造を開始し、その用材確保のために、天文五(1536)年4から、土佐国幡多郡から木材を切り出しはじめます。しかし、一条氏に大型船の建造能力はありません。そのため堺に技術援助を求めています。堺の造船や貿易事務のテクノラートであった板原次郎左衛門は、最初はこの依頼を無視します。しかし、一条氏は前関白という人的ネットワークを駆使して、大坂の石山本願寺の鐙如上人の協力を取り付けます。鐙如は浄土真宗のトップとして、信徒である板原次郎左衛門に中村行きを命じます。
 こうしたやりとりの末に、天文6年(1537)年3月には、堺から板原次郎左衛門が中村にやってきます。板原氏は、貿易船の蟻装や資材調達の調達などの元締で、堺の造船技術者のトップの地位にいた人物でした。彼が土佐にやってこなければ貿易船を作ることはできなかったはずです。そういう意味では、鐙如上人の鶴の一声は大きかったようです。上人側にも、日明貿易への参画という経済的な戦略があったのかもしれません。同時に、土佐への教線拡大という思惑もあったはずです。
 中村での組み立てが終了すると、船は艤装のために紀州に廻航されます。その際には、紀州のかこ(水夫)二十人を土佐国に派遣するよう依頼してます。ここからは、当時の中村周辺には、大船の操船技術を持った水夫もいなかったし、最終段階の艤装技術も中村にはなかったことがうかがえます。蟻装が終わった貿易船は、天文7年12月堺に回航されます。それを、鐙如は堺まで出向き密かに見物しています。こうして、一条氏は、本願寺の鐙如の支援と堺の技術協力で貿易船を建造しています。
 ここに登場する板原次郎左衛門は、堺衆で本願寺の門徒です。
本願寺の要請を請けて、堺商人と一条氏との仲介を行っています。また本願寺と一条氏との間を取り次いだのは、本願寺・斎相伴衆の堺・慈光寺の円教でした。本願寺の力なしでは、この大型船建造計画は進まなかったことが分かります。さらに、中村で組み立てられた船は、艤装のために紀州に廻航されています。ここでも、紀伊門徒の「海の民」が艤装にあたったのでしょう。
  以上からは、土佐一条氏と堺・本願寺・紀伊門徒とが大船建造を巡って複雑に絡み合って動いていることが見えてきます。同時に、一条氏と本願寺が強い結び付きをもっていたことからは、逆に本願寺の教線が堺・紀伊を通じて土佐中村方面に伸びていたことが推察できます。一条氏の渡唐船の建造は、堺衆との繋がりだけでなく、真宗本願寺の土佐への教線拡大との関わりで捉えておく必要がありそうです。

「天文日記」には、次のようにも記されています。
 土佐国より勧進之物千疋、又田布五十端来、此内五百疋ハ真宗寺下より

ここに寺院名が記されていないので、土佐のどこにあったお寺なのかも分かりませんが、天文年間に土佐に真宗寺院があったことは分かります。堺を通じて太平洋ルートによって真宗が伝播したことが、ここからはうかがえます。これは瀬戸内海側と比べると半世紀遅いことになります。
 以上から土佐への本願寺の教線ラインは、一条氏の手引きで堺商人を通じて大平洋を渡ったこと、そこに紀伊門徒の関わりもあったと研究者は考えています。そこには堺商人のしたたかな商業活動のやりかた見え隠れします。同時に、本願寺による太平洋ルート上の港への教線拡大の活動も含まれていたようです。
 中世の土佐の港津は、古代の『土佐日記』に出てくる「浦戸・大湊・奈波・羽根・奈良志津・室津」などの港にプラスして、「兵庫北関入船納帳」に出てくる「甲浦・先浜・奈半利・前浜・安田」も含まれるでしょう。これらは、東土佐の港ですが、西土佐エリアでは「洲崎・久礼・佐賀・中村下田」などを挙げることができます。堺の港から訪れた坊主は、これらの港に立ち寄って布教したとするのは自然なことです。前回見た阿波の那賀川河口の今津浦のように、土佐や瀬戸内海への中継港にも真宗寺院が姿を現し、真宗門徒の水運関係者の拠点として機能するようになっていました。

