瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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倭名類聚抄

「和名抄」は正式には「倭名類聚抄」と云うようです。倭は日本、名は品物の名前、物の名前のことで、「類」は分類の類、「聚(衆)」はあつめるという意味です。日本にいろんなものがある、その名前について分類して説明する、今風に云うとジャンル別の百科事典ということになるのでしょうか。
 これが書かれたのは、平安時代の半ばの承平年間の頃です。ちょうど、平将門が東国で反乱を起こし、西の方では藤原純友が反乱を起こすという承平天慶の乱のころになります。そのころ都にいた源順が、わが国最初の百科事典を作った、これが『和名抄』です。
 この中に全国にどんな地名があるのかも書かれていて、その中に讃岐の国のことも書かれています。
まず讃岐の国というのは都からどのくらい離れている、行くのにどの位かかるなんていうことから始まって、次に郡はどういうものがある、国府はどこにあるかまで記されています。便利なことに、いろんな地名・品物の名前に読み仮名が振ってあります。そして地名にも読み仮名があります。ただこの読み仮名は、万葉仮名の表記でなので、なかなか読めません。
和名抄 東讃部
近世の倭名類聚抄の讃岐

 一番最初は大内(おおうち)郡と読みます。読み仮名は「於布知」と表記されていました。そのまま読むとオフチだからオオチとなります。旧大内町は、平安時代以来の呼び名を踏襲していたことになります。郡の中身をみると引田・白鳥(シラトリでなくてシロトリ)、入野・与泰の4郷があったことが分かります。
 次の寒川郡は「サムカワ」と書いています。当時は濁点がなく濁りは表現できないので「サンガワ」でなく「サムカワ」とよむことになります。三木はミキなので読み仮名はありません。山田も、濁音なしの「ヤマタ」です。

和名抄 讃岐西部
   和名抄の香川郡以西の部分 郡名の下に郷名が記される

香川郡の中に、大野・井原・多配とあります。多配(タヘ)は、見慣れない地名ですが現在の多肥のことです。大田は、今は点が入って太田です。次の「笑原」問題です。「笑=野」で野原郷になります。野原郷は、今の高松市街地になります。坂田・成相(合)・河辺・ナカツマ・イイダ・モモナミ・カサオとなっています。
阿野(アヤ)郡は、糸偏の綾、綾絹の綾と読むと記しています。
次に鵜足(ウタ)、最初はウタリと呼んでいのが、後にウタと呼ばれるようになります。那珂ナカ・多度タド・三野ミノ、最後は刈田ですが、これは「カッタ」とつまっていたようです。
このうち刈田郡については平安時代の終わりごろ、十二世紀の半ばには豊田トヨタと呼ばれるようになりますています。トョダと濁っていたかもしれません。なぜ刈田が豊田に変わったのかわかりません。
 ここからは讃岐に11の郡があり、その郡の下にどんな郷があったのかが分かります。また、当時の表記も記されています。今回は和名抄に見える大内・寒川郡の郷名を見ていきたいと思います。テキストは 「田中健二 中世の讃岐-郡の変遷-    香川県文書館紀要創刊号 1997年」です。

 和名抄 東讃部
この近世復刻版で、大内郡を見てみましょう。
「讃岐国第百二十二」
下に大内郡と郡名があり、その下に郷名と古名表記が記されています。振り仮名が「オホチ」と振ってあります。大内郡は、ローマ字表記もOCHIでした。これが奈良時代以来の読み方のようです。地元では「オオウチ」と呼ぶ人たちは少ないようです。

