①文字部分は、墨書で絵図名称と方位名②朱書部分は、構造物と地形の名称と規模③「大堀」の内側の水田については「此田地内畝六反四畝六歩」と面積が示される。④堀の外周と内周の堀の「幅」の数値から100㍍×60㍍が館の面積⑤絵図が書かれた江戸時代には、用水管理池としても使用されていたようで、水量を調整する堰
①堀・土塁の規模は、南北約170m、東西110m、堀跡は幅8~10m
②鎌倉時代(13世紀前半)に、南北に区切る堀とその周囲に建物が築かれた。③その後しばらくして、堀に石垣が張られた。
④建物は何度か住替えがあり、堀は14世紀後半に埋まり、居館もその役割を終えた。⑤外周の現存する堀は形状から16世紀ごろのものという指摘もある。
⑤江戸時代には水田となり、堀は灌漑用水路の中に組み込まれた。
大堀居館(城)跡は、まんのう町吉野の緩やかな傾斜の扇状地上にあります。土器川は、それまでの山間部を抜けると、まんのう町木ノ崎付近を扇頂として扇状地を形成します。また、大堀居館跡の西300mには、金倉川が蛇行しながら北流します。地図を見ると分かりますが、このふたつの川が最も近接するのが吉野のこの遺跡付近になります。地質的には地下深くまで扇状地堆積による礫層が堆積しています。耕土直下には「瓦礫(がらく)」と呼ばれる砂礫層が見えているところもあります。しかし、遺跡周辺は後背湿地と呼ばれる旧河川の埋没凹地も多くあります。このような窪地は、古代から中世には安定した用水を確保できる田地でした。最先端のカマド住居を持った吉野下秀石遺跡は、吉(葦)野の開発のために入植した渡来系集団と私は考えています。しかし、発掘現場からは礫層が出てくるので、洪水による被害はたびたび被っていたこともうかがえます。

この吉野大堀殿と長尾氏の関係は、どうだったのでしょうか?
①応安元年(1368) 庄内半島から西長尾城に移って代々大隅守と称するようになった②宝徳元年(1449) 長尾次郎左衛門尉景高が上金倉荘(錯齢)惣追捕使職を金蔵寺に寄進③永正9年(1512)4月長尾大隅守衆が多度津の加茂神社に乱入して、社内を破却し神物略奪④天文9年(1540)7月詫間町の浪打八幡宮に「御遷宮奉加帳」寄進」
この結果、讃岐と阿波の細川家は、同門ながら抗争を展開するようになります。そして、三好氏に率いられた阿波勢力が讃岐に侵入し、土豪たちを支配下に置くようになります。その先兵となったのが東讃では、三好長慶の末弟・十河一存で、安富氏や香西氏は三好氏に従うようになります。
①備中への三好氏に従っての従軍記録②香川氏の居城天霧城攻防戦へ。三好支配下として香西氏・羽床氏と共に従軍していること③毛利軍が占領した元吉城(琴平町の櫛梨城)へも香西氏・羽床氏と三好氏配下として従軍④天霧城の香川氏は、三好氏に抵抗を続けたこと。そのため三好配下の長尾氏と抗争が丸亀部屋で展開されたこと
②鎌倉時代(13世紀前半)に、南北に区切る堀とその周囲に建物が築かれた。④建物は何度か住替えがあり、堀は14世紀後半に埋まりその役割を終えた。⑤外周の現存する堀は形状から16世紀ごろのものという指摘もある。
A出現期が13世紀前半の鎌倉時代の承久の乱前後B消滅期が14世紀後半の南北朝以後