それでは、次に受入側の土佐一条氏の方を見ておくことにします。
研究者が注目するのは、弘治3年(1557)卯月29日付の「康政」の次の書状です。
一向衆之事其身惟一人之儀、可有御免之旨候也、乃如件、
弘治二年卯月二十九日            康政(花押)
渡部主税助殿
ここからは「康政」が「一向宗」を保護していたことがうかがえます。花押のある康政については、姓も分からない謎の人物です。この時期の一条氏は兼定が当主でしたが、わずか6歳で家督を継いだため、この康政が後見役となり、兼定に代わって執政を取り仕切っていたようです。一説には、康政は兼定の叔父で刑部卿と称したとされます。中村の真蔵院に入って宗覚と号し、それまで天台宗であった寺を真宗に改めたとも伝えられます。
この寺が『南路志』に出てくる西宝寺のようで、次のように記されています。
「開基之儀、康政卿渡辺主税二仰而一向宗建立、弘治二年康政卿宗旨御免之御書頂戴」

意訳変換しておくと
(西宝寺の)開基については、康政卿が渡辺主税に命じて一向宗寺院を建立した。それは弘治二(1556)年のことで、
康政卿より宗旨替えの届け出を頂戴している。

ここからは、16世紀半ばに中村に真宗寺院があり、一条家の保護を受けていたことが分かります。すでに天文年間には、貿易船建造などを通じて、一条氏が本願寺と深いつながりを持っていたことは見てきた通りです。この時期には一条家の実権を握る康政が、本願寺の布教活動を支援していたことがうかがえます。
 西宝寺のある与津浦は中村の外港でもありました。ここへも堺からいろいろな商品と供に、真宗門徒たちが来港し、西宝寺を交易センターとして交易活動を行っていたようです。
戦国時代の群像』72(全192回)一条 兼定(1543~1585)戦国時代から安土桃山時代にかけてのキリシタン・戦国大名 | 古今相論 川村一彦

中村の一条氏は、長宗我部元親によって滅ぼされます。

一条氏が保護していた真宗門徒たちはどうなったのでしょうか。
 土佐ではこの時期に、海岸線の港周辺に道場が建てるようになった段階で、まだ多くは寺院として創建されていなかったと研究者は考えています。庇護者としての一条氏を失い、エネルギーを失った真宗は、以後は教線を拡大することはなかったようです。

長宗我部時代の土佐での真宗の状況を示す史料はありません。
そんな中で研究者が注目するのが「長宗我部地検帳』です。
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長宗我部検地帳

この「地検帳」に出てくる寺院で寺号のあるものを抜き出すと真宗寺院は、全く見当たりません。ただ、次のような道場はあるようです。
フクシマ先年桑名助左衛門先祖通海寺へ寄進卜有テ
今迄通海寺知行之由候乍去勘左衛円を給分二不人就右可為御公領興
一所拾六代 中屋敷 真宗道場
「一所拾六代 中屋敷 真宗道場有」と文末に記されています。検地が行われた天正16(1588)年に、フクシマに真宗道場があったことが確認できます。
 『南路志』には、次のように記します。
「寺地ハ手結浦福島(=フクシマ)と申所ニ有之、天正地検帳の拾六代真宗道場床と記載御座候」

と記されています。以上から「フクシマ=福島真宗道場」は手結浦福島にあったことが分かります。手結浦は、現在の香南市夜須町手結で、太平洋に面した港町です。このフクシマ道場が、後の真行寺になるようです。現在の真行寺は、近世になって作られた手結内港を見下ろす位置にあり、この港の管理センターの役割をしていたことがうかがえます。他に寺院はないようなので、この港の関係者の多くを門徒にしていたことがうかがえます。
四国真宗伝播 土佐手結 真行寺
手結内港にある真行寺

ここからは土佐の港々には、真宗の道場が姿を見せるようになっていたことが分かります。この分布状況を地図に落としたものが図2になります。
四国真宗伝播 土佐天正16(1588)年に、真宗道場
土佐における真宗寺院・道場の分布図(1588年時点)
  この分布図からは、真宗の寺や道場が太平洋沿岸の港を中心に、海岸線からあまり内陸に入っていない地域に集中していることが分かります。
この他にも吾川郡長浜村の地検帳には「道場ヤシキ浦戸」が出てきます。
「南路志」では真宗寺の欄に次のように記します。
「永正年中 浦戸道場坂之麓二建立仕」

阿波郡里の安楽寺過去帳に土佐の末寺八か寺の内の一つとして浦戸には真宗寺の名があります。浦戸道場が真宗寺(現高知市南御座)に成長したようです。また吾川郡弘岡下ノ村にも「真宗ヤシキホリケ」とあります。これは教秀寺のようです。
このように時代は少し下りますが、道場がいくつか建設されていたことが分かります。土佐に真宗が遅れながらも伝播し、拠点となる道場が姿を見せるようになっていたことが分かります。