古代讃岐郡名

 大内郡には四つの郷名が記されています。
①引田、これは今の読みと全く同じで、比介多(ヒケタ)と読みます。
②白鳥、白鳥はシラトリではありません。之呂止利 (シロトリ)です。高徳線の駅の名前も白鳥(シロトリ)です。
③與泰(ヨタイ:与泰)で、旧大内町の与田のことです。
④入野(ニュウノ)と読んでいますが、丹生のニュウノです。
④の入野は爾布乃也(ニュウノヤ)と読んでいたようです。和名抄は都の役人が作った百科事典です。現地でどう読んでいたか、読み間違いしている所がたくさんあります。例えば、明治になって作られた国土地理院の地図も、漢字表記の分からない現地地名を適当な漢字に技官が置き換えて作られています。北アルプスの白馬岳も、地元の人たちは、田植えの代掻きの時期を教えてくれる山として、代馬(しろうま)と呼んでいたのを、役人は白馬(しろうま)と表記しました。白馬と表記されると駅名は、白馬(はくば)とよばれるようになります。ここから分かることは、地名は時代とともに変化していくことです。
讃岐の古代郡名2 和名抄
古代讃岐の郡と郷

次に寒川郡を見ておきましょう。
⑤難破(ナニワ)というのは、今はありません。後でみることにします。
⑥石田、伊之多(イシダ)と書いてありますが、石田高校がある石田のことです。
⑦長尾(奈賀乎)は今も変わっていません。
⑧造田は爽敗(ソウタ)と書いてありますが、地元では、ゾウダと濁って呼びます。
⑨鴨部・神前(加無佐木)と続いて、一番下に多知とありますが、多和の間違いのようです。

和名抄は、時代を経て何度も写本されたので、写し間違いがおきます。こんなふうに見ていくと、讃岐全体で90余りの郷が出てきます。
それでは、郷の大きさはどうだったのでしょうか。それが実感できる地図に出会いましたので紹介します。
讃岐の古代郡名2東讃jpg
古代大内・寒川の郷と位置と大きさ
この地図を見ると、郷の大きさがは大小様々なことが分かります。研究者は郷を次のような3つのタイプに分類します。
1 類型Ⅰ 郡の中心となる郷 神崎郷
2 類衛2 郡の周辺部となる郷          田和郷・石田郷・造田郷
3 類家3 郡の外縁部となる郷          引田郷・白鳥郷・与泰郷・入野郷・難破郷

郷の大きさは、類型ⅠやⅡは小さく小学校の校区程度、類型Ⅲになると旧引田町、旧白鳥町、旧大内町など旧町の広さほどもあったことが分かります。
郷は、どのようにして成立したのでしょうか?
 律令体制が始まった奈良時代の初めは、血縁関係のある一族で「戸」を組織しました。戸は、現在のような小家族制ではなく、百人を越えるような大家族制で、戸主を中心に何世代もの一族がひとつの戸籍に入れられました。その戸籍に書かれた人間を、男が何人、女が何人、何才の人間が何人というぐあいに数え上げ、水田を男はどれだけ、女はどれだけというぐあいに戸毎に口分田が支給されます。つまり、口分田は家毎ではなく、一戸(一族)毎にまとめて支給されたわけです。全部で何町何段という形でやってきた土地を、自分たちで分けろということです。役人にしてみれば、とにかく税が納まればいいし、口分田は戸毎に支給するので仲間内(戸内)で分けてくれたらいいんだというわけです。これで入りと出とが決まります。つまり班田主従の法というのは、戸単位に戸籍を作り、土地を分けたり税を集めたりするシステムでした。地方役所としては、一族や地域の人を束ねる役の人が欲しいんで、五十戸そろったら、それで一つの郷とします。郷は音では「ごう」ですが、訓では実際に「さと」と読みます。つまりそれが自分の村だということになります。こうして、だんだん人が増えてきて、五十戸ぐらいになったら郷が成立します。その郷名は、代表的な一族の名前を付けたり、その土地で昔から呼ばれている地名が付けたりしたようです。そして、郷長が置かれます
  荒っぽい説明ですが、これで郡の中心になる郷は小さく、周辺部にある郷は大きいことの理由が推測できます。つまり、50戸になったら新しく郷を新設するということは、類型1の郷は早くから開発が進み人口が多く、早い時点で50戸に到達したのでエリアが狭い。それに対して、類型Ⅲは、周縁部で人口が少なく50戸が広い範囲でないと確保できず広くなった。そして、その後も人口増加が見られなかったために新たな郷の分離独立はなかった、と云えそうです。そういう目で、ついでに西讃も見てみましょう。
讃岐古代郡郷地図 西讃
古代讃岐の郷 西讃

類型Ⅰの郷は、綾北平野・丸亀平野・三豊平野に集中し、そのエリアもおしなべて小型なものが「押しくら饅頭」をしているように並びます。そして、丘陵部に類型Ⅱ、さらに阿讃山脈の麓に広い面積をもつ郷が、どーんどーんと並びます。これは、それぞれの郷の形成史を物語っているようです。
もう一度、引田、白鳥、入野、与泰という大内郡の4つの郷を見ておきましょう。この4つの郷が中世にはどうなっていくのかを史料で見てみましょう
⑦[安楽寿院古文書]正応四年三月二十八日亀山上皇書状案
 浄金剛院領讃岐国大内庄内 白馬(鳥)・引田
⑦の「安楽寿院古文書」は鎌倉時代のもので、「浄金剛院領讃岐国大内庄内白馬(馬は鳥の誤写)・引田」とあります。ここからは大内郡全体が「大内荘」という浄金剛院の荘園になって、その中に白鳥、引田という所が含まれていたことが分かります。浄金剛院は、13世紀中頃(建長年間)に、後嵯峨上皇が建立し、西山派祖証空の弟子道観証慧を開山させた寺院で、浄金剛院流(または嵯峨流)の本山として多くの寺領を持っていたようです。
⑧[『讃岐志』所収文書】観応三年六月十九日足利義詮御判御教書案
 浄金剛院領讃岐国大内庄内白鳥・与田・入野三箇郷事
⑧の「讃岐志」は、江戸時代の地誌で、ここに収められた室町幕府三代将軍の足利義詮の教書案の中にも「浄金剛院領讃岐国大内庄内白鳥・与田・入野三箇郷事」とあります。⑦の史料と併せると大内荘は引田、白鳥、入野、与田の四箇郷のすべてを含んでいたことが分かります。つまり、四か郷全部が含んだまま大内郡は一つの荘園になったようです。巨大荘園大内荘の成立です。ひとつの郡がそのまま荘園になることを郡荘と呼びます。郡荘の成立自体は、全国的に見ると珍しいことではなく、よく起きているようです。一般的に云えるのは、都から離れた所ほど、大きな荘園ができています。つまり、中央政府の目が行き届かない所に巨大な荘園が生まれる傾向があったようです。律令制度の根幹である公地公民の原則を無視して、私有地化していくので目につきやすい中央部よりも、外縁部の方が都合が良かったのかもしれません。
 これを讃岐一国のレベルで見ると、郡庄と呼ばれる大きな荘園の出現は、大内荘のように讃岐の国のいちばん端の所で起きることになるようです。讃岐国府は坂出府中にありました。国司は国府にいて、讃岐を見ています。国司からすると国有地が荘園(私有地)になってしまうと税が入らなくなりますから、なるべく私有地(荘園立荘)の増加は抑えたいのが職務上の立場です。そうすると、国司の目の届く国府周辺を避けて、国府から遠い所で荘園化か進みます。そのため讃岐の荘園化も、中央部と外縁部では地域的な格差があったと研究者は考えています。つまり、国府周辺が最先進地域で、その周りに中間地域があって、その先に辺境地域があるという意識が国司にはあったと研究者は考えているようです。
今度は寒川郡の長尾・造田の立荘文書を見てみましょう。
⑨[『伏見宮御記録』所収文書 承元二年(1208)閏四月十日後鳥羽院庁下文案
 院庁下す、讃岐国在庁官人等。
  早く従二位藤原朝臣兼子寄文の状に任せ、使者国使相共に四至を堺し膀示を打ち、永く最勝四天王院領と為すべし、管寒河郡内長尾 造太(造田)両郷の事。
  東は限る、石田並に神崎郷等の堺。
  南は限る、阿波の堺。
  西は限る 井戸郷の堺
  北は限る 志度庄の堺・
意訳変換しておくと
 後鳥羽院庁は、讃岐国の在庁官人に次の命令を下す。
  早急に従二位藤原朝臣兼子寄文の状の通りに、寒河郡内長尾と造太(造田)の両郷について、使者と国使(在庁官人)の立ち会いの下に、境界となる四至膀示を打ち、永く最勝四天王院領の荘園とせよ。境界線を打つ四至は次の通りである
  東は限る、石田並神崎郷等の境。
  南は限る、阿波国の境。
  西は限る 井戸郷の境
  北は限る 志度庄の境
⑨の「伏見宮御記録」は、かつての宮家、伏見宮家関係の記録です。伏見宮家は音楽の方の家元で、楽譜の裏側にこの文書が残っていたようです。鎌倉時代初めのもので承元二年(1208)、後鳥羽院庁の命が「寒河郡内長尾。造太両郷の事」とあって、大内郡の長尾と造田の両郷を上皇の御願寺の荘園にするという命令を出したものです。これが旧長尾町の町域となったようです。長尾、造田は、同じ時に最勝四天王院領となった、いわば双子の荘園と言えそうです。
この荘園の東西南北の境界を、地図で確認しながら見ておきましょう。