土佐で再び真宗の教線が伸び始めるのは、長宗我部氏が土佐を去った後です。
「木仏之留」によれば、堺真宗寺の末寺である幡多郡広瀬村の明厳寺は、慶長11(1606)年に、了専の願いにより准如から木仏下付が行われています。つまり、一人前の真宗寺院として独り立ちしたということです。

四国真宗伝播 土佐正念寺
正念寺(高岡郡宇佐村)

和泉堺の善教寺の末寺である高岡郡宇佐村にある正念寺は、慶長16(1611)年に、本願寺准如から木像の木仏に裏書きを下付されています。「地検帳」に宇佐村に道場のことが記されているので、これが正念寺と推測できます。正念寺は、阿波郡里の安楽寺の末寺帳にも記されています。天正年間に道場として建設されていたものが、慶長年間になって寺院として格上げされています。創建は堺との関わりのなかで、堺の国教寺の末寺であったものが、やがて教線を阿波から伸ばしてきた安楽寺に配下に入れられたようです。
阿弥陀如来立像浄土真宗本願寺派御本尊|お仏壇せんばはまや 兵庫県姫路市の仏壇・仏具・寺院仏具専門店。金仏壇・銘木唐木仏壇・家具調・小型仏壇など。
本願寺より下付された木仏

 慶長10年以降、四国各地で木仏の下付が頻繁に行われています。
その背景には、慶長6(1601)の本願寺の東西分裂があるようです。本寺の分裂という危機的な状況の中で、西本願寺は組織強化策の一環とし木仏下付をおこなうようになります。木仏下付には、西本願寺を支持する門末寺院への褒賞的意味合いがあったようです。 木仏は寺院・道場の最重要物件です。それが本寺である西本願寺から下付され、道場へ安置されるということは、当時の法主である教如への忠誠と強固な支持を誓うことになります。それまでは、木仏下付の例はあまりありませんでした。それが、本願寺の東西分裂後に顕著化するのは、教団の組織強化に有効だったためと研究者は考えています。
 この頃から道場から寺院へ「脱皮」成長していく所が多いようです。
土佐では寛永18年(1641)に、数多くの寺に「木仏下付」が行われています。この年を契機として、土佐真宗寺院の整備がはかられたことがうかがえます。これらの寺院は、天正年間までに道場として姿を見せていたもので、道場記載の地と、木仏下付された寺院の所在地がほぼ一致することからも、それが裏付けられるようです。


四国真宗伝播 土佐天正16(1588)年に、真宗道場

早くから開かれていた道場・寺院は、先ほどの分布図で見たように海岸線に近い位置にありました。
 明厳寺・正念寺などは、堺の寺院の末寺なので、大平洋ルートを利用して堺からもたらされと研究者は考えています。土佐では、四国山脈の山並みを越えての移動よりも、太平洋を利用しての移動の方が便利だったはずです。それを活用したのが紀伊門徒や、堺門徒など海洋航海者であったのでしょう。彼らを媒介者として、土佐には真宗教線ラインがのびてきたとしておきましょう。

土佐国 大日本輿地便覧 坤 ダウンロード販売 / 地図のご購入は「地図の ...
土佐分国図

以上をまとめておきます
①土佐への真宗伝播は、中村に亡命した一条家の保護を受けてはじまった。
②中村一条家は、木材取引などを通じて堺商人と結びついていた。
③堺に真宗が伝播し、真宗門徒が堺商人の中にも数多く現れるようになる。
④本願寺は、紀伊水道を通じて阿波へ、また太平洋のルートを利用して土佐への教線を伸ばした。
⑤当時一条家が建造中であった中国との大型貿易船は、堺の真宗門徒の造船技術者によって建造されていた。
⑥この大型船建造への支援を堺の技術者に命じたのは、石山本願寺の證如であった。
⑦この背後には、土佐一条家領内での本願寺の布教活動への支援協力があった。
⑧「渡り」と呼ばれる海の民の門徒化が進み、海岸部に道場や寺院が建設され、水連・商業活動に従事する者たちを門徒に組み込んでいった。
⑨真宗を保護した一条氏が長宗我部元親に滅ぼされると後ろ盾を失い、真宗門徒の組織化は十分に進まなかった。
そして、長宗我部元親が減んだあと、土佐では急速に真宗が広がっていきます。
戦国期に組織化されていなかった真宗教団は、長宗我部元親亡き後の近世になって組織化されていくようです。その背後に何があったかについては、また別の機会に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
橋詰 茂 四国真宗教団の成立と発展 瀬戸内海地域社会と織田権力」
朝倉慶景 土佐一条氏と大内氏の関係及び対明貿易に関する一考察  瀬戸内海地域史研究8号 2000年


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