讃岐の古代郡名2東讃jpg
立荘文書から、周辺にあった荘園や郷名が分かる
東は限る、石田並に神崎郷等の境。 
  造田と長尾の東は石田と神前です。
南は限る、阿波の境
  長尾の一番南は阿波に接しています。
西は限る、井戸郷の境
  井戸郷は三木町の一番東側になります。
北は限る 志度荘の境、
ここからは、造田・長尾の周囲には、それをとりこむように荘園や郷が鎌倉時代の初期(1208年)には、できあかっていたことが分かります。
寒川郡の郷名で、現在は行方不明なのが難破郷です。どこへ行ったのでしょうか?
手がかりになるのは「安楽寿院古文書」康治二年八月十九日太政官牒案(図1)には富田荘のエリアが次のように記されます。
字富田庄、讃岐国寒(川字脱)郡内にあり

富田荘の四至を見ておきましょう。
東は限る、大内郡境。確かに大川町の東側は大内郡旧大内町です。
西は限る、石田郷内東寄り艮の角、西は船木河並に石崎南大路の南泉の畔。
南は限る、阿波国境。
北は限る、多和奇(崎)、神前、雨堺山の峰。
これは多和の崎と神前の二つに接しているという意味で、具体的には、雨堺山の峰が境になるようです。雨堺の山は、雨滝山のことでしょう。雨滝山の分水嶺が荘園の境界となったようです。ここからは、富田荘が、かつての難破郷だったことがうかがえます。

ここで、研究者は雨滝山を中心に、周辺の郷や荘園の位置を確認していきます。

東讃 雨瀧山遺跡群
雨滝山遺跡とその周辺

津田の松原から南側を見ると、目の前にある山が雨滝山です。雨滝山を南側へ抜けると、寒川町の神前に出ます。先ほど見たように、かつての大内郡は、引田、白鳥、入野、与田で、だいたい地名が残っていました。これが一郡=一荘の大内庄という大きな庄名になりました。そのため大内郡は消滅しす。そこへ、「長尾、造田荘」と、富田庄の立荘の際にでてきた四至膀示の地名を入れて研究者が作成したのが下の地図になるようです。

讃岐東讃の荘園
中世の大内・寒川郡の郷と荘園

 例えば先ほど長尾・造田の立荘の際に、東の堺となった井戸郷というのは、左下の所に井戸と見えている所です。ここが三木町の井戸です。北側が志度、それから鴨部郷、神前、石田というぐあいに出てきます。そうすると、この地図の中にも難破郷が出てきません。立荘の際に出てくるのは富田庄です。難破郷が、どこかの時点で富田荘になったようです。旧大川町の富田には、茶臼山古墳という巨大な前方後円墳があります。古墳時代にはこのエリアの中心であった所で難破郷とよばれていたのです。現在の富田に、元の難破があったはずです。
どうして難破という地名が消えて、富田にすり変わったのでしょうか。これは、現在のところ分からないようです。

神崎郷も、後には荘園になって興福寺へ寄付されます。長尾も造田も荘園になりました。結局このあたりで荘園にならなかったのは、鴨部郷と石田郷の二か所だけです。鴨部郷は鴨部川の中流域です。その上流に石田郷はありました。
  こうしてみると、かつての東讃八町域は、ほとんどが荘園になってしまったということになります。べつの言い方をすると、古代の郷が中世には荘園になり、そして東讃8町として姿を変えて最近まで存続していたと云えるのかも知れません。
讃岐古代郡郷地図

「辺境変革説」という考え方があります。
中央のコントロールや統制の効かない辺境のカオスの中から、つぎの時代のスタイルが生み出されるという考えです。大内・寒川は国府のある府中から見れば「讃岐の辺境」だったかもしれません。しかし、京都を視点に見れば、寒川郡は南海道や瀬戸内海航路の入口にも当たります。もともと讃岐という意識よりも、阿波や紀伊・熊野との一体感の方が強く、海に向かっての指向が強かったようです。それが中央寺社の寺領となることで、国府のコントロールを離れて、自立性を一層強め、いち早く中世という時代に入っていったのが大内・寒川地域であるという見方もできます。
 それは以前にお話しした与田寺の増吽に、象徴的に現れているように私には思えます。
 与田山の熊野権現勧進由来などからは、南北朝初期には熊野権現が勧請されていたことがうかがえます。周囲を見ると、南朝方について活躍した備中児島の佐々木信胤が小豆島を占領し、蓮華寺に龍野権現を勧請しているのもこの時期です。背景には「瀬戸内海へ進出する熊野水軍 + 熊野本社の社領である児島に勧進された新熊野(五流修験)」が考えられます。熊野行者たちの活発な交易活動と布教活動が展開されていた時期です。その中で南北朝時代の動乱の中で、熊野が南朝の拠点となったため、熊野権現を勧進した拠点地も南朝方として機能するようになります。つまり
熊野本社 → 讃岐与田寺 → 志度寺・小豆島 → 備中児島 → 塩飽本島 → 芸予大三島

という熊野水軍と熊野行者の活動ルートが想定できます。このルート上で引田湊を外港とする与田山(大内郡)は、南朝や熊野方にとっては最重要拠点であったことが推測できます。そこに熊野権現が勧進され、熊野の拠点地の一つとされたとしておきましょう。そして、引田を拠点に東讃地域への勢力拡大を図っていきます。同時に、ここは熊野勢力にとっては、瀬戸内海の入口にあたります。その拠点確保の先兵となったのが熊野行者たちで、そのボスが増吽だったと私は考えています。どちらにしても、大内郡の与田寺や水主神社が、活発な活動が展開できたのは、早くから荘園化され国府の管理外にあったことがひとつの要因だったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献  「田中健二 中世の讃岐-郡の変遷-    香川県文書館紀要創刊号 1997年」
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 長尾寺 もともとは志度寺と同じ寺?
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長尾寺
 
八十七番は補陀落山長尾寺です。長尾寺の中の観音院が現在本坊ですので、長尾寺観音院と「観音院」がうしろに付きます。天台宗です。補陀落山という山号がつくのはだいたい海岸のお寺で、八十六番の志度寺も補陀落山志度寺です。ですから、山号が同じということは、もとは同じ寺だったと推定できます。 
御詠歌は
あしびぎの山鳥の尾の長尾寺 
秋の夜すがらみ名をとなへよ
『四国損礼霊場記』によりますと、だいたい寺というは行基菩薩なりの開基、あるいは弘法大師の開基ということであり、この寺もその例にもれず、次のように記されています。
「聖徳太子開建ありしを、大師(弘法大師)霊をつゝしみ紹降し玉ふといへり」

聖徳太子と弘法大師を登場させるのは、もうひとつ縁起のはっきりしないことを示していると研究者は考えます。 推論すると、志度寺は熊野水軍の瀬戸内海進出の拠点港に開かれた寺のようです。それは補陀落渡海と観音信仰からも裏付けられます。その行者たちは、行場として女体山に大窪寺を開きます。志度寺と行場を結ぶ東西のルートと南海道が交わる所に、志度寺の行者の一つの院が分かれてできたのが長尾寺と研究者は考えています。
 縁起では、「
聖徳太子が始めて、弘法大師が修補した、本尊は弘法大師が作った」とあり、はっきりしないということを押さえておきます。
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 本尊の観音さんの立像は長三尺二寸、あまり太きくありません。 
大師の作也。又、阿弥陀の像を作り、傍に安じ給ふ。鎮守天照大神なり。 さし入るに二王門あり。
 熊野行者たちによって開かれた志度寺は、後には高野聖の拠点となり、死者供養のお寺になり、阿弥陀信仰が広がります。そのため分院であった長尾寺も阿弥陀信仰の拠点となります。阿弥陀の像を作った、そして観音さんのかたわらに安置したとあります。ここからも熊野行者から高野聖へ修験者の信仰が交代したことがうかがえます。
研究者が注目するのは、鎮守が天照大御神だということです。
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長尾寺
現在は長尾街道沿の街道に面して仁王門があります。

 中に入ると広い池がありますけれども、門のあたりは狭くて、両側に店屋がすぐ追っています。いまの池のあるあたりは、もとは遍路の宿で森の茂った境内だったようです。いまでも老松のみごとな庭園があります。龍や蛇が石の住に巻きついて、本尊さんを龍も蛇も拝んでいます。けれども、中世には寺が荒れていたようです。
『四国遍礼霊場記』が書かれた江戸時代の初めぐらいは、たいへん寂しい寺であった。お香やお灯明もしばしば絶えがちであったと書いています。
 戦国から安土桃山時代にかけては遍路どころではありませんが、世の中が落ちつくにつれて遍路が盛んになります。『四国損礼霊場記』が書かれたのは元禄元年です。このころにはまだ寂しいお寺であったようです。
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 江戸時代の末のころになると、遍路はふたたび衰えて、明治の初めぐらいには無住のところが多かったようです。八十八か所の中の半分ぐらいは無住だった。そこへ遍路で行った者が落ちついて、やがて住職になったというところがあります。あるいはゆかりの寺から住職が来て、そこで寺を興隆したということもありました。

 『四国領礼霊場記』は、慶長年間(1596~1615年)のころに生駒親正が豊臣秀吉から讃岐をもらって、名刹再興をしたと書いています。その次に松平氏が来るわけです。長尾寺は慶長年間ごろに再興されたものとおもわれます
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長尾寺本堂

この寺の奥の院は玉泉寺で、俗称「日限地蔵」です。

 現在でも、長尾寺の住職が隠居したら玉泉寺に入るという隠居寺になっているそうです。また、長尾寺の山号が志度寺と同じ筒陀落山であることとあわせて考察すれば、志度寺の一院が独立したという推定ができます。
87番奥の院(曼荼羅9番) 霊雲山 玉泉寺
 玉泉寺
志度寺にたくさんあった何々院、何々院の中の一つが独立して海岸から町のほうに出ていった。奥の院にあった寺が南のほうに出ていって、街道筋に長尾寺ができた。すなわち志度寺は海岸から2㎞奥まで寺域であったと考えてよいでしょう。

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この寺には、一月七日に「会陽」という行事があります。

この会陽は岡山県の西大寺の会陽と響きあっています。
つまり、長尾寺の会陽の音は西大寺のほうで聞こえる。西大寺の会陽の音は志度寺や長尾寺に響いてくる。その晩、耳を地面に付けて、足会を聞いた会は幸運があるということが、江戸時代の俳句の歳時記に善いてあります。
 四国の霊場で会陽の残っているのは善通寺と長尾寺だけです。
おそらくこれも志度寺にもとあったものを、長尾寺が継承しているのだとおもいます。
 会陽について筒単に説明しておきます。

岡山県側では、お年寄りは「エョウ」とはいわないで「エイョウ」と発音します。たいていこういう庶民参加の行事は、掛け声を行事の名前にするのです。
 西大寺の場会は、シソギ(神木・宝木)と称する丸い筒を奪い会います。
もともと筒は二つに割れています。その中に牛王宝印を巻いてあります。
それを二本入れてあります。それを筒状のもので覆って、その上をまた牛玉宝印で何枚も糊で貼っていって、離れないようにして、筒のままで何万という裸男の中に放り込む。奪い会っているうちに割れてしまうので、最後に二人の人がこれを手に入れることになります。まれに割れずに手中にいたしますと、モロシソギといって二倍の賞品がもらえます。
 長尾寺の絵巻物、で「会陽」を見ると、西大寺と同じように、やはり串牛玉をたくさん上から投げています。ですから、たくさんの人がそれを拾っていくことができます。牛王宝印というのは本尊さんの分霊です。分霊をいただいて自分の家へ持って帰っておまつりをすると、観音さんの霊が自分の家に来てくださるということになります。
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長尾寺境内
餅撒きというのがありますが、これも御霊を配る神事です。

 手わたしでいただいたのでは福がありません。
投げてもらって、みんながワーッと行って取る。争うということに功徳を認める。それが会陽というものの精神です。どうして会陽というかといいますと、西大寺の場合を見ればよくわかります。西大寺の場合はシソギ投下、牛玉宝印を投げ下ろすまで、それに参加する人々は地押しをしなければいけません。その地押しのときに「エイョ、エイョ」という掛け声をかけます。
 観音堂の横に柱が西本立っています。それはいまでも変わらないようです。
そして、梯子に手を掛けて、「エイョウ、エイョウ」と地面を踏む。近ごろは「ワッショイ、ワッショイ」になってしまったようですが、お年寄りたちは「エイョウ」といったと話しておられます。それは地面を踏むことによって悪魔を祓う。相撲の土俵で四股を踏むのと同じことです。これに手をかけるのは力士が鉄砲を踏むのと同じです。相撲と起源を同じくします。
 四股を踏むのは悪魔祓いの足踏みです。
その足踏みが「ダダ」です。東大寺のお水取の場合はダッタソといいます。これをダッタソと発音しますので、ダッタン人の舞楽というような説ができました。このときの掛け声がエイョウで、漢字を当てると「会陽」となります。           
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 そういうことで、長尾寺の会陽は志度寺の会陽が分離して長尾寺に継承された可能性があるので、長尾寺はもとは志度寺と同じところにあったと考えられます。志度寺と長尾寺の一体性は十分に考えられることです。

 長尾寺の鎮守が天照大御神であるということは、いろいろな解釈ができます

天照大御神は熊野では「若宮」としてまつられています。
もちろん、若宮は天照大御神ではないのです。熊野の三所権現はただの熊野権現です。新宮・本宮・那智の三所のほかに、横に若宮の御殿が独立している重いお宮です。
 ところが、熊野の信仰がでぎたとぎに、新宮のほうは伊井諾尊、那智のほうは伊非再尊ということにしたために、若宮は伊許諾・伊井再尊の間に生まれた子どもということになって、天照大御神になったわけです。
 そういういきさつがありまして、実際には若宮といわれるものは若王子だったのです。若一王子というものが三所権現のなかに入ったのです。那智と新宮と本宮とで位置はそれぞれ変わりますが、権現がそろうことは変わりがありません。
 若宮すなわち若王子の「王子」は海の神様です。
 したがって、長尾寺の鎮守は海の神様だということが推察されます。伊予のあたりのお寺には札所に王子があります。西行が善通寺の西にある我拝師山について書いたものの中にも「わかいし」とあるので、西行のころには、まだ若一王子が札所にあったことがはっきりしていました。
 こういういくつかの事例から、歴史的には長尾寺も志度寺の一部であって、志度寺が分離してここに来て、観音信仰と補陀落信仰とが奥までもってこられたのだという推論ができます。

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お堂については、仁王門が阿讃街道に面しています。

そこに石徐という石の柱があります。徐とは柱という意味です。
その柱にお経が書いてあるというので緩徐ともいいます。たいへんに珍しいことに、弘安六年と弘安九年の二本の経徐が残っています。お経の文字はほとんど読めませんが、年号だけは読めております。重要文化財になっています。

 本堂に向かって右のところに大師堂と薬師堂があります。
薬師信仰は海の薬師が非常に多い。その薬師信仰があるということにも、志度寺との関係が考えられます。
札所になりますと何宗でも大師堂ができます。
領主の命令によって真言宗から天台宗に変わりました。
真言宗のお寺には、常行堂はありません。常行堂は必ず天台宗にあるお堂ですので、そのときに建てられたものだろうと推定されます。しかも、志度寺に法草堂があって、常行堂のほうが分かれて長尼寺に来たと考えられます。法草堂と常行堂はいつでもペアになってあるものです。
 比叡山では現在、西塔の向かって左側に常行堂、向かって右側に法草堂があります。ここで法華ハ皿講、常行三昧が行われます。
常行三昧というのは、真ん中に阿弥陀さんを置いて念仏をうたう堂僧が、その周囲を回りながら念仏を唱える。常行三昧はやがて不断念仏というものになります。
 不断というのは、常行三昧は九十日間ずっとやめないというのが伝統だからです。したがって、ここに勤める堂憎は専門の念仏のうたい手です。そういう者が十二人なり二十四人なり四十八人なりが詰めていまして、交代で不断念仏をうたいます。こういうものができましても、江戸時代になると実際には行われないのです。

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 江戸時代になると、寺の伽藍の体裁として天台寺院だったら常行堂がある。そういうことで常行堂は建ちますが、とりたてて修行はなかったようにおもいます。ですから、ここに常行堂があるということは天台宗に変わったときに造られたと考えられます。 それから、天満天自在天堂があります。これは菅原道真をまつったものです。
特別の意味はありません。

おもしろいのは風呂があるということです。

 別所が少し離れたところにあります。大きなお寺がありますと、そこに奉仕する人たちの住むところを別所といいます。同時に、そこを風呂地といったりします。
 紀州の由良に、興国寺といって、たいへん大きなお寺がありますが、この寺に別所があります。別所に風呂という場所があります。風呂に四人の虚無憎がいました。
これが尺八の虚無僧の始まりです。いろいろな記録や興国寺の伝承にそうあります。
 このへんはちょっと謎があります。全国どこに行っても、虚無憎がいたところを風呂地といいます。虚無僧と呼ぼれる寺の奉仕者が、アルバイトというか、風呂を沸かして、人々を入れて収入としていたと考えられます。
 最近では福島の会津あたりにたくさんの風呂があり、虚無僧がいた。のちになると虚無僧そのものが尺八を吹くより風呂のほうに転業してしまうということが研究者によって明らかになっています。
 長尾寺の別所の場合は、蒸風呂で、風呂は小さいものです。薪で石を焼いて、それを水の中に放り込むやりかたでした。

五来重:四国遍路の寺より

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